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その一言は大きな誉れである

2019年08月24日 16:15

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/24(土) 02:46:52.12 ID:vjfU7B8l
同青木民部(一重)が真柄を討ち取り申されたこと以上に存じられるのは、牢人して今川家に武者修
行の士は多く、甲州勢が出ると聞き民部は一同に30人ばかりで掛け出て、新坂の道辺にある銀杏の
木の見えるところまで行った。その時、山上へ大物見の如く3百人ばかりが出た。

「何とぞ引き取るべき!」といずれも申したが、民部は曰く「引き色を見せれば、猶更敵は募ること
だろう」と。十死一生の戦を持ち戦う内に、民部は大きな男と組んで山の下へこけ落ちた。銀杏の木
の際へ落ち付いた時、民部は上になって首を取った。また、他の者も2人で敵1人を一緒に討った。
その内に味方の加勢が来て、敵は引き取ったのである。もっとも、初め同時に来た味方の内にも討死
は多かったのだという。

今川家よりその褒美として民部に金子1枚を賜り、一緒に敵を討った士には金の龍の口蓋を2人に1
本ずつ賜ったのだという。

民部はいつも武辺の話を致さぬ人であったという。また小兵で痩せた人だという。この人は青木先甲
斐守入道丹山(重兼)の父であるが、実はその伯父である。実父(青木可直)は輝政公(池田輝政)
の御家中におられたという。

前述の時に諸人は「引き取るべき!」と言ったが、青木1人は申され「引き取れば追い付かれて1人
も残らず討たれることだろう。堪えて戦おう!」と申した。その一言は大きな誉れである。その上で
功名があった故、ますます手柄となったのである。

――『烈公間話』



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愛姫、服を仕立てる

2019年08月23日 15:21

愛姫   
152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/23(金) 01:26:55.82 ID:6jODTXIu
奥方(伊達政宗正室・愛姫)は常に儀式を正しく守ろうとされ、毎年正月、五月、九月にはおびただしい
服を仕立てられた、正月は晴れ着、五月九月は衣替えのためのものである。
公方様へ献上する服をはじめ、様々な方面に進上するための服は数え切れないほどであった。

この衣服を仕立てるため、御縫い物座敷では、左側は一通り表側を縫う衆(ひだり一とをりはおもてをぬい候衆)、
右側は一通り裏側を縫う衆(みぎ一とをりはうらをぬふ)、中央は綿を入れる衆(中とをりにてはわたを入のしたたむ)、
縁側はお召のものを縫う衆(えんがはにては御めしの物ぬいしゅ)と別れていた。
そして奥方は禿衆(近侍する少女たち)を相手に、お一人で布の裁断をして、それをご自身で縫製方に配られた
(おもてうら御一人にてたたせ給ふて、御自身さしくばらせ)。

この事は、ひとえにご恩返しとしての行為であった(是ひとへに御をんをくりなり)。

(木村右衛門覚書)

伊達者として名高い伊達政宗の装束ですが、これらの多くを正妻の愛姫が主催する工房で自ら作ってたらしい、
というお話。



153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/23(金) 19:00:53.47 ID:K4Bqm8HE
滅亡した後の大友家の姫(実際は志賀家)が長崎で養蚕を教えて桑姫として名を残したりしてるし
姫というだけあって教養や手に職を持ってるんだな

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0904/index3.html

北野大茶会の事

2019年08月22日 17:05

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/22(木) 00:46:12.19 ID:rcvPK52I
私(久保長闇堂)が茶湯を初めたのは、北野大茶会の年にあたる。調べてみると、天正十三年十月一日の
事である。秀吉公は八月二日に高札を五畿七道に立てさせ、天下の茶湯を志す者は北野の松原に茶席を設けよ、
との上意であった。南都(奈良)よりは、東大寺、興福寺、春日の禰宜、町方合わせて三十六人が出かけた。
私は幼年であったが、この道が好きだったので見物のため同行した。以下、覚えていることを記す

北野の聖廟の前には葭垣があり、東と西に出切り口があった。上様(秀吉)の茶席四つは、礼堂四方の
隅にそれぞれ囲わせ、秀吉公、宗易(千利休)、(津田)宗及、(今井)宗久という四人のお点前であった。
その時の道具の記録も残っている。
大和大納言殿(豊臣秀長)は南門筋西側で、大和郡山の武家衆、それに続いて南都寺社、町方であった。

松原中の茶席は思い思いの工夫が有ったが、その中でも覚えているのは、奥の小松原に、美濃国のある人が
芝より草を葺き上げ、内を二畳敷とし、中の四方に砂をまき、残る一畳敷に瓦を縁とした炉を作って釜を
かけていた事である。通い口の内に主人が居て、垣に柄杓を掛け、瓶子の蓋を茶碗として、焦がしを入れた
丸瓢の茶器をその中に仕込んでいた。

さて前日にお触れがあり、その日の日の出より御社の東口で籤を取り。五人一組として、先の四つの茶席の
どこかで御茶を下された後、西口からすぐに出る形であった。そのため数百人の客が、朝五つ(午前八時ころ)
にはもう御茶を飲み終えた。

秀吉公は食事を終えると昼前より松原に御出でになり、一ヶ所も残らず御覧になった。
先の美濃国の人は名を「一化」と言ったが、茶席の脇で松葉を焚き、その煙が立ち上っていた。秀吉公は
彼のことを以前よりご存知であったそうで、「一服」との御意があり、直ぐにその焦がしが差し上げられた。
大変にご機嫌よく、手に持たれていた白扇を一化は拝領し、今日一番の幸運者と評された。

また経堂東方の京衆の末席に、「へち貫」という者が一間半(約2.7メートル)の大傘を朱塗りにし、柄を
七尺(約2,1メートル)ばかりに立て、二尺(約60センチ)ほど間を置いて葭垣で囲っていた。
照日に朱傘が輝き渡り、人の目を驚かせた。
これについても秀吉公は一入興を催され、彼を諸役御免とされた。

八つ(午後2時ころ)過ぎには皆々にお暇を下され、それより互いに桟敷を片付け、その日の内に、また
元の松原に戻した。内々には、『諸方の茶道具を召し上げられるつもりであろう』と噂されたが、そのような
事はなかった。また「十日間茶湯をせよ」とも言われていたのだが、その日だけで終わった。
このため見物した人もそう多くはなかった。

私はこれを見物し、心勇んだ。どうにか出来るものだと考え、親の家の裏にわずか4畳敷の小屋が有ったので、
これを改造して二畳半を茶室、一畳を勝手とし、残る一畳を寝所と定め、足の方には棚を釣り。昼はそこに
寝具を上げた。
そんな茶室に、今思えば身分の高い客も呼んだものだ。しかし志さえしっかり持ち続け、勇気を持てば、人に
恥じる事はない。今の世で誰がこのような仕方をしているだろうか。ただ志が強くないため、勇気もなく、
他人に対しても自分に対しても恥じてしまい、道に至る人が少ないように見える。

(長闇堂記)

北野大茶会についての記事



その時、秀吉公も返事は無く、家康公も御言葉は無かった

2019年08月21日 16:16

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/21(水) 15:08:53.88 ID:j7HsFu40
岡野紅雪(板部岡江雪斎)という人あり。これは現在の岡野孫九郎(貞明)の先祖である。こ
の紅雪は小田原北条の旗下であった。小田原落居の時に紅雪は生け捕りで縛められ、秀吉公の
御陣にいた。

秀吉公は仰せられて「そもそも真田御陣の時、この岡野は表裏第一にして不届き者であった!
磔にも致したい者である!(真田御陣の時の)様子委細を尋ねよ!」と、御使をもって尋ねな
さった。紅雪は曰く「この事は人伝では中々申されぬことです。直に申し上げたい」とのこと
で、縄を取って引き立てた。

これを秀吉公は聞こし召され、「苦しからず」と御前へ召し出されて一々を御尋ねなさると、
一々を申し開き仕ったので命を御助けなさり、御咄衆になっておられたという。

ある時に京都において能を御興行の時、家康公が秀吉公へ仰せられて、

「小田原の北条は関八州の大将ですが、長く城も持ち堪えられず幾百日ばかりで落城しました。
降参していればこのような時に御物語りの相手にもなるだろうに、不甲斐なく百日ばかりで落
城したのは心残りの多いことです」

と仰せであった。その時に紅雪は末座にいたのだが罷り出て申し、

「天下の人数を引き受けた北条なればこそ百日は持ち堪えたのです。そのうえで第一の頼みに
存じていた家康が見放し申し上げなさったのですから、やり様もないことです」

と申した。その時、秀吉公も返事は無く、家康公も御言葉は無かったのだという。

――『烈公間話』

太閤能『北条』の時の話だったりして



331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/21(水) 17:09:24.18 ID:Xyh7xlrF
>「天下の人数を引き受けた北条なればこそ百日は持ち堪えたのです。そのうえで第一の頼みに
>存じていた家康が見放し申し上げなさったのですから、やり様もないことです」

まったくの事実だが、家康も秀吉も黙らされた話って珍しいなw

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/21(水) 18:29:25.10 ID:Nl8+tmX0
どこまで名前かわからない人か

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/21(水) 19:18:26.99 ID:KUwKnP2Z
>>330
痛快だなw

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/22(木) 00:41:05.20 ID:aOfLDkKJ
えらい胆力のある人だね

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/22(木) 09:07:29.18 ID:sq2PUUTe
>>332
すぐ近くに別の雪斎がいたからなw

週間ブログ拍手ランキング【08/15~/21】

2019年08月21日 16:12

08/15~/21のブログ拍手ランキングです!


那古野山三郎の弟のこと 16

大久保彦左衛門は名誉の一徹者である 9

滑稽さにおいて幽斎はその姿を得た達人である 8
安国寺肩衝・異聞 8

推参なり! 早くも天下取りの顔をするか!! 7
水中で首を取り申した 6
既に常の人とは違っていた 6

飛石を置くように成った始まり 5
赤絵の茶碗 5
カスウの大兵 4

若輩でそのうえ理に当たる故 3
堀越公方のこと 3
池田輝政の最期 2



今週の一位はこちら!那古野山三郎の弟のことです!
「天下三美少年」の一人、出雲阿国の夫、また「豊臣秀頼の実際の父」などという噂まで有ったという、いろいろな意味で
当時におけるスキャンダラスな存在であった名古屋山三郎の跡継ぎについてのお話です。
名古屋山三郎は森忠政の重臣・井戸宇右衛門と斬り合いの末相打ちしたとされ(にらみあいの松事件)、
その相続は非常に混乱の中行われたと見て良いでしょう。父・因幡守の遺言と言うのも、なんとか混乱を収め
相続をスムーズにするために作られた話かもしれませんね。
どういう状況でこの相続が行われたかを知っていると、受け取り方が様々に深くなる内容、だと思いました。

二位はこちら!大久保彦左衛門は名誉の一徹者であるです!
大久保忠教は当時から「武辺者」という評判が有ったらしいのですが、その彦左衛門らしい逸話でもありますね。
特に理屈をこねるのが実に彼らしいw単純に武辺を気取っている牢人にムカついただけなのかも知れませんが、
それをストレートに言わず言葉で圧倒するあたり、個人的にはこういう所が、あるいはこういう人だとイメージされた所が、
彼が様々な逸話や講談の中で愛されてきた所以かなとも思います。彼には確かに人文的才能があるw
そんな事をふと気づかせてくれた逸話だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!推参なり! 早くも天下取りの顔をするか!!です!
この中川清秀という人、城郭研究でも高名な中西裕樹先生の『戦国摂津の下克上─高山右近と中川清秀』によると、
荒木村重の乱の後、彼は織田信長によって「村重の後継」と認められていたとされます。山崎の合戦の折、秀吉も清秀を
「荒木瀬兵衛」と呼んでいます。また清秀は信長より「中国一両国」を与えることを約束され、息子長鶴丸(秀政)と
信長の娘・鶴姫との婚礼も成立したといいます。つまり織田一門に連なったわけですね。
さらに天正八年六月には、羽柴秀吉が、清秀との「兄弟之契約」を起請文に認めています。信長政権末期において、
中川清秀は織田家の摂津支配における最も重要な人物の一人であり、また中国攻めの指揮官である羽柴秀吉とも
深いつながりが有ったと考えるべきなのでしょう。
そこからこの逸話を見ると、もちろんこれはあくまで逸話ですが、よくも悪くも清秀の、「兄弟」である秀吉との距離の近さ、を
見て取れるのかも知れません。信長が本能寺で滅びなければ、あるいはこの後清秀が賤ヶ岳の戦いで討ち死にしなければ、
歴史上「中川清秀」の名はもっと重きを成していたと思われます。そんな事も考えさせてくれる逸話だと思いました。

紹介




今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話を見つけたときは、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

飛石を置くように成った始まり

2019年08月20日 16:46

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 11:49:16.51 ID:F3+wKcVZ
露地に飛石を置くように成った始まりについては、東山殿(足利義政)の御時、洛外の千本に
道貞という侘数寄の者があり、有名であった。そこで東山殿も関心を持たれて、鷹狩の帰りに
道貞の庵をお訪ねに成った。この時、狩りの帰りであり足元は草鞋であったので、汚れ無いよう
同朋衆に雑紙を敷かせた。東山殿が帰った後、道貞は東山殿のお通りになった跡を写して。その
場所に石を置いたという。

また、道貞の露地に植えてあった桂の木は、その後道貞桂と名付けられたと言われる。

(長闇堂記)



池田輝政の最期

2019年08月20日 16:44

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 15:12:23.45 ID:p+fNZlzi
午10月の(池田光政の)御物語り。

輝政様(池田輝政)は姫路で右京殿(池田政綱。輝政の五男)のところへ御越しになられた。
その日から御気分悪く、御城へ御帰りの時に多くの鳥が飛び来たり、御駕に行き当たったと
いう。これは春のことである。まもなく御快気され、江府へ御参勤なさった。

御帰国されたのは同8月とかいうことで、翌慶長18年(1613)、また御気分差し起こ
り、その折に御座敷の書院床の障子に、また数多の鳥が行き当たったのだという。まもなく
御逝去なさったのである。

以上は加藤九左衛門が覚えていて、光政様へ御物語り申し上げたのだという。輝政様の御逝
去は、去る慶長18年正月25日(原注:行年50歳)。

――『烈公間話』



328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 20:47:37.86 ID:1pbIn3oQ
輝政はラナのように鳥と話せたのか

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 22:38:50.73 ID:5gUQ1Yuj
例に出すなら公冶長(孔子の婿)にすべき

赤絵の茶碗

2019年08月19日 18:07

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/19(月) 11:35:25.33 ID:RGdWfBRM
安藤治右衛門家によると、先祖の治右衛門(正武)が大阪御陣の時深手を負った折、家康公が赤絵の茶碗に
薬湯を入れ、御手自ら賜ったという。この茶碗は朝鮮王より太閤秀吉に贈られた三つの品の内の一つで、
その後太閤より家康公へ進ぜられたのだという。その銘に曰く(赤絵染付なり)

 十年窓下無人問 一挙成名知天下

これは治右衛門家が重器として持ち伝えている。虫干しの時に見た人が語った。


(耳嚢)



若輩でそのうえ理に当たる故

2019年08月19日 18:06

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/19(月) 16:33:51.23 ID:LMV/o/Q5
生駒左近(原注:光政様の家士である)は織田常信(常真。織田信雄)のところに居り申したという。
(生駒が)小小姓である時、(信雄は)何の用あってか居られた場所で「ここより内へ人を入れるな」
と御申し付けであったという。

その口で番をしている時、出頭の者(寵愛を受けた者)が通ろうとしたので、前述の事を申して留め
たが、聞かずに通ったので切り殺した。若輩でそのうえ理に当たる故、褒美されたという。

仁体静にして公儀就き良し。これ故か武州様(池田利隆)から光政様(池田光政。芳烈公)の御守に
附けられた。しかしながら少し私曲があり、それ故か生駒家は絶えた。下方(末裔という意味?)は
真っすぐである故か、今も相続申していると(光政の)仰せであった。

庚申11月19日、備前西の丸御内所での御物語り。

――『烈公間話』



149 名前:148[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 02:51:05.66 ID:/g8X7WjZ
>>148
ググったら下方覚兵衛という光政の傅役がいたようなのでその事みたいです>下方

水中で首を取り申した

2019年08月18日 14:11

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/17(土) 20:50:59.04 ID:S3TnxfWQ
長篠で勝頼敗軍の時、青木(一重)の人数は舟に乗り、川を越えて敵船に交じり乗ったのを
敵は(青木を)見知っていて船から突き落としたが、川中を潜って折々首を出し、船に遅れ
ずに付いて行った。

向こうの岸際で浮き上がると、かの突き落とした兵を見掛けて浮き上がり取って引き落とし、
水中で首を取り申したという。

――『烈公間話』



滑稽さにおいて幽斎はその姿を得た達人である

2019年08月17日 17:01

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/17(土) 10:41:04.88 ID:+dFIgXP4
私(根岸鎮衛)のもとに来る正逸という導引(あんま)の賤僧がおり、もとより文盲無骨で
その言うところも取るに足りないわけだが、その彼が有る時咄た事に

「太閤秀吉の前に細川幽斎、金森法印(長近)、そしていま一人侍していた折、太閤曰く
「吹けどもふけず、すれどもすれず、という題にて、前を付け歌を詠め」
と有った

ある人は
「ほら(法螺)われて 数珠打きつて力なく するもすられず吹も吹かれず。」

金森法印は
「笛竹の 割れてさゝらに成もせず 吹も吹かれずすれどすられず。」

そう詠んだ。秀吉が「幽斎いかに」り聞いた所、
「何れも面白し。私が考えたものは一向に埒なき趣で、これを申すのも間の抜けた事ですが、
このように詠みました。」

「摺小木と 火吹竹とを取りちがへ 吹もふかれずするもすられず」

そう詠じたという。滑稽さにおいて幽斎はその姿を得た達人であると見えるが。この事は軍談の書や
古記にも見当たらない。私の目の前にいる賤僧の物語であるので、その誤りもあるのだろうが、
聞いたままを記しておく。

(耳嚢)



カスウの大兵

2019年08月17日 17:00

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/17(土) 16:26:55.11 ID:a03B31HY
姉川合戦の時、家康公に従い奉った青木民部(一重)は真柄(直隆)という兵の首を取った。

さる人(原注:能勢小十郎(頼隆)である)は民部に尋ねて「真柄を討ちなさったとも申す
し、または真柄の子(隆基)であったとも申しますが、どうなのですか」と問うた。

青木は答えて「カスウ(糟斑か。馬の毛色)なる大男と競り合った後、片岸で大男が後ろへ
落ちて行くのを押し付けて取った。カスウの大兵なので、人の子とは申し難き者だった」と
申されたのだという。(原注:子か親かは分からないが、子とは言い難い者だったと申され
たのだということである)

真柄という者は隠れ無き大兵で功の者という。

――『烈公間話』



既に常の人とは違っていた

2019年08月16日 17:05

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/16(金) 14:36:03.98 ID:GCliiJDP
小堀遠州殿が若い頃、当地奈良で方々の茶会に出られた中で「興福寺最福院の茶会が飛び抜けていた。」と
言われた。私(久保長闇堂)が「一番の点前上手です。」と申した所

「その事ではありません。あそこでは唐物茶入の小さな尻膨を、袋(仕覆)に入れないで茶を点て、
その後薄茶にもその茶入を持ち出されました。その仕方に、茶入を秘蔵していないのだという心持ちが
出ていて非常に良かった。また薄茶にも良い茶を飲めました。この二つにおもしろさがあった。」

そう仰られた。若い頃であったが、茶湯の見方が既に常の人とは違っていたのである。

(長闇堂記)



大久保彦左衛門は名誉の一徹者である

2019年08月16日 17:03

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/16(金) 16:29:02.21 ID:R+/a7XHr
大久保彦左衛門(忠教)は名誉の一徹者である。大坂御一戦の時は御槍奉行であるが、後に
御旗奉行となった。

ある時、牢人の某がやって来て申すには「このように御静謐の御代ならば、何も得るところ
なく病死仕ることだろう。天晴にも具足を肩に掛けて討死仕りたい」と、彦左が気に入って
「愛い奴」と言われようと思って申したのである。

彦左は曰く「まことに左様に存ずるのか」と申されて、某は「実に左様の心底」と申した。
その時に彦左は曰く、

「それが本当ならば日本一の不届き者なり!

何故かと言えば、この御静謐の御代に其の方などが具足を着るということは、まず乱国で
なければありえないことである! 代乱れるは一揆か逆心か、左様なことがあって其の方が
具足を着るような如何程の功名があろうとも、(その恩賞は)3百石か5百石である!

其の方は自分1人が5百石の立身を仕りたいがために天下の乱れを好んでいる! 公方様に
難しきことを願い申す心底、さてさて不届き千万なり! 左様に本当に存ずるならば只今腹
を切れ! 是非とも切れ!」

と白眼付けて(怒った目で睨み付けて)言われ、某はコソコソと逃尻仕ったのだという。

――『烈公間話』



安国寺肩衝・異聞

2019年08月15日 17:16

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 00:16:37.96 ID:ADdXVEMj
一つの肩衝と呼ばれる茶入を、安国寺長老(恵瓊)が甚だ珍重していたのだが、
これを榊原康政が甚だ賞美して、「宝貨に替えん」と思っていたが、安国寺は全く承知しなかった。

しかしながら上杉征伐として大神君(徳川家康)が宇都宮まで御動座あった頃、上方にて石田(三成)の
反逆の事が起こり、奥に上杉、後ろに上方の蜂起と、諸軍も驚き、君にも御心痛有ったが、ここで
康政が満座の中御前に出て

「上方蜂起、さてさて恐悦です。」

と、殊の外喜ぶ様子で語った。

「いかなれば康政はかく申すぞ。」家康が尋ねると

「上杉は旧家と雖も思慮が過ぎ、その上急速に御跡を付けるような事は無いでしょうから、聊かの押さえの
兵を難所に残して置かれれば、決してお気遣いされることはありません。

また上方は烏合の集まり勢ですから、何万騎有ったとしても恐るるに足りません。この康政が一陣に
進めば一戦に打ち崩すでしょう。

そして後勝利の上は、安国寺も石田の余党ですから、御成敗されるでしょうから、その時に彼の肩衝を
この康政の軍賞として頂きたい。」

そう申し上げると御心良くお笑いあそばされ、さらに諸士、諸軍とも勢いいや増しに強くなったという。

関ヶ原の勝利後、願っていたものを御約束通りに、かの肩衝は康政に下され、彼は秘蔵していたのだが、
台廟(台徳院:徳川秀忠)の御代、この肩衝を頻りにお好みになされ、康政に献上するよう命じたものの、

「これは軍功の賞として賜った重宝です、この義は御免を相願う」

と従わなかったため、秀忠も思し召しに任せること出来なかった。

ある時、康政が細川三斎(忠興)を正客として茶事があったとき、康政が水こぼしを取りに茶室を出た時、
三斎はこの肩衝を奪い、馬を乗り跳ばして御城へ出、上へ差し上げた。

康政の所では未だ客も帰らない内に、上使が現れ
『この茶入は兼ねて御懇望のところ、康政が差し上げないのも尤もな事であったので。今回三斎に仰せ付けられ
奪わせたのだ。』

とのよしを仰せ付けられ、康政には黄金何百枚かを下されたという。

この肩衝の茶入は現在は田安殿(御三卿田安家)の御物となり、甚だ大切にお取り扱いに成っていると、
これは肩衝を拝見した者が物語ったものである。

(耳嚢)

>>233 の内容が江戸後期の耳嚢になると、津田秀政だったのが榊原康政に変わっていたり、忠興が
これを奪った理由が徳川秀忠に命じられたために成ってたりと、時間が経つと逸話というものはこんなに変化
すると言うことがよく分かる内容である。

参照
安国寺肩衝


推参なり! 早くも天下取りの顔をするか!!

2019年08月15日 17:14

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 16:33:34.16 ID:Tdfto4zP
「尼崎で諸大名が髪を切って信長公のことを嘆きなさる時、秀吉公も嘆きなさり『この上はいずれも
一味同心で明智を討ち取り申す他はござらん! いずれも左様に思し召しなされよ!』と敬っていか
にも慇懃に、同輩の様子も見えたのである。

明智敗軍の時、諸大名への御あしらいは『骨折り骨折り』と仰せられ、皆家来のあしらいになされて
大いに威が付いたのである」と(佐柿常円は)語りなさった。

――『佐柿入道常円物語(高松城攻物語)』

佐柿常円は備中高松攻めの時に秀吉に御供したという人
  
  
一、山崎合戦の時、秀吉公は西国より御上り。先手は中川瀬兵衛(清秀)・堀久太郎(秀政)・
  高山右近・池田勝入様(恒興)などである。

  (中略。戦勝後)

  秀吉公は遥か後ろより、乗物で朱唐笠を差させて御出になった。中川を始め諸大将は床机に
  腰を掛けていた。きっと懇ろに礼儀があるだろうと思いなされているところで、秀吉公は駕
  の中から「瀬兵衛、骨折り」と申されたという。

  瀬兵衛は気短き人なので「推参なり! 早くも天下取りの顔をするか!!」と申されたという。
  秀吉公の御聞きなきことはあるまいが、聞かぬ顔で御通りであったという。

一、古田織部は中川瀬兵衛殿の婿である。利隆様(池田利隆)の伯母婿でもある。秀吉公が山崎
  へ御向かいの時、秀吉公は古田を召して、

  「中川と其の方は縁者だから、中川へ行け。まったく中川を疑うわけではないが、世上の聞
  こえにおいても、中川なども人質を出すとあれば味方一味のために良い。誰であっても人質
  を出しなさるように申して参れ」

  との仰せであった。古田が畏まって行くと、秀吉公は山上に陣取りであったのだが、古田が
  山下まで行くのをまた呼び返して何か遣わしたいと思し召された。乾いてござる木綿足袋を
  脱ぎ、「これをやるぞ。これを履いて津の国(摂津国)の晴れをせよ」との仰せだという。

  さて中川へ行って以上の通り申した。例の中川殿は気短く、早くも立腹して申されるには、
  「秀吉が我に人質を出せと言うか!」と、申されたという。古田は「左様ではありません。
  よくよく御思案なされ」とまずは帰った。

  夜に入って古田を呼んで中川が申されるには、「いかにも心得た。しかし人質に遣わすべき
  者がいないので、家老の子を遣わそう」と人質を遣わしなさったという。その頃、中川殿は
  津国茨木に居住されたという。

――『烈公間話』



那古野山三郎の弟のこと

2019年08月15日 17:13

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 17:00:58.55 ID:u77QSgOW
那古野山三郎の弟のこと

「因幡殿若死 宗因殿おと子にてこれ有る故 遺言にて山三郎殿子分に成され候」

那古野蔵人(宗因)は父那古野因幡守(宗慶)の遺言に従い
急死した兄那古野山三郎の子として養育され
森忠政からはじめ千石賜り、那古野氏の家督を継いだ。

--『各務氏覚書』

父、雲甫宗慶大居士(那古野因幡守、)は織田信次家の女婿となり後年織田信包に仕えた
慶長十年十二月四日没
母、養雲院殿は後年大徳寺170世清巌宗渭の育母であった
寛永三年二月五日没

--『名越氏先宗牌名』

家督に関して那古野因幡守の遺言という経緯があったという。



堀越公方のこと

2019年08月14日 17:22

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/14(水) 10:13:55.16 ID:W0NEcpVc
伊豆国下田から北に二里半ほど隔てて、堀の内村がある。ここが堀越御所の旧跡である。
御所の跡は今は田畑と成り、堀の内村の傍らに法(報)本寺という寺が有り、かの堀越御所の
追福供養を、今以て毎年日時を決めて執り行っているそうだ。この法会を執り行わなければ
疫病などが流行するなどと、現地の土俗では申し習わしているという。

この堀越御所というのは足利将軍の支族である政知が初代であり、その子義通(足利義澄)は
将軍を相続したともいう。その子茶々丸は北条早雲に攻められ、堀の内村の紅花畑の内に隠れたが、
その畑の中から鶏が飛び出してきたのを北条の追手が疑い、茶々丸を探し出し遂に害された。
この事よりこの村においては鶏を飼わず、紅花も作らなく成ったのだとか。

ただし茶々丸は政知の子であるとも、義通の子であるともいう。茶々丸は代々の幼名であり、
その通りに名乗ったのか、又は次男であったのだろうか。
中古治乱記(中古日本治乱記)という書には、茶々丸は北条の勢に逐われて山の麓の寺にて
自害したとある。

(耳嚢)



320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/14(水) 10:45:01.75 ID:TJIU/2V8
この名を見るといつも思うんだが
茶々丸って元服させてもらえなかったのかな?

週間ブログ拍手ランキング【08/08~/14】

2019年08月14日 13:38

08/08~/14のブログ拍手ランキングです!


さもあるべき実情の物語 19

清正は大馬鹿者だ! 11

古田織部などでもあろうか 7

露すぼこくて折られないもさ 6
信玄の国柄の兜 6
七月の盆灯籠 6
逆心がある故か 6

常々変わり者であった故 5
阿茶の局 5
遠州好み 3
朽木家の重宝 3


今週の1位はこちら!さもあるべき実情の物語です!
戦国を経験した古兵の語る戦場での心の有り様。合戦が始まるまでは恐怖に囚われ、いざ始まると心が停止した状態になる。
そんな事がなんとなく察せられます。高名な武将の回顧にも、戦場では極端に視野が狭くなる、なんて事を語っているお話が
いくつかありますね。そして「もう武士を辞めよう」と思っていたも、戦が終わるとその気持ちがなくなるというのは、戦時の
心の麻痺が、結果的に生き残ったことにより開放されたことから来る気持ちなのかも知れません。
色々と受け止められる、興味深い内容だと思いました。

2位はこちら!清正は大馬鹿者だ!です!
大阪城で罵られて化けて出た(?)清正公の霊。ここで面白いと思ったのが、この人足が人を殺す武器である鉄砲に
南無妙法蓮華経のお題目を入れている事を「不都合」と言っているところですね。つまり南無妙法蓮華経の言葉は、人殺しの道具
には相応しくない、もっと平和的、人道的な言葉であるという発想が当時広く存在したと考えられるからです。
戦国期には法華一揆として、南無妙法蓮華経の旗の元強力な武力を擁した法華の人々でしたが、江戸期には武器を象徴として
争いを忌避する意識が定着していた、と受け取ることも出来るでしょう。江戸後期の世界に清正を登場させることで、そういった
意識のコントラストも表している、なんてことも思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!常々変わり者であった故です!
織田左門(頼長)と言う人は、織田有楽の息子ですが、変わり者と言うか、非常に厄介な人物ですね。
諱「頼長」に「頼」の字が入っていることからも解るように、彼は豊臣秀頼に非常に近い人間で、側近と呼んでも良いと思われます。
大阪の陣の勃発に於いては当所から強烈な主戦派で、豊臣家をこの戦争に引きずり込んだ張本人の一人と言ってもいいでしょう。
(そもそも秀頼の側近、近習層は主戦派だらけなのですが。)
ただ、この頼長は大坂の陣直前には「織田常真(信雄)を総大将として、大阪城から秀頼も追い出して天下の兵を迎えて戦う」
なんて事を言っていたりします。織田家意識の強さ故なのかもしれませんが、やたらやる気は有るけど何がしたいのかよく
わからん、と思ってしまいます。この逸話も織田左門のそういった、気持の空回りが見えるお話だな、なんて思いました。


今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

遠州好み

2019年08月13日 14:53

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/13(火) 08:56:01.77 ID:rXP4AYo7
ある年に、野雁の羽箒が世間で流行したが、これは小堀遠州殿が領国の備中松山へ下国された時、
野雁を打たれ、その羽根を箒につかわれたのが初めであった。
柄杓の柄を太くしたのも、遠州殿が初められたことである。
また土風炉(土を焼いて作った風炉)の足二つを先に寄せられた事も、脇から見て良いようにという
遠州殿のお好みであった。

現在では水指卓に大小様々なものが有る。これも遠州殿が好み工夫された。昔志野宗信(室町後期の商人、
香道の創始者)が聞香に使った棚などを見られて、一段と優美になされたのである。

(長闇堂記)