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何條八幡の神体可成

2018年10月15日 18:24

森長可   
316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/14(日) 21:19:14.41 ID:FVCoKXYq
長久手合戦の時のこと

森武蔵守長可は美濃国金山が居城のため、大垣にほど近く油断していたため、池田勝入に先に
犬山城を占拠されたことで大いに焦り、池田へも知らせず犬山の先に進出し、羽黒八幡村を後ろに見、
前に小川を隔て、いかようにも一働き致すべきと、備えた。

この時、八幡の林に大蛇が出た。神主は「これ則ち八幡宮の御神体です!御勝利疑いありません!」と
申し上げたのだが、武蔵守は

「こんなものが八幡の神体なものか!(何條八幡の神体可成)」

と、これを引き裂いて捨てたという。金山から羽黒まで六里である。

森長可は血気の勇将であり、古より良将は神威を尊ぶということを知らなかった。
木曽義仲は新八幡に願書を籠めたし、織田信長も熱田神宮へ祈誓した。彼は良将とは大いに違っていた。

(長久手戦話)



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十周年!

2018年10月15日 18:22

本日でこのブログ、十周年となりました!
これも5ちゃんねる戦国ちょっといい話、戦国ちょっと悪い話本スレの皆さん、そしてこのブログを楽しんで頂いている皆さんのおかげだと、心より感謝しております。

10年前の今日、投稿した記事たち。一番最初は織田信長の逸話だったのですね。最初期からバラエティに富んでいます
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そして記事はこのように、メモ帳で一旦編集してからこちらにアップします。10年分全部のデータ、ちゃんと残ってます。
SnapCrab_No-0702.jpg

こんな感じで編集します。戦国ちょっといい話スレ1からは、もう11年ですね。
SnapCrab_No-0704.jpg

十周年だと言うのに簡単な記事ではありますが、今後も細々ながら、続けていけるよう、頑張っていきたいと思います。
もし良かったら、これからも、このブログを楽しんで頂けたなら、幸いです。
どうぞ宜しくお願いいたします。

感謝を込めて。まとめ管理人・拝
(/・ω・)/

世にその勇を称して“鬼勝蔵”という

2018年10月14日 18:16

森長可   
353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/14(日) 15:19:32.34 ID:Zngx3QBK
滝川一益がすでに厩橋を去って上洛した以上は、上野・武蔵の輩は北条に敵し難く、皆々降参して旗下に
属した。信濃小諸城主・道家彦八郎正栄と伊那郡の毛利河内守秀頼もたちまち城を捨てて上洛した。

真田安房守昌幸は北条へは降らず徳川家に帰順した。信濃川中島城主・森勝蔵長一(長可)は上杉景勝の
所領を侵略せんと越後の関山・三本木まで攻め入ったところ、京都で織田殿御父子が討たれ給い、

弟の蘭丸・力丸も皆討たれたと聞いて「私は一日も早く都に攻め上って亡君の仇を報じ、兄弟の幽憤をも
慰めなければ!」と思い立ち、早速海津へ引き返して伊那の毛利・小諸の道家へも示し合わせ、

不日に川中島を打ち立たんと用意した。国人・春日周防(信達)らは、この虚に乗じて人質を取り返し、
否と言わば帰路を妨げんと騒動した。長一は大いに怒り「汝らこの弊害に乗じて人質を取り返さんと

するならば、力をもって取るがいい!」と人質をも引き連れ城を出た。国人らは織田方の落武者を討ち
取って上杉家の恩賞に預からんと、所々の山険水涯に埋伏して帰路を妨げるのを長一は一々追い払い、

猿ケ馬場で春日周防の一子を始め人質を皆々刺し殺し、木曽(義昌)の人質だけを帰して難無く美濃金山
に帰着した。世にその勇を称して“鬼勝蔵”という。後に武蔵守といったのはこの人なり。

(原注:原書(三河後風土記)に川中島の城を上杉景勝がやって来て攻めた。森勝蔵は後詰の頼りもない
ので風雨に乗じて寄手の陣に夜討を掛け、その紛れに城兵は皆逃げたとするが誤りなり。今『柏崎物語』
『武徳編年集成』に拠って改める)

――『改正三河後風土記』



354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/14(日) 15:59:53.54 ID:Cpv7oSjd
弟達の尻穴で得た所領で蛮行を働く鬼

355 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/10/14(日) 16:16:57.95 ID:EdAdicSZ
その後>>354の姿を見た者は居なかったと言う

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/14(日) 16:18:39.81 ID:VbLfZ+Cx
河尻秀隆みたいに逆さ吊りで死ぬよかマシ

信長が少女を斬り捨てたのは驚くに足らぬこと

2018年10月14日 18:15

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 19:46:33.21 ID:+oppITPP
日本人の清潔を好むことは想像が出来ないほどで、特に家および常に座する畳の清潔なことは、
最も忠実な聖器所預かり人の保った祭壇の清潔さに比べることができる。私はビジタドールのパードレと共に
織田信長、及び内裏の邸に行ったが、新しい靴でなければ入ることが出来ず、広間を通る時には、
暗黒の祝日の墓所の階段を登る時のようで、しかも一人が箒を持って塵を掃きつつ後ろから随って来た。
土間、及び縁側も清潔で、唾を吐くことが出来ず、ハンカチを用いなければならない。

台所には大きな鍋があり、沸騰していたにもかかわらず、水も灰もその他も、箒で掃いたように綺麗であり、
馬の居る厩もまた同様であった。

信長がその居室に落ちていた果物の皮を掃かなかった少女を斬り捨てたのは驚くに足らぬことで、
非常に清潔に注意するため、少しの不潔も大いなる罪と成るのである。

広間、居室、聖堂等は皆畳を敷き、外で靴を脱がねば入ることが出来ない。
庭(niuas)すなわち庭園は常に清潔で、箒を以て掃き、特別の位置に据えたものの他、一草一石も無く、
果樹を喜ばず緑と陰を珍重する。

(1586年1月6日付、パードレ・ロレンソ・メシヤ書簡)

ちょっとまて信長果物の皮掃き忘れた女の子斬ったんかい。



311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 20:57:51.28 ID:z69OWUY6
信長って自分の爪を小姓たちに切らせたときに1つ隠して、あとでわざと落としたことあるよね

中国の逸話が元ネタだけど

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 21:22:11.58 ID:dQRjJYkR
内裏の邸って安土城を指すのかな?

鈴張

2018年10月14日 18:14

313 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/10/14(日) 14:44:33.30 ID:EdAdicSZ
その昔、飯錫の里(広島市安佐北区飯室、鈴張の周辺)は砂鉄がよく取れこの地には腕の良い鍛治職人が沢山いたそうだ。
その中に茂左衛門と言う鈴作りの名人が居たが、茂左衛門の作る鈴は評判が良く彼が作る鈴を馬に付けて戦をすると負ける事が無いと言う評判だった。

ある時、茂左衛門の鍛冶場へ200頭の馬をつれた立派な殿様の行列がやってきた。
 殿様は茂左衛門に鈴をできるだけ沢山作ってほしいと頼んで馬に載せてきた金を前金として渡し、少なければまだやろうと言ったそうだ。
 その代わり、これより三年間は他所の殿様が鈴を頼みこんでも一つも売るなと命じて鍛冶場を後にした。

それからと言うもの茂左衛門は朝早くから夜遅くまで鍛冶場から槌の音が絶える間もないほどに働いて多くの鈴を作った。

三年後、殿様の行列が再び茂左衛門の鍛冶場を訪れた。殿様はこの三年、茂左衛門が誰にも鈴を売らなかった事を聞くと満足して鈴を受け取り馬に付けさせ、礼金を払って鍛冶場を後にしようとした。

その時、殿様は茂左衛門を「こちらに来い」と手招きして呼び寄せた。
茂左衛門が前に出て膝をつき首を垂れた瞬間殿様は刀を抜くと茂左衛門の首を切り落としてしまった。
他の殿様に鈴を売られぬ様に茂左衛門を殺してしまったのだ。

しばらくして殿様は何千騎と言う味方の馬に茂左衛門の作った鈴を付け、意気揚々と敵対する殿様の領地へ攻め入った。

しかし、茂左衛門の作った鈴は鳴る事なく殿様の軍は散々に打ち負かされてしまったそうだ。

今でも大晦日の丑三つ時になると茂左衛門の鍛冶屋敷跡からシャーンとそりゃあきれいな鈴の音が聞こえてくるという。

飯錫の里が鈴張と呼ばれる様になったのは昔、茂左衛門のような鈴職人が沢山居たからといわれる。

(広島県の民話)

この戦に敗れたお殿様は毛利・吉川連合軍に有田中井手の合戦で敗れて戦死した、武田元繁では無いかと言われる



314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/14(日) 17:38:48.03 ID:ocNGDShA
>>313
鈴の音でそんなに士気とか変わるんだろうか、むしろないほうが安定しそう。

315 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/10/14(日) 18:15:31.62 ID:LpAKMWMr
>>314
装飾品でしかないんだろうけど、華美に見えたり味方で統一して装備してたら士気が上がるとか、敵味方の区別をつける為に役立ったとか?

相合元綱謀殺

2018年10月13日 17:57

306 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/10/13(土) 17:01:04.74 ID:MXurdPMO
鏡山合戦の後に毛利幸松丸が幼くして死去した後、合議により毛利家の家督は元就が継いだものの、
家中ではそれに反対する動きも有り坂広秀、渡辺勝らが元就の異母弟、相合元綱を擁立して尼子家と結んで元就に対し叛旗を翻す企てが立てられた。
いち早くそれを察知した元就は先手を取ってお抱えの琵琶法師、勝一を弟の元へ送り込み、ある日夜更けまで弾語りを聞かせて屋敷の者共が眠たくなった頃、
勝一に琵琶の音で合図をさせあらかじめ伏せていた兵に屋敷を強襲させた。
襲撃に気付いた元綱と30名ほどの家臣が抗戦し、元綱自身も鎗を持って古の源九郎判官義経の如き軽業で三間程の空堀を飛び越え奮戦して数多の敵兵を討ち、
300ほどの討手の兵を一時二~三町退かせはしたが深入りした所を討手の大将、志道広良の指示で矢を射かけられ、何本かの矢に貫かれて動きが鈍くなり、空堀に落ちた所を鎗で突き伏せられた。
元綱は伏せながら敵方の鎗を7本まで取って撥ね返したものの、数多の兵の手により終にそこで討たれてしまった。

(陰徳太平記 相合就勝謀叛付生害之事)

陰徳太平記では何故か元綱ではなく元就と元綱の弟である筈の就勝の名で書かれている



307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 17:20:47.52 ID:Pbt1Zx4y
>>306
義経並って凄い褒めようだね、やっぱり謀殺した負い目があって持ち上げたのかな。

309 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/10/13(土) 18:00:20.63 ID:9feaRx68
>>307
兄である元就に付き従い有田の戦いでも倍の兵だった武田勢相手に活躍しているから、武勇に優れているのを今義経と言われたのか
若くして仲違いして(異母)兄に討たれる事になる武勇に優れた(異母)弟と言う境遇から今義経と言われたのか、どっちなんだろうね?

広良身に代えても申し助け候べし

2018年10月13日 17:56

308 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/10/13(土) 17:48:01.15 ID:9feaRx68
相合元綱が討たれるのを見た家臣らはその後
何の為に命を惜しむべきか!

と敵の中へ駆け走り打ち違え、刺し違え枕を並べて切り死にした。
元綱の家臣の一人、中原善左衛門兼勝は聞こゆる大力の剛の者であり数名の敵を切り伏せ辺りを伺いフラフラしていた所、
討手の大将、志道広良が小高い場所から兵に下知しているのを見つけると、つっと走って広良に駆け寄り鎧の袖を捕えると、

「御手に懸けられ候」

と言う。兼勝の大力に捕えられた広良は堪り兼ねたか中原の命を惜しんだのか

「心やすく思われたし、命をば助け申す可し」

と、兼勝を助命すると申し出た。兼勝は

「然らば御誓言候へ」

と迫り、広良は

「摩利支尊天も御照鑑あれ!広良身に代えても申し助け候べし!」

と誓いの言葉を発し、それを受け兼勝は広良の拘束を解いた。

(陰徳太平記)

この後、広良は約束通り兼勝の助命を元就に請い中原善左衛門は生き延び、後にその弓の腕を持って吉田郡山城の合戦にて尼子久幸を討ち、
山中鹿介に内応した神西元通に討たれる最期の時まで毛利家に忠を尽くした。


池田輝政の肖像画、モデルは木像

2018年10月13日 17:08

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 13:30:12.37 ID:9x7iTW91
池田輝政の肖像画、モデルは木像 子孫継政が描く、県立博物館確認(山陽新聞)
ttp://www.sanyonews.jp/article/805266/1/

岡山藩池田家ゆかりの国清寺(岡山市中区小橋町)に伝わる、同家の礎を築いた
池田輝政(1564~1613年)の木像が、金山寺(同市北区金山寺)が所有する
輝政の肖像画のモデルであることが12日までに分かった。
画は輝政の子孫、第3代岡山藩主・継政(1702~76年)の筆で、研究者は
「彫刻を基にした肖像画は少ない上、結び付きが証明された珍しいケース」としている。

岡山県立博物館(同後楽園)が19日開幕の特別展「岡山ゆかりの肖像」のため調査。
木像と肖像画は特別展で公開される。

肖像画
ttp://static.sanyonews.jp/image/box/e52bbd30c95052f37c8e28ba14aeb19e.jpg
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木像
ttp://static.sanyonews.jp/image/box/316a2843b84eeebb6f10d19ed72ceffe.jpg
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割と目がくりっとしてる?



神流川の戦い、戦後

2018年10月13日 17:06

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 16:15:45.83 ID:asM7S4h2
(神流川の戦い敗戦後)

厩橋城に引き返した滝川一益は、今日討死した人々の姓名を書き記して金銀を添え城下の寺院へと送り、
追善供養を頼んだ。その後、一益は上野衆を招き集めて終夜酒宴を開き、自身で鼓を打って謡を歌った。
その後、一益は扇を取り直し「兵の交り頼み有る中の酒宴哉(謡曲『羅生門』の一節)」と歌い舞えば、

倉賀野淡路守(金井秀景)も拍子を取り「名残今はと啼く鳥の(謡曲『源氏供養』の一節)」と歌って
互いに興に乗じた。さて一益は太刀・薙刀ならびに金銀や、その他日頃秘蔵した書画・珍器を尽く取り
出し、上野衆に授けて今日の一戦の功労を賞した。一益は鳥鳴く空も明けると暇乞いし、

「厩橋城を打ち立つ」と言って、人々の人質をすべて各領地へと帰した。上野諸将は皆一益の大勇義信
に感動して涙を流し、倉賀野まで付き添い送った。沼田城では真田安房守(昌幸)が郊外に赴いて迎え、
厚く馳走し諏訪まで送って来た。一益は始めは木曽路を気遣っていたのだが、

木曽左馬頭(義昌)も一益の義勇に感動したのか軍勢を数多差し添え伊勢長島の一益の所領まで送った。
一益が難無く帰国したところ早くも光秀は誅に伏し、三法師丸(織田秀信)は織田殿の家督として安土
に在城していたので一益は安土へ参り拝謁し、つつがなく居城の長島へ帰った。

世人は一益を称して“鬼滝川”と字せしという。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』

神流川の戦い一日目
神流川の戦い二日目



349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 18:08:58.32 ID:7+dcbMCb
鬼滝川
神流川

字面的にあってるような

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 20:57:54.90 ID:06zbrJY1
コロッケの弟子の神無月がなんだって??

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 21:50:37.32 ID:JrNRmdHT
立ち振る舞いが爽やか過ぎるのが一益の美点であり欠点だったんだろうか
酷い立ち回りだが武略知略を感じさせる鬼武蔵と逆だったらどうしてたか気になる

日本人は他の諸国民と、想像の出来ないくらい違っている

2018年10月13日 17:04

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 14:34:58.06 ID:+oppITPP
日本人は他の諸国民と、衣服・言語・文学。風俗および儀式において、想像の出来ないくらい違っている。
もし人間に種別があるのなら、我々は日本人とは違った種類であると言うべきだろう。

彼等の頭には、通常夏も冬も何もかぶらず、髪もない。衣服は絹および木綿の大きい各種の色物で、
絵があり、腕は肘まで顕にしている。また人々が夏の衣服に衣替えする定まった日があり、冬の衣服に
衣替えする別の日がある。これは確定したもので、何人もその日を間違えることはない。

その食物は他の諸国民と全く異なり。果実も甘いものも食べない。また油、酢、または香料の加わった
ものも食べない。牛乳とチーズは有毒なものとして嫌い、ただ塩のみで味付けをし、ある地方では
塩そのものが食料品である。
大多数の日本人は米と各種野の草や貝類を沢山食べ、野の草と貝類、および塩を以て栄養を取る者が多い。

皆、いかに暑いときでも、耐えられるだけの熱さの湯を飲む。また冬は同じ様に酒を飲む。
饗宴には無数の食物を供するが、その中には必ず生魚が加わる。彼等は大いに喜んで悉くこれを食うが、
パードレ達にとっては、宴会に出ることは非常な苦痛である。何故ならば宴会に出る15ないし20の食物の内、
手を付けられるものは一つもないのに、食わぬことは不可であり、だからといって食うのは相当に苦しい
ことなのだ。
我々が生魚を食わないことを彼等は怒りはしないが、もしこれを食うところを見れば非常に感激し、
彼等を喜ばせるために我慢するほどの者は必ず聖人で、天より来た者であろう、などと言うのである。

音楽は自然なものも、作ったものも不調和で、耳に厭わしく、15分聞くのも大変な苦痛だが、日本人を
喜ばせるために、我々は数時間聞くことを余儀なくされる。彼等は非常に音楽を好み、世の中にこれと等しい
物はないと考えている。一方で我々の音楽は、オルガンで演奏された歌でも彼等日本人にとっては相当に
嫌なものであるらしい。
彼等は祭りのさい様々な演劇をするが、音楽が必ず前奏される。

日本人は一般に甚だ健康であるが、気候が温和で健康に適しているのと、大食をせず、また多くの病気の
原因と成る冷水を飲まないためであろう。そのため病むことが有ってもほとんど薬を用いず、短期間に健康を
回復する。彼等は一切の病に際し、銀の針を胃・腕・背中などに刺す習慣である。また野菜を以て作った
火をつけるボタン(もぐさ)を用いる。

彼等は多くは眠らず、眠りも甚だ軽く、このため茶を飲む。この事と、多く食わぬことより良き判断と
工夫が生じる。彼等は、我々の文字は2ヶ月で覚える。甚だ良い記憶力を有し、少年は皆、いかに
複雑な使いの口上も、言われたとおり正確に伝え、大人たちはキリシタンに成って1年に達せぬ者も
生まれた時よりキリシタンであった者のように我等が教えを説く。

(『イエズス会日本年報』1586年1月6日付、パードレ・ロレンソ・メシヤ書簡)

刺し身の下りが、外国人が納豆食べた時の反応とそっくり



神流川の戦い二日目

2018年10月12日 20:16

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 19:18:19.04 ID:fnyKwghu
(神流川の戦いの時)

北条方は先手の敗北により二陣を差し向け、滝川一益はこれを迎え撃たんと逞兵3千余人が神奈川(神流川)を
背に敵を待ち受けた。北条勢は尽く坂東生まれの馬達者であり「上方の小勢何程のものか! ただ蹴り散らして
捨てよ!」とまっしぐらに打って掛かる。

滝川方は小勢といえど死を覚悟した者どもなれば、掛かりに掛かって息をもつがず喚き叫んで苦戦した。そこで
北条勢は偽って走り、小勢を真ん中に引き込んで包み討ち取らんとわざと逃げ走ったが、あまりに激しく追い

立てられ思いのほか討たれる者少なからず、滝川方は後陣の備になだれ掛かり氏直の本陣までも友崩れして逃げ
ようとした。そこへ冑山の方に陣を取っている総大将・氏政の先陣・伊勢備中守貞宗や芳賀伯耆守正綱を始め

1万余騎が北条美濃守氏親を先手の部将として神奈川を馳せ渡り、滝川勢の後脇から例の騎馬達者の坂東武士が
鬨を作って馳せ立てた。滝川儀太夫(益氏)始め津田・岩田・粟田・太田などの逞兵どもは、堅を破り鋭を砕き

奮戦するもついに駆け負けて敗走した。この時、一益は大声を揚げて「死生命あり! 運は天にあり! 坂東武者
との合戦は今日が始めなるぞ! 卑屈な振舞いで織田殿(信長)の御名を汚すな! ただ引き組んで討死せよ!」

と命じ、津田・粟田・太田などの勇士どもは「仰せになるまでもなく!」と馬の鼻を引き返して3千余人は大山
の崩れるが如く馳せ掛かる。北条方は大勢なのでひしひしと取り籠めて討ち取らんとするのを、破っては通り

取っては返し奮戦するも、氏親は胸に孫呉の兵法を蓄えた勇略無双の名士である。氏親は正兵・奇兵を入れ替え
攻め戦う。折しも氏直本陣もまた盛り返して大軍が左右より激しく攻め立て、一益も既に危うく見えたところで

津田治右衛門・同八郎五郎・同修理亮・岩田平蔵・同市右衛門・粟田金右衛門・太田五右衛門・篠岡伊右衛門を
始めとして屈強の滝川勢5百余騎が討死し、その他手負いも多いので一益は後陣の上野衆に使いを立てて、

「各々の合力あらば再戦して運の程を試みたい」と申したが、上野衆は「今朝の合戦に疲れ、そのうえ手負いも
多いので今日の再戦は御免蒙るべし」と申し、一益は今は力なく厩橋城に引き返した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』


神流川の戦い一日目
神流川の戦い、戦後
298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 19:39:04.99 ID:fnyKwghu
>>297
“北条美濃守氏親”は原文ママですが氏規でしょう




299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 22:26:57.76 ID:X89uqhYO
>>296
大筋は関八州古戦禄あたりと同じだけど、細かいところは違うね。

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 22:35:21.71 ID:mhQerXtd
>>297
かなりの激戦なのにあまり有名でないような。大河ドラマ花の慶次に期待か。

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 22:37:00.47 ID:FSB7uYKJ
ドラマ的に言えばこれは勝つ!と思わせるシーン満載な滝川軍が
結局負けちゃう話だからなぁ…

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 23:20:55.14 ID:F7zdw75u
>>298
親と規って崩すと区別つかんもんな

穴山梅雪の計略

2018年10月12日 18:59

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 18:33:44.02 ID:b1m9QGCZ
穴山梅雪は曽根内匠と共に駿河江尻城の番手であったが、徳川家康へ内通せんとした。
しかし梅雪の妻子は人質として甲府に有ったため江尻を引き払うことは難しく、しかもその頃は
武田勝頼が梅雪のことを疑っていた。

そこで梅雪は密かに家康に内通を打診した。そして徳川方より『返忠可被仕』との書状を携えた
使節が来たのを忽ちに殺し、その書状およびその頸を勝頼へ送った。
勝頼はこの計略に偽られて、梅雪を疑う心が和らいだため、彼は妻子を引き取ることが出来た。

(士談)



【雑談】最近になって真田信勝という人について知ったのだけど、

2018年10月12日 18:59

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 10:18:09.74 ID:G9GAWRMg
最近になって真田信勝という昌幸さんの三男(?)という人について知ったのだけど、
いい話悪い話まとめのブログにこの人の記事ってないのね。
不確かな情報が多くて逸話とかもあまりない感じなのかな。
脚光を浴びがちな信之さんや信繁さん以外の、信勝さん・昌親さんの逸話があれば教えて欲しいです。



342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 16:42:25.32 ID:ZECAMyn7
滝川一益に昌幸の母を託した
昌幸の盟友の依田信蕃(のぶしげ)・依田信幸兄弟から次男と長男は名前を取られてるから
三男はどうでもいい説

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 18:15:03.05 ID:McmCB9Rv
秀忠の真田攻めの件で口論になって刀を抜いた不埒者のことなんかどうでもいい

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 20:35:39.70 ID:G9GAWRMg
自分でも書き込んだ後でいい話スレで質問するのは不適切かもしれないと思いました>三男
答えてくださった>>342さん、>>343さん、ありがとうございます
信之さんと信繁さんの名前の由来知らなかったです

345 名前:342[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 21:14:03.01 ID:louFDlmS
>>344
すまん、342は一ヶ月前に出たネタ

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 09:50:19.67 ID:hz3JoOpB
>>340
確か四男までいたはず

後北条氏の家宝「酒伝童子絵巻」

2018年10月11日 13:12

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 00:56:08.17 ID:6aO+yd8d
後北条氏の家宝「酒伝童子絵巻」



現在サントリー美術館に収蔵されている重要文化財「酒伝童子絵巻」は
江戸時代は鳥取池田家に伝来していたが、元は後北条氏の家宝であった。

北条氏綱は京文化への造詣が深く「酒伝童子絵巻」を作るにあたって
絵を狩野元信、詞書を前関白の近衛尚通、定法寺公助、青蓮院尊鎮ら
奧書を三条西実隆と当代を代表する絵師や能書家に依頼した。
特に尚通とは格別の交流があったらしく、正室・養珠院に先立たれた氏綱は
継室に尚通の娘・北の藤(勝光院)を迎えた程であった。

その後は家宝として伝わっていたが、天正19年(1591年)に北条氏直が病死し
後家となった督姫が、池田輝政に再嫁する際に引出物として持ち込んだという。

池田家伝来のものでは、同じく重文の「後三年合戦絵巻」(現:東京国立博物館)や
北条高時の執事長崎為基の佩刀で、『太平記』に出てくる来太郎の太刀「面影」*
なども、元は後北条氏の家宝で督姫を経由して伝来したものとされる。


――『小田原市史』『池田家履歴略記』など

* 為基の後は、小弓公方・足利義明が敗死したとき佩いていたという。(『後鑑』)
 鳥取城にあったが享保5年に火災で焼身になり、再度の火災で焼失した。


神流川の戦い一日目

2018年10月11日 13:08

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 03:10:10.73 ID:CX/7Sqex
小田原では北条氏政父子が織田殿横死と聞いて大いに喜び、天運時至れりと大軍を催した。大手の大将・
新九郎氏直は富田・石神の方から軍を進め本庄に旗を立てた。御陣は左京大夫氏政3万余騎が松山筋より

武蔵吉見山・冑山辺りを本陣として先手は神奈川(神流川)・烏川辺りに軍を進める。父子は大手・搦手
に向かって総勢5万余騎が6月18日、本庄に着陣す。氏政の弟の武蔵小衾郡鉢形城主・北条安房守氏邦

は血気の若者であった。氏邦は「滝川勢は信長父子が横死して上方騒動の沙汰を聞き将卒とも心は臆して
はかばかしい合戦はできまい。上野・武蔵の輩は余儀なく滝川に一味するといえど真実身命にかえて働く

はずはない。一益は鬼神であるとも頼むところは手勢だけで何程のものか! 今追い討ちして高名せん!」
とその勢5千騎ほどが陣列を離れ馬を馳せたのだった。滝川一益は滝川彦四郎法忠(忠征)に2百余人を

添え厩橋城を守らせ、津田小平次長興・稲田九蔵に8千余兵を添え松枝城を守らせ、自身は1万8千余兵
を連れて武蔵・上野の境の神奈川・烏川の辺り金窪の台に陣を張る。上野衆の小幡・内藤・和田・由良・
安中・深谷・成田・上田・高山・木部・長尾・真田らが所望して先陣に進んだところ、北条方は氏邦が

血気にはやり敵を大いに見侮った。前後を見定めず鬨を揚げ打って掛かるが、上野衆は武田信玄・勝頼に
属して軍旅に老練した者共どもである。少しも騒がず馬の鼻先を魚鱗に並べ敵が来るのを待ち受けた。

半町ほどに軽卒どもを先に立て、矢砲を激しく放って先駆けの北条勢数十人を打ち倒し、馬の足がしどろ
もどろになるのを見澄まして、大風の発するが如く馳せ掛かり突き立てた。頃は天正10年(1582)

6月19日、草木も動かぬ炎天に具足を着て息を揉み馳せ合ったために、流れる汗は目口に入って太刀の
打ち所も定かならず。北条方は石田大学・保坂大炊助を始め屈強の者ども2百余人が討死し、上野衆も

佐伯伊賀守を始め180人ほどが討死し、互いに多くの手負いを出した。北条方はほうほうで八幡山の方
へ引き取ったので、上野衆も烏川の水辺に集まり暑気を凌いで馬の足を冷やしていた。北条方は先手の

敗軍を見て新九郎が大いに怒って命じ、二陣の松田・大道寺を始め雲霞の如く深谷の方から打ち出でた。
一益がこれを見て、「今度は一益が一戦して雌雄を決する! 上野衆は後より続かれよ!」と先に進めば、

滝川儀太夫(益氏)・津田治右衛門・同八郎五郎・同修理・稲生対馬・富田喜太郎・牧野伝蔵(成里)・
谷崎忠右衛門・粟田金右衛門・日置文右衛門・岩田市右衛門・同平蔵・太田五右衛門以下逞兵3千余人が
神奈川を後ろにあてて玉村の方に向かって座備を設け敵を待った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』

神流川の戦い二日目
神流川の戦い、戦後


少々不出来なことが有っても、手初めをすれば

2018年10月10日 19:35

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/09(火) 20:16:29.17 ID:SCJtUY9W
寛永の島原の乱の時、討ち手の大名に命ぜられた人の所に、老功の者が行ってこう申した

「語るほどの事ではないかも知れませんが、例えば梅や椿という花は、四方に花の盛りなる時期には、
さほど賞翫される花ではありません。ですが冬が終わり咲く花の先駆けであり、他に花のない時分に
咲くゆえに、人皆これを賞美するのです。

ここを以て言えば、少々不出来なことが有っても、手初めをすれば人皆賞翫するものなのです。
皆がするように成った後では、抜群で勝れた所が無ければ、人にもてはやされません。」

(士談)

現代でも通じるお話ですね


成瀬正成、名誉の挨拶

2018年10月10日 19:35

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 15:33:48.10 ID:ATyzqMd8
成瀬正成、名誉の挨拶


駿府にて東照宮(家康)が加藤清正に、常陸守殿(頼宣)、紀伊殿(浅野幸長)を
御縁者とするよう仰せ付けられた。
これは、常陸守を清正の婿にした以上は他の子息(義直)も同様にするように
(=義直の舅の幸長とも縁者になるように)との仰せ付けであった。

御次の間に清正が出たとき、清正に御当家(池田家)の家臣衆が
「只今の(家康の)仰せられ様には、きっとご満足されたでしょうね」
と申すと、清正は
「もちろんありがたいことですが、秀吉公の昔の厚恩は忘れられません」
と申したので、御当家の老臣はそれに対して挨拶することが出来なかった。

そこに成瀬隼人正(正成)が
「その思し召しは至極ごもっともですが、家康公の御恩を蒙った者も同様に
 家康公の御恩を重く思っているのです」
とたちどころに申されたのは"名誉の挨拶”であった。


――『烈公間話』


滝川今の一言天晴な盟主

2018年10月10日 19:34

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 15:45:26.22 ID:87+YFNsB
滝川左近将監一益は織田殿の仰せを受けて関東を管領し、上野厩橋城にあって威名は奥羽までも輝いた。
そこに6月7日の晩景、京都から杉山小介貞次が急使として来たり、織田殿父子横死の次第を告げた。
一益は大いに驚きしばし黙然として伏せ沈んでいたが、ややあって篠岡平右衛門、津田治右衛門、滝川
儀太夫(益氏)の三臣を呼びその事を告げた。義太夫はこれを承り、「これは天下の大事なり。

しばらく隠密に秘せられるのがしかるべきでは」と言った。一益は聞いて、「汝が申すことも一理ある。
しかしながら“好事門を出でず。悪事千里を走る”という諺のようにこれは隠しても一両日も過ぎずに
知られるだろう。他人の口から洩れる時はかえって衆人の疑念を生じ、国中は騒動するであろう。私は

関東所属の諸将を尽く招いてこの事を披露し、これまで預かっていた人質をも返して自身は一刻も早く
上洛し、運を天に任せて亡君の仇を報じる。もし上野の諸将がこの虚に乗じ私を食い止めて討ち取らん
とするならば、それも時節である。一戦して討死するのも義のあたるところ、なんぞ命を惜しまんや。

もしまた諸将が志を変じずに味方すると言うなら、小田原の北条へ使者を立てて北条父子を引き出して
一戦を遂げ、その勝ち負けに構わずに一益は上洛して亡君の弔い合戦をする」と言うと、上野・武蔵の
諸将へ「急いで面議することがあるので早々に参着するべし」と通達した。よって内藤大和守秋宣・

小幡上総介信真・同三河守信尚・長尾但馬守顕長・由良信濃守国繁・真田安房守昌幸・蘆田深谷左兵衛
憲盛・本庄安中越中守・成田下総守氏長・木部宮内定利・上田又次郎入道安独斎・和田右衛門大夫信業・
渋川相模守氏勝・高山遠江守重光・名和対馬守宗元・倉賀野淡路守秀景・五閑刑部らを始めとして、

上野・武蔵の諸将はみな厩橋へと集まった。一益は諸将と対面して、「今度上方で不慮の大変があった。
明智光秀が叛逆して信長御父子は討たれさせ給うとの由の注進があり、一益は急ぎ上洛して亡君の弔い
合戦をせんとす。各々の人質は箕輪城に入れ置いたが尽く返し参らす。各々はこの弊害に乗じて

一益を討ち、それを手柄に北条へ降参せんとするならば只今ただちに一戦して一益の首を進上すべし!
もしまた信義を守り旧約を変ぜず、私めの下知に従わんと思いなさるならば、只今より小田原へ使いを
立てて『厩橋を渡すので北条父子は出馬なされよ。一戦して一益は上洛することであろう』と申し遣わ
すべし!」と言い捨てて奥に入った。その後、諸将は寄り集まって評議し内藤と小幡が一番に進み出て

申したことには、「滝川の今の一言は天晴な盟主と見え、義勇現れしものと覚える。かような事の大切
を少しも包み隠す様子もなく、まっすぐに申し出して我々の人質を返さんと言われては我々はどうして
不義の振舞いができよう。ただ一筋に同意して死生を共にする他ない!」と言い、諸将ももっともだと

これに応じた。その旨を滝川儀太夫を取り次いで返答すると、一益は聞いて再び諸将に対面し「各々の
義信、誠に感悦するところなり。一益は主君の弔い合戦を急ぐといえど上方近くに信雄・信孝の御兄弟
がおられ、柴田や丹羽など譜代の歴々が数多いるゆえ賊臣・光秀が誅に伏すのは一益の上洛を待たない

だろう。ここに北条氏政という表裏者は、信長公御父子が討たれ給うと聞けば早速旧盟を変改し、この
弊害を幸いと一益を討ち取る謀を巡らすのは必定だ。敵に先を取られる前にこちらから小田原へ使者を
遣わし、厩橋を渡すと申し送れば氏政父子は早々に出馬することだろう。その時に一戦して上洛するか、
一益が討死するか、運は天に任すべきと思うがいかがか」と言った。諸将は聞いて「仰せもっとも義の

当たるところ、誰が否と申しましょう」と返答した。よって同じく11日に蔵田小次郎を使者として
小田原へ遣わし、翌12日に小田原へ参りその旨演説すると氏政父子は「これ天運の賜物」と大いに
喜び「早々に出馬して受け取る」と答えた。小次郎が馳せ帰りかくと申せば一益は「そうだと思った。
この上は運の程を試すとしよう」と言って用意した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』



334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 20:13:28.21 ID:CHjRchcL
ええ話というかどこか要領の悪さを感じるな
織田家臣団の中で秀吉や光秀と熾烈な出世競争してきたタマとは思えない
しかも散々こねくり回して負けとるやないか

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 20:17:47.85 ID:dpeX0mQH
>>333
ここまではカッコイイんだよなぁ…。

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 21:19:47.68 ID:YIy1byHU
坂井政尚だっけか
息子を亡くし意気消沈して戦死したように、一益も信長という希望を失って気が抜けてしまったのかもね

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 22:02:04.57 ID:fsWVmvMn
勝家も一益も還暦前後の爺さんだからなぁ…

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 02:32:41.67 ID:+bk2wro/
>>337
そもそも滝川一益は引退させてくれと信長に頼んでるししゃーない

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 10:22:35.82 ID:yxuOoXB8
絶頂期が終わったら後は下り坂

週間ブログ拍手ランキング【10/04~/10】

2018年10月10日 19:24

10/04~/10のブログ拍手ランキングです!


うちの実家に伝わる本当かどうか微妙な話 11

光秀のもとに、このような天晴の武士が 11

妖刀”あざ丸” 10
陣頭武者 10
仙石は四国を指して逃げにけり 10
清州会議 9

信長四国征伐の事情 8
名胡桃城について、北条氏直の言い分 8
日本国に大いなるうつけたる者三人あり 8
池田恒興、信輝改名説の出所 8

『お静の涙雨』(またはお静の血の涙) 7
何の用にも立たざる氏真へ、くれられ候程用なくば、 6
山伏、悪魔と語る不可思議の行為 5


今週の1位はこちら!うちの実家に伝わる本当かどうか微妙な話です!
安芸武田家の存在のためか、毛利方面には甲斐武田家との繋がりを表す話が結構あります。
山県昌景はもともと大内の家臣の子弟だったとか、山本勘助も讃岐出身の大内の家臣で、三河出身と言われたのは讃州と三州を間違えたためだ、とか。
山口と武田家のあの人
大内氏の家臣、山県重秋の次男
実際、甲斐武田、若狭武田、安芸武田の間には武田ネットワークというようなものがあり、緩やかながら繋がりを保っていたとか。
そのあたり、鎌倉以来の守護、大族のありかたが、戦国期にも未だぎりぎり生きていたのだなと感じます。宇都宮氏なんかも、
関東と九州の間でもそういうつながりを保っていましたね
この場合、さすが武田家は名門、と言うべきなのでしょう。
このお話がどういった過程で成立したか、色々な考察や想像ができると思います。ご先祖が武田家の誰に当たるのか、
という所から調べ考察していくと、大変面白いものが見つけられる気もします!

今週は同票でもう一つ!光秀のもとに、このような天晴の武士がです!
大雑把に言えば「同じ謀反人でも松永久秀とは雲泥の差だな!」という事なのですがw逆にここは、何故に松永久秀の
自刃はこんなに評判が悪かったのかを考えてみたいですね。そもそもに久秀は(大仏焼き討ちやら三好家、将軍家との関わりやらで)それが事実かどうかはともかく、とかく評判が悪かったのは確かなようですが、この「、死ぬ前に「蜘蛛を破壊した」というのも、
その評判の悪さを更に加速させたのかも知れません。なにせ自他ともに認める天下の名物、第一級の美術品、なのですからね。
そういうモノは個人ではなく公共の財産であり、後世まで残し伝えるべき、と考えられたのでしょう。そこをあえて自身とともに
滅ぼしたのが、松永久秀の「梟雄伝説」のラストを飾る出来事として素晴らしい、ともいえます。
まとまったようなまとまらなかったような話ですが、少なくとも明智光秀本人やその類縁は、久秀のような梟雄性を
世の中に(あまり)感じさせなかった。そんなふうに考えることもできる気がします。

今週管理人が気になった逸話はこちら!清州会議です!
何故気になったかと言えば、管理人が今丁度これを読んでいるからですw

シリーズ・実像に迫る017 『清須会議 秀吉天下取りへの調略戦』
https://www.ebisukosyo.co.jp/item/507/


非常に良い本だと思うので、皆さんも是非読みましょう!

後同じ出版社より、これも大変おすすめ!

マンガで読む 新研究 織田信長
https://www.ebisukosyo.co.jp/item/510/


近年著しい信長研究ですが、その結果、現時点で最新の織田信長像というものがどういうものかを、この作品は実によく表しています。
また足利義昭像にも新しい視点を加えており、そこもまた非常に面白く読めると思います。
この織田信長像を、素直に納得するか、違和感を持つかは人それぞれかも知れません。しかしその内容一つ一つに根拠があり、
「読んだほうがいい」本なのは確かだと思います。僕はおすすめします!



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してみて下さいね。
(/・ω・)/

うちの実家に伝わる本当かどうか微妙な話

2018年10月09日 17:26

285 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/10/08(月) 23:36:26.88 ID:dZDk1bmh
うちの実家に伝わる本当かどうか微妙な話を一つ

我が家の祖先は元は甲斐の豪族にて武田家に仕えていたそうな。
ところが高天神城に詰めていた息子が討ち死に、徳川を敵と誓う。
しかし木曾が謀反を起こし、その征伐に向かっている間に、穴山が裏切りあっけなく武田家は滅ぼされた。
そこでどこをどうしたか分からないが、ご先祖様は親戚筋を頼って当時徳川(織田)と敵対していた毛利家に出仕。
今度こそ徳川都の戦をと意気込むも、毛利は徳川と和睦してしまう。
その後ご先祖様は風邪をひいてそのまま昇天、かたき討ちは子孫に引き継がれることとなる。
でもって、孫の代になって関ケ原が発生、すわ伯父のかたき討ちと意気込んで出陣したら吉川の裏切りで戦うことすらできず。
さらに山口に封じられて、毛利家はリストラの嵐。うちの一族は帰農する羽目になった。
時は経って幕末、うちの一族は農民になっても代々徳川討つべしと伝えられていたため、奇兵隊が結成されるとすぐさま長男が募集に応じ、長州征伐の幕府軍と交戦その戦いで討ち死にしたそうな。
(うちは八男の家系)
以上、どこまでいっても徳川への恨みを晴らせなかったうちの一族の物語でした。



286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/09(火) 00:32:46.70 ID:VBumKs8/
今からでも徳川への恨みを晴らそうぜ!

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/09(火) 08:02:42.46 ID:hx8dv+Kn
新撰組だと長男の入隊は土方が認めていなかったと伝わってるようだけど、さすがに奇兵隊は違ったか