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『駿府記』より、方広寺鐘銘事件について

2020年09月23日 18:41

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/22(火) 23:18:37.90 ID:Nl3xNW4I
慶長十九年
七月二十一日、大御所が源氏物語の講釈を受けられた。飛鳥井(雅庸)が講読し、御数寄屋次之間にて
行われた。その後近習四、五輩、および伝長老、板倉内膳(重昌)の両人が召された。仰せに曰く
「(方広寺)大仏の鐘銘に関東不吉の語があり、また上棟の日も吉日ではない。」
とお腹立ちだったという。

二十六日、今日、片桐市正(且元)より一通の書状、并びに板倉伊賀守(勝重)の書状が駿府に
到来した。その内容は、

『方広寺大仏の供養を来月三日、開眼を十八日に成す予定であるが、その十八日には豊国臨時祭が有るため、
三日の早朝に開眼を行い、その後供養を行いたいのだと、秀頼が仰せに成っている』という。

大御所は「今度の大仏供養については、棟札といい鐘の銘といい、遺憾で不快である。
また往時源頼朝の時代も、開眼と堂供養の間は十年を隔てている。先例を考え、諸事後難無きように。」
と仰せ遣わし、本多上野介(正純)、伝長老がこれを奉った。

八月二日、方広寺大仏殿の鐘銘の正確な写しが駿府に到来した。中井大和守(正清)がこれを捧げた。
件の鐘銘は東福寺の韓長老がこれを書いたが、『国家安康』の語が不快であり、その他にも文章の中に
所々不快の語があった。一通を写し、これを江戸に遣わした。林道春がこれを奉った。

四日、大仏殿の棟札の写しが駿府に到来した。中井大和守がこれを奉った。照高院道勝法親王がこれを
書かれたのだが、大御所の御意に叶わず、ご不快にて、仰せに曰く
「鐘銘については、奈良大仏の鐘銘に准ずるべき旨を云っていたのだが、相違え、また秀頼より、
彼が出京するために、供奉の者たちを諸大夫に任じたいと云ってきたため、諸大夫に任官させたのだが、
その秀頼の出京は中止に成ったという。頗る不審である。」

五日、今日、大仏の鐘銘と棟札の内容を、大阪より片桐市正が大御所に捧げ、御前において、金地院崇伝が
これを読み、中井大和守が差し上げた。その内容はそれまでに報告されていた書付の内容と相違無く、
件の鐘銘の善悪について、五山衆に評価させ、それを書き記して提出するようにと仰せに成った。
この御使いとして、板倉内膳正が京都に赴くようにと仰せに成られた。

駿府記

方広寺鐘銘事件について。実は棟札の問題とセットだったんですね。



347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/22(火) 23:52:42.97 ID:XZPd+AJg
丸島氏が言っていたと思うけど
豊臣家が何個もやらかしててそのうちの1個が鐘銘ってだけなのよね、しかも鐘銘に関しては確認とって西国じゃそういうのもあるんだろうぐらいで落ち着いてるようで
出兵の決定打は取次の片桐の追放とのことみたいね

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/23(水) 00:03:18.16 ID:aMwBT9L+
追放じゃなくて退転じゃないの
関東にとっては同じことだろうけど

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/23(水) 00:54:08.28 ID:FN2WPn7a
>>348
片桐且元・織田信雄が暗殺されかねない危険な状況だったのだし、
同時期に多数の重臣が退去しているのだから、より酷いわな。

徳川が腹黒いとか言われる方広寺鐘銘事件とか福島・加藤など豊臣恩顧の大名の改易とかは、
調べれば調べるほど、こりゃ当然そうなるわな…という感じ。

もちろん、大久保長安事件とか宇都宮城釣天井事件とか、
徳川内部での騒動だとアレだけど。
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2020年09月23日 18:38

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「板倉殿は戦死するでしょう」 15

悪口の罪軽からず 11

駿府の浜に揚がった謎の巨大生物 8
『岡田竹右衛門(正次)覚書』より、前編 8
『岡田竹右衛門覚書』より、中編 8

見聞談叢より 里村紹巴のこと 4
『秀頼』と焼き印を 4


今週の1位はこちら!「板倉殿は戦死するでしょう」です!
この内容の逸話は、柳生宗矩のもの、また板倉重宗のものとして、『常山紀談』などに見られます。もしかすると、この
安井算哲のものがオリジナルなのかも知れません。町人、文化人などの逸話が、後々高名な武士の事として改変される
のは、例えば石田三成の三献茶など、わりと見られるもので、これもその一つなのかも、なんて感じました。
逆に言えばそれだけこの逸話が、武家における人事の機微を表すものとして印象され、後年まで人口に膾炙したと言うこと
なのでしょう。その意味でもたいへん興味深い内容だと思いました。

2位はこちら!悪口の罪軽からずです!
こちらは駿府における喧嘩乱闘の顛末ですね。コメントの方にもありましたが、この飯田伝吉は「元高麗人」とあり、この時の
悪口は、あるいはその出自に関するものかも知れません(原典を見ても悪口の内容は記されていませんね)。
またこの内容を読むと、朝比奈、松野の側が先に刀を抜いて挑発した模様で、そのような侮辱が有った上での喧嘩は、
少なくともこの場合は『喧嘩両成敗』は適応されないと、家康は判断したということなのでしょう。
「悪口」というのは中世に於いて、武家社会に限らず大きな問題で、分国法、あるいは陣中の軍法に多いても厳禁
されています。特に武士は、一旦悪口が成されたならば、自力で名誉を回復せねばそれを認めた負け犬と蔑まれるため
なのですね。秀吉が彼を批判した高札に対し、その容疑者の居た町全体を連座としたのも、こう言った意識の一環と
言えるでしょう。
当時の社会の有り様の一端も感じることが出来る、そんな内容だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!
『岡田竹右衛門(正次)覚書』より、前編
『岡田竹右衛門覚書』より、中編
この『岡田竹右衛門覚書』についてのお話です!
岡田竹右衛門と言う人はわりと有名だったようで、実は『常山紀談』の中にも、彼の逸話が存在します(岡田竹右衛門見切の事)
それにしても、実に三河者らしい、一徹で剛直な人物を感じさせられる内容ですね。
中編の記事のレスにもあったように、覚書というものは誇張などが入り込むものなのですが、逆に言えば、当時の徳川家に
おいてどういう人物が求められたかも見えてきますね。それは現在僕たちがイメージする三河者の姿に非常に近いもので
あり、そういった人物こそ必要であると考えていた(と思われる)家康の徳川家というのは、やはり少々変わった家だったと
言えるかも知れませんw
様々に当時の息遣いも感じられる、と言う意味でも、面白い記事だと思いました。



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駿府の浜に揚がった謎の巨大生物

2020年09月22日 18:13

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/21(月) 19:50:19.72 ID:W/E8RYZN
慶長十九年四月五日
今日駿府の前の浜において、亀に似た魚が網によって引き揚げられた、漁師たちはこれを城に運んできたが、
二十余人で運ぶほどの大きさであった。

背は黒く、亀の甲羅のようで、頭は犬の顔のよう、尾は三股に分かれていて大鱗が有り、腹の色は斑であった。
諸人はこれを見て様々に噂し合ったという。

駿府記

駿府の浜に揚がった謎の巨大生物について



見聞談叢より 里村紹巴のこと

2020年09月21日 18:03

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/20(日) 21:18:12.79 ID:SqgsTnuf
見聞談叢より 里村紹巴のこと
里村紹巴は十一歳の時、宗祇のところに赴いて門人になることを乞うた。宗祇は奇童なりとと認めて門人とした。
紹巴はその年齢から神仏へ願をたてて(奈良の毘沙門天という)、何によってでも天下に名高くなし給えと毎日祈願した。
志あった故に願いの通りに後世に名を遺した。
紹巴の子玄仲の妻は、江戸の医者の吉田易安の娘で妙玄院と称した。
先人(仁斎)にとって外祖母にあたり、私が若年のころまで手紙のやり取りがあった。
紹巴の時代に連歌がはやったことは並大抵ではなかったと話に聞いている。
金吾中納言が流罪になったおりに、紹巴は伏見まで見送りなさった。中納言殿、別れを悲しみ給い、
籠の中から黄金一枚を取り出して永訣の印に紹巴に送り、
「伏見まで送って下さったから、夜も更けました。ここよりお帰り下さい」と鳥羽の城南寺の傍らで返しなさった。
夜中のことでもあり、今と異なり戸締りしない時代だったので、黄金を奪われることを恐れて
城南寺のそばの田んぼの畦に埋めて置き、翌日取りに行かれたそうだ。また、太閤が朝鮮征伐の時も山崎まで見送って、
韓(から)たちにその身はやく枳殻(きこく)かな
という句を奉ったとのことだ。色々の話を聞いたけれども、雑談と思って逐一書き付けて置かなかったことを今になって後悔している。
聞き覚えた発句などもだんだんと忘れてしまい、すべて烏有に帰せんことを悲しく思い書き留める。紹巴がある年の端午の節句前に、
室町通りを通りなさった時に、その頃そのあたりは貧しい有様だったので
人並みに小家も葺ける菖蒲草
という句を詠まれたと。この時代、貴賤男女まで連歌に熱中していたと見える証拠には、紹巴の小童が門前に雨の降るのを眺めていると、
蓑を着て笠をかぶっていない商人がいるのを見て、
みのを衣(き)て笠をきぬこそおかしけれ
と言うと、その商人が
なににつけても銭のほしさに
と付けたという。

この後宗祇や紹巴らの発句が色々載っていますが省略。
金吾中納言の流罪は転封の誤りでしょうか。宇喜多秀家が流罪の時には紹巴は死んでいますし。



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/21(月) 11:07:37.34 ID:+r0rhWKY
確か佐吉の告げ口で筑前名島改易で敦賀だった武生だったに堪忍料だお終いデスにされたような。

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/21(月) 18:17:11.05 ID:SwTWBn1v
Wikiによると秀次事件に連座して亀山城を没収されたらしいのでそっちの時かも

『秀頼』と焼き印を

2020年09月20日 17:48

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/20(日) 12:03:46.31 ID:u8VnV0o8
慶長十九年十一月二十五日

(大阪冬の陣の最中)城中の下臈の者が、浅野但馬守(長晟)の手に走り入った。
この者を大御所(徳川家康)が御前に召され、参上すると彼に城中の様子を問われた。
かの者は申して曰く

「藤堂和泉守(高虎)、浅野但馬守以下、各々秀頼に音信を致している。」

これに対し家康は「偽を申している。」として、彼の額に『秀頼』と焼き印をして城中に追い返した。

当代記



悪口の罪軽からず

2020年09月19日 17:58

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/18(金) 21:18:26.35 ID:E9wTxwXD
慶長十七年七月十三日、彦坂九郎兵衛の申す所によると、一昨夜、飯田伝吉朝比奈甚太郎松野勘介
(共に中将殿(徳川頼宣)御小姓)が駿府の町中に於いて喧嘩に及んだ。これは甚太郎、勘介が伝吉に対し
悪口を吐き、剰え刀を抜いてかかり向かった事が原因であった。

その時伝吉は堪忍能わず、散々に切り合い、その場において松野勘介とその郎党を殺し、朝比奈甚太郎
二、三箇所の疵によって倒れ臥した。

伝吉はその場から逐電したが、大御所(徳川家康)はこの事件を聞き召されると
「飯田は手柄を顕した。」と御感になり、これを召し返した。
また生き残った朝比奈甚太郎に対しては「悪口の罪軽からず、殺害されるべし」と仰せになった。

駿府記



『岡田竹右衛門覚書』より、中編

2020年09月18日 18:17

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/17(木) 23:50:47.78 ID:dTEGrb0q
岡田竹右衛門覚書』より、中編

・上も下も面倒な三河武士
遠江、見附の原にいろいろと砦をもうけ、掛川へ軍事行動をしたのは本多豊後守(広孝)、鳥居彦右衛門(元忠)、松平左近(注、竹右衛門の主人)などであって、そのとき石川新兵衛という者が功名を挙げて乗り来たり、竹右衛門、星野角右衛門、左右田弥五八の3人に向かい、「竹右衛門、これを見よ」と馬上より首を見せてきた。
竹右衛門はこれを聞き、「私に対してこれを見よという言葉は不似合いである」と返した。
すぐに(竹右衛門は)角右衛門と弥五八に向かい、「おまえらはここで待っていろ。私は功名を挙げてくる」と言い、城下(敵の掛川城)に帰って功名を挙げてきた。
その間に諸軍勢は引き上げたが、その2人は竹右衛門を待っていたところ、竹右衛門は帰ってきて、「おのおの、神妙である。ただいままで待っていてくれたことはかたじけない」。
さて、左近は竹右衛門を呼んだがいなかったので、本多豊後守は「もしかしたら竹右衛門は討ち死にしたのではないか。心許ない。その様子を見届けていないので、今晩浜松において、家康様から今日の経緯を聞かれたとき、申し上げることがない。とにかく竹右衛門を呼び出すべきだ」。
左近は答えていわく、「もし竹右衛門が討ち死にしようとも、気にすることはない。先に帰陣してください」。
それでも豊後守は旗を立て、よくよく待っていたところ、竹右衛門が功名を挙げ、角右衛門、弥五八が配下を引き連れ一緒に帰ってきた。
左近はその様子を見て、「角右衛門、弥五八は5騎、10騎の侍を持っている身なのだから、左近の名前が立つのだ。なぜ、私のところにおらず、竹右衛門のところに残ったのだ」と「しかり」つけた。
これを聞くと竹右衛門は腹を立て、取った首を川へ投げ捨てた。
豊後守は竹右衛門を陰に呼び、「左近殿が角右衛門、弥五八を褒めた(その2人を発言で引き立てた)のは、その方を褒めている内意がある。その件を理解して、決して腹を立てるでない。我慢しなさい」と達し、見附へ召し連れて帰った。
そのとき、浜松より竹右衛門を呼んでこいと命令があり、左近はいろいろと言葉を尽くしたが、腹が立っていたのでまかり出でなかった。
豊後守が竹右衛門の陣所に出向き、いろいろと意見を言ったので、竹右衛門衆は浜松へ赴いた。
家康は諸大名より先に竹右衛門を御前に呼び、この日の詳細を聞いたところ、豊後守が前に出て、竹右衛門の功名の子細を述べた上で、「深入りした」と左近が叱ったので、腹が立ったので討ち取った首をおのおのに見せた上で川に投げ捨てたという経緯を詳細に語った。
家康は聞き届け、「竹右衛門は『いつてつもの(一徹者)』なので、その通りにしたのだろう」と深く感じ入った。
その後、左近に対し、豊後守が言うには「竹右衛門を召し連れないのは家康様のご機嫌が悪くなっただろう。であるから、私がなだめて家康様の前に召し連れていき、首尾良くいった」。

※やはり、三河武士は面倒くさいですね



557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/20(日) 16:10:41.30 ID:2yVsSzV0
覚書のいいところは誇張や勘違い、間違いはあるんだろうけど戦国の気風が感じられるところと、細かい史実が描かれているところ

『岡田竹右衛門(正次)覚書』より、前編

2020年09月17日 18:24

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/16(水) 23:25:16.98 ID:n0r3Rbm9
『岡田竹右衛門(正次)覚書』より、前編
(松平康親(左近、周防守)家臣の語ったことで、その覚えていることを記した記録。まとめにあるものは省いています)

・剛毅で鳴らした竹右衛門の初陣
永禄年中、三河東条の近所、横須賀というところに敵が屋敷を構えていた。竹右衛門が押し入ったところ、障子をあけた場所に木戸をつくり、侍2人が差し向かって弓で防いでいた。
竹右衛門が召し使っていた者1人がそこに走り入り、脇差しを抜いて木戸を押し破り、主従で踏み込み、弓を持った武者1人を竹右衛門が切り伏せ、首を取った。
竹右衛門は17歳、まだ権平次と名乗っていたときで、初陣の働きだった。

・姉川での手柄と秀吉
元亀元年夏、織田信長に越前衆が敵対し、近江において合戦があった。
家康が加勢し、松平左近もお供した。その陣で竹右衛門の弟、五味右衛門が馬上の敵と組み合ったとき、ともに馬から落ちた。
五味は若年だったので(落ちた地面で)下に組み敷かれてしまった。そこに竹右衛門は乗り寄せ、馬より飛び降り、上に乗っていた敵を引き破って下に組みふし、五味に世話をして討たせた。
そのとき竹右衛門は葦毛の馬に乗っていた。
太閤はそのとき藤吉郎秀吉と名乗っていたが、馬上30騎ほどで控えており、竹右衛門の働きを見ていた。
秀吉は使いをやって「あなたはどこの侍ですか」と尋ねてきたので、「家康麾下の松平左近家臣です」と答えた。
その後、帰陣し、秀吉が「上方」(山の上の寺の意か)で、「姉川合戦において葦毛の馬に乗って働いていた武者は名乗り出なさい。必ず召し抱える」と言い出した。
帰陣した家康は、竹右衛門が寺に登るべきかと尋ねると、父の伊賀守がこれを聞き、「譜代の主人を捨て、いかに大身になろうとも本意にあらず」と腹を立て、この申し出を受けなかった。
(上方はそのままの意味かもしれませんが、前後のつながりが不明)

・弟の死と倍返し
遠江浜松での合戦で、竹右衛門の弟、五味が討ち死にした。
その日、竹右衛門は同所におらず、この顛末を無念に思い、「この敵を討たなければ、二度と三河に帰らない」旨を仲間に堅く申し置き、ただ1騎にて久野前に出陣した。
すると、武田信玄方の武者が1騎、物見と思えたが、乗り出してきた。
竹右衛門はすぐに掛かり合い、敵を討ち、「五味のかたきを討った」と喜んで浜松に帰陣した。
「まれな働きである」と左近から褒美をいただいた。

・先にもありますが、やっぱりこの時代は騎馬で戦っていた
駿河へ家康が出陣したとき、先手を左近が命じられた。
安倍川の中程にて竹右衛門は敵に乗り向き、馬上より切り落とした。
その武者は切られて川下へ流されていったところ、服部小十郎という者に「その首を取りなさい」と言った。
小十郎に功名を取らせ、そのまま田中八幡山へ同道し、家康にお目見えした。



「板倉殿は戦死するでしょう」

2020年09月16日 18:37

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/15(火) 21:59:08.82 ID:ELV/ZHul
島原の乱の際、反乱鎮圧のために板倉重昌が出向くことになった。
この時、囲碁棋士の安井算哲
「板倉殿は戦死するでしょう」と予言した。
その後、板倉重昌の戦死の報が届き、人々が予言的中の理由を尋ねたところ算哲は
「このたびの一揆は宗門に関することです。
一向一揆を見ても分かりますように人々は宗門については妥協を許さず命を賭して戦います。
しかし板倉殿は普通の一揆と思って出陣しておりました。
この心懸けでは一揆勢を甘く見るだろうと懸念したのでそう申し上げたのです」
算哲の明察の評判は江戸中に知れ渡ったとのことである。
なお、同じ安井算哲で「初手で天元(碁盤の真ん中)に打てば必勝である!」
と豪語して見事に本因坊道策に負け越した人物(渋川春海)がいるが、それはこの安井算哲の息子である。



539 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/15(火) 22:08:40.14 ID:TIWU7cjA
苛政が要因じゃなく宗教が理由だからと言ってるのね
実際苛政が原因じゃないんだっけ?

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/15(火) 22:22:38.16 ID:ELV/ZHul
いったん転んだけど飢饉や苛政とかでこれは天主の罰だ!とキリシタンに立ち戻った人々が非キリシタンも巻き込んで籠城したようで
幕府軍が「苛政が原因であるなら藩主たちは処分するから降伏してくれ」
と矢文で告げても
「われわれは幕府や藩主に不満を持ったのではない。キリシタンとして後生のために戦うのだ」
と返しているから、きっかけはともかく籠城の首謀者にとっては宗門のためではないかと。

541 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/15(火) 22:33:09.80 ID:TIWU7cjA
>>540
詳細ありがとうございます
きっかけこそ苛政や飢饉の可能性が高いけど、首謀者たちは宗教で覚悟完了した感じなんですね

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/16(水) 01:33:53.50 ID:ROcezHiE
>>540
一気税根絶やしにしたあと、藩主一族をきっちり処分した幕府は律儀かもしれない。

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/16(水) 13:06:20.40 ID:Ej4q/9if
松倉家は二代に渡って島原で苛斂誅求やって反乱起こされたからな
藩主として無能すぎる、幕府としても社会不安を鎮めるためには処罰しかない

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2020年09月16日 17:25

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『老人雑話』より、信長?の意外な発明など 13

彼らは勅封蔵に忍び入り 9

近年にない陰謀の露呈であり 8
『武功雑記』と『備前老人物語』より、城に関する小品2つ 6
『当代記』より、大阪冬の陣の和睦 5

秀頼の御袋は武具を着て 4
慶長十九年の奇特不思議なること共 4
大阪の豊臣秀頼が家康公に謀反のため 3


今週の1位はこちら!『老人雑話』より、信長?の意外な発明などです!
ここでは信長の頃の「弁当箱」の発明(?)が書かれていますが、実際安土桃山時代ころに、漆器の弁当箱が普及しはじめた
らしく、ここではおそらくその事を言っているのでしょうね。このあたり、戦国の世が落ち着き、世の中に余裕が生まれたことも
関わるのでしょう。またここでは、細川忠興の母が今の形にしたとされる木綿足袋ですが、安土桃山記は皮足袋が
一般的で、木綿足袋の普及は江戸期であったようですね。江村専斎が老人雑話を口述するに当たり、過去を振り返って、
そのように述懐したのでしょう。
『老人雑話』が成立した頃の人々の歴史的な意識が、少し垣間見られる内容でもありますね。

2位はこちら!彼らは勅封蔵に忍び入りです!
こちらは正倉院に対する盗難のお話ですね。この記事ではどうも、金で出来た物品を金に戻して京の両替屋で換金していた
ようですね。逆にそうせずにそのまま市場に流してしまうと、この記事がそうであったように忽ち足がついて盗難が露見する、
という事でも有ったのでしょう。そういった部分が、正倉院の宝物の多くが、現代まで受け継がれた理由のひとつなのかも
しれません。ある意味、古物の流通について現代にも通じる話の一つかもしれない、なんて思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!秀頼の御袋は武具を着てです
結構有名な、大阪の陣に於いて、淀殿が武具を着けて城内の見回りをした、というお話ですね。
淀殿が実際に、この大坂の陣の戦いについてどのくらい主体的に関わったのかは判然とせず、この記事のようなことが
事実としてあったのかどうかも何とも言えません。この内容もあくまで伝聞ですからね。
ただこの記事の内容を見て。これを秀頼の「御袋」として頼もしいと感じるか、あるいは「女ながらに出しゃばり」と感じるか、
現代的にはともかく、同時代的にはやはり後者の印象のほうが強いと思います。
つまり淀殿に対する否定的な印象を広める内容であり、こういう話が記録された事自体、当時の彼女に対する世間的な印象、
感情を現しているとも言えるのでしょう。そんな事を感じた内容でも有りました。



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『当代記』より、大阪冬の陣の和睦

2020年09月15日 16:47

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/15(火) 00:24:06.07 ID:NWu9CDs1
慶長十九年十二月十四日、
大阪冬の陣は、これ以前より和睦の扱いが有った。秀頼公よりは、四国の内二ヶ国を給われば、大阪を退城する、
との条件を出し、大御所・将軍(家康・秀忠)からは、安房・上総の両国を進ずるとの案を出した。
しかし関東への下向は全くありえないと秀頼は堅く思われ、この和睦は調わなかった。

大御所は阿茶局(雲光院・家康側室)を召され、陣中に参られた。

同日、女性である阿茶局が、若狭衆(京極忠高)の大阪城に対する仕寄に参り、大坂城中からも、
大蔵卿局、并びに若狭宰相老女(常高院)が出合、対談に及び、専ら和睦について語った。

十九日、また両度、先の女性衆出合、和睦が調った、これによって大御所将軍より、起請文を以て
異変有るべからずの旨を示した。

城中より、織田有楽の息子・武蔵守、大野修理(治長)息子・信濃守が、証人(人質)として出された。
これに対し、後藤庄三郎(銀師、四、五年大御所の近習の如き人物である)、并びに本多上野(正純)の
両使を以て、この証人を請取、すなわち上野の陣所へ同道した。

この和睦については、惣構、并びに三の丸は破却され、秀頼公も母台(淀殿)も、関東下向の事は
沙汰無く、領地も以前のまま、本丸二の丸は前々のごとく破却沙汰は無かった。

城中について、兵糧は沢山あり、その他も特に欠けたものはなかったが、その中で鉄砲薬は欠乏していたという。
その故は、城中では皆大鉄砲を用いたためで、これまでに八百石の弾薬を消費したという。
彼らは三匁筒などはほとんど用いず、十匁、二十匁、三十匁、五十匁、百匁の鉄砲を撃ち、そのため
欠乏に至ったという。

この度の籠城の最中、秀頼はいつも惣構を廻り、少しのことでも精を入れて働く者には、その内容によって
褒美が有った。人々はみな、これを美談としないものは居なかった。

今回、大坂城中の兵たちは、『六本鑓の衆こわき』などと云って悪口した。
これは大工大和(中井正清)、後藤庄三郎(銀師)、永仁(京町人)、同茶屋又四郎らで、彼らは皆
大御所の宿直の者共であった。

大阪三の丸、惣構は破却された。

二十四日、大御所は茶臼山を立たれ上洛され、二十五日に入洛された。

『当代記』

大阪冬の陣の和睦について



『武功雑記』と『備前老人物語』より、城に関する小品2つ

2020年09月14日 16:17

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/14(月) 00:24:40.15 ID:UbLIhjN6
武功雑記』(前者)と『備前老人物語』(後者)より、城に関する小品2つ

・大坂千貫櫓の由来
本願寺顕如が籠城したとき、よく横矢が掛かる櫓があった。寄せ手は難儀したので、「千貫出しても取りたい櫓だ」と取り沙汰されたので、千貫櫓と呼ばれた。

・城の本丸、本当の利用目的
城の本丸は、人質のたぐいを入れ置くためにあるという



秀頼の御袋は武具を着て

2020年09月13日 15:51

淀殿   
340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/13(日) 12:56:53.07 ID:ek8NO7bt
慶長十九年十月二十八日、(大坂冬の陣の勃発後)、大坂城中より脱出してきた者が二条城に召され、
城内の様子を尋ねられた。

彼の者の言上によると、秀頼の御袋(淀殿)は武具を着て、自ら番所改めを行われており、
これに従う女性三、四人も武具を着ているという。
そして大阪籠城の勢は三万あまりという事である。(但し雑兵を含む)
兵糧、薪、塩、味噌などは形のごとく貯められているという。

当代記



大阪の豊臣秀頼が家康公に謀反のため

2020年09月12日 16:33

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/12(土) 12:08:21.19 ID:QHtbi35F
慶長十九年十月二日、雷が頻繁に鳴り響いた。美濃国加納の松平摂津守(奥平忠政)が逝去した。

大阪の豊臣秀頼が家康公に謀反のため、兵糧を貯め、去る八月、近国に金銀を遣わして相調えた。
福島左衛門大夫(正則)は大阪に八万石の兵糧が有ったが(この時江戸に在った)、秀頼より
借用したいと言ってきた。これに対し正則は飛脚にて『兎も角も秀頼御意次第』の旨を返答した。
その他、家康公の蔵米が三万石、諸国大名の米三万石、并びに町方の売買する米が二万石、
これらを大坂城に収納した。町人の米は代銀を以て速やかに決済した。

また秀頼は去る慶長五年(関ヶ原)の敵方の士、所々に隠れ居た所を、今これを招き、数百人扶持した(但し
人質を出さない者は抱えなかったと云々)。

これらに対し大御所自ら、大阪に使者を遣わした。それは大野修理(治長)の弟で、大野壱岐守(治純)であった。

当代記

大阪冬の陣直前の様相について



慶長十九年の奇特不思議なること共

2020年09月11日 17:37

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/11(金) 12:45:22.57 ID:vIsYKwWt
慶長十九年九月
この頃、伊勢太神宮では暮に及ぶと神託があり『むくり(蒙古)と合戦に及ぶことで、神風が烈しく吹く』と、
男女を厭わず、ほぼ毎日神託があった。
伊勢神宮のある山田町中で、火を立てこの旨を申していた所、半時ほど後、海上が燃え上がったように成り、
激しく鳴動し、その後、海面は静まり、神が還宮したかと覚えれば、また前のように神託があったという。

彼の国中では現在躍りが止まず、古老の者たちは「かかる奇特、不審なる儀は前代未聞である」と
云っているという。もはやこの頃では、京、大和、近江、美濃でも躍りをいたすという。
この他にも奇特不思議なることが幾らもあると云々。

当代記



337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/11(金) 20:13:59.38 ID:8ZCL0oK7
>>331
昔から踊ってたのか

『老人雑話』より、信長?の意外な発明など

2020年09月10日 18:11

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/09(水) 22:11:14.28 ID:uTWXNuJz
老人雑話』より、信長?の意外な発明など

・お弁当箱
織田信長の(初期の)時代には弁当というものはなかった。安土城ができて、弁当というものができた。小芋くらいの大きさの中にいろいろなものを詰めていたそうだ。
信じない者がいそうだが、また挟み箱というものもなかった。挟み竹というものを使っていた。
挟み箱は大坂の(織田一族)津田信成が初めて作ったそうだ。

・江村老人が見た信長、細川忠興、そして思い出
織田信長は二条御新造を築き、将軍の足利義昭を従えて慶賀の能があった。「老人」(江村専斎)も4歳くらいで、乳母に抱かれて見物した。
その日、信長は自ら小鼓を打っていた。細川忠興は私よりも年が上で、6歳くらいで猩々を1番舞っていた。
そのとき、帰りに門外にて盗人に(乳母が担いでいた?それとも持ち物の?)後ろのひもを切られたことを覚えていると語った。
その頃、盗人は小柄・笄などを抜き取ることがあった。このために盗人を「ぬき」といった。いまの「すり」と同じことだ。

・三斎さまの母もファッション発明家
木綿足袋がいまのような製法になるのは、細川忠興の母(沼田麝香)が初めて作り、忠興の茶会に出るときに足が冷えるので履いたそうだ。

・自分の昔を思い出した?太閤秀吉
あるとき、太閤秀吉は宇喜多秀家の屋敷で能見物を楽しんだ。
庭に降りるとき、家康が先に降りて(秀吉の)草履をそろえた。
秀吉は家康の肩に手を置いて、「徳川殿に草履を直させるとはねえ」と言ったという。



527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/09(水) 23:24:45.40 ID:UVHCOss5
>>526
こういう話好きだわ

528 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/10(木) 15:27:01.51 ID:k5JSoFGR
一番下の、家康が嫌味なやつになってない?

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 15:57:50.37 ID:Ffsvj1im
妖説太閤記で
家康が秀吉の草履を揃えて秀吉が
「わしもとうとう家康に草履を揃えさせるまでになったか」
と大喜びするシーンがあったけど

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 21:21:32.16 ID:c8+1bs8C
しかしまさか脱ぎっぱなしで放ってあった訳でもあるまいに礼儀的に草履に手を添えてみたぐらいかな

近年にない陰謀の露呈であり

2020年09月10日 18:08

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 12:52:42.94 ID:6re4dyIE
慶長十九年四月
この近年、大御所近習の女房衆が駿河に於いて金銀を貸し付ける商売をしており、この使いは
神子(巫女)であったが、甲斐甲斐しく才覚して、本利を相調え毎回献上していた。

去る頃、池田備後(荒木久左衛門子)も借用していたが、この借銀を神子に催促されたため、
備後の用人(若衆立て)が、中に銀が入っている由を含んで皮袋を渡した。
これはそれまでも度々の事であったので、符を見切るまでもなく請取、両替町に出て商人に渡す時
これを見ると、その中には石が多く詰められていたのである。

神子は大いに驚き、皮袋を持ち帰って先の備後の小姓(用人)に申した所、彼は
「全くそのようなことは知らない。」と申し、神子のやったことだとした。
この時神子は「汝は私を媒として、備後の妻を犯したではないか!」と申した。
近年にない陰謀の露呈であり、すぐにかの者を押し籠めた。

この事は大御所にも聞こえ給わったが、かようの儀は町奉行である彦坂久兵衛に相図るべしと言われた。

池田備後の借りた金銀は過分であり、返済は難しく、その上外聞も失った以上、彼の身上は
如何成るかと噂された。この借銀は千貫目にまで膨れ上がっていたという。
また備後に限らず歴々の衆も借用しており、今速やかに返済するのは難しいと云々。

当代記



329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 14:29:47.35 ID:vSQ/4NGC
長すぎる。二行でまとめてくれ

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 15:19:57.00 ID:xTSgtrAh
借金を部下に返させたら銀の換わりに石詰め込まれてて抗議され、部下がしらばっくれたら借金取りに妻NTR(部下が上司の)バラされ笑い者、家康もあきれ顔

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/11(金) 23:59:40.62 ID:gy3Glw8l
>>328
荒木久左衛門(池田知正 1555-1608)の子じゃなくて、弟の光重だな
この件が原因で改易されて、大坂の陣で復帰を目指すも果たせず病死

彼らは勅封蔵に忍び入り

2020年09月09日 17:06

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/09(水) 12:31:49.22 ID:J0jCWxq1
慶長十七年九月
この頃、南都東大寺の衆徒三人が搦め捕られ、この他一人同宿の者、以上四人が搦め捕られた。
何故かといえば、六、七年前、彼らは勅封蔵(正倉院)に忍び入り、敷板を切り抜き、宝物の内
金作の鶏、同じく盂を捜し取って、折々京都へ持って上がり、金として両替し私用に使った。

今年、かの盂をそのままにて両替することを両替商に相談した所、その亭主はこの盂を見ると、
「これは尋常の物ではない、殊に昔の年号が有り、きっとこれは勅物、もしくは御物では無いだろうか」
と不審に思い、この旨をかの僧に申した。

僧は難儀に及び、往々この事が亭主の口より漏れてしまうと思い、別宿にて亭主に振る舞いをし、
そこで鴆毒を摂取させ、亭主はたちまち死に果てた。

この亭主の妻女は、すぐに板倉伊賀守(勝重)の所へ行この旨を言上した。伊賀守は奈良代官に届けたため、
かの僧三人、并びに同宿一人が搦め捕られ京都に上らされた。
伊賀守は彼らに対し事の内容を直接に尋問したところ、ありのままに白状した。

そして彼らの身柄は南都へ下し置かれ、またこの事件については東国(駿府、江戸)に報告された。
捕縛された者たちは、来年二月、薪の能見物に集まる貴賤にその姿を晒した上で成敗される、などと
風聞されている。また猿澤の池傍に牢が構えられ、彼らはそこに入れられ、これを貴賤が見物している
という。

当代記



週刊ブログ拍手ランキング【09/03~/09】

2020年09月09日 16:24

09/03~/09のブログ拍手ランキングです!


対倭寇戦術としての日本刀対策 10

『老人雑話』から2話 9

『老人雑話』より、秀吉秘話を選録 8
見聞談叢より 太閤時代の茶の湯 8
ヲランダ国よりの進上 7

徒者取締の事 5
この女子の口より小蛇出て 5
慶長十七年の透明人間 5

『当代記』より、越前騒動 4
見聞談叢より松平忠直の茶童 4
見聞談叢より 島原の乱について 4


今週の1位はこちら!対倭寇戦術としての日本刀対策です!
恥ずかしながら僕のツィートを受けていただいての記事でした。僕自身は明の倭寇対策に関する装備など全く
詳しくなく、本当に聞きかじりでしか無いので、大変勉強になりました。
日本人の装備であった日本刀に、対処の必要を迫られるほど、相当の驚異を感じた事が伺えます。
また日本刀による刀術の研究なども行われていたようですね。後の朝鮮役での鉄砲に関してもそうですが、
戦国期日本の、実戦の中で培われた戦闘術というものが、相当に効果的であったことを感じさせます。
或いは東アジアレベルで、戦術についての様々な交流について考えることも出来るかも知れません。
個人的にも、非常に興味深い記事でした。

2位はこちら!『老人雑話』から2話 です!
市橋下総守の陰嚢のお話は有名ですね。彼にはこの手の逸話が幾つかあるのですが、良く言えば気取りがない、悪く言えば
野蛮極まる当時の織田家の印象というものを現しているのでしょう。また相手が若狭武田家というのも注目点かも
しれません。若狭家といえば将軍に非常に近しい家柄で、家格としても高く、である以上礼節においても高い水準に
あったことでしょう。そういう家の使いに対し、こういった粗野な面を見せつけるというのは、一種のコンプレックスの裏返し
でもあるのでしょうが、それはそれで「名家なにするものぞ」という織田家の気概を現してもいて、確かに痛快です。
もう一つの、秀吉が家康と真田昌幸、石川数正を対面させようとする話も、掘り込んで深読みしていくと味わい深いな、
なんてことを思った逸話でした。

今週管理人の気になった逸話はこちら!見聞談叢より 太閤時代の茶の湯です!
いつ何時でも茶の湯が出来るよう準備していた針屋宗春。現代的な感覚でも非常に酔狂な人物という印象を持ってしまいますが、
こういうあり方も含めて、当時の「茶の湯」の精神でも有ったのでしょうね。
湯の準備と言っても、そこは寝ずの番などを置いて管理させていたのでしょうが、そういうコストまでかけて、ある意味
コンビニエンスな茶の湯の者という名を得ることに、価値が見いだされていたのでしょう。
実際秀吉がふらりと立ち寄る程なのですから、それは成功していますねw
そしてこの段階で「石川五右衛門」の名が出ていることも面白いですね。基本的には、モデルに成った人物は
居たようですが、それが石川五右衛門という名であったかどうかも含めて何とも言えず、しかし非常に早い段階から
伝説化したようで、なぜそうなったか、と言う面も含めて、非常に興味深いのですが、この記事もまた、そんな思いを
深めてくれる内容だと感じました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

『当代記』より、越前騒動

2020年09月08日 18:06

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/08(火) 01:11:02.18 ID:wsCVZqJm
越前国の故三河守(結城)秀康が、去る慶長十二年に逝去した砌、家中の年寄七人が金子を隠取したと云われた。

そしてこの事、去年幕府より公事が申し付けられた折、この七人の内の岡部伊予と云う者、江戸へ下って
この事を言上する旨を相催し、美濃国大垣まで下ったところで、「これほどの事が上聞に達するのは如何か」と
当三河守(松平忠直)并びに家中の年寄達が人を遣わし、大垣にて追いつき、かの伊予を呼び帰した。

然れども当年(慶長十七年)、この公事が無事に落着すると、かの伊予は江戸に下り、また牧主殿(牧野主殿助)
と云う者も、あの七人の一人であったが、岡部と同道して江戸に下ると申していたが、どうしたわけか
高野山に直に登ったという。

十月十九日、かの七人の内の久世但馬という者が、屋敷を攻められ生害した。彼の息子は加賀国に有ったが、
この時駆けつけて、但馬と共に死んだ。また但馬の聟も駆けつけて同じく死し、その他、但馬の屋敷に於いて、
侍分百五十人が死んだ。中間小者は、悉く十八日の晩に逃げ出したという。
この時、久世但馬の屋敷を攻めたのは本多伊豆守(富正)であった。これも先の七人の一人であった。

これについて松平忠直は、先ず当座は宥し、忠直より人質を遣わし、本多伊豆の居城である府中に
かの人質を置き、伊豆は北の庄に参り登城した。
伊豆の人数の内、能き者共がこの時二十八人討ち死にした。手負いは四十人余りであったという。
その他寄手は、多賀屋(多賀谷泰経)の者共を始め、総じて二百ばかり討ち死にしたという。

同二十日、弓木左衛門(七人の一人である)が生害した。この屋敷に於いても寄手は三十人ばかり死んだ。
この弓木は、故秀康の時、知行方専一の用人であった。

同日、上田隼人(これも七人の一人)は寄手に理を云い送り、その身ばかり腹を切り、被官たちは屋敷から出した。
そのため寄手は心安く屋敷の中に入ったが、そこには隼人家臣の侍五、六人が留まり居て、寄手と戦い、
これによって寄手も討ち死にした。

今村掃部、□□(不明)兵庫、右の理を言上すべく、二十五、六日ころに北の庄を立ち東国へと下った。

当代記

当代記より、越前騒動(久世騒動)についての記事