淀殿に仕えた各務兵庫の娘

2017年06月29日 11:48

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/29(木) 00:04:31.96 ID:RInqlD5Z
淀殿に仕えた各務兵庫の娘


森家の家臣・各務兵庫(元正)には息子が2人、娘が5人いた。
長女は森重政の妻だった。
次女は大坂衆で落城後に切腹した竹光伊豆の妻だった。
三女は丹後の田中七兵衛の妻だった。
四女は作州の各務勝太夫の妻だった。
五女は淀殿の侍女だった。

大坂城が落ちる前、淀殿は不憫に思い城を出るように勧めたが
どうあっても出ていかない旨を述べ、小脇差を懐に差したという。

後に京極高知の側室となり一男一女をもうけた。


――『武功雑記』



70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/29(木) 06:23:26.13 ID:Tm2U+4xu
脇差が欲しかったのか

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我の外孫なれば我が子に准ずべし

2017年06月29日 11:47

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 21:16:22.21 ID:vqmgz3k8
我の外孫なれば我が子に准ずべし


慶長8年、神君(家康)は池田輝政に備前国を賜い輝政の次男忠継を封じた。
封国が決まると輝政は忠継[このとき5歳]を伏見に連れていき拝謝した。
神君は
「この子は我の外孫なれば我が子に准ずべし」
と言って、吉光の名刀をお与えになった。

輝政は初めに娶った中川清秀の娘からは長男の利隆が生まれ
後に娶った神君の娘(督姫)からは忠継、忠雄などが生まれていたが
関ヶ原の軍功で賜った播磨国は忠継を嫡嗣とし継がせようとしていた。
しかしながら神君はこれを許さず利隆に継がせることにしたため
国主がいなくなった備前を輝政に賜い忠継を封じたという。

このとき一説の言うところでは
関ヶ原の戦いで戦功がなく遺恨があった榊原康政
「天下は既に定まった、しかし秀頼は天下を取ろうと必ず戦を起こす。
 備前は大坂に近いのでもしものことがあれば輝政と力を合わせるはずだ。
 大坂で功を立てたいので(自分の方を)備前に封じて欲しい」
と言ったので、大久保忠隣らもこれを推していた。
台徳(秀忠)もまたその通りとした。神君はこれを許さず輝政に授けた。

恐らく(家康は)舅親であるので、輝政が二心を抱くことはありえない。
輝政は武勇で知られているので、播磨備前を合わせて治めさせれば
その力をもってして大坂の敵になるだろう。輝政もまたその微意を察し
大坂のことを己の任としたのだ。これにより康政は神君に不満を持った。


――『続本朝通鑑』

後半与太ってるので悪い話に。
鍋島とか家康の娘(養女)をもらって前室の子を廃嫡した例は一応あるにはある。



921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 21:32:00.37 ID:JDhJx46R
池田は結局、姫路城の普請だけさせられて転封だから

島津のこと、それがしに征伐を命じられれば

2017年06月28日 18:59

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 18:13:45.68 ID:c8upfVr0
関ヶ原の時、島津は西軍に味方し、しかも国元まで引き上げた。そのため「島津征伐を行うべきではないか」
との議論があったが、この時黒田如水が言った

「島津のこと、それがしに征伐を命じられれば、島津領国を占領すること、上下の別なく心やすく思うであろう。
何故ならば、薩摩口は鍋島が先陣を仕る事になっているので、鍋島に先陣を仕るよう命じても、それを迷惑だ
などとは言わないであろう。必ず、先手を仕るだろう。

彼らの領国である肥前は大国であり、鍋島の軍勢は大軍であるから、必ず島津との間で開戦するだろう。


だが、彼らは弓矢の作法を知らず、戦の有り様に不案内な者達なので、島津と戦って必ず敗北するだろう。
これは証拠もないことを言っているのではない。かつて高麗において軍勢を動かしかね、致しようもなく
我が方へ頼みに来たため、蝶之介という我が方の足軽大将を遣わして、ようやく立ち直らせたほどなのだ。
鍋島の兵は至って弱兵であると理解すべきだ。

そしてそのあとを、加藤清正に任せる。清正は格別の器量の者であるから、島津が勝ち誇って来る所へ
一文字に掛かれば。何の仔細もなく必ず勝利するだろう。

その後に我々の備は、袴をつけたまま薩摩に入国するであろう。

(士談)



916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 18:20:56.68 ID:AGoXx4dW
これが出典なのか

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 18:33:33.43 ID:JTWyAlyF
チョウノスケが気になる

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 18:41:58.01 ID:biNEgbmZ
こえれは鍋島を餌にした誘引戦術

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 19:57:31.67 ID:ZsT2vZR/
同じ役のことで清正が鍋島さんちを戦しやすくてよかったって褒めてんのはなんなんだろね

週間ブログ拍手ランキング【06/22~/28】

2017年06月28日 18:56

06/22~/28のブログ拍手ランキングです!


皆さん歯を大事にしましょう。 22

ならばこれからは尚更に 13
終始の勝敗は、終始の政による 13

和談の使い 10
織田信長の頃まで、槍という功名は 9
1563年頃の松永久秀 9

山村の策略 6
体内の光物 5


今週の1位はこちら!皆さん歯を大事にしましょう。です!
前近代において「虫歯」って、人類にとって大変な脅威だったそうです。
根本的に「抜く」しか対処の仕方がないですからね。それだけに歯のことについては、現代人が想像出来ないほど、
本気の「祈り」が、これは洋の東西を問わずあったようですね。
そんな事を思い出させてくれるお話で、「尚武の家」であり少々の負傷などではびくともしななそうな島津家においても、
葉の痛みは別格であったか、なんて少々微笑ましくも成ってしまいましたw
現代の我々も、虫歯云々だけでなく、将来長く自分の歯で食事ができるためにも、葉を大切にしないといけませんね!

2位はこちら!ならばこれからは尚更にです!
これは立花宗茂のお話。宗茂は自分の立ち位置の理解が、実にシンプルですね。「武」こそが自分たちの存在理由だという
その単純かつ強烈な認識。いかにも宗茂らしい、と感じてしまいます。
実際に、大阪の陣などでも宗茂は秀忠の参謀のような役割をしていたようで、その軍事の能力、知識によって大名として
復帰できた、というのは概ね事実でも有るのでしょうし、逆に言えばここまでシンプルに自分の役割を理解していたからこそ、
家康、秀忠もある意味安心して彼を引き立てたのかな。なんて事も感じてしまいました。

そして同票でもう一つ!終始の勝敗は、終始の政によるです!
こちらは豊臣の滅亡について、端的に言えば「一日や一度の戦の結果で滅びたのではない。それまでの政治や家の運営の
失敗の蓄積で、敗北したのだ」ということでしょう。これはもう確かにその通りで、「負けに不思議の負け無し」なんて松浦静山の
言葉がありますが、「滅亡に不思議の滅亡なし」とは言えるのでしょう。
現代人は、様々な場面で状況が悪化した時、わりと短絡的に、どこが悪かった、何が悪かったと原因を決めつけてしまうことが
多く有るように感じます。しかし、実際にはそうなるに至る様々な蓄積があるわけでして、この逸話から、そういう思考位が大切だよ・
という事を教えてもらったように思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!また気に入った逸話がありましたら、
そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

山村の策略

2017年06月27日 18:40

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/27(火) 17:54:58.72 ID:1VN7Msjq
信濃木曾義昌の家臣に、知村、山村という者があった。木曾義昌没落の後、両人ともに流浪していたのを、
徳川家康が関東において堪忍分を与えていた。

関ヶ原の役の折、家康は木曽路の通行の安全を確保するようにと命じ、ここに知村、山村の両名を、
先遣隊として遣わした。

そこで、鳥井峠の”こなたならい”という場所から、山村は福島(木曽福島)方面に手のものを遣わし、
説得することによって大方は徳川方へと属した。しかし未だ完全に徳川方となった状況ではなかったが、

「先ずは木曽福島が別状無く徳川に随身した旨を注進仕る」

そういって飛脚を馳せて、『木曽福島は相違なくこちらに従った」と家康へ言上した。

この時、知村はこれを危ぶんだ
「まだ木曽福島に実際に足を踏み入れておらず、この先どうなるかもわからない。なのにこのように、
逸りすぎて注進を行うのはいかがだろうか。」

しかし山村はこう言った
「勿論、この先どうなるかわからない。だが、我等が今まで接触した者たちの反応がこれほど様子の良い
状況である以上、別状はないだろう。それに、木曽福島を従えることが出来なければ、我等は再び
家康公に対面など出来ない。このような時分は急ぎ注進すべきなのだ。」

これに知村も止め得ず、注進に連署した。

果たして木曽福島に入ると、かつての木曾義昌の居城であった木曽福島城も難なく抑えることが出来た。
この時、木曽福島の者共の人質は、西軍の石川備前守(貞通)の催促により尾張国犬山城に入れ置かれていたが、
「木曽福島城が取られた以上、所々の人質共をここで殺すのも詮無きこと。」と、皆これを開放したという。

山村の策略が完全に当たったわけで、これは才の逞しさによるのであろう。

(士談)



65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/27(火) 17:57:52.98 ID:Ova7GEms
結構、綱渡り染みたことをする人多いんだな

和談の使い

2017年06月26日 16:39

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/26(月) 09:38:11.31 ID:W+BjMk6D
ある人、敵より攻められている城より、扱いを乞う和談の使いとされて城外に出ることとなった。
この時大将初め諸侍それぞれ言った

「御辺は、大勢のうちから特に指名されて城外に出ることとなった人物であるので、今更言うには及ばない
だろうが、城中のこと、少しでも弱みがあるように云っては、扱いに成りにくいものである。
随分城中の強みを語り、兵糧弾薬等までふんだんに有ることをよくよく言い聞かせられ然るべきである。」

使いの侍
「委細、相心得ております。古来よりの作法でありますから、宜しく申すでしょう。」

そう言って外へ出、寄せ手の大将の所に至ると、先ず湯漬けを望んで2,3杯を食し、その上で酒を望み、
これを飲んで申し上げた

「城中では、先月の5日より10人を以て一升扶持にしていましたが、今月に入ってそれも配給できず、
酒などは大将物頭ですらろくに口に入れることも出来ず、味噌などは皆消費し尽くし、今では一口舐めるのも
古の雁鴨の料理よりも大切に存じています。」

寄せ手の歴々聞いて、未だ兵糧は潤沢と考えていたので意外に思った
「これは思っていたのと相違している。しかしながら左様な事も有るだろう。久しき籠城であったのだから。」
「さて、弾薬の方はいかがか?」

「弾薬もまた、只今は不通にこれ無く候。」

「そういう事であれば、何故に今まで城から出ず、籠城しているのか?」

使いの侍、言った
「その事です。若年の者たちは『これではどうにも成らないから、一方へ切って出て、一同に討ち死にすべき!
必ず一報をば打ち破ります!』と主張しているのですが、大将も物頭も奉行どもも、物資が残っている事を理由に
同心致しませんでした。そこで彼らは『同心無くてももはや一方へ切って出て打ち抜くべし!』と言い出し
ましたが、大将が強いて抑留しことで、さすがに打って出ること出来ず、今日まで引き伸ばされております。」

「その、打って出ると主張している人数はいかほどなのか?」

「それも僅かに、百七,八十人ばかりです。雑人や下々は存じもよらぬことで、ただ侍分の者ばかりこれを
主張しています。」

これを聞いた寄せ手の者たちは談合した
「この使いの申す所、一々偽りが無いようです。であれば、仮に百七,八十人の侍が必死の思いをなせば、
寄せ手が勝利したとしても、大勢の死傷者が出るでしょう。ここは和談を用いるべきでしょう。」

こうして和議が整い、城が明け渡された時、兵糧雑器は未だ山のように残っており、弾薬も大量に
備蓄されていた。ただし、打って出ることを決意した人数を百七,八十人と言っていたが、実際には
十七、八人も居なかったという。

この扱いの侍、優れて才の逞しき者と言うべきであろう。

(士談)



62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/26(月) 16:27:33.20 ID:SoVYyyyF
なるほど。舐めてかかって来るならば潤沢な弾薬で一捻りするのか

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/27(火) 10:16:38.98 ID:T68U6Os8
兵糧弾薬残ってるのに城明け渡すなんて利敵行為じゃないの

織田信長の頃まで、槍という功名は

2017年06月25日 17:43

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/25(日) 12:18:03.00 ID:MAg8NU8C
古の者の云えることを記せる書に、一番先陣、一番乗り、一番頸のそれぞれに軽重があるとしている。
但し名を得て人々から唱えられる為には、一に天命、二に国、三にその場、四に主人、といった要素が
必要であり、こう言った条件が揃わなければ、世に隠れない高名というのは成り立ち難い。

永禄天正以来の名を顕す輩は、この4つの条件を外していないのだ。
しかし高名があっても隠れて人に知られないのも、また皆天命であるから、更に恨むべきではないだろう。

また永禄天正以来、一番槍には千石、二千石、三千石、八千石までの賞が与えられている。
一番乗りには、豊臣秀吉は、一万石を宛てがうべきと定めたそうである。

保元・平治より織田信長の頃までは、槍という功名はなかった。信長の頃より、槍を以て世に誇るようになって、
それより皆以って、槍にあらざれば功にならない程に成った。

(士談)


皆さん歯を大事にしましょう。

2017年06月24日 18:43

54 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/06/24(土) 18:19:04.41 ID:s9WvoSYg
鹿児島県鹿児島市にある松原神社。松原神社は、天文館という鹿児島で一番の繁華街にあります。
ここは島津家の15代当主
島津貴久(靖國崇勲彦命(クニムケイサタカヒコノミコト))を、主祭神として祀っています。

かつて、このあたり一帯に、名刹・曹洞宗福昌寺の末寺である松原山南林寺がありました。
南林寺は、弘治二年(1556)島津家15代貴久によって建立され、大いに賑わっていたといいます。
貴久の死後天正十年に義久が南林寺を貴久の菩提寺に定めました。
明治二年(1869)の廃仏毀釈によりとりつぶされ、翌年、跡地に松原神社が建立されました。

松原神社には他にも戦国武将が祀られております。その人物について、神社内にある、
鹿児島県歯科医師会によって建てられた説明板には、次のように由来が書かれています。
「祭神は島津貴久公の臣 平田純貞 元亀二年(1571)三州平定途上、急死の主君の無念を思い出家諸国を遍歴、
元亀四年亡君命日六月二十三日殉死の作法に従い、うつろ舟に乗り蓋を釘付けに海に流させた。読経歯ぎしりの音、
三昼夜壮烈な殉死をげた。遺体の歯は抜けていた。当時歯痛に悩む人は自分で歯を抜いていたが、
自然に歯が抜けた純貞は、歯の神様と崇められるようになった。」

また、別の説として、鹿児島県歯科医師会会史(80周年史)では次のように記載されています。
「島津家15代の明主大中公(諱は貴久)の家臣・平田純貞、君主の命を奉じて虚無僧姿となり、
九州一円国情偵察の行脚をやった。その当時は織田、豊臣の時代で島津藩の如きも未だ後年の如く
統一されたものではなかったが、帰途福山において大中公薨去の報に接した。
 純貞落胆措く能わず人生最大の苦痛を味わいて殉死せんとした。即ち人生において歯痛に勝る苦痛は
あるまいとの観念から自ら全歯を抜き放ち、且つ空舟に乗ってこれを海中に投ぜしめた。」

なお、うつろ舟については、次の資料を見つけました。
「空舟とは本来、木を剔り抜きて船の如くし、殉死者はこれに乗りて蓋を釘付けにし且つ海中に投ぜしめる方法であって、
その当時の殉死の一形式として用いたといわれている。これが他の殉死と異なるところは、
万一運が良ければ陸地に漂着して救助されることもあったという。」

純貞の舟は2、3の漁家のみだったという海岸(今の南林寺町)に漂着した。即ち検死の結果、平田純貞ということがわかり、
これを海岸より程遠からぬ元の南林寺墓地(ちょうど現時の南洲寺より55メートル位西北にあたる)に埋葬された。
その時死体を東向に埋葬したところ、不思議に天地晦冥となり、風雨俄に起こったという。蓋し大中公を祀った松原神社が
その西にあり、大夫の霊が東向を欲しないためだろうというの で早速これを西向に改めたところ、
忽ち天地が元のように晴朗になったという。
何時の頃からか世人はこれを「歯の神様」と称え、歯痛に霊験あらたなものとして来拝者が後を絶たなかったという。

鹿児島県歯科医師会では、1960年頃から毎年6月4日に松原神社で”抜去歯”の供養祭とともに
「歯の神様」の祭礼を行っています。
(2017年は60人ほどの参加あり)

数年前の新聞の記事では抜去歯の数は二万本ほどだったそうで、皆さん歯を大事にしましょう。

松原神社
https://www.matsubarajinja.com/




55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/24(土) 18:32:37.43 ID:B5sHcQLP
島津斉彬の照国大明神、ててっきり天照大神に対抗して東照大権現になった徳川を倒した薩摩が
「東」より広い「国」にでもしたのかと思ってたけど
島津貴久が「靖國」だったからてだけ?

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/24(土) 18:44:27.62 ID:D++bK00K
うつろ舟と言ったらこれ?
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2a/Utsuro-bune.jpg
Utsuro-bune.jpg

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/24(土) 20:46:04.57 ID:TUR15A8h
補陀落渡りでもするのかと思った

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/24(土) 21:14:45.36 ID:B5sHcQLP
補陀洛といえば
ポータラカ→補陀落→ふたら→二荒→にこう→日光
となったというのを近頃知った

権現様も補陀落に眠ってるということか

体内の光物

2017年06月23日 09:25

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/22(木) 23:51:44.66 ID:53keMK1k
ある人の語った所に寄ると、戦場へ出る度ごとに戦功を顕し、先駆け殿の功重なる勇者があった。
彼の友人がこれを羨み、

「我も人も、武士の家に生まれて一通りの働きを遂げぬ者は、家職を辞めて農工商の職を行う人に
成るべきだろう。だからこそ一通りの働きはしているが、御辺のように度々の戦功を成し、
後にて後悔もないような、心と身と口の一致した働きをするのは、致しようというものが有るのだろうか?
有るのなら是非承りたい。」

こう問われ、この勇士は
「奇特なることを尋ねられるな。わかった、語って伝えよう。しかしこれは武士の本意であるので、三日
物忌みをしたまえ。その上でこそ伝えよう。」

これに問うた者は喜び、三日斎戒して再び対面した

勇士曰く
「生死は一大事である。人の生きることを止めないために慎むべき事であるから、この事を秘事にしているのだ。

大きな仔細が有るわけではない。人の身には手毬ばかりの大きさの、光る丸い物があって、常には臍の下
あたりに静まっている。
しかしこの光物は常に身中を往来し、面門(口)から外へ出入りもする。

臆病な者は、この光物が抜けて内に無い。このため光を失い何事も分明ならず、方向を失うのだ。

それより少し心得有るものは、外に抜けてはいないといっても、面頭に上がり、このため目も見えず
耳も聞こえず、その場における善悪の判断も出来なくなる。

それよりも一段上の人は、この光物が胸に上がり、胸騒ぎがしきりである。

上段の人は、臍下に留まり気は勝り、病気などに成ることもない。こう言った人こそ心口行の三つ一致して、
所行常に静かにしてその理も分明である。

これを修行するには、人に会って怒りを覚えた時、この事を思い出す事だ。
そこでよく考え、体の中の光物を納め付けた時、終には修行が本意に至るのだよ。」

この教を受け、問うた者は拝して退いたという。
これは定論ではないのだろうが、この説を実践すればその至極に至ることも出来るだろう。
かの孟子が論じた「放心」にも似ている。

(士談)



53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/23(金) 02:05:21.72 ID:/IPKuLm8
武術でいうところの「気」か

ならばこれからは尚更に

2017年06月22日 15:45

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 17:16:33.93 ID:QqZGxox/
立花飛騨守宗茂は一旦(徳川家の)御敵となったが、台徳公(徳川秀忠)の
御代に御許しを蒙り、旧領柳川11万石9千6百石を賜り、

入部してこの度の祝いの儀式として、家士の面々を饗応なされた。その席に
出て宗茂は物語りなされ、

「大昔に佐野源左衛門が本領を安堵されたのは罪無くして所領を失ったから
である。一方で私めは御敵となった者なのに、このように旧領を賜った。

これは誠にもって御厚恩である。されども一つには、当家の武勇は父・道雪
より以来、世に恥じること無く、

これらの事などを御賞翫されたのかも分からない。ならばこれからは尚更に
上下とも武備を忘れてはならない」

と仰せになった。

――『明良洪範』


1563年頃の松永久秀

2017年06月22日 15:44

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 21:50:29.42 ID:iv59Ojsk
既述のように、当時テンカ(=天下)の最高統治権を掌握し、専制的に支配していたのは松永霜台であった。
すなわち、彼はその点、偉大にして稀有の天稟の才能の持ち主であった。
彼は完全に自らに服従せしめていた大和国の、奈良の市街に近いタモンヤマ(=多聞山)という立派な一城に住んでいた。
そして五畿内においては、彼が命じた事以外は何も為されぬ有様であったから、位階や門閥においては彼を凌駕する多くの高貴な人たちが彼に奉仕していた。



フロイス日本史から、1563年頃の松永久秀の話


終始の勝敗は、終始の政による

2017年06月21日 20:02

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 19:41:24.04 ID:D+B63afb
大阪夏の陣、5月7日に、大野修理は茶臼山の近くまで進出していたが、秀頼の出馬あるよう申し上げるとして
城中に引き返したが、その時大纏を持たせて城中に急ぎ退くのを、他の味方から見ると敗北して城に
逃げ帰るように見え、七手組の人数その他城外に出て戦っていた秀頼方は、悉く気後れし敗北の機が出来、
共に城に入る者も多かった。
寄せ手はこれに気を得て、いよいよ勢い強くなり、これによって豊臣勢は総敗軍となりたちまちに城中周章し、
程なく落城に及んだ。そう語る人がいる。

しかし、大阪の落城の原因はこれではない。ただ秀頼の謀の不足、群臣の異議不全によるものである。
さらに推して言えば、太閤秀吉は一旦の勢いに乗じて天下を従え、道の道たる理由を知らず、
己の私智に任せた事の余映に寄ることである。
また、この時についても、大野が不功者にて事理を糾明し得なかったため、こういうことも起きたのである。

その日、速やかに破れたのはその日の謀により、終始の勝敗はまた、終始の政によるべき事である。

(士談)

大河の真田丸なんかでも豊臣敗北の原因とされた大野の行動ですが、それは真の敗因じゃないよと
山鹿素行がすでに批判していたというお話。


900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 21:16:56.75 ID:i1njUqXZ
夏の陣は仕方ない

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2017年06月21日 19:55

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容易ならぬ風聞 17

罪も恨みも一切の雑念の消えた新しい世界がそこに 11
彦根藩士は美服奢侈の排すべきを 11

勇者の思い 10
そのときは拙者とて 10
こんなことを言わずに謀叛すればいい 9

つまるところ、武士は詞が大事である。 8
白鷺か何ぞと人の問いし時 8
利勝の知慮は衆人の及ばぬところ 7
加藤の亡魂 7

中国の日本に関する地理誌「東西洋考」によれば 6
ティモシー・ブルック「セルデンの中国地図」より、日本の地名 6
その節諸事に御軽きこと 6

牛頭天王の神慮 5
雑談・茶器についてのことなど 5
「南蛮寺興廃記」より、日本人キリシタンのハビアン、コスモ、ジュモンについて 5
“井伊家の一本槍” 4
姜沆の上杉景勝評 3


今週の1位はこちら!容易ならぬ風聞です!
板倉勝重による、呪詛をある意味笑い飛ばしたと言っていい知的で剛毅なお話ですが、じつに「近世」を
感じさせる話でもあります。中世の歴史を学んでいるとすぐに気づくと思いますが、「呪詛」というのは大事件なのですよね。
上は皇室から下は庶民まで、呪詛が関わる騒動は枚挙に暇が無いほどです。
こういう感覚は戦国期でもそうは変わらず、例えば無神論の合理主義者と言われがちな織田信長でも、武田攻めの際、
畿内の寺社などに武田滅亡の祈祷をさせていたそうです。
ところが近世に成ると一般的に、祈祷や呪詛を、否定とまでは言わないものの、そういった行為を非常に低評価するように
なりますね。そのあたりの変化がどこから来たのか、色々と調べつつ、考えてみるのも面白いかもと、この逸話を読んで
少し思ったりしました。

2位はこちら!罪も恨みも一切の雑念の消えた新しい世界がそこにです!
村越茂助も実に面倒くさい三河者の典型、といった感じなのですが、こういう逸話を読むたびに、三河者というのは、家康のことが
本当に大好きなのだな、と感じちゃいますね。その好きの表現は相当ひねくれていますがw
その不器用さも含めて、三河武士なのでしょう。そういった、三河武士のいいところも悪いところも、能く出ている逸話だと感じます。

同表で2位はこちら!彦根藩士は美服奢侈の排すべきをです!
井伊直孝が言葉を使わずして奢侈を止めさせたお話です。世の中には「言葉にすると角が立つ」というものが、実際多く
有るものです。しかし態度で察してもらうのも、なかなかにテクニックにいることです。
この彦根藩などは、当時のファッションの中心地である京に近い事で、ややもすれば豪華で流行の衣服を身に着けたいという
欲求も強かったことでしょう。それをあたまごなしに禁止しては反発が出る。だからこそ、皆が自主的に考えを改めてくれるよう
もっていくというのは、これも領主、君主の器量なのでしょうね。
こう言ったことが出来るからこそ、家康も井伊家を直孝に任せたのかな、なんて思えてくるお話でした。



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( ´ ▽ ` )

こんなことを言わずに謀叛すればいい

2017年06月20日 16:47

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 01:38:54.99 ID:Xbr5DYuZ
こんなことを言わずに謀叛すればいい


家康が諸大名を集めて名古屋城を築かせたときの話。

皆々が寄り合いしていたとき、福島正則池田輝政にささやいて
「近ごろ江戸や駿府の築城続きで人夫もみな苦労して働いた。しかしながら
 天下の押さえとなる城なのでみな苦労と思う者はいなかった。
 今度は子の居城を築くようにと命じられる為ではないのだ。
 貴殿は大御所の親戚である、我一人の為に言上しろという訳ではない」
と申せば輝政は答えなかったが、加藤清正が奮然として正則を戒めて
「ああ粗忽なことをのたまう人だな、貴殿が普請に苦労することが
 不興ならばこんなことを言わずに謀叛すればいい。謀叛が
 出来ないのなら、命を違え斯様なことを申すべきではなかったな」
と荒々しく言ったので、正則はそれを恥じて何も言わなかった。
輝政は笑って戯言ということにした。

その後神君(家康)がお聞きになってみなの心を推察し
ある日輝政を呼ばれ諸大名に対して
「お前たちが普請を頼まれたくないと言うのを度々聞くが、それならば
 国に帰り城を堅く堀を深くして私が行くのを待つがいい」
と仰せがあったので、輝政がこれを諸大名へ申せばみな大いに恐れ
急に人夫を雇って名古屋城の石垣を築き、土地を四面に開いて
二十万人の人夫でもって西海南海の大名共を伊勢三河の大船で運送し
石垣を築き堀を掘れば不日の間に名古屋の城普請は成就した。


――『武徳大成記』



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 07:31:40.10 ID:DKMfXt+W
これ、面白いな。
有名な福島と加藤だけのバージョンを元にこれができたのか、これを簡略化したのが有名なバージョンなのか、気になる。

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 18:39:34.42 ID:kl2FAQ/4
イライラ清正

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 21:23:17.42 ID:w64DAeEm
>>896
これで名古屋城に立て篭もれば面白いのに

中国の日本に関する地理誌「東西洋考」によれば

2017年06月19日 17:33

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 17:10:17.73 ID:chYKDCHe
ついでに此の頃の中国の日本に関する地理誌
福建省出身の張燮によって書かれた万暦45年(1617年)発刊の「東西洋考」によれば
https://zh.wikisource.org/wiki/東西洋考/卷六
邪馬台国、日本への国号改、倭寇、懐良親王(良懐)、足利将軍の勘合貿易、王直についての記事の後

倭は平清盛が政権を取って以来、国が乱れ、万暦14年に平信長が関白となり、その義子の平秀吉というものは、
母親が婢ではあったが妊娠中、異徴があった。幼いときから下賤で魚を売っていたが酔って木下に眠っていた。
その時猟に出ていた信長に出会い、驚き寝覚めて衝突。
(以下「明史日本伝」と同じため略)
万暦39年、倭は琉球を破り、中山王を捕虜とし、二年倭に留め置いた後帰還させた。琉球は明に倭に入貢したことを謝罪し
明への入貢を申し出たが、すでに倭に入貢した以上、スパイの疑いがあるため入貢させなかった。
万暦44年夏、倭が東番(台湾)に侵略しようとしたため、董伯起が倭を偵察に行ったが、倭の村山等安に捕らえられ、小舟で返された。

倭は東海中にあり五畿、七道、三島、又附庸国百余ありその首魁と称している。唐宋の世は中華を慕い、外国を侵略しようとせず、
宋の時代に来朝した滕木吉に矢を射させても遠く飛ばず、理由を聴けば「国内で戦がないためです」と答えたほどのものだった。
ところが元に入り驕慢の心が出てきて、殺気立ち、華人が諭しても「盗みを喜び、生を軽んず。殺を好むのが天性だ」と答えるまでになった。

倭の地は北は朝鮮を海で隔て、南は閩、浙と隔てている。朝鮮へは対馬から大洋に出て二晩で着く。
閩、浙へは順風で旬月かかる。

其の主は山城にいるため山城君と呼ばれる。山城の南は和泉、その南は沙界(堺)。沙界の盗難は紀伊、紀伊の西は伊勢。
山城の西は丹波、左に摂津、左の西は播磨、右は但馬、右の西は因幡、丹波の西は美作、左は備前、左の西は備中、右は因幡、右の西は伯耆。
美作の西は安芸。出雲の西は石見、安芸、石見の西は山口で古の周防州である。山口の西は長門、ここで海を渡る。
渡って西は豊前、南は豊後、其の南は日向、豊前の西は築前、西南は後築。後築の南は大隅、大隅の西は薩摩。
豊後から東南に渡ると、土佐、伊予、阿波があり、阿波は海を隔てて淡路と近い。土佐、豊後の間は佐加関。薩摩の北は肥後、
又其の北は肥前。肥前から西に渡ると平戸、平戸の西は五島、北は多褻島、伊岐、一番北は対馬、それぞれの島は酋長あり。

山城君は弱く、名前のみ。倭はその号令を聞かず、互いに争い、強ければ従わせる。
豊後国が最大で、博多経由で五島を歴てやってきて、帰りは長門を通って帰る。
毎年清明後から五月まで、重陽後から10月まで常に東北風が吹くため倭寇に有利となる。
そのため海防のときは三四五月を大汛、九十月を小汛として警戒せねばならない。
倭寇が多いのは薩摩、肥後、長門の三州で、次に大隅、築前、築後、博多、日向、豊前・豊後、和泉となる。
男子の首領は頭を剃り、黥面文身。婦人は髪を結っている。皆素足で、時々履をはく。勇猛で死を恐れず、戦う時は赤裸で三尺の刀を舞わせる。

名跡形勝としては、「邪摩堆」「阿蘇山」「東奥州(黄金の産地)」「五龍山」「平戸島」「一岐島」「八角島(蒙古、高麗を日本が滅ぼした所)」
「聚快楽院」「相坂関」「赤門関」「千丈渓」
物産としては、金、銀、如意珠、青玉、瑪瑙、琥珀、水晶、水銀、螺鈿、石硫黄、銅、鉄、錦、細絹、花布、刀、屏風、扇、硯、漆、
犀象、黒雉、山鼠(牛のようなけもので、大蛇に呑み込まれても穴を開けてしまう)

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 17:17:53.08 ID:chYKDCHe
この張燮、「なぜ日本人やオランダ人(日本の記事の後に紅毛蕃(オランダ人)がある)を美化するんだ?」
と言われた時、「事実を書いたまでだ」と答えたそうだが、
美化したような記述あるかな



891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 17:22:56.47 ID:5kXMhSIL
>>890
当時の日本の評判がもっとショボかったのでは

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 18:29:14.95 ID:lzSjY9GA
野蛮人の土地に名勝や希少な鉱石物産などあるはずがないのである
と思っていたりして

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 21:59:33.09 ID:I1Yy+r3R
薩摩人が鬼畜ってことは外国人も分かってたんだな

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/19(月) 18:32:41.24 ID:uEDirrNW
地理の記述で西の左のってのは違和感あるな統一しろよと

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/19(月) 19:29:35.39 ID:gTXWMnPN
「左」遷ていうくらいだからこの時代の士大夫にとっては基礎教養なのでは

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 14:21:42.70 ID:x88AXbB6
>>889
山鼠ってなんだと思ってググったらめっちゃ可愛い(*´ω`*)
こんなのが大蛇に呑み込まれても穴を開けてしまうのか…

他にも犀象?動物園かな?

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 16:05:30.59 ID:ixj2rUIK
古代ローマ人にはごちそうです

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 16:55:52.35 ID:XjfB0FTi
ダンジョウ飯

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 22:43:33.42 ID:TW/7yCGd
>>902
>他にも犀象?動物園かな?

ボス「センゴクパークには沢山の鬼や天魔が暮らしているよ、君は何が見たい?」

罪も恨みも一切の雑念の消えた新しい世界がそこに

2017年06月18日 16:12

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 01:15:39.27 ID:G1R0oyIu
村越茂助は家康の家臣でしたが、ふとしたことから勘気にふれ、目通りの叶わぬ身分となりました。
茂助は心中不平でなりませんでした。一にも徳川、二にも権現様と主家大切に働いて来たのに、
身に覚えの無い理由で遠ざけられるということは憤懣にすら値するものでありました。彼は門を閉じました。
戸外へ出ません、出たところで見るもの聞くもの、ことごとく癪に障ることばかり、いい加減なおべんちゃら武士が、
大手を振って歩き、正義の士はすべて不遇にいるように見えて、腹が立ってたまらないのでありました。
ほど経て、家康の方から茂助を呼び出しましたが、茂助は応じません。
「拙者は御勘気にふれた身の上でござる。お目通りはおそれ多い。」
嫌味と鬱憤とを言って、決して伺候しませんでした。ところがそこへ伏見の大地震が起こりました。
人畜の死傷も数多く、建物の倒れたものは枚挙にいとまありません。世間は物情騒然として、流言は日に盛んです。
こうなると根が忠義一徹な茂助ですから、家康の安否が気になってたまりません。
「権現様はいかがなされましたか。」
まず本多正信まで問い合わせました。
「その方、それほど心配になるか。」
正信はにっこり笑って言いました。
「よい機、と言っては悪いが、今こそお詫び申し上げる時ではないか。のう、すぐ参れ、参ってお見舞申し上げい。」
しかし、茂助は頭を横に振ったのでした。
「拙者は御勘気にふれた身でござる。押し付けがましく参上するのは如何かと存じまする。」
「それがいかぬと言うものじゃ。」
正信は言葉を尽くして説き聞かせた上、家族の者をそれぞれ知人にあずけて、ただ一人伏見へやることになりました。
もし家康の気持ちが元通りであれば、その場で討たれる覚悟をしていたのです。まことに悲壮な見舞い人と言わなければなりません。
伏見の家康の住居は、地震のためにひどく破損し、見るからに酷い有様になっておりました。
しかし隆々たる家康の声望は、そうしたうちにも無言の威力を示しました。
諸国の大名はこぞって見舞いにやってきます。家康は家康でこの機を逃さず、大名の心をつかむ工作を怠りませんでした。
彼は自ら握り飯を握って、見舞いの大名にそれを接待していたのです。村越茂助は、そうした家康の前に進んで、
村越茂助にござりまする。」
こう言って、言葉のかかるのを待ちました。一言、言葉があったなら、すぐその場の仕事を手伝おうと思ったのです。
ところが、家康は横目でじろりと見たきり、ついに一言の言葉も与えませんでした。
茂助の失望といったらありません。彼はすごすごと立ち戻りましたが、途中から再び引き返して、
「茂助でございます。殿、茂助でございます。」
ほとんど泣くばかりに言いました。が、これも白い目で黙殺されてしまったのでした。

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 01:17:02.93 ID:G1R0oyIu
駄目だ!絶望のあまり、茂助はよろよろと立ち上がって戻りかけました。その時です。
いたわるような声が耳元でしたのでした。それは阿部正勝です。茂助はすがりつかんばかり、それまでのことを話しました。
「わかった、が誠意じゃ。誠意が通るまでの辛抱、よいか。」
「はっ。」
再び、茂助はとって返しました。が、もう物を言う元気もなく、黙って家康の前にうずくまったのでした。
しばらくして、家康は、茂助の居るのに気づきました。二人の目がはたと会いました。
滲むような柔い人情が、お互いの目の中に光りました。
「茂助。」
「殿。」
茂助の目先は、ぼうと霞んできたのでした。嬉しさのあまり、罪も恨みも一切の雑念の消えた新しい世界がそこに開けたのです。
「いかが致した。」

『明良洪範』(良将言行録)



43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 07:00:26.50 ID:OqsrfH6f
>>41
身に覚えがないんだろ
折れるな茂助!

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 21:03:34.38 ID:oqc2RtC1
>>41
笑った

“井伊家の一本槍”

2017年06月18日 16:11

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 04:52:56.99 ID:jFVDgUyD
台徳公(徳川秀忠)御上洛の時、彦根城を御旅館になさるとの由を御沙汰につき、
井伊直孝は将軍家を敬うあまり、家中の妻子家族を皆近郷へ立ち退かせた。

この事を台徳公は御聞きになり、彦根城へ御立ち寄りもなく、直に大津へと御出に
なったので直孝は大いに驚き、そのまま彦根に閉門して御沙汰を待った。

その後、台徳公は「旅館になる城は屋敷内へ小屋を建てて、そこへ家中の妻子を
入れるのが然るべきというのに、直孝はいかなる所存で家中の妻子を近郷へ立ち
退かせたのか。実に不審である」と、仰せになった。

それから御下向なさるという時、直孝は、「このまま京都に閉門して慎んだほうが
良いだろうか?」と、酒井忠勝へ内々に問うた。

忠勝は答えて「そのまま彦根にいても然るべきではない。供を少し連れて槍一本を
持たせ、密かに御後から下り申されるべきでしょう」と、言った。

直孝はその通りにして慎んで下った。台徳公は三島を御通行の折に仰せになって、
「直孝は下ったか?」と御尋ねになった。忠勝は答えて、

「供に3人を召し連れて慎んで御後に付き、供奉仕っております」と申し上げたので、
台徳公はやがて直孝を召し出され、御言葉を御掛けなさったということである。

“井伊家の一本槍”はこの時より家例となったのだとか。

――『明良洪範』


44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 17:17:19.00 ID:5kXMhSIL
>>42
今思ったけど井伊って織田家中での明智みたいな立場なのか?
外様だし京までの道筋にある場所を任されるって

つまるところ、武士は詞が大事である。

2017年06月18日 16:09

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/17(土) 20:23:17.59 ID:5HyAQoSz
中山勘解由

後藤又兵衛が”大軍”で籠城しています」

と申し上げると、権現様は

「”大軍”と言うことはふさわしくない。
城中が残らず出てきてもおよそ七万ほどであろう。
そのような考えでは将軍の使番はつとまらん。」

と言われたという。

 味方より多勢であることを指して、”大軍”と言うべきとのことだ。
つまるところ、武士は詞が大事である。


『武士としては』



882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/17(土) 22:30:12.13 ID:egWO6U9Y
北条遺臣の中山兄弟の兄
鬼勘解由の祖父

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 02:55:43.38 ID:FU0BLAHt
>>881
家康も家康で面倒くせーな
事務的な報告なんだから素直に聞いとけ

姜沆の上杉景勝評

2017年06月18日 16:08

884 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/06/18(日) 10:39:22.75 ID:tmlaj5Mn
 [上杉]景勝なる者がいる。今は、越後[中]納言と称している。代々、越前・[越]中・[越]後の三州の地に居[城]した。
賊魁(秀吉)が信長に代わるに及び、景勝は、戦いに敗れ、服従を請うた。
秀吉は、出羽、佐渡に景勝を移して[その地を]授け、越後の地を奪って掘里久太郎(堀久太郎)に与えた。
景勝の心は平らかではあり得ず、越後の民もやはり景勝が主であることを望んだ。
 家康が秀吉に代わるに及んで、肥前守(前田利長)と家康が不仲になった。
景勝は、勝手に自分の領地に帰り、肥前守と兵を連ね越後の地を攻奪しようとした。
久太郎は大いに懼れ、数(しばしば)家康に報告した。
家康も根本[の関東]を景勝が襲うかと気にし、数手紙を送って京にもどるように勧めたが、景勝は従わなかった。

<倭人は、みなこう言ったという。
「景勝が、本当に肥前守と兵を連ねて、直ちに家康の根本を擣くとしよう。
家康が戻って[根本である関東を]救援しようとすれば、多分、清正等がいっせいに立ち上がるであろうから、
西京(である大坂)は、自分の所有では無くなるであろう。帰って救わなければ根本がまず敗れ、腹背に敵を受けることになろう。
景勝らが動けば成功しないはずはないが、惜しいかな、景勝らは[愚]鈍・懦[劣]である。必ずや、自ら奮発しようとしないであろう」>
(看羊録)

姜沆(カンハン、きょうこう)の上杉景勝


ティモシー・ブルック「セルデンの中国地図」より、日本の地名

2017年06月18日 16:07

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 12:46:08.13 ID:chYKDCHe
イギリスの歴史研究家ジョン・セルデン(国際法の父グロティウスの「自由海論」に対して
「閉鎖海論」を著し、両者の論争が海洋法誕生のきっかけを作った)所蔵の17世紀前半?に作成された中国地図
http://seldenmap.bodleian.ox.ac.uk/
南シナ海を中心に書かれているが日本の地名の漢字表記がいろいろツッコミどころあり
(地図をクリックすると拡大した地図が読める)
以下、ティモシー・ブルック「セルデンの中国地図」より適宜抜粋
・兵庫:神戸を表しているのだろう
※本州と九州がつながっている
・亜里馬王:有馬氏の治める肥前
・殺身湾子:「殺」が「穀」の誤字と考えれば「鹿児島湾」だろう
・殺子馬:薩摩の音写だろう
・籠仔沙机:長崎→ランガサク(ポルトガル語)の音写だろう
・魚鱗島:平戸の音写?

本に載っていない地名で解読を試みると
対馬:水剰馬?
沙階王:堺?
管東:関東?
大王城:京都?
闇夸勝:尼子?
温子米:出雲?和泉?
後は伊勢、越、上野、下野などはちゃんと漢字表記されている。その他興味があれば各自で解読試みて欲しい

しかし島津=鬼石曼子の出典は怪しいそうだけど、薩摩=殺子馬、鹿児島=殺身と、物騒な表記はされてたようだ