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貴所よりは位が上であるのだから

2022年11月26日 14:33

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/26(土) 09:56:40.14 ID:g5uzaKWU
天正十八年七月十二日、(小田原征伐の結果北条氏は降伏し)北条氏政は切腹、氏直は高野山へ入ると
していたが、大阪で疱瘡に罹り果てた。氏政の頸は京都へ送られ、堀川通戻橋に掛けられた。
小田原城の請取手は黒田官兵衛であった。

それより奥州へ移動する途中、秀吉公は鎌倉を御見物に成った。
若宮八幡へお立ち寄りに成った時、社人が御戸を開くと、左に源頼朝の木造があったのを御覧になり、
御言葉をかけられた

「頼朝は天下友達である。その待遇は私と同等にすべきだが、この秀吉は関白であるから、貴所よりは
位が上であるのだから、待遇は私より下げる。

頼朝は天下を取る筋の人であったのを、平清盛がうつけを尽くして伊豆へ流し置き、年月が経つ内に、
東国では父親である義朝の温情を蒙った侍共が昔を思い、貴所を取り立てたのだと聞いている。
あなたは氏・系図に於いては多田の満仲の末葉であり、残る所のない(完璧な)系図である。

一方この秀吉は、恥ずかしくは思っていないが、昨今まで草刈りの童であり、或る時は草履取りなどをしていた。
故に系図も持っていないが、秀吉は心にとどまらず、目口優れていた故か、このように成った。
御身は天下取りの筋であり、目口が優れている故とは存じない。つまり、生まれ付き果報が有った故
天下を取れたのだ。」

などと御洒落事を仰せに成ったと承っている。

川角太閤記

有名な秀吉の「天下友達」のお話



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玉にもぬける一柳か

2022年11月24日 19:01

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/23(水) 21:44:48.05 ID:NGU3s3zC
豊臣秀吉による小田原征伐の御陣中へは、御公家方の方々より、細川幽斎へ狂歌などが
沢山に送られた。
山中城攻めで一柳(直末)が戦死したが、この事を一女院様より送られたのが、狂歌の初めであった。

 あはれなり 一柳のめも春に もへいで渡る野べのかふりを

幽斎は返歌に

 いとけなく ぐそくをかけて鉄砲の 玉にもぬける一柳か

こういった御狂歌の返歌、また道記などを大帖(大きな屏風)に仕立てて秀吉公の御目にかけた所、殊の外
御感になったと聞こえた。
その道記、狂歌の大帖(屏風)がもし今も現存するとすれば、御出家方の元に有るだろうとの事だ。

川角太閤記


是式の事は中々不苦候

2022年11月23日 19:11

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/22(火) 20:54:01.75 ID:NkZpqg5g
天正十四年十二月二十日時分に、豊後国より早打ちの飛脚が到来した。その内容は、
豊後国船井という場所の近辺にある、高田川という場所があり、この川を隔てて
仙石越前守(秀久)、長宗我部父子(元親、信親)が陣を取っていたが、川向かいに
薩摩衆が相陣を張った。島津方の大将は、島津中書(家久)と言った。

十二月十七、八日の頃、仙石越前、長宗我部父子はこの川を超えて合戦を仕掛けた。
朝方、戦は味方の両大将の勝ちとなり、頸数五百余りを討ち取った。しかし昼時分より、
豊後国の地の者、尽く一揆を起こし、薩摩方と一つに成って上方勢を中に取り籠め、
裏切りを仕った故に、長宗我部の惣領(信親)も討ち死にした。
それより両大将は敗軍したと、豊前に在った黒田官兵衛の所に報告されたのである。

これを知った官兵衛の分別には
「豊後では敗北したが、これしきのことは問題ない(是式の事は中々不苦候)。
この事を秘密にすれば、帰って陣中は騒ぐだろう。ただ有りの儘に毛利殿陣中に報告するのだ。
仙石越前、長宗我部程度の者が五人三人相果てようと、上様(秀吉)は自身の弱みと成ったとは
思わない。(仙石越前、長宗我部程成者五人三人相果候と申共、上様御弱みと被思召間敷)
定めて上方勢にすぐに命じて、九州へとお下りになるだろう。」

川角太閤記

川角太閤記に見える戸次川の戦いとその敗戦についての黒田官兵衛の反応。



「豊筑乱記」から戸次川の戦いについて

2022年11月23日 19:10

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/23(水) 17:45:02.57 ID:FQfy/CRW
豊筑乱記」から戸次川の戦いについて
太閤秀吉公は島津に再三上京を命じたにもかかわらず島津は聞き入れなかった。
そこで天正十四年(1586年)九月十二日、秀吉公は仙石権兵衛尉元親(ママ)と長曾我部土佐守信親を上使として豊後に下しなされた。
大友義統公を通じて島津に上意を通じられたが、島津は見向きもしなかったため、仙石・長曾我部とも島津を慮外者とののしった。
島津は大友家の武将を次々と調略し、豊後に攻め入り、戸次城も陥落間近となった。
大友義統公はこれを聞き、加勢の人数を送り出そうと思ったものの、もう代を重ねた家臣も信用できないため見過ごそうとされた。
いっぽう仙石・長曾我部は島津の逆意について知らせる遣いを秀吉公に送り出し下知を待つ間ではあったが、戸次城が危ないと聞き六千騎で向かった。
十二月十二日早朝に戸次川を渡り、一挙に島津陣所に攻め入ろうと評定した。
これを察知した島津家久は一万八千騎の軍勢に「上使両人とともに討ち死にする気構えで戦え」と下知した。
こうして十二月十二日の曙に両軍鬨の声を挙げ、矢合わせをしたのち合戦を開始したが、どうしたことか島津方の伊集院軍が上使の軍勢に攻めかかられ引いた。
上使の軍が我先にと逃げる伊集院軍を追い討ちしているところに、二番備えの新納大膳正が三千騎で高所から仙石・長曾我部本陣に攻め入り、
大将島津家久と三番備えの本庄主税軍も一軍となって上使軍に攻め込んだ。
こうしてたった一時の合戦で敵味方三千騎が討ち死にし、長曾我部信親は血気さかんな大将であったため、あまりに深入りしすぎて、数カ所に深手を負い討ち死にした。
上使軍は多勢に無勢、あまりに多く討たれてしまい、仙石元親も勇猛な大将であったがわずか五、六騎を連れ戸次川を渡って豊後の府内めざして引いた。

仙石秀久長曾我部元親が混同されちゃったようだ



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2022年11月23日 16:00

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【ニュース】立花家史料館の収蔵物について 14

小河内蔵允の出世 12
秀吉の推量は少しも違わなかった 10

「中尾落草紙」から、後藤一族の最期 8
内蔵助を攻める軍勢を出すべし 6


今週の1位はこちら!【ニュース】立花家史料館の収蔵物についてです!
このお知らせ、やはり感心を持った方が多かったようです。こういった展示系の施設は、どこもこの長いコロナ禍で、
苦しい運営を科されています。僕たちは、立花家史料館がそのような中、時にはクラウドファンディングなど外部の手を
借りながら、様々に努力したことを知っています。その上でのこういった決断ですから、私たちとすれば、前向きに
受け入れるしか無い、とも考えます。
ともかくも、関係者の皆さんへの感謝と、できる限り良い方向での結論となることを、祈念するばかりです。

2位はこちら!小河内蔵允の出世です!
これも非常に面白い内容ですね。小河之直には武功らしい武功は無いものの、愚直と言っていいほどの誠実さで
出世していき、最終的に黒田家の宝とも呼べるような存在に成ったということ。
このお話、実態として本当にこのようだったのか、という事よりも、ここに描かれた小河之直のあり方が、
理想的なものであると考えられた、という事の方が重要だと思います。つまり、「古郷物語」の描かれた頃の
近世黒田藩にとっては、武功の数を誇るような武士よりも、誠実に忠実に、主君に、家に仕える存在こそが重要であり、
評価される存在なのだという認識が描かれたというべきでしょう。
このあたりから、近世初期の意識変化を垣間見ることも出来るかもしれません。そんな事も考えさせてくれた内容でした。

管理人が今周期になったお話はこちら!秀吉の推量は少しも違わなかったです!
このお話の収録された『川角太閤記』、成立は江戸初期と考えられています。そういった時代背景を考えれば、
この時点で既に秀吉が、家康を非常に恐れ、また高く評価しているように描写されているのも、腑に落ちやすい
かもしれません。
その上で秀吉の天才的な洞察力が描かれ、やはり不世出の英雄と見て取れる構成になっていますね。
川角太閤記のこのような秀吉像も、後世の秀吉というキャラクターの造形において、大きな影響を与えたのでしょう。
『川角太閤記』では、ある意味実力伯仲といった感のある秀吉と家康の両雄ですが、来年の大河ではどのように
描かれるのか、それも楽しみにしたいと思います。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当にありがとうございます!
また気になった逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!!
(/・ω・)/

近国の野郎の種を断つことが

2022年11月22日 19:14

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/21(月) 22:56:41.53 ID:kbOd9V3r
戌の年(天正十四年)は天下の御普請があり、国々の大小名が洛中に満ち満ちて伺候した。
その時までに九州は(秀吉に)属しておらず、そのため毛利(輝元)殿を豊前へ渡海するよう
仰せ付けられ、御横目として黒田官兵衛。豊後へは千石越前(秀久)、長宗我部父子が派遣された。

(中略)

右の陣所より四里隔たった宇留津という城があったが、ただしこれも高橋(元種)に従っていた。
この城主は”かく”と申し、都合三千計りで立て籠もっていた。

この”かく”は野郎大将であり、その国の所々の案内をよく存じていた。そして毛利陣のはしばしへ、
毎夜夜討、強盗を隙き無く仕った故に、以ての外に陣中も騒然と成った。

この時、黒田官兵衛殿の分別には
「薩摩よりこの地の悪党ばらが、この城に立て籠もっていると聞いた。これを残らず
討ち果たせば、近国の野郎の種を断つことが出来る。」
そのように主張し、討ち果たすことに議定した。

十一月六日、毛利殿臣下の吉川、小早川、宍戸、この三人に官兵衛殿同道して小舟に乗り、
城廻りを押し回って視察した。この城は海より十間十二、三町も隔たっており、よくよく
見聞に及んでその日の内に各陣屋へ帰り、談合の次第に、その日の夜半の頃より人数を繰り出し、
明日七日の五ツ時分(午前八時頃)、この城を取り巻いた。

大手口は黒田官兵衛の寄せ口であったが、即時に大手より攻め破った。
毛利陣の者たちはこれを見て攻め掛かり、その日の七ツさがり(午後四時過ぎ頃)には、
一人も残らず撫で斬りにして討ち果たし、頸数二千あまりであった。

その頃の首実検は天下様より派遣した横目付が担当するものであったので、官兵衛殿が
これを行うようにとの挨拶があった。しかし官兵衛殿からは「ただ毛利殿が御実検されるように」と
互いに相手に対しての挨拶が果てなく続いた。
結局、毛利殿より官兵衛殿へたっての御断りがあり、これらの頸は黒田官兵衛殿が御実検された。

また、彼らの妻子どもも翌日八日に、千ばかりも浜の方で磔にされた。

川角太閤記

秀吉の九州征伐の序盤、豊前方面の様子。



内蔵助を攻める軍勢を出すべし

2022年11月21日 19:47

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/21(月) 19:01:01.76 ID:kbOd9V3r
「越中国の佐々内蔵助(成政)は、秀吉が四国九州へと軍勢を出すならば、定めて隙きが出来たとして、
油断を突こうとするだろう。であるので、内蔵助を攻める軍勢を出すべし」と御議定した所に、
蜂須賀彦右衛門(正勝)が申し上げた

「内蔵助についてですが、彼は供の者六人を召し連れ、国を急に立って浜松に参ったと承っております。
供は佐々与左衛門、いたわ勘右衛門、松木内匠、その他計六人、そのように承っています。
御分別のため申し上げます。」

これに対し、秀吉公の御意には
「家康卿が律儀である所に目をつけ、内蔵助はすぐに合戦という状況で無いために、直談をすべしと
思ったのだろう。しかし今更家康卿に心置きをしようとするなど、口実を作って却って、
毛を吹いて疵を求むという事と同じだ。事が見えない先に聞き出すような沙汰は、必ず上手く
行かないだろう。

家康卿に表裏はない(家康卿表裏有間敷なり)。丈夫である家康を東の押さえに頼り置く事ができれば、
東国の気遣いは無くなる。であれば越中に馬を出そう。」
との御議定であった。

家康卿へは越中に、『御馬出候、加勢少可給者なり』と仰せ遣わした所、本多豊後に都合三千の兵、
そのうち鉄砲三百挺にて家康卿よりの御加勢として素早く上洛に及んだ。

これによって上様(秀吉)は大阪を、酉年(天正十三年)七月二十七日に出陣された。
この時の御分別には、「内蔵助とはこの間まで、肩を並べる傍輩であったのだから、定めて私に対して
疑いが深いだろう。例えこの秀吉に降参したとしても、悪我を張るであろう。
織田信雄は信長公の御実子であるから、信雄を私の旗本と定めよう。内蔵助は堅物であるから、
信雄に対して降参するだろう。」

そのように思し召し、軍勢の路地すがら信雄に対面した時、自身の御旗本のように執り扱ったのは、
その様子を越中に響かせるためであったと聞こえた。

川角太閤記



483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/22(火) 08:27:03.82 ID:1wYkIu2B
越前と美濃ですら連携に失敗してるのに越中と遠江なら尚更

小河内蔵允の出世

2022年11月19日 19:12

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/18(金) 20:38:56.88 ID:NfUjnO14
黒田藩草創期について老僧が語るという体裁の「古郷物語」から黒田藩家老の一人・小河内蔵允(小河之直)の出世

聞き手:小河内蔵允という人は国中の仕置きを一人でなさったそうですが、さぞ知慮分別に優れ、武勇もあったのでしょう。
老僧:内蔵允はもともと吉田善兵衛というものが「生計が立たないので草履取りにでも召し使ってください」と黒田長政公に差し出した喜助という者です。
当時、いかにもうつけのようで利発なところがなかったため小姓・傍輩からいじめられていました。
しかし根気が常人より強く、昼夜主人のそばを離れず、居眠りもせず、居ずまいも崩さず、寒いそぶりも暑いそぶりも見せませんでした。
老いても足袋をはかず、蚊が飛んできても手で優しく払うだけだったそうです。
ほかの小姓がいなくても喜助はそばにいるので、自然と長政公は喜助に用を言いつけるようになり、十四、五の頃には出世頭となりました。
そこで長政公は朝鮮にも召し連れ、武功を挙げたならばそれを理由に出世させようと思われたのですが、不運なことに喜助が行くところとは別のところに敵が現れ続けたため、一度も武功を上げることがありませんでした。
とはいえ臆病があったわけではないため、男子なくして当主が死んだ小河家に婿養子として入り、五千石をとることとなりました。
ふつう出世するとおごるものですが、内蔵允については小姓の時の心持ちを変えなかったため、憎むものはいませんでした。
関ヶ原にも参陣したのですが、これまた運悪く武功を挙げられませんでした。
長政公、筑前国拝領の時に八千石に加増し、国中・家中の仕置きを一手に任せました。
元来おごりというものを知らず、暗い内から訴えを聴き、百姓町人であっても門より直に通し、雨の時は裸足で縁側に行き、下々の訴えを聴きました。
上の判断が必要な時には年寄衆と話し合った上で長政公に尋ね、のちのち独断で問題となることもなかったため、年寄衆も「他家には内蔵允ほど慈悲正直が天理に叶っている出世人はいないだろう」とよろこびました。
こうして筑前入国五年目には二千石加増され、一万石取りとなったのです。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1801.html
小河内蔵允、主君黒田長政に・いい話

また、↑のような話もあり、猛々しい長政公でさえ内蔵允の柔和の前では取って回されてしまうと、皆不思議がっておりました。



479 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/11/19(土) 09:37:49.54 ID:c1b3DFvx
父は小寺・黒田とも血縁のある英保常久、母は小河信章の姉で、父が亡くなり流浪の後、母は黒田二十四騎・桐山信行と再婚(後妻)する。
母に従い桐山家に世話になった後、叔父の婿養子となる(生前からか末期養子かはちょっと不明)。黒田騒動では藩主忠之を補佐。


小河之直の経歴は実際のところこんな感じらしいのですが、古郷物語が編纂されるまでに黒田家中はどうなってたんでしょうね?

480 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/11/19(土) 20:38:42.75 ID:rRD8bnz+
筆頭家老格の人物が実は下民の出だったってのは、格式固まって以降だといろいろ言われそうなんだが
実際の血筋が毛並みもいい人なのにこんな書きかたされるというのは、もしかして誰も文句言わないようなお家断絶だったの?

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/19(土) 23:12:48.94 ID:47ZLOosC
以前紹介した「小河内蔵之丞噺覚書写」についての本によれば九州大学所蔵の「小河内蔵允殿咄覚書写」の家譜には
「天下へ御敵申したる者の子に候間、成程喃々に仕、いにしへ家頼の子の由育置十歳余り迄丹波所へ居申」
とあるので、小河之直の父の英保常久が播磨攻めの時に秀吉軍に抵抗したことが「古郷物語」の記述に関係しているのでは、としていた。
また吉田重成関連で以前出てきた「吉田家伝録」にも吉田知年の妻は小河内蔵允の娘というので小河内蔵允の出自についても書かれていて
阿保(英保)常久は天正の頃に羽柴秀吉によって追い出され、伊予国で没去した、と同様のことが書かれているので出自については世間に広まってなかったのかもしれない。
古郷物語」の筆者はとりあえず吉田家と姻戚にあるからと吉田姓ということにしたのではないかと。

「中尾落草紙」から、後藤一族の最期

2022年11月17日 19:15

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/16(水) 23:16:25.42 ID:h+gKGqTL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13720.html
の「笹子落草紙」の続編と思われる「中尾落草紙」から後藤一族の最期

後藤兵庫助(後藤信安)は首尾よく鶴見内匠(鶴見信仲?)を殺し安堵していた。
いっぽう武田信秋は「鶴見は我を頼ったにもかかわらず、むざむざ討たせてしまった。
かくなるうえは後藤を退治し、鶴見の恨みをすすごう」
里見義堯に申し出たところ、里見義堯は両正木(正木時茂・正木時忠兄弟)に仰せつけ、天文十三年(1544年)四月、一千余騎をひきつれ後藤の中尾城に押し寄せた。
折節、城には北条殿身内の足軽大将・福室帯刀左衛門七十三騎が籠っていた。
後藤は福室とともに櫓に登り、敵勢を知ろうと周囲を見渡したところ、
武田信秋(大学助):二百余騎、武田義信(大炊頭、信秋の息子):三百余騎、正木時茂(大膳)・正木時昌(将監)・正木時忠(十郎):七百余騎がそれぞれ陣取っていた。
福室は「合わせても千四百五百には過ぎぬだろう。
堀を越えてようとするときは弓矢で、木手までくるようであれば石弓で四方の堀に落とせばよい。
明日になれば嵐に遭った竜田川の紅葉のごとく散り散りに引くであろう。」と言った。
後藤は喜んで敵の陣中に「北条の方々、このわずかな堀など早く越えて攻めてこられよ。相手になろうぞ」と語り、櫓の板を叩いて愚弄した。
大将の里見義堯は北条鹿毛という駿足の馬に乗り陣を駆け巡り
「ものども、一枚板の盾を木戸に突き倒し、わき目も振らず攻め上れ。壁まで登ったならばそのまま盾を討ち捨てて攻め込め」
と下知すると、堀を渡った兵どもはわれもわれもと木戸に駆け上った。
後藤方も木戸から筒木を落としたが相手方の兵には当たらず、内側まで攻め込まれた。
覚悟を決めた後藤と福室は、ともに城内に戻って最後の戦をし、ひとところで死のうと誓った。
そのうち敵は四方から攻めてきたため、後藤の味方の兵はあるいは討ち死に、あるいは捕らえられだんだん薄くなっていった。
福室は、かつて父親が三浦の城を攻めた時に殿より拝領したという小薙刀を縦横無尽にふりまわし、力が尽きたのちは九寸五分をするりと抜き、腹を十文字に掻き切って、声高に題目を十遍ほど唱えて突っ伏した。
後藤も「福室と同じところで」と思ったものの「いや命あってこそ再起も図れようというもの」と女の衣を髪にかけ、堀を越えて抜け出そうとした。
それを見とがめた正木時忠は「怪しい者だ、とらえよ」と郎党に引き立てさせた。
後藤はつくり声で「後藤の身内のおふでと申す媼(おうな)でございます。助けたまえ」
と言ったが時忠は「おうでもこうでもつらをみせよ」と衣をはねのけてみると後藤であった。
時忠が「兵庫よ、わしが貴殿を見逃したとしてもおっつけほかのものが捕らえるだろう。
いっそ自らの手で菩提を問おうと思うが」と言うと、
後藤は「情けある人の言葉です。わたくしも城内で腹を切ろうと思いましたが、再起を図ろうとおもったために面目のないこととなりました。
平宗盛が源義経に捕らえられ鎌倉へ連行される途中、警固の武士があざけると宗盛は
「虎が深山にある時は百獣はこれを恐れるが、虎が穴に落ちるとその尾を引っ張って喰らおうとする」
と言ったそうです。その思いが今さらながらに知れました。
わたくしには五人の子供がいますが、一人でもあなたの軍勢により生け捕りにできるようであれば、どうかその子を僧にしてわたくしの菩提を弔わせてください」
と言うや、西を向かって手を合わせて念仏を唱えだした。
こうして後藤兵庫助信安は四十五の花盛りにして散り落ちた。

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/16(水) 23:18:39.10 ID:h+gKGqTL
一方、後藤の末っ子の駒若丸であるが、乳母に抱かれて落ち延びるところ、「夏の虫」ではないが敵方の鶴見五郎(後藤に殺された鶴見信仲?の息子)の前に出てきてしまった。
乳母が「父は敵でしょうが、この子の母親はあなたの伯母、どうか命をお助けください」
と涙を流して言うと、五郎もともに涙を流した。
そこで武田信秋に助命嘆願したが「後藤の末裔はすべて滅ぼせ」とのことであり
五郎は「駒若よ、助けたいとは思うものの、ままならぬ世の習いである。覚悟を決めよ」と言うと
駒若丸も涙を流しながらも「南無阿・・・」と唱えたところで一閃。散った。
乳母は駒若丸の死骸に抱きつき「われもともに送ってください」と打ち嘆いたが、みな哀れとは思うものの希望をかなえるものはなかった。
こうして後藤方の首実検をしているところへ、北の方から黒雲が飛び来て陣の上を覆った。
その中から鶴見・後藤により殺された武田信茂の魂が歎恨鬼という鬼となり
「主に不忠のやつばらがこのようになり、今は心安いわ」と天地に響くばかりに叫び
笹子城・中尾城の両城に雷光を放ち、また北に向かって去っていった。
そののち主君に害をなした鶴見・後藤の両城を訪れるものはなく、草が茫々とおいしげっている。

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/16(水) 23:39:32.43 ID:h+gKGqTL
義堯については、本文中には「里見」とは書かれず、あたかも「北条」であるように書かれていている。
また正木将監時昌(ときまさ)については不明。「図説 戦国里見氏」によれば正木時茂と正木時忠の間の兄弟は正木時義(大炊頭)。
ついでに正木時茂は前に出ていた後藤の婿である小田喜朝信(真里谷朝信)を天文十三年八月に討っている。
また「図説 戦国里見氏」によれば、北条・里見は武田信秋(全方)を支援していたが、信秋が亡くなったのちの天文十四年ごろ里見義堯が信秋の佐貫城を奪取。
不満に思った信秋の息子・武田義信は、天文十四年九月、北条・今川間の抗争時に里見が北条に援軍を出そうとしたおりに里見について北条に讒言。
天文十五年九月には北条氏と武田義信が佐貫城を大軍で包囲、というように情勢が目まぐるしく変わっている。
そんなこんなで紹介した両草紙がどこまで史実に沿っているかは不明。



【ニュース】立花家史料館の収蔵物について

2022年11月17日 19:13

641 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/11/17(木) 09:22:20.07 ID:EiBg5Aqx
Fhqa0wnUYAAOZ3_.jpg

https://pbs.twimg.com/media/Fhqa0wnUYAAOZ3_?format=jpg
https://twitter.com/tanomin/status/1592810284598853633
Kaori Ueno
@tanomin
本日の読売新聞から
筑後版なのでこういった形で紹介させてください
非常に無念ですが
今我々に出来る最善の方法と判断し
移管を決断しました
(公財)立花家史料館での展示は工夫しながら続けてゆきます

6:22 PM ・ Nov 16, 2022


九州柳川立花家史料館館長さんのツイート
収蔵庫の老朽化で今後が危ういというのは残念です

画像記事中でも先年のクラウドファンディングに触れられていますが
設備の更新は運営費とはまた違って大きいですしね・・・・


【柳川・立花家史料館への支援について】
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12790.html

※管理人注
先のクラウドファンディングの折、些少ながら協力させて頂きました。
残念な事ではありますが、貴重な史料、文化財の保護のための、
苦渋の決断でも有ったと思います。
良い方向に行くことを祈り、これからも応援していきたいと思います。。



秀吉の推量は少しも違わなかった

2022年11月16日 19:02

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/15(火) 20:41:39.74 ID:bTevtSEj
(小牧長久手合戦後、織田信雄と和睦を成立させたあと)
秀吉は徳川家康卿を御引き付けさせうようと思し召し、そのための御分別、御工夫に悩み、
寝付けないほどであったと聞こえた。

その段々の御分別の次第だが、秀吉は御あつかい(和睦)を掛けるために、家康の様子や手引を見ようと思し召し、
家康卿の国の様子を御聞きに成るために、人を色々に変装させ、三河遠江へ潜入させた。

この時、秀吉の御分別としては、「家康卿は籠城の支度をするなどあり得ない。ただ一合戦とのみ
定めているだろう。」と思し召されていた。

先の目付たちが帰国し、お尋ねに成ったところ、「家康は籠城の用意など全く見えません。
鷹野や川狩りのような慰み事ばかりしています。」と言う。後から参った目付も同様の報告であり、
秀吉の推量は少しも違わなかった。

そこで秀吉は、御あつかいの為に家康に妹を与え、この上は兄弟に成るべきと、御あつかいを掛けた。
その上で家康卿がまだ合点無ければ、母と女ども、さらに妹の三人を家康卿へ人質に出すべきと、
蜂須賀彦右衛門(正勝)や黒田官兵衛、その他二、三人に仰せ聞かせた。

川角太閤記



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2022年11月16日 16:00

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信虎みなちがひなりと思ふ 12

飯富兵部少輔が御成敗なされたその仔細は 10

信玄公秘蔵の足軽大将衆は 7


今週の1位はこちら!信虎みなちがひなりと思ふです!
『甲陽軍鑑』に見える、武田信虎が、信玄の派遣した日向源藤斎に対し、自身のかつての信玄への接し方への反省を
述べた、というお話ですね。
このお話、基本的には信虎から信玄への和解を呼びかけたお話と見るべきなのでしょう。なので信虎の言葉も、
信玄にその気にさせるような内容として語ったものでしょうから、これが即本音とは言えないとも思えます。
信玄は、というかおそらく信虎追放を主導した家臣団はずっと信虎を警戒していて、信玄の生前は勿論、
勝頼の時代に入っても、甲斐国に入ることすら許しませんでした。それほど恐れられていたと言うべきか、
或いはここから信虎という人物の人徳の無さを見るべきか、このお話一つからも、様々な武田信虎像を
想像できそうです。そんなお話でも有ると思いました。

2位はこちら!飯富兵部少輔が御成敗なされたその仔細はです!
こちらも『甲陽軍鑑』に描かれた、「義信事件」の中で誅殺された飯富虎昌についての、その誅殺理由ですね。
これを読んでいてふと、織田信長が佐久間信盛を追放した時に書いた「佐久間信盛折檻状」の内容に、非常に似ていると
感じました。特に諸将の面前で主君に、ある意味恥をかかせたという部分はたいへん似通っていて、家臣粛清について
こういった事は共通する理由になったのですね。「重臣」を排除するときの理屈というものは、武田も織田も、どこの家中も
基本的に同じようなものではなかったか。そんな事を考えさせてくれた内容でした。



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飯富兵部少輔が御成敗なされたその仔細は

2022年11月13日 17:28

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/13(日) 09:44:17.19 ID:Oc4r4gLe
永禄八年正月、飯富兵部少輔(虎昌)が武田信玄公によって御成敗なされたその仔細は、以下の様なものであった。

一、信玄公の若き時分より、兵部を呼ばれることがあっても、彼は御返事をすぐに申し上げなかった。

一、弓矢の儀においても、信玄公も退去するように諸傍輩のいる中で申した。
  勿論彼は老功の家老なのだから、諌め申し上げたことを御承知されないという事は無いのだが、
  諸人の面前において家老共がそのような態度なら、諸軍が信玄を軽んずると思し召され、
  以降、良き事であっても飯富兵部が申し上げたことは取り上げられなくなった。

一、大将たる者は大敵、強敵、弱敵、破敵、随敵という五つの敵に、それぞれの対応が有るのだが、
  越後の上杉謙信は強敵でしかも破敵であり、信玄公は種々の武略、工夫をされて勝利を得ようとの
  分別を、信玄が弱いかのように申されたが、それは元々、飯富兵部一人の口から出た事であった。

一、越後の謙信に対し、信玄公の武略の分別が良かったからこそ、五年前の九月十日の川中島合戦に
  おいて(永禄四年の第四次川中島合戦)謙信は遅れを取り、十月には越後との境である
  長沼まで備えを出し、一日逗留し草創に引き上げた。その後謙信は五年ほど信濃に出て来なかったが、
  信玄公の味方は四年以降は境目を越えて、越後国内で焼き働きを仕った。
  これは高坂弾正一人の覚悟にて働いたのだが、信玄公の御力を借りずにそのような事が出来たのは、
  信玄公の弓矢が輝虎より弱くては不可能なことであった。

一、義信公が若気故に、恨みのない信玄公に対して逆心を企てさせた談合相手の棟梁に飯富兵部は成った。

この五ヶ条の御書立を以て飯富兵部は御成敗と成った。

『甲陽軍鑑』

飯富虎昌粛清について



信玄公秘蔵の足軽大将衆は

2022年11月11日 16:45

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/10(木) 23:08:20.44 ID:4PQ/d/mg
大功の足軽大将である原美濃守入道(虎胤)は病死した(永禄七年一月二八日)。
その遺言には、酉の年(永禄四年)に病死した小幡山城入道(虎盛)のように金言があった。
川中島合戦の時に山本勘介入道道鬼も討ち死にした。多田淡路(三八郎)も、去年亥年(永禄六年)極月(十二月)
に病死した。

武田信玄公秘蔵の足軽大将衆は、酉の年より子の年までの四年の間に四人死亡し、皆若死にだったのだが、
その子息どもは、戦場で場を引くような誉れが五度、十度づつもあり、弓矢でも、考えつもりにも功の
入った人々多く、そのために跡が空くような事はなかった。

信玄公の若い頃は、毎年のように大合戦が、年中に二度ほどもあった。しかし今では、三、四年経っても
大合戦など無い。たとえあったとしても、今より末は、御旗本にて合戦が有ることも稀であり、
故に実戦の場数も踏むことが出来ない。

昔の、度々合戦が有る中での十度の誉れよりも、現在は一度の誉れを顕す方が少ないほどだ。
しかしだからといって各々は、武士の一道を全く疎略にすべきではない。

甲陽軍鑑



信虎みなちがひなりと思ふ

2022年11月09日 18:55

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/08(火) 21:30:21.63 ID:KK3AKmtk
永禄六年正月七日、遠州掛川の圓福寺という律宗の寺より出家一人が甲府へと来た。
長坂長閑に付いて御前に参り、信玄公に申し上げた内容は、御父信虎公が、今川氏実公の御気に
違われ、この春中に都に上がられる予定であるという。その事を申し上げた上で、
「小身の侍で信玄公が御心やすく思し召し、いかにもしっかりした分別ある侍」を一人、この僧と共に
寄越してほしいとの事であった。そこで信玄公は日向源藤斎に正月十三日に命じその日の内に
甲府を立たせ、遠州掛川圓福寺へと派遣した。

源藤斎は十七日に掛川圓福寺に到着し、その夜に信虎公の御目にかかった。
信虎公は仰せになった
「日向源藤斎と名乗っているようだが、お前は何者なのか。」

「日向大和の親類であります。信虎様が甲州から御牢人となられた時、今から二十六年前は
私は奉公もいたしておらず、日向大和を頼り、年齢も二十歳にも届いていませんでした。
また元来、信濃が本国であります。」

信虎公は聞き召され
「たとえ何者であっても、信玄が心安く思っているのであれば苦しからず。」と仰せになった

(中略)

その夜半、人々もみな静まった時分に信虎公は源藤斎を召して仰せになった。

「私は信玄に対して恨みがあると言っても、それは既に過ぎて久しい事だ。また信玄の方の道理も
万々多い。

あの頃は、能き上にも能くあれかしと思って折檻したのだが、今考えるとこの信虎のやったことは
全て間違いであったと思う。(其儀はよきうへにも能くあれかしと存て、折檻仕れども、信虎みな
ちがひなりと思ふ)
何故なら、今信玄の誉れは名高く聞こえ、信濃は皆手に入れて、飛騨国、上野国までも一両年の間に
治めるという沙汰を聞けば、信虎の祝着これに過ぎず。

そう、信玄に言ってほしい。」

そのように仰せに成ると、源藤斎は「畏まりて候」と申し上げた。

甲陽軍鑑

武田信虎が信玄の派遣した侍に対し、自分の間違いを率直に認めたというお話。




週間ブログ拍手ランキング【11/02~/08】

2022年11月09日 16:00

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何事につけても、最も身が危うく見えるのは 14

「笹子落草紙」から鶴見の最期 11
【ニュース】キムタク信長「出陣じゃ!」武者行列に最多46万人 11

「いさみ賢き大将かな」と 10
義元公と弾正忠子息の和睦が 10

城介殿が若衆の時に 8
この二ヶ条を以て、信玄公と義信御父子の仲は 7


今週の1位はこちら!何事につけても、最も身が危うく見えるのはです!
柴田勝家を滅ぼした秀吉に対し、その勢いのまま佐々成政の越中を攻略すべきだとする前田利家に対し、
信長の長篠の戦いの例を出してやんわりと嗜めるというお話ですが、「勢い」というものは基本的には信じる
べきではない、という「大将の心得」のようなものを感じるお話ですね。
興味深いのは、長篠での大勝の後、秀吉すらもそのまま甲州へ乱入するだろうと考えていた、という部分でしょうか。
実際には織田信長という人は非常に慎重なひとであり、長篠だけでなく、例えば桶狭間のときも大勝に乗じて大攻勢をかける、
といった事をしませんでしたし、あの甲州征伐の時ですら、必要以上の攻勢には否定的で、突出した織田信忠に対し
何度も自制することを求めているほどです。信長は、調子に乗りすぎるて足者をすくわれる事を非常に恐れていたとも
言えそうです。
しかし利家としては、この期に自分にとって最大の脅威である佐々成政の勢力を潰しておきたい、という望みも正直な
所でしょうし、しかし信長の先例を出されては利家的には何も言えなく成る、という面もあったでしょう。
色んな意味で秀吉の「上手さ」も感じさせる、そんな逸話でも有ると思いました。

2位はこちら!「笹子落草紙」から鶴見の最期です!
真里谷武田氏の内紛における「鶴見」の最期。しかしこの内容を見ると、この人も正しくウォーモンスターですねw
鶴見の三人張りの弓から放たれた矢が「十八枚の重ね盾をばらばらに破り、後藤の鎧の草摺を射貫いた」など、文飾としても
やり過ぎを感じさせるほどです。生半可な銃弾よりも凄そうです。
しかしこのような勇猛無比の侍も力尽き倒れる時は、見苦しく足掻くこと無く潔く命を差し出す。
こういった面こそ武士、特に坂東武士の理想であったのでしょう。
北条や千葉氏などを巻き込んだ乱の内容も興味深いのですが、ここに描かれている武士のあり方というものも又
様々に考えさせてくれる、そんなお話だと感じました。

今週は同票でもう一つ【ニュース】キムタク信長「出陣じゃ!」武者行列に最多46万人です!
いやあ、キムタクすごいwもちろん「織田信長」のネームバリューとキムタクのネームバリュー、そしてコロナ禍で
中止を余儀なくされていた「信長公騎馬武者行列」の3年ぶりの開催、という様々な要因が重なった上だとも思いますが、
そういった諸要因をさらに加速させたのはやはり木村拓哉という存在なのでしょう。
キムタクってとんでもない大スターなのだな、なんてことを改めて感じさせてくれたニュースでもありました。


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【ニュース】キムタク信長「出陣じゃ!」武者行列に最多46万人

2022年11月07日 19:13

632 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/11/07(月) 14:15:59.44 ID:w/hY/uup
岐阜新聞2022年11月7日
キムタク信長「出陣じゃ!」武者行列に最多46万人 信長まつり厳戒態勢、事故なし
https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/155364

俳優の木村拓哉さんと、岐阜市出身の伊藤英明さんが出演した「信長公騎馬武者行列」が6日、
市中心部の金華橋通りで3年ぶりに開催された。木村さんは織田信長役、伊藤さんは信長の
正室・濃姫の侍従福富平太郎貞家役を務め、沿道を埋めた観衆に笑顔で手を振り、一帯は
華やかな雰囲気に包まれた。

※岐阜市人口40万2千人


何事につけても、最も身が危うく見えるのは

2022年11月06日 18:50

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/06(日) 16:46:48.05 ID:XrQtncg6
(賤ヶ岳の勝利の後、柴田勝家の所領である越前を平定した羽柴秀吉は、彼に従属した前田利家が領する能登国へ入った。)
能登国中を巡検した秀吉は、越中との境目である末森城を取り立てるようにと言われ、さらに
七尾城も見られ、前田又左衛門(利家)に委しく言い含めた。

この時、前田又左衛門が申し上げた
「この勢いで、越中へ取り掛かり、内蔵助(佐々成政)を御退治されるべきです。」

秀吉は返答に
「その事について、思い出したことが有る。何かと言えば、天正三年五月二十一日に、甲斐国武田四郎(勝頼)と
三州長篠において信長公が御合戦成された時、頸数一万二千余り討ち取る大勝利を得たこと、貴殿も御供した
故に能くご存知であろう。

あの時、そのまま甲斐国へ押し込むのだろうと、私も人も考えていた。ところが信長公はそうせず、
そこから帰陣なされた。あの時、御勢い、御利運でこれ以上はないと思われたが、ああ言う時は
天魔の所業というものもあり、五,三年もそのまま捨て置けば、国内に謀反も出来、家中もまちまちに
成ることが聞こえるようにもなるだろう。その時に馬を出して退治するのだ、という御分別であったと
聞いている。

又左衛門殿も皆々も聞いてほしい。勝家に打ち勝った以上、この秀吉もこれに過ぎる安堵はない。
その上で心ならずも慢心することもあると覚える。その上、下々以下に及ぶまで勝ちに乗る体で、
早々勇み悦び、興に乗るような様子である。

佐々内蔵助は剛なる上に手聞の上手である。また合戦の習いとして、勝敗は人数の多少に必ずしも寄るもの
ではない。よって、これより一足先に引き取ろうと思う。その内に、秀吉が再び軍勢を募り出陣してきた時は、
位詰めに成るだろうと内蔵助も、またその家中の者達も考え出すであろうことは必定である。そうなれば
家中にも謀反者が出てくるだろう。

何事につけても、最も身が危うく見えるのは勢いが過ぎている時であり、だからこそ今引き取るべきである。」

そのように申して、加州村山城に入られ、加州半国と能登一国を前田又左衛門利家に与えた。
また能登に於いて長九郎左衛門(連龍)に対し、「前田又左衛門に付け置く。何事も利家次第とするように。」
と仰せ置かれた。

川角太閤記



城介殿が若衆の時に

2022年11月05日 16:31

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/05(土) 15:57:25.02 ID:kQd4l8F6
(織田信長の頓死後)柴田(勝家)殿が三七(織田信孝)殿を天下の主に取り立てたいと分別したのは、
柴田殿が三七殿の具足初めを仕られた故であると聞いている。この後契約故に、後に御懇な関係に
成ったのだという。

(羽柴)秀吉については、城介(織田信忠)殿と御懇であったという。その仔細は、城介殿が若衆の時に、
御公家衆などに御恋慕なされ、それを難しく思し召された後気色を秀吉は見て取って、城介殿に

「ならば、私に御目を掛けていると世間に披露して下さい。そうすれば御気難しき事など有りません。
その上私においても、内々に難しいことを申し上げることは有りません。表面上だけでも、そのように
なされるべきです。(外儀を右の通に可被成)」

信忠様も「その通りだ」と思し召され、秀吉は信忠様の御知音のように、世間では認識された。
そして後々も御目をかけるように成られた。

川角太閤記

秀吉が信忠に取り入った(?)お話。これは秀吉が京で奉行をしていたから、秀吉を介して
公家衆と信忠の仲を取り次げる、みたいな話なんですかね。



「いさみ賢き大将かな」と

2022年11月04日 19:47

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/04(金) 19:23:34.51 ID:A2ZHoV7J
甲府にてこの度、松山御陣(永禄6年(1563)の北条。武田連合軍による松山城攻め)に出陣するために米を
借用した侍衆について調査なされ、能々身上成らざると、武田信玄公は御分別あそばされ、彼らの寄親衆に
仰せ付けられ、それら侍衆の所領の内、収穫の悪い地を取り上げ、その代わりとして上納の土地を下し、
又或いはその後の忠節、忠功によって、所領の少ない者には御加増もなされた。

この事に諸人は信玄公を忝なく存じ、所領を取る者も取らない者も、「いさみ賢き大将かな」と
感じ奉った。

甲陽軍鑑

武田信玄が、軍役のために借米をした武士たちを救済したというお話ですね。