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御宿勘兵衛の最期

2019年07月15日 13:40

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/14(日) 20:50:03.53 ID:S1JzbmpW
『難波戦記』に曰く、御宿越前(勘兵衛政友)の討死は強働きとある。白糸の具足は血に染まり、
赤糸に見えたとある。

光政様(池田光政。芳烈公)へ先の松平出羽守殿(直政)が御物語り致されたことには、御宿は
元来左手が無く手ん棒であるという(御宿事元来左手無手棒ニテ候由)。最期には赤糸の具足を
身に着け、手ん棒で槍を持たせていたという。越前家(越前松平家)の某はよく見知っていたの
で、そのまま討ったということである。

出羽守殿は越前の御手のことを確かに御存知のはずだから、これが本説であろうという。御宿は
手ん棒故に、強戦を仕る様子ではそもそも無いという。

――『烈公間話』



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若はいとこにておはせしを妹と披露して

2019年07月14日 16:59

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/14(日) 00:52:23.62 ID:bpKXLKyV
御所の御台所(崇源院。お江)は、贈中納言藤原の長政卿(原注:浅井備前守殿の御事なり)の
御娘で、御諱は“達子”と申す。御母は織田右府(信長)の御妹(お市の方)なり。

(原注:諸書に記すところは皆“妹”という。ところが溪心院という女房の消息(『溪心院文』)
を見たところ、信長の“従姉妹”であるという。あるいは従姉妹でいらっしゃったのを、妹と公表
して長政卿に送られたのであろうか)

(諸書にしるす所みな妹といふ。しかるに溪心院といふ女房の消息を見しに信長のいとこなりと
いふ。若はいとこにておはせしを妹と披露して長政卿にをくられしにや)

――『以貴小伝』



三斎公はいつも利休に蒲生氏郷の悪口を言い、また氏郷も

2019年07月13日 15:20

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 00:45:39.47 ID:Kk+VP0qq
若い頃、三斎公(細川忠興)はいつも利休に蒲生氏郷の悪口を言い、また氏郷も利休に三斎公の悪口を
言っていた。

ある時三斎公は利休の所で
「氏郷は数寄者ぶっていますが、裏口を開けてみれば乗馬用の沓や鼻紙などが散らばっている有様です。
彼は絶対に数寄者などではありません。」
と言った所、利休は
「それも良いでしょう。数寄さえすれば、それでも構いません。」
と答えられた。

そうしているうちに蒲生氏郷が勝手の障子を開け
「誰だかが私の悪口を言ったようだ。しかしその者が恥をかいたのは嬉しい」
と言った。

後で三斎公は「誰かがすぐに告げ口したのだ」と大笑いされた。

(三斎伝書)



255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 11:19:11.37 ID:YjWTGmPq
どんだけ仲悪いんだよ

花入はご覧になりましたか

2019年07月12日 16:48

千利休   
83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 01:02:31.24 ID:BhNSOonv
千利休より「花入が到来しましたので、今お待ちしています。」と、前田肥前守(利長)、
蒲生氏郷、細川三斎(忠興)の元に使いが来た。早速三人で出かけて席入したものの、初座、後座ともに
花入は出なかった。三人は利休に花入を所望すべきかと相談したが、恐れてついに言い出せず、退席した。

利休が露地に送りに出た時、「今日は花入をお見せするためお招きしましたが、花入はご覧になりましたか。」
と尋ねた。客である三人は「とうとう花入を拝見出来ませんでした。座敷、露地ともよく見廻したのですが、
花入はありませんでした。」と答えた。

利休は「尤もです。」と言って、露地の塵穴を示した。そこには落ちた椿の花を、なるほど見事に入れてあった。
「その見事さには驚き入った。」と、後に三斎様がお話になった。

またある時、利休よりこの三人が御茶に呼ばれた。にじり口を開けると、そこに茶壺が置いてあり席入することが
出来なかった。三人は困惑し、どうして良いか解らず様々に相談したが、勝手に床に上げるわけにもいかないと、
先ず座敷の真ん中に茶壺を移して席入し、亭主である利休に「茶壺を床へ」と申した。利休は機嫌よく
これを床へ上げた。「客の思案が良かったのでしょう」と、後にお話になった。

(三斎伝書)



85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 05:26:24.74 ID:FVr7QC+1
>>83
わびってるなあ

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 08:12:56.70 ID:kTIihdCu
>>83
深すぎてわかんねーw

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 11:50:52.94 ID:YjWTGmPq
わびさび俺には無理だと分かった

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/14(日) 04:25:07.42 ID:9odMhzGb
とんち比べかな?奇をてらって遊んでる風にしかみえない

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/15(月) 10:07:51.99 ID:wf+p/I6R
こういうのが和歌の世界だと古今伝授みたいになるんだな

敵が寄せて来れば、牛起きに起きて突いて掛かれ!

2019年07月12日 16:47

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 01:30:11.98 ID:NXcn6hNJ
御四男の左馬助忠吉公(阿部忠吉。正勝の子、忠秋の父)は、慶長19寅年(1614)の
大坂御陣(冬の陣)の折は御知行2千5百石の御従頭で、駿河に御詰めなされた。江戸の御
屋敷は西丸大手際で、後に三枝摂津守がおられた屋敷である。

翌卯年の大坂御陣(夏の陣)で前将軍・家康公の御先を御勤めになり、大坂から毛利豊前守
(勝永)が打ち出た時に、東兵は敗走する。

味方が崩れ掛かるのを忠吉公は御覧になり、道を要意してとある在家の後ろを回って御組中
ならびに御家臣を引き連れ、小高き所に鳥毛の三階笠の馬印を押し立てると、槍衾を作って
「敵が寄せて来れば、牛起きに起きて突いて掛かれ!」と、膝を敷いて待ち受けた。

御旗本が足を乱して敗北(敗走)する中でも踏み留まった面々は、忠吉公の言葉を聞いたこ
とを後の証拠とした。将軍家(徳川秀忠)は、忠吉公は御眼前で天晴な御振る舞いであると
の由を仰せであった。

正勝公よりの附人は河野半右衛門・加藤半次郎。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



消えた秀吉取り立ての家臣たち

2019年07月12日 16:43

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 16:30:42.87 ID:ycVecxqD
3万石 渡瀬左衛門佐繁詮

太閤が卑賎の時から奉仕した。関白昇進の時に5千石を賜り、旗本の列となる。天正18年(1590)、
小田原の戦功をもって、遠州横須賀城3万石を賜る。ところが、秀次に悪行の詮議あり。渡瀬はその張本
人であることをもって、文禄4年(1595)8月に領地を没収し、佐竹右京大夫義宣へ預けられて常州
水戸へ配流(後に切腹)。


3万石 前野但馬守長康

太閤が筑前守だった時に馬廻に召し出され、前野庄左衛門と称す。賤ヶ岳では四番の軍列であった。後に
但州出石城主となる。長康も秀次へ悪行を勧めたことをもって領地を没収し、駿州府中城主の中村式部少
輔(一氏)に預けられる(後に切腹)。この将は加州の住人・富樫介(加賀守護富樫氏)の末葉で、後に
坪内と改めて、当時御旗本に奉仕した。


18万石 木村常陸介重高

重高は木村隼人佐の息男である。父の隼人佐は太閤が微賤の時からの老臣で、賤ヶ岳合戦の時は三番備、
柴田の先手を追い崩して越前まで突き入り、ついに勝家を自害せしむ。この功をもって山州淀城を賜り、
大名となって卒去した。

常陸介重高は家督を継ぎ、太閤は関白職を秀次へ譲られる。この時、「木村は数年予の老臣であり、目出
度き者である。秀次も予の如く果報を継ぐべし」と、木村を秀次のへ付けなさった。

されども重高は父・隼人佐に劣り、佞奸にして石田(三成)・増田(長盛)と心を合わせて秀次へ悪行を
勧めたことをもって、秀次生害の後に木村は摂州茨木で切腹、その一族は縁者まで尽く死刑となる。この
始終は『秀次記』に委細があるので、ここには記さない。


5万石 熊谷大膳亮直澄(直之)

直澄は熊谷次郎直実の末葉である。太閤が天下草創の始めより馬廻に召し出され、しばしば戦功があるの
をもって5万石まで賜り、秀次の附臣となる。ところが秀次生害あれば、直澄は嵯峨天龍寺へ馳せ入り、
たちまちに自害した。直澄はまったくその誤りがなかったので、太閤も召し返して本領を賜ろうと内談が
あった内にたちまち殉死したため、皆人は残念に思ったという。


8万石 熊谷内蔵介直陳(直盛)

直陳も熊谷次郎直実の末葉で勇猛の者故、太閤の馬廻に奉仕してより、しばしば軍功を尽すことをもって
天下平均の後に、豊後安岐城主となる。これも朝鮮へ渡海し(目付として)諸将の剛臆を告げたが、毛利
(吉成)・竹中(重利)と対決に及んで追放された。直陳も三成の婿なので佐和山へ赴いて忍んでいた。
翌年三成は本領を与えて大垣城へ籠め置いたが、垣見・木村とともに相良・秋月らにたばかられて死んだ。
(後略)

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 16:31:56.17 ID:ycVecxqD
1万石   塩冶隠岐守
1万5千石 寺田播磨守(光吉)
2万2千石 斎藤左兵衛督
3万石   津深右京亮
1万2千石 粕谷内膳正(糟屋武則)

以上五将は各々太閤の代に取り立てとなり、武威を振るったが石田に与するをもって所領を没収なされた。


6万石 戸田民部少輔氏繁(勝隆)

太閤が未だ勢微な時から従った。しばしば戦功があったので予州喜多郡大洲城6万石を賜る。天正13年
(1585)に太閤は四国退治のため、御舎弟の羽柴美濃守秀長と御猶子の三好秀次を大将軍とし、6万
余兵を添えてまず阿波州を攻めさせなさる。

この時、戸田は一番に馳せ加わり戦功をあらわす。それより四国の徒党は尽く雌伏したので、取り分けて
戸田の戦功を感心し、同州宇和郡板島城へ移しなさって官位を昇進し、大名に取り立てなさるとの契約が
あった。そんな折に程なく病死し、あまつさえ令嗣なきをもって所領を召し上げなさった。


7万石 小川土佐守祐忠

伊予今張城主。太閤取り立ての人である(原注:一説に明智光秀の従弟。故あって直参するという)。初
め石田に与し、島左馬介祐滋とともに大谷(吉継)に属して北国へ赴く。後に関ヶ原へ出張して軍談する
ところで金吾秀秋が密かに関東へ通じると聞き、脇坂・朽木・赤座とともに俄に心を変じ、大谷・平塚の
陣を破る功をもって本領を賜る。

ところが祐忠は不行跡にして家人国民に酷く当たり、諸人は疎み果てる折に異心を巧み、天下の大事を企
てた故にたちまち所領を没収なされた。小川父子とその一族与党まで尽く改易なされたという。

――『古今武家盛衰記』

消えた秀吉取り立ての家臣たち

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 22:02:26.03 ID:ycVecxqD
5万石 丹羽備中守長昌(長正)

越前守長秀の次男、修理亮長政の孫。幼少より太閤に仕え、後に越前東江城を賜る。石田に与して大谷に
属し、戦功をあらわす。関ヶ原の敗戦を聞いて逐電した(後に秀頼に仕えて、大坂開戦前に脱出)。(原
注:ある説に曰く、長昌は越前を逃げ出し、後に丹羽左京大夫方へ行き忍んていた。子孫はかの家に仕え
るという)


2万石   多賀出雲守(秀種)
1万9千石 杉若越後守(無心)
1万7千石 横浜民部少輔(茂勝)
1万5千石 杉谷越中守
1万石   寺西下野守(是成)

以上は太閤取り立ての将である。石田に与して大谷に属し、北国で戦功あり。それより大津へ向かって立
花宗茂の先手に進み、命を捨てて大いに戦い、関ヶ原へ出張しようと用意した。しかしすでに敗れたと聞
いて逐電し、諸国に忍んで放浪した。(原注:私に曰く、以上五将の由緒、かつその子孫が諸家の陪臣と
なることは長き故記さない。『太閤記』に詳しい)


1万石 松浦伊予守秀任(久信)

松浦安太夫宗清の従弟。初め安兵衛といった時より、太閤の馬廻に召し出されて頻りに立身した。石田に
与し、大津城攻めで立花とともに軍忠を励む。秀任は元来強力で、鉄棒を提げて馬人の区別なく散々に打
ち倒し、一の城戸を打ち破り二の城戸まで攻め入ったが、大勢に取り詰められてついに戦死した。立花は
その勇を大いに感じ、太平以後に秀任の子を召し出して扶持した。子孫はかの家に仕えるという。


1万石   高田豊後守(治忠)
1万3千石 藤掛三河守(永勝)

以上両将は太閤御取立ての者である。石田に与し、小野木(重勝)とともに田辺城を攻落する。味方敗北
の後に流浪したが、子孫は当家(徳川家)に召し出されて俵数を賜る。子細は知らず。

――『古今武家盛衰記』

追記>>250
富田高定などの伝もあるけど長くなるので割愛



261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/15(月) 09:44:55.09 ID:DWiCMEm8
>>249

前庄殿な後だけどその話武功夜話にでとりましょうですか?

細川忠興と茶入

2019年07月11日 16:10

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 21:06:40.96 ID:txMoZn0l
寛永十四年十月五日 吉田御屋敷、三斎様御茶湯、御座敷開き
                辻七右衛門殿、久重、誓願寺永玉、守顕。(茶会記略)

三斎公(細川忠興)が薄茶入を出された時、辻七右衛門殿が「この茶入はなんと言う名でしょうか。」
とお尋ねになった所、三斎公は「吹雪と申します。」と答えられた。

「この茶入の形は三斎様のお好みであると、世間では言われています。」と七右衛門殿が申されると、
「いやいや、これも利休が形を切り出されたものです。しかし最初に私が写したので、世間でそのように
言われているのでしょう。」と答えられた。

三斎公は、唐物茶入を持たずに、瀬戸の山の井肩衝(古田織部が天下一と称賛した古瀬戸肩衝)ばかりを
秘蔵していてもいかがかと思われ、唐物を持った上で、瀬戸を唐物よりも秘蔵すれば良いとして、
古田織部に、彼が所蔵する勢高肩衝(織田信長が所持し、本能寺で罹災した)を所望した。

すると織部は「金子二千枚頂ければ進上いたします」と返答した。三斎公が「肩衝に金子二千枚も出す
取引は聞いたことがない。」と申されると、
「それでは金千枚と、山の井肩衝を残りの千枚分として頂きたい。」と言った。

これに三斎公は
「それは駄目だ、勢高肩衝を所望したのも山の井のためであり、それは出来ない。」
とお答えになったという。

(三斎伝書)



朝鮮から見た秀吉の「唐入」について

2019年07月11日 16:09

宣宗   
241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/11(木) 11:55:14.96 ID:WC8s2TiO
世宗大王(セジョンデワン)は1450年(世宗32年)2月14日に
同副承旨の鄭而漢(チョン・イハン)にこのような言葉を残した。
崩御3日前だった。結局、これはは遺言になった。
「倭(日本)と野人(女真族)への対応は簡単な問題ではない。
平安に浸っていれば気が緩まないか本当に心配だ。
日々気を引き締めて問題がないようにしなければいけない」

(『世宗実録』)
以下略

ソース 中央日報 
【コラム】無知または無視:韓国の日本対応マニュアル

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/11(木) 12:08:12.99 ID:WC8s2TiO
朝鮮王朝実録の宣祖修正実録には、1592年に外敵が侵入した時に
朝鮮がどれくらい無防備だったかが赤裸々に記されている。
外敵は20万人を徴発したが、実録には
「釜山(プサン)で見張りをしていた官吏が最初に来た4百余隻を報告し、
辺将が最初の報告を受けたものだけを根拠にこれを実際の数と見なした」
と記されている。

それで
「敵の船は4百隻にも及ばないが、一隻に乗っている人員が数十人に過ぎず、
その概略を計算すれば約1万人ぐらいになると報告したので、朝廷もそのように考えた」
ということだ。

(中略)

1592年、釜山沖に倭軍が予告もなく攻め込んだわけではなかった。
その前年の1591年、朝鮮通信使に渡した国書を通じて豊臣秀吉は明を打つという考えを知らせた。
「一超直ちに明国へ入り、吾朝の風俗を四百余州に易え、帝都の政化を億万欺年に施すは方寸の中に在り」
と伝えた。明への道の途中に朝鮮があった。

ソース 中央日報
【コラム】1592年と2019年、私たちは変わったのだろうか=韓国(1)

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/11(木) 12:09:38.55 ID:WC8s2TiO
豊臣秀吉を直接見ても対策は分かれた。
秀吉を見た通信使の黄允吉(ファン・ユンギル)は朝鮮に戻ると
「必ず兵火があるだろう」と報告したが、
副使の金誠一(キム・ソンイル)は
「そのような情状は見つからなかった」と正反対のことを伝えた。

実録には秀吉を見た2人の官僚の全く異なる印象評価も登場する。
黄允吉は「眼光が輝いていた」としたが、
金誠一は「目がネズミのようだ」と比喩した。

実録には金誠一が朝鮮に戻る途中で
「通過する帰途でさまざまな倭陣で倭将が与える品物を誠一だけは断り受け取らなかった」
と記録した。
倭には何も要求しないという彼の所信だったのかもしれない。
だが、ネズミのようだという秀吉が送った倭軍は、
明の地上軍を碧蹄館(ピョクチェグァン)で撃破した当時の精鋭兵だった。

(中略)

倭軍との戦闘で釜山の辺将・鄭撥(チョンバル)将軍は
矢がすべて尽きると敵の弾丸を受けて戦死した。
東莱(トンネ)府使の宋象賢(ソン・サンヒョン)は抗戦を指揮し、
鎧の上に朝服を着て椅子に座っていたが、結局死んだ。
準備が整っていない戦争で、
現場の指揮官は死を以て倭軍と対抗しなければならなかった。

ソース 中央日報
【コラム】1592年と2019年、私たちは変わったのだろうか=韓国(2)



244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/11(木) 12:17:22.82 ID:qPa1o5mb
コラム名に笑ってしまった。すまぬ

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/11(木) 13:01:05.37 ID:37oiW974
スレがスレだから仕方ないけど逆の立場だったら到底笑えるものではないかと

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/11(木) 21:25:57.73 ID:6gXsWriM
油断しまくりだな
隣国の情報くらいちゃんと集められそうなもんだが

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 16:39:08.37 ID:BhNSOonv
>>247
秀吉が天下統一して朝鮮の使節が来て九州に到着した時、九州で少弐氏が滅んだことを知って
驚いたという記録が残ってる。朝鮮王朝のレベルでは100年位対日情報が滞っていたらしい。

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 16:44:39.80 ID:MSoPE4K2
当時の朝鮮からするとそれまで戦乱続きだった日本が統一された事の方が異常事態なんじゃね
しかもそれをやったのが下層出身者だという
そんでそいつが明を征服しようと企んでるとか

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 11:25:34.48 ID:YjWTGmPq
>>251
驚きです
100年はさすがに。

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 20:59:04.78 ID:A8yxn3Gt
朝廷内は権力闘争の日々、朝廷外は貧困やら倭冦やらでぼろぼろだから日本にかまけてる余裕が無かったのか?
15世紀末だったか16世紀初頭の宗氏の内紛にちょっかい出したのが、秀吉前の日本に関わった最後なのかな?
博多商人とのやり取りで情報は入っていそうな気もするけどね

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 21:10:06.07 ID:I9aZsBuw
15-17世紀の日朝貿易は偽使の歴史だし
朝鮮に日本が朝貢した体裁を整えればどうでもいい

但馬守殿は御あしらいなされ

2019年07月10日 17:16

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 02:13:00.48 ID:XPK8fwud
柳生但馬守殿(宗矩)は兵法御指南で、ある時に御側向へ「なにとぞ但馬守を打つように」
との(徳川家光の)御内意で、御庭で但馬守殿を竹刀打ちするようにと御所望遊ばされた。

御側向4,5人が御立ち向かったところ、御庭にある大竹5,6本を背にして但馬守殿は
御あしらいなされ、皆打たれたという。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 07:58:44.29 ID:EhSynLtZ
5対1で勝つってどんんだけ強いんだ
それとも側衆がヘタレなのか

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 08:36:06.01 ID:CyItAO8a
>>78
囲まれないように後ろを壁にする当たり妙にリアルでいいなw
完全な創作だったら囲まれても無傷で圧倒するだろうし。

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 17:01:12.06 ID:o9MkKrAQ
忖度です

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 23:08:54.49 ID:hxZg6iqB
ここで剣術の師匠倒したら色々面倒そうやなあ…

加藤一分殿

2019年07月10日 17:15

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 15:49:22.27 ID:XPK8fwud
(前略)ところが明成(加藤明成)は闇将で武備を守らず、ただ金銀珍器を好んで臣庶国
民の困窮を顧みず、諸人の肉を削っても金銀となして集めることを喜んだ。

その金銀を集める時は、皆一分にして取り集めた。時の人はこれを“加藤一分殿”と称した。
(原注:“式部”と“一分”は発音が近い故、そのように言ったものか)

これ故に金銀財宝は蔵に充満した。私欲は日々に長じ、家人の知行、民の年貢にも利息を
掛けて取り、商人職人にも非道の運上を割り付けて取った故、家士の口論、商工の公事喧
嘩は止むことなし。これ故に老臣は心を合わせ、一同にこれを諫めても聞かず。(後略)

――『古今武家盛衰記』



週間ブログ拍手ランキング【07/04~/10】

2019年07月10日 13:27

07/04~/10のブログ拍手ランキングです!



その心持が面白かった 7
森武蔵守平井頼母を討つ 7

尊公を一度御代に立てて、三好一族も安堵申したい 6

安国寺肩衝 5
森武蔵守土岐三河守を討つ 5
「能ある鷹は爪を隠す」は「北条氏直時分諺留」が元 5

太郎信勝の良き生まれ付きも 3
心安い人に、茶室の外での立ち振舞を見られてしまっては 3
悪くなるのは仕方のないこと 3
田島の屋敷 2



今週の1位はこちら!その心持が面白かったです!
珍しく(?)、千利休が翻弄されている感のあるお話ですね。墨跡の所有者、善意と嫌味のギリギリのラインをきっちり
攻めてくるあたり、なんとも京都人っぽいなと思ってしまうのは一首の偏見でしょうかw
それにしても、多くの場合「茶聖」「茶哲」として、茶の世界では他者を圧する天才と描かれがちな利休ですが、
こういうお話を見ると、彼も他者から一本取られる、血の通った人間だったのだな、という気持ちにさせてくれます。
そんな、利休の多様性も感じ取れる、よいお話だと思いました。

今週は同票でもう一つ!森武蔵守平井頼母を討つです!
森長可による平井頼母謀殺とその後の波紋の物語。鬼武蔵の側の苛烈さが目に付きますが、そもそもは平井頼母の無礼(?)が
発端です。これが事実かどうかはともかく、この頃鬼武蔵は未だ25,6歳という比較的若年であり、特に本能寺後美濃に帰国した
後は、寵愛を受けていた信長の庇護を失ったこともあり、周辺国衆から甘く見られていた部分は有ったと思うのです。
信長より与えられた川中島の所領を放棄して帰国したことも、決して勇猛なこととは見られなかったでしょうしね。
森長可の美濃帰国後に、暴勇と言っていい逸話や戦い方が多く見られるのも、そういった周辺の見る目を改めさせるという意図が
少なからず有ったのではないか、なんて思ったりします。

今週管理人が気になった逸話は、もう一つ鬼武蔵!森武蔵守土岐三河守を討つです!
FGOにも取り上げられ、鬼武蔵界隈があらためて盛り上がりそうですしねw
こちらも本能寺後の、鬼武蔵による久々利頼興謀殺のお話。「仕済みたり」という最後のセリフも恐々たる響きがありますね。
そして久々利頼興をはじめ、兼山周辺の国衆が、息を潜めて本能寺後の情勢を見極めようとしていた様子も感じ取れます。
この逸話の鬼武蔵も、謀を用い騙し討にするなど非常に梟雄的ですね。逆にそういう手段を取らざるを得ないというところに、
当時の森家の置かれた状況を感じることが出来るかもしれません。
森武蔵守平井頼母を討つの方にある「今の治平の世」というのは、信長の時代をそう受け取っていたということであり、
信長の横死で自力救済の世界が復活したことを表しているとも言えるでしょう。
信長権力の元で押さえつけられ変化しつつ有ったものが、いざタガが外れた時どんな事が起こったか、を感じさせてくれる
お話でも有るなと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました!いつもありがとうございます。
また気になった逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやって下さいね!
(/・ω・)/

田島の屋敷

2019年07月09日 18:29

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 15:32:28.95 ID:xtfu1St6
大神君(徳川家康)は忍の近辺で御鷹野をなされた。その節、岩松万次郎殿(守純)は御先祖である
新田の御末葉で、御尋ねになったところ新田に幽居して郷民どもは尊敬し、助力仕っているとの由が
御聞に達した。

そこで御会い遊ばされる旨を仰せ出された。これにより(岩松が)忍に参られて御目見した時、岩松
は、当家は嫡流で大神君は御末葉(当流之嫡流大神君には御末葉)との由を以前から家自慢申されて
おり、御前でも同様で、「内府は結構な御巡り合わせです。目出度い(内府は結構之御仕合目出度)」
との由を仰せ上げられた。

これにより大神君も驚き思し召し、御物も仰せられず内に御入りになったという。その後「餓死せぬ
ように」と仰せ出されて、御代官所より20石ずつを進め来たるという。

忠秋公(阿部忠秋)が忍を御拝領の折、御代官中より申し継いだので此方様方(忠秋)より20石ず
つを岩松殿に進めなさり、その後、厳有院様(徳川家綱)の御代に忠秋公は仰せ上げられ、岩松は御
先祖様の御筋目なので御知行を下されるように御世話をなされた。

当時は万次郎殿(富純か)の御亡父(秀純か)の御代で、御知行の屋敷まで御拝領を仰せ出された。
御知行の場所も良き所を渡すように御代官所に仰せ渡しなさったので、此方様(岩松)は御家の御厚
恩と思し召したとの由で、御知行の所も百石御拝領したところ、3百俵程を納めたという。

屋敷も3万坪あって林の惣囲いだという。“田島の屋敷”と申す。

(原注:義貞公(新田義貞)の御居城は分かっているけれども、御当家(徳川家)御先祖の有親公・
親氏公の御居住の場所は分からないという。もしかすると、只今の万徳寺比丘尼の所に大木などがあ
り、景色は常ならぬ場所というが、「ひょっとして、ここでもあろうか」と岩松万次郎殿は仰せられ
たという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 21:03:41.02 ID:g5uv+C8i
系図貸してって呼び出した時のお話か
岩松は足利義兼の庶長子の出であり且つ源姓畠山の祖でもあるからプライドは高いんだろうなあ

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 23:28:48.29 ID:AaMMFxaz
岩松家を下克上し、守純にとっては親父の仇・由良氏を召抱えてて
そんなのが新田を仮冒して一門面して会いたいって言ってきたわけで……
皮肉の一つもいいたくなるでしょ

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 07:56:39.66 ID:EhSynLtZ
なるほど
そうでもなきゃ神君怒るよね

安国寺肩衝

2019年07月09日 13:25

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:25:24.04 ID:0PpH8yMY
三斎公(細川忠興)は、父幽斎より譲られた肩衝(茶入)を、心にかなわないと安国寺恵瓊へ一千貫で売られた。
その後、安国寺恵瓊が処刑された折、この肩衝は徳川家康公の元に献上された。

ところで安国寺恵瓊の処刑の原因と成った石田三成の乱(関ヶ原の戦い)の時、津田平左衛門(正しくは小平次、
秀政)が家康公に
「天下がお手に入ること必定でしょう、その仕置の際、多数の肩衝が献上されると思います。その中から
必ず拝領をいたしたく思います。」
と申し上げた所、家康公は非常に機嫌よく「そのこと、そのこと」と申された。

合戦後、予想した通りに1日だけで肩衝が16も献上された。この時津田にも新たに領地を与えるとの
上意であった所、「忝ない事ですが、青野ヶ原(関ヶ原)で申し上げましたように、御加増よりも
御茶入を拝領いたしたいのです。」と重ねて言上したため、「尤もである」と、この安国寺肩衝を拝領した。

その後これを三斎公が一万貫で買い取り、中山と銘をつけた。
(筆者注:この時忠興は安国寺肩衝を黙って懐に入れ持ち帰り、後で代銀を届けたという)

この肩衝を見た時、三斎公はこのように詠まれた

 年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山

これは西行法師が関東での修行から帰る時に詠まれたもので、「下るときはまた越えねばならないとは
思っていなかったのだが、今越えることとなった。命が有ればこの佐夜鹿峠のような難所を越えるという
憂鬱な目にも逢うものだ。」という意味である。

この茶入は子息の越中守(忠利)に譲られましたが、後に越中守は金子1600枚で酒井宮内少輔(忠勝)に
売却されたという。

(三斎伝書)

関連
細川忠興と『有明の茶入』


その心持が面白かった

2019年07月08日 17:50

千利休   
71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 21:56:58.28 ID:v9H8Sln5
ある時、千利休が、「圜悟(えんご)の墨跡(中国宋代の臨済宗の僧、圜悟克勤の墨跡。村田珠光が
一休宗純より印可証明として与えられたとされる)を御覧ください。」と、前田肥前守(利長)、蒲生氏郷
牧村兵部、細川三斎(忠興)の四人を、その墨跡を所持する人の茶会に案内する段取りを付けた。

ところがこの茶会の当日、急にこの利休ら5人に豊臣秀次公よりお召があり、時刻も過ぎて茶会に間に合わなく
なったため、利休は人を遣わして「御前に用が出来たのでご容赦していただきたい。料理も結構ですので、
御用意なされませんように。菓子にて御茶を頂きたいと思います。」と伝えた所、「やむを得ません、
御用が終わり次第お出で下さい。」と返事が有った。

そうして日が暮れてから、手燭を出しての席入と成った。入る時に利休が「手燭を持って床の掛け物をよく
御覧になって下さい。」と申した所、亭主である墨跡の所有者は障子を開けて出て、利休に対し
「どうぞ墨跡をお焼き下さい。」と言った。これに利休は「面目を失った。」と言った。

中に入ると金銀を散りばめ、土器などにも絵を描いた豪華な料理が出た。これを見た利休が
「料理は無用と御連絡したではないですか。さてさて合点の行かないことです。」と申した所、亭主は
「ご尤もです。しかしこれは、食事を召し上がるように、との事ではありません。皆様が私のところへ
お出でになられるということで、ただ忝なさのあまりこれを用意したのです。召し上がるには及びません。」
と答えた。利休は「また恥をかいた。」と言った。

後に三斎公は「その心持が面白かった。」と言われた。

(三斎伝書)



72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 22:17:22.94 ID:3+H2OFSP
いわゆる小者

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 05:56:03.31 ID:PErBWv+E
当日キャンセルをかます成り上がり者に対する亭主の抵抗が窺える

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 19:30:32.72 ID:FDy5Rb+b
戦国時代とはいえ割と面倒くさいこともしてんだなw

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 21:10:55.98 ID:6lk5Uw6S
小者ってのは いつの時代も大して変わりゃしない

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:31:12.85 ID:BTnI+Yho
どこの誰なんでしょうね

森武蔵守平井頼母を討つ

2019年07月07日 13:05

森長可   
231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 04:07:09.23 ID:2ZKpV0XZ
森武蔵守平井頼母を討つ

岩村城主・森蘭丸は京都本能寺の変に殉じたので、森氏家中の各務兵庫(元正)を城代に遣わした。土岐の
高山・小里及び明智分は城附である。

高山の城主・平井頼母方へ森長可は使者をもって曰く、「貴殿の領地は当方の朱印の内なので、紛れもなく
当家中である。そうであるからには金山に屋敷を渡し申すので、近日参着して受けとるように」と。平井は
使者に対面し「下命の趣、つぶさに承る」と言って、急に返状をしたためて使者に渡した。

 来命を受けるといえども、いささか承知しがたい。

 さて私は元来播磨国に城を有し、昔より数代の将軍にかしずき、諸騒乱の時のみならず木曽の戦の砌に
 は、織田信長公に従って木曽路に迫り、丹波国の住人・西尾某は3百余人を率いて上海道を固めて、土
 岐郡釡戸境権現の城を守った。某もまた2百余騎を率いて伊賀・伊勢・尾張から下海道の要害として当
 城を固め、ついに軍功をなして自力の働きあり。

 しかるに何故、今新たに武蔵守に属すというのか。まったくもって思慮に及ばぬなり。よって返状かく
 の如し。

         天正11末年(1583)正月      平井頼母佐

                  森武蔵守殿

この返状が武蔵守のもとに至る。武蔵守はこれを見て「頼母方は当方の領分でありながら、謂れなきこの言
い立て、近頃のわがままな振る舞い以ての外である! 高山の城へ押し寄せて討ち取るべし、用意せよ!」
と命ず。時に森主水が進んで曰く「今の治平の世に、私に弓矢を弄んではこれ偏に乱を好むようなものです。
私がよろしくこれを処しましょう」と。武蔵守が主水に任じると、主水はすなわち家中の高木与一を久々利
に招いて、密かに内談した。

与一は分別して「まず私が高山の城主・頼母に対面して、計略をもって我が方へ招き寄せて詰腹を切らせま
しょう。私に了見があります」と言い、高山の城へ馳せ参った。頼母に対面すると慇懃に一礼を述べ、次に
「今日某が来城したのは別儀にあらず。この度、貴方より武蔵守へ返状した趣を、君公(長可)は甚だしく
立腹しています。しかしながら私がよろしく取り成し、そのうえ和睦を取り繕うとしています。内談もして
頂ければ」と来訪を勧めた。頼母はその好意を感謝し、「明日推参する」と約束した。高木与一は急ぎ立ち
帰り、屈強の武者2,30人に旨を含めて、頼母が来るのを待った。

平井は家老の土本某とその他家来2人を連れて、久々利に高木を訪ねた。与一は迎え出て、山海の珍味でこ
れを遇した。予め用意した兵どもは広縁の先に出ると「森武蔵守の命である! 平井頼母急ぎ切腹せよ!」と
大音声で呼ばわった。

平井は思いも寄らず「そのこと心得難し! 誰かある!」と呼べば、随行の家老を始めとして部下2,3人が
太刀を抜き、切り出て守り戦うも衆寡敵せず、多勢に切り立てられついに土本は討たれ、他の者どもは皆逃
れ去った。平井も今や叶わぬと思ったのか押し肌を脱いで、「口惜しや! 高木に謀られたるか!」と腹を十
文字に掻き切って死んだ。与一は立ち寄って首を掻き、ただちに武蔵守に送った。

この報が高山に至る。頼母の嫡子・巳之助はすでに13歳の時に母と離別し、今また18歳で父を討たれて
愁嘆限りなし。頼母の妾のまのという者は腹に子を持っていた。

時に巳之助は命長らえても仕方のないことと既に切腹せんとするのを、まのはすがり付いて「どうして切腹
するのです! 播州には一門多し、一先ずはかの地へ忍び、両親の御菩提のために出家しなされ! まず私の
故郷である渡合の里に姥母の家もありますから、ここへ忍ばれませ。幸いにもまた、虎渓山の慶徳院の僧は
播州生まれで、先君と縁だと常に承っておりますから、播州への案内も私から願い出ましょう。それ故、急
ぎ渡合の里へ忍びなされ!」と諫めれば、巳之助ももっともであると部下1人を連れて渡合へ落ちて行った。

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 04:14:45.25 ID:2ZKpV0XZ
小里城主・和田彦五郎、明智城主・遠山民部(景行)らはこの由を聞き、密かに城を開けて各々立ち退いた。
さて小里・明智の両城主は三河辺りに隠れる。武蔵守は高山の次第を聞き、林長兵衛(為忠)を城代とする。

さて林長兵衛はその城下の百姓どもを召し寄せ「この度、平井の一子・巳之助が落去した。所在が分かった
らただちに当方へ知らせよ」と命ず。百姓どもは村々家並に触れを出した。しかるに渡合にいたまのの母は
この由を聞いたことにより娘に密かに告げ、「巳之助を匿ってもし高山に漏れ聞こえたら、どんな憂き目に
あうかも計り難い。密かに訴人して汝も我も命を逃れようと思うがどうか」と語った。

まのは思って「さてはもはや命のほども知れた老母! 今際も知れぬ歳で訴人し命長らえようと計る所存は、
親子ながら恨めしい!」と申せば老母は手持無沙汰の顔をして、ただしおしおと立ち出て後ろの山に登って
行く。まのはこの様子を見るなり「さては訴人するか!」と合点して、老母の心底委細を巳之助に告げた。

巳之助は「そうだろうな。某はこのように世に落ちたのだから是非もなし。討手が向かうなら討死する所存
である。汝は若君を連れてここから妻木の家中に忍び、中垣助右衛門を訪ねて行って、この由かくの如しと
頼み申せ」とあって、まのは仰せを承る。

「私とて女であっても心は男に違いありません。この若君を刺し殺して御最期の御供申さん! たとえ討手
が50騎,百騎来ようとも私が防ぎ申します! 主君はその間に御自害なされよ!」と、まのは足を上げて
力足を踏めば、大地も動くほどであった。

巳之助もこの有様を見て「汝は常に柔和に見えたが今の有様は、まことに木曽義仲の妾の巴とやらもどうし
て汝に勝てようか。たとえ軍兵50騎,百騎が押し寄せてくるとも恐れるに足らず。けれども今を限りの我
が命、所詮長らえることはできない。是非若君を連れて落ち、成長すれば父母、次には私の忌日も語り知ら
せて菩提を頼むぞ!」と是非に是非にと促せば、まのも今は力及ばずして「主君の仰せならば」と泣く泣く
妻木の城下へ落ちて行った。

そこへ討手の大勢が馳せ来たり「頼母の一子・巳之助がここにいる由により討手に向かった! 早く御切腹
あらせられよ!」と呼ばわると、「平井の一子・巳之助これにあり!」と言うやいなや太刀を振りかざして
受けつ開きつ戦ったが、さしもの大勢に切り立てられて思わず後ろのいり(圦か)へ落ち込んだ。討手の者
どもがこれを見て、松明に火を付け振るが如くに投げ込めば、どうして堪えられようか、ついに巳之助は空
しくなりにけり。討手の者どもは首を取り、勝鬨を揚げて帰った。

また、まのはようやく妻木の城下に着き、中垣助右衛門を訪ねて泣く泣く始終を語れば、助右衛門はこれを
聞き「さても頼母氏は切腹、巳之助も今を限りとは痛ましき有様なるかな。願いのままに親子諸共匿い申す
のは安きことだが、ここは高山に程近い。幸い尾州品野の里に永井作右エ門という私の縁者がいる。私から
書状をもって頼み送ろう。まず今宵はここで休息せよ」と心を尽くして言った。

まのは一入力を得て当方の子を抱いて中垣に向かい「このうえの情には、この君は未だ名もありません。名
を付けて頂ければ生々の情でございます」と申すと、中垣は「しからば」と自分の名を形取り“平井助五郎”
と呼ばしむ。程なく夜も明ければ、仲間1人を添えて尾州品野村の永井氏へ送られた。作右エ門は承知して
「5年,10年匿い申そう!」と頼もしく申されたので、諸共に安堵したのである。

かくて助五郎まだ7歳の時、土岐郡の某はかねてこの事々を詳しく伝え聞き「養子にしたい」と永井氏へ申
し入れると、永井氏は「いかにも所望に任せよう。しかしながらこの人は深い由緒のある者なので、養子と
なされても平井の名字を名乗らせられたし」と、肥田の某の方へ送り遣わした。しかるにこの時は森長可
討死して、舎弟の森右近忠政の代であった。

――『妻木戦記』



234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:55:25.67 ID:BTnI+Yho
>>232
戦国の世とはいえ読んでてつらい

森武蔵守土岐三河守を討つ

2019年07月06日 13:07

森長可   
230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/05(金) 21:28:01.80 ID:+PSLviV1
森武蔵守土岐三河守を討つ

可児郡兼山城烏峰は、永禄年中に信長公の下知によって森越守可勝(越後守可行)が城主であった。その
子・三左衛門可成を経て、武蔵守長可に至って当時は信濃にいたのだが、信長の凶変(本能寺の変)を知
ると急いで帰って領地の可児郡木曽川を限り、恵那・土岐三郡の内7万5千石を有す。ただし妻木領はそ
の他である。

さて妻木(広忠)の舎弟・喜十郎頼明、及び妻木長兵衛頼知の嫡男・久右衛門惟知両人は森長可へ降って
旗下となる。惟知は名を“日本六蔵”と改める。

長可は久々利城を降さんとの意あり。されど三河守(久々利頼興)は文武二道の達人なので、容易に討つ
ことはできないため、方便をもって討とうとする。天正11年(1583)正月、使者を送り、とにもか
くにも打ち続いている疎遠を謝罪し、さて軍議仕りたいので御大儀ながら御来駕を待っている由を、慇懃
に申し送った。

三河守は返答して「口上の委細は承知したけれども近頃は不快(病気)に付き重ねて折を得て、もって参
上致そう」と使者は復命した。長可は重ねて使者を遣わして言う。

「御所労に付き御出馬なき由ですが、当節は取り分け穏やかならぬ砌ですから御疑いもありましょう。貴
殿は信長公の御噂でも、『近辺に肩を並べる者はなし。味方にしたいものだ』と仰せられた程で、貴公よ
り他に頼む方はおりません。御疑いを散ずるがため、舎弟の仙千代(森忠政)を人質に遣わしますので、
隔意なく水魚の思いをなされてしかるべきです。もし御来駕が長引くに及びますれば私めが推参申します」

と、清げなる若武者を仙千代に作り立てて乗り物に取り乗せ、侍2人を差し添え日本六蔵を使者にして、
程なく久々利へ赴いた。三河守に対面して弁舌あざやかに言い、巧みに述べたところ三河守は易々と方便
に落ちて気を許し、「再三の御使者、殊に人質まで御念の入ったこと痛み入る。それならば明日参上して
御意を得申すべし」とのことであった。

よって人質ばかり返し置き(残し置き?)、程なく日本六蔵は首尾良く立ち帰り、ただちに登城してこの
由を武蔵守に告ぐ。武蔵守は喜ぶこと限りなく、ただちに佳酒美肴をもって歓待した。

翌朝、三河守は烏峰に入る。武蔵守は対面してその厚遇に至らざることなし。三河守曰く「御相談の事が
あるとして再度の使者、殊に我が疑いを散ずるがために人質を送られた心底分明、どうして疑おうか。故
に舎弟の仙千代殿と同道して来城したものである」と仙千代を返す。

武蔵守はいよいよ喜び「御承諾のことは大慶浅からず。さてまた相談の事とは他でもない」と雑談を繰り
返し繰り返し、酒を持たせて饗応した。その時の吸い物は鹿だという。台所は狼狽えて生の鹿を出した。

盃が終わって三河守は退城しようとする。かねて合図していた者ども8,9人はこれを送った。城の坂の
東にかかり、板の洞の大道に達する頃に「帰られよ」と言って、三河守が何心なく馬に乗ろうとしたとこ
ろを、戸田勘右衛門(勘左衛門)が抜き打ちに肩先から脇腹にかけて切り落とせば、従者も案に相違して
驚き入り、抜き合わせようとしたが敵い難く是非もなし。皆散々に逃れ帰った。

かくして三河守の首を取り、実検に備える。長可は「仕済みたり」と喜んで久々利を押領し、戸田勘右衛
門を置いて守らせた。

――『妻木戦記』



太郎信勝の良き生まれ付きも

2019年07月05日 18:26

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/05(金) 01:56:33.78 ID:mC5kOoJC
(前略)しかればその太郎信勝公(武田信勝)11歳の時、小姓衆多き中にて近習である友野形部の
息子の又一郎と、日向源藤斎の息子の伝次とで「扇切りを致せ」と太郎殿は仰せになった。

その時、友野又一郎は腰に差している扇を抜く。日向伝次は手に持っている扇を腰に差して、指を立
てて向かう。その時に信勝は「はや見えたるぞ、置け。せぬ扇切りに伝次は勝ったこと、逸物の心で
ある」と褒めなさり、日向に褒美を遊ばす。

これを高坂弾正は聞いて曰く、

「この御曹司太郎信勝は近代の名人の大将衆、安芸の元就・北条氏康・北越の輝虎(上杉謙信)・尾
州信長・三州の家康・祖父信玄公の幼い頃に似ている。そのような信勝でおありならば…」

と、只今武田の家は万事政事みだりになり、一昨年長篠にて勝頼公は御分別相違なされた故、長坂長
閑(光堅)・跡部大炊助(勝資)両人の諫めをもって信玄公取り立ての衆は尽く討死して、なお家風
は悪しくなった。そうしてついに武田が滅却してしまえば、太郎信勝の良き生まれ付きも要らず、空
しく相果てなさるだろうと、涙を流すばかりであった。(後略)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』



229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/05(金) 18:08:57.65 ID:SJY8LEsO
>>228
戦わずして勝った?それとも逃げるが勝ちっていう精神勝利法を意味してるの?
確かに長篠では決戦せずに退却していればよかったんだろうけどさ、家康と信長を同時に討てるチャンスはこれ逃したらもう無かったろ
解説お願いします。

心安い人に、茶室の外での立ち振舞を見られてしまっては

2019年07月05日 17:14

千利休   
62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 20:41:57.31 ID:/ZtdOmxc
千利休は本住坊が参られる度に、茶室で茶を点てた。本住坊が恐縮して「毎回このように
されては、何とも参りにくく成る。」と言った所、利休は

「その事です。関東や筑紫から望んで来るような人であれば、わたしがどのようにした所で、
『このようにするのか』と思うだけであり、また見ても解りはしないでしょう。しかしあなたのような
心安い人に、茶室の外での立ち振舞を見られてしまっては、私の茶の湯ができなくなります。」
そう答えたという。

道に長じた人の心持ちとは、そのようなものなのだろう。

(長闇堂記)



尊公を一度御代に立てて、三好一族も安堵申したい

2019年07月04日 15:42

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 01:54:58.94 ID:lsPqjLpR
一、天文21年(1552)に阿波国の館・細川讃岐守持隆を、家臣の三好豊前守義賢が討ち取った後は、
  細川の領地はすべて義賢が知行した。三好家はますます威勢を増した。さて義賢は弘治の頃、法体して
  “実休”と号し、五畿内所々に一門を居置いて、おのずから天下の執権を司る。

  しかしながら三好家は細川の家来であることにより、三好の執権を諸国の守護は大いに嫉み、そのうえ
  奢りを極めて我意に任せた故、将軍義輝公も以ての外憎みなさった。

一、三好山城守(康長)・同下野守(宗渭)・同日向守(長逸)・松永(久秀)らが評議したことには、

  「今回の両度の合戦(>>111)はまさしく義輝の御計らいである。そうであるからには我々の行末はしか
  るべからず。深慮を巡らせて義輝を討ち奉り、中国の義冬(足利義維)を都に据え置いて、一族中を心
  安くするべきである」

  と、永禄6年(1563)の秋に三好日向守は周防へ下り、義冬へ申したことには、

  「徳雲院殿(細川持隆)が果てられなさったことにより、ここへ御下向されたことは我々にとって面目
  もなきことですが、しかしながらその折に、我らが実休に組しなかったことは御存じなさることでしょ
  う。実休は天命によって高政(畠山高政)に討ち果たされました。

  さて高政と喜三の両陣は、義輝公の御計らいでございます。実休のことはもっとも悪逆の者なので(義
  維が)御憎みなさるのも道理です。別儀なき我らを御憎みなさることは以ての外です。そうであるから
  には、行末でさえも心安からぬのです。かれこれ時節は到来仕りました。このうえは、三好一家として
  兵を起こし、尊公(義維)を一度御代に立てて三好一族も安堵申したいのです。

  しかしながら尊公が遠国におられては評議もなり難く、まずは阿州へ御帰りなされませ。実休の息男・
  長治は阿州におりますが、かつては幼少でございました。そのうえ父の実休も尊公を疎略には存じてお
  りませんでしたし、また彦次郎(三好長治)は義輝を親の仇と存じていますから、尊公へ少しも別心は
  ありません。早々に思し召し立ちなされよ。そのために一家中より某が御迎えに罷り下り申しました」

  と色々道理を尽くして申したので、義冬は満足なされて早々に思し召し立ちなさったが、「この事を一
  先ず大内介(大内義長)に知らせなければ」との内意があると、大内ももっともとは思いながらも、他
  家の取り仕切りで義冬を代に立て申しては、大内の外聞は良からずと思ったのか、「仰せはもっともで
  すが、私めに存ずる子細がありますので、まず今回は御無用になされませ」と、強いて止め申すことに
  より義冬も日向守もどうしようもなくして、日向守は「罷り上ります」と港まで出て行った。

  義冬は名残惜しく思いなされて、義親(足利義栄)と2人で船着きまで送りなさったところ、三好は船
  から申し越して「今一度申しておきたいことがございます。恐れながら少しの間、船へ御召しなされま
  せ」と申せば、何の思案もなく義冬親子は共に船に乗りなさった。

  すると日向守はかねて家来の者に言い含めており、そのまま船を押し出した。義冬はどうしようもなく
  おられ、折しも順風で難無く阿州に到着して、元の平島の庄に帰る。彦次郎を始めとして三好一家は残
  らず伺候致した。そして日向守は諸事を計らい、領地も相違なく渡した。

――『阿州将裔記』



227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 03:31:42.40 ID:ggM6iep6
>>226
永禄6年なら大内義長は死んでますね
年次の誤りか別の誰か?

「能ある鷹は爪を隠す」は「北条氏直時分諺留」が元

2019年07月03日 15:53

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 19:02:50.69 ID:Clh68Acw
そういやツイッターで、「能ある鷹は爪を隠す」とかのことわざは「北条氏直時分諺留」が元らしいがなんで北条なのか、
なんて書き込みを見つけたのだが、詳細は国会図書館デジタルコレクションで『諺の研究』(藤井乙男、昭和4年)の
229ページと238ページを参照のことだね。

『諺の研究』藤井乙男 著より「北條氏直時代諺留」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453442/123

↓画像



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