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「越後野志」の「村上城」から本庄繁長の活躍

2023年05月31日 19:18

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/27(土) 20:29:51.25 ID:0JPugDAC
文化十二年(1815年)成立の越後の地誌である
越後野志」の「村上城」から本庄繁長の活躍

本庄繁長は幼少の時に父房長が没し、十三歳の時に一族の小川・鮎川が反逆したため討ち平らげた。
天文二十三年(1554年)八月十八日、信州川中島合戦において十九歳で謙信侯の先陣となり、武田信玄侯の軍を大いに破った。
また反逆者誅伐にも戦功が大いにあり、元亀天正年間では本庄繁長・新発田治長(新発田重家)は鬼神のように恐怖された。
永禄四年(1561年)九月十日、川中島合戦で謙信侯が甲州兵を破り休まれていた。
そこへ武田義信が兵八百ほどを率い、旗を伏せ、腰差しを隠し、草むらに潜んでいたのが来襲した。
謙信侯の旗本の軍は不意をうたれ、防ごうとしたが過半数が敗走した。
謙信侯も手に家宝の鍔槍をとって防戦された。
老臣である志駄義時、大川高重が戦死し、軍が乱れようとした。
そこへ色部長実が五百人を、宇佐美定満が千余騎を率い、武田義信を挟み討ちにし、広瀬まで追い落とした。
このとき繁長も自ら太刀打ちして人の目を驚かせた。
しかし二十六歳の血気盛りであったため、
「謙信侯の軍略が未熟なために武田義信にしばらく劣勢となったのだ」と謙信侯をそしってしまった。
謙信侯が怒り、事に及ぼうとしたのを察知した本庄繁長は、永禄十一年の秋に本庄城に引きこもり叛いた。
謙信侯は上条義春(畠山義春)をもって攻めさせた。
義春は軍略により繁長の軍を破り、繁長はついに剃髪して降伏した。
謙信侯も絶世の勇士であるため繁長を許し、厚く用いた。
景勝・景虎の二君が争った時(御館の乱)には景勝君に属した。
景虎君に属した上杉十郎憲景(上杉景信、本庄繁長の舅)が戦死したのち封禄の地を与えられたが、上杉の名は継がず家紋だけを用いて今日にいたる。
そののち次男の千勝丸を出羽の庄内の大宝寺義興に与え後継とさせ、ひそかに謀って義興を討ち、千勝丸を大宝寺義勝と改名して、秀吉公の了承を得た。
(このあとは最上軍との戦いの話だけど省略)



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「続武家閑談」から「武田太郎義信の事」

2023年05月31日 19:17

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/27(土) 20:37:28.02 ID:0JPugDAC
ついでに「続武家閑談」から「武田太郎義信の事」

川中島合戦の後、武田義信は信玄に対して逆心があったため、家督を譲られなかった。
その理由であるが、信玄が川中島の戦いにおいて、名代に義信を立てて先陣を勤めさせて入れ替わったところ、慈悲がないと義信が恨んだためだという。
川中島の戦いでは信玄の旗本は義信と入れ替わっていたそうだ。



甲陽軍鑑に見える被差別民への扱い

2023年05月31日 19:16

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/30(火) 21:07:44.23 ID:cZchWjGY
甲州武田は新羅三郎(義光)公より法性院機山信玄まで二十七代なれば、その継承された大将衆は四十年、三十年、
二十年、或いは十年、五年にて変わることもあるだろうが、多少取り合わせて二十年づつとしても、
五百四、五十年ばかり、甲斐国へ他国から乱入されることは無かった。故に、神社、仏閣、町地毛、
そのほか非人までも他国よりは少々富貴である。

猿、馬、牛の皮を剥ぐ乞食が騎鞍馬(のりくらうま)に乗り、下人を連れて連雀小路の玉屋という酒屋にて
代物(代金を出して酒を飲む時、おりふし向山同心である功力左太夫と申す侍、また足軽大将の三枝善右衛門の
寄子である小宮山八左衛門という信玄公の御弓持の者、この両人がなにかの用があって、これもこの酒屋に参った。

所用が終わり酒坏が出て、暫く指しつ指されつ盃を巡らせていた所、かの皮剥も侍衆の中に混じり酒を飲んだ。
その後座を立つ時に、功力左太夫の仲間がこの皮剥を見知っていて、功力小宮山らの侍衆に
「この者は皮剥である!」と告げた

功力左太夫小宮山八左衛門はこれに大いに腹を立て、宿の主人である玉屋権右衛門に抗議した。
権右衛門は件の皮剥に抗議した。

然れども小宮山八左衛門功力左太夫は両人とも武道の心ばせ能き者共であった。
八左衛門は上州三ヶ尻合戦で鑓脇をよく射て信玄公の御証文一つを下されていた。
左太夫もさらに二つまで武辺場数の御証文を信玄公より給わっていた。
それ故理を以て町人などを、事を荒らげて脅すような事は聊かもなかった。しかしながら、皮剥のこつじきが、
侍の交わりに、富貴であるに任せてこのように交われば、貴賤、上下の隔たりも無く、さながら侍の作法も、
尽く皆要らざることになってしまうと、小宮山八左衛門功力左太夫両人は書付を以て奉行衆に申し上げた。

そして奉行衆は、御蔵の前にて侍衆の訴え、町人の申し分、非人の物の言う事を確認し、公事(裁判)の
沙汰が有った。
この時、武藤三河守、桜井安芸守、今福浄閑斎(長閑斎、友清)の三奉行の中でも、今福浄閑斎は物事の
良き功者であったので、この公事を沙汰いたした。

「先ず侍衆の訴えは道理至極である。また町人も、代物の限りに於いての酒商売の事である。
殊更、武田の御分国は富貴である故、かの非人までも宜しきなりをしているが、これらは万事逆ではなく、
順義の御仕置故、尽く安堵してあり、誠につたなき非人まで、侍のように騎鞍馬に乗る。
であれば、町人が(皮剥が非人である事を)見損なったのも道理である。

さて、しかし非人が代物限りであれば、へりくだるには及ばないと、至らぬ心より存ずる事は、大非義の仕形
である。ではあるが、今まで改めて、非人の装束などに定めが無い以上、いかに乞食であっても罪科には
なり難い。その理由を教えること無く殺すのは逆である、と云うときは、功力左太夫殿、小宮山八左衛門殿、
この三人の奉行の真似事に免じて堪えて頂きたい。

さて又町人には、いかに商売代物限りであるとしても、歴々の侍たちに非人を交らわせた事を見損なった科の
代償として、二人の侍衆に巻物を一つづつ持って、玉屋権右衛門は礼に参るべし。さもなくば入牢を申し付ける。
さらに又、非人の命は三奉行の詫び言を以て、両人の侍衆が助けられた。故にこれを有り難く存じて、
おのれが家の皮で艸履(草履)をしたため、功力左太夫殿、小宮山八左衛門殿に御礼に参り、これ以後
皮剥の道服、袖広、帷子にも牛と馬と両方に、中には艸履を付けて必ず着て歩くべし。さもなければ、
よき仕合にて己等は磔物とされるか、もしくは釜にて煎られると心得よ。」

そのように申し定めた事で、それ以降は皮剥も、どんなに良き馬に乗っても、上記のように着ている道服、
帷子の形で解るように、甲州、信濃、上野までも定められたのは、この今福浄閑斎の工夫の故である。

甲陽軍鑑

甲陽軍鑑に見える被差別民への扱いについてのお話



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2023年05月31日 16:00

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「どっちが本物?藩の家宝すり替え事件」 12

「続武家閑談」から「小笠原長時流浪の事」 9

「続武家閑談」から「太田・長野両家の事」の長野家のとこだけ 7
そもそも長坂釣閑斎という人物は 6
「結城晴(なぜかタイトルでは春)の埋蔵金」 7


今週の1位はこちら!「どっちが本物?藩の家宝すり替え事件」です!
これはまた…、色々と大変なお話ですねー。しかも「藩祖」を藩祖たらしめたと言っていい「武功」の証拠の品でも
あるわけで、これは双方共に引き下がれない案件という感があります。
また、武家にとっての「由緒」というものがいかに大切かも表されていますね。そして、たとえ近世であっても
武士はこういうものに命をかけてしまうわけで、実に厄介ですらあります。
まあ、両家の合戦にならなかった分、そこに「近世的理性」を見出して、武士もここまで文明化したか、という
深い感慨を抱くことも出来そうですがw
ともかく、ある意味今でもありそうな紛争であるとともに、また「武士」とはどういうものかを考えさせてもくれる、
そんな内容だと思いました。

2位はこちら!「続武家閑談」から「小笠原長時流浪の事」です!
小笠原長時という人、武田信玄との抗争に破れ所領から没落した以降をざっと表すと、、このお話の中にあるように、
越後、駿河、伊勢等を経て同族たる三好長慶が覇権を得ていた畿内に入ると、「小笠原流」馬術の伝承者としての価値で
割りと厚遇され、その後良くも悪くも半ば文化人的な扱いを受けつつ会津にて没する、という、なかなかに奇妙な人生を
送っています。「芸は身を助ける」を体現した人でもありますね。
決して歴史を主導した人物ではなく、様々な巨大勢力の動向に振り回され続けた人生では有ったわけですが、
それだけにこの時代というものを鮮やかに感じさせてくれる、そんな内容でも有ると思いました。


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結城埋蔵金に関わる暗号?三首

2023年05月30日 19:38

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/30(火) 18:31:17.87 ID:q1jfEv2f
結城埋蔵金に関わる暗号?三首

>>875の
「結城晴(なぜかタイトルでは春)の埋蔵金」
をネットで調べたら
ニコニコのsm16899139
というアイドルマスターのキャラに歴史を紹介させている動画がヒットした(ゆっくり解説みたいなの)。
その動画によれば、茨城県結城市にある金光寺の山門の天井に結城埋蔵金にまつわる暗号が書かれているとあった。
国会図書館のデジタルコレクションで閲覧可能な雑誌「コンセンサス」1985年3号によれば、
結城晴朝が義弟の江戸重道(妻が小山高朝の娘)に埋蔵を頼み、重道の重臣が歌に詠んで金光寺の山門に刻んだ、という説があるらしい。

たまたま隣の栃木県小山市に用事があったから行ってきた。
寺の山門周辺は作業中で外観は撮影できなさそうだったため、参拝だけして帰ろうとしたら、御住職に和歌を拝見させていただいた。
山門には三つの和歌があるようだが、自分が見たときには真ん中の和歌は削られていた。
御住職によれば近年、夜中に悪い人間が削っていってしまったとのこと。
このお寺、正月になると「結城七福神めぐり」というイベントで賑わうようで、お寺に興味がある人はその時に参詣するのがいいそうだ。

そして結城埋蔵金に関わるとされる暗号の和歌三首
(ニコニコの動画では三首の和歌以外にも暗号っぽいのが紹介されていたが、山門が作業中なこともあり確認していない
ほかのニュース記事とかサイトでは和歌についてだけ触れられていた)

きの苧か ふゆうもんに さくはなも みどりをのこす 万代のたね

こふやうに ふれてからまる うつ若葉 つゆのなごりは すへの世までも

あやめさく 水にうつろう かきつばた いろはかはらぬ 花のかんばし



「続武家閑談」から「小笠原長時流浪の事」

2023年05月26日 19:38

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/25(木) 20:23:24.93 ID:WbxQTDel
続武家閑談」から「小笠原長時流浪の事」

享禄四年(1531年)の冬、小笠原大膳太夫長時(三十九歳)は二木豊後(二木重高)を呼び、
「これ以上は武田晴信に対して城を保てぬゆえ、わしは越後に落ち延び、上杉政虎を頼むことにした。
おぬしはその間ここにとどまり、武田晴信に属し、武田軍が我が領地を切り取る間、四方の輩と連絡を取り、小笠原家再興の方策を考えよ」と言った。
二木は元来忠義の者であったため、これを了承し、流浪の助けになればと黄金百枚を長時に授けた。
二木の先祖は奥州多賀の黄金商人の橘次末春(金売り吉次)であり、牛若丸を携えて京から奥州に下向し、ついには源義経の被官となり、名を堀弥太郎景光と改めた者であった。
その子孫も金売りであり堀藤次と言っていたが、諸国動乱のため上方から奥州に帰れず、信州に寓居し娘を二木氏に嫁がせた。
藤次は男子がなく病死したため、金銀などはすべて二木氏が譲り受け、豊後の代まで富を受け継いでいたのであった。
こうして長時は嫡子又次郎長隆と次男孫次郎信定(実際は長時の弟)両人を連れて越後に行き、上杉を頼んだ。
しかし一両年のうちに三好長慶が洛中で猛威を振るった。
三好氏は分かれてからずいぶん経つとはいえ小笠原氏の支流であったため、長時は謙信に暇乞いして愛息の小曽丸を連れて長慶を頼んだ。
長慶は長時に河内高安郡の十七ヶ所を堪忍料として与え、芥川の城下に住まわせた。
しかし長慶没後、三好家が混乱したためここを去って奥州会津の星備中入道昧庵(蘆名氏の老臣)のところに寓居したが、家人に殺害された。
息子の小曽丸は後に喜三郎貞慶と称した。
甲州混乱の折に本国に帰還し、旧領を切り取って終に徳川家に仕えることとなった。
貞慶は従五位下右近大夫に叙任され、
(貞慶の息子の小笠原秀政は)故岡崎三郎君(松平信康)の末の姫君を娶って御譜代大名に加わったが、大坂の陣で落命した。
今の小笠原右近太夫ならびに信濃守、山城守等の先祖である。



「続武家閑談」から「太田・長野両家の事」の長野家のとこだけ

2023年05月26日 19:37

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/26(金) 18:27:01.89 ID:sRKV6zV6
続武家閑談」から「太田・長野両家の事」の長野家のとこだけ

在原業平朝臣が伊勢の斎宮(恬子内親王)と密通して(「伊勢物語」第六十九段「狩の使」)もうけた子供が丹波守の高階茂範の家を継ぎ、高階師尚といった。
その後裔である長野業正は上州箕輪城に居住し、千五百騎を指揮する身上であり、太田資正入道三楽とともに上杉家無類の忠臣であったが、おのおの大功を立てられず、鬱々として病死してしまった。

長野業正が在原業平の子孫とされたのは有名だけど、業平の東下りでできた子供の子孫のはずだから高階氏とは関係ないはず。
高階氏と在原業平との話は、来年の大河で藤原定子(高階貴子の娘)の息子で藤原彰子に養育された敦康親王が春宮になれない理由で出てくるかも。



「どっちが本物?藩の家宝すり替え事件」

2023年05月25日 20:09

768 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/05/25(木) 09:19:00.51 ID:UJbMz561
SNSで紹介されてたんで転載

山形県上山市 ふるさと散歩資料
※PDF注意
https://www.kaminoyama-lib.jp/img/2022/furusatosanposiryou.pdf
「どっちが本物?藩の家宝すり替え事件」
上山藩主 藤井松平家には先祖代々伝わる、とてもすごいお宝がありました。
そのお宝とは、江戸時代の前の戦国の時代に、藤井松平家のご先祖(松平信一)が戦で大活躍したご褒美
として、あの歴史上の有名人 織田信長から与えられた、桐の紋章がついた立派な胴服(羽織)でした。
江戸時代の中ごろの文化年間(1804~1818の間)のある日、上山藩主の藤井松平家のもとに、信
州上田藩(現 長野県上田市)藩主で親戚の松平伊賀守から、信長からもらった胴服を貸してほしいとのお
願いがきます。
このお願いを上山藩主 松平信行は許し、城の蔵にしまってあった胴服を貸し出しました。
それからしばらくして、貸した胴服は上山に返ってきましたが、それを見た上山藩士 谷野市右衛門はあ
る異変に気づきます。
それは、胴服の襟の裏についているはずの印が無かったのです。この印は、胴服がすり替えられないよう、
貸し出す前に谷野がこっそりつけていたものでした。
上山藩主 松平信行は胴服の襟の裏に印が無いことを松平伊賀守に知らせます。
そうすると松平伊賀守は、胴服を借りた後、そっくりなレプリカ(偽物)を作り、本物とすり替えて上山
に返したといってきたのです。
その後、偽物の胴服は上田に返し、本物の胴服が上山に戻ってきましたが話はそれで終わりません。
それからしばらくして、上田藩は「我が藩主の先祖が藤井松平家(上山藩主)から分家するとき、信長か
らもらった胴服を貰い受けていた記録がある」と主張し、上田にある胴服が本物で、上山のものは偽物だと
言ってきたのです。
結局、どちらが本物か偽物かは決着がつかなかったようですが、それ以来、上山藩では、上田藩の者には
簡単に気を許してはいけないと固く決意したそうな。
【参考】上山市史編集資料28「森本家文書集」、上山市史編さん委員会、上山市、昭和54年8月



770 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/05/26(金) 17:20:42.17 ID:lClEifdb
はてさて?

https://museum.umic.jp/hakubutsukan/collection/item/0013-1.html
上田市立博物館 収蔵品
織田信長所用韋胴服

種別 国重文 工芸品
指定 昭和51年6月5日
所在地 上田市立博物館
所有者 上田市

  織田信長の遺品として、旧上田藩主の松平家〔まつだいらけ〕に伝わったもので、鹿の革〔かわ〕で作られています。
「韋〔かわ〕」とは「なめしがわ」とも読み、毛皮の毛と脂〔あぶら〕を取り除いて柔〔やわ〕らかにしたものです。
「胴服〔どうふく〕」とは後〔のち〕の羽織〔はおり〕のもとになった着物を言います。
表は全体に白い小さな模様が染め付けられていますが、これは小紋染〔こもんぞめ〕といい、
今でも和服の地〔じ〕によく用いられています。

そもそも長坂釣閑斎という人物は

2023年05月24日 19:42

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/24(水) 18:37:04.70 ID:VImIPFtI
そもそも長坂釣閑斎という人物は、武辺についても数度を成した人物ではあるのだが、無分別故に海尻の城を
開いて、大いに臆病者と言われた。

釣閑斎の仕形は御家の御為を考えず、自分に取り入ろうとするものを褒める。しかし、御用に立つ者というのは
あまり人に取り入ろうとはしないものだ。私(高坂弾正)が死んだ後は、武田家は釣閑斎の仕置となるだろう。

跡部大炊の分別は、信玄公の時代にはそのような事は無かったのに、勝頼公の時代になって三ヶ年、釣閑斎の
真似をして散々悪き分別をしている。

現在の彼ら両人の仕形では、私どもが亡き後は、自分たちに取り入ろうとする者達ばかりを召し上げるだろう。
しかし信玄公の時代より誉れを取った人々で、長篠での死に残りも少しは在るだろう。
他所の国において覚えの者が沢山在ると言われるより、当家で人が無いというのはまだましである。
しかしあのようでは、御用に立つ衆を労々の有様で恐怖を持たせ、皆御用に立たぬように成してしまうだろう。

素より釣閑斎、大炊介両人が取りなした衆は、荒川、村井の如く、大事の時分では尽く逃げ散る。
三略には、『招舉姦枉、抑挫仁賢、背公立私、同位相?、是謂亂源』
(姦枉を招まねき挙げ、仁賢を抑え挫じき、公に背き私を立たて、同位相謗る。是を乱の源と謂う)
と云う。

時には方々は、この書を披見されよ。これを読んで尤もだと思し召されたならば、大事は無いであろうが、
もし腹を立てられたなら、国は崩れて、武田の御家は二十八代目と申す当家屋形・勝頼公の御代に終に
やぶれて、滅却すること少しも疑いない。
人物についての目利きを能く成されることこそ尤もである。

甲陽軍鑑



週間ブログ拍手ランキング【05/17~/23】

2023年05月24日 16:00

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松平信康を介錯した天方通綱のその後 15
『唐の頭に~』について 13

鉄砲があることで、武辺を掲げる衆は 12
前田利長夫婦京見物に乗出し本能寺信長乱を知り勢多より帰る事 8


今週の1位はこちら!松平信康を介錯した天方通綱のその後です!
信康事件の、その後の顛末について、といった内容ですね。コメントにも有ったように、渡辺半蔵と服部半蔵が混同されている、
またいわゆる「村正伝説」が見られるなど、おそらくは先行の様々な逸話、伝承の類をつなぎ合わせたと思われる描写が
間々見え、こういったお話が形成される過程もほのかに感じることができる内容だとも思います。またこのお話が成立した
時代の、かくあるべしという社会的な意味での武士気質を感じとることも出来そうですね。
そして何のかんので父親のやったことのフォローをする結城秀康。良い息子ですw
読み込んでいくと様々なものが見えてきそうな、そんなお話だと思いました。

2位はこちら!『唐の頭に~』についてです!
かの有名な『唐の頭に本多忠勝』の狂歌。本多忠勝という人物の武勇とその価値をを端的に表すものですが、これがどうも、
後世の創作ではないか、という内容ですね。つまり信玄西上時の中のドキュメントとしての狂歌、ではなく、後世この合戦を
振り返って表現したもの、と言え、いわゆるノンフィクション風フィクションという事でしょう。
ただしそれがイコール本多忠勝の武勇を否定するもの、ではなく、むしろ寛永という未だ戦国生き残りも多い世の中において、
本多忠勝という人物に頭抜けて武勇の印象が強かったことが、このようなお話をあらしめたのでは無いでしょうか。
まただからこそ、今に至るまで人口に膾炙しているとも思います。
そんな事も感じた内容でした。


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「結城晴(なぜかタイトルでは春)の埋蔵金」

2023年05月23日 19:55

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/23(火) 19:02:32.43 ID:kxcY31LZ
結城ついでに秋鹿英「埋蔵金物語」から「結城晴(なぜかタイトルでは春)朝の埋蔵金」

家康から秀康を養子にさせられることもなった結城晴朝は藤原秀郷以来の名家の誇りを守るため、
秀康がくる前に時価三億七千万円(当時の日本のGDPの1/100)の財宝を地中深く埋めてしまったという。
その伝説を元に享保年間、明和年間、天保年間に結城城跡や小山城跡を掘ってみたが財宝は見つからなかったという。
そののち結城藩主・水野勝長の子孫である水野直子爵が大正六年に十万円をかけて結城城を発掘したが、めぼしいものは出なかった。
子爵は「小山城か菩提所を掘っておけばよかった」と死の前までも言っていたという。

なお宇都宮の小堀という旧家から出た「秀嵐雑録」という古記録によれば、
結城晴朝の死後、金銀財宝があるはずの蔵を開けてみると空であったため、晴朝の重臣であった膳所主水が拷問にかけられたという。
それは足の指を一本ずつ切り落とすような酷いものであった。
そののち膳所を江戸に送って取り調べをすることに決まったが、膳所主水は獄中にて、どこから手に入れたのか短刀で割腹自殺をしたという。

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/23(火) 19:07:22.04 ID:kxcY31LZ
書くのを忘れていました。
秋鹿英「埋蔵金物語」の出版は昭和14年(1939年)で、1940年ごろの日本の名目GDPが370億円なので1/100という意味です。



松平信康を介錯した天方通綱のその後

2023年05月22日 20:38

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/21(日) 21:38:55.38 ID:8ODzLh+/
貝原益軒「朝野雑載」から松平信康を介錯した天方通綱のその後
前半部分は有名だけど一応載せておく

天正七年(1579年)九月十五日、信康卿が二俣城で切腹することになり、渡辺半蔵(ママ)と天方山城守(通綱)が検使として遣わされた。
信康は両人に「いまさら申し上げても意味がないが、子供の身で親に逆心を起こすような人倫の道に外れたことがあろうか。
我が武田勝頼に心を合わせ当地に武田勢を引き入れよう話など、日本中の神々に誓っても言うが、虚説である。
我の死後、どうかこのよしを申してくれ」とおっしゃった。
両人とも承諾したため信康卿は御満悦のお顔で「半蔵は幼少の時分よりの馴染みなのでそなたに介錯を頼むぞ」とおっしゃった。
しかし腹をお切りになり「半蔵半蔵」と呼ぶも、半蔵は大いに震えどうにもならなかったため天方が介錯した。
両人が浜松に帰り信康卿の御遺言を申し上げたが、家康公は平生のお顔で何もおっしゃらなかった。
榊原康政、本多忠勝は声を上げて泣き出したため御前を退いた。
家康公は天方の脇差の銘をお尋ねになり、千鳥村正と聞くと
「我が祖父清康卿が殺害されたのも、我が幼少の時分駿河で削刀で手を切ったのも、村正であった。村正は当家に不吉である」
とおっしゃった。

そののち天方山城守は当家を逐電して高野山に遁世したという。
しかし年来天方と親しかった朋輩が有馬に湯治のついでに高野山に行ったところ天方に出くわした。
世間話をしたのち
朋輩「貴殿はどうして浜松を立ち退かれたのか?」と尋ねたところ
天方「別に理由もないが、貴殿も御存じのように若殿を手にかけ、その後世の中が味気なくなり鬱々としたためだ」
朋輩「戦国の世なのにさほどのことで無常を感じ気弱になるとは。ほかに理由があるのでは?」
天方「正直に言うと、渡辺半蔵が介錯の時に大いに震え、このままでは若殿もお苦しみだろうと見かねて介錯をした。
そののち家康公が我の脇差を見て
「千鳥村正は当家に不吉である」とおっしゃり、
そののち御近習との御雑談で家康公が
「渡辺半蔵は槍半蔵と呼ばれる武辺者であるが主人の子供の首を切る段においては腰を抜かしてふるえよった」
などとおっしゃったと聞くと、それでは我を主人の子供の首を切ったと思われるのか、と思うと御奉公もいらぬと思ったわけだ」
結城秀康卿はこのことをお聞きになり、不憫に思われたのか越前を拝領の時、高野山の天方を召し出され、高禄を与えて召し抱えられたということだ。



前田利長夫婦京見物に乗出し本能寺信長乱を知り勢多より帰る事

2023年05月22日 20:36

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/22(月) 17:50:40.97 ID:B5XhHAMH
続武家閑談」から「前田利長夫婦京見物に乗出し本能寺信長乱を知り勢多より帰る事」

関連話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13431.html
かかる太平の世に逢候事ハなりかたき事
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3779.html
利長が輿をかつぐ者達を見ると

前田利長夫婦(当時数えで利長21歳、永姫(信長の娘)9歳)が同伴で京見物のために北国から上京しようと、まず安土城にいたった。
天正十年(1582年)六月二日、安土から勢田までおもむいたところ、向うから信長の奴僕がまっしぐらに来て「本能寺で信長公が弑せられました」と言った。
供のものどもは色を失った。
利長が言うには「父利家の領地である越前府中はここから遠く、一足とびには帰られないだろう。
まずは尾張にいる一族前田与十郎(前田長定)のところに妻女を預けよう」
すると六人の供が皆もとどりを切って
「尾張への御供はいたしません」とはっきり申した。
利長はこれを聞いて
「我らが妻女をおもうのも、汝らが越前にある妻子を心配に思うのも、心は同じである。
おのおの帰ってよいぞ」とことごとく帰した。
そして内室(永姫)に大小をささせ、馬に乗らせた。
恒川監物と奥村茂右衛門(奥村助右衛門永福?)が馬の口をとり、尾張へおもむいた。
一方、利長はまず安土の屋敷に入り、そこから越前に帰ろうとした。
このとき新参の武士は残らずいなくなり、譜代のみが供をしたという。
人心は今も昔も変わらぬはずだが、新参者は世上に有縁のものがあるために身を片づけやすく、
譜代はなかなか他家には縁がすくなく、また母や妻子が皆主人の領内にあり、逃れる手だてがなかったためであろうか。



762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/22(月) 21:57:13.34 ID:xQCLqfeC
>>761
ちょっと良い話でもある

鉄砲があることで、武辺を掲げる衆は

2023年05月17日 19:48

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/16(火) 21:01:32.73 ID:J1xtkm3W
武田信虎公の御代には、軍法も信玄公の時代の十分の一も無かった。
殊更、信虎公二十八歳の時のくしま(福島)合戦の砌、譜代衆は大方が在所に引き籠もり傍観したのだが、
信虎公はこのくしまに勝たれ、その時から甲州一国の衆を八年の間に尽く絶やそうとなさり、そのため
二百、三百、或いは五百ばかりた立て籠る城を攻め取られた。これにより矢疵、鑓疵、刀疵など
激しく手負った衆が多かった。

しかしながら信虎公家中において、普代衆、牢人衆の中で健やかなる武士を七十五人選び出された
侍衆も、信玄公の時代に大方討ち死にして、年寄りとなるまで長らえたのは、横田備中、多田淡路、安満、
鎌田織部、原美濃、小幡山城の六人だけであった。
殊更、ここ六十年は鉄砲があることで、武辺を掲げる衆は一層討ち死にが多くなった。

鉄砲は大永六年に井上新左衛門という西国牢人が信虎公に奉公申し上げたが、この侍が鉄砲を持ち来て
訓えたと申し伝わる。さりながらそれはごく一部の人々に過ぎなかったともいう。
その後、信玄公が若き頃に、かち路大膳、同又作と申す牢人親子があり、この侍が各々に訓え、
近年は佐藤一甫と申す牢人が甲州に来て訓えた。
現在は侍衆は皆、鉄砲能く上手に撃つ。その中でも横田十郎兵衛、日向藤九郎の両人は、特に
鉄砲を用に立てる者たちである。

甲陽軍鑑



『唐の頭に~』について

2023年05月17日 19:47

759 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/05/17(水) 11:52:46.46 ID:qnzlWpsu
まとめサイト過去ログ
唐の頭に本多平八
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12224.html

まとめの過去分にもあるように『甲陽軍鑑』で、三方ヶ原合戦(の前哨戦の一言坂の戦)で、徳川方の多くが舶来品の
唐の頭(ヤク毛飾り)を甲冑に付けて戦い、中でも本多忠勝が勇戦したことで、小杉右近助という信玄近習が
「家康に過ぎたる物が二ツあり 唐の頭に本多平八」と詠んで坂に立てて称賛したという。

とした話が有名ですが、小杉左近(右近助)は実在が疑われる人物でこの逸話も信憑性が疑われていました。

『大日本近世史料「細川家史料二」』に、元和八年(1622)より寛永四年(1627)までの、細川忠興より忠利宛て書簡が編纂されています。
この中の寛永四年分に以下の内容があって、現在は「信其」という人物が実際に詠んだ作者ではないかとみられているようです。
信其の詳細は不明。

「信其ノ日々記、今朝よそより帰候て只今帋(かみ、紙と同意字)一二枚見申候、事ノ外数多キ事候間、奥まて見候事成ましき間返申候、
此内ニ本田(ママ)中書之若時ノ事ヲ、信其唐ノ頭ニ本田平八とうたニよまれ候由申傳候、御入候哉可承候、」



東京大学史料編纂所  『大日本近世史料「細川家史料二」』
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/5/pub_kinsei-hosokawa-02/



週間ブログ拍手ランキング【05/11~/16】

2023年05月17日 16:00

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【ニュース】“信玄が実際にかぶった”「諏訪法性兜」特別公開 15

酒井の太鼓 12

諏訪法性の兜について 12

足軽大将、侍大将の心得 10
これらが三つの采配であり 7


今週の1位はこちら!【ニュース】“信玄が実際にかぶった”「諏訪法性兜」特別公開です!
「信玄が実際に被った」とありますが、まあ実態としてはこの後の記事

今週の2位!諏訪法性の兜について
こちらの内容を参照していただければわかりますが、信玄公、おそらく実際には、諏訪法性兜を用いていません。
しかしいつしか武田信玄を象徴するアイコンの一つとなり、かの甲府駅の武田信玄像も、当然のように
諏訪法性兜を被っています。定着したイメージの力とは、恐ろしいものですw
前の記事のニュースを含めて、「歴史を受容する」とはどういうことかも考えさせてくれる、そんな内容だと思いました。

そして今週は同票でもう一つ!酒井の太鼓です!
こちらはその武田信玄との戦いの中で起こった、非常に有名な逸話の一つですね。
もちろんこれを以て事実、史実とは言えませんが、「酒井忠次」という人物の知略と勇猛さと忠義、それらを重ねて表す
逸話と言えるでしょう。それにしても酒井忠次、この太鼓といい、あの「海老すくい」といい、音曲にかかわる逸話が
目に付きますね。無骨な三河武士の中では特異と言えるかもしれません。このあたり、酒井忠次がただ硬骨の武人
というだけではない、文化面にも理解ある人物だった、という印象が、或いは紛れているのかもしれません。
彼は晩年、眼病を患い隠居しますが、隠棲先は京であり、好きな茶湯を大いに楽しんだとされます。
逆にこういった武辺一辺倒では無かった所が、後の信康事件で損な役回りを押し付けられた可能性も考えられます。
そんな事も感じた逸話でした。


今週もたくさんお拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当にありがとうございます!
また気になった逸話を見つけたときは、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!!
(/・ω・)/

酒井の太鼓

2023年05月15日 20:28

860 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/05/15(月) 10:25:40.96 ID:ZDewH9ua
中遠広域事務組合
中遠昔ばなし第70話酒井の太鼓(磐田市)
https://www.chuen.net/mukashi/mukashi_070.html
その昔、徳川家康が三方原の戦いに敗れて、浜松城へ逃げ帰ってきた後、武田方は勢いよく城門の近くまで追ってきました。
このとき家康は、後から逃げ帰って来る者のために、城門を開いたままにして、城門の外へ、とてつもない大きなかがり火を焚かせました。
武田方はこの大きなかがり火を見たとたん「何か策略でもあるのではないか」と城の近くで様子を見ることにしました。
すると城の中を守っていた酒井左衛門尉忠次が、突然、太鼓を高々と打ち鳴らし始めました。
驚いた武田方は「きっと何かあるにちがいない」と思い、急いで浜松城から離れていき、徳川家康は、かろうじて城を守ることが
できたという物語があります。その酒井忠次が打ち鳴らして、敵を退散させた太鼓が「酒井の太鼓」と呼ばれています。
「酒井の太鼓」と伝えられている太鼓は、その後、見付の所有となり、明治8年夏に見付小学校校舎(現在の旧見付学校)が落成した際、
小学校に寄付されました。そして太鼓は5階の楼上に据えつけられ、明治43年まで、生徒の登下校と正午には、毎日時報として打ち鳴らされました。
現在、この太鼓は、旧見付学校に展示されています。また、地元の磐田市立磐田北小学校には、太鼓クラブができて、
子供たちが酒井忠次に負けじと太鼓を打ち鳴らしています。

(磐田むかしばなしより)



861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/15(月) 12:44:34.52 ID:7IjTCzJh
信玄の体調もあるしそもそも浜松城は落とすつもりなかっただけだと思うけどな

【ニュース】“信玄が実際にかぶった”「諏訪法性兜」特別公開

2023年05月15日 20:27

756 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/05/15(月) 10:01:07.43 ID:ZDewH9ua
https://image.shinmai.co.jp/web-image/20230426/CNTS2023042600087_S.jpg
CNTS2023042600087_S.jpg

NHK信州 NEWS WEB“信玄が実際にかぶった”「諏訪法性兜」特別公開 下諏訪町
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagano/20230502/1010026425.html

戦国武将、武田信玄が実際にかぶったとされる「諏訪法性兜」が、下諏訪町で特別公開されています。
下諏訪町の諏訪湖博物館・赤彦記念館では、今から450年前の1573年に亡くなった武田信玄が、
戦場でかぶったとされる「諏訪法性兜」の実物が特別公開されています。
鉄や革などでつくられたかぶとは幅がおよそ40センチで、前立には金色の角をつけた赤鬼が配され、
頭頂部から肩にかけて施されたヤクの毛が印象的です。
このかぶとは元々、諏訪大社が所有し、信玄は軍神として名高い大社の諏訪明神を厚く信仰し、戦勝祈願を
行った大社で、このかぶとを借りて戦場に向かったと伝えられています。

諏訪法性の兜について

2023年05月15日 20:25

757 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/05/15(月) 10:05:37.68 ID:ZDewH9ua
笹間良彦甲冑と名将』より
諏訪法性の兜について

昭和・平成初期の甲冑研究の大家笹間良彦によれば、武田信玄は諏訪明神を篤く信仰し、陣中に諏訪南宮法性大明神の幟を立てたという。
同じく兜に諏訪南宮法性大明神の神号を刻んで、川中島以下の合戦に着用したとされる。
この兜は、現在、下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館に所蔵されるものがそれである。

月岡芳年の武者絵やこの兜にはふさふさとした白熊(白いヤクの毛)の飾りがついているが、実は長篠合戦の時期に武田勝頼が、徳川方から
鹵獲した唐の頭(同じくヤクの毛飾り)の兜を、「唐の頭を手にとったことがない故、持参して見せよ」と命じたという。

こうなると信玄の兜の飾りを実の息子が知らなかったという矛盾が生じる。
江戸時代後期の浄瑠璃・歌舞伎作品『本朝二十四孝』の中で、上杉家の息女八重垣姫が獅噛の前立に白熊の毛の兜を持って現れるが、
ここから後世誤って実像が作り上げられ、下諏訪の「諏訪法性の兜」も製作されたものと思われる。


以上は歴史研究者にはよく知られた話でありますが、時代劇の信玄と言えばこれ以外の格好は思いつかないくらいの定番なので、テレビドラマでは
なかなか外せない状況のようです。


なお、これが本物であると新庄藩戸沢家に伝来した諏訪法性兜なども、一般非公開だが失われずに実在します。こちらはごく普通なデザインの東国系兜です。



まとめサイトの関連する過去ログはこちら

八重垣姫の像・碑文
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13689.html
名高き兜を敵に取られては如何なものか
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11578.html
戦国の遺品がなんでそんなところに、「諏訪法性兜」編
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3387.html
武田信玄の「諏訪法性の兜」について
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1162.html



足軽大将、侍大将の心得

2023年05月14日 17:52

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/14(日) 13:33:46.82 ID:h/ZA9HOh
足軽大将が心得るべきことは、自身で戦働きをするのは過失に繋がるという事である。
脱体の勝負を分別して足軽を扱い、軍の先達をして、味方の勝利を得るよう仕らなければならない。
その上で後に良き敵があれば、それを討つのも尤もである。

侍大将は自身を同心被官が貴むようにしなければ、御大将として成り立たない。
合戦では勝利を見極めて勝負をし、味方を諌め、後軍を二重三重に考え、危なげも無いようにするのが肝要である。
五度の衝突があれば一、二度は敵を崩し、その後敵に能き武者が有れば手にかけても然るべしである。
但し小身より度々覚えある人が(立身して)大将になった場合、自身の働きは一切すべきではない。
もし若い頃の心が出てきてしまえば、大きな過失の元となる。

若き衆は御大将の使いに先へ走り、晴れなる高名をもし、度々を重ねて足軽大将になる、或いは
侍大将にもなるべきである。
信玄公の御渦中は、この如きであった。

甲陽軍鑑

足軽大将、侍大将の心得について