古観世大夫の堪能

2016年08月29日 17:08

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 17:32:04.64 ID:1ZZownvI
観世大夫の堪能

ある宴の中である人が話した。

猷廟(家光)の御時の事である。
観世大夫は猿楽に堪能であった。
そこで、猷廟は柳生但馬守(宗矩)に仰せられた。

「観世の所作を見よ。もし彼が心に隙間があり、”斬るならここだ”と思ったら申せ」

但州はかしこまって所作を見届けた。上意で

「いかがであったか」

と問われると、但州が答えた。

「始めから心をこめていましたが少しも斬るべき瞬間はありませんでした。
しかし舞の中で、大臣が柱の方で方向を変えましたとき少し隙間がありました。
あの所でなら斬り遂げることができましょう。」


 観世が楽屋に入って

「今日見物の中に一人、我が所作をじっと見ていた男がいた。何者か」

と言う。傍らから、

「あれこそ名高い柳生殿よ、剣術の達人である。」

と言うのを聞いて観世は

「だから我が所作を目を離さずじっと観ておられたのか。
舞の中で方向を変えた所で少し気を抜いていると、にっこりと笑われので、
理解できないことだと思っていたが、やはり剣術の達人であられたか。」

と言った。

後に猷廟がこれを聞かれて、御感悦されたという。

(甲子夜話)

そういえば、宗矩は能が好きだという話でしたね



129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 17:33:46.64 ID:d+dwh2jF
>>128
こういう逸話好きだ

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 18:13:49.13 ID:5iFImsmR
似たような話が江戸時代にもあるな
渋川流柔術二代目の渋川胤親が初代市川團十郎の歌舞伎を見て
「團十郎の立ち回りの動きは素晴らしい、あの動きなら私でも組み伏せることはできないだろう」
と言ったため、市川團十郎の評判がますます高まった。
しかし元禄17年2月19日、市川團十郎は舞台の上で役者の生島半六により刺殺。
「市川團十郎の動きには隙がないのではなかったのか?」
と尋ねられた渋川胤親は
「役者が隙のない動きを見せると言ってもそれは立ち回りの際の一瞬のことにすぎない
われわれ武道家はそれを絶えず行わなければならないからわれわれの価値があるのだ」
と言ったとかなんとか



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鉄覆山朱雀院久松城(てつおうざんすざくいんひさまつじょう)

2016年08月29日 17:06

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 22:20:58.43 ID:N4wM4BOK
元和5年に福島正則が改易されると、
備後には水野勝成が10万石で入封されることとなった。
備後には古くより神辺城が存在していたが、
新たな領国経営のためには北方に過ぎると思われた
幕府より新規築城の許可を得た勝成は、
西国偃武の地としてふさわしい場所を選ぶべく領国内を巡検し、
最終的には陸路・海ともに近接している常興寺山に築城することとなった。

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 22:21:19.20 ID:N4wM4BOK
ただし、常興寺山の北には山が存在しており、そこからの砲撃には防御が脆弱であることが懸念された。
「私ならば一日で城落として御覧に入れましょう」と言う家臣に対し、
勝成はこう答えたという。
「その事を一番分かっているのはわしである。
しかし、今回の築城では幕府の威容を示し、
この勝成が西国の中心で諸大名に睨みを効かせるのが重要である。
天守の北面には鉄板を貼って防御とすればよい。」

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 22:21:40.70 ID:N4wM4BOK
こうして築城された福山城は、幕府の援助もあり10万石としては破格の巨城となった。
そして、天守の北面は鉄板で覆われていた。
かくして、正式名称は鉄覆山朱雀院久松城(てつおうざんすざくいんひさまつじょう)と呼称された。

縄張り図では南面に防御が分厚く、北面は守りが弱かった。
これは、勝成が幕府に遠慮してわざと北面を薄く作り、代わりに寺社を置いて防御の助けとしたため、とする説がある。

時は過ぎて戊辰戦争の際、福山城は長州藩に攻撃を受けた。
その際に城の北面からの砲撃を受けたが、天守の鉄板に弾き返されたという逸話が残っている。

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 22:27:36.70 ID:N4wM4BOK
ちなみに福山城天守は戦前に国宝として指定を受けていたが、
惜しいことに太平洋戦争時の空襲で焼失してしまった。
現在の再建天守は、原型を留めない残念なものとなってしまっている。

縄張り図を見ると、南に重厚な防御を備えているのに北方は極端に弱い。
上記の幕府に遠慮した説のほかに、予算不足という説もある。

ただし、幕府も積極的に資金援助した江戸時代最後の大規模築城である事を考えると、
予算不足のみならず、技術者不足などもあったかも知れない。



136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 22:43:28.21 ID:IBJrkX0/
いや、なんで福山城を長州が攻めるんだ。 第2次長州征伐の時の芸州口は大竹市から東は戦場になってないぞ。 そもそも芸州浅野は長州に同情的で中立だし。

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 22:59:17.27 ID:N4wM4BOK
長州征伐じゃなくて戊辰戦争ね。
福山藩は歴代譜代大名が入ってて、幕末には阿部正弘が老中として活躍してる。
そのせいか幕府方とみなされて攻撃されかかってるし、実際に小規模な戦闘で死傷者も出てる。
恭順姿勢見せたから、全面対決は生じなかったけど、以降は新政府方の先鋒としてコキ使われたみたい。

松永貞徳、友人の木下長嘯子を訪ねて

2016年08月28日 13:30

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 11:05:37.50 ID:LyHxlujO
松永貞徳、友人の木下長嘯子を訪ねて

松永貞徳と木下長嘯子は、細川幽斎の高弟同士であり親交があった。

ある日、貞徳は長嘯子を訪ね、ちまき五把に歌を添えて渡した。
「近き山 紛はぬ住まひ 聞きながら こととひもせず 春ぞ過ごせる」
(近き山の紛れぬ住まいを聞きながら訪ねないまま春が過ぎようとしています)

「千代経とも またなほ飽かで 聞きたきは これや初音や 初ほととぎす」
(千代経てもまたなお飽きずに聞きたいのはこのほととぎすの初音です)
と、長嘯子も返歌し喜んだ。

――『挙白集』

この二句は沓冠折句になっており、五七五七七各句の頭の文字を読んだあと末尾の文字を読むと
貞徳「ちまき五把 まいらする」長嘯子「ちまき五把 もてはやす」という語句が浮かび上がる。
歌人らしい技巧を凝らしたやり取りであった。



家康が双方の扱いとした理由

2016年08月28日 13:28

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/28(日) 11:11:30.58 ID:jHMGlyJV
慶長四年閏三月三日に、加賀大納言前田利家が逝去した。
その後、石田三成を討つべしと、加藤清正、細川忠興、浅野幸長、福島正則、黒田長政、
その他大名、小名たちが一体となって蜂起したため、大阪は殊の外の騒ぎと成った。

石田三成は顔を出すことすら出来ず、自分の屋敷に引き籠っていたが、佐竹義宣が伏見より
大阪に参り、人数を森口あたりに残し置いて三成の屋敷を密かに訪ね密談し、三成を女乗物に
乗せ、義宣も同道して、宇喜多秀家の居る備前島へと向かった。そして秀家は家老を差し添え、
三成と義宣を伏見へと向かわせた。

三成襲撃に決起した大名たちは、この情報を聞くと「ならば伏見で討ち取るべし!」と
この事を徳川家康に申し上げた。

この時、家康の重臣である本多正信は言った
「治部少輔の事、各々の望みに任せて討ち果たせば、諸大名は奢り上がるでしょう。」

家康はこれを聞き、
「今回は先ず、扱いにしよう。」

そう決断し、閏三月七日、石田三成を佐和山へと送り届けた。


(玉露叢)

七将襲撃事件で、家康がこの処分を双方の扱いとした理由について。



この話が誰の逸話なのか

2016年08月26日 21:13

116 名前:sage[] 投稿日:2016/08/25(木) 23:35:53.38 ID:TMSmuVQp
誠に申し訳ございませんが
この話が誰の逸話なのか教えて頂けないでしょうか。

話の内容
柴田勝家か福島正則の家臣(違うかもしれません)
無頓着な性格でとりあえずの生活を送っていた殿さまです。
ある日大女(しこめ)が来て殿さまはおおらかな人だから
雇ってくださいというが、頭の悪い家臣ほど雇うなという。
でもその殿さまはまず雇えといい、次に力を見せろといい
家臣に相撲を取らせ、仕事に来てくれよといい、大女を喜ばせる
大女いわく”おらを見るだけでぶさいくだとののしり、
見世物をしたいから相撲をとれと言われ全部勝っても
、次にやっぱり雇わね。そればかりなのに
殿さまはおらを初めに”雇う”といって相撲を取らして
そのうえで採用してくれた。すごい殿さまだ!
殿さまはそんな
こた~ねえよ。明日から仕事がんばれよと…。
大女は殿さまの思いに応え一生懸命に仕事で答えた。
そのうち殿さまの状況が悪化してどんどん家臣が財産を持ち逃げして
逃げだした。殿さまも最後には無一文になって、最後に残った家臣たちと
途方に暮れたが大女が皆をだまして(?)不正金(?)をためて
真の忠臣と後世の人が言わしめた。
お家の再興のため、尽力し、殿さまが有力藩に呼ばれたのと対象に
どこともなく消えてしまったこの大女の正体はたぶんわからない
と思いますが、せめてこの殿さまが誰かだけでも教えて頂けないでしょうか。

117 名前:sage[] 投稿日:2016/08/25(木) 23:47:29.65 ID:TMSmuVQp
申し訳ありませんsageです
途中話が抜けておりました
【 】の中の話も読んでいただいた上で
教えて頂きましたら幸いです…。

途方に暮れたが大女が皆をだまして(?)不正金(?)をためて

【倹約や工夫してこっそりためた金だ。
殿さま再興のために全部つかってくんろ。
殿様曰く、これはお前がいろいろ頑張って貯めた金だ
お前の退職金として全部もってゆけ
大女はいらぬという、ならば殿さまは半分ずつ持っていこうと
それでお互い納得したという。その後の大女の行方は分からない】

真の忠臣と後世の人が言わしめた。



118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/26(金) 00:54:00.82 ID:6pNeKdGU
「名将言行録」の福島正則家臣、大崎長行のことだろう
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782779
海音寺潮五郎「史談と史論」の
「仙女伝」では大橋玄蕃とお柳と書かれている

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/26(金) 01:07:53.50 ID:6pNeKdGU
ついでに「史談と史論」のそのあたりの話(名将言行録もほぼ同じ内容)

庭にあった二抱えほどもある大きな岩を大女のお柳が転がすとその下は穴蔵のようになって奥深い。
お柳は次々に大きなツボを2つ取り出し、座敷で開けるとそれぞれ板銀と小判がつまっていた。
「これは皆殿様のものでございます」
「どうしたのだ、これは?」
「清須からこの国におうつりになりましてから、段々にたくわえておいたものでございます。
殿様はたくわえなどまるでお心掛けのないお方でございますが、何か急なことのある節は、
金銀がなくてはならぬと存じましたので、お家のしおき万事を任せていただいていますのを幸いに、
殿様にかわりまして、ご費用をつつましくしては、投げこんでおいたのが、いつかこんなにたまったのでございます。
されば、これは皆殿様のものでございます」
「さて、その方の心づかい、まことにかたじけない。しかし、これはその方の苦労で出来たものなれば、おれが皆
もろうわけには行かぬ。小判の方なりと、板銀の方なりと、いずれかをその方取れい」
「とんでもないことでございます。これは殿様のものでございます」
「見よ。こうして金銀をひとつにかきまぜた。これを互いに一つかみずつ取っていくことにしようではないか」
こうして、とりわけた。
数日の後、玄蕃は一先ず大阪を志すとて、鞆の港から便船をもとめて去った。お柳はこれを見送った後、
自分も小舟にのって、いずれへか立ち去った。
二三年後、玄蕃は秀忠の命で、紀州家に召し抱えられた。彼は依然として独身であったので家のとりしまりのため、
またお柳を予防としたが、その行くえはまるでわからなかった。



123 名前:116[] 投稿日:2016/08/26(金) 17:02:12.53 ID:zqzBsphw
116です。この度は読みにくい文であるにもかかわらず
ご回答いただきまして誠にありがとうございました。
これですっきり致しました。
お礼申し上げます。

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/26(金) 19:34:52.46 ID:+d1KeDna
真柄のお秀みたいなものかな?

とにかくよろしくないものであったので

2016年08月26日 21:09

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/26(金) 04:32:02.82 ID:SjtvSl7Y
西三条逍遥院(三条西実隆)殿が、御養生として有馬へ湯治に出かけたことがあった。
そのとき、歌の批評を望む者が参った。

とにかくよろしくないものであったので

昔より 奇特ありまの 湯ときけど 腰折れ歌は 直らざりけり
『腰折歌 下手な歌』

(醒睡笑)



徳川家康が、毎日念仏を唱えた理由

2016年08月25日 14:57

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 23:03:54.11 ID:EmXpjSwi
私(徳川家康)は近頃、毎日念仏六万編を唱えるようにしている。
老人の要らぬ日課であるから、一日の回数を減らすよう、皆々言ってくる。

なるほど、回数を減らせば楽になる。だがな、私は幼少より戦国に生まれ、多くの人を殺してきた。
それへの、せめてもの罪滅ぼしなのだ。
(成程、へらし候はば楽に成候得共、幼少より戦国に生れ、多く人を殺し、責て罪ほろぼしにもなり候。)

それに私は若年から、一日たりとも暇を楽しめるような生活をしてこなかった。
ところがこの頃は静謐にて、暇すぎて困っているのだ。それで、この業をいくらしたところで
一文も要らぬこと故、念仏を日々の稽古代わりにやっているのだよ。
これのおかげで、毎日朝早く起き、夜も早寝をすること無く、怠らぬように心がけ、
それ故に食事もよく食べられ健康であり、これも念仏のおかげだと考えている。

(松のさかへ)

老年の徳川家康が、毎日念仏を唱えた理由




109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 23:12:58.78 ID:IfPsR1dZ
>>108
シーズンに入ると鷹狩フルコースな家康さんなのに…

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 23:14:58.44 ID:Qia/CQbs
東京国立博物館に家康の日課念仏が所蔵されてるが所々南無阿弥陀仏が南無阿家康になってて面白い

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 23:25:46.52 ID:cV+x2+p/
メモってる最中にうとうとするとつい自分の名前書いちゃってる自分にはよく共感できる

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 01:13:13.25 ID:yZw6DKuN
>>108
一回唱えるのに二秒くらいかかるとして六万回で120000秒・・・
権現様大幅にサバ読んでませんか?

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 01:18:02.59 ID:xpKkH0dO
虚空蔵菩薩の真言
「ノウボウアキャシャキャラバヤオンアリキャマリボリソワカ」
を50日で100万編唱える修行があるが、ほとんど体力の限界に近いらしい
1日に直すと虚空蔵菩薩の真言2万編
虚空蔵菩薩の真言一編が南無阿弥陀仏三編にあたると仮定すると念仏六万編
ほとんど飲まず食わずの修行と同じくらいのことをやってる計算になるな

十千散起立の事

2016年08月25日 14:56

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 03:55:00.79 ID:1PIrfqxH
十千散起立の事

 東都浜町に、小児科の医をして数世代に聞こえる印牧玄順というものがいる。
その先祖は戦国で主家の御敵であった者の子孫で、
その主人が没落後、浪遊して抱える人がおらず、
ある医師のものに立ち寄って生計をたてていた。

 かの医師は家伝に万病散とかいうものを売薬していたが、
その奇効は著しく戦場でも多くの者が求めていた。
この医師に随身して遂にその薬の製法を伝えられた。

 後に印牧は分かれたというが、師家の秘薬であるので、同銘を遠慮して
十に千を合わせれば万になるという心で、十千散と名づけたという。

 今もかの家ではその薬を出している。
予が子孫もこの薬を用いて、奇効があったという。
(耳袋)




ガラシャの鐘とディエゴ加賀山の殉教

2016年08月25日 14:55

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 14:21:09.55 ID:vy/UI/bB
ガラシャの鐘とディエゴ加賀山の殉教

永青文庫にて所蔵・展示されている「九曜紋付南蛮鐘」は、記録がないため詳細は不明だが
現存する4つの南蛮鐘(キリシタンベル)の内の一つで大変貴重なものであり
現代の細川家/永青文庫では通称『ガラシャの鐘』と呼ばれている。



細川忠興は妻の珠(ガラシャ)とは生前信教のことで対立することも多かったものの、
珠が自害した翌年には焼跡から珠の遺骨を拾ってくれたオルガンティノに教会葬を頼み、自身も参列。
慶長7(1602)年からは、小倉城下ではセスペデス神父や家臣の加賀山隼人の指揮の下
天主堂や集会所等を作ることを許し、キリシタンに対して非常に寛容な態度で接していた。
忠興がこの南蛮鐘を鋳造させたのは、恐らく天主堂に寄進するためだったのだろう。
加賀山は10歳のときにフロイスから洗礼を受け、安土のセミナリヨで学んだという筋金入りの
キリシタンだったので、小倉の教会では中心的人物になったという。

しかし慶長11(1606)年のセスペデス神父の急死や、慶長18(1613)年の幕府の禁教令により
キリシタンに同情的だった忠興の態度はついに硬化し、天主堂を初め関連する建造物は全て破却された。
この鐘も小倉城下に音を響かせることは終ぞなく、櫓の隅に仕舞い込まれたと言われる。

当然細川家中でのキリシタンへの目も厳しいものとなり、六千石の禄を得ていた加賀山も幽閉され、
忠興に「自分と一緒に地獄へ行こう!」とまで言われ棄教するように説得を受けたが、拒否し続けた。
元和5(1619)年在京中に信者52人が処刑された京都の大殉教を見た忠興は、加賀山の説得を諦め処刑を命じ
10月15日、加賀山隼人(洗礼名:ディエゴ)は小倉城下町の西、干上りの丘で斬首された。

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 14:21:50.71 ID:vy/UI/bB
おまけ

細川忠興の親友森忠政はいろいろあって津山城を完成させ、お祝いに忠興から鐘をもらっている。
(参考:ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1154.html)



通称『朝顔の半鐘』とも『篇笠の釣鐘』とも言われる鐘だが、『ガラシャの鐘』と九曜紋の位置や大きさを
除けば、非常に似通っている。
確証こそないものの津山城完成が元和2(1616)年で同時期のため、
ガラシャの鐘を鋳造するときに一緒に作られたのではないかという論考がある。
こちらの方は津山城の天守閣の最上階に吊るされ、時を告げる鐘として毎日鳴らされ続けたらしい。




毛利元就と大庭賢兼

2016年08月24日 18:17

102 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/08/23(火) 23:12:17.68 ID:tTrV6RnU
毛利元就大庭賢兼

大庭賢兼は元々は大内義隆の家臣で源氏物語などの古文に通じた武将であった。年齢も元就に近く、家臣ではあるが元就とは和歌や古文の趣味友でもあった様だ。
そんな大庭賢兼、永禄5年(1562)に石見の小石見在陣中の元就の元へ雪のせいで遅参してしまう。
これに怒った元就、当初は怒りの余り賢兼に会おうとしなかったが、雪が原因と判るや賢兼を許し、一首の和歌を詠み送った。

「石見がた 雪より馴るる友とてや 心のかぎりに打ち解けにけり」
(雪よりも親しく付き合っている友なのだから、 私の怒っていた心も解けたので、また元のように仲良くしよう。)

これに返して賢兼

「石見がた かたき氷も雪もけふ とくる心のめぐみうれしも」
(あなたの怒りが今朝の氷や雪のようにとけた。そのように寛大に許してくれた心遣いが嬉しい。)

こうして2人の仲は元度りになったそうな。
元就の和歌の添削をした三条西実枝もこのやり取りに対して
「此の贈答、一豪のへだても聞こえず、誠に上下に怨なしといふ
 明文にかなへり」
と評している。

春霞集より元就爺ちゃんと家臣の知的?なやり取り


104 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/08/23(火) 23:24:22.28 ID:tTrV6RnU
>>102余話
三条西 実枝は元就の和歌を称賛しており、他にも元就に対して

「大江元就は武王の心を以って心とすとみえたり。しかればただ今の世に比するに成王にあれたり。」
との評価もしている。
この評価は後々名将言行録では法橋恵斉と言う家臣が元就に対しておべっかで言ったことにされており、
元就がそんな昔にそんな事言う奴はいねーしワシゃそんな器じゃねーわ。と返して以後は元就の家臣におべっか使いが居なくなったと言う逸話(既出)に変わっている。





105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 13:52:47.92 ID:pPGBazbw
>>104
面白い変化だね。当時でも三条さんちょっとお世辞が過ぎるのではって認識があったのかな。

106 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/08/24(水) 14:29:20.30 ID:T0yMQvKL
>>105
http://tororoduki.blog92.fc2.com/blog-entry-265.html

此処に三条西実澄さんの元就の和歌に対する評価の現代訳文が載ってるけど、>>104の武王成王の下りは最後の方の抜粋で原文は物凄く長い…
元就の和歌を知ったのは元就死後の事みたいだけど、原文読むと三条西実澄さんは三度の飯より和歌大好き人間だったって事は何となく理解した。
ただ、武王成王の所だけ見たらただのヨイショにしか見えないってのは間違いないね

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 20:06:54.11 ID:rH/dmeDC
>>106
>三条西実澄さんは三度の飯より和歌大好き人間だったって事は何となく理解した

幽斎さんの師匠だよ、この人。

森武蔵守戦死のときの甲冑所在の事

2016年08月24日 18:15

森長可   
32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/23(火) 21:27:08.57 ID:JLm47JcP
森武蔵守戦死のときの甲冑所在の事

予が在勤していたとき、森右兵衛佐(忠賛)〔赤穂城主〕としばしば会った。
そのとき彼が語った中で、

彼の先祖の武蔵守は、世に鬼武蔵と称されていて、
長久手で戦死した時に着ていた具足が今に家伝しており、
糸威の鎧であるが、小兵と思われて、胴が小さく某には合わなかったとの話が出た。

この右兵衛佐もさほど大兵ではないので、かの鬼武蔵というのは
世の沙汰には似ず小兵と見える。

またその時着ていた兜は家には伝わってない。
聞くところでは永井の家にあると語った。

(甲子夜話)

鬼武蔵チビ説



33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/23(火) 21:36:21.16 ID:fxMtgD6b
鬼さん、ちびっこだったんか

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/23(火) 21:43:13.34 ID:67sBkC92
>>32
信憑性が気になる

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/23(火) 23:52:10.01 ID:AYGW6QM6
松浦静山が実際に聞いたってんだから、森忠賛がとりあえずつけてみたのは確かなんだろう
本当に森長可の具足だったのかどうかはさておき

でも小さくても鬼のように強いとかたまにあることだし

赤座七郎兵衛は鉄砲頭である

2016年08月24日 18:14

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 04:21:00.00 ID:QmNZSZ0d
中川修理太夫秀重(秀成)の家来・赤座七郎兵衛は鉄砲頭である。赤座の妻の
弟に村井津右衛門という浪人がいて、彼は赤座のところにいた。

岡城は険阻な地理で諸士の居宅はここかしこにあって続かず、10町ほど家から
離れたところには墓場があった。いつの頃からかこの墓場で、雨風の夜に物の
羽撃きと鳴く声がするようになった。

そのため化物が出て来たと言い広められ、農商女童はたいへんこれを恐れた。
こうして数日が過ぎた時、村井はある所に行って夜に入り、帰ろうと言った折、
雨風は激しく、夜も更けていた。

その帰路は前述の墓場を過ぎる所だったため、その座中の人々は、「きっと、
最近の化物が出るだろう。とにかく、ここに泊まりなされ」と、村井を止めた。

村井は「何の思慮も無く粗忽な言葉だな。こう言われては泊まるべきだろうか」と、
心中で思ったが、なんでもない体で「赤座に必ず帰ると申したので、寝ずに待って
いるでしょうから」と言って、帰った。

ところが、村井が墓場近くに来ると、羽撃いて鳴く音が聞こえた。村井は、「さては
事実だったか!」と思い、その声に従って歩み寄ったが風の絶え間に声が止んだ。

彼がこの辺だろうと声のした所に近づくと風が吹くと同時に“はたはた”“ひょうひょう”
と言って、頭の上に何かが掛かった。村井は前もって、「斬らずに捕らえてやる」と、
覚悟していたので、これを捕らえ手探りして見た。

すると、それは竹の子笠で、墓場の竹垣に掛けて置いてあったものだった。これを
外すと風が吹いても声はしなかった。村井はこれを取って帰り、とっくに寝ていた
赤座を起こして、「私は今夜、かの化物を斬り留めました」と言った。

赤座が「それは奇怪なことだな」とその事を問うと、村井は人を退かせて、「こうこうの
首尾です」と、言った。これを聞いた赤座は、「事実は言うな。単に斬り留めたという
ことにしろ」と言って、次の日に人に会いこれを語った。

つまり“はたはた”という音は笠が垣根に当たる音である。“ひょうひょう”という声は、
笠にさえぎられた風が、垣根の竹の穴に激しく当たる音である。

その後、羽撃きも鳴く声も無かったので、人は村井が斬り留めたのだと信じた。
世上で妖魔などと言い伝えるものは、その実を正せば皆竹の子笠の類なのだろう。

――『武将感状記』



37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 14:02:15.40 ID:pPGBazbw
>>36
手柄にしちゃうのか(困惑

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 14:41:12.97 ID:jO55FeWP
はやく出てってもらいたい居候だしな
妖魔退治の噂が拡がれば仕官の話くらい出てくるだろう

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 16:06:04.15 ID:v1aiHHVU
騒動の原因を取っ払って不安を解消してるんだから
手柄にはなってるしいいんじゃないか
種明かしするか妖怪退治したことにするかは
教訓話が好きなタイプは前者の方を評価するだろうけど
義兄は後者の方がいいと判断したんだろう

週間ブログ拍手ランキング【08/18~/24】

2016年08月24日 18:10

08/18~/24のブログ拍手ランキングです!



「井伊家はキツイ」 40

徳川家康の、「叱り方」 39

梃子でも動かない男 23
信玄は殊の外に立腹し、笑った人々を 14

駿府の青島というところに 10
にっかり青江 9
徳川秀忠の御咄の衆(安西衆) 9

「帯刀殿の思し召しでもあれば、承りたい」 7
喜多院に味噌をすること成らず 8
能役者喜多が祖の事 4


今週の1位はこちら!「井伊家はキツイ」です!
「人斬り兵部」という異名でも有名だった井伊直政。そのあまりの峻厳さに家臣からも異議が出た、という内容です。
井伊直政という人は、本当に急激に家康に寄って取り立てられ、一気にトップの重臣層に駆け上がった人ですから、
回りの見る目もかなり厳しかったようです。例の、直政が家康の「寵童上がり」という話も、どうも彼の異例の出世への
妬みから広まった話、というのが実際のようです。
そういった環境の中で、直政は必要以上に自分の武威を示さざるを得なかった。故にこういう事にも成ったのではないだろうか。
この逸話からはそんな直政の苦しさを、感じたりもします。

2位はこちら!徳川家康の、「叱り方」です!
一方直政の主人、徳川家康による、家臣の叱り方は、さすがというか、人間が練れているのを感じますね。
しかしそんな家康も若いころは、城の堀や禁猟区で魚鳥を取ったというだけで、その家臣を処刑しようとしたことも有りました

徳川家康の鯉・いい話

家康もこういう体験の中から、家臣であっても、「人を追い詰めてはいけない」「人の誇りを奪ってはいけない」
といった事を学んでいったのでしょう。
家康という人からは、学ぶことの強さを感じますね。

今週管理人が気になった逸話はこちら!梃子でも動かない男です!
いやあ、こんなところにも実に「政宗らしさ」が出ていて、いい逸話ですねw
伊達政宗という人は、繊細なほどの細心さと、呆れるほど抜け抜けとした大胆さが共存しているのがその魅力ですね。
だからこそ、外から見れば明らかに「梟雄」であるのに、人々から今も愛されているのだと、僕は考えています。
この逸話も、彼の強がりが非常に愛らしいwこういう姿を見せられるのも、やはり政宗が「英雄」だからなのでしょうね。



今週もたくさんの拍手を、それぞれの逸話に頂きました。いつも有難うございます!
また気に入った逸話を見つけられましたら、そこの拍手ボタンを押してみてくださいね!
( ´ ▽ ` )

能役者喜多が祖の事

2016年08月23日 18:11

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/23(火) 03:51:17.17 ID:JLm47JcP
能役者喜多が祖の事

能役者喜多七太夫の祖は、右京と称して太閤秀吉の近習士であった。
七太夫の家に伝わっている話に

大坂落城のとき右京も城内に居たが、大野修理が「早く傘を櫓から出して振れ」と言ってきた。
右京はその言葉に従って天守に上り、狭間から日傘を出して振れば、
雲霞の如く集まっていた寄せ手が、見るうちに段々減ったというものがある。

また城中の婦女雑人の類は、皆々落出る体となったので、右京も故郷筑前に落ち帰ったそうだ。

ただしこれは表向きに言うことで、
実は落城の時関東の御内旨で
秀頼が薩摩に落ちられるのを右京が従っていったという話だ。

この櫓から日傘を出したことを矢留の傘とかいって、故実あることだという。
しかしいかなる訳かそのことは不詳である。
これは七太夫の父、湖遊が語ったことと聞く。
(甲子夜話)




115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 13:34:37.63 ID:+0+aEUCX
>>101
>実は落城の時関東の御内旨で
>秀頼が薩摩に落ちられるのを右京が従っていったという話だ。

関東の御内旨ってことは秀頼が生きて薩摩に逃れたのは家康、秀忠も了承してるってこと?

徳川家康の、「叱り方」

2016年08月22日 12:40

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/22(月) 02:49:15.32 ID:qOnW+GKK
総じて、召し使う者が何か仕落ちし不調法ありと報告された時、その者によく心得させ、
今後は改めさせるようにすること、これが主人にとって特に重要な事である。
私(徳川家康)は若年よりこれを専ら心がけてきた。そのため今では異見を加えた者で、
誤りを改めないという者はなくなった。

ここで気をつけるべきは、とにかく何であっても、人が身動きできないような状況にしてはいけないと言うことだ。
先ず誤りをした者に、その事ばかり言って叱りつける、そんな事をするからその家臣は心得違いをし、
主人を恨むようになってしまい、それまでよく勤めていた者であっても、不足の心が出来て勤めなくなり、
主人を疎むようになる。これは全く、主人の異見の仕方が悪いため、人を捨てるというものである。

人に対しての異見の仕方というのは、先ずその者を呼び出し、側に一人、取り成す者をあらかじめ置き、
それ以外の者を下がらせ、いつもより言葉を和らげ、
『以前にもその方は、この時は何々の手柄を致し、あの時は良き勤めをした』
などと、その者の心を悦ばせ、その上で
『かような不調法は、その方には似合わぬことだ。』
そう能く能く申し聞かせ、
『くれぐれも今後は相改め、前々の通りに心がけてほしい。』と伝える。
そうすれば大体は、その理屈に従い、身の過ちを取り分け相改めるものなのだ。

主人たる者は、一人でも能き人材をつくり、どんなに軽い身分の者であっても、科人が出来ないよう心がけ、
身を慎むことが肝要だ。

何であっても、行き届かない事はある。まして並々の者は総じて抜けがちなものだ。
そういった行き届かない所は、主人が行き届くように心がけ、不調法にならないように致して召し使う事、
これが主人の心がけの第一である。

召し使っている者へ、科を申し付ける時、その多くは実際にはその主人自身の科なのだ。

(松のさかへ)


徳川家康の、家臣への「叱り方」について



98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/22(月) 07:02:02.51 ID:m3BvGUwm
>>97
この逸話を思い出した

本多正信、家康が短気をおこして叱る時に・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2238.html


99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/22(月) 12:42:53.52 ID:NeXNb0fA
>>97
正しいと思うけどいちいちやってられないんだよなぁ…
そこが家康と凡人の違いか

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/22(月) 22:42:21.21 ID:2R8Ff/AD
正純「して、その者の名はなんと?」
三成「なんと・・・そうだったのか・・・φ(`д´)メモメモ...」

「帯刀殿の思し召しでもあれば、承りたい」

2016年08月22日 12:39

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/22(月) 03:26:52.13 ID:hhsYaD5R
堀尾信州(忠氏)は23歳で関ヶ原陣を勤めなさって功があった。
信州は帰陣以後に出雲・隠岐を拝領した。

信州は自らの縄張で城を築き、父・帯刀(吉晴)の後見を受けず
して完成させた。

信州が言うには、「帯刀殿の思し召しでもあれば、承りたい」との
ことであったが、ひとつの過ちも無かった。

その信州は26歳で死去した。

――『武功雑記』



30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/22(月) 08:12:16.67 ID:+u2AfNLo
人柱の祟りですな

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/23(火) 04:34:45.80 ID:WpCl8dTq
段階踏んでどーこーじゃないよっての
いい例なんだよね実際

にっかり青江

2016年08月21日 10:23

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/21(日) 02:03:59.09 ID:g3SzQ0MP
浅野長政の歩士が伊勢に使いをした時のこと。歩士が道に墓場のある場所を
夜中によぎったところ、変化の物が出現した。

その身体には火炎があり、不動明王の姿形のようだった。火光の中のその顔を
見れば、にかりにかりと打ち笑って、こちらに向かって来る。

歩士が刀を抜いて走りかかり、これを斬ると火光はたちまち消えて暗夜となった。
それから、歩士は伊勢に行き、次の日の帰路で件のところを見ると、苔むした
石仏の頭から血が流れ出ていた。また、刀の切っ先外れには斬った跡があった。

歩士は取って返し、この事を人に言ったが、誠らしからぬことなので親しい友に
密かに語り、刀を見せた。すると、その刃には血が付き、石のひき目があったが
刃は欠けていなかった。

浅野長政はこの事を聞いて、秀吉の耳に入れた。秀吉がその刀を召し寄せて
一覧すると、備中青江の作で2尺5寸のものだった。

秀吉は、「これは名物である」と言って、その刀に“にかり”という異名を付けて
秘蔵した(にっかり青江)。にかりはその後、京極忠高の家に伝わった。

――『武将感状記』



27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/21(日) 08:44:20.47 ID:IxSsKAaB
こっちは女の幽霊じゃないのか
てか、ニヤニヤしてる不動明王とか気味悪いw

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/21(日) 11:38:25.16 ID:7gpb65U3
>>26
にっかり青江の別パターンか

駿府の青島というところに

2016年08月20日 17:42

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/19(金) 22:22:51.20 ID:oH+VXyuJ
 駿府の青島というところに、その地の名を名乗る五郎左衛門という帯刀の豪農がいる。
この祖は愚直な者で、思し召しにかない、折々御側へ出ることができた。
何の褒賞であろうか、小粒金を直接手で贈られたとき、
袖に入れて家に帰るさなか、袖がほころんでいるのを知らず、
途中で所々に小粒金を落としてしまった。
多くの往来の者は拾ったという。
 後に聞かれて、無欲者であるとますます思し召しに叶ったと伝えられている。
(甲子夜話)




徳川秀忠の御咄の衆(安西衆)

2016年08月20日 17:38

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/20(土) 06:20:58.88 ID:AuGd7sRl
徳川秀忠の御咄の衆(安西衆)

立花立斎(宗茂)…九州のことを良く知っている。

九鬼大隅守…水軍のことを良く知っている。

脇坂中書(安治)…四国のことを良く知っている。

平野遠江守(長泰)…太閤のことを良く知っている。

佐久間備前守(安政)と同大膳(勝之)
…北国ならびに奥州のことを良く知っている。

細川玄蕃頭(興元)…上方のことを知っている。

――『武功雑記』




93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/20(土) 07:20:42.29 ID:eKeT/cdb
で、どういった話を聴いていたのかな?

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/20(土) 09:34:13.86 ID:if6gLazI
>>92
丹羽長重「あれ、僕は・・・」

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/20(土) 10:07:10.99 ID:s01bNQ/W
>>94
秀忠<「棚倉で藩主にしてやっただろ。不満?」

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/20(土) 11:07:08.14 ID:p+lYpupN
>>92
九鬼大隅守って蘇ったのか?

「井伊家はキツイ」

2016年08月19日 08:59

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 19:30:48.20 ID:zWB+z/Fv
これはたいへん申し上げにくいことなのですか、世の中では殿(井伊直政)のことを、人を斬る人物だと
沙汰しています。私達においても、よその知人から、『未だ生害にあわず、存命でしょうか?』と、
生存を確認する書状が来る始末です。

殿におかれては、大方の科は御堪忍なされ、処刑に値する罪でも、五度に二度は命を助けられ追放に
とどめ、罪のある中でも忠功のある者には、前の科を捨てられることこそ、誠の大将というものなのです。

殺害の多い大名は良い家臣を持てません。先年、当家(井伊家)は、美濃輪、橋田、秋山、戸倉、勝野の
五人、彼らは上方で名のある武士であったので、それぞれに千石づつ宛てがい召し抱えたいと伝えました。
彼ら五人は、その前は織田源之丞に仕え、五百貫を知行していました。そんな彼らに千石づつという
非常に高い条件で召されたというのに、彼らは「上方にて望む所があるので」と、断ってきました。

しかし、断った彼らの本音は、「井伊家はキツイ」という判断なのです。
その後千五百石まで条件を上げても参りませんでした。近頃聞いた所によると、彼らは本多平八殿の所に、
わずか八百貫で五人全員が参ったそうです。実に惜しき事です。
家臣が当家長久、子孫・武勇繁盛と祈るのも、それは長命を前提としているのですよ。

殿は六年ほど前からお心がけが変わり、物荒くなられました。
家康公の仰せにも、「何であっても三度家臣と相談して決定するように。」と有るではないですか。
これはしっかりと自覚すべきです。

(松のさかへ)

井伊直政への重臣よりの諫言書より。
直政の重臣たちにはよその知り合いから「まだ生きてる?」という書状が届くような状況だったらしい。



19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 21:08:30.27 ID:sUGxG//l
>>18
>『未だ生害にあわず、存命でしょうか?』
どんだけ危ない大将なんだよw

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 21:23:15.57 ID:o2hjQZMp
q=井伊ね!

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 22:11:36.52 ID:MlTLB+Gb
鬼武蔵のところはどうだったんだろう?

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 22:12:31.09 ID:ZS1gmFa7
武士って本当楽じゃねえな…