花を生けない風

2018年04月24日 14:11

790 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/23(月) 17:27:26.18 ID:I4bMV9F0
小堀遠州が伏見にいた頃、黒田筑前守長政が国へ帰るというので茶会に招いたものの、
長政は途中で病気になり、大津で養生するというので招きを断った。

遠州は残念に思っていたが、幸いにも上林竹庵と京都の数寄者2人がやって来たので、
丁度催していた茶会に招くべく、「路次の方へ廻られよ」と言った。

3人は喜んで茶亭の方へ行ってみると夕立の後で涼しく、庭の若葉は露が滴るばかり
である。ところが床の間には花は生けてなく、床の壁にはさっと水を打った跡が

あるばかりであった。皆が不審に思っていると遠州がやって来て、「今日の夕立で
路次の木々が涼しそうに濡れているのを見た眼では、花は面白くあるまいと思い、

わざと生けなかったのだ」と答えたので、3人は等しく感じ入ったということである。
ところがこれを聞いた京都辺りの茶人は、雨が降りさえすればわざと床を濡らして、

花を生けない風を流行らせたので、伝え聞いた遠州は大いに笑ったという。この一事
をもってしても、いかに遠州が一代茶道の泰斗として天下に重んじられたか知れよう。

――『茶道の名人』


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御衣装も常に黒いものを

2018年04月24日 14:09

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/24(火) 01:57:28.42 ID:QCYFTSWG
御衣装も常に黒いものを


細川幽斎は太閤(秀吉)の時代でも、御内衆の身なりを古法に従わせた。
刀に鞘袋を付ける者は御覧になり次第叱らせるようにし
御供の履物も全て足半で、長草履を履いている者は一人もいなかった。
聚楽第にあった御屋形も全て唐紙障子で絵などを描かせることはなかった。
実目な方なので、御衣装も常に黒いものを着られた。

小田原陣であろうか、諸大名が金銀を散りばめ花を飾っていたときに
甲鎧は申すに及ばず、旗差し物まで黒色の出で立ちだったという。
ただし、これは事実かどうか分からない。


――『戴恩記』


”信長”という字が欲しい

2018年04月23日 12:04

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/23(月) 10:23:47.49 ID:0sNfbvnH
織田信長という人は、若い頃はお供を一人も召し連れず市町在々を歩き回るような、
諸人にすぐれたわやく者(無法者、いたずら者)であった。

御若名を三郎と申していた時、中間一人に荷俵を背負わせ矢立を腰に挿し、西国巡礼に
出かけた。
堂宮に落書きをしながら廻り、摂津国天王寺に参ったが、近くの寺に侍らしき者6,7人
寄り合い、名乗り字を書き読んでいた。
信長はこれに近づくと

「その名乗り字一つ、私に頂きたい。国への土産にいたしたい」

そう望んだ所、先の者達尋ねた

「何れの字が欲しいのか?」

「”信長”という字が欲しい」

「これは天下取りか国盗りの付ける名前だ。その方などにはもう少し身の丈に合った
名乗りのほうが良い。」
そう笑いながら言われたが、三郎は

「それを付けるというのではない。ただ国の土産にしたいとだけ考えているのだ。」

「そういう事なら、使わない、付けないのであればこのまま取らせよう。」

そう言って、”信長”の書かれた所を切り取って三郎に渡した。

(祖父物語)

この話、司馬遼太郎の国盗り物語にまんま出てたけど、祖父物語が元ネタだったんだな。



786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/23(月) 10:40:38.48 ID:Wg26+URo
武田信長は上総国盗りを意味する名前だったのか

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/23(月) 19:21:46.66 ID:rCIHAaKF
>>786
甲斐を追われたあとは義教に仕えて結城合戦とかで活躍してるんだよね
義教が没したあとは成氏を頼ってその命で上総の上杉領を攻略して息子たちに残した
結構、激動の人生を歩んでるよね

枉げて勝頼の下知を了承し

2018年04月22日 21:19

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/22(日) 20:29:37.55 ID:ou08Zeez
 (1582年3月3日)新府城から郡内(小山田領)へ退避するために新府城にある物資や妻女たちを運ぶため、
夫馬300疋、人夫500人を新府城まで出すようにと国中に触れたが、
甲斐の地下人たちは山野に隠れてしまい、国中は織田方の侵攻と武田の敗戦を知り騒然としていた。
夫馬も人夫もなかなか姿を見せず、勝頼夫人の輿を担ぐ輿かきすら逃げうせてしまっていた。
家来たちが手分けして、夫馬一疋をようやく探し出し、これに草鞍を敷いて北条夫人を乗せた。
 勝頼は新府城を退去するにあたって、ここまで同行してきた信豊を呼び寄せた。
「信濃国を譲渡する。小諸城は要害堅固の城であるから、
ここを足場に舅である小幡上総介信真(小幡信貞)らを頼み、真田昌幸、内藤昌月らと協力して
上野、信濃の軍勢を集めて信長らが甲斐に侵攻してきたら後詰をして欲しい」と頼んだ

これに対し信豊は
 「信濃を譲られたことは誠に光栄であり、今生の思い出としたい。
だが譲られたとしても私に対し、上野、信濃の国衆が強力をしてくれなければ、
結局それは徒労に終わるほかない。ならば、どこまでも最後まで勝頼様と行動を共にしたい」
と勝頼が何度も頼んでもなかなか応じなかったが、勝頼もそれを承諾はしなかった。

勝頼は
「気持ちはありがたいが、一門が同じ場所に落ち行くならば、それは計略は無きに等しい。
枉げて勝頼の下知を了承し、後詰めの作戦を実行して欲しい」と頼んだ

ついには信豊が折れて佐久郡や上野衆をつけたうえで新府城を去り、勝頼と別れた
(甲乱記)

因みに勝沼で織田を防ぎ、信豊が織田軍を封鎖するというのは
天正壬午の時の北条に対して徳川がやったことと同じような作戦をやろうとしてたんではないかと

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/22(日) 20:42:14.11 ID:ou08Zeez
あと書き忘れたけど
武田信豊は軍鑑では密室政治だと批判の対象の1人である
だから彼の最後は見限って本領(小諸)に帰ったとしている。(※小諸は信豊の本領ではない)

一方で甲乱記の信豊は
信豊と勝頼とは幼年期から仲が良く、勝頼が家督を相続してからは、特に信豊を重用していたので
信豊の意思は勝頼の意思であると武田領内の人々はそう認識していた

信豊も最後は小諸城主下曾根浄喜に裏切られ自害するわけだけど
少なくとも甲乱記の勝頼との最後は№2として悪い話じゃないと思って>>782書いた



784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/23(月) 00:08:54.64 ID:PU1Wd8To
No.2としては親父の足元にもおよばないのな、信豊

この茶筅御曹司は

2018年04月22日 21:18

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/21(土) 20:37:34.77 ID:O7Cf+qsQ
本能寺の変が起こった頃、蒲生飛騨守(氏郷)は近江の日野の谷に居たが、即座に安土へ参り、
土山に在った茶筅御曹司へ使いを立てて

「私の人数は三千あまり有り、また信長公馬廻りの士は五千もおわします。
この五千は明智の十万にも勝るでしょう。
必ず明智は安土に参ります。これと合戦すべきです!」

そう申し上げたが、茶筅御曹司はどう思ったのか蒲生に同意せず、終に合戦は無かった。
この茶筅御曹司は、後に尾張常真(織田信雄)と申した人である。

蒲生も一人の力ではどうにも出来ず、空しく日野谷へ帰った。
その後明智は坂本より船にて襲来し、安土の城を焼き払い、金銀を取り集め坂本へと帰った。

(祖父物語)


島津家大永の内訌

2018年04月22日 21:18

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/22(日) 03:52:33.20 ID:469vx5k8
大永7年(1527)、島津貴久は守護職を継いで鹿児島清水城にあり、養父で前守護職の島津勝久
伊作に移って隠居した。ところが島津実久が勝久と通じ、貴久の実父・忠良と勝久の離間を図った。

実久が伊集院城と谷山城を攻略して鹿児島へ向かうと、忠良は加治木・帖佐の地に勝久を移そうと船で
鹿児島に向かったが、戸柱まで来た時に不穏を見て取り、田布施へと帰った。実久は貴久に守護職の

返還を求めたが、貴久はこれを拒否して清水城を死守しようとした。しかし鹿児島に内応者がいるとの
風聞により、貴久は夜に城を抜け出して園田実明の宅に隠れ、実久の追手を逃れた。

のち勝久は実久に擁されて清水城に帰り、島津氏は勝久・実久派と忠良・貴久派に分かれて内訌に陥る。
享禄2年(1529)、島津忠朝は両派の和解のため、新納忠勝・禰寝清年・肝付兼演・本田董親・

樺山幸久・島津運久・島津秀久・阿多忠雄らと会して勝久に謁見し、事態の解決を図ったものの、勝久
の態度は要領を得ず、皆怒って帰ってしまった。

勝久は忠朝の跡を船で追って大隅に至ったが、むなしく帰ることになったという。

――『鹿児島市史』


【ネタ】大田原資清と大関高増の遊び場

2018年04月22日 21:15

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/22(日) 12:37:45.92 ID:vI63xWF0
逸話ではないんだが
地元の武将でググってたらこんなのが出た
ttps://dotup.org/uploda/dotup.org1515325.png
oozeki.png

大田原資清大関高増の遊び場w

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/22(日) 12:41:45.23 ID:vI63xWF0
検索結果でググった単語に合わせたのが出るサイトがあるんだが
マイナーな武将故に、そんな検索結果で出てしまった結果と言うべきか


本能寺の変、当日のドキュメント

2018年04月21日 19:18

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/20(金) 22:39:13.18 ID:z47y627O
明智光秀が本能寺を取り囲んだ時、信長の人数は上下百人程度でしかなく、明智勢は
三千余騎にてこれを即時に踏み破った。

そして信長の死骸を捜索したが見つからず、光秀は動揺し「もしや逃げ延びたのではないか?
如何すべきか!?」と案じている所に、明智の臣下である斉藤内蔵助(利三)という者が申し上げた

「御心やすく思し召して下さい。信長公が兵と手を合わせた後、奥に入っていったのを私が
目撃しました。」

これを聞くと明智も安心し、二条の織田信忠への攻撃へ急いだ。
信長公の死骸には、その上に森乱丸(蘭丸)が、死骸が燃えるよう畳5,6畳を重ねたと
言い伝わる。

本能寺門外の小川の端石の上に、首が十三置かれていた。
森乱丸兄弟三人、狩野又九郎、御馬屋の庄助、高橋虎松、小沢六左衛門、これは御鷹師頭であり、
鷹の御羽を継ぐ名人と呼ばれた人物であった。
その他の首は見知らぬものであった。

二条落去して5日過ぎ、明智は参内をして洛中を乗り廻し、町中の地子(固定資産税)の免除を
発表した。

(祖父物語)

本能寺の変、当日のドキュメント



688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/21(土) 17:47:41.68 ID:Onnh1i4N
村井貞勝や毛利新助は晒されてないのか

そして明智光秀は本能寺を取り巻き

2018年04月20日 15:55

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 20:26:31.02 ID:A4D8S2I6
織田信長が甲州征伐から帰陣の後、徳川家康の上洛があり、これに対し、明智光秀
その御馳走が命ぜられた。

光秀は「忝なし」と承り、その接待のために珍物を調え、京堺の傘や木履(木靴)まで
買い占め、夥しく用意した。

ところが、俄に役目替えが命ぜられ、家康の馳走は他の者に仰せ付けられ、明智は
羽柴筑前守(秀吉)が安芸の毛利と対陣し難儀に及んでいるとの注進があったため、
「急ぎ加勢にまかり下るべし。横目に堀久太郎(秀政)を差し備える)と仰せ出された。

この時、明智は思った
「諏訪(の打擲事件より)このかた、御目見得も宜しからず。今度の御馳走の事も中途で
他人に仰せ付けられ外聞も然るべからず。」
そう腹立ちに思いつめ、用意した御馳走も調えものも一緒に、安土城下のどどが橋(百々橋)の
下にみな捨てた。ちなみにこの橋は「昼夜人が通うから」と、織田信長が名付けたものだという。

そして明智光秀は、秀吉への加勢に向かう人数にて本能寺を取り巻き火をかけたのである。

(祖父物語)

明智光秀大河決定記念(?)に



684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 21:01:04.74 ID:FJu9jTQg
最後はパワハラで終わる大河なんて嫌だ

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 21:55:37.04 ID:MP4IvDR6
大河で明智…どうせ信長がスゲー嫌な奴で光秀が聖人のようなキャラクタになるんだろうな
本能寺の変も義挙ってことになるんだろう

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/20(金) 02:15:42.06 ID:bbtGVHM5
オホホ、麻呂が来た意味分かるであろ? は最近使われなくなったな

池田輝政の立身について

2018年04月19日 18:28

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/18(水) 17:03:26.34 ID:IiAJoYMQ
池田輝政の立身について


備前宰相殿(輝政三男・忠雄)は光政様(輝政嫡孫)に輝政公の御立身について

「輝政公の御立身は古今にないことだ。遠国を数ヶ国公方より恩領した人は
 いるかもしれないが、輝政公は自身の武功によって切り取ったのだ。
 輝政公が家康公より備前播磨淡路三ヶ国を残らず拝領したことは無類の
 ことである。その上美作は森武蔵守殿(輝政の姉婿)の縁者が治めていて
 阿波国は家臣の出羽(輝政甥・由之)と縁続き*で隣国に姻戚がいるのに
 数ヶ国下されたというのは、無双の事である」

と仰せられていたという。


――『烈公間話』

*池田由之の正室は蜂須賀家政の長女


異郷の地にて

2018年04月19日 18:27

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 13:12:40.81 ID:vWQ9chld
異郷の地にて

安房里見家九代目当主、里見忠義は突然先祖代々の地を離れることとなった。
大久保忠隣の失脚への連座、城郭の無断改築や浪人召抱えの咎とされる。
転封先の伯耆国倉吉で失意の日々を送る忠義は神仏にもすがる思いであったのだろうか、
山田八幡宮へ以下の棟札を奉納している。


社殿の倒壊と言うのは全く思いがけず、不思議なことです。
安房一国の太守であったのに、徳川の御威光によって
西国の地に住む私の命運もまた奇妙と言えるでしょう。

里見は代々、神社仏閣の建立復興に尽力してきましたが、
世の中の移り変わりによって今では斜陽の日々を送っております。
しかしながら、太陽や月が大地に墜ちでもしない限り、必ず東の空から明日はやって来るのです。
領主の立場は奪われてしまいましたが、どんなに時を経ても里見代々の気風が
安房の人々の心に残ることは明らかでしょう。

この度は梁や柱、どんな小さな部分にも
領主・領民の楽しみ、子孫の繁栄、国家の安寧、神仏への信心不滅の願いを込めて
八幡神社を建立させました。
君主というものは忠孝・武運の道を以て朋友と付き合い、仁義礼智信の五つの徳を専ら行い、
剣を握って悪魔どもを打ち払ってこそ功徳が積まれ、天を輝かし地を照らすと言います。
それらを心がけつつ、君臣皆が世の平和を誇り、罪は消え、神仏の教えが子々孫々に伝えられ、
国家が安泰であることを願います。


安房の地を懐かしみ徳川の仕打ちを嘆きつつも、旧領復帰の望みを失っていない忠義の心情が残されている。
しかしこの翌年、与えられていた僅かながらの知行も召上げとなり、
やがて病床に就いた忠義は郷里の土を踏むことなくこの世を去った。
享年二十七歳であった。



681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 14:41:35.60 ID:iLYECfx3
おめでたい頭してんな忠義
つーか奇妙とか言ってるけど政争に巻き込まれた自覚すらないのかよ…

長門守は侍の冥利が尽きた人なので

2018年04月19日 18:26

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/19(木) 15:07:18.14 ID:ZlVxawXH
長門守は侍の冥利が尽きた人なので


寛永15年4月14日、肥前国島原城主の松倉長門守勝家が
島原一揆の咎めにより森長継へと預けられた。
津山で長門守殿を預かっていたが台命により、5月4日には
江戸の内記様(長継)の御屋敷に移すこととなった。
宗門御奉行の井上筑後守(政重)が何度も来て、長門守殿の話を聞いて
口上書等を書き、長門守殿の小姓の権兵衛・瀬兵衛も吟味された。
権兵衛は二度拷問されたが、瀬兵衛は新参者だったので拷問されなかった。

そうして7月19日に長門守殿の切腹が決まり、前の日の晩に
内記様は検使から介錯人を出すように求められたときのため
侍分で足軽大将の井川弥一右衛門と、歩行の福本与三右衛門を
介錯人が侍分でも歩行でもいいように、両人に仰せ付けられた。

19日の朝、森家臣の林伊織が筑後守殿にそのことを申し上げると
「長門守は侍の冥利が尽きた人なので、年若といえども内記殿が
 足軽大将を仰せ付けた弥一右衛門に介錯人をさせる程ではない。
 歩行に介錯をさせられるように」
と筑後守殿が仰せられたので、福本与三右衛門が介錯をつかまつった。
小姓の権兵衛・瀬兵衛も縛首となった。

そのとき福田左内が井川弥一右衛門の袖を引いて
「このような大名の御首を切ってしまったら、小身者は冥加が尽きて
 罰が当たってしまうだろう。(与三右衛門の)末路を見ておくように」
と私語をした。
それから八年が過ぎた後、与三右衛門の弟が百姓との公事に
負けてしまったため、与三右衛門も作州を立ち退くこととなったという。


――『森家伝記』

森家の史料では勝家は斬首になってなかったので。


信長公、木曾義昌を酷評

2018年04月18日 10:01

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 20:48:00.99 ID:fBlgphlZ
織田信長の甲州征伐の折、諏訪の寺へ本陣を据えるため入る折に、信長は
木曾(義昌)に軍勢を見せるべしと思われたためか、「従う大名小名、一人も
騎馬してはならない。歩行にて我が馬の先へ立つように」と命じ、五千人の人数皆、
信長の御先を歩んだ。

その頃、燻革(ふすべがわ)のたちつけ(膝から下の部分を脚絆のように仕立てたもの)が
流行っており、殆どはその装束であった。

寺の門前にて菅谷九右衛門(長頼)が信長に申し上げた「木曾殿がここに参られました」
信長は「寺に入れ、ここで礼を申させよ」と命じ、木曾義昌を寺の中に通すと、
礼を述べる木曾に対し、黄金二百枚を台に積んでこれを与えた。
この時、木曾義昌は台を持ち上げてこれを戴こうとした。

後に信長はこう言った
「木曾はうつけ者であるな。二百枚を積んだ台が持ち上がるものか。ああいう時は
台に手をかけ頭を付けて礼をするものだ。山家の遠国者は何も知らぬ。」

(祖父物語)

信長公、木曾義昌を「うつけ者」「田舎の礼儀知らず」と酷評



674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 21:47:39.53 ID:KT0ozs1S
持ち上がったら危険だからと謀殺するんだろうなあ

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 21:49:48.25 ID:9ncWBotz
自称、木曽の山猿の子孫だし
なお義昌に裏切られた勝頼の敗走ぶりは木曽義仲に例えられたとか

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 22:05:20.90 ID:TfZAIlfs
まあ、本能寺後の動向やら末路やらを考えるに、木曾義昌は本当にうつけだからしょうがない

週間ブログ拍手ランキング【04/12~/18】

2018年04月18日 09:57

04/12~/18のブログ拍手ランキングです!


幕府政所伊勢氏の滅亡 15

「万年君」 14

三好義興の死について 13
唐人松の伝説 9

汝は何方にて骨折り、武辺を仕ったか!? 8
今後『菊石』と呼ぶ 6
観音寺騒動のはじまり、後藤賢豊父子誅殺事件 6


今週の1位はこちら!幕府政所伊勢氏の滅亡です!
幕府政所伊勢氏は財政を握り、まさに室町幕府の中枢であったわけですが、これによって実質的な権力を失いますね。
足利義昭の幕府にも参画するのですが、目立った影響力は行使できず、義昭追放後は明智光秀の統率を受け、
そのまま本能寺~山崎の戦いに参加して、伊勢宗家としては滅びる形になります。
こういう、本質的に室町幕府そのものであった幕府政所伊勢氏の没落をみると、やはり三好時代も時代の画期だったのだな、
と感じますね。

2位はこちら!「万年君」です!
戦国期、この「東京湾岸」の人々のように、二つの戦国大名に両属する形を「半手」(西国では半納)と呼び、北条勢力圏では
西上野でも武田と両属の地帯があったようです。西方では、少し時代が下りますが毛利と羽柴秀吉勢力圏の間にこの
半手地帯があり、毛利と秀吉との国境画定交渉では、この両属地帯をそのまま維持したい毛利側と、
はっきりと国境を確定したい秀吉側との間で議論に成ったといいます。そう考えると、この両属状態というのは
中世的特徴でも有るのでしょう。
ただ、戦国大名はともかく、領民にとっては非常に負担の大きい体制であることは確かであり、だからこそ
その状況の解消が、近世のテーマに成ったとも言えるのでしょうね。
この場合、北条か里見かと言った「どちらに付く」かというのは、領民にとっては二義的な話でもあるのでしょう。
そんな事も考えさせられた逸話でした。

今週管理人が気になった逸話はこちら!汝は何方にて骨折り、武辺を仕ったか!?です
コメントにもありましたが、フロイスの日本史にも、この甲州征伐の最中に、明智光秀が織田信長から暴力を受けた、
との記述があり、この逸話が事実を書いているかどうかは別として、どうも、信長と光秀の間で何かあったらしいというのは
ある程度事実ではなかったかと考えられます。
そして仮にそのようなことが人の噂になるレベルであったとすれば、それだけで本能寺を起こす理由に成ると思います。
当時の武士(に限らず日本人全般)というのはそういうものですからね。恥をかかされたら「自力で」その恥を雪ぐ事を、
まず考える人々です。恥を背負ったままでは精神的だけでなく、社会的に劣った存在と見られてしまうからです。
そういう意味では、「本能寺の変」は当時の人達にとって、そのことの評価はともかく、起きたことについては不思議でも
何でも無かったかと思います。
実際、主君から侮辱をうけて謀反を起こした事例なんて、戦国期もそれ以前もたくさんありますからね。本能寺は影響力が
非常に大きかっただけで、本質的にはそういった「謀反」の一つだったと考えていいと思います。
そんな事を思った逸話でした。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
_(:3」∠)_

今後『菊石』と呼ぶ

2018年04月17日 16:11

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 22:17:26.90 ID:1I0mDnDt
ある時、織田信長は御刀持に名をつけたことがあった。

「汝の事を今後、『菊石』と呼ぶ。何故ならば、長刀持は庭に居て良きものである。
また菊石も庭にあって見事であるからだ!」

そのように仰られたのである。

(祖父物語)

信長のネーミングセンスもわりと反応に困るものが多いような。
菊石というのはこういう「菊花石」の事でしょうね
https://i.imgur.com/jE6DOtF.jpg
img27.jpg




776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 08:31:00.65 ID:Tn6Pyrjz
庭にいていい者か
なら禿鼠でいいんじゃね?

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 20:22:44.33 ID:DiicARIH
まあ菊石なら名字にしてもカッコがつくからええわ

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 22:14:32.61 ID:b4/LIygH
人「」

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/18(水) 12:57:54.91 ID:4ciD4O7a
ノブ「お前の菊花は実に締まり具合が良いので、お前は菊石だ」

汝は何方にて骨折り、武辺を仕ったか!?

2018年04月16日 18:29

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/15(日) 23:12:20.06 ID:jJSKP1dL
織田信長の甲州征伐の折、

織田信長は信州諏訪郡の何れの寺であったか、御本陣を据えられると、その席にて
明智光秀がこう申した

「このような目出度き事は御座いません。私も年来骨を折りたる故、諏訪郡の内は皆
織田家に従っています。何れも御覧ぜよ!」

そのように武田の総崩れを喜んだ所、信長の御気色たちまち変わり

「汝は何方にて骨折り、武辺を仕ったか!?我こそ日頃粉骨を尽くしたのだ!
憎き奴なり!」

そう激怒し、懸造りの欄干に明智の頭を押し付け叩いた。
その時、明智は諸人の中で恥をかき無念千万と存じ詰めた気色が現れたという。

(祖父物語)

有名な逸話ですが、出典は祖父物語だったのですね



670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 03:07:07.82 ID:7xkzIepw
川角太閤記にもあるので、そっちが原典かもしれないし、いずれにせよ又聞きした話だからなぁ。
ただ、フロイスの書簡にも光秀が殴打されたという話はあるらしい。

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 04:27:04.65 ID:PS026Nxp
川角太閤記の光秀殴打に関する記事は至って簡潔で「信濃の上の諏訪にての御折檻」としか書いてないな

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 23:23:57.60 ID:9mr2vYq2
おまゆう

観音寺騒動のはじまり、後藤賢豊父子誅殺事件

2018年04月15日 21:18

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/14(土) 18:35:54.55 ID:htFx1fy8
その年(永禄6(1563))、近江の佐々木六角氏にも動乱のことが有った。

六角氏の家老といえば、目賀次郎左衛門、樽崎太郎左衛門尉、三上孫三郎、三雲新左衛門、
蒲生下野守といった人々であり、それに加えて、両門客として佐々木刑部太夫と田中四郎兵衛の
二家があった。その他に、京極、朽木、鞍智、大原と言った一門があったが、彼らは
京の将軍家直参であったため、格別であった。

このような譜代相伝の家臣の他に、後藤(賢豊)という者があった。船岡合戦以来六角家に
忠功を尽くし、賞は他を越え、威勢を振るい家老の列に加わり、頻りに鷹揚の思いがあった。
また、これはその身が滅ぶ端相であったのか、彼の申すことは大小にかかわらず、屋形である
六角承禎(義賢)は、良きことと聞き、全てを彼一人に評定させて他の者の申すことは用いなかった。

こうして後藤は六角家中の大勢力となり、一門家老を差し越えて、家中上下を己の下に
立たせんと欲した。
己の心にかなう者には賞を申し与え、罪を免らしめた。このようであったので六角家の侍の過半は
後藤に従い付いた。

去る永禄五年、六角義賢は隠居して、家督は子息の右衛門督義弼(義治)と成ったが、
後藤の威もさらに増し、飛ぶ鳥を地に落とすほどであった。
義治はこの有様に、「もし後藤但馬守が逆意を思い立てる事があれば、我が一門や家来も
皆彼に従って私に背く事疑いない。主人の威がこのように軽いこと以ての外の次第である。
何事か機会があれば、後藤を誅殺せねばならない。」
そう密かに考えていたが、国中で最大の権勢を前に打つ手を見つけられず、悩んでいた。
そして義治の近臣である種村、建部というものを呼び寄せ、このことを打ち明け相談した。
両名は驚き

「後藤は承禎様の寵臣であり、国中の大名家老の多くが彼の縁者です。誅殺出来たとしても
きっと後難が降りかかるでしょう。先ずこのことを承禎様の伺い奉り、その後誅するべきです」

そう答えたが、これに義治は大いに怒り
「汝らを頼もしいと思いこの一大事を打ち明けた事こそ我が落ち度であった!父屋形に申して
御免有るものか、却って後藤達に漏れ聞こえ、我が禍となるであろう。
この上は力及ばず。今夜うち立ち、自ら後藤を討ち果たし存分を遂げるべし!」

そういって一人で襲撃の準備をしようとするのを、種村、建部は止めて
「暫時、お待ちになってください。それほどに思し召すのであれば、明日後藤を召し寄せ、
そこで誅殺いたします!」
そうはっきりと約束すると、義治も斜めならず悦び、明日を待った。

後藤但馬守とその子息又三郎は、このような事を夢にも知らず、屋形より使いがあると聞いて
早朝、観音寺城に出仕した。
そこを待ち受け、種村、建部両人は数多の若者たちを引き連れ、四方より後藤父子を取り囲み、
終に彼らを討ち取った。後藤父子は陳謝しようにも罪がなく、力なく無実の罪にて討たれたのである。

六角承禎はこの報を聞いて大いに仰天し対処しようとしたが、その甲斐もなく、先ず後藤の供を
していた者達が国中に走り散ったことで、様々な雑説がしきりと囁かれた。

一方義治の方は、かくて我が身の一大事成ったと、家老たちを呼び集め、今回の事態を説明し
国中を静めようと、家老たちの方へ遣いを立て『後藤父子は過分の驕り身に余り、逆心を
思い立ったため誅殺したのだ。その仔細を詳しく申し聞かすため各々登城するように』と
呼びかけたが、老中は皆後藤の親類縁者であり、「きっと我々も誅殺するための、偽りの
お遣いなのだ」と驚き騒ぎ、進藤山城守貞治、目賀田、三井、馬淵三右衛門、楢崎太郎左衛門、
伊達出羽守、平井加賀守、永原大炊助、池田伊予守、横山、木戸、荒井、三雲三郎左衛門といった
者達が、取るものも取りあえず各々の知行地へ引き籠った。これは誠に、六角家滅亡の端相であった。
(足利季世記)

六角氏の観音寺騒動のはじまりである後藤賢豊父子誅殺事件について



668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/14(土) 19:43:19.29 ID:huHkP8C6
先代の寵臣を次代が更迭あるいは謀殺するのはままあること

唐人松の伝説

2018年04月14日 18:10

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 01:39:43.01 ID:Ejka1ruV
渕田集落の松ヶ平に唐人松の伝説を伝える松がある。現在朽木一株があり、その下に墓がひとつある。

往時鹿児島県喜入に来住していた唐人たちは長い年月が経って古郷が恋しくなり、唐船の入港を待ち
わびていた。ある日、待望の船が港についた。唐人たちは喜んだが、いざ入船するという時に

1人足りなかった。あちこち探しても見つからず、あれほど帰りたがっていたのを、置いていくのは
可哀そうだが、航海の都合もあるので後ろ髪を引かれる思いで出航した。彼が港にかけつけた時には

船はすでに沖合遥かに煙っていた。彼は地団駄を踏んで悔しがったが、どうにもならず悲しさの余り
だんだん上のほうにあがり松ヶ平まで来た時、船の姿はついに海空のかなたに見えなくなった。

彼は悲嘆の余りに、松の枝に首を吊って死んだ。以来、村人たちはその松を“唐人松”と呼ぶように
なった。彼には知覧に恋人がいて、帰国にあたり別れを告げに行っていたのだと伝えられている。

なお知覧町桑代集落には唐人松にかかわる次のような話が残る。唐人松の下に自然石の墓がひとつあり、
この墓に毎年の盆正月、春秋の彼岸の年4回墓参りに来る人たちがいた。知覧町桑代の人たちである。

桑代集落の祖先は佐多に居住して禰寝家に仕えていた。禰寝氏は文禄4年(1595)、吉利に移封
されて与えられた知行は約3700石で旧領の約4分の1であった。禰寝重張は一族郎党数百の家臣

を伴って吉利に移ったが、当時の吉利は田地が少なくむしろ未墾の地であった。重張に従って移住した
ものの、その多くが生活に困って旧領地へ引き返す者も少なくなかったという。

その中の一族・桑代家も旧領地へ引き返す途中の旧暦12月30日夕方、知覧町の桑代に辿り着いた。
明日からは峠を越えてさらに何日かを費やして帰っても、そこは既に他家の領地であり、土地も家も

没収されていることは分かっていた。いろいろ思案の末、ここに留まって居住地とすることにした。
桑代を中心に上之町(松尾家)、中福良(田中家)に居を定めることにした。翌日は元旦だったが、

長い旅続きで蓄えもなく、正月は何も飾ることはできなかった。以来、今日まで正月の松飾りなどは
しないしきたりになっている。桑代一帯に落ち着いた一族の長老は、その死に臨んで、

「自分が死んだら、これまで過ごした佐多の地が見える所に埋めよ」と言い残した。遺族たちは遺体
を桑代に埋めたが、その遺言を守って大隅の地が望める松ヶ平の唐人松の下に墓を建て、以来、

三集落の若者が2人ずつ年4回の墓参りを欠かすことなく続けて、太平洋戦争中も女性が代わりに
続けてきたという。ところが昭和30年代に入り、若者が都会に出て行って戸数も人口も減少し、

やむなく歳をとった女性が墓参りを続けていたが、目印の傘松は枯れ、造林によって林相は変わり、
かつての知覧街道も荒れ果てて、通る道すら分からなくなってしまった。

このため昭和52年(1977)、桑代集落の墓地改造を機に、唐人松の墓地をこの墓地に移すこと
にして共同墓地の中央に“桑代氏祖先之墓”を建立し、昭和53年(1978)1月29日改葬され、
ここで永久に村人たちを見守り、また村人たちが見守ることになった。

薩摩藩領内には“唐”のつく町名・港名などが多い。唐はもちろん外国の意味で薩摩が立地・気象・
海流など海上交通の条件に恵まれ、古来から中国・朝鮮・東南アジアとの往来が盛んだったからで
ある。本町でも旧市の唐人潟、唐人松に何らかの由縁を感ずる。

――『喜入町郷土誌』



766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 01:49:49.69 ID:b2XKvRfw
産業で頼む

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 07:56:39.51 ID:ZJ5kSamD
むしろ長文がダメな人が来る所じゃないような

「万年君」

2018年04月13日 16:51

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:06:14.87 ID:bVtCrpO+
1560年頃、安房・上総の西沿岸部は舟に乗って東京湾を渡ってきた盗賊たちが跋扈しており、夜中に民家や寺院に押し入り、放火や略奪、強姦など狼藉すること限りなかった。
盗賊と言えど身を立派な武具甲冑で固めた者たちなので、恐らく北条氏の水軍衆だったのだろう。
当時既に家督を嫡男義弘に譲って隠居の身となっていた里見義堯は領民の惨状を聞いて驚き、洲の岬、滝山、明ケ根の三か所に物見櫓を建てると、昼夜問わず湾に近づく船を片っ端から改めることとした。
しかしそれでも闇夜に紛れて小舟で乗り込んでは、民家を襲う者が絶えなかった。物見櫓から賊を見つけても、里見の武士団が到着した頃には小舟でさっさと逃げ帰ってしまうのである。
これには房州中の武士たちが怒り、岡本城という湾に面した小城を大改修し、賊に備えることとなった。

岡本城が完成するとここに里見義弘が入った。そして先に築いていた物見櫓と狼煙を使って連携し、賊が現れようものなら城より番士組という警備隊が出動、これを撃退することに成功した。
元亀年間(1570年代)にはかつての乱暴の煩いは嘘のように消え、房総の人々は戸閉まりを忘れるほどだったという。
盗賊を一掃した主君の恩を想い、民は万年君と称えた。


「万年君」と言えば里見義堯というイメージですが、元ネタの一つである『房総里見誌』を読むと里見義弘(あるいは里見親子)を指しているようにも読み取れます。
この逸話ではやられる側の里見氏も当然水軍衆を率いており、度々北条領(時には鎌倉まで)攻め入っていますので、
東京側・千葉側を問わず東京湾沿岸の人々は保安のために北条・里見の両方にミカジメを払わなければならない状況が続きました。
天正年間に里見義弘と北条氏政が和睦し相房御和睦が成りますと、房総の人々は歓喜したと言います。里見氏が尊崇すること止むない妙本寺日我も、
湾の向こう側が「味方」となったことで平和となり、二重賦課や乱暴狼藉が無くなり流通が盛んになったので、この和睦を大変高く評価しました。
父以来の因縁であった北条氏に事実上屈服することとなった里見義弘は大変悔しがった苦渋の選択でしたが、東京湾の平和は多くの人々から歓迎されたようです。



761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:22:00.82 ID:ipnwiLT3
里見が無駄な抵抗を続けたせいで民が被害を被った悪い話では

里見八犬伝と資料捏造の影響かメジャーじゃないけど、
里見家って北条への裏切り、上杉から武田への寝返り、家督簒奪だのお家騒動だのが頻発するろくでもない一族だしな…

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:42:32.29 ID:R36Ud/OQ
>>761
安西や丸さんですか?

そんな家は日本中にごろごろしてるやん?
北隣の千葉もそうだし、鹿島、長尾、結城、由良・・・
内紛、鞍替えなんて珍しくもない

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 19:03:34.40 ID:R36Ud/OQ
>>760
結局、江戸湾の奥まで北条が進出してきたから小弓やそのあとを襲った里見とぶつかってるんだよね
早々に小弓が千葉を従えて武蔵や古河を狙う状況になっていたら、その後の関東の戦国時代が変わっていたかもしれない
まあ、あの脳筋さんではどんなに頑張っても北条とぶつかるだろうけど

この海賊って内房の正木一族なんじゃないかな
仲の悪かった内房正木が里見に帰ってくるのがこの頃(永録年間)だったし、手打ちで海賊行為を止めて復帰って感じだったりしないかな

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 21:57:15.40 ID:JVeO1YPB
>>761
家督簒奪は武田の方が有名だろ
もはやDNAレベル

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 08:16:17.93 ID:ucnig8gM
>>764
源氏の血筋が悪い

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 11:44:15.87 ID:TbCnxCmu
為義、義朝が悪いね

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 13:04:55.58 ID:gyi31u/K
>>760
領民の建前「里見最高!万年君!」
領民の本音「さっさと北条に降伏しろよ…税の二重取りも略奪もキツいわボケ」

こういうことか

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 14:22:04.29 ID:4Dlrdyb0
氏政の娘貰っておきながら死んだから変わり寄越せって氏政の妹ひったくって、また死んだから武田と結んで最後は豊臣と結んだ里見くん凄すぎー

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 14:46:39.00 ID:908VFRFc
同盟の大枠が変わるたびに出るありきたりの話だが、里見に親でも殺されたのだろうか?

三好義興の死について

2018年04月12日 16:47

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 12:32:24.60 ID:rQneZYFw
永禄六年卯月(四月)朔日に、雷がおびただしく落ち京中振動し、東寺の塔へ雷火落ちかかり
たちまちに焼失した。これは、三好家があまりに驕りを極め天下に威勢をふるっているが故に、
天道は満つれば欠ける習いなれば、全ての物に有る、余りに過ぎて溢れる時節が到来したため、
このような天災のお告げもあるのだろう。この上に一体何事があるのか。
そう人々は危ぶみ思った。

そのような中、果たしてその年の八月二十五日、三好長慶の一子、筑前守義興が芥川城にて
死去した。黄疸という病に罹り、たちまち死に及んだという。
父長慶は申すに及ばず、公方義輝も御愁傷限りなかった。

この死について、義興が近くに召し使う者の中に、食事に毒を入れて奉りかく逝去したのである
という話が後に聞かれた。また松永(久秀)の仕業であるとの言われた。

長慶は家督相続の子を無くし、十河一存の子息・熊王という者を養子とし家督に定めた。
三好左京大夫義続がこれである。三好家の政道は専ら松永と三人衆の心のままであり、
勅命も恐れず武命(将軍の命令)も用いず我意に任せていた。

(足利季世記)

三好義興の死について



662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:33:57.72 ID:R36Ud/OQ
雷の失火まで政治のせいにされてしまうのか
まあ、場所が場所だからなんだろうけど

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:40:53.12 ID:BPEyr8p9
前に国会議事堂に雷が直撃した時、政治がどうのとネタにされてたような

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:53:00.31 ID:OpdJpaR+
>>662
ヨーロッパですらリスボン地震までは天災はキリスト教的に正しい行いをしていないための天罰という扱いだから、
近代になるまでは世界のどこでもそうだと思う。

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:56:56.51 ID:BPEyr8p9
リスボン地震の翌日にマリー・アントワネットが生まれた
つまり天罰と言うよりむしろ王朝崩壊の予兆だったのだ

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 23:08:39.91 ID:IIMqBX7W
>>661
>という話が後に聞かれた。また松永(久秀)の仕業であるとの言われた。
            , ;,勹
           ノノ   `'ミ
          / y ,,,,,  ,,, ミ
         / 彡 `゚   ゚' l
         〃 彡  "二二つ
         |  彡   ~~~~ミ      はいはい、わしのせい わしのせい
     ,-‐― |ll  川| ll || ll|ミ―-、
   /     |ll        |   ヽ
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