週間ブログ拍手ランキング【12/01~/07】

2016年12月07日 18:40

12/01~/07のブログ拍手ランキングです!


元就と隆元の近習頭の友情 25

下野の野州野州と申せども 24

一乱の前年に逝去したのは 13
駿河台化物屋鋪の事 13
【雑談】鏃の事など 12

日本国の衣装が結構な物になったのは、家康公より始まったのである 11
槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子 11
石川丈山年老て勇気の事 9
顕胤は味噌を調える下屋にいた 8

侍妾等宗旨の話次、太閤の宗旨の尋に当惑せし事 7
「かさねての日本人の渡海は無用」 7
連歌その心自然に顕るる事 7

南蛮宗御禁制前、於御当地彼仏像画きの事 6
野間左馬之進田螺を以て勝負占物語の事 6
歌舞伎「盛綱陣屋」 6
「この度、奇特の死をした」 6

承諾の無い以上は、力及ばず 5
駿府にて毎夜、 4
主水正捕縛 4


今週の1位はこちら!元就と隆元の近習頭の友情です!
粟屋弥七郎の抜け駆けを赦す坂新五左衛門。大人ですね。
このお話いろいろな見方ができると思います。抜け駆けし、負傷までして先駆けをした栗屋に坂が感心したとも見れますし。
自分との戦功争いに、軍令をやぶるほどまで思い詰めていたことに、坂が責任を感じたとも見えます。
どのように感じるかは人それぞれでしょうし、それぞれの解釈を持つことで良いのではないかな、なんて思いました。
それにしても元就の旗本ですら割りとフリーダムなのに、隆元のところはがっちり軍規で固めているあたり、
隆元こそ、この時期の毛利の重心だったのだろうな、なんて感想も持ちました。

2位はこちら!下野の野州野州と申せどもです!
いい悪いスレではもはや人気キャラ(?)の一角である、侏儒どんこと徳田大兵衛のお話。
『野州(痩せう)野州(痩せう)と申せども』、言葉もリズムも本当に良く、なるほど才能を感じますw
こんなふうに言われたら、苦笑するしか感心するかしか無いですね。
薩摩島津氏の近世初頭の逸話というのは、わりと殺伐としたものが多いのですが(誰のせいかは言わない)
そんな中で侏儒どんは島津のイメージをすごく救っているなあ。なんて感じましたよ。

今週管理人が気になった逸話はこちら!【雑談】鏃の事などです!
一言で鏃と行っても、実は用途別に幾つか種類があるそうです。
近藤好和先生の『弓矢と刀剣』によると、鏃は大別して、『射通す』『射切る』『射砕く』の機能に分かれているとの事。
弓兵は状況によりつつそれを使い分けたということです。
この記事の中に出てくる鏃の写真も、それぞれの意図に適した形になっていますね。
そういう知識を持っていると、戦国期の合戦の見方も、またもうすこし違ったものに成るかもしれません。
そんなことを感じた記事でした。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつも有難うございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
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「小姓ども」と、申された

2016年12月07日 17:29

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 02:18:24.54 ID:uvLUyMHH
井伊兵部(直政)、本多中書(忠勝)、榊原式部(康政)のことなどを、

(徳川家康の)御前などでも「小姓ども」と、酒井左衛門尉(忠次)は
申されたということである。

――『武功雑記』

酒井忠次は別格だったという話だろうか。



391 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/07(水) 07:18:15.41 ID:iixZWz5X
>>389
そりゃ年齢も一回り以上違うし家格もダンチでしょ

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 08:36:17.98 ID:4JYn8U5B
酒井は徳川と同族なんだっけか

393 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/07(水) 12:04:15.65 ID:iixZWz5X
>>392
それもそうだけど、忠次自体がダブルで義叔父らしいから。

秀元は常人ではない。

2016年12月07日 17:28

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 03:49:39.97 ID:wYJHt4dP
 ある日林述斎と昔の話をしていた中で、台廟(徳川秀忠)の英知をかきたてる御気質を見ることができる話を聞いた。

 台廟が大御所になられた後、毛利右馬頭元就の第五男の毛利宰相秀元は、
故中納言輝元の養子となって家を継いだ。
 昔豊臣太閤が朝鮮を伐したとき、わずか十四歳で大将を承り、
異域に押し渡り武勇を振るったと、かねてから台廟は聞かれていたので、

「秀元は常人ではない。文武の名誉、世にも人にも認められている。
門地といい官品といい、家光の益友にこの右に出る者はいないだろう。」

と常に仰られていた。
日々のように猷廟(家光)の御前に召され、今昔の物語などを聞かれるのを、飽きない御楽しみとなされていたので、
人は皆秀元を御咄衆と呼び、名を言う者はなかったという。

(甲子夜話)

何かいろいろと誤伝が混じっているようですが、秀元と家光の仲がちょっといい話





南蛮宗御禁制前、於御当地彼仏像画きの事

2016年12月06日 17:45

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/06(火) 11:07:39.63 ID:ouiN0FpI
南蛮宗御禁制前、於御当地彼仏像画きの事


 いつの頃か、未だ南蛮宗御制禁より前のことであるが、
御当地に画工山田恵茂作と称する者がいて、南蛮宗の本尊を画くのみを職としていたという。
よって御制禁のとき呼び出されて吟味があったが、
その答えに「これを画くのみで他に業は無い」という。
官裁には、「ならば今後他の画をすべし。この像を画くべからず。」
というまでで御構いなかったという。
昔の有様はおおまかなるものである。

傍に仕えている人が、この恵茂作は二代続いて、ともに画を業としていると言った。
どちらの御代のことであろうか。
(甲子夜話続編)


ゆるゆるジャッジ




顕胤は味噌を調える下屋にいた

2016年12月06日 17:43

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/06(火) 16:38:17.05 ID:wFpqOVTa
ある時、伊達稙宗は飯尾尾張という武士を、相馬家への使者として遣わした。
この飯尾というのは伊達家において武勇の名があり、燐郡に隠れ無き者であった。

しかし相馬に到着すると、当主の相馬盛胤は病に伏しており、このため飯尾は、盛胤の嫡子であり
稙宗の娘婿である相馬顕胤の御前に召された。

この時、顕胤は味噌を調える下屋にいたため、その場所にて飯尾と対面した。
相馬家の家臣たちがあえて飯尾をこの場所に通したのは、こう考えたためだった

『飯尾は伊達にて武勇の名を得たること、燐郡にまで隠れ無き名誉の者である。
であれば彼は、相馬の大将は未だ幼いが早くも弓箭の心懸けがあり、味噌等にまで御心を
付けておられる、と感心するであろう。合戦を心がけるには、味噌は第一の物だからであり、
丁度ここに居られたのは幸いである。』

そうして対面は無事終わり、飯尾は伊達に帰ると、稙宗にこう報告した

「殿は姫様をお捨てになられましたぞ!今度婿殿を見てまいりましたが、自身で味噌の奉行を
していました。あのような体では、相馬の大将としていかがかと思います。」

そう尽く悪口をして、顕胤を貶めたのである。

(茶話記異説改選集)



385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/06(火) 16:42:39.41 ID:bJFgmhKY
>>384
ワロタw

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/06(火) 22:13:59.13 ID:LSKo+3bE
>>384
まあ味噌のところで面会させたら普通そうなるわなw

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 00:52:02.81 ID:GpgXSUb1
副業:味噌屋の大将とか弱そうだもんな

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 02:08:34.37 ID:YRvVvTmk
顕胤の体格を見て、自分が顕胤に及ばないのを悟ったとき、貶める他ないと決めたんだろうね

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 04:17:46.73 ID:al9iUwlI
政宗「お味噌は大事なんやぞ」

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 17:04:18.71 ID:T1fueiDr
家康「せやな」

野間左馬之進田螺を以て勝負占物語の事

2016年12月05日 15:41

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 00:10:02.12 ID:bdEpZ09W
野間左馬之進田螺を以て勝負占物語の事


 野間左馬之進の物語に、 
「タニシを折敷の片隅に三つ、もう一方の片隅に三つよせて、
両方へ分けて一夜置くと、
合戦の負けの方を追いこみながら、勝ちの方は進み出る。
 大坂陣の城中として秀頼、木村、大野と称して盆の一方に三つ、
もう一方に関東方として家康公、井伊、藤堂と称して三つタニシを置いて、
一夜経つと必ず関東方の三つのタニシが、城内方のタニシを追い込んだという。
勝負の吉凶を占うことでこれより良いものは無い。」
とのことだ。『武備志』にもこの占いが出てきた。
興味深い。


(常山紀談)



383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 00:29:22.46 ID:gxNbuBN3
熊野別当湛増「赤と白で闘鶏させたら全部白が勝った。源氏につこう」

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 04:07:43.05 ID:qmzefhc1
ゲンジバンザイ

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 09:46:20.05 ID:zZZUPRaz
藤堂を伊達にしてみると....。

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 14:57:17.41 ID:9qJob2Cy
>>382
面白い占いだな

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 23:31:28.84 ID:vbxDSVKJ
ジャンボタニシは
気立ての良い子だよ

駿府にて毎夜、

2016年12月05日 15:39

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/05(月) 02:37:06.96 ID:7mzLMEnB
この頃(慶長13年9月)、駿府にて毎夜、人を切ること甚だしかった。

金が掛けられ、申し出るようにとの旨が下知されたけれども、未だに
その沙汰もなかった。

また、日々喧嘩があって、互いに死傷に及んだ。

――『当代記』




日本国の衣装が結構な物になったのは、家康公より始まったのである

2016年12月04日 10:34

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/04(日) 01:53:06.16 ID:1PUt7qNp
徳川家康は、豊臣秀吉全盛の頃、家臣に小袖を与える場合、その品を呉服屋栄仁、茶屋四郎次郎と
いった者たちに「小袖一つに羽織を添えて作るよう」と申し付けた。

呉服屋の方から「小袖はどのような仕立てをすべきでしょうか?袖の裄丈はどれほど、綿をいかほど
入れるべきでしょうか?」と問われると、家康は好みを指定したが、そうやって造られたものは
通常の小袖より、五割から倍も高価な物となった。

家康は年間に小袖を、少ないときでも九つ、多い年では十四、五も下し渡した。
小身の者の中には「小袖はいりません。小袖にかかる金額をいただきたい。」と呉服屋に申し請い、
その場合呉服屋の方は家康に回す勘定の時、小袖と書いて、金が渡ったとは言わなかった。
小袖を下すのは毎年のことであったので、このような場合、呉服屋は完成した小袖も取り、その代金も
取ったわけである。

ところで今のように小袖が世に広まったのは、天正の末から文禄年中にかけてのことである。
実は日本国の衣装が結構な物になったのは、家康公より始まったのであるが、こういった事は
世間では知られていない。『家康公は吝い人』と世上申しているが、そもそも気の大きな人であった。

衣装の中でも小袖が結構になったのは、豊臣秀頼より始まる。それは関ヶ原の合戦で徳川家康が
勝利した後、その年の暮、諸大名が秀頼に、小袖を進上したのである。その年から翌年までには、
非常に結構な物となった。そして年を経るほどに尚善くなり、諸士の下々、町人まで小袖を
着るようになった。これも御代長久の故であろう。

(慶長年中卜斎記)



375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/04(日) 02:22:16.00 ID:7soxLXqH
わしがやった小袖はどうしたのだ?って聞かれなかったのかな

376 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/04(日) 04:35:47.65 ID:dEFAfBZk
現代でも嫌われる上司の言動だよ。それ。

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/04(日) 08:37:04.87 ID:ZFMNpLuG
>>375
子孫は小袖をもらっておけば、神君からご拝領の品、って言えたのにって愚痴ったか、
小袖を偽造して「これがあの時拝領した小袖です」と言い張ったか、どちらかだな

石川丈山年老て勇気の事

2016年12月04日 10:32

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/04(日) 04:40:36.19 ID:1w5NDrXD
石川丈山年老て勇気の事

 石川丈山は、隠棲の翁となっても雄武の姿はあったという。
彼が隠棲していたあたりは山水幽閑の所であった。
翁は常に小流に出て自ら米を研いでいたが、
そのあたりの少年がそれを窺い上流に小便をしてしまった。
翁はかの少年に
「小便したかったら、米を研いでいるので下流でやれ」
と三回も同じ事を言ったが、少年は聞き入れなかった。
また研いだときにわざと上流で小便をした。
そのとき翁は手に槍を持って来て、かの少年を一刺しにした。
人はこれを見て、「あっぱれ勇士の末よ」と
その後は里人はますます賞嘆して畏敬したという。

(甲子夜話続編)



379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/04(日) 14:20:16.48 ID:MB43rgnB
>>377
近所でも嫌われ者の悪童だったのだろうか。
丈山晩年ってとっぷり江戸時代だけど、時代的におとがめは
大丈夫だったのかな。1600年代中ごろ、詩仙堂辺りの出来事だよね。
殺すまでは至らなかったとか、すばしっこいのに一刺しが見事で、とかもあり得るか。

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/04(日) 15:01:57.58 ID:KpmEbH5r
無礼討ちの範疇やろ

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/04(日) 15:15:03.40 ID:VcRAbWcy
丈山みたいな大物ならそれで十分済んだか。

槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子

2016年12月04日 10:29

382 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/04(日) 07:02:14.27 ID:sRqYOh7K
槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子

>>345の続き
毛利隆元率いる吉田勢と吉川元春率いる新庄勢は仕寄をつけ井楼を組み上げ間断なく城を攻め立てた。
城中はたまりかねて、平賀新四郎隆保・大林和泉守が切腹することで
諸卒の命に替わりたいと申し入れてきたので、それを許可した。
平賀はいよいよ自害するときになって、介錯の者に向かい、
「私が合図するまで打つな。もし合図よりも前に打ったならば、悪霊になって憑り殺してやるぞ。そのときになって私を恨むでない」
と介錯の者に言った。
隆保は刀を抜いて西へ向かい、八識田中に阿字の一刀を下し、
「生死又截、涅槃又截」と唱えて腹を十文字に掻き切ると、臓物をつかんで手繰り出し、何度も切り刻んで捨てたけれども、まったく弱る様子がない。
新四郎は槌山城主の菅田たちに向かって、
「腹を掻き破ったらもう死ぬしかない。どうすれば私は死なないでいられるだろう。
硯と料紙をくれ。最後に歌を詠もう」と言い、
すぐに硯と料紙が整えられた。

隆保は硯を引き寄せ筆を浸して、歌を一首詠んだそうだ。
筆の勢いや墨の乗り方は、平常のときとまったく変わらなかったという。
「昔の物語でならこのようなことを聞いたことがあるが、
今目の前でこのような勇士を目にするとは」と、人々は皆舌を巻いた。
その後、新四郎は「さあ、首を打て」と言ったので、介錯の者は首を打ち落とし、隆保は漸く果てた。
大林はこれを見届けた後、腹を一文字に掻き切り介錯を受け隆保に続いた。
槌山開城の後、尾和秀義大内義隆から派遣されていた者らは皆帰され、これを受け志和の米山城に籠る天野隆綱は元就に従い大内義長に属する事となった。

元就と隆元の近習頭の友情

2016年12月03日 20:56

371 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/03(土) 09:23:58.64 ID:etEgTkDh
元就と隆元の近習頭の友情


坂新五左衛門と粟屋弥七郎は、具足祝の座敷で座配のことについて口論に及んで以来、
戦場では度々先を争うようになっていた。
あるとき、坂がたった一人でとある城の搦手へ回り、
敵と遭ったら一騎打ちするしかないような細道をすらすらと上って、
言葉戦から鑓戦にもつれ込もうとしたことがあった。
そのとき粟屋弥七郎は「なんてことだ。坂に出し抜かれた」と思ってすぐに追いかけて行き、
坂の鑓の石突を捉えて六・七間ほど引き摺り下ろし、自分はさっさと上っていく。
そこに坂がまた粟屋の鑓の石突をつかんで引き摺り下ろし、刺し違えようとしたのだが、
そばにいた者たちがしがみついて仲裁したので、どうにか事なきを得た。

それからというもの、いよいよ互いに憤りが収まらずに、負けじ劣らじと争っていたが、
槌山攻めの際、粟屋は吉川元春配下の新庄勢に紛れて共に抜け駆けし、鑓を合わせて坂にはそれができなかったのには理由があった。
坂は隆元の近習頭だったので、隆元の旗本を離れることができず、
また隆元より全軍に抜け駆け禁止の制法が固く出されていたので、
その軍法を諸士に対して触れ回る身として、坂がその掟を破ることはできなかった。
粟屋は元就の近習頭だったので、隆元の本陣から少し離れたところにいたこともあって、
槌山の切岸まで忍んで近づくことができた。

さて、坂新五左衛門は大樽を家臣たちに担がせると粟屋の陣所へと向かい、
抜け駆けの際に手負いとなり、療養のため寝込んでいる粟屋のところへと案内も通さずに乗り込んでいった。そして
「これまでは戦場において先を争ってまいりましたが、私は今回、
ご下知を守っていたのであなたに負けてしまいました。
これまでも、若い粟屋殿に対して、私の方が年長なのに争っていたのは情けなかったと思います。
今後はこれまでの遺恨を捨て、刎頚の交わりをしたく思います」と言って、
坂は自分の陣にも帰らず、粟屋の看病をした。
坂はこれまで何度も武名を上げてきたつわものなのだから、
たとえ今回は粟屋に遅れたといっても、その武名が傷つくことなどありえない。
坂の振る舞いに、「自分もこのように立派にありたいものだ」と感心しない者はいなかった。




372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/03(土) 20:11:42.18 ID:vFOgTN/w
と言って傷口に塩を塗り込む強かさも兼ね備えていた

373 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/03(土) 20:46:51.14 ID:cNzBp7tS
この坂新五左衛門は父親が元就の弟の相合元綱の謀反に加担した坂広秀なんだね
後には雷神立花さんとも戦ったりしてるのな

侍妾等宗旨の話次、太閤の宗旨の尋に当惑せし事

2016年12月03日 09:01

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/03(土) 01:07:04.40 ID:YNCSQY1u
侍妾等宗旨の話次、太閤の宗旨の尋に当惑せし事

 一笑のことを記す。
ある夜、予の書机の傍らで待妾等が居て話しているのを聞いた。
「私は何宗です。」、「私は何宗ですよ」...等と言っていた。
やがて予に向かって、

「公儀の御宗旨は何ですか?」

と質問してきた。

「御先祖の頃から浄土宗である。
上野の寛永寺は天台宗だが別に理由がある。」

と答えた。そして、こうも質問してきた。

「ならば太閤様の御宗旨は何ですか?」

予は返答に当惑した。
思ってみると、足利は尊氏以来禅宗だというのは世の知るところで、
信長も総見寺のことをみれば同宗である。しかし太閤に至ってはまだ知らない。
よって「全く知らない」とその場では笑って過ぎた。

 それから明日天祥寺に詣でたときに、和尚二人に出逢ったのでこのことに及ぶと、
両和尚の答えもあれやこれやで的を射たものでなかった。
また林氏(述斎)へも便りにこのことを問うと

「御宗旨は大仏殿などのものと同じかもしれない。
しかし私は元来儒家で、釈子のことには関わっていない。
なので審査しないので答辞に及ばない。」

そこで隣宅の荻野長に問うた。

「高野山行人方の木食高山上人のことについて、黒田如水の覚書に記した文に、
『御所様はまだ御小身の御時から、高野山行人の衆を御信仰と云々』というものがあります。
また高山上人の取り成しにより豊太閤の助勢を得て、高野山は再興しました。
ゆえに今も高野山奥院大師の廟は行人方で管理しています。
行人方は秀吉の取り立てで高山寺を頭頂としましたので、
学侶は青厳寺を本寺としたようです。
阿弥陀が峰も高山寺の持ちであります。
今は妙法院でお持ちになられていて、慶長十二・十三年の頃から天台座主のお持ちとされたそうです。」

ならば秀吉は真言宗である。

『秀吉譜』で云う
「十八日、前ノ関白秀吉伏見の城に薨ズ。洛東ノ南辺阿弥陀ガ峰ニ葬る。
木食興山上人経始之事ヲ監ス。墓を其巓ニ築キ、祠ヲ其麓ニ構フ。
廟社既築、後妙法院ニ於テ、秀吉之月忌毎ニ必ズ諸宗ノ僧徒ヲ聚メ、斎ヲ設ク。
聖護院門跡道澄ヲ以ッテ大仏殿ノ住持ト為ス。
〔院号ヲ改テ照高ト曰フ〕」

(甲子夜話続編)

確か、方広寺の大仏殿で秀吉の先祖の供養ために
不受不施派以外に宗派を呼んだたしいので、
秀吉は不受不施派以外全てであるでも正解かもしれません。



歌舞伎「盛綱陣屋」

2016年12月03日 09:00

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/02(金) 19:13:10.64 ID:vLLxwyfB
歌舞伎の「盛綱陣屋」という作品のあらすじ読んだら(歌舞伎なので登場人物の名前を含め、本来は鎌倉時代が舞台)

大坂の陣で真田信之の息子が真田大助を生け捕ったため、信之が大助を家康に見せると家康は大喜び。
そこへ後藤又兵衛が乗り込んできて「大助はまだ子供なのだから返せ!」と言ってきたため
信之は又兵衛をとりあえず家康のところに送る。
思案した信之は、このまま大助がこちらにいたのでは弟信繁の戦闘意欲がそがれる、いっそ切腹させようということに。
信之は信之・信繁の母親の山手殿を呼んできて、大助に切腹をすすめさせるが大助は泣いて切腹を嫌がる。
そこへ大坂城から信繁の妻が息子を思って兵に変装して駆けつけるが、その光景を見てあせる。
そうこうしているうちに信繁戦死の報告。家康は信繁の首を持ってきて信之に首実検をさせる。
心中悲嘆に暮れる信之だったが、首桶のなかの首はなんと偽首。
しかし次の瞬間、大助が「ととさまのところに行く!」と切腹。
実は後藤又兵衛も信繁の妻も、大助がちゃんと計略どおりに切腹するかの監視役だった。
信之も大助の心中を察し、家康に「まさしく弟・信繁の首です」と報告。家康もすっかり騙される。

信繁ってこんな計略を使う武将だと思われていたのか・・・



主水正捕縛

2016年12月03日 08:59

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/03(土) 01:54:55.08 ID:6W60OM/7
同月13日(慶長19年9月)、囚人の原主水正(胤信)が駿府へ来着した。

天主教の宗門に傾倒し、その災いを恐れて去々年に逐電、東国に隠れて
いたのを、(徳川家康の)御下知によって捜索して搦め捕ったものである。

すなわち町司の彦坂九兵衛(光正)にお命じになり、主水正の額に火印を
当てて両手の指を切り、「この者を挙用する輩は曲事である」との旨の
胸札を掲げさせて、追却しなさった。

ところが、岡越前守貞綱が主水正を介抱したとの旨がお耳に入り、
御糾明になったところ、倅の平内が良友の好みにより、

領地に抱え置いたのだが、越前守は存じていないとの旨を陳謝したので、
同19日に平内は改易なされ、貞綱は無事であった。

また、駿府の耕雲寺に主水正が寄宿したのを訴え出た者がおり、住僧を
放逐なさった。

――『関難間記』



「かさねての日本人の渡海は無用」

2016年12月02日 17:46

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/02(金) 02:41:54.64 ID:eDwPX00e
この頃(慶長15年5月)、京都の町人で米屋の“りうせい”という者は、

大御所(徳川家康)のご命令によって、ノビスバン(メキシコ)に渡海し、
売買を思うがままにして帰国した。

猩々の皮を多く持って来たが、金銀は聞き及んでいたほどではなかった。
とはいえ、他の国や他の島よりは多かった。

しかし、「かさねての日本人の渡海は無用」との旨を、ノビスバンの者は、
かたく日本人へ示した。

――『当代記』




一乱の前年に逝去したのは

2016年12月01日 16:20

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 17:24:29.85 ID:uyfCbhaP
一乱の前年に逝去したのは


池田輝政の妹は秀次の御台所だったので、そのことから
秀次が持っていた薬師院肩衝を輝政が所望したことがあった。
太閤はそれを聞いて
「その茶入は三左衛門(輝政)に与えなさい、その代わりに投頭巾の茶入をあげよう」
と言って秀次に投頭巾の茶入をやったが、秀次は薬師院の茶入を輝政に与えなかった。

その後秀次は生害し、聚楽の御殿は破却され宝物は悉く伏見の御城へ上り
薬師院の茶入も伏見へ上っていた。諸大名の内で秀次へ一味した者がいないかと
ご吟味があり(輝政は)誓詞を仰せ付けられた。

ある人が
「三左衛門は秀次の縁者なので一番にご吟味されるべきだ!」
と言うと、太閤は
「三左衛門が一味ではないのは明らかである。
 その訳は(輝政が)所望の茶入の代わりを(秀次が)受け取りながら
 三左衛門に与えなかったというこの恨みは深いので疑う所はない」
とし、その後太閤は薬師院の茶入を三左衛門に与えられたという。

以上のことは真田将監(池田家臣)が物語したことだが、池田家譜で
秀次から拝領したとしているのは誤りだろうか。
秀次の御台所は一乱(秀次事件)の前年に聚楽で逝去していたので、
そのことを池田家の吉事と言ったという。


――『古老物語聞書』



下野の野州野州と申せども

2016年12月01日 16:19

365 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/30(水) 20:45:41.79 ID:NL2AuYia
島津家久(忠恒)時代の国老島津下野守は知行一萬三千石、権威並ぶものなし、
而も長大肥満の人なりしか。かつて徳田大兵衛(侏儒どん)に向かい
「徳田めが 大兵衛とは 名のれども 名には似合はぬ 小さき人かな」
大兵衛これに応して曰く
「下野(しもつけ)の野州(痩せう)野州(痩せう)と申せども
名には變(かは)りて肥えた人かな」
(日当山侏儒戯言)

※侏儒どんの名前の由来の一般的な方の説では、生まれたときから
小さかったので大きくなるよう願いをこめて両親が大兵衛と名付けたとあります。

※別な本には、侏儒どんと島津下野守は同じ連歌の会に出ていたりするので、
こんなことが言い合えるほど仲が良いのかもしれない。



駿河台化物屋鋪の事

2016年12月01日 16:17

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/01(木) 01:57:58.39 ID:k7JJ4AC1
駿河台化物屋鋪の事

 或る人が語った。
 駿河台は元は土居際から鈴木町というあたりまで竹が多く生い茂り、
人家は無く宅地がただ一つあった。
その宅は妖怪がいると住む者は屋敷を差し上げて退去した。
 台廟(徳川秀忠)はこれを聞かれて、

「松下嘉兵衛はかつて戦場を経て落ち着いた能者である。そこでその宅に住ませよ。」

と仰せられた。
 そこで嘉兵衛は住んでみると、ある夜に宅の後ろの竹林がサッサッと鳴り出し、
背丈の高い入道で、眼が三つあるものが竹林中から出てきた。
松下は怪しいと思い目を開いてよく見ると、かの入道は空を歩いているようである。
その下に小さな狸が歩いてきている。
松下は思った。
『これは狸の妖であろう』
すぐにその狸を生け捕りにすると、入道はたちまち消えうせた。
松下は狸に向かって、

「お前はこのような変化をしたのには必ず理由があるのだろう。私はお前に対し考えがある。
お前は昔からここに住んでいるので、素より地主である。
私は新たに来たが、官から賜った所なのでまた地主である。
ならばこれからはお前を扶持しよう。よって米をいくばくか分かち与えよう。
これを元手として三年経ったら、ここを立ち去れ。」

と言い聞かせれば、狸はうなずいて逃げ失せた。これから妖怪は絶った。
このことを台廟は聞かれ、

「やはり松下の振る舞いは、我が注文にかなったか。流石武士よ。」

と御賞美あったが、年を経て狸は遂に居なくなったと。

 今も松下の屋敷は駿河台にある。鈴木町から南である。
予が若年の頃は松下隠岐守と称して、御先手頭であった。その子孫であろう。
しかしこの家は享保中紀州から陪従した人であるという。
今松下の家は三軒ある。嘉兵衛と称するは三千石で築地に居宅している。
駿河台は千石と聞く。
先祖の松下が賜った化物屋敷は別所で、その家も隠岐守とは別である。
築地の方が本家であるか、また同族かは未詳である。


(甲子夜話続編)

この松下嘉兵衛って松下之綱のことかな?
だとすると、遠江にいるはずなのでおかしくなる



367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/01(木) 08:14:19.30 ID:Hjp9nzNE
戦場を経て
駿河台で
化物つかまえて
千石とり

なんか某小説を思い出した

【雑談】鏃の事など

2016年12月01日 16:16

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 10:40:18.46 ID:unEa3OAl
嫌儲板で鏃が話題になってたけど
何か鏃のちょっといい悪い話ありませんか?

イギリスのボドキン
http://fknews-2ch.net/wp-content/uploads/2015/08/bodkin.jpg
bodkin.jpg

日本の鏃
http://kattyan.dyndns.org/gihujyou/283.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/shingekisoku/imgs/b/9/b99ef187.jpg
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/013/913/30/N000/000/000/123922140970116200596_8yajiri.jpg
283.jpg
b99ef187.jpg
123922140970116200596_8yajiri.jpg

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 10:53:52.03 ID:RfqGlZIR
>>365
信玄の鏃

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 14:48:46.68 ID:dEO+eURb
>>365
日本の鏃の真ん中の画像、上から4番目~7番目のような
返しのある鏃を腸繰(わたくり)型と呼ぶ。
抜くときにハラワタが引っかかってえぐれるから。

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 22:18:33.80 ID:unEa3OAl
>>370
なにそれ恐ろしい
形ってただの飾りではなくて意味があるのか

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 22:41:32.80 ID:RfqGlZIR
信玄はさらに鏃を弛くして抜くときに体内に残るようにしていたと言われてる

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 23:15:10.70 ID:uiJMe/8Y
武田の緩めた鏃って、そんなもの使っちゃいけないと咎めた神君称揚の逸話だと思われていたのが、
武田の古戦場後から本当に鏃が体に残った遺体が発見されて、どうも武田はガチでああいう事やってたらしいって
今はなっているな

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 23:32:49.95 ID:2Pwp47rE
武田を称揚する話はないのか
信廉あたりの逸話で

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/01(木) 22:59:04.45 ID:IyntWyyL
>>375
>武田を称揚する話はないのか
>信廉あたりの逸話で

これがホントの逍遙軒?

承諾の無い以上は、力及ばず

2016年12月01日 16:13

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/01(木) 04:29:29.58 ID:tN7pLp6l
信長は9月11日(元亀2年)、勢多の山岡玉林斎(景猶)の所に
止宿しなさった。

「明日、叡山を攻め崩すべし」との旨を言うので、佐久間右衛門
(信盛)並びに、夕庵入道(武井夕庵)が達て諫言に及んだ。

信長は曰く、「去年、汝らをもって懇意の言葉を尽くしたが、承諾
の無い以上は、力及ばず」と、理を尽くして言うため、

彼らの考えは及ばず、各々は未明に出発致した。

――『当代記』