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密かに申し上げたき儀あり

2023年03月21日 19:18

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/21(火) 12:21:09.53 ID:skfkcONT
譚海に、さらにツッコミどころ満載の秀頼生存説がもう一つあったので

享保年間中、薩摩の家老の猿渡なにがしが江戸に出て、老中松平左近将監(松平乗邑)殿のところへ、密かに申し上げたき儀ありと対面を願った。猿渡、封印してある墨塗の箱を差し出して、「薩摩守より申し上げまする。去年薩摩にてかの人死去されました故、このようなものを所持していては、恐れながら将軍家のお恥ともなり兼ねぬと存じまして、密かにお返し申そうと持参いたしました」と申し上げた。
左近将監殿、すぐさまその箱を持って登城して言上すると、有徳院公方様開封してご覧になられた。なかには東照院より豊臣家へ遣わされた起請文が入っていて、秀頼が十五歳に達したら政務を返上する旨が書いてあった。これについては何の仰せもなく、ただ、かの人は何歳で死去されたのか、子孫はいるのかなど詳しく聞いてくるようにと上意あり、左近将監殿帰宅して猿渡を召して委細を尋ねられた。
猿渡申し上げていわく、「かの人去年百三十七歳で死去され、百二十一歳の時に男子が生まれ、この子は今も生きております。以前も男子一人出生しましたが、すでに亡くなっており、ほかに女子三人ありますが、いずれも家老どもへ縁組いたしました」
このことが上聞に達すると、来春薩摩守参勤のせつにその男子を同道せよと上意あった。翌年薩摩守が同道して参勤すると、何事もなくお目見えを許され、その男子に知行五百石下賜され、赤坂山王の神主に仰せつけられ、樹下民部という名前も下された。子孫は今も続いていて、樹下はすなわち木下の意であるとのことだ。

樹下民部で検索すると、山王の日枝神社の神主が樹下姓で、元禄十年に幕命により神主職を継いだという話が出てくるので、樹下=木下を思いついた誰かが作った話ですかね。



733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/21(火) 14:21:20.83 ID:07kYylV9
日吉権現に願ったら猿似の男子が生まれたため日吉丸と名付けた
とか「絵本太閤記」とかに書かれてるから
山王権現の神主が樹下姓なら自然と思いつきそう

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/21(火) 15:46:17.00 ID:s91iSmcn
秀頼生存説も良い話というより、百姓より天下人になった秀吉の子供である秀頼は天下人から百姓になった、という天道説的没落物語っぽくてなんか…

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/21(火) 15:55:29.97 ID:ZbYnv9vr
一方生まれながらの将軍は女に目覚めてからは百姓女とパコパコするのが好きな変態だったという
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ちょっと都市伝説風味の話

2023年03月20日 19:53

726 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/19(日) 18:45:51.31 ID:3oOcadZo
いい話かは微妙だが、秀頼つながりで。秀頼が薩摩に逃げ延びたという話が譚海にあったので。ちょっと都市伝説風味の話。

阿波の南の海から薩摩へはほど近く、船でたやすく一日で往復できる。それゆえ昔は阿波の漁師が釣りをしながら薩摩まで行き、そこで休息して阿波に帰るといったことが時々あり、自然と知り合いもできて、船を寄せて煙草の火をもらったりもするようになった。その船をよせる場所は薩摩の南海の浜辺で、岸の上には厳重な番所のようなものがあった。とはいえ、海のすぐそばで番人も一人か二人、人のいない寥々たるところで、何を守っているかも定かではない。そんなところだから、阿波の漁師たちも気楽に世間話をしにたびたび集まって番人たちと仲良くなった。

 ある漁師が船を寄せた時のこと。番人は一人もおらず、しばらく待っても誰も来ないので、火をもらいに岸に上がり、番所の中へ入った。すると、いつも閉めている番所の後ろの扉が今日は開いている。何だろうと思って何の気なしに入ってみると、綺麗に掃除が行き届いていて人っ子一人いない。びくびくしながら奥に進むと、大きな石の五輪塔が二、三基ある。不思議に思いながらさらに進むと、最奥に美々しく作った五輪塔が一基あって、神廟か何かのようにしてあった。ほかには何もないので船に戻って待っていると、いつもの番人が薪を背負って山から帰ってきたので、船から上がって雑談をした。
ふと、「この奥にあるお墓のようなものは何ですか」と尋ねると、番人大いに驚いて「あなた方、あれを見られたのか。あれは非常な秘事なので、決して口外しないでください。今日はあそこの掃除をした後、山へ木を刈りに行ったので、つい鍵をかけ忘れてしまった。とにかく、決して口外なさいますな」と何度も念を押した。漁師たちもさては豊臣秀頼のお墓をはじめ、真田左衛門尉、そのほかの人々の墓なのであろうと心づいた。こののちは、番人たちも心掛けて漁師と親しくせず、決して他国の船が岸に寄せるのを許さぬようになったということだ。



浜松の凧揚げを始めたという佐橋甚五郎について

2023年03月20日 19:51

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/20(月) 18:03:21.91 ID:a61r3H24
「どうする家康」の紀行で「浜松まつり」が取り上げられていたので、
浜松の凧揚げを始めたという佐橋甚五郎について

佐橋甚五郎と凧揚げの関連について1974年の「濱松市史」に引用されている
酒井真邑「浜松城記」(お田鶴の方が引間城で戦ったと記す「浜松御在城記」とは別)という徳川御秘書の一つ(実在するか不明)、から抜粋すると

一、永禄年中 飯尾豊前守殿御居城
この子孫曳馬野に住する也、義広(豊前守長子)殿御誕生の時佐橋甚五郎(入野の者)凧の大なるものに御名を記し揚奉る
(中略)
一、慶長六年より松平左馬守殿 九年御居城
慶長九年、前出佐橋甚五郎、朝鮮に帰化して朝鮮人使節となりて浜松の凧を笑ふ、左馬守殿江戸に申送る、
永野、小松の旗本来り大に争ふ

とされていて佐橋甚五郎は浜松の入野の人間となっている。
ただ佐橋甚五郎の父は系図では

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13835.html
三河一向一揆で水野忠重に討たれた(「三河物語」によれば)佐橋甚五郎吉実とされる

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/20(月) 18:06:32.38 ID:a61r3H24
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13751.html
「改正三河国後風土記」では、このように松平信康に仕えていたものの同役を討ち果たしたために逐電
そののち武田軍の甘利信恒の首を手土産に帰参。
甲斐の黒駒合戦(1582年)で活躍するも家康に憎まれていたため再び出奔
慶長年間に朝鮮の使節として来日している
(この話を元に小説「佐橋甚五郎」を書いた森鴎外は「続武家閑話」を元にした、と記していて、
山崎一穎「『佐橋甚五郎』攷」でも「続武家閑談」巻十三に「改正三河国後風土記」の元になった話があるとしていたが
国立公文書館の「続武家閑談」では見つからなかった)

黒駒合戦での活躍については
「続武家閑談」巻十二(編者の木村高敦によれば、この巻は「水野勝成覚書」そのもの)の「甲府新府中合戦のこと」によれば

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3686.html
この話の前半部はほぼ同じで
「この佐橋甚五郎と申すものは三郎様(松平信康)に召し使われていた者でございました。
三郎様が御他界なされたあと、何かしら悪いことをしでかして出奔していたのですが、どうしたことかそのときには拙者の前にいました。
木の橋の側でよく弓を射ていたので、「これは射手であろう」と思っておりました。
重藤の弓でございましたが鉄砲で打ち折られたため捨てました。
甚五郎が「もはや弓も折れ、是非に及ばず」と申したので
拙者が「弓が打ち折れても槍があるだろう」と申すと
甚五郎は「手前には槍もなくこの刀だけです。是非なし」
とかたのごとく刀を振うと、見事な働きで、競り合いに打ち勝ちました。
茂野善十郎、落合左平次、この三人が大いに働きました。
(中略)落合左平次、茂野善十郎らはその後紀伊大納言様へ権現様御意にてつけられたそうです」

なお「三河後風土記」だとこの勇猛ぶりが家康の耳に達するが、家康は佐橋甚五郎を不義の者と憎んでいたため、阿部正勝に誅殺させており、出奔して朝鮮に、とかは出てこない。

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/20(月) 18:19:40.83 ID:a61r3H24
「浜松城記」の記述が正しいことにして佐橋甚五郎についてまとめると、
・永禄六年(1563年)ごろ、三河一向一揆で水野忠重に父を殺されたため、浜松の入野に住む
・飯尾連龍が氏真に殺された永禄八年(1565年)までに、引間城の飯尾連龍とお田鶴の方の間に長男が生まれたことを祝して大凧を揚げる
・引間城落城後、松平信康に仕えるが天正四年(1576年)までに同輩を殺して出奔
・天正四年(1576年)、武田の甘利信恒に取り行って寵愛を受けるが、甘利の寝首を掻いて徳川帰参
・天正十年(1582年)の黒駒合戦では、父の仇である水野忠重の嫡男の水野勝成と共闘
・しかし家康に疎まれ、阿部正勝に誅殺される
・もしくは再び出奔し朝鮮に渡り、慶長九年(1604年)に朝鮮使節として来日し、浜松で自分の大凧揚げが由来となった凧揚げを見て笑う
ところが家康に甚五郎だと見破られ、一族との文通も禁じられた
(はずだが佐橋家にはなぜか上等の人参がたくさんあったという)

なかなか波瀾万丈



津村正恭の譚海より、戦国時代の連歌

2023年03月20日 19:49

723 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/19(日) 18:40:00.58 ID:3oOcadZo
津村正恭譚海に戦国時代に連歌が流行っていた話が二つ載ってたので

その1 松永弾正

松永弾正がある人のところで連歌をしていた。「薄にまじる蘆のひとむら」という句に上手くつけられずに悩んでいると、松永の宿舎から使いが来てこっそり何事かささやくが、弾正は相変わらず上手い句をつけようと悩んでいる。そんなことが二度三度あって、やっと「古池の浅きかたより野となりて」とつけると、すぐに「火急の用ができましたので失礼します」と帰ろうとする。隣の人が「何事ですか」と聞くと、松永答えて、「先ほどより宿所のほうに野武士が蜂起して押し寄せて来たとのことで、急ぎ参って追い散らしてきます」

724 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/19(日) 18:42:16.04 ID:3oOcadZo
その2 政宗と小十郎と紹巴

里村紹巴が松島見物に仙台に旅した時のこと。政宗卿が城内で片倉小十郎と四方山話をしている時に、「この頃紹巴が京都より下ってきて連歌を盛んにしているそうだ。一つ、紹巴を読んで俺もやってみよう」と仰って紹巴を呼んだ。すぐに紹巴はやってきて連歌が始まった。ホトトギスが鳴いていたので、政宗卿が「鳴け聞こう身が領分のホトトギス」と発句されると、小十郎横で胡坐をかいたまま、脇を付けましょうと言うと「鳴かずば黙って行けホトトギス」とつけた。紹巴おかしく思ったのか、「どうなりと御意に従えホトトギス」と第三句をつけた。

そこまで悪い話じゃないですが。

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/19(日) 19:36:12.35 ID:Ur/zFVEA
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13262.html
「古池の浅き方より野となりて」

こっちだと安宅冬康の短歌

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6643.html
「鳴け聞こうわが領分のほととぎす」

こっちだと藤堂高虎となっているが、普通は加藤清正として知られる



「続武家閑談」から那須家について、その3

2023年03月19日 16:25

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/18(土) 21:12:48.31 ID:hUZBJPjA
続武家閑談」から那須家について、その3
全体的にはいい話だけど、1,2がこちらのスレだったので

那須家は勝利したとはいえ、上那須衆が日夜、烏山の北城にまで攻めてきた。
このように親類や友人が名を惜しんで戦うことを、大田原の金剛寿院住職の尊瑜は大いに悲しみ、那須氏と大関氏に戦をやめるよう説いた。
こうして永禄十一年(1568年)九月上旬、資胤の長子の那須修理大夫資時(当時十二歳の那須資晴?)十三才が従士十七人で大関高増の居城に入り、主従和睦がなった。
この戦いの間、大関高増は譜代の衆と干戈を交えたことを恥じ、剃髪して味庵(未庵)と名乗っていた。

資晴はたびたび佐竹・宇都宮と戦い、勝ちに勝った。
特に、天正十三年(1585年)三月二十五日、宇都宮国綱と壬生下総守(壬生義雄)があわせて二千五百騎で那須の薄場の原(薄葉ヶ原)に出陣した。
(天正三年説もあるがその場合は父の宇都宮広綱となる。
天正十三年説の場合、壬生義雄は宇都宮配下ではないはずだが)
資晴は先立って烏山城を出、沢村に駐屯して敵陣を望見した。
すると彦星が朝日に輝き、宇都宮方の鎧の袖をひるがえすこと、雲の如く、露の如くであった。
一方で味方勢は合わせて三百余であった。
敵は鯨波(とき)の声を揚げること三度であったが、味方は静まり返っていた。
この時、味方の馬廻り衆が駆け出した。
大関高増は「軍においては法があり、抜け駆けをするならば思いがけず敵に討たれるであろう」と制した。
すると予想通り、宇都宮勢が先に川を渡った。
味方の野伏ども百ばかりが川端にひしと立ち並んでおり、宇都宮勢を射た。
味方の大将の塩谷安房守(塩谷孝信)の手勢五十余騎は川中に駆け込み、敵の見廻り平塚十郎を射落とした。
こうして指揮が混乱した敵軍は進むことができなくなった。
味方の蘆野意教斎、蘆野日向は「先駆けを討たすな」と川中にさっと乗り入れた。
これを見た敵方は川から上がり、引き返した。
味方は勝ちに乗じて、射手を前に進め、騎兵は鉾先を揃え、一同に川を渡り魚鱗となって叫びながら切り立てた。
敵はたちまちに敗北し、坂東道十五里を振り向きもせずに逃げた。

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/18(土) 21:14:59.82 ID:hUZBJPjA
宇都宮領との境まで来たところで壬生下総守の手勢二百余は東方に一町ほど退いたが、陣形はまんまるになっていた。
この様子を大関高増はじっと見て
「壬生衆の逃げる方向が誤っているにも関わらず、陣形が整っている。若武者ども、気をつけよ」
しばらく追いかけると案の定、壬生衆は鬨を挙げて反転して攻めてきた。
その間に宇都宮勢は熊下山を通り自領へ落ち延びた。
また大関高増の弟である福原安芸守(福原資孝)は、敵方の岡本右京亮(岡本氏宗?)が死を覚悟している姿を見て
「人手にかけるな」と駆け寄って討ち取った。
安芸守の鉾に当たった者はすべて命を落とした。
また牧野顕高(資晴の弟)の嫡子八郎は十八歳で熊下の麓に逃げる敵に槍を合わせ、組み打ちの功を挙げた。
もちろん牧野顕高自身もあまたの戦功があり、松野に大勢の敵が控えていたために味方は誰一人続こうとしなかったが、単騎で駆け入った。
敵を四方に追い散らし、太刀が折れたため引き返し、味方の軍勢に馳せ帰った。
「大空に塞がるほどの餅もがな 生ける一期にかぶり喰はん 蘆野の被官、藤田九右衛門」
と矢鞍の前輪に書きつけた侍は首を五つ持ち帰った。
そのほかの那須勢も、首を一つ二つ取らぬ者はいなかった。
資晴は「熊下山を越し宇都宮領に攻め込もう」と言ったが
大関高増は「宇都宮氏が今後も当家を付け狙うようなことは避けるべきです。
またこの度の戦いは味方が悪所で待ち、攻めてきた敵と戦ったために勝利を得たのです。
もし佐竹や宇都宮がこれに気づき、今度は平地で戦うようなら多勢に無勢となりましょう。まずは凱旋なさるべきです」
と諌めたため、資晴は我意を通さず帰城した。
翌日、蘆野意教斎は資晴に謁見し、昨日の功を賞された。
意教斎は「日頃の念仏を忘れ、六人斬り殺しました」と答えたそうだ。

そののち資晴は千本常陸介(千本資俊)が祖父の高資(高資は資晴の伯父)を殺したことを聞き、その仇を報ずるため
同年の十二月八日、大関高増、大田原綱清、大田原資則(福原資孝)の兄弟ら十四人と密談し、
千本常陸介とその子十郎(千本資政)を滝寺へ呼び出し、誅殺するよう命じた。
こうして千本家の跡目は茂木氏の次男が継ぎ、大和守とされた。
このほか、資晴が宇都宮氏と塩谷・喜連川・小幡にて小競り合いをしたことは数えきれないくらいである。

天正十八年(1590年)以降は豊臣の殿下に出仕したため、競り合いもなくなった。



722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/19(日) 08:52:03.01 ID:E5SxN48I
以前投稿された一連の那須家関連の話と比較すると
・上那須家滅亡:以前の話では那須資親の遺言となっていたため、大田原が偽造したのでは?と取れなくもなかった
・小田倉の戦い:以前の話では大関高増の助言によって那須資胤が切腹寸前まで追い込まれていた
・大崖山の戦い:以前の話では殿軍争いとはしていなかったため大関勢が適当な理由をつけてさっさと逃げたように見える
・千本親子誅殺:以前の話では大関高増の恨みから、としていた
続武家閑談は大田原や大関高増の汚さを抑えている印象

「続武家閑談」から那須家について、その2

2023年03月18日 18:25

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/18(土) 11:08:49.65 ID:AlcKgmcq
続武家閑談」から那須家について、その2


会津盛氏(蘆名盛氏)・白川義近(小峰義親?)が三千の兵で、白河・那須の境の小田倉に遠征してきた。
那須資胤と資胤の弟である弾正左衛門(那須資郡、この頃は福原氏)は烏山城を立って、両荘(上那須・下那須)の勢五百余騎を引率し、
永禄二年(1559年)三月二十六日、敵陣に寄せて鬨の声をあげ、巳から未の刻まで戦ったが、劣勢となった。
特に上那須衆は敗北した。
資胤と資経(資郡)は敷皮に座し、
資胤「わしはここで切腹する。お前は那須に帰り家を継げ」
資郡「私がここで代官として自裁するので、御帰城なさってください」
と互いに言い合っているうちに、味方の柏原勢、三百余騎が隊列を乱しながら駆けつけてきた。
三輪村の野伏五十余人も率いていたが、その中に「岡源三郎、十七歳!」と名乗り、味方の中から駆け出した者がいた。
源三郎は敵の首魁の、会津四天王随一と言われた佐野源十郎の馬の首を射て、屏風を返すが如く倒した。
そこへ内藤右衛門が走りかかり、佐野の首を獲った。
これを見た資胤はみずから太鼓を鳴らし、下知した。
こうして騎兵百余騎が一同に敵に突入していったので、会津・白河勢は大勢討たれ、見向きもせず白河の関前の道を十五里も逃げ帰った。
那須勢は勝ちに乗じて白河まで侵入し、放火した。
翌日早朝に資胤は岡源三郎を召し出し、五郎左衛門という名を与えた。
この度の戦いで勝利したといっても上那須衆は敗北し、那須資郡のみが高名をあらわしたため、上那須衆を率いていた大関高増(大田原資清の息子)は嫉妬した。
これを推察した資胤は、大関の家臣の松本某に高増を殺すよう命じた。
松本は了承した風を装い、黒羽城の高増にそのまま語ったため、大関高増は大いに憤った。
そこで高増は佐竹義昭に属し、資胤・資郡兄弟を滅ぼし、佐竹の男子を那須の当主にしようと考えた。

永禄六年(1563年)三月二十三日、大関高増は兵を発して数度合戦におよんだ。
一方で主君に弓を引くわけには行かないと、上那須衆から烏山城勢に加わった者どもも千人余いた。

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/18(土) 11:15:25.66 ID:ECgsNwLa
永禄九年(1566年)八月二十四日、佐竹軍将の東将監(佐竹義堅)勢・宇都宮勢・上那須勢が烏山城の西方の神長村の治部内山に遠征してきた。
烏山城から二百余騎が駆け出し、宇都宮・上那須勢を追い散らし、東将監を籠の中の鳥のように取り囲んだ。
千本常陸介(千本資俊)が使者となり、将監に降伏を勧めると、将監は降伏した。
こうして治部内山は「降参が峰」と呼ばれるようになった。
この度、敵の目には烏山城内に千人ばかり籠っているように見えたという。神力かと言い合ったそうだ。

翌、永禄十年(1567年)二月十七日、佐竹義昭父子は東将監が降参したと聞きたいへん怒り、上那須衆と合わせ二千余騎で烏山城より三十四町東の下境大河井山(下境大崖山)の麓まで押し寄せ、駐屯した。
ここは(佐竹勢から見て)後ろは大山、前は大河(那珂川)であった。
河を渡り船を捨てる故事は多いとはいえ、烏山勢が先に河を渡ったのは不覚であった。
とはいえ烏山勢二百騎は、一所懸命の地を捨てた者、那須家の重恩に報いようとする者、義を感じる者、と
野伏の中間に至るまで、名を後世に残そうと思うこと切なるものばかりなので、一歩でも退却する心持ちはなかった。
烏山勢は時を移さずうって出た。
佐竹勢は優勢であったが、ついに切り立てられ、大山に追い込まれ、若干討ち取られた。
佐竹側の上那須衆と長倉勢は互いに殿軍を争った。
そこで上那須衆の金丸肥前守は「こちらは烏山からは遠く地理に不案内である。
長倉勢は他国(常陸)の者であるが近辺なので地理も詳しいだろう」
ということで長倉勢に殿軍を任せ、上那須衆は先に退却した。
那須資胤は「上那須の者は一人も討つな、逃げるに任せよ。佐竹勢を討ち取れ!」
と陣中を駆け回り下知を下した。
この時、長倉勢はことごとく命を落としたという。
大将の佐竹義昭も草摺の端を射られたという。
この合戦で大崖の谷水が四、五日の間、朱に染まったそうだ。

またある時、那珂川が大洪水となったため、佐竹衆が国境に押し寄せ、放火しようとした。
しかし烏山方の五十余騎が河をさっと渡った。
中でも大久保民部、秋元豊後、森源左衛門の四騎が先陣し、民部が帰依している宗蔵坊という僧とともに河に飛び込んだ。
民部の馬がみなぎる波にさらわれ溺れるところを、(宗蔵坊が?)馬の両脚をとらえて突き上げ、民部が向こう岸に駆け上がったところ、
その勢いにおそれたのか、一矢も射ずに佐竹勢は退いたという。
こうしてその年は昨年と合わせて二年間、敵も味方も手負も死者も一人も出なかったという。



「続武家閑談」から那須家について、その1

2023年03月17日 20:03

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/16(木) 23:44:52.92 ID:EK9u8NFn
https://news.yahoo.co.jp/articles/c83be0a1397225d3619b430d93954fd5e7e0ee46
烏山城についての記事があったので
「続武家閑談」から那須家について、その1

下野の那須資親には娘だけで男子がいなかったため、結城の子孫である白川義永の次男を養子とし、娘を嫁がせ資永となづけた。
しかし資久という実子が生まれたため、寵愛のあまりこちらを後継にしようと、家臣の大田原胤清・大田原資清の親子に
「資永を討ち、資久を後継に立てよ」と命じた。
このため大田原親子は資永の福原城を攻めようとした。
しかし資永は闇夜に甲士七、八人を黒羽城に忍ばせ、東出櫓に放火して注意をひき、そのすきに軍兵を忍び込ませて資久を生捕にして福原城に帰った。
ところが資永は敗北したため、資久を刺し殺し、自害した。
こうして上那須家は滅び、下那須家の那須資房が永正十三年(1516年)六月七日に上下那須を統一した。

岩城守隆は千余騎で資房の息子、那須政資の山田城を囲み、攻めた。
資房は後詰として永正十七年八月十二日に烏山城を出馬し宇都宮の援兵二百騎とともに山崎にかかった。
岩城は山田城攻めをやめ、山崎にむかったが、縄釣原で資房の伏兵二百騎にら突き立てられ、川岸に追い込まれ討ち取られていった。
岩城の羽翼である志賀備中・白土淡路は奮戦したが討ち死にした。
志賀の首を獲ったのは佐竹浪人の石沢五郎十七歳であった。
この時(1520年)、鉄砲というものがあり、岩城陣中に響き、天地を動かしたという。

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/16(木) 23:47:09.31 ID:EK9u8NFn
そののち宇都宮俊綱(宇都宮尚綱)は二千ばかりで喜連川五月乙女坂に陣を敷き、旗下の那須を滅ぼそうとした。
政資の後継の那須高資は三百余で烏山城を出馬し、天文十五年(1546年)五月十日、俊綱と矢合わせののち乱軍となった。
俊綱は伊王野(那須七騎の一人)配下の鮎ヶ瀬助右衛門(弥五郎とも)に射殺され敗軍した。
笠間の家人は主人に暇を告げ
「俊綱がすでに討たれなさったが、このまま爪痕も残さず手ぶらで退却するのは後代までの恥辱です。
わたし一人戦死をとげ、永く笠間の家名を高めましょう」
とと那須の陣中に駆け入り、敵三騎と力戦し、一騎を斬り落とし、討ち死にして名を万世に残した。(本人の名前は書かれていない)
戦後、五月乙女坂に俊綱の石塔を建てた。
(五月女坂は現在、俊綱を討った鮎ヶ瀬弥五郎の名前から弥五郎坂と呼ばれている)
宇都宮国綱(国綱は尚綱の孫、尚綱の息子の宇都宮広綱(当時7歳)の誤り)は俊綱の仇を討とうと、千本常陸介(千本資俊、那須七騎の一人)を調略して那須高資を殺そうとした。
那須高資は老母の元へ行き、千本の方へ行くことを告げたが
高資の老母は「昨日、千本親子がここに来ましたが、異心が見て取れました。千本へは行かぬように」と高資を止めた。
しかし運の尽きか高資は「裏切られる覚えなど関八州にもございません。お気遣いなさらぬよう」
と天文二十年正月二十三日、千本の城へ行き、常陸介に殺された。
嗣子がなかったため弟の那須資胤が遺領を継いだ。
千本は譜代の主を弑逆したにも関わらず、文谷・市花輪を領したため、諸人はこれを爪弾きし憎んだ。



「続武家閑談」から本多正信について

2023年03月16日 19:47

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/15(水) 21:05:54.17 ID:ffNL6Pnx
続武家閑談」から本多正信について

本多佐渡守正信の人傑については世の人が知ることである、筆を尽くしても語り切れない。
権現様より四歳年上で、上京の際に松永久秀は
「家康の家臣たちは皆武勇を好むが、本多弥八郎正信のみは不剛不柔不飾でほとんど凡人ではない」と言ったという。
太閤秀吉も正信のことを聞き及んで権現様に告げて召しだした。
すぐに正信は江戸から伏見に出て、御目見えをとげ、ひそかに御旨を伺った。
夕方には増田長盛のところに行き、数刻にわたり密談して暇を告げて、翌朝江戸に帰った。
増田が何とかとりなしたのか、秀吉はあえて咎めなかった。
また権現様は諫言を好んでいた。
このあと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1222.html
徳川家康、家臣の諫言を「聞く」いい話


正信は大いに感心し、宿所で息子の上野介正純にこのことを申し聞かせた。
正純は「その人は誰なのですか?」と問うたので
正信は大いに怒り
「公が平生おっしゃられることには、
「天下を安泰にさせるうえで大事なことは、為政者の人となりが善であるためではない。
大本がなっていなかったとしても、よく諫めを入れて言語をふさがず、家臣を用いるために天下はよく治まる」
ということで諫言を好まれるのだ。
今の話の諫言をした者は智恵が不足しているため、申すところにも道理はないが、それでも大殿はその心を賞しなさった。
お前がその者の名を聞いて足りないところをあざわらおうという心であれば若殿の執事にはなるべきではない」
正信は常に権現様を「大殿」、台徳公(秀忠)を「若殿」と言っていたが、これは権現様の寵愛が深く「友のごとし」とされていたためである。質朴さが感じられる。
権現様は武蔵・相模で狩をなさっていた。
正信は江戸で台徳公の執政であったが、権現様の猟に昼夜伺候した。
権現様の仰せには「遊猟の趣向は第一に部を忘れないこと、次に民間のことを問うためである」ということであった。
ところどころに御留場(将軍家の猟場)があり、権現様の注意は厳しいものであったため、台徳公は謹んで整えさせたという。

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/15(水) 21:08:51.53 ID:ffNL6Pnx
このあと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5962.html
本多正信、家康の怒りを

の話だけど微妙に違うので一応書いておく。

ある朝、権現様が御覧になると、御留場に罠ととりもちがしかけられていた。
誰のものか調べたところ青山忠成と内藤清成によるものであった。
権現様は「将軍はこのことを存じているのか」とお怒りになられた。
台徳公は「もってのほかの御迷惑でありましょうが、私は知りません。
両人を誅して御憤りをなだめるべきではありますが、両人は我にお付けなさった傅役でありますし、殺すに忍びません。
しばらく出仕をやめさせましょう」
と阿茶局を介しておっしゃったが、権現様は御容赦されなかった。
そこで正信は「このままでは大殿の悪が諸子に越えてしまう。
若殿に国家を捨てさせ匹夫に落とすこともおできになるのに、まして内藤・青山などは」
まずは申し上げようということで権現様の御放鷹に伺候し
「君が若殿に命じて内藤・青山両人の切腹をなされようとしていることをうかがいました。
まことに不憫のいたりで、それがしなど数日仕えただけで、もし営中で少しでも失敗をいたせばたちまち罪科をこうむるでしょう。
江戸所住の出仕をやめて大殿のところで天命の死に進みましょう」と申すと、権現様のお心もとけて、阿茶局に
「将軍もこのように申しておるのだから、友人を殺さぬよう申し遣わす」と命じられた。
台徳公はこれを聞し召し、大いに悦び、両人をゆるして家に帰らせたという。
正信の才覚の妙であった。
しかも高い録を辞して、わずか二万石を領した。関ケ原の前後、大坂の陣での謀略についてはほとんど人口に膾炙している。
正信は権現様御他界から五十日すぎた元和二年(1616年)六月七日に七十九歳で死んだ。



718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/16(木) 00:11:03.96 ID:tg45pgpv
お父ちゃんは引き際をわきまえていたのに息子は

719 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/16(木) 12:47:37.77 ID:1Yy0JpW0
>>716
徳川譜代は四天王クラスで10〜20万石程度だからなあ。
2万石で十分としないと、やっかまれる。

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/16(木) 15:53:31.21 ID:hV6MjIDN
秀吉みたいに子飼いに高禄を与えてたら次の代でぬっ殺されるからなあ

721 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/16(木) 17:02:32.71 ID:1Yy0JpW0
信長は親藩と譜代が強力で、外様といえるのは家康くらいか。国持大名ばっかりで小藩がない印象。
秀吉は親藩が弱く、譜代(子飼い)がまずまず、外様が強力。
家康は親藩と外様が大藩で、譜代は弱い。
まあ、江戸幕府で外様が大藩になったのは関ヶ原の経緯から仕方ない面はある。でも、本多忠勝くらいには一国やったってよかったのにな。

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/16(木) 18:32:22.63 ID:fKzTrDzf
秀次みたいな産ませる機械を壊したのが失策

利根にて利発にて、しかも利口なる人

2023年03月15日 19:29

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/14(火) 21:11:06.83 ID:r3YEvImd
土屋右衛門尉(昌続)が、山県三郎兵衛(昌景)に聞いた

「いつぞや、穴山(信君)殿が、馬場美濃(信春)殿に問われた、遠州浜松の徳川家康についての噂について、
馬場美濃殿は、『藝能はやく請取る人を利根者、座配良き人を利発者、武辺の勝れて仕る人を利口者』と、
美濃殿は教えられたと聞き及んでます。さて、では(武田家中の)諸侍の中に、利根にて利発にて、しかも
利口なる人は有るでしょうか?」

山県曰く
「信玄公の御家には、侍大将としては内藤修理正(昌豊)、足軽大将としては横田十郎兵衛(康景)と、
この二人が居ります。この他侍大将の中で、若手では小山田弥三郎(信茂ヵ)なども居ります。
そういった人物の中でも、川中島合戦の時討死なされた故典厩(武田信繁)様などは、物事相整った、
まさしく副将軍と言うべき人物でした。」

山県三郎兵衛はそのように申された。

https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1630338432/702
このお話の続きですね

甲陽軍鑑



「浜松御在城記」から飯尾連龍とその妻

2023年03月15日 19:27

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/14(火) 20:10:04.97 ID:E2hhOYJD
17世紀後半に成立したとされる
「浜松御在城記」から飯尾連龍とその妻

遠州引間の城主、飯尾豊前守(飯尾連龍)は今川の先手として織田軍とたびたび戦っていたが、永禄三年(1560年)に今川義元が桶狭間で討ち死にした。
今川氏真は父の弔合戦を考えることなく、朝夕酒宴遊興に溺れたため、権現様は永禄四年に織田信長公と和議を結んだ。
遠州の飯尾豊前守、井伊谷の井伊肥後守(井伊直親)、嵩山城の奥村修理を始め大半が氏真に叛き、信長公や権現様に内通した。
これを知った氏真は永禄五年に井伊谷、引間、嵩山に軍勢を差し向けた。
井伊谷と嵩山は落ちたが、引間の城は堅固であり、寄せ手の大将の新野左馬助(新野親矩)が討ち死にした。
氏真は調略により飯尾豊前守を討つことにし、遠州二俣城主の松井左衛門(松井宗恒?)が豊前の姉婿であるため、松井をなかだちに駿府に豊前を呼び寄せ誅殺した。
引間城にいた豊前守の家来の江間安芸守、江間加賀守は城を保ち、権現様に援軍を依頼した。

永禄十一年、権現様は気賀の住人、名倉喜八郎の案内で引佐を通り、新庄に出て船に乗り、宇布見村にお着きになり、庄屋中村源左衛門の案内で小籔村の普済寺に移られた。
ここで引間城の家臣はもちろん、堀江城の大沢基胤、頭陀村の松下嘉兵衛之綱(秀吉の元主人)などが出仕した。
(原註:大沢基胤は永禄十二年に堀江城で敵対しているので堀川の誤りだろう。
また堀川の一揆の大将が原隼人という話があるが、武田軍による一揆の扇動の誤りだろう)
永禄十二年、武田信玄と大井川を境とし、駿河は武田、遠江は権現様がお切り取りなさると約した。

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/14(火) 20:12:38.81 ID:E2hhOYJD
菅沼貞盈らに菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時(井伊谷三人衆)を調略させ、井伊谷を味方とし、権現様は安間村に御陣を取られた。
そのころ引間城の江間安芸守は江間加賀守を殺した。
江間加賀守の家来の小野田彦右衛門は安芸守を殺し、権現様に御注進申し上げた。
権現様はさっそく引間城に乗り込み静謐にされた。
なお安芸守は武田の秋山信友(秋山虎繁)に内通していたという。
加賀守はかねてから権現様に忠節を誓っていたため、子孫は紀伊大納言様に仕えているという。

一説に、浜松は豊前守後室(お田鶴の方)が保っていたため、権現様は御使者を出し「城を明け渡せば家来は本領安堵する」と説得したが後室は応じなかったため、権現様は城を攻められた。
十二月二十四日から攻め、御味方は大軍だったため翌日には二の丸三の丸も攻め破った。
しかしこの時、御味方に手負・死人が三百人に及んだという。
城兵も二百余人が討ち死にし、豊前守後室も侍士を左右に引き連れ打って出、十八人がひとつ所で討ち死にしたと、板倉家の書にはある。
しかしこれは大河内兵庫助(1517年に引馬城で討ち死にした大河内貞綱)と間違ったのではないか。
もし御味方の手負・死人が三百人もいたら、少なくとも十人、二十人は討ち死にしているはずなのにその姓名が不明なのは不審である。
また豊前守の妻は今川の親類であり、松井左衛門が媒酌となり祝言を挙げていることを考えると、人質として駿府に置かれていたと思われる。
とするとこれは江間安芸守の妻のことではないか、詮索が必要である。



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2023年03月15日 16:00

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「武家閑談」から朝鮮での加藤清正の用心ぶり 14

「武家閑談」から朝鮮出兵の時の加藤清正と福島正則 13

「続武家閑談」から宮田光次 11
造作も御座無き御宗旨かな 11
「武家閑談」から庵原朝昌について 11
先週、二本松城を訪れたところ 11



今週の1位はこちら!「武家閑談」から朝鮮での加藤清正の用心ぶりです!
加藤清正の細心さ、慎重さを顕す逸話ですね。清正と言えば「豪傑」というイメージが強いのでしょうが、この逸話は
「それだけではないよ」と、名将その基礎の部分を見せてくれるお話と言えるのでしょう。
それにしても、ここで備えていたのが「米三升、干味噌、銭三百」というのはなかなか興味深いですね。食い物と金。
どれもかなりかさばりそうですが、このくらいあれば突然の合戦で、或いは一人で敗走することに成っても、ある程度
生き延びる事ができる、という計算上の産物なのでしょう。
加藤清正という武将が「知友兼ね備えていた」ということを表現され、また世間的にも、特に福島正則などと比して
そういうイメージがあった。そういう事が表されている逸話でも有ると思いました。

2位はこちら!「武家閑談」から朝鮮出兵の時の加藤清正と福島正則です!
こちらはダイレクトに、その福島正則と加藤清正を比した逸話ですね。花押について、ここでも清正の慎重さ、考え歩かさと
正則の無造作さが対比されています。
もちろんこれが史実、事実というわけではなく、多分に後世のイメージから形成された話という観が強いのではありますが、
後世においてこの二人が、このようにある種対極的なキャラクターとして認識されたことが、また興味深く感じます。
やはり三国志演義の関羽と張飛に似た対比をされたように思われるのですが、この二人が結果的に「秀吉恩顧」
の代表格と認識されたことも含めて、様々に考察してみたくなります。そんなことも感じたお話でした。

今週管理人が気になったお話はこちら!先週、二本松城を訪れたところです!
戊辰戦争、二本松城の戦いでの小城代とされた丹羽和右衛門の切腹のあり方ですが、これが「藩祖」丹羽長秀の、
病のはての切腹による自死の様子を模していたように見え、非常に興味深いですね。
一般に丹羽長秀は、腹に出来た腫瘍に苦しむ中、それを「退治」することで死んだとされますが、また一説では、
当時織田家中をほぼ乗っ取った羽柴秀吉の、その専横に対しての憤りのあまり自死したのだともされ、ある種の
義死であるとも言われたりします。この丹羽和右衛門の切腹は、新政府に対して、藩祖に習い自分たちの義を見せつける、
といった発想があったと考えるべきなのでしょう。
幕末期の二本松藩の人々の歴史観、歴史認識もどこか感じさせる、そんなお話だと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に良い頂きました。いつも本当にありがとうございます!
また気になった逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

「武徳編年集成」から飯尾豊前妻の奮戦

2023年03月14日 19:04

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/14(火) 17:58:46.49 ID:E2hhOYJD
「武徳編年集成」から飯尾豊前妻の奮戦
(「武徳編年集成」は「武家閑談」「後武家閑談」の作者、木村高敦による徳川家康の伝記)

永禄八年(1565年)十二月二十日
遠州引間城主、飯尾豊前守致実(飯尾連龍)の姪は今川氏真の寵愛を得ていたため、豊前守も厚遇されていた。
しかし神君に内応しているという風説があり、氏真は豊前守を駿河に召し寄せ、百騎ばかりで屋敷を囲み、攻めて皆殺しにした。
飯尾の武士二、三十騎が戦死し、寄せ手も多くが討ち死にしたという。
豊前守の妻(お田鶴の方)は無双の強力を奮った(これを駿府の小路軍と世に称す)。
豊前守の家来の江間安芸・江間加賀も引間の城を守り、神君に通じた。
しかし多勢に無勢だったため、今川に降ったという。



「続武家閑談」から宮田光次

2023年03月13日 19:20

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 16:05:49.62 ID:nGsppXvO
「続武家閑談」から宮田光次
神子田半右衛門(神子田正治)、宮田喜八郎(宮田光次)、戸田三郎四郎(戸田勝隆)、尾藤甚右衛門(尾藤知宣)は秀吉草創の時に軍功が大きかったため、都鄙に名が知られていた。
(このあと神子田正治の話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13315.html )
こうして秀吉公自ら神子田の晒し首の前の札に
「神子田半右衛門は敵前逃亡をした臆病者なので悪口を書く」と書きつけられた。

宮田についてだが、中国退治の間に戦功が甚だ多かった。
ある時、論功行賞の場でそれぞれの将に入れ札をさせたところ、宮田喜八郎に「逃げ札」が多く入った。
秀吉公は「信長公の御時、林新三郎に逃げ札が七枚入ったため、信長公は御自分でその札を新三郎にくだされ、
信長「臆病者でもその方ほどとはな。
その方でこのようであれば、入れ札など役に立たぬな」
と笑いなされたという。
その方に札が入ったのも同じことだろう。」
と喜八郎に札を下されたそうだ。
秀吉公いまだ天下を統一する前に、宮田は三木城攻めで戦死したという。
戸田三郎四郎、のちに武蔵は関ヶ原で討ち死にした。(実際は朝鮮出兵から帰る時に病死)



706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 16:50:58.98 ID:u4UaIy7F
イイハナシナノカナー

707 名前:705[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 18:31:48.51 ID:6PqIzfiZ
おそらく同じ文章を訳したのだろうけど、ウィキペディアの解釈と自分の解釈がかなり異なっていたので、原文を併記しておく。

ウィキペディア
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/宮田光次
中国退治遠征のとき、宮田喜八郎は戦功が著しかったが、
ある日、将士の戦功を詮議した際に秀吉が喜八郎に多くの入札をして評したところ、喜八郎はその場を逃げ出したが、(皆からの)札が多く入った。
秀吉がいうには、
信長公の家臣にも林新三郎というものが同じようにその場を逃れたが(不在でも戦功ありとする)札が7枚入ったので、信長公は自ら新三郎を称賛されて、
臆病者どもはその身の言い訳のために戦功詮議に出席するがお前のような殊勲者はその場を遁れてさえても7枚も入札されるのだから入札するまでもないといって笑った、
ということがあった。秀吉は喜八郎もその気持だろうといって、札を与えて賞したという[3]。

原文
中国退治の間、戦功甚だ多かりき。
或時、戦功詮議に入札多く致させ給ふ処に宮田喜八郎逃れたりと札多く入ぬ。
秀吉公いわく
「信長の御とき林新三郎事を逃札七枚入たりしを、信長御手つから其札ともを新三郎に下され
「臆病者でも其身のみわけに斯のことし、其方にさへか様なれは入札用に立ぬ事なり」と笑ひ給ふ。
其方入札も此心なり」とて喜八に賜りける。

708 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/13(月) 08:56:51.11 ID:I+/rUjav
>>705
入れ札で論功を判断していたのか。
勉強になったわ。

709 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/13(月) 09:01:24.77 ID:I+/rUjav
>>705
こちらの訳の方が自然に見えるね。

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/13(月) 11:55:09.74 ID:Lm1LxlrS
各々が自分の戦功を主張して場が乱れるから、各々に格付けしてもらって総計を取った感じか
でもなんで逃げ出す必要があるんだ?
他人の評価なんかしたくねえ!俺がイチバン!ていう奴だったのか

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/13(月) 15:05:26.52 ID:eeE8J6i+
単に照れ屋さんな気が

造作も御座無き御宗旨かな

2023年03月12日 16:06

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 15:33:30.91 ID:fYuFhMfr
内藤修理正(昌豊)の内方(奥方)の母が死去したが、この隠居は一向宗であったので、甲州の家の
とどろきと云う寺の一向坊主が尽くその葬儀に来た。

そのような中、他宗の葬儀の折のように、死者への膳wをいかにも見事にするよう内藤が申し付けたところ、
一向宗の出家たちが申すには
「我が宗の習いにて、御阿弥陀様へ能く食を進上申せば、他には要らぬことです。」
そのように申して亡者に食膳を向けなかった。

内藤修理は尋ねた、「それは一体どうして、阿弥陀に対してはそのように法外に立派にするのか」
上人はこれに
「阿弥陀こそ肝要なのです。他に食を備えるというのは迷いの心であり、一向宗から見れば他宗の方を
おかしく存じます。」と言われた

内藤修理は申した
「亡者が飢えればどうするのか」
上人答えて
「阿弥陀様にさえ食を備えれば、それが尽くの衆生への施しと成るのです。」

これを聞いた内藤は手を合わせて「さても殊勝である。他宗と違い造作も御座無き御宗旨かな。
一尊への施しが万人に渡るとは珍しき、先ず重宝なる一向宗かな」と褒めると、上人は悦んで
「去る程に、我が宗ほど殊勝なるものはありません。」と上人は自賛した。

すると内藤修理は、自身で上人の膳を据え、残り百人余りの坊主たちへは一切膳を据えなかった。
「これはどういう事か」と坊主たちは抗議して膳を乞うた所、そこで内藤修理は

「おや、御口の違う事ではないか。上人にさえ膳を参らせれば、脇々の坊主たちも腹一杯に
なるかと存じでこのようにしたのだが。」

そのように申すと、その後は坊主たち詫び言して亡者にも膳を据え、みなの坊主も他宗のように
執り行った。これは内藤修理の理屈のために、一向宗が恥をかいたのである。

甲陽軍鑑



710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/12(日) 16:53:43.99 ID:u4UaIy7F
イイハナシダナー

「武家閑談」から庵原朝昌について

2023年03月10日 19:41

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/10(金) 18:25:14.10 ID:BoWZ+Eku
「武家閑談」から庵原朝昌について

ある老人の昔話によれば、庵原助右衛門(庵原朝昌)は駿河の庵原氏であった。
兄の庵原弥平次は武者修行で小田原へ来て、金窪(神流川の戦いの前哨戦)の競り合いで北条氏邦に従っていたが、一騎で突出し土手に乗り上げて討ち死にした。
小田原衆は弥平次を捨て殺しにした。
助右衛門は駿河でこれを知り、小田原に対して遺恨を持った。
小田原の陣ではたびたび手柄があり、戸田勝隆のところで大いに働いた後、井伊直孝に仕えて大将となった。
大坂の陣の五月六日河内若江合戦の時、井伊先手の川手主水が早々に討ち死にしたため、殿軍を助右衛門が指揮した。
大坂勢を切り崩しているところに、木村長門守(木村重成)が白母衣に金の竹刀の白熊の印をつけ、踏みとどまっていたのを、助右衛門自身で十文字槍を持ち、長門と槍合わせをした。
両者の間には二間ばかりの水路で隔てられていた。
助右衛門が横手で槍を長門の母衣へ突っ込むと、長門は直槍で助右衛門の立っている岸を突き、倒れまいとした。
助右衛門が槍を強く引くと長門は横に倒れ、沼に落ちた。

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/10(金) 18:27:57.91 ID:BoWZ+Eku
助右衛門の郎党たちも沼に飛び込んで長門の首を取ったところに、安藤長三郎(安藤重勝、安藤直次の甥?)が走ってきてその首を奪った。
助右衛門は「若い御仁が殊勝なことだ。
木村長門守と名乗っていたが、長門守には恨みもないし、首になった以上は木村の名が残ることもないだろう。
大坂城も今日明日には落城するであろうし、貴殿もこれほどの首を得る機会もないだろう。その方へ与えよう」
と長三郎に長門の首を与えた。
長三郎が喜んで首を持って行こうとするのを助右衛門は呼び止め、
「この母衣絹で包んで持参されよ。
大御所様の御吟味は厳しく、母衣武者なのに母衣がなければ怪しまれるだろう」
と母衣・脇差まで与えた。
助右衛門の郎党たちは、せめて白熊のついた金の竹刀だけは残しておこうとしたため、今も助右衛門のところにあるという。
さて長門の首実検をしたところ、大御所様は大変御喜びになり、城に長三郎を召して、天下に名高い五代青江という御腰物を下されたという。
助右衛門の家来たちは悔やんだが、助右衛門は
「手前の手柄は直孝殿がよく御存知であるから、悔やまぬでよい」と言ったという。
長門の首を見た人の話によれば、四方白鍬形の兜であり、鍬形の角元は菊唐草模様だったという。
井伊家の家老、木股土佐(木俣守勝)も大剛の兵であり、その子の左京のちに清右衛門(木俣守安。右京のちに清左衛門)も大坂の陣で手柄を挙げた。
土佐の後家を庵原助右衛門が娶り、主税が誕生した。
よって木俣左京と庵原主税は同母異種の兄弟である。

二人の母親は新野親矩の娘だそうだ(姉妹という説も)。
新野親矩は飯尾連龍(お田鶴の方の夫)を攻めている時に討ち死にしたともいうから、直虎の大河に続いて出番があるかも。



「武家閑談」から朝鮮での加藤清正の用心ぶり

2023年03月09日 18:29

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/08(水) 19:50:34.21 ID:5gsbhMFH
武家閑談」から朝鮮での加藤清正の用心ぶり

庵原助右衛門(庵原朝昌)が物語ることには、加藤清正はもちろん抜群な大将であるが、常々もすぐれていたという。
高麗陣のとき、釜山海より二十日ほどの地域は日本勢がかためており、七、八里ごとに城を築いて「繋ぎの城」といっていた。
戸田民部少輔(戸田勝隆)は密陽の城に、清正は全州にいた時に、日本からの指示で清正が帰国することになった。
全州から五日目に密陽には着くことになっていた。
戸田は清正の旧友なのでよろこび、城を掃除して馳走をたくさん用意した。
そして家老である真部五郎右衛門(真鍋貞成)と神谷平右衛門を道まで迎えに出した。
午の刻すぎに真鍋・神谷は密陽の城から四里ほどのところに出ると、清正の先手勢が見えた。
そのころは東西二十日、南北十日の朝鮮の地域は治っており、敵もいなかったため、戸田の家老二人も華やかな羽織袴で鎧を着ることもなかった。
しかし清正の部下たちはいずれもものものしく、箪食(弁当箱)つきの旗指物をなびかせ、鉄砲の火縄にも火をつけ、児小姓まで鎧、面頬までつけていかめしい姿であった。
妙法蓮華教の旗を押し立て、磨いた鉄砲を五百挺真っ先に立てていた。

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/08(水) 19:52:41.95 ID:5gsbhMFH
清正は溜め塗りの具足に金の蛇の目を書き、例の銀の長烏帽子の兜の緒を締め、頰当、はぎ当、すね当、飯箪までつけ、草鞋をしめ、
銀の九本馬蘭の馬印を自身の背に指し、月毛の馬に白泡を噛ませて来た。
戸田の家老たちが道を避けて畑の中に下馬しているのを見た清正は
「戸田民部殿の使者か、御大儀である。
おっつけ城に着陣するが、小姓たちも汚れているので、風呂を用意し、下々にまで湯をたくさん浴びせていただきたい。
このよし、民部殿へお願い申す」と声高におっしゃった。
真鍋・神谷は「かしこまりました」と馬に乗り、先に帰って戸田に申し述べた。
ほどなく清正が城に到着したため、戸田が出てみると、大馬印を指していかめしい姿であった。
縁側で戸田の小姓二人が清正の馬藺や草鞋やすね当などを解いたところ、清正が腰につけていた緋緞子袋の口が解けて、座敷の畳に落ちた。
そこには米三升、干味噌、銭三百が入っていてかなり重かった。
戸田はおどろき「十里半里に敵もいないのに、重いものを腰に下げ、しかも馬印まで指すとはいかなることですか」と尋ねると
清正は「そのことだが、とかく一大事は油断より出るものです。
たしかに敵がいなければ安心するものですが、急事が起きて油断するようでは今までの武功も水となってしまいます。
下々の士卒はただでさえ油断しがちなのに、清正の心までゆるむと、下々はよけいに帯の紐が解けて怠けるでしょう。
我が身を顧みず油断がないようにすると、下の者は上の者を学ぶと言いますので、このようにしております。
一人の心が万人に通るとも申しますし」
と言うと、戸田民部は感激して涙を流したという。



先週、二本松城を訪れたところ

2023年03月08日 19:09

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/07(火) 22:57:50.86 ID:7zUYzkh2
先週、二本松城を訪れたところ、本丸に「丹羽和右衛門・安部井又之丞 自刃の碑」というものがあった。
横の立て札を見ると、戊辰戦争での落城に際して自刃した城代と勘定奉行の供養塔だそうだ。

そこには、前者の割腹の様子が「床几に腰を下ろし、膝の上に広げた軍扇に内臓をつかみ置いて、前屈みのまま絶命」
と説明があって、「これ、藩祖(という言い方でいいのかな?)に倣って、ってこと?」と思わずにはいられなかった次第。

いい話なのか悪い話なのか迷ったけど、この他にも壮絶な逸話を聞いた長州人の自分がちょっとバツが悪くなったのでこちらに



週間ブログ拍手ランキング【03/01~/07】

2023年03月08日 16:00

03/01~/07のブログ拍手ランキングです!


「武家閑談」から上田宗箇(上田重安) 13

「続武家閑談」から姉川の合戦と太郎作正宗  11

「武家閑談」から大坂の陣の時の熊野北山一揆 10
松平信康処刑時の半蔵の落涙 10

武士が武士を褒める作法 9
「武家閑談」から大坂の陣の時の樫井の戦い 8
「武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄 7



今週の1位はこちら!「武家閑談」から上田宗箇(上田重安)です!
茶坊主と嘲られた(?)上田宗箇が、見事軍功で見返すお話ですね。まあ、ここは茶坊主云々というより、新参の宗箇を
浅野幸長が尊重し重用した事に対する嫉妬、と見るべきなのでしょう。ここで、仮に宗箇が若ければ「殿様の衆道の相手で
云々」なんて陰口に成るのですが、そういう年齢でもないので、彼は茶道によって用いられたのだ、つまり武功においては
我らのほうが上である、という意識の現れなのでしょう。形は違っても現在の組織、集団でも間々有る愛憎劇だとも思います。
上田宗箇の武人としての能力とともに、当時の武士社会の影の面も感じ取ることの出来る、そんなお話だとも思いました。

2位はこちら!「続武家閑談」から姉川の合戦と太郎作正宗 です!
こちらは名刀として知られる、太郎作正宗の由来についてのお話ですね。しかしここでは水野正重の刀というだけでなく、
徳川軍の姉川の戦いでの活躍を象徴する、といった意味合いもあるのでしょう。
しかしここでの、信長の徳川軍に対する評である「家康の者どもが、こうも薄くのびて敵について離れないことを知らなかったぞ」
という言葉、ここからは長篠の戦いにおいて同じく信長が大久保忠世を評した「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」
という言葉を思い出します。おそらくは忠世の逸話から逆算して、この姉川の戦いのお話が生まれたのでしょうが、
またこの台詞からは、徳川軍が少数ながら粘り強く戦ったという光景も、ありありと見えてくるように感じます。
文章表現的な面でも、面白い内容だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!武士が武士を褒める作法です!
こちらは馬場信春が宍戸信君に、武士を褒める表現についてたしなめたお話。
『甲陽軍鑑』に見られる特徴として、織田信長に対する過小評価と、徳川家康に対しての高い評価というものがあると思うのですが、
このお話もその種のものとは言いながら、この時代、他者を評価する場合において非常に細かくカテゴライズしていた、
という面も見え、非常に興味深い内容と成っています。特に他者の評価を主君に報告する際の表現をここでは
問題にしており、他者評価一つをとっても「より正確に客観的に伝えなければならない」という意識が感じ取れます。
中世末期、近世初期における言葉についての認識というものも感じさせてくれる、面白い内容だと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に良い頂きました。いつも本当にありがとうございます!
また気になった逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンを押してやって下さいねー!
(/・ω・)/

「武家閑談」から朝鮮出兵の時の加藤清正と福島正則

2023年03月07日 19:00

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/06(月) 23:10:13.65 ID:h0QaWSzD
武家閑談」から朝鮮出兵の時の加藤清正福島正則

高麗陣中で肥前名古屋(名護屋)へ注進状を送るため、諸大名が判(花押)をすえることになった。
加藤清正の判形が細かくて手間がかかっていた。
福島正則は「清正の判はむずかしい。だいたい判というのは無造作なのがよい。
重い病となって遺言状に判を書くことになったら困るだろう」と申した。
清正は「われは戦場で国の土を枕として死のうと思うゆえ、病死の時に臨んで遺言状を書くことなど考えもしない。
この判で問題はない」と申したという。

死因が病死なので悪い話の方に投稿しておこう。

「武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄

2023年03月06日 19:44

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/06(月) 12:43:20.98 ID:Y3zjxpvb
武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄

天正十八年(1590年)三月二十八日、太閤秀吉公が三枚橋に御着陣されたため、先手の諸大将が浮島が原までまかり出た。
織田信雄公、権現様も同じく御辺に出られた。
秀吉公は金小札糸緋威の鎧、唐冠の兜、金の大熨斗付きの太刀二振を帯し、金の土俵空穂の上に征矢一筋を付け、作りひげをつけなさっていた。
仙石権兵衛が進上した朱滋の弓をお持ちになり、金の瓔珞の馬鎧をかけた七寸の馬に乗られていた。
供の面々は異類異形の出立ちで、千利休は金の茶筅のついた七節のえつるを指物とし、極の口(樋口?)石見は鼓の筒の指物、狂言師の番内は三番三(三番叟)の装束で、その他さまざまな出立ちであった。
権現様、信雄公はお進みなさり、ことに信雄公は秀吉公の主筋であるため乗り打ちはどうしようかと思しめした。
その上、両大将とも小田原との内通の雑説もあるため、礼儀とはいえ御両将の前で秀吉公は馬からひらりとお降りになり、太刀を御手にかけ
「信雄、家康逆心と承る。立ち上がられよ、一太刀参るぞ」とおっしゃった。
信雄公は赤面して言葉が言えなかった。
権現様は諸人に向かい
「御陣初めに太刀に御手をかけられるとはめでたいことです。何もかもめでたい」
と高らかにおっしゃると、秀吉公は何も言わずに御馬に乗り、お通りになった。
諸軍は権現様の御智勇に感心した。



702 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/10(金) 13:19:38.82 ID:AqPhcBaW
>>699
こういう掛け合いができるから、秀吉も家康を信頼したんだろうな。

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/10(金) 15:19:04.75 ID:w0q880jL
馬鹿だなあ 無能だったら潰しやすいのに
有能ゆえに扱いに困るんだわ