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菅沼新三郎とその妻

2020年07月14日 18:28

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/14(火) 18:05:53.04 ID:I+miO3Td
三河国の菅沼伊豆守父子(菅沼満直・新兵衛尉)、同菅沼新三郎(定忠)は、去る元亀三年より家康から
寝返り武田信玄に属し、天正三年の長篠合戦以降は信州に在国していたが、今度の甲州征伐にて降参し、
河尻肥前守(秀隆)を頼ってかの陣中に居たのを、家康が信長に言上し、則ち生害となった。

諏訪の祝女はこの菅沼新三郎の妻であったが、この事を聞くとすぐに、自分の子供たちを刺殺し、自身も
自害した。この女房は普段から大力であり、その伯母も、かつてこの高遠で比類なき働きをして死んだとの
事で、相似たる女であると、人々は皆語った。

当代記



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信忠の中間かるき出立仕間、廿八人寒死

2020年07月13日 17:59

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/13(月) 13:38:31.16 ID:s8napJ+l
天正十年三月二十三日
甲州征伐に於いて、織田信忠が数日を経ず早速に甲信を納めたことに、織田信長は感じ入り、
この冬にも天下を譲るとし、その験として秘蔵の脇差を与えた。
信忠は畏まり大変に悦んだが、「但し天下お譲りの儀は、未だ若輩である故、存じよらぬ事です。」
との旨を返答した。

二十八日、信忠は諏訪へ向い国割を行った。この日は寒気甚だしく、信忠の中間たちは軽き出で立ちで
あったので、二十八人が凍死した。(此日寒気甚、信忠の中間かるき出立仕間、廿八人寒死。)

当代記



192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/13(月) 18:07:45.92 ID:CRkyQ1h5
確か武田の透波に冷気を操る奴がいたな

諸士は難儀に及んでいたと云々

2020年07月12日 17:38

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 13:15:27.07 ID:TOB5fOEN
天正十年三月二十一日、甲州征伐を果した織田信長の元へ、武田穴山(陸奥守入道梅雪)が徳川家康の取り持ち
によって出仕した。國久の太刀一腰、金三百両を進上。信長からは半俗の脇差の三つ刀を下された。そして
今回の甲州征伐における穴山梅雪の行動を信長は誉められ、甲斐駿河の本領を安堵した。
信州松尾小笠原掃部太夫も同じく出仕し、太刀、馬を進上し、本領を安堵された。
相州の北条氏政より太刀、馬、金千両、江河の酒十樽、白鳥十、漆桶二千が進上された。

二十三日、滝川左近(一益)に上野国、並びに信州の内二郡を添えて下され、上州厩橋に移り、また御腰の物も
下された。
深志之城に武田軍の残した兵糧が有り、陣中の衆に下された。
上野国の小幡上総介、織田信忠に出仕し、貞宗の脇差、金五百両を進上した。信忠よりは左文字の脇差が
下された。

北条氏政より、白米二千石が進上された。また徳川家康よりも兵糧の進上が有った。これらは織田軍の陣中にて
諸士に充てがわれた。諸士は(兵糧不足で)難儀に及んでいたと云々。

当代記

甲州征伐で、実は織田軍が兵糧に苦しんでいたとされる記事ですね。



190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 16:33:50.28 ID:z1pyTWFl
>>189
家康の接待とはいえ、のんびり物見遊山しながら御一行は帰ってるんだよなあ

加藤肥後、黒田筑前については別ですので

2020年07月11日 17:25

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/11(土) 12:15:57.34 ID:EFbVF9nF
此あぢ分別肝要候事


以下は細川忠興が嫡男・忠利に送った書状の意訳。

  わざわざ申すべきのところ、江戸へ(忠利が)人を下されたので申します。

一、上洛する道中で、羽三左(池田輝政)、羽左太(福島正則)、蜂阿州(蜂須賀至鎮)などの家臣と
  行き違いました。どの家中も我々への慇懃さ(礼儀正しさ)が申せない程(よいもの)でした。
  それにつき、我々が諸大名に(今までのように応対すると)たちまち無礼になってしまうので
  右の衆のほかも(我々の)奉行衆が諸大名に対して無礼がないように、堅く申し触れて下さい。
  横目(監視役)も置いて、無礼の者があれば厳しく申し付けるようにしましょう。ただし成敗はせず
  押し込めてこちらへ申し越されるのがよいでしょう。

一、加藤肥後(加藤清正)、黒田筑前(黒田長政)については別ですので、そのつもりで申し付けて下さい。
  ただし両人の家中も、あなたがその場にいるときは上手く捌いてくることもあるでしょうから
  そういうときは見合わせて指図するのがよいでしょう。もしあの家中の者があなたに対して無礼を
  したのに、こちらの者が両人に対して慇懃にいたせば曲事になってしまいます。
  この案配の分別は大切です。[原文:此あぢ分別肝要候事]

一、右の条々は、一度申し触れただけでは変わらないでしょうから、度々申し触れて下さい。
  岡村半右衛門・中嶋左近・戸田助左衛門にもこの書中を見せて下さい。恐々謹言。
       (慶長十五年)三月廿三日            忠(花押)
                内記殿 

――『細川家史料 一六九八号文書』



かつよりと なのる武田之かいもなく

2020年07月11日 17:24

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/11(土) 12:17:31.05 ID:3i8UXQ9T
天正十年三月五日、織田信長は甲州征伐のため安土を立たれ、翌日濃州六の渡に飛脚が来て、
『甲信駿三ヶ国異議なく討ち果たした』という旨が伝えられた。
仁科盛信(勝頼弟)の首がここに持参され、信長は大いに悦ばれた。

十三日、信長は信州の根羽に到着されると、ここに武田勝頼、並びにその息子太郎の首がもたらされた。
信長は甚だしく喜悦され、狂歌を読まれた

『かつよりと なのる武田之かいもなく いくさにまけてしなのなければ』

当代記



188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 07:17:50.69 ID:jBC+6l/v
勝つしか無い武田勝頼くん ワシと戦いをした結果 負けて甲斐も信濃も失って 品のないことだよね

高野聖誅伐

2020年07月10日 18:50

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/10(金) 12:29:43.45 ID:9UfOtJty
天正九年八月十七日、織田信長は高野聖を方々にて搦め捕らえるよう仰せに成った。その仔細は、摂州伊丹の
牢人(荒木村重残党)の内二人がかの山に在ると聞き召され、急ぎその者たちを出すように、使者を以て
仰せ遣わした所、返事さえ申さず、あまつさえ使者上下の者共二十余人を討ち果たした事も申し届けなかった。
事に御腹立てられ、方々に仰せ触れたのである。
これによって高野聖数千人が搦め捕られ引き立てられた。その誅伐の有様は非常に哀れであった。

昔、高野聖が諸国に下る時、予め宿を取るという事はなかった。路巷において「宿かや宿かや」と呼びかけ、
これに心有る人は、上下によらず宿を貸した。もし宿がなければ、そのまま路頭にて夜を明かした。

しかし信長がこの年に聖たちを殺害して以来、こう言ったことは無くなった。信長が相果てた後でも、
これ以後元のように戻る事は無く、普通の旅人のように宿を取るように成った。
(殊に現代では、聖は商人のように、衣類など様々なものを持ち運び、これを売却する。
少しの坊をも持つような聖であれば、笈(書籍を入れて持ち運ぶ箱)も持たず、馬上にて国を上下する。
何れも大師の掟に違うのではないだろうか。)

当代記

高野山側の記録だと、この時信長から遣わされた使者というのが非常に横暴で猛反発を受けたとあったりますね。



金銀を 遣捨てたる馬揃

2020年07月09日 18:21

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/09(木) 13:15:27.85 ID:8tUCxMUS
天正九年、正月二十三日より触れられてた馬揃が、二月二十八日に行われた。
各々美を尽くした色々な出で立ちであった。
馬上の者達は百騎に及び、一番の明智日向守(光秀)は紅の出で立ちであった。
そこから次々と、書き表すのも及ばぬほどの、結構の体であった。

信長はこれらの馬の後に乗られ、先馬の前に(武井)夕庵法師を通した。その体は小袖をつまんではしょり、
白髪をかぶった出で立ちで、鞍に取り付き、まるで誠の老女が馬に乗っていて危ないように見えた。
この夕庵は信長の右筆で、歳は七十余の入道であった。

信長公の出で立ちは、ほほに頬紅をされ、牡丹の造花を腰に指し、冠物にも花を指されていた。
馬先に乗り換えの馬が十疋、それぞれ無量の仕立てであった。或いは唐織、或いは染綾薄、猩々緋などにて
泥障(あおり:鞍の四方手に結び付けて馬の腹の両脇に下げる、泥よけの馬具)とし、例えるべき様もない
結構であった。

信長の馬の廻りには小人衆が紅梅の袷、上に黄衣、立烏帽子、のし付脇差、金の鼻ねち、紅のうてはしりにて
思い思いに乗った。

池田庄九郎は惣金の出で立ちであった。その身については申すに及ばず、馬の毛や爪まで何れも金であった。
馬の毛には、ふのりを以て薄を置いたという

主上(正親町天皇)は御桟敷にて御見物された。馬場は内裏の東に、縦三町横二町ばかりに構えられた。
周りに柳を植えてあった。

また翌日には、「昨日の馬揃残り多し」と羽織頭巾にて馬に乗り、この時猩々緋を羽織った。それぞれ
先の馬上衆が、一夜の間に仕立てたのだという。

そして何者の仕業か、落書があった

『金銀を 遣捨てたる馬揃 象棋に似たる王の見物』


当代記



394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/09(木) 19:37:38.79 ID:Pvl2OpoO
>>393
金銀を捨てても王様が詰まされなければ勝ちだからね、将棋は
京童としては成り上がりの信長なんぞ捨て駒で、天皇こそ、といいたいのかな

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/09(木) 21:52:22.55 ID:f3UPKo8d
援助が無ければ没落する哀れな王様なのにか?

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/09(木) 23:58:32.00 ID:Pvl2OpoO
>>395
それが天皇の権威であり、皇家でもないのに京に住んでるだけでぶら下がるぶぶ漬けどものアイデンティティー

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/10(金) 11:06:40.83 ID:zbAHFZVo
>>393
先頭は丹羽じゃなかった?

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/10(金) 17:12:15.97 ID:ZQ4CsC64
中国攻めのためこの馬揃えに参加出来なかった秀吉が長谷川秀一に宛てた
「馬揃えに参加出来なくて無念だ。せめて各々がどんな出で立ちだったか教えて欲しい」って言ってる書状があるな

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 10:03:43.79 ID:9xGCmwhn
秀吉がキングコングのコスプレで参加していたら実物だわ。

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 16:13:09.98 ID:z1pyTWFl
>>400
かといって十八番の瓜売りの格好で馬揃えに出られてもなあ

信康事件について

2020年07月08日 17:45

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/08(水) 13:20:09.92 ID:sYb4nnxC
天正七年、岡崎三郎(松平)信康(家康公一男)が牢人された。これは信長の婿であると言えども、父家康の
命を常々違背し、信長公をも軽んじ奉り、被官以下に情けをかけず、行いが非道であったため、その旨を
去月酒井左衛門尉(忠次)を以て信長に内証を得た所、「左様に父、臣下に見限られている上は是非に及ばず、
家康の存分次第にせよ。」と返答された。

家康は岡崎にお越しになると、信康を大浜に退き下らせ、岡崎城へは本多作左衛門を移した。信康はこの措置を
当座の事と心得られていた。家康公は西尾の城に移られ、信康は遠州堀江に移され、さらに二股に移られた。
九月十五日、彼の地に於いて生害された。信康の母公も浜松に於いて生害された。

当代記

信康事件について。ここだと酒井忠次は家康の指示で信長の意向を尋ねたという事になっていますね。



週刊ブログ拍手ランキング【07/02~/08】

2020年07月08日 17:38

07/02~/08のブログ拍手ランキングです!



賤ヶ岳の戦について 14

信長の鷹 10

【雑談】「勝者が歴史を作る」について 8
松永星 7

献上された人魚 6
申す旨に任せ、朱印を遣わす 6
弘法大師が玉造という双紙を絵に書き置かれ 6

合戦を遂げることこそ尤もです 5
甚五郎の欠落ち 4


今週の1位はこちら!賤ヶ岳の戦についてです!
昨今では秀吉周辺の研究も進み、賤ヶ岳の戦いについても、先の先を見通した秀吉の戦略的勝利、というよりも、
様々な偶然のあった上での、やはりギリギリの勝利であった、と見られるようになってきましたね。長らく日本人の歴史理解に
大きな影響を与えてきた『豊太閤史観』とも言うべきものが、すこしずつ剥がされているように感じます。
そこで近年の秀吉研究の内容を知りたいという方には、ちょうど直近に出版された、『図説 豊臣秀吉』(柴裕之/編著)
お勧めします!図説であるので非常にわかりやすく、歴史初心者の方にも手に取りやすい内容だと思います。
秀吉は非常に大きな存在だけに、彼への認識の変化は、それに関わった他の多くの人々の評価の変更にも結びつきますね。
賤ヶ岳だけでなく、今後どのように秀吉を中心とした歴史が描かれていくのか、非常に興味深く思っています。
そもそもこの本の帯に「残虐者か」とある時点で、秀吉という人物への印象が、ここ10年くらいで大きく変わったことを
感じちゃいますね。

561.jpg
『図説 豊臣秀吉』(柴裕之/編著)

2位はこちら!信長の鷹です!
この逸話で読むべきところはやはり、信長の失った鷹を、触れを出しただけで、明後日にはその鷹場から相当離れた
大和国で発見され得た、という所なのでしょう。つまりこの当時信長の命令が、同時代的には瞬時と言っていいスピードで、
少なくとも畿内周辺で徹底されている事を、このお話は端的に顕しているのだと思います。
多分、鷹が見つかった事よりも、それについての驚きが、このお話を記録させたのではないだろうかと感じます。
当時の畿内周辺ではそこまで信長の権力が浸透していた、という事を考えた上でこの時代の様々な出来事を見ていくと、
また違った物が見えてくるかもしれません。そう言う意味でも面白い逸話だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!献上された人魚です!
コメントにもありましたが、人魚を食べて不老不死を得たという八百比丘尼伝説も若狭国が中心ですし、若狭では人魚が
ある種の名物という側面が有ったのかもしれませんwまた、珍獣、奇獣の出現は中国などでは王、皇帝の徳を天が寿ぐ、
という発想があり、丹羽長秀がこれを献上したというのも。そういった意味を込めているのでしょう。
それにしても人魚なのに足があるのですね。西洋でも、足がある上で尾びれがしっぽのようについている人魚の絵図も
あり、これもそういったものなのかもしれません。これに限らず中世には人魚というものが捕らえられた、発見されたという記事が
間々見られ、人魚というもの自体、当時の社会に既に広く認識されていたことを伺わせます。それこそ松平家忠日記にも
書かれていたりしますね。
それにしても、この献上された人魚はその後どうなったのか。そっちもやはり気になっちゃいますね。
そんな事も感じた逸話でした。


今週もたくさんの拍手を各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話をいつけたときは、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

献上された人魚

2020年07月07日 17:38

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 13:33:40.85 ID:SGT8Vxh6
天正七年二月十八日、織田信長が上洛された。この春、信長公が在京の砌、若狭国の丹羽五郎左衛門(長秀)
が人魚を献上した。これの顔や手足は人と違わず、長さは五尺(約1.5メートル)ばかりであった。
この人魚は岩の上に登ってしばらく寝ており、その所を見つけ、これを取ったのだという。
この在京中に、三条の宗運という町人が、老父に至孝であるという事を信長公が聞かれ、諸役を免許し
米百石を下した。

当代記



381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 13:43:52.64 ID:1MncSJu9
足がある人魚?

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 13:49:11.85 ID:vnEUtyqx
半魚人?

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 14:13:15.68 ID:IvWV8E6Z
河童やね(適当)

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 14:59:52.28 ID:emopB1HD
>>380
福知山城に行ったら丹後浦にトドが迷い込んで捕まったという手紙が絵付きで展示されてた
多分トドじゃなくアザラシだと思った

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 15:10:02.84 ID:3vqzziLb
献上された人魚って食べるの?生け簀みたいなので泳がせるの?

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 15:34:01.50 ID:n4Ey8St4
海獣の類いでしょ
日本だと海獣以外にリュウグウノツカイを人魚と見間違えたという話もあるとか聞いたけど

やっぱ食べるのかな?海獣だったらしばらくは飼えそうだけど

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 20:50:16.68 ID:UOpvQdJP
>>380
八百比丘尼「食べなきゃ(使命感)」

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 21:48:27.41 ID:sY0DV/cH
家康も不老妖怪の逸話あったし権力者あるあるか

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 23:51:51.78 ID:OWOT8Gkc
>>380
家忠日記に人魚みたいな絵があったね、これのことかな?

と思って調べたら家忠日記のは天正九年に安土に揚がったヒト食い人魚のようだ

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/08(水) 00:01:29.70 ID:rjLtYiQe
戦国日本ヤバイ

松永星

2020年07月06日 16:21

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/05(日) 21:53:20.38 ID:IfAny+F9
天正五年、松永久秀が亡んだ後、彼の居城であった多聞山城の家屋を毀ち、信長はその建物を
京都二条に造作し、親王(誠仁親王)に奉った。

この秋、客星(彗星)が未申(西南)に表れた。時の人々はこれを「松永星」と呼んだ。

当代記



【雑談】「勝者が歴史を作る」について

2020年07月06日 16:20

172 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/07/05(日) 10:15:35.43 ID:LTS/0CcL
>>171
歴史は勝者が創造する言うけど...たまには敗者側から観てどれだけ敗者側が頑張ったかを知ることが本当の意味で史実を知ることになるのかもね

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/05(日) 21:58:01.36 ID:Gya4ITXX
歴史は勝者が作るって言う言葉大っ嫌いなのよね
大概がろくに調べてない言い訳に使われるし、言い出したの誰なんだろ

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/06(月) 11:38:21.15 ID:Z9+SoyjC
誰が言い出したとかじゃないだろ
大昔から行われてきた事実を語っただけの普通の言葉やろ

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/06(月) 11:47:57.25 ID:R/PNruD4
「春秋左氏伝」で
斉の宰相の崔杼が主君である荘公を弑した時
史官が歴史書に「崔杼弑其君(崔杼が主君を弑殺した)」
と記したため、怒った崔杼は史官を殺害。
その史官の弟も同様に記したちめ、崔杼は弟も殺害。
そのまた弟と同様に記したところ崔杼は諦めた。
なおその弟が殺されたときに備えて他の史官が「崔杼弑其君」と記した竹簡を用意していた

と特記されるくらいだから太古からの認識では。

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/06(月) 12:23:32.18 ID:LH5MoHvZ
勝っても負けてもない人のが圧倒的に多いし、実際はそんな人たちの祖先顕彰とか判官びいきもかなり多くて
事実を語ってるというにはあまりに大雑把すぎる、わかりやすいだけで一面しか捉えてないかな

勝った側が歪曲させたに違いない、なぜなら歴史は勝者が作ったからだとかの
どういうプロセスを経て今そう語れる程の実証が行われたのか、そういうの全部無視してる言葉だと思う

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/06(月) 16:43:15.36 ID:0pnAYLDh
崔杼は負け組

信長の鷹

2020年07月05日 17:34

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/04(土) 23:32:18.18 ID:K1RlApYW
天正四年十一月、織田信長公は叡覧に入れるため、内裏に鷹を据え、庭上まで参内された。
各供奉の衆の装束は結構を尽した。
退出の後は常の狩の出で立ちにて、東山の鷹野へ向かったが、雪甚だしく、秘蔵の鷹を見失ってしまった。

信長はこれを本意無きことに思われ、「この鷹を据え来た者には必ず褒美を与える」との札を立てた所、
一両日後に、大和国で発見された。信長は甚だしくこれを悦ばれた。

当代記

この時期の信長の威令の強さを感じさせるお話。



371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/05(日) 17:26:01.40 ID:uMAdPURW
>>368
そんなひどい雪の中で鷹狩りすんなよって思ったけど
内裏に鷹を据えるというセレモニーの一環だから延期や中止はできなかったんだろうな

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/06(月) 08:14:05.60 ID:tQwxA9zj
11月に雪降るとか妄言も大概にしろよ
いくらなんでも盛りすぎだろ

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/06(月) 09:05:49.99 ID:1iAfCj1a
旧暦計算なら今の11月よりは後ろになるからその年の気候次第ではあり得るんでは。
しかし腹も減ってないのに雪の中飛ばなきゃならんとか、鷹のほうも嫌だったに違いない。

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/06(月) 11:06:26.16 ID:s0CFQ3DQ
天正4年11月20日明け方に京都で初雪、ただ一寸降っただけ
信長内大臣任官お礼の参内が23日
この間、21日~25日の京都は晴(『言継卿記』)

ただし京都の東山じゃなくて近江石山寺近辺で鷹野をしてる(『信長公記』)から
当代記』の通りに滋賀だと大雪だった可能性もほんのわずかながらあるかも

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 07:47:43.39 ID:yPD1u5Ou
そもそも、戦国時代は小氷期で地球全体が今より寒冷な気候だ

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 08:54:49.45 ID:piBEUhHC
信長公記に同じ話があった気がするが、天正4年条には見当たらなかった

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 10:02:59.13 ID:IvWV8E6Z
御鷹山猟御参内の事
天正5年11月18日

これかな

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 10:40:20.70 ID:piBEUhHC
>>377
手元ので改めて確認

天正6年11月27日条
「北野まはり御鷹つかはされ、御秘蔵の鷂(はいたか)失せ申候。方々御尋ねなされ候処、十二月朔日、丹波より居上せ進上」

これは見つけたんだが、もうちょっと詳しい描写があったような、なかったような…

公記を見る限り、信長は天正4年11月に上洛参内し、内大臣の官位を得ている。公家にもいろいろ配っている。鷹狩りについてはその後、石山世尊院で二日間、行っている。なんらかの混同が当代記ではあったのかな
京童の噂話が間違って伝わった可能性もあるし

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 10:41:56.90 ID:piBEUhHC
>>374
あ、見落としてました。一次史料をどうもです

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 14:13:15.68 ID:IvWV8E6Z

>>378
>>377も信長公記です。「俄かに大雪降り来たりて」等、>>368の当代記よりも詳細な記述。

同じ日の兼見卿記にも「内府御鷹山也 各着頭巾道服 心々之仕立也 御分国之大名其外馬廻数百人也
見物無比類云々 祇候禁中於小御所 有御盃之義云々 其以後東山へ御鷹山也」(東大史料編纂所より。
転記ミス御容赦)とあるので、当代記の記述(国会図書館DBで確認)が1年ずれてるのでは。

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 16:26:01.69 ID:Mg35n5Ah
太陰太陽暦では冬至を含む月を11月とするから11月に雪が降ってもおかしくはない

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 23:41:18.03 ID:OWOT8Gkc
>>383
おー、ありがとうございます!これこれ!
越智玄番が欠地を回復する話。
しかし、信長は2年連続、11月に御秘蔵の鷹を逃がしていたことになる。鷹匠の消息は触れられていない。

賤ヶ岳の戦について

2020年07月05日 17:33

170 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/07/05(日) 07:29:24.35 ID:LTS/0CcL
賤ヶ岳の戦いの真実
・秀吉の軍勢が前日近江にいなかったとはいえ大身の支持者だった中川清秀の軍勢を見殺し。
・美濃では秀吉軍の総攻撃が中止されたため岐阜の織田信孝とその軍勢が健在。
・奇襲部隊に損害を与えないと美濃―近江間の主力行軍が徒労になってしまう。
・逆襲を受けて羽柴軍の方に損害が出た。
・奇襲部隊が先に高所を押さえて布陣し待ち構えている。
この秀吉軍の苦境を覆して勝利をもたらしたのが「後方部隊の逃走」であり、それは秀吉が追撃を諦めず奇襲部隊に食い下がった結果として生じた状況が可能にした一手だった。
賤ヶ岳の戦いは後世言われるような「全てが秀吉の計画通り」の戦いではなく、「智謀の秀吉(時代の先駆者)が武勇の柴田や脳筋の佐久間盛政(時代遅れの武将たち)に優った」「羽柴兄弟の巧妙な罠に愚かな柴田軍が嵌った」というわけではなかった。
秀吉は自ら織田信孝の封じ込めに向かい、美濃大返しの後に山岳地の追撃戦から休まず柴田殿軍の殲滅戦、さらに越前侵攻と織田信長譲りの苛烈な采配で自軍と自身の体を酷使した。
秀吉は鬼玄蕃や鬼柴田を上回る猛将振りを発揮して勝利を捥ぎ取ったのである。
対して佐久間盛政たち奇襲部隊は「慢心した猪武者たちが神速の秀吉軍にしてやられた」どころか困難な撤退戦でも秀吉軍の追撃を跳ね返し決戦の構えまで見せるなどよく団結していた上に事前の準備も入念に行っていたことを窺わせる善戦振りだった。

秀吉軍が帰還
→しばらく時間が経ってから奇襲部隊が撤退を開始→秀吉軍が追撃を開始
→奇襲部隊が善戦→奇襲部隊が柴田勝政勢を救援、奇襲部隊が布陣
→羽柴軍との決戦が始まる時に柴田軍の味方が逃走し動揺が広がる
→秀吉軍の攻撃を受けて奇襲部隊が敗走

戦いの決着は翌日の夜明けから更に数時間経って付いた。秀吉帰還から勝敗が決するまでの長い時間こそ奇襲部隊が大活躍した時間だった。



171 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/07/05(日) 09:39:31.17 ID:j7MvBvjw
経緯が省略されたことに伴って当然のこととして時間の経過についても記述が省かれるようになったから秀吉の計画通りに何事も上手くいったのごとくな印象を植え付けられたのでしょうね

172 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/07/05(日) 10:15:35.43 ID:LTS/0CcL
>>171
歴史は勝者が創造する言うけど...たまには敗者側から観てどれだけ敗者側が頑張ったかを知ることが本当の意味で史実を知ることになるのかもね

甚五郎の欠落ち

2020年07月04日 16:53

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/04(土) 01:08:33.52 ID:K1RlApYW
天正四年九月、さはせ(鯖瀬ヵ)甚五郎という者が有り、彼は元来三河で岡崎三郎(松平)信康の
小姓であったが、朋輩の金作りの刀大小を盗み取ったことが露見したため欠落ちし、この二、三年は
甲州に在住していた。そして鯖瀬は彼の国の住人である甘利三郎次郎を小山の陣中に於いて殺害し、
家康公の陣中に来た。

彼は甘利と日頃より知音にて、別して懇志の間柄であり、些かも隔心が無かったが、甘利が寝入った所を
刺殺した。この時自分の刀を捨てて、甘利の大小を取ってこれを差して来た。
この鯖瀬は年来、甘利と前代未聞に恋慕芳契しており、物取りをしたのではないのだという。

家康公は彼を再び出仕させたが、乍去さして挙用しなかった。三郎信康は彼のことを悪まれた。
そのため一両年の間に他国へまた欠落ちした。

この甘利は十七歳、武田の家老で人数三百余人を備えていたという。

当代記



申す旨に任せ、朱印を遣わす

2020年07月03日 18:12

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/02(木) 22:01:31.81 ID:IgtsYTjv
天正五年十月二十三日、羽柴筑前守(秀吉)は播州に入ると、「この次に中国で一州を望む」という事を
言上した。これを信長に、右筆の楠長庵が披露した所、これを聞いた信長は不快な様子であった。
しかし暫く思案し、「申す旨に任せ、朱印を遣わす」と言った。
ところがどうしたわけか、楠長庵はこの朱印を作成しなかった。

その後、筑前守は但馬国へ相働き、敵城を数多攻め落としたことが注進されると、信長は御感甚だであった。
この時に成って長庵は、中国の内一州の拝領を許可した朱印状を作成し秀吉に遣わした。
これについて信長は、非常に心地よい様子であった。

『当代記』



343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 01:27:08.17 ID:wNBo2v6N
>>341
見事なまでのブラック企業

合戦を遂げることこそ尤もです

2020年07月02日 17:59

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/01(水) 21:58:08.56 ID:spB6JqFb
長篠の合戦の時、武田勝頼は「是非とも一戦を遂げ、討ち死にすべしと思い定めている」と語った。
これに対して武田家重臣の馬場美濃守、内藤修理、山縣三郎兵衛、武田左衛門大夫、同左馬頭は申し上げた

「敵軍は四万、我軍は一万です。この度は引き上げ、信長の帰陣した上で、来秋出張をし、所々残らず
放火し、その上苅田を申し付けられれば、三河は亡国と成りますから、一両年中に存分と成るでしょう」

という旨をたって諫言したが、勝頼は承引せず、殊に長坂長閑斎が「合戦を遂げることこそ尤もです。」と
言上したため、いよいよその儀に相定まったのだという。

この長閑斎は工夫に長けた人であったために、信玄も大細を談合した者であり、殊に弁舌明らかであった。
この時六十三歳であったという。

当代記



159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/01(水) 22:03:21.53 ID:dkvDgPFT
当代記の時点で勝頼は老臣の話聞かない思慮の浅い武者、長閑斎は佞臣
みたいなテンプレが出来上がってるのね

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/02(木) 02:51:07.33 ID:1ucQJuvg
>>159
甲陽軍鑑の影響でしょう
近年、再評価されているのは面白い

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/02(木) 10:32:46.38 ID:SJFjnxtY
大将が討ち死にすべしってだダメだろ

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 01:26:32.35 ID:wNBo2v6N
>>161
信長だって「知恵の鏡が曇るとは」といわれたし
勝頼みたいに退路絶たれて突撃はしないと思うけど

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 02:42:17.31 ID:/iNLXb8k
父信玄に劣らない立派な2代目にするって事で臣下が犠牲を顧みず奮起して高天神を落としたのに
勝頼「コイツらやれば出来るのになんで何時も怠けてんだよ、何時も死ぬ気でやらんかい!」
だから設楽原で老臣たちの慎重論を怠けとして全軍突撃を命じたんだよなあ

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 10:08:11.60 ID:yt6Qik+O
退路を断たれてしまった以上前方の敵をせめてある程度ひるませないと、退くにしても追撃でとんでもない被害出るし

そこまでおかしな行動とは思えないかなぁ、平山氏曰く織田勢は兵の数が過小に見えるように動いてたようだし

だからそもそもこの当代記の武田勢が織田勢の兵数を完璧に把握できてる状況ってのがすでにフィクションっぽい

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 15:12:49.38 ID:9dv9wt1q
>>164
「敵かたへ見えざる様に段々に御人数三万ばかり」ってやつね
しかし、仮に威嚇のためだったとして、何回も突撃して壊滅し、追撃戦を含めて錚々たる面子を失ってるからね

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/03(金) 21:12:12.25 ID:yt6Qik+O
威嚇じゃなくある程度の撃滅が目的じゃね
そもそも目算が間違って死地に赴いてしまったのが問題であって、そのあとの収拾の方法は問題ないと思う
そもそもが大失敗しててそれを取り返しようがない状況だから

そのまま追撃受けたら壊滅して、錚々たるメンツが死んでたのには代わりないんで

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/04(土) 13:20:01.29 ID:90/ImzUl
>>164

要するに一撃講話論ですね

弘法大師が玉造という双紙を絵に書き置かれ

2020年07月01日 17:13

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/30(火) 21:54:30.51 ID:G1TABAxh
織田信長公より九八郎(奥平信昌)が拝領した刀は、目貫口蓋は、去々年後藤光乗に仰せ付け、京都に於いて
掘られたもので、昔、弘法大師が玉造という双紙を絵に書き置かれ、それは、女は色に耽る者なれども、
老年なれば面は猿に似て手にあじか(土を運ぶ道具)を持ち、その中にくわえ蕨など入れ、肘に掛け後ろに
袋を負い、前打ち広げて腰を掛けていたる体が書かれており、信長はこれを見給うと、「この図を写すべし」
と命ぜられ、そうして掘られた口蓋であった。

その頃、この図を明智日向守(光秀)が狩野が絵像に写させた所、尽く出来、眼に点入れまでしてあったのが、
一夜の内にこの絵が腐り果てた。この事を明智に申し上げた所、「権者の筆跡を凡夫として写しけるによって、
このように成ったのだろうか。奇特である」と云ったという。

『当代記』



週刊ブログ拍手ランキング【06/24~07/01】

2020年07月01日 17:09

06/24~07/01のブログ拍手ランキングです!


かかる心を武田とや云 12

信友の忠言 12

乱以後その猿は居なく成った 9
猶以てこのように 9
光秀のその明鑑 8

十七ヶ条の意見書 5
五重の天守を建てられ然るべし 5
右先祖は真田伊豆守様御家来にて 7


今週の1位はこちら!かかる心を武田とや云です!
当代記の、いわゆる義信事件についての記事ですね。当代記ですから、これ自体は後の織田徳川による反信玄のプロパガンダ的
内容で、必ずしも事実を現しているわけでは無いでしょうし、また武田側からの見解は、甲陽軍鑑などに著されていますね。
そのあたり読み比べてみるのも面白いかも知れません。
ただし義信に対してにせよ信虎に対してにせよ、追放や粛清は明確に事実であり、そこからはやはり、武田家中の闇を感じ取って
しまいます。それにしても上手い落書というのは当時の、なにかイメージを広める時に必須ですね。武田信玄の「悪行」を
見事に言い表しています。当時の戦国大名にも、こういった宣伝工作を担当する人々が居たのかなと、記録にはないものの
想像してしまいます。

今週は同票でもう一つ!信友の忠言です!
僕も最初「のぶゆきって誰?」と戸惑ってしまいましたw「親友」の当て字なんですね。まあ「信じる友」ですから字義的にも
正しいですね。
こちらは島原の乱へ出陣する友への言葉。通り一遍に無事を祈る他の人々に対して、討ち死にの覚悟を促すところは、
確かに信頼しあう人間同士でないとなかなか言えない事かもしれません。それとともに、大坂の陣の頃では誰も彼も
討ち死にの覚悟、というかむしろ討ち死にを望んで出陣し、周囲もそれを当然としていたことから思うと、島原の乱の
段階では、相手が一揆であるというのを差し引いても、一般的には無事を祈るという所に、社会の変化も感じてしまいます。
島原の乱を、「国内内戦の終結」として戦国の終わりとする説がありますが、社会の意識としては確かにその分岐点だったと
言えるのかも知れません。

今週管理人が気になった逸話はこちら!乱以後その猿は居なく成ったです!
比叡山焼き討ちについてのお話ですが、コメントで「なるほど」と感じたのは、歴史上何度か有った比叡山焼き討ちですが、
本気で叡山を焼き討ちしたのが、確かに「細川政元だけ」という可能性がありますね。
足利義教の焼き討ちは、叡山側の自焼であり、信長の焼き討ちも、考古学的調査で大規模な火災が起こっていなかったことが
確認されています。というか信長の焼き討ちの時点で、比叡山は細川政元の焼き討ちのダメージから未だ回復していなかった
という説があります。つまり細川政元だけはガチだった可能性が高いのです。本当にさすが魔法半将軍ですw
まあ信長の焼き討ちが小規模だったからと行って、攻撃を抑えてたのだという訳ではなく、実際には坂本など麓の町を
大規模に焼き払い、根切りを行っているので、叡山については「焼くまでもなく退散させ占拠できた」という事かもしれません。
そして焼き討ち後「猿が居なく成った」という話も面白いですね。猿は山王神の使いですから、叡山が「神からも見放された」
という事を現しているのかと思いました。様々に興味深い記事ですね。


今週もたくさんの拍手を書く逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

十七ヶ条の意見書

2020年06月30日 18:00

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/30(火) 01:40:08.43 ID:G1TABAxh
元亀三年の冬、織田信長は十七ヶ条の書付を以て足利義昭に諫言を遂げた。
この諫言の書は信長記(信長公記)にこれ有り、右は何れも忠言である。
後に武田信玄はこれを見て、信長を「ただ人ならず」と云ったという。

元亀四年(天正元年)正月十日、松永久秀は織田信長に降参し、岐阜へ参上した、
この時、不動国行の刀、薬研藤四郎の脇差を進上した。これらは何れも天下無双の名物であった。
このように松永が降参したのは、佐久間右衛門(信盛)の取り扱いを以てであった。

この頃、将軍足利義昭は信長を亡ぼす旨を思い立てられた。これは去る年の冬に信長が出した
諫言の書(十七条の意見書)が御耳に逆らう故であると聞こえた。

当代記