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我等が首を切られないように

2020年02月19日 17:52

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/19(水) 15:18:10.60 ID:FZ2wos7X
長(続連)、神保(長住ヵ)が相謀り、上杉謙信と取合を始めんとする時、長は安土へ行き、織田信長に謁して
このように申し上げた

「ご存知のように、上杉輝虎は強き将であり、我々両人が相約し、敵対の色を見せれば、無二無三に押し来て
我等が首を切られることは目前であります。彼は大身である事と言い、その強さといい、殊に弓矢の道に
とっては神変とも申すべき名将ですから、我等の僅かな小勢ではどう考えても叶いません。
そのようにして負けた場合、我等は今年生まれた児童まで、越後衆に殺されてしまい、根を絶ち葉を枯ら
されるでしょう。

ですのでその時は、信長公ご自身の出馬があるか、そうでなければ柴田(勝家)、羽柴(秀吉)等の
数将を差し越され、我等が首を切られないように防戦されるとの事であれば、我々は二の足を踏むこと無く、
一筋に謙信と取合を始めます。

しかしそう出来ないのであれば。我等は妻子を世に立てるために艱難を凌いでいるのですから、輝虎と
対陣することは出来ません。」

そう、面と向かって申し上げた。信長はこれに大いに納得し、即座に誓紙を書いて長に与えた。
これによって長続連も二心なく安土の味方となることを決めた。

松隣夜話

いわゆる手取川合戦に至る、信長による長続連への援軍派遣を決めた時のお話。



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週刊ブログ拍手ランキング【02/13~/19】

2020年02月19日 17:48

02/13~/19のブログ拍手ランキングです


これは信玄を敬するためではない、弓矢軍神への礼である。 14

この下には水道があるのに 9

その身利根才覚に優れ 8
国民は一般に貧窮にして、貧窮を恥辱と思わず 7

【雑談】森長可も名君になった可能性 6
席次の公事 6
龍泉寺の事 6

我が心を証人とする 5
池田輝政、関ヶ原本戦での配置について 5
鎧淵由来 5



今週の1位はこちら!これは信玄を敬するためではない、弓矢軍神への礼である。です!
武田信玄と上杉謙信を宿命のライバル、とする考え方は割と早い段階から存在したらしく、その萌芽は甲陽軍鑑などでも既に
見られますね。彼らの戦いを龍虎のそれとする見方は江戸期の甲越軍記ものに表れるわけですが、あるいは同時代にも、
そのような観察は有ったかも知れません。
このお話もそういった認識の上に生まれたものだと思われますが、ここで面白いのは謙信が、武田信玄という個人の
の死そのものを悼むのではなく、彼の軍事的才能がこの世から消えたことを弓矢軍神に惜しむ、といった理論で信玄の死を
追悼する所ですね。言ってしまえばツンデレ理論になるのですがw信玄と謙信の戦いとは巨大な才能と才能のせめぎ合いで
あったという認識も示されているように思います。その上で、宿敵であった武田信玄であってもその死を悼む謙信に、後世の
「義の武将」「軍神」の原型を感じることも出来るかと思います。

2位はこちら!この下には水道があるのにです!
これは、このブログでも見慣れた”ろくでなし”(六左衛門)ではなく、後世の”名君”水野勝成の逸話ですね。ここを見に来られる
方は皆さんご存知とは思いますが、勝成は長い流浪期を経て水野家当主に復帰すると、それまでの荒くれた存在から一変して、
当時としても模範的な君主と成ったと言われます。その事について、水野勝成自身は「流浪した頃の下々との交流が役に立った。」
と言っていたというお話もあったりしますが、ともかく、江戸初期には一種の規範的人物としても見られていたわけですね。
このお話で、上水道は当然、江戸に生活用水を引くものですから、その上を通れば、ゴミやホコリが落ちる可能性がある上、
「足蹴にする」という意味合いも含まれる可能性があります。そういった事に、譜代の中でもトップクラスと言っていい勝成が
配慮するというのはまさに「規範的」であり、江戸に住む多くの武士に、守るべきマナーを伝え知らしめる、そういった意味合いの有る
逸話だと思いました。そしてそういう役割を受け持つこともまた「名君」の機能なのでしょうねw

今週管理人が気になったお話はこちら!国民は一般に貧窮にして、貧窮を恥辱と思わずです!
フランシスコ・ザビエルによる薩摩の人々についての観察ですね。
「武士は貧しいが尊敬されている」という部分、これは宣教師の記録からは、九州以外でも等しく観察されていますね。
何故に武士が尊敬を受けているかと言えば、彼らが「自力救済」を体現した存在であったためでしょう。もっと平たく言えば
「命より大切な自身のメンツを守る意志と手段を持った存在」といった所でしょうか。
武士は自分の誇り、メンツが傷つけられたと考えた時は躊躇なく武器を以て、一族郎党をも引き連れて戦い、事によれば
自害してまでもそれを守り抜くわけです。武士に限らず中世の日本人全体にそういう志向がありましたが、その中でも武士は
そのチャンピオンである、と見られていたのでしょう。だからこそ裕福な商人であっても、武士を尊敬するのです。
一方で武士がそのようであったこそ紛争も多発し、喧嘩両成敗法などが生まれ近世への筋道を作っていくわけですが、
そういった「武士」の歴史についても思いを馳せさせる、そんな内容だとも思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

我が心を証人とする

2020年02月18日 18:44

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/18(火) 14:54:43.28 ID:tlsEyySc
甲州浪人の落合彦介上杉謙信公の御下へ参り、度々走り廻り心ばせある働きを仕ったとして賞禄を給わり、
御側二十八人の内に加えられた。

ある時、謙信公が槍間において彦介を御覧になり、このように言われた
武田勝頼の小姓である阿部加賀が、十余年以前に川中島にて汝を討ったとして、武田信玄はこれを悦び、
加賀に褒美を与えたという旨を、武笠という者が語ったのだが、これは阿部加賀守が見間違えたのか、
また余りにそう有ってほしいと、無い事を作って言ったのか、どちらにしても武田家中にてこれに過ぎる
大いなる弱みはない。

『三人行則有吾師其不善者而改之』という。我が配下の者達も、深くこれを思い相嗜むべきである。」
(論語・述而第七より「三人行、必有我師焉。択其善者而従之、其不善者而改之」(三人で同行すれば、
必ず自分にとっての師となる人がいる。善き人を選んでこれに従い、不善である人については、これを
反面教師として自身を改めよう。))

そのように若き者達に、彦介、武笠を例として御異見を加えられ、またこのようにも仰せになった

「一切のこと、その中でも武辺については、有体にして我が心を証人とするより外は無い。
心を証とせずして取り囃し、言い成したる事は、必ず弱き事である。
結構なる働きをしたにもかかわらず其の名隠れ埋もれたとしても、心を証としていれば恨は無い。
君子は独りを慎むものだと聞いている。」

松隣夜話



【雑談】森長可も名君になった可能性

2020年02月17日 16:16

森長可   
647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/15(土) 11:00:25.93 ID:MsjspBDx
水野勝成の晩年の名君っぷりを見ると、森長可も名君になった可能性結構あるような気が。
少なくとも、森忠政みたいに外面だけはいいけど内政ぼろぼろということはないような気がする。

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 00:32:21.86 ID:mq716C2i
>>647
そう考えると長可の遺言の金山とか森家の跡を仙千代に継がさないでってのも
家族に武家なんて継がせたくないとかそんなんじゃなく
仙千代あいつやばいやつだから無茶苦茶しかねんっていうすごく実を見た判断だったんかなぁ

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 00:50:05.41 ID:jacqQtHU
坊丸力丸はどんな人だったんだろうね?
一番影が薄いお兄ちゃんもw

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 14:32:59.50 ID:MEjxNpV7
長可も忠政も癖が強いから単に合わなかっただけと思うw

どっちも不要の波風と人間関係に角立てまくりながら
やることやった上うまく乗り越えて結果オーライで治る
という評価の難しい人物

家臣団が優秀だっただけかも知れんけど

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 16:50:17.35 ID:zL0mkG8W
>>653
忠政は川中島でも津山でも暴政やらかした実績あるぞ。
長可は芋川一揆を強引に鎮圧したけど、あれは状況が状況だったし、
それ以外に苛政とか暴政と言えるようなものはあまり見当たらない。

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 17:55:49.09 ID:jacqQtHU
>>653
罪の無い門番を殺したりするくらいだよね

国民は一般に貧窮にして、貧窮を恥辱と思わず

2020年02月17日 16:14

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/17(月) 01:06:10.40 ID:4C6ccHFc
出てると思ったらまとめサイトで見当たらなかったザビエルの有名な日本評

「此国(薩摩)の人は礼節を重んじ、一般に善良にして悪心を懐かず、何よりも名誉を大切とするは驚く
べきことなり。国民は一般に貧窮にして、武士の間にも武士にあらざる者の間にも貧窮を恥辱と思わず。
彼等の間には基督教諸国に有りと思われざるもの一つあり、即ち武士は甚だ貧しきも、武士にあらずして
大なる富を有する者之を大に尊敬して、甚だ富裕なる者に対するが如くすることなり。又武士甚だ貧しく
して多額の財産を贈らるるも、決して武土にあらざる階級の者と結婚することなし。賤しき階級の者と結
婚する時はその名誉を失うべしと考うるがゆえなり、彼等は此の如く富よりも名誉を重んず。此国の人は
互に礼儀を尽し、又武器を珍重し、大に之に信頼せり。彼等は常に剣及び短剣を帯し、貴族も賤しき者も
皆一四歳より既に剣及び短剣を帯せり。彼等は少しも侮辱又は軽蔑の言を忍ばず。武士にあらざる者は大
に武士を尊敬す。又武士は皆領主に仕うることを喜び、善く之に服従す。思うに此の如くせざれば名誉を
失うと考うるが故にして、之をなさざるが為め領主より罰を被ることを恐るるが故にあらざるが如し」

「当地方は物資少く、我等の肉体に過剰の物を与えんと欲するも土地之を許さず。彼等は家畜を殺して食
うことなく、時々魚を食す。米及び麦あれども少量にして、野菜は多く果物は少しく産す。当国民が甚だ
健康にして多数の老人あるは驚くべきことなり。」

天文十八年十月十六日 鹿児島よりだされた手紙なので実質は薩摩評
貧乏とか米麦が少なく野菜が多いとか大内さんとこいった時はどう思ったんだろう



660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/17(月) 02:53:50.59 ID:usjzJ66B
薩摩がまともに豊かになったのって、明治入ってから?

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/17(月) 05:02:13.80 ID:jKkfEPNC
サツマイモからかな

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/17(月) 10:25:41.30 ID:Cq0OL7Cx
薩摩藩なら調所広郷の改革と借金踏み倒しと密貿易辺りからじゃなかった?
薩摩の下々まで豊かになったのはー、いつ頃なんだろね

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/17(月) 10:37:58.35 ID:Tdcr8Q4J
昨晩畑にクソしたら次の日に掘り出されて芋と一緒に焼かれて御膳に出たって話は鹿児島の民話だったよな

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/17(月) 21:27:26.71 ID:4C6ccHFc
>>662
江戸時代に旅行に来た医師の日誌に寄ればさつまいもが到来してからは食事・栄養面的には全国でも豊かなほう
ただし、島津 重豪登板後財政状態が悪化して税金高くなっていくので、さつまいもからその頃あたりがましだったのでは?
明治以後?とりえだった貿易港としての収入が無くなって砂糖もライバル増えて西南戦争もおこりました

席次の公事

2020年02月16日 16:09

651 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 14:19:53.32 ID:9kZo4FPV
越後衆である森出雲という侍と、佐渡先方の槇伊賀という武辺が公事(訴訟)を致し、目安を捧いだ。
これに対し、両人とも大身の侍であり、殊に武道の出入り(度々武功を成した人物)であるので、
奉行衆も遠慮を成し、上杉謙信公の御前に後披露をした。

その訴訟の内容は、これは越後の風にて、侍大将の采弊を下された場合を除き、それ以外の侍が
私に参会する時は、老若高下を問わず、先代の長尾為景以来の後感状を多く持った侍を以て上座としていた。
感状を同数持っていた場合は領地加恩の多少で選び、さらに領地も同分の場合は年齢によって
崇敬する定めであった。

折しも春日山蓮華宝院にて、近辺の侍数名に振舞が出された事があった。
ここの一の上座は侍大将の柴田内膳、その次は同じく侍大将の長尾小四郎、三番以降は感状の数によって
座を定められた。
越後の侍である森出雲守は年齢六十余にて、感状を二十三まで取って持ちたる覚えの侍であり、彼が
侍大将の次に座った。

その所に、佐渡庄内衆の槇伊賀という侍が後から走り来て座席を見廻して後、はるか下座に座った。
彼も覚えの侍にて人に知られた者であったため、その場の各々彼に向かって「伊賀殿はそのような場所に座す
人ではない、雲州殿の次に座られよ。」と申した。こうして些か挨拶有って後、伊賀守は申した

「雲州殿は故為景公、当代謙信公両殿の御感を二十三までお取りになったと聞き承っております。
尤も冥加の覚え美々しき御事であります。

さりながら、それがしも近年謙信公の元に罷り出て、所々の御陣に御供いたし、ここ十六年来、御感状を
二十一戴いております。その中でも越前衆との御取合の時には、一日の内に十三度の競合いがあった中で、
私は十一度の一番鑓を仕り、甲冑を帯びた侍を九人討って首を得、謙信公自ら『天下無双』とお書きになられた
御感状一つ取り申しております。

御当家の御座席は手柄次第だそうなので申しますが、その感状の数を言えば、私は雲州殿に二つ遅れております。
しかし手柄について言うなら、私のほうが増しているのではないでしょうか?
先ず以て、天下無双の四文字が書かれた御感状は、おおよそ常の御感状五つ六つにも替えがたいものです。
その上、雲州殿御所持の御感状は、過半が御父たる為景公より御頂戴したものだと承ります。
私は全て当代の謙信公より戴いたものであり、同じ事とは申しながら、謙信公より御感状を戴くことは稀であり、
それが貴重であることは、自ずから百重千倍であります。
謙信公は知行俸禄を惜しまれることはありませんが、御墨付を下されるのは常々には無いからです。

但し、これは先ず自分の主張に過ぎません。雲州殿にも、如何様なる大切の御感状が有るのかも私は存じません。
雲州殿は長尾譜代であり、私は先方にて十六年来の者でありますから、それを以て式対を仕るという事であれば、
私は一口も愚意を申しません。」
そう、礼を厚く申した。

森出雲守はこれを聞くと
「伊賀殿の事は兼ねてから承っていましたが、是程委細に聞いたのは只今が初めてです。さてもそのように
稀なる御感状を帯られているとは。
先ず以て、十三度の競合いで十一度まで一番鑓を合わせられたという事ですが、まことに天下無双と言うべき
御覚えでしょう。何故ならば、おおよそ取合の時、相手が弱兵であればどう考えても毎回の一番鑓は成し難い
ものです。敵が弱兵であれば味方の中から進む者も多くなり、一人に一番鑓の功を渡さないためです。
一方、相手が剛強で、少しでも出ればそのまま命を取られるほどに強く見える時は味方は進みかね、抜け出る
者もありません。この場合は、心がけ次第で幾度も一番鑓を一人にて仕る事が出来ます。
これらから判断すると、越前の御敵はなかなかの剛敵であったのでしょう。

652 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 14:21:00.27 ID:9kZo4FPV
その頃私は前橋に居りましたから、越前衆と手を合わせたことがなく、実際を存じませんが、しかしながら
謙信公御一将の御感状を二十一まで、十六年の間に御頂戴された上は何を争いましょうか。
強敵あり弱敵あり、危うき場あり安き場あり、武辺は時の仕合でありますから、後日の褒貶というものは
当たりかねるものです。感状において私も申そうと思えば、少しは意見を持ち合わせていますが、
大体において私の存ずる所はそういう物ではなく、孟子には及ばずながら、些かも誇らぬ意智こそ貴いと
思っております。これは先ず当座の戯言ですが、座席の事は、様々に稀なる御感状を御持ちなのですから、
どうぞこちらにお座り直して下さい。その他の御方にも、武辺を申すなら私など申し及ぶ御方は無いでしょうが、
私は皆以前よりの旧例にて、御上座に罷り有るだけですから、式対には及びません。伊賀殿の御次に
移りましょう。」

そう言って座を立ち伊賀に「どうぞこちらへ」と促した。伊賀守は大いに恥じ入り
「さては年寄りに不覚の義を申し出してしまい、御座敷の妨げとも成ってしまいました。
御譜代でもあり、事に御感状の数も二つまで多く所持しておられるのです。先程の慮外は是非とも御免なさって
下さい。私はどうかこの座席に差し置かれて下さい。」

そう断りを申したが、これに対し出雲は全く承引せず、伊賀に強いて上座を請うた。この応酬は止まず、
その座にあった侍大将の柴田、長尾も扱いかねて、後日謙信公への御披露に及んだのである。

謙信公は余事と異なり、武辺の出入りに関しては深く評議を遂げ、御入念を以てされていたので、
これをお聞き召されると、先ず七組衆、十一人衆、二十一人衆を召され審議の上で、このように仰せになった

「森出雲は感状多く、殊に譜代覚えの者であり、下座に着く謂れはない。
また槇伊賀は感状の数は劣っていても、一日の内に十一度まで一番鑓を合わせ九人の侍を討ち天下無双という
感状を取った事、これは名誉であるからこれも下座に着き難い。
よって両者別れ、対座有るべし。

その上で、今回双方が口説(口論)に及ばず、謙譲を第一にして強みある論談をなし、その中でも
出雲は最初からの応対における慇懃の様子、考えうるに非常に結構な式対であった。」

こうして両人同座に召され、森出雲には信國の刀、槇伊賀には大原實守の脇差を賜った。
この時謙信公は

「両腰とも、この謙信が度々手づから人を斬った刀であり、金良きものである。」との御言葉があった。
(乍両腰謙信度々手つから人を切り刀金よしとの御言葉あり)

(松隣夜話)

上杉家における席座についての公事のお話



654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 15:54:31.54 ID:a9448HmF
>>651
いつ斬られるかとハラハラした

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 19:13:54.19 ID:qg6vK/89
>>652
面倒くさい、ただただ、面倒くさい

龍泉寺の事

2020年02月15日 13:58

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/15(土) 02:29:54.96 ID:hq79ljkl
https://ikura.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1350554902/466

これにあった「兄弟の絆」に関係する話
この大田原資清さん、兄を呼び寺を建て大田原氏の菩提寺にしたとあるけど

当然ながら、その前には別のお寺が菩提寺だったわけで
その寺はと言うと「龍泉寺」

過去の大俵氏の水口館への移転の際にも一緒に移転しており
大俵氏からは「菩提寺」と「祈願所」として大事にされてたらしい

そしてその後の資清さんが新たに城を建てた際にも三の丸に移され
菩提寺が光真寺に移ったあとも、
大田原氏は代々「祈願所」として残し大事にしたらしく

「龍泉寺」は大田原氏ゆかりの遺品を遺していて
今も大田原城跡のそばに寺があったり
何気に大田原氏は主に三兄弟とその父親がアレだが
身内は大事にする一族だったようだ



この下には水道があるのに

2020年02月15日 13:57

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/15(土) 02:54:34.70 ID:hq79ljkl
ある時、水野勝成が駕籠に乗り城下町を移動してた際のこと

駕籠が武家町に差し掛かり移動してた際、
駕籠の者が上水道の上を通ったのを見て

勝成は「この下には御家中の侍達が飲む水道があるのに、どうして通ったのか?」といい、
「勿体ない事である、これからは脇を通りなさい」とその場で水をいただいた。
それからは上水道の上ではなく、その左右の脇を通るようになった。

宋休様御出語

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/19(水) 06:31:35.22 ID:0K6Weonq
>>646
なお、この話

上水道の上に乗れたことから
福山の上水道が、当時暗渠化してたのでは?との証拠でもあって
当時の上水道の研究では、引用されがちな話でもあり

福山旧水道のWikiでも
水路は道の中央にあった事が語られたり
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B1%B1%E6%97%A7%E6%B0%B4%E9%81%93




647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/15(土) 11:00:25.93 ID:MsjspBDx
水野勝成の晩年の名君っぷりを見ると、森長可も名君になった可能性結構あるような気が。
少なくとも、森忠政みたいに外面だけはいいけど内政ぼろぼろということはないような気がする。

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/15(土) 11:40:07.63 ID:W0T7xOiX
駕籠の者が叩き斬られなくて良かった
年取って見事な分別持つようになったな

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 00:32:21.86 ID:mq716C2i
>>647
そう考えると長可の遺言の金山とか森家の跡を仙千代に継がさないでってのも
家族に武家なんて継がせたくないとかそんなんじゃなく
仙千代あいつやばいやつだから無茶苦茶しかねんっていうすごく実を見た判断だったんかなぁ

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 00:50:05.41 ID:jacqQtHU
坊丸力丸はどんな人だったんだろうね?
一番影が薄いお兄ちゃんもw

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 14:32:59.50 ID:MEjxNpV7
長可も忠政も癖が強いから単に合わなかっただけと思うw

どっちも不要の波風と人間関係に角立てまくりながら
やることやった上うまく乗り越えて結果オーライで治る
という評価の難しい人物

家臣団が優秀だっただけかも知れんけど

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 16:50:17.35 ID:zL0mkG8W
>>653
忠政は川中島でも津山でも暴政やらかした実績あるぞ。
長可は芋川一揆を強引に鎮圧したけど、あれは状況が状況だったし、
それ以外に苛政とか暴政と言えるようなものはあまり見当たらない。

池田輝政、関ヶ原本戦での配置について

2020年02月15日 13:56

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/14(金) 22:18:31.52 ID:5WMuj2xH
池田輝政、関ヶ原本戦での配置について


(関ヶ原の戦いのとき)14日に家康は赤坂岡山に着陣し、池田輝政を召された。

明日の合戦には毛利秀元、吉川広家などが南宮山に陣し、内応があるものの
未だに実否(真偽)が分からないので、それに対して陣するようにとの命であった。

そのとき輝政は南宮山の敵を迎え撃つことは本意ではなかったので
願わくは先鋒に進み、石田、島津などと戦うことを望まれたが許されなかった。

「(輝政は)我の後陣なので、ぜひともこれに従うように」(原文:我後陣なればまげてこれにしたがふべし)
と(家康の)仰せがあったので、仕方がなくこれに従った。


――『寛政重修諸家譜

後ろを任されるのは名誉なんだけど……という話。



855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/14(金) 22:32:38.01 ID:do7+uUyC
それ良い話?悪い話?

鎧淵由来

2020年02月15日 13:56

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/15(土) 00:52:53.38 ID:7kNkFxgR
天正壬午の乱の折

北条に与していた大村伊賀守は徳川軍を相手に大野の砦に籠もっていた
しかし、奮戦の甲斐無く砦を落とされ、大村伊賀守は自分が着ていた鎧を笛吹川に投げ捨て自刃した

後日、大村伊賀守が自刃した場所に家康自ら巡検に来たところ、その大村伊賀守が捨てた鎧は沈んでおらず、不思議と川に浮いて留まっているのを見つけ、家康はそこの淵を「鎧淵」と名付けた

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/15(土) 00:55:46.41 ID:7kNkFxgR
出典は中牧合戦録の写本を現代語訳した『中牧城と大野の砦』です



858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 00:24:08.49 ID:mq716C2i
後継者にならない秀康にお義、後継者になる秀忠にお長とか
いい話の大蔵って盗賊切ったからその刀大蔵って名前でどうとかもそうだけど
名付け方そのまんますぎるやろ家康

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/16(日) 16:56:11.46 ID:ePEqh7qg
ヒント:母親の身分

その身利根才覚に優れ

2020年02月14日 16:49

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/13(木) 20:36:06.84 ID:UALFhqby
その身利根才覚に優れ


元和七年に毛利輝元が嫡男・秀就に宛てた二十一箇条の訓戒状の中で
改易された福島正則について触れているので抜粋&意訳。

一、福島左衛門(正則)などは、その身利根才覚に優れ上様の御前から漏れることが
  ないような方でしたが、国での行儀が悪いことを、内々に(上様が)お聞きに
  なってしまいましたので、かくのごとく(改易に)なりました。

――『毛利家文書 一一五三号』



853 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/14(金) 20:48:37.35 ID:HXa/yUPB
        _,.... -─-r‐- 、 __
       /,シ/ィ /lj !ヽヽヽヽ\
     // / ///l|ハl | ヽ丶ヽヽヽ
    ,.'// 川 | | |l-ゝ! 、 ! | l l | l ヽ
    !イ //!j !l | l、ゝ==、` lj y'jヾjノ
     | !/,.- 、!|ヾ!` ヽヾ;;シ   ィ;}'´
    l ハ rソミ、    `''"  丶ヽ
    ヽ!j,ヘ、ヽ,!   ""     _   j
       ゞ彡ゝ、  u     /
       | rヽ`フヽ     _____/
      ! lハYゝ,l     !
     j /∠ミヽ ヽ、_   ゝ- 、
      l/ l    ヽミΞ=-ニヽ_!lト、

   御前賀 夕菜(1991~ 日本)

これは信玄を敬するためではない、弓矢軍神への礼である。

2020年02月13日 17:35

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/13(木) 01:38:39.52 ID:iFHOP/rW
天正元年四月に武田信玄が死去したとの報が、同年九月、あたかありの阿達山より書付を以て注進された。
上杉謙信公は大いに惜しまれ

「子期去て伯牙留琴、吾天下に無千音」(鍾子期が去ってしまったというのに、伯牙である私は琴を留めている、
私は天下に知音を無くしてしまった。)(『断琴』『知音』の故事)

と、御涙を流された。そして荒尾一角、河田豊前を召され

「信玄は天下の英雄であった。今日より三日の間、府中の侍の家々は、音楽を禁じる。農民、商家はその沙汰に及ばず。
これは信玄を敬するためではない、弓矢軍神への礼である。
侍所より触れ渡すというのはあまりに大げさであるから、両人より縁々に物語して申し聞かせよ。」

と仰せになった。

松隣夜話



越相一和と長尾政景誅殺

2020年02月12日 17:21

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/12(水) 01:56:21.40 ID:4qsmf9PP
永禄十三年正月より、北条氏康公は越後の止観という僧と、小田原海岸寺も住持を中人として、
上杉謙信公と無事(和睦)を成し、御末子三郎殿を越後へなりとも前橋になりとも、差し越す旨を、
北條丹後(高広)、同伊豆守方まで仰せになった。
北條は直ぐに越後へ戻り、諸老方と相談の上、謙信公へ申し上げると、無事和睦は整った。

この時謙信は
「さしもの氏康の御息この方に申し請けるのに、人質というのは然るべからず。」と有り、養子と
される事に定まった。

先ず前橋まで罷り越し、彼の地に於いて対面をなされた。両家の侍各々会集し、慇懃の儀式であった。
この時北条家側は、氏康が病中であり、嫡子の氏政、および源蔵(氏照)が罷り越して在った。

北条三郎殿が養子になった事について、上田の長尾政景とその家門の者達は悦ばなかった。
この政景という人物は、上杉景勝公の実父であり、去々年以来その景勝が謙信の養子になっている故であった。

景勝は若年と言えども謙信の気持ちをよく察し、三郎との関係も好かった。
しかし謙信公は、政景が内々随わない事について奇怪に思われ、殿中に召し出すと長尾小四郎(景直)に命じて
成敗させた。そして政景の親族家臣、上下二百余人が政景の館に立て籠もって戦い、死んだ。
この討ち手もまた長尾小四郎であった。

松隣夜話

ここでは長尾政景が謙信に誅殺されているのですね。一族ごと。



849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/12(水) 16:04:06.97 ID:VCnzYYiH
>>848
後継指名しない悪い話だな

週刊ブログ拍手ランキング【02/06~/12】

2020年02月12日 15:49

02/06~/12のブログ拍手ランキングです


【ニュース】山形市 最上義光歴史館開館30周年記念 「復元!!最上義光所用鉄製指揮棒」 12

本多忠信・正盛の不幸 9

【雑談】織田信長についてのことなど 8
今日は汝と相討ちした 8

伊奈(イナ)忠次の話 7
謙信等の、諸将と自己についての評 7
青沼新九郎の事 7

一等を被免許、切腹なり 6
御両君の御心合し候 6
十の内八は大賢人、残る二つは大悪人 5
松永久秀が楠正虎に送った書状 4


今週の1位はこちら!【ニュース】山形市 最上義光歴史館開館30周年記念 「復元!!最上義光所用鉄製指揮棒」です!
最上義光の「鉄製指揮棒」が復元されたといニュース。これを最上家改易の後山形に入った鳥居家が発見して
最上家に返却した、というのも良いお話ですね。鳥居家の側でこちらの鉄棒の価値を認識していた、というお話でもありますし、
また山形改易後も、最上家が後世までしっかりと存続していたことも表しています。
ところでこちらは指揮棒ですが、義光が使ったと云われる「鉄棒」という武器、これは南北朝期に全盛を向かえたと云われる
打物騎兵(打撃武器を用いる騎兵)が好んだ武器の一つと言われます。最上家は勿論、南北朝期に活躍した斯波氏の一族で、
南北朝争乱の結果として山形に定着した勢力ですから、そのような「南北朝由来」の武器を使うことは、単純な武勇だけでなく
その由来を可視化させる効果もあったのではないか、なんてことも思ったりします。
最上家、出羽の歴史について様々に思いを馳せる事のできる、そんなニュースだとも思いました。実物を是非見てみたいです!

2位はこちら!本多忠信・正盛の不幸です!
本多忠信・正盛父子の物語。しかし同じ死といえども、義父は戦乱の中での謀殺、息子は日光社造営に関する責任をとって、
という違いは、既に時代性、武士のあり方が大きく変化した事を見せてくれている気がします。
コメントでも有りましたが、山城宮内の切腹は無念腹、指腹の類なのでしょうね。遺恨を表明した上で切腹した場合、その主君は
切腹した者の遺恨を代行する必要がある、という考え方が中世には一種の常識だったようで、これは近世に入っても暫く存続
していました。例えば福島正則が関ヶ原の後、家臣・佐久間嘉右衛門が日岡の関の通過を許可されずこれを恥辱として切腹した
時、関の管理者であった伊奈昭綱の切腹を要求したのは、この慣習の一環であったと個人的に考えています。また実際、
江戸期にも、これを藩法の中に記載している大名家も、東北などを中心に有ったようですね、その意味では後者の事件も、
近世的世の中の出来事ではあるが、意識の上で中世が濃厚に残っていた、と理解できるかも知れません。
また九鬼家とこの松平氏との関係など、色々と考えさせてくれる、そんな内容だとも思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!謙信等の、諸将と自己についての評です!
この記事は、謙信39歳の時の事とありますので、コメントにも有りましたが永禄12年頃という事になります。
ただ、この松隣夜話自体は、少なくとも近世初期の成立と見ていいと思います。所々甲陽軍鑑からの影響も見られますし、
それ以降のものだと考えるべきなのでしょう。ここにある諸将に対する評価も、その後の歴史を知った上での描写として
把握したほうがいいと思います。逆にそれを頭に入れた上で読んだほうが、興味深く感じられるような気がします。
その上で、上杉謙信という人が天下への望みを持たない、いわゆる「義将」としての原型が既に顕れている事、非常に
興味深いと思います。少なくとも松隣夜話が編纂されて時点で謙信についてそういう発想があったのだという部分で、
謙信という人が世の中にどのように印象されていたのかが見えてくるように思います。
謙信も含め、世の中における諸将の印象という意味でも、面白い記事だと思いました。


今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

追記
SnapCrab_No-2004.jpg
このように記事数が、「12345」という続きの数字に至りました!
ここまで積み重ねることが出来たのも本当に、逸話を投稿してくださる本スレの皆さん、そしてこのブログを見て下さる皆さんの
お陰です。心より御礼申し上げます。
これからもどうぞ、宜しくお願いいたします!

一等を被免許、切腹なり

2020年02月11日 12:37

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/10(月) 20:25:48.82 ID:UwI2qVT+
越後における科人の御仕置において、最も思い懲罰は、刀脇差を召し取り、一代の間身に帯びさせないという
物であった。(侍以外はまた別である)
二番目が死罪、三番目が追放、四番に所領没収、五番が与力同心を召し放ちにすること、六番が蟄居する事、
等であった。

長尾右衛門佐という侍大将が、聊か無沙汰の行跡が有ったために、上杉謙信公はこれを大いに咎められ、
彼の与力同心を召し放ち、所領を取り上げ、その上で「両腰を帯びぬように」と仰せ付けになった。

これに対し、右衛門佐の親である庵原之介より、「右衛門佐は御家に対し戦忠これ有る」旨の申し立てがあり、
「どうか生害を申し付けて頂きたい。」との詫び言を申し上げたため、罪一等を免じて両腰を給わり
切腹した(一等を被免許、両腰を玉はり切腹なり)。

当時はこう言った事が多かった(前後此類多し)。

松隣夜話



637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/10(月) 20:56:22.20 ID:WIdY78mZ
死罪って言ってるから若干ややこしいけど切腹な訳か
確かに武家のシンボルすら奪われて生き恥&当時の治安的に武器なしで生きるのほぼ不可能なのと、武家として少なくとも一族が残る切腹なら切腹のが軽いか

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/11(火) 01:14:10.95 ID:EQ3NaCZQ
後継いたらそれはそれで隠居しちゃう侍も出てきそうだけど

御両君の御心合し候

2020年02月11日 12:36

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/11(火) 01:15:59.58 ID:AgX5X1rx
御両君の御心合し候


興国公(池田利隆)が備前にいらっしゃったとき、黒母衣の指番が一人欠けてしまったので
このことを姫路に窺うことが二度あった。
国清公(池田輝政)の仰せは、武州(利隆)の旗本の士でその器に当たる者であればこの職を命じて
構わないので、予の指図には及ばないとのことであった。

このとき興国公は津田将監を呼ばれて
「此度汝を姫路に遣わす。指番母衣の事を予ではなく大殿の御指図を承って帰ってくるように。
 弓矢のことは重きことなので、若輩のそれがしの愚眼の証とはしたくない」
と仰せられた。
津田は仰せの通り慎んで命を承ったが
「されども大殿の御前で、君の御底意はどうなのかと仰せがあったら誰と申し上げるべきでしょう」
と申したところ、興国公は
「もしそうであるなら、我が旗本の沼市蔵がこの役を勤めるべきである」
と仰せられた。

津田は御前で料紙を乞い沼の姓名を書き記して懐に仕舞い、姫路に参り国清公の御前に出た。
件の指番のことを申し上げると、国清公は
「武州は性質律儀第一、念の入った弓矢の沙汰をするので、そうであるなら沼市蔵を命じるべきだろう」
と仰せられたので、津田は頭を畳に付けて「御両君の御心合し候」と言って、件の書き記した沼の姓名を
扇に据えて差し上げたので、国清公は大いに津田の御用意の程に感心され
「汝の岐阜での働きは今でも覚えている。若き武州によく仕えよ」
と仰せられた。


――『池田家履歴略記



640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/11(火) 02:06:41.23 ID:H65jIjyD
>>639
三河野郎並みに面倒くさい

本多忠信・正盛の不幸

2020年02月10日 18:51

846 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/10(月) 11:20:50.70 ID:a2Lko6Se
本多忠信・正盛の不幸

本多忠信は本多百助信俊(忠政)の弟。九鬼氏の娘を母として誕生しており、内藤正成の息子を養子としていた。 

さて忠信は家康に仕える旗本であったが、関ヶ原の合戦の際、親族にあたる縁から九鬼嘉隆への御使として派遣された。ところが嘉隆はすでに石田三成方に心寄せており伊勢国朝熊において忠信を殺害したという。 

忠信の横死後は正盛が跡を継いだ。時は流れて家康の死後、この正盛は東宮社造営の副奉行という大任を賜った。 

ところが同輩の山城宮内と口論となり、挙げ句の果てに激昂した正盛は山城を刀の鞘で打ち据えるという暴行を働いたと言う。山城はこの狼藉が原因で切腹してしまった。

正盛は重要な時期に騒動を起こした責任を追及され、東宮社完成と同じ月に松平成重にお預けの上、自刃を命じられた。日光市の福生寺に現在も墓が残っている。



松永久秀が楠正虎に送った書状

2020年02月09日 21:30

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 12:00:46.21 ID:BWjBwiP7
松永久秀の取りなしで書家で有名な楠正虎が河内守に任じられた際、松永久秀が楠正虎に送った書状
「楠氏は正成以来十代に渡り朝敵となり無礼を働いていましたが、勅許により河内守に任じられたこと、喜ばしいですね、云々」

自称、楠正成の子孫だったのが正親町天皇の綸旨により正式に楠氏と認められたようだけど
戦前の人が見たら激怒しそうな内容

ところで三好氏関連の研究を読んでたら三好長慶の部下で摂津渡辺党の渡辺稙という人物が出てきたけど、
「稙」が偏諱だとしたら、一字名の嵯峨源氏の場合は偏諱がそのまま名前になるということだろうか



847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/10(月) 20:43:43.20 ID:cqjS9g5V
>>844
偏諱をもらえるような身分じゃなくね?世代も違うし
仮に偏諱なら肥前松浦党の弘定、興信、隆信、鎮信のように2文字にしてるんじゃないかな

850 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/12(水) 17:01:33.36 ID:ilfBcm73
>>844
>>847
波多親は元服したとき大友義鎮の偏諱を受け鎮と名乗っている
その後龍造寺に降り隆信の偏諱を受け信時と名乗った

1文字の名はある

伊奈(イナ)忠次の話

2020年02月09日 15:16

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 19:43:41.88 ID:ezwVO2sv
「イナバウアーがイナ→荒川→羽生」と継承された、ていう記事を読んで、
羽生で始まり荒川西遷が行われた、利根川東遷事業を思い浮かべたので伊奈(イナ)忠次の話を

小田原城落城の際、城内の蔵に貯蔵されている米穀の数量調査を家康に命じられた忠次だったが、
膨大な量であるにも関わらず数日のうちに家康に報告した。
家康から「なぜそのように早くできたのか?」と聞かれた忠次は
「不正を防ぐために、すべての蔵に封印をし、村長に命じて北条に納めた租税の量を書き上げさせました」
と答えた。
もし蔵ごとに確かめていたら時間がかかる上に、ちょろまかす人間も出たと思われる。
そのため家康はその機敏さを褒めた。

甲州の地で家康が鷹狩りをしていると、近くの村で騒ぎが起きた。
忠次が家来を連れて見に行ったところ、野盗が荒らした後だった。
そこで忠次は野党の首領の住処を探し出し、大蔵という首領を一刀のもとに斬り殺した。
これを聞いた家康は「勇敢ではあるが自ら討ち取るとは血気盛んすぎる」と諭した。
しかし賊を斬った刀に大蔵と名付け、家宝とするように告げた。
(「世界 人物逸話大事典」の「伊奈忠次」の項から、本間清利「関東郡代」の孫引き)



632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 20:48:59.18 ID:oWA1ySTR
あだ名がわかりやすいのは権現様のセンスなのか

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 21:59:06.93 ID:V6+QV004
>>631
賊のお頭の名前の家宝の太刀ってやだなぁw

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 22:00:43.60 ID:POWo705j
大蔵切なんちゃらって名前ならまだワンチャン

謙信等の、諸将と自己についての評

2020年02月08日 16:56

611 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 04:52:53.84 ID:HS1E561+
(惜しきかなこの巻は二十片虫の害があり判読できず、現在に伝わらない。その末の一両(2ページ)ほど
僅かに残ったのが、以下のものである。)

三宝寺曰く「これは些か虚気たる申し事ではありますが、この御座敷でそのように慎む必要はないと
思い、お聞きするのですが、現在、日本には高名なる大将がその数多くおります。その中でも先ず上げられるのは、
北條(氏康)殿、織田(信長)殿、甲州の(武田)信玄、吾等の主人(上杉謙信)、又は安芸の毛利(元就)と
海道の(徳川)家康、このような所でしょうか。その中において、何れの家が終には天下を掌握して
全うするとお考えでしょうか。
現在は信長殿が畿内を仕配していますが、武田、北条あり、また謙信もこのように居られますから、
畢竟定まってはおりません。御了見の程を御次いでに承りたく思います。」と太田三楽に尋ねた。

太田三楽曰く
「そのような義は誰にとっても天命でありますから、人の予想を以て申すのは難しいものだと思います。
ですがそういった事は差し置いて私も申してみたいと思います。
先ず、私は毛利家については遠国であり詳細に承っていません。ですので何か申すべき了見がありません。
そうである以上私が語れるのは、御屋形(上杉謙信)と信玄と、北条と織田と徳川となります。

そのうち、北条家が天下を取るという義は絶えて無いでしょう。何故ならば、もはや北条氏康には
余命少なく、その上近年病者になり、久しくはないと見えます。またその子の氏政は、天下の義は置いて、
只今の四ヶ国すら人に奪われてしまうでしょう。かく申すわたしも、氏康より長く生きる事が出来れば、
現在の北条領から一郡一里であっても望みたいと思っています。

また武田信玄と御当家とは龍虎の争いとなり、どちらであっても一方が廃れない間は、双方月日を手間取って
他の方面への働きが出来ません。
信玄は当年四十八歳、御屋形は三十九歳、老少不定と申しますが、一般的には先ず歳上の方から先立つものです。
そう予想すれば、信玄の果報短くして近年にも死去すれば、たとえ信長家康を味方にしたとしても
上杉家に対して防戦することは出来ないでしょう。

しかしそうならず御当家と信玄が争い続ける状況が続けば、信長はいよいよ切り太り、終に四国中国までも
仕配するでしょう。何故なら上方筋の侍は軽率であり、一城落ちれば前後皆敵を見ずしても、開城し
退くからです。ましてや一、二度遭遇して手痛き目を見ては、後途の鑓にも及びません。

これに対し東国北国では、一度、二度、五度、六度まで攻め詰めようとも、まったく草臥れる事無く、
猶以てそれを餌にして、「命さえ有れば追い返さん」とのみいたします。このため、たとえ小敵であっても、
東国北国では、国郡を取るのに手間がかかります。徳川家康なども、現在は武田北条に接しており、
今後は切り取れる国郡も多くはないでしょうから、これもこの先暫くの間は、信長に対し手を出すことは
出来ないでしょう。

武将の器量を申すなら、徳川家康は抜群に優れていると思います。彼は凌ぎ難き場面を度々見事に
切り抜けています。但し、底意がいささかひねくれており、賤しき弓取りとも見えますが、それも
現在が末世の世でありますから、結果として良き事なのでしょう。
(家康抜群勝れ被申て候。凌き難き處をハ度々見ことに被仕て候。底意に些ひねくりて賤き弓取と見へ
候へとも、夫は今時末の世にて結句能ことにて候。)

信長は大気無欲であるだけで、それ以外はせわしない武将であるので、大身に成れば成るほど、慎み薄く、
無行跡なるあまり、命を全うすること定まらずと見ております。
信長が廃れれば、その後は家康以外には無いでしょう。
ではありますが、これらは皆定まったことではなく、世間に於いて命ある者の穿鑿に過ぎませんので、
二五十(2×5=10ということで、当たり前のこと)、又は二五七(意味は不明)を心得るべきでしょう。」

612 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 04:54:51.68 ID:HS1E561+
これに対し謙信公はこのように仰せになった
「実に言われる通りである。それについて、私はかねてから天下国家に望みはない。また軍の勝負にも
さほどには相構わない。ただ差し当たって致すべき図りから逃げないようにと嗜んでいる。その上で
死なば死ね、生きれば生きよと言っても、侍として生まれた者のうち、誰が生きるために引き下がる
だろうか。
差し当たりの図りという品々も、心得あるべき事だろう。悪く弁ずれば無理非道に落ちてしまう。

細かく申せば、各々ご存知であるので、この謙信の事は申すに及ばずないが、甲州の信玄などの守る所は
全く右のようでは無い。彼はただ仮初にも怪我が無いようにと嗜んでいるように見える。それに従い、
信玄ほど軍を締めて仕る人物は、古今例のないものである。但し、信玄が今まで軍に大きな過ちが
終に無かったのは、人を能く見る将であるからで、侍大将、足軽大将、或いは馬場美濃、真田弾正、
山縣源四郎、春日弾正、内藤修理、小幡山城、甘利備前、飯富兵部、原美濃守、その他勝れて能き者共
多くある故である。それも最も信玄の眼力が強き故であり、合戦に際して自身で下知し手配りをすることは
さほど無い。この者共を左右に置き、相談をして弓箭を締めて丈夫に行う故にあの如くであり、であれば
信玄一代の間は何処であってもきたなき負けは絶えて無いだろう。

信玄の内の者は誰であっても、人を能く遣うものだと思った事は、先年川中島にて、私は信玄の方便を
推量して、彼の意図を手に取るように理解し、この度は手に手を取り組み、雌雄を決しようと思った故に、
荒勝負を心得た者達を多く従えて、信玄旗本の先手である、武田義信の陣に切って入り押し立ったのだが、
この時武田軍の侍は言うに及ばず、雑人下部まで、敵に掛らずに崩れるような者は居なかったのだ。

通常、誰の下であっても一番鑓二番鑓までは持ち堪えても、三番まで耐えられる者は稀であり、四番に至っては
絶えて居ない。これは侍十人のうち五人六人は、敵に押し立てられて敵合いを成さずに崩れるためである。
しかし武田軍はこのようであり、よって何処との戦であっても甲州勢の大崩は有るまじき事なのだ。
味方が崩れなければ結果として敵は崩れ、信玄は軍において怪我をしない。

また北条氏康の家臣の者共の中に名高き侍大将は数多は居らず、彼は武田信玄に比べて人数の取廻しは
抜群に劣る。但し氏康は大度にてせわしくなく、士を慰撫して人を和らげ、大廻しの遠慮を能くしている。
これによって、彼もまた一廉の良将と言うべきである。

この謙信はこれらの名将と、さらに加賀越中衆まで相手に持ちながら、私が他の境は切り取っても、尺地として
我が領地を他より切り取られた事が無い。これは不思議では有るが、又その中に一理ある。

私は、貴坊もご存知のように疎略な人間であり、慎みを知らず、その上愚案短才である。だが果報いみじき
故だろうか、能き人を持った故に、隣国によって侵される事が無い。軍は一弧の業ではなく、人を以て
肝要とする。我が侍、いまここに有る十四人を加え、小身押込以上の四十余人の者達は、恐らく
武田北条家康信長の家臣たちを合わせてその中より勝れた者を選び出したとしても、我が四十余人より
勝れた者は多くはないと思う。尤も、彼らはただ軍陣だけで活躍し、他のことには思慮が浅い、という者達
ではない。氏康や信玄に私が劣っている分、また家来の侍たちに能き者が多いことで、双方の力が引き合い、
今まで彼らと相対することが出来たのだ。

しかし、謙信の人を見る眼力が強いからこのように仕立てることが出来たという訳ではない。私は
気儘な者にて、気の合った者ばかり手元に召し仕ってしまう。故に人物に対する穿鑿も大形である。
だが七人の者共(旗本七手組)は、念を入れて人を選んだ。如何様であれ、心に誠が有れば大外れは
無いものなのだろう。かくの如くである。」そう語られた。
松隣夜話

謙信等の、諸将についての評などについて



613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 05:17:32.84 ID:ilyao2vw
他家の将来について熱く語る前に自分の跡継ぎを決めておこうな

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 06:19:58.64 ID:WzA3eSgy
また斬られるかと思った

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 09:01:08.70 ID:POWo705j
この時期の記述でもすでに大名は天下取りレースしてて、それに対して謙信は天下取る気がないよって認識が出来上がってるんですね

この辺りはやっぱり二天が併存し得る訳がないとして、当然のように天下を狙い合ってる中華の認識が影響してるんですかね
実際は大名のほぼ皆が天下なんて面倒臭いもの誰も取りたくなかったろうに

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 09:17:32.61 ID:0RmwJlhl
今の自民次期総理候補と呼ばれている人たちが総理になりたがらないようなものか

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 09:21:33.36 ID:V6+QV004
>>611-612
概ねあたってるのが面白いな

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 10:04:30.11 ID:i9AdP1+r
まあ基本的には戦国大名は地方政権確立した人らで
中央政権には干渉されず勢力拡大したい

620 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/08(土) 10:51:35.18 ID:FBTlD/sc
松隣夜話』は越後流軍学の宇佐見勝興の作とされていますが、勝興の経歴の怪しさもよく知られたところです。
世間一般的にこういう認識が広まっていた、広めたネタ元の一つだとでも考えときましょうよ。