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信玄の最期

2019年06月18日 16:53

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 16:18:05.19 ID:XHJKzrW+
元亀3年(1572)12月、信玄は遠州表へ働く。信長・家康はかねて一身となっていたので、尾州よ
り家康へ加勢があった。信玄は井の谷へ押したところを、家康衆が足軽を掛けて合戦を始めて攻め戦った
ところ、家康衆と尾州の加勢衆は敗軍した。これを遠州三方ヶ原の一戦という。

「掘田の郷へ敵をやり過ごして合戦すれば家康の勝ちであったろうに、家康衆を遣って合戦を仕掛けて負
けになった」との批判があった。

その明年正月11日、信玄は三河の野田の城を攻め落とそうとして不慮に鉄砲に当たり、この傷を色々と
養生したけれども叶わず、ついに逝去した。(後略。>>113

――『北条記』


天正元年(1573)正月7日に信玄公は遠州刑部を御立ちになった。(中略)その後、信玄公は御患い
が悪くいらっしゃり、2月16日に御馬を入れた。

家康家・信長家の誰人の沙汰か、信玄公が野田の城を攻めようとして、鉄砲に当たり死に給うと沙汰仕る。
皆虚言である。およそ武士の取り合いでは、弱き方より必ず嘘を申す。越後の輝虎との御取り合いでは、
敵味方ともに、嘘を申した沙汰はついになかった。

たとえ鉄砲に信玄公が御当たりであっても、それが弓箭の瑕(名折れ)になることはない。長尾謙信(上
杉謙信)は武州忍の城において堀の端に馬を立てておられたのを、城の内衆は輝虎と見て鉄砲を寄せて、
いかほど撃ってもついに当たらなかった。その鉄砲に謙信が当たれば、結果強き大将と誉めはすれども悪
くは申すまい。

すでに信玄公が信州川中島において謙信に勝ち給う時、謙信が名馬の放生月毛を乗り捨てられた。これを
長坂長閑(光堅)が取って乗り、「流石の謙信も馬を捨てられた」と長閑が申せば、信玄公は大いに怒り
なされ、「馬がくだびれたならば乗り換えても構わないことだ。そして乗り換えた時に合戦が負けとなれ
ば、中間どもは馬を捨てて逃げることだろうに、それを輝虎が弱いとは一段と無穿鑿な申しようだ!」と、
長坂長閑を悪しく仰せられたのは、3年目に聞こえたことである。

輝虎が川中島合戦の時、和田喜兵衛が一騎で供を仕って退いた。そうして越後へ到着して馬から降りると
同時に、喜兵衛を謙信が手討ちに致されたのを信玄公は聞こし召して、「さては謙信ほどの侍も後れてし
まっては、ちと取り慌てることもあるのだろう。武士は誉めるも謗るも、踏まえ所をもって沙汰するもの
である」と信玄公は仰せられたのである。

――『甲陽軍鑑』



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のするかごしまになふほうのつ

2019年06月18日 16:04

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 09:53:54.35 ID:pCLnKn9F
昔、近衛殿(近衛信尹)が、どう言う仔細があったのだろうか、秀吉公の御時に、薩摩の坊津へ
流され、その後配所を鹿児島に移された。その頃詠まれたものが

 大臣の 車にはあらであはれにも のするかごしまになふほうのつ
 (大臣の車(牛車)ではなく哀れにも、乗り駕籠に棒で担がれている(駕籠と”鹿児島”、棒と”坊津”を
  かけている))

(きのふはけふの物語)



176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 19:03:01.58 ID:fSX0hArW
>>174
近衛信尹といえば、娘の名前を「太郎」にしたとか面白い話があるけど、
ユネスコ世界記憶遺産にも登録された、近衛家に代々伝わっていた藤原道長自筆の「御堂関白記」についての本を読んでたら、
近衛信尹が薩摩に流された時に、何を思ったか自筆本の寛弘5年(1008年)のところの紙背(裏面の白紙)にだけ
先祖の近衛道嗣の日記、『後深心院関白記』の抜書を書いてしまったようだ、とあった。
紙の節約のために紙背を利用するのは珍しくないとはいえ、600年近く伝わっていた家宝によくやるもんだ

上臈衆は長いのがお好きか、短いのがお好きか?

2019年06月17日 18:13

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/17(月) 11:38:38.46 ID:aBrfMfav
貞安和尚(聖誉貞安・天正七年の安土宗論での浄土宗の代表の一人)の談義(説教)で、
「今日は彼岸の最後の日ですが、このような日に奇特にも上臈衆(高位の女性たち)がお参りになりました。
そこで阿弥陀如来のご誓願にある女人成仏のお話を申したいと思いますが、しかしこれは、
詳しく話せば談義が長くなり、またあらましのみを語れば少々理解しにくくなります。どうしましょうか、
皆様の望み次第にしたいと思います。」

そう仰られたが、談義についてのことなので返答する者も居なかった。そこで貞安和尚が
「上臈衆は長いのがお好きか、短いのがお好きか?」
と尋ねたところ、彼女らは一斉に咲いだした。

これに長老(住職)は彼女らをきっと睨んで
「あなた方の気持ちの有り様はよくない。」
と申された。

(きのふはけふの物語)

まあ少々猥談的なお話ですね



松たけの おゆるを隠す吉田殿

2019年06月16日 17:24

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/16(日) 01:09:37.03 ID:0tIddNzO
吉田殿(吉田兼見か)の所有する山に松茸が生えたのだが、松茸の有ることが他所に聞こえると
いろいろと煩わしいと思い、ずっと秘密にしていた。ではあったが長岡(細川)幽斎へは少しばかり
贈りたいと思い「これは私どもの山に生えたのですが、世上には隠しています。ですがあなた様には
進上いたします。どうか他所へは秘密にしておいて下さい。」と遣わされたが、これに対し
幽斎は狂歌を詠んだ

『松たけの おゆる(生える、勃起を隠喩)を隠す吉田殿 わたくし物(秘蔵のもの、男根の異称)と人やいふらん』

(きのふはけふの物語)



172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/17(月) 01:26:50.49 ID:OuOOIOw1
>>170
忠興さんかと思った

今度織田事、依難遁天命、令自滅候

2019年06月16日 17:23

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/16(日) 01:45:44.25 ID:kYm8Gowg
足利義昭島津義久ノ物ヲ贈レルヲ謝シ、近ク京都ニ復帰セントスルヲ以テ、更ニ義久ノ助力ヲ請ウ、

『薩藩旧記雑録』

今度の織田の事は、天命を逃れた難により自滅せしめたものである。それにつき、残る輩が帰洛する
ことを切々と申すので示し合わせ、きっと入洛するものである。この節にとりわけての馳走は喜悦の
ことであろう。よって太刀1腰と黄金10両が到来したことには喜び入る。なお、昭光(注釈:真木
島)と明秀(注釈:一色)が詳細を申すものである。

(今度織田事、依難遁天命、令自滅候、就夫相残輩帰洛儀、切々申条示合、急度可入洛候、此節別而
馳走可悦喜、仍太刀一腰、黄金拾両到来喜入候、猶昭光、明秀可申候也、)

     天正10年(注釈:朱書き)

         11月2日        (花押)(注釈:足利義昭


           嶋津修理大夫とのへ(島津義久

(注釈:義昭が毛利輝元を頼って京都に帰ろうとして果たせず、輝元をもって秀吉に説かせたことは
10月21日の条に見える)

――『大日本史料』



給仕の小姓が久太夫の膝に酒をこぼして

2019年06月15日 16:42

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/15(土) 16:36:00.28 ID:3D0ngM4y
葉隠、>>15
一つ目:水戸光圀が米俵に腰掛けたら老婆に「殿様に差し上げる米になんとする!」と叩かれた逸話に酷似
二つ目:細川ガラシャの辞世の句に酷似
(ガラシャ死亡時の話も石田軍記によれば~という形で葉隠にはあるが、ガラシャの辞世の句についての記載はなし)
三つ目:石田三成の三献茶の逸話に酷似

以外にも、戦国じゃないけど

鍋島綱茂が部屋住みの頃、松平直矩のところで夜会が催された際、鍋島家に仕える喜多見久太夫という老人も参加し、戦ばなしに花が咲いた。
夜が更けたころ、給仕の小姓が久太夫の膝に酒をこぼして一座興をさまし、小姓は赤面して退出した。
他の小姓がすぐさま久太夫を別室に案内し着替えさせた。
後で確かめたところ、久太夫が漏らしたのを一座のほかの者にわからないよう、小姓が気を利かせたということだった。」

という「徳川家茂が習字の師匠の戸川安清に水差しの水をかけて漏らしたのをごまかした」という話に似ているのもあった。
葉隠が佐賀藩でしか読まれていない頃に登場人物変えて逸話を作ったのか
葉隠が他国の有名な逸話を教訓のために、自国の人物で間に合わせたのか。



19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/15(土) 20:18:52.66 ID:htHAqd+0
>>18
>水をかけて漏らしたのをごまかした
昔の2ちゃんコピペの、女子生徒が漏らしたのをごまかすために主人公がバケツの水かけて~ってやつの元ネタがこんなに古いとはw

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/15(土) 20:23:39.89 ID:ArceekMi
漏らしたことを末代まで語り継がれる老人

鍋島直茂が寺で湯を所望したところ

2019年06月15日 14:14

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/14(金) 20:04:13.92 ID:OGK4Yufa
「葉隠」読むとどっかで見たが三つほどあった

一つ目はまとめの4607で出ていた
鍋島勝茂が農家の庭で米を跨いだら老婆に足を打たれた話

二つ目
勝茂に殉死した中野杢之助の扇子に
「惜しまるゝとき散りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」
と辞世の句?一首が書かれていた


三つ目
鍋島直茂が寺で湯を所望したところ
そこの生運という住職が
初めは湯を少なめに、次は多めに出して、直茂を感心させ、そのまま召し出された話。



16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/14(金) 20:47:15.19 ID:EI+bsoH8
茶坊‘S 何人おるねん

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/14(金) 20:55:45.50 ID:OGK4Yufa
すいません、二つ目もまとめの6267で出てました

内裏様のみしり

2019年06月14日 16:25

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/14(金) 12:23:58.89 ID:IHLOoPFL
織田の信長殿は内裏様を殊の外大切に思し召し、村井春長(貞勝)を奉行に付けられ、禁中のこと
尽く御修理をされた。この事についてうつけたる者が申すには

「内裏様の御念者(男色相手)は村井殿じゃ」

「何故に」

「今日も内裏様のみしり(御修理と御尻をかけている)をゆかせられるといって、日々御出であるから
そうかと思った。」

と言った。

(きのふはけふの物語)



江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ

2019年06月14日 16:24

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/14(金) 12:52:11.46 ID:IX8PHLFL
江戸ノ悪少年、党ヲ結ビ、異装ヲナシ、横行シテ人ヲ害ス、幕府、ソノ首魁ヲ磔シ、余党ヲ誅ス

【参考】

『直江重光(兼続)書翰留』

(上略)あなたが近日、かぶきを御調査されていることに関して、旦斎が御子息の新二郎殿を御
気遣いなさっているとのことです。実否はどうなのかと御心許ないのです。(中略)

(其元近日かぶき御穿鑿ニ付而、旦斎御子息新二郎殿御気遣之由、実否如何無御心元候事、)

     8月13日

         千坂伊豆守殿(高信。上杉家江戸家老)


(上略)旦斎より御知らせが届きました。御子息の新二郎殿の様子について未だ解決していない
とのことは、全くもって気の毒です。その事について旦斎へ書状を進め置きました。(中略)

(旦斎より御報相届候、御息新二郎殿様子未相済候由、笑止千万候、右之儀ニ付而旦斎ヘ書状進
置候事、)

     9月14日

         千坂伊豆守殿


すぐに御知らせを示し下されましたことを忝く存じます。そして御子息の新二郎殿を御気遣いな
さっている様子を承り、御心許ないものと存じます。きっとその他の御気遣いはないものと推し
量っております。なお、追って御意を得られることでしょう。恐惶謹言。

(乍御報示被下、忝令存候、然者、御息新二郎殿御気遣之様子承、無御心許令存候、定而不可有
異儀候由、推量仕候、猶追而可得御意候、恐惶謹言、)

     9月14日

         小旦斎様
             人々御中

――『大日本史料』



正月2日の夜、宗雲が夢を見なさったことには

2019年06月13日 15:49

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 19:42:57.37 ID:h/jQFdtC
(前略。>>11)翌年正月2日の夜、宗雲(北条早雲)が夢を見なさったことには、2本ある大杉を鼠
1つが出て食い折った。その後、かの鼠が猪になった夢を見て、その夢は覚めた。

その如く両上杉の仲が悪くなるのを聞き、宗雲は是非とも時刻を見合わせて関東へ発向の工夫をされ
ることは二六時中暇なし。ある時、扇谷の上杉家は末となったのであろう、邪臣の諫めを崇敬して家
老の太田道官(道灌)を誅しなさった。その後、上杉殿の家老は尽く身構えをして騒ぎ立った。

この時、宗雲公は出て小田原を乗っ取り、相模の過半を手に入れて子息・氏縄公(北条氏綱)の代に
相模を皆治めなされば、いよいよ氏康公の代に伊豆・相模二ヶ国となり1万の人数の内2千を所々の
境目に差し置き、8千の軍兵をもって両上杉家と取り合いなされた。(後略)

――『甲陽軍鑑』



伊豆の宗雲が出て小田原を乗っ取った事は

2019年06月13日 15:48

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 20:16:00.45 ID:h/jQFdtC
一、(前略)この時節、伊豆の宗雲(北条早雲)が出て小田原を乗っ取った事は、明応4年(1495)
  乙卯の歳と承り及んでいる。前代の事であり、しかも他国の事を人の雑談で書き記しているので、
  きっと相違な事ばかり多いのは必定ではあるが、ただこの理究(原注:リクツ)を取って今勝頼公
  御代の比較になさるべし。(中略)

  まことに北条家は弓矢巳の時(盛りの時)と輝き、万事政事よろしいので上杉家の功者どもは「さ
  て危なし」と呟く。しかしながら管領則政公(上杉憲政)には、両出頭人の菅野大膳・上原兵庫が
  これを聞いて申すには、

  「北条宗雲は元来伊豆のいかにも小さき所から出たのであり、その族の氏康が何の深きことがあろ
  うか。伊豆・相模両国を持っても、北条2,3人を合わせた程の大身衆は越後・関東・奥両国(奥
  羽)へかけては、則政公の御旗下に5,6人もおります。

  上杉家に伝わる衆(譜代)にも北条程の者はいそうもないので、蔓延っている以上は則政公が旗を
  出されて、ただ一陣で北条家を誅罰しなされ!」

  との菅野・上原両人の口により、(後略)

一、北条宗雲は古来、伊勢国より乞食を致して(伊勢国より乞食をいたし)駿河今川殿の被官となり、
  今川殿の恩恵をもって伊豆へ移りただ今この如くであるから、元来伊豆の狭き所から出た宗雲の子
  孫は、少しも深き事なく候。

  宗雲の子・北条氏縄(氏綱)は甲斐の武田信虎に大いに争い負け申した。これは駿河あしたか山の
  下、東さほの原での事。その気勢をもって氏縄の手に入れた富士川の北は尽く信虎に取られた。

  この時、興国寺の城主・青池飛騨(青沼飛騨守)は人より先に信虎の被官となるに付き、青池の息
  子・与十郎と申す者を、信虎家中の足軽大将・小幡(小畠)入道日浄と申す侍の婿に、信虎の下知
  をもって仕る。ただ今は駿河の今川義元が信虎の婿になる故、息女の化粧田として信虎より今川殿
  へ渡す。

  これでさえも、父・宗雲が今川の恩恵をもって小田原までも発向したその恩を、子息・氏縄の代に
  なって忘れ、替り目を見合わせて今川の持つものを取ったけれども、氏縄が義理違い申すに付き、
  珍しく回ってこの場所が今川へ帰ったのは、天道より北条家を憎んだのである。(後略)

――『甲陽軍鑑』

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 20:23:10.63 ID:h/jQFdtC
>>164
北条宗雲は古来~は上杉憲政に家臣が申し上げた五ヶ条からの抜粋です



都への往復に危険

2019年06月13日 15:47

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/13(木) 01:18:22.30 ID:NpktaL/T
今、ビジタドール及び同行者が、都への往復に危険に瀕し、恐怖を抱いたことについて少しく述べるのは
不適当なことではあるまいと思う。第一の危険と恐怖の原因は、山口の王なる毛利 Mory が豊後より都に
赴く路に当たる領内の諸港、特に日本全国に於いて有名である塩飽 Xiuaqui の港に通知を発して、そこを
通過するパードレ達を捕らえるように命じたことが豊後に聞こえたことである。パードレはまた豊後滞在中に
我等の友人の一人から、決して塩飽の港に入らないよう注意を受けたが、都に赴くには毛利の両国に沿った
港湾を通過せざるを得ないので、その危険は甚大であった。

また一層恐怖を加えたのは、乗船の船頭が、我等の大敵である坊主が所領する、大坂と称する市の者で
あった事である。ただし船頭は豊後の王の家臣の如き者で、塩飽にも、その妻子のいる大坂にも、毛利の何れの
港にも決して寄港しないことを王(大友宗麟)と約束したので、恐怖は幾分除かれた。ただし彼は異教徒で
あったので、大いに信頼することは出来なかったが、これ以外に信用すべき船が他に無かったため、
ビジタドールはパードレ4人及びイルマン3人と一緒にこの船に乗り、船頭は常にいかなる事があっても、塩飽に
寄らないと言い、また毛利の領内の町を通る時は、パードレ達を隠していた。

遂に塩飽の前に着くと、船頭は「塩飽に入港せざるを得ないが、決して不幸の起こることはない故、安心する
ように」とパードレに伝えさせた。この伝言を聴いて、この船頭が約束を破り、また異教徒が己の利益の
ためなら容易に陰険なる処置に出ることを思って、諸人皆大いに恐れたが、我等は彼に対して反対する力が
無いために、様々に交渉した後、彼の望むように任せること止むなきに至り、パードレ達は一切をデウスの
御手に任せ、同所に滞在している一昼夜の間は絶えず恐怖を感じていた。しかるにデウスの摂理は、その地の
司令官が前日数レグワ離れた場所に毛利(毛利氏の拠点か)を訪問し、その帰任はパードレ達の出帆後となるよう
計らい給うた。

第二の危険は右に劣らず、パードレ達に対するデウスの摂理もまた少なからざるものであった。堺に近づいた時、
南蛮(日本においては我等をこう称した)のパードレの長が、沢山の宝を持って通過するという噂が立ち、
常にこの海を横行する海賊が多数集まり、堺より6,7レグワの一港に寄港することを聞いて、同港へ行き
安全に略奪を行おうと考えていた。ところが風が強くなり、パードレがこの日のうちに堺に着くことを希望した
ため、船頭にかの港に寄って順風の機を失う事の無いように頼んだ。船頭は同港において納税の必要(海賊への
通行料であろう)があると言って初め拒絶したが、パードレを満足せしむるため、日本の慣例に従い税を堺より
送る事として航海を続けた。
海賊たちが待ち受けていた港に寄らなかった所に、我等の主の摂理が認められた。

海賊たちは我々の船が通過するのを見て、多数の船に乗って出港したが、中にパードレの船よりも大きなものが
二艘あって、ほとんど追いつこうとしたが、風が止んで櫂を用いることが必要となった。兵士たちは敵が
近づくのを見て戦闘の準備を始め、船は急進して逃げた。敵もまた同じ速度で追撃して堺の港まで進み、
小舟は我等の船とともに港に入ったが、大船はパードレの船のようには海岸に近づくこと出来ず、小銃の
着弾距離の所に停まった。もし航路がさらに長いか、また右の船がもう少し小さければ、我々が海賊から
逃れることは出来なかったであろう。この時我々の恐怖がどれほどであったか、尊師も推察されるであろう。

既に港に着いて、キリシタン及び多数の異教徒が小銃その他武器を持って駆けつけたが、海賊たちに
150クルサドを与えて協定を遂げた後、我等ははじめて安全と成るを得た。

堺より豊後へ渡る際の危険もまた右に劣らぬもので、海賊のことと、再び毛利の領内を通過しないことを考え、
路を島々の外(四国の太平洋側の航路を取った)に取り、この航路に1ヶ月を費やしたが、この間
日本の船の不自由の他に、数回非常なる暴風雨に遭い、デウスを想うのみであった。1回は非常に激しい
颱風に遭い、港に入ったが、風は24時間継続した。またある日海賊の船が1艘来た。それのみでは恐怖は
感じなかったが、合図をして他の船を招くのを見て恐れ驚き、この間に一昼夜を経過した。
暴風雨または海賊の危険は、この種の航海においてはパードレ達の常に遭遇するところであって、デウスの
御手に縋り摂理に頼って、常に種々の危険より免れるのである。

(1581年2月15日(天正十年一月二十三日)付、パードレ・ガスパル・クエリヨ書簡)



167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/13(木) 22:17:55.95 ID:igVSyUJR
塩飽のアルファベットカッコ良すぎ

宗雲公などはきっと一仏一社の化身であったのだろう

2019年06月12日 14:59

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/11(火) 20:04:18.34 ID:VUOAqq9u
(前略)宗雲公(北条早雲)などはきっと一仏一社の化身であったのだろう。

子細は、伊勢より7人が言い合せ、荒木・山中・多米・荒川・有竹・大道寺・宗雲ともに7人が武者
修行すると談合された。駿河の今川義元公の祖父子の御代に、牢人の身分で今川殿のもとで堪え忍ば
れた(牢人分にて、今川殿に堪忍有り)。

才覚をもって駿河屋形の縁者となり給い、すなわち駿河の内かたの郷という所にしばらくおられ、義
元公御親父の代に今川殿の威勢を借りて伊豆へ移り、大場北条辺りの百姓どもに物を貸しなさると、
後には伊豆半国の侍・百姓どもが宗雲公へ出入りを仕り、物を借りたので朔日・15日に礼に参った。

その間にもしばしば参る者には貸銭を差し置きなさったことにより、我ましに(我先に?)宗雲公の
御屋敷の辺りに家を作って皆被官となり、前述の6人の荒木・山中・多米・荒川・有竹・大道寺も宗
雲の被官になった。

この衆を首として宗雲公ともに7手に作り、伊豆一国を治めなさって、絶えて久しき北条を継ごうと、
三島明神へ願を立てなさった。(後略)

――『甲陽軍鑑』



よくよく見ればみかどなりけり

2019年06月12日 14:58

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 13:30:11.70 ID:ZQ+gJmmS
ある夜、豊臣秀吉公が夜食にそばがきをご所望なされ、御相伴衆にも下された。
その時ちょうど長岡玄旨(細川幽斎)が御登城され、秀吉公は早速彼にそばがきを据えさせた。
玄旨はその蓋を開けるとすかさず

『うすずみに つくりしまゆのそばかほを よくよく見ればみかどなりけり』
(薄墨で描いた眉のそばがほ(横顔)を、よくよく見てみるとみかど(帝と三角の蕎麦の実をかけている)であった)

と詠んだ
(きのふはけふの物語)



13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 17:45:52.66 ID:/fx/jYnt
まとめの6065
「秀吉がお伽衆に蕎麦掻きの料理を命じたところ」

に「戯言養気集」出典で既出

週間ブログ拍手ランキング【06/06~/12】

2019年06月12日 14:35

06/06~/12のブログ拍手ランキングです!


大阪城開かずの間 9

阿波国三好之系図 9

”沙也可”について 8
【雑談】足利義輝謀殺について 8
逆に刀を抜きにくくするためではないか 8

【ニュース】初公開 山形城主・最上義光 直筆の手紙一般公開へ 山形市 6
一季居、耶蘇教、負傷者、煙草、屠牛ニ関スル禁令五ヶ條 5
「信玄公は御在世なり」 5

内藤修理は元来工藤なり 4
龍造寺隆信「佐賀に来い」 4
不死美濃鬼美濃 4
上杉家ノ喫煙ニ関スル令 4
山本勘介と申す大剛の武士と聞く 4

京極高吉の改宗 3
“奥の源四郎” 3
薩摩の王の紋章は、我が十字架と同形の十字 3


今週の1位はこちら!大阪城開かずの間です!
江戸期の大阪城でまことしやかに囁かれていたという豊臣家の亡霊(?)が棲まう開かずの間伝説。松浦静山が書き残して
居たということは、実際にこのような噂があったのでしょう。そういえば大阪城内では、大阪の陣を描いた軍記『難波戦記』も
読んではいけないという話があったとかどうとか。建て替えられたものだと頭では解っていても、場所が場所なのでそこに
在る人々にとって、何かしらの思うところがあったのでしょう。
それにしても林述斎が「歴史を知らないから作り話を信じた」という言葉、現代人にも様々に通じる言葉ですね。

今週は同票でもう一つ!阿波国三好之系図です!
三好家が畿内で活躍するきっかけをつくった三好之長は、調べれば調べるほど相当したたかな武闘派で、なんのかんので
こういうバイタリティを持つ人や家がのし上がるのが戦国時代だよな、なんて思ったりします。かれは京近辺で土一揆の扇動
なんかもして治安を揺るがしていますが、当時の土一揆と足軽はほぼほぼ同じ存在だとされており、三好家はこの時期から
結果的に畿内での潜在的軍事力を扶植していたと考えると、後の歴史の展開もこの基盤の上に有ることが想像できます。
それにしても三好家の歴史は、やはり魅力的ですね。今後三好氏研究がさらに盛り上がることを期待しています。

今週管理人が気になった逸話はこちら!一季居、耶蘇教、負傷者、煙草、屠牛ニ関スル禁令五ヶ條です!
この禁制の内、「一季居」は一季奉公人、つまり臨時雇いの雑用係で、農村などからの流れ者が多かったらしく、このあたりは
「負傷者」についてもそうですが、主に治安関係の法令ですね。「耶蘇教」は言うまでもなくキリシタン禁制に関わるもので、
「煙草」は、この当時は健康のためではなく、主に火災予防の面が強かったと言われます。考えてみれば10数年くらい
前までは、煙草の最大の害といえば、煙ではなく吸い殻の投げ捨てによる火災でした。そして「牛を殺すことの禁止」ですが、
これは「一季居」の禁止にも繋がると思うのですが、当時牛が農村における重要な労働力であり、未だ動けるにもかかわらず
食肉等の理由でこれを殺すのは、労働力を奪うことに等しく、現在で言えば工場の機械なり業務用の車両なりを無駄に
破壊するような感覚があったようです。「一季居」も、農村から労働力を奪うもの、と捕らえられていた向きもあったようです。
レスの中にもありましたが、キリスト教宣教師が牛肉を食することにも強い批判が存在したようですね。ただわざわざ禁制に
入れているということは、そういう事例が少なからず有ったのだということを表して居るとも思います。
法令から当時の社会の有り様を想像してみるのも、非常に面白いですよ!



今週もたくさんの拍手を各逸話にいただきました。いつも有難うございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

京極高吉の改宗

2019年06月11日 14:28

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/11(火) 14:08:49.60 ID:tf9swAlS
我等が安土山に立派なガザを建てたことは、当地方に於いて非常に有意義であった。信長は特権として
城の瓦と同じ瓦でガザの屋根を葺く事を許したが、城の瓦のように金は用いなかった。
ガザは三階建てで均衡のよく取れた、甚だ立派な爽快なる建物であり、毎日多数の大身達がこれを見るために
来たり、我等はこの機会に彼らに説教しデウスのことについて語った。そしてガザにおいては毎日説教があり、
大身達が各地方から集まったために、この年ににコンパニヤ(イエズス会)が都、その他諸国に知られ、
デウスの教の広まりは、それまでの多年の間の成果と同じくらいであった。そのため、このガザが多数の人に
キリスト教の教えを知るに至る方便と成ることを期待している。もし敵が、例のように妨害を加えることが
無ければ、本年の収穫は少なからざるものと成っていただろう。

説教を聴いた者の中に、元近江国の王であり、今は国を失っているが、信長の庇護を受けている大いなる殿で、
(安土)城内にある最も立派な邸宅の一つを所有している人があった。この人はキヨクドノ(Chiocundobo
京極殿:京極高吉)と称し、夫人とともに説教を聴かんと決心し、デウスの教えを喜ぶあまり、四十日間
引き続いて説教を聴いてよくこれを悟り、四十日の末に夫人とともに洗礼を受けた。
この人に11,2歳の一子(京極高次)が有り、その頃他の町において信長に仕えていたが、父はこの子が
帰るのを待って全家族と共に洗礼を受けさせようと考えた。しかしながら、その後数日を経て我等の主が
彼(高吉)を御許に召し給うたため、その希望を達すること出来ず、又その子並びに家族はみな異教徒のままで
あったのみならず、子たちは父の死が神仏の罰によるものと考え非常に恐れたが、母はこれにかかわらず
信仰堅く、唯一その邸宅に住んでいる。我等の主が彼女によっていつかその子達を導き給わんことを期待する。

(1581年2月15日(天正十年一月二十三日)付、パードレ・ガスパル・クエリヨ書簡)

京極高吉の突然の死は、実際に仏罰だと噂されたらしいですね。

”沙也可”について

2019年06月10日 18:11

沙也可   
146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 17:42:52.27 ID:eZpNrclM
中央日報日本語版20190610「名分なき戦争」として朝鮮に投降した沙也可、日本にも顕彰碑(1)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190610-00000032-cnippou-kr
1592年4月13日。加藤清正の先鋒部将の沙也加は3000人の兵を率いて釜山(プサン)に上陸した。
日本全国を統一した豊臣秀吉は朝鮮侵略を命じた。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の序盤、倭軍は連戦連勝していた。
ところが3日が過ぎても沙也可の兵士に動きがなかった。1週間が経過した日、慶尚道兵使の朴晋(パク・ジン)に
沙也可の手紙が届いた。

「この戦争は大義名分がない。朝鮮に投降する」。沙也可は敵陣の朝鮮側に立った。普段から「礼儀の国」の
朝鮮に好感を抱いていたという。沙也可は火縄銃と火薬を作り方を朝鮮軍に伝授した。その後、功績が
認められて金忠善(キム・チュンソン)という名前を受けた。沙也可は丁卯胡乱、丙子胡乱にも参戦し、
72歳で死去するまで朝鮮人として生きた。

壬辰倭乱当時、祖国を背を向けて朝鮮側に立った倭軍の武将、沙也可。沙也可顕彰碑が日本にあるという話を
聞いて5日、和歌山県に向かった。大阪から列車に乗って南に約90キロ。沙也可の碑は和歌山市の
紀州東照宮にあった。東照宮は徳川家康を祀る神社で、紀州は和歌山地域をいう。豊臣氏を滅ぼした家康の
神社の前に沙也可の碑を建てたのは絶妙な選択だ。

紀州東照宮の管理者、西川秀大氏は「紀州地域は古くから朝鮮半島の影響を多く受け、朝鮮半島のものと
同じ遺物も出土する」とし「日光にある東照宮が金色で華麗に飾られているのとは違い、紀州東照宮は
緑と赤を主に使った朝鮮の丹青とよく似ている」と説明した。沙也可の碑が韓半島(朝鮮半島)と
関連が深い紀州東照宮の前に建てられたのは必然だという話のように聞こえた。

沙也可の碑が建てられたのは2010年。当時、「沙也可日韓国際シンポジウム」が日本で開催されるのを
記念して両国の関係者が集まった。沙也可を素材にした小説『海の伽耶琴』の作家・神坂次郎氏や
金忠善(沙也可)の子孫が集まった。

ここには自民党の有力政治家、二階俊博幹事長(当時は総務会長)もいた。碑石はアシアナ航空の
朴三求(パク・サムグ)会長に要請して韓国から運んだ。和歌山県を政治の基盤とする二階氏は沙也可が
和歌山出身という点を率先して知らせた。2月には親しい朴智元(パク・ジウォン)民主平和党議員が
和歌山を訪問した際、沙也可の碑に足を運んだ。

碑石の前には2本の木が寄り掛かるように絡んでいる。碑の建立当時をよく知る人は「意図して
この場所に決めたわけではないが、お互い寄り掛かるように絡んでいる木の姿が日韓関係を
表しているようだ」と語った。

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 17:44:37.40 ID:eZpNrclM
韓国朝鮮ネタは荒れがちだけど一応。なんかやっぱり向こうでは全て事実扱いなんですね。
まあ日本側の検証はほぼwikipediaの記述の通りですが。
wikipedia沙也可
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%99%E4%B9%9F%E5%8F%AF

参考文献にあげられてる、宇田川武久『東アジア兵器交流史の研究 十五~十七世紀における兵器の受容と伝播』が
最近の研究の元ネタ。
宇田川氏は秀吉の朝鮮侵略は悪!と書いてしまうスタンスの人ですが、自分の専門分野で手を抜くようには見えない。

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 21:40:54.03 ID:7oRtE5B8
>>146続き
日本では当初、沙也可を実存した人物として受け入れず、受け入れても否定的な認識を抱いてきた。
沙也可に対する大衆的な関心を高めたのは1971年に司馬遼太郎が紀行文で沙也可を扱ってからだ。
「背信者」のフレームから「大義のない戦争に抵抗した平和主義者」として沙也可を再解釈し始めたのもその後からだ。


和歌山県庁国際課の山下善夫国際企画班長は「沙也可のストーリーは映画化の話も出たほど多くの日本人が
勇気ある人物と評価している」と述べた。

沙也可に関する記録は日本には残っていない。祖国を裏切った事実が明らかになる場合、残された家族が苦境に
立たされることを憂慮して自らの身分を明らかにしなかったと考えられる。
ただ、沙也可が火縄銃と大砲をうまく扱ったため、当時和歌山地域の鉄砲部隊として名が知られた雑賀部隊を
率いた鈴木孫市の子孫が沙也可という説が最も有力だ。

「雑賀衆・沙也可で街おこしの会」の辻健会長は「特に罪のない民衆を残酷に殺すことで豊臣は有名だった」と
し「沙也可は豊臣が戦争をすることに我慢できなかったようだ」と話した。
また「当時、リスクを負って裏切りと変わらない帰化をしたのは強い信念と決意があったからだと考える」と
語った。

当時、朝鮮としても沙也可を受け入れるのは容易な選択ではなかった。いつまた裏切るか分からない敵軍の
武将に名前を与えて正二位まで昇進させたのは大きな決断だった。
辻会長は「李舜臣(イ・スンシン)の艦隊に倭軍は全滅した。沙也可でなくとも壬辰倭乱の結果は
変わっていなかっただろうが、火縄銃と大砲のおかげで朝鮮人の犠牲を減らしたとは思う」と述べた。

2000年代に韓日関係が急激に改善し、沙也可はいわゆる「韓日友好協力のアイコン」として扱われた。
関連研究も活発になった。2012年には沙也可が建てた鹿洞書院がある大邱市(テグシ)達城郡(タルソングン)に韓日友好館もオープンした。
日本では今でも辻会長を中心に毎年、沙也可をテーマにした朗読劇の会を開き、小学・中学生を対象に沙也可の
平和思想などに関する授業をしている。

辻会長は「日韓関係にはいつも悪いことばかりあったわけではない」とし
「今は徴用工問題などいくつか難しいことが絡んでいるが、文在寅(ムン・ジェイン)大統領に一度、
沙也可の碑を訪れてほしい」と語った。



150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 21:43:16.36 ID:7oRtE5B8
典型的なタイプだね辻会長w

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 23:10:25.14 ID:aEXzpoP0
雑賀衆の鈴木某にも可能性があるだけなのに孫市の子孫と決めつけちゃっているのか
町おこしのためなら何でもありってことなのかな

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/11(火) 07:40:18.96 ID:YeS6rj2+
村上海賊の娘とかもそうだけど、村おこしのためなら真実なんて知るかって感じがどうもなぁ…。

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/11(火) 07:42:30.70 ID:DbFOGen+
武田信玄「せやな」

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/11(火) 13:25:46.77 ID:5PkrBIp7
そういえばNHKの時代考証を担当していた人の本で
「武田信玄が鮑の煮貝を戦陣食として始めた」
という説があるから大河に出そう!
となりそうだったのを

山梨日日新聞「山梨百科事典」に
「江戸時代末期に駿河の魚問屋が伊豆で取れた鮑を加工して
甲斐に送り込んだのが最初で、甲州勤番の武士や文客が江戸にもたらしたのが評判となり甲州名物として定着した」
と書いてある以上、信玄時代に出すのは不適切、
と阻止した話があった。
土産物店のサイトだと武田信玄うんぬん書いてるところが多いようだけど

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/11(火) 14:51:43.19 ID:DbFOGen+
>>154
真田丸のときに政宗が陣中でずんだもち食べてたな。

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/11(火) 17:12:34.08 ID:gtIYJBnM
>>154
歴史家の人えらい!

158 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/11(火) 17:18:48.15 ID:3yhMAURC
韓国とタッグ組んで歴史ネタで町興しに乗り出そうとしたっていえば、沖縄石垣島のオヤケアカハチ=洪吉童説もね。
こちらは実在人物どころか小説の登場人物なのでw

オヤケアカハチ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A4%E3%82%B1%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%8F%E3%83%81


159 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/11(火) 17:38:31.74 ID:3yhMAURC
なお沖縄では、このアカハチは赤毛の大男だったということでオランダ人との混血児というのが
地元一部で喧伝されてたりもしますが、そもそもポルトガル人の東南アジアのマラッカ到達が
1509年、オランダ人に至っては1600年のアダムズ・ヨーステン一行のリーフデ号到着が初ですよね。
でもアカハチ死亡年は1500年・・・

後世、勝手に膨らまされたイメージって全国どこも一緒だなあw

内藤修理は元来工藤なり

2019年06月10日 14:29

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 02:24:57.23 ID:2hX+mQxB
内藤修理(昌豊)は元来工藤なり(工藤源左衛門)。これも信玄公御代に“内藤”になされた。

信虎公・信玄公両代で首数9つあり。人並みのしるし故、御証文は1つもなし。弓矢功者で、
思案・工夫の分別は馬場美濃(信春)に劣らぬ人であり、人数の扱いを良くする人なり。

――『甲陽軍鑑』



龍造寺隆信「佐賀に来い」

2019年06月10日 14:25

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/09(日) 22:00:08.11 ID:hwQ6Bi9R
当地方のキリシタン一同を驚愕させ、少なからぬ恐怖を懐かせた事は、龍造寺(隆信)が大村の領主
ドン・ベルチラメウ(大村純忠)に、その嗣子と共に佐賀(Sanga)城に来るよう頻りに求めたことである。

ドン・ベルトラメウおよびその一族は非常に困惑し、一方には、龍造寺の意図は、平和を口実として
ドン・ベルトラメウとその子、並びに領内の主要な人物を悉く集めて、日本の他の領主が成すように、
これを殺すことにあると言う者があり、また一方には、もし招かれても行かず、彼を信用しないということを
明らかにすれば、龍造寺は大いに怒って敵意を明示するであろうと言う者があった。
龍造寺が非常に有力であるのに対し、大村の武力はこれに対抗するのに充分ではない。
このため、二つの手段のどちらを取るかは容易に決定しなかった。

パードレ達はドン・ベルトラメウとその一族が自ら敵の手に投降するのは不可であると考えた。
この下の地方(九州)の長老であったパードレ・ガスパル・クエリヨは危険に陥ることを慮って龍造寺の元に
行くことを喜ばず、龍造寺を満足させる手段を講じてこれを断るべきであると主張した。しかし龍造寺は、
ドン・ベルトラメウとその一族が彼の招きに応じなければ満足する様子がなく、ドン・ベルトラメウは敵の
勢力と悪意に大いなる恐怖を抱き、一族とよく協議した上で、己を彼の手に委ね、それによって彼の意を
和らげることに一縷の望みをかけて、その嗣子および領内の主だった大身達と共に、五百人の武士を従えて
龍造寺の居城、佐賀に向った。

事の成功を予知することも、またこれを避けることも叶わず、もしドン・ベルトラメウとそれに同行した
武士たちが悉く殺されれば、全領土は敵の所有に帰し、ドン・ベルトラメウも一族も帰って来る望みは
無いのでなないかと、我等(宣教師)の恐怖が非常であったことは、尊師も諒解されるであろう。
さらに有馬の領地も同一の危険に瀕し。当地方のキリシタン教会は全滅に至る懸念が有って、この心配と
恐怖の間に二十日間を過ごした。

しかしながら主はこの苦痛より我々を救出し給い、ドン・ベルトラメウは龍造寺より歓待され、様々に
名誉を与えられ、相互の間に平和協定を成し、これを確保するため、龍造寺は一女をドン・ベルトラメウの
嗣子に嫁がせる約束をした。少しも期待されず、事後ですら信じられぬ程であったこの好結果は、諸人に
大いなる喜びを与えた。

これがデウスの特別なる御恵であった事を示すのは、間もなく起こったカマチドノ(Camachidono:柳川城主・
蒲池鎮漣)と称する、ドン・ベルチラメウに劣らぬ勢力を有する筑後国の異教の領主が、ドン・ベルチラメウと
同時に龍造寺に招かれた事であった。或いは両人とも殺すつもりだったのかも知れない。
蒲池殿は起こるべきことを懸念し、ドン・ベルチラメウの様子を見ることにして待っていたが、龍造寺は
ドン・ベルチラメウに好意を示し、蒲池殿はこれに安心してその招きに応ずることとし、一族及び武士たちと
共に佐賀に到着し、龍造寺からドン・ベルチラメウと同様の歓待を受けた。このため彼らが注意を怠り、
思いもよらなかった時、龍造寺は4,5千人を以て蒲池殿の居場所を囲み、彼とその一族を悉く殺した。
蒲池殿たちは勇敢に戦ったが、多勢に抗することは出来なかった。

その後龍造寺は兵を出して彼の領地を攻めたが、住民たちは何の用意もなかったため少しも抵抗出来ず、
彼は容易にその地を占領して非常な残虐を行った。貴婦人たちは夫が既に殺されていたので、龍造寺に
捕らえられて、最も恐れた侮辱を受けるよりも寧ろ死を選ぶとして自殺した。

蒲池殿がかくの如き不幸に遭遇したので、我等はデウスが特別の御恵を以て、同様なる運命から
ドン・ベルチラメウを救出し給った事を感謝した。
しかしこの敵(龍造寺)は生命有る限り、有馬及び大村の領主並びにキリシタン教会に対し害を加える
懸念があり、我等は常に恐怖を抱いているのである。

(1581年2月15日(天正十年一月二十三日)付、パードレ・ガスパル・クエリヨ書簡)

龍造寺隆信が「佐賀に来い」と要求したことへの波紋



137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/09(日) 23:29:16.21 ID:ZfkTXeho
龍造寺がキリスト教のバックを考慮したんなら、手前味噌ながら方向性は正しいな

“奥の源四郎”

2019年06月09日 09:29

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/09(日) 01:26:21.11 ID:cxXeu6pY
山県三郎兵衛(昌景)は元来“奥の源四郎”と申した御方なり。

源四郎と申す時、信濃猿ヶ馬場という所で越後の謙信衆と互いに物見に出て、しかも采配を
手にかけた武者と馬上から組み落ち、その敵の武者を討って高名故、信玄公の御証文1つ。

また飛騨国において、山道の狭い所故に自分の同心被官も通り過ぎることができず、山県は
1人で、敵は2人で槍を合わせた。この時に信玄公の御証文1つが下された。

合わせて2つの御感を取って持つ。その他の首数5つは並みのしるしなり。

兄の飯富兵部(虎昌)は逆心の侍故、弟は名字を変えさせなさり“山県三郎兵衛”になさった。
同心は板垣衆を付け下された。この三郎兵衛は人数の扱いを良く仕る武者なり。

――『甲陽軍鑑』