「中世宇都宮氏 頼朝・尊氏・秀吉を支えた名族」 行ってきた

2017年09月26日 17:43

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/26(火) 15:28:33.97 ID:l7q/KHP7
>>238行ってきた
ここやまとめサイトで突っ込まれてる「秀吉を支えた」についてはこんな描かれ方
「天正十八年(一五九〇)、小田原城の北条氏を滅ぼした秀吉は、つづいて宇都宮城に滞在して天下統一の総仕上げに着手した(宇都宮仕置)。
(中略)
二二代国綱は秀吉から領地支配を認められ、その後も秀吉への奉公に励んだ。
国綱は、太閤検地を領内で実施して経済基盤を固め、朝鮮出兵(文禄の役)などの過度な軍役をつとめた。
秀吉からは豊臣姓・羽柴名字を許され、朝廷の官職である侍従にも任じられるなど、国綱は秀吉の一門格として処遇された。
慶長二年(一五九七)、国綱は突如、領地を没収された。秀吉の不興をかったことが原因とされるが、真相は不明である。
国綱旧領の事後処理は、秀吉の奉行浅野長政と真田昌幸に命じられ、両人は宇都宮でその対応にあたった。
宇都宮氏の再興を期す国綱は、旧臣たちとともにふたたび朝鮮半島に渡ったものの(慶長の役)、秀吉の死去によってその望みは断たれた。
再興の願いがかなわぬまま国綱は、慶長十二年(一六〇七)に江戸で死去した。」

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/26(火) 15:51:47.42 ID:l7q/KHP7
また展示されてた上杉家文書に収められている景勝宛の宇都宮国綱書状に
「景虎を破って家督を確固たるものとしたこと喜ばしいです
佐竹たちと一味中を結成して対北条同盟をつくってるので安心してください
特に秀吉との関係強化をはかることをお考えください」
とあったから「秀吉を支えた」でも不自然ではない気が

ほかにも
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=5134
で第20代当主宇都宮尚綱が使っていた軍旗の展示もあったが、その説明文が
「本軍旗は、宇都宮俊綱(のちに尚綱)が天文十八年(一五四九)に喜連川早乙女坂(さくら市)の合戦で実際に使用したものである。
俊綱は那須氏との合戦で討死をとげ、この軍旗は敗走する宇都宮勢から那須氏が奪い取ったものになる。
以後、那須家では「宇都宮俊綱旗」として伝来された。」
だったせいで適当に読んでたら
「ああこの戦いの時にはまだ俊綱で、後から尚綱に改名したのか
…てこの戦いで死んでる!」と突っ込んでしまった。
軍旗の名称が俊綱旗だからそっちをメインにしたのだろうか

ついでに、この早乙女(五月女)坂、現在では尚綱を射殺した鮎瀬弥五郎実光にちなんで「弥五郎坂」という名前になっている。
尚綱坂や俊綱坂と呼ばれないのが少し不憫



252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/26(火) 16:26:55.27 ID:ItlnoGBr
うむ、レポ乙
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本成りの瓜

2017年09月25日 18:14

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 14:19:47.02 ID:43DBT54k
毛利元就の頃、芸州に花信(果心)居士と号する幻術の上手が来たりて、様々な術をなした。
元就はこれを見物するため、舞台においてその術を為さしめた。

居士は術を行い、にわかに瓜を作るというものを成した。
少しの間に、種を撒き、発芽し、蔓がはい、実が成って見事な瓜となった。
「さらばこれを初めて味合うべし。本成りの瓜が味が良いので、本成りを切りました」
そう言って差し出した。

元就はこの言葉に、自分の諱「元就」と同じ音の「本成り」という、禁忌の言があることに気がついていたが、
ついにここより病に伏せ、逝去したのだと、そう語る人がいる。

(士談)

果心居士のこの話、松永久秀だけじゃなく毛利元就バージョンもあったとは



150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 19:11:35.14 ID:PyXdbaOX
>>148
珍しすぎるパターンだ

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 19:31:39.07 ID:y/csvWWQ
ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000154/files/1648_13207.html
聊斎志異の「種梨」では梨で似たような話が

今朝とあけて 麓は柳桜哉

2017年09月24日 16:36

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/24(日) 14:39:42.65 ID:4xTwE4Xq
織田信長が岐阜に在城していた時、城内に桜の馬場を取り立て、その祝いとして連歌師の里村紹巴
発句をするよう命じた。そこで紹巴は

『今朝とあけて 麓は柳桜哉』

そう連歌したところ、これを聞いた信長は

「城に”あくる”と言う事は禁忌である!時と場合によってはこの城を調伏する言葉であり、
遠島に配すべし!」

と、命じたという。

(士談)



145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/24(日) 15:34:24.41 ID:WJQIg07t
信長が言うととんちとか禅問答をしているようにもとれる

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/24(日) 19:37:19.83 ID:Tjttvdh3
里村紹巴っていろいろ不運な目に会いつつもギリギリ許されることが多くて運が良いのか悪いのかよくわからん奴だな

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 04:01:35.13 ID:OzTAV6SS
生き残ってる以上死ぬ話を作るにはいかんからな

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 08:02:54.28 ID:cqcIMXVs
>>147
天庵様は生き残ってるけど、軍記物では死んでるよ

この一言を聞いて、

2017年09月23日 11:12

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/23(土) 08:41:10.41 ID:Ju6D0dwn
大友と島津が高城にて戦い、大友が敗北し、ことごとく追い打ちに討たれる中、豊後衆の妻子たちは
父兄の討ち死に、子夫の死亡を心配し、皆外に出てその安否の情報を待った。

そのような中、大友義統によって出頭した侍が生き残り、逃げ帰ってきた。
これを義統は大いに喜び、

「誰々が討ち死にしようとももはや聊かも苦しからず!汝が存命であれば千万人にも超える!」
と発言した。

この一言を聞いて、家中ことごとく心のなかで大友を見限り、やがて滅亡に至ったのだという。

(士談)



139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/23(土) 10:48:05.50 ID:hZL0SQ22
頼朝みたいに個室に呼び出して
「お前だけが頼りだ。(良く頑張った)」って生き残った奴らに声掛けすれば
忠誠↑↑だったのに(´・ω・`)

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/23(土) 17:46:05.08 ID:r5rCVYyc
>>138
言われた方も困るだろこんなんw

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/23(土) 18:07:45.99 ID:u32JutHQ
>>139
義統が個別に呼び出すと違う逸話になりそうだし

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/23(土) 19:29:26.48 ID:2fDPs94c
義統の寵臣か
誰やろね

家康は利根か

2017年09月22日 19:09

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/22(金) 15:43:53.29 ID:SmL/qRqe
ある時、穴山梅雪が馬場美濃(信春)の向かって聞いた

徳川家康というのは、人に優れて利根な人物か?」

これに馬場美濃
「なんという不案内なお尋ねか。

謡、舞、或いは物を読んでその理解が早いことを利根といい、
その所作がらが良いのを器用とも利発とも言います。

座配や時宜についての仕様が良く、大身とも小身とも、付き合って一つも軽薄な所がないのを
利発者、あるいは公界者と言います。

芸の理解が良くなく、座配なども良くないが、武義について勝れた者、放し打ちの一度も二度も
致したような者を利口者、
槍脇を勤め首尾の良きこと2,3度有れば甲斐甲斐しき者と言います。
そしてそのような働きが重なれば兵者(つわもの)とも、覚えの者とも言い、
その覚えが重なると、大剛の者、
その人物に、さらに分別工夫が有ればそれを名人と言います。

徳川家康は三河一国から遠江まで手をかけ、日本の弓矢取りの中でも若手の代表格と言えるでしょう。
そういった人物に対し、利根かどうかと尋ねるのは、いかがなものでしょうか?」

この話の内容から考えるに、利根、利発、利口、覚えの者、大剛の者などという区別であるが、
馬場の言っている理屈も正しいとは言い難い。これはその当時の、世俗における理屈を伝えている
だけなのだろう。

ただし、何事でもその道々に定まった言葉というものがあり、その弁えなく使ってしまっては、
その言葉の持つ意味が消えてしまう。
そういった意味で、例えば同じ学問僧を指す言葉であるが、教家においては所化と呼び、
洞下においては江湖と呼び、開山派では衆寮と呼ぶように、その品によってその言が変わるのだと
心に付けて、言葉に気をつけてその説を詳しく説明すれば、みだりな言葉の出ることは無い。

そういった中、「武辺者」という言葉を定まったものとして使う向きがあるが、この意味合いも
東西都鄙によって別であり、家によっても変化する。その文字の字義、理えお正し、言葉をみだりに
致さないこと、これも君子の戒めの一つである。

(士談)

言葉を使う時はその意味や定義をきちんと押さえておかないといかんよ、というお話



248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/22(金) 16:45:29.09 ID:j6deZQvo
いちいち呼び変えるのって大ふへんだなぁ

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/22(金) 17:38:47.63 ID:OQHDg4wR
なるほど、儒者の書きそうな書物だ

池田の力、池水の流れ

2017年09月21日 18:47

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:13:46.10 ID:OnRT8wAe
池田の力、池水の流れ


天正8(1580)年、謀反していた荒木村重が花熊城に移ったため
池田恒興は信長に追撃を命じられ、息子の元助、輝政と共に花熊城を攻めた。
大将自ら槍を振るうような混戦で、恒興は槍で五、六人討ち取り
輝政は三須五郎大夫という勇士と組討勝負になり、なんとか首を切ったという。
この時の功により、恒興は荒木の旧領の摂津と以下の感状が与えられた。


武士高名越度之事

摂州大坂本願寺蜂起の時、佐久間右衛門佐(信盛)が対陣していた数年間は
敵が城中から出てきて戦ってはいたが、未だ敵一人討ち取ることはなく
原田備中守(塙直政)が兵を率いてこれを救い、敵と大いに戦い多く討ち取ったが
敵は依然として繰り出してきて、前後に攻め来るので討ち死にしてしまった。
右衛門佐は敵の仲間になったのか、あるいは信長に恨みがあるのかと思い
このことで、佐久間を追放した。

池田紀伊守(恒興)父子三人は摂州並びに四国、西国の間において
合戦の時少しもその陣を離れることはなく、敵が攻め来れば防戦し
未だかつて加勢の兵を乞うこともなく、高名は甚だ高しと安土には注進あり。

その次男古新(輝政)は年わずかに十六才で、敵陣に入り大いに武功を振るう。
真にこれは池田紀伊守の血筋で、信長の眼力に叶い、その手柄は比類ない。
この度花熊の城を攻め取ることは池田の力である。
信長は佐久間の事で面目を失ったが、池田父子の働きで"会稽の恥を雪ぐ"
その名誉は山よりも高い。

池田勝九郎(元助)は若年より敵に遭っては一歩も引かず
度々の高名は真に池水の流れを汲むものである。
信長の嫡子信忠、次男信孝、三男信雄(次男信雄、三男信孝の間違いか)にも
この池水の心底を言い含める。

それ虎は一毛を惜しみてその身を失う。
弓取りは名を惜しみ家を惜しみて、その命を軽んず。
身は一代なり、名は末代なり。
よろしく池田をもって明鏡とすべし。

その功に報いるため摂州一国の内諸所多くを、今後その所望に任せて
池田父子三人に宛て行う。これらの趣を感状とする。

天正八年八月十八日              信長判
池田紀伊守殿


――『寛永諸家系図伝』



243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:19:26.80 ID:um2u10wi
池田輝政まだ若いのにすごいな
信長も、将来にわたって自分の子や孫に忠実に仕えてくれると思っただろうな

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:22:46.98 ID:h/uZFlBu
待って
どっからが書状なの?

245 名前:242[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:45:49.91 ID:OnRT8wAe
>>244
>武士高名越度之事
から全て書状です。(諸系図伝からの引用なので書状そのものではないですが)

本多安房守は色々御話を申し上げた

2017年09月21日 18:46

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/21(木) 03:22:10.82 ID:bTnaNMaE
一、本多安房守(政重)は大献院様(徳川家光)の御代に、毎度御前で色々
と御話を申し上げた。これがあまりに御話申し上げ過ぎているとして、

酒井讃岐守殿(忠勝)などは御笑止(気の毒に思うこと)に思いなさったとの
由、岡田豊前殿(善政)が相公様(前田綱紀)に申し上げられた。

一方で申し過ぎることは、微妙院様(前田利常)や陽広院様(前田光高)の
御為によろしきことも多くあったとの由である。

これは右の記事と同じ時(享保5年8月12日夜)に仰せになった。


一、本多大夢が安房守と申した時、大献院様の御代に参府し、何れの時か
御目見えした折、大献院様の仰せがあると、何やら色々申し上げたという。

その後に岡田豊前殿が申されたことには、松平伊豆守殿(信綱)が御申しに
なったそうで、安房守は何やら御前で申し過ぎたとの由を御申しになられた
との旨の噂があったとのことである。

これは前述の豊前殿の物語りを聞こし召されたとの由を、右の記事と同じ時
(享保8壬卯年5月25日)に仰せになった。

――『松雲公御夜話』



此の度の戦いにうたれし三河武者、末が末までも

2017年09月20日 18:56

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 13:56:29.58 ID:OF8oWH05
幕末、坂下門外の変で老中の安藤信正が襲撃された際、
背中に刀傷を受け武士として恥ずかしい行為と罷免されたけど、

部下を身代わりにしたうえ、ウンコ漏らして逃走した権現様の前で
それ言えんのかと思う

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 15:01:59.92 ID:ITKlOKd1
馬場美濃が「首が我々武田に向かっていた死体はすべてうつ伏せ
浜松に向かっていた死体はすべて仰向けでした」
と家康の家臣が家康を逃がすために懸命に戦ったことを
讃えた逸話が有名なのにそんなツッコミ入れても

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 16:31:59.01 ID:2vMxxcGJ
そもそも脱糞は捏造だし

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 17:16:14.53 ID:EHDp9M22
>>120
ただのマウンティングだから
気の弱そうな奴とか自分が気に食わない奴にしか言わない

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 18:25:47.93 ID:+sb4bRcX
江戸末期と戦国時代じゃ価値観が違いすぎる

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 18:41:21.22 ID:VB9ybVN6
背中の傷は恥って背後から襲われたらアウトじゃんww

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 18:51:23.18 ID:ln2oHHsQ
>>125
そう
前後から挟み撃ちにされてるってことだから生き延びてるわけがない、てこと

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 19:01:10.23 ID:jyl/7Fs3
理屈じゃないんだよなぁそういうのって

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 19:42:32.81 ID:im4tbZsM
つうか、安藤の話は政敵を追い落とすためのこじつけだし。
安藤は不意打ちで怪我したけど、襲ってきた敵を殲滅して、怪我の痛みに耐えて公務を行った。
これで士道不覚悟とか、ありえないだろ。

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 19:47:07.84 ID:j0qCClEO
戊辰の頃になるとそういう実戦とは無関係の机上の観念論は力を失ったけど、
それまでは妄想しまくった童貞のようにわけわからんこと言っていたからなぁ…

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 01:03:22.99 ID:um2u10wi
>>121
の話がまとめサイト見たらまだ出てなかったようなので「徳川実紀」元亀三年の箇所より抜粋
(家康の伝記の多くに取り上げられてるから有名だけど)
十二月二十二日三方が原の戦い御味方利を失い、御家の軍勢名のある者どもあまた討たれぬ。
入道(信玄)勝ちにのり諸手をはげましておそい奉れば、夏目次郎左衛門吉信が討死するそのひまに
かろうじて浜松に帰りいらせたまう。
(夏目が永禄時代に一向宗門徒に与していたが救われたため)この日御恩に報いんとて○○(家康への欠字)
君敵中に引き返したまうを見て、手に持ちたる槍の柄をもて御馬の尻を叩き立て、御馬を浜松の方へおしむけ、
その身は敵中に向かい討ち死にせしとぞ。
その時敵ははや城近く押し寄せ立てれば早く門を閉めて防がんと上下ひしめきしに
○○君きこしめし必ず城門を閉めることあるべからず。後より追々帰る兵ども城に入るたよりを失うべし。
また敵大軍なりとも我籠もる所の城へおしいる事かなうべからずとて、門の内外に大篝火を設けしめ、
その後奥へわたらせたまい御湯漬けを三椀までめしあがられ、やがて御枕をめして御寝ありしが
御高鼾の声、殿外まで聞こえしとぞ。近く侍う男も女も感驚しぬ。
敵も城の体いぶかしくやおもいけん。猶予するところに鳥居、植村、天野、渡辺等の御家人突いていで追い払う。
その夜大久保七郎右衛門忠世等は間道より敵の陣所へしのびより穴山梅雪が陣に鉄砲撃ちかけしかば、
その手の人馬が機?に陥り踏み殺さるるものすくなからず。
入道(信玄)もこの体を見て大いに驚き、勝ちてもおそるるべきは浜松の敵なりと驚嘆せしとぞ。
また武田が家の侍大将馬場美濃守信房というもの入道に向かいて
「あわれ日の本に越後の上杉入道と○○徳川殿ほどの弓取りいまだ侍らじ。
此の度の戦いにうたれし三河武者、末が末までも戦わざるは一人もなかるべし。
その屍こなたにむかいたるはうつぶし、浜松の方にふしたるはのけざまなり。
一年駿河を襲いたまいし時、遠江の国をまったく○○徳川殿にまいらせ、御ちなみをむすばれて先手をたのみ
たまいなば、このごろは中国九国までも手に立つひとなく、やがて六十余州も大方事行きて候わんものを」
といいけるとぞ。勝戦してだにかくおもいし程なれば、入道つづきて城を囲まんとせざりしもことわりなるべし。


週間ブログ拍手ランキング【09/14~/20】

2017年09月20日 18:54

09/14~/20のブログ拍手ランキングです!


【ニュース】明智光秀が土橋重治に宛てた書状 17

最後の後南朝 14

【情報】 「中世宇都宮氏 頼朝・尊氏・秀吉を支えた名族」 開催中 12
蒲生氏郷の勤務管理 9
不覚悟の品々 9

【雑談】信長が生きていたら次に追放されるのは 8
禄が重くなれば安堵致して、 8
人はただ、学ぶべきである 8

輝政公関ヶ原行軍順見の事 7
監物殿は柳の枝を土手に差し 7
荒木素白は書の名 6
左門殿は殊の外おどけた人で 6
その者を前に抱えて立ち退き 5



今週の1位はこちら!【ニュース】明智光秀が土橋重治に宛てた書状です!
まあこれについては、そもそも存在は知られていて、その「実物」が見つかったという話で、厳密な意味では「新発見」ではない、
というのも含めて、わりと世間の注目度から温度差がありますw
あとやっぱり、この史料は明智光秀が室町幕府再興のために本能寺の変を起こした、というよりもむしろ、光秀が本能寺の変を
起こしたことに、足利義昭や室町幕府の存在は何も関係がなかった、という事を補強する史料だと思うのですよ。
義昭とのつながりと言うにはあまりにも迂遠すぎますw
本能寺に関して、光秀と義昭の、直接の通信が発見されない限り、いわゆる「本能寺の謎」(これも言うほど謎なんてあるのかと
思いますがw)における、足利義昭関与説は、非常に信憑性が低いと言わざるをえないかなあ、と考えます。

2位はこちら!最後の後南朝です!
これは非常に興味深い、ロマンあふれるお話ですね。
室町幕府という政権の厄介さは、そもそも「南朝」を打倒して生まれたと言うのに、政権内の反主流派にとって「南朝」、
および南朝に連なる勢力が、主流派打倒の「奥の手」として使われ続けた事ですね。なにぜ初代将軍たる足利尊氏からして
そうなのですから、半ば政権の体質と言ってもいいくらいです。南朝勢力は逆説的ですが、北朝政権の軸である室町幕府によって
生かされた、と言っていいと思います。だから戦国時代に入って室町幕府の力が衰えると、軌を一にして「南朝勢力」も
その存在感をなくしていくのですね。
そんな南朝勢力の最末期の姿が、室町幕府の高級官僚出身で、かつ子孫が「北条」を名乗る、伊勢宗瑞の記録の中に
出てくるというのは、様々なドラマを感じさせてくれるお話だな、なんて思いました。これぞ歴史ロマン、ですね。

今週管理人が気になったお話はこちら!蒲生氏郷の勤務管理です!
蒲生氏郷というと、とにかく配下の士卒の働きに厳しかった人、という印象がありますが、ここまで事細かに勤務管理していた
とは、氏郷に仕えていた人は大変だっただろうなと、変な苦笑いしちゃいますねw勤務状況を見るため間者まで使っていたとは。
ただ氏郷の蒲生家は急成長した家であり、彼の主君である信長や秀吉の期待に答えるために、成長した分限以上の働きを
見せねばならなかったでしょうから、このくらい強烈な統制を行う事が必要であったのかな、などとも想像します。

急成長した家は、その家中統制のありかたに、それぞれの戦国武将、大名の個性が出てきますね。
その中でも氏郷は相当個性的だったと、後の世にも印象が残っていた、ということの解る逸話だなと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね。
ヾ( ´ ▽ ` )ノ

【情報】 「中世宇都宮氏 頼朝・尊氏・秀吉を支えた名族」 開催中

2017年09月19日 18:53

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/19(火) 18:21:30.94 ID:5pudpMB+
栃木県立博物館にて、
「中世宇都宮氏 頼朝・尊氏・秀吉を支えた名族」
が開催中です
期間は9月16日~10月29日

展示品によっては10月9日まで・10月10日からなど、期間限定のものもあるようです

ttp://www.muse.pref.tochigi.lg.jp/exhibition/kikaku/170916utsunomiyashi/index.html

お近くの方、興味の有る方はぜひ

行った方のレポ
「中世宇都宮氏 頼朝・尊氏・秀吉を支えた名族」 行ってきた


239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/19(火) 21:53:04.03 ID:dH0BVuCT
栃木県の戦国関連
日光:東照宮
足利:足利学校
小山:小山評定
佐野:犬伏の別れ
は戦国好きならみんな知ってるし

那須、大田原
はあの三兄弟のおかげで此処の住人にはおなじみなのに

宇都宮や広綱
はいまいち目立ってないような

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/19(火) 22:02:00.80 ID:0FIENwtC
ごめんね4行目までしか分からないんだ

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 17:04:29.57 ID:7v4OVPV9
まあ名族は確かだな。

その者を前に抱えて立ち退き

2017年09月19日 14:38

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/19(火) 05:07:13.57 ID:bkfnltZI
中黒道随は毎度御前へ召され、古戦の物語をも聞こし召された。
ある時に道随は申し上げて、

「大坂において傍輩の中に手負いの者がいて引き退く時、その者
を背負って退くと、手負いの者を盾に致しているように見え申すか
と存じましたので、その者を前に抱えて立ち退きました」

との旨を申し上げた。道随の嫡子・太左衛門は黒田家に罷り在り
物頭であったが、道随は相願って暇を乞い、

御家(前田家)へ罷り越した。すなわち、その太左衛門へ家督を
仰せ付けられた。その子は六左衛門、二男は八右衛門と申した。

太左衛門の代までは2千石であったが、太左衛門が相果てると
六左衛門に千5百石、八右衛門に5百石が下されたとの旨、

同年(享保5年)4月27日の夜に仰せになった。

――『松雲公御夜話』



蒲生氏郷の勤務管理

2017年09月19日 14:37

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/19(火) 00:17:03.10 ID:IG/5qCrB
蒲生氏郷は伊勢松島の頃、1日に3度ずつ着到(出勤帳)を付けさせ、人々の勤務状況を確認し
働きを励ましたという。また勤務状況を調べるため、山伏の姿に変装させた間者も使っていた。

これを考えるに、勤務において人を励ましたるまないようにするためには、このように詳しく
調べなければ通用しないものなのだ。自分の身を省みても、聊か油断あればやがて放埒に至る。
他の人もまたそのような物だろうから、度々に気をつけ、勤務状況を究明することが必要なのだ。

(士談)

蒲生氏郷の勤務管理エグいな



134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/19(火) 00:19:47.20 ID:dH0BVuCT
だって工場長だし

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/19(火) 00:32:57.94 ID:FfJk9yvS
当時「働く」ったら武力行使のことだよな?

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/19(火) 00:42:33.79 ID:Yut3aWsC
「着到」も連れて来た軍勢の内容確認だわな。

最後の後南朝

2017年09月18日 18:40

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 18:27:32.39 ID:ur7iNDF1
最後の後南朝

明徳三年(1392)に南北朝の合一が成った後も、南朝の残党(後に後南朝という呼称が作られた)は
禁闕の変などの武装蜂起を起こしたり、応仁の乱で西軍に祭り上げられたりと度々歴史の舞台に登場していた。、
しかし15世紀末のある記事を最後に、遂に後南朝は史書からその姿を消してしまう。

明応八年(1499)
此年の霜月、王が流されて三島にお着きになられた。早雲入道が諌めて、相州へお送りになった。
『妙法寺記』

たった一行の短い記事だが、「王」(後南朝の王とされる)が関東へ流され、途中で伊豆の北条早雲(伊勢宗瑞)が
それを迎えて、何かの罪(南朝復興の活動か)を犯したことについて諌め、その後相模へ送り出したというもの。
この記事が史書に見える後南朝の終見で、相模へ送られた王のその後の行方はまったく分かっていないが、
南朝の歴史の最後に、意外な人物とちょっとだけ接触があったよ、という話。



235 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/09/17(日) 18:54:07.83 ID:zv/ao8/x
森茂暁「闇の歴史、後南朝」だと確実な後南朝の最後は山名宗全関連のようだ、以下抜粋

東京大学史料編纂所編纂の 『大日本史料第八編 』の一一 、文明一一年 (一四七九 )七月一九日の条には 、
「小倉宮ノ王子 、越後ヨリ越前ニ到ラセラル 」という綱文のもとに 、
① 『晴富宿禰記 』文明一一年七月一九日の条 、
②同記 、同三〇日の条 、
③ 「妙法寺記 」文明一〇年霜月一四日の記事 、
④同記 、明応八年霜月の記事を掲載している 。
なお ③ ④は 『続群書類従第三〇輯上 』に収められる 「妙法寺記 」にも載せられている 。妙法寺とは甲斐国都留郡の妙法寺 。

①は山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた 「南方の宮 」が国人らに送られて 、越後より越前国北荘へ移ったということ 、
②は 「出羽王 」が高野へ向かう道中のこと 、
③は 「王 」が京都より東海に流され 、甲斐に赴き小石沢観音寺 (現山梨県笛吹市 )に滞在したこと 、
また ④は 「王 」が明応八年一四九九 )霜月に流されて三島 (現静岡県三島市 )に着き 、
「早雲入道 」 (北条早雲 )が諫めて相模国に送ったこと 。
『大日本史料 』当該巻の編者が 「王子 、越前ニ到ラセラルヽ日ヲ詳ニセズ 」
「王子ト出羽王 、並ニ妙法寺記ニ記セル王トノ関係明ナラ 」ずと注記しているとおりで 、詳細は不明のままである 。
比較的信頼のおける南朝皇胤の所見史料の最後は ①であろう 。

【雑談】信長が生きていたら次に追放されるのは

2017年09月18日 18:37

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 06:53:07.43 ID:U6gQ3t67
>禄が重くなれば安堵致して、奉公仕らぬもの
滝川の事か

ノブが生きてたら林、佐久間の次に追放されるのは明智か滝川だったんだろうな

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 07:11:44.64 ID:gyQZQRbc
だから禄重くなくて良いから茶入くれって言ったのに…

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 07:43:44.23 ID:goG3qGCB
>>109
関東にとばしてるから、しばらくは安泰でしょ
狙われるとしたら近江に所領のある光秀や秀吉じゃないの?

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 10:35:41.22 ID:AY+NQw1b
>>111
光秀も滝川一益同様に飛ばされるのが確定していたやん。

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 11:34:35.22 ID:TT1HxNQx
追放と領地替えをごっちゃにするな

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 18:33:26.75 ID:WWUjnWOe
光秀は近江坂本とか丹波亀山とか京都への入り口の一等地をあげちゃってた
から
使えない奴だったら追放のところ
使えるから転封


信長の野望での家宝強奪みたいな事をリアルにやっちゃう信長って
配下の部将を手駒位にしか思って無かったんだろうな...

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 21:31:49.60 ID:GB5g7IWs
初めから預けてあるだけだから仕方ないね

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 02:51:37.49 ID:SAQd3Wid
領地も預けてるだけだからしゃあないつか秀吉も同じだし

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 09:38:19.60 ID:S6O7voU+
堀家の文書だと秀吉も長浜から追い出されることになってたんだよね

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 14:03:08.13 ID:8hOQvV3e
>>117
光秀が追い出されるのだから、まあ当然そうなるでそ。

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 14:10:19.11 ID:duF2E/F9
滋賀とか奈良って現代だと糞田舎で全く無価値な場所だけど
近江とか大和って言われると輝いて見える不思議
戦国脳のなせる業なり

不覚悟の品々

2017年09月17日 12:52

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 10:09:51.72 ID:+anRRzXN
古人曰く、侍の大身小身ともに、不覚悟の品々というものが有る。

一に、人の悪口、噂を賢しらに言う人
二に、侍と侍の間の仲が悪いからと言って、座席や路頭において慮外の輩
三に、親兄弟の敵を狙わぬ事
四に、被官、下人などが口論した時、言い過ぎた方や、非分の働きのあった方に、早く理を言って
   話談するようさせなければならない。事に大身奉行たる人は、自分の配下に即座に罪科を
   申し付けて事を済ませるべきだ。
五に、相奉行にて損得のある仕事をする時、自分の得のために傍輩を出し抜くこと。
六に、武士たる者、万事につけて自分より勝るものを嫉むこと。
七に、身体を治められず好色をいたし、要らぬことに過分の振る舞いあること
八に、武道具の嗜み無く、弄ぶ所の器物(茶道具など)を専らとする事。
九に、人の良き道具をあれこれ言いくるめて取ること。
十に、少しの心ばせが有るからと言って、人より優れているかのように過言すること。
十一に、仕合が良いと未練な侍であっても褒め、良き武士であっても足元が弱いのを侮る事。
十二に、有徳(裕福)な町人を見込んで武士の聟にすること。
十三に、良き縁者を持つ女性を女房とし、女房の縁者の威勢が衰え、或いは亡くなると、その女房を
    悪しく扱う事。

おおよそこれらの事は、傍らより見聞きしても大変見苦しいものであるから、人々は自ら戒めるべき事である。

(士談)

近世初期くらいまでの、武士の倫理観について



232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 13:32:06.28 ID:lOeraY96
戦国武将は大抵逆の事してる

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 17:23:55.16 ID:0gyA34Re
士談って明治頃の本だろ?もはや戦国の雰囲気ないわな

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 18:57:09.29 ID:gtKRsMo1
>>233
士談は山鹿素行の著書だから、一応近世初期だぞ

輝政公関ヶ原行軍順見の事

2017年09月16日 21:54

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 02:54:49.52 ID:KtXQnXKS
輝政公関ヶ原行軍順見の事


行軍のとき大将が諸軍を巡り見るのは古法であるが、関ヶ原合戦の行軍のとき
池田輝政公は諸卒の左の方をばたばたと(馬に)乗って走っていき
先陣の一番先で馬を右の方に折って、(前方を通って今度は先陣から)
諸卒の右の方を馬を地道に走らせて後陣まで順見したという。

戻るときに地道に走らせたというのは、(後陣から)先陣まで走らせるときは
諸卒が前へ行くので、早道に走らせないと追いつかないが
先陣の一番先まで行き右の方に折れて行き、諸卒の右の方で
(先陣から後陣へ)走らせるときは地道に静かに乗り戻ったとしても
諸卒は先へ行くので後陣まで地道に乗っても、間を取らないために
残らず順見しやすいからだという。


――『常山紀談』

地道:馬を普通の速さで進ませること。
早道:馬を速く進ませること。



229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 03:19:31.94 ID:eamhuJlz
当たり前じゃ

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 08:11:09.45 ID:goG3qGCB
戦乱から100年遠ざかっているし、いろいろとわからなくなっていることとかがあるんじゃないのかな

禄が重くなれば安堵致して、

2017年09月16日 21:53

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 02:09:29.56 ID:whL2ywNF
越後の謙信が一揆を退治しに加賀へ発向した時、たいへんに寒気が強く、
太田村へ人数を入れて、火を焼いてあたって居申した。

そこへ加賀の一揆の大将で、何とかの能登とか申す者が、にわかに攻め
掛かり、謙信はやり様もなく打ち負けて敗軍した。

これを大納言様(前田利家)は聞こし召され及んで、能登を召し出された。
それ以後、度々の合戦に能登は参加したが、1度の高名も無かった。

凡そ奉公人は禄が重くなれば安堵致して、奉公仕らぬものであるとの由、
享保5庚子年6月5日に仰せになった。

――『松雲公御夜話』



109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 06:53:07.43 ID:U6gQ3t67
>禄が重くなれば安堵致して、奉公仕らぬもの
滝川の事か

ノブが生きてたら林、佐久間の次に追放されるのは明智か滝川だったんだろうな

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 07:11:44.64 ID:gyQZQRbc
だから禄重くなくて良いから茶入くれって言ったのに…

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 07:43:44.23 ID:goG3qGCB
>>109
関東にとばしてるから、しばらくは安泰でしょ
狙われるとしたら近江に所領のある光秀や秀吉じゃないの?

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 10:35:41.22 ID:AY+NQw1b
>>111
光秀も滝川一益同様に飛ばされるのが確定していたやん。

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 11:34:35.22 ID:TT1HxNQx
追放と領地替えをごっちゃにするな

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 18:33:26.75 ID:WWUjnWOe
光秀は近江坂本とか丹波亀山とか京都への入り口の一等地をあげちゃってた
から
使えない奴だったら追放のところ
使えるから転封


信長の野望での家宝強奪みたいな事をリアルにやっちゃう信長って
配下の部将を手駒位にしか思って無かったんだろうな...

人はただ、学ぶべきである

2017年09月15日 18:05

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/15(金) 17:36:03.52 ID:Uz3vy/o7
ある時、武田信玄はこのように言った

「人はただ、学ぶべきである。
学ぶと言っても読物ばかりではない。何事であっても習うことにより学ぶというのだ。
殊更弓矢の家に生まれた者は、心がけて一日一つ良き事を聞けば、十日には十聴き習い、
工夫分別して物の理に徹するならば、一文不通の人であっても、智者と呼ばれるであろう。

今川氏真は我が聟であり(原文ママ)、北条氏政はまさしく氏康の子である。
何れも物をよく書き、よく読み、短冊色紙に詩歌を記し、自作の文章もよくこなす。
しかし彼らは、当年既に二十五にして、弓矢のこと、武義の備えについて、何であっても
人の口に上る程度の話もないのは、最も文盲な者にも劣るといえる。

こういうことから考えるに、人々は学びというものに心得違いがあり、学ぶべきことを学ばず、
要らぬことを熱心に成し、結果家を失いなお下すに至るわけで、人々はそうならぬよう、慎むべきであろう。

(士談)

信玄が言うと色々複雑な気持ちになりますね。


監物殿は柳の枝を土手に差し

2017年09月14日 13:31

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/14(木) 03:03:39.63 ID:n13mDo5e
関ヶ原合戦の時分、河渡を渡られた一柳監物殿(直盛)は元は伊予の河野氏である。

その子(直重)は欠唇で異名を“いぐち監物”と申した。その子(直興)が御家(前田家)
で御預かりとなった監物殿である。

河野姓を改められたのは河渡を渡られた監物殿である。その監物殿は柳の枝を土手
に差し、「家が繁盛仕るならば、ほこれ(茂ること?)。そうでなくば枯れよ」と申された。
すると、年々ほこり申したとの由で、

これにより“一柳”に改められたとの旨を船越伊予守殿(宗舟)が物語り、それを聞こし
召されたとの由を、享保2年10月朔日の夜に仰せになった。

――『松雲公御夜話』


一柳監物は欠唇である。人が差し障りを言えば、殊の外怒った。秦の苻堅に似ている。
(一柳監物缺唇也。人指合を云へば事の外怒る、晉の符堅に似たり。)

――『老人雑話』


週間ブログ拍手ランキング【09/07~/13】

2017年09月13日 19:07

09/07~/13のブログ拍手ランキングです!


「三浦、三浦」 11

小ネタ「地味な方の加藤さん」で 9

七夕・八朔に白帷子を着用するのは 8
今よりここは我が城 8

一番乗りは 7
私と刺し違えるのは、 7
元日の朝に兎の御吸物を 7

浅利のハイタカ 6
鷺を持たせて 5





今週の1位はこちら!「三浦、三浦」です!
久能山にて徳川家康に「呼ばれた」、幼馴染の三浦八郎左衛門さん。このお話の事実姓はともかくも、家康が駿府という土地に、
少年時代の良い思い出を持っていた、という面が垣間見られる気がします。駿府には三浦さんに限らず、家康子供時代の
「仲良し」が多く居たのでしょうね。そういう事を、このお話を記録した方も把握していた感じもします。
徳川家康と、駿府との長い繋がりを感じさせる、そんな逸話だと思いました。

2位はこちら!小ネタ「地味な方の加藤さん」でです!
地味な方のお加藤さん「加藤嘉明」(ひどい)、地味にも成れなかった加藤さん「加藤光泰」(もっとひどい)w
これは、「メジャーな加藤さん」こと加藤清正と比べての印象に成るのでしょうが、彼らが生きていた時代、正直清正より
彼らのほうが大物なんですね。加藤光泰は秀吉配下において明らかに清正たちの先輩格ですし、嘉明も
将軍秀忠嫡男竹千代(家光)の鎧親を勤めるなど、将軍家から非常に厚遇されています。
なのに、何故に後世清正だけがこんなにメジャーに成ったのかといえば、彼が法華の熱心な信者であった事から、江戸期に
法華信仰のシンボルの一つになったとか、「軍記物」の中で朝鮮の役での「朝鮮二王子捕縛」「清正の虎退治」といった活躍が
大きく取り上げられたためだとか、まあ色々ありますが、正直な所「偶然」ではありますね。
歴史上の人物がメジャーに成るかマイナーに成るかの違いは何か、という事について、様々に考えさてくれる内容だと思います。

今週管理人が気になった逸話はこちら!私と刺し違えるのは、です!
同士討ちに成りかけたので罵倒したけど、その罵倒の内容が容赦ならないものだったので刺し違えると決心する。
武士とは実に難儀な生き物ですw中世の武士は「ナメられたら終わり」ですからね。
更に面白いのは、「その相手が誰であるか確認できない状況で言った罵倒はノーカンにあたる」という考え方が出ている
部分です。相手が特定できていない以上、その罵倒もプライドやメンツを損なわせたものではない、という事なのでしょう。
そうかなあ?とも思いますが、結果としてこれを言われた相手が(恥ずかしくなって?)逃げたので、そうなのでしょうねw
ところでこの平野弥次右衛門さん、どこかで聞いたと思ったら、この逸話

敵も認めた漢の褒美

の、五右衛門さんの主君ではありませんか!主君の方にもこんな逸話が残っていたとは、これもまた面白いものです。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます。
又気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )