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週間ブログ拍手ランキング【02/14~/20】

2019年02月20日 14:10

02/14~/20のブログ拍手ランキングです!


小田原陣の堀秀政 12

撫で斬りを始めるぞ! 12

天が秀吉を祐けたのだ 8

草履を横さまに御つけ有しとそ 6
鶏鳴より取巻いて攻めれば 5
里村紹巴と秀次事件+α 5

秀吉はまことに前代未聞の大将なり 4
秀吉1人の天下となることは快きかな 4
三七信孝も智勇は人を超えていた 3
秀吉は摂津国大坂において城郭を定めた 3
柴田勝家自害 2


今週の1位はこちら!小田原陣の堀秀政です!
なるほどこれが堀秀政の「名人」ということか、と感心しちゃいました。予め状況を予測して対処を用意しておく、という事、
中世と言えば「中世に予防法無し」と言われるように、基本的に事が起こってから対処を考える、というのが一般的でした。
そういう観念の強い社会だったことを考えると、確かに秀政が「名人久太郎」と異名されるのも解る気がします。
また、このような問題対応に対する意識変化の過渡期でも有ったのでしょうね。そんな事も思ったお話でした。

2位はこちら!撫で斬りを始めるぞ!です!
武将感状記は正徳6年(1716)の成立なので、戦国乱世から100年以上後の逸話集ですね。ですがこのお話など、
非常に戦国の匂いを感じさせる内容で、編者の熊沢淡庵(謎の人物らしい)の、逸話収拾に対する面白さを感じたりします。
それにしても意訳すると、まさしく「ヒャッハー!皆殺しを始めるぜー!」ですからねw良くも悪くも、こういうものが
戦国気質だったのだろうなと思ってしまいます。

今週管理人が気になった逸話はこちら!秀吉1人の天下となることは快きかなです!
柴田退治記をはじめ、秀吉が大村由己に書かせた『天正記』は、その内容を公家など京の上流階級に「読み聞かせ」していたらしく、
正しく秀吉のプロパガンダ文章でした。古代ローマではカエサルがガリアにおいて、戦勝を重ねることにそれを文章に書いて
ローマに送り自分の勝利の偉大さを強調したのが『ガリア戦記』だと言われますが、それと似たような事をやっていた、という
事なのでしょう。こういう強烈な自己宣伝、世論操作は秀吉の大きな特徴の一つだと思いますし、後世に至っても、あまりこういう
人は、日本には出てきませんね。『天正記』は秀吉の覇権の過程で、彼が自分をどう見せたかったか、を理解させてくれる、
とても良い史料であると思います。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
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小田原陣の堀秀政

2019年02月19日 17:56

堀秀政   
683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/19(火) 17:40:12.65 ID:GBZYAmhh
小田原の役が始まろうという時、堀左衛門督秀政は、先ず人を遣わして、伊豆、相模、駿河、遠江において
牛数十頭を購入しておいた。

秀吉の軍がやがて箱根の険路にかかる時、秀政は先に買い置いていた牛にて兵粮を運んだ。
他の部隊は兵粮の輸送に甚だ迷惑している中、秀政一人、予想して備えていた故にこれに困難は無かった。

またある夜、風雨甚だしく、天地非常に暗かった。この時秀政は
「今夜必ず盗人が入るであろう。我が士卒の馬、鞍、兵粮などが盗人に取られるくらいなら、盗難の
用心への怠りを伺って、我自らそれを取る!」
堀家の士卒はこの言葉を聞いて、みな眠らずに用心をした。そして秀政はその夜、三度陣中を巡邏した。

翌朝、他の陣は多くが盗みに入られたが、秀政の陣では盗難の被害はなかった。

(武将感状記)

なるほどこういうふうだから名人久太郎って呼ばれたのか。


天が秀吉を祐けたのだ

2019年02月18日 17:36

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/17(日) 21:17:30.62 ID:9bBq3pfH
豊臣秀吉は、天運に乗った人であった。

賤ヶ岳の戦いの折、織田信孝は岐阜の城に拠って秀吉と対したが、柴田勝家は信孝と通謀して
「堅く義父岐阜を守れ、秀吉必ず来たり攻めん。我柳ヶ瀬の麓を回って前後より挟み撃てば、
一戦にしてその頸を見ん」との約を定めた。

秀吉は勿論これを知らず、岐阜城を攻め囲もうとした。ところがここで、その夜より水瓶を返したような
大雨となり、呂久、郷戸のニ川、俄に激浪滔々たれば、渡ること能わず、川の此方に陣した。
そこで勝家が柳ヶ瀬を出発したとの情報を得、秀吉は川を渡らず岐阜を捨てて、柳ケ瀬へと軍を進めた。
しかし洪水の故に、信孝もこの秀吉の軍を追撃することができなかった。
勝家の謀は却って自ら不意に遭う端緒となってしまったのである。

これ天が甚雨、洪水を以て秀吉を祐けたのだ。

(武将感状記)

この時大雨で秀吉が岐阜城囲めなかったのは史実なのね。



682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/18(月) 19:58:27.32 ID:aeCHFtum
神戸具盛「堅く義父を守れ、か……さすが柴田はいい事言うのう」

鶏鳴より取巻いて攻めれば

2019年02月18日 17:35

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/18(月) 00:37:47.82 ID:d2+p9LT9
鶏鳴より取巻いて攻めれば


信長公が山門(比叡山延暦寺)を攻めたとき、九月十一日には諸将に命じて既に攻めかかろうとしたが
護国公(池田恒興)が
「今日はもう日も牛の後に及んでいるので、(そのまま)夜になれば悪逆の衆徒が逃げてしまうでしょう。
 明日鶏鳴(午前二時ごろ)より取巻いて攻めれば、一人も生き残らないでしょう」
と言われたので、もっともだということでその日の戦を止められた。

さて夜半よりあんなにも大きな比叡山を隙間なく取り巻いて、四方の手合いが合図の法螺を吹き立てると
一度に閧をドウとあげて攻め、山門もここを専らと防戦したものの、四方八方より焼き立てたので
ついに(延暦寺は)根本中堂を初め一宇も残らず灰燼となった。

(諸将は)老僧児童の首をはねたり生捕りにしたので、猛火の中に飛び入って焼死する者も多かったという。


――『池田家履歴略記』


三七信孝も智勇は人を超えていた

2019年02月18日 17:34

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/18(月) 17:26:48.51 ID:QhmfMSe6
また織田三介信雄は人数を率いて岐阜に攻め入った。三七信孝(織田信孝)もまた将軍(織田信長
の御息男で、智勇は人を超えていた。(而智勇越人)

信孝がどうして自害を拒むことであろうか。かの山にて信孝は髪を洗って身を清め香を焚き、将軍
から賜った太刀で、首を刎ねて死んだ。逆心によって滅んだことは、おおかた天命なのではないか
(於自害豈可辞乎。彼山而沐髪淸身焼香以将軍所被下太刀首刎死。以逆心相亡事殆不天命乎)。

――『天正記(柴田退治記)』


秀吉は摂津国大坂において城郭を定めた

2019年02月17日 16:38

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/16(土) 18:06:07.30 ID:SKjhiH3w
(『柴田退治記』の成立した1583年11月頃)

秀吉は摂津国大坂において城郭を定めた。かの地は五畿内の中央にあり、東は大和、西は摂津、南は
和泉、北は山城、四方は広大にしてその間は高くそびえ立つ山岳である。

麓を廻る大河は淀川の末に大和川の流れが合わさって、その水はすなわち海に入る。大船が日々着岸
すること幾千万艘と知らず。大坂は平安城(京都)から10余里、南方の平陸には天王寺と住吉、堺
津へは3里余り。いずれも町店屋の辻小路が立ち続き、大坂の山下をなす。五畿内をもって、かの地
の城主の警固のために外構をなすものである。

故に大和には筒井順慶、和泉には中村孫平次(一氏)、摂津には三好孫七郎秀次(豊臣秀次)、茨木
には中川藤兵衛尉秀政、山城槇島には一柳市助直末がいる。

洛中洛外の成敗を司る者は、半夢斎玄以(前田玄以)である。玄以は若年より知恵は深く私曲がない。
秀吉はこれを知っているので玄以を奉行に定めたのである(従若年知恵深而無私曲。秀吉依知之定奉
行者也)。もしまた法度にないような理非を決断できないことがあれば、秀吉が糾明するものである。

現在行われている大坂の普請は、まず天守の土台である。その高さは莫大にして四方八角は白壁翠屏
の如し。良匠が墨縄をもって斧斤を巡らせても、これ以上のものは作れない。

30余ヶ国の人数が近国遠郷より散らばって、陸地船路より大石小石を集めて来る様子は、蟻の群れ
が蟻塚に入っていくようだ。まことに古今奇絶の大功なり。皆人はただ耳目を驚かせるばかりである。
諸国の城持衆や大名小名も尽く大坂にいるのである。人々が築地を構えて軒を連ね、門戸を並べてい
ることは、奇麗荘厳を尽くすものなり。

――『天正記(柴田退治記)』


里村紹巴と秀次事件+α

2019年02月17日 16:37

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/17(日) 16:25:23.15 ID:QBNyGuoi
里村紹巴と秀次事件+α


世に定めとはないものである。良きことも悪しきことになってしまうのだ。

秀次関白殿は少し連歌の御稽古をされていたので、喜んで紹巴は毎日登城されていた。
かの御謀反の御談合をしていたとみなされたのか、(紹巴の)百石の知行や家財屋敷に至るまで
昌叱(紹巴の娘婿)に太閤御所(秀吉)が(紹巴から取り上げて)下されることになってしまった。
呆れるほどひどい身の上になってしまわれたので、気の毒に思いその年(文禄4年)の師走に
雪をかきわけて、丸(松永貞徳)一人隠れ忍んで(紹巴の所に)参った。

法橋(紹巴)は丸の名を聞きつけて懐かしく思われたのか、十間ほど(家から)出てこられて
丸の手を引いて、奥の住家へ引き入れられた。
道すがら(紹巴は)
「上手に遅くに来る者だ。春のころ、照光院殿(聖護院道澄)などから御見舞いの使者があったが
 (詮議が厳しく見つかると困るので)私の首を斬らせようとしたのかと思ったものだ」
と仰った。


――『戴恩記』
紹巴と貞徳の父は知り合いで、貞徳が12才の頃には月例の連歌の会に誘ってくれたらしい。

貞徳は里村紹巴の容姿や性格についても書いていて

「顔おほきにして眉なく、明なるひとかは目(一重まぶた)にて、鼻大きにあざやかに
 所々少くろみて、耳輪あつく、こゑ大きにきつきひびきありて、ざれごと申さるるも
 いかるるやうに侍り」

と記している。(戴恩記)


秀吉はまことに前代未聞の大将なり

2019年02月16日 17:31

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 18:10:30.03 ID:eLOuuDtR
そうして滝川左近太夫(一益)は秀吉に懇望して身を任せ、長島城を渡すことで許容となった。

このような時(出典の成立年。1583年)に、東国においては徳川家康北条氏政、北国において
は長尾景勝(上杉景勝)、西国においては毛利輝元が、皆秀吉へ方々から寄り集まっている。天下は
秀吉の掌握に帰すといえよう。

漢の高祖が天下を取った時に三傑あり。戦に優れたのは韓信なり。糧を巡らすのは蕭何なり。謀を巡
らすのは張良なり。源頼朝が日本を治めた時に三賢あり。義経は戦功をことごとくし、梶原景時は世
勢をもっぱらにし、北条時政は政道を行った。これはすべて良臣の諫めによって成し遂げたのである。

今は秀吉が一心で謀を巡らし糧を蓄え、戦をもっぱらにする。まことに前代未聞の大将なり。

――『柴田退治記』



744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 20:26:06.18 ID:IC6boHOF
義経、景時、時政を頼朝の三賢とかいうと微妙な気分に

義経=韓信といえば白話文学「喩世明言」で楚漢戦争の英雄を三国演義の英雄に転生させる話を元にした
江戸時代の「英草紙」で源平盛衰記の英雄を太平記の英雄に転生させた話でもネタにしてるな

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 21:44:28.69 ID:L99+733I
>>744
フェイトの元ネタの魔界転生の元ネタの元ネタがあったとは

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 22:15:30.40 ID:02BhZVGW
転生は中国説話じゃよくあるネタだったからなあ
三国平話も転生から始まるし

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 22:51:55.60 ID:boxxZIZV
お腹を空かした虎に自分の身体を投げ出した人の転生体がお釈迦様という話もある

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/16(土) 13:13:36.59 ID:S0aIoIwN
半兵衛の今孔明も「転生したんじゃねw」って意味で使われた可能性も!

秀吉1人の天下となることは快きかな

2019年02月15日 11:45

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/14(木) 18:53:15.11 ID:/eS1jLtn
この先、権を争い威を妬む輩を秀吉は意の如く退治せしめ、秀吉1人の天下となることは快きかな
快きかな(此先争権妬威輩如意令退治。為秀吉一人之天下事快哉々々)。

これしかしながら、秀吉の武勇智計の致すところなり。まことに国家太平はこの時である。よって
忝くも今上皇帝(正親町天皇)の叡感は斜めならず。これがために朝日早からざるなし。

摂家清華を始めとして諸卿百官、ならびに三管領四職、その他所々の国司各々が来住して、秀吉に
随従せぬ人はいない。風雅の興や茶湯の会、日々の楽遊は枚挙にいとまあらず。

秀吉がますます政道をもっぱらにして人民を撫育するのは千秋長久の始まりにあらずや。至祝万幸。

時に天正11年(1583)11月吉辰。大村由己、謹んでこれを記す。

――『柴田退治記』


草履を横さまに御つけ有しとそ

2019年02月14日 19:41

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/13(水) 20:47:39.56 ID:hVOYUadj
姉川の合戦は東照宮(徳川家康)の勝事なり。信長が朝倉義景と対陣の時、東照宮は先陣を乞うた。信長
は叱って曰く、

「田舎者にどうして良い働きができるか!(田舎者何とて能せん)」

しかし東照宮はしきりに乞いなさり、信長はこれを許した。東照宮は即時に川を渡って敵を破りなさった。
この時、信長の前を去る時に、草履を横様に御付けになられたという(草履を横さまに御つけ有しとそ)。

――『老人雑話』

よこ‐さま【横様/横▽方】
[名・形動]《「よこざま」とも》
1 横の方向。横向き。また、そのさま。「―に倒れる」
2 道理に合わないこと。また、そのさま。非道。「―な要求」


撫で斬りを始めるぞ!

2019年02月14日 17:27

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/13(水) 21:40:26.13 ID:fNzNXtnx
河内国の武士で名を顕した、遊佐左衛門佐という者が居た。摂津と河内は隣接しており、
摂津の中川瀬兵衛清秀との間に防戦止むことなかった。

ある時、中川の従兵である木村七郎右衛門が守口の堤下を移動していると、遊佐がただ一騎物見に出てきたと
見えて、馬上やってきた。木村は堤下より声をかけ、不意に躍り出ると、遊佐は咄嗟に槍を取り直そうとする、
そこを刺して馬上からはね落とし、堤下に倒れると同時に押えて頸を斬った。
そして立ち上がろうとしたが、そこに遊佐を追ってきた配下7,8人が、鑓を引っさげて進んできた。
しかし木村は遊佐との戦いに疲れ、息も喘ぎ勝負がつかなかった。ではあったが、最後の力をつくし、
大声で「撫で斬りを始めるぞ!」と堤の上に飛び上がると、味方の兵これに気が付き後に続いた。
敵はこれを見て引き退いた。

木村は後に人にこう語った。「あのとき総勢が続かなければ、童子にも討たれていただろう。
遊佐の頸を取ったのは左程のことでもなかったが、最初に疲弊し息も上がり、その後危うくなってしまった。」

(武将感状記)

助けを呼ぶ時「撫で斬り(皆殺し)を始めるぞ!」って叫ぶの戦国らしくていいな。



676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/13(水) 22:09:20.45 ID:UttzCQRf
>>675
現代でも、泥棒と叫ぶより火事と叫んだほうが人が集まるらしいが、それの戦国時代版かなw

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/14(木) 12:12:40.18 ID:GlVcWKUV
木村「さあ、『皆殺し』を始めるぞ!」

漫画だったらすごいオーラ出してそうなシーンだw

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/14(木) 20:00:41.82 ID:RiNIEpAp
>>676
火事は自分も危ないからな

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 00:09:28.64 ID:ZfIZImEq
ヒャッハー!皆殺しだー!!
原哲夫の漫画っぽいな

柴田勝家自害

2019年02月13日 17:48

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/13(水) 00:14:41.65 ID:WTqP41ZB
柴田勝家自害の時)

勝家の家城である北ノ庄に前田又左衛門殿(利家)は真っ先に着かれた。城と寄り口との間に川一つあり。
その川に橋があって“北ノ庄の石橋”と申すはこれなり。

10間ほどの桁行短い淀みの橋があったが、これを渡らずに西の地に“愛宕山”という山があって、又左衛
門殿はその山に陣を取りなされた。そこに御旗本の先手の御人数が早くも到着した。

又左衛門殿の下知により、川端に又左衛門殿の手勢の人数が立てられた。橋口を又左衛門殿は心掛けられ
て一番に渡ろうと思われたのか、先手の御人数さえも橋口を渡らずに、主の手回りだけの人数で橋口を固
められて、又左衛門殿自身はまた愛宕山へ登って待ちなさった。

そこへ秀吉が早くも愛宕山に登りなされた。秀吉の仰せには「軍兵どもは腰兵糧を使え」とのことで、御
使番衆を所々に差し遣されて又左衛門殿へ仰せになり、「城を持ち固める前に攻め入ろう」と御談合なさ
れたところで、北ノ庄城は天守から焼け上がった。

後に城から出た者が申し上げたことによれば、勝家はとても叶わないと思われたということなのか、前述
に申し上げたように、天守へ鉄砲の薬を上げさせて二重に詰め置かれ、御前方(お市の方)やその他の片
を付けて勝家も自害なされたのだ。

勝家は燠掻きに火を入れて前述の時に上げ置きなさったのだが、腹を切ってその火を掛けなされたことよ
と見えて、二重の鉄砲の薬によって爆発すれば、天守の部材は四方八面に跳ね散らし、秀吉御陣取りの愛
宕山へは城から10町ほどもある所にまで、瓦などが虚空を跳ねて来たのである。

(おきかきに火を入右に被上置しか腹を切り其火をかけられたるよと見え二重の鉄炮の薬にてはね候へは
天しゆの引物とも四方八面にはねちらし秀吉御陣取の愛宕山へは城より十町程も御座候はん所にかはらな
とこくうにはねて来り候)

――『川角太閤記』


週間ブログ拍手ランキング【02/07~/13】

2019年02月13日 14:49

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政宗が無理に取ってしまいました 23

君のなさけの今はうらめし 11
【ニュース】姫路の化粧品メーカーが姫路城の紋瓦型せっけん販売へ 11

ただいま私が天下に備わったのは、ひとえに長秀の御かげである 10
御茶ノ水の地名の由来 9

越中征伐陣立書 8
佐久間玄蕃の最期 8

同道し引き取れば良かったのではないか 6
省陌(せいはく) 6
神速無比の人なり 5
まだ若年の身でそれぞれ敵を討ち取り 5


今週の1位はこちら!政宗が無理に取ってしまいましたです!
さすが政宗。これぞ政宗。色んな意味でじつに政宗な逸話です。被害者(w)が忠利なのもいいですね。政宗が相手では面と向かって
強く言えなかったのだろうな、なんて情景が見えてくるようです。そして恐らく政宗は、細川忠興・忠利親子の審美眼を信用して
いたのでしょう。だから彼等の物を欲しがる。細川親子からしたらいい迷惑ですがwしかしそういうのを迷惑に思いつつも
政宗だから仕方ないと受け入れちゃうのが、伊達政宗という人の人徳でも有るのかなあ、なんて思ってみたりw
政宗のこの手のお話、掘り起こせばもっと出てきそうですね~。

2位はこちら!君のなさけの今はうらめしです!
これはもちろん、本多忠勝の辞世の句『死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば』の本歌取なのですが、
内容的に対になっているのが実に良いですね。さすが後世にまで伝わっただけ有って上手い。
そしてなんとも不本意さが伝わってきます。「死ぬのは仕方ないけどこの死に方はなあ…」みたいな。
それでも、しかも草履取りという低い身分でありながら殉死することが、心意気でも有ったのでしょう。
実は割と複雑な味わいのある逸話だな、なんて思いました。

そして今週は同票でもう一つ!【ニュース】姫路の化粧品メーカーが姫路城の紋瓦型せっけん販売へです!
五三桐紋、太閤紋とはいいつつ、現姫路城で見つかったものは、実際には木下家定か池田家の使ったものなのでしょうね。
一方で秀吉や現在の姫路城を建築した池田輝政はともかく、なぜに、基本あまり芳しい言い伝えのない酒井忠恭の紋なのか。
千姫が再婚した美男で有名な、本多忠勝の孫、本多忠刻ではいけなかったのか、などとも考えてみたり。
まあこれはこれで面白いのですがwそんな事を思ったお話でもありました。


今週もたくさんの拍手を各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
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神速無比の人なり

2019年02月12日 18:11

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/11(月) 20:06:12.81 ID:GR8PkkoR
太閤は柴田勝家を征伐した時、城に火の手が上がるのを見てそのまま越中に赴き佐々陸奥守(成政)を征
伐した。勝家の首を見なかったが、そのような事をも何とも思われなかったのである。神速無比の人なり。

(中略)

太閤は万時早速なり。ある時に右筆が醍醐の“醍”の字を忘れた。太閤は指で“大”の字を地に書き曰く、
「汝は知らぬのか。このように書け」ということである。

また高麗の軍中に奉書などを下される時にも「継いだ紙に書け。あるいは悪いところは墨で消してこれを
持って行け」と遣われたという。(原注:一本には「『俊傑の人はこのような小枝には心を掛けぬものだ』
とのことだったという」とある)

――『老人雑話』


柴田勝家自害の時)

秀吉が北ノ庄城の天守が焼け上がるのを御覧になって、「又左衛門殿(前田利家)はどのように御観察に
なるか」と仰せられれば、又左衛門殿は「勝家は自害致されたか、または武略でもござるのかこの二つと
存じます」とのことであった。

秀吉がこれを御聞きになられて「武略の様子とは如何に」と仰せなされば、又左衛門殿は「勝家は天守に
火を掛け自害したように見せかけ、自身はひとまず落ちたのかもしれません」との御答えであった。さて
秀吉は、

「勝家ほどの者が居城の天守に火を掛けるということは、私も人もそうだが、城持ちほどの者にとっては
天守一つであっても運を開くための天守である。それに火を掛けるほどならば、とりわけての何かはあるまい。
ただ単に勝家の自害は必定である。(それに火をかくる程ならは別條候まし但自害は必定也)


又左衛門殿が仰せられたように、たとえ一旦落ちて山林へも入り、その後に尊氏などのようにまた重ねて
義兵を挙げようとの判断であろうとも、あの体をなすまでに成り行っては、2年3年の間に義兵を挙げる
ことはできないのである。その間に私が聞き出して、尊氏のようにはならずに勝家は縛り首にあうだろう。

『首を見る』『遺体を探し出す』などと申していては、3日5日は日柄が立ってしまうのは必定である。
首遺体は見ること不要の物だ(頸死骸見候はん事不入物候)。いざや、ただちに加賀国に押し込む!」

と仰せになって、かの石橋(北ノ庄の石橋)を又左衛門殿が真っ先に押し渡り、秀吉は城を横目にして加
賀国へと御馬を速められた。

秀吉は御使番衆を召し寄され、「下々の者どもを町屋に入れて、2泊分の米・塩・味噌を用意させよ。馬
の飼料以下も同様である。その他の物でも、乱取りしようと心を入れてはならぬ。その通り下々へ触れよ」
と仰せになり、その夜は船橋を御渡りとなって、御陣取りを一夜で御据えになった。

――『川角太閤記』


御茶ノ水の地名の由来

2019年02月11日 17:47

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/10(日) 19:04:06.53 ID:MPoFFmsO
御茶ノ水の地名の由来

慶長の昔、この邊り神田山の麓に
高林寺という禅寺があった ある時
寺の庭より良い水がわき出るので
将軍秀忠公に差し上げたところ
お茶に用いられて大変良い水だとお褒め
の言葉を戴いた。それから毎日
この水を差し上げる様になり この寺を
お茶の水高林寺と呼ばれ、この邊
りをお茶の水と云うようになった。
其の後、茗渓又小赤壁と稱して
文人墨客が風流を楽しむ景勝の地
となった。時代の変遷と共に失われ
行くその風景を惜しみ心ある人達が
この碑を建てた。

(御茶ノ水駅近くの石碑)

参照:御茶ノ水石碑
blog-location-img05.jpg



同道し引き取れば良かったのではないか

2019年02月10日 17:41

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/10(日) 07:29:58.83 ID:4nGBoZpj
織田備後殿(信秀)からの、息子信長への遺誡のうちに、「大利を得た場合、其の勢いをよく養えば
敵国は自然に滅びるものである。」というものがあった。
この事を柴田勝家はよく知っていた故に、賤ヶ岳の戦いの際、中川清秀の砦の急襲に成功した
玄蕃允(佐久間盛政)に急ぎ引き取れと、使者数度に及んだが、玄蕃はそれを用いず自分の戦果を誇る
様子が見えた。

或いは曰く、このように玄蕃允が下知を用いないのであれば、勝家が早々に進み来て、玄蕃を引き立て
同道し引き取れば良かったのではないか。秀吉ならばそうしただろうと、心ある人は悔やんだという。

(甫庵太閤記)


越中征伐陣立書

2019年02月10日 17:39

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/10(日) 14:33:09.70 ID:qKn6gYUk
以下は秀吉が越中征伐の際、従軍する加藤光泰に送った陣立書。


越中江先勢遣覚

  一番
前田又左衛門殿(利家)     壱万

  二番
羽柴五郎左衛門殿(丹羽長重)  弐万

  三番
木村隼人佐殿         三千
堀尾毛介殿(吉晴)       千
山内伊右衛門殿(一豊)     七百
佐藤六左衛門殿(秀方)     弐百
遠藤大隈守殿(胤基)      弐百
遠藤左馬助殿(慶隆)      弐百

  四番
加藤作内殿(光泰)       千
池田三左衛門殿(輝政)     三千
稲葉彦六殿          千五百
森仙蔵殿(忠政)        千五百

  五番
民部少輔殿(戸田勝隆)     二千五百    
蒲生飛騨守殿(氏郷)      三千五百

  船手衆
因幡衆            二千
長岡越中守殿(細川忠興)    二千
  以上
信雄         馬廻  五千
  都合五万七千三百

  七月十七日秀吉(朱印)
      
      加藤作内とのへ

――『陸奥国棚倉藩主阿部家資料』

大軍を率いる丹羽長重は若干十五才であり、家中の統制が利かなかったのか
越中において家臣が寺院への乱入や殺害行為をし、軍律を犯したとされている。



737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/10(日) 15:00:19.34 ID:bCEsbCEB
毛介・・・
清廉潔白すぎて獄死しかけた御仁か

ただいま私が天下に備わったのは、ひとえに長秀の御かげである

2019年02月09日 17:42

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 20:15:54.09 ID:GDNFNzGN
これは今における世間の沙汰で定かな事ではない。

丹羽五郎左衛門殿(長秀)へ加賀・越前両国の間に百万石を進ぜられたところ、五郎左衛門殿は病
気の由を仰せられ、まったく越前を出られず国に引き籠っておられた。

秀吉は聞こし召されて「患いでもあるのだろうか。それとも国が少ないとの不足か」と思し召され、
大坂より蜂須賀彦右衛門(正勝)を密かに御使者に立てられた。

「御患い如何でしょうか。貴様の御厚恩は今もって殊の外の恩と情思致しております。しかしなが
ら未だ紀伊国辺りも静まらず、かれこれ談合致す相手もございません。これからもますます御指南、
御指図をも受け申したいので、御患いも少々良くなりましたら、御上洛を待ち申し上げます」

と仰せ遣わされたところ、五郎左衛門殿の御返事には「患いも覚束ないので国で療治致します」と
の秀吉への御返事であったと聞いている。

秀吉が心許ないと思し召されて御才覚を廻され廻され、五郎左衛門殿に御聞き立てなされていると
ころに、中国や筑紫国、佐々内蔵助(成政)のところなどとで、廻文がまわっているように御耳に
届きなさった。

秀吉はまた重ねて彦右衛門に命じられて、霊社に起請を遊ばされ遣しなさった。その様子は、

「ただいま私が天下に備わったのは、ひとえに長秀の御かげである。この上は天下を長秀と替え持
つことに致しますので、長秀の御後に秀吉が参りましょう。大坂の城と天下を渡し申しましょう。
互いにそれ程までに仕立ててでも、余人に天下を渡すのは惜しいのです。このように入れ替わって
長秀を私めが仰ぎ奉りましたならば、およそ日本には天下に望みの人はおるまいのではと覚え申し
ます」

と仰せ遣わされれば、長秀は感涙を流して「患いも偽りではありませんが、それならば罷り上りま
しょう」と返事をされたので、秀吉は大坂より早打を御立てして御上洛され、「御人数を持ちなさ
れよ。私は紀伊国を討ち平らげる。大坂の留守居を頼み申す」と重ねて早打を御立てしたのである。

それから秀吉は五郎左衛門殿が人数1万ほどで上洛されると聞こし召され、道々に目付を付け置か
れて、早くも先手は大坂に到着した。五郎左衛門殿は京まで御着きになった。

今日には大坂へ御着きになられると申し来ると、秀吉は御道具(武具)一筋で御馬1騎、徒歩の者
20人程の体をなして平潟まで御迎えに御出になって長秀と御参会なさり、それから御同道で大坂
に御入りとなった。

ただちに長秀は屋形へ御入りになられ「ここで御振る舞いなされ」と秀吉が仰せなさると、長秀は
御挨拶に粗末な返答と振る舞いをなされた。秀吉は書院へ御立ちになられ、長袴に小さ刀で座敷に
御出になった。

「この上の大慶の目出度さ、身にあまるように存じ奉る」と互いに御入魂の様子が見え、御間柄残
すところの無いものであった。それから秀吉は御城に御帰りになられたところで、長秀は夜に入り
御登城された。ますますもってその御仲に隔ては無かった。これは申の年の事である。

――『川角太閤記』


君のなさけの今はうらめし

2019年02月08日 17:58

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 17:15:27.10 ID:NxXWbqM3
本多平八郎(忠勝)死去の時、家臣の大谷三平という者が、追腹を切って殉死した。
その大谷の草履取りがさらに追腹を切ったのだが、このときの辞世の句

『死にともな あら死にともな さりとては 君のなさけの今はうらめし』

(安斉随筆)

追腹の追腹というのは、仕方ないけどさすがに不本意、みたいな感じだったんだろうな。



733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/09(土) 18:45:55.75 ID:vR7mGeIJ
>>731
まとめの1047
「殉死と本音・悪い話」
で出典不明で一応既出

【ニュース】姫路の化粧品メーカーが姫路城の紋瓦型せっけん販売へ

2019年02月08日 17:57

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 12:48:10.44 ID:Hub/Hg8U
姫路の化粧品メーカーが姫路城の紋瓦型せっけん販売へ(姫路経済新聞)
ttps://himeji.keizai.biz/headline/1803/

姫路の化粧品メーカー「しらさぎ化粧品」(姫路市飾東町)が1月28日、姫路城の紋瓦をかたどった
「姫路城紋瓦石鹸(せっけん)」の販売を始めた。

紋瓦石鹸
ttps://images.keizai.biz/himeji_keizai/headline/1549294484_photo.jpg
1549294484_photo.jpg

平成の大修理で姫路城の瓦を作った「光洋製瓦」(姫路市船津町)の瓦師(かわらし)の協力で原型を製作し、
本物そっくりの質感を出すため竹炭を使い、一つ一つ手磨きでアンティーク加工を施した。
大きさは直径約9センチ、重さは約85グラム。

ココナツオイルとオリーブオイルを主成分に、ペパーミントの精油で香りを付けた。紋瓦のデザインは
「羽柴秀吉の五三桐紋」「池田輝政の揚羽蝶紋」「酒井忠恭の剣酢漿」を再現した。商品には海外からの
観光客を意識し、日本語・英語・中国語で「紋瓦石鹸」「光洋製瓦と姫路城瓦」を説明した紙を同梱する。

パッケージ
ttps://images.keizai.biz/himeji_keizai/photonews/1549294615_b.jpg
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秀吉の桐紋使用はもっと後だけど、まぁ仕方ないか