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秀頼薩摩落の事

2022年08月01日 18:36

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/01(月) 18:21:41.22 ID:8IK/SbBS
大分県郷土史料集成収録」の「日田郡志」から「秀頼薩摩落の事」

とある朝鮮人(李文長か)が平戸の士に言うことには
「日田三隈川の南の河原、北高瀬村の今市河原で後藤又兵衛と予は秀頼公より別れの盃を賜った。
そののち後藤又兵衛と予も散り散りになった」そうである。
そのあとの順路を考えると、秀頼公は真田・木村などの屈強の輩、十二騎を従え、北高瀬村→南高瀬村→大野村→梅野村→肥後国・穴川村→隈府と至ったのではないか。
また秀頼公一行が今市河原にくるまでに山国中摩村の真言宗明円寺で昼御膳を召されたと言う伝がある。
この路程とは外れるが、日田の五馬市には秀頼公宿泊の宿があるという。
後藤又兵衛は秀頼公と別れたのち豊前国下毛郡山国金吉村伊福に隠れ住んだと言う。
傍碑、後藤屋敷、後藤又兵衛の墓があると言う。
後藤又兵衛は伊福で隠棲すること二年、承応三年(1654年)正月二十九日の深更に村人が訪ねたところ、戸を固く閉じ、一人灯の下で古い箱から書簡とおぼしきものを取り出し、一通一通涙を流して書見し、みな火中に投じたという。
翌早朝に村人が後藤又兵衛を訪ねたところ、すでに自殺していたという。
村人は哀れに思い、近くに墓を建てたそうだ。



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石川五右衛門の一計も絶えて

2022年07月30日 15:49

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/29(金) 20:17:48.73 ID:yuTGgqLc
石川五右衛門という盗賊は、大小名、諸士群参の日、大阪並びに聚楽の営中に紛れ入り、
諸席に置かれている重代の宝刀、或いは鋭利の良刀を、自分の鉛刀に代えて帯し退き出た。
このため、すり替えられた者達で心ならずも惰弱の汚名を被り、歯噛みをして憤る輩数多であった。

このような中、浅野幸長は考え量り、御玄関にて刀を従者に遣わし、短刀だけで営中に登った。
衆人はその才智を嘆美し、これに倣い、皆家従に刀を持たせるようになったため、石川五右衛門
一計も絶えて、その後営中に紛れ入る事もなくなった。
またこれよりこの事が士風となったという。

新東鑑



松平信綱による上戸・下戸の優劣判定

2022年07月29日 17:00

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/28(木) 19:29:03.99 ID:gc6Jj94U
朝野雑載」から松平信綱による上戸・下戸の優劣判定

江戸城御番の衆が上戸下戸の優劣を論じたが決さなかった。
松平伊豆守が出座したため御番衆が断じてほしいと頼むと
松平信綱「各々方、子息に教える時は大酒を飲むように教えますか?酒を飲まないように教えますか?」
各々「酒を飲まないようにと教えます」
信綱「下戸の勝ちです。我が子への教訓こそが真実です」
と断じたため、一同感服したという。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6940.html
松平信綱は大下戸であった。土井利勝は大上戸であった

松平信綱の下戸についてはこんな話もあった



我が側に召し使う者ほどあって

2022年07月27日 16:13

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/26(火) 19:52:15.23 ID:gT3YMaZZ
福島左衛門大夫正則は、諸将の中でも殊の外物狂わしい人物だった。
猟より帰ってきて口をすすがないまま食事を取り、食物の中に砂があると言って料理人を誅した事も
度々であった。剰えその首を脇差しで貫き、くるくると回して興じたこともあったとか。
されども、思いの外の事もあった。

ある日、福島家の一門衆が集まり酒宴をした時、給仕をしていた正則の寵愛する何某とかいう小姓が、
懐よりその酒宴に出されていた菓子を二つ三つ落とした。
正則はこれを見て大いに怒り、かの者を引き寄せて左出て頭髪を握り、右手に刀を抜き持って、
小姓の股を刺した。血が夥しく流れたが、彼は少しも動じず、始めの如く給仕をした。

この場にいた者達は何れも正則の気質を知っていた故に、終に死罪に及ぶ事を惜しみ、彼を片脇へと
引き退かせ、「申し分が有るのか?」と尋ねてみたものの、一向に物を言わなかったために、遂には
「侍の子たる者が、どうして酒宴の菓子を盗むような卑劣な事を成したのか。お前の身が死罪となっても
仕方がない。そして死しても父兄弟までの面汚しであるぞ!」と言った。

すると小姓はこれを聞いて
「申すべき事もありますが、人の命を取るような事になり本意ではありません。
その人の命を救って頂けるのなら、仔細を語ります。
私の命は、免ぜられるべきではありません。しかし一門の名折れと仰せられる事の口惜しさに、
このように申すのです。」

これを聞いて何れも誓って
「其の方のことは力及ばないにしても、この事について、他の人の命は我々の命にかけて救う。」
と申したため、この小姓は語った

「彼の人も、殿様の御家中の若き者なのですが、私に恋い焦がれ、数十通の文を私は賜りました。
しかし私も殿様の御座をも汚す身ですから、取り上げてさえしませんでした。それでも三ヶ年の間、
日々に文を送ってくる心の切なさを愛で、ある時その文の内容を見てその志を感じ、思わず返事を
した後、かの者はいよいよ耐えかね、虚労の様に煩ったと聞きました。

自分のために人の命を失ってしまうことの笑止さに、どうにかして一度逢いたいと思ったのですが、
出仕している間は外の御傍にあり、帰れば寄り合い部屋であり仲間の目も忍び難く、下部屋にて
なりとも逢うべしと思い、かの男を番葛籠へ入れさせ、一日前に入れ寄せました。
然れども折悪しく、三日三晩の御酒宴となり、致し方なき上に、かの者が飢えることの痛ましさに、
この菓子なりとも遣わさんと懐中に入れたのですが、運が尽き御前に於いて落としてしまったのです。

願わくば、かの葛籠を何も言わずに下してください。私は命を惜しむようなことはしません。」

一門の輩はこれを聞いて「正則に対しかの小姓の命乞いをしたとしても。承知して頂けないのは
必定であろう。しかし彼が菓子を盗んだのは卑劣なる所業では無いのだから、せめて死後の恥辱を
救い取らせん。」と、事の始末を正則に語った。

正則はこれを聞くと機嫌直り
「我が側に召し使う者ほどあって、卑劣の業はなさなかったか。恋する男に逢おうとしたのは、我が目を
欺くにも似ているが、事情を見れば深く咎めるべきことでもない。
その上今日の様子、流石に私の目鏡も違わなかったと感じた。である以上、彼の死罪を許そう。
また彼に心を懸けた奴も、私の気質を知った上で、是非に逢おうとしたというのは、用に立つべき者
なのだろう。かの倅を、恋した男の所に遣わすように。」

として、大方ならぬ機嫌であったという。

(新東鑑)

物狂いとされた福島正則も恋愛については大目に見たというお話



週間ブログ拍手ランキング【07/21~/27】

2022年07月27日 16:00

07/21~/27のブログ拍手ランキングです!


鳶沢町 14

朝野雑載」から知恵伊豆こと松平信綱の話 11
その方は要らざる立派立てを申す 11

「朝野雑載」から仏教と神仏批判ネタ 9
よろず豊前守1人が 8

「佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」続き 6
「大友興廃記」から「佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」 6
さても強勢なる背負い様かな 6


今週の1位はこちら!鳶沢町です!
元小田原北条氏の家臣であり、盗賊の頭となった鳶沢甚内を徳川家康が盗賊対策のため取り立てたというお話。
コメントでも指摘されていましたが、鳶沢甚内といえば、向崎甚内、庄司甚内と共に『三甚内』としても有名ですね。
この三甚内のうち、吉原の初代惣名主となった庄司甚内も元北条家臣であり、家康が入った当時の江戸、関東の
大きな課題として、北条家の浪人たちの問題があったことが見えてきます。
また、盗賊の中から大きな勢力のある者をあえて取り立て、その配下も含めて生計の道を立ててやり、治安任務に拘わらせる
という事、毒を抜いて毒に対処させるというもので、家康らしい老獪さを感じさせる逸話でもありますね。
天下の首府としての江戸の草創に係わる、一種の神話的お話の一つでも有る。そんな感想を持ちました。

今週の2位はこちら!朝野雑載」から知恵伊豆こと松平信綱の話です!
知恵伊豆こと松平信綱幼少の頃のお話。知恵というより一種の頓知小僧の感が強いのですがw、江戸期において
「知恵伊豆」がこういったキャラクターとして一般的に愛されていた事が感じられ、面白いものだと思います。
また、江戸期において「頭のいい子供」がどのようにイメージされていたのかも見えてきますね。基本的には
アドリブ力、当意即妙であることが貴ばれていた感があります。
キャラクターとしての松平信綱について色々と考察もさせてくれる、そんな内容だと思いました。

今週は同票でもう一つ!その方は要らざる立派立てを申すです!
こちらも徳川家康が江戸入府したての頃のお話ですね。入ってきた江戸城は広くはあっても非常に質素、粗末な有様で、
本多正信も流石に玄関くらいは立派にしましょうと進言した事を、、徳川家康がたしなめるといった内容です。
その上で最優先にしたのが、旗本、家臣の知行割との事。このあたり、家康にとっての、統治における優先順位が
垣間見られるようにも思えて、面白いですね。自身の見栄えよりも、この移封でおそらく様々に心もとない家中を
落ち着かせることを優先したという所でしょうか。これは一般的に、家中の望む形でしょうし、家中における家康の
求心力を高めるものであったと思います。そう考えると、このお話の中での本多正信のポジションは絶妙ですね。
あえて見栄えのことを言上し家康に否定させることで、家康の賢明さというものを際立たせています。
これが事実かどうかはともかくとしても、なるほど本多佐渡は得難き謀臣である、と感じてしまいましたw



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当にありがとうございます!
また気になった逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

「佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」続き

2022年07月26日 18:10

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/26(火) 18:06:33.78 ID:4M3K0vhM
佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」続き

その頃、豊後国内では苗字の騒動が起こり、人々が争うようになっていた。
佐伯の家は緒方惟栄(平家物語の緒方惟義とされる)の後裔であり、代々巴紋の旗を掲げていた。
戦の度に大友家の杏葉紋の旗と巴紋の旗が並んでおり、あたかも大将が二人いるようであったため、国中の侍が嫉妬した。
また子息・千代鶴を御曹司と呼ぶのは主君・義鑑公をないがしろにする行いであると非難する者もいた。
(これは文徳天皇の頃(850-858)より勅定で佐伯の家は御曹司と呼ぶことに定められたという)
とうとう佐伯惟治が祖母嶽大明神を勧請したのも逆心の表れであるという噂が出てきて、義鑑公の御耳に噂が達した。
義鑑公は惟治に使者を送り問い詰め、惟治は弁明の書状を何通も出したものの、讒者が書状をとりつがなかった。
そのため惟治は共に槍の名手である深田伯耆守・野々下弥左衛門尉を弁明のために府内に送り出したが、義鑑公により両人とも誅殺された。
そのまま惟治居城の栂牟礼城攻めとなったが、峰高く谷深く、難攻不落の地であった。
惟治も金の軍配で城兵を鼓舞し、また深田らの弔い合戦ということで士気が上がり、攻め手の大将・臼杵長景も苦戦した。
長景は城の堀を死人で埋め、雲梯・飛楼を造って城を攻めたがどうしても落ちるように思えなかった。
長景はかくなる上は武略で城を落とそうと使者を出して
「このたびの戦は私の本意ではありません。ただ義鑑公の御下知に従っているだけのことです。
しばらく豊後から日向に立ち退かれ、国を隔てて逆心のない旨を仰せられれば、この長景が謀叛の誤解を解くために全力を尽くしましょう」と再三申した。
惟治は疑っていたが、長景が熊野牛王宝印の神符に起請文を書いて送ってきたため、神仏を軽んずるべきではないと、小勢で御曹司千代鶴丸殿と共に日向に退散した。
残る城兵は降人となったが、中には「具足が欲しければ大将に渡そう」と長景に具足をほうり投げた直後に腹を切って死ぬ者もいた。
惟治が日向に退散の途中、黒沢というところで多田弥四郎の娘、若狭という女に水を所望したところ、若狭はわざわざ新しい柄杓で水を汲んできて馬上に捧げた。
惟治は喜び「再び帰ってきたら礼をしよう。それかお前を人に名を呼ばれるような者として取り立てよう」と約束した。
しかし惟治一行が日向に入ったところ、あらかじめ長景に内意を含められていた日向の新名党という者どもが襲ってきて、惟治一行は全員切腹した。
時に大永七年(1527年)十一月二十五日。惟治三十三歳、子息千代鶴殿九歳であった。
惟治は生前魔法を修めていたためか荒人神となって祟りをなした。
先の黒沢の若狭という女房も惟治遠行の後さまざまな奇特を現した。
そのため宮を作って惟治を富尾権現として祀り、黒沢ほか豊後のうちに十社、日向に六社建立し今に至るまで祭礼を行なっている。
日向の新名党は惟治を討って十日もしないうちに滅んだ。
臼杵長景も偽の起請文を書いた天罰のためか、惟治の祟りのためか、ほどなく死んだ。
このたび長景は才覚にはやりすぎたため、無実の惟治を殺してしまった。忠に似て不忠の至りである、と人々は言い合った。
そのため義鑑公は佐伯の家を惟治の伯父惟常に命じて継がせなさり、佐伯家は今に至るまで続いている。



鳶沢町

2022年07月25日 17:40

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/25(月) 15:31:56.54 ID:SpzzsYtk
徳川家康公が江戸に御入国の砌、町方に盗賊が数多入り込み、皆々難儀しているとお聞きになり、
「その張本たる者を、一人召し捕らえるように」と奉行中に仰せ渡された。
そしてその頃、関東において名を得た盗賊の頭である鳶沢という者を捕らえ、これを言上すると、
家康公はその者を助命するよう仰せ付けられ、「彼の働きを以て、他国の盗賊が入り込まないようにせよ」
と仰せ渡された。

鳶沢はこれを承ると、
「命を御助け下さったことは有り難いのですが、他国の盗人が入り込まぬようにというのは、
私一人の力では及ばぬことです。何処であってもいいので、屋敷地を下し置かれれば、私は手下の者を
呼び集め、そこに差し置き、彼らに申し付けて吟味をさせるでしょう、

ただし、手下の者達も盗みを止めてしまっては身過ぎも出来なくなってしまいます。ですので、
当地の古着買いの元締めを御免下され、その他の者を御停止されますように。」

と相願った所、家康公はこの義をお聞き届けられ、遊女街の近辺の、一町四方の葭原を屋敷地として
給わった。鳶沢はこれを切り開き、鳶沢町の名付け、町家に取り立て、手下の者達に古着買いをさせ、
方々へ出して吟味させたため、程なく盗賊が入り込むことはなくなり、次第に御静謐になった。
そして古着買いもいつしか止み、鳶沢町も今は富沢町という。

新東鑑

徳川家康が盗賊の鳶沢甚内を取り立てたお話



「大友興廃記」から「佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」

2022年07月25日 17:36

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/25(月) 17:21:07.54 ID:Z+mqbH+B
大友興廃記」から「佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」

大友義鑑公幕下の臣、佐伯惟治は豊後国祖母嶽大明神より二十一代の孫で家名が高かった。
また文武両道相備え、諸芸の風流人であり、豊後海辺郡佐伯栂牟礼の城主であった。
惟治は幼少の子息で御曹司と呼ばれている千代鶴に継がせ、府内に出仕させ、自分は在府も出仕もしないようになった。
あるとき惟治は山上寺の住持春好を師匠にして魔法を行う契約をなした。
こうして上半月は清浄潔斎の身となり魔法に専念したところ神変奇特があった。
身によりそう影が生じ、打てば響き、呼べば答え、あらゆることが思い通りとなった。
累代相伝の家老は何度も諌めたが、いっそう魔法に力を入れた。
また先祖の祖母嶽大明神を佐伯迫田に勧請し、金銀を散りばめた荘厳巍々たる神殿を造営した。
またその他さまざまな宮が荒れていたのを建立、再興した。
あるとき惟治は魔法の師匠の春好が穢れをなしたとして猪の肉を食らうよう命じた。
春好は「髪を剃り僧衣を着て以来潔癖の身であるのに破戒などしたらこれまでの修行も無意味になります」
と抵抗したが、惟治が刀を喉に当てて脅したため、仕方なく鹿の肉を食したところ吐血してしまった。
そののち惟治は春好を生害した。なおその討ち手はほどなく大病で死んだという。
またあるとき惟治は家臣に「あの白鷺を捕らえよ」と命じた。
家臣「弓矢もないのにどうして捕らえましょうや」
惟治「弓で射るのではない、抱き抱えて捕らえるのだ」
家臣はしかたなく白鷺に近づいたが白鷺は動くことなくそのまま捕らえられた。
それを見た家臣たちは「延喜の御代に醍醐天皇の命で鷺が捕らえられたため五位を授けられた話はあるが、このたびは魔法によるものである。
当家の行く末はいかばかりであろう」と嘆いた。

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/25(月) 17:23:12.83 ID:Z+mqbH+B
このあと大友義鑑に滅ぼされる話が続くが長いのでここまで。
この前、戎光祥選書ソレイユから出た稙田誠「寺社焼き討ち」には「栂牟礼実録」出典で同じ話があるのでたぶんそちらが元だろう。
その本にも書かれているが、この佐伯惟治の先祖とされる祖母嶽大明神は蛇で、
平家物語巻八「緒環(おだまき)」では緒方惟義の先祖が豊後の女と大蛇との間に生まれた大男の五代孫となっている。
(三輪山の神と倭迹迹日百襲姫命の伝説そっくり)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13594.html
大友興廃記」より「遣唐使の事」
こちらの稙田玄佐(植田玄佐)も蛇の子孫で紋も佐伯惟治と同じ巴紋なのに、美濃斎藤氏だったり蛇が雌だったりしてるのは伝承の過程でオスがメスにでもなったのだろうか。



朝野雑載」から知恵伊豆こと松平信綱の話

2022年07月24日 13:53

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/23(土) 22:04:08.06 ID:46b6DecW
朝野雑載」から知恵伊豆こと松平信綱の話

江戸大火事(明暦の大火)の節、御天守に火が移り焼き上がってしまった。
御城の女中が外に出ようとしたが、道がわからずあわてふためいた。
それを見た伊豆守は御玄関から奥まで畳二枚分の道を空けさせ
「畳のないところをたよりに出られよ」と申されたという。

また伊豆守九歳の時、秀忠公の御機嫌に触れたため、秀忠公に宿直(とのい)袋に入れられてしまい、封をされてしまった。
秀忠公は御台様(江)のもとに袋を預け、そのまま御放鷹に出御された。
伊豆守殿は袋に入っておとなしくしていたが、そのうち小便がしたくなったため「袋を開けてくだされ」と女中衆を呼んだ。
御台様も女中衆も困惑して「将軍様が手づから封をなされたので、開けることはならぬのです。どうしましょう」と言った。
伊豆守は「縫い目をほどきなされよ。それがしを出しなさって、小用が終わればその後にそれがしを入れて元のように縫合なさればいい。」
おのおの名案だと大いによろこんで伊豆守を出した。
伊豆守は小便を終え、また袋の中に入ろうとしたところ
御台様は「将軍様がお帰りになられるまではこのまま遊ぶとよいでしょう。」
とお菓子やその他さまざまな物をくだされ、懇切に遇された。
秀忠公が帰城された時、伊豆守はまた袋の中に入り、女中衆は縫い目を元のように縫合した。
やがて「将軍様御預けのものを御返しください」と御使いが来たため、袋が秀忠公の元に戻った。
秀忠公は袋の中の伊豆守に
「その方、向後忠勤を励むか?」とお尋ねになられ
伊豆守もおそれいって「御奉公、油断なくつかまつります」と申し上げたところ、秀忠公は御手づから袋より伊豆守を出されたということだ。



311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/24(日) 08:29:14.50 ID:Hx8mz+Tr
玉袋だったんだな

さても強勢なる背負い様かな

2022年07月23日 13:09

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/23(土) 08:12:27.03 ID:zz2id93h
天正十九年の頃は、宇喜多秀家も成長され、参議に任じられ、器量骨柄といい、公儀からも殊に
その覚えは諸人に異なり、天下の御婿(秀吉の養女・豪姫の婿)として威勢最も盛んであった。

その重臣はそれぞれ大阪に詰めたが、中でも岡豊前守(家利)は宇喜多家第一の宿老にて、
勇武才智人に超え、世に良臣との名があった。殿下(秀吉)の御前能く、よろす直に言上した。
故に宇喜多家中に、彼に異議を言う者はなかった。

戸川肥後守(達安)は、岡豊前守に続いて威勢が在った。
有る夏の夜、殿下の秀家邸への御成があった。涼取の茶屋にて饗応があり、この時小西摂津守(行長)が
御前に在って、明年の高麗御発進の軍議をした。この時戸川肥後守は茶屋の廊下に控えていた。
殿下は彼に御声をかけ、「これに出て軍議を聞くように」と仰っしゃられたため、縁側に畏まった。
小西摂津守は朝鮮のことを既に手に握るが如く申し述べ、殿下の御機嫌は斜めならずであった。

夜閑になり御座敷へ入られる時、茶屋と座敷の間に古堤がある場所で殿下は
「肥後、背負うように」と上意があり、そのため背負奉ってお座敷へ帰らせ給った。
このとき「さても強勢なる背負い様かな」と、お笑いながら褒められたという。

戸川記

秀吉の宇喜多秀家邸御成と時の事について。



その方は要らざる立派立てを申す

2022年07月21日 16:55

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/21(木) 14:25:21.15 ID:9of599z4
徳川家康公が江府(江戸)に御入国の時は、城中の家作は申すに及ばず、二、三の丸、外郭にある家までも、
先の城主であった遠山氏の時のあった家屋がそのまま残っていた故に、当分はそれらを悉く用いられた。

然れども御城内には木削葺(こけら葺)の家すら一軒もなく、皆日光削ぎ、甲州削ぎなどで取葺に致し、
御台所は萱葺きで、手広くはあったのだが殊の外古く、御玄関の上の段には、船板の幅広のものを
二段に重ねたばかりにて、板敷きすら無かった。

本多佐渡守(正信)はこれを見て、「あまりに見苦しく、他国より参られた使者への外聞も如何かと
思います。なので御玄関廻りは造作を仰せ付けられるのが然るべしです。」と言上した所、家康公は

「その方は要らざる立派立てを申す」

と御笑いになり、家作の事にはお構いなく、「本丸と二の丸に有る堀を埋めるべし」と仰せ付けられ、
そういったものは万事を差し置かれて、御家中の大身小身に限らず、知行割を急がされた。

総奉行には御老中である榊原式部大輔(康政)、その下に青山藤蔵、伊那熊蔵、その他目附衆を加えられ、
かつ、御旧領四ヶ国に置かれていた御代官、勘定方の面々に、早々に当地に罷り出て、昼夜かけて
知行割を致すようにと仰せ渡された。

但し知行方の仕様は、旗本小身の面々には江戸に近くで渡し、知行高に応じ、順々に道のり遠き所を
渡すように。但し道中一夜泊より遠方で旗本に知行を渡す事は無用である、と仰せ付けられた。

又、大身の衆へ城地を下さる場合には、割り当ての外、皆御自身の思し召しにて遣わされた。

新東鑑

家康が江戸城の整備よりも家中の知行割りの作業を優先させたというお話。



306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/21(木) 17:56:51.06 ID:ptp19eSq
秀吉に対するアピールもあっただろうな

よろず豊前守1人が

2022年07月20日 17:07

岡家利   
300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/20(水) 10:53:45.62 ID:KcG7usJM
天正十三年、秀吉公による根来攻めの時、和泉国千石堀において備前(宇喜多)勢は軍功有り、
根来寺破却の後、秀吉公は紀州雑賀へ御発向され、諸勢は丁場を分けて長堤を築き水攻めをするという時、
備前衆の丁場の堤が切れ水が溢れ出した。このため秀吉公の御機嫌を損じた。

岡豊前守(家利)は早速御前へ出て、
「私が不念故に堤を崩してしまったのです。申し訳に、切腹仕ります」
と申し上げるとたちまち機嫌を直され
「このような事は有るものだ。早々と水を留めるように(斯様の事ハ有物なり早々水を留候へ)
との上意にて相済み、即時に人夫を掛けて元のように堤を直した。そして程なく落城に及んだ。

その頃、宇喜多三老のうち戸川秀安は病気、長船貞親は既に死去しており、よろず豊前守1人が下知した。

戸川記



「朝野雑載」から仏教と神仏批判ネタ

2022年07月20日 17:06

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/19(火) 19:34:12.24 ID:RWsIYOYi
朝野雑載」から仏教と神仏批判ネタ

美濃の愚堂東寔(臨済宗の高僧)を後水尾院が仙洞御所にお召しになられた時、院はもちろん上段にお座りになっていた。
愚堂は御許可もないのに、院と同じ上段に上がってきた。
御酒が運ばれてきて、院が「まずあれへ」と愚堂の方に目をお向けになると、公家衆が御盃を愚堂の前に置いた。
愚堂は辞せずして「身どもに食べよ、と仰られるのか」とすぐに盃をとって飲み、その盃を院のもとに回した。
「沙門は王者を尊ばず(沙門不敬王者論)」と仏典にあるためこのような無礼をなしたのであろう。

秀頼公は多くの寺社を建立したが七福は生じず、七難により滅んでしまったのに、世の人は弁えないのだろうか。
前田利家公は不動山(石動山?)を焼亡し僧徒を打ち捨てられたが、武運長久で二位大納言まで昇り、子孫は繁栄している。



週間ブログ拍手ランキング【07/14~/20】

2022年07月20日 11:40

07/14~/20のブログ拍手ランキングです!


江戸城天守閣と小堀遠州 11
戸川秀安とその母 11

明の日本への援兵要請の時の話 10
この勢いに忠家は辟易し 9

武夫たる者が苦を嫌い死を畏れて 8
性質廉直、柔和にて仁慈あり 8
増上寺、浅草寺のこと 7
戸川秀安の最期について 7


今週の1位はこちら!江戸城天守閣と小堀遠州です!
なるほど、というような小堀遠州の白土剥がれ対策。言われてみればそのとおりですが、おそらくは当初、下地の方は
防御上有効な素材を使っていたのでしょうね。しかしそういった防御を考えなくても良いという状況が出来た中での、
このような小堀遠州の提言だったのかな?想像してしまいます。
しかし常日頃から、天守の維持にはかなりコストがかかっていたことが見えてくるお話でもありますね。
非常に目立つだけにおざなりにも出来ませんし。江戸城天守は結局、明暦3年(1657)の 明暦の大火により消失し、
以後再建されなかったわけですが、再建だけでなく維持のコストの高さという面も、その断念の理由だったのでしょう。
天守はシンボルという以外では、日常的には倉庫でしかありませんしね。
太平の時代に入ってからの天守のあり方も感じさせてくれる、そんなお話だとも思いました。

今週は同票でもう一つ!戸川秀安とその母です!
こちらは宇喜多三老の一人として宇喜多直家の勃興を支えた戸川秀安の前半生と、彼が宇喜多氏に仕えることに
大きな影響が在ったその母についてのお話です。
基本的には家族の協力の下、賢良な少年が取り立てられていくという、まあ良くある賢臣譚ではあるのですが、
このお話になんとも言えない迫力を与えているのは、その母の醸し出す強烈な個性でしょう。
秀安よ世に出す妨げと成るからと行って、幼い娘を殺してしまう。この時代は命の価値、ましてや「女子供」については
非常に軽く考えられていましたが、それでも親が子を殺すというのは当時の倫理的にもやはり批判されるものであり、
これが事実であったとすれば、その当時の秀安の家族の置かれた状況がよほど凄まじいものであったと考えてしまいます。
またこの母、強盗を撃退するなど軍略にも通じており、只者ではないですね。
基本的には「この母あってこの子あり」というお話では有るのでしょうが、戦国期の厳しい社会の有様も合わせて感じさせる、
そういうお話でもあると思いました。

今週管理人が気になったお話はこちら!明の日本への援兵要請の時の話です!
井伊直孝の「日本の武士は実戦から離れているから戦力として弱く、出すべきではない」という言葉、非常に
リアリズムに満ちていますね。勿論、これが本音という話では無く、そもそも大陸の争いに日本が関わることを忌避する
ための理屈の一つ、ではあるのでしょうが、こういった理屈を出して、それが受け入れられたという事からは、
妙な精神主義は感じられず、武威というものについての冷徹な考え方がそこに感じられます。
なるほど、負けなければ、戦わなければ武威は保たれますからね。これを消極的という批判もあるのでしょうが、
この時期、せっかく安定してきた江戸幕府をわざわざ混乱に巻き込むことはない、という判断でもあるのでしょう。
当時の国際情勢と国内の有り様、そのあたりを参照しつつ読んでみたい逸話だとも思いました。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつも本当にありがとうございます!
また気になった逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

増上寺、浅草寺のこと

2022年07月19日 19:35

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/19(火) 19:25:56.28 ID:v0TjrcZ5
豊臣秀吉公が北条を攻め給った時(小田原征伐)、徳川家康公は小田原へ御着陣後に仰せになった

「武州江戸において、祈祷所に成るべき天台寺と、菩提所になるべき浄土寺を見立てるように。」

この上意に対し、
「浄土宗では伝通院と増上寺と申す寺が二ヶ所あります。然れども伝通院はここの在郷にあります。
増上寺は前に海、後ろに山を抱えている景池であります。
また御祈祷所になるべき天台寺としては、浅草寺観音堂の外にはありません。」
と報告が言上された。

これにより増上寺、浅草寺の二院の住持を小田原の御陣所に召され、御目見えを仰せ付けられた。
その後、両寺の境内にて、乱妨禁制の御書付を下されるとき、祐筆よりこの書付を調え差し上げた所、
この内容を御覧の上、その日付に対し
「浅草寺の方は、卯月○日と認めさせよ。」
と仰せがあった。

御祐筆方より、重ねて「概ねこういった事については、月の異名は書き申しません」
と書法についての言上があったが、仰せに
「増上寺は菩提所なれば、さもあるべし。浅草寺は祈祷所であるのだから、異名にて認めるように。」
と上意あったという。

この浅草寺は古来より、寺中に坊数三十六ヶ所あった。然れどもこの当時は殊の外破壊しており、
そのうち十坊ばかりは清僧であったが、残りは山伏の類であり、妻帯の坊主もあったため、
徳川家の御祈祷所としては不都合であるとの沙汰もあった。
しかし家康公は夜のようなことに御構いも無く、九月には小田原征伐も定まり、御城(江戸城)に於いて
大般若経転読があった。この時は勿論、その他の御祈祷においても清僧にだけ仰せ付けられた。
故に妻帯の者は自然と寺内の徘徊も致し難くなり、或いは子を、或いは弟子を清僧とし、
又は寺を譲るなどしてその身は退院したため、程なく清僧ばかりとなった。

新東鑑



戸川秀安の最期について

2022年07月18日 16:13

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/18(月) 14:38:41.02 ID:3H39QenK
天正十年には、東、北の諸国は概ね静謐となり、織田信長公は在洛されていた。
戸川秀安はその頃病気を患っており、東国が治まった事で、関東草津の温泉に、療養のため赴いた。

そのような所に、秀吉公が備中高松城を水攻めにされ、宇喜多家より危急の通告があり、
帰ろうとしている所に、信長公父子が御不慮の横死(本能寺の変)に及び、諸国一統に騒動し、
東海北陸のあたりは殊に全く通行すら出来かねる有様で、秀安も心ならずも草津に、四月から八月まで
逗留し、八月に上方に登って秀吉公に拝謁した。その後も大阪に詰めていたという。

しかしながら彼は病気のために、年々御陣にも出られないことが多くなった。
天正十四、五年頃に、宇喜多秀家公の重臣、四、五輩が受領を仰せ付けられ、秀安も叙任し
肥後守となった。
暫くあって病気を申し立て、受領を嫡子助七郎達安に譲り、自身は入道して友村と号し、児島常山の麓に
引き籠もり、茶湯、連歌、並びに文章を楽しんだ。
日々日蓮宗を崇み、病が進んだ後は仏道の外、他事無かった。
備前の宇喜多家家臣で古老の面々は、残らず日蓮宗を尊崇していた。

慶長二年八月六日、秀安は死去した。これは嫡子である肥後守達安が高麗陣のため留守をしている間の
事であった。常山に葬られた。その場所には今も、石塔がある。
法名自任斎坊授友林と号した。

惜しいかな、彼には生涯の行状記が無く、その悉くを知ることは出来ず、僅かに十のうち一つを
ここに挙げるのみである。
秀安の扶禄は二万五千石、外に預かりとして五十人組、凡そ合わせて六万石、人数三千の先手備えにて、
宇喜多直家第一の重臣であった。

戸川記

戸川秀安の最期について



298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/18(月) 15:40:06.22 ID:/AevqENK
危急の通告て何やろ

武夫たる者が苦を嫌い死を畏れて

2022年07月17日 15:28

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/17(日) 13:02:25.89 ID:2ndILS+1
ある本に、明石氏(全登)の子である某は、大阪落城の後、田中筑後守吉政が匿い置いていたが、
その事が上聞に達し、御検議あらん為に、その家臣一人を奉行所へと召された。

忠政はこの事を重臣である平野長門と協議したが、長門は「最大事ですから、他人を遣わすべきでは
ありません。愚臣が赴きます。」と申した。

これを聞いた筑後守は落涙して、「余人を遣わさん!」と言ったが、長門は留まらず奉行所へ出て
陳弁した。そして御疑いがあり、拷問に及んだ。しかし平野はそれを嘲笑し
「申し上げるべき事無し!たとえ又あったとしても、武夫たる者が苦を嫌い死を畏れて言うものか!」
と動ぜず、遂に責め殺された。そしてそれ故に筑後守は災いを免れ、明石の子もまたその跡を
晦ます事ができた。

新東鑑




明の日本への援兵要請の時の話

2022年07月16日 15:58

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 11:08:02.39 ID:T4jJtv0Z
朝野雑載」から明の日本への援兵要請の時の話

家光公の御時、韃靼(清)が中華を滅ぼしたため(1644年、実際には明を滅ぼしたのは李自成)、大明の大将(鄭成功)から日本へ援兵を乞うてきた。
十万の軍勢を出そうと計画したところに井伊掃部頭(井伊直孝)が述べていうことには
「昔、太閤が朝鮮を攻め、大明の援兵と戦った時にすこぶる勝利したのは、日本の兵は久しく乱世であったため戦になれており、
一方、大明の方は久しく太平であったため戦になれていなかったためです。
今、日本の兵は久しく太平で戦を知らず、韃靼の兵は大明を討って戦になれております。
若兵を遣わしたところで勝利は得られないでしょう。
日本の兵がもし敗れたなら、かえって末世まで異国にまで侮りを受けることとなりましょう。」
と申したため、援兵派遣は沙汰止みになった。
一説には上の発言は大久保彦左衛門のものだという(大久保忠教は1639年死亡)



294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 11:15:13.67 ID:WAJ05+SS
鄭成功じゃなくて父親の鄭芝龍か、この時は

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 14:02:53.97 ID:V+56qfjT
>>293
井伊さんおっしゃる通り
そして自称ご意見番のバーバリアンにはこんな見識ないと思う

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 14:42:21.63 ID:hQTuVJNr
ついでに「朝野雑載」の別の箇所に書かれている話では
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1677.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12676.html
では柳生宗矩や安井算哲のセリフとされている板倉重昌戦死の予言も大久保彦左衛門がしたことになってます
板倉重昌が戦死したのは大久保彦左衛門の死の前年だからこちらはまだ可能性がありますが

この勢いに忠家は辟易し

2022年07月16日 15:55

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 10:09:10.24 ID:/LXbNVQQ
宇喜多忠家(直家弟・入道後、号安心)は、小野田四郎右衛門(直家家老分の者也)を討った。
これに直家は大いに怒り、忠家はそれを恐れて富山城へ引き籠もり、直家が呼び出しても
出てこなかった。その様子はもはや謀反であると見え、これについて重臣である
岡豊前(家利)、長船越中(貞親)などは、日頃忠家との関係が悪かった事もあり、これを幸いと
直家に「御果たすべきです。」との旨を讒言した。

しかし戸川秀安は、忠家の乳母の子であった故にこれを嘆き、
「この事、それがしにお任せ下さるように。」
との旨を直家に願い、富山城へ向かった。しかし彼は忠家に対して一言の教訓にも及ばず、
偏に城攻めの用意をして、富山城の周囲に仕寄を付け井楼を用意し、夥しい攻戦の勢いを
奮い見せた。

この勢いに忠家は辟易したのか、起請文を出して降参した。
秀安はこれを取り繕って和睦を整えた。

これは秀安が、忠家が日頃から物に驚くという気質を能く知っていたためこのようにしたのだという。

戸川記

直家の前に出る時鎖帷子を付けていたという忠家ですが、ガッツリ後ろ暗いことやってたんですね。



542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 13:58:17.49 ID:V+56qfjT
宇喜多は上から下まで悪い話ばっかりだな

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 16:16:43.39 ID:wL7omZe+
そりゃあ防御を万全にしないと兄貴に会えんわな

544 名前:人間七七四年[時期は] 投稿日:2022/07/16(土) 19:12:18.40 ID:KA9Iku8U
というか主が稀代の大悪人なら、家来に善人が揃うものかというのが素直なとこだよね

性質廉直、柔和にて仁慈あり

2022年07月15日 17:00

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/15(金) 11:54:08.91 ID:BM9I11l+
戸川秀安は性質廉直、柔和にて仁慈あり、故に政事賞罰の事について、主君である宇喜多直家
不直が有る時は、何度も押し返し諌めて正理に行い、またこれ故に人々は彼を敬い懐いた。

岡平内(家利・後豊後守)と長船又三郎(貞親・後越中守)は共に短慮であり、どうもすれば
口論に及んだが、秀安はこれを宥め諭し、

「この三人が不和になった時は、主家破却の基であるぞ!」

と涙を流して説得した。故に両人も和平したという。

また、宇喜多直家は表裏有る将であり、時々、相違う事が多いことを隣国も知っていて、
宇喜多と何かしら議する事が有る時は、彼らは戸川秀安から起請文を乞い取ってこれを
実であるとした。

戸川記

宇喜多家における戸川秀安について。