勝蔵は手負たり

2017年10月22日 16:47

森長可   
332 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote![sage] 投稿日:2017/10/22(日) 10:17:08.95 ID:lD4HBGRz
勝蔵は手負たり


信州高遠城に仁科五郎信盛・小山田備中・渡辺金大夫が立てこもったので
信忠公が攻められた時の先手は森長可・川尻肥前守・毛利河内守・団平八が
追手(大手)より向かうことになった。
然るところ長可は右の衆を出し抜かれて、小笠原掃部之介に案内させて
夜明けには高遠へ詰めかけられたので、(高遠方は)すぐに二の丸を空けて
本丸へ集まったので、(長可は)虎口を固められて御注進された。

信忠公は早々とお越しになられ総攻めと仰せられたので、長可が一番に
本丸へ乗り込まれて、広間口左の方へ入り座敷内で迫り合いになり
比類なき御働きで高名を上げられたが、手傷を負われた。
長可の家臣渡辺助右衛門豊守・林長兵衛為忠も高名した。

長可が腰より下は血になられて、首を持って参られたところを
信忠公が御覧になり
「勝蔵は手負たり」
と仰せになった様子は見事なる義にございました。


――『森家伝記』



333 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote![sage] 投稿日:2017/10/22(日) 12:14:35.34 ID:MmZEA88k
まとめの3131
「森長可『血染めの赤備え』」
だと腕にかすり傷で腰から下は全て返り血だったけど
これだと自分の血も混じってるような
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川手良列の戦死

2017年10月21日 10:51

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/20(金) 19:05:32.73 ID:IcLAlNWl
井伊直政の重臣の川手良則は、直政の姉の高瀬を娶ったが嫡男が無かったので、大草松平家の松平康安の三男を婿養子とした。

その川手良列(良行)は大阪の陣で井伊家の一隊を率いたが、夏の陣の若江の戦いで無謀とも言える突撃を繰り返して戦死した。
冬の陣の真田丸の戦いで井伊勢が先走って大損害を受けたが、良列は軍規を忠実に守って動かなかった。ところがかえって
臆病者の誹りを受けてしまい、そこで実父と実兄に相談の上で覚悟を決めていたのだという。

そこまで頑張ったのに、良列の遺児の良富も若死にしたのでお家断絶している。祖母の高瀬は孫より長生きしてますね。

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/20(金) 19:07:01.89 ID:IcLAlNWl
ただし、過去ログ「賞の基準」、こちらの逸話では川手主水(良列)の扱いは正反対になっているようである。

関連
賞の基準


秀次の趣向

2017年10月20日 16:31

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/19(木) 22:36:35.75 ID:5AVF+jbi
関白豊臣秀次が、筑紫において藤原定家の書いた小倉の色紙を手に入れた。
これにより座敷を改め、色紙開きの会を開いた。
千利休を上客として、相伴3人という会であった。

頃は卯月(4月)の二十日あまり。明け方の事であった。
人々、座敷に入ったが。そこには明かりも無く、闇の中に釜の沸く音だけが聞こえ、
いかにも静かな様子であった。

「これは一体どんな御作意であろうか」

その場の人々がそう思っていたその時、利休の後ろの明かり障子が、ほのぼのと明るくなった。
不思議に思い障子を開けると、月の明かりが座敷の内にほのかに入ってきた。
さればとにじり寄って見ると、小倉の色紙がかけ物として飾られていた。その歌は

『時鳥 啼きつる方をながむれば
  ただ有明の月ぞ残れる』

誠におもしろき趣向にて、その時利休をはじめとした人々も、「さても名誉不思議のご趣向かな」と、
同音に感じ入ったという。

(今古雅談)



鬼松出たか、堀出たか

2017年10月19日 21:18

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/18(水) 20:19:59.21 ID:QI+GkoqQ
鬼松出たか、堀出たか


細川家臣・堀内傅右衛門は赤穂浪士を預かったときに接待役を勤め
『旦夕覺書』『堀内傳右衛門覚書』などの著書を残した。
曾祖父にあたる堀内構之助池田輝政に五百石で仕えていた。
以下は『旦夕覺書』からの引用。


祖母の妙菴は構之助殿の一人娘で幼少の時に鬼松と名付けられ
とても大切にされていたので十二、三才までは、門前を池田輝政公が
お通りされる時には召し連れてお目通りさせたので
「鬼松出たか、堀出たか」*
と(輝政公が)毎度おっしゃられたと(自分が)幼少のときに聞きました。

老父は昔話が好きで、妙菴に構之助殿のときの備前の名のある侍や
物事を尋ねたときには、誰は知行何程それは番頭足軽頭と
(妙菴が)一々覚えていて話されたことを(老父が)覚えています。
昔は他にも(妙菴と)似たような人が多くいたそうです。
(中略)
昔は女でも武士の子は男子の心を持っていたのでございます。

* 恐らく名字の"堀内"にかけた洒落



329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/19(木) 10:46:43.50 ID:XGaKRpq4
鬼松は何だろうと思って調べてみたら妙菴の幼名かよ

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/21(土) 20:28:54.82 ID:nnJM5Bc+
>>329
ちゃんと本文を読みなされ

手取釜

2017年10月18日 18:42

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/18(水) 05:30:04.78 ID:xX5oFGGB
天正14年、豊臣秀吉が関白であった頃、京の旧三条通白川橋より東5丁目に良恩寺という浄土宗の
寺があった。この寺の傍らに年老いた隠者が在り、粟田口の善輔と呼ばれた。(善法、または善浦とも云う)

この翁の住居は、藁葺き屋根に四本柱の四畳半一間にて、床の間もなく、土間に爐を切り円座を敷いて
賓主の座を分かち貴賎の別なく茶を振る舞い、物語などして、昼夜の分ち無く楽しんでいた。
また食料が無くなれば、一瓢を鳴らして人の施しを乞うた。
人々は彼の人柄を知っていたので、皆が金銭、米、布を恵んだ。
そうして物のある間は家を出ること無く爐にかけた手取釜にて粥を炊き、また湯を沸かして茶を喫した。
その湯が湧く時は、彷仏松濤の声を吟じて一人笑った。
また「手取釜 おのれは口がさし出たぞ 雑炊たくと人に語るな」など戯れることもあった。

秀吉がそのような話を聞き、利休に「その手取釜を得て茶を点てよ」と命じた。
利休は善輔の元へ行き、云々の命有りと伝えた所、善輔は聞くやいなや感情を損じ

「この釜を奉れば、他に代わりは無い!いわれの無い釜であるからとそのようにぞんざいに言われるとは
思いの外である!」

彼はすぐにその釜を、そのあたりの岩に投げつけ打ち砕き
「あらむつかし 阿弥陀が岸の影法師」
と呟いた。

利休もこれに呆れ果て「秀吉様は短期であるし、いかが致すべきか」と思い煩ったが、今更どうにも出来ず
帰ってありのままに申し上げると、秀吉は却って機嫌よく

「その善輔とやらは真の道人である。彼の持ち物を所望したのは我が過ちであった。」と、
その頃伊勢安濃津に越後という名のある鋳物師があり、彼に命じて、利休が見たままのもの2つを
模造させ、一つは善輔に贈り、もう一つは秀吉自らが蔵した。

その釜は善輔が没した後は良恩寺に納まった。これを見た人の話によると、その高さ五寸五分、
底廣さ七寸、口径三寸二分、弦は蝶番で、蓋から釜の腹にかけて木の葉を広く鋳つけており、
おおよそ今の鉄瓶と言えるものであった。
桐の箱に入れられ、箱書きには利休居士の手で『手とれ釜』と記されていた。
またこの釜に添えた、秀吉の文書が有り、そのその所に曰く

『手取釜並びに鈎箱に入れ、鎖まで念入りに出来、悦び思し召し候。尚山中橘内、木下半介に申すべき也

  十月十一日
                                 太閤(朱印)
                                  田中兵部大輔』

この文章は善輔に関係のないものだが、この釜に縁があることから、後に同寺に寄付されたものだろう。

なお、この釜の後伝とも言うべき話として、細川玄旨法印(幽斎)もこの釜を写させようと先の越後に命を
伝えたが、これに越後

「御所様(秀吉)の命にて、ただ2つ鋳たる物ですから、また同じ形に鋳るというのは、憚りがあります」

と、これを辞した所、玄旨も「それは理である」と戯れ歌を詠み、

「ならばこの歌をその釜に鋳付けよ、これが同じ物ではないという証拠である」

そう言って鋳させた。その狂歌は世にあまねく伝わる
『手とり釜 うぬが口よりさしい出て これは似せじゃと人に語るな』

こちらの釜は、今も細川家に秘蔵されているという。

(今古雅談)



週間ブログ拍手ランキング【10/12~/18】

2017年10月18日 18:39

10/12~/18のブログ拍手ランキングです!



さすが人間ウィキペディア 24

米商人八郎兵衛 17

上杉景勝の厳格 13
朧月夜にしくものぞなき 11
己はどうして斯くも 11

高橋の長刀打 6
鬼絵の始まりであった 6



今週の1位はこちら!さすが人間ウィキペディアです!
林羅山という人、実は昨今では、徳川家康のブレーンというよりも、その博識が重宝されていたに過ぎなかった、なんて言われています。
すなわち本当に百科事典扱いだった、というわけで、そういう知識を持ってこの逸話を読むと、「ああなるほど」と思ってしまいますねw
徳川政権としては、全国各地の色々なことに対応するために、百科事典的知識が必要であり、そのために羅山の能力を求めた、
というのは、儒者として政治に参画することを望んでいたであろう羅山自身にとっては、何とも複雑であったのでしょうね。
林家、および儒者が体制の中において尊敬を受けるように成るのは、だいたい徳川綱吉の時代だと言われます。
元禄は本当に、あらゆる意味で日本史のターニングポイントですね。
そんな事も考えさせてくれた逸話でした。

2位はこちら!米商人八郎兵衛です!
この逸話、基本的には「正直に非を認めたことで、却って徳分を得た」というお話なのですが、リアルに考えていくと色々と
深いものを感じさせますね。確かに大きい升と小さい升の容量差はどれほどだったのか、結果的に「安売り」nとなったことに、
競合商店はどのような反応があったのか、等々、興味深い疑問が次々と出てきます。
こういうところから、時代小説を創作する、というのも面白そうですね。江戸初期の経済や社会を復元しつつ、その中で
このお話を矛盾なく展開すると、実に興味深い作品ができそうです。やる気の有る方、是非!w

今週管理人が気になった逸話はこちら!己はどうして斯くもです!
このお話、現代でも良く使われるお話のパターンの、「原型」とも言うべきものなのでしょう。それだけでも面白いのですが、
コメント欄が「能書あるある」あるいは「書状が残ってしまったあるある」になっていて、それにもとても笑わせてもらいましたw
こういうのが「歴史を楽しむ」事だと思うし、こういう楽しさがあるからこそ、歴史を勉強するのも楽しいのだと思うのですよ。
このあたりのネタが理解できる人は勿論楽しいですが、理解できない人も、いろいろな歴史の本を読んだり、あるいはこのサイトの
逸話を読んでいる内に「あ、あのネタはこれのことだったのか!」と気がつく瞬間が有ると思います、そうやって記憶と知識が
つながる事は、すごい快感だと思うのです。
そういう形でも、このサイトを楽しんでいただけると嬉しいな、なんて思ったのでした。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

高橋の長刀打

2017年10月17日 16:55

関内記   
325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/17(火) 12:51:30.84 ID:NnEHy8T9
筑紫広門と高橋紹運の戦いの時、筑紫が兵を出して岩屋へと攻め寄せた時、紹運の家臣である
関内記の長刀持ちが、打物の鞘を外して用意していた所、どうしたわけか実淵勘解由という侍の頬先に
刀の先をひっかけ、流血におよんだ。
実淵は以ての外に腹を立て、今にも斬りかかろうとしたのを、内記は様々に弁解したが、全く承知なかった。
しかし内記の父・善虎という者がこの騒ぎを聞きつけてやって来て、言葉を尽くしたことで、ようやく
堪忍に及んだ。

この時善虎は内記を叱りつけた
「あれほど多い敵の面を斬らずに、味方の顔を斬るとは言語道断の次第なり!」

しかし内記
「私の存ずるところではありません。長刀持ちの若党の誤りであり、私にはどうにも出来ません。」

「それも其方が常々不覚悟の故に、未だ敵にも逢わぬ内に、早く長刀の鞘を外させていたためだ!
いつでも、敵が近くなってから打物の鞘を外し、敵の顔だけを斬れ!」

内記はこれに一言も反論せず、

「ならば、斬ってみせん」

そういうと長刀を取り陣所を出て大いに戦った。
この当時、関内記の事は”高橋の長刀打”と、九州において大いに評判に成ったという。

(士談)



326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/17(火) 17:29:10.79 ID:7bJ1dOiZ
いかにも江戸時代っぽ

朧月夜にしくものぞなき

2017年10月16日 19:43

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/16(月) 18:33:58.00 ID:0h1KkTJT
豊臣秀吉が名護屋に在陣していた時のある日、陣屋を巡視していたが、ある小屋の庇に額が掲げられ
「朧月夜」とあるのを見た。
秀吉はしばらく考えていたが、ふと、左右を顧みて尋ねた
「これは誰の小屋か?」
「殿下の臣、野間藤六の小屋です。」

やがて小屋の主人、野間藤六が出て秀吉の前に平伏した。
秀吉は彼の姿を見るとうち笑って

「汝は敷物が無いのか。」

そういうと畳に白米を添えて与えた。これはこの額が、『朧月夜に”しくものぞなき”』という古歌によった
ものであると察したためであった。
(元歌は新古今和歌集にある大江千里の『照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜に似るものぞなき』)

またこれと同じ時に、小屋場の僅かに空地のある場所に菜を植えている者を見て大いに賞賛し

「永陣と見て退屈せずわずかの土地をも虚しくしない、誠に武士の注意かくこそあらまほしけれ。」
と、その小屋頭を召して白米を与えた。

(今古雅談)



322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/16(月) 18:57:42.01 ID:TgZ2Wb+O
角川スフィア文庫の「新古今和歌集」第一 春歌上 55だと
「照りもせず曇りもはてぬ春の夜のおぼろ月夜にしくものぞなき」
で「しくものぞなき」だが異本だと違うのかな

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/16(月) 23:50:02.07 ID:MyjBEA0U
本来は大江千里が「如くものぞなき」と歌ったのだったが源氏物語ではこれを改変して「似るものぞなき」としたとのこと
新古今集には前者が採用されている
ちなみにこの歌はオリジナルは唐の歌でそれを和訳したもの

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/17(火) 00:12:27.94 ID:Xw26Rndi
和訳というか元にしたというか

白氏文集・嘉陵夜有懐 其二

不明不闇朦朧月(あかるからず くらからず もうろうのつき)※新古今集では「不明不暗朧朧月」

非暖非寒慢慢風(あたたかからず さむからず まんまんのかぜ)

独臥空牀好天気(ひとりくうしょうにふせば こうてんき)

平生閒事到心中(へいせいのかんじ しんちゅうにいたる)

鬼絵の始まりであった

2017年10月15日 16:45

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/15(日) 11:56:33.35 ID:CEt5gvj1
一僧あり。かつて古法眼(狩野)元信を訪問して、「愚僧に鬼の絵を画いて与えられよ」と懇望した。
当時、鬼という名称はあったが、それがどんな姿かという絵形は無かったため、困惑した体であったが、
さすがは元信であり、心ひそかに思った

『和俗に丑寅の間を鬼門と号し人々最も恐れる所であるのだから』と、頭は牛の形に型取り、腰より下を
虎に型取り画いて僧に与えたが、実はこれこそ鬼絵の始まりであった。

以降の絵師たちはますます異形を巧みて丹精を施し、虎の皮の褌なども着けるようになったという。

(今古雅談)



319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/16(月) 03:44:43.04 ID:kqqh9NYq
無かったん?

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/16(月) 11:48:55.65 ID:dJJE5qmC
鎌倉末期の大江山絵巻には鬼が描かれていたような・・・

上杉景勝の厳格

2017年10月14日 17:08

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/14(土) 17:04:08.52 ID:s8Qod1gV
上杉景勝という人は、豪邁肝大の大将にて、その軍陣に臨むや、先陣において既に交戦し、
矢弾雨のごとく降り喚声天地を振動するばかりであっても、身は幕中に有りて普段と変わらず睡眠
を取り、雷の如きいびきを上げるのを常としたという。

彼が豊臣秀吉に臣従し上洛した時、数百人の一行は完全に黙し咳の声すら聞こえず、只人馬の足音を
聞くのみであった。
その折、富士川を渡る際、船が小さく人多く、中流に至ってほとんど沈没せんとした。
この時景勝怒り、舷頭に立って鞭を挙げて一揮すれば、衆皆躍り上がるように水に飛び込み泳ぎ、
よって無難に渡ることを得たという。

景勝の厳格なることかくの如きなれば、彼の生涯において、只一度の外その喜悦の色を見たことが
無いという。
ある時、上杉家に一匹の猿があり、たまたま景勝が脱いでおいていた巾帽をかぶって逃げ、庭の木に
上り景勝に向かって3度頷いた。
彼はこれを見てにっこりと微笑んだ。
これ実に、左右の近臣達ですら、始めとも終わりとも、景勝の笑顔を見た一生の内ただ一度の事であったという。

(今古雅談)



さすが人間ウィキペディア

2017年10月13日 12:52

林羅山   
313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/13(金) 09:16:20.71 ID:HheWmS3P
ある夜、林羅山徳川家康に侍講する折り、列座の者達、羅山の博識がどれほどのものかを試みようとした。

先ず、岡田淡州が問うた
「蓬莱島という能狂言の中に、『鬼の持ちたる宝は隠れ笠、隠れ蓑、打ち出の小槌、ジヨジヨ、ムジヨムジヨ』
と言う所がある。この『ジヨジヨ、ムジヨムジヨ』とは何なのか?」

羅山答える
「鬼の宝として出た品々は、宝物の中でも上々であり、またこの上に上々無し、という意味で、
『上々、無上無上』と言っているのです。」

次に内田信州が問うた
「鎌倉に『ノツケン』堂という場所がある。昔金岡納言(巨勢金岡:平安期の宮廷画家)がここに来て、この
勝景を写さんとしたが、筆に尽くし難く、筆を捨てノッケに成りたる故に、この堂を『ノッケン堂』と云い、
また『筆捨松』と呼ばれる松も今に存在すると云うが、これは本当であろうか」

羅山これに
「金岡が筆を捨ててノッケになったのではありません。あの堂は金澤より出る山越への坂の右の、高い場所に
あり、坂から仰ぎ見ることから『仰見堂』、これが訛って『ノッケン堂』となったのです。」

堀田加州問うた
「子供の遊びに、左右の手を寄せて『鬼の皿』という事をする。その詞に曰く

『タイドノタイドノ、一モタイドノ、二モタイドノ、タイガ嬢、梶原、アノウン、メクラガ杖ヲ、
ツイテ通ルトコロヲ、サラバ、ヨツテ、ツイノケ』

と歌っているが、これは何を意味しているのか。」

羅山、これも
「これは鎌倉時代の、源頼朝の意にかなう、威勢強き人々を数え並べた歌です。
先ず『タイドノタイドノ』とは、”御台殿”すなわち北条政子の事で、『一もタイドノ二もタイドノ』とは
続けて並べる人が居ない、と云っているのです。

『タイガ嬢』とは”大の嬢”、すなわち頼朝の娘、大姫君という、清水冠者の夫人を指します。

次の『梶原』は平三景時で、これも当時の寵臣です。

『アノウン』とは安明寺といって、北条時政の妻である牧の方の一族で、盲人でしたが、彼は特別に
殿中において杖をついて歩くことを許され、この人に行き合う者達はみな彼を避けて通していました。
故に『サラバ、ヨツテ、ツイノケ』と云うのです。」

その後も様々な問答があったが、羅山はすべて滞りなく答え、皆、彼が細事にまで通じることに
感嘆したという。

(今古雅談)

さすが人間ウィキペディア



314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/13(金) 15:02:58.61 ID:Ohs68rOU
クイズ王とファンの集いかな?

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/13(金) 16:40:34.79 ID:ZTvwgvqs
怪力乱神

己はどうして斯くも

2017年10月12日 17:27

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 21:43:47.62 ID:hmMnuSkv
本阿弥光悦は、累代刀剣の目利きであり、研ぎ、および拭いの業を以て聞こえた本阿弥家の跡を継ぎ、
殊に拭いの殊に詳しく、また書に妙であった。

ある時、近衛三藐院殿(信尹)が光悦に尋ねた
「昨今、天下に能書と称すべき人物は誰であろうか?」

光悦は言った
「先ず、さて次は殿下(信尹)、その次は八幡の坊(松花堂昭乗)でしょう。」

「待て、その”先ず”とは誰のことか?」

光悦平然と答えた
「即ち私なり。」

ただし、当時この3人は天下三筆と聞こえ(寛永の三筆)、光悦の私僭ではない。

ある日、近衛信尹がにわかに光悦を召した。光悦、何事ならんと慌てて参上すると、直ぐ様御前に召され、
信尹は光悦の手を屹と掴み「己は!己は!」と言葉荒く叫んだ。

光悦としては思いもよらぬ事にて、「何事や、御意に逆らいましたでしょうか」と恐る恐る申し上げると、
信尹は笑いながら

「己はどうして斯くも能く書く手を有しているのか!」

そう戯れたのだという。

(今古雅談)



311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/12(木) 14:28:07.56 ID:KZ3Q7YcS
>>310
昔からこのネタあったのかw

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/12(木) 14:57:24.61 ID:Pqs6bOG0
なんちゅうもんを食わせてくれたんや…なんちゅうもんを…

米商人八郎兵衛

2017年10月11日 19:09

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 18:00:35.41 ID:hmMnuSkv
成瀬隼人正正成が新たに領した地に、米商人八郎兵衛という奸商があった。彼の父の代より、
密かに大小の二種類の升を用い、不正の利益を得てその富巨万とした。

しかし隼人正が領主と成るに及んで、政令厳格にして姦悪尽く摘発されるに及び、八郎兵衛大いに恐れ、
自首して罪を請うた。

この事に隼人正は思った
「八郎兵衛は人を欺き不正に利得を得ており、その罪は許しがたい。しかし自ら罪悪を知り訴え出た。
その心情は恕するべきであろう。まして、この不正を始めたのは先代であり、必ずしも追求すべきでは
ないだろう。」

そして八郎兵衛にこのように命じた

「自今以降は世間に公表して2つの升を使うべし。ただし購入に小升を以ってし、売る時には大升を
以って行え。これを7ヶ年行うことで、前罪を償うべし。」

隼人正はこれによって不正の富が損ずるとのつもりで命じたのである。
ところが、これ以後八郎兵衛の店頭には米を買う者日々に群集し、その富は昔日の倍となったという。

(今古雅談)



305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 18:07:39.71 ID:K1Mthq9x
意味が分からない

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 20:01:12.55 ID:7KqRD381
不正しなくてももうかる値段設定だったってことかな、もしくは付属品で儲けたか。

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 20:06:27.09 ID:H4+NZ/St
売れば売るほど赤字になりそうだけど…米以外のものも売ってたのかね。

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 20:30:23.18 ID:lV7aeGVh
薄利とはいえ他よりマシな値段設定とか

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 20:54:33.09 ID:OGC4e17e
この店は他店より大きな升で買えると七年経ってもイメージが付いたんじゃないかな

週間ブログ拍手ランキング【10/05~/11】

2017年10月11日 19:08

10/05~/11のブログ拍手ランキングです!



この瓢箪こそ賜るべきもの 21

毛利元就の正親町天皇即位の御料献上とその影響 21

赤い毛氈 16
巻絹裁断 14

きうりの紋 12
利休の才 12

罪一等を減刑し、 11
【疑問】別所安治の弟・別所重棟(重宗)が 9
利太(前田慶次)は浴場で入浴した。 5



今週の1位はこちら!この瓢箪こそ賜るべきものです!
既にいくつか類例逸話が出ていますが、丹羽家の出口藤蔵家臣、出口さんとその妻のお話です。
やはりこの奥さん、凄いインパクトありますよねw旦那さんも勇者なのに、普段の口や態度が悪くて小身に留められている
人ということですが、そういった人と添い遂げる女性だなあと、妙な説得力を感じますw
そしてこの時代の女性の強さを、端的に表している感じがしますね。
本多忠勝「俺の若い頃は女だって」
このお話で、本多忠勝が戦国の女性の強さを賞賛していましたが、この逸話のような女性たちだったのだろうなと、
想像させてくれる逸話だなと感じました。

そして同票でもう一つ!毛利元就の正親町天皇即位の御料献上とその影響です!
毛利元就が正親町天皇即位のための献金をしたお話は有名ですが、それが後世にも影響を与えたと言うお話ですね。
たしかこの縁で、毛利は江戸期を通じても朝廷とつながりが深く、それも幕末の毛利の動きに影響を与えた、とも言われます。
まあ歴史というのは、日々の営みと偶然の積み重ねですから、歴史を積み重ねた勢力にとって、むしろ「影響を与えなかった」
事象の方が少ないといえるかもしれません。しかし元就の献金という史実は、幕末「勤王回天」を旗印とした長州にとって、
非常にシンボリックなものとなったのは間違いないでしょう。また毛利がそもそも「大江毛」という、朝廷に仕える学問の家、
だったことも、江戸期を経た毛利家中の意識に、影響を与えていたのでしょう。
毛利家だけでなく、歴史というものを考えさせてくれるおはなしだな、なんて思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!きうりの紋です!
織田信長と言えば、現代では創作物(だけでもないですけどね、TVなどでは”歴史番組”でも)では未だに、「無神論者」「反宗教」
みたいな描かれ方をされてしまう信長ですが、実は「信仰」「信心」のお話は意外と残っています。
そもそも信長の織田家は、越前剣神社の神主がルーツですし、彼の自歴を辿っても、「非常に信心深い信長」という像を
描き出すのは実は容易です。現代の、魔王的な信長像は、史実の人物としての織田信長とは何の関係もない、後世の
想像によって作られたキャラクターにすぎない、とも言えます。
そういうキャラとしての「信長」の影響のない時代のお話は、むしろ新鮮さを感じる。
そんな事を考えさせてくれた逸話でもありました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
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( ´ ▽ ` )ノ

この瓢箪こそ賜るべきもの

2017年10月10日 10:19

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/09(月) 23:19:55.75 ID:6zdH1xbb
丹羽長重の将、江口三郎衛門の従者に出口藤蔵という者があった。
彼は剛勇にして戦功も少なくなかったが、傲岸不遜な性格のためはかばかしい所領を得ず、
齢既に60を過ぎていたが、録僅かに200石であった。

慶長5年、前田利長が大聖寺城を攻め、これを下して凱旋する時、丹羽長重は兵を出してこれを追撃し、
浅井山下にて戦った。
出口藤蔵はこの時後軍にあったが、「吾が畢生の功名を立てるべきは今日にあり!」と、まっしぐらに
敵陣に駆け入って縦横自在になぎ倒し、遂に敵将を斃してその頸を取り去ろうとした所、そこに敵兵
15,6騎駆け集まってきた。藤蔵は彼らの攻撃をとっさに防いだが、彼の斃した敵将の頸は奪い去られた。

この時、この戦場に藤蔵の妻が、半白の髪を後ろに結い上げ、手織りの麻衣をかいがいしく引き掲げ、
腰には短刀を帯び手には瓢箪を持って、足早に歩み来るのに彼は気がついた。

「あわれ我が妻、我に酒を与えん為に敵兵の中を健気にも来たれるものか」

藤蔵は両手を上げて差し招き「出口藤蔵はここに在る!早く来たりて酒を飲ませよ。見まごう事なかれ!」と
声を限りに呼んだ。
ところが妻はこれに応えず、逆に本陣の方に向かって行こうとしたため。傍らに居た兵卒が彼女を呼び止めた
「出口氏があのように呼んでいるのに、何故応えないのか?」

妻は言った
「いいえ、頸わずかに一つばかり、しかもそれを取り返されて追うことも知らぬ男に、私の夫だからといって
どうして言葉を交えることが出来るでしょうか?この酒は、主君に奉らんとわざわざ持ってきた物です。
卑怯者に振る舞うために持ってきたわけではない!」

そう言い捨てて本陣へと向かった。
この言葉を聞いた藤蔵は大いに感奮し、逸足出してかの首級を奪い去った一隊に追いつき火花をちらして
戦闘し、四方八面に追い捲り再び首級を取り返して、山下の本陣へと戻った。
この時彼の主人である江口は、藤蔵の妻が酒を持ってきたのを喜び、副将の南部右衛門と共に
瓢箪の酒を傾けていたが、藤蔵が首級を携えて来たのを見て大いに喜び、
「お前もこの酒を呑むべし」
と言ったのを、藤蔵の妻は傍らで止め

「その酒は、この瓢箪こそ賜るべきものであり、藤蔵が飲むべき理由はありません。
何故ならその首級を取り戻したのはこの瓢箪であり、藤蔵ではありません。」

これには藤蔵も笑いだし
「このババア、またしても悪口を申し出したり。せっかくの勲功も汝のために無駄骨折となったわ」

このやり取りに、陣中で笑い転げぬものはいなかった。

(今古雅談)

関連
酒瓢箪の仕業
江口三郎右衛門の家来出口とその妻、酒と泪と男と女・いい話



298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/10(火) 19:56:05.70 ID:fEscj1Be
こんな女絶対結婚したくねえ

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/10(火) 20:33:34.23 ID:o40fN3zB
大人しい女性ならともかく何十年と連れ添っていればたいていはそうなる

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/10(火) 20:57:37.46 ID:k1cXf0Y7
俺の嫁だったら絶対家で餅食ってるぞ
なんだかんだ情があるよこの夫婦

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/10(火) 23:36:54.30 ID:LIJlKtSs
詰まらせて死ねばいいのに

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 11:32:31.80 ID:LNFCsoX1
戦陣に来るのはまあ無いと言えないが、戦場の最前線に酒持ってくるのはこの時代でも凄い

罪一等を減刑し、

2017年10月09日 21:19

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/08(日) 23:15:16.48 ID:vtU+lYlX
上杉謙信が刑罰を設けた時、第一に奪刀、第二に死罪、第三に所領没収、第四に侍身分の剥奪、
第五(不明)、第六に禁錮の六種類とした。

ある時、謙信配下の長尾右衛門佐という者が、その所行悪しきとして処罰を加えられ、
所領没収の刑を申し渡された。またこれにより、終身帯刀を禁じられた。
右衛門佐の親族はこの処分に大いに驚き哀訴した。
これを請けて謙信も、彼の先代に忠功有るを以って、罪一等を減刑し、特に双刀を許して
切腹を命じた。

(今古雅談)



292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/08(日) 23:56:00.51 ID:hCwvv1Sg
なんとなくだが当時の人にとっては奪刀の方が死罪よりキツい気がする

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/09(月) 14:13:02.70 ID:5R3wNeTf
命より名誉…。

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/09(月) 15:02:34.20 ID:tHmmBpae
名誉が無くなったら大抵の場合暮らしてけなくなって命もなくなるからな
だったら命を無くしてでも名誉くらい残しておこうという簡単な話

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 15:47:17.05 ID:gmnkmarz
>>294
Mine honor is my life; both grow in one.
Take honor from me, and my life is done.

って奴だ

赤い毛氈

2017年10月08日 19:15

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/07(土) 21:17:22.96 ID:S9bwLdc0
豊臣秀吉の九州征伐の時、秀吉に赤い毛氈を献上した者があり、秀吉はこれを、九州征伐に参加した
諸将に分け与えた。

当時、日本には毛氈というものが殆ど入ってきておらず、諸将何れも、秀吉より下されたそれが
どういうものか解らず、諸将「これは一体何のために用いるものなのか」と話し合った。
しかしその内の一人が

「これはもしや…」

「なんだ?貴殿知っておるのか?」

「うむ…、私がかつて檀那寺に物を送った時、その住持がこのような赤い布を肩にかけて返礼に来た。
思うにこれもきっと、敬礼を表するために、肩にかける物なのであろう。
然らばこれを下された事への御礼は、これを肩にかけて参るべきであろう。」

これにより相談一決し、銘々毛氈を肩にかけて秀吉に拝謝したという。

(今古雅談)

※言わずもがなですが、毛氈とは獣毛で編んだ敷物です



174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/09(月) 07:16:28.75 ID:PcHM+p2F
田沢は博学じゃのう

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/09(月) 11:06:10.91 ID:cwbiDh+H
>>170
毛氈(フェルト)は大陸では古代から広く使われてきて
天幕や敷物にカーテン、装飾品やら靴やら文字を書く際の下敷きやら
色んな物に使える超便利素材
献上されたのがどんな毛氈製品だったのか想像すると面白いね

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/09(月) 17:02:40.29 ID:p2AEkszr
フロイスは信長への献上品を船のカーペットで間に合わせたって話があるな

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/10(火) 01:29:56.04 ID:TeDqQxsY
そういや書道の授業で使ってた下敷きはフェルトぽかった記憶があるなおぼろげだけど

きうりの紋

2017年10月07日 15:59

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/06(金) 23:28:53.28 ID:KxLBGXY6
牛頭天王を信仰する者は、必ず胡瓜を食らうことを禁じている。これを食らうとたちまち邪疫に
感染すると言うのだ。或いは云う、牛頭天王の紋所は木瓜であり、これを”きうり(胡瓜)”と
読み誤ったのだ、とも、

しかし素戔嗚尊(牛頭天王の本地とされる)に紋所があるとも覚えず。
これについては、かつて織田信長がこの牛頭天王を深く信仰し、神輿の類ことごとくに、織田家の紋所である
木瓜を染めて納めたため、終にはこの木瓜が牛頭天王の紋所であると誤って伝えられたのだと言われる。

(今古雅談)



169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/06(金) 23:39:35.87 ID:sv0B/QpK
瓜にかぶりついていた若いころの信長…

利休の才

2017年10月06日 17:25

千利休   
286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/05(木) 19:34:10.18 ID:8zUhQpLS
千利休は茶について、武野紹鴎に学んだ。

紹鴎はある時、利休の才を試みようと、密かに人に命じてその庭を掃除させ、
その後、利休に「わが庭を掃除せよ」と命じた。

利休が紹鴎の茶亭の前に行くと、地面は拭うがごとく掃き清められ、わずかの塵すら留めず、
木々の緑を鮮やかに照らしていた。そこには利休が手を加える所はなかった。

しかし利休は木々の間に入り、一本の松を揺らすと、落ち葉が風に翻り、点々と地に落ちた。
これによって風情、一段と増した。

そして利休は紹鴎に伝えた
「謹んで命を完了しました。」

武野紹鴎はこれを見て、利休の奇才に感じ入り、茶における様々な秘訣を伝えた。
こうして利休は終には、茶博とまで呼ばれるに至った。

(今古雅談)



287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/05(木) 19:45:40.11 ID:M/gUdZAy
いいね

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/05(木) 20:39:59.42 ID:W5QFadg9
むかし、掃除した浜辺にわざわざゴミを撒き散らしたテレビ局がありましてね
それを回収する様子を放映してましたな

趣向はまったく違うがそれを思い出したw

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/05(木) 20:41:45.09 ID:f5o6L3Z6
茶亭の前に行くとすでに掃き清められ手を加えるところがなかった利休は
松の木を揺らすなど激しい威嚇行動をとった

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/06(金) 15:47:25.82 ID:bAHcXAIl
ゴリラかよ
たしか六尺の大男だったよな

巻絹裁断

2017年10月05日 17:42

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/04(水) 21:22:35.19 ID:lpvoNYzS
江戸幕府のはじめ、板倉勝重が京都所司代であったころ、二人の男が一反の巻絹を争う訴訟があった。
両人ともにそれが自分のものだという確証がなく、遂に勝重の裁断を仰ぐことと成り、これに対し
勝重は

「双方とも証拠がない以上やむを得ない。これを分かつべし」

そういって彼らの目前でこれを中央より断ち、それぞれに分け与えて去らせた。

その後、勝重は人を遣わして密かに二人の様子を探らせたところ、甲は喜び、乙は怒れる色あり、との
報告が還った。勝重は速やかに甲を捕え獄に下した。

(今古雅談)



285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/04(水) 22:27:21.22 ID:OcJJ7uqw
>>284

巻絹だけに裁断ってか