fc2ブログ

ぜひ御供させてください!御許しくだされ!

2021年10月18日 16:50

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/18(月) 01:43:13.19 ID:iXhrryok
(吉田郡山城の戦いの時。大内氏・毛利氏と尼子氏の戦い)

あくる正月13日、また卯の刻に城中の勢3千余騎を城外に備えられる。
自身(毛利元就)は床几に腰掛け、敵軍を検見しておられた。陶(晴賢)
の郎等、末富志摩守は戦場見合のために打ち廻ったが、吉田勢が早くも
出たと見て急ぎ(大内軍へ)走り帰った。

元就朝臣の二男元春朝臣(吉川元春)は今年12歳になり給うが、今日
の戦場に供奉せんと走り出なさった。元就朝臣は井上河内守(元兼)に
「次郎を連れて帰れ」と仰せられ、(井上は)抱き奉って内へ入った。

元春は大いに怒り、太刀に手をかけすでに抜き打ちにせんとなさるので、
(井上は)力無く逃げ隠れた。

その隙に走り出て、「ぜひ御供させてください!御許しくだされ!」と
宣うので元就はにっこりと打ち笑い「それでは連れて行こう」と宣って
共に打ち連れて出なさった。

――『安西軍策



スポンサーサイト



殿様、お召し上がりください

2021年10月17日 16:25

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/17(日) 13:14:14.09 ID:bbP7T4U9
島津義弘公は、関ヶ原御退き口の砌、ある山中へ差し掛かった折に召し上がるものが全く無く、
従臣一同当惑した。中馬大蔵は夜に入って白坂大学坊と共に山中を忍び出て、付近の民家に押し入り、
若干の餅を徴発して来た。公は手ずからその餅を切って、悉くこれを従臣たちに分け与えた。

これを見て御側衆より「殿様、お召し上がりください。」と申し上げたが、公は頭を振って
「私には未だ干飯も残っている。各々などは私を大事に思ってくれているからこそ、このように
付き従って帰国するのであるから、もしも各々が草臥れては私が難渋をするのだぞ。」と
仰せになられ、如何に御勧め申し上げても、この餅の一切れも召し上がらなかった。
大蔵を始め御供の面々は、有難さに涙に掻き暮れ、暫くその頭を上げることが出来なかったという。

軍神島津義弘公



695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/17(日) 13:30:19.39 ID:HzHAbcB0
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-391.html
中馬大蔵、島津義弘の兵糧を奪う・悪い話


中馬さん「殿様はいざという時切腹するだけの体力があればいい
この馬の肉は駕籠を担いでいる我らが食うべきだ」

こっちの逸話の方が有名だけど真相は

今や日本は戦国にして

2021年10月17日 16:24

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/17(日) 14:28:30.51 ID:MKa9KZNU
大内義隆逆亡の後、豊前筑前は大友義鎮(宗麟)が治めた。この時にあたって大明王
嘉靖帝)より日本国王に璽書を贈って曰く、

「中華と日本は勘合によって古くから通じてきたが、近頃はその交友を失って来聘を
絶している。また毎年倭の賊船がしばしば来て、大明の辺境を侵している。切に望む
ことはその剽掠を禁止して衆民に安寧を得させることである。故に書をもってこれを
諭す。今や旧好に復して睦をなす時は、すなわち幸いのみ」

とのことであった。大明の使、鄭舜候という者は博多津に入り来る時に、豊後の大友
義鎮は西州を統領するため日本国王であるとしてその璽書を義鎮に奉り、またその意
を述べた。義鎮曰く、

「いわゆる日本国王はすでに王畿の君あるなり。私は西州の地を領してその藩屏を守
るのみであり、国王にあらず。しかしながら今や日本は戦国にして諸州の豪家は王命
を聴かない故、朝廷に達することができない。

そのうえまた自国は日々に兵備をなしてその領域を守り、ともに雌雄を争って他国へ
兵を出すことに暇がない。これはただ海島の群賊のなすことであろう。朝廷より制止
を加えるべき限りにあらず」

と諭すと、三使はこれを聞いて還った。

――『南海通記



寺は人を救けるために

2021年10月16日 15:17

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/16(土) 00:11:20.52 ID:MYzB5DE6
島津氏領内の寺院には、従来山門が設けられていなかった。
そこで島津義弘公の時代に、「山門が無ければ盗難の禍が有り、ついては何れの寺院も山門を建立すること
勝手たるべき。」旨の御許を受けたいと願い出た。

公は一応、その願いを聞き届けられたが、「ただし、寺は人を救けるために建てられたものである。
門を立てれば、人に追いかけられるなどして寺を頼み来る者に不便が多いだろう、であれば、門を
閉めても寺に入れるように、門の戸に添柱を立てて、これを登り越せるように致せ。」
との御諚であった。

そこで薩摩藩の寺院はその後、山門に添柱を立てて、横木を入れる事となった。
こういった事は他藩の寺院には絶えて無き事である。

軍神島津義弘公



冬康の仁徳は

2021年10月15日 16:44

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/14(木) 20:58:27.74 ID:+CvTJUsd
永禄の初めに長慶(三好長慶)は老衰に及び、天下の政務を左京大夫義継に譲って、
中の島に隠居する。冬康(安宅冬康)はその老衰し給うことを悲嘆し、保養のこと
を諌められた。ある年の10月に淡州より摂州中の島へ松虫籠を送られた。

「夏虫は弱きものですが、よく養う時には寒中まで生きています。人は四季を送り
寿命長きものですから、よく養えば長命になるでしょう」と諌められると、長慶も
感悦なされたと聞く。忠と言うべし。

冬康の仁徳は民間の話題に残ることが多い。乱世に生まれて鋒を携え、暇なき中で
書を離さず、和漢の故実を試みて道義を守り給うことは世に珍しき人才である。

天下は乱世にして人民は利を争って道を失い、虎狼の業をなすことを憂いて読んだ
歌がある。

「往古を誌せる文の蹟も悚し さらすは下たる世とは知らまし」
(古を記せる文の後もうし さらずばくだる世ともしらじを)

まことに感心をなすべき言詞である。

――『南海通記



679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/14(木) 21:11:13.85 ID:uGJ2r9Ad
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12896.html
松永久秀が松虫(スズムシ)を長生きさせた逸話があったっけ
三好長慶も松永久秀も安宅冬康の言葉に感心したのかな
安宅冬康は早死にしちゃったけど

『南海通記』書尾

2021年10月14日 15:15

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 21:05:22.24 ID:Z+w7eDcD
書尾

右の南海通記は讃州の故士に植松左衛門尉資信、三谷彦兵衛尉景近、片山是右衛門尉
久利(久則とも)という者がいた。また上古より相続いてきた百姓に田所治郎右衛門、
公文孫三郎という者がいた。皆元亀の生まれで寛永正保まで生きていた。

これにより天正中の乱をよく知った。それより前古のことは祖父の古伝により知った
故に、その説は実事であり採る説は多い。私は幼少より争戦の勝敗を聞くことを喜ん
で、その側に侍してしばしば聞いて眠らなかった。かの老翁たちは奇なりとしてこれ
を諭した。我が心に得ざることあれば問いを設けた。

故に私は幼少にして四国の事跡をおおよそ知り、成長してはいよいよ老父老婦に会う
毎に伝え聞き、つまびらかに問うてその説を集め小大の部を分け、大きなものを『南
海通記』とし、小さなものを『老父夜話』とした。そうして小大の二部が成立した。

南海に国記なし。私はこれを憂いること多く、故にこれを抄録した。かりにも、その
精実を脱してその疎謬をあげることもあるだろう。その知らざることは私には如何と
もしがたい。まずその知ることをあげて後人に遺す。知らなければ知らないままにし
て後の人を待つ。

――『南海通記



「大友興廃記」より「留守の火縄」

2021年10月14日 15:14

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/14(木) 00:07:04.42 ID:uGJ2r9Ad
大友興廃記」より「留守の火縄」の話
豊薩合戦の際、薩摩勢の坂瀬豊前守が、朝倉一玄が城代を勤める駄原(だのはる)城に攻めてきた。
もともと物見のための城のため、朝倉は塀や柱を切って城内を焼き、留守の火縄を置いて退却した。
(留守の火縄とは火縄を使った時限発火装置という説があるが詳細不明)
坂瀬はこれを失火と思い、喜んで入城。
朝倉は志賀親次からの援軍を呼び、搦手(からめて)を開け、兵1500で駄原城を囲み、攻め寄せた。
薩摩勢は防戦しようとしたが、城内のものは外側の塀まで焼けてしまっていたため楯になるものがなく、あきらめていっせいに搦手から逃げだした。
しかし伏兵によって大将の坂瀬を含め大勢が討ち取られた。

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/14(木) 00:28:41.96 ID:uGJ2r9Ad

時限発火装置だとしたら薩摩勢の入城後に焼ける気がする
鳥羽伏見の戦いの時に大坂城に地雷が埋められているのを警戒して新政府軍がすぐには中に入らなかったのはここから教訓を得たから
なわけはないか



老鼠死而猫憂

2021年10月13日 16:08

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 13:19:07.11 ID:vp1BtXuF
加藤清正死去の報が薩摩に伝わると、島津義弘の御家老衆は御居間に伺候して、目出度いことであると
祝辞を申し述べた。すると義弘公は以ての外の御不興にて、突と奥に入られた。皆々その御心底を
解しかねて当惑していた所、公は奥より御書付を持って出てこられ、それを近臣一同へ下し置かれた。
列座の諸士が恐る恐る拝見すると、そこには一枚の奉書に

 老鼠死而猫憂

との六文字が認めてあった。
これは清正存生の間は、この方にも備えが有ったが、彼が死んでしまえばそういった心がけも薄くなって
しまう事を、深く憂慮するとの御意を顕されたものであった。

軍神島津義弘公



670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 13:55:02.26 ID:zU7uTRPh
書状からもだけど
島津ほんと清正のことだいっきらいよね

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 22:57:42.30 ID:l1O4yBxb
>>670
それだけ清正が島津から見て優秀だったって事かね?

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 23:01:49.18 ID:JEQYkWX+
庄内の乱なんかでも清正が裏で画策してて家康から確か怒られてるし
関ヶ原の後も兵寄せていつでも攻められますって状態にしてたんで、表に裏に清正は島津に攻めたかったんだろな感
唐入りで領内財政傾いてたようなんで、隣国攻めて改善したかったのかもね

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 23:23:33.58 ID:1Mbk+OEt
隣の外様は潰したいでしょ
島津なら攻めても幕府に怒られないだろうという読みもあったのでは

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 03:05:32.35 ID:qyPo8WuQ
>>673
もっと後の西南戦争で、熊本城攻めに苦労した西郷どんが「おいどんは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」って言うくらいだし

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 06:58:07.60 ID:UqMma+8p
武士が農兵に負けたからって惨めな言い訳だなあ

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 10:21:47.09 ID:tCMgCT74
それだけ城の縄張りが優れてたってことかな。
あと装備も違うだろうし。

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 11:29:38.38 ID:MtEDOuhq
近世城郭を近代兵装で破れないわけないから単に装備が不足だったってことだよね
そうは言えないから清正公にやられたってだけで

ところでこの話しは俺は司馬遼太郎の小説でしか知らんのだけど、司馬が引いてきた原典はなんなんだろ

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 15:54:05.97 ID:qyPo8WuQ
>>683
原典はともかく、薩摩人がこれを聞いたら「なら仕方ないな」って思ってしまうような空気はあったんだろうなと思う

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 16:02:17.43 ID:ClkTPPgG
創作でなければ、肥後の諸隊の誰かじゃないの、佐々友房とか

戦線を下げるにあたって見捨てた旧肥後藩士の歓心を買う必要もあったろうし
もともと熊本城は先祖菊池氏の旧跡で、薩摩藩の敵でもあった清正を
旧薩摩藩士の前で持ち上げる理由はなさそう

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 17:20:53.63 ID:s+R41qBP
清正は江戸時代になんの脈絡もなくお話に出しても盛り上がるくらい人気あるキャラになってたみたいだし、スーパーヒーロー化されてそう

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 17:22:25.04 ID:JgA33ZBN
出陣するとキヨマーコールが起こってたらしいな

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 18:07:04.53 ID:TyVjd+04
さしたる用もなかりせば、これにて御免
は義経だけかと思ったら清正もか

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 18:17:40.74 ID:9xaF32fH
清正は熱心な法華教徒だったことから、死後早い段階で
法華宗の守護神みたいに受け取られていたらしく、それが
江戸期の人気のベースに成ったらしい。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 19:46:27.96 ID:RaZ70FYM
そうかそうか

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 19:52:15.88 ID:X49hgEcq
ホーホケキョ

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/16(土) 06:32:38.56 ID:TFPoCrbq
>>689
清正が生前に描かせた肖像の下書きが没後すぐに法華宗寺院に納められ、早くから御神影として拝まれていたというから
当時の法華宗信者には清正が自分達のヒーローであり死しては同じ宗旨の自分達の守護神となってくれると期待されたのは間違い無い。
ただそれとは別に熊本地域のみで清正人気は高かったらしく、清正神格化は日蓮・法華宗が全国的だが熊本だけ単に神として江戸時代神社に祀られた例もある。
全国的な清正神格化は明らかに日蓮・法華宗の影響だが、熊本単独での神格化は他県の人間には正直わからない。

週刊ブログ拍手ランキング【10/07~/13】

2021年10月13日 16:03

10/07~/13のブログ拍手ランキングです!


明日は一緒に討ち死にじゃ 11

【ニュース】【山口】大内氏の宴は…料理を再現 11

薩摩藩「本藩人物誌」より長寿院盛淳 11

この四子の智謀勇力は万人に勝り 10
わらわが身籠った子が男子なら 9
古の士は弓射ちして矢を作ってこそ 9

細川政元は飯綱の法を行い 7
氏真さんカワイソス(´・ω・`) 7
味方千騎の強みとは 7
高松由来 4


今週の1位はこちら!明日は一緒に討ち死にじゃです!
兵糧の欠乏した五島氏の要請を受け、自分も欠乏していながら少ない兵糧を分ける島津義弘のお話。
「武士は相身互い」を象徴するようなお話ですね。実際朝鮮出兵、特に慶長の役では、島津勢と五島勢は良く
協力していたとされ、親しい関係だったようです。このお話もそういった関係性を反映したお話でも有るのでしょうね。
このお話からは義弘の、武士としての有り様が出ていると共に、朝鮮役の日本軍というものが兵站も、統一した運用のない、
戦国時代然としたものであったことも感じさせますね。この時は幸い早くに本国からの補給船が来ましたら、何ら名の事情で
遅れたらどうなったんだろう。本当に討ち死にしたんだろうか。そんな事も考えちゃいますw
なにはともあれ、後世、島津義弘が薩摩に於いてどのような人物として見られていたかが、そして薩摩における
理想の武士とはどういうものかがよく解る。そんな内容だと感じました。

今週は同票でもう一つ【ニュース】【山口】大内氏の宴は…料理を再現です!
大内義興、足利義稙歓迎宴会メニュー!・いい話にも内容出ている、足利義稙を迎えた折の、大内家の料理の再現。
こういった授業を六年前から行っているのですね。素晴らしい。映像を見る限りその全部ではなく、数点を選んで再現
しているようですが、料理やその技術発展の歴史も含めて、良い経験になると思います。
大内義興の提供したものはいわゆる式三献で、基本的には食事を楽しむと言うより、儀礼的側面が強いものではありますが、
だからこそ非常に念入りに、素材も厳選され調理された面も有ったのでしょう。
こういった授業ができるのも、その料理内容が記録され、現在にまで伝わったおかげですね。
記録と、それを残すことの大切さも感じさせるニュースでした。

さらに同票でもう一つ、薩摩藩「本藩人物誌」より長寿院盛淳です!
こちらも島津家。島津義弘の身代わりとなって死んだ長寿院盛淳のお話です。
この記事の内容からも多少察せられますが、長寿院盛淳は三成など奉行衆に近い親豊臣政権の人物で、義弘に
重用されましたが、またそれ故に政権と距離を置きたい島津義久などからは疎まれていたらしく、義久は後継者となった
忠恒に、義弘が長寿院盛淳を重用していることを苦々しく思っている書状を出したりしています。盛淳もそういった
島津家の空気を知っていたからこそ、あるいはこの時に義弘の身代わりとして死ぬという道を選んだのかも知れません。
しかしこれもまた、島津家に伝わる話に相応しい、いかにも薩摩武士的なお話ですね。こういった話を聞かされて育った
成果が、幕末の薩摩藩でも有るのでしょう。そんな事も思った内容でした。



今週もたくさんの拍手を各逸話に頂きました。いつも本当にありがとうございます!
また気になった逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンをおしてやってくださいね!
(/・ω・)/

細川政元は飯綱の法を行い

2021年10月12日 15:22

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/11(月) 20:41:39.46 ID:kFj4sQth
植松左衛門尉(資信)が曰く、

「私は乱世に生まれて諸々の道を知らない。しかしながら武士はただ
下手でも文武の道を学んでこれを行おうとして過ぎることはあるまい。

神道仏道は至って善とはいえども、これを行おうとして禍を得る者は
多い。細川政元は飯綱の法を行い、管領の家は断絶したのだ」

――『南海通記老父夜話記)』



88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/11(月) 23:38:24.08 ID:8WidEI55
>>87
なんか前段後段で文意がつながってないような気がする・・・ 

「過ぎることはあるまい」だと「いくらやってもやり過ぎではない」→「どんどんやりなさい」って意味だよね?

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 02:55:09.59 ID:LNSxAag1
>>87
魔法半将軍様の場合飯綱の法を行ったからというより
もっと別の因果からじゃないんですかね…?

90 名前:87[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 08:20:11.90 ID:QEbcGYk+
>>88
史料叢書版の原文は「文武ノ道ヲ学テコレヲ行ントシテハ過アルベカラズ」
武士には文武を学び実践する以上のことはなくて他の道にとらわれると家を滅ぼすってことかと
ちなみに史籍集覧版だと単に「武ノ道」とあって植松は武辺の人だからこっちの方が正しいかもしれない

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 13:21:50.44 ID:2E9AxWS5
過=あやまち

学テ 行ントシテ と動詞には送り仮名付けてる書き方してる以上
送り仮名がない時点で 過 は名詞と解釈するのが自然

92 名前:87[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 20:31:59.24 ID:QskEwL65
>>91
ご指摘ありがとうございますm(_ _)m

93 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/12(火) 21:01:03.28 ID:SVFHvk5E
>>89
南海通記の見解では
飯綱に凝る→男色に耽る→浮気を疑って無実の人間を罰する→そいつに恨まれて殺される
ってことらしい

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 21:53:29.37 ID:LNSxAag1
>>93
あくまで南海通記の見解へのツッコミなんだけど
女人禁制で男色に耽るまでは関連性として判らんでもないけど
そこから先はやっぱこじつけでは…?

そもそも南海通記って香西氏が書いたもので
政元の暗殺って香西元長が首謀者だって言われてるよね
要因を飯綱に求める事で飯綱に凝った政元が殺されるのは仕方ない的な
祖先の所業の正当化のこじつけなんじゃ…?

95 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/13(水) 12:30:19.92 ID:6rFIMn48
香西氏の自己弁護が入ってる可能性や、暗殺が個人的な恨みかは疑わしい点は同意だけど
暗殺を招いた政治的混乱の原因が実子のいないことによる養子の乱立なら、実子がいない原因になった
飯綱の法を根本原因にするのは、全くの無理筋ではないと思えるけども

この四子の智謀勇力は万人に勝り

2021年10月11日 16:03

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/10(日) 17:53:33.02 ID:waUK1rNR
一、三好氏の祖は新羅源氏小笠原次郎長清の裔である。頼朝公の平家追討の
後、阿波の守護職を賜り信州より当国に移る。これを阿波の小笠原と称す。
三好郡に住する故に代々の後に三好を氏とした。累世創業を立てんと欲して
戦場に死を致すこと三代。

(中略)

天文2年3月、之長入道喜雲の長子筑前守元長入道海雲、泉州堺浦顕本寺に
おいて一揆のために自殺す。その子が三好筑前守長慶である。

長慶は幼少より深く憤り、一度天下を定めんと欲す。故にその所為の者群に
出ること幾ばく多し。18歳の時、求聞持の法(記憶力増進の修法)を修め
る。これは武門興隆を祈ることである。

天文2年に父海雲没してその家を継ぎ、兵を起こして王畿に出て四方に発向
し、敵と戦って勝たずということなし。ついに洛に入って天下の成敗を宰り、
国家の権柄を制した。

そのニ弟彦次郎之相、後に豊前守義賢と号す。これは阿波屋形の執事である。
後に物外軒実休と号す。三弟安宅摂津守冬康は淡州安宅の家を継ぐ。歌道の
才人である。また“賢徳(賢明で徳のあること)”の名あり。

四弟又四郎之虎、これは十河左衛門督一存である。讃州十河の家を継いだ。
大剛にして大力なり。故に“鬼十河”という。また容貌は猛なる故に、世人は
これを真似て面体を作った。これを“十河額”という。

この四子の智謀勇力は万人に勝り、心を一つにしたので、強敵を挫き暴寇を
攘い、天下の人心を誘い我に服させた。故に京師に入り王業を輔佐し、将軍
の威令を奉行し、20余年天下を安全ならしめて権柄を執り給うのである。

一、三好長慶の兄弟は、多い中でも皆一品ずつ備わった名将である。

長慶は智謀勇才を兼ねて天下を制す器である。豊前入道実休は、国家を謀る
謀将である。十河左衛門督一存は大敵を挫く勇将である。安宅摂津守冬康は、
国家を懐く仁将である。

兄弟4人一手ずつ生まれついた故、天下の乱を救って暫く静謐したのである。

――『南海通記



明日は一緒に討ち死にじゃ

2021年10月10日 17:39

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/10(日) 00:23:46.01 ID:I/RT7GDO
島津義弘公が高麗在陣の砌、肥前の五島家より『兵糧が切れてしまったので貯穀をお貸し下されたい。』
との旨の申込みが来た。実はこの時、薩摩の陣中にも余分の貯穀は無く、僅かに三日間を支え得る
のみであった。そのため、家老衆をはじめ諸人皆、これを断るべきだとの旨を談合した。

しかし義弘公はこの事を聞いて頗る残念に思し召され、直ちに老臣を召されると、言葉厳かに言った

「偶々、武士が頼みに来たのに兵糧無しと返答するというのは、義理に外れている。
少しであっても遣わすように。明日は一緒に討ち死にじゃ。」

そのように仰せに成り、御家老衆も是非無く、貯米の半ばを割いて五島家へ送ることとした。
この時薩摩の陣中では

 五島若衆は浜千鳥
   みめはよけれど磯せせる

と、歌い囃したそうである。その後三日を経ない内に、本国より兵糧船が到来して皆々愁眉を開いた。

軍神島津義弘公



656 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/10(日) 09:40:58.99 ID:WUvroWhc
どの程度必要だったのかというとこだが、まとめ過去のこれだと、五島家の軍勢は実戦部隊160人、輸送下働きが300人ってとこか

立花統虎(宗茂)8万国・(高橋)統増2万国に対する軍役等
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12691.html

658 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/10(日) 23:19:07.78 ID:WUvroWhc
>>655-656
島津軍のあくまでも史料上の参戦当初の数値では総勢10800ね

659 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/10(日) 23:21:05.45 ID:WUvroWhc
もちろん、自家よりはるかに小勢だから気前よく分けてやれよってお話でもありませんが

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/11(月) 17:10:10.65 ID:QttkdCRV
まあ1万人の3日分で9万食分手持ちがあって、500人の同じ3日分で1500食分分けるなら
1.66%だから少し分けてやって恩を売っとくか、みんな少なめに食べとけとなるが

半分もやったんかーい

あれこの当時って1日2食だったりするか?

663 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/11(月) 20:48:03.95 ID:VItcYL67
>>662
江戸中期辺りから庶民が徐々に三食取るようになりだした。社会の安定化と米供給の安定・都市の肉体労働的職務の発達で自然と三食へ変化したらしい。
でも上流階級は基本三食取ってた訳でなく結構後まで三食というより二食と中間のオヤツ程度で、戦国時代なら上流低層問わず二食が普通で三食取る事自体無かった。
だからこの逸話の時期なら多分二食。

氏真さんカワイソス(´・ω・`)

2021年10月10日 17:38

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/09(土) 21:45:42.09 ID:82Wlary0
767 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワントンキン MM0b-g+3k) sage 2021/10/09(土) 03:21:43.58 ID:KUrCYZSAM
氏真さんカワイソス(´・ω・`)

「駿河を失い没落した氏真は、かねて音信のあった越後上杉氏に書状を送ったものの返信が無い。そこで、上杉氏の取次(外交の担当者)に連絡を取ったところ「書札慮外」と一蹴されてしまったという。つまり、没落した氏真ごときがいつまで越後国主と対等の立場でいるつもりかとその無礼を咎められてしまったのだ。氏真の心中いかばかりか。」



85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/09(土) 22:38:28.68 ID:Yey6uiW7
今川サイドの対上杉窓口は朝比奈か三浦だっけ?
まあどっちもいないんじゃしゃあない

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/09(土) 22:48:16.74 ID:l66jBKe8
大名権威の保持のためにももう大名じゃない人間を大名扱いするのは厳しいわね
まあそもそも氏真がこうなったのは
弔い合戦したいタイミングで同盟国北条に攻めかかったやつがいたり
そんなやつと同盟したのに味方になったら殆ど動かないとか
その辺もあるんで確かに心中如何ばかりか

わらわが身籠った子が男子なら

2021年10月09日 15:15

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/08(金) 19:54:40.27 ID:C5mbXJku
老人夜話記

四国の老婦たちが口づから語り伝えて曰く「戦国の時に豪傑の家に
生まれては、女子といえどもその志は堅固にして願うところ高し。

三好長慶の母堂は長慶を身籠り給う時に大願を起こし、七夜の月を
待ち、誓いをなして曰く、

『わらわが身籠った子が男子ならば三好七代の天下を持たせてくだ
さり給え。女子ならば、皇后の位に立たせてくださり給え』

と言われ、三好の河瀬に立って水を桶に汲み入れて頭に戴き、月の
出るのを待ち、七夜の月の満ちる時に祈の験あって宿所に帰り給う。

それより月足り日重ねて、男子を産む。これが長慶である。長慶が
成長して天下を手にしたのも、この母堂の祈願によるのである」と
いうことであった。

――『南海通記

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/09(土) 18:45:09.33 ID:Taeh1ZwT
(>>653の逸話に続いて)

またある人は曰く「長慶の母堂は夫の元長戦死の後に憤りを起こし、
『三好七代の天下を知らせてくださり給え』と七夜の月を待ち給う」
と語る者もあった。

いずれにしてもその意は同じことである。三好三代は続けて戦場に
死んだ。婦女といえども、その憤りなくいられるはずもない。

長慶は成長して世の人を超えた気性あり。阿波の辺鄙より出て天下
群将の上に立つことは容易なことではない。母堂の立願が足りたの
だというべきである。

――『南海治乱記』



古の士は弓射ちして矢を作ってこそ

2021年10月08日 17:01

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/07(木) 20:40:00.08 ID:TSXgTVil
ある老父が語って曰く「古の武士は兵具を各々自分の手で作って用いるのを
上士といったのである。我が曾祖は香川郡井原の郷司の漆原という者だった。
寛正の頃であるが将軍家に参勤した。

ある時、細川勝元へ将軍家より征矢を賜る。勝元は拝して自愛深く、漆原を
呼んでこれを見せた。漆原某は曰く『この矢はこの私が作った矢です。どう
いう入れ違いで上覧に入ったのでしょうか』と言った。

勝元がその証拠を問うと、漆原はその矢の沓巻を解いて、矢柄の中から“讃州
井原ノ住漆原”と記された書を出し、また元の如く沓巻して勝元に返進した。

勝元は称美して奇作とし『古の士は弓射ちして矢を作ってこそ、上能の武士
である』と称誉したのだ」ということであった。

――『南海通記老父夜話記)』



【ニュース】【山口】大内氏の宴は…料理を再現

2021年10月07日 16:27

648 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/05(火) 21:25:35.67 ID:9t9xVy1s
ニュース
【山口】大内氏の宴は…料理を再現

https://news.yahoo.co.jp/articles/bbbc5dc457ad971b98d9e2c564bf332fb4a8b5f8

関連
大内義興、足利義稙歓迎宴会メニュー!・いい話

薩摩藩「本藩人物誌」より長寿院盛淳

2021年10月07日 16:23

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/06(水) 19:22:36.43 ID:yBNGTRH+
薩摩藩「本藩人物誌」より長寿院盛淳

もともと畠山氏であったが幼少より出家し根来山に8年、高野山の木食上人に学ぶこと3年で薩摩に帰国。龍伯公(義久)より家老を命じられた。
上京した龍伯公が泰平寺に御家人七人をお供にして向かったところ、京勢が道を遮り島津勢を嘲笑した。
このとき盛淳は刀を抜き、眼を怒らせて叱責したところ、京勢は恐れをなして島津勢に対して道を開けた。
上方騒乱の際、大垣に着陣したところ惟新公(義弘)は手を取って大いに喜んだ。石田三成も着陣祝いとして金の軍配を贈ってきた。
関ヶ原合戦では「万一の殿の御大事に備えて羽織をいただきたい」と惟新公の羽織を拝領し出陣。
負け戦となったため「殿様は何処にいらっしゃる?」と家来どもに聞いたところ
「すでに遠くへ御退去されました」と家来が答えたため満足し、刀を抜き、拝領の羽織と金の軍配を敵方に見せつけ、
「島津兵庫頭(義弘)、死狂いなり!」と名乗りを上げ、大勢の敵に斬りかかっていき、敵方の槍数本に貫かれて死んだ。

味方千騎の強みとは

2021年10月07日 16:23

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/06(水) 21:13:25.39 ID:1w+xW3ed
天正17年(1589)、正規(生駒親正)は大坂在勤の時に予州今治の城主、
藤堂佐渡守高虎と御対談あって申されるには「今度、今治に御帰路の時に我が
高松へ御立ち寄りになって、城地を御見分してくだされ」と申された。

高虎は申されて「もちろん私も参るつもりだが、幸いにも黒田如水が近日中に
中津へ帰られる。時を合わせて同道仕り、如水に見分して頂けるように相談し
ましょう。この人は城取り功者で諸方の城々はおおかた如水の見分で相調った
のです」と仰せられた。

これに正規は喜び申され先立って高松へ下着し給い、西浜東浜の間に仮屋形を
造り待ち給う。程なく両将御下着なさり高松の地を見分なされた。

如水は仰せられて「これは究竟の城地です。富貴繁昌ともに備わって要害良く、
諸方の船路は便を得て、国主の居城に合った地形です」と誉め給う。正規は申
されて「西の山が程近いのだが、どうでしょうか」と御尋ねになった。

これに如水は仰せられて「この山なくてはこの所で城取りは成り難いでしょう。
この山があって西を塞ぎ、寄口は南一方になるため要害に良い。

特に山は険阻で人馬の足場がなく、北は海岸に入って海深く、山の根は潮汐の
差し引きあって敵人は留まることができない。東は遠干潟で川入あって敵人は
留まりがたい。南一方を防ぐだけである。

味方千騎の強みとは、この山のことである」とのことだった。このため正規は
安堵してこの場所を城地に定められたのだという。

――『南海通記



651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/07(木) 11:04:26.13 ID:lP6gqeTD
>>650
弱点あっても後々のことを考えて言わなさそう

高松由来

2021年10月06日 18:32

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/05(火) 20:55:53.29 ID:bRILBaEz
天正15年(1587)、生駒雅楽頭正規(親正)は讃岐国を賜り、当国に入部なさった。
まず引田の城に入り給い、その後に国の中區なので鵜足郡聖通寺山の城に移り給う。

正規曰く「国中に在来する所の城々は皆乱世の要害であり、治平の時の居城の地にあらず。
平陸の地を設けて居城とすべし」と、その地を求めなさったところ、香川郡笑原の郷に究
竟の地があった。

(中略。その地の故事伝承について)

正規はこの所を見立て地形の吉凶を占おうと相者を召された。安倍晴明の遠裔、安倍有政
という者がいた。これは乱世の相者だが京学でホギに通じ、文才あって占に優れた。近来
は香西氏に許容されて山端村にいた。

この占者を召して吉凶を問われた。相者は卜を布いて曰く「この地は富貴繁昌ともに備わ
り、四神相応の地と言えましょう。しかしながら、地祭をなして吉凶を定めなさるべきか
と存ずる」と言った。

問者の曰く「何の障りがあるのか」。有政曰く「土地の名を目出度く改めるべきかと存ず
る。その謂われは、聖通寺より野原(地名)へ出給う時はその詞は凶である。聖寺より通
して野原に出ると読むなれば、野原の名を改めて目出度き唱えの名になされるが、しかる
べし」と申し上げた。

これを正規はもっともとされ、東の方高松の名を取って城の名とし(高松城)、古高松は
波の寄せ来るところなので“寄来村”と名付けなさったのである。

さてまた右の陰陽師有政には地祭を仰せ付けられ、天神地祇を降拝して如在の礼奠をなし、
衆人は囲繞渇仰して地祭が済み、正規は喜悦なされ、有政には数々の引出物を得て目出度
き祝詞は整ったという。

――『南海通記



週刊ブログ拍手ランキング【09/30~10/06】

2021年10月06日 14:23

09/30~10/06のブログ拍手ランキングです!


島津義弘公が乗っていた女馬は 19

松永久秀滅亡の時 17

運命の不足は何を貪って取りなさる 15
これこそ男子の本懐というものよ 13
仙石久勝最後の戦い 13

阿州の老父が語って曰く、 12
更に主従の区別も無いほどであった 11
予州の老父がまた語って曰く、 11

ささ、存分に飲み候へ 10
「明赫記」忠平公木崎原御合戦の事 6
その家業を失うべからず 4


今週の1位はこちら!島津義弘公が乗っていた女馬はです!
島津義弘の愛馬、膝つき栗毛についてのお話です。この逸話では83歳まで生きたとか。馬の平均寿命は
25~30年程度だと言われます。相当に長生きして40歳だとか。そう考えると83歳というのは凄まじいものですね。
この手の長寿の話についての説明として、「軍記物の誇張癖」というものもありますが、寿命については、
人間でもそうなのですが、複数代説というものがあります。
中世は「家」を基礎とした社会であり、そのため家の当主は代々、その「家の名」と言うべき通称や受領名、
官位名を継承しました。よってその家の人物が記録などに現れる場合、何代かにわたっていても同じ「〇〇守」などと
記されがちです極端な話だと。甲斐小山田氏が3代にわたって信有の諱を用いた事が有名ですね。
この場合は、「膝つき栗毛」という名が個体名を越えて、代々の義弘の愛馬を表すものとなり、
結果的に「膝つき栗毛」の名は80年を超えて記録されたのではないか、という事です。
それにしてもよほど印象的な、名馬であったのでしょう。だからこそ後世にまで名が伝わったのでしょうしね。
そういった存在に様々な伝説が付加されるのは人も馬も同じ。そんな事も考えた逸話でした。

今週の2位はこちら!松永久秀滅亡の時です!
松永久秀の最期についてのお話。平蜘蛛の事や彼の娘の事など、非常に綿密に描かれていますね。久秀の滅亡と
いうものが、大変劇的なものだったという印象が強かったことが、この描写からも解ります。
また後の、信長の本能寺での滅びに結びつけているのも面白いですね。かつて、信長と同じ「弾正」「霜台」として彼は
京を支配したわけで(信長が上洛時に尾張守から弾正忠に改称したとき、久秀は山城守に改めています)、
何かしらの一致性を感じられる面もあったのでしょう。
昨今の三好氏研究の進展に伴い、様々に研究の進んでいる久秀ですが、同時代、近時代の人々が彼に持った
印象と実態を比較してみるのも、久秀という人物を考える上で大切だと思います。
そんな事も思わせてくれた内容でした。

今週管理人が気になった逸話はこちら!予州の老父がまた語って曰く、です!
こちらは肥前菊池氏に伝わったとされる源範頼の馬のお話。なんと5百歳!そりゃあその弔いに1千有余人も出るでしょう。
これも合理的に考えると、源範頼由来とされた馬の血統が戦国期まで続き、そして小早川秀包の元でその血統がついに
絶えた、という事を、一種の象徴的に表現したものだと推察できます。五百年血統が続くだけでも充分に凄いことでは
ありますね。人の世界でも中々ありません。そんな馬が、菊池氏、大友氏、そして小早川秀包と数奇な世の中の変転に
巻き込まれた事から、様々な感慨を感じることも有るでしょう。
鎌倉南北朝室町という時代をまるまる内包し戦国の終わりに散った、非常に象徴的なお話でも有るな、なんて感じました。



今週も各逸話にたくさんの拍手をいただきました、いつも、本当にありがとうございます!
また気になった逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンをおしてやってくださいね!
(/・ω・)/