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道三はその時すでに耳が遠く

2019年05月21日 14:16

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 21:02:18.44 ID:0sKb7zBq
老人(江村専斎)が幼い時、延寿院玄朔(曲直瀬玄朔)はすでに壮年で、故道三(曲直瀬道三)の
世嗣として、洛中医師の上首であった。人々は玄朔を敬慕した。故道三はその時すでに耳が遠く、
療治も絶え絶えとなり隠居した故である。

玄朔の療治は盛んに流行って方々から招待された。その時は肩輿という物もなくて、大きな朱傘を
差し掛けさせて高木履で杖をつき、何処へも歩いて行った。人々が羨むことであったという。

――『老人雑話』



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岩屋の太刀

2019年05月21日 14:15

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 19:40:48.61 ID:3Ffeh8GT
まだ香川家の本拠地が相模国香川荘にあった頃、
香川家の当主が狩の途中に山中で雷雨に遭い、
崖の近くの岩屋(洞穴)に逃げ込んだ。

すると岩屋には先客の老婆がおり、
濡れた体を温めるために火を焚いていた。
当主は火を借りようと老婆の側近くまで行くと、
老婆は当主が名乗ってもいないのに、
「おやおやご領主、寒かろうからこちらへ来て火にあたりなさい」
と当主が香川氏であることを言い当て、
「ご領主、峠で矢をかすめて獲物を逃がした時は惜しかったですな」
「姫君の病は今日は良いそうですね」
などと自分しかわからないような内密な話を次々と口にした。

当主は老婆を人間ではないと見抜いて、
腰に差した太刀を引き抜き、老婆の頭に切りかかった。
ところが太刀は老婆の頭に当たった瞬間、ポキリと折れてしまい、
老婆には傷ひとつ生じなかった。それでも老婆は憮然として、
「ご領主はナマクラな刀しか持っておらぬようじゃ、ならばこの太刀を進ぜましょう」
と言い、見るからも優麗な太刀を差し出したという。

以来、当主はその太刀を香川家の宝刀として珍重した。
人々はその太刀の名を岩屋に因んで「岩屋の太刀」と呼んだという。

※管理人注 Wikipedia 香川之景
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E5%B7%9D%E4%B9%8B%E6%99%AF#%E9%80%B8%E8%A9%B1


53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 22:56:34.24 ID:7RhZWjUa
>>52
妖怪退治の話しかと思ったら宝刀を貰ったちょっといい話?

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 23:31:06.99 ID:/aBGP2PW
この場合の憮然はがっかりでいいのか

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/21(火) 10:05:44.95 ID:Jjm3EpoG
>>52
この刀の持ち主がみんな頭の傷や病気で死ぬ呪いとかそういう話ではないんだなw

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/21(火) 10:11:10.33 ID:zYJMUoDl
>>52
讃岐国香川郡に住まう平氏だから香川氏だと思ってたわ

また三好長春は淫乱不道にして

2019年05月20日 16:51

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 16:33:26.02 ID:0Xfn6F6C
また三好長春(長治)は淫乱不道にして、昼夜酒宴遊興ばかりなれば、酒飲みやおどけ者、軽薄者
ばかりが出世し、少しでも質実な者を「気詰まりなり」と嫌って自分の周りへも寄せ付けず、母儀
の叔父・岡本卜世(原注:岡本美濃守弟)が諫めるけれども聞かず、上下は疎み果てたのである。

また上方よりゑつた(河原者)が下り、本来を隠して勝瑞の町人になった。されども隠れなくして
傍人は付き合いを厭い、そのゑつたを追い出そうと企てたが、かの者の子は生まれ付き優れたので
長春の小姓に使われ出世したためにそれも叶わず、諸人は誹り非難した。

――『三好別記』



良き大将でござった由を

2019年05月20日 15:51

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 03:38:02.63 ID:lSOa7hwQ
安宅摂津守冬康。法名・一舟軒。長慶弟。

淡路国守護。度々手柄を致す。良き大将でござった由を申し伝える。隠れ無き歌人でござった。

天下の望みがある由につき、長慶は家老の松永弾正久秀や三好下野守(宗渭)などと相談して、
後には摂津芥川の城において、吉成勘助と申す者に申し付けて成敗致した。

供に参った家子は数百人。安宅の家老・里吉と申す者などは殊の外働き、いずれも討死。味方に
も手負い死人数多ござったとの由を申し伝える。長慶嫡子・筑前守(義興)在世の時と聞き申す。

――『三好別記』



47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 08:17:43.22 ID:BV914y30
安宅冬康「三好池田の安宅屋のあたぎや羊羹でござる」
http://www.atagiya.co.jp
松永「ありがたい、お茶を点てましょう」

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 08:52:01.21 ID:pftXFin2
>>46
>供に参った家子は数百人
合戦だなもうw

本当の合戦両度ながら、信玄公御勝利なり。

2019年05月19日 12:30

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 17:20:23.05 ID:WLVYKXLa
百年以来、本当の合戦はさほどない。ただし両度の本当の合戦があるというのは永禄4年酉(1561)の
信州川中島合戦と遠州三方ヶ原合戦、この両度合戦である。

北条氏康公は河越で上杉管領8万余りの大軍に8千で勝ち給うといえども(河越城の戦い)夜軍であるから
敵は油断した故である。そうでなければ8万余りの人数に8千の北条家がどうして争って負け申すだろうか。

下総国府台で氏康公は安房の義広(里見義弘)に勝ち給えども(第二次国府台の戦い)、義広は初めは打ち
勝ち油断したところへ、氏康が掛かって利運になされたのである。

このように出し抜き、あるいは二股(節操がない)で小身な敵に勝ち、あるいは堀を掘って柵を付け打ち、
自分が逆心をし、または旗下の侍が合戦で突然裏返って敵となり、無理な勝ちを負けたとしても、負けとは
あまり心に意地を張るのをやめないのである。世間でも本当の勝負と批判はしないのである。

国持ち達が敵味方ともに2,3万の人数で白昼に合戦参るべしと、両方ともに他国の加勢はあるとしても、
大将が1人ずついて川も柵も裏切りも無く打ち合い、手勢ごとに槍を合わせ勝負をして実否を付けたのを、
本当の合戦と申すのである。これをどれかと分別で見申すと、川中島合戦と三方ヶ原合戦になるのである。
両度ながら、信玄公御勝利なり。

敵味方ともに2千,3千での勝負は諸国にそれこそいかほどもあるだろうが、それは大合戦とは申さない。
大合戦ではないから世間で取沙汰されないのである。信玄公が御勝利された相州みませ合戦(三増峠の戦い)
も氏康公・氏政公父子が到着されない以前に、北条家の先衆ばかり切り崩しなされたので、本当の合戦とは
申しがたい。

北条陸奥守(氏照)・阿波守助五郎(北条氏邦)の各々一類衆がいらしたといえども、大将の氏康父子は到
着なさらなかった。その以前、馬場美濃(信春)方へ向かった武士の中で金の制札と金の提灯を指物にした
2人の武士がいて、これもまた権を争い稼ぐところを、治部と市之尉が見て治部は金の制札を、市之尉は金
の提灯をと目標に致し「討ち申す!」と申して、その如く治部も市之尉もその武士を討って高名仕った。

指物を添えて自分の備の侍大将である馬場美濃守には見せずに、市之尉は治部を訪ね治部は市之尉を訪ねて、
互いに大口を叩くようであった。これは古今でもさほど無き働きである。

(後略。>>926

――『甲陽軍鑑』



つまり原作者は引用箇所のページ数と書籍名を間違っていて

2019年05月19日 12:29

45 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/18(土) 17:52:01.62 ID:Wwgww9Qv
漫画『花の慶次』での有名な場面として、秀吉に謁見した前田慶次が、虎皮の裃や奇矯な袴にわざと横向きにに結った髷で、
顔を横向きに頭を下げて意地を示し、その直後に装束を改めて見事な武士っぷりを見せるというシーン。
作中でも屈指の名場面ですが

「今度は成程くすみたる程に古代に作り、髪をも常に結直し、上下衣服等迄平生に改め・・」

と『可観小説』の一文が引用されていますのはご存知の方も多いかと思います。

ですが実は可観小説にこのような個所は存在しません。

では捏造か?というとそんな訳ではなく、大正時代に前田家が編纂した『加賀藩史料』が原作者・隆慶一郎の元ネタです。
加賀藩史料は古文書や書籍からの引用文を掲載し国史体で編纂されており、慶長10年11月の個所で慶次の略伝として様々な
書籍資料から引用紹介されていますが、このエピソードは加賀藩家老今枝直方の著作『重輯雑談』からのものなんですね。
つまり原作者は引用箇所のページ数と書籍名を間違っていて、それがそのまま漫画に掲載されて世に広まってしまったと。

自戒として、こういうスレに限らず元ネタと引用先は気をつけねばなりませんね。
加賀藩史料は国会図書館デジタルアーカイブでウェブ閲覧できますのでぜひご覧ください。

ちなみに可観小説の著者、加賀藩の儒者青地礼幹は直江兼続の養女(姪)の子孫です。



49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 13:44:26.48 ID:eIFVPv4q
週刊ジャンプであの連載で大人気って、今思うと凄いな

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 16:08:18.65 ID:6vZU7cQO
>>45
可観小説に書かれたエピソードは、利家を水風呂に入れる話だね。

何人たるを問わずこれに対して善をなせ

2019年05月18日 17:15

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 10:44:19.20 ID:OD/uMuQG
当住院(豊後府内)の布教長であるパードレ・フィゲイロは、(豊後)国内擾乱し、略奪も頻りに行われ
危険多い頃、病人のキリシタンの告白を聴くため出張したが、途中に異教徒が多数出てきて、
槍を取り剣を抜いて彼を罵り、

「豊後の大身達は国内に会堂、またパードレが無からんことを望み、これを発見すれば悉く殺すことに
決したが、もし我等に金銭を渡せばお前を免すべし」

と言った。パードレは少しも聞こえない風をしたため、彼らはパードレを襲い、付近の山の後ろにある
林中に連行して殺そうとする様子を見せた。或いは直ぐに殺すつもりだったのかもしれないが、
パードレは、もし林中に連れて行かれてはこの事は人に知られず、救いを受けることも出来ないと考え、
歩行することを拒み、路上に留まって、

「私を殺そうと欲するならここで殺せ、私は銀を所有しない。また前進することも欲しない。」

と言った。ここに於いて彼らは再び協議し、一人は「殺すべし」と言い、もう一人は「この者を生存させる
べきではない。斬首すべき」と言った。しかし最後の一人は「たとえ犬であってもこれを殺す前には熟議を
要する」と言った。同地の領主が付近の城に在り、彼らの処置にこの領主が憤ることを懸念し、領主に
事の次第を告げ、然るべき処置を尋ねることとした。

我等の主の摂理により、この領主は25年前、豊後の王(大友宗麟)が己を殺そうとした謀反(天文22年(1553)の
一萬田鑑相、宗像鑑久兄弟、服部右京亮による叛乱)に於いて、これを鎮定した宗麟により彼の父並びに
大身二人、およびその子女、家族を悉く殺すことを命じた時、我が住院に逃れてきてその生命を全うした
人であった。

彼は、パードレが庇ってくれたおかげで命を救われ、また最近に成りパードレ・フランシスコ・カブラルの尽力に
よって国王が彼の罪を赦した事を考え、
「このパードレに少しも害を加えてはならない」
と命じ、既に晩になっていたため、その邸に宿泊させ危険より救った。

このようにして彼は安全に府内へ帰ったが、『何人たるを問わずこれに対して善をなせ』という諺が真である
事を見たのである。

(1580年10月20日(天正8年9月12日)付、パードレ・ロレンソ・メシヤ書簡)


と、信玄公は仰せ渡されたのである

2019年05月17日 17:40

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 18:22:20.14 ID:ZU05vU4M
百年以来、本当の合戦はさほどない。ただし両度の本当の合戦があるというのは永禄4年酉(1561)の
信州川中島合戦と遠州三方ヶ原合戦、この両度合戦である。

(中略)

しかしながら、(三方ヶ原の戦いは)武田衆ばかりの手柄にあらず。家康衆も信玄公の衆に劣らぬ手柄なり。
その子細は良く働いて勝負を仕り、足並み揃えて逃げないからである。

武田信玄は)「どのように剛の武士が『手柄を仕りたい』と申しても、見崩れで逃げる敵が相手ではこの
ような手柄にはなるまい」とありて、これに付けても家康を「日本で若手の弓取り」と定められ、信玄公が
仰せになられたことには、

「長尾謙信(上杉謙信)と家康の両人は弓取りである。

信長が近江箕作の城を攻め落としたのも家康被官どもの働き故。北近江姉川合戦も信長は3万5千の人数で
浅井備前守(長政)3千の人数に切り立てられ尽く負けたというのに、家康は5千の人数、浅井備前に加勢
した越前の朝倉衆は1万5千だったが、それを家康衆は姉川を押し渡り、無二に掛かって切り崩し、信長の
利運にさせたのは家康が弓矢を強く取る故である。

金ヶ崎発向(金ヶ崎の退き口)の時も浅井が心変わりしたのを聞いた信長は味方を捨て、岐阜へ早々に引き
入った。そのようなところで家康が若狭の敵を切りひしいで、押付を打たれないように致した(信長が追撃
されないようにした)のは家康25,6歳の時分であるが、その時からこのように仕ったのである」

と、信玄公は御先の侍大将衆に仰せ渡されたのである。件の如し。

――『甲陽軍鑑』



927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 20:09:45.63 ID:F9IKVgUD
どういう理屈だw

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 17:43:16.02 ID:CnyBPqKP
野戦という、総大将が知恵を絞った陣形で勝負が決せられる戦さしか認めない!
という軍学脳かと思った

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 19:41:33.27 ID:sfWLld3+
足並みがそろってないことをそろってることよりageてるの草

信虎公はこの刀で50人余りを

2019年05月17日 17:38

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 04:23:46.41 ID:w2OiBgOR
(天正2年(1574)。遠江浜松への侵攻後)

勝頼公(武田勝頼)は平山を越え信州伊奈へ御馬を入れた。それから伊奈にて信虎公(武田信虎)は81歳
で勝頼公に御対面なさる。

勝頼公が「甲州へ信虎公を入れ参らせよ」と仰せられたところ、長坂長閑(光堅)が分別致して申されて、

「信虎公はまったく尋常ではない荒大将です。いくつになられても御遠慮なさることはありますまい。その
うえ、逍遙軒(武田信廉)・一条殿(一条信龍)・兵庫殿(河窪信実)・典厩(武田信豊)・穴山殿(穴山
梅雪)、その他御親類衆は多いため、(御親類衆が)御逆心なさるかも分かりません」

との由を申すことにより、信州伊奈での御対面となったのである。

長閑が申したように勝頼公と御対面の座で、信虎公は「勝頼は母方は誰ぞ」と尋ね給う。これを長閑が承り、
「諏訪の頼茂(諏訪頼重)の娘子でいらっしゃいます」と申す。信虎公は少し御機嫌を損ねられて「勝頼は
今年いくつぞ」と御尋ねになった。これを長閑が承り「29歳でございます」と申した。

その後、信虎公は各々侍大将衆を御尋ねになった。昔の親の名字を名乗る者は1人もいなかった。工藤源左
衛門を内藤修理(昌豊)と申し、教来石民部を馬場美濃守(信春)と申し、飯富兵部(虎昌)の弟を山県三
郎兵衛(昌景)と申した。信虎公は高坂弾正のことを御尋ねなされ、「伊沢の春日大隅の息子」と申した。
信虎公は聞こし召して、「百姓を大身にするとは信玄の分別違いである」と仰せられた。

ところで、この機会に武田の御重代(家宝)左文字の御腰物を押板の上に立て置きなさったのは、信虎公が
45歳で甲州を御出になってから37年、81歳の時に御帰参なされて、孫でいらっしゃる勝頼公に御対面
なさるということで武田の重代を御座敷に置きなさったわけで、もっともなことである。

そんなところで信虎公はこの御腰物を抜き給う。信虎公はこの刀で50人余りを御手討ちになさったのだが、
「中でも内藤修理と名乗る奴の兄を袈裟懸けに切ったのだ」と、仰せられた。

その後、信虎公は勝頼公の御顔を御覧なされ、左文字の腰物を御抜き持ちながら「このように!(切った)」
となされた。座中はことごとく凍りつき、目も当てられぬ模様であった。

そんな中で小笠原慶庵は心の剛なる人である故、「このようなついでに聞き及んでいる武田の御重代を拝み
申したい」と申されて、信虎公の御側へ参った。そして勝頼公の間へ入って御腰物を無理に奪い取り、鞘に
納め戴いて長閑に渡した。

信玄公は御相手に小笠原慶庵を頼もしく思し召し、御話相手になされた。大勢の中で慶庵を大事のところへ
と召し連れなされたのは、このような人と慶庵を御目利なされたからである。信玄公を諸人が尊び奉るのは
もっともなことである。

その後、やがて勝頼公は甲府へ御帰りになったが、信虎公は伊奈に差し置きなされたのは長坂長閑の分別が
良き故なり。そして信虎公はやがて御他界なされたのである。

――『甲陽軍鑑』



35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 07:41:32.52 ID:EMUiFFNb
>>34
信虎がやばすぎて草、そら追放されますわ

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 09:29:42.79 ID:tI1C2xsG
(誰だよこんなの呼び戻してきた奴・・・)

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 09:54:21.30 ID:vPXWVMD0
てか信虎長生きだな

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 10:35:18.75 ID:nH85bSJc
(だからやばいって言ったやん・・・)

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 10:35:53.50 ID:3JPX1a4D
「内藤修理の兄貴をこの刀で袈裟がけに斬ったんじゃ~」というのは、80過ぎてボケていたからと思いたい…。

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 13:58:13.33 ID:viLJ6jis
>>39
ボケてるんならそういう雰囲気にならなきゃそんな事するわけないし、それでも当主の勝頼に向けてやるはずがない

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 23:29:12.88 ID:LonsrQcf
こりゃ牛馬畜類まで愁悩しますわ

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 05:45:56.56 ID:GNN10F73
甲州軍鑑でも、こういうところでは創作しないで当時あった逸話を拾ってきているだろうしなぁ…
そりゃ、一族重臣総出で追放するわな。

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 07:56:39.50 ID:4ffkuKZb
>>34
>信虎公はまったく尋常ではない荒大将です。いくつになられても御遠慮なさることはありますまい。
しっかり想定されててしかもその通りなのが凄いw

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 15:03:48.62 ID:kgdWSgPA
完全にサイコパス
しかも殺しまくりのヤバい方
正体を隠そうともしないし

勝ちを千里の外に決す

2019年05月16日 16:44

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 01:47:31.40 ID:JyrqVqki
その後、信長公は24歳で是非義元(今川義元)を討たんと心掛け給えども、ここに妨げる男あり。
戸部新左衛門(政直)といって笠寺の辺りを知行する者なり。

能書才学が形式通りの侍で、主君を無二と思って義元に属し、尾張を義元の国にせんと二六時中謀る
ことによって、些細であっても尾張のことを駿河へ書き送った。

これにより信長は心安き寵愛の右筆に、かの新左衛門の消息(手紙)を多く集めて1年余り習わせな
さると、新左衛門の手跡と違わず。この時に右筆は義元に逆心の書状を思うままに書きしたためて、
「織田上総守殿へ。戸部新左衛門」と上書をし、頼もしき侍を商人として出立させ駿府へと遣された。

義元は運の末であったのか、これを事実であると御思いになり、かの新左衛門を御呼びになると「駿
府まで参るに及ばず」と、三河吉田で速やかに首を御刎ねになった。

その4年(永禄3年の誤り)にあたって庚申、しかも七庚申のある歳5月。信長27の御年で人数は
700ばかり。義元公は人数2万余りを引率して出給う(桶狭間の戦い)。

時に駿河勢が所々へ乱妨(乱取り)に散った隙をうかがい、味方の真似をして駿河勢に入り混じった。
義元は三河国の僧と路次の傍らの松原で酒盛をしていらっしゃるところへ、信長は切って掛かりつい
に義元の首を取り給う。この一戦の手柄によって日本においてその名を得給う。

これでさえも件の戸部新左衛門が存命であれば中々難儀であったろうが、信長公は智謀深く、陳平と
張良が項王の使者を謀ったのと異ならず。

信長公の消息の手立ては24歳の御時なり。評言すれば、『籌を帷幄の中に運らし、勝ちを千里の外
に決す(戦略の巧妙なこと。漢の高祖が張良の軍事的才能を評した言葉)』。

そのため、尾張の諸侍で義元を大敵と称し信長を軽んじた者どもは、翌日から清洲へ参候して信長を
主君と仰ぎ申したのである。

――『甲陽軍鑑』



925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 01:54:39.69 ID:i428Al7X
ゆらり

老王は堅固な柱のように

2019年05月15日 17:44

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/15(水) 13:42:07.62 ID:vxZvkeB7
豊後の領内は(耳川の戦いにおける)国王(大友宗麟)の軍隊敗北の報を聞いて悲嘆している頃、
日本の領主達は常に領地を増加する機会を待っている者たちであるため、国王が兵力を失ったこの時を
最も良い機会であると考え、豊前、筑前、筑後および肥後四ヶ国に於いて多数の大身たちが叛起した。
彼らは皆、豊後の王並びにその配下の大身達の領地をできるだけ奪い、自ら領主にならんと欲し、
この目的を果たすため同盟を結んだ。

既に述べたように、龍造寺(隆信)は肥前全土の領主であったが豊後の周囲に有る先の四ヶ国に於いて
国王に対し激烈なる戦争を始めた。これによって豊後の事情は一層悲しむべきものとなり、我等
キリシタンに対する迫害者は力を得て迫害を行い、両王(大友宗麟・義統)を動かしてその意に従わせ
ようとした。

老王(宗麟)は堅固な柱のように少しも変わること無く、我等に対する愛と親しみは日々加わり、また信仰の
事については一層熱心を増したが、若王(義統)は漸次冷淡と成り、我等から遠ざかった。しかして国を
治めているのは彼であるので、彼が冷淡と成るに従って、我等に対する迫害は増加した。
先の四ヶ国の内、肥後と称する国の主だった大身の一人は国王の味方であったが、若王の元に人を遣わして
「今後デウスの教えを庇護することを止め、自らが希望する条件を守ることを神仏に誓わないのであれば、
自分も他の大身達も王に服従できない。」と伝えた。

このため若王は全く信仰を棄て、要求どおりに神仏に誓いを立てた。このようにして彼はデウスの御恵を
失い、再び昔の罪と暗黒に陥った。我が教の敵は若王が信仰を棄てたのを見て豊後に集まり、前よりも一層
悪しき条件を定め、偶像に収入を返し、慣例の祭儀を行い、世子がキリシタンと成り教化を援助することを
止めるよう要求した。世子はこの要求を悉く容れ、異教徒の慣例に従い神仏によって宣誓をなし、完全に
異教徒であることを公表した。

ただし我等に対しては、「これはみな強制させられた為やむを得ず成したことであり、その悪しき事、
また自分が臆病であることは承知しているが、領国を失わないためには他に方法はなく、このようにしなければ
大身達が我等に援助を与えないためである。」と弁解した。
この事は彼の大いなる誤りであり、もしその父のように信仰が堅固であれば、その望みに対して却って
好都合であっただろう。

このように若王が屈服したため、我等に対する迫害は増加し、迫害者は言葉によって侮辱するだけではなく、
各地において毎日のように死刑の宣告を下した。こうしてしきりに友人、並びに敵の使者が来て、間もなく、
或いは夜中に殺されるだろうと知らせたため、我等は毎日毎夜、絶えず恐怖を抱き死の準備をなした。
府内の住院においては夜になると上長(カブラル)が一同を激励し、死を迎える力をつけた後、互いに
抱擁決別し、終夜殺しにくる人を警戒した。

老王はしばしば我等を励ましまた慰め、もし事起こらば我等と共に死すべしとまで言ったが、騒ぎは大きく
敵は甚だ強力にして、さらに政治は既に老王の手に無かったため、我等の恐怖には正しい理由があった。

かくしてこの苦難は数日継続し、その間祈祷、ジシピリナおよび断食を成し、二ヶ月半の間は昼夜祈祷を
続け、イルマン達は各々時間を定め、常に何人か祈りをすることと成した。
若王が信仰を棄て、この迫害によりキリシタン達は嘲笑を被ったため、新たに洗礼を受けた者の多数は
信仰を棄てたが、老王および野津のレアンのように信仰堅き者も少なからず、その熱心は益々加わり、
また新たにキリシタンと成る者も絶えなかった。

(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)



週間ブログ拍手ランキング【05/09~/15】

2019年05月15日 14:22

05/09~/15のブログ拍手ランキングです!


日本をすべて取ろうと思ってようやく中国を 9

虎生まれて三日にして牛を食うの機あり 9

關八州に鉄炮はしまる事 7
主君と、兄弟と、息子の舅の仇から感状をもらった 7

信玄公御時代諸大将之事 6
片手綱を達者に覚えてこそ 5

そこで法体となり“実 休”と呼ばれ 4
大森伝七郎、切死の事 4
若王はこれを聞くと急いで王妃のもとに 4

耳川の敗戦後の、豊後国内 3
フランシスコ・カリヤン書簡より、耳川の戦い 3
智者は闇主の為に謀らず 3


今週の1位はこちら!日本をすべて取ろうと思ってようやく中国をです!
毛利元就年少時の逸話として、非常に有名なものの一つですね。これが『甲陽軍鑑』に収録されているということは、軍鑑が
成立したと考えられる、少なくとも江戸初期には、早い段階だと高坂弾正が口述させた時点で、既にこのような話が世間で
言われていた、という事になります。事実かどうかはともかく、当時毛利元就が既に歴史的英雄として認識されており、幼少期からの
「英雄譚」が形成されており、それは安芸から遠い甲斐にまで伝わっていた、と考えることが出来ると思います。
史料的に、このような「元就伝説」伝播の過程が調べられると面白いのに、なんて思います。

今週は同票でもう一つ!虎生まれて三日にして牛を食うの機ありです!
こちらも「甲陽軍鑑」より、今度は徳川家康の幼少譚ですね。家康という人は武田家にとって、実は上杉謙信以上の宿敵と呼べる
人物でした。三方原に至る信玄の西進も、「家康への多年の鬱憤」を理由として挙げていたほどです。
ただ甲陽軍鑑の面白いところは、上杉謙信にしてもそうですが、真正面で自分たちと戦い続けた武将を割と讃えている所です。
「このくらい立派な武将なのだから我等が苦戦したのも仕方がない」という所でしょうか。一方長篠で大敗した織田信長や、
同盟の復活まで行った北条氏政などへの評価は厳しいですね。甲陽軍鑑における人物評価について調べてみるのも
面白そうです。

今週管理人が気になったいつわはこちら!關八州に鉄炮はしまる事です!
日本ではいわゆる「種子島」鉄砲が後年あまりに一般化したため、鉄砲と言えば種子島式、と認識されるに至ったのですが、
実は種子島銃以前にも、「鉄砲」と呼ばれる火薬を用いた兵器は日本に入っており、かつ使用されていたのではないか、なんて
言われています。応仁の乱でも、投石機で火薬を詰めたものを使用していた記録があります。伊勢盛時の三河侵攻の折の
「鉄砲」も、そういった「プレ種子島期」の火器だった可能性は充分あるのでしょう。その場合は後年の鉄砲とは、相当
運用の仕方が異なったとは思われますが、それもふくめて、日本の「鉄砲」の歴史と見たいですね。
そしてこの逸話では小田原の役における長大な火線に言及されており、武器としての鉄砲が広まった「成果」が、実に可視的に
描かれていると思います。鉄砲の始まりから、当時的な結実まで描いた、非常に興味深い内容だと思います。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に成った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してくださいね!
(/・ω・)/

關八州に鉄炮はしまる事

2019年05月14日 19:24

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 19:16:58.68 ID:Sf64um2C
關八州に鉄炮はしまる事

これを見たのは昔のことである。相模小田原に玉瀧坊(順愛。松原神社別当職)という年寄りの山伏がいた。
愚老(著者。三浦浄心)が若き頃にその山伏が物語りなされたことには、

「私は関東から毎年大峰へ登った。享禄が始まる年(1528)に和泉の堺へ下ったところ、荒々しい様子で
鳴る物の音がする。これは何事ぞやと問えば、『鉄砲という物が唐国から永正7年(1510)に初めて(日
本に)渡ったのだ』と言って、目当として撃って見せた。

私はこれを見て、さても不思議、奇特な物だと思い、この鉄砲を1挺買って関東へ持って下り、屋形の氏綱公
北条氏綱)へ進上した。氏綱公はこの鉄砲を放たせて御覧になり、『関東に類なき宝である』と秘蔵なされ
ると、近国他国の弓矢に携わる侍はこの由を聞いて、

『これは武家の宝なり。昔、鎮西八郎為朝(源為朝)は大矢束を引いた日本無双の精兵であった。

弓の勢いを試みるために鎧3領を重ねて木の枝に掛け、6重を射通した強弓である。保元の合戦で新院の味方
に八郎1人がいたが、八郎はたちまち多くの者を射殺した。数万騎で攻めたといえども、この矢を恐れて院の
御門を破ることは叶わなかったとかいう話だ。

今も弓はあっても、良き鎧を身に付ければ恐れるに足らず。ところがましてや、かの鉄砲は八郎の弓にも勝る
ことであろう。所帯(財産)に代えても1挺欲しいものだ』

と願われたが、氏康(北条氏康)の時代に堺から国康という鉄砲張りの名人を呼び下しなさった。さてまた、
根来法師の杉坊・二王坊・岸和田などという者が下って関東を駆け回り鉄砲を教えたのだが、今見れば人々は
それぞれ鉄砲を持っているものだ」

と申された。しからばある年に北条氏直公が小田原籠城の時節、敵は堀際まで取り寄り、海上は波間も無く舟
を掛け置き、秀吉公は西に当たる場所に山城を興し、小田原の城を目の下に見て仰せられたことには、

「秀吉は数度の合戦で城攻めをしたといえども、これ程の軍勢を揃えて鉄砲を用意したことは幸いなるかな。
時刻を定めて一同に鉄砲を放たせ、敵味方の鉄砲の程度を御覧ぜん!」

とのことで、敵方(豊臣方)より呼ばわったことには「来たる5月18日の夜、数万挺の鉄砲で総攻めにして
盾も矢倉も残りなく撃ち崩す!」と言った。氏直も関八州の鉄砲をかねてより用意し籠めておいたので、「敵
にも劣るまい。鉄砲比べせん!」と矢狭間1つに鉄砲を3挺ずつ、その間々に大鉄砲を掛け置き、浜手の衆は
舟に向かって海際へ出ると、日が暮れるのを遅しと待った。

そのようなところで18日の暮れ方より鉄砲を放ち始め、敵も味方も一夜の間鉄砲を放てば、天地震動し月の
光も煙に埋もれてただただ暗闇となる。しかしながら、その火の光はあらわれて限りなく見えること万天の星
の如し。氏直は高矢倉に上がりこれを遠見なされて、狂歌を口ずさみなさる。

「地にくだる星か堀辺のほたるかと 見るや我うつ鉄炮の火を」

御前に伺候する人々は申して曰く「御詠吟の如く、敵は堀辺の草むらに蛍火が見え隠れしているかのようです。
城中の鉄砲の光はさながら星月夜に異ならず」と申せば、氏直は格別に微笑みなさった(氏直ゑみをふくませ
給う事なヽめならず)。

まことにその夜の鉄砲に敵味方が耳目を驚かせたことは前代未聞なり。愚老は相模の住人で小田原に籠城した
ので、その節を今のことのように思い出されるのである。

しからば鉄砲が唐国から永正7年に渡ってそれから流行し、慶長19年(1614)までは105年である。
さてまた関八州で鉄砲を放ち始めたことは、享禄元年から今年までの87年以来と聞こえたり。

――『北条五代記』

>>894に関連して北条五代記より鉄砲の記事



片手綱を達者に覚えてこそ

2019年05月14日 17:30

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 02:46:49.63 ID:fYL2tmxB
安房・上総両国の府君である里見義弘公、その一家の正木大膳という者は12,3歳の頃から馬を習う時
に片手綱で乗ることを好んだ。馬を教える者は怒って言う。

「片手綱というのはよくよく馬を乗り覚えて功者になってからのこと。片手綱で御乗りになろうとされる
ならば、未だ鍛錬もなさらずに左様になさるとその身なりも悪くなられます。絶対に片手綱は無用ですぞ」

そのように制すると大膳の申しようは「侍の将たる者は馬から降りて槍を合わせて高名するということは
多くはあるまい。馬上で下知してそのまま勝負を決するならば、片手綱を達者に覚えてこそである」と。

幼心に申したように、大膳は度々馬上で勝負を決した。とりわけ国府台で里見義弘の子息・義高(義堯。
義弘の父)が北条氏康と合戦し、義高は負け給う。この後れ口の時、件の正木大膳は良き侍を一所で8人、
また一所で9人、また一所で4人、日中に以上21人を馬上で切り落として退いたのだという。

――『甲陽軍鑑』



耳川の敗戦後の、豊後国内

2019年05月14日 17:27

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/13(月) 19:50:33.25 ID:mxOrsGk9
老王(大友宗麟)は(耳川の戦いの敗北による)混乱の際、前に述べたように急遽出発し、食料も携えず、
所有の品の大半を失ったが、パードレが会堂に備え置いた十字架上のキリスト像を請うため人を遣わし、
これを携帯することを望む旨を伝えた。
またこのように大敗したが少しも恥じる所無く、デウスに対する信頼を失わない旨も伝えた。その後パードレが
王の陣所に到着した時、王は諸人の面前に於いて跪いて手を天に挙げ、現在の艱難に対して我等が主に感謝し、
パードレと語って彼は「キリシタンとして、このような不運に会うも心を変えず、むしろその熱心と
デウスに仕える希望はさらに加わった」と言った。この事を公言したのは、パードレに対する豊後の人たちの
不平と怒りを抑えるためであり、王の信仰がこのように固いことを聞けば、何人もパードレに対して無礼、
または害を加えることが出来ないためである。その後パードレと数回談話した際、「我等が主デウスは
我が意志と、私が日向においてキリシタンの教えを広めようと図っているのを知り給い、隠れたる御裁断に
よりこのような不測のことが起こった。しかしこれに満足し、己の弱き判断を捨てデウスの賢慮に
服従する。」と言い、また他の機会にパードレを慰めて、「デウスが私の軍隊を敗北せしめ給いしは、
この戦争においてデウスの教の最大の敵にして、帰依に反対していた者たちが多く死して、以後の教化に
便ならしむためであろう。」と言った。
若王(大友義統)もこれに劣らぬ勇気を示し、その父がパードレ・フランシスコ・カブラル対して言ったのと
同じことをパードレ・ルイス・フロイスに伝えた。

しかしながら豊後に於いては今回のことは全く神仏の罰であるとされ、我らに対する不平が大いに訴えられた。
よって若王の義兄弟の一人が彼を訪問し、「かくの如き不幸起こり、その部下たちは甚だしく憤慨しているが
故に、今後デウスのことに関係すべきではない。」と勧めたが、若王はこれに答えて
「従来臣下の意向を尊重し、また母(奈多夫人)の機嫌を損じ無いよう努力してきたが、今後は誰にも
譲歩せず、その(キリスト教の)救いのために適する事をする。」と言い、パードレ・フランシスコ・カブラル
臼杵に到着すれば、他人の意向に頓着せず、直ぐに自らキリシタンと成り決してこれを見合わすことはないと
宣言し、また自らキリシタンと成ることを示すため、ロザリオを取り、公にその首に懸けた。その後同一の事を
パードレ・フランシスコ・カブラルに語り、またシナのビジタドールのパードレに通信し、従来よりも遥かに
その信仰心が強くなったことを示した。

国王父子の決心がこのように固いのを見て、我が教の敵は、我等並びにキリシタン等に反対する言を成し、また
行動をすること出来なかった。キリシタンと成って多くの日を経たわけではない国王と、受洗の希望者に過ぎない
世子とが、古きキリシタンにすら信仰への疑惑を懐かしめるこの大いなる不幸に遭遇して、このように堅信を
保持しているのは驚くべきことである。豊後の王は多年非常に幸福であったが、キリシタンと成った直後に
この不幸が起こり、殊にこう言った事態は、かねて坊主たちが威嚇していた事にも関わらず、少しも心を動かさ
なかったのは、我等が主の大いなる御恵である。

その後ほぼ一ヶ月を経て、日向の軍隊の総指揮官であり、死んだと思われ、ゼザベル(奈多夫人)一同も既に
その死を嘆いていた、彼女の兄弟である田原親賢が表れ出た。この残酷なる敵が豊後に戻ってきたと同時に、
キリスト教への迫害は新たに起こり、我等に対する不平の声挙がり、姉妹である悪王妃、およびこの戦において
父子、兄弟、親戚を失った多数の大身及び武士たちは合同して、『今回のことは宣教師たちが豊後に於いて
教化をなし、偶像を破壊したことに原因を発するものである』と成し、我等を殺し、または当国より追放
することに全力を尽くす決心をなした。
戦争において死んだ者は多く、諸人敗戦を嘆いていた故に、我等は町に出れば多くの罵倒の言葉を聞いた。
しかしながら老王は、動かざる柱のように我等を庇護し、若王もまた強く信仰を守ったため、敵はその望む
所を行うこと出来ず、ただ不平を述べるのみであった。

(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

耳川の敗戦後の、豊後国内の動揺の様子。



30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 12:40:43.36 ID:G3wFrSId
大友宗麟ってデビュー当時からピンチの時の判断が素早く的確
成功した戦国大名ってそういうものなんだろうけど

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 14:05:44.57 ID:9vYs8KUt
自分の首を取られたら終わりだからね
今川さんみたいになっちゃう

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 15:04:21.80 ID:x0PW2SgR
動かざる柱のようとか大敗しても恥じないみたいな姿勢はかっこいい

主君と、兄弟と、息子の舅の仇から感状をもらった

2019年05月13日 15:39

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/12(日) 22:30:14.96 ID:gJMRiBMX
まとめの10249「久米の乱」という
勝瑞事件の後に三好実休の舅であり、細川持隆の家臣の久米安芸守義広が
三好実休の主君殺しに怒って仇討のために起こした乱(鑓場の戦い、鑓場の義戦)があるけど
自分の娘をさしおいて主君の妾を奪うとは!という動機もあったとかなかったとか。

ついでにこのとき、久米義広に従って三好実休と戦い、ともに討ち死にした者に佐野丹波守(丹後守?)範房という人物がいた。
「源氏赤松之族 阿波佐野氏系図」によれば範房(系図には「丹波守 三好乱軍之節討死」とある)には
持貞という兄弟がいたようだが、佐野持貞については
18世紀末から19世紀初めにかけて徳島藩により成立した「阿波志」第六巻(三好郡)に記述があり、それを読むと

「源持貞 佐野次郎左衛門。赤松の族。三好に従い阪東に戦う。
持貞の子・左馬允範成、平義広(久米義広)の女を娶る。
源義賢(三好実休)が持貞に与えた感状を代々伝えている。」

「持」は細川持隆からの偏諱だろうから
主君と、兄弟と、息子の舅の仇から感状をもらった、という戦国らしいどろどろしたお話。

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/12(日) 23:20:42.11 ID:gJMRiBMX
と書いたところで
「義賢」は三好実休のことではなく息子の十河存保(義堅とも称した)のことで
「阪東」の戦いは長宗我部との戦いのような気がしてきた。
これだと代替わりしてそれほど悪い話じゃなかった。申し訳ない。



29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 12:36:38.24 ID:rANbibdw
>>26
妾といえど主君の母なので格が上
なので正室の娘が妾に格下げされたのに怒ったのでしょうね

そこで法体となり“実 休”と呼ばれ

2019年05月13日 15:38

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/12(日) 21:10:14.32 ID:kaPKSgKx
勝瑞事件後)

さて、細川殿(細川持隆)の妾である岡本美濃守の娘・小少将の腹に男子1人あり(細川真之)。
実休(三好実休)はこれを聞いて男子を主君と仰ぎ、母儀を内室とする。そこで法体となり“実
休”と呼ばれ、殺奪の罪を補った。

――『三好別記』


一、実休は計りをなして讃岐守持隆の子息・掃部頭を取り立てる。掃部頭は阿波国の屋形に居住
  致したけれども、事あるごとに実休の所為に任せたのだという。

一、細川讃岐守持隆の妻女は周防国大内介(大内義興)の息女である。(持隆の自害によって)
  故郷に帰って、発心なされたのである。小少将という持隆の妾女は、岡本美作守の娘である。
  (持隆の)男子を1人生んだ。実休はこれを娶って妻とし、また男子2人女子1人を生んだ。
  長子は彦次郎長治、次男は孫六郎存保(十河存保)と称す。

――『三好家成立記』











信玄公御時代諸大将之事

2019年05月12日 16:48

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/11(土) 19:21:19.83 ID:HFu6A9lg
信玄公御時代諸大将之事

御歳増す次第の前に、まずこれを書く。もし反故落散して他国の人がこれを見て、我等の仏尊し(自分
の信じるものだけが尊い)と思われるように書いては、武士の道ではないのである。弓矢の儀はただ敵
味方ともに飾りなく有り様に申してこそ武道である。飾りは女人、あるいは商人の法なり。一事を飾れ
ば、万事の事実がすべて偽りとなるのだ。天鑑私なし。

一、永正12年乙亥の歳に平氏康公誕生。これは小田原の北条氏康のことなり。

一、大永元年辛巳歳、源信玄晴信公誕生。これは甲州武田信玄のことなり。本卦豊。

一、享禄3年庚寅歳、上杉謙信輝虎公誕生。これは越後長尾景虎のことなり。公方光源院義輝公より
  “輝”の字を下されて輝虎と号す。本卦履。

一、天文3年甲午歳、平信長公誕生。これは尾州織田上総守のことなり。本卦蠱。

一、天文7年戊戌歳、北条氏康公の御子氏政公誕生。(原注:一本に「此三人(氏政・氏真・義信)
  本卦の所きれて見えず」とある)

一、同年、今川義元公の御子氏真公誕生。

一、同年、武田信玄公の御子義信公誕生。

一、天文11年壬寅歳、徳川家康公誕生。これは三州松平蔵人公のことなり。本卦大壮。

一、天文15年丙午歳、武田勝頼公誕生。これは信玄四番目の御子、信州伊奈四郎の御事なり。信州
  諏訪頼茂(頼重)の跡目である故、武田相伝の“信”の字を避け給う。信玄公の御跡も15年の間、
  子息太郎竹王信勝が21歳までの陣代と称して仮のことであった故、武田の御旗はついに持たせ
  なさらず、ましてや信玄公尊崇の(原注:孫子)御幡も譲らせ給わず、もともと伊奈にいらした
  時の大文字の旗であった。ただし片時でも屋形の御名代であるからと、諏訪法性の御甲だけは許
  して差し上げなされたのである。

――『甲陽軍鑑』

「きれて見えず」は小幡景憲の筆記だと言われてますね



日本をすべて取ろうと思ってようやく中国を

2019年05月11日 16:18

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 18:57:48.09 ID:Gwg6W1io
毛利元就公が幼くいらっしゃった時、厳島へ社参あり。帰って殿原の男女に「今日は何を宮島の明神
に願い奉ったのだ」と問い給う。

皆人は幼い人の気に合うように「奉公」「冥加」「寿命」などとそれぞれに答えた。その中で守りを
致す男は申して「私めはただ『この殿に中国をすべて持ち参らせたい』と祈誓致しました」と言えば、
元就は「中国をすべてとは愚かなり。日本を持つようにと祈誓申すべきだったのに」と言われた。

これに皆人が「まずはこの辺りを尽く取りなさってこそですよ」と申せば元就は立腹して、「日本を
すべて取ろうと思ってようやく中国を取ることであろう。中国を取ろうと思って、どうして中国をも
持てようか!」と宣った。その時の御歳は12歳と聞く。

案の定、元就の代に中国が手に入り、今でさえも“安芸の毛利”と響く大身である。されば『栴檀は
双葉より芳し(大成する人は幼少の時から優れている)』とは、よくぞ申し伝えたものである。

――『甲陽軍鑑』



906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 20:29:58.26 ID:rMI7MG+6
>>905
12歳でも計算高いなぁw

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 20:53:59.33 ID:brzP8IkX
>>905
2位じゃダメなんですか!?

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 21:14:40.36 ID:tNUlN6iX
中国を取るための戦略と日本を取るための戦略は全然違ってくるんだよな
日本を取ろうとしたら、全国の大名を敵に回すわけで

909 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/10(金) 21:35:01.71 ID:4XCzLV2d
>>907
毛利松寿丸「1位を取る目標持って努力して初めて2位が狙えるつってんだろ!」

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 21:42:47.93 ID:nTshZK3o
元就:と、思っていた時期が俺にもありました

行動した結果天下なんか真面目に狙っちゃダメだなと

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 22:24:52.36 ID:f3mHY3R/
この頃の元就って元服はしたものの貧乏のドン底でそんなこと考えてたりしたんかね

912 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/10(金) 22:47:06.89 ID:4XCzLV2d
>>911
それを言ったら>>900の竹千代も人質生活で果たしてそんな考えに至れたかと疑問が…

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 23:18:31.14 ID:bc2V/lVZ
この守り役が願ったせいで元就が継げるはずのない家督を継げて中国まで取れてしまった

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 23:34:20.89 ID:f3mHY3R/
>>912
環境を引き合いに出すなら家康より直家のほうが近いと思うなあ

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/11(土) 08:13:28.60 ID:nJ8lyRTl
明国を征討しようとは大望をお持ちのようだ

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/11(土) 12:21:03.60 ID:qZml1MU0
毛利元就も子供の頃は城を追い出されて貧乏だったのか
すごい教育者に恵まれたのかも

917 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/11(土) 16:11:06.93 ID:dlT+Egt3
>>916
実母ではないが、我が子のように育てた杉の大方と言う養育者がいらっしゃってだな

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/11(土) 19:08:30.96 ID:ggwwNySy
大河では松坂慶子だったかね

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/12(日) 23:02:49.40 ID:zhkN+qLV
>>905はいかにも江戸時代の後付けエピソードだと思うけどな

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/12(日) 23:59:01.47 ID:q+gR2xjB
みんなそんな事承知で言ってる事が分からんとは

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/15(水) 16:20:43.41 ID:yspzPQMw
>>915
中国地方のことだぞ

フランシスコ・カリヤン書簡より、耳川の戦い

2019年05月10日 16:42

17 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 09:28:01.42 ID:0VkCxDIG
両王(大友宗麟・義統父子)が日向及び豊後に於いて(キリスト教のために)為したる事は右の通りであるが、
それに対するパードレ等の満悦甚だしく、また大友統治下の諸国に於いて、帰依のために開かれた門戸は広く、
キリシタンたちが満足したことは、尊父も察せられるでしょう。
であるが他方に於いて我が教の敵は悲しみ、邪悪なるゼザベル(奈多夫人)と坊主達の不満甚だしく、
坊主たちは両王が寺院を破壊し彼らを侮辱したことに対し、神仏の罰が諸国に及ぶと脅したのであるが、
キリシタン並びに王達は、神仏がいかに激怒しても何もすること能わないのを笑った。

事情かくの如くであった時、我等の主デウス(御判断は我等には解らざれども、聖にして常に正しく、また
一般の幸福と成るものなり)は、日向の軍隊に油断の生じることを許し給い、これによりキリシタン及び
我等の喜びは嘆きに変じ、キリシタンに対する大迫害が起こり、豊後の王が多年領内に維持していた平和は
忽ち激烈なる戦争に変わり、国内の事情は一変した。
世の事は無常であり、日本の事情が変わりやすいこと、また我らが進まんと欲する道が、我等の主が定め
られたものと大いに相違していたことが、明らかに認められたのである。

日向に在った総司令官である田原親賢の油断と無能により、既に手中に在った勝利と、その指揮する全軍は
失われた(耳川の戦い)。軍隊は同国一帯の鍵であり、多数の兵の籠りたる一城(高城)を囲んだが、
それ以前に攻めた城においては少しも抵抗を受けなかったため、敵を軽蔑し警備を怠っていた。それに反し
敵である薩摩の王(島津義久)は少しも油断せず、高城の陥落が全領土の喪失と成るべきことを慮り、全力を
尽くしてこれを救援する決心をなし、噂によれば所領の三ヶ国より老人と少年を除き貴族及び平民の兵を
悉く召集して無数の兵を得、これを率いて城に向かって進軍した。そうして先ず伏兵を設け、全く警備を
怠っていた豊後の軍を平地に誘ってこれを攻撃した。城内の兵もまた打出て、豊後の軍を真ん中に挟んで
おおいに戦った。豊後の兵はよく防ぎ多数の敵を殺したが、大軍に対抗すること出来ず、大部分は戦死し、
残兵は戦場を敵に委ね、列を乱して敗走し、生命を全うするために全力を尽くした。

18 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 09:29:00.68 ID:0VkCxDIG
風評は事実より誇大に伝わり、また逃げる者には恐怖が伴うのが常であり、多数の敗残者は戦場より数レグワ
離れた老王(大友宗麟)の滞在地(無鹿)に着くと『全軍殺され、または敗走し、敵は急激に追撃し、数時間の
内にはここに到着し占領を始めるであろうから、少しも時を失わず豊後に遁るべし。』と言った。
多数の人が逃げ帰って同じことを繰り返したため、話は益々大きくなり、前よりも悪しき報伝わり、人々の
恐怖は甚だしかった。パードレ・フランシスコ・カブラルは王に対し、「同所は堅固であるから引き上げを
急がず、残りの軍隊を収拾すべきで、敵が急に来ることも無いし、味方の死者も話よりは少ないはず。」と
言い、王もその勧告に従う決心をしたが、部下の恐怖甚だしく頻りに騒いだため、遂にこれに負けて急遽豊後へ
撤退することと成った。夜中人をパードレに遣わして己の去る事を告げ、少しも躊躇すること無くイルマン達と
共に出発するよう命じた。この夜の混乱は甚だしく、王と共に逃げる者が途中の食料を携えることも忘れたため、
豊後までの3,4日路の間非常なる苦労と飢えを覚え、国王も妃も大いに困窮した。

パードレ・フランシスコ・カブラルおよびイルマンたちは、国王が同日午後、彼らの説得により一端、敗残兵を
収拾して同所に留まることを決断していたため、撤退の用意を少しもしておらず、王が撤退の使いを出した
直後には出発してしまったため独り後に残り、馬はわずかに一頭しか無く、しかもこの馬は、病気のため
付近の他の町で療養していたイルマン・ルイス・ダルメイダを迎えるために送る必要があり、どのようにしても
他の馬を得ることが出来ず、又これを捜す余裕もなく、しかももしすぐに出発せず豊後の王から離れた時は、
我等は敵、もしくは味方であるはずの豊後の逃亡兵から殺される危険があった。この兵士たちは異教徒であり、
パードレたちが国王をキリシタンとなしたが故に、神仏の罰が彼らに及んだのだと言い、そういった迷信を
抱いていたためである。
パードレ及びイルマン等は如何とも出来ず、会堂の最も大切な品を少しばかり従僕たちに運ばせ、冬の最中に
険しい山道を通り、食料も無く、肉体及び精神上非常なる疲労を覚えたが、王が恥じて引き返してくることを
懸念して前進した。彼らの困難は甚だしく、大いに飢餓に苦しみ、三日の道中を成した力があったのは不思議と
思うほどである。
日本の戦争の習慣に従い、全土は焼かれて居住する者もなく、食料も、夜休憩する家もなく、飢餓と寒気と
疲労のため、絶えず死に瀕していたが、我等の主の御助により。夜の宿泊所において従僕たちから少しの米を
与えられた。また山の険路において足を痛め、履物もなく、降雨のため水多く冷たい河を渡り、濡れた体を拭く
物もなく夜を過ごした。これにかかわらずダライニヤを唱えてデウスの一身を委ね、かくの如くしてデウスの
御恵により慰めを得た。
(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

耳川の戦いの敗北についての宣教師の記録。やはり神仏の罰だったのでは。



19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 13:28:47.46 ID:C+7oiKRh
これは前スレの空気読まない学級委員長みたいな大鹿剣助も激怒