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この悪しきイザベルは

2019年04月25日 15:05

918 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 20:42:49.55 ID:s59Jl9Ux
この頃世子(大友義統)が臼杵市外に在った時、新たにキリシタンと成った家臣の一人が、殿中に於いて
他の家臣と口論した後、剣を抜いて一人を傷つけ、死に至らしめた。よって大いなる騒擾が起こり、さらに
国王不在であったため事件は一層重大となった。殿中に於いて剣を抜いただけでも、本人並びに近親が
死すべきことは動かすべからざる規定であった故に、この青年はその父とともに逃げた。

彼がキリシタンであったが故に、反キリスト教である王妃(大友宗麟正妻奈多夫人)は、「キリシタンは
主君に仕えないだけでなく、叛乱を起こす者たちである。」と言って、この事件をさらに重大なものとしようとした。

この事件が起こって十五日後、他の新たにキリスト教に帰依した武士が喧嘩の後一人を殺した。この騒ぎの為に
大身および兵士が多数集まったため、国王(大友宗麟)自らこの事件に干渉して鎮圧する事となった。

その頃、世子が新たに帰依した一少年(教名エステバン)に対して不快に感じるところがあり、大身に嫁いだ
世子の姉妹の元に送り、これに仕えさせた。大身は仏の絵を求めることをこの少年に命じた。
しかし少年は答えて「私はキリシタンであるので、そのような絵を求めるために行くことは出来ない。」と
言い、他人を使わせるよう請うた。大身はこの返答を考慮して、遣いに別の少年を行かせたが、彼の妻である
王女は、その母(奈多夫人)と同じくデウスの教えを憎んでいたために、この事を聞いて好機であると考えた。

数日後、特にこの少年を呼び、坊主の僧院に行って、守(mamboris)と称する偶像の聖宝を求めてくるよう
命じた。少年はこれに「私が奉じているゼウスの教えに背く」と答え、他の者を派遣することを請うたが、
しかるに王女はこれを強要し、「もし自らこれを持ち来たることを欲さないのであれば、その家臣の一人を
遣わすように。」と言ったものの、少年は「悪魔のことであり、何の利益もないゆえにこれも成すことは出来ない」
と拒否した。王女は「守を求めに行かないのであれば、命を失うべし。」と言ったが、少年は「たとえ首を
斬られようともデウスに背いて罪となることは行えない。」と重ねて拒絶した。

この頃国王並びに世子は市外にあり、帰還は5、6日後の予定であったため、すぐにこの少年を殺すことは
無かったが、世子は既に国を治めていたため、彼の帰城を待ってこれを処分することと成った。
王妃はこの機会に世子に説き、国王並びに世子の家臣が悉くキリスト教より転向し、以後再びキリシタンに
成る者を無くそうと決意し、直接に国王の元に使者を遣わして、キリシタン一般について、彼らが神および
仏の教えを攻撃する以外のことは行わず、旧来の慣習を破壊し、臣民をして領主に背かせ国を滅ぼすこと、
その他それに類することを述べ、彼らがそのような事を教えているがゆえに、国を擾乱させないためにも、
キリシタンを国外に追放する必要があると伝えた。

この時王妃は、国王を怒らすために一切を出来だけ誇大に伝えたが、王はキリシタンの年来の友で
在ったゆえに、少しもその気持を動かすことは出来ず、王はむしろキリシタンのため弁明し、騒動の火を
消そうと努力された。

919 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 20:43:33.68 ID:s59Jl9Ux
王妃は老王に頼っては何事も出来ないと見、一方世子はその母に対して従順であり姉妹とも親しかったため、
これに頼って目的を達しようと決心した。世子はこれまでもキリシタン及びデウスの教えに好意を示して
いたが、その母および姉妹、その他異教徒である武士たちが多くのことを語ったため、少年を殺すことを命じ、
「キリシタンたちはその主人に服従しないゆえに、今後キリシタンと成ってはならない。」と決定した。

世子が帰ってくる前、少年の父母、親戚及び友人たちは涙と道理を以て少年を攻め、「王女が彼に
命じたことを成し、坊主の僧院へ行って守りを求めるべし。しかれば罪は赦される。」と説得したが、
少年は目を既に天と永久の命に向けており、父母の涙を軽視し、親類友人らの勧告を顧みなかった。
彼らが「今回限りこれを成すと言えば、王女は満足し、以後再び命ずることはない。また臼杵のキリスト教会の
破滅の原因にならないためにも、命令に従うべきである。」とまで言っても、少年は「私は生きたる
石の上に固く立っており、悪魔に仕える者がキリストの建築を倒さんとして起こした風雨の力もこれを
倒壊させることは出来ない。不屈の勇気によって、デウスに背くことは決して承諾できない。」と答え、
創造主のために命を捨てることを大いに喜んだ。

彼は夜会堂へ来た。我らはこれを激励し勇気づけた。いや、彼が堅実なる信仰を以て我らを力付けたと
言ったほうが良いであろう。そして、世子の帰ってくる前にどこかに隠れるよう懇願したが、彼はそれを
成すことを欲せず、「デウスの愛の為死すことを回避しない。」と言った。
結局世子が帰り、その母及び姉妹たちの勧告に従い、彼を殺すことを命じた。
この悪しきイザベル(奈多夫人への蔑称)は他の武士にも悉く転向する事を命じ、もしこれに応じないので
あれば殺して一切を解決しようと計った。この頃異教徒たちはこれに大いに喜び、キリシタンに対して
様々な事を言ったため、弱き者たちは少なからず恐怖を感じた。

(1576年9月9日(天正四年八月十七日)パードレ・フランシスコ・カブラル書簡)


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岐阜をもって降参し、これ故に敗軍した

2019年04月24日 16:46

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 00:18:57.62 ID:2NRXAsO+
景勝追討の時に相従う大名は7人、小名は46人、総じて53頭(原注:上方御譜代とも)であるという。
江戸を1日程に出て小山に至ると上方より注進あり。「石田謀反して日本一味す」と。

東照宮(徳川家康)及び諸大将は大いに驚いて、何も言えなかった。即時に江戸へ帰り、評定が行われた。
上方御譜代衆を各々一人ずつ召し出して方策を問うと、皆答えることができなかった。

上方衆の中で只一人、福島左衛門大夫(正則)が進んで曰く「太閤の遺言の如く、秀頼を立て給うならば
私が先手を致そう」と言う。諸将はこの時に皆同意する。左馬(加藤嘉明)も言うことができなかったが、
福島が言い出した後に、「我が心もこの如し」と言った。譜代の衆も一人も言い出す者はいなかったが、
ただ井伊兵部(直政)が進んで曰く、「私が先手を致そう」と言った。

評定の後に諸将が皆言うには、「妻子が人質となっている。この事があるので一旦偽って『降る』と言お
う」とのことだった。東照宮はこれを許され、諸将は打ち立って上方へ上った。しかしながら、東照宮の
後陣は至らず、7月に事が起こって9月にようやく到着した。

美濃青野ヶ原(関ヶ原)で合戦があったが、初めは治部方に利あり。後に筑前中納言殿(織田秀信)が岐
阜をもって降参し、これ故に敗軍した。

――『老人雑話』

関ヶ原一乱の勝敗は岐阜陥落で決まったとのこと



822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 00:41:26.90 ID:y+S9JmHK
これいい話っていうか間違った話だろ

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 08:35:47.43 ID:bs3dFm3P
>>821
秀秋で決まったのは後世の影響で岐阜城陥落の時点で勝敗決まってたそうだが、
この時代にもそういう見方はあったんだな、ていうかまだ後世の創作の影響がなかったからか

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 15:35:49.04 ID:8I/LPCNJ
>>821
筑前中納言は秀信じゃないでしょ

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 16:38:02.82 ID:1ua9YfKL
参謀三法師

週間ブログ拍手ランキング【04/18~/24】

2019年04月24日 15:28

04/18~/24のブログ拍手ランキングです!


最上義光、山形城作庭のいい話 23

義昭公の御果報のほどこそ 8

海賊に遭難 7
玄澤は小西の家臣で領知3千石なり 7

作州は即日に京の町人から借りていた銀を返しなされ 6
【雑談】小山評定について 6
あるいは曰く勝入が討たれたのは 6

志岐鎮経によるキリシタン迫害 5
豊後の王の勝利 5
家康は自身で戦い、私は動かなかった 5
本多八蔵という者が武蔵守の首を取ったが 5
異変があればその時に軍を発する 3


今週の1位はこちら!最上義光、山形城作庭のいい話です!
ああ、いいお話ですね。最上義光の優しさとともに、地元の人々が最上義光という人物に描いたイメージが伝わってきます。
気は優しくて力持ち。弱い者への哀れみも深い。そういう人物像を後々まで抱いていたと思うにつけ、「我らの殿様」への
思慕を感じさせます。多分その思いは、最上家改易以後に、より一層強くなったのではないでしょうか。
最上義光という人は、戦国大名として苛烈な世界を生き抜いた人ですが、今に残る逸話には、その人間味や暖かさを感じさせる
ものが多いように感じます。それはそのまま、そういうお話を伝えた後世の人々の、義光への愛を表しているのではないか。
なんて思います。

2位はこちら!義昭公の御果報のほどこそです!
いわゆる「室町幕府滅亡」を描いたお話ですね。この時信長の敵対者として、現在一般に考えられる朝倉ではなく近江六角氏を
出してきている辺り、出典である室町殿物語の(史実的には多くの誤認が含まれているにせよ)、畿内中心主義的な編纂姿勢を
感じさせますし、また畿内の人々の、当時の情勢に対する受け取り方を表しているのかも知れません。室町殿物語自体は、
秀吉の時代に編纂された書籍ですので、その時代からさほど隔たっていないはずの信長義昭の時代ですら、既にこのような
認識だった(認識があった)と言う意味でも、面白いかも知れません。

今週管理人が気になったお話はこちら!【雑談】小山評定についてです!
関ヶ原研究界隈でわりと論争の続いた「小山評定」ですが、個人的には、(軍記に有るようなものではないにせよ)あった、という事で
ほぼ決着したのではないかと考えています。このあたりは本多隆成先生の「『小山評定』再々論」(『地方史研究』三九八号)に
詳しく述べられていますので、ご興味の有る方は是非読んでみてください。また本多先生の近著『徳川家康と武田氏』には、
この小山評定論争も含めて、史学における論争のあり方なども書かれており、史学に興味の有る方には非常に為になると
思われますので、よかったら一読してみてください(118ページ位から)。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気になる逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

作州は即日に京の町人から借りていた銀を返しなされ

2019年04月23日 18:37

森忠政   
818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/23(火) 18:16:07.38 ID:dWsJWe3M
難波の役の冬陣(大坂冬の陣)で大名たちに白銀を分かち下された。加賀・仙台・薩摩などは
取り分けての大名なので、台徳院殿(徳川秀忠)から白銀3百枚、東照宮(徳川家康)からは
2百枚、合わせて5百枚ずつを下された。

森作州(忠政)などの大名には2百枚と百を合わせて3百枚を下された。作州はその時、即日
に京の町人から借りていた銀を返しなされ、人々は感心した。

――『老人雑話』



819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/23(火) 18:46:17.16 ID:xWlDplvi
コーエーのゲームだと金も米も腐るほど余るけど、実際の台所事情はどこも厳しかったんだろうね
毛利なんかも、隆元が亡くなったあとは信用がなくて商人から金が借りられないって嘆く逸話があるし

志岐鎮経によるキリシタン迫害

2019年04月23日 16:41

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/23(火) 11:01:27.39 ID:PEc4Qyhw
(前略)悪魔は我らの主がなし給うべき収穫を予想して、眠ること無くこの地(志岐)において着手したる
こと(布教)を妨害し始めた。その道具となったのは付近の領主(志岐鎮経)にて、その領内には数ヵ所の
会堂あり、またイルマン・ミゲル・バズが滞在していた。

この領主はポルトガル船がその港に赴く利益のために、偽ってキリシタンと成ったが、その後再び
異教に立ち戻ったのみならず、現実に悪魔を拝しこれと話す故に、彼はデウスのことを大いに嫌い、
力の限り天草殿(天草久武)に勧め、領内にデウスの教えを入れまいとし、このために一切の手段を
尽くしたため、(仏教の)坊主たちもこれを助け、諸人はキリスト教への熱心を失った。
これ故我らは何も成すこと無く、船に乗ってまさに帰ろうとしたが、虚しく帰ることを欲さず、
領主(天草氏)の常に居住している他の城に赴いた。

この悪人(志岐鎮経)が数人の坊主たちとともに我らを妨害したため、二,三ヶ月の間何事も成せなかったが、
我らが少しも予想していなかった時、我らの主は、殿(天草久武)が城内の大多数とともにキリシタンと
成ることを嘉し給わった。この語多くの村々がキリシタンとなり、中に一人の坊主がキリシタンとなったの
だが、かれはこの地の一向宗Itcoxos の頭にして、大いなる説教者であった。この宗派はルーテルの宗派に
似て、救われるためには阿弥陀Amida の名を称える他に必要なものはなく、その行い(自力)により己を
救おうとすることは阿弥陀を侮辱するものであり、ただ阿弥陀の功徳にのみ頼むべきものである、と説いていた。

(1571年9月22日(元亀二年九月四日)付、パードレ・フランシスコ・カブラル書簡)

志岐鎮経によるキリシタン迫害についての記事。一向宗がルター派に似ているという指摘は興味深い。



909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/23(火) 19:51:02.55 ID:ha2h+T0+
その当時の宣教師たちの考え方が伺えて興味深いと同時に
悪魔はオメーだろとも言いたくなる

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/23(火) 20:25:43.98 ID:4Qp/NRhn
(キリスト者はすべて祭司であるととらえる「万人祭司」の考えにより)牧師は妻帯することができる
(親鸞は流罪・強制還俗後に「非僧非俗」の立場で布教したことにより)一向宗の僧侶は妻帯することができる

この辺も似てるよなあ

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/23(火) 22:12:16.02 ID:XHkL7ppQ
乱の後天草でカトリックを批判して仏教の教えを説いた
鈴木正三は勤勉に働くことこそ仏への道と

カルヴァン派と思われそう

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 13:17:37.33 ID:34lqZWjO
イルマン・ミゲル・バズとか宣教師って全体的に柔術や空手や総合強そうな名前だな
これも中南米への宣教というか侵略が密接に関わってるから歴史って面白い

915 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/24(水) 17:26:31.42 ID:9TH5e7Hr
スペイン・ポルトガル系の人が多いからじゃないのかねぇ?

916 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/24(水) 17:27:50.65 ID:9TH5e7Hr
>>915は>>913宛で

海賊に遭難

2019年04月22日 17:59

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/22(月) 14:05:14.07 ID:10EQUDe/
(ルイス・ダルメイダは)パードレ・コスモ・デ・トルレスの滞在する大村へ向かうこととし、
枝の祝日(1570年3月19日(元亀元年二月十三日))の前夜、秋月を出発した。

途中2日間を費やして聖週の月曜に、高瀬において乗船し、木曜日には大村に到着して告白をなし
聖体を受けようと計画していたのだが、我らの主であるキリストには別のお考えがあり、私達が高瀬を
出港した後、甚だ強い風が船首に向かって吹き付けたため、高瀬より3レグワの小弯に入り、
風が静まるのを待って、7レグワ隔たった有馬の王(有馬義貞)の領内の、他の地へ渡ろうと考えていた。

火曜日の夜、強風は静まり我々の進路に向かって順風が吹いたため、甚だ喜んで出帆し、これであれば
聖週の木曜日には大村に到着すると思われた。風も甚だ良く、夜半には有馬の海岸へ着き、岸に沿って
進んでいたその時、海賊の船十艘が我々を襲い、我が船は小さかったため、そのうち二艘のみが我々に迫った。

船には何の防御も無かったため、彼ら海賊が我々が携えてきたもの、すなわち冬の衣服を悉く奪うのを
妨げることは出来なかった。この時陸地はなお雪を以て覆われ、寒気は厳冬の如きであり、私の病は
全く寒気によって発したため、この時十分に衣服を着していたのだが、このため彼らは私を襲い、
一人目は第一の衣を奪い、二人目は第二の衣を、三人目は襦袢を奪い、四人目は私に下着を残すことを
欲さなかった。

私が肉体を露わにした後は誰も私に近づかず、彼らが、我ら一同を裸体にした後は、その他の衣服は
少しもなかった為に、船の道具、すなわち櫂碇、網碇、その他網具、および筵に至るまで悉く奪い、
少しの水も残さなかった。我々の一人が、我らに慈悲を垂れ櫂二本にても残すよう請うたが、
彼らは激しくこれを打ち、「そのような事を言うなら悉く首を斬るぞ」と暴言を発し、船には一物も
残すこと無く去っていった。

我らは陸より、少なくとも1レグワ4分の1の所に捨てられ、どうすることも出来なかった。我々は皆
寒気のため死に瀕し、陸に着くための櫂も無かった。さらに、我らが主は更に多くの功徳を与えるため、
聖週において自ら苦しまれたのと同じように我らを苦しませようとし給い、西風が陸地より吹付け、
我らは全く陸に着く望みを失った。風は非常に強く吹き、浪の高くなるに従い我々は益々陸地より
遠ざかった。

我らは皆寒気のため死にそうであった。主デウスが翌朝太陽を与えられることを期待したが、夜が明け始めると
悉く雲に覆われる日となり、また非常な暴風となり、さらにこの辺りは潮の流れが急であるため甚だ
波も高く、我らの船は波のため益々遠くへ流され、又しばしば転覆しそうに成った。

完全に夜が明けると、船底に海賊も取ることを欲しなかった破れ筵三枚を発見し、くじを引いてこれを
分け、私と一人の水夫が一枚を得、これをもってわずかに肩のみを覆い、他は完全に露出していた。
日本のイルマン一人は他の三人とともに一枚を取って、これを以て頭を覆った。寒気に耐える事を得た
水夫たちは辛抱して、最後の一枚を帆となし、その夜離れ去った約5レグワの陸地に至ろうとした。

有馬の地から2レグワの山湾の中央に至ると忽ち暴風が起き、海は喜望峰におけるが如くに荒れ、波浪が
船を撃つごとに「最期来たり、我らの命は終わるべし」と思われた。

午後に至り、我等の主キリストは寒気のため半死の状態に陥り、体はずぶ濡れの我々を導き二つの島の隙間を
通過せしめた。もしこの二島のうちどちらかに船が着いていれば、我々は悉く死んだであろう。

我々はこの隙間を通り砂地に乗り上げたが、既に多数の漁師が我らを待ち受けており、その家に誘い、
彼らのうち最も裕福な一人は私、並びに同伴者数名を歓待し、その貧しき衣服を諸人へ与え、盛んに
火を炊きまた速やかに米を煮て我らに与えたため、大いに慰めを受けた。しかしながら皆寒気に打たれ、
ほとんど半死の状態であった。

(1570年10月15日(元亀元年九月十六日)付、イルマン・ルイス・ダルメイダ書簡)

宣教師が船での移動中海賊に遭難して文字通り身ぐるみはらされたお話。なんとか生き残ったので運のいい話



816 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/23(火) 13:42:05.34 ID:AxCKhtpu
一人目は第一の衣を奪い、二人目は第二の衣を、三人目は襦袢を奪い、四人目は私に下着を残すことを
欲さなかった。

私が肉体を露わにした後は誰も私に近づかず、


アポクリン汗腺!!!

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/23(火) 14:24:03.16 ID:xzggI1Wy
身ぐるみ剥がれる時すら聖書風なのがさすが

異変があればその時に軍を発する

2019年04月22日 17:57

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/22(月) 17:54:28.81 ID:GeeNZo8g
太閤は氏直(北条氏直)に綿々と和議を伝えた。氏直方から言うには、「諏訪峠から東の8万石
の領地が、氏直の領地にならなければ叶わぬところである。これを渡されるならば上洛する」と
のことだった。太閤はこれに「与えよう」と宣った。

諸臣はこれに同意せず、太閤は曰く「8万石の地を惜しんで、諸卒を遠国の合戦に労させるのは
不便である。これを与えて後に上洛せず、異変があればその時に軍を発する。士卒の力は倍にな
るであろう」と宣った。果たしてその通りであった。

――『老人雑話』



玄澤は小西の家臣で領知3千石なり

2019年04月21日 16:24

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/21(日) 15:00:58.97 ID:GSb4KycD
肥後の天草宇土の城を故肥後守(加藤清正)が攻めなされた時に曰く、「出て来て戦うような者は
1人も思い当たらないが、南条玄澤(小鴨元清か。原注:玄蕃の意)1人は出て来るだろう。各々
討ち取れ!」と命じた。案の定、玄澤は出て来て戦ったという。

宇土の城は小西摂津守(行長)の居城なり。玄澤は小西の家臣で領知3千石なり。

――『老人雑話』



豊後の王の勝利

2019年04月21日 16:22

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/21(日) 09:14:51.28 ID:WjCbBoTL
この頃豊後の王が戦争に勝利を得たという報告が我らに達した。大内輝弘王が毛利占領下の山口に渡り、
(永禄十二年九月、大内輝弘の乱)、その地に軍備がないのを発見し、その大部分の占領を始めた。
この報が暴君(毛利元就)の軍隊に達すと、毛利軍は一晩の間に、大友方に悟られること無く九州の戦線より
撤退した。豊後の王(大友宗麟)の部将たちはこれを知り、大兵を集めたため、1ヶ月の間に城十ヶ所を
陥落させ、これによって戦争の目的であった二ヶ国(豊前、筑前)の主となった。

領内が安全と成った後、戦争中最も強かった肥前国の領主(龍造寺隆信)らから受けた危害に対して報復を
せんと決し、軍隊を同地方に差し向けた。ドン・ベルトラメウ(大村純忠)は、豊後の王が自分の領地と
接した龍造寺を滅ぼそうと来て、これを滅ぼした後自分にその刃を向けるのではないかと恐れ、しかし
大友に抵抗する力は有していなかったため、パードレ・コスモ・デ・トルレスに依頼して豊後の王と親交を
結ばんと決し、「王(宗麟)がもしこれを許諾するのならば、自分も大友の肥前攻めに兵を出して協力する」
と申し出た。

豊後の王は今日まで我々(宣教師)に対し何事も拒絶したことはなく、パードレ・コスモ・デ・トルレスが
今回請うた事も悉く許容したため、ドン・ベルトラメウは大いに満足し、その兄弟である有馬の王(有馬義貞
も又、豊後の王と親交を結び、パードレ・コスモに大いに感謝した。
ただしこのようになったのは、彼らが暴君(毛利)のために利益を計った事があったためである。

(1570年10月12日(元亀元年九月十三日)付、イルマン・ミゲル・バズ書簡)



家康は自身で戦い、私は動かなかった

2019年04月20日 18:26

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 18:55:29.76 ID:l2a+y5ii
(小牧・長久手の戦いの時)

勝入(池田恒興)敗死の後、榊原式部少輔(康政)と大須賀五郎左衛門(康高)は川を渡り敵へ赴く。
これに堀左衛門佐(秀政)が向かって打ち破った。両将は堪えず、士卒を皆討たれて逃げ退いた。ま
た井伊兵部(直政)がやって来ると、左衛門佐も新手を恐れて退いたという。

太閤はこの合戦以後に「今度の戦は我が方が勝った。大将3人(池田恒興・池田元助・森長可)が討
死したといえども、多数の首を取った。家康は自身で戦い、私は動かなかった」と宣ったという。

――『老人雑話』



891 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/19(金) 19:00:31.00 ID:kUMmH9X6
>>890
負けを認めなければ負けじゃない理論

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 21:11:34.46 ID:v7SZidTe
勝ったのは堀久

898 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/21(日) 04:36:50.30 ID:ah9l/2ru
>>890
豊臣秀吉は動かない

【雑談】小山評定について

2019年04月20日 18:25

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 20:59:36.23 ID:rhhxEd5Q
>>853
本屋に2016年発刊の「小山評定の群像」っていう産経新聞栃木版の連載をもとにした本があったけどその続編かな
その本の最後から二番目が板坂卜斎を紹介したコラムで

「小山評定はなかった派」の白峰説があるけど板坂卜斎「慶長記」にそれっぽいことが書かれてるから、軍議はあった説が有力

と書かれてた
(小山市には「小山評定通り」とかあるし
小山評定自体なかったら「小山評定の群像」というタイトル自体無理があるから
栃木版発行元としては「ない説」は主張できないんだろうけど)


894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 21:32:53.78 ID:j2E4Q9U8
>>892
小山評定無かった説は本多氏の指摘で崩壊しとるけどね

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 23:56:03.77 ID:1p4Z5C0s
>>892
本多隆成氏が小山評定はあった説の最大の根拠にしてる7月29日付大関資増宛浅野幸長書状

尚々、去廿三日之御状畏入候、其刻小山へ罷越、御返事不申入候、
以上急度以飛脚申入候、就其上方之儀、各被申談仕置ニ付、会津表御働、御延引ニ候、
上辺之儀、弥被聞召届上、様子可被仰出旨、内府様被仰候、
我等儀、此間宇都宮ニ在之候へ共、結城辺迄罷越候、
駿州上之御人数ハ、何も国々へ御返しニ候、猶珍敷儀候ハヽ可申入候、恐々謹言

浅左京
七月廿九日 幸長(花押)

大関左衛門督殿
御宿所

これ見る限り談合があったのは間違いなさそう

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/20(土) 21:42:52.38 ID:e0MwNVX6
日本の歴史で談合が無かった場面なんてないだろ

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/20(土) 22:39:01.63 ID:Esd8B3oT
ノッブはあんまり

最上義光、山形城作庭のいい話

2019年04月19日 16:37

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 16:21:36.68 ID:tLGrHa8N
最上義光、山形城作庭のいい話

出羽国上山(かみのやま)には昔蔵王の山が噴火した際の火山岩が点在している

昔々のある日のこと、最上義光が鷹狩に上山の金瓶にやって来たことがあった
その金瓶の丘陵に義光は東西12m、南北7m、高さ3.3mもの巨岩を見つけた

最上義光「なんと素晴らしい大岩なのだろう!是非に山形のお城の庭に置く石に欲しいものだ」

義光が家来に岩を見に行かせると、岩の下に洞(ほら)があり、洞の中には子狼がおり、
不穏な唸り声に岩の上を見ると、岩の上には親の狼がおり、義光の家来たちを睨み付けておりました

家来が義光に「岩は狼の巣でした」と報告すると、義光は
最上義光(´・ω・`)「岩が狼の家なら奪うことは可哀想だし、今回はしょうがないよね。素晴らしい岩だけど庭石にするのは諦めよう」と言いました

当時狼は人が飼っているニワトリやヤギなどの家畜を襲い、その狂暴さからも人に恐れられていましたが、
しかし、この狼石に棲んでいた狼の親子だけはとても人懐こく、金瓶の人たちは狼に子が産まれると巣穴にお祝いのご馳走を持ち寄るなど可愛がっていました

金瓶では狼と住民との良好な関係が後世まで続いたそうな

「上山(かみのやま)の昔話」「おおかみ石」



803 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/19(金) 18:25:33.44 ID:ZFKPFqLy
         \       ヽ           |        /        /
          \      ヽ               /      /
‐、、   殺 伐 と し た ス レ に オ オ カ ミ が ! !   _,,-''

       ,-'"ヽ         ∩___∩
      /   i、  _,、    | ノ      ヽ
      { ノ    "'"  "'"'"/  ●   ● |
      /         |    ( _●_)  ミ
      /          彡、   |∪|   ミ  _/\/\/\/|_
    i つ き の わ ぐ ま  \  ヽノ  /   \          /
    /              `ー-ー'" }   <  ニャーン! >
    i'    /、                 ,i   /          \
    い _/  `-、.,,     、_       i     ̄|/\/\/\/ ̄
   /' /     _/  \`i   "   /゙   ./
  (,,/     , '  _,,-'" i  ヾi__,,,...--t'"  ,|
       ,/ /     \  ヽ、   i  |
       (、,,/       〉、 、,}    |  .i
                `` `     ! 、、\
                       !、_n_,〉>

    /'''7'''7     /'''7       / ̄ ̄ ̄/    / ̄ ̄ ̄ /
    / /i  |      / /      .. ̄ .フ ./.    / ./二/ /  . . ____
  _ノ / i  i__ . ノ /__,l ̄i   __/  (___   /__,--,  /    /____/
 /__,/  ゝ、__| /___,、__i  /___,.ノゝ_/    /___ノ..

本多八蔵という者が武蔵守の首を取ったが

2019年04月19日 16:36

森長可   
888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 00:49:30.25 ID:x5TTO26Y
(長久手の戦いの時)

この時、森武蔵守(長可。原注:勝入の婿なり)は犬山より南にいた。三河に入って岡崎の城を取ろう
と思う心があり、勝入(池田恒興)を救わなかったが、急を告げられて是非なく北に向かった。しかし、
長久手へは2里程行き着かずに、敵と組み合って討死した。

本多八蔵という者が武蔵守の首を取ったが、その首を捨てて小脇差だけを取って帰って来た。武蔵守だ
ということを知らなかったのである。その後に脇差を見知っている者がその事を告げると、八蔵はまた
行って首を取ろうとして、敵に出会って討たれたという。

――『老人雑話』



889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/19(金) 01:12:14.66 ID:LPaMcXP7
兜首捨てるとは思えんけど…

義昭公の御果報のほどこそ

2019年04月18日 16:17

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 07:15:51.40 ID:nuv0nMir
足利義昭公は「どうしてもこの信長を滅ぼさねば、公方の家は成り立ち難い」と思し召され、江州の
佐々木(六角)承禎、浅井備前守(長政)などと語らうと、彼らは即時に同心したため、「何時なりとも、
出陣に於いてはあらかじめ内意を聞かせる。」と申し下した。こうして両人は加勢を催し、昼夜暇なく
信長に対する敵対行動を行った。これに拠って義昭公は心強くなられ、いよいよ信長との一戦を決意した。

こうして義昭公は、御領分の人数ならびに京勢を加えて、四千騎ばかりにて都を立たせ給い、山田、
矢橋、志賀、唐崎、比良、小松、和邇、堅田などの漁船を奪い取り、数百艘にうち乗り、これにてすぐに
安土へと発向すると聞こえた。

この情報に信長は驚き、「忠が不忠になるとはこの事ではないか。しかし今日このごろの公方の御身で、
この信長を倒すなどというのは、まさに蟷螂の斧であり身の程を知らない。しかしそうは言っても、
佐々木、浅井が手を合わせるのなら、(比叡山の)山法師たちもこれに加わることにも成るだろう。
万が一公方に多勢が付いては大変である。ならばすぐに打ち立ち追い散らさん。」
そして三万余にて馳せ上り、公方勢を散々に蹴散らし、公方勢が接収した船共も悉く元通りに繋がせ、
義昭公も都へ移し、そこに警護を数多付けられた。

信長は帰陣してつらつら案ずるに「とかくこの君を都に置いていては、私の出世の妨げと成る。」と思われ、
堺に下して或る寺に追い籠め奉り、番を堅く付けて置かれた。義昭公の御果報のほどこそ、おもいやられて
あわれである。

(室町殿物語)



880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 11:25:29.89 ID:hrCSpIgA
>忠が不忠になるとはこの事ではないか

将軍をナチュラルに家臣扱いしててくっそ笑うw

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 11:41:45.66 ID:/+XOGeZR
公方謀反とか主上御謀反とか
謀反とはなんぞや

883 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/18(木) 11:44:02.74 ID:8GdWClx3
>>882
後鳥羽上皇「せやせや」

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 11:57:13.59 ID:LDmTFWvv
>>880
忠誠を尽くしてきたのに、将軍に裏切られたってことだと思うよ

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 12:42:16.48 ID:QnIcR7fO
>>882
既存の秩序体制を乱す行為

あるいは曰く勝入が討たれたのは

2019年04月18日 16:16

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 14:49:29.28 ID:r+wjkShL
(長久手の戦いの時)

また長久手はといえば、この時に太閤方の池田勝入(恒興)は額田の北、犬山に本陣を置く。犬山の東、
岩崎の城には大御所(徳川家康)方の丹羽勘介(氏次)が籠る。

犬山から額田までは5里程あった。勝入は額田に行って太閤にまみえて曰く、「私が良き人数を率いて
三河に入り、敵の本郷を焼き討ちにしてその妻子を屠れば、敵はよもや小牧に堪えていることはできま
すまい」と申した。これに太閤は曰く「思うようにはならん」として許さなかった。しかし勝入は明日
また赴き、固く乞うて曰く「今現在においてこれ以上の謀はありません」と申し、太閤はこれを許した。

勝入父子は共に出発した。しかしながら岩崎の城を攻め破らなければ三河へは入り難く、まず岩崎に赴
こうとする。勝入は案内者なので道すがらの百姓に「運啓良ければ(勝利したならば)良くしてやろう」
と言い触れて、夜が明けない内に進んだ。

犬山と岩崎の間に長久手あり。勝入の謀は漏れて大御所はこれを聞き、前夜より長久手に至って勝入が
来るのを待つ。(家康は)もっとも案内者なので百姓等に「この度勝利を得れば、3年作り取りにさせ
よう」と言った。勝入は長久手に至り、夜が未だ明けないところで、「勝入の先手はすぐに岩崎に取り
掛かり、城を攻め破った」との報告があった。大御所方の軍勢は静まって、勝入の先陣と二番手の同勢
を皆行き過ごし、勝入本陣に取り掛かった。

(原注:一本には大御所以下『東照宮は前夜から長久手に至り給い、勝入が来るのを今か今かと待つ。
勝入は案内者なので百姓等に「この度勝利を得たならば、3年作り取りにさせよう」と言いつつ、長久
手に至ると夜は未だ明けず、東照宮方の軍勢は静まりかえっていた。勝入の先手は同勢を選って東陣へ
取って掛かる。安藤帯刀…』云々と続く)

安藤帯刀(直次)は先駆けして暗中で腰掛けている法師武者を突き殺した。それが勝入とは知らずに、
帯刀は「坊主首を取っては面目がない」と、また進んで子息の勝九郎(池田元助)を撃ち殺す。その後
に永井右近(直勝)が来て死首をやすやすと取り、後まで功に誇るという。

――『老人雑話』

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 15:58:30.06 ID:r+wjkShL
>>886
あるいは曰く勝入が討たれたのは、一合戦して勝った勝入が後にまた敗軍して士卒を失い、疲れて1人
での帰りがけに討たれたという。

――『老人雑話』



週間ブログ拍手ランキング【04/11~/17】

2019年04月17日 18:13

04/11~/17のブログ拍手ランキングです!


足利義昭の最後 13

武功を挙げた盛政は 11

老人雑話より、蒲生氏郷の逸話まとめ 10
この両人は隠れ無き武勇の者なり 10

秀吉公、京都の様子御尋ねの事 9
さては天狗が手出しして 7

老人雑話は忠興に厳しい 6
【記事】壬生綱雄 天満宮の暗殺事件首謀者は誰? 6

洛中、洛外の境を、末代まであい定めるべし 5
三斎は刀を取り、御屋形を抜き打ちに 5

「在る甲斐もない身の上かな」 4
又者で名高き者は 4
織田信長公、座興ふかき事 3


今週の1位はこちら!足利義昭の最後です!
織田信長などを糾合し、征夷大将軍として幕府を再興し、また信長と激しく天下の覇を争った足利義昭ですが、現代に於いて
その晩年が顧みられることは少ないと言っていいでしょう。逸話などでも、秀吉政権下、帰京後の義昭の動静について
取り上げたものは少なく、当時に有って、かつての公方の存在感の薄さ、感心の低さを現していると言ってもいいのでしょう。
ここではその最後の様子が非常に細かく描かれていますね。毛利との縁が切れておらず、輝元から援助が有ったこと、
また信長と敵対したことに対して、自分の能力がなかったことも含めて、忸怩たる思いがあったことが伺えます。
もちろんこれが歴史的事実、というわけではないのでしょうが、外部から見て足利義昭の晩年がこのように観られていた、
という部分は感じられるかと思います。

2位はこちら!武功を挙げた盛政は です!
佐久間盛政は、賤ヶ岳とその戦後処理の中で、逸話的に非常に存在感のある武将ですが、ここを見ると、その前から
豪傑というべき活躍をしていたのですね。首を取って真っ先に叔父の勝家の所に持っていくなど、微笑ましいと言うかなんというかw
勝家としては、困りながらも、愛すべきかわいい甥だった事でしょう。
賤ヶ岳敗戦後の、一個の武士としての豪胆さ、爽やかさを表す逸話は、彼の体躯や性格が、広く知られていたことが大きかった
のかもしれません。

今週管理人が気に成った逸話はこちら!さては天狗が手出ししてです!
秀吉の時代の、兵法のあり方が見える感じがする逸話ですね。ここでは京ですが、地方では諸大名の城下町に宿を取り、
そこを拠点に家中の人々に指導し徐々に門人を広げていったという事なのでしょうね。そこには当時既に、武士たちの間に
武芸を学ぶ事への需要があったのでしょう。
このお話の少年(天狗)をどう捉えるべきなのか。お話から見ると、人々が武芸を身につけることを天狗がよく思わなかった為、
というように見えますね。「天狗」は兵法のルーツ、なんて伝説もありますが、もしかすると塚原卜伝流の兵法に対して、
「天狗流」兵法の優位性を見せつけたのだ、という事かもしれない、なんて思ったりもしました。


今週もたくさんの拍手を各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してくださいね!
(/・ω・)/

日頃思し召していた恩謝を忽ちに翻し

2019年04月17日 17:26

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/17(水) 17:03:58.26 ID:Yukg+d+g
織田信長は尾州より義兵を挙げ、近国を切り広げ、その余威を以て七道へ鉾を振るうに、その利を
得ないということ無く、日往月来、既に15,6ヶ国の太守と成った。されば江州安土と言う所に、
咸陽宮を凌ぐほどの城郭を拵えて、諸国の大名を引きつけて、朝暮にその出仕を請け、取り巻かれ
尊崇されるその様子は、ただ四海の権将に等しいものであった。(このあたり時系列が異なっている)

そのようであったので、この頃は公方を公方とも扱わず、自分の被官の会釈で取りなしており、義昭公も
日頃思し召していた恩謝を忽ちに翻し、怨をむすばん事を思し召しに成った。

ある時、信長は義昭公へ使札を遣わし、その中に
『義昭公は数年浪々ましましけるを、信長の力を以て京都に遷らせ給い、大敵の筑前義長(三好義継の事か)を
一戦の内に追い詰め、先祖代々の家督に備わり給う上は、位官に不足は無いはずです。であるのに、公卿との
交わりや、禁中の御祭り事などを、よくよく執り行われる事なく、どうして諸国の大名、小名を近づけ、
馬具、武具の類を所望され、蓄え置かれる事、更に心得がたい。今後有るまじきことです。』
そう書かれていた。

しかしながらそれから、甲州武田信玄と信長の関係が悪化し、既に甲信の兵が上洛するとの風聞があり、
信長は義昭公へ「両将の間を仲立ちされ、無事をお計りなさいますように」と望んだ。しかし公方も
御腹立ちの折節であったため少しも取り上げず。何と言う返事もしなかった。

(室町殿物語)



「在る甲斐もない身の上かな」

2019年04月16日 17:35

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/16(火) 05:04:01.24 ID:Am9ByBAt
足利義昭公が上洛に成功し京に遷られ、武将(将軍)の家督を継がれたと言っても、尊氏公より代々
蓄積された和漢の珍器、武具の類は、三好のために一時に炎滅したため(永禄の変)、万事について
調わないことばかりであった。御領分はわずかであり、将軍の体裁にかなうほどの奉行、役人を
抱えられたが、人を抱えれば日々に負担がかかるものであり、また御道具も乏しく、かくして義昭公は
「在る甲斐もない身の上かな」と、よろずに思い乱れ給われた。

ある時、義昭公は旧臣達を集めて御談合の事あり、織田信長へ使者を遣わした。これは
「よろずの道具について、少しづつ援助してもらいたい」旨を、条数をあげて(箇条書きにして)、
杉原を使者として尾張へ下したものであった。

やがて信長にこの書状を差し上げると、彼はこれを詳細に見て「こちらから後で御返事申すであろう。」と
使者に対面せずにこれを帰した。義昭公はその後数ヶ月待ったが、遂に返事すら無く時は過ぎた。
「いかなる所存を差し挟んでいるのか」と、都において怪しくのみ思し召しに成った。

(室町殿物語)



862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/16(火) 07:53:39.76 ID:lmq9B1rw
どんだけ高い要求したのか気になる

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/16(火) 11:20:21.79 ID:6J5IrijJ
そのあと色々用意して対面したんじゃなかったか

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/17(水) 12:18:40.10 ID:PvNFj2NX
センゴクの超人信長ですら、京都関係の出費は辛そうだったな

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/17(水) 13:12:00.11 ID:78rrwr85
信長? ああ、上京焼き討ちしたやつな。

さては天狗が手出しして

2019年04月15日 18:04

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/15(月) 09:22:33.08 ID:brTcL7Ue
筑紫より兵法修行に上った、片山重斎という人があった。塚原卜伝の一流を伝えて、ふたつなき
兵法の極意を指南するとして、京の五条坊門にしかるべき宿をとって、武家、在家(庶民)を選ばず
弟子を集めて朝暮に指南した。彼の指導は「とりわけて兵法の道理おもしろし」と好評を得て、
京都所司代であった徳善院(前田玄以)の家中などは、おおかた残り無く弟子と成って稽古した。

ある時、前田玄以の家中、深沢兵部少輔という人の元での寄り合いに、時期は6月半ばであったが、
片山重斎は呼ばれ終日遊び暮らした。
夜に入ると、庭前に水を撒いて、傍輩衆7,8人がうち寄って涼んでいた。このとき稽古のためであるとして、
木刀にて剣術の型をいろいろとやって見せていた。この時、年の頃16.7ほどであろう少年であったが、
顔つきも佇まいも、類なく美しく、白い帷子の、いかにも麗しいものを着て、一尺あまりの脇差に
扇を取り揃えていた。このような人物が忽然と庭前に畏まり、兵法を見物していた。

深沢兵部はこれに気が付き、「あれにみえる少年は何者か?」と声を掛けると、この少年が近づいて
答えた
「私はこの御館の近くに住む者ですが、兵法を私も少しばかり心がけており、明け暮れに、あちらこちらと
修行しています。今日片山重斎という兵法者がこちらへ御来駕されるとうけ給わり、そこで御太刀筋を
一覧したく思って、案内も申さず御庭まで伺候仕りました。どうか御許しを頂けないでしょうか。」

深沢兵部はこれを聞くと
「そうでしたか、それは感心な御志です。この辺りとは、何れのご子息でしょうか。」

「とりたててどうという事もない者の倅でありますので、このような歴々の皆様の寄り合いにて
名乗るというのも如何かと思います。ともかくこの近辺に住む者ですので、ご心配はありません。」

この話を聞いた片山重斎
「未だ御若年にて兵法へのご興味がそれほど深いのであれば、定めて技も巧みであると思います。
誰か彼に打ち太刀を渡して、かの若衆の太刀筋を見て頂きたい。」
そう言うとその場の面々も「尤もである」と、各々珍しく、勇ましげに、片膝を立てて見物した。

ここに竹村七之助といって、片山重斎の弟子の中でも2番目ほどに力量の有る兵法者が居たが、
片山はこれを呼んで少年に「彼を打ってみよ」と言った。少年も「初心者ですから、先ずそれがしが
仰せに任せて打ってみます。」と、2尺5寸(約76センチ)の木刀を取って構え、竹村七之助も1尺8寸
(約55センチ)の木刀を持って、打かかってくるのを待ち構えた。ところがこの時少年が言った

「その構えでは隙があって私の太刀に打ち込まれてしまいますよ。直さなくてもよろしいですか?」

これを聞いて七之助は「それでは」と構えを直したが、少年は「それでも打ち込まれますよ?」と言った。
七之助は「ともかく打って来るように」と申した。
が、そう答え終わるよりも早く、少年は七之助の左手(左手)の肩先を、したたかに身に応えるほど打った。

人々は大いに驚き、「さても少年は技に秀でた兵法者である。まことにあの太刀筋はよほどの巧者と見える。
誰か彼と対戦できる者が有るのか?」と唖然としている中、片山重斎自身が出て「であれば少年、
打って見給え」と、1尺8寸の木刀を持って、一流の極意を構えて待っていた所、少年は立つより早く、
鳥が飛ぶように間を詰め片山の腕をしたたかに打つと、片山は木刀を落とした。これを見てその座の人々は
大いに驚き口をぽかんと開けた。

その後少年は言った「これは思いがけないことでした。また明夜参って御指南をこうむります」と、
さっと立って中門の方へ行ったかと思うと、跡をくらまして姿が見えなくなった。
夜が明けて人々は「さては片山重斎の兵法に、天狗が手出しして妨げたのだろう。今後よくよく心得て
おくべきだ」と恐れおののいた。
(室町殿物語)



864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/16(火) 23:58:36.25 ID:rXDsnnYb
>>859
            , ;,勹
           ノノ   `'ミ
          / y ,,,,,  ,,, ミ
         / 彡 `゚   ゚' l
         〃 彡  "二二つ
         |  彡   ~~~~ミ      はいはい、わしのせい わしのせい
     ,-‐― |ll  川| ll || ll|ミ―-、
   /     |ll        |   ヽ
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老人雑話は忠興に厳しい

2019年04月15日 18:03

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/15(月) 15:52:31.57 ID:gYpH4/WZ
・小田原開陣の後、太閤が諸将を会して宣うには、「会津は関東八州の要地、優れた大将を置いて鎮めなけ
 ればならない地である。各々は遠慮なく所存を書き付けて見せよ」と言った(原注:今はそのような事を
 “入札”という。その頃は“かくし起請”という)。
 
 すると「細川越中守(忠興)が然るべき」という者が10人中8,9人であった。太閤は開き見て曰く、
 「汝らは愚昧も甚だしい。私が天下を容易く取ったのも道理である。この地は蒲生忠三郎(氏郷)でなけ
 れば、置くべき者なし」と言い、忠三郎を会津に置いた。

・額田と小牧は皆尾張の内なり。小牧は東、額田は西にある。太閤は額田に陣を取りなさった。常真(織田
 信雄)と大御所(徳川家康)は小牧におられた。
 
 この時、太閤方の先手は蒲生飛騨守(氏郷)と細川越中守なり。敵と相向かう時、額田の東2里ほどの二
 重堀という所で、越中守は飛騨守を捨てて敵に追い下ろされた。飛騨守は踏み止まって敵を防ぎ、太閤の
 陣へ敵は来なかったということである。

・細川越中守はついに戦功なし。一度信長死去の年に、「甲斐国の合戦で良き陣を張った」と太閤が褒美し
 たが、この一事のみという。

――『老人雑話』

老人雑話は忠興に厳しい