とにかく大砲を早くよこせ

2017年03月23日 18:12

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/23(木) 13:14:43.44 ID:lIeg49m7
1568年(永禄11年)、豊後の王よりニセアの司教ドン・ベルショール・カルネイロに贈りし書簡

『私はジョゴ・バズ・ダラガンより貴方が支那に渡来されたこと、並びに貴方の病気について聞き、
甚だこれを悲しんでいる。そして更に悲しみが強くなるのは。このために貴方が日本に来ることが
不可能に成ってしまうと思ってしまう故である。

私は貴方がいかなる人かを聞き、また貴方の請求により総督が大砲(espera)を私に贈られたことを
聞きたるにより、貴方が私の領国に来ることを大いに希望していた。
この大砲はマラッカよりの船中にて(船の沈没により)失われたことは私の不運ではあるが、
安全に到着したのと等しくこれを感謝し、貴方に恩を負うと考えている。

私は大砲を得ることの希望を捨てていない。
私が(ポルトガル)国王の僕にして、またその友人であることは、デウスの事について、また私の領国に在る
キリシタン等、及びポルトガル人一同に対し庇護を加え、好遇を与えることで示し、またデウスが私に
生命を与え給う間は、常にこれを継続し、また貴方の要求されることをなすべきを以て、貴方が総督に
書簡を送り、私が大砲の贈与を受ける資格の有ることを通知されることを希望する。

私が再び大砲を求めるのは、私が海岸に住み、敵と境を接し、私の防御のためこれを必要とする事
大なるが為である。

私がもし領国を防衛し、これを繁栄ならしむ時は、領内のデウスの会堂、パードレ及びキリシタンたち、
並びに当地に来るポルトガル人一同もまた同様に繁栄するだろう。

先年、私はポルトガル王妃の書簡を接受したが、大いにこれを尊重し、宝物としてこれを首から下げている。
当地には王妃の如き方に贈るべき物は無いと雖も、私の領国に有るものは喜んで殿下に献ずるだろう。

この他述べたいことは多いが、長きに失するがゆえにこれを書簡に綴らない。
ジョゴ・バズ・ダラガンがその地に赴いた時に陳述するであろう。

1568年9月13日(永禄11年8月22日)』

(異国叢書)


とにかく大砲を早くよこせ、という大友宗麟の書簡である。


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小早川隆景の学校、太田道灌釈菜の和歌

2017年03月22日 10:40

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/21(火) 22:02:38.95 ID:c2T4aYH7
小早川隆景の学校、太田道灌釈菜の和歌

 公鑑(林述斎)が語った。

 我が国に幕府が開く以前は天下で兵乱が打ち続き、
儒教文籍が地を払って絶えていた。
この時に小早川隆景は筑前の名島で学校を設立したという。
珍しいことである。

 また太田道灌の『慕景集』には釈菜の歌がある。
二月の釈菜を金沢文庫で行うと三好日向守勝之のもとから申しこしてきたので、
「隣家梅花」という題を、聖人への供物に添えて送るとて

はな(る)なれやよよ友垣の近きには 遠きもなるる梅の下風

と詠ったという。
これは『論語』の首章である、
「学びて時に之を習ふ。亦説ばしからずや。
朋有り、遠方より来たる。亦楽しからずや。
人知らずして慍みず、亦君子ならずや。」

の意をいっているのだろう。

(甲子夜話)


敵を射伏ば自軍の利。後まで苦しめるは不仁の業

2017年03月22日 10:39

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 03:35:29.81 ID:OMqm+fgI
同じ頃(甲斐領地直後)、東照宮(徳川家康)が武田家の士・横田甚右衛門(尹松)らを
召して、信玄の事を物語りさせて聞きなさった時、

「御坊の時は火縄はどのようにしたのか」と、御尋ねになった。

すると、「柿の渋に石灰を入れて火縄を染めますと、年を経ても使えます」と答え申した。
東照宮は横田、または城意庵などに信玄のことを“御坊”と仰せになったという。

また、武田家において鏃をゆるく詰めたのは、敵の肉の中に鏃を残すためであると申す
のを聞きなさり、東照宮は、

「士がいくさに臨むのは皆その主君のためであるのだよ。敵を射伏せば自軍の利となる
であろう。けれども、後まで人を苦しめるのは不仁の業である。今日から我が家の士は
鏃を堅く詰めよ」

と、仰せ出したのであった。

――『常山紀談』



740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 07:03:58.34 ID:95mxgnAJ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1963.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5892.html
前にも出てたけど出典はなかったか

アフォンソ・バズという人物一人を殺してしまった。

2017年03月22日 10:38

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/21(火) 21:56:50.71 ID:3jA4Kuzq
1562年(永禄4年)、鹿児島の王(島津貴久)よりインド総督に贈りし書簡

『コンパニヤのイルマン2人が、昨年私の鹿児島の領国に来たり、私の領内を巡って説教をしたが、
私は一つの戦役のため救援の準備に従事していた故に、私の希望のように彼らが当然受けるべき境遇を
与えることができなかった。

また、私の領国の一港であるマンゴー(Mangoo)にポルトガル人の船一艘が来ていたが、上記の戦役に
巡り合わせた故に、彼らに相当なる礼遇を与えることが出来なかっただけでなく、国内に外国より
略奪のために来た剽盗があったために、ポルトガル人が来ているのを知らず、彼らを剽盗と誤認し戦ってしまい、
アフォンソ・バズ(Affonso Vaz)という人物一人を殺してしまった。
私はこれを遺憾とする。

私は毎年書簡を送るべきである故に、閣下がもし書簡を送ってくれば私はこれを大いなる名誉と思うだろう。
ポルトガル人、又はパードレ等を当地に派遣しようとする時、閣下の書簡、又は口上を持参すれば、私は彼らに
相当する、一切の歓待礼遇を与えるであろう。

(永禄)四年薩摩より』

(異国叢書)

島津貴久による「合戦騒ぎでついうっかりポルトガル人殺しちゃったわテヘペロ」という書簡である



688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/21(火) 21:58:52.95 ID:Kls3i0zw
お詫びに軍旗に大きく十字を書けば許してくれただろうな

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 11:18:06.25 ID:XIT09IlA
戦国も後半になると海外と外交したり秀吉のゴマすったり中間管理職めいて大変だな
毛利元就くらいがいいな。領国内で成り上がって国人衆を統一して自国領を広げてハッピーエンドみたいな

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 11:29:14.25 ID:nTvcLbOj
守護大名がか?

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 12:46:46.90 ID:mQ1Lf/Wi
元就は元就で苦労の連続じゃん

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 22:39:46.44 ID:fDcqyXCX
元就は書状で愚痴りまくりの戦国苦労人。しっかり苦労人の血を受け継いじゃった長男。そしてなぜか孫がアレ

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 22:52:19.62 ID:tvp724bG
あれ呼ばわりされてるが大友家一条家朝倉家のアレ等よりよっぽどマシだろう

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 23:52:54.86 ID:qPwsY8gI
結構アレな息子は多いな、今川とか。黒田もそうか。

週間ブログ拍手ランキング【03/16~/22】

2017年03月22日 10:34

03/16~/22のブログ拍手ランキングです!


今は、天下創業の御政務である。 16

用来の用、不用の用、明勝の用 11

明主の賢慮は推量し難い 10
「法度は改め変える事なかれ。年貢は少なく取ろう」 10

1567年(永禄10年)、豊後の王よりの書簡 9
平手政秀は優美な男であった 9
糞瓶の運上まで取っていく 8

これよりしてこそ、信長公の名誉は  7
サウジの国王が来日で混乱どころの話じゃないレベルで 5
「さざえ”あわびのかみ”になられたのだ。」 5
秀吉公は神明を仰がれられて 2


今週の1位はこちら!今は、天下創業の御政務である。です!
江戸幕府初期の幕僚の思いを、土井利勝が語る逸話です。
実際に江戸幕府は創業の時代を「武断政治」と定義していて、まあ要は「社会の安定を脅かしそうなモノは何でも容赦なく
潰すぞ」みたいな発想です。秀忠、家光期に外様譜代の区別なく大名の改易が多かったのは、そういう考えがベースに
あったようです。
ただそういう乱暴な政治は長続きしない、という考えも江戸幕府は同時に持っていて、社会の安定を一定のレベルで達成したと
判断された家綱、綱吉期に、「文治政治」に転換されます。
「平和で安定した社会」は、当時の日本人が誰も経験したことのないものであり、初期江戸幕府というのはそれを、かなり自覚的に
定着させようとしています。その目標に向かっての幕府の高級スタッフの矜持とはかくなるものであった、というものを
感じさせる逸話だと思いました。

2位はこちら!用来の用、不用の用、明勝の用です!
徳川家康の、家中の人々の用い方についてのお話。
やはり面白いのは、「役立たずでも捨てるべきではない」という部分でしょうか。そこから「賢い子供が生まれてくるかもしれない」
という発送は、実に封建時代的ですが、「イエ」と言うもの自体、一族血族が全体としてフォローし合いイエ共同体を維持発展
させる、という発想の在るものですから、そういう「イエの原理」を認めたものと考えていいかもしれませんね。
あるいは「主君にバカが出ても忠誠を強要されるんだから、家臣にバカが出ても許されるべき」という考えかもしれませんw
色んな意味で、近世の家中というものの発想を表している逸話じゃないかな、なんて思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!平手政秀は優美な男であったです!
平手政秀の優美なその行動。平手政秀といえば「若い頃の信長に右往左往する爺」といったイメージが、やはり強いかと
思いますが、こういう逸話を見ると、非常に水際立つ武士だったと感じさせますね。
平手さんもそうですが、歴史上の人物の世間的なイメージと実態って、相当別物です。歴史を学ぶ面白さの一つに、
「この人、こんな人だったのか!」という発見があると思います。そこから、同じ歴史上の事象でも、それに対する解釈が、
自分の中でどんどん変化したりもします。
この逸話も、そういう取っ掛かりをくれるものじゃないかな、なんて思いました。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
又気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

糞瓶の運上まで取っていく

2017年03月21日 21:06

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 02:13:37.54 ID:ii+BI2aW
糞瓶の運上まで取っていく


石丸令歸とその弟の雲徹は播州にて召し出され[兄弟ともに御噺の衆という]
国清公(池田輝政)の御在国のときは姫路に居て
関東に下られるときには京都に住んでいた。
雲徹は五百石を賜わり、とりわけ気に入られていた。

ある年、雲徹が京より下り御前に伺候していたとき国清公が
我のことを京では何といっているかと尋ねられたことがあった。
雲徹が承って
「『三左殿、大して取るものがないので糞瓶の運上まで取っていく』と
 沙汰しているそうですよ」
と申すと、国清公は予想外に目をいからせ、座を立って奥に入っていかれた。
雲徹は萎縮して宿所に帰った。

明くる日(輝政は)雲徹を呼び出されたので、死を賜うか放逐されるか
いずれにせよ何もないことはないだろうと思いながら行くと
意外にも(輝政の)怒りは晴れていて
「昨日はよく我が知らないことを申したので(後から確認したところ)
 確かに薄田左馬が申し付けて運上を取っていたと聞いた。
 この先は必ず止めよと命ずる。幾度でもためになることは申すのだぞ」
と仰せられた。


――『池田家履歴略記』



737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 21:53:51.13 ID:rftHM3d0
権現様「糞瓶の運上が払えないなら焼き味噌を払えば良いじゃない」

サウジの国王が来日で混乱どころの話じゃないレベルで

2017年03月21日 21:06

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 12:45:26.50 ID:ajCmN+xp
家光が最後に上洛した時の事かな
http://i.imgur.com/8N6tupL.jpg
8N6tupL.jpg

サウジの国王が来日で混乱どころの話じゃないレベルで迷惑だなw



685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 18:42:19.69 ID:ccqVKeS4
>>684
示威とはいえ、かなりの金がかかったんだろうなあ

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 23:36:41.03 ID:Xngeiluy
鎌倉もそうだが遠国に本拠地があると天皇権威が復活するよね

1567年(永禄10年)、豊後の王よりの書簡

2017年03月20日 12:43

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/19(日) 19:39:01.77 ID:ZMAWX+2P
1567年(永禄10年)、豊後の王(大友宗麟)より支那滞在中のニセア司教ドン・ベルショー・カルネイロに送りし書簡

『最も尊敬すべき君

我らは貴方が本年、当地に来られることを大いに期待している。そして貴方の渡海を妨げる原因が小さくないことを
憂いているが、近く相まみえる事の希望を失っていない。

私が常に耶蘇教を庇護したいと欲していることは、既に貴方の耳に達していると信ずる。
私が山口の王(毛利氏)に対して勝利を望むのは、第一に彼の地にパードレ等を帰住せしめ、彼らが受けていたよりも
大いなる庇護を与える為である。
そして、我が希望を実現するため貴方の援助を必要とするのは、日本に硝石の来ることを一切禁止し、
ただ我が領国防御のため、カピタン・モール(官船の司令官)をして毎年品質良好な硝石ニ百斤をもたらす事である。

私はこれに対し百タイス(銀一貫目)、又は貴方の命ずるところの額を支払うであろう。
この方法によれば、山口の暴君は領国を失い、私の元にある正当なる領主(大内輝弘)がその国に入ること
可能になるだろう。私は貴方の手に接吻しよう。

本日陰暦第九月の十五日』

(異国叢書)

大友宗麟が、宣教師に硝石の禁輸を持ちかけていた書状である。



683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 01:39:50.91 ID:dH4ZvUEi
>>682
この頃から毛利の九州への再侵攻に備えて輝弘を山口に送る計画してたんだな
対毛利戦の時はほんと色んな手を打ってて有能なんだけどな宗麟

これよりしてこそ、信長公の名誉は

2017年03月19日 15:44

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/19(日) 03:49:08.21 ID:WspcWOTG
今川義元の討死により、)残る敵どもはどうして少しでも溜まることであろうか、総軍一度に敗北して、
四角八方へ崩れ立ち、後から逃げる味方をも敵が追ってくるぞと見損じて逃げ散るところを、

ここに押し詰め、あそこに追い詰め、思うままに討ち取った。さてもこの合戦の場“桶狭間”というところ
は山の狭間、深田の辺りで高み低みも打ち茂り、足場はどこも難所なので、逃げ行く者どもはいっそうに
途方を失い、ことごとく討ち取られた。

味方の若者ども(織田勢)は追いつき追いつき、首を2つ3つずつ討ち取って、信長公の御前へ参った
ところ、首はみな清洲で御実検なさるとして義元の首だけを御一覧なさり、御馬の先にその首をもたせ、
勝鬨を作り、これより敵を追い捨てて、早々にその日の申の刻に清洲を目指して御凱陣なさった。

山田新右衛門という者は本国駿河の者で、義元懇志の侍であるが、はるばる後陣にいたところで義元の
討死と聞き、馬を速めて桶狭間に馳せ来たり、「まことに命は義によって軽し!」と言い捨てて、義元の
討死の跡で一足も引かずに討死した。

この他、遠江二俣の城主・松井五郎八郎宗信を始め一党2百余人、伊井肥後守、笠原等が一所で討死
した。三河勢は松平善兵衛が棒山で討死した。松平摂津守、同兵部、同次右衛門は所々での討死である。
松平上野介は大高の城から元康の使いに来て本陣にいたが、義元と一所で討死した。

駿河勢には、江馬左京助、由比美作、石河新左衛門、関口越中、斎藤掃部、庵原右近、同勝次郎、
朝比奈主計、西江、内藤、富塚修理進、温井蔵人、富永伯耆守、牟礼主水、四宮右衛門、伊井信濃を
始めとして、駿遠参州の兵どもは数を尽くして討死した。

清洲の城で首帳が記されたところ、その数は2千5百であったということである。また3千ともいう説もある。
これよりしてこそ、信長公の名誉は天下に聞こえたのである。

――『織田軍記(総見記)』

用来の用、不用の用、明勝の用

2017年03月18日 18:33

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 18:13:18.57 ID:L9oFZyyh
東照宮の上意に
「天下国家を治めるのに、用来の用、不用の用、明勝の用といって、3つの用事がある。

用来の用というのは、我が家は姓は源にて、氏は新田、別名は徳川である。
従臣には、酒井、大久保、井伊、本多、榊原、安部、奥平、大須賀、水野、平岩、鳥居、菅沼、石川、
安藤、内藤、大井、土井、青山、高力、天野、板倉、阿部、牧野、西尾、久松、
その他一統一統の氏があり、この氏人の子孫、従類は、皆当家の譜代随一である。

そこで、彼らの子孫の内、親たちより生まれつき優れているのは言うまでもなく、親に等しくその用を
勤めるのを、用来の用と言う。

また、その家、その子が、親たちの器量からは殊の外劣っていても、家督を相違なく立て置くのを、
不用の用と言う。
これについて、その家の太郎(嫡男)は用いるに足らずといえども、その家名は捨て難いものであり、
賢くない者の子に、能き者の生まれるのは、和漢ともにその例多い。
我が家の得失というものは、自分自身では計り難いものであるから、賢臣と事を取り計らなければならない。

また明勝(時来の意)の用というのは、来用の用の内にあり、その職責を任せられる人物の無い時は、
埋もれている小身の内なりとも、抽り出して、その者の器量の備わっているのを見て、大身に取り立て、
これを用いることを言う。

ただし、自己を高ぶらず、人を侮らず、一人で威を振るわず、能き事を同役へ譲り、末を考えて、
偽り飾ることをせず、諸人をむらなく愛してこそ、誠に天下・国家の家老というべきである。

家の惣領の子に付けるような者は、別してこの心得第一に選ぶべきである。
惣領の子であっても、その家の風紀に無理に当てはめようとしては、なかなか育てられるものではない。
慈仁を第一にして、それ以外は時に応じ、その器に従って教育していけば、自ずから根の強い、
能き人になるものだ。」

そう仰ったという。

(武野燭談)


733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 20:58:25.89 ID:NOKRHnIw
長安事件がなければ
酒井、榊原、井伊、本多、大久保
で徳川四天王だったのかな

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 21:16:05.47 ID:/96KH+RV
>>733
森武蔵が呼んどるで

明主の賢慮は推量し難い

2017年03月17日 07:47

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 23:45:21.45 ID:vrpWz8g8
徳川家康がある時仰せに成った
「右兵衛督(徳川義直)、常陸介(徳川頼宣)の両人に、近日武具着初めをさせるので、
あらかじめ準備しておくように。」

御武具方はこれを承り。黒糸縅の甲冑、ならびに弓矢、陣太刀、鞭、采配、軍配扇など、
注文通りに揃えた。

その頃、この武具着初めについて下々からは
「現在、右兵衛督殿の御爺などと称せられている平岩主計頭親吉は、それほど高名は聞こえないが、
上の御覚え他に異なり、また常陸介殿に付けられている安藤帯刀は、武勇冥加の侍であるから、
きっと両殿の御武具は、この両人が召させるのであろう。

尤も平岩は戦場に勇ある人物ではあるが、安藤と比べては、なかなか同日に論ずることができる者ではない。
そもそも公達などの御武具御召初めは、勇功あって武の冥加ある侍にあやからせ給うようにと、
専らそういう人を選ぶものだ。安藤は一日の内に二人の大将の首を獲た武勇の人であるから、言うに及ばず。
一方の平岩は、上意ではあったが、かつて一家の主親たる水野下野らを討ち、また三郎信康殿の
御母堂築山殿御生害の事を取り計らうなど、あまり吉兆のある人ではない。そういう人に若君などの
御武具召させ初めるというのは、いかがなものか。」

そのように言い合っていたが、当日に至ると、義直、頼宣の武具を、父である徳川家康が自ら
召させるとの上意にて、兄弟は同日御前にて召させられた。下々の予想は全く間違えていたのである。

しかし岡崎三郎殿以降の公達は数多居たと言うのに、家康自ら武具を召させる事は無かった。
それが今度このように計られた神慮は計り難い。兎にも角にも、優れて御愛子ということだろうか。
何れにしても、明主の賢慮を下々は推量し難いということだ。

(武野燭談)


「法度は改め変える事なかれ。年貢は少なく取ろう」

2017年03月17日 07:46

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 02:42:53.78 ID:cTLi9xmA
勝頼滅んで後、東照宮(徳川家康)は甲斐を治めなさると、

「法度は信玄より用いるところを改め変える事なかれ。年貢は少なく取ろう」

と、仰せ出しなさったので、百姓は大いに喜びあった。小田原(後北条氏)
滅んで後、その地を治めなさる時も、また同じであった。

諸民は大いに喜び、数百年の恩義が相結ばれるに同じであった。

――『常山紀談』



722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 03:09:38.35 ID:QiuwIqqf
百年にわたり善政を行い民百姓との結びつきが強いと言われた後北条氏だが民は年貢を多少割り引いて貰っただけで敵側だった徳川わっしょいになるなんて、所詮はその程度のものだった
穿った見方をすると悪い話し

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 07:44:17.53 ID:wCCIMaLG
>>722
真面目に言うと、家康は関東に入ってすぐに、水路の整備など、農村の改良事業といった、
戦乱のため北条が「やりたくても出来なかったこと」を大々的に行ってる。

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 08:40:17.24 ID:nnSE9C2g
>>722
ついでに言うと北条家の家臣はほぼ登用しておりあまり法律とかやり方を変えてないしな。住む方にとってはありがたい。

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 12:03:48.43 ID:ZFO1X/J/
盗賊にまで落ちた風魔がいたね

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 12:33:44.27 ID:SiKtZsUe
>>724
実はあまり登用していなかったんじゃなかったっけ。
ただ農工商いずれに渡っても領民と徳川の中に入っていって
色々スムーズにしていったとか聞いたことある。

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 20:38:45.25 ID:bg166cIu
家康は小牧長久手の戦役で15歳から60歳までの男子を総動員している。
農繁期にこれをやっちゃったので、秋の収穫は酷い事になってるんだけどね。
甲斐では家康が統治してからも検地反対の一揆などが頻発してて、民が喜んだなんて嘘っぱちなんだけどなあ。

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 22:56:50.30 ID:gv6zUOc6
>>727
いつどの辺りで起きたの?
首謀者は百姓なの?
それとも武田の旧臣?

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 23:57:35.83 ID:bg166cIu
当時においては百姓と武士の違いなどあいまいだ。区別はできないな。
そもそも当時の百姓は甲冑槍弓で武装し、場合によっては火縄などまでもってる。

時期は家康が五か国総検地をやった時。
その前も小牧長久手の後遺症で領内が大飢饉に陥っていたけどね。

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 09:30:45.43 ID:e23UI1NM
妄想?それとも何か文献あるんだろうか。

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 13:01:10.66 ID:mqYEINS8
龍門寺拠実記によると小牧長久手の戦いで男でがとられて、領内は荒廃して飢饉になり、
老人は口減らしで死んでいた事が記されているよ。

秀吉公は神明を仰がれられて

2017年03月17日 07:45

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 01:49:54.67 ID:3F32zGZe
 太閤秀吉公が名護屋に御在陣の時加部島で鹿狩りを催し、
狩った鹿を田島大明神の社壇の前に集められた。
多くの臣下が神明の咎が蒙るかもしれずいかがなものかと思い、外へ持ち出すべきだと言ったが、
秀吉公は少しも恐れられず、

「どうしてそのような事が起ころうか」

と悠然とおられた所に、たちまち風波起こって集まっていた鹿を残らず吹き飛ばし穢土を清めた。
秀吉公はすぐに宮司に仰せられて、神鎮めの神楽を奏上された。
 その後祈祷祈念を怠られず、奉納寄付等があった。
既に朝鮮渡海の先鋒小西摂津守・加藤主計頭の軍勢が出船していたので、敵国調伏の祈祷をさせられた。
 御社の後ろの森の中に大石がある。この前に壇を築き注連縄を引いて、宮司は丹誠を尽くして祈る。
数百騎の精兵は弓矢を帯びて朝鮮の方に向かって矢を放ち鯨波を揚げると、大石が中から縦に割れた。
その石は割れたままで今も宮殿の後ろにある。
秀吉公は御感ひととおりでなく神明を仰がれられて、軍勢海陸無難、敵国調伏の祈願をこめられた。
 その後一艘の船を献じ朝鮮の梅と奈良の八重桜の苗を社内に植えさせられた。今もその樹が残っている。

 松浦郡の神社は皆田島大明神の末社であったという。
境内の末社に佐用姫の神社がある。縁起にもあることである。
秀吉公は、往昔に神功皇后が御祈願をこめられた例により、田島大明神を尊崇された。
また大伴狭手彦の因縁があるので、朝鮮征伐の時から、百石高、山林で相違ないと御朱印を与えられた。
今なお御代々の将軍から賜っており、宮司は従五位下を任官し昇殿を許されている。

『松浦古事記 寛政元年(1789年)成立 著者不詳』

・「往昔に神功皇后が御祈願をこめられた例」というのは、多分「神集島」のことで「加部島」ではない
・秀吉が佐用姫神社に百石寄進した朱印状は実存し名護屋城博物館に収蔵されているらしい
・佐用姫と大伴狭手彦というのはさよ姫伝説の事

「宣化天皇の頃、任那を新羅から救済する為大伴狭手彦が唐津に駐屯した。
そこで狭手彦は現地の豪族の娘の佐用姫と夫婦になるも、
狭手彦は朝鮮への出征により佐用姫を置いていくことにする。
佐用姫は夫を慕い、乗っている船を追いかけて加部島までたどり着くも、
結局夫と離れ離れになってしまう。
嘆き悲しんだ末、佐用姫は石になってしまった。」

というもの。(諸説ある)
元ネタは『肥前国風土記』の弟日姫子と大伴狭手彦だが、
出征して離れ離れになるとこまでは同じだが、加部島には行かないし石にもならない。



675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/17(金) 18:45:26.29 ID:MF2YxTVe
万葉集で大伴旅人に歌われるような伝説にたいして風土記が元ネタというのは違和感が


676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 15:20:21.58 ID:L6OBA41M
>>675
正確には、奈良時代には広まっていた肥前国であったとされた伝説が元ネタですね。
万葉集では別れを惜しんで山に登って領巾を振る光景を主に詠っていますね。
どちらでも、佐用姫は加部島に行かないし石にもならない。

ついでに、佐用姫と秀吉の逸話をもう一つ投下


豊太閤が名護屋の御城におられた時、加部島を逍遥された。
浜辺に一つの石があったので、しばし休もうと腰をかけられると、
この石が温かくなってむくむくと動いた。
太閤は驚き、

「これは怪しい石である。きっと由縁があるに違いない。」

と古老を呼んで尋ねられた。

「あれは佐用姫の御形石です」

との答えがあったが、太閤は

「どうしてそのようなことがあろうか」

と尿をかけられるた。
すると沖の方からにわかに大波が来てこの石を洗い流した。
さすがの太閤も大変感じ入り、自らの無礼を詫びられて、
古人平野某を召して神司とし、
その場で百石の証文を授けて佐用姫の霊に仕えさせるよう
大谷吉隆(吉継)に仰せられた。

今もその例により、徳川家から代々百石の朱印を授けられている。

『松浦の家つと 安政六年(1859年)序 明治三十一年(1898年)刊  著者 岡 吉胤』


677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 15:59:59.61 ID:TyxkKzHL
>>676
なんなの秀吉のテンプレでもあるのw
秀吉がおごり高ぶったことをする(しかも下品なこと)
→自然現象が起こる
→神意をみた秀吉が反省して色々奉ってみたりする

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 16:13:56.51 ID:lNAyAxB5
あるいは太閤の小便には超自然現象を起こす能力があるのやも知れん

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 22:54:13.84 ID:/FtvZE1I
>>677
あるんだろうね
秀吉が家臣の妻に手を出そうとしてしっぺ返しをくらう、みたいに

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/19(日) 03:51:10.05 ID:gSypgfin
なんとなく秀吉=将軍さま 自然現象=一休さんの構図が見えた

平手政秀は優美な男であった

2017年03月16日 21:17

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 06:35:00.73 ID:IzqYErIF
平手中務丞政秀は思案を廻らし、何とかして清洲勢(織田大和守家)を味方にし、
一国の乱を静めようとして、様々に和睦のことを取り扱ったが、

清洲の家老・坂井大膳、同甚介、河尻(与一)らの同意なくして、年内<天文17年>
は打ち過ぎた。ようやく翌年の春の末に、互いに同意して差し障りなく和睦させた。

政秀はそもそも優美な男であったため、その頃、大膳、甚介方へ和睦珍重の旨の
書札を遣わした。その端に一首の古歌を書き付けたという。

「袖漬ぢて 結びし水の 凍れるを 春立つ今日の 風や解くらん(紀貫之の歌)」

――『織田軍記(総見記)』


「さざえ”あわびのかみ”になられたのだ。」

2017年03月16日 21:16

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 00:57:14.93 ID:ESpxuFY9
 天正の末のことである。
関白秀次の家臣の人々が新しい諸大夫になった時、
その若造どもは聚楽の番所のわきに集って居た。

「我が主殿は、今度”かみ”になられたか。
社参してくる衆も『めでたくございます』と樽酒を持って参る。
が、まだ賽銭などは見えませんな。」
「何の”かみ”におなりになられたのか?」
「さざえ”あわびのかみ”になられたのだ。」
「それは少し生臭いかみじゃ。しかしながら、これは御意であろうのでどうしようもない。
うちの主殿も昔から、”なまこの寿千寺”といってきている。」

 評して云う。
万民を憂う心は弱く利を思う心が強い人を宰相の職に挙用したら、
雀部淡路守をあはびのかみ、尼子寿千寺をなまこと聞き違える害がでたのだろう。
善悪が生じる原因は、智に明るいかどうかではないだろうか。

(戯言養気集)



672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 10:10:26.13 ID:9pvTh3BL
落語の「松竹梅」を思い出した
長屋の松さん、竹さん、梅さんが名前が縁起がいいってので若旦那の婚礼の座興をすることになったが
松「なったあ、なったあ、じゃになったあ、当家の婿殿じゃになったあ」
竹「なんのじゃになられた?」
梅「長者になられた」
というところを梅さんが間違って
「大蛇になられた」「風邪になられた」
最終的には「亡者になられた」
と言ってしまい、あわてて逃げ帰るという

今は、天下創業の御政務である。

2017年03月15日 19:17

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 17:53:08.67 ID:FwIHOceO
ある人が言った
「大久保相模守忠隣、本多上野介正純などは、父祖代々御当家に仕えて大功のある人々の子です。
であるのにその一身が修まらざるによりて、最期には辱められ、彼らに縁のあった大名たちもまた、
名家、あるいは数代の武臣であったのに、多くがこの事によって改易されました。
これは非常に荒い御政務ではないでしょうか。」

これを土井大炊頭利勝が聞いた
「愚かなることを申す者かな。私などは今、武家(将軍家)執事職を兼ね勤めていると言っても、
子孫が君命に背くなら、他の者よりも罪を糾明されてこそ本意である。
またその上で、折が有れば、大久保・本多といった罪を問われた人々に存命の子孫が有れば、
宜しく召し仕わされる事、これが仁政である。

今は、天下創業の御政務である。
だからこそ、先ず御譜代より厳しく戒め置かれているのは天下に恐れられている。
御譜代の者が別してその罪を深くしてこそ、上の後威光が増すのである。

忠隣、正純の父である、大久保忠世、本多正信も、息子に対して泉下で憎んでいるだろう。
仮に存命していれば、共に子を勘当したであろう。
彼らはそういう人物であった。」

そう申されたという。

(武野燭談)



668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 19:41:25.77 ID:jC7m6Npx
>>667
いい話じゃない?

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 21:45:02.10 ID:kjNWxgyd
正純の父が正純
※訂正済みです
670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/15(水) 22:44:16.45 ID:ccF9VRfj
Oh!マサズミホンダJrのコトダネー

週間ブログ拍手ランキング【03/09~/15】

2017年03月15日 19:12

03/09~/15のブログ拍手ランキングです!


山口さんお疲れ様です。 45

讃岐守の子は油断できない 22

「織田信長は類なき大うつけ者」 15
大河ドラマ応援エピソード 12

大人・公子の御身として、幽霊女の真似など 10
此の方の宛名は何と書いた 10
すなわち御名を織田三郎信長と付けなさる。 10

髪に伽羅を 9
もはやというところで余りの苦しさに 8
三州山中八幡の事  7

「父は知らず。母は官女」 6
賊軍の平行長から 6
平戸広前院、壱岐覚音寺、田平弥勒寺、城下正安寺、誓願寺等鐘之事 6

坂田五郎左衛門、穴沢左近と勝負之こと 付異聞 5
種子島蔵人 5


今週の1位はこちら!山口さんお疲れ様です。です!
この山口直友という人、かなり不思議な人物で、丹波赤井氏出身なのですが何故か信濃山口氏を相続しいつの間にやら
徳川家康に仕え近習と成っていたりと、徳川家中でもかなり珍しい経歴の人ですね。
なお、この、かなりアクティブな経歴からは「ホントかよ?」と思ってしまうのですが、病弱だったようで、
そのため長く女性を遠ざけていたにも関わらず。60歳になってから18歳の妻を娶り、この妻が早世すると
74歳で19歳の妻と再婚するという、老齢に成ってから何かに目覚めたフシのある方でもありますw

それにしても徳川家康という人は、こういう学術的な技能を持つ家臣をわりと大切にしますね。
オランダ人から時計が献上されたときも、家臣にこれを分解させてその原理や技術を習得させています。
信長が時計を献上された時、「我々では壊れても修理できないから」とそれを返した、なんて話がフロイスの日本史に
収録されていますが、こう言ったあたりに信長と家康の個性の違いを見ることができるかもしれません。
このあたりも一般的な印象と逆ですが、織田信長という人はかなり素朴な武辺の人で、家康の方が新奇なもの大好き、
だったりします。
そんなこともふと思ったりしました。

2位はこちら!讃岐守の子は油断できないです
島原の乱の頃は、何のかんのでまだまだ徳川家中の「武功派」が生きていますから、若手との摩擦というのは
当然有ったことでしょう。そんな一面を感じさせてくれる逸話です。
それにしてもこの時期の幕府重臣というのは、この酒井忠朝もそうですが、この手の組織の中の摩擦をうまく調整する
能力に長けた人が多い、って感じがありますね。「豊臣政権」にこの手の能力を持つ人が少なく、結果分解してしまった
事を考えるに、非常に対照的に思えます。
こう言った人材が集まったこと、意図的なのか偶然なのか。相違言ったことをいろいろ考えてみるのも、面白そうです。

今週管理人が気になった逸話はこちら!
「織田信長は類なき大うつけ者」です!
個人的には、若い頃の織田信長は、本気でグレていた、と思っていますw
それが、平手政秀の切腹などで改心して、「世間から模範的な武士と呼ばれるようになろう!」と一念発起した事が、結果として
彼を天下取りの道に進ませた。と考えています。
そういう目で見たほうが、織田信長という人物をわりと素直に理解できると思うのですよね。
前にそんな風に考えていたことをふと思い出した逸話でした。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してみてくださいね!
( ´ ▽ ` )

大人・公子の御身として、幽霊女の真似など

2017年03月14日 17:39

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/14(火) 17:34:44.98 ID:T6KbAzrH
ある年のこと、尾張大納言徳川義直の元に酒井讃岐守忠勝が訪問した時、馳走にと
嫡男五郎太殿(後の徳川光友)による能興行があった。
この時、五郎太の手の舞い、足の踏む所、自らの拍子を、『讃岐守はきっと感賞するであろう』と、
義直は自慢げに見せるのを、忠勝は一切褒めず

「勿体なき大事の御身でございます。どうぞ余人に仰せ付けてください。すでにご器用なのはよく解りました」
(勿体なき大事の御身にて候。只余人に仰せ付けられ候へ。最早御器用の程は見え申したり)

と、しきりに止めようとした。立ち返ってから

「武家は何度も武を賞賛されることこそ本意である。大人・公子の御身として、幽霊女の真似など、
全く益がないではないか。」
故に全く感心できなかったのでやめるよう言ったのだと、成瀬隼人正正成に語ったそうである。

(武野燭談)


666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/14(火) 21:27:44.11 ID:BQ1j7HGy
でも武を見せつけると謀叛の疑いをかけらるんだろ

此の方の宛名は何と書いた

2017年03月13日 09:35

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/12(日) 21:11:39.63 ID:Ss9DL0Db
慶長19年、大阪冬の陣和睦の際、大阪城からは木村長門守重成を以て、神盟の御判元拝見に
さし寄越された。木村は家康の御座近くに参るための支度はしていたが、彼の気色が怪しいため、
家康側近くの者達は、彼を遠ざけ置いた。

この時、大阪城へも豊臣秀頼の判元を確認するため、幕府より使者が遣わされたが、人々は
「きっと侍大将の中から選ばれるだろう」と噂していた所、『若者のうちより、分別があって
事がもし破れたときに一己の働きのできる忠士』として、板倉内膳正重昌が選ばれた。

家康は重昌を召すと「和睦の誓紙を見て参れ」と命じた。
板倉重昌はこの時18歳。近習として召し使われ、心やすく思っている者であったので遣わされる、
との事であった。
大阪においては「関東勇功の老臣が派遣されるであろう」り心支度していたものの、それは相違した。

さて、板倉重昌は秀頼の御前に出て、御判をされる時、座を立ってその膝元に寄り、左右を顧みて
申し上げた

「右丞相(秀頼)の御器量、関東にて承り及ぶよりも、ことに勇々しく見奉りました。
関東にては秀頼功の御膝が、扇子丈ほどもあると承り伝えられているばかりであります。
このような機会に拝し奉り、関東への土産としたいと思います。」

そう言うと腰の扇子を抜いて座を立ち、膝を計ろうとするふりをして、御判元をしっかりと確認した。

その後秀頼より、「宛名は何処にすべきか」と尋ねられた。重昌は
「その事について特別に仰せ付けられてはおりませんが、関東・大阪御和睦の儀にて候へば、
現代の将軍である秀忠公に宛てるべきでしょう。」と申し上げた。このため宛名は
『江戸将軍へ』と書かれた。

この頃徳川家康は「内膳正に第一に言っておくべきことを忘れていた!」と、大変気にしている様子だったので、
人々は「一体何事だろう」と心配していた所、重昌は程なく帰ってきた。この報告を受けると
家康は御次の間まで出てきて

「どうであった内膳、判元を見て参ったか。
実は第一に申し付けるべきことを忘れていた。此の方の宛名は何と書いた?」

重昌畏まって
「その段、仰せ付けは承りませんでしたが、関東・大阪御和睦でありますから、新将軍家へと
望みました。」

そう申し上げると、家康は甚だ御機嫌にて「でかしたり!でかしたり!」と、大いに喜び、
また全体の首尾が報告されると、一入感じ入ったとか。

(武野燭談)


髪に伽羅を

2017年03月13日 09:34

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/13(月) 07:24:37.86 ID:ZXvx5ar4
 秀頼公の乳母子木村長門守(重成)は忠義の士で、二十三歳で忠死をとげた。
かねて討死を心掛けていたので、髪に伽羅をとめていた。
安藤長三郎がその首を挙げまして、家康公が御覧になられました。
空焼きの匂いをかがれて、
「いつの間にかような心付きをしたのか。殊勝な若造だ。」
と上意があったとのことだ。

『武士としては』