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週刊ブログ拍手ランキング【09/16~/22】

2021年09月22日 12:25

09/16~/22のブログ拍手ランキングです!


【ニュース】細川忠興が記した書物の裏に石田三成らの自筆書状 17
雨森九太夫のこと 17

雨森ニテハ無之大盛ニテ候 14
左内は隠れなき福人であり 13
私の主には景勝より他には無し 12

家康社爰ニテ立腹ルニ見ヨ 6
北条丹後の指物 5
蜂須賀家の紋章は 3


今週の1位はこちら!【ニュース】細川忠興が記した書物の裏に石田三成らの自筆書状です!
細川忠興と、様々な人物の関係性が見えてくるような、非常に興味深い発見のニュースですねー。
石田三成が秀吉の与えた金銭についての使いみちを指摘している所は、非常に秘書官適ですが、どういう権限で
そういう事をしているのか気になりますし、古田織部は借りた刀をちゃんと返したのか、とかw
そして蒲生氏郷や高山右近とつるんでいたというのは、畿内近国の旧織田家系武将の関係性を感じさせます。
こういった裏書文書はたまに驚くような内容が書かれていることも有り、今後の発見や研究の進展も期待させてくれます。

今週は同票でもう一つ雨森九太夫のことです!
こちらは石田三成家臣で後に土佐山内家に仕えた雨森九太夫のお話。
有名な島津のものを含めて、関ヶ原の戦場からの、西軍武将の逃亡譚は様々に伝わっているのですが、
これもその一つですね。内容としては割とざっくりしていますが、戦場の混乱の中、何かしら目立つ人以外は、
案外こんなものだったのかも知れません。それにしても運が良かったのでしょうが。
そしてこの時口から出た山内家に、結果的に本当に仕えたことも面白いですね。
知古がいたとはいえ、有限実行的な筋の通し方も感じちゃいますw
不思議な雰囲気のある逸話だなと感じました。

そして続けて雨森九太夫さんのお話雨森ニテハ無之大盛ニテ候
これも面白い内容ですね。雨森九太夫は戦場で5人分食べられるし2日絶食しても平気、という所からは、実にタフな
人物を想像させます。人間、生物学的に食いだめというものは出来ないといいますが、彼は基礎的な部分でスタミナが
凄いために、そのように印象されたのでしょうね。まあ食える時に食え、というのは近現代に至るまで戦場での基本とも
言いますから、その意味でも優秀な兵士だったのでしょう。逸話の中でも指摘されていましたが、廉頗の故事から
兵士の大食いに、良いイメージは持たれていたということもあったのでしょう。
これも不思議な魅力、雰囲気のある人物を感じさせる、そんな良いお話だと思いました。


今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当にありがとうございます!
また気になった逸話を着付けたときは、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
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左内は隠れなき福人であり

2021年09月21日 17:46

岡左内   
555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/21(火) 16:48:46.83 ID:JPhrziS0
岡野左内(岡左内)は上杉家に於いて一万石を取り、松川合戦にて伊達政宗と太刀打ちし、彼の猩々緋の
羽織に、政宗方の太刀痕を、肩に一つ、腰に一つが出来たが、それを縫い合わせつつ、金のより糸を以て
切り目に縫い含めたものを着けて、景勝の御免にて上洛された時に先乗りをした。
彼は岡野越前守と号した。蒲生秀行に奉公し、会津猪苗代の城主であった。

(中略)

左内は隠れなき福人(金持ち)であり、金銀を夥しく持ち、国に蔵屋敷が有った。会津にては
黄金を、書院と次の間に敷きつめて、その上に在って金子を見て楽しむこと度々であった。
これについて諸朋友の取り沙汰に、「左内は金を弄物にしている、人々からも、ただ町人のような
者だと悪しく言われている。何事か有れば金銀に心引かれて臆病をするだろう。」と笑いあった。

ある時、先のように黄金を広間一杯に積み並べて楽しんでいる所に、「我が組の侍、喧嘩仕出かしたり!」
と告げ来た。左内はそれを聞くと同時に、貞宗の刀を差し、秘蔵の鹿毛の馬に打ち乗り、一散に駆け付け、
そこに一日二夜居て、色々と仲裁し事態を済ませた。その時、先に広間に広げ並べていた黄金は
打ち捨て、その二夜一日の間に黄金のことを家人にも申し付けず、何も気にかけていないような
顔であった故に、「さては左内は、武用のため計りに貯えたものであり、金欲は無いのだ。」とl
諸人誉め、はじめは嘲笑っていた傍輩たちも、却って感じ入った。

また彼は、陣触れがある度に役者を呼んで、我が子の左衛門に能をさせ、出陣まで毎日、快く見物した。
その頃傍輩は皆、馬、物具、弓、鉄砲の支度で騒動していた。
左内はこのように申した

「私は常々武道を嗜んでいる故に、出陣といってもなにか特別に支度をすることはない。
他の人々は、常には能、囃子、連歌などにて遊んでいて、陣触れの時になって俄に忙しくなる。
私も能や乱舞が好きなのだが、普段は皆が方々に役者を呼ぶため、隙きがなく参ってくれない。
陣触れがあると皆々出陣の支度をするため、能も行わず役者が暇になるため、ここぞと能を致すのだ。
明日討死とも知れないのであるから、心を慰めるのだ。」
と笑ったという。

関ヶ原陣の前後も、会津に御発向とある時に、掛硯に金銀の貸し出しの帳があったのだが、家人に
「私が討ち死にすれば焼き捨てよ」と申し付け、また永楽銭一万貫(黄金万両なり)を上杉景勝に進上し、
「金銭のことについては欠けてはいないでしょうが、私は明日にも討死してしまえば、これは必要
ありませんので」と差し上げ、傍輩中にも金銀を配り、陣用意をさせた。

蒲生宰相殿(忠郷)の代に、左内が病死する砌、遺物として黄金三万両、正宗の太刀一腰を、忠郷へ
差し上げた。傍輩にも夫々に遺物を遣わし、それまでに貸し出した金銀についての手形を入れた箱が
一つあったのを、焼き捨てたという。

杉原彦左衛門覚書条々



556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/21(火) 17:07:30.52 ID:Hqvo/QYX
岡左内は間違いをおかさない
それはそうとここだと金子並べてその上に裸で昼寝する話はないのね

557 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/21(火) 17:51:44.85 ID:63xw1gfu
岡左内が岡野と書かれるのは、そもそも上杉家中に別人の岡野左内さんがいたことがあるから混同したって説もあったね。

蜂須賀家の紋章は

2021年09月20日 15:57

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/20(月) 11:23:28.88 ID:HAfabZVB
蜂須賀家の紋章は古くは卍字を用いたが、後に鉄線に改め、また八重菊を用いた。

正勝公(蜂須賀正勝)の時に将軍家(室町幕府)より桐章を許されるも、秀吉に憚って
柏円を用いた。公(蜂須賀至鎮)に至って蛇目を用いる。

家康が南宮山に陣した時(関ヶ原の戦い)、正利公(正勝の父)の甥にして蜂須賀彦助
の嫡子である金左衛門政吉を招き、紋章卍字の由来を問うた。

金左衛門が答えるには「元祖兵庫頭源仲政の二男の右馬頭頼行の嫡子、小平太政員
が伯父の源三位頼政とともに兵を挙げた時、高倉宮(以仁王)より綸旨ならびに卍字の
小旗を賜りました。

当時、政員は母方の紋章柏円を用いましたが、戦死後に嫡子の平太郎政隆が卍字に改め、
以来家紋に定めました」との由をもって返答した。

そのため家康から「以後は家の紋となすべし」と命があったことより、ついに蜂須賀家
紋章と定めるに至った。

――『峻徳公略伝



北条丹後の指物

2021年09月19日 18:59

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/19(日) 17:57:38.33 ID:+x+mbxvS
上杉輝虎(謙信)の時代の、家老・北条丹後守(景広)は大剛の侍であった。
ある時、一尺ばかりの白練の小四半(6センチ四方とも)に、黒蟻一疋を書いて、指物にした。
あまりに小さい指物であったため、謙信も見咎め、丹後を呼んでその指物の訳を尋ねた。
丹後答えて曰く

「皆人は三幅懸、四幅懸に下猪、登龍、その他大紋を付けて指すのは、敵方に良く見えるようにという
事です。その大指物より私の小四半は良く見えます。何故なら何時の軍にも、間近く乘りこみますから。」

そう申し上げると、輝虎も機嫌直ったという。
この丹後は謙信の死後に、三郎(景虎)と景勝の闘争の時、荻田與惣兵衛に鑓を付けられた。
この時は乘り抜けたが、その手疵にて相果てた、三郎方もそのまま敗軍したという。

(杉原彦左衛門覚書条々)



552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/19(日) 18:03:47.19 ID:KN/X7LVv
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5838.html
前に出典なしで出てたけど今日の話の方が詳しいな

【ニュース】細川忠興が記した書物の裏に石田三成らの自筆書状

2021年09月18日 18:40

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 10:21:23.91 ID:heYgV3tr
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210917/k10013263731000.html
NHK 細川忠興が記した書物の裏に石田三成らの自筆書状

2021年9月17日 6時27分

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、細川家が九州の有力大名となる礎を築いた細川忠興が記した書物の裏に石田三成古田織部の自筆の書状があることが
東京大学史料編纂所などの調査でわかりました。専門家は豊臣秀吉に仕えた武将たちの素顔がうかがえる貴重な史料だとしています。

細川忠興は戦国時代から江戸時代初期の武将で、豊臣秀吉などに仕え、細川家が九州の有力大名になる礎を築いたほか、茶道などにも通じた文化人としても知られています。

細川家の史料を保管している東京 文京区にある永青文庫と東京大学史料編纂所は共同で巻物になっていた忠興が記した書物を調べたところ、忠興が受け取った書状などの裏側を再利用していることがわかりました。

その中には、1586年ごろ、秀吉に一緒に仕えていた石田三成古田織部が自筆で忠興に宛てた書状が含まれていました。

石田三成の書状では、秀吉から受け取った金の使いみちについて忠興に「自分たちは恵まれているのだから、金をため込むのではなく周りに配るよう」説いていて、
専門家は押しつけがましいともとれるほど生真面目な三成の性格や人間性がよく表れているとしています。

また、古田織部の書状は、織部を名乗る前の「左助」という名前で「刀を貸してほしい」という趣旨が記されていて、専門家はほとんど残っていない織部の若い頃の書状だとしています。

戦国時代の武将の書状は、公的なものほど書き記す家臣によって代筆されたものが多く、調査を行った史料編纂所の村井祐樹准教授は「緊密に交流する様子が
自筆の書状からわかり、豊臣秀吉配下の武将たちの素顔がうかがえる貴重な史料だ」と指摘しています。

46 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/18(土) 10:22:16.34 ID:heYgV3tr
今回、調査されたのは細川忠興が能に関して記し、その後、巻物にして保管されていた書物です。

調査を行った東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授によりますと、一部で裏側に書かれた文字が透けて見える部分があり、何かの裏紙を再利用したものと思われていましたが、
詳しいことはわかっていませんでした。

解体すると15点ほどの書状や記録の裏紙が使われていました。

この中には、石田三成古田織部、それに前田玄以といった一緒に豊臣秀吉に仕えていた武将から忠興に送られた書状が5点、忠興が自分で記した書状の下書きが3点、
闘茶と呼ばれるお茶を飲んでその銘柄を当てる当時の遊びを行った際の記録が3点などでした。

石田三成の書状は、前段部分であいさつとして忠興が参加した茶会の感想を尋ねたあと、秀吉からもらった金の使いみちについて記しています。

三成の自筆の文字は黒くはっきりと記されていて、後段にいくにつれ書きたいことを詰め込むように行の間隔が狭くなっています。

また、古田織部からの書状では、忠興に対して「刀を貸してほしい」という趣旨に続いて、「あまり大きいものは困る」と細かい要望を記しています。

専門家はこの時期に行われた後陽成天皇の即位式に持って行くための刀を借りる用件だったと考えられるとしています。

古田織部からの書状は合わせて3点あり、いずれも織部を名乗る前の「左助」という名前が差出人として記されていました。

このほか、忠興が記した書状の下書きには、秀吉配下の武将である蒲生氏郷や高山右近などと連れだって京都の相国寺に行く途中に、予定を変更して秀吉のところに行ったことが記されています。



47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 11:46:31.16 ID:Y7Yr55+I
専門家もツッコんでるけど
褒美としてもらった金の使い道について横から口出しするの、まじで押し付けがましいな

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 12:13:26.31 ID:4EEgrKPK
へうげものキャラでそのまま想像できるなw

51 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/18(土) 15:34:47.84 ID:4JKoITUS
>>49
豊臣秀次からも借金が有ったと言うし、本能寺から豊臣政権下で戦も重なってたとはいえ、現代感覚だと道楽とも取れる茶の湯やその他の趣味にも三成からチクリと言われちゃうほど注ぎ込んでいたのかねぇ?

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 15:49:47.42 ID:akBVD7N6
三成面白いキャラしとるわ

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 13:55:19.49 ID:0ISUQ5f6
まぁ三成の性格からして公儀から貰ったお金なんだから
公的な事(部下への褒美とか内政)に使えよって考えなのは理解できる
忠興は数寄関係でで金使ってたし

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/19(日) 01:28:08.62 ID:mMAai4VO
>>51
刀貸してくれって織部に言われる辺り
見栄えの良い刀も数持ってたんだろうなって想像つくし
甲冑のデザインしてたって事は相応に色んな甲冑も所持してるだろうなって思うと
趣味に思いっきり散財してそうな感じではある

家康社爰ニテ立腹ルニ見ヨ

2021年09月18日 18:39

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 14:39:37.22 ID:csadipqG
本願寺一揆(三河一向一揆)の時、賀茂郡下江知村の四至屋平太郎という者が家康公に御味方
申した。針崎表一戦で公は打ち負けて六所の宮へ入られ、敵は岡崎の城へ押し入らんとした。

この時、平太郎は公の御装束を着て、城の大手で寄せている敵に向かうと、「家康こそ、ここ
にて立ち腹しているぞ。見よ!(家康社爰ニテ立腹ルニ見ヨ)」と大声で腹を十文字に掻き切り、
敵はこれを見て事実と覚え、引いていった。

その後、家康公は関ヶ原より御帰陣の時に矢作へ出向かい、(平太郎の)居り申す所を御尋ね
になった。(平太郎の後家は)殿様に御不足(不満)を存じ奉り、「私こそが四至屋平太郎
後家です」と申し上げた。

公は「そうであったか」と仰せられて、手作と70石を下された。その末裔を中根喜蔵と申す。
本多九平衛の話の覚書。

――『三河東泉記



私の主には景勝より他には無し

2021年09月17日 18:24

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 17:20:26.10 ID:A57wqFIW
前田慶次郎は、関ヶ原後の減知転封の折に、上杉景勝より暇を出されたが、
「そのまま召し仕り下され」
とて、五百石にて米沢に共をした。方々より七千石、八千石にて、抱えたいと招かれたのだが、
慶次郎は関ヶ原陣にて、諸大名を見限ったのだ。

「治部(石田三成)が負けると等しく降参し、追従軽薄、させさて男は一人も無し。
景勝ばかり、始めより終わりまで、弓矢を取り腕を張った事、まさしく武士なり。
私の主には景勝より他には無し。」

そう言って在郷へ蟄居し、弾正(上杉定勝)代に病死した。


杉原彦左衛門覚書条々



545 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 17:39:17.09 ID:MGyRhaXZ
        だ

        が
   そ

   れ

   が

   い

   い

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 08:20:40.17 ID:UccZ4pjD
前だけイジろう

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 09:35:17.25 ID:0SpbPWgs
はなのけ いじろう
とか
はなのけ いじろう とします
だったら漫画も人気でなかっただろうな

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 10:09:36.61 ID:3ZGurbSa
まえだけ いじろう とします

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 21:54:47.63 ID:iwDTxuAA
おだの豚だ

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/19(日) 12:23:53.13 ID:Ky3syVjQ
得がワイ、え~安っ!

雨森ニテハ無之大盛ニテ候

2021年09月16日 15:10

539 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/15(水) 22:46:33.25 ID:EnSSGzM9
雨森九太夫と大盛りの赤飯

>>530に書いたように、山内家に600石で召し抱えられた雨森九太夫であるが、
召し抱えた山内一豊とのエピソードを一つ。

慶長七年(一六〇二年)十月、土佐の山内家菩提寺・真如寺にて法事が催された時のこと

寺から出された赤飯を大盛りにて2杯、主君・一豊の眼前で食した九太夫であった。

これを見た一豊は

「雨森ニテハ無之大盛ニテ候」

と言い、九太夫にもう一杯赤飯を食べるように声をかけた。

九太夫はもう一杯赤飯を食べると

「此九太夫強勇ニテ戦場ヘ赴ク時ハ朝ニテモ晩ニテモ五人前ノ飯ヲ食シ二日程ハ無食ニテ相戦候者故三盛モ食シ候筈」

と言われたと言い、豪勇の士として主君・一豊にも親しく知られていたとのことである。

参考:島原の乱の使者の戦い(4)土佐藩の場合
https://www.shokei-gakuen.ac.jp/univ/wp-content/uploads/sites/2/2019/07/86509874ddc951b05fc5872251d94c78.pdf
※PDF注意
山内家資料 第一代 一豊公紀収 真如寺記録509頁
何処の廉頗やねん・・・



雨森九太夫のこと

2021年09月15日 17:42

530 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/14(火) 22:39:53.85 ID:eGQD6OyZ
雨森九太夫のこと

土佐雨森氏の初代である雨森九太夫氏康は元は近江の人で親子で石田三成に仕え、小田原の陣から朝鮮の役など
秀吉の数々の戦に参加した兵である。

石田家に仕えた時分は九兵衛と名乗っていた。隙を見て契約を迫る白いアレではない/人◕◡◡◕人\ボクトケイヤクシテマホウアシガルニニナッテヨ。

関ヶ原の合戦でも当然西軍に属し、前哨戦である九月十四日の大垣表の戦では2つの首を取って島左近に称賛されたという。
翌十五日の関ヶ原本戦でも奮戦したが苦戦し、そして彼の属する西軍は敗北・潰走する。

生き残った他の西軍将兵と同様に戦場を離脱しようとする九兵衛であったが、落ち武者を捕えんとする東軍の検閲は厳しく多数の元仲間たちが
次々と囚われていた。

そして九兵衛の前に立ちはだかったのは・・・
人斬り兵部が率いる井伊の赤備えであった。

(# ゚Д゚)「何者だ!?」

赤鬼どもに強く詰問される九兵衛。絶体絶命である。

(;゚Д゚)「そ、それがし・・・」

(# ゚Д゚)「あぁん!?」

(;゚Д゚)「山内対馬家中の者でござる!!!」

九兵衛は己が知己に山内家の者がいたことを思い出し、思いっきり嘘をついた。

( ゚Д゚)「なんだ味方か、よし通れ。」

(;゚Д゚)「失礼仕る」

こういうやり取りだったかどうかは定かではないが、いずれにせよ山内家の家臣を詐称したことで彼の命は関ヶ原の露と消えることはなかった。

雨森九兵衛氏康はのちにこう語っている。

( ゚Д゚)「山内家の御威光を借り不思議と命助かり申した。」

そして戦の論功行賞も終わり、慶長六年(1601年)山内一豊は遠江国掛川・5万1000石から土佐一国・9万8000石への加増転封となった。
この時、雨森九兵衛は山内家に仕官し関ヶ原の縁があってか召し抱えられることとなった。

石田家時代に450石だったが600石での召し抱えであったという。

九兵衛は九太夫と改名し、山内家によく仕えてのちには大坂冬の陣や福島家改易の際の広島城受け取りなど、大いに働きその天寿を全うすることと・・・

はならなかった・・・。

今宵はここまでに致しとうござりまする

参考:島原の乱の使者の戦い(4)土佐藩の場合
https://www.shokei-gakuen.ac.jp/univ/wp-content/uploads/sites/2/2019/07/86509874ddc951b05fc5872251d94c78.pdf
※PDF注意



532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/14(火) 23:45:30.33 ID:oB2QnFu8
土佐の酒乱王となんかあったのかな

533 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/15(水) 07:23:51.13 ID:EnSSGzM9
>>532
アル中とは特に何もないけど主命に殉じたと言う感じかなぁ。

534 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/15(水) 07:48:23.10 ID:aPQMpRJM
雨森って見ると、はだしのゲンを思い出すのう

おどりゃクソ森! ギギギ…

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/15(水) 11:00:26.27 ID:4zUx+g5Y
バカボンパパの声を・・

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/15(水) 13:47:38.18 ID:kME7rw3o
雨森って言ったら浅井氏のトリオユニットの一員だけど
元近江の人って事だし親族だったのかな

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/15(水) 14:16:33.21 ID:r3+yBC2H
雨森氏といえば、キッセイ薬品の創業者は雨森氏だったそうな
雨森氏の紋が橘紋なのにちなんで橘生化学研究所
のちに読みを改めてキッセイに

538 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/15(水) 15:17:12.95 ID:bttUh3TW
近江なら山内一豊も長浜にいたことがあるし、その時に何か縁が既に有ったのかも知れないなぁ。

山内家仕官にあたっては山内康豊の推薦もあったみたいだし

540 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/15(水) 23:45:05.51 ID:j9vATaNG
>>536
>>537

https://kijidasu.com/?p=30981

恐らく一族に間違いはないと思う。

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2021年09月15日 14:15

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千代の笠の緒文 15

山内忠義の酒豪伝説 14

世の中にはよく似た人もいるかな 11
裏切りは御免候へ 9
十歳ほどの女児が石を投げたところ 9

諸人は秀康卿を褒め奉った 8
左様のうつけたる同類に 7
伊達の加勢 6


今週の1位はこちら!千代の笠の緒文です!
山内一豊の妻、千代こと見性院の賢妻譚でも有名な、笠の緒文の逸話ですね。関ヶ原後の一豊の土佐拝領にも、
大きく影響を与えたと言われます。後に頼山陽もこれを称える詩を作ったり、江戸期には既に有名だったのですね。
また使者となった田中孫作が、途中で追い剥ぎに遭うなど多くの困難を凌ぎつつ目的を果たすなど、彼の冒険譚としても
読めますね。後に奪った衣服がその田中家の定紋となるなど、後日譚も含めて面白いと思います。
それにしても、戦国武将の書状には、秘密保持のためか「読んだら焼いて下さい」というものが割と見られ、
にもかかわらず残っているという事は焼かれていないわけですが、この見性院の書状はきっちり焼かれていて、
にもかかわらず内容や意図がよく知られているというのもまた面白いことです。
山内家を興隆させた、一種の神話的趣もある、そんな逸話だと思いました。

2位はこちら!山内忠義の酒豪伝説です!
土佐と言えば鯨海酔侯こと、幕末の藩主・山内容堂が有名だと思います。彼くらいに成ると、酒を飲むことが一種の
アイデンティティになっていますね。2019年のデータだと、高知県は一人あたりの飲酒量で、都道府県中堂々の2位と
なっており、さらに2014年のデータでは、都道府県別飲酒費用で全国1位だそうで、流石と感じさせます。
こういったランキングを見ると他の四国3県はさほどでもなく、高知の得意性も見えてきますね。
そういった伝統は、或いはこの、土佐藩二代忠義の時代にはもう顕れていたのかなあ、なんて、このお話を見ると
察してしまいますね。或いは外から入ってきた山内家が、二代にして土佐の風習、流儀に同化したとも言えるのでしょうか。
そんな事も思ったお話でした。

今週管理人が気になったお話はこちら!十歳ほどの女児が石を投げたところです!
この記事の中にもあるように、有名な「三作石子詰」など、興福寺の鹿を殺傷することは大きな罪とされていました。これは
興福寺の奈良支配の象徴でもあったようです。しかしこう言ったことにはやはり古くから反発も有り、天文元年(1532)7月に
勃発した大和天文一揆では、一向一揆により興福寺の鹿が食べ尽くされた、なんてお話も残っています。
このようなお話が今に伝わるのも、昔から多少なりとも、こういった過度な鹿の保護に理不尽さを感じていたのでしょうね。
江戸期に入るとこのような興福寺の宗教特権は廃止されていき、1670年に奈良奉行になった溝口信勝によって、
鹿殺しに対する興福寺からの処刑要求が拒否され、この慣習は無くなりました。ある意味江戸時代らしい変化だと思います。
興福寺の鹿は今も大切にされ、奈良の象徴ともなっていますが、その今に至る歴史も知っておくと、また様々な角度から
これを見ることが出来る、そんなことも考えさてくれたお話でした。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンをおしてやってくださいね!
(/・ω・)/

伊達の加勢

2021年09月14日 18:45

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/14(火) 15:06:35.11 ID:q8uyA47f
慶長出羽合戦、始め最上義光上杉景勝の大軍が押し寄せると聞いた時、子息修理太夫家親に申された

「この度、直江山城守(兼続)大将にて四万余りの軍兵を引率し攻め来たるという事であり、
敵勢は定めて、雲霞のごとくであろう。
私は山形の城を以て。出来る限り防ぎ戦い、叶わずば腹を切る。その方は早々に奥州岩手沢に赴き、
加勢を伊達政宗に乞うように。

但し、我が姉(義姫、実際には妹)は政宗の実母であり、その方と政宗は従兄弟であるのだが、
先の鮎貝藤太郎(宗信)の事で政宗との関係が悪化し多年となっている(鮎貝宗信謀反事件)。
既に弓矢も数度に及んでおり、伊達家も我々に加勢する事は中々合点しないとは思う。

しかし政宗も関東方無二の味方であるのだから、私からの要請を聞く時は、関東(家康)の後聞を憚り、
加勢すること必定である。
その内に山形が落城すれば、私は討ち死にする。その方は生き残って、家名を相続するのだ。
父子が一所にあって討たれるなど、言い甲斐もない事だ。」

そう言って今生の暇乞いの盃を取り交わし、家親は馬に打ち乗って奥州岩手沢を指して駆けた。

九月八日、岩手沢に到着して政宗に対面した。家親は言った
「この度、関東の御下知により義光も軍兵を催促し、米沢口より会津に取り掛かるべしと支度をしていた
所に、治部(石田三成)が大阪に討って出て、京都、畿内がこれに一味し、伏見の城を攻め落とし、
既に治部の先勢は美濃口に充満しているとの事で、関東の御勢は会津攻めを止められ、江戸に引き入り、
上洛されました。これによって直江山城はその利に乗じ、この隙を伺って、四万余りの軍兵にて近日、
最上を攻め潰すべき支度をしているとの情報が申し来ました、そのため味方にも数ヶ所の砦を構えさせ
待ち受けていますが、大敵であれば、此の方が打ち負けること必定です。

事新しき申絛ではありますが、貴殿の御母堂は我が叔母であり、従兄弟のよしみ浅からず。
然れども先年の鮎貝藤太郎の事により、伊達・最上は確執に及び敵味方となり、数年争いましたが、
これは頗る本意では有りません。

この度直江が最上を攻め平らげれば、則ち、さらに下湯の原にかかり、岩手沢に取り掛かること、
隴を得て蜀を望むの勢いはとどまることは無いでしょう。これはいわゆる、唇亡びて歯寒しという
警句です。

今度、多年の宿意を咎めること無く、加勢を出され、最上の急難を救われれば、外には関東への奉公、
家は一家を救う所、名実ともに全き所であります。
正に今、最上は大事に及んでいます。貴殿が加勢されず、直江が最上を攻め取れば、一体何の面目が
あって、御所(家康)に見えられるのでしょうか?」

このように理を尽くして申されると、政宗もこれを聞いて「尤も至極」と同心し、
「追っ付け、加勢を出すので、貴殿は父義光と一所に、山形を持ちこたえるように。」と家親を反し、
則ち最上へ加勢を差し越した。
(中略)
政宗総軍は旗の紋に、琵琶の図を書いた。『我は琵琶なり。敵ひけ。』という事である。

近世軍記

慶長出羽合戦に於ける、最上から伊達政宗への救援要請について



525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/14(火) 18:41:05.76 ID:Ovha0XjA
今となってはいろいろ突っ込みはあるが一番は家親じゃなくて義康の誤りか

諸人は秀康卿を褒め奉った

2021年09月13日 17:32

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/13(月) 14:35:51.44 ID:mazs0ERa
石田三成らの挙兵を聞き、徳川家康が小山より引き返した時、
結城少将秀康卿は宇都宮の御陣を召し、会津の上杉景勝に対する押さえとして置かれた。

この時景勝は長沼に在ったが、御所(家康)が小山を引き払ったとの情報を聞いて、
彼が長沼を打ち立ち、七万余騎にて江戸を指して切って上がるという内容の雑説がしきりに
流れた。那須七党の人々も、景勝が討って出てきては矢も盾もたまらない事で、とんでもない
事だと日々に騒いだ。

秀康卿は当時二十七歳であったが、勇猛さは御父家康公、御養父秀吉公に似られたのか、
使者二人を景勝に遣わされ、

『この度京都大乱に付き、家康公はこの表を引き払い上洛されました。留守居として私はここに罷り有ります。
安閑として日を送るのは待遠ですので、貴殿と一合戦仕りましょう。
御同心であるのなら、私がそちらに取り掛かるか、又はそちらから此の方に御出馬されるのか、
御返答次第にいたしましょう。』

このように仰せ遣わされた。景勝はこの返事に

『御使、忝なく存じ候。
我らは輝虎以来、人の留守に仕掛たことはありません。御所が御上洛に付き、御留守として貴殿が
御在陣との事ですが、何にしても似合の用事を承るものです。

一戦の儀は、重ねて御所がこちらに出張なされた時に、先手をなさって下さい。
その時、一戦仕りましょう。
只今、御所御留守の間に若き人が居る所に取りかけるような事は、中々思いもよりません。』

と返答した。すると此の頃の雑説はたちまちに止み、諸人は秀康卿を褒め奉った。

近世軍記



521 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/13(月) 17:26:54.04 ID:LSVUugA4
>>520
坊ちゃんはお呼びじゃねぇ
親父が戻ってくるまで大人しく留守番してろ


と、暗に言われてるようにしか見えん。
花の慶次でも秀康が景勝に挑もうとして袖にされるこの通りの話あって秀康が凄く悔しそうに戦するんじゃぁ!って出て行こうとして止められてたけど、景勝にしても面白くないよなぁ

522 名前:羊羹録 ◆cA7oIM8fok [] 投稿日:2021/09/14(火) 12:21:06.87 ID:ytdXkE9W
>>521
景勝・・・百姓一揆であわわ
兼続・・・最上のロートル兵にあわわ
慶次・・・最上のロートル兵にあわわ
秀康・・・余裕
政宗・・・(最上領にいる)ママ大丈夫かな?
小十郎・・・最上も上杉もどちらも潰し合わねーかなー

と言うのが実情

524 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/14(火) 16:38:24.04 ID:3LbuLjP1
>>522
>景勝・・・百姓一揆であわわ


慶長出羽合戦とその前後、上杉家は二手に分かれて最上領を侵略しながら一揆勢も相手にしてたの?

裏切りは御免候へ

2021年09月12日 16:14

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/12(日) 14:45:20.23 ID:ofsTfoaa
蒲生秀行と申すのは、童名は鶴千代、その後藤三郎と号した、蒲生氏郷の嫡子である。
家老・蒲生四郎兵衛(郷安)の所業により家中が二つに割れる、大きな騒乱が起こった(蒲生騒動)。
その咎により、百二十万石の会津を召し上げられ、ただ十八万石にて宇都宮に移されたため、
譜代の侍共の多くが会津に残り、新たに入部した上杉景勝に召し抱えられた。

そして徳川家康による会津征伐が行われると、秀行は密かに、自筆の書状を使者に持たせて
会津に残る元蒲生家の侍共に遣わし、このように伝えた

『お前たちは何れも、元々は蒲生家譜代の侍である。一旦上杉家に付いたといっても、
きっと旧恩を忘れてはいないと思う。

この度、お前たちには秀行に対して、宇都宮が関東方の一の手先である事を以て、関東の先手で
あるとして向かってくるのではなく、昔の契を思って、景勝を裏切ってほしい。
それ私にとって本望であるし、その上に大分の恩賞を出す。』

これに対し、栗生美濃守(初めは寺村平左衛門)、岡野(岡)左内、志賀与右衛門、布施次郎右衛門、
外池甚五右衛門、小田切所左衛門、高力圖書、安田勘介、北側圖書、等は何れも秀行の直書を
拝見し、返状を送った。その内容は

『思し召しの所、誠に以て浅からず、忝なく存じ奉ります。
さりながら古より申し伝わる事にも、人の禄を食む者は、その人のために死すとあります。
古主の御恩浅からずと申しながらも、差し当たって上杉の恩を受けながら裏切ることは
罷りなりません。殊更、景勝は現在天下を敵として受けられ、危ういことは目前に見えます。
こういった時に挑み、二心を差し挟むというのは、武士の恥辱です。

ではありますが今後御一戦に及んだ時に、秀行様が御難儀に及ばれた所を見かけた場合は、
我等は何れも馬を控え、進むこともしないでしょう。どうかこれを御恩報と思し召しになり、
裏切りは御免候へ。』

これを見た秀行は感涙を流し、聞く人も皆称嘆した。

近世軍記

世の中にはよく似た人もいるかな

2021年09月11日 15:45

514 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/11(土) 11:02:29.87 ID:MyteGYwx
>>512の話

山内一豊、領地の掛川城を出発して駿河の国鞠子に着いたときのこと。
大坂城留守のことを心配した一豊は市川山城という老臣を使いに出し、大坂へやった。

山城が君命を帯びて引き返したところ、西軍一味の者どもは相通じており、通行は困難と見えた。

山城は一計を案じ、熱田の禰宜に身をやつして関の通行を試みた。近江の水口に差し掛かったところ、
関にて厳しく見咎められ拘留の身となって取り調べされた。

ここは西軍方長束大蔵大輔の領分であり、折しも番手の中には山城を見知った者がおり、
山城もこれに驚いたがあくまでも

私は熱田の禰宜であり、どこぞの誰かと一緒にされては迷惑千万であると、しらを切りとおそうとした。

そこへほかの者が出てきて、
「若狭の市川(市川山城は若狭の生れという)ならば何処そこの某がよく知っている。そのものを呼んで調べさせよう」
と言い出した。

呼び出された某は山城と目と目を合わせてじっくりその顔を見たが、
「世の中にはよく似た人もいるかな。若狭の市川ならば顔に向こう傷がある。皆様もよく見て見られよ。」
と、声を上げ皆で集まってその顔を吟味したがその様な傷は無いため、人違いで本当の禰宜であったかと
いうことになった。

最後に本物の禰宜か試すため、山城は祝詞の一つでも上げて見せよと申しつけられた。
山城は戸惑ったものの、常々銘剣の経文(原文には著者、いまだそれがどのようなものかは知らず。御奮記のままを出すとある)
を暗誦していたことを思い出し、それを一誦した。

戦国の文字を習わざる悲しさに、誰一人これを偽りと思わず真の禰宜と信じて関の者たちは山城を放免した。
かの弁慶が安宅関の頓智と同一なりと謂うべし。

のちに山内一豊はこのことを聞いて、市川山城を称賛し武夫は神道も心得たほうがためになると左右の者たちに言ったという。
ただし、御奮記には併せて(長いので略)戒めの言葉も載せられている。

また、最後に山城の詮議に呼ばれた某は己の懐に窮鳥入り来ると知って、本当は山城の知人であったが、
山城が捕らえられることが忍びないとの情けから見逃したこと。武夫たるもの殺伐としたことを専らとするが、
この某の様に武士の情けを知ることもまた奥ゆかしきことである。
某の名は伝わっていないのは残念であるが、土佐国畸人伝続編には大庭土佐守とあるので参考とすべし(最後原文ママ)。

こうして虎口を逃れて大坂表へ至った市川山城であった。

この後、大坂城にて見性院の元へ至った市川山城は人質として夫の足枷になるまいと死を選んだ
細川ガラシャのことを知った見性院から介錯を頼まれるも、強くそれを諫め矢文などで城中の情勢を調べ、
ほかの大名各家からも妻子が人質としてとられていることを報告し、のちに山内一豊が追加で送った
大塚藤右衛門や麻田忠左衛門ら屈強の武士と合流して、見性院を守り切ったという。

大塚藤右衛門は道中、中川留にあったが水練の達者であったため泳いで渡り切り、見性院の元に馳せ参じたという。

国立国会デジタル図書館 かゞみ草
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/903912/13?tocOpened=1



515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/11(土) 11:20:28.10 ID:o6LoPAZe
白紙なのにあえて通した冨樫のような器の持ち主

516 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/11(土) 11:56:25.76 ID:MyteGYwx
>>514
書き込んだ後、大庭土佐守を調べたら石田三成の配下にその名があって、

・関ヶ原で戦死した
・関ヶ原戦後に藤堂高虎に仕えた
・大坂夏の陣、天王寺・岡山の戦いで城内の指揮官に名前がある(wikipedia)

てなってるんだけど、どれがその人なのか…
複数人同姓同官が居たのか?

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/11(土) 15:29:03.49 ID:DZLNymr8
>>516
親子なんじゃねーの

千代の笠の緒文

2021年09月10日 20:00

507 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/08(水) 22:04:20.53 ID:xIoK6K1r
千代の笠の緒文

恐らくまだ出ていないと思われるので投下。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦の前のこと。会津の上杉景勝討伐に向かった徳川家康であるが、
のちに関が原で家康と激突する石田三成は家康に付き従った諸大名の妻子を人質として家康らをけん制しようとしていた。

上方ではその様な状況の中、山内一豊の妻・千代こと見性院の元に増田長盛と長束正家の連署で一通の書状が届いていた。

千代の夫である山内一豊に石田三成の西軍へ与力するよう促す内容の書状であった。

使者の言葉通り、夫・一豊にこの書状を届けることにした千代であったが千代はそれとは別に2通の書状をしたため、
一通は未開封の増田と長束の書状と共に文箱に入れ、もう一通は観世よりにして夫への使者である田中孫作の笠の緒により込んだ。

孫作は下野に陣を張る一豊の陣へ向けて書状の入った文箱を持って旅立ったが道中で追い剥ぎに遭い文箱と笠は守ったものの、
自身の大小と衣服を追い剥ぎに奪われてしまった。

孫作は他者から衣服と刀(銘兼元という)を奪って旅を続け、美濃路では鮨屋の床下で二昼夜を過ごしてすし桶を盗んで飢えをしのいで
何とか下野諸川(現在の茨城県古河市)の一豊の陣までたどり着いた。慶長5年(1600年)7月24日のことであるという。

文を受け取った一豊はまず孫作の笠の緒に練りこまれた千代からの文を読んだ後、それを近侍の野々村迅政に焼かせたのちに文箱の封を解かずに
家康に届けさせた。

家康は大坂の状況を知り得たことと同封された千代からの書状に一豊が家康に忠を尽くすよう書かれていたことを読んで感動したという。

ここからは推測であるが、一豊が読んだのちに燃やした孫作の笠に織り込まれた千代からの文には文箱を未開封のまま家康に差し出すよう記してあったのではないかという。

西軍方と千代からの手紙を未開封で家康に差し出し、全ての判断を家康にゆだねたその行動こそが一豊の家康に対する二心の無さの裏付けともなり、翌日の小山評定での掛川城の供出など
戦後の山内家の加増へと繋がった一連の流れへとつながっているとも考えられているという。

この時、千代からの使者となった田中孫作がその旅路で奪った衣類についていた紋は田中家の定紋となり、この時のことを孫作は名誉とみなしていたという。
孫作の墓所は一豊夫妻と同じ妙心寺大通院にある。

参考①:国立国会デジタル図書館 かゞみ草
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/903912

参考②:Wikipedia 笠の緒文
https://ja.wikipedia.org/wiki/笠の緒文

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/09(木) 06:59:49.32 ID:foSPLbJU
どこで読んだか忘れたが山内さんが妻を心配し過ぎて3回くらい大阪に家臣派遣した話好き

しかし西軍の関所どうなってるんだ
上のと合わせて山内家だけで4回突破されるなんて




509 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/09(木) 07:26:12.43 ID:a/jaiCIJ
>>508
この話の場合は西軍側の書状を渡す使命だからその使者と言うことで問題なく通されそうだけど

510 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/09(木) 14:01:10.46 ID:Bdmlm/6/
>>507
田中孫作は紛れもない勇士だと思うけど追い剥ぎに遭った時、笠と文箱は守ったけど新たな服と刀を奪うまではこんなだったのかな?
https://i.imgur.com/yv65uRz.png

511 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/09(木) 18:37:08.81 ID:vUaP+85t
?「戦場でも編み笠一つあればいい」

512 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/10(金) 08:16:00.90 ID:8/hcsJ2h
>>508
>>507の下に貼ってあるかゞみ草の13ページかりそれっぽい逸話が有る。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/903912

市川山城と言う老臣を派遣したけど、西軍側の関所抜けるのに熱田の禰宜に化けて抜けようとしたら顔見知りがいてバレそうになったと言う。

実はバレてたけど、市川の必死の演技に顔見知りは人違いと偽って通してあげたみたいに書いてある。

513 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/10(金) 08:23:41.61 ID:8/hcsJ2h
>>512追記
義経と弁慶の安宅の関の話のオマージュみたい

左様のうつけたる同類に

2021年09月10日 18:08

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 16:24:19.47 ID:Y2Q3SaZT
堀久太郎(秀治)が越前から越後へ入部した折り、家老の堀監物(直政)より国中に触れ渡し、
当年の年貢を納め取ろうとした、
この時百姓たちは言った

「時分は既に冬になっています。年貢の半分は既に、転封された上杉殿に納めていますので、
その分を納めることは罷りなりません。」

そこで監物方より上杉家の直江山城守(兼続)へ申し遣わし
『納め取られた越後の当年貢半分を、こちらに返されますように。』
と伝えた。直江はこの返答に

「久太郎殿が越前を出られる砌に、越前の当年貢半分を納め取っておくべきでした。
会津領においても、前の地頭である蒲生秀行は当年貢半分を納め取った上で宇都宮へと移られた。
そのため(上杉)景勝も会津に移って、その残り半分を納めました。
越後に於いて納めた半分を、返納するいわれはない。」

そう言って堀監物の要求に肯かなかった。
しかし監物は重ねて使者を以て、

『越前の当年貢は残しておいて蔵に納め置き、公儀へと差し上げたのです。
ですので越後半分を戻されますように。』

と乞うたのだが、直江は笑って

「越前の年貢半分を納め取らなかったのは、監物の誤りである。
左様なうつけ者の同類に、我々が成る事はない!」
(左様のうつけたる同類に、此方には罷りならず)

そう嘲り愚弄した。そのため、堀監物はこれを根深く遺恨に思ったという。

近世軍記

そういえば堀家が移った後の越前北ノ庄城には、当初小早川秀秋が入る予定だったな。



30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 18:04:38.61 ID:21GKIKTf
そういう決まりがあったならともかく、公儀へ年貢渡す前に上杉と調整してなかった堀のミスだな

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 20:14:16.94 ID:0w+T8jRj
年貢については通例で国替えの時はそうするってなってた筈
ただ黒田と細川も同じ事で揉めてるし(黒田が持ち逃げ)
その時に細川から提訴受けた家康は裁定しなかったので
法で決まってた訳ではない模様

ちなみに黒田が移る先の小早川も持ち逃げしてたので
黒田が持ち逃げしてなければ黒田も困ってた
細川や堀の脇が甘いといえば甘いか

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 23:02:29.70 ID:KX7wPrkn
黒田細川堀と、ガメツもといしっかりしてそうな家が被害者側なのがなんか面白いな

33 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/10(金) 23:45:05.05 ID:z9qVs5NZ
まぁ堀家は名人Q太郎じゃなくて若年の二代目Q太郎だし舐められてたのかも知らん

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 10:57:35.23 ID:jXOTE7+0
この話し一年分持ち去ってたのかと思ってた

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 13:18:11.10 ID:7XTJHesh
正直年貢持ってかれたどうこうよりも、秀吉に朱印状で全員会津へ連れてくよう言われた上杉家臣が残ってる事のがよほど堀からしたら問題よね
実際乱になった際に上杉が煽って一揆起こしてたし

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 16:50:23.87 ID:jWvq4BOh
農民は一切連れて行くなだから帰農されるとどうしようもないし

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 16:58:15.14 ID:9KDPLPok
いやー、家臣全員連れてくよう言われたんですけどーたまたま家臣たちが一斉に帰農しましたー
ってさすがに無理があるくない?

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 19:31:52.06 ID:YwIdib8P
上杉の遺民一気ってだいたい越後風土記が元の記述?
堀毛の家譜とかにも載っている?

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 19:34:40.46 ID:YwIdib8P
地元が蜂起に参加していたらしい記述見かけたんだけど
該当箇所が見当たらない

40 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 20:55:43.02 ID:hllB7l4p
( ●Д`)y━・~~ 旧臣使って一揆の煽動とか酷い奴も居たもんだな

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 21:03:35.30 ID:u236VH5d
輝元「どこのどいつだよ」

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 21:31:43.99 ID:WBGVVljn
>>40
お前はネズミ汁でも喰ってろ

43 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 23:11:53.00 ID:MGyRhaXZ
上杉謙信・山内忠義・島津義弘・福島正則「イッキ!イッキ!イッキ!イッキ!イッキ!(エンドレス)」

44 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 23:16:41.44 ID:hllB7l4p
>>43
母里太兵衛「ウェーイ!」

十歳ほどの女児が石を投げたところ

2021年09月09日 18:28

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/09(木) 00:28:08.22 ID:qJf4q0oP
天文二十年十月二日(1551年10月30日)
奈良子守町にて十歳ほどの女児が石を投げたところ思いがけず鹿を打殺してしまったので
捕縛して興福寺の周囲を引き回し首を刎ねたとかなんとか。
女児の家族は即座に逃亡したので、住居を破却して処罰とした。
興福寺略年代記


「三作石子詰」の伝承とは別の、
春日大社神鹿を誤殺しただけで殺されたという戦国時代のお話



27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/09(木) 21:27:24.23 ID:E6UdqiJF
>>25
十歳ほどの女児が投げた石で死んでしまう鹿さんサイドにも問題がある

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 00:47:57.59 ID:oXJ+q81C
ぅゎ ょぅι゛ょ っょぃ

山内忠義の酒豪伝説

2021年09月08日 17:28

19 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/07(火) 23:03:56.60 ID:OiO5BSeI
山内忠義の酒豪伝説

ある時、大名達の酒宴に参加した土佐藩の2代藩主・山内忠義はひたすら飲んだ。
そして、しまいには高いびきをかいて眠りはじめたという。

また、京の二条城にて酒宴が行われた時のこと。
例によってしこたま飲んだ山内忠義であったが、宴もお開きとなって宿所に帰ることとなった。

「暑っついのう」

山内忠義は衣服を脱ぐと駕籠の上に跨り、あるいはその上に立ち忠義は駕籠をそのまま京の町中を走らせた。
京の町衆はその姿に唖然としたという。
また徳川家光に子どもが生まれた時のこと、忠義は江戸城にてその祝いの宴に参加した。

さて、山内忠義は・・・

飲む!吞む!!飲む!!!ひたすら酒を浴びるかのように吞んでいた・・・。

心配した周囲の者達であったが忠義は

「いやぁ、このような祝いの席では飲まなければ!ハッハッハッ!!(*´Д`)」

と諫める声もどこへやら、とにかく酒を飲み続けた・・・。
そして吐いた
https://i.imgur.com/FcjHWkL.png
吐いた
https://i.imgur.com/WF8H0vf.jpg
盛大に吐いた
https://i.imgur.com/KTmBP9a.jpg
https://ameblo.jp/takashi-x11r/entry-12386660858.html
↑こちらのサイトによると吐いたものの処理はお付きの小姓たちが自分たちの口でおこなったらしい・・・。
まさにこの後スタッフが美味しくいただきました・・・。

https://i.imgur.com/cIJ57k8.jpg
大河ドラマとかになってもテレビなどでは放送できませんなこりゃ(;゚Д゚)

流澤遺事ほか』

20 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/08(水) 04:42:26.97 ID:xIoK6K1r
>>19
追記
http://www.tosajizakeya.com/event/index.php?id=2&mode=info&group=grp01&level=2



22 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/08(水) 16:12:46.44 ID:KFLepEEM
山内忠義「俺が酒豪らねばならぬ。」

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/08(水) 16:14:47.32 ID:9rkK0nga
福島正則もびっくり

24 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/08(水) 16:25:57.53 ID:4f+gG7hW
>>23
こんだけ酒で問題行動起こしといてよく改易ぶち喰らわなかったよなとは思う。

26 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/09(木) 08:17:10.64 ID:QvBo8cLd
山内家の家紋これで良いんじゃないかな?
https://i.imgur.com/HZJyQCL.jpg

週刊ブログ拍手ランキング【09/02~/08】

2021年09月08日 15:19

09/02~/08のブログ拍手ランキングです!


今治城の石集め 11

治衛門と今治城 10
今治城と木山音頭によいやな節 10

蒲生氏郷は藤原房前の大臣六代の嫡孫 7
豊臣秀次の切腹 7
思いのままに謀を廻らせた 7
仙桃院の演説 7

我、若年より大君の御近習に侍り 5
【ニュース】信長「最愛の女性」菩提寺取り壊しへ 630年以上の歴史に幕 4


今週の1位はこちら!今治城の石集めです!
今治城の石垣建設をめぐるお話。利口と言えば利口、悪どいといえば悪どい。そんな内容ですねー。
また全く同じ話が福島正則の広島城築城にも有ることも、非常に興味深いです
福島正則「石一個に対し米一俵差出候」
まあ同じ話が人物を変えて次々と再生産される、というのは逸話あるあるなのですが、これらはどちらも
関ヶ原後の、同じ瀬戸内における築城であり、或いはこの地域のどこかの築城、もしくは他の普請でで実際にこう言った
事例があって、石材の海運業者に注意事項として伝承され、それがこの地域の代表的な城である今治城や広島城の話に
転嫁していった、という事かなと想像しました。
それにしても、結果的に大名として滅びた福島家はともかく、江戸期を通じて代表的な大名であった藤堂家においても
こういった、非常に功利的なお話が残っているのも興味深いですね。過去においてはストレートに「賢い」という、
良い印象のほうが強かったのかも知れません。
色々と想像をさせてくれる内容だと思いました。

2位はこちら!治衛門と今治城です!
この手の、城の築城の際に城の秘密を知っている工事関係者を消すというお話、おそらく殆どの城に何らかの伝承が
残っていると思います。城の非情性、神秘性を高める逸話ではあるのですが、まあ実際には築城技術者というのは
大変貴重な人材であり、城を作るたびにそんな事をしていてはあっという間に技術者が枯渇しますし、そうでなくでも
その大名の仕事は敬遠されるでしょうから、却って自分の首を絞める羽目になるのが解りきっているので、むしろ
丁重に扱われたと考えられています。その上で城の秘密を他に漏らさないという、一種の信義があったようですね。
このあたりも、当時であっても武士は決して絶対権力ではなく、相対的なものだったというのが見えてくるように思います。
その上で、この手の一見非情なお話が残るのも、先にも言ったように、その城に対して一体どんな秘密が隠されているのか
という神秘性を高め、恐れを抱かせる効果があったためでもあるのでしょう。城は恐れられることも大切ですからね。
そんな事も考えた逸話でした。

今週は同票でもう一つ!今治城と木山音頭によいやな節です!
こちらは今治に今も残る木山音頭についての伝承ですね。この木山六之丞という人物、非常に印象に残るタイプで
あったのでしょう。伊勢音頭などにも影響を与えたと有り、音楽の才能のある人物だったと想像させますね。
伊予国と言うと、室町から戦国期は守護である河野氏の支配下だったわけですが、河野氏は今の松山市にあたる
湯築城を拠点としていました。その意味では高虎による今治城築城は、現在の今治市に至る、今治の開府、として
理解されてもいるのでしょう。その今治の開府そ象徴する歌として、この木山音頭も受け取られているのでしょう。
歴史の積み重なりというものを感じさせてくれる、そんなお話でもあると思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当にありがとうございます!
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蒲生氏郷は藤原房前の大臣六代の嫡孫

2021年09月07日 18:08

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/07(火) 17:03:23.04 ID:3jQ6lCF7
蒲生氏郷は藤原房前の大臣六代の嫡孫、鎮守府将軍俵藤太秀郷の後胤である。

永禄十一年に織田信長公は江州に討って入り、佐々木(六角)を攻め傾けられた時、
氏郷の父である蒲生兵部太夫賢秀が信長の味方に参り、子息鶴千代十三歳の時、証人として
信長へ進じると、近習に伺候され、奉公した。

彼は他と異なるほど利根発明であったため、信長の御意に叶い、ある時宣われた、
「汝が眼晴は常ならない。おそらく只者ではない。我が婿にするぞ。」
と、契約された。

元亀元年、信長が越前国に発馬の時、氏郷は十五歳にて鑓を合わせ高名を成した。これが初陣であった。
その後濃州岐阜の城にて元服あり、その頃信長は弾正忠であったため、「忠」の字を給わって、
蒲生忠三郎賦秀(または教秀)と名付けられた。
秀吉公の代に至り、「秀」の字を憚って氏郷と改められた。
元亀元年の初陣より文禄四年まで、氏郷自身の高名は三十六度であった。

太閤秀吉の時、氏郷を羽柴飛騨守参議宰相に叙任された。初めて南伊勢五郡十二万石を領した。
その後数度の忠戦、秀吉公の感心斜めならず、その賞とりて奥州会津七十万石を給わり、また
奥州での軍功によって二十万石の加恩地が下され、それらを合わせて百二十万石となった。

しかし、石田三成が企んだ如く、関白秀次公を思いのままに亡ぼしてから、直江兼続との密談の通り
蒲生氏郷を失わせる事を図って、文禄四年の春の頃、瀬多野掃部と内通し、能く示し合わせて
氏郷を掃部の茶の会盟に招き酒を勧め、毒を飼った事によって、同年二月七日、氏郷は四十歳にして
俄に心身悩乱し逝去されたのは、いたわしいことである。

近世軍記

氏郷の通称の忠三郎が、信長の官途名の弾正忠から、というのは珍しいパターンの気がするのだけど、
こう言った例って他にあるのかな?

参考
思いのままに謀を廻らせた