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義冬を義賢が介抱したのは、

2019年06月24日 14:47

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/23(日) 22:57:31.83 ID:wQi0OLzi
  義冬(足利義維)に付下侍之覚。

  富永豊後守據宗。           和州高市住人。(兵部少輔父也。)
  結城但馬守重正。           駿州志多住人。
  小寺新右衛門。            阿州松原住人。
  荒川民部少輔珍国。          三州八名住人。(弥三郎父也。)
  森小平太時常。            越前長坂住人。
  村井権内。              関東者。
  天代十郎左衛門。           武州者。
  浅田将監延房。            摂州浅田住人。
  乾鵜之助定直。(後号太郎右衛門。)  河州谷江住人。
  西山源八。              讃州志渡住人。
    今の志渡の玄雪という者はこの源八の孫である。
  堀喜左衛門景盛。           江州之住人。
真淵伊豆守忠元。           但州出石住人。
    親は出石刑部という者である。
  安井源右衛門。            中国者。
  三江兵庫。              播州野口住人。
  湯浅次太夫兼綱。(小次郎父也。)   阿州長山住人。
    
    侍分以上15人。
    都合360人が付き下ったということである。

  以上の侍どもは義冬に仕え忠義は浅からぬものであったが、牢人した事故、扶持すること叶わず、
  三江・富永・結城・乾・荒川・湯浅、以上の6人が残り、その他は暇を遣わしたのである。


一、義賢(三好実休)は持隆(細川持隆)を討ち取って以後、三好民部入道を使いにして義冬へ申す
  には、「徳雲院殿(持隆)は御身を失わせ給うとしても、義冬の御事は別儀もございませんので、
  御領地はまったく相違ありません。只今までのように当地におられますよう」との由を申し越す。

  「徳雲院殿なき以上は、どこへでも立ち退く」との由を義冬は仰せなさるも、民部入道が達て制
  し申すことにより、それならば重ねて御返事なさると宣った。

  持隆の失せた後に、清雲院殿(養父・足利義稙の正室。本書では義維の生母)は勝瑞に居合わせ
  なさる。「もしかすると、義冬はいずこへも立ち退きなさるかもしれない」と、義賢は清雲院殿
  を勝瑞に2,3年も留め置いて平島へ戻し申さぬ故、義冬はどうしようもなく留まりなさった。

  義冬を義賢が介抱したのは、その時の将軍義輝公はいかがなされたのか義冬を親切に思し召した
  ことにより、義賢も少しは敬ったのだということである。

  そんなところに天文23年(1554)3月、清雲院殿は病死なさる。一周忌の後、御下りなさ
  る旨を義冬が仰せられると、義賢ももっともと思い、大船3艘を調えて弘治元年(1555)4
  月10日に周防へ下りなさった。

  供した侍6人の内、乾定直は上方の様子を知るために河内へ戻しなさる。湯浅は阿波の者なので
  義賢に預け置き、残る4人は妻子までも供をした。大内介(大内氏)は殊の外もてなし、小原と
  いう所に居所を構えて義冬を居住させ置いて、大切に致したので永禄6年(1563)の秋まで
  周防に居住した。

――『阿州将裔記』



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伊達の子息は太郎信勝と同年である。これは不思議なり

2019年06月23日 16:46

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/23(日) 01:25:56.85 ID:ISi17C3o
永禄10丁卯年(1567)に太郎義信(武田義信)自害なされて後は、信玄公の跡を継ぎ
なさるべき惣領はおられず。

しかしながら、またその年に誕生された四郎勝頼公の嫡子を信玄公は養子になさり、吉田左
近助(信生)を御使として御曹子を太郎信勝(武田信勝)と名付け参らせられ、武田の重代
(家宝)である行平の御太刀・左文字の御腰物を譲り、武田28代目と定められた。

子細は、四郎勝頼公の母は諏訪の頼茂(頼重)の娘、勝頼公の御前は美濃国の岩村殿という
織田信長の姨(おば)の息女(龍勝院)である。「四郎の父はいやしくも信玄であるから、
例えどこへ頼ろうとも、これは然るべきことだ」と仰せの事により、信玄公の跡目にと今の
御曹司を定められた。

(勝頼公御前は美濃国岩村殿とて織田信長姨の息女也、四郎が父は苟も信玄なれば、いづか
たへたよりても是は然るべしとあるの儀にて、信玄公の跡目にと今の御曹司を有之)

そうしてこの太郎信勝は7歳で信玄公と離別参らせられたので、信勝21歳までの15年間
は父の勝頼公が陣代となされたのである。(中略)

また奥州より、高崎織部と申す牢人がこの頃甲州へやって来た。この人の物語りによると奥
州の侍大将・伊達(輝宗)の子息(伊達政宗)は太郎信勝と同年である。これは不思議なり。

(政宗は)万海という行者の生まれ変わりで、その事の成り行きはまさしくその通りとの話
を奇特と存じて、紙面に表す。

(奥州の侍大将伊達が子息に太郎信勝と同年なる是れは不思議なり、萬海と云ふ行人の生れ
がはり、その首尾まさしく候由奇特と存じ紙面にあらはす)

後の考えのためにこのようにするのであると、高坂弾正これを書く。(後略)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』

「いづかたへたよりても」に難しい判断を感じる



189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/23(日) 07:58:39.53 ID:Yd8e5GYv
武田家の跡取りってかなり大変そうだ
信玄も各武将も優秀すぎて

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/24(月) 13:09:15.22 ID:DJIUpD3b
>>189
晴信が板垣や甘利を失ったように合戦で殺せばええんやで

石田三成の「三献茶」の元ネタがこれ

2019年06月22日 15:05

千利休   
34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 00:16:16.65 ID:5DKbWtYD
利休が法華寺で「喉が渇いているので茶がほしい」と所望された所、新発意(小僧)が大服(量が多い)に
茶をぬるく点てて出した。「非常に良かった、もう一服」と利休が再び所望すると、今度は前より少し熱く、
少し小服にして出した。するとさらに「いま一服」と所望されると、小僧は熱く小服にして出した。

利休は感心して「さてさて、気の利く人だ。彼を私に遣わして下さい、数寄を教えたい。」と言った。
そして点前そのものよりも、心を数寄にすることが肝要だと言って召し使った。
この小僧がのちの、京の喜斎(土屋喜斎)である。

(茶道四祖伝書)

石田三成の「三献茶」の元ネタがこれ



35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 01:01:16.28 ID:RmuGq9nn
何たる小賢しさ。十五か十六でこんな小細工を弄する奴は
何となくひね媚びていかにも器の小さい感じがする。

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 08:22:16.90 ID:h6DMzvzQ
>>34
近い時代に元ネタあったんだな

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 09:08:18.69 ID:5DKbWtYD
>>36
出てくる人間の時代は近いけど、三成の三献茶の逸話の初出が1716年の『武将感状記』なので、
お話として改変されたのは『茶道四祖伝書』が出てから7,80年後だな。

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 10:18:49.11 ID:0AogUSfh
昔の人って平気でパクるよね

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 11:07:31.24 ID:696jtPWY
まあ、その辺もいい加減だったというかOKな時代なんかな
そもそも読んでる人も限られてるだろうし

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 11:28:38.53 ID:Hb5MJrxT
>>35
十五歳は成人だぞ

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 11:38:59.74 ID:5DKbWtYD
>>40
>>35は昔光栄が出した『信長の野望覇王伝・武将FILE』の石田三成評の一部。ぼろっくそで有名

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 12:10:14.52 ID:Hb5MJrxT
>>41
(TT)

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 12:25:31.08 ID:h6DMzvzQ
>>37
そんなに時代空いてたんだ、当時なら誰にもバレなかったろうなぁ
むしろそんな前の時代のネタよく引っ張ったもんだ

唐国諸葛孔明八陣図

2019年06月21日 16:31

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 13:14:15.51 ID:f5pcw5Wk
唐国諸葛孔明八陣図

        八      レ
●魚鱗 ●鶴翼(の) ●長蛇(シ ) ●偃月(半月の図) ●鋒矢(个)

●方ヨウ(“向”の口が山)(〇) ●衡軛 ●井鴈行
                    〇
●春は北に向かう ●秋は南に向かうなり(□)これをもって相を取る口伝あり。
                    △

以上を良く信玄公は伝授なさって、その後工夫をなされて新軍法その他諸法度の仕置きを遊ばし
給う事、これは皆、信玄公と合わせて四大将(上杉謙信・北条氏康・織田信長)いずれもが取り
合いをした故である。

そのため、軍法はまず当代の四大将より始まる。昔はあったとはいえども、尊氏公の四代目の御
時分から連々取り失ったと見える。軍法の儀は(軍法といえば)信玄公・謙信公の両君なれども、
これも3分の2は信玄公より濫觴(起源)する。

当代日本の四大将は御歳増す次第の先に書く。

一、伊豆国平氏大聖院北条氏康公、56歳にて元亀元年10月3日に他界。病死。
一、甲州源氏法性院大僧正武田信玄公、53歳にて天正元年4月12日他界。病死。
一、越国管領入道上杉謙信輝虎公、49歳にて天正6年3月13日に他界。病死。
一、尾州平氏織田右大臣信長公ばかり存生。

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』



29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 13:18:25.83 ID:N0sMwCEt
この陣形のそれぞれがどういう用途で使われるのか解説をきいたことがない

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 17:53:48.61 ID:fa+hDu+v
乃至政彦「戦国の陣形」読むと
甲陽軍鑑で山本勘助は

「軍林宝鑑」という本にある「諸葛孔明八陣の図」として魚鱗 ・鶴翼 ・長蛇 ・偃月 ・鋒矢 ・方 ・衡軛 ・井雁行

を紹介しているが出典とされる「軍林宝鑑」には八陣として
https://i.imgur.com/HpOEclY.jpg
こんな図があるだけで、魚鱗の名前も鶴翼の名前も見えない
単に大将以外の部隊が八つ並んでいるから八陣とされているだけである
もともと「八陣」には
1.上記の諸葛亮による八陣
2.唐代の知識人李善「雑兵書」に書かれている八陣
「一曰方陣 、二曰円陣 、三曰牝陣 、四曰牡陣 、五曰衝陣 、六曰輪陣 、七曰浮沮陣 、八曰雁行陣 」
3.張良が編み出したとされる日本で口伝で伝わっていた八陣
「魚鱗 ・鶴翼 ・長蛇 ・偃月等の陣 」
があり、甲陽軍鑑で山本勘助が言ったとされるのはこの三者の折衷である。
甲陽軍鑑によれば山本勘助は信玄から「お前は書物を四、五冊も読んだのか?」と聞かれた際「一冊も読んでません」と答えていることから
耳学問の知識を適当に言ったのだと考えるべきだろう。
実戦の際は部隊長にそれぞれの陣形の形をあらかじめ頭に入れさせておいて
「飯富殿は○○の陣形を、小山田殿は○○の陣形を…」と指図してすぐに陣形を取れるようにした

のように書かれていて、のちに村上義清が編み出した?兵種別の陣形を謙信も採用し、それが諸国に広がったと、書かれてるから
この八陣が使われていたとしても、山本勘助が諸葛亮が考えたものとして献策したのを信玄が一時的に使っただけ
江戸時代に甲州軍学で八陣うんぬんが基礎知識となっただけだから
どういう用途で使われたか、てのはあまり意味がないかと

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 17:56:45.55 ID:fa+hDu+v
ついでにその甲州軍学でも徳川後期となると八陣の知識は忘れ去られた、とあ?

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 21:01:07.53 ID:M9YcI+sb
日本の狭い平地では役に立たなかったのかしら

キリシタンはこのような卑しむべきものは見ない

2019年06月21日 16:30

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 00:17:36.40 ID:ktoSxB+q
国王(大友宗麟)にパンヤリヤン Pantaliao というキリシタンの一子(大友親盛)が有る。彼は年齢16歳で、
彼の父の兄弟である叔父(田原親賢 / 紹忍)の嗣子となった。

この田原親賢は先年報告した通り、養子のシマン Simao (田原親虎)がキリシタンと成ったため、これを
廃嫡した人である。

ドン・パタリヤンはキリシタンと成って既に4年であるが、思慮深く性質も良く、殊に良きキリシタンで
あるため、王は甚だ彼を愛している。この人については長く報告することも出来るが、簡略にするため
やだ2,3の事を述べる。彼は臼杵より4日路の城に居て、その叔父が承知しないためわずかに4,5人の
キリシタンの家臣が共に居る。叔父の妨害は甚だしいが、一層信仰を固くし、しばしばパードレ、イルマンたちに
書簡を贈って、常に彼のためデウスに祈ることを請い、その信仰については、これを捨てるならその前に死する
覚悟であることを、我々が疑わないようにと願っている。彼の求めに応じてパードレ一人が告白を聴きミサを
行うため同地に赴いたところ、彼の喜びは甚だしく、寸時もパードレの元を去らず、デウスが天使を降ろし
給うた思いがすると言った。復活祭の日は多数の異教徒に囲まれていて城を出ることが叶わなかったため、
キリシタンの家臣を集めて、立派な祭壇を設けて一同祈祷を成し、諸人の頭には薔薇の冠を置き、頸には
ロザリオを懸けた。終わって彼等を饗応し、貧民に食物を与えた。

付近の異教徒の貴族が彼の居城に来た時、彼に金の屏風を贈った。屏風は内部に木を用い、紙を合わせて
作った物で、日本人が部屋の壁掛けのような目的で使っている。
この屏風には異教徒たちが喜ぶ絵が描いてあったが、彼は難しい顔をしてこれを見、他の点では甚だ立派で
高価なものであったが、その面前でこれを焼かせ、使者には「キリシタンはこのような卑しむべきものは見ない」
と言った。

彼は臣民がキリシタンと成ることを非常に希望している故、デウスの御恵により彼等の君主に成った時には、
必ず皆洗礼を受けること疑いない。

(1584年1月2日(天正11年11月30日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

田原紹忍がキリシタン嫌ったのも、キリシタンが信仰を理由にこの金屏風の話みたいな事するからでは…。



184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 16:27:20.84 ID:u/Ny+gN0
>>181
奈多八幡宮大宮司の子がキリシタン嫌いでどこがおかしいの?
仮に彼がキリシタンとなった場合にどのようなことが起こりうるか考えろよ
デメリットしかないと思うけどな

これが馬場美濃の小山田弥三郎への返事である。

2019年06月21日 16:29

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 14:36:04.55 ID:f5pcw5Wk
ある時、馬場美濃守(信春)のところへ振る舞いに内藤修理(昌豊)・山県三郎兵衛(昌景)・土屋右衛門尉
(昌続)・小山田弥三郎・高坂弾正・真田源太左衛門(信綱)・小幡上総、この衆が参られ、よろずの雑談の
中で小山田弥三郎が申すには、

「各々聞き給え。世間で物の分かりを言って人に教えることが学問者の業である。しかれば学問者の中に物知
りは多い。智者は少ないものであろうが、一文字を引けない人にも智者はいよう。山本勘介などは智者という
者であると信玄公は仰せであったから、さて物知らずであってもまた智者と言って別なのである」

と言えば、そこで馬場美濃が申される。

「小山田殿が宣う如く、松木桂琳は学問をして物を良く読むので、唐の諸葛孔明のことを某が尋ねたところ、

諸葛は百姓なれども大将(劉備)がこれを抱えなさりたいがために、いかにも慇懃な出で立ちで諸葛の宿へ大
将自身がいらっしゃった。けれども2度は留守として押し返し、3度目にかの諸葛は竹を耡っているところへ
大将が行き当たり、何程も慇懃になされたのでここでは諸葛は鍬を投げ捨て、今の大将を守護して軍法を仕り、
戦にその大将が勝ちなさった。

その事を本に向かって申している時は『松木桂琳は物知りかな』と存じた。その時に甘利の同心・春原惣左衛
門が私めの方へ見舞いした。かの惣左衛門は真田殿の家中で武辺・智恵・才覚・弁舌すべてが備わった武士で、
信州村上殿へ武略として真田一徳斎(幸隆)が差し遣し、村上頼平公(義清。頼平は父)を信玄公が押し倒し
て勝利を得なさった。

それは春原が賢き智計の武士なる故で、某は大剛の誉れを感じ、互いの冥加のために春原を一入慇懃にもてな
した。それを松木桂琳が見て、春原が座を立ち帰った後に私めに申すには、『人の同心足軽で殊更小身な者に、
どうして馬場殿ほどの人が殊の外慇懃になされる』と不審がった。

それ故、そこにおいて私めが存じたのは、諸葛は賤しき百姓なれども大きな大将が慇懃になされた談義を言い
ながら、これを不思議と疑うのは、松木桂琳の口と心は合わぬと存じた。そういうわけで、物の本に向かって
談義するのは物知り、本に向かって読む術を知らずとも、心の至っている人を智者とこそ申すのであろう」

これが馬場美濃の小山田弥三郎への返事である。

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』



183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 14:43:58.60 ID:QGNI5dtj
>>182
まさに頭でっかち…

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 20:51:41.49 ID:M9YcI+sb
>>183
でも現代でもありがちなことだわ

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 20:52:28.59 ID:M9YcI+sb
と言うか小山田さんと馬場さんの良い話のような

細川幽斎 酒の歌

2019年06月20日 17:11

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 15:25:51.96 ID:/uTZxkkg
細川幽斎 酒の歌

一切の其の味をわけぬれば 酒をば不死の薬とぞいふ。

二くさ(憎さ)をも忘れて人に近づくは 酒にましたる媒はなし。

三宝の慈悲よりおこる酒なれば 猶も貴く思ひのむべし。

四らずして上戸を笑ふ下戸はただ 酒酔よりもをかしかりけり。

五戒とて酒をきらふもいはれあり 酔狂するによりてなりけり。

六根の罪をもとがも忘るるは 酒にましたる極楽はなし。

七(質)などをおきてのむこそ無用なれ 人のくれたる酒ないとひ(厭ひ)そ。

八相の慈悲よりおこる酒なれば 酒にましたる徳方なし。

九れずして上戸を笑ふ下戸はただ 酒を惜しむが卑怯なりけり。

十善の王位も我も諸共に 思ふも酒のいとくなりけり。

百までもながらふ我身いつもただ 酒のみてこそ楽をする人。

千秋や万蔵などと祝へども 酒なき時さびしかりけり。

――『成功座右銘 名家家訓』

関連
細川忠興作、「酒の歌」


26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 19:27:05.19 ID:G6TF7YnI
天の原 ふる酒みれば かすかなる 三かさも呑みし やがて尽きかも

醒睡笑

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 21:21:20.96 ID:Sm7UgpM6
こんなお父さんだからねじ曲がってしまったんだろうか

良き老王フランシスコは

2019年06月20日 17:09

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 00:37:47.96 ID:EX6KxfGe
王(大友宗麟)は今(既に通信した通り)臼杵より3レグアのアクミ(津久見)と称する町にいる。
この頃、同所に甚だ良き家数棟を建て、その中にミサを行うべき立派な祈祷書を設けた。
彼は老後の休憩所(隠居所)として世子(大友義統)から、その滞在している地方を貰い受けることを
希望していたが、世子が昨年これを与えたため、ここに移った翌日、イルマン二人を招いて、
同地方に有る寺院三ヶ所にある仏像を尽く破壊し、一つも残らず焼く事を命じたためこれを実行した。

王はまたビセプロビンシヤル(ガスパール・コエリョ)より、同所に駐在するためのパードレ一人、
イルマン一人を請い受け、同地方の二千人を超える異教徒に説教を行わせることとしたが、一部は既に
洗礼を受け、他の者は今教えを受けている。
この町に居た坊主たちには甚だ親切に話させ、彼(宗麟)が既にキリシタンに成っている故、彼等も
キリシタンと成ることを勧め、己(の生活)を支えるに足るものを与えることを約束した。諸人皆これを
良しと考え、今ドチリナを授けられている、

この町は甚だ静かであるため、パードレ一人とイルマン一人が駐在していた小僧院には、豊後の国の
坊主達が木の箱の中に、他の立派な箱を納めたものを宝物として密かに蔵してあった。
この箱には釈迦の教えが、金の文字によって九巻に認められた、甚だ珍しいものが納めてあった。
この書物は彼等の習慣に従って製本され、確実なる文書によれば、これが作られて270年経っているが、
今も新しいもののように見えた。その一巻はインドの管区長に送るが、同所より尊師の元に送り、
坊主達がその宗旨の書物を尊重している事を御覧に供するであろう。

この他に彼等が甚だ珍重する、釈迦の門弟19人の絵を描いた19枚の紙を納めた箱がある、世子が
父なる王にこの地方を譲った後、豊後の坊主達は世子の元へ行き、急いでかの書物と肖像を取り出し、
パードレ達の手に入らないようにすることを願った。この宝物を失うだけでなく、これを焼かれることの
危険があったためである、世子は直ぐに人を遣わして書物と画像を王に請わせたが、良き老王フランシスコは
世子の使者の来る前に使いをイルマン等の元に遣わし、彼等が寺院に於いて第一に取り棄て、又は焼却すべき
ものはかの書物及び画像であると伝えさせた、そのためこの事は既に実行されており、世子に対しては
その使者が遅かった旨を答えた、

右のほか、王はイルマン一人を外の二つの町に派遣し、その住民に説教をさせた、これにより400人余が
キリシタンと成った、

(1584年1月2日(天正11年11月30日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)


うーん…



180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 08:43:33.06 ID:3qib0QTB
庶民から金を巻き上げるアイテムなんだし焼却した方が後々良い事になる

形の好みから武士道に入れ

2019年06月19日 15:12

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 19:54:49.11 ID:XHJKzrW+
「侍は首は取らずとも手柄をせずともそれを言わず、事の難に至っても退かず、主君と枕を並べて討死を遂
げ忠節を守ることを指して、侍と申すのである。

義理・恥を知らぬ輩は物の吟味をしないために、幾度の機会があったとしても1つも関心を抱かない。禄を
もって招く時は、譜代の主君を捨てて二君に仕える輩がいる。そもそも心は物に触れて移りやすいものだか
ら、仮初にも侍道の他は見聞きせずに、朝夕身を慣わしとして武芸を心掛け、たとえ学問をするとしても忠
義と大功を聞き、冑の緒を締めて槍・長柄・太刀を揚げ、天下の難儀を救わんと志すことが侍の役目である。

世間の武士道の教えでは、形はどうであれ「好みはあってもどのような事をもせよ。武士は只々志さえ正道
で武芸を嗜み、勇猛であれば良き武士である」と教えている。これも悪いことではあるまい。しかしながら、
某の家人へ教えることは違っている。某の家人などは、形の好みから武士の正道に入れ。形の好みを見れば、
その人の心根も見える。それは心で好んでいることが外に表れるからだ。言葉もそのようなものである。

例えば烏帽子・狩衣を着ている心持ちと、具足・兜を身に着けている心持ちは皆相違することである。髪の
結い様や衣類の着様、刀脇差の差し様まで手軽く健に嗜み、器物などをあるがままに任せ、諸事を軽くして
激しいことをもって、某の家人の教えとする。合印なくとも某の家人と見えるように嗜むべし。

公家殿や上人の玩びを必ず真似してはならない。大いに禁制とする。武道が甚だ弱くなるものである。それ
よりは三味線に歌は構わないだろう。出家と深く出会えば愚痴になるものである。町人と出会えば利欲にな
るものである。(それらの人々と)密事を語るものではない」

以上の教えに背く家人はすぐに扶持を放し、また首をも刎ねて仕置きを見せるものである。その家中の者ど
もは形の好みから武士道に入れというのが、忠勝(本多忠勝)の常の教えである。

――『鈴林扈言』



彼は当地において信長のよう

2019年06月19日 15:10

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/19(水) 01:30:36.02 ID:dilkD3xh
柴田殿(勝家)は去る5月22日(天正9年4月20日)月曜日に我等を招待した。彼は越前国の半分以上、
及び征服した加賀全土の王の如き人で、領土及びその兵たちに対しては、当地において信長のようであった。
諸人は彼を上様 Vyesama 、その子(養子の勝豊、もしくは勝政か)を殿様 Tonsama と称していた。

饗宴は立派なもので、我等、すなわちダリヨとイルマン・コスメ、および私は各々食卓3つを与えられ、
私一人、食卓の頭(上座か)に置かれ、我等に対し多くの親愛が表せられたため、縁側に居る武士たちは
驚いた。また高槻から我等と共に来たキリシタンたちを別の食卓に招いた。

彼(勝家)はヨーロッパ並びにインドのこと、および尊師(イエズス会指導者)について色々尋ねたが、
ここに記すには長すぎる。また3,4回繰り返して、当所に聖堂が有ったならばキリシタンの数は増加するだろう、
もしパードレ又はイルマンが当地に居らねば、キリシタンと成った者たちは直ぐに失われるであろう、と言い、
ダリヨを招いて、私に市内を見せて良き敷地と認めた所を彼に通知したならばこれを与え、聖堂が出来たなら
恩恵を加えるであろう、と言った、彼の子もこれより先に同じ事を言い、この事について父に話す必要なく、
彼自ら我等の満足する地所を与えるであろうと言った。

(1581年5月29日(天正9年4月27日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

北ノ庄で柴田勝家に対面したフロイスの記録。勝家、領地で上様って呼ばれていたのですな。
そりゃ信長も国掟で勝家を縛ろうとするわ。



23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/19(水) 14:17:43.21 ID:M0+GVcV7
>>22
もう少し読み込んでみるといい

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 09:37:30.92 ID:3qib0QTB
>>22
国掟が出されても上様と呼ばれていたのかな?w
縛りになってないな

週間ブログ拍手ランキング【06/13~/19】

2019年06月19日 13:43

06/13~/19のブログ拍手ランキングです!


松たけの おゆるを隠す吉田殿 12

上臈衆は長いのがお好きか、短いのがお好きか? 7

信玄の最期 6
宗雲公などはきっと一仏一社の化身であったのだろう 6

のするかごしまになふほうのつ 5
伊豆の宗雲が出て小田原を乗っ取った事は 5
内裏様のみしり 4
正月2日の夜、宗雲が夢を見なさったことには 4

今度織田事、依難遁天命、令自滅候 3
給仕の小姓が久太夫の膝に酒をこぼして 3
都への往復に危険 3
よくよく見ればみかどなりけり 3

鍋島直茂が寺で湯を所望したところ 2
江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ 2


今週の1位はこちら!松たけの おゆるを隠す吉田殿です!
はい、下ネタですねw昔の人もこんなくだらないネタで笑っていたわけです。ここで気がつくのは、このお話が作られた近世初期には
すでに、松茸を男性器と見立てる事が、笑い話の中に使われるほど一般的であったこと、細川幽斎には機智を以て上手いことを
即座に返す人、というイメージが有り、それは下ネタに対しても例外ではないこと、あと吉田兼見(?)に少々ケチくさいイメージが
あったのかもしれない事(これは公家一般にケチくさい印象が有ったのかも知れませんが)、などでしょうか。
アルシュの下品さに眉をひそめる人もいるでしょうが、あけすけ過ぎてエロさはないですねw
良くも悪くも、この時代の性に対するおおらかさを現しているお話だなと思いました。

2位はこちら!上臈衆は長いのがお好きか、短いのがお好きか?です!
こちらも下ネタですwしかも多少セクハラっぽくもありますね。職場や学校などでこの話をしたら、事によっては怒られそうです。
このお話で面白いのは、やはりあの安土宗論にも参加した貞安が出ているところでしょう。現在でこそ知名度の低い人物ですが、
当時はその名を言えば「ああ、あの偉いお坊さま」と即座に反応されるくらいの認識があったようです。
だからこそ、そういう「高僧」が説教をするという緊張感のある場所で、貞安の言ったことを下ネタと取り違えてしまうことに、
一層のおかしみが現れるということなのでしょう。
笑いというものは非常に時代性が関連しますから、こういった笑い咄からその時代を考察していく、というのも面白いと思います。

今週管理人が気になった逸話はこちら!今度織田事、依難遁天命、令自滅候です!
本能寺の変に対する足利義昭の反応です。義昭が信長の滅亡を「天命」として語っているのが興味深いところですね。
この時義昭の帰洛運動は相当手広いもので、柴田勝家や徳川家康などからも同意を得ていたようです。この事は秀吉の
拒絶により実現しなかったわけですが、もし認めていれば何度目かの室町幕府復活となり、僕たちが学ぶ「室町幕府滅亡」の
年代もかなり違ったものに成ったかも知れません。
我々は結果を知った上でこの書状を見るので、この挫折した企画に対する虚しさを重ねて見てしまいがちですが、この時は
誰も今後どうなるか解らず、故にその時に出来る精一杯のことをやっていた、という視点で見ていくと、又違った感慨を持つかも
知れません。そんな事もふと思った書状でした。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

信玄の最期

2019年06月18日 16:53

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 16:18:05.19 ID:XHJKzrW+
元亀3年(1572)12月、信玄は遠州表へ働く。信長・家康はかねて一身となっていたので、尾州よ
り家康へ加勢があった。信玄は井の谷へ押したところを、家康衆が足軽を掛けて合戦を始めて攻め戦った
ところ、家康衆と尾州の加勢衆は敗軍した。これを遠州三方ヶ原の一戦という。

「掘田の郷へ敵をやり過ごして合戦すれば家康の勝ちであったろうに、家康衆を遣って合戦を仕掛けて負
けになった」との批判があった。

その明年正月11日、信玄は三河の野田の城を攻め落とそうとして不慮に鉄砲に当たり、この傷を色々と
養生したけれども叶わず、ついに逝去した。(後略。>>113

――『北条記』


天正元年(1573)正月7日に信玄公は遠州刑部を御立ちになった。(中略)その後、信玄公は御患い
が悪くいらっしゃり、2月16日に御馬を入れた。

家康家・信長家の誰人の沙汰か、信玄公が野田の城を攻めようとして、鉄砲に当たり死に給うと沙汰仕る。
皆虚言である。およそ武士の取り合いでは、弱き方より必ず嘘を申す。越後の輝虎との御取り合いでは、
敵味方ともに、嘘を申した沙汰はついになかった。

たとえ鉄砲に信玄公が御当たりであっても、それが弓箭の瑕(名折れ)になることはない。長尾謙信(上
杉謙信)は武州忍の城において堀の端に馬を立てておられたのを、城の内衆は輝虎と見て鉄砲を寄せて、
いかほど撃ってもついに当たらなかった。その鉄砲に謙信が当たれば、結果強き大将と誉めはすれども悪
くは申すまい。

すでに信玄公が信州川中島において謙信に勝ち給う時、謙信が名馬の放生月毛を乗り捨てられた。これを
長坂長閑(光堅)が取って乗り、「流石の謙信も馬を捨てられた」と長閑が申せば、信玄公は大いに怒り
なされ、「馬がくだびれたならば乗り換えても構わないことだ。そして乗り換えた時に合戦が負けとなれ
ば、中間どもは馬を捨てて逃げることだろうに、それを輝虎が弱いとは一段と無穿鑿な申しようだ!」と、
長坂長閑を悪しく仰せられたのは、3年目に聞こえたことである。

輝虎が川中島合戦の時、和田喜兵衛が一騎で供を仕って退いた。そうして越後へ到着して馬から降りると
同時に、喜兵衛を謙信が手討ちに致されたのを信玄公は聞こし召して、「さては謙信ほどの侍も後れてし
まっては、ちと取り慌てることもあるのだろう。武士は誉めるも謗るも、踏まえ所をもって沙汰するもの
である」と信玄公は仰せられたのである。

――『甲陽軍鑑』



177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/19(水) 12:22:42.43 ID:Er11dkC4
>>175
たんに長閑を悪く言いたいだけ

のするかごしまになふほうのつ

2019年06月18日 16:04

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 09:53:54.35 ID:pCLnKn9F
昔、近衛殿(近衛信尹)が、どう言う仔細があったのだろうか、秀吉公の御時に、薩摩の坊津へ
流され、その後配所を鹿児島に移された。その頃詠まれたものが

 大臣の 車にはあらであはれにも のするかごしまになふほうのつ
 (大臣の車(牛車)ではなく哀れにも、乗り駕籠に棒で担がれている(駕籠と”鹿児島”、棒と”坊津”を
  かけている))

(きのふはけふの物語)



176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 19:03:01.58 ID:fSX0hArW
>>174
近衛信尹といえば、娘の名前を「太郎」にしたとか面白い話があるけど、
ユネスコ世界記憶遺産にも登録された、近衛家に代々伝わっていた藤原道長自筆の「御堂関白記」についての本を読んでたら、
近衛信尹が薩摩に流された時に、何を思ったか自筆本の寛弘5年(1008年)のところの紙背(裏面の白紙)にだけ
先祖の近衛道嗣の日記、『後深心院関白記』の抜書を書いてしまったようだ、とあった。
紙の節約のために紙背を利用するのは珍しくないとはいえ、600年近く伝わっていた家宝によくやるもんだ

上臈衆は長いのがお好きか、短いのがお好きか?

2019年06月17日 18:13

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/17(月) 11:38:38.46 ID:aBrfMfav
貞安和尚(聖誉貞安・天正七年の安土宗論での浄土宗の代表の一人)の談義(説教)で、
「今日は彼岸の最後の日ですが、このような日に奇特にも上臈衆(高位の女性たち)がお参りになりました。
そこで阿弥陀如来のご誓願にある女人成仏のお話を申したいと思いますが、しかしこれは、
詳しく話せば談義が長くなり、またあらましのみを語れば少々理解しにくくなります。どうしましょうか、
皆様の望み次第にしたいと思います。」

そう仰られたが、談義についてのことなので返答する者も居なかった。そこで貞安和尚が
「上臈衆は長いのがお好きか、短いのがお好きか?」
と尋ねたところ、彼女らは一斉に咲いだした。

これに長老(住職)は彼女らをきっと睨んで
「あなた方の気持ちの有り様はよくない。」
と申された。

(きのふはけふの物語)

まあ少々猥談的なお話ですね



松たけの おゆるを隠す吉田殿

2019年06月16日 17:24

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/16(日) 01:09:37.03 ID:0tIddNzO
吉田殿(吉田兼見か)の所有する山に松茸が生えたのだが、松茸の有ることが他所に聞こえると
いろいろと煩わしいと思い、ずっと秘密にしていた。ではあったが長岡(細川)幽斎へは少しばかり
贈りたいと思い「これは私どもの山に生えたのですが、世上には隠しています。ですがあなた様には
進上いたします。どうか他所へは秘密にしておいて下さい。」と遣わされたが、これに対し
幽斎は狂歌を詠んだ

『松たけの おゆる(生える、勃起を隠喩)を隠す吉田殿 わたくし物(秘蔵のもの、男根の異称)と人やいふらん』

(きのふはけふの物語)



172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/17(月) 01:26:50.49 ID:OuOOIOw1
>>170
忠興さんかと思った

今度織田事、依難遁天命、令自滅候

2019年06月16日 17:23

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/16(日) 01:45:44.25 ID:kYm8Gowg
足利義昭島津義久ノ物ヲ贈レルヲ謝シ、近ク京都ニ復帰セントスルヲ以テ、更ニ義久ノ助力ヲ請ウ、

『薩藩旧記雑録』

今度の織田の事は、天命を逃れた難により自滅せしめたものである。それにつき、残る輩が帰洛する
ことを切々と申すので示し合わせ、きっと入洛するものである。この節にとりわけての馳走は喜悦の
ことであろう。よって太刀1腰と黄金10両が到来したことには喜び入る。なお、昭光(注釈:真木
島)と明秀(注釈:一色)が詳細を申すものである。

(今度織田事、依難遁天命、令自滅候、就夫相残輩帰洛儀、切々申条示合、急度可入洛候、此節別而
馳走可悦喜、仍太刀一腰、黄金拾両到来喜入候、猶昭光、明秀可申候也、)

     天正10年(注釈:朱書き)

         11月2日        (花押)(注釈:足利義昭


           嶋津修理大夫とのへ(島津義久

(注釈:義昭が毛利輝元を頼って京都に帰ろうとして果たせず、輝元をもって秀吉に説かせたことは
10月21日の条に見える)

――『大日本史料』



給仕の小姓が久太夫の膝に酒をこぼして

2019年06月15日 16:42

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/15(土) 16:36:00.28 ID:3D0ngM4y
葉隠、>>15
一つ目:水戸光圀が米俵に腰掛けたら老婆に「殿様に差し上げる米になんとする!」と叩かれた逸話に酷似
二つ目:細川ガラシャの辞世の句に酷似
(ガラシャ死亡時の話も石田軍記によれば~という形で葉隠にはあるが、ガラシャの辞世の句についての記載はなし)
三つ目:石田三成の三献茶の逸話に酷似

以外にも、戦国じゃないけど

鍋島綱茂が部屋住みの頃、松平直矩のところで夜会が催された際、鍋島家に仕える喜多見久太夫という老人も参加し、戦ばなしに花が咲いた。
夜が更けたころ、給仕の小姓が久太夫の膝に酒をこぼして一座興をさまし、小姓は赤面して退出した。
他の小姓がすぐさま久太夫を別室に案内し着替えさせた。
後で確かめたところ、久太夫が漏らしたのを一座のほかの者にわからないよう、小姓が気を利かせたということだった。」

という「徳川家茂が習字の師匠の戸川安清に水差しの水をかけて漏らしたのをごまかした」という話に似ているのもあった。
葉隠が佐賀藩でしか読まれていない頃に登場人物変えて逸話を作ったのか
葉隠が他国の有名な逸話を教訓のために、自国の人物で間に合わせたのか。



19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/15(土) 20:18:52.66 ID:htHAqd+0
>>18
>水をかけて漏らしたのをごまかした
昔の2ちゃんコピペの、女子生徒が漏らしたのをごまかすために主人公がバケツの水かけて~ってやつの元ネタがこんなに古いとはw

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/15(土) 20:23:39.89 ID:ArceekMi
漏らしたことを末代まで語り継がれる老人

鍋島直茂が寺で湯を所望したところ

2019年06月15日 14:14

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/14(金) 20:04:13.92 ID:OGK4Yufa
「葉隠」読むとどっかで見たが三つほどあった

一つ目はまとめの4607で出ていた
鍋島勝茂が農家の庭で米を跨いだら老婆に足を打たれた話

二つ目
勝茂に殉死した中野杢之助の扇子に
「惜しまるゝとき散りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」
と辞世の句?一首が書かれていた


三つ目
鍋島直茂が寺で湯を所望したところ
そこの生運という住職が
初めは湯を少なめに、次は多めに出して、直茂を感心させ、そのまま召し出された話。



16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/14(金) 20:47:15.19 ID:EI+bsoH8
茶坊‘S 何人おるねん

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/14(金) 20:55:45.50 ID:OGK4Yufa
すいません、二つ目もまとめの6267で出てました

内裏様のみしり

2019年06月14日 16:25

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/14(金) 12:23:58.89 ID:IHLOoPFL
織田の信長殿は内裏様を殊の外大切に思し召し、村井春長(貞勝)を奉行に付けられ、禁中のこと
尽く御修理をされた。この事についてうつけたる者が申すには

「内裏様の御念者(男色相手)は村井殿じゃ」

「何故に」

「今日も内裏様のみしり(御修理と御尻をかけている)をゆかせられるといって、日々御出であるから
そうかと思った。」

と言った。

(きのふはけふの物語)



江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ

2019年06月14日 16:24

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/14(金) 12:52:11.46 ID:IX8PHLFL
江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ、横行シテ人ヲ害ス、幕府、ソノ首魁ヲ磔シ、余党ヲ誅ス

【参考】

『直江重光(兼続)書翰留』

(上略)あなたが近日、かぶきを御調査されていることに関して、旦斎が御子息の新二郎殿を御
気遣いなさっているとのことです。実否はどうなのかと御心許ないのです。(中略)

(其元近日かぶき御穿鑿ニ付而、旦斎御子息新二郎殿御気遣之由、実否如何無御心元候事、)

     8月13日

         千坂伊豆守殿(高信。上杉家江戸家老)


(上略)旦斎より御知らせが届きました。御子息の新二郎殿の様子について未だ解決していない
とのことは、全くもって気の毒です。その事について旦斎へ書状を進め置きました。(中略)

(旦斎より御報相届候、御息新二郎殿様子未相済候由、笑止千万候、右之儀ニ付而旦斎ヘ書状進
置候事、)

     9月14日

         千坂伊豆守殿


すぐに御知らせを示し下されましたことを忝く存じます。そして御子息の新二郎殿を御気遣いな
さっている様子を承り、御心許ないものと存じます。きっとその他の御気遣いはないものと推し
量っております。なお、追って御意を得られることでしょう。恐惶謹言。

(乍御報示被下、忝令存候、然者、御息新二郎殿御気遣之様子承、無御心許令存候、定而不可有
異儀候由、推量仕候、猶追而可得御意候、恐惶謹言、)

     9月14日

         小旦斎様
             人々御中

――『大日本史料』