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この両大将の御軍法は

2020年04月03日 17:52

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/02(木) 23:06:06.70 ID:pq0QyS8J
信長様の御軍法は、御敵を仕りたる者は、子々孫々までも御果たし、その跡をも返す程に厳しくいたして、天下を
治められた。
内裏の御修理などを仰せ付けられ、王法の衰えたるをも御取り立てた後、仔細有って上京の騒ぎを払うためとして、
京の地子(固定資産税)を御免に成り、万事に賞罰正しく仰せ付けられた故に、万民に至るまで仰ぎ奉らず、という
事がなかった。

さりながら、一度御敵仕った者には、御詫言申し上げて御旗下に成ったとしても、御心を許されず御憎み浅からず、
それ故に謀反人が多く出たのである。そういった時は、強いばかりでは成らざる事なのだ。

このような点について、太閤様(秀吉)はよくご覧になっており、御敵を仕る者には厳しく仰せ付け、また詫言申し上げ
御旗下に成ったならば、御譜代同然に、御懇ろに成り、過去のことに御心を置かれないように成られた。
故に昨日まで御敵を仕った者であっても、身命を捨て忠節を致すべきと考えるように成るのだ。
故に謀反人も無く、早く天下を御治められた。

この両大将の御軍法は、このように裏腹に違っている。この心持ちは小身の召使いの者であっても、心得有るべきだ。

細川幽齋覺書



869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/03(金) 00:02:20.84 ID:zBA7abq5
息子は妻を見たというだけで下人を斬っちゃうのにな
信長より怖いやん

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/03(金) 00:07:19.30 ID:FSVCIVoW
べた褒めされてる太閤様だけど家臣になった人間に対して優しいかというと

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/03(金) 00:29:08.54 ID:Bm35P5Cg
>>868
お前義昭から信長に乗り換えといて何言ってんのって感じ

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/03(金) 07:45:29.96 ID:cYYaqcw6
>>868
>御旗下に成ったならば、御譜代同然に、
この結果徳川に天下取られるんだから皮肉というか面白いもんだ

でも秀吉が俺は信長ほど甘くないぞって言ってたこともあるし
信長も結構優しいよなぁ、松永とか何度も許してるし

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/03(金) 08:07:02.83 ID:bLU5IFlR
太閤様は推し量り難い越えちゃいけない線があってそこを越えると誰だろうがキルするイメージ

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/03(金) 08:39:05.04 ID:hcIxRMmR
お爺ちゃんは家康の結果を知らんからな

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/03(金) 11:29:37.76 ID:FSVCIVoW
今の研究的には天下取られるというか、奉行が横車押しまくったせいで任されてた徳川が天下取らんと治まらんほど豊臣家がぼろぼろになっていったって感じみたいだし
譜代同然に扱う事自体は悪くはなかったんじゃね、むしろ1代しかなくて家に忠誠のない元からの家臣連中こそ箍外れると何しでかすかわからん的な
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武士の「話」について

2020年04月02日 18:26

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/02(木) 03:31:39.34 ID:pq0QyS8J
人には何かしら好きな事が有るものだ。弓鉄砲、或いは馬、鞠、兵法、料理、乱舞、歌、盤上、鵜、鷹、
数寄の道、何れであっても好きな事が有のであれば、仮初にてもその事を話すものだ。
また人の話であっても、自分の好きな事であれば聞くものである。
また人により、武道の話をいたし、また人がそれを話すのも面白がって聞く者は、良き心がけの者であると
存じておくべきであろう。

大方、人々の心中は話、或いは愛する友を以て知れるものであると、松長という名人が申された(松永久秀の事か)。
誠に相違無いと見える。
とかく、どんな諸芸であっても、自分の心に染まらぬ事は、成らざる事であり、その心得が有るべきである。

常々ものを良く申していても。戦場に於いては有無のことを申さぬ人がある。
また敵との間が遠い時は何かと口を利くが、敵が近くなると物を言わない人もある。
そういった具合の将は、常々どれほど口を利き、物を良く申していたとしても、それは用に立たない事である。
殊に敵が遠いほど物を申し、近くなって合戦前になると萎れたような体となって居るのは、殊の外に見苦しい事である。

常には少々無口であっても。戦場に於いては諸人も聞き届くように下知をいたし、物の埒を申し分ける者は、
常に物を良く口を利く者より、増しているものである。

細川幽齋覺書

武士の「話」について



865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/02(木) 20:19:20.89 ID:fNTnUbyo
これは落ち着いてる幽齋さんですね
いつもこうなら良いのに

【雑談】戦国期の陣形についてなど

2020年04月01日 17:22

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/30(月) 22:01:48.64 ID:PBzhLGVD
戦国の陣形って本読むとそういう物は無いって結論だな
大体は江戸の軍学者が作ったと

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/30(月) 23:16:05.37 ID:J9d4EoCh
軍の構成が大陸とまるで違うものねー
陣形みたいな複雑な集団行動とか西洋みたいな極度の密集隊形は難しいよねー

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/31(火) 07:55:09.70 ID:ydfJFf2z
>>834
中国やローマとかと違って日本はずっと私兵だから統一された動きとか無理

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/31(火) 19:04:16.00 ID:D7aB81MH
816なら陣形とか以前だろ

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/31(火) 21:30:06.58 ID:jX+DUKDi
陣形ってホントに効果あるのか、検証してほしい。
TVとかでやってくれないかな?

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/01(水) 00:15:15.40 ID:lECHoJ//
あくまでも兵を率いる側の権力の強弱の話だから、どっちがいい悪いって話でもあるまいに

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/01(水) 00:21:16.71 ID:Rv+ahvU4
中国では陣を動かすため、それを伝えるための部隊として楽隊や銅羅部隊があったんだよね
日本ではそれこそ狼煙や、あっても鏑矢ぐらいでないんか

槍隊突っ込めー、鉄砲放てー、とか乱戦で聞こえるわきゃない

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/01(水) 05:54:53.75 ID:1iZoPyoa
螺貝

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/01(水) 07:45:37.69 ID:jlBrT590
平地の少ない日本で陣形が発展するのかどうか

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/01(水) 08:33:41.88 ID:oNHeyhKT
戦国末期でもなければ数百人規模の戦闘が多いんだから日本でも陣形組めると思うがな

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/01(水) 08:47:08.44 ID:WNllrpZO
>>847
日本の場合は国土も狭いからあらかじめ指揮方法決めるより
伝令が重視されて大名直属の旗本馬廻から精鋭を集めて
母衣衆が結成されたりしたんだろうね
当時の書状も「詳しくは使者の指示に従え」が多いし

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/01(水) 11:00:58.92 ID:3V7B2LZF
>>850
これよく誤解されてるんだけど、江戸時代以前の日本って平地だらけだからね
日本中にロクに農耕も居住もできずに放置されてる氾濫原や洪積台地がいっぱいあって
そういうところが合戦の舞台になったの

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/01(水) 11:04:54.06 ID:aE4+m7up
基本的に、山ははげ山だし、今の田園地帯は海か池か沼地。

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/01(水) 11:07:38.66 ID:lECHoJ//
備えと陣形のメリットデメリット並べて、それが風土や指揮システムにあってるかどうか
ってのを見てった方がよさげか

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/01(水) 12:12:54.22 ID:bif2ux+D
きっちり陣形を作って戦うには全体の意思統一と充分な訓練を受けた兵と将が必要。
戦国期の一般的な軍制では、小部隊では出来ても大軍になると必然的に寄せ集めになる気がする。武田や上杉なんかはそれが出来てたから強かったってイメージだけどね。

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/01(水) 16:01:51.88 ID:oNHeyhKT
武田こそ国人衆の野合なんだから意思統一とかできるかいな

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/01(水) 16:28:24.71 ID:lECHoJ//
陣形組むという意味の訓練とそれなりの人数で戦う訓練ってまるで別やろうし
それなりの人数で戦うのがめちゃくちゃ強ければ実際陣形とかいらんよね

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/01(水) 18:12:59.75 ID:CbQoMAdL
飛信隊みたいに愛と友情と気合で何とかなるんだよバーカ

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/01(水) 19:36:11.43 ID:zf89+ZNh
孫子だの三国志だのは、江戸時代の軍学者のみならず戦国武将も大好きだったわけで、
そうも陣形軽視するとも思えないんだけどなぁ。

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/01(水) 19:42:29.52 ID:Xd/WtMny
>>838
一応、平安時代初期くらいまでは国軍もあったろう
あまりその頃に大きな戦乱が無いから目立たないけど、白村江の戦いの日本側は国軍でしょ

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/01(水) 21:32:23.61 ID:VLS97bX3
>>862
そうだよだから>>848に書いといただろ?

「松明の心得」「城はやし」「言葉争い」

2020年04月01日 17:21

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/01(水) 12:05:31.82 ID:ihS7+uPT
城に竹束で仕寄を据える時、本陣までの道などが悪くて遠くにある場合は、城中から夜討ちなど致すことがある。
そのような危険がある時は。十人二十人であっても、松明に火をつけ両手に持ち、本陣の方から竹束の裏まで
行って帰り、幾度もこれを繰り返せば、夜討ちは無いものである。これを松明の心得と申す。

竹束にて仕寄、城を取り巻いた時には『城はやし』と申す事がある。
井楼の上に二、三人も上がり、拍子木を打って音頭を取り

『城になふなふ 明日は首をたもろふ ゑいゑいわっ』

と、竹束の裏に在る同勢一度に声をそろえ鬨の声を作り、鉄砲をはたはたと打ち掛ける。
それを致すのは夜の五時(午後八時頃)、又は夜明けにも致す。何度もこのように致せば。
城中に居る女子供、また籠城などした事のない不案内者は殊の外騒ぎ慌てるものである。
このすると、二十日持つ城も十日持ちかね落城するものである。

また『言葉争い』と申す事がある。口かしこき者井楼に上り、「御陣へ申度事候」と申せば、敵方よりも
「何事にて候」と答える、そこでこの方より申すのは

「御籠城、御大義に候。とても御持ちこたえること、中々成るまじきようです。御降参候へ。
そうでないのなら、何方からであっても突き破り、こちらに御出候へ!
御首を早く申し受けたいものです。とにかく、御首を申し受けなくては成らないものなのですから。」

などと敵の心に掛かることを申すのだ。ではあるが、慮外がましい事を言えば敵方からも悪口が帰ってくる。
敵の心を暗くするような事だけを申すものである。

細川幽齋覺書



週刊ブログ拍手ランキング【03/26~04/01】

2020年04月01日 14:55

03/26~04/01のブログ拍手ランキングです!


細川幽斎による、鉄砲隊運用の心得 11

当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき 11

フランチェスコ・カルレッティ「世界周遊記」の日本に関する部分の続き 8
仔細が有り、丹波路を行く 8

合戦場にて鑓を合わせる時に 7
黄金百枚の儀 7
鷹にとらせ申度候御免候へかしと申候得ば 5


今週の1位はこちら!細川幽斎による、鉄砲隊運用の心得です!
細川幽斎の語る鉄砲隊の運用ですが、これを見ると、正直あまり大きな部隊を想定していませんね。せいぜい十数人から、
多くて数十人?くらいでしょうか。このあたりは細川幽斎は主に合戦を行った場所が畿内近国であり、足利将軍、また信長の
下にあった、という事を考えるべきかも知れません。当時、東国では既に兵種別編成が行われていたとされますが、畿内西国では
必ずしもそういった運用は成されておらず、配下の武士団ごとに編成されたと考えられます。信長も例外ではなく、長篠の段階でも
鉄砲隊は所属する武士団から一旦離され「織田軍」として再編成された、というよりも、その武士団の鉄砲隊ごとに配置された、と
見られています。そこでは大まかな方針と指揮はあっても、判断の多くは各部隊に任されており、そういった環境下に於いて、
このほ幽斎のような発想が出てくるのではないか。そんなふうに考えました。
これに限らず戦国の軍隊の運用というものは、進んでいる遅れているではなく、はやりそれぞれの置かれた環境での合理性を
求めて成り立つもので、こういった記録から、当時の軍隊の環境を考えるのも、また面白いと思います。

今週が同票でもうひとつ!当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき です!
こちらは幽斎の息子、忠興による、前田利家と徳川家康を和解させた事のお話ですね。
江戸期まで残った大名家ではその多くに、関ヶ原前後に、このように家康、徳川家に対して何かしらの大きな功績を成した、という
「由緒」が伝わっているものでして、これも事実かどうかと言うよりも、後の肥後細川家における「由緒」であると考えるべきでしょう。
この由緒故に、細川家の処遇に関して、幕府は様々に考慮せざるを得ないわけで、大名家にとって武器でも在るのですね。
この手の「由緒」で面白いものは、毛利家に伝わった、関ヶ原合戦後の毛利に対する家康の、「防長二州安堵」のお墨付きでしょう。
これによって、逆に毛利家は、関ヶ原の結果減封されたにせよ、防長二州に関しては「家康の保証を得た」という形になり、
以降その所領を保全する最大の根拠ともなりました。毛利氏は参勤交代の際、このお墨付きを先頭に立てて江戸に入ったと
言われます。「由緒」の露骨なデモンストレーションですねw
勿論ここに描かれている事は、歴史に一端も現していると思いますが、もう一つ、この話が残された理由、というものも考えてみると、
また違った面白さを発見できるかも知れません。

今週管理人が気になった逸話はこちら!フランチェスコ・カルレッティ「世界周遊記」の日本に関する部分の続きです!
こういった、外国人、外部による記録の面白いところは、当時の日本人が「あたりまえ、当然のこと」として記録しなかった事を、
外部的には不思議な慣習、習俗であるとして、記録してくれるところでしょう。当時の日本人が輸入品として蘇芳や白檀(?)を
重視していた事など、非常に興味深いと思います。
また「A」や「O」がyesの意味だというのは、「ああ」「応」という事でしょうし、「Mi」が自分を表すというのは、「身」「身共」を
指しているのでしょう。このあたりから当時の人々の言葉遣いを想像するのも非常に楽しいと思います。
こういった記録は、直接的に歴史の流れに関わりがなくても、それを見る際の視界を非常に広く、豊かにしてくれますね。
そういう意味でも、貴重な内容だと思います。


今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を読んだときは、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

鷹にとらせ申度候御免候へかしと申候得ば

2020年03月31日 16:39

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/31(火) 00:59:48.13 ID:agh7N04f
対陣している時、又は城を取り巻いている時などで、敵陣を攻めるにあたっての足がかりを見たくても、
それが出来ない時は、敵方に断りを申して、見たいと思う場所に鳥などが居る場合は、
「鷹に取らせたいので、御免候へかし。」
と申せば、大体は許すものである。
(鳥など居候はゞ、鷹にとらせ申度候御免候へかしと申候得ば、多分ゆるす物にて候。)

そういった時は、鷹に鳥を取らせることは二番にいたし、足がかりを専らに見るべきである。
そして鷹に鳥を取らせたら、敵方に送るのだ。そうしておくのは、重ねて見たい場所があった時の為である。

昔はこのような謀の為に、出陣には大将衆も、鷹を据えさせていたものだ。
現代ではこう言った事をしなくなったが、この心持ちは、色々に応用できるものだ。

細川幽齋覺書

細川幽斎の時代の、敵陣の模様を見るための謀。何というか、非常に牧歌的ですね。



837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/31(火) 02:51:15.22 ID:Fdmi6ahG
鷹狩したいですといってはいって通してたのか、なにか通す側にも政治的メリットとかがあるんだろうか
軍事訓練的側面とか領内視察的側面とか、戦国期の鷹狩だけで一冊本できそう

合戦場にて鑓を合わせる時に

2020年03月30日 16:55

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 22:46:14.26 ID:PwHbEMaN
合戦場にて鑓を合わせる時に、色々稽古もあるのだが、先ず敵の真ん中を目当てに致し、ひたすら
叩くようにするべきである。そのようにすると、敵は嫌がり仰向けになるものだ。その時胸板を突けば
転んでしまう。惣別、武者は上をかぶくものであるから、造作なく転んでしまうのだ。
ただし敵より叩きつけられ。下鑓になってはこれは成らぬものであるので、心得の有るべきことである。

細川幽齋覺書

昨今は「鑓は叩くもの」と言われがちですが、ここでは叩いて起き上がった所を突いて転ばせる、とされているのですね。



細川幽斎による、鉄砲隊運用の心得

2020年03月29日 17:14

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 02:32:51.34 ID:PwHbEMaN
合戦で鉄砲の者を召し連れ、鉄砲を討たせる時は、たとえ敵が五間か十間の遠くに在ったとしても、
何か木陰などが有ればそこに召し連れ参り、そういった場所で撃たせるべきである。
そのようにすれば、こちら側に手負いは出ない。

何も知らない衆は、少しでも近くにと思い、敵から見晴らしの良い場所に鉄砲の者達を置いてしまう。
それ故に敵から散々に打たれてしまうのである。そうなれば、手負いが二、三人も出れば、此の方は
崩れてしまう。

鉄砲の命中率など、五間十間遠くても同じことである。(鉄砲の中りは五間十間遠く共おなじ事にて候)
そういった時は、此の方に手負いがないように見立てることが肝要である。

また、旗本より程遠くに在る時は、鉄砲大将の指物を、敵に近い場所に、塚でも、また小高い場所でも
有るならば、そこに指物を持たせ遣わし、立てておくのだ。そのようにすれば、脇より見て、
「誰々は早くもあそこまで仕寄せしている。」と見えるものである。

こう言ったことは、自ずから行うべきことで、鉄砲大将などは心得有るべきである。

細川幽齋覺書

細川幽斎による、鉄砲隊運用の心得



818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 09:16:16.15 ID:Zk6eD4N+

>>816
これは面白いな
ドラマなんかだとこれ見よがしにオープンな場所に
鉄砲隊が列をなしてたりする

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 11:14:23.06 ID:r1fXkJh+
>>818
その方がかっこよく見えるからかな
でも今だと、いやそうじゃない、と816みたいに解説する方が受けるかな?

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 12:30:06.93 ID:MVE+KsKB
映像での見栄えと戦い方って別の話だものねー
しかもこれの場合、あくまでも細川幽斎ならこうするってだけで本人も言ってる通り見晴らしのいいとこに鉄砲隊配置させる人もいるみたいだし

弾と火薬が豊富にあるなら隠れて連射のがいいんだろうけど、少ないならまた変わるだろうし

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 14:37:26.35 ID:Zk6eD4N+
>>819
見栄えの問題は確実よね
そもそもあんなオープンフィールドばっか日本にはないし

でも最近お金かけられないからドラマも
丘や林に布陣とかしてリアル志向ですとか
やらないかなぁ

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 14:54:15.21 ID:eVE4ARRj
>>821
戦国時代の山は禿山だらけだから、フィールド自体はオープンだったりする。斜面だけど。

フランチェスコ・カルレッティ「世界周遊記」の日本に関する部分の続き

2020年03月28日 16:01

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 19:14:57.14 ID:SWwvcrwj
フランチェスコ・カルレッティ世界周遊記」の日本に関する部分の続き

日本人は7ヶ月から8ヶ月かけ、多大なリスクを背負ってフィリピン諸島まで航海し、
小麦粉や様々な種類の食品、商品を輸出していますが、 貿易により60から100パーセントの利益を生み出します。
また日本人たちはコーチシナの王国に行き、彼らがcasceと呼ぶ一種の銅の貨幣を持って行きます。
支払いを容易にするために、真ん中にひもを通しているため、何百・何千もの貨幣がひもでつながっています。
このお金で彼らは大量の香木を購入します。
これは日本人にはgiaco(麝香)と呼ばれており、ポルトガル人にはaghilaとして知られています。
香水や薬品、具体的に言いますと裕福で高貴な人々の死体の火葬で使用いたします。
この香木のうち、コーチシナ王国の川で見つかるものは、王国の遠く離れた場所から川の流れにのってくるため、
誰もそれがどんな木であるか、どこで生育するかを知りません。
彼らはまた、コーチシナとマラッカの間の沿岸にあるシャム王国とパタニ王国まで航行しますし、
同じ沿岸にあるカンボジアまで航海することもあります。
彼らはそこでverzinoとよばれるある種の木を購入しますが、彼らはそれをsuo(蘇芳)と名付けています。
ポルトガル人の間では、saponとして知られており、赤い染料を作るために使用されています。
チャンパの国から、彼らは最も貴重な木材であるcalambaを輸入しています。
これは東インドに住むすべての人種から、特に燃やした時の香りのために最高の評価を受けています。
この木は日本ではsciratagoと呼ばれています。
わたしたちの間では全く知られていませんが、ポルトガル人によっても最高の評価を受けています。
わたしはその木で作られた数珠をつなげた飾りcoronaをマラッカで10スクーディ出して購入しました。

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 19:15:45.62 ID:SWwvcrwj
パタニとシャムから、私たちがsagri、彼らがsameと呼ぶ魚の皮も大量に持ち帰ります。
彼らはその皮から剣のための鞘やその他の興味深い作品を製造します。またsicionocava、わたしたちの言葉で言えばそのまま「ヤギの革」となる、
ヤギの革も大量に使います。彼らはそれを非常に奇妙な方法で取り扱います。
動物や他の芸術的なものなど、好奇心を掻き立てられるようなあらゆる種類のデザインを描き、稲わらに火をつけて出した煙で燻します。
こうしてデザインで覆われていなかった部分以外はすべて着色され、デザインで覆われていたため燻されなかった部分は皮の白さがはっきりと浮き出てきます。
彼らはこれらの革を用いて、自身で使用するための衣服や、非常に魅力的な鞍を作ります。
スペイン人たちはそれらを使用して、非常に優雅なデザインの襞襟を作ります。

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 19:22:17.66 ID:SWwvcrwj
彼らの音節文字は特定の単語や概念を表す場合もあり、会話の中であれば「A」や「O」は「はい」を表します。
「I」は、家の床を覆うためのTatamiに使用するわらのもととなる、水中で伸びる葦のような植物を表します。
「Fa」は「歯」、「Te」は「手」、「Me」は「目」、「Mi」は「わたし」を意味します。
まるでイタリア語のIoの代わりにMiを一人称代名詞として使用するロンバルディア人のようです。
同様に、日本語の「Dono」は「Donno」に似ています。トスカーナでは「Donno」は主人を意味します。
ラテン語由来の言葉で、日本語でも同じ意味を持ちますが、発音はNが1つないのでわずかに異なります。
前述のアルファベットの他の音節文字について話しますと、「U」はある種の海鳥を表します。
黒く、ガチョウと同じくらいの大きさで、ガチョウ同様に長い首を持っている、非常に鋭いくちばし、大きな目、短い足の鳥です。
彼らはこの鳥を、釣りのために利用します。両翼の下、首の周りに紐を結んだまま水中にその鳥を送り込みます。
この紐にとりつけられた葦の切れ端によって、首をまっすぐにし、鳥が水から魚を口に入れて出たときに飲み込むことを防ぎます。
これらの鳥はこのように釣りに使用されるときには「unotori」とも呼ばれ、娯楽のためにも領主達によって飼育されています。

以前のまとめの
11064 フランチェスコ・カルレッティ「世界周遊記の一部」
11071 世界周遊記 続き
11075 世界周遊記の二十六聖人殉教について書かれている箇所
11678 guminori = ごめんなり 世界周遊記続き
11721 異教徒の特徴
の修正も含めたフランチェスコ・カルレッティ「世界周遊記」第二章(日本に関する部分)
https://dotup.org/uploda/dotup.org2097425.pdf



当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき

2020年03月27日 17:44

799 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 11:21:43.27 ID:zmuEJTUZ
(豊臣秀吉の死後)
前田肥前殿(利長)が、細川忠興様の元を訪れ、このように仰られた

「石田治部少輔(三成)が、大納言殿(前田利家)にこのように申し上げました
『家康の事ですが、早くも我儘を申し、御寄合場へ切々と出てきません。今のままで召し置いておけば、今後
秀頼様の御為には悪しき事になるでしょう。ですので今すぐにでも、討ち果たすべきです。』
そう色々に申したことで、大納言殿も尤もに思し召され、討ち果たすという事になり、大阪より伏見へ御上がりに
なりました。これ程の事をあなたにお知らせしなければ、以後に御恨みが有ると思い、その要体を語り申します。

討ち果たす手立てとして、治部少輔申す所によると、
『家康の屋敷は落窪に有り、向かいの高い場所に有る宇喜多屋敷より火にて焼き立てれば下々騒ぎ出すでしょう、
そこで表に出てきた所を、宇喜多屋敷より出て討ち取る。もし裏から出たならば、我等(石田家)の者達で討ち取る。
兼ねてからそのように考えていたので、家康の屋敷の後ろは私の下屋敷にしてあり、只今佐和山より動員している
人数が四千有り、手間の要ることではありません。』

そのように申しているのです。」

そう肥前守殿が語った所、忠興様はこのように仰せになった
「家康公を討ち果たすとの事ですが、治部少輔の手立てではうまく行かないでしょう。」
「それはどういう御分別で、そのように思われるのでしょうか。」
忠興様のお答えに、肥前守殿はお顔の色が変わられた。忠興様は仰られた
「私を縁者であると思し召し、一大事をお知らせに成ったことが既に、御後悔しているように見えます。
この事は破れるのも、無事に成るのも御父子の御分別次第です。

この事が破と成った時は御身上が逃れたいと思っても、人は逃さないでしょう。
また私の身上も、逃れたくとも人は逃さないでしょう。
破と極まるのであれば、何時も一所と心得ましょう。

私の考えとしては、治部少輔にとって日本に恐ろしいと思っている人物が二人あります。一人は内府であり、
もうひとりの大納言殿は既に病であり、大納言殿が果てられた以後は、己が主人となろうと考え、色々様々に
申しているのです。あなたを批判するような事を言いますが、大納言殿が御死去なされたら、あなたの事は、
今の十分の一も人は用いないでしょう。御分別を専らにするべきです。
今後、内府を主人とするのか、治部少輔を主人とするのか。
私は治部少輔を主人とするなど罷りならぬことだと考えています。」

肥前守殿はこれを聞くと、
「一々至極と承った。然れば大納言殿に御異見を申したいのだが、蓮々御存じのように、私が申すことは
たとえ良いことであっても聞いてくれない。ましてやこの事については既に、治部少輔の言うことを尤もと
思われている。それを、私の無調法な口では中々説得する事は出来ないだろう。是非御同道してほしい。」
そう、たって仰せに成ったため、大納言殿の元へ御出に成った。

大納言殿が居られる又次の間まで進むと、そこからは先ず肥前守殿がお入りに成り、要体を語られた所、
病にて臥せって居られた大納言殿はむくと起き上がり、畳を叩き悪口を仰せになった。これに肥前殿は
「私は口不調法にて、物のあやを申せないため、御合点参らないのでしょう。そのため越中殿をここまで
御同道しました。」
そう仰せに成ると「然らば越中殿を出候へ」と仰せにつき、大納言殿の居られる間にお入りになられた。

800 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 11:22:02.91 ID:zmuEJTUZ
そうして忠興様が要体を語られると

「其の方の仰せになる所は解ったが、内府が何の御談合にも出てこないという事をしている以上、このままでは
以後秀頼様の御為に成らない。私の息のある内に、家康を討ち果たすべきだと考えている。」と仰せになった。
忠興様はこれに
「批判を申すようですが、御分別を更に重ねられるべきと存じ奉ります。例え家康に対して御談合の場に出ることを
堅く無用と申したとしても、家康が御座有った頃と同じようには出来ません。貴殿が合点していただければ、
家康が出てくるように仕りましょう。そのようにすれば如何でしょうか?」

「家康さえ出てくるのであれば、何も言うことはない。常々、意趣が有ったわけではない。」
大納言殿はそう仰せに成ったため、忠興様は直ぐに、家康公を大納言殿の元へ同道なされ、入魂の御盃を取り交し、
首尾よく家康公は御帰りになった。
忠興様は残り、大納言殿へ仰せになった

「家康の現在の屋敷は無用心であるので、向島へ移されるべきだと考えます。」
「この上は如何様にも。其の方に任せよう。」

そのように仰せに成ったため、即刻向島へお移りになった。

この一ヶ状は三斎様の御物語で承った事である。そして家康公と御老中御連判状に、
『当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき。』とある、六、七人の御連判状を私(細川忠興軍功記の作者)が
預かったことがあり、覚えている。

細川忠興軍功記



802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 12:19:08.70 ID:28ctvBqZ
徳川の治世と豊臣の治世だったら当然豊臣のほうがいいだろうなあ
徳川に味方して得たものはなんなのさw

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 13:25:20.20 ID:k+lBAxIa
少なくとも領地は広がったな。前田も細川も

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 13:33:31.03 ID:JVQBGdYo
豊臣だったら領地は増えてないな

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 15:31:27.93 ID:xqag71KY
○ 太閤蔵入地の解消
× 基本的に政権運営に参画できない

国持クラスの大名はともかく、中小の大名なら江戸幕府の方がやりやすいだろうね
まあ、財政的に余裕が無くて悠々と藩経営できてたケースは少ないけど

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 15:48:32.81 ID:SfIo6kA4
大大名も必ずしも政権運営に参画したかった訳でもないと思うぞ
というか極論三成だけが異常にやりたがってたようにも見える

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 16:18:25.61 ID:pQMysm+j
三成よか輝元のがあやしい

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 17:19:12.35 ID:00FCvUDV
伊達政宗が娘を松平忠輝と結婚させたのは、中央政界への発言力を求めてのことだったのだろうか?

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 17:19:12.35 ID:00FCvUDV
伊達政宗が娘を松平忠輝と結婚させたのは、中央政界への発言力を求めてのことだったのだろうか?

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 18:22:26.61 ID:SfIo6kA4
政宗が誰を嫁にしようと老中にはなれない
変に梟雄的に取り上げられることあるけど
普通に安定求めた婚姻だわな

輝元は三成に乗せられたお調子者だね
乗せられた分野心あったと言えるが

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 01:00:33.06 ID:rNuJGc1p
参勤交代が藩財政を逼迫させたんじゃないの?
知らんけど

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 02:02:34.16 ID:enxJZdyv
参勤交代は徳川家光の時の政策だし、そもそも江戸在府が基本だった大名への
負担軽減策だったわけで。

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 02:06:14.65 ID:MVE+KsKB
ずっと当主が天下人の城下に屋敷構えて許可ないと全然帰れませんよりよっぽど安く済むらしいわよ、参勤交代
しかも当主が遠国にいるから領国の統治もむずいし下手すりゃ領地で政治執るやつが実権握りかねんし

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 07:19:02.81 ID:EEZk3pD1
>>813
太平の世で大っぴらに出来る貴重な軍務。
我が武威を世間に見せ付けられる場なのでどの藩も行列を豪華にすべく無駄金使ったせいでもあるので。

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 09:16:16.15 ID:Zk6eD4N+
江戸時代の武家財政の逼迫は本質的には
何も生み出さない雇用守らなきゃ行けないから

仔細が有り、丹波路を行く

2020年03月26日 17:57

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 10:09:52.35 ID:++oLtex7
慶長五年、奥州会津の城主・長尾景勝御討伐の時、細川越中守忠興は家康公の御味方にて宮津より出陣された。
父・幽斎は隠居の身であったので、田辺の城に居られ、忠興だけが出た。

こうして忠興は雑兵たち三千の人数にて六月十一日に宮津城を出馬された。この折に、御暇乞い申さんと、
田辺城に立ち寄り、その夜は田辺に宿陣した。幽斎は天守に上り、軍勢の行列を見物された。

忠興は若州を経て近江路へ打ち出ようと、丹後・若狭の境である吉坂まで進んだ。ここに、若州熊川には
近年関所が有るのだが、ここに敦賀の城主・大谷刑部少輔(吉継)が下知を加え、熊川の関所をいよいよ
堅固にして往来容易からざる様子が聞こえたため、忠興はこのように申した

「若州より近江路へ打ち出ようと思ったが、仔細が有り、丹波路を行こう。」

そうして吉坂より取って返し丹波路を山家へかかり、伏見へと出た。
幽斎はこの事を聞くと、こう申された

「刑部少輔になにか計りが有ったとしても、それで忠興の通行を妨害する仔細はない。
この頃世間物騒の時節であるのだから、むしろ関所に行き掛り、仔細を見届けて通るべきなのに、
吉坂まで進んでおきながらそこから取って返し、丹波路へ向かったのは不覚悟の至である。
忠興がもし存命して帰陣したとしても、対面は致すまじ!」
そう奥歯を噛み締めて怒鳴られた。

また一方、それから程なくして小野木重勝が田辺城を攻めた時、勅命とは言いながら、今少し永らえずして
幽斎が城を渡して京都に上ったことを忠興も悦ばなかった。

こうして互いに隔心が出来、段々と不和に成っていき、後にそれは次第に募り、父子の間の侍共が、一日に
二度に渡って鑓を合わせる事件も有った。

丹州三家物語



937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 12:43:09.56 ID:R6yK/SZl
サイコパス親子

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 12:52:06.74 ID:/s+X6SpC
命がけの親子喧嘩は戦国あるある

黄金百枚の儀

2020年03月25日 18:11

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:24:30.66 ID:K2dn1Ud1
細川忠興様は豊臣秀次公より別して御懇にされており、どうしたわけか、黄金百枚を拝領していた。
その上秀次の家老である前野但馬守(長康)殿の子息・出雲守(景定)は忠興様の聟であり、
秀次事件が起こると、御縁者故「秀次の一味である」と治部少(石田三成)の申立があり、これに
是非無く思し召され、聚楽の屋敷へは米田助右衛門(是政)殿が遣わされ、伏見での状況次第では、
御上様(正妻)、御子様たちを仕舞(生害)させ、御屋敷へ火を掛け、助右衛門殿は切腹するようにと、
忠興様は命ぜられた。

伏見に於いて、黄金百枚の儀は、「薬院法印(施薬院全宗)の肝煎りで秀吉公(秀次の間違いか)より借用した
ものであって、拝領ではない。」との弁明を、米田助右衛門、徳善院(前田玄以)より、太閤様へ申し上げた所、
太閤様はこのように仰せになった

「先年、明智謀反の時、信長公への御恩を存じ出、明智に一味しなかった。
たとえ今度、秀次と一味したとしても、その時の忠節により赦免しよう。」

この旨を徳善院が仰せ渡すと、忠興様は御安堵なされ、この時も助右衛門殿の一命をとした御奉公であったと、
忠興様より度々そのお話を承った。

細川忠興軍功記



788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:29:19.10 ID:5/kImDAj
>>787
しれっと治部と太閤を貶める悪い話。

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:36:18.45 ID:airvD0sC
金借りただけなんですもらってないんです、って言い訳になるんだろうか

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:39:25.29 ID:/mRIgf+N
佐吉があえなく負けた理由がよく分かるな

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 21:37:06.12 ID:NfHJ2VF6
この話へうげものにあったね

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 22:54:05.24 ID:aUbdaYvf
>>789
猪瀬直樹、徳洲会の5000万円事件思い出した

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/25(水) 13:15:13.15 ID:jvpr6x/q
口先で借りただけだから許せやって話じゃなく
だから御公儀にお返しするので許してください
って話なので

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/25(水) 19:33:11.35 ID:5lQO7ZEJ
>>794
なるほどそういう文脈なのか
これは勉強になりました

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 20:29:48.46 ID:MxcE7X8S
石田さんほんとにどういう人だったんだろな
全員にこんな感じでちょこちょこ当たってたんだろうか

週刊ブログ拍手ランキング【03/19~/25】

2020年03月25日 17:19

03/19~/25のブログ拍手ランキングです!


細川父子の入部と丹後 13

古今箱伝授のこと 12

稲富一夢が事 11

一色義定室・伊也姫の事 6
一色義定謀殺 6

これぞ一色滅亡の基であった 5
小野木縫殿頭切腹の事 4



今週の1位はこちら!細川父子の入部と丹後です!
このお話の面白さは、織田信長の時代の、入部してきた「大名」に対する在地国衆たちの様子が生き生きと描かれている
事でしょうね。どう対処するのか、議論をしてもまとまりがなく、そもそも友好関係に有るのは遠くの者達で、近隣の者とは
関係が悪い、という辺り、生々しさすら感じますw当時の「国衆」というものをイメージするのに、非常によい資料だとも感じました。
その上で、「戯言」からの喧嘩で簡単に当事者含めて数人の死者まで出てしまうなど、これもやはり、この時代の空気が
きちんと描かれていると感じました。ここから様々に考察するのも非常に面白い、そんな内容だと思いました。

2位はこちら!古今箱伝授のこと です!
古今伝授というものは中々ややこしく、もともと公家の二条家の秘伝であったものが、武士の東常縁に伝わり、その後連歌師の
宗祇に伝授されるなど、細川幽斎への伝授以前から、「公家」の枠内を超えたものだったようです。またそこから「御所伝授」、
「堺伝授」「奈良伝授」と分裂し、幽斎に伝授されたのは「御所伝授」の系統ですね。
古今伝授が何故朝廷を動かすほどの権威を持っていたかには、中世の教養における「古今和歌集」の地位の高さを理解しないと、
現代人には難しいかも知れません。和歌、あるいは連歌を読む、また文章を書くいおいても、古今和歌集の知識が無ければ
世間に認められるものには成りえませんでしたし、だからこそそれについての「正確な解釈」とされる古今伝授が重要だった
わけですね。
古今伝授など中世の文化史に関しては、講談社学術文庫から出ている『天皇の歴史10 天皇と芸能』などが手に取りやすく、
精しいと思いますので、良かったら読んでみて下さい。

今週管理人が気になった逸話はこちら!稲富一夢が事です!
稲富祐直は関ヶ原の時の、細川屋敷からの逃亡などで、戦国ファンからはあまり高く評価されているわけでは無いように思います。
ただ、そういった、「武勇」の観点で彼を評価するのもかわいそうだな、とも思ったりします。
稲富はやはり第一に鉄砲の技術者であり、それはただ単純に個人的技能というだけでなく、砲術家として一種の弾道学に
通じていました。また鉄砲製造の組織化にも着手しており、鉄砲の産業を近世に導いた一人としても、評価できるのでは
ないでしょうか。
彼がある意味武勇に欠けるところがあったとしても、技術と知識でそれを補って余りある評価を受けた、という所に、戦国後期、
あるいは近世の社会の変化を感じることも出来るかも知れません。そんな事もふと思った内容でした。
このお話も基本的に、稲富祐直を大変弁護していますね。この丹州三家物語が書かれた当時の、そういった気持も感じることが
出来る気がします。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話がありましたら、そこの拍手ボタンをしてやってください!
(/・ω・)/

小野木縫殿頭切腹の事

2020年03月24日 16:41

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/23(月) 22:27:15.18 ID:aD4lGeCD
小野木縫殿頭切腹の事

関ヶ原表は家康公の御利運と成ったため、諸大名には御暇が下され、彼らは国々へと帰った。
この時、細川越中守(忠興)が権現様に申し上げた

「小野木縫殿頭の居城は、幸いにもそれがしが在所に帰る道ですから、通りがけに踏み潰し、小野木の首を見て
まかり通るべきと考えます。」
(筆者注:小野木重勝は関ヶ原で西軍に属し、細川幽斎の籠もる田辺城を攻撃し、開城させた)

家康公も「そのように考えていたところだ。忠興の思った通りに成すべき。」と仰せが有り、慶長五年十月十七日、
福知山の城を取り巻いて、ただ一乗にと揉み立てる。
去る十月(原文ママ。正確には七月である)、縫殿頭は田辺城を攻めており、その意趣は甚だ深く、
「小野木の首を見るまでは、日夜を分けじ!」と下知された。

この福知山の城は、巽の方角より差出て、油崎に本城を取っていた。その下は蛇が鼻といって、東西に引き廻した
大河の内に堀を掘り、この堀は要用の堀であるので、その高さは幾尋という限りも無いほどであった。
然し乍らここには浮草が覆い浅く見えたために、細川衆先手の人数は我先にと飛び入った。これゆえ若干の人数が
溺死した。後方が非常に堅固な縄張りであると見えた。

忠興はこの様子を見て、蛇が鼻表は先ず置いて、南の丘より攻めた所に、忠興の旧友である山岡道阿弥(景友)が
馳せ来て両者の扱いに入ったため、小野木は城を開き、自身は剃髪染衣と成って上方へと退いた。
ところが忠興は憤りなお醒めず、また兵に追いかけさせ、亀山にて捕らえ、嘉仙庵という寺にて敢え無く腹を切らせた。

丹州三家物語

細川忠興の福知山城攻めと小野木重勝の最期についてのお話



古今箱伝授のこと

2020年03月23日 17:45

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/23(月) 12:25:52.59 ID:aD4lGeCD
古今箱伝授のこと

烏丸殿光広、中院殿通勝、三条西殿(実条)、この三人の人々は常々、細川幽斎に古今(古今和歌集の秘伝)の口伝を
深く望まれていたが、未だその相伝の無い内に不慮の大変(関ヶ原の戦い)が起こり、幽斎も田辺城に籠城と成った。

ここで幽斎は思った
「今度は討ち死にすること必定である。然らばかの三人の人々に、古今の相伝を空しくしてしまえば残り多い。」
そう考えて、籠城支度の最中の忙しさの折節に、古今の口伝を書きしたため、箱の中に封じ入れ、三人の人々に
使いを立ててこのように伝えた

『古今の我が家の口伝を年来望んでいましたが、惣劇に妨げられ延べ引き申し、俄に大軍を引き受けて、老後の
軍の至りとなりました。今回は討ち死にすること近くにあります。もし討ち死にしたと聞かれたら、この箱を開けて
この中の物を見て下さい。』
そう、一つの箱を送った。あのように忙しい境界に、神妙なる生得である。それ心狂眼盲耳聾の三悖を以て
人を牽くは難しと云々、誠に幽斎玄旨は文武の二つを兼備した良将の器と見えた。

さて、三人の人々は、箱を受け取って伝授を得ようとは思ったが、幽斎の身の上を痛ましく思い、またそのような中、
都の風聞には、幽斎が討ち死にしたと云うものも有り、未だ落城せざりしが一両日は持たまじとも有り、頻々に
言いければ、中院殿、三条西殿両人は、田辺城の結果を待ちかねて、かの箱の封を解いて、開いてこれを見た。
今の世に『古今伝授』と呼ばれるものが、これである。

烏丸殿光広はかの箱を開けず、幽斎玄旨の落着を聞いた上でと考えていた。そのような中、忝なくも幽斎の事を
御門も惜しみ思召して、両陣に勅使を下され、幽斎は囲みを出た。
烏丸光広は幽斎の無事を大いに喜び、かの口伝を入れた箱の蓋に

『明て見ぬ かひもありけり玉手箱 二たひかへすうら島の波』

と書いて幽斎方に戻されると、幽斎は斜め成らず感じ入り、その志に耐えかねて、光広卿の邸宅に行くと、
直ぐに相伝が有ったとか。このような故に、光広は筆外の口伝を得て、古今の秘伝に精しいのだと承る。

丹州三家物語



772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/23(月) 17:07:00.15 ID:jZuMQSyS
そもそも貴族の事なのにその貴族が悉く忘れてしまったことを細川藤孝1人が知ってるなんてことあるのかね

稲富一夢が事

2020年03月22日 15:34

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/22(日) 09:49:41.35 ID:+xP3v1b/
稲富一夢が事

稲富一夢(祐直)、初めの名は伊賀である、丹波国の住人にて、一色五郎満信(義定)の家臣であったが、
義定が滅んだ後、細川忠興の侍と成った。
この度、大阪屋敷の留守として忠興が置かれた所に、主人の用に立たず、剰えその行方も知られなかったため、
忠興は深くこれを憎み、何としてもこの者を捜し出し火あぶりにせんと捜索された。

しかし、「稲富が大阪城中に罷り在って、主君の役に立たなかったのは是非無き次第であった。」とも聞こえ、
その故いかにとなれば、稲富伊賀は鉄砲の名人ゆえ、大阪衆の歴々に、弟子である人多かった。故に稲富が
滅びることを惜しみ、鉄砲稽古に事寄せて、予め城中に呼び入れた。この時は未だ敵味方の分色も無い時であったので、
鉄砲の稽古もすぐに済むことだと心得て、稲富が城中へ参ったのも仕方のない事では無いだろうか。

この稲富という者は、奇妙稀代なる鉄砲の上手であった。その妙を語っても、未だ見ぬ人で、「信じられない」と
思わぬ人は居なかった。
稲富が常に用いる鉄砲は、玉目一両より八匁までを限りとし、その町間も八町(約870メートル)以上を好まなかった。
八町以内であれば、火蓋を切って中らずという事無かった。
或いは暗夜に孤狼の声を聞き据えて、闇中に撃ち留める事も、ただ箱の中のものを拾うようなものであった。

稲富は二十五歳の時、橋立大明神に一七日断食して、目くら打という工夫をしたと聞こえる。
十能十藝、古より手練の者は多いが、離切りたる飛び道具を、稲富ほど精緻に扱う者は未だ聞いたことがない。

関ヶ原の戦いが鎮まった後、畏くも権現様(徳川家康)が御直に越中守(忠興)に御詫言あそばされ、頭剃らせて
一夢と号し、世上の師となされた。

丹州三家物語

稲富祐直についてのお話



一色義定室・伊也姫の事

2020年03月21日 16:47

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/21(土) 02:23:17.00 ID:7Ug6HP5N
>>928の続き

細川忠興は予てより米田監物(求政)と密談して、
「一色五郎(義定)を打ち留めた時は、汝は早く義定の居城である弓木城に馳向かい、
(忠興の妹である)五郎の室受取るのだ。もし城内の侍たちで、少しでも擬議する輩があれば、
一々に頸を刎ね城を破却して帰るべし。出馬の合図は狼煙である。」
と伝え、騎馬十四、五騎に足軽を付けて置かれた。

宮津から西に向かって、のろしが嶽よいう高山があった。この山に予め煙の役人を付け置かれ、一色を討つと等しく、
城内に煙を上げると、山上にも狼煙を立てた。かの十余騎の兵ども、その方々の一味の者、この煙を見ると
監物に従って弓木に押し寄せ、城内に言い入った

「御内室の迎えとして、米田監物ここまで来たり候也。この上は仔細無く渡し給え!」

そう申し使わしたが、城内からは返答にも及ばず、夥しい鉄砲を打ち出した。
城内には天下無双の鉄砲の上手、稲富伊賀(祐直)という者が在り、極めて正確に射撃すると、寄せ手は
たちまち死人多く出た。
監物は先ず野田の橋詰まで引き取り、重ねて使者を以て城中に申し使わした

『内室のみを渡し給わば、面々には仔細無い。只今卒爾の働きをし給う故、味方に手負いが少々出来たが、
それは武士の作法であればどうして苦く思うだろうか。これは私が、藤孝の前で宜しく取りなし申す。』

そう懇ろに申し遣わしたが、城内の評議は喧々にして、とやかくという間に、傍の者共が内室を人質に取って
後ろの山より忍び出て、但馬を指して落ちていった。
監物はこれを聞くと即座に諸鐙にて追いかけ、但馬国藤の森にて追いつき、恙無く内室を取り返して、
米田は宮津へ帰った。

(中略)

一色(義定)殿の御内室は、宮津へ帰られた後に五郎殿の打たれ給わった終始をお聞きに成り、最後の時を思い
深く嘆かれ、このように仰られた

「過ぎし八日の卯の刻(午前六時ころ)、殿は私に向かって宣われた。

『今日は細川殿と対面する。我等が家と細川殿、互いの先祖は親しくしていて、代々公方様に仕えつつ、
ここかしこの戦いに、互いに頼み頼まれて力を合わせていたと見え、そういった古き文なども残っている。
その子孫の末と成っても、昔を思えば懐かしいものだ。
それが、このように親子の縁と成ったのも、宿縁の浅からぬ不思議さよ。』

このように宣われ、誠にいつもより睦まじく、馬鞍綺麗に装わせ。弓木を出給うたのだ。

去年の夏の五月の頃に私が一色殿の元に参ってから、このように賑々しい供人で、どこの地にも出かけられた
事はなかった。私も一入嬉しくて、城の窓より見送ると、須津の浜道を過ぎられ山路にかかられた所で、
また朝霧が吹き払われてとても幽玄に見えた。しかしそこから、生い茂る松陰に見失い参らせ、
供人も見えなくなると、心の内に味気なく、そぞろに涙がこぼれるのを、忍んで人に見せなかったが、
殿が城を出られたことに涙を流したのは忌まわしいことだと思い、盃を出させ女房たちをも慰めたのだ。

それなのに、思いの外のことが有って失せさせ給う哀しさよ。このような企てが有るなどとは、私は夢にも
知らなかったが、御最期のその時に、さぞ私を恨まれたであろう。」

そう、明け暮れに嘆かれた。

丹州三家物語



930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/21(土) 07:19:29.62 ID:9tXeVMOo
>>929
まさに悪い話…

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/21(土) 18:57:41.06 ID:cNtRGQG+
光秀「手段は選ばぬ。勝つためならば。」

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/23(月) 06:17:42.39 ID:An2HW4k+
米田監物って、針薬方に出てくるあいつか。光秀とは深い付き合いだったのかな、田中城籠城以来

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/23(月) 17:41:19.37 ID:CHPz+jBH
一色が光秀に味方し長岡が秀吉に味方した
長岡の内室は光秀の娘
生き残る選択肢は少なかったと思う

一色義定謀殺

2020年03月20日 15:42

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/20(金) 03:55:08.86 ID:xMBLyZ5b
天正九年の三月に、細川藤孝・忠興父子は丹後に入国され、明智光秀が予てより取り持たれた契約の事であったので、
その年の五月に細川藤孝の息女を一色(義定)殿に嫁がされた。

同十年九月八日、五郎(一色義定)殿が宮津の城に聟入りあって、細川父子に対面した。
この時、未だ宮津の城は完成していなかったため、はかばかしい座席も無く、そのため大手の内にあった、家臣・
有由士郎右衛門の宅に於いて五郎殿を饗応し、既に酒宴に及んだ。

細川藤孝が抔を一色殿に差し、五郎が抔を取り上げて、頂こうとしたその時、忠興が一色を討った。
しかし少しかわしたか、弓手の肩を討たれた。
五郎も流石壮士にて、勇猛をふるったものの、大勢が出合い、取り籠めて遂に討たれ給うた。
いたわしき有様であった。

五郎の扈従に蘆屋千八、金川与藤という者たちが有り、彼ら二人は常に一色の身近くに仕えていたため、
この時も召し具され次の間に在ったのだが、彼らについても予め討手を用意し、一色殿と同時にこの二人も
討たせた。蘆屋、金川は勇士であり、即座に抜き合い、討ち手も手負ったが、多勢に無勢であり、叶わずして
二人共討たれた。
その他の一色衆は、予め大手の門外に町家を建て、そこに置かれていたのだが、城内が何やら騒がしく、
一色討たれ給うと聞こえると、「すわ!我先に!」と抜き連れて追手の門へ入り込もうとしたが、細川衆
切って出て、大手の橋を轟かせ追い返して戦った。手負い、死人多く出て、一色方は十三人が枕を並べて討たれた。
生き残った一色衆は皆、弓木に引き取って堅固に城を固めた。

丹州三家物語

細川父子による一色義定謀殺についてのお話

続き
一色義定室・伊也姫の事


細川父子の入部と丹後

2020年03月19日 17:07

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/19(木) 02:20:30.21 ID:5aU48FEL
細川藤孝・忠興父子が丹後に入国してくることが聞こえると、国中の侍たちは、隣城縁家もよりよりに通談した。

現在、つらつらと世の盛衰を考えてみると、元亀天正の頃は天下未だに半治半乱とは申せども、織田信長が天下を
知ろしめす事、掌を指す如き状況であり、その信長のほど近くに在る細川がこの国に来ること、皆信長の指示であると
考えるべきであろう。

であれば、恣に細川に楯突いて後難を招くよりも、早く和睦を以て細川に対面すべきか、
又は国中の各々が合わさって軍を催し、難所を前に細川勢に当たり防戦すべきか、
或いは所々の険城に国衆たちの大将が立て籠もり、細川の人数を所々へ引き分けて討つべきかと、
評議まちまちであった。

また、そうは言っても、親しき者は遠路を隔てており、近所の者は年来仇を結び、或いは煩わしい関係の者共であり、
この事遂に熟談せず、それぞれの心々になった。

ここに、与謝郡大島の城主・千賀兵太夫、日置むこ山の城主・日置弾正という者、両人語らい細川入部の迎えとして
普申峠の麓まで、互いに連騎いたしたが、日置弾正は隠れなき美男にて、衣装・馬鞍に至るまで、華麗な出で立ちで
あった。
一方の千賀兵太夫は元より貧にして、にくさけ男の違風者であり、衣服、馬具まで見苦しかった。
そこで日置弾正は千賀に対して戯言を言った

「初めて細川殿と会うべき身であるのに、そのような見苦しい装束があるだろうか。戻って肩衣に着替えてくるべきだ。」

これに千賀は大いに腹を立て、口論募り、喧嘩に至って両人即座に打ち果てた。家来も互いに斬り合って、
忽ちに死人七、八人に及んだ。

丹州三家物語



927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/19(木) 20:45:52.59 ID:Zi+2cZjs
どうなるのかと読み進めたら、斜め上過ぎる結果になって驚愕です

これぞ一色滅亡の基であった

2020年03月18日 18:05

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/18(水) 00:51:26.24 ID:F8JL/9mO
丹波福知山の住人、細川兵部太夫藤孝の子息、與一郎忠興の丹後入国の由来を詳しく尋ねるに、
天正の頃、織田上総介平信長は弓箭盛んにましまして、東は美濃尾張、西は播州を限りに、五畿内南海、
悉く信長に属し奉った。しかし丹後国は未だ御手に入らざりしを、明智日向守光秀が謀して、
河北石見という者を大将に仕り、雑兵二、三〇〇ばかりにて丹後国を大物見にて差し越しける。

河北石見、先ず与謝郡石川谷に討ち入り、堡塁二、三ヶ所落とし、その勢いに国中を遵見しようとしたが、
国侍たちは強く、在々所々にて河北の人数は打ち留められ、河北石見はほうほうの体にて丹波を差して逃げ帰った。

猶も明智は当国に謀をめぐらし、終に一色五郎(義定)を欺き、細川の聟に仕ることを取り持った。
細川與一郎忠興は光秀の聟である故にだろうか、丹後半国を細川父子に参らせ、一色・細川両旗にて
堅固に治め給えば終始然るべしと、光秀が強いて取り持ったのである。

一色殿は代々丹後の国主として、一色五郎は近年は宮津八幡山に居城していたが、天正三年、父左京大夫(義道)
卒去の後、国中の諸士五郎殿を背き、それぞれ不敬を以て会うような時節であったため、本意ではなかったが、
流れに棹さす心地して、光秀の計らいに任せた。

中郡、竹野郡、熊野郡は一色殿、与謝郡、加佐郡は細川と定め、その上一色殿は奥郡手使いのためとて弓木の城に
移し、八幡山は細川に渡されすべしと定まって、細川父子入国のことを了承された。
これぞ一色滅亡の基であった。

かくて細川父子の人々、天正九年の三月に宮津に入り、八幡山に入城されたが、こうして河守あたりより奥宮津までの
地侍、百姓たちは細川に従った。城持ちでは、公庄但馬下村の城主。上原徳壽軒、奥宮津の小倉播磨、惣村の城主
北庄鬚九郎、これらの者達が先ず細川殿に従った。

翌年子の年よりまた、宮津の平地、海寄りの場所に城郭を築いたが、丹波国より明智の人足が多く来て、
城普請を致した。

丹州三家物語

丹後国と一色義定明智光秀、細川父子について