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本多三弥は天性腹悪しき人であったが

2022年05月21日 16:03

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/21(土) 12:41:01.83 ID:XMgqLLM/
本多三弥(正重)は天性腹悪しき人であったが、また極めて正直な人でもあった。
あり寒夜に、大御所(徳川家康)が御膳を召し上がられ、本多佐渡守(正信)にも給わった。
この時、三弥も参り、人々も御旨を伝えられた事があった。

事終わって後、鶴の羹を召され、正信に向かい給い、
「尋常の羹であれば、今ほどの時間が経てば冷えてしまうだろう。しかしこの羹はまだ温かい。
『大鳥は老人に益あり』と言うが、さもありなん。」
と仰せになった。

佐渡守は箸を納めてこれに答えようとした時、正重が進み出て
「この三弥のような小鳥を羹にしてしまえば、今の間に凍りついたでしょう!」
と言い捨てて御前を罷り出でた、
大御所は大いに呆れられ「如何に佐渡守、汝が弟は心を未だ改めていないのか。あの心では
どうして大名に成れるだろうか。」と仰せになった。

大阪御陣の後に本多三弥は、坂部三十郎久世三四郎に賞が行われたと聞いた。
彼は激怒し「その三四、三十、いかにそれがしに超えた武功が有って賞を行われけんや!」とて、
刀を掲げて城に登った。
その時坂部、久世は帰ろうとして大門を出た所だったが、正重はその方に向かって揉みに揉んで
やって来た。久世等が「怪しい者かな」と見ていると、三弥は橋の半ばに至った時、大声で叫んだ

「御辺達は、いかなる高名して所領を給わったのか!?語れ、聞かん!!」

これに久世三四郎は素早く心得、左の手にて耳の輪(耳たぶ)を取って見せると、三弥も致し様なく
「さこそあらめ。御辺らは耳の輪大きく産まれたり!武功に於いては、何条それがしに及ぶべき!」
と言って、彼らと打ち連れて帰ったという。

新東鑑



478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/21(土) 15:40:17.34 ID:KVP3D8+5
耳たぶで納得する意味がよく分からん

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/21(土) 19:48:42.82 ID:eLz/yr/C
武功じゃなくて福耳で貰っただけですよ(運が良かっただけですよ)ってことなんだろうが、ジェスチャーを一瞬でよく理解できたなとは思うw
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金森宗和と加藤某

2022年05月20日 16:23

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/19(木) 23:13:26.62 ID:ra+2wtGb
槐記享保十二年十月十五日の記事から 金森宗和と加藤某

中井主水常覚が常修院殿(慈胤法親王)にこうお話し申し上げた。「昔、加藤越中守は武威天下に隠れなき者だったが、茶の湯のことはさほど世に聞こえておりませんでした。ある時、金森宗和に茶の湯を所望して、甚だ賞嘆して、『宗和の茶は名人と言うべきである。私は茶の湯を所望したのではない。その気のひっぱるところを見たいと欲したゆえである。ぬっと炭取を持って来られたところから一礼されるところまで、隙あらば鑓を入れようと狙っていたが、気が満ちていて一毛の入る隙もなく、ついに鑓を入れることが出来なかった』と語ったそうです。誠にお上手であったと承り及んでいます」こう常覚が常修院殿に語ると、「誠にそうであったろう」と常修院殿は大いに嬉しがられた。

「ひっぱる」「ぬっと」は原文ママ。面白い表現なので訳さずそのままで。

加藤越中守には適当する人物がいないので、名前か官位に誤りがあるのは確か。加藤越中守は肥前守としてある異本もあるそうで、岩波の日本古典文学大系の近世随想集では、肥前守は肥後守の誤りで清正のことかとしている。清正と宗和では年齢がかなり離れているので、あるいは清正と宗和の父可重との話か。ウィキペディアの宗和の項では加藤泰興との話としているが、泰興は出羽守で、出典も書かれていない。



織部とムクロ肩衝

2022年05月19日 15:23

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/18(水) 21:31:30.49 ID:dj1xSr2p
槐記享保十四年四月十三日の記事から 織部とムクロ肩衝

茶の後の四方山話のついでに(家煕様が話された)「ムクロ肩衝という名物の茶入れがある。その首がないのが名の由来という。織部が誰かと茶の湯をした後、秘蔵の茶入れを茶坊主に片付けさせたところ、茶坊主が茶入れのなかに指を入れて中を拭っていたが、指がどうやっても抜けないので、首を叩き割って指を抜いた。茶入れ袋と一緒に織部の前に出し、『茶入れの首と人間の首とを、まさかお取替えにはなさらないでしょう』と申したという話だ。この茶入れは名物記にも載っている」



191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/19(木) 12:49:07.64 ID:1Lx5XXEG
割る前に報告してくれたら指を切り落とせたのにな

小笠原晴定誅伐の事

2022年05月18日 16:38

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/17(火) 20:41:27.78 ID:FCxFjtgU
大友興廃記」から小笠原晴定誅伐の事

古文に「筆は鋭く、墨は筆に次ぎ、硯は鈍い。しかし硯のように鈍いものは寿命が長く、筆のように鋭いものは夭折する」とある
小笠原刑部大輔晴宗というものはもとは義輝公方の家臣であったが、永禄の変で三好・松永により義輝公方が弑された時、たまたま大友家に来住していたためそのまま木付(杵築)に居住した。
晴宗嫡男大学兵衛晴定には人に勝れる大力があり、術芸に優れていた。
たとえば蛇に手縄を付けたものだとしても、馬と呼ぶようであれば乗って見せよう、と大言をはいていた。
天正十二年(1584年)の春の終わりに南郷岡の城主・志賀兵部入道※道懌(志賀親度、道益)のところに見舞いに行った。
なおこの岡の城は山の前後に大河が巡り、岩壁は四面にそびえ滑らかで、大木が盾の羽を並べたように林立し、鳥でなくては登りがたい名城であった。
(豊薩合戦のときに志賀親度の息子・志賀親次は、この岡の城で島津相手に「天正の楠木」と呼ばれるほどの籠城戦を行うことになる)
晴定は「これぞ九州第一の城郭であります」と挨拶し、道懌も晴定を馳走した。
酒宴がたけなわになった折、晴定は酔ったまま冗談めかして
「このような名城にありながら、野心がないとは心の鈍いお方ですな」と述べた。
これに対して道懌は何も発言しなかった。
悪事千里を行くのならいで、この雑言が宗麟公御父子の耳に入り、それから晴定が御前に呼ばれることはなくなった。
天正十四年には道懌に野心の風聞が立った。
そこで天正十六年の春、晴定を誅伐するための討手として臼杵美濃守が選ばれた。
宗麟公は晴定を召し、晴定が居住地の木付から臼杵に向かったところ、途中の産島の茶屋で美濃守は待ち構えていた。
美濃守「今時分に御登城とは、何の御用での御登城でしょうか」
晴定「とりあえず宗麟公のお召に従っての登城である」
その頃、晴定の家臣たちは干潟で潮干狩りをして遊んでいた。
美濃守は禿(かむろ)に茶を点てさせ、自分も飲み、晴定にもすすめて時分を見計らった後、刀をするりと抜き
「上意であるぞ!」と打ち付けた。
晴定も「心得たり!」と三尺八寸の刀を抜こうとしたが、あまりの大刀のため(または「あまりの大力」か)、刀のこじりを茶屋の腰板に一尺二尺突き通してしまい、抜くのが遅れてしまった。
美濃守は続けざまに三刀を入れて討ち取った。
さしもの名のある晴定も力が過ぎたため、かえって刀を抜く速さが遅くなり、無下に討たれてしまった。
ものごとに、過ぎたるは猶及ばざるが如し、というとおりである。
晴定は氏素性といい、骨柄といい、芸能の惜しい武士であったが若さの故このようになった。
ある人が言うには、「尾が剣に変じた牛がいた。牛はその尾を舐めると血の味で甘かったため舐め続けた。すると舌が破れて牛は死んでしまった」
晴定も舌のおもむくままに後先考えず悪言をはいてしまったため、その身を滅ぼすこととなった。牛と同じことである。
人はあまり好きたることに熱中すると過ぎたることになるため、好きでも無いことに心を寄せるべきである。

※「道懌」であれば「ドウエキ」となり「道益」と同じ読みなので、以前出てきた「道択(擇)」は「道懌」の誤字だと思われる



週間ブログ拍手ランキング【05/12~/18】

2022年05月18日 14:35

05/12~/18のブログ拍手ランキングです!


氏家三兄弟の切腹 13

信長公 鬼月毛という名馬を豊後へ 12
故主である修理亮への奉公も 12

大関盛憲という人物がいた 11
志賀道択、御馬を拝領と偽り取り帰る事 10

この一言は天下の名言 9
本多正純と根来衆 9
氏家内膳三男のこと 9
秀吉と曾呂利の話 9
志賀親度裏切りについて 7


今週の1位はこちら!氏家三兄弟の切腹です!
大阪夏の陣の終結後、落ち武者として捕えられた氏家行広の3人の子の切腹についてのお話ですね。
未だ幼い者まで切腹させられるという事は、武士の厳しさであり、しかし切腹という名誉を重んじた死に方を許可
しているあたりは、一定の配慮が有ったとも言えます。
しかし、この時9歳とある八丸の言葉は、文章を読むだけでも心に迫るものがありますね。これを目の当たりにした
人々が声を上げて泣き出したというのも、解る気がします。また介錯の者が、八丸が腹に刃を当てたと同時に
頸を落としたというのも、長く苦しませたくない、武士の情けでもあったのでしょう。
武士というものの恐ろしさとある種の優しさ、そんなものも感じさせる内容だと思いました。

2位はこちら!信長公 鬼月毛という名馬を豊後へです!
馬や鷹の贈答というのは、大名の間で非常に重要なものであったようです。足利将軍や信長も、地方の大名と接触し
関係を深める歳、馬や鷹の無心をしていますね。
ここでは信長が贈ってきた鬼月毛という巨体の馬のお話ですが、この中では「八、九寸」とあります。
馬の場合、体高は「四尺」を基準としてそれ以上の数字を記すものなので、この鬼月毛は150センチ弱という所でしょうか。
アラブ種に近い大きさですね。
それにしてもこの鬼月毛、非常に凶暴でとても乗馬に適しているとは思えないのですが、日本人は何故か昔から、この手の
容易に人に懐かない癇の強い馬を愛好する癖があり、正しく日本人基準の名馬、なのでしょう。またこういった
馬を乗りこなしてこその名手ですね。この小笠原大学兵衛、おそらく京の小笠原家の武家故実たる小笠原流馬術の
使い手なのでしょう。そんな小笠原流の名手を家臣としている大友家の規模の大きさ、そんな部分をさりげなく表現している
お話でもあると思います。
いろいろな読み方のできるお話でもありますね。そんなふうに思いました。

今週は同票でもう一つ!故主である修理亮への奉公もです!
こちらは、大野治長の近臣として、千姫の脱出に関わった米村権右衛門が、戦後の、千姫に対する一種の悪評に
反発するお話です。ここからは、米村権右衛門は大坂の陣後も千姫に近い人物であったと見えますね。
そして千姫に対し、本来は秀頼とともに死すべきだったという批判が有ったらしいことも見えます。
それぞれの立場に「かくあるべき行動」という物があり、千姫はそこから逸脱している、という考え方が、少なくとも
新東鑑編纂時にはあったのでしょう。それについて、米村権右衛門という雄弁な弁護者があったことは、千姫にとっても
幸運であったかも知れません。
また、この行為を米村権右衛門が、大野治長に対する奉公であると認識している点も面白いですね。
その家を離れても、旧主に対し義理を果たす。そんな人物であるからこそ信頼もされたのでしょう。
これも色々ちと読み取ることの出来る、そんなお話だと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当にありがとうございます!
また気になった逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

この一言は天下の名言

2022年05月17日 19:03

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/17(火) 16:15:21.99 ID:g40oUKwA
或る記に、坂崎出羽守(直盛)が将軍家を怨み参らせて、己が宿所に籠もった時、幕府の執政の人々は
相議して、出羽守の老臣の元に奉書を下して、

『汝が主人、逆乱の罪遁るるべからず、坂崎の家絶えざらん事を思わば、汝が主人に勧めて自害させよ。
さあらんに於いては、世継ぎを立てるだろう。』

という旨を下知すべしと議定した。

その時、本多上野介(正純)は人々に向かい
「誠に家老が主人に腹を切らせた場合、かの家を存続させるのか」と問うた。
人々は「どうしてかの謀反人の家を存続させるだろうか。」と答えた。

正純はこれを聞くと「然らば、その奉書を下されること、然るべからず。
坂崎出羽守の不臣を罰するために、その臣に不臣を勧めるなど、天下の下知に有るべき事とも思われず。
速やかに軍勢を差し向けて誅罰あるべきものである!

人臣への教えとすべきでは無い事を述べて、偽を行い、天下の風俗を乱すべきではない!」

そう言ったが、衆議一決しなかったため、「正純の連署叶うべからず!」と署名を拒否したという。

新井白石先生曰く、「本多正純の他事は如何にもあれ、この一言は天下の名言と言うべきである。」と
評価し、柳生但馬守宗矩も、常に彼に感じ入っていたという。
誠にこの一言を以て見るに、この人が若い頃から大御所の御覚えが良かったというのもむべなるかな。
また、彼が同職の人々との関係が不快であったという事も、押して知る事ができる。

新東鑑



189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/17(火) 16:37:38.40 ID:pgI56b42
嘘ついて何とかしようとするエライさんってヤだな

大関盛憲という人物がいた

2022年05月16日 18:09

186 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/15(日) 18:59:32.65 ID:Davxrel8
越後の大関城主に大関盛憲という人物がいた。

盛憲が青年の頃、深夜荒れ野を歩いていたところ、火葬場の荼毘の中からものを拾っては口に入れている女がいた。
髪を振り乱し、歯は黒く、鬼女かと思った盛憲が近寄ろうとしたところ、女は突然逃げ出した。
女を捕まえた盛憲が「なぜ人骨を食べるのか!」と尋ねたところ、女は「けして怪しいものではありません。荼毘の火で鉄奨(お歯黒)を温めると剥げなくなると聞いてこうしているのです」と火中からお歯黒を入れた小壺を取り出してみせた。
盛憲はその豪胆さに感じて、女を妻とした。

そして二人の間に生まれた息子を弥七と名付けた。
後の水原壱岐守親憲である。


志賀親度裏切りについて

2022年05月16日 18:08

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/16(月) 15:38:23.73 ID:5/c1FEL1
2020年から新名一仁氏による現代語訳が出版されてきていることでも有名な
島津の老中・上井覚兼による「上井覚兼日記」から>>473の志賀親度(道益)裏切りについての箇所
(現在現代語訳が出版されているのは天正十二年十二月まで)

天正十四年(1586年)二月五日
…豊後の志賀道輝(親守)、近頃大友義統から勘気をこうむったため、迦住城遠方に隠遁となっていた。
そこですでに島津に内通していた入田(義実)と同心のよしを申してきた。

同年同月十六日
志賀道益(親度)と申す者は、道輝の子息である。
かの者は大友義統に召し仕われていた一之対(おそらく妾)を盗み取り扶養していたが、
慮外の振る舞いということで義統の勘気をこうむり、菅迫というところに籠居となっていた。
そこで入田方と一味のよしを申してきて、今年の春中に島津義久公の出兵があれば豊後平定のために案内すると言ってきた。
この者に限らず、大友の国衆はまとまりがなく、統制がとれていないようだ。
そこで使者に見参し、お酒をよこして閑談した。
使者は豊前・豊後国の絵図の写しを持参し、ここかしこの情勢をくわしく話した。
拙者は道益あての書状を託し、内通を承諾したよしを使者に申して帰らせた。
使者の申したことは重要な点も含めて、昨年の入田が内通した時の情報と一致していた。
皆知っているように豊薩和平のことは(天正八年に)京都(織田信長・近衛前久)により定められたが、
昨年の冬以降、大友義統が当家に対して筋目違いが歴然であった…

志賀親度が義統の妾を奪った理由
名馬を事後承諾で貰えたから、味を占めたわけじゃないと思うが



本多正純と根来衆

2022年05月15日 17:50

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/15(日) 17:30:18.37 ID:JusC5b42
元和二年(1616)六月七日、本多佐渡守政信は七十九歳にて卒した。

或る記に、政信在世の間に、嫡子上野介(正純)へ
「私が没後に、必ず其の方へ御加増があるだろう。三万石までは、下されることに成れば御請け申せ。
もしそれ以上仰せ出されれば、御請けは決して無用である。冥加に尽きる。」

と言ったのだが、後年十五万石にて、下総国宇都宮城主に仰せ付けられ、根来衆百二十人を御預けになった。
この根来衆の組頭は、大納言、少納言という同心であった。彼らは度々御陣の供奉をして手柄が有った。
故に、一騎をも勤めるほどの者であった。

この根来衆という者達は、紀州根来寺の僧の末である。秀吉公の時。下知に背くこと有って、天正十三年
三月二十三日、秀吉公が彼らを攻めたが、悪僧たちは一味うぃ、近国隣里のあぶれ者どもを招き集め、
防ぐこと甚だ疾かったため、秀吉公の軍勢は追い立て追い立て、あら手を入れ替え攻めたにもかかわらず、
悪僧達は事ともしなかった。そのため「この寺しばらく破り難し」と、攻め倦ねた所を、筒井順慶が
兵士を下知して頻りに火矢を発した故に、城中俄に火災が起って、死する者千六百余人に及んだ。

これによって悪僧たちは防ぐ手段もなく散々に成って退いたが、武勇を顕す者共であったので、
「根来寺が破却され、今更高野山に従うのも口惜し」と思い流浪していたのを、徳川家康公が
聞き召され、その中から百余人を抱えられ、御先手として定められた。これを「根来組」という。
現在徳川家にその氏族があるのは、大略この時より始まるのだという。

然るに、本多正純は自身の功に誇り、宇都宮の城普請の節、彼の御預かりになっていた根来組に対して、
壁拒の普請をするようにと申し付けた。しかし根来の者共は、「これは癖事である」と勤めなかった。
これに正純は怒り、一人も逃さず、その女房子供まで首を刎ね、塚を築いて埋めた。

この悪事により、元和八年、正純は羽州由利の地に配流されたという。

新東鑑



氏家内膳三男のこと

2022年05月14日 16:45

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/14(土) 14:09:06.03 ID:p90IDzup
(氏家内膳(行広)とその子三兄弟の切腹の後)大御所(徳川家康)は二条城に入られたが、この時
南光坊天海は小僧を召し連れ御前に出、

「氏家内膳正は御敵を成したるに依って、その子供を殺害されたことは御理であります。
ですが、この小僧はその内膳の子(三男)でありますが、拙僧の弟子となり申しました。ですので、
一向御免下さるべし。」と言った。

家康公はこの旨を聞かれ
「氏家が主君の恩を報じる為に一命を捨てたのだから、出家させた子供に罪をかける道理はない。
心安く思うように。」
と仰せになった。

或る記に、かの小僧は南光坊天海に従って、武州東叡山に居た。その頃、東叡山寛永寺には一人の浪人が
在ったのだが、俄に狂乱し、刀を抜いて本坊へ切入った。これに児喝食は言うに及ばず、齢長けた僧も
逃げ走ったが、内膳正の三男の若僧はかの狂人を組み伏せ、抜いた刀を奪い取った。

後に、山城国愛宕山康楽寺の住持となったという。

新東鑑



志賀道択、御馬を拝領と偽り取り帰る事

2022年05月14日 16:44

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/14(土) 16:10:03.34 ID:4gpgNxON
「大友興廃記」から志賀道択(志賀親度)、御馬を拝領と偽り取り帰る事

天正三年乙亥二月に信長公が信濃黒という名馬をくださった。
信長公の御意には「去年遣わした鬼月毛は世に過ぎたもので、遊覧用にしかならなかったであろう。
この信濃黒はいつもはのどかな馬で、体を飾って舎人をおおく付けてもなんの反応も示さない体たらくであるが、乗ると意のままになる、足の速い名馬である。
信長秘蔵ではあるが、わざわざ使者を送ってこられたので特別に遣わす」との仰せであった。
信長公の御意よりも優れた馬であったため、宗麟公のお召しの馬の中でも第一とされた。
ここに南郡岡の城主、志賀兵部親教入道道択(志賀親度入道道益)、丹生島登城の時、宗麟公は御機嫌であったので、暇をもらい、吉光の御脇差も拝領した。
道択はすぐに御厩舎の別当・雄城無難を訪ねたが留守だったため、御厩舎の舎人に馬を案内させた。
舎人「これは薩摩鹿毛、肥前黒、龍造寺粕毛、あれは山口黒、河辺岩石落…」と二百余の究竟の逸物の名馬を見せたあと
「これは御召料第一の御馬、信濃黒と申します。この春に信長公より参った馬でございます」
と言うと、道択はしげしげと見て、この馬以上の馬はないと思いいって、
道択「やあ舎人、この馬はそれがしが今朝拝領せよと宗麟公から仰せつかった馬であるぞ」
舎人「お言葉を疑うわけではありませんが、別当の無難も留守なのであい渡すことは、わたくしの分別ではできません」
道択は大いに怒り「殿から拝領を仰せ付けられたのに、無難が留守だからと言って渡せないとは何事だ」
と責めて、鞍をかけて打ち乗って「これは心地がよい」といいながら居城の岡の城に帰ってしまった。
そののち無難が帰ったので、舎人が「しかじかで…」と申した。
無難は不思議に思い、急いで登城しこのことを皆に尋ねると
「吉光の御脇差を拝領したことは聞いたが、御馬のことはなんとも存ぜぬ」と皆が言ったので無難は仰天し、ことのしだいを申し上げた。
吉岡掃部介(吉岡鑑興)、吉弘嘉兵衛尉(吉弘統幸?)、田北新介(田北鎮周には新介の名乗りはないようだ)といった老中衆は談合の結果、
「宗麟公の御機嫌を損ねるのを覚悟でありのままに伝えよう。
十のうち一つは本当に馬を遣わされたのかもしれない、十のうち九は道択がたばかって取ったのであろうが」
ということで、無難と老中がそろって汗をかきながら宗麟公にありのままに申し上げると
宗麟公はしばらく考えたあと「古くから軍の先を駆けんとするものは龍馬を求めると聞いておる。脇差を遣わした時の折紙に、信濃黒についても拝領遣わす、と書いておけばよかったものを」
とかえって興にいったように仰せられた。
思いの外の御返答で、無難も放心したように帰った。
良将の考えなさることは、諸人の智とは違うものだ。

※志賀親度(道益)は豊薩合戦の時に大友を裏切ったため、息子(養子)の親次により自刃させられた



信長公 鬼月毛という名馬を豊後へ

2022年05月13日 19:18

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/13(金) 16:58:04.81 ID:uwclWyl4
大友興廃記」より「信長公 鬼月毛という名馬を豊後へ遣わさるる事」

永禄の末、信長公が天下の権柄を執ることとなり、威を海内に振るうこととなったため、大友宗麟公は豊後から御祝いの使者を送った。
そののち信長公から鬼月毛という名馬を豊後に遣わされることとなった。
この馬は尋常の馬より遥かに長い顔で八、九寸ほどあり、骨がごつごつし筋が太かった。
眼は朱を差したようで、いつも怒り、常にいななき、歯噛みし、人にも馬にも食らいつくようだったので、鬼月毛と名付けられた。
宗麟公はこの馬を誰に乗らせようかと考えたところ、小笠原刑部大夫晴宗という、もともと義輝公方の侍があり、その子息で大学兵衛(大友興廃記によれば諱は晴定)というものが荒馬乗りの達人であった。
小笠原大学兵衛ではなくては乗りこなせられないだろうということで、明朝に乗ることになった。
鬼月毛は金覆輪の鞍、紅の大房に真紅の縄を八筋つけ、舎人八人が持ち、そのほかに綱を二本つけて計十人で馬場に引いてこさせた。
鬼月毛は轡を噛み切っていなないてやってきた。
宗麟公はじめ諸侍そのほか何人もが見物にやってきて見守る中、大学兵衛尉は白い小袖にかちんの上下、金ののし付きにした大小を差して、六尺あまりの巨体でゆらりと打ち乗った。
手綱、鞍、鎧などを例式のごとくにして、序盤から早駆けさせ、自在に操った。
のちには曲乗りの秘術をつくし、梯子を踏ませたり、碁盤の上に四つの蹄を縮めて立たせたり、
あるいは鞭を塀の向こう側に投げ捨て、その五丈あまりの塀を越えさせ、鞭の上をまっすぐにかけさせたりした。
宗麟公は御覧になり感じ入り、父親の晴宗方へさまざまな褒美を与えた。
鬼月毛は大学兵衛が乗りこなしたため、より速く駆けるようになり九州一の名馬となった。
日に日に見物人は多くなり、七町余の馬場を、人が四回か五回息をつけばたやすく往復するような俊足であった。
その後、馬術の上手なものが何人も挑戦したが、十人に一人か二人は腰を下ろすものの、馬が足を踏み出す前に諦めてしまい、
そのほかの八、九人は馬を見ただけで恐れて乗らなかった。
こうして大学兵衛は自由自在の御者として名誉に預かった。
厩舎別当の雄城無難は
「常の馬であれば我らとそう変わらないように見えるが、この鬼月毛ばかりは上手だけではなく力乗りでなければ乗りこなせない。
大学兵衛の力は馬よりもまさり、しかも上手のためこのように乗りこなせるのだろう」
と申したそうである。



氏家三兄弟の切腹

2022年05月13日 19:17

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/13(金) 16:09:47.53 ID:Yo+4A1bF
(関ヶ原の折、徳川家康に断りを入れた上で中立を選択した氏家内膳(行広)であったが)
然るに上方が敗軍すると、関東方である勢州長嶋城主・山岡道阿弥(景友)が、氏家氏の桑名城を
攻めようとした。氏家内膳、並びに弟志摩守(行継)、寺西下野守(直次)等は、防ぎ戦おうとしたが、
山岡は使者を立て、
『関ヶ原において宇喜多、石田以下の諸将敗北の上は、急ぎ城を渡さるべし。然らば我ら、今後の
御恩賞に換え、本領安堵させ申さん』
と伝えたため、氏家兄弟たちは承引して、各々城を出た。

然るに、一乱程なく治まって後、その所領は没収され、内膳並びに嫡子左近、二男内記の父子三人は、
縁者であったため京極高次と羽柴(池田)輝政に預け置かれ、内膳は若狭、播磨を往来して年月を
送っていたが、去る、大阪冬の陣の勃発において、徳川家康公は「内膳を召し出されるべし」との御内意が
あったのだが、

「不肖のそれがし、殊更十四、五年の間、弓馬の道を捨てている以上、武道に於いて何ほどの事を
仕れるでしょうか。どうか御免あるべし。」

と言って仰せに従わなかったのだが、また今年の御陣(大阪夏の陣)に、両御所より
『十万石の軍勢を預け給わるべし。只々大阪へ先陣すべし。』と有ったのだが。
返答にも及ばず大阪城へ籠城し、秀頼公の御供をした。
内膳は浪人の後に男子二人が出生したが、一人は比叡山南光坊天海の弟子となし、一人は八丸といって、
未だ幼少であったが、父内膳が籠城した事により、大阪落城後、嫡子左近、二男内記とともに。
五月二十九日(或いは七月二十九日)、京都妙心寺に於いて、死罪に処された。

或る記に、氏家兄弟の切腹の模様を見た医師・斎藤玄可が語ったところによると、
虎落の中に敷皮を敷き、兄弟三人は座に並んでいた。
左近は二十四、五歳、内記は二十あまりと見え、八丸は九歳にて、いずれも美男であった。

左近は、弟幼少なる故、不覚のこともあるかと思ったのだろうか、
「八丸は我らに先立つべし」
と申した。これに八丸は

「私は未だ、切腹する者を見たことがないので、どのようにすればいいのか知りません。
先ずは御両人が、腹を切って見せて下さい。その通りに致します。」

左近は布を聞いて「実に理である。然らば私と内記の真似をせよ。」と言い聞かせ、
二人は諸肌脱ぎになり、腹一文字に引き廻して、首を討たせた。
この時八丸は顔色も変えず、身繕いをして肌脱ぎになった。

見物の老若は見るに忍びがたく思い、皆声を立てて泣きながら門外へ逃げ出た。
その時八丸は脇差しを押し取り、弓手の脇に突き立てた所を、介錯の者は引かせる前に
首を打ち落としたと云う。

(新東鑑)

氏家三兄弟の切腹について



故主である修理亮への奉公も

2022年05月12日 18:17

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/12(木) 18:00:36.77 ID:cmrYwXvY
浅野因幡守長治の家来と成った米村権右衛門は、八十有余の年齢に及ぶまで相勤めていたが、
家中に槇尾又兵衛という町奉行役があった。この者は、元は故薄田隼人正(兼相)の近習で、
利発なる者故、因幡守が目をかけて使われていた。

ある時、長治が大阪落城の時、天樹院殿(千姫)が城中を出給いし折の事をお尋ねになった所、
槇尾又兵衛承り、世上にて取り沙汰されている通り、「本来秀頼と御一所にあるべきはずなるを、
御女儀とは申しながら、甲斐なき御事であると、その頃より申し触られています。」と言った。

程過ぎてから米村権右衛門はこの話を聞いて大いに怒り、家内の諸道具までも悉く取り片付け、
その上でこのように訴え出た

槇尾又兵衛について、去る頃、御前において天樹院様の御噂を申したと承りました。
城中を御出遊ばされた事は、豊臣公御母子助命の儀をお願い下さるようにと、大野修理亮がたって
申し上げた故であります。又兵衛が申す内容では、天樹院様に悪名を取らせます。またそのようでは、
修理亮の身にとっても大いに迷惑仕ります。

然し乍らこのような片田舎に於いて、又兵衛を相手にして裁許に預かったとしても、世上への申し訳には
なりません。

そこで、私は御暇を頂き、江戸表に参り、公儀に相願い、天樹院様恥辱の申し訳を仕らなければ、
故主である修理亮への奉公も相立ちません!」

これに、家老の山田監物、矢島若狭も大いに難儀し、内々にて様々に説得したが、米村は得心しなかった。
このため因幡守にこの事を申し上げると、因幡守は槇尾又兵衛を内々に召して
「その方の故主である隼人正は六日に討ち死にし、その家来は同日晩方に城中を立ち退いたという。
然れば、天樹院殿の儀は七日の事であるから、お前は定めて、世上一統の取り沙汰を申したに過ぎないだろう。

その方は如才無く気が利いているのだから、米村権右衛門へそれについて断りを申して合点致させ、
内々に事を済ませるのがこの方の為なのだから、宜しく取り計らうように。」

とあった故に、又兵衛は米村に対し
「近頃、無調法の至り、迷惑を仕らせました。」
との事を述べて謝罪し、米村もこれにて堪忍したという。

新東鑑



秀吉と曾呂利の話

2022年05月11日 17:12

182 名前:人間[sage] 投稿日:2022/05/10(火) 21:03:38.91 ID:XPxiA+Ql
槐記の享保十年九月十六日の記事から 秀吉と曾呂利の話

進藤夕翁(泰通)の話に、太閤秀吉天下一統ののち、西明寺殿(北条時頼)をまねて日本廻国を思い立ち、側近たちにひそかに語った。側近たちが「あきれたことだが、日ごろの御気性では止めたとてお聞き入れあるまい」と陰で噂しているのが四人衆の耳に入った。丹羽五郎左衛門(原文七郎左衛門)などはどうにかして止めようと思ったが手立てがなかった。時に曾呂利という冗談のうまい奇人がいて、太閤の気に入りだった。五郎左衛門はこの男に「太閤殿下が日本廻国を思い立たれたが、お前が見事止めおおせればこの上ない忠勤であるぞ」と頼み込むと、「心得ました。折を見て申し上げましょう」と曽呂利は請け合った。

ある時、曽呂利が御前に出たときに、「何か変わったことはないか」と問われると、答えて、「最近変わったことといえば、この頃以ての外に博奕が流行っております。東国からも西国からも、都下に大勢人が集まって、そこここで賭場を開いては勝負を争っております。近頃、東国と西国との勝負を一気につけようと、清滝のあたりに集まっているところへ、旅人と見える山伏のどこからともなく現れて勝負を見物しておりました。
少しして『私も人数に加え給え。一勝負いたそう』と山伏が言うと、親分衆これを聞いて『まずは元手をお見せなさい』と言う。山伏、『元手には及ぶまい。諸君らの如き下手を相手にすれば、座中の賭金はすべて我が物となろうが、いくらかは元手も懐中している』と金三百両を出してこれを質として勝負しました。言葉に違わず山伏は大いに勝ちまくって座中の金をことごとく巻き上げてしまいました。東西の親分衆、腰を抜かすほど驚いて『あなたはどこの国の方ですか』と問うと、『俺はこの山麓に住まう、天下を思いのままにする博奕の大親分だ。侮るまいぞ』と言えば、座中の者みな再拝稽首します。
さらに山伏語っていわく、『博奕に限らず、俺は天地をひとつかみにし、山川を自在に操り、高からんと欲せばこの愛宕山頂と頭を並べ、長からんと欲せばそこの君の東国よりそちらの君の西国に届くまで長くなる。大ならんと欲せば天地に充満し、小ならんと欲せば煮豆ほどに小さくなる』と語りますと、一人進み出て、『さてさて世にも稀な話です。何としても煎り豆ほどになるのを見たいものでございます』と乞うと、一瞬のうちに煎り豆となったところを取って口に入れ、ポリポリとかみ砕き、『これで一安心だ』と喜んだということでございます」と語った。
秀吉大いに感心して、「さてさて、汝は愛い奴じゃ。余が近頃廻国を思い立ったことを聞いて諫めたのだな。お前の言うこともっともである。余は天下を有しているといえども、天下人の位にあってその職を守ればこそ安んじていられるが、身一つでいては思いもよらぬ目に会わぬとも限らぬ」と思い止まられたということです。
この話の虚実はともかく、甚だ美談であると、水戸黄門の儒官のなにがしの著わした曽呂利の伝記に載せてあります、近いうちにお目にかけましょうと夕翁が申し上げた。



週間ブログ拍手ランキング【05/05~/11】

2022年05月11日 17:06

05/05~/11のブログ拍手ランキングです!


無類の剛の者なり 16

重ねて問うことがあるか 15

島津中書の死について 14
後醍院宗重、関ヶ原にて 14

後醍院宗重の息子たち 10
押川強兵衛の話 9
浜田経重の話 9

米村が浪人した後 6
槐記より秀吉の話 6



今週の1位はこちら!無類の剛の者なりです!
この米村権右衛門、大野治長の重臣・寵臣として当時有名だったようで、大坂夏の陣では千姫助命のため、本多正信への
使者となりました。故に主人である治長に殉じる事が出来なかったのでしょう。
そんな彼が戦後、大阪城の金の在り処を尋ねられ知らないと剛鬼に答えるお話。大坂の陣の逸話の中でも
割と知られている内容だとは思いますが、負けたとは言え、大阪方の気概を感じさせてくれる内容だと思います。
また言っていることが、まさに武弁という感があり、それもいいですね。そして最期に徳川家康が彼の勇気に感心して
赦免する所まで含めて、お話としても実によく出来ていると思います。
大阪方の人々の思いの一端を伝えてくれる、そんなお話だと思いました。

2位はこちら!重ねて問うことがあるかです!
こちらも大阪方の落ち武者のお話。彼らを匿ってくれた僧が捕縛されたと知るや、自ら出頭した山川帯刀賢信、北川治郎兵衛宣勝
のお話です。これも、大阪方の武士の矜持を感じさせるお話ですね。また、ここで家康が「どこかに拘禁すべきでしょか」
との進言に対し「義を知って出てきた者に、何ぞ事あらんや。」という所が良いですね。これも、逸話としても
完成されていると思います。また、結果的に戦国以来の武士同士の戦いの最後となった大坂の陣についての
新東鑑成立時の、世間での受け止め方も感じられるように思います。おそらく同格の「勇者」がぶつかりあった
合戦として、大阪方も含めて評価されていたのでしょうね。
最後に浪人払で九州へと渡るところも含めて、大阪浪人というものを感じさせてくれる内容だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!島津中書の死について です!
島津豊久の討死の様子を目撃した後醍院宗重が、踊りの中で孫たちにそれを伝えるお話。
このお話の成立した頃には、関ヶ原合戦も島津豊久の討死もすでに、薩摩に於いて島津家の大苦難として
伝説、神話のようなものであり、それは代々、伝えられていったのでしょう。それは単純に上からの教育というより、
関ヶ原に参戦した個々の家がその由緒の重要な要素として、語り伝えたものでもあったのでしょう。
そんな事も感じた内容でした。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

米村が浪人した後

2022年05月10日 17:30

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/09(月) 20:37:22.33 ID:tcJFYPPt
或る本に、大野修理亮(治長)の娘は天樹院殿(千姫)に召し仕え、大野修理亮の重臣である
米村権右衛門の娘は、この大野の娘に仕えた。

大阪夏の陣後、米村が浪人した後に、折々(千姫の)御屋鋪へ行くと、衣服、黄金等の拝領物などがあった。
然るに、治長の娘が病を煩い、「生きているうちに、寺詣など致して相果てたい」との願いにより、
御暇を下され、その上に米村権右衛門を召され、
「その方が召し連れ罷り上がり、隨分に養生を致させよ。」
と、関所手形。道中の雑用等も潤沢に給わり、自身の娘とともに供して京に上がり、様々に養生を
なしたのであるが、終に相果てた。

故に火葬としたのであるが、この時権右衛門が妙心寺の方へ行っている間に、彼の娘が治長の娘を
焼く火の中に飛び入り、棺に抱きついて焼死した。

権右衛門は帰ってきて大いに驚いたが、為す術もなく、そのような状況だったので主従の骨を
分けることも出来ず、一所にして高野山へ持ち登り、骨堂に納めた。そして剃髪して自ら権入と
名を改め、京都妙心寺の内、嶺南和尚に随事し、その後江戸に下り、芝の東禅寺に在って掃除などしていた。

ある日、沢庵和尚と嶺南和尚が同道し、浅野因幡守長治(長晟二男)に招かれたのだが、沢庵曰く
「御亭主には随分の人数を持たれていますが、嶺南和尚の持たれているような人は無いでしょう。」
と言った。長治は聞いて「そては何と申す人でしょうか。」と「尋ねると。
沢庵答えて

「大野修理が家老・米村権右衛門と申す者です。かの者は修理の配所への供をも相勤め、関ヶ原合戦の砌、
宇喜多中納言(秀家)家来・高知七郎右衛門と申す者を組み討ちに致し、その後大阪冬陣で御和談の折、
織田有楽、大野修理亮方へ、交渉のため物を心得た侍を一人づつ出すようにとあった時、有楽よりは村田吉蔵、
そして修理よりは彼を出しました。彼は度々城中より出て交渉を行い、御和談が成立すると、茶臼山の
御陣所において、大御所(徳川家康)に御目見得仕り、殊の外御賞美に預かりました。

現在は武士を止め、嶺南和尚の方に罷り有ります。」

これに長治
「その権右衛門は世間に隠れ無き者です。拙者、彼を召し抱えたく思います。修理方での知行は
いかほどであったかご存知ないでしょうか。」

これに両和尚共に、「先知は二百石であったと聞き及んでおります」とあり、因幡守は
「では四百石遣わし申すべし。」と言うと、沢庵は「どうしても、五百石を遣わされるべきです。」
と申した。これに対し

「五百石という知行については。少々差し合い申す仔細もあります、その代わりに足軽を
預けましょう。又、彼は今道心者の体でありますから、腰刀も無いでしょう。
私は、もう月末ではありますが、当年の物成を支度料として遣わしましょう。」

これによって米村は、終に浅野長治の家来と成った。

新東鑑



槐記より秀吉の話

2022年05月10日 17:30

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/09(月) 22:08:23.88 ID:V0Qof8cd
槐記より秀吉の話

享保九年 九月七日の日記

太閤秀吉、ある狩りの帰りに供廻りの者たちを御上覧に入れようとて、南門の前を通る許しを願い出た。お許しあって、その日南門を開いて上覧された。三藐院殿(近衛信尹)もその時お出でであったので、秀吉一行の装束の細部まで残さず記録なされた。供廻りの人数の夥しいことは言うまでもなかったが、まず先手の者たち、鶴百羽を青竹に結び付けて二列に並び、続いて雁二百羽を同じようにといったふうに、上覧に供するために甚だ華美に興行されていると見えた。家康をはじめとする騎馬の士は、みな鷹を手に据えて通った。秀吉は朝鮮の輿に乗って唐冠に唐服を着しハイタカを手に据えて南門の前まで来ると酒を乞われた。殿上人諸卿みな出迎えて南門の前に宴席を設けたが、秀吉の据えていたハイタカは実は作り物で、この時首を取ると中に酒肴が入っていたそうだ。太閤の物数寄はかようなものであった。



押川強兵衛の話

2022年05月09日 17:29

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/09(月) 16:03:41.70 ID:AbK5L8LX
「薩州旧伝集」から押川強兵衛(押川公近、浜田経重の娘婿)の話

あるとき、押川強兵衛はじめ多くの者が疲労のために野外でしばらく寝ることにした。
番をしていた者が寝ている者の陰嚢を探ったところ、たいていは縮みこんでいた。
強兵衛は高いびきをかいて寝ていたが、「強兵衛は剛強の人だからどんなものだろう」と探ったところ、硬くなってなかったため
さすがは勇強の人である、と感心したということだ

なお薩摩藩「本藩人物志」によれば押川公近の活躍として
関ヶ原後に伊吹山に島津兵二百人で籠り、公近と浜田主水(浜田経重の息子)が食糧を確保して皆に配った。
そののち石田三成からもらった黄金を隠して落ち延びようとしたところを捕らえられたが、島津と親しい山口直友により救助され、大小の刀を貰った。
そしてこっそり直友の屋敷から丸腰で出立し、隠していた黄金を取った後、疲労のため道端のお堂で眠った。
睡眠中、鰐口の音に気づき起きると、大脇差の男が斬りかかってきたため、その刀を奪い、男の首を切り落とし、京都に行き近衛様の屋敷に駆け込んだ。
帰国後、三虚空蔵参りの名目で島津豊久の行方や諸国情勢を探った。
そののち帰国後、桐野九郎左衛門(桐野利秋の先祖)の案内で平田増宗(琉球征伐の副将)を上意に従い暗殺した。
といったことが書かれている



179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/09(月) 17:06:39.50 ID:AbK5L8LX
最初読んだ時、「鰐口の音」は刀を抜いた時の「鯉口の音」とか「鍔の音」の間違いかと思ったけど
目を覚ますほどの音はしないから、お寺のお堂だし「鰐口の音」でいいはず

無類の剛の者なり

2022年05月08日 16:59

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/07(土) 18:21:40.53 ID:vcsZqKO6
慶長二十年五月二十日、大野修理亮(治長)の重臣で、大阪落城後捕えられた米村権右衛門が
召し出され、大阪城中に貯えた金銀についての巨細を尋ねられた。米村は、知らないという事を
申したが、これを聞いた奉行は「汝は修理亮の寵士である。どうして知らないという事があるか!」
と罵った。

それまで米村は稽首(頭を深くたれて地につけること)していたが、この言葉を聞くや額を上げ、

「これは御奉行の言葉とも覚えぬものかな!それがしは卑賎であったのを、主人の憐れみを以て、
士の中に入れて頂いた(別記に、米村は大野治長の草履取りだったとも言われる)。
その主人は大阪に在って、軍陣の成敗を執られていた以上、運命の存亡をこそ朝夕に計り続け、
曾て金銀財貨を心とせず。これを以て下賤の者と言えども、敵を討ち首をとらんとのみ思い、
他に思慮を巡らす事はなかった。これによって金銀財貨を見ること、芥の如し。

理を以て申せば、城中が戦に負けた時は、首領をも保つことは出来ず、千万の財貨が有ったとしても
何の役に立つだろうか。そして、もし勝軍いたせば、両将軍(家康・秀忠)の御腰の物までも皆
我らの物となり、求めずして財貨は飽き充るだろう。

言うべき旨があれば厭おうとは思わない。しかし言うべき理がないのなら、口を裂かれ
舌を抜かれても、何を述べようか!」

そう、憚る気色無く申したことを、大御所も聞き召され、「無類の剛の者なり」と、御赦免あった。

(新東鑑)