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最初から御深慮が

2021年03月07日 22:11

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/07(日) 18:26:42.39 ID:QcSgVdJW
権現様(徳川家康)と北条の一戦(天正壬午の乱)の時、北条は人数を三枚橋まで出し、和談と成って
両将対顔の折、北条(氏政か)は床几に腰掛けており、権現様は御手を着くわけにも行かず、
御腰をかがめられて後挨拶あそばされた。
その姿を酒井左衛門尉(忠次)が見て、このように申した

「中々口惜しき後座配であります。北条は奢っている体であったのに、殿の為された礼は、
あまりに相手を敬いすぎておりました。このような事は、味方の志を弱くし、かつ又、
帰服する者も無くなります。」

そう諌めたところ、権現様は手を合わせて
「御免あれ御免あれ。この返事は、やがて申し入れるだろう。」と仰せになった。

その後直ぐに、信長公(秀吉の間違いであろう)より権現様に、後一味となるようにとの御状が
寄越されたのを見て、「北条に対し慇懃の礼にて帰服したのは、これを取るためだったのだ。」
との御意であった。そして酒井左衛門尉が御前に出た折、彼はその御状を見て感心した、

これは謙信(景勝のことであろう)、北条、信長(秀吉)はその頃の名大将であり、互いに権現様を
味方にしたいと考え、争っていた。これによって、北条と話談したと聞こえると、早速
信長公(秀吉)より一味を願う事を申し来たのである。権現様の行為は、最初から御深慮が
あった故なのである。(平野権平殿咄)

武功雑記



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昔といっても心がけの無い者は

2021年03月06日 18:55

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/06(土) 16:42:02.44 ID:3DU6FgfK
大久保彦左衛門(忠教)が、堀田加賀守(正盛)殿の元にに見廻りとして行き、様々古今の物語をした。
或いは武道について、或いは三河においての人の武功の事などを語った。

加賀守殿、その時彦左衛門に
「聞き候へ。今、昔のように合戦など有るなら、むしろ昔より現代の方が、心ばせの有る人もいくらも
有るだろう。あまりに昔と言っても、現代と大して変わるところはあるまい。すこし話を盛って
おられるのではないだろうか。」

このように言われ、彦左衛門はすこし気に当てられたのか
「たしかに、左様にこそあるべきです。却って昔より今の人の心のほうが猛々しいとも見えます。
さりながら、現代であっても心がけ次第でしょう。貴殿の親父である勘左衛門(正吉)殿は六十余りまで、
別に御心がけを設けられず、イナゴの首一つ取られたという事も聞きません。されば、昔といっても
心がけの無い者は、十人並みと思し召されよ。」と言った。

加賀守殿気色変わり、その座にあった人々は「彦左はおかしき事を申すものかな。」などと、
なんのかのと言いつつ、挨拶をして座は空いていったという。
誰が云うともなく、この事は語り伝えられた。

彦左殿は後先もなく物を言う人であるそうなので、さもあるのだろう。

備前老人物語



そう、容赦もなく言うと

2021年03月05日 17:03

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/05(金) 15:44:26.80 ID:7aTXAXEA
江戸城西丸御殿の普請奉行は佐久間将監(実勝)であった。
普請が大方出来た頃、大猷院様(徳川家光)が御覧のために出御あり、将監も御供の中にあった。
そこにどういうわけか、大久保彦左衛門(忠教)が居合い、大猷院様より「普請を見よ」と
仰せ下された。これに彦左衛門「誠に結構なる御普請の次第に候。」と申した後に、将監の方を見て

「蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘るという。ここは、その方の家の如くに御殿の普請も申し付けたのか?
勿論、この城にとって必要のない事ではあるのだろうが、合戦のための作法は、少しは有るべきである。

この鴨居などは兜の立物、又は鑓などを張り上げ申すこと成りかねる。また雪隠なども見たが、身一つ
ですら入りかねる。忙しき時は具足を着ながら脇差指し、肱をいからせても入るものである。
それぞれ、確かに有る習いなるぞ。」

そう、容赦もなく言うと、上様はどう思し召されたのか、何の御返事も無くそろそろと奥へ
行ってしまわれたという。

この話を誰が聞き伝えたのだろうか。世の中では、人が語ることを聞き伝えている。

備前老人物語



今も親しく語らい合う仲である

2021年03月04日 18:19

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/04(木) 14:22:47.53 ID:835zJEu+
長宗我部の家人に、廿牧勘解由という武功の人があった。この人が人に語ったことによると

「大阪八尾にて、藤堂殿と長宗我部殿が戦ったが、朝の合戦の時に私も似合いの高名などしたものの、
後の合戦に味方打ち負けて、私も鑓を引き退いた。
この時、和泉守殿の母衣頭に名村岩石見という武功の者、私を見かけ、「返して勝負をせよ!」と
罵った。しかし「駆け引きは時によるべし。おのれのくそを喰らえ!」と言って退いた。

その折ふし、私の妹婿である伊尾木権兵衛という者が、「影湯殿、私もここに居る。返し合わせて
勝負しましょう。」と言ったため、鑓の準備をして二人共に引き返した。

その時、敵である石見はどう思ったのか、または功者であったためだろうか、南の方にゆく落人があり
さしかかって勝負すると見えた。その落人は、何の何某と申したが、その名も忘れた。
彼は終にそこで討たれた。
私たちはほど近くに在ったので、助け合わせたいと思ったが、敵は大勢に見えたため退散した。」
と言った。

堀伊織という人、これも藤堂にて母衣を預かる人であるが、ある時私に
「其の方は、今はいかなる浪人衆と話すのか」
と尋ねられ、廿牧勘解由の事を言って、彼が物語した内容を語った所、横手を打って
「さてもその事は、石見がいつも語っていて、「私に糞を食わせて退きし者があった。」と言っていたが、
誠であったのだな。その人を呼ぶことなるまいか。」

そう言われたので、「やすき事なり。」と廿牧を呼びにやって、石見と伊織と、勘解由と私の四人にて、
かの時のことを語った。笑い話と成り、
「偽りが無ければ、互いに物語しあえるものである。」などと言って、酒など飲んで立ち別れた。
これを交わりの初めとして、何れも親しくなった。

伊織の子供は、松平越前守殿の元に二人ある。今も親しく語らい合う仲である。

備前老人物語



957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/04(木) 17:31:47.95 ID:Dp28Kb2/
八尾の戦いというと
元長宗我部家臣で改易ののちに藤堂家臣となった桑名弥次兵衛吉成の
旧主と戦うのに忍びず、一人突撃して戦死した話が印象的

その名を惜しむ勇士は

2021年03月03日 18:50

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/02(火) 20:16:03.65 ID:+rSW6QQp
ある老人が、「年老いて身の養もいらぬもの也」と言っているのを、ある人が諌めて

「一夜の宿であっても、雨露が漏るのは良からぬものである。
昔、松永久秀が信長公に戦負けて自害に及ばんとした時に、百会(ひゃくえ・頭頂部にあるツボ)に
灸をして言った

「これを見る人は、何のための養生だろうかと、たいへんおかしく思うだろうが、私は常に
中風を憂いている。死に臨む時、もし突然中風が発して、五体心に任せなくなれば、
人から『臆したのだ』と笑われてしまうだろう。そうなれば私の今までの武勇も、尽く徒のものと
なってしまう。
百会は中風の神灸であるから、当分その病を防いで、快く自害すべきためである。」

と、灸をすませて切腹したという。
その名を惜しむ勇士は、このようにあるべきなのだ。」

と言った

備前老人物語



週刊ブログ拍手ランキング【02/25~03/03】

2021年03月03日 16:19

02/25~03/03のブログ拍手ランキングです!


栃木のエラスムス木像 16

ただ一つ、申したい事 9

いわんや、人間も日用の養により 8
【雑談】『エイジ・オブ・サムライ: 天下統一への戦い』について 8
およそ首帳は 8

さらに心の許されぬ男である 7
上様は毛嫌いを 6
明智光秀と粽(ちまき)の「太閤真顕記」バージョン 6
養生というのは毎日の食事と性交によって決まります 4


今週の1位はこちら!栃木のエラスムス木像です!
「貨狄尊者(かてきそんじゃ)像」としても有名なエラスムス木像、こちらが取り付けられていたリーフデ号は、2年に渡る非常に
過酷な航海(当初110名あった船員が日本到着時にはわずか24名であったという)の末に、日本に初めて到着した
オランダ船であり、それだけでなく、この乗組員には、後に家康に仕えるヤン・ヨーステン、ウィリアム・アダムスも有り、
実に歴史的な船でした。
そしてそもそもこのリーフデ号、当初船名を「エラスムス号」としていたようで、おそらくはそれ故に、この木像が
取り付けられたのでしょう。(なおリーフデ(Liefde)号のリーフデとは、「love」の事だそうです)
日蘭交流の歴史だけではなく、この時代の航海、ヨーロッパについてなど、ここから様々に考えることの出来る、
そんな内容だと思いました。

2位はこちら!ただ一つ、申したい事です!
池田輝政とその家老・伊木清兵衛のお話。この「掘り出し」という言葉が低い身分の者を見出して取り立てるという事と
すると、それについて諌めるというのは、伊木清兵衛は家内秩序を保持する立場であったのでしょうから、
それに対する弊害を、身を以て感じていたのでしょう。そして、普段であれば、自己の権勢を保つためと見られかねない
内容でもあり、死の間際だからこそ諌めと成った、とも受け取れられますね。
時代としても、近世の体制が定着を始め、家中組織もまた、秩序だった運用が求められた時期とも言えるでしょう。
君臣の情誼だけでなく、時代背景も想像させる、そんなお話だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!さらに心の許されぬ男であるです!
昨今研究が進み、梟雄ではなく三好(宗家)の忠臣であったとみなされるようになった松永久秀ですが、一方で
かなり早い段階から梟雄、悪人というイメージを持たれていたのもまた、事実でした。
このあたり、現実に長慶死後の三好の内紛で、畿内を中心に様々な被害があった事、結果として、三好宗家を
守れなかったこと、さらにその最後が、信長への謀反という形で滅び、松永家は後世に継承されなかった事、などが
関わってくるのでしょうが、そのような中で生まれた認識が、このような逸話を成立させた、とも言えるのでしょう。

またこのお話は信長の、人の体面を気にしない傍若無人さについても描かれています。こちらもあくまで、イメージでは
あるのでしょうが、本能寺も含めて、信長のこのような無神経な性格が多くの謀反を誘発した、との理解も、広く
認識されていた事が伺えます。
歴史上の人物として、非常に強い個性を放っている久秀、信長ですが、そういったキャラクター性が出現し、定着していった
過程もすこし見ることの出来る、そんな内容だと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当にありがとうございます!
また気になった逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

養生というのは毎日の食事と性交によって決まります

2021年03月02日 16:04

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/01(月) 23:26:03.62 ID:0InPvIGA
曲直瀬道三松永久秀にあげた「黄素妙論」冒頭
黄帝「昔の聖人の寿命は千歳を超えているのに、現在は数十年。
それに現在は不健康なものが多い。これはどういうことか?」
素女「父親、母親の体質もありますが、一番は養生の問題です。
養生というのは毎日の食事と性交によって決まります。
少年や血気盛んな壮年の時に飲食を慎み、性行為もほどほどにしておけば病気になりません」
(このあと正しい性行為がどのようなものかについての詳述)

これを読んで鈴虫の餌を減らしたのだろうか
カロリー制限でショウジョウバエ含めいろいろな生物の寿命が延びるのは判明しているけど



952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/02(火) 11:57:03.84 ID:vrOhN7/u
このおじさん多趣味すぎるだろ

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/02(火) 15:37:00.50 ID:qnjftz2d
道教によると幼女の淫水を飲めば不老長寿が望めるそうだ

いわんや、人間も日用の養により

2021年03月01日 19:06

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/01(月) 16:55:48.22 ID:pSmDjqkp
松永弾正(久秀)が鈴虫を飼うのに、様々に工夫して養うと、三年まで生きた。
これを見て「いわんや、人間も日用の養により、長命すること疑いない。」
と言われた。

備前老人物語



さらに心の許されぬ男である

2021年02月28日 17:04

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/28(日) 14:44:02.56 ID:uwKv/9gu
ある人の言ったことによると、信長公が明智に滅ぼされたのも、尤もな事であった。
その故は、この殿は心猛くして、智浅くあられた故に、後難を顧みず、人の悪行をてきめんに
宣われたこと度々であった。

ある時、家康公が信長にまみえられた時、松永弾正(久秀)がその座に有った。
家康公は松永に対し、礼譲を厚くされていたのを、信長は見られて

「いやいや、あの弾正は左様にあしらわれる者ではない。元来弾正はわずかなる小身の身であったのを、
三好が取り立て大身に成した。しかるに聊かの恨みを含み、旧恩を忘却して、たちまち謀反反逆を企て、
三好を滅ぼした。そうして天道に背きし故に、戦に利を失い、流浪の身と成って、今、我を頼んで
ここに来ている。されど、さらに心の許されぬ男である。」

そう、苦々しく宣われたため、松永は面目を失い顔を赤らめてそこに在った。
その恨みを思ったのか、公方(足利)義昭に御謀反を勧め、信長に敵対したが、微運によって
望みを遂げずして滅んだ。
明智も信長公に遺恨が有ったのだという。

これに聞きどころ有り、心を付くべきものなりと言う人がある。ただ人は、恨みを受けぬように
ありたきものであると言った。

備前老人物語



栃木のエラスムス木像

2021年02月27日 17:25

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/27(土) 10:08:10.28 ID:ncXOF1lg
栃木のエラスムス木像

栃木県佐野市の龍江院に所蔵されているエラスムス像は、現在東京国立博物館に寄託され
国の重要文化財に指定されているが、像主が比定されるまで紆余曲折があった。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f3/Wood_figure_of_Desiderius_Erasmus.JPG
Wood_figure_of_Desiderius_Erasmus.jpg

この像は当初貨狄像(中国の伝説上の船の発明者)とされていたが、大正9年(1920年)に栃木の郷土史家
丸山瓦全によって"キリスト教の宣教師の木像"として紹介されると、大正13年にはバチカンで催された
世界宗教博覧会に在日本キリスト教聖人像として写真が出品され、西洋の学者が知るところとなった。

像の右手が持つ巻物には「ER□□MVS R□□TE□□□M 1598」と刻まれており、これがオランダの
偉人エラスムスであり、ロッテルダムで1598年に就航したリーフデ号の船尾の飾りであることが分かった。
リーフデ号は幕府旗本のウィリアム・アダムス(三浦按針)が日本に漂着した際に乗っていた船である。

龍江院は幕府旗本の牧野氏の菩提寺であり、この像も牧野氏ゆかりの品と共に納められていたため
長旅でボロボロになったリーフデ号が遂に解体された際、旗本として立ち会った
牧野成里(あるいは子の成純)が木像を持ち帰ったのではないかと推測されている。

ちなみに地元ではこれは"小豆とぎババー"で夜中にお堂の中で小豆を研いでいるが、子供が親の云うことを
聞かないときはこれがやってきて子供を驚かせるという話や、この像がムジナに化けて村人を騙すだとか
「チャンピロリン」「チャンピロリン」と歌い出すなど様々な伝承があり、有名な木像であったらしい。

またエラスムス像と判明した際、これがオランダ最古の木彫になることが分かり返還要請があったが
丁重に断ったという。1998年にはオランダへの里帰り展示が実現した。

参照
Wikipedia「貨狄尊者』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A8%E7%8B%84%E5%B0%8A%E8%80%85



949 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/02/27(土) 10:47:01.05 ID:0Mq45N13
>>948
どこをどう見て小豆とぎババーになったんだろう?笑
ブロッコリーみたいな頭とか?

【雑談】『エイジ・オブ・サムライ: 天下統一への戦い』について

2021年02月27日 17:20

612 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/02/26(金) 22:31:54.11 ID:Ueuzfx8t
ネットSNSで少しばかり話題のこれ、なろう系中世欧州風異世界とはこのようなものであったかと思い知った所存


ネットフリックス
エイジ・オブ・サムライ: 天下統一への戦い
2021 | | 1シーズン | 軍隊・戦争を描いたドキュメンタリー
群雄割拠の戦国時代にあった16世紀の日本。武将たちが権力争いと領土侵攻を繰り広げた波乱の時代が、
迫力あふれる再現ドラマと専門家の解説でよみがえる。

出演・:羽田昌義、小坂正三、伊藤英明

613 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/02/26(金) 22:33:08.30 ID:Ueuzfx8t
URLが貼り付けられないので、検索の上オフィシャルトレーラーその他をご覧いただきたい


ネットフリックスの紹介ページ
https://www.netflix.com/jp/title/80237990



614 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/02/26(金) 22:44:47.49 ID:Ueuzfx8t
海外視聴者には、Wikipediaと同じでかなり正確とか、三傑の描写も迫真とか、史実に沿った丁寧なつくりとか評判のご様子

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/27(土) 06:55:21.22 ID:antPjE61
シーモンキーの人か、皮肉入ってるな

616 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/02/27(土) 09:23:08.46 ID:gnoqrqhI
>>6-10の世界観ねw

およそ首帳は

2021年02月26日 18:48

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/26(金) 15:34:07.69 ID:PTbLLrIC
大阪冬の陣の時、大阪城中の千畳敷にて首帳が付けられたが、松浦彌左衛門が「今福表の一番首なり」として、
帳前に首を持参した。しかし帳付けの役人は「心得たり」としたが、帳に書き付けなかった。
松浦は重ねて「早く書きつけられよ!」と言ったが、帳付けは
「私はしっかり受け取った事、相違有りません。書き付けるでしょう。」
と言っている所に、堀田図書の組の、渡部清兵衛が首を取ってきて

「それがしが一番首であること疑いなし。松浦は馬であり、私は歩行であった。故に帳前に来ることの
遅速、このようになったのである。」

そう言うと、帳付けの人「心得たり。」と、二人ながら一番首に記した。

およそ首帳は、二番首を見ぬうちは付けないものであるとの古説があるという。

備前老人物語



944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/26(金) 17:18:03.14 ID:MmFIGxLy
>>943
何となく屁理屈にも聞こえる


945 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/02/26(金) 21:29:20.69 ID:RC+O8SPs
毛利家でも首帳の話あったなぁ。こちらは手負の苛立った武将に首帳役がどつかれて流血沙汰になってるけど。
よくよく考えたら合戦中に自分の武功を申告に行くって非効率な気もするけど、休憩も兼ねてたんだろうか?

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4944.html

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/26(金) 21:34:37.80 ID:w26FOHiy
『武将感状記』
白井甚右衛門首帖を記す事

・首を取ったことは書き付けたけど一番首だとは書付けなかった
・遅れてやってきた浅部清兵衛と比較吟味の上、松浦の方は二番首と書き付けた
・松浦に直接「これが作法です」って伝えてる

武将感状記までに分かり易く脚色されてる可能性もあるけど
妥当な処理の仕方だったんでないかな
おなじ『武将感状記』に
「首取ったからといって本陣に戻って来ずに前線で戦い続けろや」
と怒る柿崎景家を褒めてる記事があるのはご愛嬌

947 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/02/26(金) 21:55:54.83 ID:SW/2Jl+I
>>946
時代
戦況
兵の立場の違い(大坂は戦功誇示に逸る牢人が多い?)

とか時代による考えの差や戦の規模の違いも
あるんだろうけど、査定する側の第一印象や忖度も少なからず有ったのではないかと思う今日この頃

上様は毛嫌いを

2021年02月25日 18:43

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/25(木) 16:55:00.29 ID:J/vuJaWh
慶長六年九月十五日の昼過ぎて、家康公は表に出御された。御機嫌良く、色々様々の御咄があった。
堀尾帯刀(吉晴)、大島雲八入道、猪子内匠、船越五郎右衛門が御前にあり、船越がこう申し上げた
「去年の今日、御合戦(関ヶ原の戦い)の日もあめが降りましたが、今日も雨降りです。」
これに家康公は御機嫌良く、お笑いに成った。

猪子内匠が申し上げた
「田中(吉政)の人衆は敵に遭い、三町余り敗軍しましたが、誰かが『返し候へ!』と下知した
ようにも見えなかったのに、引き返し敵を追い崩しました。田中の軍勢の働きは、見事でございました。」
そう申した所、家康公は仰せに成った

「あの時田中勢の間近くに、金森法印(長近)が吹貫を立て備えを成していた。しかしこれを敵と心得て
田中勢は馬を寄せなかった。法印の手勢と知っていれば、先へ押し出し、法印の居た所に馬を寄せて
いただろう。そうであったなら、敵を一人も洩らすこと無かったのに、法印の備えを知らなかった故に、
そのように苦戦したのである。」

総じて、家康公は弓矢の御咄などは、あえてなさらぬ人であった。相手によって、弓矢噺となった場合も、
脇からその事について存じている者が話し出すとそれにまかせ、御咄も止められた。
それを御小姓衆は、「上様は毛嫌いを遊ばされている。」と言っていた。
鶏を合わせた時、向かいの鶏を見て一方の鶏が退く場合、その事を下々では(相手の毛並みによって
好き嫌いをする、という事から)『毛嫌い』(これという理由もなく、わけもなく嫌うこと)と申していた。

慶長年中卜齋記



ただ一つ、申したい事

2021年02月24日 19:20

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/24(水) 17:14:21.51 ID:LWZDkCAy
池田三左衛門(輝政)殿の家老・伊木清兵衛が病に臥して、既に末期に臨んだが、
「我、今生の望みある也。今一度、君の御目にかかりたき也。」
とあれば、これを三左衛門殿聞こし召し驚かれ、急ぎその家に至り、枕に近づいて声をかけた

「いかに清兵衛、一体どうしたのか。これほどの事と知らなかった事こそ、私が疎かった。
思うことがあるのなら、言い置くべし。その望みに従おう。元より、そなたの跡目については、
相違無いこと言うに及ばない。」

そのように、非常に懇ろに仰せになると、清兵衛は頭を上げ、両手を合わせ

「これ迄の入御有り難く、冥加至極です。私の遺跡の事は、愚息の覚悟次第に仰せ付けになって下さい。
兎にも角にも、御はからいによる事ですので、いささかも心にかかる事はありません。

ただ一つ、申したい事と言えば、これを申さぬまま空しくなれば、妄執にもなってしまうでしょうから、
恐れながら申します。

公は常に物事に、掘り出しを好ませられる御病があります。中でも士の掘り出しを専らとされるのは、
よからぬ御病です。
士はその分限よりは、一段よろしく宛行わせ給ってこそ、長く御家を去らず、忠節を存ずるのです。」

そう申すと、三左衛門殿はつくづくとお聞きになり

「只今の諫言、道理至極である。その志、山よりも高く海よりも深い。生前に於いて忘却する事はない。
それについて、どうか心安く思って欲しい。」と、清兵衛の手を取り、涙を流して、名残惜しげに
別れられた。君臣の情のあはれなる有様、その後、家風ますます良くなったという。

備前老人物語

掘り出しというのは、低い身分から急激に取り立てるという事ですかね



942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/26(金) 14:04:46.13 ID:X1ui9xHZ
シンデレラストーリーみたいなのはみんな好きだからな
え、私なんかが馬廻衆に?みたいな

明智光秀と粽(ちまき)の「太閤真顕記」バージョン

2021年02月24日 19:17

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/24(水) 18:55:29.04 ID:f7Vz/0wo
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1120.html
明智光秀と粽(ちまき)の「太閤真顕記」バージョン

天王山の戦いの陣中で神官、僧侶、医者、御用達の町人が光秀のご機嫌伺いをしている中
烏丸二条下るの町人、塩瀬三右衛門が饅頭などの菓子を持参した。
光秀がその中から粽を取り出し、食べようとしたところ
鬨の声が聞こえたため、包み葉も解かずそのまま食べてしまった。
そばにいた人々は「さては光秀といえども心臆して狼狽したか」と囁いたが
他のものは「いやいや名将は軍のことをのみ考え寝食を忘れてるのであり、
包み葉を解かなかったのも軍を気にかけている名将としての証である」
と評したという



605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/24(水) 19:31:08.70 ID:f7Vz/0wo
太閤真顕記」では塩瀬三右衛門が烏丸二条下ルの町人となっていましたが
塩瀬家が饅頭屋を営んでいたことから名前がつけられた
饅頭屋町の住所は烏丸三条通り下ルなので、三条が正しいみたいです

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/25(木) 11:18:27.80 ID:vxvxZf9F
京都の上る・下るは良くわからんから調べてみたが
この場合は烏丸通りと二条通りの交差点(四辻?)を
南に行った所でいいのかな?

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/25(木) 13:11:43.82 ID:9+K9E1ef
厳密に言えば玄関がどこの通りに面して、どの交差点から近いかだな
烏丸通りと二条通りの交差点を南下すれば最短で塩瀬家に入れる

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/25(木) 14:53:29.62 ID:vstcWqSj
https://dotup.org/uploda/dotup.org2396640.jpg
ちず

このように烏丸通りと三条通りの交差点の南に
「饅頭屋町」は今も位置している

週刊ブログ拍手ランキング【02/18~/24】

2021年02月24日 16:43

02/18~/24のブログ拍手ランキングです!


渡辺水庵翁は火燵が嫌いであったが 11

とりわけ『べい』『べら』と云うこそおかしけれ 9
人の善悪はこういう時に分明に 9

道恵の茶湯には 6
先ず、茶湯の置合違たり! 6
「豆相記」の小田原城攻めの場面 6
北条五代の軍記物「豆相記」冒頭 6
あの鉄砲は狭間くばりといって 5



今週の1位はこちら!渡辺水庵翁は火燵が嫌いであったがです!
老年期の渡辺勘兵衛のお話ですねー。この頃から、掘り炬燵、置炬燵の違いが有ったことが見て取れます。
そしてここで、勘兵衛は炬燵が嫌いだった、とあり、コメントにも伊達政宗が炬燵をわざわざ台無しにするような当たり方の
事例がありますが、どうも室町から戦国期にかけての武士というものは、「寒がる」という事を非常に蔑んでいたフシがあります。
当時は足袋も「防寒具」と考えられていて室町将軍に仕える武士の心得には、足袋は年寄りの履くものであり、
どんなに寒くても一般的には履くべきではない、とされていたりします。頭部を温める頭巾などは以ての外で、
寒さというものに対しては、耐えて当然、という意識が有ったらしいのですね。
実にスパルタ的といいますか、ある意味野蛮といいますかw
ともかく、炬燵などであたたまるというのは、その人物の「老い」を自他共に表すような行為であったのでしょう。
こう言った意識を、比較的温暖な西日本だけでなく、冬場の寒冷な東北の伊達政宗まで共有していた、という事は
また面白いですね。そんな事を思った内容でした。

2位はこちら!とりわけ『べい』『べら』と云うこそおかしけれです!
こちらは京から見た東国の訛りについての批判と、それに対する反論のお話ですね。この手のお話は、平安期ころから
存在する、ある意味パターン化された内容ではあるのですが、江戸初期にもなると、むしろ江戸の住人から「あの京の
人間はなんにも知らないな」というような、ある種の同情(?)が表明されているのが面白いですね。それだけ江戸の
人々の方に、江戸、東国に対する自信が定着していたとも言えるのでしょう。
そういえば、江戸の武士言葉というのは、実は関西弁がベースである、という説があります。江戸城の言葉はそもそも、
豊臣秀吉の時代に聚楽、あるいは大阪、伏見で「共通語」として話されたものがベースで、それは勿論、主に京言葉を
基本としており、その言葉を話していた人々が関ヶ原後、こぞって江戸に移住したことで、話し言葉もそのまま
使用された、という説です。書き文字にした場合、江戸言葉も京大阪の言葉もほとんど違いがない、という所から
考察されたものですね。江戸の武士言葉は現代の共通語に繋がるものですので、それが、関東の発音の影響を受けた
関西の話し言葉であったと考えると、なるほど共通語にふさわしい、という気持ちにもなります。
方言、訛りは自身のアイデンティティにも直接つながるものでもあり、昔からそういうことを、人々は気にしていたのだ、
というものも含めて、面白いお話だと思いました。

今週は同票でもう一つ!人の善悪はこういう時に分明にです!
京の火災の時における八条宮智仁親王の逸話ですね。この火事がいつ頃のものかははっきりしませんが、
八条宮の理知的かつ果敢な人格がよく伝わってきます。この八条宮智仁親王は、関ヶ原の時、田辺城の戦いを
止めさせ細川幽斎より古今伝授を受けた人物の一人、としても有名ですね。また豊臣秀吉の猶子であり、豊臣家と
皇室との関係の中心人物でも有りました。文化的にも政治的にも、当時の重要人物の一人ですね。
そしてこの話を語っているのが、織田信雄と言うところも非常に興味深いですね。信雄は内大臣という高い官位を
有していた人物でも有り、当時の朝廷内の事にも詳しかったのだろうと、察せられます。
まあ焼く焼かないという話で、自身も逸話を持っている事がここではツッコミどころに成っていますがw
それも含めて非常に印象的なお話にも成っていると思います。
いろいろな意味で面白い逸話だと思いました。



今週もたくさんの拍手をいただき、本当にありがとうございます。
また気になった逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

道恵の茶湯には

2021年02月23日 17:55

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/23(火) 14:14:56.86 ID:ciKhsDbE
古田織部殿の茶湯が盛りであった頃は、遠国よりも多くの人が伏見へ登り逗留して、
織部殿の手透きを伺って茶湯を所望していた。

織部殿の殊に気に合った塗師の道恵という者、都に住んでいたが、織部殿の余勢によって、
茶湯も家業も上手であると、京都の人々は褒めそやし、自身も運も良さを自慢していた。

その頃、田舎に住んでいる士が四、五人打ち連れて伏見へ赴く途中、道恵の家の側を通り、
そこで案内を通してこのように伝えた

「我々は伏見へ赴く者たちなのだが、織部殿の所にも折々出入りさせて頂き、そちらのこと、
かねてより承っている。このような折から幸いに思い、寄って御茶を所望仕りたい。」

これに道恵は喜び
「丁度釜の湯も湧いています。よく我が家を訪ねてくれました。」と、露地の戸を開き招待した。
互いに挨拶事が終わると、茶請けとして煎海鼠、串鮑、蒲鉾の煮染めた物を出し、茶を点て仕廻し、
時宜を述べて各々立ち帰った。

道すがら、道恵の作意について彼らの褒貶はまちまちであったが、その中で千田主水が難じたのは
「今日の茶請けは潔くなかった。不時の作意も無く、ただ残り物の類を出されたようで、気分が
良くない。道恵の茶湯には奥ゆかしさがない。」

そう言うと、聞いた人は皆是に同意した。
このような事は茶湯に限らず、時により人により、よくよく遠慮があるべき事である。

備前老人物語



601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/23(火) 16:39:36.11 ID:l3tNfJO0
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3557.html
千利休と親しい侘茶人


蒲鉾そのまま出すと前もって来ることを知ってたな
と言われるし
煮染めにすると残り物みたいだと言われるし

602 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/02/23(火) 21:21:11.16 ID:vk/HjP/K
こうして、京都市街の住民は不意の来客、ことに好まざる相手に対してはぶぶ漬けを出す様になったと言う。
(民明書房刊『日本全国県民性起源』より)

先ず、茶湯の置合違たり!

2021年02月22日 19:09

谷衛友   
599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/22(月) 16:19:09.58 ID:fuLE/6ii
古田織部殿が茶湯宗匠の頃、彼が気に入っていた大工で、喜右衛門という者があった。
その頃茶湯を心がける人々は、織部を崇敬する余り、喜右衛門とも親密になった。
ある人が谷出羽守(衛友)殿を上客として、相伴衆二、三人の内に、かの大工・喜右衛門を
加えられた。

その朝に臨み、出羽守殿が入来あると、喜右衛門が路地に出迎え、「今朝の御相伴に、早々より
参り候」と申した所、出羽守殿は気色変わり、

「先ず、茶湯の置合違たり!」

と、立ち返ろうとしたのを、相伴の衆が色々に取り持ったため、異事は無かった。
その頃、この事については様々に批評された。

備前老人物語



あの鉄砲は狭間くばりといって

2021年02月21日 19:09

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/21(日) 17:35:22.72 ID:jMSoTC5v
大阪冬の陣の時、寄手は西南北東、大方軍勢が揃った所に、城中より大小の鉄砲を、つるべ放ちに
事も夥しく撃ち出した。

これに諸方の寄手は色めきあったが、このような所に古田大膳(重治)殿の家中にて、高禄を受け
日頃は用に立つ人と聞こえている老武者が、鉄砲の音に驚き、
「大将に御物具まいらせよ!各々覚悟せよ!」
と勧めたため、物に慣れない若者たちは、「すわ、敵が出てくるのか!?馬よ、物具よ!」と
罵りひしめき、上を下へと騒ぎ立てた、

このような所に、先手の組頭である森次郎兵衛原十兵衛の二人が馳せ来た。
「これは何事に騒いでいるのか!?狼狽えたことを申して、大将をも驚かし参らす事、
沙汰の限りである!
あの鉄砲は狭間くばりといって、城攻めの時の大法である。この事を大将に申されよ。
何れも心安くして、静まり候へ!」

そう言い捨てて、それぞれの持ち口に帰っていった。

この森次郎兵衛は戦場において、度々の高名があった中にも、三木城攻めの時、太閤、その時は
羽柴筑前守殿と云って、付城をなされたが、敵の別所方より押し返して来た所に、次郎兵衛が
走り出て、門を支えさせ、合い鑓を合わせて追い払った。その振る舞いが比類無かったため、
筑前守殿より召され、陣羽織を手づから給わった。

また原十兵衛稲葉一鉄に仕えていた時の手柄、また八王子にて度々比類なき働きが有った。
後には森内記(長継)殿に仕えたという。

備前老人物語



とりわけ『べい』『べら』と云うこそおかしけれ

2021年02月20日 18:09

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/20(土) 17:22:09.09 ID:0XyPLAi2
近年聞いたことである。
鈴木宗順という京の人が、江戸に下ってこのように云った

「関東は、聞いていたよりも、見ればいよいよ下国にて、よろず賤しい。
人は頑なに言葉が訛って、『なでう事なき』『よろこぼひて』などと片言ばかりを
云っているため、内容が聞きづらい。

拾遺和歌集に『東にて養われたる人の子は、舌だみてころ物は云いけれ』と詠ぜられている。
さてまた、宗碩が『片つ田舎は問はるるも憂し』と発句をしたところ、『何とかはだみたる聲の答へせん』と
宗長が付けた。宗長は生国関東の人(生国は駿河国島田とされる)なればなり。
『都人、問ふもはずかし舌だみて うきことわりを何と答へん』と詠んだのもげに理である。
とりわけ『べい』『べら』と云うこそおかしけれ。

これにつけても我が住み慣れし九重の都、さすが面白き境地である。人王五十代桓武天皇の御宇、
(延暦)十三年甲戌十月二十一日に、山城国愛宕郡に都を遷された、男女の育ち、尋常に、言葉
優しく有りけり。」

関東衆はこれを聞いて

「愚かなる都人の云うことである。国に入っては俗を問い、門に入っては諱を問う。これ皆定まった
礼である。知らぬ国に入り、その国の言葉を知らないのに、それを問わないのは道理に合わない。

孔子は生まれながら物を知る智者であった。その孔子も大廟に入って、祭りに與った時には、事々に
人に問うたとか。舜も大智の聖人にてましますけれども、よろすに物を人に聞かれた。
知っている上にも問うのが、智者の心である。

そして関東の諸侍は、昔から今に至るまで、仁義礼智信を専らとして、文武の二道を嗜まれた。
民百姓に至るまで、筆道を学び、文字に当たらない言葉は、あからさまにも唱えない。

この宗順は、文字般若(般若の道理と智慧とを、文字によって示したもの)に暗ければ、義般若にも
暗く、却って他を難じている。
文字は貫道の器である。器なくして善くこの道に達するという事が、どうして出来るだろうか。

されば伊勢物語に『よろこぼひて』と書かれているのは『喜びて』の事であり、『なでう事なき』とは
『させる事なき』という事である。
『べい』は『可(べし)』の字である。言葉のつながりによって『べし』とも『べら』とも云う。
古今集に『秋の夜の 月の光の清ければ 暗部の山も越えぬ「べら」なり』と詠まれている。

その上、『知って問うは礼なり』と、古人も申されている。ましてや知らずして他を難ずるのは
まさしく道理に合わない。」

と云った。

慶長見聞集

関東の訛りについてのやりとり