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少弐氏内紛と龍造寺氏

2020年01月20日 18:27

550 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/01/20(月) 16:37:59.97 ID:cD4CUJU9
天文五年、九月八日、少弐資元は四十八歳にて多久城にて卒去した(実際には九月四日に、大内義隆の命による
陶興房の攻撃で資元は自害したとされる。)

少弐氏は日を追って衰え、大内は年月を得るごとに繁盛し、この時、西国平均の功莫大であるとして、
大内義隆を大宰大弐に叙任された。さらにこの年、天子御即位の料を調進したため二品に叙し、兵部卿を兼ねて
中国九州の諸将に冠として、その威万人の上に覆った。世の転変は今に始まったことではないが、眼前に
起こったのである。

勢福寺城にあった少弐冬尚は。父・資元の卒去を聞いて悲泣啼哭して前後を忘れるほどであった。
旧交の諸侍は憐れみを成し、或いは茶の会、酒宴をして冬尚を慰めた。
このような時に、江上尚種が盃をひかえてこのように申した

「おおよそ、人にとって世の栄枯は天の命ずる所であるから嘆くべきに非ずと言いますが、つらつらと
古昔を思うに、右大将家(源頼朝)の御時、御先祖資頼公を大宰少弐に補任されて下向あってより以来、
九州二島はその威に伏してきました。その間大内氏は、わずかに周防国に安堵し、異国の勘合船を
司るばかりであったのに、将軍家に対して聊か忠が有った故に、過分の俸禄を受け、あまつさえ今や
九州二島を横領せんとしています。
御当家の弓矢末に成り、大内のために脅かされること、返す返すも無念であります。ただどうにかして、
少弐家再興の謀がないものだろうか。」

これを聞いて、少弐冬尚を蓮池城に保護した小田覚派入道(資光)は申した
「それは誰も同じ心である。そして今大内家のことを聞けば、武備は廃れはて蹴鞠和歌のみを持て囃し、
栄耀満ちて欠けることを知らずという。時既に到れり、早速に軍を起こし旧好の武士を駆り集め、
冬尚公を大将として、先ず太宰府の代官・杉豊後守隆連を攻め落とし、すかさず中国に渡り少弐家の安否を
天道にかけて試すべし!」

そう申すとその場の面々は主の忠義を感じ、一同に「然るべし!」と申した。

しかしこの中にあった剛忠公(龍造寺家兼)は、席で姿勢を整え、言葉を和かにして言った
「この事、皆々が思っている所存であり、武家の本懐であるのだから、誰が進もうとしないだろうか。
然れども、退いて愚案を廻らしてみたのだが、大内家が和歌風流を好み風俗末になっていると雖も、いま
公方の御覚え朝廷の御恩厚く、九国を管領し中国を治めて、龍の水を得たごとくである。
陶、杉、相良等の老臣相並んで非を諌めるに身を庇わず、軍に望んで命を惜しむこと無し。
義隆は毎事を彼らに任せているため、国は治まり民は安らかである。これは我等にとって、天の時が
至っていないという事では無いだろうか。

密かに兵を集めて進もうとすれば、筑前の数城には敵が有り、退いて険阻に支えようとしても東肥前には
さほどの要害が無い。これは我等にとって地の利が全く無いことを示している。

今は大内の威風強く、三前二島(筑前、豊前、肥前、壱岐、対馬)のような代々相伝の国人さえ皆、
少弐家を捨てて大内に属している。況や他国では問題にも成らない。人の和が無いのである。
ただ時を待って命を全うし、徳を施し人を懐せれば、人みな往時を思い、招かなくても集まり、
何時であっても時が至ったと見れば速やかに恨みを報いる事に何の仔細があるだろうか。」

そのように、理を先とし義を旨として申されると、人皆尤もと同意した。
しかしその中で小田覚派入道は少弐冬尚を傍らに招き
「剛忠公は大内に内通したと覚え候。あはれ諸将の心を伺わずに、即座にその理を、あらかじめ
申しておくべき物を!」と言い捨てて帰った。少弐冬尚もこれに同意し剛忠公を憎んだためであろうか、
天道に背き家は断絶した。老公(剛忠)の忠心は違っていなかったのだ。後に龍造寺の家は起こり、
武名天下に響いた。

551 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/01/20(月) 16:38:18.91 ID:cD4CUJU9
こうして少弐冬尚の疑念は溶けず、小田覚派入道と密談した。覚派入道は了承し、て、天文六年四月、
八百余騎を従えて水ヶ江に向かった。剛忠公はこれを聞くと「我全く冬尚に別心無し。これ天魔波旬が
覚派入道の心に入れ替わったのだ。」と、自ら逞兵を引きすぐり水ヶ江の東、木原村に出向し、天地を
動かして戦った。小田方の小田新九郎政光が横槍を入れて、水ヶ江の龍造寺勢が敗北しようとしたが、
剛忠公は諸卒を進め鬨を挙げて砕き難きを破る所に、龍造寺豊前守胤栄、和泉守家門、および鍋島平右衛門尉
清久、同駿河守清房が遅れ馳せに来て悉く突き返し、駆け立ち攻めたため、小田方は散々に打ち負け、
悪しくなって引き退いた所を、龍造寺方は蓮池の城下まで押し詰め首数十を討ち取って静かに陣を返した。
少弐冬尚は両家に扱いを入れ、互いに和平となった。

(中略)

天文十年、龍造寺剛忠公の水ヶ江の御館の門の前に、編笠を深くかぶった美美しい男が一人、何処からともなく
来て佇んでいた。館より士が出て「誰か」と問うと、「我は少弐冬尚と申す者である。剛忠翁に一言云いたい
仔細有って、ただ一人来た。」と宣われた。

剛忠公は急ぎ御出になり、奥へ請じて「現なき御有様かな、何のために御渡されたのでしょうか。」と
尋ねると、冬尚は涙を流し
「我、今大内に家を削られ家業断絶せんとしている事、天運とは云いながら遺恨更に止みがたい。
今国中を見るに、御辺は末頼もしい人であれば、少弐家再興の事、偏に御辺を頼みたいのだ。
もし承引無ければ命を白刃に縮めて恨を黄泉に報じよう。」と申された。
剛忠公も数代の旧恩であればどうして拒否を申されるだろうか、その上御有様を見て老涙さらに留まること無く、
「ご安心思われ候へ、それがし微力の限り粉骨を尽くします。」と申し、人を数多付けて冬尚公を城原城へと
送り、御次男家門を以て後見とし、江上尚種、馬場頼周と共に少弐を補佐した。

(肥陽軍記)

天文六年の少弐家の内紛とその顛末。ちなみにこの小田資光、あの常陸小田氏の支族ですね。



552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/20(月) 18:43:40.88 ID:OUJ9NcWW
鍋島直茂が一旦養子入りした千葉とか、あの辺は元寇時?に下向した坂東武者の子孫が多いよね
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田手畷の戦い

2020年01月19日 21:24

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/19(日) 14:17:38.24 ID:ZiDYjxZ8
三前二島(筑前、豊前、肥前、壱岐、対馬)の守護である大宰少弐政資は、去る明応六年大内義興に滅ぼされた。
嫡子少弐高経も討たれ、家は既に断絶の様相であった。
ここに政資の次男が、父生害の時は十歳であったがこれを東肥前の馬場、横岳(資貞)らが、慈恩を忘れず同国
綾部の城に取り隠した。彼は成長の後父兄の古きことを思い出し、世の転変を伺い、どうにかして義兵を挙げ
会稽の恥を雪がなければと肺肝を砕いた。横岳資貞はこれを憐れみ、元服を進め、少弐資元と名乗られた。
彼は密かに廻文をまわして旧好の武士を招き、時を待ち、運を計った。

大内に付き従っていた肥前の諸士は抜け抜けに馳せ参り、また豊後の大内(政親)もこの事を聞いて、資元を
聟に取ったため、その威勢いよいよ強くなり、大内に対し謀を成した。

大内家はこれを伝え聞くと安からず思い、急ぎ討手を遣わそうとしたものの、思いもよらずそれが延引した所に、
少弐資元は対馬の宗対馬守義盛を通して京の将軍家に訴え、家断絶を嘆き申し上げると、将軍足利義稙公は
この訴えを御許容あって、肥前守に成し給わった。

大永の末の年、肥前国の筑紫尚門、朝日頼貫の讒言によって、大内氏(大内義隆)は少弐資元を滅ぼそうとし、
大宰府に在った大内の代官・杉豊後守興運は筑紫、朝日と談合して、享禄三年の秋、1万余騎を催して
東肥前に乱入した。この時少弐資元は多久の城に隠居し、新たに嫡子の少弐冬尚が綾部城を守っていたが、
馬場、横岳、武藤出雲といった人々を駆り催し、東肥前に出向して天地をひしめき防ぎ戦った。

杉の軍は勝ちに乗じ、少弐冬尚は退いた。神埼に陣していた龍造寺和泉守(家兼)は、家門である少弐の
難儀を聞き、一族を率して一つになり先陣に進むと、保、高木、小田、犬塚等の諸侍も鞭を上げて少弐に
馳せ加わり、田伝村にて相支え、ここを最後と戦ったものの、少弐方はついに敗色になって、先陣の龍造寺勢も
御陣が崩れようとした、その所に、

ここに誰とも知らぬ、赤装束の赤熊(の面をつけた)武者が百騎ばかり陣中より出て、追いかける敵を切り崩した。
杉方は思いもかけず突き返されたため色めき立った。これに剛忠公(龍造寺家兼)は大いに力を得て、自ら諸卒を
いさめ、突き戦った所、中国方は散々に敗北し、討たれる者数しれぬ有様であった。朝日頼重と筑紫尚門は
ただ二騎踏み留まり、「返せ返せ!」と呼に敵を数多討ち取ったが戦死した。その他少弐方が討ち取った
首は八百余級であった。

少弐冬尚は勝鬨を執り行い、龍造寺剛忠公の軍功を感じて、同国川副庄一千町を授けられた。大内は安からず思い
将軍家に少弐を誅するべしと訴えたが、御免無き故に双方無事となった。

かくして龍造寺剛忠公は御帰陣の後、あの赤熊武者について問うた所、その答えは
「彼らは本庄村の牢人、鍋島平右衛門尉清久父子とその一族です。年来彼の地に居住し、いかにしても
今後の機会に武功を顕して一所でも安堵を得たいと思っていた所に、今度の乱が出来て、これを幸いと
討ち出てきたわけですが、『中国方に付くべきか、少弐殿に参るべきか』と疑議を成し、本庄の神社に参り
鬮にて占い、その結果として参ったのです。」

これを聞いて、龍造寺剛忠公は御感のあまり、鍋島清久の嫡子・左近将監清正を聟に取ろうとしたが、既に
妻が有ったため、次男・孫四郎清房を、嫡子である龍造寺家純公の御娘に娶せ、本庄の八十町を聟への
引き出物とした。彼は後に、駿河守清房・法名剛意と名乗った。
これより龍造寺剛忠公の威勢次第につのり、近境を覆わんとした。

(肥陽軍記)

少弐勢が大内氏を破った田手畷の戦いと、鍋島清久の「赤熊の計」についてのお話。



子孫に於いて疎略の義は有るまじきと

2020年01月18日 14:51

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 00:33:23.36 ID:YdSzXlXL
高橋紹運公が未だ御若年にて豊後に御在居の時、弥七郎(孫七郎ヵ)と申していた時分、御舎兄の吉弘鎮信公より、
彼を斎藤鎮実の御妹と婚約させたいとの仰入があり、これにより縁談についてはまとまったのだが、その頃豊前表
では中国衆との防戦の最中であり、かれこれと時が移ってしまった所、ある時孫七郎公が斎藤鎮実と対談した。

心静かに挨拶を交わした上で、公は仰せになった
「兄である鎮信より内々に、御妹子を申し請け、私の宿へ迎えることを御契約申し置いていたのに、世上の惣劇の
故に今まで引き延してしまいました。この事について、私は必ず申し請けたいと考えており、その事をお心得に
成って頂きたいと、このように直談いたしました。」

これに斎藤鎮実
「仰せのように内々に鎮信殿と話し合いをし、その通りの首尾となりました。しかしながら、その後妹が
疱瘡を患いまして、見苦しい容姿と成ってしまいました。このままではもご覧に入れる事も難しく、現状として、
この婚姻をすすめるのは叶い難いと思っています。」
このように返答した。これに対し公は仰せになった

「それは近頃、思いもよらぬ御意であります。私は聊かも、好色を求める人間ではありません。
斎藤殿は御先祖以来、豊州家(大友家)において流石の弓取りの名を保っております。であればその血筋を
受ければ、子孫に於いて定めて疎略の義は有るまじきと、頼もしく思い所望したのです。
御辞退の義には及びません。」

これにより、間もなく斎藤鎮実妹との御祝儀があり、この御腹より、統虎公(立花宗茂)、統増公(立花直次)が
御誕生され、御兄弟共に日本国内は言うに及ばず、朝鮮までも隠れなき名将と成られたのは、実に殊勝なる事で
ある。この頃孫七郎公は未だ二十歳にも満たなかったと云うが、その御きざしは衆に異なるものがあったのだろう。
古より申し伝わるように、名人たらん者は幼童より必ず異相著るる者とは、信なのだろう。

高橋紹運記)



538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 00:48:16.10 ID:0JGxBTZh
疱瘡持ちの嫁さん貰うシリーズですか
明智に吉川に高橋紹運と、テンプレートになってますけど何が原典なんでしょうね

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 05:56:14.22 ID:UWi0SAIY
医療が未発達だったからそういう逸話が本当に多かっただけじゃないの

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 06:03:00.48 ID:Zhqw+bSz
>>538
醜女の嫁って、それこそ三国志の孔明の嫁あたりからある話だしなぁ。

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 11:34:13.15 ID:2U4nJWKR
周瑜は美人の嫁さんを貰ったから短命に

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 11:58:49.57 ID:dKp/1rIQ
名家の姫と言えば可憐な美少女をイメージするけど、実際にはそうとは限らないわけで…もちろん大事なのは縁と血ではあっても、醜女が過ぎる場合には疱瘡で顔が崩れたと言い訳してるのかも、あるいはそう言い訳するのが暗黙の了解だったとか

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 13:07:07.59 ID:xSQfNlxX
ほうそういうことですか。
アバターが可愛くても実際はブスというような

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 13:19:04.75 ID:0LkwBpdk
ブスでもないのに相手にされてない姫もいるわけで

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 13:50:27.12 ID:JM3woESP
性格も大事っすよ
あと知性も

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 19:49:41.45 ID:oIA+ZnYN
武家の娘は、口吸いといって精子を飲むことも
嫁入り前に教えられてたらしいな。
春画見て勉強したり。

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 20:10:22.07 ID:0JGxBTZh
どうなんだろ、戦国時代以外でも疱瘡持ちの嫁さん貰うって話あるんですかね
いやまぁ貰うのはいいんですけど武家の正室なりが疱瘡って割と風評として最悪な部類な気もするんでわざわざお話にして広めるかなって

これは正利が天性勇猛で物に動じることが無かったため

2020年01月17日 15:08

菅正利   
533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/17(金) 11:47:44.41 ID:goDK3ZeI
寛永六年、菅正利五十九歳、六月の初めより傷暑を病み、二十九日、家にて没した。博多聖福寺の内、
順心院に葬られた。

正利は天性、勇猛人に超えていた事は今まで記していたため、更に記するには及ばないが、
黒田長政公は豊前、筑前に於いて罪過有ることで誅殺される者がある時は、諸士に命じて見逢いに
斬り殺させた。長政公の側近くに呼ばれ、その事を命じられた時、命を聞き終わって退出する姿を
次の間に在る諸士は、その様子を見て、彼が仕者を命ぜられたのだと察したという。
ところが正利の時のみ、人々はそれを察することが出来なかった。これは正利が天性勇猛で、
物に動じることが無かったためである。

また正利は新免無二助(宮本武蔵の父・新免無二の事か)に剣術を習い、その後疋田豊五郎(景兼)にも
学び、二つの流儀に達して奥義を極め知っていた。
長政公が筑前に入国された後、何国の者であったか、剣術の名人であると言って、長政公に仕えることを
求めて来た者があった。この時長政公は正利に命じ、福岡城の本丸に於いて木刀にて仕合をさせられた所、
三度打って三度共に正利が勝ち、剣術者は恥ずかしく思ったのか、いつともなく逐電したという。

正利は身の丈六尺二寸(約190センチ)有り、力も群を抜いていていた。天性勇猛なだけでなく、仁愛の心深く
忠義の志浅からず、智恵才力も人に超えていたという。

(菅氏世譜)

かなり有名な兵法家に教えを受けていた菅正利さん。



534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/17(金) 11:54:03.34 ID:YRUINvko
平均身長155も無いのに190の怪力手練が殺意を持って殺到してくる恐怖

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/17(金) 16:16:52.85 ID:MxJGeR6p
江戸時代に急激に縮んだのさ、知らんけど

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/19(日) 02:56:27.71 ID:Ssi+Cz09
>>533
さすがSAKONを打ち取っただけありますね

百道松原

2020年01月16日 17:44

菅正利   
530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/16(木) 02:28:32.15 ID:bRzsaQCE
元和四年正月二十五日、黒田長政公は命を下され、福岡の城下、荒戸西の町外れより早良川の遠干潟までの
間広き砂原があり、無用の地であれば松を植えて松原にすべしとて、その事を計り実行させた。
この事業について菅正利が惣司となり、宮崎織部、手塚久左衛門も正利に加えてその事を成さしめた。

博多、福岡、姪浜の町中に命じて、家一軒に付き高さ四、五尺程の松一本を提出させ、これを植えた。
年を経て徐々に成長し、十年後には広い松原となった。その後いよいよ成長し、後には、古より事ふりたる
生の松原にも勝り、名にし負う箱崎の千代松原に等しき地となった。

(菅氏世譜)

福岡の百道松原造成のお話。なおこの松原は戦後切り開かれ宅地として造成された。



531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/16(木) 21:54:17.07 ID:rEEY05pW
松根油にされて特攻に行ったんだな。この松の木も、

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/17(金) 23:49:01.34 ID:B84WcHgd
>>531
ネタだと思うけれど松根油なんて使われてないぞ~~

御家久しき者

2020年01月15日 17:57

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 17:53:50.97 ID:UUVBr7UC
御家久しき者


本能寺の変のあと秀吉は池田恒興に、三好信吉(のちの秀次)に恒興の娘を嫁すことを約束した。
祝言のとき、恒興は娘の御輿副として家臣の香西又市(名門の讃岐香西氏の出)を遣わした。
又市は”御家久しき者(家が長く続いている者)”との恒興の御意からであったという。

又市は長久手の陣では秀次にお供したが、恒興が討死した日と同日に三十八歳で討死した。
長男の五郎右衛門が跡を継ぎ雑賀陣、北伊勢陣、阿波陣と秀次にお供し二百石を拝領したものの
秀次の切腹後は、同じ知行で恒興の息子の輝政に召し出されることとなった。


――『吉備群書集成』



747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 22:20:49.29 ID:M1BxP3yc
池田は摂津を支配していた時に管領細川の家臣を召抱えたようだな

大谷刑部屋敷の怪

2020年01月15日 17:44

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 12:21:03.23 ID:5IJy5yrq
その頃、大谷刑部少輔(吉継)は(関ヶ原へ)出陣の最中であったが、彼が跡に残した屋敷において、
不思議の怪があったという。

九月十三日の未だ宵に、刑部少輔の女房たち数多集まって、「今宵は名にし負う月の名残である。閨中ただ一人
見るらん」と云いし古言も、今身の上にしら露の、起き伏しに付けても殿の御事覚束なく、四方山の物語をし、
また古歌などを吟じ、或いは謡わせ舞わせなどして、月を詠み、酔を勧めて遊ばれていた折節、庭前の木陰に
大勢の声が響き、それらは大変哀れな泣き声であった。

大谷刑部の内室を初めその座にあった女房たちは「これは如何なる事ぞ」と怖ろしく思いながら物陰から
庭の面を見渡すと、男女、その数一、二百、たいへん気高い柩を担ぎ、幡、天蓋、挑灯等、堂々たる規式にて
葬送を行っている有様であった。

その場の人々はこれを一目見て、気も魂も身から出ていくようで、侍共を召し寄せて、「穿鑿せよ」と言っている
内に、消えたように居なく成っていた。

これを見聞きした人々は、折柄の凶しき事であり、忌を思わぬ者は無かった。
奥方の女性たちは恐れおののいて、内室の御手を引き「御休み候へ」と帳内に誘い入れ、大勢の女房衆が
前後左右にかこみ、御伽いたし、勤めた。

そうして留守居の家老達、出頭の面々は次の間に伺候して、槍、長刀の鞘を外し、鉄砲には火薬を込め、
弓は弦をくい締め、内室を守護する体で寄り挙り、色々の雑談をしつつ
「先程の葬送は、狐、狸の技であったのだろう。しかり妖は徳に勝たず。」
などと祝言して居た所、また最前の庭中に、大勢の声で、どっと笑う音がした。

これに女房たちは申すに及ばず、警護の武士に至るまで「是は是は」と肝を消し、皆々あきれていた時、
いと怪しげなる声音にて、

「少しも驚き申さるるな。おっつけ御不審晴れ申さん。」

と高らかに叫んで、かき消す如く失せた。
それより内議評定して、
「これはそのまま捨てておくことは出来ない。軍の様子を聞くため、またこの次第をお知らせするため。」
と、委細の事を書きしたため、早々に飛脚を遣わした。

そしてその遣いが未だ到着しない間に、関ヶ原敗軍して、刑部少輔はたちまちに自害したと聞くと、皆
腰抜け、力を失いてあきれたという。

(石田軍記)

大谷刑部屋敷の怪



748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 23:12:59.43 ID:vFBKfcLy
>>744
妖怪の知らせ…?

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 23:29:46.81 ID:kXcRoRmC
>>744
    r⌒\// ////:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ //// //
    (´ ⌒)\ ///::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|// //
ポッポー ||  \|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| _/ /ヽ        /ヽ
     人   ...\    +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;/ /   ヽ      / ヽ
    (__)     \    ( (||||! i: |||! !| |) )    /__/U  ヽ___/  ヽ
また (__)天狗か .\+  U | |||| !! !!||| :U  /__/   U    :::::::::::U:
    (・∀・#)       \   | |!!||l ll|| !! !!|/| | 天 // ___    \     ::::::::|
  _| ̄ ̄||_)        \∧∧∧∧/  | | 狗|   |    |  U     :::::::::|
/旦|――||// /|      <   天 >  | |  |U |    |        :::U::|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| . |      <   狗 >      l ├―‐┤   U   ...:::::::/
|_____|三|/      < の の >     ヽ      .....:::::::::::::::::::::::<
────────────< 予 仕 >─────────────
      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \< 感 業  >天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!   
/⌒ヽ  / ''''''     ''''''  ヽ<.!    >こういう天狗のように鼻が立ってたのが
|  /   | (●),   、(●)   | ∨∨∨∨\天狗の天狗なんだよな今の天狗は
| |   |    ,,ノ(、_, )ヽ、,,     / ヤダヤダ \天狗の天狗を知らないから
| |   |    `-=ニ=- '    /〃〃∩  _, ,_  \天狗の仕業じゃ!  , ;,勹
| |   !     `ニニ´   `/  ⊂⌒( `Д´) <\          ノノ   `'ミ
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| |    ////W   / )、._人_人__,.イ.、._人_人_人     / 彡 `゚   ゚' l
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週刊ブログ拍手ランキング【01/09~/15】

2020年01月15日 17:42

01/09~/15のブログ拍手ランキングです!


藤堂家の大阪夏の陣 9

大寧寺の変と、宗像氏男の最期 7
鐘ノ御崎 7

ただ士の成しおくべき物は武功である 6
三女神のお告げ 6
神職の射る弓、立つか立たぬか、受けてみよ 6
【雑談】上杉謙信妻帯説 6

『斃秦』 5
滋賀京都辺りの妖怪 ガオーさん 4


今週の1位はこちら!藤堂家の大阪夏の陣です!
藤堂家といえば、大阪夏の陣における、八尾・若江合戦で大阪方と激しい戦闘を行い、大きな被害を受けた事も有名ですね。
この戦いで渡辺勘兵衛(了)の独断専行があり、戦後出奔した彼に藤堂高虎によって奉公構が出された事なども良く知られて
いると思います。
藤堂家譜は勿論、後世の藤堂家の立場から書かれた記録ですが、それにおいても、多くの討死を出した大変苦しい
戦いであったことが、かなり率直に描かれているという印象があります。先手といえば武門の誉れと言うべき役目ですが、
それを断念せざるを得ないほどという事に、その損害の大きさを後世の僕達も察するべきなのでしょう。
またそれを含めて、いわゆる幕藩体制家における藤堂家の誇りでもあったと言えるのかも知れません。
そんな事を考えた内容でもありました。

2位はこちら!大寧寺の変と、宗像氏男の最期です!
こちらは大寧寺の変に運悪くも遭遇した宗像氏男のお話ですね。これを見ると、本当に変が起こるまで大内氏の体制が
極めて安定しており、それが一夜にして崩壊するなど夢にも考えられなかった、という空気を感じることが出来ますね。
大寧寺の変は後の本能寺の変と比されることがありますが、なるほどこういった空気感は、よく似ていると言えそうです。
そう考えると、大寧寺の変後の陶隆房のあり方を見れば、本能寺の変後に明智光秀が目指したものも想像できるのではないか、
なんて思ったりもします。
宗像大宮司である氏男が「武門」として大内義隆の殉死をするなど、様々に興味深い内容だと感じました。

そして今週はもう一つ!鐘ノ御崎です!
宗像の鐘ノ御崎における怪異譚。この鐘を引き揚げようとしたため、とばっちりを受けた人が大量に居る気もするお話ですw
このお話では海人の人々が大きな役割を果たしていますが、実はこの鐘ノ御崎(宗像市鐘崎)、西日本の海人の発祥の地、
であるとされているそうで、なるほどこのお話に於いても海人の存在が強調されるわけだと妙な納得をしてしまいました。
また、この鐘崎は、響灘と玄界灘の境とされており、本州と九州(太宰府)との海上交通において、古来より重視された港でも
あったようです。この鐘崎の金の岬(鐘ノ岬)は、万葉集や源氏物語にも詠まれているそうですね。
そういった場所だからこそ、こういった怪異の伝承があったと言えるのかも知れません。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当にありがとうございます。
また気になった逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンを押してくださいね!
(/・ω・)/

滋賀京都辺りの妖怪 ガオーさん

2020年01月14日 17:17

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 17:51:10.32 ID:2v3QEvLh
滋賀京都辺りの妖怪でガオーさんってのがいて
それは戦国時代六角氏の領民が蒲生氏郷を恐れて蒲生が来るぞがなまったとされる
みたいなニュースは見たことはあるなぁ、どの程度信ぴょう性があるかはしらないけれど

ガオーなんて怖い生き物の鳴き声からの着想で十分ありそうだし



512 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/13(月) 18:32:37.48 ID:2jgCXgsI
>>511
我王かな?と思って火の鳥を思い出したのは俺だけで良い

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 18:39:43.01 ID:FG5Q7KtQ
能登には逆に、上杉謙信の襲来の時、鬼や幽霊の格好で太鼓を成り響かせて上杉軍を
恐怖させ撤退させたという、「御陣乗太鼓」の伝承があったりするね。

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 18:47:47.72 ID:Ox4dFlNG
謙信「わっ、お化け!怖いから越後に帰ろう…」

かわいいじゃん。

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 00:11:12.70 ID:bKDKxVUo
>>511
滋賀の街にガオー
夜の京都にガオー
すみません言ってみたかったんです…

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 14:25:33.63 ID:aQvqBDrV
>>511
京都の町人は氏郷をおちょくった
『大石を道の蒲生に引き捨て
  飛騨の匠も成らぬものかな』
の落首で氏郷をぶちギレさせて
方広寺まで一直線で巨石を運ばれてるからな…

ぶちギレたガモーさんに町を破壊される恐怖を実際に体験してる事を考えると
コクリムクリのようにガオーさんの元ネタと言われても違和感ないわ

ただ士の成しおくべき物は武功である

2020年01月14日 17:16

菅正利   
516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 12:14:17.26 ID:2Ea+Petg
慶長二年、豊臣秀吉公は重ねて兵を遣わし朝鮮を征し給った。菅正利(三十一歳)も又、黒田長政公の供をして
先手を勤めた。

秋の頃、大明の大軍が忠清道の内、禝山に在ることが聞こえたため、これを討たんとして九月七日、長政公は
毛利秀元と共にその勢三万余騎にて馳せ向かわれた。長政公は先手であった。
その後、長政公の勢は大明の大将・解生、楊登山、牛伯英、等と戦い、大勢を追い崩した。しかしこの時、
千総、李益、喬把、劉遇節などと云う者たちが大軍を率い、黒煙を立てて救援に来た。
解生はこれに力を得て取って返し戦った。長政公の諸勢もまた勇み進んで攻め戦うと、大明勢の勢いも一時に屈し、
さっと引き取って息をついでいた。

ここに、大明勢の大将と見える者が、西の山の高い場所に兵が多く集まって在るのを長政公が見られ、
「あれこそ大明の陣である!自余の敵どもを多く討つより大将を討ち取るべし!続けや兵ども!」と下知して
旗本をそこに定め置き、井上九郎右衛門(之房)、栗山四郎右衛門(利安)を残して敵が来た場合の防ぎに
備え、自らは手勢の内で一騎当千と思われた人々を選んで召し、供をさせた。その人々は、黒田三左衛門、
後藤又兵衛、野村市右衛門、菅六之助(正利)、林太郎右衛門、堀久七、野口藤九郎、益田与助、等であった。

長政公は彼らを引き連れ真っ先に進まれたため、菅正利を初めとして後に続く兵たちは、我劣らじと敵陣へ
駆け入り、即時に敵の大勢を切り崩して二里ばかり追討ちした。この時、敵勢の中より一騎踏み留まり、
弓馬の達者と見えて、馬を留めて寄り来る者共を射ると、あだ矢は一つも無かった。彼に向かっていった
者は、或いは射殺され、或いは深手を負ったため、味方に手負い、死人多く出た。このようであったので
我討ち取らんと進む者も無く、長政公はこの様子を見て「正利は近くに居らぬか!?」り尋ねられた。

菅正利は丁度敵を討って、首級を大将に御目にかけんと持って帰っていた所であった。
急いで進み出ると長政公は正利に向けて
「汝、行き向かい、あの敵を討ち取れ。」と命ぜられた。

正利は命に従い速やかに馬に打ち乗り馳せ向かった。かの敵は正利が向かってくるのを見て弓を引き堅め
射った矢は正利の右の耳を射切ったが、深手では無かったため事ともせず、二の矢を継がせないと逸足を
出して駆け付け、乗り違えざまに一太刀切ると、刀能く切れ首脇より乳の下にかけて切り落とし、首を取って
馳帰り、長政公の実検に備えると、「武運強き者には矢もたたぬものなのだな。」と雑談され、その武勇を
殊の外感じられた。

ところが、唐人の射る矢には、附子という毒をつけて射る故に、先に受けた矢の射切られた所が、当初は何とも
無かったのだが、次第に毒気が皮膚の内に深く入ったのか、後には右の耳の色赤くなり、常に膿、血が出て止まらず、
これ故に顔色もすべて恐ろしく厳しいものとなった。後には小児が泣く時に、正利の名を言って脅すと泣き止む、
などと言われた。かのもろこしの張遼が、小児が泣くのを止めたという故事もかくやと思い知らされる。

さて、このように菅正利は顔より常に膿汁が出て見苦しいものであったが、黒田如水公、長政公は少しもきたなく
思われず、正利が飲んだ盃を取って呑み、濃茶の跡をも召し上がられ、年若き家臣共に常に正利の武勇を語り
聞かせられ、「きたなくとも、あれにあやかれ。」と宣われた。

正利はこれを有難きことに思い、常に子供に対してこのように語り聞かせた。
「私の勇功によらなければどうしてこのように忝き御意に預かれるだろうか。ただ士の成しおくべき物は
武功である。」

(菅氏世譜)

大谷吉継の逸話みたいな話が、菅正利にもあるのですね。



517 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/14(火) 12:43:44.90 ID:a0wdp0Jx
附子の毒とは武士にあるまじき行為、無粋な奴らよ

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 13:37:20.44 ID:oH277gGr
膿と茶の話はもともとは利休だっけ?紹鴎だっけ?の弟子の話が元ネタだっけ

毒矢に関しては国によって戦い方が違うだけだからなんとも
日本も矢じりわざとゆるくとりつけて射られた敵の傷口に残るようにして苦しめてた、みたいな話もあるし

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 14:41:41.91 ID:qiXWHE6+
>>518
利休のやつは三成の三献茶の元ネタじゃ無かったかな?
吉継の茶の話はたしか未だに出典不明のはず。真面目にこれが元ネタじゃ
無いだろうか。

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 22:14:10.14 ID:+ig0gkR5
矢じりをゆるくつけると
二重の極み理論で貫通力がUPするらしい
https://i.imgur.com/gEfaFxQ.jpg
gEfaFxQ.jpg

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 22:18:34.48 ID:bO8Xz5cn
>>516
>ところが、唐人の射る矢には、附子という毒をつけて射る故に、

一休さん「附子茶(゚д゚)ウマー」

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 22:42:24.02 ID:dUCx40Wo
まとめの1963
「武田のゆる鏃」と家康・悪い話

まとめな5892
鏃の詰め方

武田の緩い鏃は非人道的だと家康激怒

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 00:15:15.78 ID:riOsz2RF
>>520
三献茶とごっちゃになってました、ご指摘ありがとうございます

にしてもほんとにこの手のお話は有名武将に話入れ替えられるのが多いですなー
江戸時代辺りに話から武将だけ入れ替えるって手法が多かったんですかね

525 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/15(水) 07:36:38.09 ID:A9SObay3
>>518
>>517は本気で異国の戦法を云々ではなく、ちょっと韻を踏んで頂けたら…

『斃秦』

2020年01月13日 16:31

菅正利   
507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 13:49:21.83 ID:FG5Q7KtQ
文禄三年、朝鮮在陣の日本勢の内、諸城警衛の兵の外は、和議が既に調ったため無用であるとして、
悉く日本へ帰国したが、黒田長政公は機張の城を守って居られたので未だ帰国されなかった。
しかし大明との和議が調った後であり、敵も皆退散したため合戦も無く、いたずらに異国に逗留し、
つれづれの余りに、時々勇士共を引き連れ山に入り虎狩りをされた。

二月十三日、長政公はまた山に入って虎を狩られた。この時長政公、鉄砲に寄って駆け来る虎を間近く寄って
撃ち殺された。その後、猛き虎が一つ駆けてくるのを、長政公がまた鉄砲を構えられた所に、虎は脇に人が
いるのを見つけると、長政公の方へは行かず、菅正利与力の足軽が並び居る所に駆けてきて、一人の肩を咥え
後ろに投げ、一人をその腕を喰らって倒した。これを見る者で恐怖しないという者は居なかった。

この時菅正利は朱塗りの鎧を着ていたため、人多き中にも著しく見えたのだろう、虎は正利をめがけて懸ってきた。
しかし正利(当時二十八歳)はこれを見ても少しも騒がず、刀を抜いて進み、駆け寄る虎を一刀、斬った。
刀能く切れ、虎は一声吼えて即時に倒れようとした所を、また一刀斬って首を打ち落とした。
この時正利の稀代の勇と、その刀の利が無ければ、虎口の害を免れ得なかったであろう。

この刀は備前吉次の作にて長さ二尺三寸一分あり、現在でも相伝わり菅の家にある。
その後、大徳寺の僧・春屋にこの刀の銘を乞うた所、『斃秦』と名付け、今その刀の中子にその刻がある。
秦は虎狼の国と言われるため、「虎を斃す」という心なのだという。

また後に林道春に銘と名を乞うた所、普の周処が南山の虎を斬ったという故事を取り、その刀を『南山』と名付け、
その事を記し銘を書いて与えた。

誠に世には、自分と変わらない敵に向かってさえ恐れて進み得ず逃げ去る者も多く、いわんや怒れる虎は
その猛き事類なく、古よりの口ずさみにも、恐ろしいことを言うのに先ず虎をこそその第一とする。
これに向かい勇み懸って、あまつさえ短刀にてこれを斬り殺すこと、類なき武勇ではないか。
もろこしと言えどもそのためし少なく、いわんや日本には前代にも既に無く、後世にも有りがたるべし。

(菅氏世譜)

虎も斃したら首を打ち落としていたのか。



508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 14:40:18.90 ID:dXipE+7V
周処は曹休を罠に嵌めて石亭の戦いで破ったので有名な呉の周魴の息子だから普じゃなくて晋
(周処の墓からアルミニウムが見つかった!と大騒ぎされたが
発掘の途中で紛れ込んだだけ、という話もあった)

三国志演義といえば菅正利の中国語wiki
https://zh.m.wikipedia.org/wiki/菅正利
戦争で顔に傷を負ってなく子を黙らせるのに使われたことから
「日本之張遼」扱いされちゃってる
張遼の息子は虎なのに

509 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/13(月) 16:21:17.88 ID:PjOK7w71
日本や中国も昔は人攫い(を妖怪に喩えたりして)が来るぞって言って泣く子を泣き止ませたとか聞いたことあるけど、謙信または越後軍が来るぞっつったら同義になったんだろうか?

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 17:40:39.44 ID:5XRBh6Zd
2箇所に銘を頼んでるのが合見積みたいだ
南山より斃秦のほうがオリジナリティあるな

三女神のお告げ

2020年01月12日 17:14

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/12(日) 14:02:57.54 ID:qMWUkP4N
天正三年二月中旬、宗像氏貞は家老の面々、吉田土佐守守致、許斐安芸守氏鏡、石松加賀守尚久、占部日向守惟安を
召して言った

「私はこれまでの年月、宗像三社建立の志を持っていたが、近年四海逆浪静かならず、凶器に財を尽くして
空しく時が過ぎてしまった。今年は先ず、田島の第一宮を修造しなければと思っており、近日中に、箱崎の
大工匠日高氏を召して、その事を図りたいと思っている。」
そのように議した。

その夜。氏貞の夢に宗像三女神が枕元に立たれ、
『異国船より来る宝があり、これを我等の心尽しとする。どうして嘆いているのか。』
と告げられた所で夢から覚めた。
氏貞は瑞奇の思いを成し、三社に参拝して、尚更の安全を祈った。

同年五月に、蛮船が宗像郡江口ノ浜に流れ来て、石松周賀がこの事を申し上げた所、氏貞は夢のお告げに等しいと
大いに悦び、石松周賀に命じて、その船の広狭を測らせた所、長さ二十八間、横十八間との事であった、
船中には人ひとりも無く、その積み来る所の財宝は、絹布、薬種など幾千万という数を知れぬ程であり、
急ぎ博多津の奥野惣兵衛、紙屋善兵衛という富者を召し寄せ、金銀に交換させた。そしてその金銀に寄って、
三社の修造は思いのままに経営出来たのである。

末世とは申せども、かかる不思議の神徳、誠に有り難いことである、。

(宗像軍記)


神職の射る弓、立つか立たぬか、受けてみよ

2020年01月11日 15:44

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/11(土) 13:54:27.89 ID:jm076ULv
この頃、筑前国糟屋郡立花の城主は大友入道宗麟の股肱の臣である、戸次入道道雪であった。
道雪は智勇仁の三徳を兼ねた人物であったので、筑前に召し置かれ、原田、秋月、千葉、千手、筑紫、高橋を
攻めて豊後の屋形の幕下に成した。また肥前国・龍造寺隆信も攻め従え。これにより薩州の島津と九州全体を
かけての争いの構図と成った。

しかしながら宗像の大宮司は大内殿の頃より山口に参勤して幕下となり、全羨(陶晴賢)が滅んだ後は
毛利元就に属して大友に従わなかった。
この状況を見て道雪はこのように考えた

「先ず宗像を攻め従わせる事ができれば、龍ヵ岡の城主・杉十郎貫並も、烟の城主・香月七郎経孝も、
山鹿城、花尾城、剣嶽城までも残らず手に入れられるであろう。幸い、近年宗像の当主である氏貞は、
城普請に財を費やし家中に十分の一の役料をかけ、民百姓にも課役をかけて領内衰微し、粮乏しく、
その上名のある老臣武勇の士は、山田の怨霊のため取り殺され(前の当主であった氏男が大内義隆の跡を
追った後、氏男の子女と後妻は陶晴賢の指示などで殺され、怨霊となり宗像家中に祟る)、その身は
博多津・聖福寺の玄蘇和尚を招いて禅法を修し詩歌を事とす。故に家中もその風に靡き、武事を怠っている。
この虚に乗じて宗像を攻め滅ぼすべし!」

こうして、大山対馬守、小野和泉守、由布美作守、薦野三河守、安部、十時、森、原田、吉弘といった人々を
始めとして、永禄十年九月に立花を打ち立ち、飯盛山に陣を取った。

宗像氏貞はこれを聞くと、「急ぎ飯盛に向かい彼らを追い返すべし。」と、吉田伯耆守重致、許斐安芸守氏鏡、
占部右馬之助氏時、石松但馬守、米田比修理進貞兼、畔口伊予守益勝、吉田左近貞延を始めとして都合二百余騎が
飯盛山に押し寄せた。

この時、敵は先ず許斐の城を攻めて、その後蘿ヵ嶽に寄せんと支度をし、飯盛にて諸卒に兵粮をつかわそうと
野陣をした所であったので、慌て騒ぐ事限りなかった。
宗像勢の中より黒糸縅の鎧を着て、栗毛の馬に銀幅輪の鞍を置かせ打ち乗った武者が一騎駆け出て、
「吉田勘解由左衛門致晴!」と名乗り真前に進み出て声を懸けた

「日頃立花の人々は、宗像大宮司の長袖烏帽子のヘロヘロ弓矢、何ほどの事があるかと嘲弄されているよし
承り及んでいる。神職の射る弓、立つか立たぬか、受けてみよ!これ神通の鏑矢なり!」

そう能く引いて放った矢は、真前に進んでいた原田源五郎の胸板を射通し、後ろに控えていた原田源助の
草摺の端まで射通した。

これを軍の始めとして、互いに揉み合って戦ったが、日既に暮れに及んだため、小野和泉守が諸卒に下知して
「日暮れて他領に陣すること不覚なるべし。急ぎ引き取れ。」と、筵内新原を指して引き退き、立花の城へと
帰った。この時宗像勢が討ち取った首級百七十三は蘿ヵ嶽に送られた。

この後は糟屋宗像は折々小勢を出し、年々戦止むこと無かった。しかし元亀半年に両家の家臣共の計らいにより、
氏貞の妹をして立花に嫁がしめ、双方無事と成った。

(宗像軍記)

宗像と戸次道雪勢との戦いについて。



503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/11(土) 18:23:51.08 ID:ZGhu7hD1
>>502
戦国時代は神主も強いから困る

504 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/11(土) 20:28:31.68 ID:yG9ZxbxY
立花って本当は弱い

505 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/11(土) 23:32:42.91 ID:Ihnuve94
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大寧寺の変と、宗像氏男の最期

2020年01月10日 16:39

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/10(金) 02:57:24.25 ID:WBNtECPA
天文二十年八月六日、宗像大宮司氏男、香月次郎左衛門隆光は宗像を出発し、同九日、山口に参着した。
相良遠江守武任を通して、大内義隆に参勤の御礼を申し上げたい旨を申し入れた所、同十一日、両人ともに
築山の御所に召され、義隆より「遠国よりの参勤、神妙である。」との言葉を頂き、また大友、島津などの
軍某もお聞きになられ、九国(九州)の太平を祝し、ご機嫌、殊の外麗しく、「両人ともに路次の労をも
休められよ。」と仰せになって、氏男、隆光は己の旅館に帰った。

そのような所に、同月二十六日、大内義隆の家老、陶尾張守興房の子息、五郎隆房は義隆公に怨みを奉る
事があり、逆心を企て山口を攻めんと若山の城より出撃したという話が聞こえたため、義隆は宗像氏男香月隆光
に五百余騎を差し添え千把ヵ嶽に差し向けられ、陶方の宮川甲斐守、江良丹後守の二千余騎と戦っていた所、
搦手の方面での合戦が敗れ、早くも築山の御所に火が掛かり、義隆公は行方も知れず落ちられたと、黒川刑部が
使いに来て伝えた、これを聞いて「今はこれまでである」と、宗像氏男香月隆光は打ち連なって長門国へと
落ちて行った、相従う軍勢は皆散り散りに落ちて行った。

深川の大寧寺に義隆が居られると聞いて尋ねて行ったが、はや昨日御自害されたと言われた。
両人ともに力を失い、「大内殿の家の滅亡、この時に究り、本来義隆公に従う義務のない公卿殿上人さえ皆討死、
或いは自害された。我等は武門に生まれ、生きて帰って誰に面と迎えるというのか。」
そう言うと、両人ともに腹を切って死んだ。あわれなる事共である。

(宗像軍記)

大寧寺の変と、大内義隆の跡を追った宗像大宮司・宗像氏男(黒川隆尚)の最期



742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/10(金) 20:02:13.30 ID:/JcGRl1J
>本来義隆公に従う義務のない公卿殿上人さえ皆討死、或いは自害された。我等は武門に生まれ

後世からみたら宗像氏は武士化した社家で
軍事貴族たる武門ではないように思えるんだけど
当人たちの「武門」意識は面白い

 宗像の家摂津守氏国(13世紀前頃)よりこのかたは、もっぱら武門となり……
 この氏俊(14世紀初頃)の時にいたりては、猶更武士をこととして、
 神職の事はなばかりにて、四季の祭祀を勤むる事をいといければ

743 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/11(土) 11:02:53.43 ID:Ihnuve94
厳島の神主家然りで武門とのつながり強いとそう言う風になってくんじゃないかな?

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 15:14:21.83 ID:Sy0WILvA
>>743
摂関家なんていう貴族中の貴族の土佐一条も、立派に武家扱いだしなぁ。

時代が南北朝まで遡ると、北畠顕家は、親の北畠親房が建武の新政以前でも権中納言、自身も参議で公卿なのに、ほぼ武家扱い。

もっとも、南北朝期は懐良親王とか護良親王みたいに
皇子ですら前線で戦っていたわけのわからない時代だけと。

鐘ノ御崎

2020年01月09日 17:09

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/09(木) 14:03:56.25 ID:VmLHog0Y
宗像大宮司左衛門尉興氏は、前の大宮司氏弘の次男であり、舎兄氏郷より譲られて、文明五年仲冬(十一月)三日に
社務となった。大内介義興に属し、諱の一字を給わって一家の親しみを成された。

ある時、興氏が領内を巡見したところ、鐘ノ御崎に至って海面を見渡し、海中に沈んでいる鐘を見つけた。
「この鐘を陸に引き揚げて、世の珍宝と成すべし。」
と、石松和泉守氏真、吉田飛騨守氏明に命じ、領内の土民を駆り集めてこの鐘を引き揚げるべしと議された。

石松、吉田は先ず海人(あま)を用いて鐘の長短を測らせた所、長さ二丈八尺(約8メートル50センチ)、
周縁の尺も同寸で、龍頭(りゅうず:最上部の環状をなしている部分)の長さは三尺あまり(約1メートル)との
事であった。そのため「加賀苧麻(からむし)の大縄を以て鐘をくくり、龍頭の元に引き付けよ」と命じ、
海人三人が海に入った所、すぐに戻ってきて
「鐘の辺りの浪高く、鰐ウツボといった悪魚が出てきて、私達を喰い殺そうとしたため遁れ帰ってきました。
どうにも方法がありません。」と報告した。これに石松和泉守は

「このように、民の労もかえりみず大勢呼び集めたというのに、空しく帰らせては近国までの嘲弄となるだろう。
海人ども、銘々に剣を腰に挿し、胸には鏡一面をかけて海へ入るのだ。そうすれば悪魚の害はない。
急ぎ海に入るべし。さもなくば、船中にて討ち殺す!」(イソキ海ニ入ヘシ、サナクハ船中ニテ討殺ス)

と騒ぎ立てたため、海人たちは「ここで殺されるのも、悪魚の餌になるのも同じ事だ。こうなったら海中に入って
鐘に縄をつけよう。」と、胸に鏡をかけ刀を腰に挿して入った所、辺りに近づく悪魚も居なくなり、思いのままに
縄を掛け、轆轤にて巻き上げ、数十艘の船に土民を乗せて、えいやえいやと引き揚げた。

ところが、不思議なるかな、今まで青天白日であったのが、俄に沖の方より黒雲しきりに起こり、黒風振動雷電
して、雨は車軸を流しければ(車軸のような太い雨脚の雨が降る事、大雨)、目前にあった船三艘は、
もやひの縄(船を他の船とつなぎ合わせた綱)が張り切れて、どこに行ったのか見えなくなった。

この有様を見た宗像興氏は
「この鐘を引き揚げて世の珍宝と成そうと思ったが、それを龍神が惜しみ給っている事間違いない。であれば
縄ともども切り捨てよ!」と命ぜられ、海人たちが縄を押し切った所、たちまちに風雨静まり、元のような
晴天と成った。

しばらく有って、海面に怪しげなものが浮かんだ。「また如何なる事があるのか」と、人々肝を冷やす所に
桂潟の海人が海中に飛び入ってこれを取って上がった。吉田飛騨守が受け取り見てみると、それは老翁の仮面で
あった。そこで興氏に差し上げた、興氏が能々この仮面を見ると、海底にあって幾千歳か経たものなのだろう、
裏表に牡蠣の付いた痕があった。
興氏はこの仮面を、宗像第一宮に納め神宝と成した。不思議な事どもであった。

聞いたところによるとこの鐘は、何れの代であるか、唐土より渡ってきた時、この浦にて唐船がくつがえり、
そして鐘も海底に沈んだ。故にこの場所を鐘ノ御崎と名付けたのである。
正三位義重(斯波義重)の歌に
『聞明かす 鐘の御崎のうきまくら 夢路も浪に幾よへたてん』
と詠んだのもこの浦の事である。

(宗像軍記)

鐘を引き揚げようとしただけでかなり大事に成っているお話



738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/09(木) 20:16:55.66 ID:DyO2kjce
>>737
みんな粋で良い話じゃないかw落ちも素晴らしい

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/09(木) 21:57:08.39 ID:IbpAwd2n
その鐘は今でもそこら辺にあるんじゃないか

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/09(木) 23:48:14.10 ID:vpX7xr8P
宗像三女神のような海神は
航海している人の持っているものに目をつけて嵐を起こして
その人がその貴重品を海に沈めない限り嵐を止めないというから
龍神よりも前に宗像三女神の罰だと思いそうだけど

【雑談】上杉謙信妻帯説

2020年01月08日 16:55

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/04(土) 19:41:06.40 ID:CrTJX3LW
最近の説では上杉謙信に嫁が居たらしいね。

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/04(土) 22:16:56.95 ID:8bUjbvfN
>>480
にわかには信じられんが何処の娘かとか分かるのかな

482 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/04(土) 22:30:22.93 ID:RBhA7eLc
年末に黒田氏がTVで発言してたがよくわからん
糞ブログが役に立たない記事書いてるが誰もわかってない

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/04(土) 23:33:46.35 ID:a9lZdG+q
謙信公童貞説×謙信公女性説×

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/07(火) 23:24:05.90 ID:ID8WEcUH
>>480
謙信が城代に御新造(正室)を呼ぶのを躊躇ったって記録があるとか、越後の死者名簿に謙信の正室らしき記録があるとか。ついでに信憑性は低いが兄・晴景の娘を娶ったって記録がある。エビデンスはないけど上杉憲政の娘とかだったら違和感ないなー



※管理人注
こちらの元ネタ(?)は、今福匡先生の『上杉謙信 「義の武将」の激情と苦悩』と思われます。上杉謙信という
戦国大名の実態を知る上でも非常に良い本だと思いますので、謙信妻帯説の内容をお知りになりたい方ともども、
興味の有る方は是非ご一読を。

上杉謙信 「義の武将」の激情と苦悩
https://www.seikaisha.co.jp/information/2018/10/23-post-uesugi.html

藤堂家の大阪夏の陣

2020年01月08日 16:51

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/08(水) 02:03:41.49 ID:EdAeePYM
明夏陣、大阪より京都を焼き払うという風聞が有り、大阪から京都への通路を防衛するため、
和泉様(藤堂高虎)は諸勢にさきがけて四月四日に淀に御着陣され、同二十五日まで淀に御在陣。
その間、淀城の御普請を仰せ付けになった。

権現様(徳川家康)、台徳院様(徳川秀忠)が京伏見へ着座成されたため、淀を四月二十六日に
御陣替えになり、五月五日に千塚に御着陣になった。

五月六日、八尾表に、木村長門守(重成)、長宗我部(盛親)の人数、約一万二千が打ち出た。
和泉様の左備は長宗我部の隊と戦い、終日の働きの末、ついに長宗我部は敗軍し大阪へと追い込めた。
この戦いで藤堂仁右衛門、藤堂勘解由、桑名彌次兵衛、山岡兵部、その他、侍数多討ち死にした、
右備は長宗我部の先手の者に木村長門守人数が加わった部隊と戦い、この戦いで首級数多討ち取った。
我が方においても、藤堂新七、藤堂玄蕃、その他、侍多く討ち死にした。
その夜はその場所、八尾に陣所を据えられた。

六日の合戦で御家中の物頭、その他侍数多討ち死にし、終日の戦のため人馬は疲れ切っていたので、
翌七日の御先手は、新手の人持ち衆へ仰せ付けられるようにと、両上様(家康、秀忠)に和泉様より
六日の晩にお理を仰せ上げられたため、七日は越前宰相(松平忠直)、加賀筑前殿(前田利常)を御先手に
仰せ付けられた。

七日には、敵味方ともに人数を打ち立て互いに鉄砲を撃たせていた。そのような中、台徳院様が御供四、五騎を
召し連れ和泉様の御陣所へ御成になり、戦の御手立てに関する御談合をなされ、御本陣へと帰られた。
その後、惣懸り(総攻撃)という事となり、御家中衆も殊の外稼ぎ、首数数多討ち取った。

両日の首数、都合三千七百七十三を討ち取った。

(藤堂家覺書)

藤堂家の大阪夏の陣について



週刊ブログ拍手ランキング【01/02~01/08】

2020年01月08日 12:11

01/02~01/08のブログ拍手ランキングです!


田村男猿の事 13

鷹に対する意見の相違 10

長宗我部盛親の改易と、浦戸一揆について 8
どうして信長の命を受けられようか 8

その用意をしている内に、和睦となった 7
長曾我部元親の降伏 7

和泉様御鑓先の敵は  6
彼の十の指を切り、額に丸の中に”秀頼”と書いた焼印を当てて 4


今週の1位はこちら!田村男猿の事です!
愛姫の従弟・田村男猿こと片倉良種のお話ですね。「男猿」という幼名ですが、名前の中に動物を入れるのは、その動物の
生命力をその子に宿し健強に育つことを祈念するため、などとも言われますね。また彼の生まれた慶長19年(1614)は寅年なので、
その対となる申(猿)を名に付けたということも有るかもしれません。日本においては、古事記には猿田毘古神があり、
また猿は日吉神の使者とされ(ここから豊臣秀吉の幼名”日吉丸”が創作されたとも)、比叡山の山王信仰にも繋がります。
当時に於いて子の名に猿を付ける事は、決して貶める意味合いはなく、むしろ寿ぐものであったと言えるでしょう。あるいは
猿神信仰において猿は神の使い、あるいは先導役であるように、伊達家を良き場所へ導いてほしいとの願いも込められたかも
しれませんね。
伊達政宗にとって、愛姫の実家であり、坂上田村麻呂末裔を称する田村家の存在は、自己の権威にとっても大変大きな物
だったらしく、これを非常に大切にしています。このお話も、その方針に連なるものと言えるかもしれません。

2位はこちら!鷹に対する意見の相違です!
これはいろいろな解釈の出来るお話でもありますね。コメントにも有ったように、森忠政の過度の鷹の愛好を、金森長近が
窘めたとも取れますし、また戦国期においては、鷹や馬のやりとりが戦国大名同士の友好を示す行為として捉えられており、
或いは忠政の言葉に、政治的、外交的な匂いを感じたのかもしれません。このお話の年代が投稿者様の推定どおりなら、
家康が征夷大将軍任官以降とはいえ、慶長10年(1605)に秀忠に将軍職を譲った際には、秀忠への対面を豊臣秀頼が
拒否するなど、徳川体制に関しては不安定要素も内包していた時期であって、有る種の生臭さを感じさせるものではあった
かもしれませんね。そんな事を考えさせてくれた逸話でした。

今週管理人が気になった逸話はこちら!どうして信長の命を受けられようかです!
ここで興味深いのは、斎藤利三の兄である石谷頼辰の名が出ているところでしょうね。石谷頼辰といえば、父光政と共に
室町幕府奉公衆として、将軍の側で活動しており、また妹は長曾我部元親正妻でありまして、近年新史料として報道された
「石谷家文書」を残した人物でもあります。
これは信長の四国政策についてのみならず、幕府奉公衆の実態を見る上でも非常に貴重な史料となっています。
ご興味のある人は、その47通全てを写真と翻刻とで掲載されたものが出版されていますので、是非読んでみて下さい。

石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

彼の十の指を切り、額に丸の中に”秀頼”と書いた焼印を当てて

2020年01月07日 15:14

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/07(火) 11:17:33.65 ID:TMu6ehAY
大阪冬の陣で、大阪城を取り囲んでいる最中、城中よりのそくたく(属託:報酬を払って依頼すること)にて、
秀頼公より和泉様(藤堂高虎)の元へ御書状を、吉河瀬兵衛と申す者が持ち参った。
和泉様はこれを直ぐに権現様(徳川家康)の元に持ち参った。その書状には

『最前より約束の如く、東の人数を引き出した事、秀頼公は御感に思召して居られる。うしろぎり(寝返り)の
手立が肝要である。御褒美の儀は望み次第である。』

このように書かれていた。権現様はこれを見ると
「良き臣下を討ち果たさせるための、こういった調略は昔から大唐にも日本にもあったものだ。
和泉については、昔からその心を知っている。別心などはありえない。彼は一筋に私の為を考えている。
だからこそ、彼を討ち果たさせるため調略を仕掛けたのであろう。」

そうお考えに成り、この書状を持ち来た瀬兵衛についへ和泉様へ
「彼の十の指を切り、額に丸の中に”秀頼”と書いた焼印を当てて城中に追い返すように。」
との御意を仰せになった。和泉様はその御錠の通りに仰せ付け、大野主馬持口であるせんばの門前まで
送り遣わせた。

(藤堂家覺書)

藤堂高虎に対する大阪方の調略について。



734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/08(水) 09:15:27.34 ID:wuaUlWLR
秀頼焼印は夏の陣まで活躍してそう

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/08(水) 13:20:37.67 ID:9coiYBvL
>>733
あの時代に指10本切るって酷いな、その後どうなったんだろう…。

その用意をしている内に、和睦となった

2020年01月06日 17:21

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/05(日) 23:32:00.28 ID:Np6vwiTb
慶長十九年、大阪陣の刻、和泉様(藤堂高虎)は先手をお受け取りに成り、諸勢の動向に御かまいなく
河内の国府へ十月二十六日に御討ち出られ、それより次第次第に陣替えがあり、和泉様の仕寄場は
天王寺口で、これに対する城中黒川の持口は大野主馬(治房)、矢倉は木村長門守(重成)の持口であった。

この場所は大阪城惣構の近くで、築山を築き井楼を上げ、火矢、鉄砲、石火矢を油断なく昼夜撃たせた。
このため木村長門守の持口である矢倉は打ち破られ、大阪城の人々がそこから出入りする事は出来なくなった。
また、金掘を入れ、堀きわまで掘りつけた。その上竹束も堀きわまで七間(13メートル弱)まで付け寄せた。

極月(十二月)二十日の夜、堀の中に設置されていた柵を引き取るようにと和泉様が仰せ付けられ、
その用意をしている内に、和睦となった。

(藤堂家覺書)

藤堂家の覚書にある大阪冬の陣の記録。大阪城惣構の中への突撃準備が整うまさに直前に和睦がなされたと
ありますね。



489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/05(日) 23:55:38.58 ID:10v8Qglc
お話なんかじゃ攻めあぐねての和睦ってテイストにされやすいけど
実際はもう落城のボーダーラインぎりぎりね

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/06(月) 00:23:26.10 ID:vGqvWph/
真田丸に仕掛けて大敗北した後は、にらみ合い &大砲撃ちまくりというのが通説だけど、
当然、ただにらんでいるだけじゃないわな。