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斎宮わるものにて

2019年12月15日 20:02

674 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/15(日) 11:41:47.53 ID:ejsf4hb3
太夫殿(福島正則)の家来に来島左門と申す者があり、知行千石取りであったが、たいへんな
かぶき者であった。また杉村四郎兵衛と申す侍の小舅である、林傳兵衛と申すかぶき者が居たが、
彼は牢人であり杉村四郎兵衛に頼って彼のもとに居住していた。

ある時、この林傳兵衛がいかにも長い刀を研ぎ屋にあつらえさせていた所、この研ぎ屋に来島左門が
参り、長々しい刀が坪に立て掛けてあるのに気が付き、「その刀を少し見せよ。」と手に取り、
「さてさて、この刀は一体何者が指しているのか。これは役に立たない。」と言った。
ところが丁度この時、刀主の傳兵衛がそこに在った
「その刀は私の刀である。役に立つと思ってこうして拵えさせている。それを役に立たないとは
不審に存ずる。」
そう申した所、左門は
「誰が刀主とは知らず申したのだが、言った通りであり是非に及ばぬ。この刀は其方の刀か、
このような刀は役に立たぬ。」
これに傳兵衛は
「いかにも役に立てて見せよう!」と申し、長々しい口論となった。

さて、竹中斎宮と申す五百石取りは太夫殿の側小姓であったが、彼もまた大変なかぶき者であり、
羽織などに『生過ぎたりや廿五』と大紋などに散らして、それを太夫殿の前でも着していた。
彼が先の牢人・林傳兵衛と日頃より親しくしており、故にあの来島左門と傳兵衛の口論の事を
聞かされた。ところがこの竹中斎宮はわるものであり(斎宮わるものにて)、来島左門の知り合いの者に
「研ぎ屋で牢人である林傳兵衛の刀を左門が見た事で、散々にやりつけられ非常に見苦しい様子で
あったそうだ。」と悪口を言った。知り合いの者はこれを左門に語ったが、左門は
「それは牢人の嘘だ。彼は私に返す言葉もなかったのだ。」と申し、これを聞いた斎宮は傳兵衛に
またこれを語り

「このままでは男として成がましい故、来島左門と果し合いをすべきである。私は助太刀を致す。」
と申した。そしてその後斎宮は左門に
「其方に林傳兵衛が果し合いをするそうだが、殊の外身の用心をして人を数多連れておくべきである。」
と申した。左門はこれを聞くと
「さてさて、その牢人が私と果し合いをすると申しているのか。やさしき申し分であるが、かの者に、
何時であっても私は一人で歩く。そう心得られよと伝えて頂きたい。」と申し、それより左門は毎日、
広島の街中を草履取りも連れずただ一人でで、20日ほども歩いたが、特に変わったことも無かった。

ある時、2月の彼岸に海善寺という浄土宗の寺で談義の有る時、来島左門は小姓一人を連れて
この寺に参ったが、林傳兵衛はその彼の跡を付け、左門のいる場所に密かに人の中を分け入り、
左門の後ろに忍び寄った。この時竹中斎宮は彼の助太刀を約束し、傳兵衛の後ろに忍んでいた。

傳兵衛は左門を討ち取ろうと「おぼえたるや!」と言葉をかけ刀を抜いた、左門は「心得たり!」と
申すや太刀速に傳兵衛を一刀で討った。そこに斎宮が、左門が立ち上がろうとした所を長刀にて
突き殺した。左門の小姓は刀で斎宮としばし戦い、斎宮はそのまま引き帰った。そこから直に城へ
参ると太夫殿へ
「来島左門が牢人と喧嘩をし、海善寺にて果てました。」と報告した。

675 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/15(日) 11:43:28.73 ID:ejsf4hb3
一方、左門の小姓は寺から直ぐに、左門の叔父で四千石取りの村上彦右衛門の所に参り、今までの仔細を
伝えると、彦右衛門は驚き、先ずは御城に参り、太夫殿へ申し上げた
「左門が喧嘩をした所、竹中斎宮が助太刀し、左門を突き殺しました。斎宮に処罰を仰せ付けられます
ように。」
太夫殿はこれを聞くと「斎宮はたった今、左門は喧嘩で果てたとだけ言っていた、不審なことである」
と申された。これに彦右衛門は
「左門の小姓がその場に居合わせ、斎宮の長刀とせり合い、長刀の柄に切れ込みを入れたと申して
おります。斎宮の長刀をご覧になって下さい。」
そう申し上げたため、斎宮の長刀を取り寄せご覧になった所、柄に切れ込みが在った。

このため竹中斎宮は自身の屋敷で蟄居していた所、村上彦右衛門らがにわかに押し込み、塀を破って
切り入らんとした所、内より理り申して来たことにより、扱いと成って斎宮に腹を切らせた。

その後に太夫殿はこのように申された
「杉村四郎兵衛もにくき奴であるので、内々法度にて申し付けよう。牢人を抱え置いて喧嘩をさせたのは
曲事である。」と、彼の組頭である蜂屋将監を呼び出し「杉村四郎兵衛も切腹させるように」と
申し付けた。この時四郎兵衛の屋敷は闕所となったため、四郎兵衛の馬をどうするべきかと、この
馬を持ち去った。太夫殿はこれをお聞きになると

「さてさて、四郎兵衛はにくき奴で心がけが専一で無かったが、蜂屋将監に預け置いたのに、
将監の申し渡しは覚悟が無い。大事の侍を預け置いた所に馬を持たせないのは大いなる間違いである!
今後のためにも将監は罰金として銀20枚を出すように。」
との事で、銀20枚をお取りになった。

(福島太夫殿御事)

いろんなとばっちりだらけの話



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神前にて鉄火を取らせるように

2019年12月14日 21:48

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/14(土) 11:24:20.94 ID:gZ81JtYR
藤松次右衛門と、津田野小源太と申す者があり、藤松次右衛門は舅、津田野小源太はその婿で
あったのだが、両人がそれぞれを相手取って公事(訴訟)を起こした。しかし非常にたわけた公事で
あったため、この訴訟を裁こうという者は誰も居なかった。

この事を太夫殿(福島正則)がお聞きに成り、
「さてさて、憎き奴らにて何とも申し付けようがない。である以上、神前にて鉄火を取らせるように。」
と申し付けられた。これにより、神前に竹棚を拵え器を重ね、それから黒鉄を長さ8寸、幅2寸に
仕り(1寸は約3センチ)、フイゴを立てて真っ赤に熱した。

両人は裃を着し、舅の次右衛門が先ず、熊野の牛王神符を三つ折りにして、両手に牛王の端を大結に
包むと、その上で鉄火を金鋏にて挟んで両手の上に乗せた、次右衛門は三歩あゆみ、いかにも静かに、
素早く器の上に鉄火を置いた。牛王神符は塵となり、器も焼けた。

婿の小源太も同じように手にとった牛王神符に鉄火を乗せ、いかにも足早に、少し手前から器に向かって
鉄火を投げた。

それから両人の手を布の袋に入れて3日過ぎて見てみると、次右衛門の手は火傷で腫れ上がり、
小源太の手は火傷していなかった。これによって次右衛門は切腹し、そして小源太は、訴訟が鉄火にまで
及んだため御奉公致し難く、御暇を下されるよう申し上げた。

太夫殿はこれを聞くと
「小源太は若年の頃より側で使っていたため、多少ひいきがましく思っていたが、にくき奴で、
殊に馬鹿な事をした。そこで腹を切らせろ」
(小源太若年よりそばにつかい被申候故、少ひいきかましく被存候得共、にくきやつ
殊にばか成仕形、其にて小源太腹切らせ候へ)

と言って、切腹させた。

(福島太夫殿御事)

鉄火をした意味が良く解らない。



666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/14(土) 14:31:35.78 ID:weGXiG/K
ノブが鉄火禁止にしたんじゃなかったのか。

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/14(土) 15:32:12.05 ID:LyzXRgMA
>>665
たわけた揉め事なので鉄火でいいってのは論理的だなw

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/14(土) 16:23:38.59 ID:q3vyqnhr
結局、両者切腹かw

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/14(土) 19:13:00.61 ID:gZ7AuHZc
こんだけ手間かけといて鉄火まで行ったのを理由に辞めるとか舐めた事言い出したのか

毛利の大阪退城も島津の臣従も

2019年12月13日 16:59

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 11:27:07.05 ID:PSwBmWQk
関ヶ原の戦いの後、安芸の毛利(輝元)は大阪に居たのだが、吉川(広家)と申す家老が
太夫殿(福島正則)に徳川家康公と講和のための扱いを成して欲しいと申してきたため、家康公に
その事を申し上げた所、「そういう事であれば扱いをされるように」との事で、吉川と講和の条件を
協議した所、「周防長門の二ヶ国を下される形で扱いを成して頂きたい。」とこ申すに付き、この旨を
家康公に申し上げた所、直ぐに二ヶ国下されることに同意された。
この時太夫殿は

「扱いが成った後から二ヶ国を下される事を違われれば、私が表裏者に成ってしまいます。
ですのでそうお考えの場合は今より私が広島への先手を仕り、毛利を退治いたします。」

との旨を申したため、二ヶ国は相違なく遣わされ、扱いが成った。これにて毛利は周防長門二ヶ国を
下され大阪を明け渡し長門へと参った。

また島津兵庫(義弘)殿からも、「私も太夫殿が扱いをして頂ければ家康公に従いたいと思います。」
と望んできたため、太夫殿は
「申し分が有れば承り、その上で扱いを入れますので、その時は急ぎ畿内に上って下さい。」と、
使いの家老にしっかりと申し遣わした所、島津殿は望みとして「天下普請を免除して下さる形で
扱いを成して頂きたい。」と頼み入り、この事を太夫殿より家康公に申し上げた所、
「確かに遠国の者故、天下普請は免除しよう。」と申されたため、扱いが成り島津殿は御礼に上洛した。
なお、これにより現在も島津殿は天下普請を致されないのだという。

太夫殿は安芸備後の二ヶ国を家康公より遣わされ、五十万石の御役儀を勤めた。

(福島太夫殿御事)

毛利の大阪退城も島津の臣従も福島正則のお陰だった、という内容。



410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 12:15:01.35 ID:syHFqi/1
天下普請を免除されたが美濃の堤防や駿河の堤防はやらされたのか。

扨々、聞及たるよりも気違にて候

2019年12月12日 17:46

652 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/12(木) 11:31:17.84 ID:g+fbVvyj
(慶長五年)九月上旬に、徳川家康公は濃州勝山にお着きに成り、九月十五日に関ヶ原で敗れた
石田治部少輔(三成)は伊吹山へ逃げ隠れていたが、田中筑前守(吉政)の家臣が捕えて家康公の
元に送り、小西摂津守(行長)、安国寺(恵瓊)両人も方々にて捕縛された。
三人共に洛中を引き廻しにされたのだが、この時太夫殿(福島正則)はこの三人に小袖を二つづつ
与えた。中でも治部少輔は「太夫殿の御心指し感じ奉る」と悦び、衣類を着替え、太夫殿の与えた
小袖を着て洛中を引かれ三条河原にて首を切られた。

石田治部の弟である石田杢(石田杢頭(正澄)、実際には兄)、家老の島左近は佐和山の留守居であったが
(島左近は実際には関ヶ原で討ち死にしている)、佐和山城が攻められた折二人共切腹した。
徳川家康公は海手を通られ大津城に在陣され、三左衛門殿(池田輝政)、太夫殿は道中のそれぞれの
宿に制札を立て、百姓や山中に逃げた者達を帰宿させた。

その後太夫殿は山科に在陣し、子息(養子)の刑部殿(福島正之)を北政所様への御見舞に遣わした。
この時、京三条口の番をされていた稲図書殿(伊奈昭綱)の番頭が、ここに柵を付けて鉄砲の者
三百人でこの番所を堅めていた。ここを福島刑部殿は理を入れ京へと通過したのであるが、その後に
刑部殿へ急用があるとして、太夫殿家臣の佐久間嘉右衛門と申す者、知行二百石取りの侍を刑部殿の
元に遣わしたのだが、この嘉右衛門も番所にて、急用であることとを理り申したのだが、当時は
厳しい時分であり、番所では通そうとしなかった。この時嘉右衛門は「慮外では有るがここの番の
責任者である図書様に理由を申し上げたい。」と色々と言ったのであるが、とにかく通さないと申し、
竹杖にて押しのけられた。この時少し竹杖が当てられた。

嘉右衛門は無念に思ったが、多勢に無勢であり、その上番所でも有ることから是非無く、命ぜられた
急用も打ち捨てて太夫殿の元に帰ると、直に罷り出て

「今度のお使い、御急用を打ち捨てて罷り帰った事、なんとも御迷惑をおかけしたと思っています。
しかしながら稲図書殿御番所にて色々とお理りを申し上げたのですが通してもらえず、あまつさえ
竹杖にて押し出され、杖も当たりました。これでは男が罷り成りません。只今より私は切腹仕ります。
相手は図書殿でありますので、哀れと思われ敵を取って頂ければ、有り難く存じ奉ります。」

このように申し上げた。太夫殿は「それは卑下すべき事ではない。多勢に無勢だったのだから
仕方がない。」と言ったのだが、嘉右衛門はそのまま帰って切腹した。

653 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/12(木) 11:31:45.63 ID:g+fbVvyj
この事を太夫殿がお聞きになると
「さてもさても不憫な事だ。」と涙を流し、この嘉右衛門の首を取り寄せ、井伊兵部少輔(直政)殿の
元ににこの首を送り、先の嘉右衛門についての事を伝え「稲図書の首を見せるべし。」と荒々しく
申し入れた。兵部殿はお聞きになると大いに驚き
「ご立腹は尤もです。しかしこれは稲図書が存じているわけではありません。この上はその場で
番をしていた三百人の者達を首にして進ずるので、それでご納得頂きたい。」と返答したが、
太夫殿はこれを聞き入れず

「嘉右衛門の相手は図書である。嘉右衛門はそう申し置きをした。どうしても図書の首を見なくては
ならない。この事を家康公に申し上げて頂きたい。その上で御同心無いのであれば、御忠節はこれまで
である。おっつけ大津へ向かい、家康公に直にお断りを申し上げるだろう。」

このように申し越してきたため、兵部殿は更に驚き、「さてさえ是非もなき義である。」と思われ、
とにかくそれぞれと相談すべきであるとして、浅野紀伊守(幸長)殿、細川越中守(忠興)殿、
池田三左衛門(輝政)殿、黒田筑前守(長政)殿に、この件の扱いを成されるよう頼んだ所、
この四人も内々に太夫殿の性格を存じており、「家康公に申し上げるしか無いでしょう。」との
意見であったため、これを報告した所、家康公は
「それならば三百の番の者達に切腹させ、それにて堪忍するように伝えるべきだ。」と仰せになった。
兵部殿は「先だってそのように申したのですが、まったく聞き入れず『それならば直にお断り申す』と
言っております。」と申し上げた所、家康公は

「さてさて、聞き及んだよりも気違いである(扨々、聞及たるよりも気違にて候)、今は大事の前の
小事であり、是非に及ばず。図書には切腹させよ。」

との上意にて、稲図書は切腹し、その首は太夫殿の元へ遣わされた。太夫殿は大いに悦び
「このようにして頂いて過分に忝ない。」と、すぐに大津へ御礼に参った。

図書は一万石取りの、直参の衆であった。
(福島太夫殿御事)



654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/12(木) 12:47:09.85 ID:t+lw0CPa
>>653
>聞き及んだよりも気違いである
酷いけどそのとおりで草
影武者徳川家康でみたなーこの話

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/12(木) 21:53:44.99 ID:ZtdUB/mz
だったら番兵三百人の首を送ればいいんじゃないか

今の感覚だと十分気違いだけどな

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 00:05:02.32 ID:YZgR0DVQ
「七分の一の命事件」
ならぬ
「三百分の一の命事件」
として人権教育のネタにされそう

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 00:13:10.73 ID:PYMzNtB9
まあ福島さんですし

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 08:00:56.52 ID:s4xg30G0
三百石と一万石の首じゃ釣り合わんなぁ、三百人犠牲にしろというのもやむなし

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 10:17:23.42 ID:mPdwyCZg
鉄砲傷受けた直後にこんなことで煩わされるんだから、そりゃ直政も死ぬわな…

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 13:36:01.77 ID:8Mf1pdbu
WIKIだと

>>この事件はその後に福島正則が改易される遠因となったともいわれる。

そりゃそうだ

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 19:44:49.92 ID:ibMCuezW
稲?伊奈?

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 23:25:36.92 ID:kT2im1w3
しかしさあ、加藤清正も福島正則も加藤嘉明も、
丹羽長秀の最期を知っているはずなのに、
どうしてそこから学ばずに天下取りの野望を持つ者に擦り寄って一時の大領を得る事を選ぶかねえ。

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/13(金) 23:30:59.34 ID:7tRh0pW4
当人に責任があるのは正則だけのような
それに自分が上に立てないなら次の覇者に接近するしかないでしょ

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/14(土) 00:43:50.77 ID:B9HMV06b
戦って散れということか

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/14(土) 18:04:06.30 ID:6Qt5nNWK
>>662
中途半端にすり寄るからじゃないのかな、藤堂高虎ぐらい尻尾を振れば生き残れるのに

たとへ串に指候共男之ひけにハ罷成間敷候

2019年12月11日 16:39

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/11(水) 09:27:08.05 ID:u570j9EU
慶長三年八月十八日、太閤様(豊臣秀吉)は他界された。その前に示された御遺言では、
徳川家康毛利輝元が一年交代で大阪に詰めて仕置をするように御頼みなされ、その他の諸大名も、
一年交代で大阪に詰めるようにとされ、秀頼に無沙汰ないよう、それぞれに起請文を書かせた。
これにより諸大名は残らず
起請文をしたが、この時家康公は、

「上杉景勝は来年大阪に詰める予定であったのが、越後から奥州への国替えが有ったため三年間の
在京が御免されている。しかしそのため諸大名の中で景勝一人誓紙を出していない。景勝も上洛して
誓紙を出すべきである。」
そう景勝に対し伝えたが、景勝からは
『三年間在京御免となっており、上洛はしない。』
との返事であった

家康公は再三景勝に対し仰せ遣わしたが、とにかく心得る事無く、荒々しい返事を送り返した。
このため家康公はご立腹され、「では私が迎えに参ろう」(我等迎に可参)と、江戸へ御下りになり、
諸大名も「景勝謀反」と、追々関東へ下った。家康公の御先手をする者達は何れも宇都宮まで
出陣していた所、上方では石田治部少輔が謀反を企てていた。

石田が『家康公は私の仕置を成し不届きであり、毛利殿が御上がりになって大坂の御番を成されるように』
と安国寺恵瓊より伝えさせ、毛利輝元は早速大阪に上った。

この事が宇都宮に聞こえると、家康公は諸大名に
「そなたたちは景勝を退治した上で上方に打ち向かおうと申されているが、各々の妻子は大阪に在る。
であれば構わないので、ここから早々に上方に上がり候へ」

そう仰せに成られた時、福島左衛門太夫(正則)が申し上げた
「私に治部少輔と一味する筋目はありません。また大坂の妻子は治部少輔に渡した人質ではありません。
たとえ串刺しにされようとも、武士の躊躇う理由にはならず、捨て置きます。」
(私義治部少輔と一味仕候筋目無御座候。大坂へ妻子治部少輔に渡し人しちにへハ無御座候。
たとへ串に指候共男之ひけにハ罷成間敷候間、捨候)

そう言うと、跡継ぎである刑部(福島正之)をその場に召し、
「これを家康公への人質に進ぜます。これより私は、上方への先手を仕ります。上方に於いての
軍勢の兵糧については、私が故太閤様より十万石を代官所に預かっており、また七年分の米が
尾張に納め置いてありますので、都合三十万石ほど御用に立てることが出来ます。
景勝については先ずは捨て置かれ、上方に御出馬成されるべきと考えます。」

そのように申し上げたのである。このように左衛門太夫様が様々に申したため、細川越中守(忠興)殿、
池田三左衛門(輝政)殿、浅野紀伊守(幸長)殿、田中筑後守(吉政)殿、堀尾信濃守(忠氏)殿、
その他諸大名が家康公にお味方仕ると申し上げた。

(福島太夫殿御事)

いわゆる小山会議のお話ですね



最上義光と向去(ムカサリ)道

2019年12月11日 16:39

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/11(水) 11:01:10.95 ID:+Xsq24cf
最上義光と向去(ムカサリ)道

戦国時代のある日、山形の最上家と谷地の白鳥家の間で縁談の話が持ち上がりました。
最上義光は家臣の蔵増親景に命じて長男の最上義康と白鳥長久の娘の日吉姫(伏姫とも)の婚儀のために、姫を谷地から山形へと迎える新道を(山形から漆山、高擶、蔵増、谷地を通る最短距離の新街道)を切り開きました。

日吉姫はこの道を通って山形に嫁ぎ、沿道の領民たちは、この道を「向去(ムカサリ)道」と呼びました。
それから間もなく血染めの桜で知られる白鳥長久謀殺事件が起き、婚姻が事実上のおしゃかとなると、最上の軍勢がこの新道を谷地まで攻め入り、姫の里の谷地は落城。
「ムカサリ道」は「いくさ道」でもあったのです。

天童にあるこの道も、今ではわずかに名残を留めるだけとなりました。
また、長崎と山辺間の「立道」(たちみち)にも中山氏と山野辺氏の縁組の不幸な逸話があり、以後嫁入りの際は「ムカサリ」はこの道を避けて通らなくなったと言います。
他にもムカサリと冠される橋があり、白鷹町荒砥の「ムカサリ橋」も何故か理由はわかりませんが、昔から「ムカサリ」は渡れない橋だと言われています。伝承は理屈ではないということでしょう。

山形の昔話
天童の昔話
てんどうのむかしばなし第二集
白鳥十郎公ものがたり/槙清哉/著
山辺夜話/武田泰三/著
あらと百物語/荒人・乱舞実行委員会/編



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2019年12月11日 15:41

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北条氏政、氏照の切腹 13

小田原開城 12

小田原開城後の北条氏直の事 8
惣じて殿下の大胆闊達な事は 7

人の命を助ける事は無類の儀である 6
こうお尋ねに成った所、隆景公は 5


今週の1位はこちら!北条氏政、氏照の切腹です!
小田原の役の講和条件として、北条家は伊豆相模、あるいは相模と武蔵を安堵されるという話はどうも広く知られていたらしく、
関八州古戦録以外の多くの北条氏を描いた軍記にも記されていますね。その講和条件を覆され、氏政、氏照の切腹と所領没収が
行われたと、少なくともそういう意識は広く存在したのでしょう。この逸話の中では、中村一氏を始めとした秀吉からの使者にも
そういう後ろめたさが有るのか、氏政たちの前でしどろもどろになり、氏照が助け船を出す有様と成っています。
このあたりの描写からも、関東の人々の秀吉政権に対する感情を見て取ることも出来るでしょう。
そしてここでは、徳川家康がいろいろな意味で「救い」を成す存在と成っています。これは勿論、関八州古戦録が江戸期に成立した
軍記であり、「神君」を貶める表現は決して出来なかった事にもよるのでしょうが、史実としてこの後関東が家康の手によって
安定を取り戻し、のみならず天下の首府を擁する地となった事を考えると、この時の多くの敗亡者の中に、「この後家康によって
救われた」という思いを持つ人も少なくはなかったのではないでしょうか。
そんな事も感じた逸話でした。

2位はこちら!小田原開城です!
こちらは小田原開城についてですね。
ここで目を引くのは、家康の非常に慎重な行動でしょう。自分が前面に出た時の反応を考え、あくまで秀吉側と小田原城側の
直接の交渉によって和平が成されるようにしています。家康が北条氏直の舅でありもともと同盟相手だったという、非常に
親しい関係である故に、対話のチャンネルを多く持っているのと同時に、その行動は秀吉側、あるいは北条氏の側からも
何らかの色眼鏡で見られやすい。そういう意識が有ったのでしょうね。このあたりの描写からは、そんな家康の賢明さを
感じさせると言えるでしょう。
また北条氏直が、城兵たちの命のために開城を決断する所は、将としての責任を良く表現されていると思います。
このあたり、もしかすると大坂の陣での秀頼と対比させた描写なのではないだろうか、何てことも少し思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!人の命を助ける事は無類の儀であるです!
こちらは御座船が岩礁に挫傷した秀吉を、毛利秀元がいち早く助けたという内容ですね。これが描かれた老翁物語は、
毛利輝元の右筆であった小田木工丞が1624年に著した覚書とされていますので、実際に毛利家に於いてこのような形で
伝わっていたのでしょう。
ここでは羽柴秀俊 (小早川秀秋)が毛利家に養子に入るという話が出ているということについて言及されているのが
面白いですね。史実として秀吉は、毛利輝元の後継が毛利秀元であることを認めており、少なくとも羽柴秀俊が輝元の
跡継ぎとして毛利家に入るという動きは無かった、と現在では考えられています。
ではあっても、どうも噂としてそういう話があり、当時輝元の後継者であった秀元としては看過できないものであったのでしょう。
だからこそここでそういう話を強く否定する話が記録されたと見るべきなのでしょうね。
それにしても、この秀吉の「人の命を助けることは無類の儀」という言葉、ここ出てくる木下吉隆のその後の運命を考えた
だけでも、複雑な気持ちに成ってしまいますね。
いろいろと考察の出来る、良い内容だと思いました。


今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
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(/・ω・)/

人の命を助ける事は無類の儀である

2019年12月10日 11:59

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/09(月) 14:00:37.81 ID:Z8vJYSBu
文禄の役の折

その頃毛利秀元公は広島に在り、輝元公は高麗に居られたが、秀元公に輝元公より木下半介(吉隆)殿の
ご依頼ということで、彼に同行し名護屋へと向かった。赤間関に到着したその日、豊臣秀吉公が小倉に
到着されていた。これは秀吉公の母である大政所様がお患いであるとの事で、俄に上洛をなされその日
ここに至ったのである。この事を知り、翌日にはまた京へ向かわれるとの事で、秀元公は
「赤間関より早舟を立てて、明日小倉に参るべきではないでしょうか。」と半介殿に内々に伺った所、
「明日早々に小倉に到着するようにしましょう。」とのご返事であり、夜中に赤間関を出船して
翌日早朝に小倉に参上した。

到着すると半介殿は秀元公に「早々にこちらに参った事で秀吉公の出発前に間に合ったのは一段と良かった。
現在は朝食の途中とのことですが、先に御報告しておきましょう。」と秀吉公にお知らせした所、
二人が早々に参上したことを執着に思召になり、食事の途中では有ったが「対面する」と仰せになり、
秀元公は半介殿と同道して御前に出、盃を遣わされた。そしてすぐに広島に向かうとの事で、即座に
出船して秀吉公の上洛の供をした。

秀吉公の御座船には多くの櫓がついており、早くも広島まで半分ほど進んだが、この時船が止まり、
御座船より扇子にて後の船を呼ぶ様子が見えた。秀元の船に同乗していた福原大炊がこれに気が付き、
「何か有ったのか」と各々不審に思い、船頭に「あの辺りに岩礁などは無いか?」と尋ねた所、
「岩礁があります。きっとそれに掛かったのではないでしょうか。」と申したため、秀元公は
「そういう事であればこの船にて急ぎ御座船を岩礁から押し出そう。」と、水夫一人と小姓衆
一人だけを付けて御座船を押しに向かった。この時お供の船は数多あったが、真っ先に御座船を
押しに行ったのは秀元公の船であった。

この時、秀吉公は裸で、船より木下半介殿が抱きおろし、船が座礁した岩礁の上に先に降りていた
三十歳ばかり二人がこれを請けた。この時、船がこの岩に漕ぎ着き「これは大夫船です。お召しに
なられますか」と申し上げると、秀吉公はそれに乗船され、船の屋内にお入りになると、十八、九歳
ばかりの小姓に練の羽織を後ろより持ってこさせそれを召された。

この時、秀吉公に「船を赤間関に返しましょうか、それともここから直に上洛に向かいましょうか。」と
申し上げた所、「先ずこの磯に着けろ。」との御意にて、船を海岸に寄せそのまま上陸された。
御供の船も尽く磯に付け皆上陸し、秀吉公の居られる場所に集まった。そのような中、秀吉公は
このように仰せになった

「今日の右京太夫秀元の忠義は実に浅からぬものだ。戦場において苦戦している時に横槍を入れて
勝利を得させる、という事は間々有るが、今日のように人の命を助ける事は無類の儀である。
私は常日頃から、あの子は一廉の者であり、輝元の養子として相応しいと思っていた。
今回広島においてまたそう思ったが、これとても自身の忠義とは思わぬよう分別している。
これは、輝元が大名として日本一恵まれた人物であり、常々無為でいても、それが自然に顯れて
最初に船を漕ぎ着けるような行動ができるのだろう。

私も親への孝行の道のため上洛を急いでいた。故に天道私無く、難を逃れさせたのであろう。
右京太夫も輝元への孝行が肝要であるぞ」と仰せになった。

この時、金吾(小早川秀秋)を輝元の養子にという取沙汰があると聞かれたが
「これは如何様にも有るべき事ではない。この太閤もたいへんな辛労によって得た天下を
他人に渡したくは無い。遠い親類では有るが、三好治兵衛(豊臣秀次)遣わし、関白の位に成し、
四万の人数を添て聚楽に置かせている。これに比べても輝元は親類歴々であり、何れであっても
小早川隆景と相談した上で後継を定めるのが尤もであろう。であるのに、金吾を養子になどと
いうのは一体誰が言い出したのか。曲事でありかたく糾明する。」と仰せに成られた。

御当家(毛利家)を御大切に思召し、御入魂一廉ならぬ思いは大方ならないものであった。

(老翁物語)

秀吉の御座船座礁事件の時のお話。なにげに小早川秀秋を養子にするという話が言及されてる。



こうお尋ねに成った所、隆景公は

2019年12月08日 17:51

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/08(日) 13:07:40.75 ID:8cGZA4ia
小田原北条氏に上洛するよう、天正十七年に豊臣秀吉公が命ぜられた所、これを難渋したため、
秀吉公は出馬され小田原を攻め懸けられた。しかし城の守りは堅固であった。

その頃小早川隆景公は小田原に御在陣なされており、秀吉公より御相談を受けた
「私はこの小田原城を攻め崩したいと思っている。ところでそなたの父である元就は、こういった
城の攻略をどのように成されていたのか。」

こうお尋ねに成った所、隆景公は
「御意の趣、ご尤もな事です。このままでこの城を切り崩されること、少しも手間は要らないでしょう。
しかしながら、今後五日から十日の間城を厳しく攻め立て、その上で城内に調略を懸ければ、内部より
その調略に釣れる者が出てきて、この城攻めも落着するのではないかと思います。」

秀吉公はこの通りに指図した所、五、六日の内に北条一家は相果て、小田原攻めは落着した。

(老翁物語)

毛利家にも、小田原城攻めで小早川隆景が秀吉にアドバイスしたという話が伝わっていたのですね。



406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/08(日) 15:55:21.66 ID:SXQBO423
>>405
毛利家じゃないほうが扱い良いのが不思議だ>>342

惣じて殿下の大胆闊達な事は

2019年12月07日 16:55

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/07(土) 10:00:50.62 ID:RNLP5dbp
天正十八年七月十三日、小田原開城の後、豊臣秀吉公は小田原城に入られ、最前に笠懸山で約束した
通りに、徳川家康公に伊豆相模武蔵上総下総上野下野安房の八ヶ国を参らせ、また家康公の上京の
折々における旅中の用途の為として近江国伊香、野洲の両郡、また海道筋にて一万石を与えた。
そして旧領である東海の五ヶ国は殿下が受納され、諸将に今回の勲功の賞として分け与えた。

そのような処置の後、陸奥出羽の両国も平均なさしむべしとて、同十四日に秀吉公は小田原を発した。
前田利家父子、宇喜多秀家、蒲生氏郷が秀吉公より先陣の命を蒙り、その他の諸大将も先隊後躯の
列を守り、順々に打ち発った。数ヶ国の大軍が昼夜を分かたず野も岡も平押しに押し行き、
五里七里の間には、神社仏閣市店農家に軍勢の宿と成らない所は無かった。

そういった中、長岡幽斎法印玄旨は病気によって休暇を賜り、同十五日足柄竹ノ下より甲斐国に入り、
信濃路を経て京へ戻った。

秀吉公の方は、「このついでに鎌倉を一見したい。」と、相州藤澤駅より駕を枉げられ鶴ヶ岡の
八幡宮に参詣された。参詣が終わって右大将家(源頼朝)の廟所を尋ねられ、白旗の社(白旗神社)で
あることを申し上げると、そちらに詣でられ戸帳を開かれると、頼朝卿の影像をつくづくと眺められ

「おおよよ微賤より起こって天下一統に切り従え、四海を掌に握った者はあなたとこの秀吉のみである。
しかしながらあなたは多田満仲の後胤であり、王氏より出てからもそう隔たっていない。その上、
先祖に伊予守頼義、陸奥守義家が相続いて関東の守護をなし、故に国侍に馴染みも多く、被官の筋目が
有るのを以て流人の身であるといっても、義兵を挙げるや否や旧好を追って東国武士が属従し、
速成の大功を建てられた。

一方で私は氏も系図もない匹夫より出て、茂みの中から世上を靡かせたのだから、あなたよりこの秀吉の
創業の方が大なること明白である。しかし何れにしてもあなたと私は天下友達と言うべきであろう。」

そう言って影像の肩先をほとほとと叩き、からからと笑って立ち下がられた。扈従の者達も興に入り
「誠に活気の大将である。」と言わぬものは居なかった。

惣じて殿下の大胆闊達な事はこの話だけではない。宇都宮に出馬された砌に、御伽衆が侍座して
夜話をしていた折に、佐野天徳寺上杉謙信の、信州川中島の戦い、常州山王堂の戦いなどを語り、
「彼が勝れて剛絶なる大将であった証拠は、輝虎が関東へ越山するとの話が聞こえれば、諸家の
輩は一人ひとり身構えて手袋を引き弓矢を伏せた。そして謙信が帰陣して三国峠を越えたと聞くと、
大夕立と雷鳴が過ぎ去った跡のように、ようやく息をついて安心して座したものであった。」
と話した所、殿下はこれを聞かれると

「天徳寺よ、その信玄謙信の両入道も早くに死んで幸せであったな。今まで生きていたなら
私の今度の帰洛の時に、乗輿の先に立たせ、朱柄の傘、大長刀を担がせ力者として供をさせた
だろうに、早世して外聞も能く名を残せた。何が座備、車懸りか、戯言である。」

そう宣われた。これには天徳寺も言葉を失い苦笑するより無かった。

(関八州古戦録)



401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/07(土) 10:10:30.46 ID:JKruuVtX
関連
5875
『秀吉の大器』


9758
車懸りや座備が何だというのか


402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/07(土) 10:20:18.14 ID:JKruuVtX
これも関連に追加
846
豊臣秀吉、成り上がり者の心意気・いい話

3207
豊臣秀吉、天下人の自信

小田原開城後の北条氏直の事

2019年12月06日 16:15

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/06(金) 09:25:49.12 ID:brHVrkeT
天正十八年七月十二日、豊臣秀吉公の命により、北条氏直は紀州高野山へ蟄居することと成った。
彼の北の方(督姫)は徳川家康公の姫君にて、過ぎし天正十一年七月、小田原にお輿入れ成されたが、
いまや別離の御暇乞いにおよび、紅涙に沈まれていた。その心痛わしい中、氏直は肌につけていた
お守りを取り出し北の方に見せた

「これは高祖(伊勢宗瑞)よりの守護であるとして、当家相伝の重宝である。初代早雲庵が
伊豆国より起こって、明応四年九月十三日、湯坂の城に大森不二庵(藤頼ヵ)を追い落とされた時、
夕方に出陣の身固めをされ食事を取り、勝栗を半分食し、半分を鎧の引合に押し入れて出御されたが、
その夜、難なく本望を遂げられた事により、吉例の物であるとして、この勝栗の方辺を綿襴の袋に入れ、
以後氏綱、氏康、氏政、そして私まで、五代の間持ち伝え秘蔵してきた。

私は今、浪客となった。よってこれはあなたに渡して置く。もしまた、この後一門の中から
世に出て家を継ぐ者が有ったなら、その者に渡してほしい。」

そう言ってこれを渡した。北の方は涙に咽びながらこれを受け取り、以降肌身より離さず所持して
いたが、氏直死去の後、彼女が家康公の仰せによって池田三郎左衛門輝政と再婚する事に成った時、
彼女より北条美濃守氏親へ譲られたという。

またこの時、北条左衛門太夫氏勝も高野山に氏直の供をすると、その準備を調えていたのだが、
家康公より殿下に申し入れがあった
「氏勝は最前に麾下に入り、関東諸城への案内をなし、軍功を励みました。これを無下に高野山へ
遣わされるのは理屈が通りません。そのような事をすれば、今後一体何者が我々に帰降して返忠を
成すでしょうか。枉げて本領を宛行われるべきでしょう。」
秀吉公はこれを聞かれると
「忙しさのあまり気が付かなかった。私の誤りである。」
として、氏勝を留め置き相州玉縄の旧領を与えた。

斯くして同月二十日、氏直は小田原を発った。随行する人々は、太田十郎氏房、北条安房守氏邦、
美濃守氏規、左衛門佐氏忠、右衛門佐氏堯、松田左馬助、内藤左近太夫、福島伊賀入道、堀和佐兵衛尉、
依田大膳亮、山上郷右衛門、諏訪部宗右衛門、大道寺孫九郎、菊地七兵衛、以下三十人、
そして雑兵は三百人であった。家康公よりお見送りとして、榊原康政が差し添えられた。
秀吉公は温情を施され、旅中の差し障りが無いようにと、警護の士、駅路の伝馬、道中の賄いを
充分に宛行われ、高野山に至ると二万人(二百人ヵ)の扶持料を賜り、その他雑用、調度についても
要望どおりに準備させた。そして高野山の山上は寒冷が殊に甚だしいと殿下は聞き及ばれ、
これを労り、翌年十一月十日にこの面々を天野の地に移し、衣服、酒茶の類までも豊かに贈られた。

天正十九年の春、氏直は泉南の興応寺に来て半年ばかり滞在し、その間に秀吉公は
彼を大阪城に招き対面して、北畠(織田)信雄の旧宅に入れ白米三千俵を与え、その後来春には
西国中国の内に一国を宛行う事を約束したのだが、氏直は俄に痘瘡を病んで回復すること無く、
十一月四日、三十歳にて逝去された。あれほどの豪家であり、また家康公の聟君であり、
殿下にも慈悲を加えられていたというのに、誠に是非無き次第である。
舎弟の太田十郎氏房も翌年四月二十日、肥前国唐津の陣中に於いてこれもまた痘瘡を患い、
不孝短命にして二十八歳にて卒去した。ここにおいて、北条家の正統は断絶したのである。

(関八州古戦録)

小田原開城後の北条氏直について



644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/06(金) 10:08:01.62 ID:yzluYGCw
氏康「もっと子作りしとけや」

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/06(金) 10:39:05.02 ID:LVehz+Z0
>>643
都合良くどんどん死んだな
玉縄って北条綱成の築いた巨城でしょう?そんなとこの旧領を北条氏勝に与えて良かったのかしら?

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/07(土) 04:32:43.45 ID:mZxo5fAk
後詰めもないのに勝てるわきゃねえじゃんヴァーカ

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/07(土) 10:55:03.01 ID:AzvJW3Lj
なお、この24年後

北条氏政、氏照の切腹

2019年12月05日 18:31

638 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 18:09:28.65 ID:0N8R+1fU
小田原征伐は和睦と成り、小田原籠城の者達は、七月七日より九日にかけて、夜昼ともなく
引きも切らず東西南北に別れ去り、あたかも蜘蛛の子を散らす如きであった。

この時、豊臣秀吉公より北条氏政父子に使者を以て
『和平の証であれば、一旦下城あるべし。』と伝えてきた。

これを見た氏政父子は憤った
「殿下の言葉とも思えぬ!伊豆相模の両国相違無きと言われた以上、この城にそのまま在るべしという
和睦であったはずなのに、約を変じること心得かねる!」

そのように返答した所、秀吉公より
『そういう事であれば和談を破るという事であるから、元のように籠城せよ。いつでも戦って
攻め落とすであろう。』との返事があった。

これに氏政父子は進退窮まり、どうしたものかと考えたが、士卒たちは尽く退散した後であり、
今更籠城するような力も尽き果て、言語道断なる有様であった。
ここで徳川家康公より榊原康政を以て御異見が加えられ、同九日、北条氏政父子三人、および
氏照、氏邦ら伴って、城下の田村安栖(田村安清:北条家侍医)の居宅に移り、城は井伊兵部少輔(直政)、
榊原式部大輔(康政)がこれを請け取り、番兵を以て七口を警護した。そして殿下の命に任せられ、
翌十日には家康公が御入城された。

秀吉公は家康公にご相談された
「我々が遥々とここまで下向したのは偏に北条一族を根切りにするためである。であるのに
今尽く宥恕せばこれまでの発言への信用も無くなってしまう。である以上、氏政氏照は誅殺し、
氏直はそなたの聟であるのだから、今回のそなたの勲功に鑑みて死刑は宥し置く。氏房、氏邦、氏規も
またこれに準ずるべし。」

家康公はこれに御同心され、同十一日未の刻(午後二時頃)、検使として中村式部少輔一氏、
石川備前守貞清、蒔田権佐正時、佐々淡路守行政、堀田若狭守に、井伊直政、榊原康政を加えて、
千五百余騎にて田村安栖の屋敷を固めた。この時までに氏政父子に従う士卒は八、九百もあったのだが、
この軍勢を見ると等しく、我先にと続々と落ち去って残兵も僅かであった。

639 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 18:09:45.97 ID:0N8R+1fU
検使の面々は席に付くと、中村、石川が進み出て殿下の命を伝えようとしたが、余りに痛ましい事だと
思い、黙して言葉を発することが出来なかった。これを北条陸奥守氏照が察し、言葉をかけた

「各々のここまでの御来臨、定めて当家の一類に対する生害の催促なのでしょう。であれば
暫く沐浴の暇を頂き、その間待っていてほしい。」

中村、石川はこの言葉を得てようやく秀吉公の命を伝え、「心閑に用意有るべき。」と答えた。
その後、氏政、氏照は座に坐り、筆を取って傍の帖紙に辞世の和歌を書いた。

左京大夫氏政
 『雨雲の 覆へる月も胸の霧も はらひにけりな秋の夕風』
 『我身今 消とやいかに思ふへき 空より来り空に帰れは』

陸奥守氏照
 『吹と吹 風ないとひそ花の春 紅葉の残るあらはこそ』

氏照は属鏤匕首を取って腹を十文字に掻っ切った所を、家人が後ろに廻って首を前に落とした。
そして氏政、この時五十三歳も続けて切腹した。この時介錯する者が居なかったが、美濃守氏規が
近づいて介錯した。そして自身も腹を切ろうと太刀を取って肌を押し脱いだ所で、検使の面々が
急ぎ彼を掻き抱き「殿下の命は両将のみである!卒爾の義あらば我々の後日の落ち度とも
なりましょう!」と押し留めた。

この時、陸奥守氏照の侍童に山角平太郎という者があり、ここまで扈従していたのだが、検使の面々が
美濃守を押し留めている隙に氏照の首を抱き取って走り出したが、暫くこれを追いかけて奪い返した。
そして氏政の首と同様に、殿下の実検に備えられると、
「王命を恐れぬ不逞の臣である。朝敵にも等しい。」
として、石田治部少輔三成に下知して京に送り、一条戻橋にて梟首された。

衰勢興亡は世の常の習いであるが、早雲庵宗瑞より既に五代の運を得て、九十余年の暦を伝え、
類葉枝を連ね栄華は関八州に冠たる豪家が一時に滅亡したこと、時節の到来とは言いながら
なんと儚いことであろうか。

また、かの山角平太郎は氏照生害の後にあのような仕儀に及んだことで、井伊直政が召し連れて
陣屋に帰り徳川家康公にお聞かせした所、家康公は
「若年の身でありながら主人の首を奪い取ったその志、殊勝の振る舞いであり、奇特の者である。」
と称賛され、御家人に加えられ、後に武州多摩の関戸の郷に所領を与えられた。

(関八州古戦録)

北条氏政、氏照の切腹について。



640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 20:01:24.24 ID:GxYuEQnq
>>638
>これを見た氏政父子は憤った
この期に及んで何を言うとんねん(´・ω・`)

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 21:24:34.25 ID:1Oc8oAjB
嫌じゃ嫌じゃ死にとうない死にとうない

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 22:44:29.39 ID:qdHMo2wl
確かに山角はこんな修羅場ですげえ度胸だわ
多摩の関戸って小田原衆筆頭の松田家が代官するいい所貰ってんだな

小田原開城

2019年12月04日 17:36

392 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/04(水) 10:54:58.62 ID:olzd/p+3
天正十八年七月三日、小早川隆景は小田原城攻めの本陣である笠懸山を訪れ秀吉公に対し申し上げた
「北条家の分国の城々は尽く麾下に服し、残るは小田原の一城のみという状況に至りました。
であれば、東国の案内者とされている徳川家康公と内談されて、方針を策定されるべきです。」

これに殿下も尤もだと思い、家康公と密談された所、家康公は
「調略のことはたいへん容易いでしょうが、私は北条氏直と縁類でありますから、私が動けば
その事を突いてこの動きが妨害されることも有るでしょう。先ずは上方衆の中からこの計を
入れられ、その上でこの家康も取り計らうべきだと考えます。」

この言葉に秀吉公も再び尤もだと思われ、黒田勘解由孝高は当時四十四歳であり、家督を嫡子の
長政に譲り隠居の身ではあったが、殿下は彼の知勇才覚が世に優れているのを惜しみ、常に召し出して
相談をしていた。よって今度の小田原の役にも伴い武略の助けとしていたが、故にこの事についても
彼を呼んで相談した。

孝高は話を聞くと、家人井上周防守之房の弟である平兵衛を密かに、北条氏直の異母弟である
大田十郎氏房の陣に遣わし、和睦の事を申し入れた。氏房はすぐに同意したが、氏政父子は
これを承諾せず、そこで秀吉公はまた宇喜多宰相秀家に命じて、家老である花房助兵衛職秀に言い含め、
重ねて太田氏房の持ち口に矢文を射込み
『氏政父子が和睦を受け入れるならば、伊豆相模の両国を所領し、氏房には上野一国を与えるであろう。』
との旨を殿下の内意として伝えた。しかし氏政父子はこれを聞くと

「当家は関八州を管領する事年久しいというのに、今僅かに二州を与えられるとは、外聞といい実義と
いい面目なき次第であり、このまま生害に及んだほうがましだ。」

そのように拒絶したが、太田氏房、北条氏照らが
「そこを押して和平を請われるべきです。籠城の面々の一命も助けねばなりません。」
そう一同に諌めた所、氏政父子も
「そういう事であれば各々の分別して良きようにせよ。」
と申したため、漸く和睦に同意したとの、太田氏房の返書が届き、宇喜多秀家、黒田孝高を通じて
秀吉公へこれを取り次いだ。そして北条方に対し「家康公と内談するように」との書状が返された。

同月五日の晩方、北条氏直は松田尾張守憲秀を召し出し、今回の逆心、不忠の義を述べて自身が太刀を
抜いて誅殺した。

翌六日早天、氏直は馬廻りの組頭・山上郷右衛門、諏訪部宗右衛門を伴って、騎馬にて家康公の
陣営を訪れ和議のことを申し入れた。家康公は対面すると
「あなたは類縁ですから、私から口入れするのは難しい。羽柴下総守(滝川)雄利の陣へ行き、
思う所を述べられるのが良いでしょう。」と仰せになり、井伊兵部少輔直政を付けて彼の陣所に
遣わした。氏直は雄利に委細の旨を告げて直ぐに城中に帰った。この時家康公よりの提案で、
殿下の家臣と北条家の家臣が直に談判すべきであるとして、殿下よりの使いである、羽柴下総守、
黒田勘解由に榊原式部大輔康政をを加えて小田原城内に入り、氏政父子、および家中の者達より
神文を請け取り和睦の首尾が成り、翌七日、奉行として脇坂中務少輔安治、片桐市正且元、
毛利兵橘(重政)に家康公より榊原康政を添えられ検使に出され、小田原城の七口を開いて、
立て籠もる諸士、雑卒、男女を思い思いの場所へと退散させた。秀吉公はこの奉行たちに、
必ず籠城の衆への狼藉が無いように、能く下知するよう命じた。

393 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/04(水) 10:55:49.76 ID:olzd/p+3
その前夜、北条氏直は小田原城の本丸に一族、重臣、侍大将以下を集め言った
「今回、各々が長きにわたる籠城を果たしたこと、忠義の至りであり、未来永劫忘れることは無い。
我ら父子も、従来より城を枕とする覚悟であったが、今となっては大勢の士卒の命を失うこと
見るに忍びず、ここにおいて敵よりの扱いに応じ、名を捨て恥を省みず軍門に降る。
である以上、そなたたちはそれぞれの意思に従い、明日よりこの城を離れ身命を全うしてもらいたい。
もし、この氏直が生き延び、時勢を得て再び家運を起こす時が有れば、旧好を忘れず、お前たちを
必ず呼び集めるだろう。」

そう、丁寧に申し渡すと、人々はみな鎧の袖を濡らし答える詞もなかった。

しかしながら城中の者達は今や溜池の中の鯉、轍の中の魚であり、城中の者達は大水が出た時のように、
主人親類も打ち捨て我先にと落ちていく姿は、目も当てられぬ有様であった。

和平が整うと、北条氏直より黒田孝高へ礼として、日光一文字の太刀、北条家の白貝と名付けられた
陣法螺、並びに頼朝公以来、鎌倉将軍家の治世の間の日記を送られた。孝高はこれを受納し、後年、
太刀と法螺貝は黒田家に留め、日記は家康公に進上した。この書は今まで北条家にのみ秘伝して
他家に披露された事は無く、家康公はご覧になって「天下の権を執り海内の成敗を成すにおいては、
これによらねば徴すること出来ない。末代までの龜鑑である」と大変に喜ばれ、官庫に収納された。
現在、『東鑑(吾妻鑑)』と号され、重要な書籍と評価される実録が、この書である。

(関八州古戦録)

小田原開城について



394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/04(水) 14:09:56.67 ID:JgyQsT3e
>>392
>北条氏直は松田尾張守憲秀を召し出し、今回の逆心、不忠の義を述べて自身が太刀を
>抜いて誅殺した。
もう和議になるって時にこれは…いや和議になるからこそか

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/04(水) 14:49:50.46 ID:EJmlAyg0
>>394
交渉相手の堀さんが急に死んじゃったんだよね
運がない人だな

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/04(水) 19:15:48.23 ID:U6oPXqDy
結局松田憲秀は
北条が誅殺したのか
官兵衛が不忠として殺したのか
秀吉が殺したのか

週刊ブログ拍手ランキング【11/28~12/04】

2019年12月04日 14:05

11/28~12/04のブログ拍手ランキングです!


忍城の戦い 13

福島堤 11

彼らを謀ったのである 8
官兵衛さんもやっていた旗指し物案件 6
小早川隆景の事 6

大義、親を滅ぼす 5
館林城と決定命婦荒御前 5
忍城開城顛末 4


今週の1位はこちら!忍城の戦いです!
関八州古戦録に見られる忍城の戦いと、石田三成による堤防づくりの様子。おそらくはこのお話の中に、地元の伝承などからの
取材も入っているのでしょう。関八州古戦録もあくまで後世の軍記物ですから、これをそのまま事実として受け取ることは
出来ません。しかし忍城の戦いの模様がこのように伝わっていた、という意味では非常に貴重な史料とも言えるでしょう。
ここで三成は非常に合理的な戦略を用いていて、一概に否定されるような描写とも思えません。
理知的でかつ行動の早い武将と捉えられていたことが見えてきます。その上で、城内に籠城していた百姓などが出てきて
堤防工事に加わったことは、明記されていませんが様々に読めますね。これは忍城側の策略だったのか、ただ偶然だったのか。
そしてそういうものを、本筋の目的さえ敢行できれば後は枝葉だと言わんばかりに大胆に許容する三成の姿は、どこか
秀吉的なものを感じさせます。決して一面的ではない、様々に受け取れることのできる内容だな、と思いました。

2位はこちら!福島堤 です!
こちらは福島正則による堤防づくりのお話。福島正則が加藤清正に比べて今ひとつ地元人気の低いのは、堤防などの
事業が余り目立たないため、という所が有るかも知れません。この内容を見ると、一般的なイメージと違い、政治的、対外的な
面を非常に気にする人物像が見えてきてきますね。実際正則という人は豪傑というよりむしろ、細やかなまでの政治的行動が
信条の人物だった感があり、実際にこの逸話の人物のようではなかっただろうかという気がします。だとすると、中途で
改易を受けただけでなく、そういう決して痛快ではない政治的な人物像の記憶が、地元に現在にも、もしかすると伝わって
いるのかも知れません。そんな事をふと思った内容でした。

今週管理人が気になった逸話はこちら!官兵衛にさんもやっていた旗指し物案件です! 
『旗指し物案件』というとこれらの逸話ですね
これを見た城攻め諸将は、驚愕した
関ヶ原、大津城攻防戦、忍者が旗を盗んだら
島津豊久と立花宗茂、これらは奪われた旗指物をさらされて逆に攻め手の指揮が上がったというお話ですが、
官兵衛さんは自分で投げてますねwこれも戦略的なものなのでしょうか。
そして豊久も宗茂も九州の武将であり、このお話もまた偶然にも九州役のお話です。九州にはなにか、このようなお話の
テンプレがあったのでしょうか?逸話にもいろいろな種類がありますが、この内容は「土地柄」をどこか感じてしまいますねw
なんだか戦国期九州での旗指物に関する意識を調べてみたく成る、そんなお話だと思いました。



今週もたくさんの拍手を各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやって下さいね!
(/・ω・)/

忍城開城顛末

2019年12月03日 17:57

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/03(火) 06:19:31.82 ID:RCYAL5ym
小田原の役の折

この頃豊臣秀吉公の右筆に、山中山城守長俊という人物が居た。彼は元々、近江源氏
佐々木承禎(六角義賢)に仕えていたが、牢人と成った後久しく殿下に仕え。その文筆によって
優遇を受けた。また彼は連歌を好くし、彼の時々の秀歌は人口に膾炙していた。

忍城の成田氏長兄弟もまた以前より連歌を嗜み、臨江斎(里村)紹巴の元に時々、百韻の批評を
求めてはるばる京まで送るなどしていたため、山中山城守とは面識はないが、風雅の友として
長く文通しており、また了意という連歌の道の達人を上方より招いて扶持を与えていたが、
先年故郷に帰った折に、里村紹巴に誘われて殿下に謁見した時、秀吉公は成田の噂を聞かれて
「関東筋に必要なことがあれば、その時は手引を頼むと、内々に伝えるように。」
と伝えた。

このような事があったので、秀吉公は山中山城守を呼び出して言った
「忍城が未だ落ちていない。汝は成田と旧知であるから、彼に書簡を送って我が方に
帰降するよう勧めてみよ。」
と宣われたため、山城守は直ぐに一書を認め六月二十日、夜に紛れて成田氏長の陣所に遣わした所、
氏長より「一段同心」の返事が送られた。これに殿下は大いに喜ばれ、
「これにて事は成った。敵城の没落ほど、敵を討つための策の基はあるだろうか!」
そう言って徳川家康公へ成田よりの返書をご披見に入れられ、これを北条氏直に見せ、

「関八州の諸将はこのように我が方に服従している。籠城に全く利はない。早く講和すべきである。」

そう調義を入れるようにとし、家康公より小田原城中に向けてこの調略を入れると、城内は色めき立ち
雑説紛々たる状況になった。
北条氏直成田氏長に「議したいことが有るので急ぎ片曲輪に出席するように」と使いを三度まで
出したが、すべて病気と称して出ようとしなかった。そこで医師である田村安栖を彼の持ち口に
遣わし、「そなたに二心の風説が有る。その実否を糺したい。」と言い送った。
これを聞いた氏長は

「敵は大軍を以て忍城を侵し攻め、士卒足軽等に至るまで皆殺しになるかと思うと情けなく、
思うに堪えず、山中山城守を通して降伏を乞いました。虚報ではありません。」
と答えた。これに氏直は怒り、成田の陣所の四面に柵を設置させ、山上郷右衛門の組の侍八十余人に
よってこれを警護させた。

その後、秀吉公より石田治部少輔の元に墨付が送られ、成田氏長が帰降する事を城中へも
知らせるようにと有り、石田より諸将に通達し、龍淵寺の僧を使いとしてこれを城中に伝達
すると、城兵たちもどうすることも出来ず、同月二十七日、浅野左京大夫幸長に対し城を
明け渡した。

(関八州古戦録)

忍城開城の顛末。

前編
彼らを謀ったのである


大義、親を滅ぼす

2019年12月02日 18:38

635 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/02(月) 14:12:43.45 ID:HJq7LjB6
小田原北条氏の重臣である松田尾張入道(憲秀)、およびその次男である左馬助(直秀)は、
秀吉の小田原征伐に際し、城の西方、早川口を守っていたが、尾張入道は以前より北条家に対し
二心を抱き、最初豊臣方の堀左衛門督秀政と内通していたが、秀政病死の後は細川越中守忠興、
黒田勘解由孝高に属し、また上方勢に内通を成せば伊豆相模の両国を宛行うべき旨、豊臣秀吉公より
墨付きを送られていた。

天正十八年六月八日の夜に入って、尾張入道は嫡子・笠原新六郎(政晴)、次男・左馬助(直秀)、
三男・源次郎を人気のない場所へ招くと、このように言った
「近年の両府君(北条氏政・氏直)は、以前とは違い、この尾張入道に対して万事粗略にして、
心を隔てられている有様である。私は以前よりこれについて深い憤りを抱いていたが、時を得ずして
今まで何も出来なかったが、今、北条を離れ豊臣家に従属して長く子孫の栄幸を得たいと思う。
この事を理解してほしい。」

これについて、嫡男の笠原新六郎は基より父に逆心を勧めていた立場であったため
「全く然るべきです。」と申したが、次男の左馬助幼年より氏政の寵愛を受け、昼夜膝下より
去ること無く、現在も他に異なるほど昵近であったため、ここにおいて進退窮まり、落涙を押さえながら
申した

「急なことですが、我々は既に君臣五代の間家運を共にし、恩を頂き忠を励んできました。なのに
今この時に至って、本来潔く死して道を守るべき譜代の我々が、相伝の主君を傾けて不義の汚名を
挙げるなど、これ以上に天下から批判される事は無く、死後にも悪名がつきまとうでしょう。
そのような野心を控え、忠死を旨とすべきです。」

尾張入道はこれを聞くと
「私がこのように考えているのは、お前たちを生きながらせたいと不憫に思うからだ。しかし
同心無いというのならば力及ばず、子に対してであっても面目が立たないので、皺腹を切るより
他ない。」と短刀に手をかけた

左馬助は慌てて押し止め、「そこまで思い極められておられる以上は、兎にも角にも父上の命に
お任せします。」と宥めると、尾張入道も悦んだ。

それから五、六日過ぎて、十四日の夜に、聟である内藤左近太夫、並びに舎弟松田肥後守、及び三人の
子供を集めて茶会を催し饗応したが、その際尾張入道は
「当城の傾敗も近いと見える。この上は上方一味の志を顕し、明日夜に入って細川、池田、堀の
軍勢を我が持ち口に引き入れようと思う。この事を寄せ手に言い送るべし。」と私語した

これを聞いた左馬助は、この企てを暫く伸ばそうと考え
「先に密かにこの話を承ったのは八日、、また明日は十五日ですが、それらは共に不成就日であり、
何となく心に引っかかります。いま一両日伸ばしては如何でしょうか。」と申した所、
尾張入道も「そういう事であるなら。」と十七日に定め、「もはや違変は無いぞ。」と言って、
その日の密談は終わった。

そうして左馬助が陣所に帰る時、尾張入道は急に思案し「左馬助は普段より忠義を専らとるる
者であり、もし志を変じては由々しき事態である。」と考え、横目付の士を二名付けて帰らせた。
左馬助は仕方なく、普段本丸に置いている着料の鎧に用が有ると言って近習を遣わして取りに行かせた。
そしてその夜、かの鎧を入れていた具足櫃の中に入るとそのまま密かに運ばせ、子の刻(午前〇時頃)
本丸に入り、氏政・氏直父子に謁見し、「老父の一命を賜るのであれば、一大事をお知らせいたします。」
よ申し上げた。氏政も「これは仔細があるに違いない。」と考えその旨を約束すると、彼は父尾張入道の
陰謀について在るが儘に告白し、自身はまた直ぐに陣所へと帰った。

636 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/02(月) 14:13:21.71 ID:HJq7LjB6
氏政父子は大いに驚き、二ノ丸の片廓は定例の奉行頭人の集会の為の内評定の場所であったので、
翌日「火急の相談が有る。」と尾張入道をこの場所に呼んだ。松田はさにあらぬ体にて、袖なしの
陣羽織を着て「一体何事でしょうか」と出座した所、北条陸奥守氏照、板部岡江雪斎が彼に向かって

「あなたの逆心の企てが明らかであると突然に知らされた。どうして累代重恩の主君に背いて
別心を挟んだのか。本来なら死罪にすべきであるが、宥恕あり押籠めとする。」

と告げた。これに松田は些かも悪びれず
「かつて武田信玄が当表に乱入した時も、私が敵方に一味したという風説が流れたため、人質を
取られたでは有りませんか。しかしこれは敵の間者による計略であり実態は有りませんでした。
今回もまた間者や讒人による悪意ある風説でしょう。」と事も無げに申し上げた。しかし

「いや、そのような言い訳は無駄だ。これはあなたの肉親によって露呈された事であり、
妄言の類ではない。」
この氏照、江雪斎の言葉に入道は屈服し、一間の場所に押込められ、番兵を付けられた。
この時、尾張入道の召し使っていた岡部小次郎という、当時十五歳の少年であったが、内々に
密談のあらましも聞いており、心もとなく思って入道の跡を付けて陣所を出て、軒伝いに片廓の
建物の上に這い登り、その始末を聞き届けた。これによって、彼は後日徳川家康に召し出され
家臣の列に加えられたという。

松田の旗は白地に黒筋であった。十七日の夜、細川忠興、池田輝政、および堀家の人数は手引の
合図を待ち受けていたが、松田の持ち口では彼の旗、馬印が取り払われてみ知らぬ旌旗に立ち代った。
これを見て「さては陰謀露呈して警護の武士が交代したか。」と寄せ手も推察し、この事態について
協議している間に事の次第が噂として世間に流れたため、上方勢も手を空しくして引き上げた。

左丘明の伝に、『大義滅親(大義、親を滅ぼす)』という言葉がある。この時の左馬助の行為は、
忠貞余りあり、不孝もまた甚だしい。何を是として何を非とするべきなのだろうか。
後世の判断を待ち、私はあえてこの是非を論じない。

(関八州古戦録)



官兵衛さんもやっていた旗指し物案件

2019年12月01日 15:40

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/01(日) 11:19:45.27 ID:+TBKw16C
薩摩の島津に対し秀吉公が上洛を命じた所、それを拒否したとのことで島津征伐となり(九州の役)、
毛利家にその御先手を頼まれ、検使として黒田官兵衛が差し下された。
先ず吉川元春小早川隆景が九州に渡海し、翌日毛利輝元公が渡海され小倉城に入られた。

宇留津の城には賀久孫兵衛という者が入っていたが、彼の親類である東堂(引退した禅宗の住職)を
通して、降伏して城を明け渡すよう説得したが、孫兵衛は

「親である宇留津専慶が薩摩方であり、現在香原岡に居るのを捨てることが出来ない。
御公儀に対し奉り御敵仕るのは九牛の一毛(比較に成らないほど小さい)ではありますが、
攻めかかって来ればこれを引き受け、戦った上で切腹仕りましょう。」

そのように降伏を拒絶したため、暮方より城への攻撃が始まった。双方に手負い、死者が多く出た。

この時、城の尾首の高見にあった黒田官兵衛は、攻め口より自分の指物を城の中に投げ入れた。
敵方はこれを取ると、(分捕品という事か)城内にて振り回した。

ところが寄せ手の諸人はこれを見て「はやくも官兵衛は城に乗り込んだか!」と思い、
これに負けじと惣陣より一度に城に乗り込んだ。これは未明より取り掛かり、その日の七つ過ぎ
(午前四時頃)に落城した。城主の孫兵衛を始めとして城方は討ち果たされた。

(老翁物語)

官兵衛さんもやっていた旗指し物案件。



小早川隆景の事

2019年11月30日 17:47

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/30(土) 08:25:29.97 ID:f6sI2SvR
豊臣秀吉公によって天下が制せられた頃、毛利輝元公に小早川隆景公がお供して上洛を成した。
秀吉公と参会したが、大方ならない非常に丁寧な接遇であった。この事は桂美作守が詳しく
書き置き、その書物は今もかの家にあるり、その概略をここに示す。

この時、秀吉公の御意に
「私は主君の敵を討ったことで、その本意が天道に叶ったためであろうか、このように
日本を従え、高位にも上った。しかしながら隆景、安国寺のような優れた家臣を持っていない。
そこは輝元に劣っている。」
と仰られた。

小早川隆景は毛利元就の三男であり、十二、三の頃より元就公を助け、御一生の間、子の刻(夜0時頃)
に寝て寅の刻(午前四時頃)に起きると言われているように、不断に夜半過ぎまで伺候し、曉天に
起きられ火を灯して朝御膳をまいらされ、終日御前に在って、諸方への御用、御調を成されていた。
元就公、隆元公が御他界の後は輝元公を一層御尊敬になり、吉川元春公は、その輝元公を取り立てる
あり方を、周公旦の道に学んでいると仰せに成っていた。これはどういう事かと言えば、周の文王、
武王、周公旦は唐土四百余州の大聖人であることが書物に様々に見え、中で周公旦は文王の子、
武王の弟で成王の叔父であり、天下で誰一人その地位を争おうと思わない高貴の人であったが、
成王に仕えて、一回の髪を洗う間に三度も止め、一食の間に三度も口中の食べ物を吐き出して天下の士に
まみえたという。その行いと隆景公のあり方に違いがないと思われたのであろうか。

隆景公が輝元公の御座の前をお通りに成る時は、必ず膝を折り手をつかれてお通りに成った。輝元公が
その座に居られる時は申すに及ばず、御座に居られない時でもそのようであった。
この事ひとつを以ても、全体に於いて隆景公が輝元公にどのように接して居られたか推し量ることが
出来るだろう。またこのようであったので、隆景公の御行儀は日本一であると諸国でも申した。

先程の秀吉公の言葉の最後に言われていたように、後々に隆景公は日本国の御政道の御教書に
御連判もされ、輝元公、隆景公、前田利家公、宇喜多秀家公、徳川家康公の御上判にて諸国に
命が出された。そして後には東三十三ヶ国を家康公、西三十三ヶ国は輝元公にその進退をお預けになり、
このため西国の大名衆は折々に御挨拶に訪れた。

(老翁物語)

小早川隆景について



390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/30(土) 17:18:19.23 ID:JVFouEOb
>>389
隆景が長生きしてたら関が原はどうなったかなぁ

彼らを謀ったのである

2019年11月29日 16:55

628 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/11/29(金) 14:29:18.61 ID:tnZCnaZ3
豊臣秀吉の小田原征伐に於いて、先に武州の石築、筑井の両城の攻め手として向かっていた
浅野左京大夫幸長、木村常陸介重茲、同伊勢守定重父子、赤座久兵衛直保、以下この方面が落ち着いた
ため人馬を暫く休めていた所、忍城が未だ落ちていないという事が笠懸山の本陣に聞こえ、秀吉より
急ぎ忍城攻めの加勢に向かうようにとの下知が有り、そこで直ぐに忍城へと向かった。

ここに、同国大里郡の久下城主、市田太郎という者があった。彼は武蔵七党の一員であり、また
重代の国侍であったが、僅かの分限であったので成田家の旗下に属し、当時は成田氏長の妹婿であった。
である以上、事ある砌は氏長より、忍城の留守居である成田近江守の助勢に駆けつけるよう定められ、
普段は久下を守っていた。この度は成田氏長、泰親兄弟が小田原に籠もったため、久下は小領であり、
また非常に僻地でも有ったので、そこは放置して忍城に籠もることを申し合わせ、本丸に入って
共に籠城した。

その頃、忍城では『小田原城内にて成田氏長が二心を起こし、上方勢に内通した。」との話が
聞こえてきた。そのため留守居の者達も両端を持す態度を取るように成り、市田太郎の姉は、北条方の
福島伊賀入道(賢成ヵ)の妻であったので心定まっているとして、市田並びに成田近江守を共に
持田口へ出して外郭の警護に当たらせた。

ところがこの処置に成田近江守は憤り、密かに浅野幸長の陣へ使いを立てて内応する旨を伝えた。
この事について、幸長の家老たちは石田三成に相談した所、三成は
「わが陣へも敵方より返忠の約を成す者があり、既に条件などを議定している。なので明日にでも
総攻めをすれば、簡単に城を乗っ取る事が出来ること疑いない。」
との返事であった。故に浅野家中はこれを事実と心得、軍勢の準備をした。

ところが、実は石田治部少輔は以前より忍城攻めのため在陣しているというのに未だ功を顕すことが
出来ておらず、加勢の手によって城を攻略されてしまえば面目が立たないと思い、浅野家を欺き、
彼らが功を立てることが無いように彼らを謀ったのである。

629 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/11/29(金) 14:29:48.02 ID:tnZCnaZ3
こうして翌日、木村常陸介兄弟が下忍口に押し寄せ、持盾械盾を並べてその陰より大筒小筒を
激しく打ち掛け攻め懸った。これを見て城方は、坂巻靱負尉が合図の鐘を鳴らした所、近辺の持口より
援兵が出た。寄せ手は頻りに競い進んで深泥を踏み越え塀へ乗ろうとした所を、城兵が矢弾を
夥しく放ったために多くが討たれた。

浅野幸長は長野口に陣していたが、西南の方から鬨の声や鉄砲の音が聞こえてくると
「すわ、搦手にては戦いが始まったようだ、者共進め!」と長野口へ押し寄せ、堀を越え柵を破って
城門の際まで攻め懸ったため、城兵たちも「これは持ち堪える事はできない。」と思い、ここを捨てて
大手の行田口へ引き取りはじめると、幸長の家人である浅野平右衛門、沖小平太が真っ先に進み、
この撤退に付け入ろうと追いかけた。

城兵の柴崎和泉守、三田加賀守、同次郎兵衛、吉田和泉守、同新四郎、鎌田次郎左衛門、秋山宗右衛門、
成澤庄五郎らがこれを支え防ぎ戦っている間に、雑兵たちは尽く行田口に逃げ入った。
浅野、大谷、松浦、鈴木の軍勢が既に大手の橋前まで詰め寄せたが、この八騎が橋詰にて踏み堪え、
槍衾を作って防いだため、寄せ手も更には進みかねた。

この時城中より、今村佐渡守、福島勘解由、坂本将監、島田出羽守以下三十余人が城門を開いて
突いて出、先の八騎の武者と一体となり、ここで敵も味方も勇戦し、寄せ手の浅野平右衛門が
討死し、沖小平太も福島勘解由に討たれ、大谷家の家人である飯沼主水正は今村佐渡守に組討され、
同じく家人の高田喜太郎も島田出羽守に付き伏せられた。これによって寄せ手が怯んだ様子に、
城方は「良き頃合いである。」と城に引き上げたが、城方も成澤庄五郎、秋山宗右衛門が討死し、
鎌田次郎左衛門は食い止められ橋の上で鑓を合わせていたが、彼は覚えの者であったので、鑓で
戦いながら「城門を早く閉ざせ!」と叫んだ。そこで城兵が木戸を閉めている間に、鎌田はそこで
討死した。彼の死を惜しまぬものは居なかった。

寄せ手は城門を破ろうと、寄り集まって押し掛けたが、最初の合図の鐘を聞いて佐間口を固めていた
正木丹波守以下五十余人が町家を廻って寄せ手の弓手に向けて鉄砲を撃ちかけ「裏切りが出たぞ!」
と叫んで真っ直ぐに打って掛かった。寄せ手は敵の規模を知らず多勢であると思いこみ、とうと崩れて
引き退いた。これを見て城兵はまた木戸を開いて切って出て、正木の人数と一つになり散々に戦い、
寄せ手はたまりかねて長野口方面へと引き上げた。

この時、長束正家および結城勢は佐間口を受け持っていたのだが、行田口、下忍口にて合戦が始まったと
聞いたため、「我々も攻め口を乗っ取ろう。」と押し寄せたが、この口を守る正木丹波守は行田に
救援に行っており無勢であったものの、福島主水正、櫻井又右衛門、内田孫六郎らが鉄砲を使って
ここをよく支えた。長束の家人である家所帯刀が先導して、有坂宮内丞、一宮善兵衛などという勇士
たちが続々と城門に取り付き後よりも大勢が続いた。すわこの口は破られると見えた時、正木丹波守が
行田口の敵を追い払って自分の持ち口に取って返る所を寄せ手が見て、「敵には後詰めが有るぞ!」と
心得、色めいて撤退した。この時城兵はまた打って出て追い打ちをかけたため、寄せ手は多く討たれたが、
城兵の被害は微小であった。総じてこの一日の戦いで、寄せ手の死傷者は数百人、城兵の討ち死には
五十五人、手負いは四十余人であったという。

石田治部少輔、並びに佐竹宇都宮勢は終始軍勢を出さず、徒に黙殺していただけであった。

このようであったので、市田成田の内応のことについても失敗し、寄せ手の面々はまた、城を遠巻きに
するのみであった。

(関八州古戦録)

忍城攻めで三成が浅野幸長を陥れたお話。

前編
忍城の戦い
続き
忍城開城顛末


630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/29(金) 17:14:26.33 ID:hQb+dwiO
大谷や長束まで巻き込むユニークスキル

631 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/11/29(金) 19:38:34.49 ID:6I18+3aO
>>629
フレンドリーファィアで有名な某政○家が頭に浮かんだ。
しかし政敵ならいざ知らず、主人の一門格になんちゅう事すんねん。
結局それが後に自分に返ってくる訳だけどさぁ…

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/01(日) 13:00:24.75 ID:6Y7LonhJ
三成「亡き太閤殿下から御恩を受けた連中が揃って東軍にいるのか全く理解できん」

忍城の戦い

2019年11月28日 18:45

624 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/11/28(木) 14:18:17.20 ID:oSsDNnzT
小田原の役の折

武州忍城の城主である成田下総守氏永は、舎弟左衛門佐泰喬(泰親)、及び田山豊後守、奈良、玉井、
以下五百余騎にて小田原城に籠もり、忍城には留守を置いていた。(中略)

忍城では豊臣軍が迫ると、近隣のすべての地下の農民、商人、社家、山伏、さらに15歳以上の
小冠者(元服して間もない若者)までもかき集めて、彼らを堀裏に置いて旗を差させ、敵方に
多勢が城に籠っているように見せかけ、また鉦や太鼓を用意しておき、敵が不意に攻めてきた場合は
これを打ち鳴らして他の手より救援させるようにと重々に仕組みを手配して、忍城には都合
二千六百二十七人が立て籠もった。

城将の成田氏長の正室は太田美濃守入道三楽斎の娘で、息女が一人有あったが、この娘とともに
この城に籠城した。彼女らは母娘共に容貌麗しく、優れて甲斐甲斐しく操ある女性であった。
「私達は女の身であると雖も、父祖も夫も、数代の弓矢の家に生まれ、たとえ氏長が留守であろうとも
このような時に至って武名を貶めること有るべからず。」
そう言うと、城代の成田肥前守をはじめ、一族家臣等に下知し、士卒の心を一つにして、城を枕に
すべき旨を、心から申し渡した。すると城兵たちは恥の有る者も無い者も、女性にてさえかくの如き
なのだと、感じ入らぬ者は居なかった。

寄せ手は、石田三成大谷吉継長束正家を大将として二万余騎にて館林城を落とすと、一両日
人馬の息を休めて、六月四日に忍城へ押し寄せた。生田口と下忍口は石田治部少輔、早見甲斐守、
北条左衛門太夫、並びに佐竹・宇都宮の衆七千余人、人丸墓山を本陣として大宮口までを打ち囲んだ。

佐間口は長束大蔵少輔、伊東丹後守、結城左衛門督晴朝、水谷伊勢守勝隆、岩上但馬守らが加わり
四千六百余人、

長野口は大谷形部少輔、松浦安太夫、鈴木孫三郎以下六千五百余人、これは北谷口までを受け持ち
陣を張った。

これらの攻め口は全て水田の池地であったため近づくことが出来ず、遠巻きに構えていた。皿尾口は
中江式部少輔、野々村伊予守、および江戸川越の五千余人、ここもまた僅かに細道が有る程度で、
左右は深い沼であり、足を踏み入れれば進むことも退くことも自由にならない有様であった。
それでも寄せ手は砦をひとつ乗っ取りそこに陣を付けた。そして持田口の一方をわざと開けておいたが、
これは城兵を放心させて城を攻め落とそうという術であった。

そもそもこの忍城のあるこの地は全体が大沼であったのを、成田氏長の祖父である中務少輔親泰が
多年多くの人力を用いて築かせた城塁であり、さりながら今なお四面深田であり人馬の駆け引きも出来ず、
故に今度の豊臣軍も、寄せ手は攻めあぐね暫くは攻めるのを見合わせたものの、だからといって
攻めねば城の落ちることはないと諸隊は相談し、鬨の声を挙げて矢鉄砲を打ち込み戦うものの、
足場が悪いため死傷者は数しれぬ有様であった。

そのような中、城方では下忍口にて別府小太郎、野澤金十郎の二人、共にこの時二十歳であったが、
先駆けして奮戦し、小太郎は深手を負って倒れ、これに寄せ手の武者が駆け寄り首を取ろうとした所に、
小金井善忠の郎党・橋爪孫兵衛という者が馳せ合わせ、かの武者を討ち取り別府を城内に引き入れた。

また皿尾口にては寄せ手は馬より下りて徒士となって攻めかかったが、城兵の松橋内匠助という
鉄砲の手練が、大筒で試しに撃ち出した所。進軍してきた寄せ手の兵七、八人がたちまち命を落とし、
これによってこの方面の軍勢は裏崩れを起こして引き上げた。中江、野々村はこの体たらくを怒り、
「この口は足場が悪いので力攻めは無理だ、策を以て攻めるべきである、」と、井楼を二ヵ所に作り
そこに大筒を仕掛けて城に向かって撃ち込んだ所、暫くは城方からの攻撃が止まったという。

625 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/11/28(木) 14:19:06.84 ID:oSsDNnzT
ここで石田治部少輔が提案した
「この城は要害の地であり、また兵糧、矢弾も多く籠め置いてあると聞く。であれば、早期に陥落させる
事は難しいだろう。そこで城郭の四方に堤を築き、そこに利根川荒川より水を引いて水攻めにすべきだ。」
そういう訳で、近隣にこの工事のことを触れ、過分の米銭を与えて人足をかき集め、昼夜を問わず
土石を山のように運ばせ四面に堤を築かせた。

ところが、この時忍城内に籠もっていた農夫、商人らも、夜中に密かに抜け出て土石を運び賃銭を取り
それにて米穀を買い求めまた城中に入った。工事を担当する奉行の者達はこの事を聞きつけて

「この城に糧を入れるのは木の根に水を与えるようなもので、こんな事ではいつまで経っても
城が落ちることは有りません。城内より出てくる人夫は搦め捕って首を刎ねるべきです!」
と訴えたが、石田治部少輔はこれを聞くと頭を振って

「いやいや、そのような事をすべきではない。堤さえ出来れば城兵は片端から溺れ死ぬのだから、
たとえ米穀が城内に充満していても何の意味もない。また、もし彼らを誅殺した事で、これに関係のない
外の人夫たちが恐れて逃げ去ってしまっては、堤はますます完成しなくなる。何も知らぬ体にて
堤の完成を急ぐのだ。」

そう言って、日夜下知を励ますと、幾程もなく堤は完成した。
「それでは」と、利根川を防ぎ留めて江原堤に水を流したが、この時、五月雨の時期が終わると
炎天が続いていたため水の流れも乏しかった。そこで荒川を防いで水を流した所、水は滔々と流れ
溢れた。これに城兵たちは高地へ集まったが、それほど困った様子もなかった。

そのような中、同月十六日の申の刻(午後四時頃)より空曇り雷鳴轟き、夜間には豪雨と成った。
ところがこれによって、寄せ手の築いた堤が、川西という所より五、六間も切れたかと思うと、
新しく築いた堤だったためあちらこちらが押し破られ、逆水となって寄せ手の陣所に押し寄せ、浸水に
よって若干ながら人馬が溺死に及んだ。その後水は引いたが、道は深泥の如くと成り、馬の蹄も
立たない有様で、寄せ手も遠巻きにして徒に時を過ごすしか無かった。

(関八州古戦録)

「忍城の戦い」について

続き
彼らを謀ったのである