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筆の初めという意味で

2019年10月17日 18:15

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/15(火) 10:53:53.87 ID:lRr5lqDI
丸森町の筆甫地区って政宗が検地の最初に書くから筆の初めという意味で
筆甫にしてるいい話あるやんけ。
地名残すも大事よ

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膳城素肌攻め

2019年10月17日 18:09

518 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/10/17(木) 14:21:19.72 ID:HO4sb0ij
天正八年九月下旬、武田勝頼は上野国厩橋城へ出陣した。今回は東上野の先方衆に、西上野の兵を加えて
大胡、山上、伊勢崎などの城を攻め落とすつもりであった。また自身でその周辺も見て廻り、翌日には
膳城の様子を窺おうと、一条右衛門太夫信連、原隼人佐昌勝、真田安房守昌幸、土屋宗蔵昌恒以下を
引き連れ、持小旗だけの軽装で、総勢、武具も付けずに出発した。

当時膳城は、先年に金山の由良信濃守国繁の持城と成り、地勢をよく知っている大胡民部左衛門を主将、
渋皮主膳正を副将として守らせていた。

さて、この時城中では秋の月見の宴が開かれており、皆は気散じの酒盛りをしていた。ところがその席で
思いがけなく、玉村五郎兵衛という侍が渋皮主膳正と口論を始め、それに那波、伊勢崎、片岡と言った者達も
加わり、あまつさえ双方の家人小者たちまでもを巻き込んで、二手に分かれて収拾のつかぬ混乱となった。

この有様に大胡民部左衛門は怒り大声で叱咤した
「このような時に強敵である武田勝頼が攻めてくればどうするのか!勝頼は隣の厩橋城に来ているのだぞ。
そのための防備こそ急がねばならないのに、酒を食らって喧嘩をするとは何事だ!恥を知れ!」

しかし誰の耳のも入らず乱闘を続けていた。

そんな最中、この膳城に武田衆が到着した。
勝頼も城の中がなんとなく普通でないと察したが、自分たちは武器も持たず素手のままであるので
手を出すわけにもいかず、一旦取って帰ろうとした。

膳城の門番は武田衆に気がつくと驚いて城中に注進した。しかし混乱の中下知するものもおおらず、雑兵達は
勝手勝手に柄道具を手に取り出撃し、まず武田方の倉賀淡路守秀景に襲いかかった。
武田方ではこれを見て西上野衆が取って返し、雑兵たちを取り押さえようとしたところ、これに釣られ
武田衆は総勢がどっと引き返してきた。雑兵達はうろたえ城中に逃げ込んだが、武田衆もこれを追いかけ
虜にしようと堀際まで押し寄せた。

この時勝頼は、故信玄より不用意な城攻めを固く戒められていた事を思い出し、皆に引き返すように
下知したのだが、時既に遅く、土屋宗蔵の手の者である脇又市郎という若者が木戸を押し破り廓の一部に
押し入った。続いて同じ手の者の一宮佐太夫も押し入り、城兵六人と渡り合っていた。一宮はかなわじと見て
引き返そうとしたが、脇又市郎だ「死しても退くべからず」り声をかけて踏みこたえ戦った。

この間に武田方では一条信連の組より浅見治部太夫、堀喜右衛門、中根七右衛門などの歴戦の者共が
駆けつけ、平服のまま切り込んで敵を廓内に追い込んだ。
しかし寄せ手は素手のままであるし、城兵は仲間喧嘩の真っ最中で、双方とも不用意の戦となった
わけである。

それでも城中には腕に覚えの有る侍たちも居て、勝頼の家臣でかつて遠州高天神城の戦いでも
高名をはせた、小笠原民部の家来である林平六郎が討ち死にした。また原隼人佐昌勝も攻め入って
敵七人に取り囲まれて戦っているうちに、小溝に足を踏み入れ、立ち直ろうとする所を真っ向から
眉間に切りつけられて倒れた。曲渕勝左衛門が彼を肩に担いで城外に連れ出し、原の付き人に渡したが、
後に甲府に戻ってから死んだ。

脇又市郎は最後まで戦いよく首も取った。彼は甲府の足軽大将・本郷八郎左衛門の甥で、駿州の先鋒である
脇善兵衛の養子となり、かつて三州長篠合戦に於いて二ヶ所の傷を負いながらも功名を上げた侍である。
この時二十五歳であった。

このような中、皆に心すべしと説いていた主将の大胡民部左衛門も寄せ手の浅見治部太夫に討たれ、
残兵悉く撤退して城は落ちた。

519 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/10/17(木) 14:23:30.93 ID:HO4sb0ij
これに勝頼は大いに喜んだ。父である信玄も多くの城を落としたが、勝頼のように防具も付けす
素手のままで城を落とした事はない。宿老の勝八太郎などは、これまで勝頼を少しでも早く成長させ、
采配を渡したら自身は剃髪して介添と成り、先陣を仕ろうと思っていたが、勝頼がこれほど潔く
育ったからには、おそらく敵の三重の柵はおろか、十重の柵も踏み破って戦っても負けることはないだろうと
気を強くした。

このように褒めるものも居たが、批判するものも居た。

「今もし、敵の中に楠正成のような智謀の良将がいて、偽って同士討ちの体に見せかけ、これを見て
好機と思い素手で城攻めすれば、寄せ手は片端から生け捕られ、生きて帰る者は一人も居なかったであろう。
勝頼公は血気盛んで猪武者だったからこそ、五年前長篠の戦いであのような大敗を喫したのではないか。
あの時敵の三重の柵を破ることが出来ず、信玄公以来の名だたる名将を数多く討ち死にさせてしまった
ではないか。」

そのように嘆くものもあり、事実今度の戦いで死んだ原隼人佐は、その長篠の戦いで生き残った
数少ない勇将であったが、跡部、長坂という勝頼の佞奸どもに家法、軍法が歪められていくのを見るより、
いっそ討ち死にしたほうが良いと思って、今度の戦いに自ら身を投げ出し戦死したのだろう、などと
言われたのである。

(関八州古戦録)

武田勝頼の有名な「膳城素肌攻め」についてのお話



神梅一党の事

2019年10月16日 17:06

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/16(水) 14:21:58.97 ID:yXUU6QxE
東上野勢多郡神梅郷は、松島式部入道古柏、愛久沢能登入道有伴の二人が頭として、
地侍たち数代の暮らしを支えてきたが、彼等が仕えているのは桐生大炊介直綱(助綱)であった。
しかし桐生家が衰えてからは小田原の北条氏の幕下に入り、一年の内一、二度、小田原へ参勤する
他は、他家との関わりは一切なかった。

ところが天正七年、由良信濃守国繁が
「神梅の郷士たちが、一番に近い我が金山に服さず、小田原に参勤するのは奇怪至極である。」
と言い、攻め寄せてきた。

当時、元々の主家であった桐生家は、伊勢崎の荻田備後守に乗っ取られようとしたのを、金山の
由良氏に救援され今もわずかに虫の息を保っていたが、所詮金山の先方たらざるを得ず、
その桐生の兵とともに、金山の藤生紀伊守(善久)、金谷因幡守に率いられた兵に、新田、山高、
津戸、吉次、広沢、荒戸、本宿の地下人百五十人余りも加わり、塩原表へと打って出て、明神の
森に陣を取った。神梅一党を討ち滅ぼすためである。

金谷因幡守はその他の諸士、郷士一千余人を引き連れ梨の木坂の上に陣を進め、後陣の藤生紀伊守との
連絡のため、伊藤右京亮、木村縫殿介に弓三十人を塩原の陣に置いて出撃した。そしてこの部隊は横瀬山の
峰を越えて元原へと出ようとした。

神梅勢より出張っていた強戸、高草木の者達がこれを見て「桐生、金山の勢が押し出してきた!」と、
神梅の松島入道に報告した。入道は「来たか。小勢ならば討ち取って神梅の土産にせよ。」と命じた。

神梅勢はもとより地形に詳しい強みが有り、敵が小勢ならばとたかをくくっていたのだが、最初のうちこそ
勝利したものの、徐々に敵の圧力に押され、だんだんと討ち取られていった。
そこで松島入道、愛久沢能登守以下の者達は神梅に寄り合い評定し、松島入道はこのように言った
「敵はわれら神梅党本来の成り立ちを知らないため、このような事が起こったのだ。」

そもそも鎮守府将軍源頼義が、奥羽での前九年の役にて安倍宗任、貞任兄弟を討ち、京へ報告するため
嫡男八幡太郎義家を代官として差し向けた折に、降参の夷賊七百三十人余りが旧主の名残を惜しんで
この国まで来た。この時、義家が「かねて朝廷で定められている数、百人以上を連れることが出来ないため、
これより皆奥羽に戻るように。」と言った。しかし松島、愛久沢の党八、九十人は、今後奥羽との飛脚の
中継としてこの神梅の山中に残ることと成った。その後桐生家の配下として安堵を得たが、本来は
鎮守府将軍の旗下であり、それ以外の誰の命も受けぬ者である、というのが彼等が先祖より言い伝え
られてきた事であり、この松島入道、愛久沢能登守の二人の老人も自任し、また神梅衆全体の
誇りでも有った。

しかし今はそうも言っておられず、このように桐生金山の兵に攻められては一旦勝つことが出来たとしても
最後には負け、神梅は滅ぼされてしまうため、ここは事の次第を述べて和睦したほうが良いと、松島入道の
長男である松島弥四郎に、丈目、平沢などという郷士が付き添って高津戸の敵陣へ向かった。

高津戸で藤生紀伊守、金谷因幡守と対面して趣旨を述べると、この上は人質を差し出すべしとして
和睦が成った。そしてこの事を金山の由良国繁に報告する間、この三人は高津戸の陣に留め置かれたが、
神梅の者達は不安になって、三百人ばかりが徒党を組んで迎えに来た。

ところがこれを見た梨の木坂の金山勢が「すわ!敵が来た。」と思い、五百騎ほどで突撃し、
横瀬の北と南の表で合戦と成った。互いによく戦い、未だ勝負のつかぬ所に、金山より和睦が成立した
との伝令が届いた。『向後は互いに見方である。』との由良国繁の言葉に一同唖然とした。
この戦いで桐生の兵百七十人余りが死に、また坂の麓ではこの和議のため使いとして来た松島弥四郎も
討たれ、付き従った丈目、平沢も深手を負い、神梅に引き上げた後、二、三日で死んだ。

その後松島、愛久沢より小田原の北条氏政へ事の次第を通達し、返事はなかったという。
以後、神梅の郷士は金山の由良国繁の旗下となった。

(関八州古戦録)

現在の群馬県みどり市あたりに在った、神梅郷士たちについてのお話。



週刊ブログ拍手ランキング【10/10~/16】

2019年10月16日 15:13

10/10~/16のブログ拍手ランキングです!


太田三楽斎追放 12

大関高増の逆心 8

三楽斎の小田城乗っ取り 7
小西行長捕縛 6
臼井城攻防戦 6

小田城再乗っ取り 5
里見勝広の滅亡 4
里見騒動 3 


今週の1位はこちら!太田三楽斎追放です!
この太田三楽斎追放、実際には実子で親北条派の氏資によるクーデターの側面が強かったようですね。彼はこの時
異母弟の梶原政景やその母を幽閉しています。追放された父親のほうが長生きしたのも含めて、武田家を連想してしまいますね。
三楽斎も武田信虎に劣らぬアクの強い人物ですしw
岩槻の太田家は、氏資が三船山の戦いで討ち死にしたあと、北条氏政の三男北条国増丸がその娘を娶ってあとを継ぎ、
北条家に内包されます。このお話の中で北条側の謀略が強調されているのも、そういった結果があっての事でも有るのでしょう。
当時の関東国衆の不安定さもよくあらわした、そんな内容だと思いました。

2位はこちら!大関高増の逆心です!
いい悪いスレでは有名な大関高増が逆心に至る過程。ただまあ、この内容であれば当時的にはむしろ当然逆心おこすだろ、
という話ではありますねwそもそも当時の配下国衆は厳密な意味では家臣ではなく、内部的には独立していて、従う形であれ
同盟に近い存在であり、だからこそ那須家の頭越しに佐竹と連絡も取るわけですね。これが近世に入ると国衆も主家を頂点に
大名の家中組織に組み込まれ家臣化するわけで、その部分で戦国期と近世の意識の断絶は確かにあるな、と感じます。
大関氏の話は、戦国期、あるいは中世国衆の典型を表しても居るのだろう、そんな事も思わせてくれるお話ですね。

今週管理人が気になった逸話はこちら!里見勝広の滅亡です!
この里見勝広という人、もともと無位無官の浪人で、桐生助綱によって引き立てられるまで何をしていたかよくわからない
謎の人物でも有るのですね。安房里見の一族ということなのですがどこまで本当なのかw
このお話の中で奸臣とされる津布久、山越といった人々は、養子として桐生助綱の後を継いだ桐生親綱の実家である
佐野家より付き従った人々であり、その面から見ると新旧の当主側近の権力闘争であった、と見ることができるかも
しれません。結果として桐生親綱の時代に桐生家は滅亡し、そのため津布久、山越なども、桐生家の道を誤らせた奸臣と
記憶されたのでしょう。このあたり、里見勝広の最後も含めて、どこか甲斐武田家を連想させる気がします。
また当時の関東諸侯の関係の複雑さも考えさせてくれるお話だと思いました。


今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

里見勝広の滅亡

2019年10月15日 18:06

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/15(火) 14:54:40.83 ID:pTZaer+B
このころ、東上野山田郡高津戸において無残なことが有った。その始末を尋ねると、房州里見家の、
天文七年の国府台の戦いにつきあたる。この戦いで生実(小弓)の御所・発性院足利義明が討ち死にするが、
その義明に加担して軍功のあった里見刑部大輔義堯の叔父に、里見上総介実堯という人物が有った
(実際には実堯は義堯の実父であり、稲村の変で主君義豊に謀殺されており、ここでは桐生家重臣となった
里見勝広と混同していると思われる。以下里見勝広として記す)。この戦いの後、里見の頭領で甥である
義堯と不和に成り本国を出奔し、東上野に来て、一族の由来を以て仁田山の里見蔵人の家人と成った。
その後、弘治年間、上杉輝虎に攻められ仁田山城が落ちたことから桐生へと移った。

桐生大炊介直綱(助綱)はこの勝広が高家の余流であり(新田源氏は足利御一家とされた)、武勇にも
優れている所から礼儀を尽くしてもてなし、一門の列に加え、赤萩という所に砦を築いて城将とし、
仁田山八郎をつけて守らせた。

この桐生助綱死後、養子の又次郎重綱(親綱)が後を継いだが、奸臣の津布久(刑部)、山越(出羽守)
らに壟断され、家法が廃れて席次が乱れ、里見勝広も度々譴責されたが、幸い親綱はそれを聞き流していた。
しかしこのままでは将来がないと見た勝広は、嫡子平四郎実勝、次男兵部少輔勝康に、家人の
正木大倉左衛門を付けて密かに赤萩を立たせ、越後へやって上杉輝虎に仕えさせたのである。
その後この兄弟は佐渡、越中、および本庄の城攻めなどで抜群の働きをしたため輝虎に厚遇された。

その間父である里見勝広は老後を赤萩に残って日を送っていたが、例の津布久、山越らの悪家老が
桐生親綱に有りもしないことを讒言して、終に詰腹を着る仕儀に至った。すなわち、桐生家より
山越出羽守、荒巻式部太夫、斉藤丹後守、藍原左近太夫、津久井和泉守、風間将監、清水道仙、
内田主馬之介、水沼主税介らが人数を引き連れ赤萩へ押し寄せたのである。

これに里見入道(勝広)は少しも騒がず
「定めて桐生よりの討ち手であろう。子の兄弟が居合わしていれば私も采配を振るって華やかに
一戦を仕る所であるが、今はもう甲斐のないことである。腹を切って相果てる事としよう。」

そう言ったが、側に仕える石原石見守がそれを制し

「生害はいつでも出来ます。ひとまず谷山へ退き、御運の末を見届けてからになさりませ。」と言った。

これに近習の大貫佐兵衛弘景兄弟は
「この仕儀に至って谷山へ退かれたとて、老木に花も咲きますまい。逃れようとして却って見苦しい
有様に成っては、越後の二人の御子息まで面目を潰します。この上は寄せ手に一矢なりとも報いた上で
御生害あってしかるべきです。」
そう諌めたが、石原は無理に引き立て裏山より勝広を落ちさせた。

大貫兄弟は「今はもう主従三世の縁もこれまでである。せめて落ちられるまでの防ぎ矢を仕らん。」
と、長男彦八郎、次男彦七郎、弟の源左衛門、郎党筒田三郎右衛門らが打ち連ねて大庭に躍り出、
最後の杯を交わす間もなく敵に切り込み、思う様に切りかかり、瞬く間に敵のうち名のある
清水入道道仙、水沼主税介、風間将監の手勢から二十騎を討ち倒し、全員討ち死にをした。
大貫佐兵衛父子は館に火をかけ煙の中より打って出て戦い、切り死にした。

一方、里見入道勝広は石原石見守に連れられ谷山までどうにか落ち延びたものの、そこで石原は
たちまち変心して入道に生害させ、その首を証として敵陣へ送った。このため石原石見守を憎まない
者はいなかった。

(関八州古戦録)

何故か里見実堯と混同されていますが、桐生氏より仁田山赤萩を任された里見勝広の顛末。



里見騒動

2019年10月14日 17:05

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/14(月) 12:28:02.56 ID:qrq/6fPw
天正六年五月四日、房総の里見左馬頭義弘が上総の国浦田城で死去した。かねて遺言があり、
嫡子である刑部大輔義頼(弟で養子とも)へ安房一国、弟に下総の領内半分を与え、房州館山に在城の事、
次男梅王丸へは上野国を譲る、しかし未だ若年なので天羽郡佐貫の城主・加藤伊賀守が後見すべし、
とあった。そして下総の残り半分は末の娘の化粧田として、都合三ヵ国の家人は、義頼・梅王丸の
領地の2つに分かれて奉公するように、とあった。

梅王丸と妹君の母は上総千本城主・東平安芸守の妹で、加藤伊賀守の孫娘にあたるため、
幼少の姫君とともに亀の城へと移った。

ところが里見義頼は、自分に譲られた領地があまりに少ないことに怒り、内々に加藤伊賀守に
相談し、梅王丸を房州の円明寺にやって春斎(淳泰)と名乗らせ剃髪させ、わずかに二十貫文の厨料を
与えて館山の城へ押し込んだ。その上母堂および妹君は、上総国高滝の琵琶が首という所に小さな居宅を
普請して移した。

この事を母堂は恨みに思い、「我が身死なば悪霊と成って義頼に取り憑くであろう。」と歯噛みして
口惜しがった。また梅王丸の所領であった上総の領民たちが、東平安芸守、同右馬允父子にけしかけられ
方々で一揆を起こした。

義頼はやむなく、東平父子を討つため正木大膳亮時義を大将に立てたが、これに加藤伊賀守が
反対し数日間内輪もめが続いた。かといって今更房州の寺にやってしまった梅王丸を引き戻すという
わけにもいかず、結局、久留米、千本を根城とする東平父子へ強く談じ込み、条件をつけて収まった。

また梅王丸についた一族も、円明寺の住持を通じて歎訴してきた事で、ある程度その意向を聞き、
上総、下総を平均して義頼の持ち分とした。

その後義頼は春斎を還俗させ、里見讃岐守義成(義重)と名乗らせ、所領一万石を分け与えた。

(関八州古戦録)

里見義弘死後の、里見の騒動の模様。



515 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/10/16(水) 10:49:58.51 ID:37WPgNMg
>>512
この大膳亮って誰だろう?
梅王丸の側近である当主の憲時か、それとも勝浦の時忠か

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/16(水) 10:51:49.41 ID:37WPgNMg
時忠じゃない、頼忠だった(´・ω・`)

小田城再乗っ取り

2019年10月13日 17:43

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/13(日) 15:15:04.76 ID:EPNnuZ5J
>>508 の後のこと

小田天庵(氏治)と彦太郎守治父子は、小田城は取り返したものの、昨年大晦日の遺恨を果たすべく、
真壁暗夜軒道無(氏幹)を討とうとしていた。

天正元年(1573)四月下旬、小田父子は4千の兵を率いて筑波根の尾根続きである青柳山を越え、
新治の乙幡村へ着陣した。ここは真壁氏幹の領内である。小田勢は家という家に火をつけ狼藉を
働いた。

乙幡より太田源左衛門資晴の居る柿岡は行程一里半ほどの場所であるので、この噂はすぐに伝わり、
資晴はこの事を片野に居る父の三楽斎へと伝えた。三楽斎こそ、昨年真壁とともに小田を追い落とした
張本人である。三楽斎父子の他に、太田新六郎康資も共に資晴の加勢に来た。
しかし太田勢は小勢、小田方は多勢であるので、一戦を交えると太田方はすぐに近くにあった古屋敷に
駆け込み、その中に立て籠もった。そして小田勢が退くと打って出て、返せば古屋敷に逃げ込み
立て籠もる。そんな事を4、5回も繰り返して時を稼いでいるうちに、真壁氏幹と息子の右衛門太郎広幹が、
次男右衛門次郎久幹、甥の掃部介たちを引き連れ駆けつけ、小田勢が西の方より押し寄せると聞いて、
その方へと馬を急がせていた。所がそうではなく乙幡に敵が有ると解ると、山手に出ようと近道を駆けた。

真壁勢が近づくのをはるかに見た小田天庵父子は「これこそ当面の敵である。」と、太田父子を捨てて
真壁勢に向かった。この場所は三方を山に囲まれ、その中に十町ばかりの平場が有った。狭い場所であるが
小田勢はその中いっぱいに、蜘蛛の子を散らしたように待ち伏せた。

真壁氏幹はこれをよく見破り、先鋒が矢を射かけようとするのをしばらく止めると、敵の先鋒には
目もくれず、弓鉄砲を敵の本陣に向かって激しく射込ませた。小田勢はまたたくまに裏崩れをはじめ、
右往左往した。

(中略)

かくして小田勢は敗北し、もと来た道をしどろになって退く所を、真壁勢はすかさず追撃した。
天庵父子は帰りの四里ほどの道を、一度も返すこと無く逃げていった。
この時、未だ古屋敷に籠もっていた三楽斎父子は軍勢を外に出すと、逃げていく小田勢には手も触れず
ただその傍を一緒にどこまでも走った。そしてやっと小田城の近くになると、小田勢が言っているのと
同じようにわめきながら、味方を装って敵とともに手勢もろとも城内へなだれ込んだ。それから城門へ
上がって太田の旗を押し立てた。

これを見た天庵父子は歯噛みをして口惜しがり、残兵を集めてすぐに奪い返そうとしたが。後より
真壁勢がすぐに追い付いてきたため、このまま前後を敵に挟まれてはどうにも成らないと、城を捨て、
天庵は藤沢城へ、彦太郎守治は木田余城へ逃げ込み、後日の運に任せたという。

(関八州古戦録)

天庵様が鬼真壁に敗れるというお話。なんで直接小田城乗っ取りを企てた太田父子ではなく
真壁氏幹を目の敵にしたのかはよくわからない。


三楽斎の小田城乗っ取り

2019年10月12日 15:49

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/12(土) 12:05:11.95 ID:zZ547gHR
常州の小田讃岐守入道天庵(氏治)は、家の吉例の行事として。毎年十二月の大晦日の夜、
家臣を集めて連歌の会を催し、これを年忘れとした、その後夜明かしで酒宴を張るのも
恒例となっていた、

この頃太田三楽斎は片野の砦に住んでいたが、この事を知って色々と工夫をしたが、ついに
小田城を乗っ取ろうと決心した。
そのころ天庵は藤沢城に住み、小田城には息子の彦太郎守治が入っていたが、彼のもとでも
この行事は行われていたのである。

三楽斎はまず、真壁氏幹入道道無に相談し、佐竹、多賀谷も巻き込んで密議を行った。
彼はこのように説明した
「これは必ず成功する。小田城中には二、三内応する者もあり、大晦日の夜に兵を出せば
正月には城はこちらの手にあるだろう。」

これに多賀谷側より「その内応する者とは誰か」と問われると、三楽斎はそれらしき書状を
二、三出してみせた、それで安心したものか、真壁、多賀谷、佐竹も彼の企てに同意した。

その年の大晦日、三楽斎父子、同新六郎康資、真壁掃部介、坂本信濃守、佐竹より岡谷縫殿介、
根本太郎、多賀谷より家人の白井全洞などが集まり、小田城近くまで進んだ。そこで人馬を休めつつ
手引の者を待ったが、いっこうに現れない。
佐竹側が
「三楽斎殿、これはどういうことか」
と尋ねると、

「内応のものが有ると言ったが、あれは嘘だ。」

と答えた。
一同驚き
「嘘だと言うが、証拠の書状まで見せたではないか。」
「だからそれが嘘である。」
「ではあれは偽の書状か」
「いかにも。そうでもしなければあなた方は同意しないと思った。」
「それは酷い。そのような事なら我々は帰る。」

憤る彼等に三楽斎は
「まあ待て、連歌のことについてはよく調べてある。小田城の者達は必ず遊び呆けて酒に成り、
家中一同は酔いつぶれて物の役に立つものは一人も城中に居ないだろう。
ここは一つこの三楽斎に任せて頂きたい。決して悪いようにはしない。」

こうも三楽斎の術中に落ちた以上、一同も今更否とも言えず、夜明け近く、貝を吹き盾を叩き、
一斉に鬨の声を上げ小田城に攻めかかった。三楽斎の旗本である益戸勘解由、高橋上野介、石井峰岸
などの勇士は真っ先に大手門を押し破り城中へと乱入した。

小田方はこんな事が起こるとは夢にも考えておらず。連歌の後の酒宴で酔いしれていた所で、寝耳に水の
驚きようであり、周章狼狽はその極みに達し、太刀よ物具よと探す者はまだいい方で、堀を乗り越え、
狭間に潜って逃げ出し、敵を防ごうという家来は一人も居なかった。
彦太郎守治も仕方なく脇虎口より逃れ出て、菅谷金吾入道全久の木田余城へと退散した。
三楽斎はやすやすと小田城を乗っ取ったのである。そしてしばらく番兵を入れて様子を見ていたが、
取り返しに来る様子もなかった。

ところが二月に入って異常に雪が降ったのだが、その大雪の日に小田彦太郎守治は、菅谷、大藤、月岡
といった家臣を率いて不意に押しかけ、小田城を取り戻した。
こうして元のように小田守治が城主に戻ったのである。

(関八州古戦録)

続き
小田城再乗っ取り


小西行長捕縛

2019年10月11日 16:53

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 16:37:31.03 ID:zZQFSs+H
(前略 >>495

かくて行長(小西行長)は「大坂へ忍び行こうか、または薩州へ落ち行こうか、ただ居城へ赴こうか」と様々
に思案したけれども、敗北の従臣共は1人も尋ねて来ない。あまつさえ東兵は八方に充満し、落人を探し求め
たので、翼が無くてはこの場を漏れ出る様子も無い。

行長は今は運命これまでと思い切り、住僧に向かって「不覚者に与して快き戦もせず、無下に敗北したことは
口惜しい。しかしながら、いつまでもここに忍んでも運の開く我が身にあらず。自害しようと思っても、私は
年久しく耶蘇宗門を崇んでいる。天帝の法として、自らその身を傷つけることを深く慎み嫌う。御僧が今まで
深く労り隠しなさった厚志の返礼に、この命を進上する。徳川殿へ注進なされ」と言った。

これに住僧は「『窮鳥懐に入る時は、猟人も之を殺さず』と言うのだとか。ましてや僧侶の身であれば猶更で
す。ただいつまでもここに忍んで、時を待って運を開きなされ」と、もっとも頼もしく返事した。

ここに関ヶ原の近所に林蔵主という僧あってこれを聞き出し、9月18日、家康公が江州八幡山に陣しなさる
所へ参り、竹中丹後守重門を頼んで「行長は山中の賀須川寺に忍んでいます。人数を向けなさるならば、案内
して虜にします」と訴えることにより、かの僧に竹中丹後守を添えてその他大勢を遣わしなさった。

林蔵主は寺へ帰り強力の悪僧5,6人を伴って行くと、討手の輩を門外に残して自ら悪僧共を連れて、小西の
いた座敷へ忍び入って窺うと、小西は前後も知らずに伏していた。僧従は喜んで密かに側に置いていた刀脇差
を盗み取って俄に押し入り虜にしようとした。その音に小西は驚いて起き上がり、僧2人を取って押さえ膝下
に押し込み刺し殺そうとすると太刀脇差が無い。そこへ悪僧4人が前後左右より飛び掛かり組み留めようとす
るのを、小西はすかさず取って投げ付け押さえた2僧を押し殺した。

時に門外にいた竹中重門は大勢を率いて押し込み、ついに虜にして疲馬に乗せ八幡へ来たり、小西を献じた。
家康公の御感あって、抜群の功として竹中に小西が差していた光忠の刀と兼光の脇差を当座の褒美として賜わ
り、次に林蔵主を召されて黄金10枚を賜った。

諸人は皆、かの出家に似合わぬ任侠をあまねく憎み謗ったが、天罰かまたは小西が怒れる報いなのか、かの僧
が黄金10枚を賜わり帰るのを近辺の盗賊共が聞き付けて押し込み、僧従を残らず搦め置き、かの黄金宝物を
ことごとく奪い取り、あまつさえ林蔵主の耳鼻手足を断って逃げ行けば、林蔵主はその夜中に狂死した。因果
歴然の道理また宜かなと、聞く者は舌を巻き恐懼した。

さて行長は10月朔、石田・安国寺と共に各々雑車に乗せて洛中・洛外・大坂・伏見を引き渡し、三条河原に
おいて首を刎ね梟首せらる。嗚呼憐れむべし。

――『古今武家盛衰記』



大関高増の逆心

2019年10月11日 16:11

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 13:55:59.33 ID:ODWSD4PY
下野国那須家には、党七騎(那須七党)と称する旗本が有った。いわゆる大関、大田原、芦野、福原、
千本、医王野、岡本である。中でも大関右衛門佐高増は智謀に優れ、七党の中でも抜きん出て、那須家の
柱石とも成っていた。しかし先年の小田倉原の合戦に先陣を切って手柄を立てて以来、党の他の輩からの
高増に対する妬みが増し、一方の福原弾正左衛門資経(那須資郡那須資胤の弟)の功のみを吹聴するので、
高増はそれが面白くなく、病と称して出仕しなくなった。

那須資胤はこれを怒り、また出る杭は打つに限ると思ったのか、大関の家人・松本美作守を呼び、
密かに高増を殺すように命じた。松本はやむなく了承して黒羽城へ戻ったが、その一部始終を高増へ語り、
御屋形様の命であり、これを断っては即座に誅せられると思い引き受けた、と言った。

大関高増はこれを聞くと
「罪なくして亡ぼされるのは無念である。そもそも殺す理由が不確かででたらめである。」
そう憤り、逆心を起こした。
彼はすぐに常州の佐竹義重に援軍を頼み、鳥山の那須資胤を攻撃することにした。この時佐竹と、
那須資胤を殺し、その二男である三郎義宗を迎えて那須家を継がせる内約を取っていた。

以後、黒羽の城に立て籠もって三年間、すなわち永禄六年の三月下旬より永禄九年夏まで、鳥山と
何度も繰り返し戦った。

(関八州古戦録)

大関高増の逆心について



506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 23:41:31.19 ID:TJDlXupl
黒羽城の芭蕉の館(奥の細道の際に芭蕉が黒羽に逗留したためこの名前)
の黒羽藩や大関氏一族の展示を見たら
外様にも関わらず江戸時代を通じて黒羽藩をずっと大関氏が支配していたからか
大関高増についてもここで言われてるほど黒くない印象だった。

展示されていた高増の伝記
・高増は大関弥五郎増次の養子であるが実は大田原資清の嫡男であった。
増次が戦死し、ほかに子供がいなかったため増次の父親の宗増は資清と和議して高増を大関氏の後継とした。
大関高増は資清が死んだ後は那須氏の重臣として政治的・軍事的に活躍した。
・>>503同様、活躍を妬んだ那須資胤により殺されそうになったため佐竹と組んで対抗。数年後資胤と和睦。
・和睦後、高増は未庵と号し、高僧・大蟲宗岑と問答。
自分自身を運命に翻弄されそうな存在とし、人生のあり方の悩みを宗岑に吐露したところ
「大切なのは過去ではなく今現在である」と諭される。
・主君の那須資晴に千本資俊・資政親子の討伐を命じられる。
高増は、資政に嫁がせていた娘を離縁されていたため、これ幸いと千本氏を殺害。
・小田原合戦の際、主君那須資晴に秀吉の元に参陣するよう説くが聞き入れられず、息子の晴増とともに秀吉のもとに出仕し、大関氏の所領安堵。

太田三楽斎追放

2019年10月10日 17:01

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/10(木) 12:42:52.59 ID:6oB8WiqO
永禄六年五月、小田原の北条氏康太清軒は、法華の僧を使いとして岩付城へ赴かせ、太田三楽斎(資正)に
このように伝えた

「この正月、国府台の合戦で思わず我等が勝利したが、これも弓矢を取る身の運不運である。
敵と味方に別れるのも時の勢いであろうが、もし今和睦をしても良いと言うなら、嫡子源五郎(氏資)に
家督を譲り、隠居されたい。そのようにして老後を心置きなく過ごされるおつもりなら、我が子氏政の
妹を源五郎に娶せ、自分がその後ろ盾と成り長く岩槻の社稷を守るであろう。」

そのように言い、それも二度までも使いが来た。その裏には、もし同心しないというのであればこちらにも
覚悟がある、という脅しの意味も含まれていた。

三楽斎も利口な男であったのでそのくらいの事は理解していた。しかし長年の兵乱に勢力は尽き果て、
この正月の合戦で兵の消耗も甚だしく、要害でもない平城でどれほど持ちこたえられるか先は知れており、
ここは一番和睦し、後日に事を謀ることが肝要であると、多年の宿意である上杉への肩入れを打ち切り、
小田原の意に従うことを決心した。

この事を伝えられた氏康・氏政父子は大いに喜び、すぐに吉日を選んで娘を岩槻へ送り、婚姻の式を挙げ、
千鶴万亀の祝をして、両家の昵懇はこの上なくまとまった。実に無意味な事である。

それからしばらく後、氏康は婿となった源五郎氏資に、垣岡越後守、春日摂津守などという太田家の
奉行職と相談させ、野州小山城、長沼城攻めを開始させた。しかしそれは氏康の策で、彼等を両城に
出陣させた後で、不意に岩付城を襲おうという密計であった。

三楽斎はその事に気づいており、またもとよりそのくらいの事は有ると思っていたので別に驚く事もなく、
何食わぬ顔で、密かに妾腹の子である梶原源太左衛門政景を招き、その場合に打つ手を色々と相談して、
政景に川崎赤次郎を添えて盟友である佐竹義昭(実際には義重 )の元に行かせ、自分は浜野修理介を
連れて、これも盟約の有る宇都宮三郎左衛門広綱の元へ向かった。

しかしこの事をすぐ、氏資に付いていた垣岡、春日が小田原に伝えた、氏政は早速太田大膳亮に兵二百騎を
付けて岩付城へ向かわせた。大膳亮はまたたく間に外郭を固めて二度と三楽斎を城に入れなかった。

ここにおいて三楽斎と梶原政景は浪々の身となり、政景のみは、弟の新六郎とともに佐竹に寄宿する
事となった。三楽斎はそのまま武州忍城の成田左馬助氏長を頼った。氏長は三楽斎の娘婿である。

ああ、世に前管領上杉憲政の旧臣は多いが、その中でも太田三楽斎と長野佐衛門大輔業正ほど
無二の忠誠を尽くし、上杉家の再興のため心を尽くした者があろうか。であるのに、時に利非ずとはいえ、
業正は箕輪にて討ち死にし(実際には病死)、三楽斎は今流浪の身となった。そして北条の武威のみが
したり顔となったのは皮肉なことである。

(関八州古戦録)

北条の謀略というより太田三楽斎が策に溺れた感強いな。



501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/10(木) 23:56:01.31 ID:wCzp0YSp
太田資正って、扇谷上杉ならともかく、上杉憲政の臣下だって意識あったんだろうか
扇谷上杉壊滅後は北条(古河公方)家臣で、謙信越山以降は独立路線でやってるよね

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 08:34:36.97 ID:ZngsXh4S
>>501
越相一和後の行動は完全に独立勢力でそ。

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 15:33:46.50 ID:tAqYfxfy
>>500
策に溺れたというより、身の危険を察して逃げたというべき
養父、義父が婿に討たれるなんてのはよくある話
北畠具教や宇都宮鎮房をみよ

臼井城攻防戦

2019年10月09日 17:22

259 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/10/09(水) 12:53:26.60 ID:KpTeOAT+
臼井城攻防戦

永禄6年の事
総州河西郡臼井の城は千葉介親胤の家老。原上総介胤繁が守っていた。
彼の父治郎座衛門胤高は、豊後守光胤の子で、その前は生実の城に居たが、発性院足利義明に追い落とされ、
弟中無少輔賢胤と共に臼井城へ逃げ籠もり、そのまま現在の上野介に至った。既にかなり長く居城としていた。

そこへ越後勢が押し寄せてきた。上野介はすぐに、千葉、佐倉へ救援を頼んだ。しかし人並み外れて
攻め足の早い輝虎であるので、臼井城を素通りして一気に千葉城へ向かうかもしれず、その時は
こちらが後詰と成る事も考えられ、ともかく攻めと守り両用の構えで待機することとし、とりあえずは
椎津主水正、椎名孫九郎に五百の兵を差し添えて臼井の城に残し、自身は加勢として大和田の砦へ
向かおうとした所、大和田より派手な赤一色の具足を付けた、松田孫太郎秀郷が、手兵百五十余人を
連れて駆けつけた。

この孫太郎は松田筑前守(康定か)の次男で、左衛門佐村秀の叔父にあたり、坂東に隠れない
剛の者で、常に主具足を好んで着け、金の鹿の角を打った兜を用い、数度の合戦で遅れを取ったことがなく、
その働きは「北条家の赤鬼」の異名で恐れられている歴戦の勇士であった。

四月二十日、月のまだ残る早朝の薄明かりの中に法螺貝の音が聞こえ、やがて陣鉦を打ち鳴らし、
上杉勢の攻撃が始まった。この城門へ向かって上がる鬨の声に、城中の武者である
臼井(白井)四郎左衛門入道浄三がまず軍配を取った。

この臼井浄三は、千葉より加勢に来た勇士で、最近まで武者修行のため上方に赴き、三好日向守(長逸)
の元にあったが、たまたま下向して臼井城に在り、よく城中の兵を押さえて好機を待った。

寄せ手の二陣は本庄越前守繁長で、第一陣と合流して一挙に城門を抜こうと攻めかかった。
臼井浄三は、頃は良しと弓鉄砲でこれに応戦し、城門をさっと開くと鬨の声を上げて突き出した。
先頭を切ったのは城主上野介の長男・原式部少輔胤成と、高城下総守胤長で、寄せ手の
長尾新五郎、富永主税介らと、たちまち火花を散らす攻め合いとなった。

そこに輝虎の下知で沼田の藤田能登守信吉、三上兵庫介正秋、石毛平馬持之、森下三河守が加わり、
柵を壊し堀を越えて、外曲輪七、八間ばかりを引き崩して城中に攻め入ろうとした。
これを見た原上総介の家老・佐久間主水正と、赤具足の松田孫太郎が飛び出してこれを支えた。
松田は大長刀を打ち振り、またたく間に沼田衆六、七人をなぎ倒し。今度は樫の棒に持ち替えて
騎馬武者めがけて打ちかかり、散々に暴れまわった。
負けじと寄せ手の本庄越前が横合いから打って出て、松田の仲間の橋本伝左衛門、陰山新四郎といった
歴戦の勇士を討ち取り、残兵を城中へ追い戻した。

そうしている内に曇っていた空より雨が降り始め、夕暮れとともに酷くなったため、寄せ手は一旦引き上げて
陣を張った。その夜は夜通し風雨が強く夜戦はなかったが、夜明けとともに風雨が収まると、上杉勢は
再び鬨の声を発して攻めかけた。しかし臼井浄三は再び音無しの構えでそれに応えさせなかった。

260 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/10/09(水) 12:55:53.73 ID:KpTeOAT+
輝虎は不審に思い「恥を知る侍も多くいる。城内の人数もそう少ないわけではないのに、
何も反応がないのは昨夕の合戦に疲れたのか、もしくは風雨が気に入らず黙っているのだろうか。」
そう疑問を発した所、海野隼人正が進み出て言った
「城中に臼井入道浄三という軍師が居ると聞いております。何か策が有ってのことではないでしょうか。」
これに輝虎は
「頃を見て打って出るつもりであろうが、空堀に柵を巡らせただけのこのような平城、何するものぞ。
一もみに揉み潰せ!」と下知した。

これを受けて長尾新五郎顕長が馬を乗り回して配下を指揮し、城戸、逆茂木を打ち壊し、えいえいと
喚声を挙げて無理矢理に攻め込み、たちまち敵二百ほどを討ち取った。もう少しで大手が破られそうに
なった時、思いもかけず城壁が崩れ落ち、寄せ手の雑兵八、九十人がその下敷きと成って死んだ。
「さては、やはり策か」と考えた輝虎は、直ぐに引き上げの貝を吹かせて退こうとすると、城中より
松田孫太郎を先頭にどっと騎馬武者が打って出て、上杉勢の背後より討ちかかった。
中でも松田は黒馬に黒地の旗指物、筋金の違い打の馬印を掲げ、より一層真っ赤な具足が目立ち、
赤鬼が暴れこんできたようであった。続いて原式部少輔が、隅赤の指物に十曜紋の旗をなびかせ、
兵四、五百を引き連れ攻め込んできた。

上杉勢の中からは北条丹後守(高広)が引き換えして踏みとどまり、これを迎え撃った。続いて
新発田因幡守(重家)も、金の福禄寿の前立の兜に白綾の幌をかけ、手兵七百騎を円陣に作り、
追撃してくる臼井勢を斜めに横切って後続を断った上、大手の城戸口を破る構えを見せた。
これを知った赤鬼松田は、原式部少輔と分かれて後退し、新発田の七百騎に手勢とともに突っ込んだ。
しかし大勢に押されて百余人を討たれ、やむなく原の勢とともに城中へ入った。

ここで、今が引き上げ時と見た輝虎は、これ以上戦わず上州へ帰陣した。

この時、赤鬼松田孫太郎の敵ながら衆に優れた見事な働きを、輝虎は高台から見て感じ入った。
北条家に於いてもこれを知り、氏政より感状が与えられ、相州田島に二千貫の加増が有った。

(関八州古戦録)



261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/09(水) 14:06:03.70 ID:9t5CcVx+
軍師は白井じゃなくて臼井なのか

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/09(水) 15:11:55.95 ID:KpTeOAT+
>>261
手元にある関八州古戦録には「臼井」に成ってますね。臼井(白井)と書いておくべきだったか

週刊ブログ拍手ランキング【10/03~/09】

2019年10月09日 14:20

10/03~/09のブログ拍手ランキングです!


籠沢采女の出奔と帰還 13

かくして輝虎は行きがけの駄賃であると 9

その発する心を奪いたくありません 8
身の毛がよだつほど輝虎を恐ろしいと 7
原美濃甲府へ帰る 7

北条氏、その親類一党の栄え 5
行長も心ならず引き立てられて共に敗北し 4


今週の1位はこちら!籠沢采女の出奔と帰還です!
長尾景虎(上杉謙信)に近侍しながら逐電した、籠沢采女という武士のお話ですね。このお話、基本的には「こんな事も
あるかと思ってあえて敵に降ったのだ、という内容になっていますが、これについては色々と解釈出来る感じですね。
単純に再度の寝返りの返り忠、という事にも見えますが、それでは景虎の「人を見る目」に傷がつく、という事になるかも
しれません。
関八州古戦録は関東戦国史についての代表的な軍記ですが、享保11年(1726)の成立とされます。まあ江戸中期ですね。
その成立の頃の上杉謙信認識が、当然この内容の中にも入っているわけで、そういう所を考えつつ読むのが、良い姿勢と
いうべきかもしれません。
まあその成立時に、上杉謙信にこのような暴風雨の如きキャラクター認識が有ったことは、それはそれで非常に興味深いの
ですがw

2位はこちら!かくして輝虎は行きがけの駄賃であるとです!
そんな謙信公の暴風雨というか天災というか、そういった面が十全に現れている内容ですw
誤解であることが解ったのに、「もう途中まで来てるしそんな話が出ること自体怪しいし、まあ攻めながら考えよう。」と
攻撃をかける謙信公。なんという理不尽。しかしこの理不尽さこそが「軍神」なのでしょうね。人の都合など神の前には
些細ですらありません。
上杉謙信は、上杉家中で割と早くから神格化されたと言われますが、それは一種の祟り神を祀るような、そんな神格化では
なかったか、そんな事を思わせてくれる逸話だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!その発する心を奪いたくありませんです!
一方の北条家は、全体的に常識的と言うか理性的と言うか、武士としてあまり破綻のない印象があります。
このお話も遠山富永は、事前にちゃんと氏康へ伺いを立てているのですよね。普通の武家だと、連絡なしに勝手に進出
しちゃう事、多々ありますし、それが武勇を表すという考え方も、当時確かに有りました。しかし北条家中はそういう事をせず、
きちんと手続きを取っているあたり、これも後世における北条氏のイメージを良く表していると思います。
その上で不満の有る層へは、重鎮たる黄八幡北条綱成が爽やかに、重厚に諭します。これなど近世的組織のあり方を
感じさせますね。小田原北条氏は「プレ近世大名」と評されることもありますが、このお話も、その面目躍如といった観が
ありますね。良い逸話だと思いました。


今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気になったいつ和を見つけたときは、どうぞそこの拍手ボタンを押してください。
(/・ω・)/

行長も心ならず引き立てられて共に敗北し

2019年10月08日 15:30

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/07(月) 18:34:53.73 ID:mLJwIBqg
(前略 >>455

すでに夜が明ければ、石田三成・島津兵庫守義弘と舎弟の中務大輔家久(豊久の誤り)・小西摂津守行長ら
は関東勢の旗の手を見て関の藤川を渡り、小関の南辰巳に向かって備える。備前黄門秀家も手勢の大軍を率
いて同所に備えた。大谷吉隆(吉継)・平塚為広・戸田武蔵守重政(勝成)と子息の内記重宗・津田長門守
信成は石原峠を引下し川を渡り、関ヶ原の北野に出て西北の山を後ろにあて、不破を左に見て辰巳に向かう。

家康公の旗本は鶴翼に備え、16段に備を定めて先陣は福島正則、鉄砲8百挺・弓5百張を段々に組み合わ
せてまず矢合わせの鏑を石田の先手へ射掛けた。さて鉄砲を一度につるべ放ち、金鼓を鳴らして鬨を揚げれ
ば東兵も共に同じく太鼓を打ち、楯の端や胡ロクを叩いてこれを助け、都合7万5千3百余人が鬨をどっと
作れば、西国勢13万8千6百余人も同じく鬨を合わせつつ、諸手一同に戦を始めて白刃を交えたのである。

福島父子は弓鉄砲の迫り合いを経て長柄を揃え錣を傾け三成に突いて掛かれば、小西行長も相掛かりに掛か
り揉み合った。これを見て東国方の細川・黒田・加藤は走り合わせ、命を鴻毛よりも軽くする。また西国方
でも島津兵庫守・宇喜多・島津中務大輔と掛かり合い、互いに魚鱗鶴翼の秘術を尽くし命を限りに攻め戦う。

中でも小西は手の者共に目合わせし「敵は大勢、味方は小勢、通り一遍では利はあるまい。羽武者共に目を
掛けるな! 大将に組んで討て!」と風の散る雲の如くに群がり、千騎が一騎になるまでも引くなと、互い
に恥しめて面も振らず相戦う。流石に広き関ヶ原、錐を立てる地も無く敵味方20余万は、算を乱したる如
くなり。

行長は諸将に構わず自兵を引き纏い、三国黒という長さ9寸余の名馬に一鞭当てては馳せ散らし、取って返
し蹴散らし、千変万化の勇を振るう。その形勢、脱兎の網の裏を飛ぶが如し。

家康公が大音声で宣ったことには「敵の旗色は騒ぎ立っている。戦は味方の勝ちなるぞ! 総勝鬨を作って、
旗本の先陣は一同に馬を入れよ! 近習の輩も前一軍は備を崩して石田・小西の横合を打つべし!」と朱旄
を揚げて自ら御駕を進めなされば、御旗本の先陣、16段の先手共は槍の穂先を揃えて馬の鼻を雁行に立て、
大山の崩れる如く突いて掛かると、さしも金石の如く勇を励み備を堅める石田・小西も、この時に駆け破ら
て四方に散乱し、伊吹山・草の谷・伊勢路に掛かって落ちる者もあり、あるいは谷へ落ち入って死ぬ者もあ
り、右往左往に逃れ走った。

行長も心ならず引き立てられて共に敗北し、伊吹山の東粕賀郡に知音の寺があったのでかの寺へ馳せ入り、
しばらく息を継いで世の有様を聞いていた。

(後略)

――『古今武家盛衰記』

続き
小西行長捕縛


496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/07(月) 21:09:37.76 ID:n4Znc1LY
小西行長が寺に?
伊吹山にはイエズス会の薬草園があったとか言うけど
ふつうに仏教寺だよね

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/08(火) 11:58:14.65 ID:LC7+7kuF
>>496
キリシタンが寺に居るなどと誰が考える?
アホはそうやって騙されるんだよ

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/08(火) 16:22:44.93 ID:bTgXE5VC
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541597/9
「南蛮寺興廃記」の薬草園の箇所

その発する心を奪いたくありません

2019年10月07日 16:17

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/07(月) 10:32:47.96 ID:pgNXkZXb
第二次国府台合戦の時の事

江戸城の遠山丹波守直景、葛西城の富永四郎左衛門政家は、北条氏康配下の剛勇の者と知られており、
大敵が眼前に現れたというのに人の助けを借りては屍の上の恥辱であると、取るものもとりあえず、
ありあわせの人数を率いて、遠山は行徳筋、富永は小松川筋から駆け出したが、氏康の下知も受けずに
先陣を切っては後の聞こえもどうかと思い、福島、松田の陣へ使者を走らせ存念を述べた所、

「いかにも武人の本意黙し難し。その意に任せ、存分に働け。」

と返答された。

しかしながら北条氏政の陣では、氏照、松田父子が不満で「今しばらく考えてから返事をするべきで
あった。」と言った。北条綱成はこれを聞くと笑っていった。

「身、不詳ながら軍勢を指揮する命を受けた以上は私の一存を通します。これまで松田殿や
この綱成が先駆けするのは珍しいことではなく、今後もまた先駆けして手柄も立てることでしょう。
しかし、戦いに臨む最大の目的は勝つことであり、自分の功名手柄はその次の目的です。
まして里見、大田の二将は関東に於いては一、二を争う大敵です。遠山、富永の両名も当家誉れの
大将ですから、互いに眼前の敵を見ては、これを止めることは出来ません。
先陣を望むからには、遠山、富永も生涯をかけての粉骨を決意しているのでしょう。

いやしくもこの綱成、その発する心を奪いたくありません。」

そう諭すと、氏照も松田もその気持ちが解ったのか、重ねての言葉は返さなかった。

(関八州古戦録)



257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/07(月) 20:09:07.74 ID:xQy0MzwH
綱成かっこよすぎる
氏照と松田さんも良いね

かくして輝虎は行きがけの駄賃であると

2019年10月06日 15:58

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/06(日) 12:51:03.20 ID:XoVewkF3
群馬郡高崎の城主、和田兵衛太夫の弟である和田喜兵衛は、昔の名を小膳といって、若い頃より
上杉輝虎に仕えていたが、ある時彼より、兄・兵衛太夫が甲府の武田信玄に内応して、深谷、倉加野、
高山などと語らって不意に箕輪を乗っ取ろうと企てていると、密使を以て輝虎の近習で、朋輩でも
あった小野伝助に知らせた。そして
「このような状況であるので、人数を少々向けて頂きたい。あとは自分が手引して、謀反人は
追い出します。」と伝えた。

上杉輝虎は小勢で箕輪に向かっていたが、この事を知るとその足で高崎城へと向かった。
ところがその途中で、これを知らせ、高崎城に居るはずの和田喜兵衛に出会った。
彼は輝虎に謝罪した

「謀反のことは自分の聞き違いであり、それで使いを出してしまったが、そのことが露見して
城にも居られず逃亡してきました。」

そうしてこの鳥川で輝虎に出会ったのだという。この旨を伝えられると、輝虎は以ての外の
怒り様で

「このような未熟な内通で出馬を促すとな何事だ!」

と、同行した小野伝助もろとも、和田喜兵衛を切り捨てた。
しかし輝虎は

「この上は、聞き間違いであったと言って厩橋に戻るのも後日の笑い草と成る。まんざら
火のない所に煙が立つわけでもあるまい。小勢ではあるが、いっそこのまま高崎城を
一攻めに攻めてそれから考えることとしよう。」
と考え、まっしぐらに高崎城へ向かった。

到着すると輝虎は自身鑓を取って大手門へ突っ込み、続く直江実継、大関親益、永井尚光と
いった家来たちも負けじと駆け込んだ。
高崎城の人々は訳が解らずも迎え撃ったが、一つ二つと城門を破られた。
城主和田兵衛太夫も剛の者であったから、自ら鑓を取って暴れまわった。
そのうちに輝虎は、「今日のところは無勢でもあり、兵も将も疲れ果てているから」と
引き上げを命じた。

かくして輝虎は行きがけの駄賃であると、郭外に放火し、早々と厩橋へ帰っていった。

(関八州古戦録)

さすが軍神である。



488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/06(日) 14:33:53.95 ID:BXDj4gj9
こんなのに毎年のように荒らされまくったのに、確実に領土を広げていった北条はすごいな…

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/06(日) 16:59:34.48 ID:mFgpvsYZ
>>487
キチガイすぎるw

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/06(日) 17:31:41.42 ID:P8JqbZOT
>>488
むしろ上杉内で争いが絶えなかったから北条は領土を広げられたのでは?

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/06(日) 17:45:15.24 ID:sptkHPlz
>>487
今日はこのぐらいにしといたる

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/06(日) 20:21:42.73 ID:nRmofFnC
>>491
いやー実在するんですねw

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/07(月) 07:31:52.16 ID:3tpm9qeb
>>487
いや小野さんは斬る必要なくない?

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/07(月) 17:48:45.46 ID:R+Bv9ZF6
>>493
そこら辺の理不尽さも含めて北斗の拳ライクで良い

北条氏、その親類一党の栄え

2019年10月05日 16:18

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 13:36:55.68 ID:MS3gurir
北条氏康はこの年(永禄二年)、四六歳であったが、六月下旬に隠居剃髪して万松軒(実際には太清軒)と
号した。病により任に耐えず、という事であったが、別して病身という訳ではなく、この春に自分よりも
ずっと若い上杉輝虎のために城門を馬蹄で踏み荒らされながら一戦も交えず、弓矢の面目を失ったことを
とかく世間に取り沙汰されたのを恥じての隠居であった。

嫡子相模守氏政は二十三歳であり、家督を受け継ぎ国務を司った。

次男由井源三氏照はもともと朝日将軍木曽義仲の後胤である大石源左衛門定久が、前管領家に背いて
小田原に降った時、氏康から婿養子に貰い受け、自分の高麗郡滝山の城を譲ったのである。
以後自身は入道して道俊と号した。実子は在ったが幼少であったので共に戸倉に蟄居した。
その時氏照は由井の名字を捨てて大石陸奥守と名乗った、その頃一度、滝山という所に居城を持ったが、
滝は落ちるので落城に通ずると、同郡八王子に新城を築いて移ったのである。氏照は多くの兄弟の中で
特に父母へ孝順の人であった。

三男新太郎氏邦は書道に優れ、後に安房守と号した、これも前管領家の旧臣藤田右衛門佐邦房が養子として、
武州秩父郡岩田の天神山の城を与え、自身は実子の虎寿丸と共に榛沢郡用土という所に退去していた。
(上杉)輝虎がはじめて関東へ越山した頃、氏康に仕え用土新左衛門と言ったが、今は沼田の城代となり
虎寿丸は後に藤田能登守信吉といった。
新太郎氏邦は初め秩父領横瀬の根小屋に城地を構えていたが、あまりに人里離れて万事不自由であったので、
男衾郡鉢形へ移った。この城は太田道灌の築いた要害であるが、甲州、越後の敵が近寄る機会が多く、
常に小田原から三百騎を援兵に差し出し、榛沢のあたりに新関を設けて、山上には常に見張りを
絶やすことの出来ない城であった。

四男助五郎氏規は美濃守と号し、豆州韮山の城主である。

五男新四郎氏忠は乗馬の名手で、後に左衛門佐と号し、相州足柄の城を守っていたが、佐野家の名跡を
受けて、後に野州由良へ移った。

六男竹王丸氏尭は鉄砲の手練で、後に右衛門佐と号し、武州小机の城主である。

七男七郎氏秀は後に武田三郎と号し、輝虎の養子と成って北越へ行った後は、上杉三郎景虎と称した、

その他に女子が六人あって、藤田の吉良左兵衛佐頼久、北条常陸守氏繁、今川刑部大輔氏真、千葉介邦胤、
武田大膳大夫勝頼、太田源五郎氏資などの室になっている。

早雲庵宗瑞、新九郎氏綱、左京大夫氏康と三代続いただけで枝葉が繁り、その親類一党の栄えを
うらやまない者はなかった。

(関八州古戦録)

氏康隠居の頃の小田原北条氏の繁栄について。現在の研究水準とは異なる内容も含まれています。
北条氏尭は氏康の弟であると考えられていますし、氏忠はその氏尭の子の可能性が高いとされています。
また氏規のほうが氏邦の三歳兄であった事が近年指摘されるなどしていますね。
ともかくも北条氏一族についてこのような印象を持たれていた、という記事です。



254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 16:13:02.58 ID:n7af26vk
>>252
関係ないけど武士って木に例えられるよね
民は草なのと対照的

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 20:44:43.34 ID:McdmRo5l
まあ位置関係からしたら合ってるかと

身の毛がよだつほど輝虎を恐ろしいと

2019年10月04日 17:34

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/04(金) 10:52:23.96 ID:YX5u5dct
永禄7年(1564)、北関東の佐竹、宇都宮に合わせて、多賀谷、益子、真壁、笠間、小宅、茂木、久下田の
諸将は連署を以て上杉輝虎(謙信)に、「この際小田氏治讃岐入道天庵を討つべし」との申し入れがあった。
小田天庵は、先に黒子表で大敗した後、小田原の北条氏康と合体し、府中の多気守国、水戸の江戸道房、
総州の千葉利胤、守谷の相馬治胤と組んで旗を上げようとしていた。
小田家の武力は衰えたとは言え、右大将頼朝以来の名家であり、兵法に長け家人に剛勇な者が多く、
まだ油断できない故、今のうちに叩くべきだというのである。

輝虎は先に言ったように闊達な武士であり、すぐにこれを引き受けて、長尾一党の新発田、柿崎、山本寺、
色部、中条などの面々と八千騎を率いて越山し、夜を日についで、4月27日には小田天庵の領分、
真壁郡山王堂に到着した。ここは山が高く、崖下に南北四町ほどの深田があり、その小川を隔てて
東に四方三十町ほどの広野がある、そこを最適と見て輝虎は陣を敷いた。そして土地の国侍を招いて
尋ねた

「この辺りに名うての侍があるか。」

「この先、北に十四町ばかり行った所に三浦党の末裔という一団がおります。」と答えた、
それが平塚山城入道自省で、小田天庵旗下の平塚、菅谷、飯塚、久松と言った四天王に並ぶ者であった。

「随分と頑固な侍で、もし夜討ちでもされたら危なく、御用心が必要です。」

そう忠告されると、輝虎はからからと笑い
「その男なら四年前、氏康と不和に成った所を、結城、佐竹の手合に攻められ、きたなくも黒子表の
大崩と言われた負け戦の張本人であるぞ。

むしろこちらから朝駆けして焼き討ちをし、首を取ってもいいし、今夜でも向こうが夜討ちをかけるなら、
それこそ天の助け、迎え撃って一人も残さずなで斬りにして死人の山を築いてやろう。」

そう豪語したので、国侍達は呆れて物が言えないどころか、身の毛がよだつほど輝虎を恐ろしいと思った。

(関八州古戦録)



249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 11:41:01.69 ID:McdmRo5l
謙信が力量を認める人ってあまり居なそう

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 11:50:12.14 ID:qu2SVqsq
>>249
臼井城で白井胤治にこっぴどく負けたときは、白井胤治を評価するのではなく、
戦いの記録自体を抹消するような人だからなぁ。

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 12:29:27.70 ID:G98VYBxx
そんな人おったんやな
なんていうか謙信て信玄といい勝負やな、昔とは違った意味で色々とw

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 15:31:54.55 ID:RQ1NmQev
>>250
蓑輪諒「最低の軍師」のモデルか
臼井と白井でややこしい

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/08(火) 03:42:28.50 ID:uGdeufcI
>>250
いや臼井城攻めは北条側の史料も戦死者数などが過大で捏造の疑いあるとされてるし、上杉側も上田衆を中心に感状を出しているため一定の戦果はあったと認識している。また直接被害を被ったのは先手の房州勢。
上杉軍は撤退したわけだから北条軍の勝利となるだろうけど、よく言われるような最強の軍師が謙信に圧勝!みたいなのは如何にも江戸時代の軍記ものっぽくて実像と少し違うと思う。
だから研究家もまだ臼井城の戦いに関してはまだ検討の余地があるとしている

籠沢采女の出奔と帰還

2019年10月03日 16:35

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/03(木) 13:33:39.89 ID:EPkCNTiA
弘治三年五月七日、長尾景虎は川中島での武田信玄との対峙より兵を納め(第三次川中島合戦)、
高井郡小菅山の元隆寺へ引き上げ、鳥居峠を超えて平井城へ入った。

そのころ北条氏康は武州岩槻の城を取り囲んでいたが、城主太田美濃入道資正が良く防いで
一歩も近づけず、氏康は諦めて兵を退き、帰途、東上野の沼田城、厩橋城を小当りすると、
そのまま小田原に帰った。

景虎はその機を待っていたように又しても金山、桐生筋を攻めんと利根川の東へ進出した。
この辺りは路が険しく駆け引きが自由にできず、その攻略に二度も三度も失敗していた。
景虎は先ず自身で数騎を引き連れ物見に出かけた。しかし坂道を六、七里行った所で桐生の
城兵に発見された、城兵は彼等を鉄砲で仕留めようと、選り抜きの射手を物陰に伏せさせ
待った。

景虎は何も知らず、例の半首(はんつぶり)の兜に連銭葦毛の馬に乗り、一騎当千の武者である
鬼小島弥太郎、鬼山吉孫次郎、宇野左馬之介、織部入道の主従五騎で静々と打たせてきたが、
くだんの伏兵が居るところから5、六町の所まで来た時に、突然一人の武者が横道より走って来て
景虎の前に平伏した。

はっと気がついて景虎が馬を引き止めて見ると、越後普代の家人、籠沢采女正景次であった。
彼は景虎に向かい

「この辺りは足場が悪く、不案内な者が動ける所ではありません。殿の敵を恐れぬ度胸は昔から
見上げたものだと思っていましたが、このような事は百害あって一利なしと思い、不詳籠沢采女正景次、
まかり出ました。」

そう断ってから、自身のこれまでの行状を語った。それによると、彼は三年前自ら降人となって
桐生の城中へ入った。しかし今日の城中の謀議を伺ったところ、鉄砲を以て殿を打ち取る相談が
まとまり、現にこの七、八町先にその伏兵が待ち構えていると話し、

「今日はじめて、降人として恥を忍んでいたかいが有りました。こんな嬉しいことはありません。」
そう、涙で袖を濡らしながら語った。これを聞いて景虎も感涙にむせびつつ、すぐに指揮して
三人の伏兵を討ち取った。

そもそもこの籠沢采女正は若年より景虎の膝下に仕え、律儀で機敏な若者であった。またその先祖は
治承の頃越後国鳥坂城で勇猛をうたわれた長尾太郎資永の家来・籠沢左衛門尉景俊の末で、二心を
抱くような武士ではなかったのだが、景虎が関東へ出陣した折に逐電した。何故そのような事をしたのか
理由がわからずに居たのだが、今日はじめてその謎が解けたのである。

ただし、これまで景虎は、采女正は生まれついての忠義者で、何か仔細があるのだろうと思っていた。
それが証明されたのであり、まことに景虎が情に厚く、人を見る目の確かなことが解った。

(関八州古戦録)



245 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/10/03(木) 22:01:33.57 ID:GTNKmASQ
この先行ってはならぬで打ち取っちゃうのは景虎らしいよな

一度引き返して軍を率いたとなれば、伏兵が引き上げてるだろうとも思えたし

まあ間違った推理かな

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/03(木) 22:59:43.91 ID:vRMi2KoX
天才だから、なのかな

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/04(金) 00:51:07.48 ID:ZQ9PeFTA
とんでもない
ヨーロッパの騎士とかでもこういう向こう見ずなのは居る

原美濃甲府へ帰る

2019年10月02日 15:10

原虎胤   
236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 12:04:07.12 ID:Xsl4MlKj
善徳寺での(相甲駿三国同盟の)会談の時、武田晴信が北条氏康にこのような話をした

「貴殿の所に居る原美濃守(虎胤)は、昔それがしの所に居た男で、ある不届きな事が有って
追放したのだが、現在貴殿の膝窩に有って、この度も出陣し戦功を経てている。
原はその父とともに二代にわたって仕えた者ゆえ不憫でもあり、こちらへお返し願いたい。」

そう申し出たため、氏康もこの武士を快く返した。

そもそもこの原美濃守の父・豊後守光胤は、房州の千葉介胤親の息子で、下総の原村の
生まれ、文正元年(1466)、その三男能登守友胤は生実の御所(小弓公方)義明に仕えたが、
その死後離散し、甲府へ来て晴信の父。信虎に仕えたのである。その子が今の虎胤で、信虎より
虎の一字を頂いているほどであった。

去る年、甲府に於いて浄土宗と日蓮宗の法論を戦わせた時、晴信は虎胤を近くに招き
「汝が帰依する法華宗では、念仏は阿鼻無間の相なりとて、大事な名号を禁止していると聞くが、
これからは汝も我が宗門に入り、南無阿弥陀仏を唱えぬか。」

しかし虎胤は「その義ばかりは御免被ります」と答えた、晴信はなおも改宗を進めたが、これに
虎胤は色をなし

「御屋形様もご存知のように、もともと手前は無学文盲の一徒輩であったのを、法華を信仰するように
なって一人前に人間と成ることが出来ました。およそ宗旨というものの大本は釈迦牟尼如来より
出たもので、それが八宗にも九宗にも分かれて今日に至っています。そしてどの宗派もそれぞれ
開祖があり、その流儀を守っているので、どれが良いどれが悪いとは言えないと考えます。
御屋形様の命であっても、南無妙法蓮華経を南無阿弥陀仏び変えることは出来ません。
それは丁度、武士の道を背き義理を欠くことと同じでございます。

例え一命を召されようとも、高祖の禁を破り他宗の念仏を唱えることは出来ません。」

そう言い切ると座を立った。これに立腹した晴信が彼を甲府から追放し、故に美濃守も仕方なく
小田原へ来て氏康に仕えるように成ったのである。
氏康はその美濃守を召し出して今度の晴信の言葉を伝え、こんこんと説得して甲府へと返した。

永禄七年(1564)、原美濃守虎胤は甲府で死去した。

(関八州古戦録)



237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 13:07:48.37 ID:7HHBXqIw
>>236
>どの宗派もそれぞれ
>開祖があり、その流儀を守っているので、どれが良いどれが悪いとは言えないと考えます。
今でも使えるなこれ、面倒な親戚に絡まれたらこれで切り返そう

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 13:11:10.09 ID:Wh4HjWre
宗教はいつになったら統一されるのか…

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 19:51:16.98 ID:eX+Eyt2p
人類が全部ニュータイプにでもならないと無理

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 22:07:46.04 ID:ukdoQvMj
ニュータイプって殺し合いばっかしてる気が

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 22:18:27.16 ID:Ycs1ZVgX
キリストも大日如来と同じようなモンっていう理解に通じるな

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/03(木) 05:56:31.83 ID:quZvIdWy
ララァが導いてくれる

243 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/10/03(木) 06:27:35.23 ID:YrNckMr7
>>242
いや、アイツ、私は永遠にあなたたちの間にいたいのとか言ってシャアとアムロもて遊ぶ悪霊じゃん
https://youtu.be/76mJeV77e9U
後、こんな映像見せ付けて人類は永遠に破壊と再生産を繰り返してガンプラ買えば良いと暗に言ってくるバンダイの手先