「フロイス日本史」から、戸次川の戦い

2017年05月30日 18:11

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:31:52.86 ID:pxsQt+cT
(豊後国主の)嫡子は、薩摩軍が攻めてきた時に身を守り得るために、
他の二名の主将(仙石秀久長宗我部元親)とともにウエノハル(上原)と称するある場所に一城を築くことに決した。
だが彼らは心して真面目に築城の作業に従事しなかった。
彼らの不用意は甚だしいもので、饗宴や淫猥な遊びとか不正行為にうつつを抜かしていたので、その城は笑止の沙汰であった。
したがって(薩摩軍が来週した時に彼らが)助かることなど思いもよらないことであった。

ところで国主フランシスコの息子パンタリアン(田原)親盛は、司祭に対して、
もし府内で何事かが起こった場合には、司祭は家財を携えて城(妙見城)に身を寄せるようにと伝えていた。

薩摩の軍勢は惰眠をむさぼることなく、攻撃力を強めながら、漸次豊後に進入して領地を奪っていった。
豊後の指揮官たちは、常軌を逸した振る舞いによってますます油断の度合いを深めていた。

本年一五八七年の一月十六日(西洋暦)、薩摩の軍勢は、
府内から三里離れたところにあるトシミツ(利光宗魚)と称するキリシタンの貴人の城を襲った。
城主は府内からの援助を頼りに力の限り善戦した。
だが敵は攻撃の手を緩めず、ついに武力によって城内に進入し、その城主、ならびに多数の兵士を殺害した。

府内にいる味方の勢は、(利光の)城が占拠されているかどうか確かなことを知らないまま、
赴いて囲みを解くべきかどうか評定を続けていた。
結局、彼らは出動することに決め、栄えある殉教者聖フィビアンと聖セバスティアンの祝日に府内を出発した。

府内からは、仙石がその兵士を率い、土佐国主長宗我部とその長男がその兵士を伴い、
さらにパンタリアンも兵を率い、その他豊後の特定の殿たちが出発した。
清田と高田の人々に対しても出動するよう命令が出された。

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:32:45.50 ID:pxsQt+cT
薩摩勢は、それより先(豊後勢の動静を)知らされていたらしく、余裕をもって策を練り、
準備を整え、一部少数の兵士だけを表に出して残余の軍勢は巧妙に隠匿していた。

豊後勢は、大きく流れの速い高田の川に到着し、
対岸に現れた薩摩勢が少数であるのを見ると、躊躇することなく川を渡った。
そして豊後勢は戦端を開始した時には、当初自分たちが優勢で勝っているように思えた。
だがこれは薩摩勢が相手の全員をして渡河させるためにとった戦略であった。
渡し終えると、それまで巧みに隠れていた兵士たちは一挙に躍り出て、
驚くべき迅速さと威力をもって猛攻したので、
土佐の鉄砲隊は味方から全面的に期待をかけられていながら鉄砲を発射する時間も場所もないほどであった。
というのは、薩摩軍は太刀をふりかざし弓をもって、猛烈な勢いで来襲し、鉄砲など目にもくれなかったからである。
こうして味方の軍勢はいとも容易に撃退され敗走させられて、
携えていた鉄砲や武器はすべて放棄し、我先にと逃走して行った。

豊後国の人たちは、河川の流れについて心得があったから助かったが、
仙石と長宗我部の哀れな兵士たちは他国の者であったから、浅瀬を知らず溺死を余儀なくされた。
こうしてその合戦と破滅において、二千三百名以上の兵士が戦死したと証言されている。
彼らの中には、土佐国主の嗣子や、かつて阿波の領主であった十河殿、その他大勢の貴人や要人が含まれていた。

薩摩勢は、その日の午後には府内から四分の一里の地点にまで到達し、
その途中にあったものをことごとく焼滅し破壊した。




「フロイス日本史」から、戸次川の戦いについての記述である。


スポンサーサイト

中里介山「大菩薩峠」の「伊達政宗と細川忠興で半分こ」

2017年05月30日 18:10

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/30(火) 15:31:13.86 ID:RaAvraES
伊達政宗=文化財クラッシャーってことで王羲之の書をまっ二つにしたことがネタにされてるけど
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-376.html
「伊達政宗と細川忠興で半分こ・いい話?」

>政宗と忠興と言えば、朝鮮出兵時に漢陽(ソウル)の王宮で見つけた
>王義之の書(写本)を取り合って、結局山分けして半分ずつ持ち帰った話が
>2人らしいエピソードで印象深い

中里介山「大菩薩峠」を読んでたらこのエピソードが載っていて、その内容は
細川三斎の部下甲がソウルの王城で王羲之の孝経(李世民親筆の序つき)を見つける。
伊達政宗の部下乙もそこに来て、甲に伊達に譲るよう言うが、早い者勝ちということで甲が自軍に持って帰る。
→乙から聞いた伊達政宗が細川三斎の陣を訪れて、王羲之の孝経を見ようとする
→細川三斎が「このままでは政宗に持っていかれる」と思い、政宗に両家の結婚話を出す。
→政宗が両家の婚姻を承知する。
→細川三斎が王義之の孝経を2つに裂き、両家が一つずつとり結納代わりとする。
この後
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-845.html
のとおり、細川宗孝が板倉勝該に人違いで斬殺された際に伊達宗村(小説では父親の吉村)が機転を利かせて
細川家取り潰しを回避し、恩を感じた細川家から王羲之の書が伊達家に与えられ、王羲之の孝経がもとに戻る。

てことになっていた。
これだと三斎様のほうが文化財クラッシャーになってしまうけど、もともとの話ではどうだったんだろう。
中里介山の創作がここで戦国エピとして語られたんじゃなきゃいいが


彼らが通過した後には、何一つ

2017年05月29日 18:40

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:30:37.93 ID:/C3l8YdE
もうすぐセンゴクで仙石が失敗しそうなのでそのあたりの話を


中務(島津家久)は、日向から三千の兵と、薩摩から五百名、および叛乱軍を率いて、すでに豊後領の宇目に入り、
嫡子(大友義統)の数名の家臣に属する小さな三つの城を無抵抗裡に占領した。
それからさらに進撃し、幾人かの身分ある人たちと老臼杵殿(臼杵鎮尚)がいる別の城の所在地であるミエ(三重)に向かった。
これらの者はただちに降伏して豊後の敵にまわった。
中務はそこに留まることとし、(家臣に)ごくわずかの兵を伴わせ、叛乱者たちに道案内をさせて送りこんだ。
豊後勢の恐怖と怯懦は驚くばかりで、〔とりわけそれがデウスの鞭であってみれば〕
彼らは薩摩軍の名が口にのぼるのを聞くだけで、屈強かつ勇猛で戦闘に練磨された者までが、
立ちどころに震え出し歯をがたつかせ、まるで軟弱な戦の未経験者のように降伏して、敵の言いなりになるのであった。

薩摩軍は、万事が思惑通りに運ぶのを見て、通過するナングン(南郡)の地、その他のところを焼き払い、
打ち壊し蹂躙し始めた。
彼らが通過した後には、何一つ満足なものは残っておらず、少しでも逆らう者は殺害された。
またそれに劣らず嘆かわしく、いなむしろ最大に嘆かわしく思われたことは、(薩摩勢)がおびただしい数の人質、
とりわけ婦人、少年、少女たちを拉致するのが目撃されたことである。
これらの人質に対して、彼らは異常はばかりの残虐行為をした。
彼らのうちには大勢のキリシタンも混じっていた。

(フロイス日本史)



800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:44:17.08 ID:12qJD4CN
>>799
キリスト教が嫌いな佐伯さんが勝ってるのは無視される

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 21:42:25.07 ID:AP3CGx9c
豊後の連中から奴隷を買ってたのはどこのどいつなんすかねえ

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 21:49:22.72 ID:DLlKPT0m
まっことでごわす

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 21:59:22.09 ID:12qJD4CN
>>802
豊後国で海外に奴隷売買したって記録はみつかってないな
肥前国ならあるけど

あまり有名でなく高尚でもない男であった

2017年05月29日 18:39

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:44:53.16 ID:/C3l8YdE
筑前、筑後、および豊前の一部をほぼ支配下に置いた薩摩にとって、今やこの島全体の絶対君主になるために残るは
ただ豊後に進出するだけとなった。
そこで彼らは豊後の殿たちと交渉し、種々の約束と甘言をもって彼らを味方に引き入れようと奔走した。
豊後の嫡子(大友義統)は、この状況について連絡を受けると大いなる危機感に襲われた。
そしてこの恐怖から、彼は関白殿に強く救援を懇請した。
というのは、豊前で戦っている勢は豊後から遠く離れたところにおり、薩摩軍とはかけ離れた別の戦に従軍していて、
急速に有利な戦況は望むべくもなかった。

関白は天下の主となった後、信長時代の仲間であった仙石権兵衛と称する尾張の人物に讃岐国を与えた。
彼は、あまり有名でなく高尚でもない男であったが、決断力に富み独善的で、その他それに類した性格を備えていた。
ただし以前から優秀な武将として知られていた。

関白はこの人物に豊後を援けに行くにように命じた。
そしてさらに、二年前に征服した土佐国のセニョール・チョウスガミ(長宗我部元親)に対しても、
軍勢を率いて豊後の援助に赴くように命じた。
だが自らが出陣するまで、もしくは敵との合戦を伝達するまでは、敵と交戦するのを差し控えるようにと言いつけた。
それゆえ(彼らは)約二千名あまりの実戦の兵士しか伴って行かなかった。

(これらの軍勢)は府内の市で、嫡子および伯叔父なる(田原)親賢の軍勢と合流した。
(親賢)は、(去る日向の合戦で)何千という生命を失わせた最大の責任を負う身であったから、
豊後が破滅して後は、自分の城から外へは決して出ようとしなかった。

豊後の上長であるペドゥロ・ゴーメス師は、贈り物を携えさせて、(既述の)異教徒の新たな主将たちを府内に訪問せしめた。
彼らもまた後には学院に来て手厚くもてなされた。
とりわけ土佐の主将(長宗我部元親)は、要請があれば、司祭や教会を援助する用意があることを示した。
この主将の嗣子である息子(信親)は、一、二度我らの修道院で説教を聴聞し、説話をよく理解したらしく、
キリシタンになりたいとの希望を表明していたが、その数日後に戦死した。



上の話とは少し時間が前後するけど、同じくフロイス日本史から
仙石についてのフロイス評入りの話


天下は御前に参るでしょう

2017年05月29日 18:37

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 01:32:19.40 ID:N9Ip1c+w
天下は御前に参るでしょう


萬治四年の二月三日、備前において(池田光政が)焚き火をされているとき
五郎八様(池田政種)、信濃殿、八之丞殿、猪右衛門殿に御咄された。

「関ヶ原御陣に大坂の諸大名衆が人質を出したときのこと
 話に出る津田左京は大坂での留守居を首尾よく務めたので
 輝政様は殊の外御機嫌であった」

「その左京は左源太にとってはなんだったか……父か祖父か」
と言って重次郎(左源太の息子)を召され御問いになると
「祖父です」
と(重次郎は)申し上げた。
「父は何と云ったか」
と(光政が)仰せられたので
「彌次右衛門と申します」
と申し上げた。
そこにいて聞くようにとの御意だったので(重次郎は)御前に伺候した。

(光政の)仰せに曰く
その左京は粗忽者だったので輝政様へ
「斯様に御前が御全盛であれば、追付天下は御前に参るでしょう」
と申し上げると、輝政様は殊の外御機嫌を損ねられ
「常の者(無役)ではないので、成敗を申し付けるところだが
 左京は若く子細があるので免じる。
 再び免じることはないので、つつしむように」
と仰せられた。

「子細と仰せられたのは大坂の留守居のことだろう」

「このことについてよく覚えていたので咄したが、その時分は
 輝政様は御威勢が夥しく、姫路はもちろん備前にも諸大名が
 上り下りに寄られた。また輝政様が駿河に御越しのときには
 尾張様(義直)、紀州様(頼宣)などが阿部川まで御出迎えになられたという」


――『有斐録』


〔若州〕小浜城の旧地、泣珠明神之こと

2017年05月28日 15:59

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/27(土) 21:31:23.71 ID:zH6PkXyL
〔若州〕小浜城の旧地、泣珠明神之こと

 天祥寺の僧によると、今の酒井修理大夫の若狭小浜城は以前は別の所にあり山城であったが、猷廟(徳川家光)の御時になにか訳があって今の地に移された。
今は平城であるという。
ところでその山城の中腹に古墳があり今は神を祀っている。泣珠(ナキタマ)明神と号している。
祠も大きいとおもわれその額は後水尾帝の宸翰であるという。
(小浜の山城は昔は名を白雲城といったそうだ。今の城地はなんというのだろうか。
また古城は白雲というのだからその山はさぞ高いのであろう。
山腹の古墳という言葉と合点がゆく。その地を見たいものだ。)

この神は、昔神功皇后の御時三韓退治の御軍に従った臣であったが、
何か策謀を漏らした罪により韓土からそのまま今の地へ配流され、小浜が墓所となったとか。
〔この神功皇后の韓征の従臣というのはこの神に限らない。
予(松浦静山)の城下(平戸城)で崇拝されている神社に『せ郎権現』と号すものがある。
小さい神社であるが、同じく韓軍従行から帰った臣の葬地であるとか。
きっと、諸所にこの類の遺跡があるのであろう。〕

神を泣珠と号すことは土俗に伝わっている。
往古の干珠満珠と称す軍略があり、これを言い漏らしたため流された事が碑文に見えるそうだ。
〔この碑は、祠の前に在るとか。僧が語ったまま記した。〕

泣珠神は俗体となった後の子孫が十家あり、今も連綿として能入(ヲニフ)村という所に居住している。
しかし言い伝えのみで、系譜等は有らずとか。

 この能入村にもまた泣珠の祠が在って、毎年六月十五日に祭礼がある。神功皇后も祭っている。
神官がかの神前につき、泣珠の神の御許しを申し湯立を行う。
そうして、湯が沸き昇ってほとばしり飛ぶときは神功皇后が御怒であるといい、
神官が御許しがないと唱えるとか。

こういことがあったが、近頃京都所司代となった若狭守〔小浜侯〕(酒井忠進?)が幸い領分のことなので、
この神のことを禁裏へ告げて御赦免を乞い願った。
罪を赦す勅定が下ったので、今は神の怒りのことは止んだとか。
あやしいことどもである。

(甲子夜話三篇)


かほのしはすをのべて参らん

2017年05月27日 16:50

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/27(土) 00:42:17.28 ID:zH6PkXyL
三好修理大夫(長慶)殿に玄理という者が仕えていた。
さる事があって、ある年の春頃に勘気を蒙り、年の暮れまで許しがなかったことがあった。
玄理は三好修理大夫に

参るべき御礼なれども今年より かほのしはすをのべて参らん

と歌を作って捧げた。
この歌を御前の人々へ伝えたらすぐに召し返されて、二人は再び御懇ろとなった。

(戯言養気集)


敵城に飯を炊く煙が立ち上った故

2017年05月27日 16:49

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/27(土) 04:05:53.69 ID:G+wx7mBh
島原の乱の時、小笠原某(忠真か)の家士某は、「今宵は敵方から夜討ちが出るかも
計り難い。その用意をせよ!」と言って、陣中を触れ廻った。

諸士は、「堅固に構えているのに果たして夜討ちがあるのか?」と思ったが、果たして
夜討ちがあり、この小笠原の陣だけは少しも乱れず、

他の陣々は大いに乱れ打ち破られた。後に「どうやって夜討ちがあると知ったのか?」
とその家士に問うと、

その家士は答えて、「夕刻になって敵城に飯を炊く煙が立ち上った故、夜討ちの支度と
察したのだ」と言った。

翌年の2月にも前述の小笠原の家士・高田九兵衛は「明日は鍋島肥前守殿(勝茂)の
手から城攻めに一番に掛かると見た。私は抜け駆けして肥前殿の先を越えよう!」と、

夜中に支度して手勢を率い、未明に攻め掛かって敵方の不意を打ち、大いに功名を
遂げた。肥前の家では小笠原に先を越されて大いに残念がったということである。

この時も「肥前殿の家が一番に攻め掛かると、どうやって知ったのだ?」と諸人が問い、
九兵衛は答えて「肥前殿の陣は毎朝旗の手(旗印か)を直されていたが、昨夜に限って

夜更けに旗の手を直されていた故、今朝一番に進む支度と察し、私めは夜明けに城際
へ密かに押し寄せており、肥前殿の旗の手が動くのを見て、すぐに攻め掛かったのだ」
と言ったということである。

――『明良洪範』



962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/27(土) 17:23:44.46 ID:yW2SWIMe
よく見てんなー

谷太郎左衛門、戦での心得

2017年05月26日 12:39

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/25(木) 19:49:49.60 ID:JlazAfFn
黒田長政の配下に、谷太郎左衛門という、度々武功を上げた者があった。
長政は彼を援助し、牢人分として養い置いた。

そんな太郎左衛門が語ったことに、

「近江においての有る合戦で、城に乗り込むという時、鉄砲によって至近距離から肩を撃ち抜かれた。
しかしそれにも構わず、その鉄砲の筒口を掴んで屏の上に乗り上げたが、城中は屏の内に
杭を打って、むしろ、こもなどを引きはり置いていたので、中に未だ兵が居ると思って引き返した。
後で城方の捕虜がいたので城内の様子を尋ねたところ、『そのあたりに人は一人もいなかったが、
ただ手立ちにああ致していた。』と語った。

このように、物事を雑に決めつけては落ち度の有るもので、詳細に考えなければいけないものだ。」

またこの人は

「合戦の時、敵よりも味方に目をつけるべきだ。
例えば一人が先に出て敵と戦い踏みこたえている所に、後より二人三人と向かっているようなら、
それは初めの者が強いのだと知るべきで、その所へ行くべきではない。別の所へ一人で出て、
そこで自分も敵と戦い踏みこたえているべきだ。少しばかり耐えていれば、すぐにそこへ人が
集まるものだ。

また、日頃より主人のお気に入りや家中で出頭している人物にも、戦場で側に寄るべきではない。
一人で手柄を立てる了見が有るべきだ。何故なら手柄が調査される時、側に居た場合は、出頭人の手柄と
されがちだからである。」

とも語った。
もう一つこの人の語ったことに

「全ての侍にとって、弓鉄砲の上手と言われるのは悪しきことだ。
そのような評判を持つと。敵城へ火矢を打ち込んで敵を城から引き出したいというような時、足軽などは
射程まで進もうとしないから、人から名指しされてその役目をやらされることが有る。

しかし、射込むことに失敗すれば不快になるし、射込んでも当然のこととされ人から賞賛もされず、
またそういう場所では敵も堅く警戒しているので、全く意味のない討ち死にをすることも有る。
その上最近は、侍の手柄は鑓によるものより上は無い。故に要らぬことを上手になっても益がないのだ。

(士談)

かなり現実的な武功ノウハウのお話


溝ノ口岩穴祭の奴踊り

2017年05月25日 13:51

958 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/25(木) 07:20:42.25 ID:+O/9+IlI
鹿児島県曽於市財部町にある溝ノ口洞穴は、宮崎県都城市と接する台地の末端部にあり、入り口が広さ13.8m、
高さ8.6mで全長が224mの大規模な洞穴です。内部の一番広い部分は幅が約40mで,天井部はアーチ型になっています。
洞穴は、約25,000年前に姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した
溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運びに姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、
シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運び去って
徐々に空洞が拡大されてできたものです。
また、洞穴内には縄文時代の人の生活跡もあり、当時の生活を知る上でも重要です。
(昭和30年に、鹿児島県の天然記念物に指定される)
伝承では犬を洞穴に入れたところ高千穂峰に出てきた(距離にして7~8キロほど)話もあります。

毎年4月8日(釈迦誕生の日)に近い日曜日には洞穴で溝ノ口岩穴祭りが行われます。
(場所を示す時には“洞穴”、祭りを示す時には“岩穴”となります)
このお祭りでは、奴踊りや棒踊り、刀踊り(棒踊りと刀踊りは隔年奉納で2017年は刀踊り)が洞穴と洞穴の入口に
祀られている岩穴観音へ奉納される。

これらの踊りの中でも奴踊りの歴史は古く、三つの説があり、
島津義久が島原の龍造寺隆信を攻めた時の戦勝祝いに踊られたもの」
(大隅建国千三百年記念祭ではこの説が紹介される)
豊臣秀吉が島津征伐の時に、新納武蔵守が城を守り通した祝いのために踊られたもの」
島津義弘が朝鮮征伐した戦勝の祝いとして始められたもの」などと伝えられています。

このようにして、戦勝を祝うとともに、士気を鼓舞するために始められた奴踊りは、鼻筋を真っ白に塗り、
頭に白鉢巻、服装は紫の着物に赤い帯、刀を黄色と水色の長布で背負い両手に扇を持ちます。
楽器は、太鼓と三味線・拍子木で、歌詞は釈迦誕生日と関連しています。
現在は郷土教育の一環として財部の中谷小学校の全児童と卒業したばかりの中学一年生によって継承されている。
(2017年は11名の参加)

祭りの進行は、
岩穴観音の前で奴踊り
岩穴観音の前で刀踊り
洞穴の中で刀踊り
地域の連絡事項(小学校の新任の先生の挨拶、先任の先生からの手紙の紹介、転入してきた人たちの紹介など)
昼休み
洞穴の上の山にある馬頭観音が祀ってあるところまで(車で)移動
馬頭観音の前で奴踊り
馬頭観音の前で刀踊りです

この祭りは、プログラム表も立て看板も大々的な宣伝もなく地元の人たちが永いこと守ってきたお祭りでした。
(参考 財部町郷土史、曽於市観光協会の方の話など)

※刀踊りは日本武尊が川上梟帥を討った逸話からきており、鉢巻に襷がけ袴に着物は女物を着用(花柄)
 四人で一組となり三組で踊る。棒踊りの由来は不明。

溝ノ口洞穴の写真など
http://kagoshimayokamon.com/2016/05/27/izonokuchi/

観光協会の方や洞穴の看板の注意
・携帯は圏外です。危ないので一人では来ないでください、二人でもキツイので三人以上で来てください。
・照明はありません、自前で懐中電灯をお持ちください。
・流水がありますが、柵などはありません。数年前に落ちてしまって近くにお店どころか民家も無いので
 遠くまで移動した上に洋服一式お買い上げになった方がいるそうなのでご注意を。
・落書きは洞穴の強度の関係で消すことは出来ません。絶対にしないでください。
(2015年にももいろクローバーZのライブ映像として使われてから、来る人が増えたら不届き者も
増えてしまったようで落書きも増えてしまったと)

959 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/25(木) 21:10:17.15 ID:+O/9+IlI
・洞穴の中は蝙蝠やゲジゲジがいます。蝙蝠は人の気配がすると姿を
 見せませんが、ゲジゲジは結構いますので虫が苦手な方はご注意ください。

刀踊りは、地元の青年団の方たちが踊っていますが、昨今は人口が少なくなり
結構年配の方も参加されています。奴踊りの生徒さんたちも今年は新入生や
転入生がいましたが、昨年はどちらもいなかったそうで祭りを維持していくのは
大変なようです。
三味線の方も高齢の人が多く今年は都合がつかずあらかじめ録音したものを使用
する状況でしたので、祭りの関係者の方が見物人に向かって「三味線弾ける方募集
いたします」といってました。



三ヶ条ほどは珍しいことを

2017年05月24日 19:19

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/24(水) 18:34:43.68 ID:DnRcAem5
加藤清正が高麗より帰国し、ある夜の物語に、森本儀太夫(一久)、飯田覚兵衛(直景)、庄林隼人(一心)といった
者たちに

「高麗在陣数年の間、何事につけても武功に成るべき筋道を見覚えただろうか?」

そう尋ねた。いずれもこう答えた

「別に珍しいと存ずるような事もありません。ただし、三ヶ条ほどは珍しいことを、高麗において心得ました。」

清正これを聞いて
「私も三ヶ条の心得を得た!であれば各々に入り札を書いて、その実否を糺そうではないか!」

清正は自分の心得を書いて他の面々のものと見合わせた所、その内容は皆、一致していたという。
ある事を詳細に究める時は、自然に同じ理屈に至るものなのだと知るべきだろう。

ただしこの時の三ヶ条が一体どういう内容だったのか知られていない。
ある人が言うには、

『2つの山の間の谷間に蘆の茂った所があった。その山に上がって押し通っていると、唐人3人、
向かい側の山上にいて馬をキリキリと輪乗りにいたし、一人づつ段々に乗り回しているのを見て、
「さてはこれは何かの合図だ」と、下の葦の茂みを探索すると、はたして伏兵を発見した。
馬の乗りようにて合図を致すというのは珍しいことである。』

という内容が、三ヶ条のうちの一つだという。その他は知らぬと、その人は語った。



956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/24(水) 18:50:24.34 ID:K4L+UcD/
>>955
肝心なとこ覚えとけよw

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/24(水) 19:08:41.39 ID:utHa4ctx
そういうところは他人に教えないんじゃない?

週間ブログ拍手ランキング【05/18~/24】

2017年05月24日 19:17

05/18~/24のブログ拍手ランキングです!


加藤清正石垣の上手なる事 14

「肥後のからしれんこん」 12
物音の響に差別あり 12
黒田如水の大名論 12

直江兼続は断じて反対し 9
博打を用いる 8
蜂須賀もとに 澄水の 8

阿波殿へは御感状を下された 6
遺物は武具と書籍のみ 5
林家の古き家紋に、杏葉牡丹を用ゆること 5
直江兼続の衣食住は 3


今週の1位はこちら! 加藤清正石垣の上手なる事です!
加藤清正と言えば熊本城、熊本城と言えば石垣、と言われるほど高名な、清正の石垣技術。前にNHKNの番組の中でも、
この石垣について特集されていましたね。
その番組の中で意外だったのは、熊本城の石垣技術は朝鮮役で身につけたものではなく、その後の慶長伏見地震での
伏見城倒壊といった経験より生まれたものではないか、という推察です。
考えてみれば高石垣の城郭というのは、少なくとも本格的なものは安土城からというごく新しい技術であり、
清正の時代辺りまで、様々な試行錯誤があったことでしょう。
高石垣城郭の技術的確立期の巨人の一人。清正をそう捉えてもいいのではないかと思いました。

2位は3つ!まずはこちら「肥後のからしれんこん」です!
清正から肥後熊本を受け継いだ細川家、その忠利による「名物誕生」の物語。
からし蓮根が、お殿様一人のための料理、というのは面白いですね。事実かどうかは別として、からし蓮根という
料理にある種の「貴重性」を付与していると思います。こんな話聞いたら、やっぱり食べてみたく成るじゃないですか。
細川の殿様気分になってw
そしてお子様の一緒に歴史を楽しんでおられて、たいへん微笑ましく思いました。
歴史をこうやって身近に感じて成長できるのは、素敵な環境だなと、羨ましく思いました!

次は物音の響に差別ありです!
日根野弘就による、戦場における一種の観察眼のお話。
音の響きによってその虚実を知るという、いかにも歴戦の勇士という内容です。その機微というのはなかなか凡百には
理解し得ないものなのでしょうが、戦巧者という人たちは、このような研ぎすまされた感覚によって、武功を上げ、あるいは
生き残って来たのだなあと、その凄みを感じちゃいますね。
戦場に限らず、日常生活でもおそらくあらゆる場所で、こういった機微は存在するのでしょう。
それを感じられるかどうかが人生を左右する、という意味では、現代の人々にも教訓と成るお話かもしれません。

最後にこちら!黒田如水の大名論です!
まあ皆さんの想像通り、これは黒田長政のことを言っているのでしょうね。だって古郷物語ですからw
如水や他の人々の口を借りて遠回しに長将のやりようをDisる、というのは古郷物語の基本パターンでもあります。
著者はよほど長政の治世に含むところがあったのでしょう。
個人的には黒田如水と長政を比べた場合、比較するベースが違うのは確かでしょうが、黒田家を大大名として飛躍させたのは
間違いなく長政であって、そのスケールでは父如水を凌駕していると考えていますが、世の中はその基礎をを作った人を
評価しがちですね。まあ古郷物語の長政評価はそういうのとはまた別なのでしょうけどw
そんなことをいろいろ考えたお話でした。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます。
また気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

博打を用いる

2017年05月23日 11:45

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/23(火) 09:43:52.33 ID:YoCIryPr
蒲生氏郷は陣屋においては、諸侍に博打をすることを許していた。
これは陣屋にて番を勤める輩は、ややもすれば眠ってしまうもので、
ために博打を以て気をいさめ、夜寝ないように戒めるためであったという。

博打というのは人が生きる中で戒めるべきことである。だが、時に取ってこれを用いるのも、
また人君の究理より出た心得と言うべきだろう。
(士談)



951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/23(火) 10:11:45.05 ID:KRcfvKOY
博打に集中して監視がおろそかになりそうだが。寝ちゃうよりましか

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/23(火) 14:32:49.49 ID:DUfe8gBt
敵襲がきたらこっそり賽の目に細工してやるんだ

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/23(火) 18:43:00.23 ID:goqKRjOi
博打をした家臣を咎めなかったエピソードといえば、やっぱり官兵衛さんかな。

「肥後のからしれんこん」

2017年05月22日 18:00

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 20:04:20.94 ID:X+MXQU0X
「肥後のからしれんこん」

肥後国熊本、細川藩初代藩主、細川忠利公は名君で武術の腕も確かだったが、生まれつき食が細く病弱であった。
細川幽斎公・三斎公のように個性的な存在ではなく、どちらかというと律儀で真面目な人柄だった。
少食であることを心配した水前寺の玄沢和尚は、滋養のある食べ物がないかと考えていた。
そこで、加藤清正公が非常食にとお城の外堀で栽培していた蓮根に目をつけた。
賄い方の平五郎というものに煮物にさせ、忠利公に差し出した。
忠利「蓮根か・・・泥の中にあったと考えると、どうも食う気が起きんのう」
玄沢「仏教には、泥中の花という言葉がございます。例え根は泥中でも、そこから美しい花が咲くのでございます!」
忠利「ほう」
玄沢「殿にもここから一花咲いて頂きたいのでございます!!」
忠利「でも無理。こんなの食えん」

続く

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 20:04:44.44 ID:X+MXQU0X
蓮根の煮物を食べてもらえなかった玄沢和尚は、平五郎と相談し、今度は蓮根に衣をつけて揚げてみた。
これは忠利公も多少箸をつけたが、3日で飽きてしまった。
そこで平五郎は毎日飽きずに食べられる、見た目の美しい蓮根料理を考えることになった。
(蓮根の穴に何か詰めたらどうだろう?見た目が美しく、食欲増進効果があるもの・・・)
(そうだ!辛子を使ってみよう。辛子には食欲を増す効果があると言うからな)
辛子を麦味噌と合わせて蓮根の穴に詰め、麦粉・そら豆粉・卵の衣をつけ、菜種油で揚げてみた。
これを忠利公にお出しすると、
忠利「美しい見た目じゃな。どれ、味は・・・」
忠利「ツーンと来て辛いけど・・・うまーい!!!」
忠利「これは誰が作ったのか?」
玄沢「賄い方の平五郎というものでございます」
忠利「すぐにその者を呼べ!」

ごめんもうちょっと続く

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 20:06:48.90 ID:X+MXQU0X
忠利「その方が平五郎か。この料理を考えたのはそちじゃな?」
平五郎「へい。その通りにございます」
忠利「ツンと来る辛さで食欲がわき、非常に美味じゃ。しかもこの断面を見よ」
玄沢「は?断面が何か・・・?」
忠利「わが細川家の家紋、九曜紋にそっくりじゃ。これは縁起が良い。これ平五郎よ」
平五郎「はっ」
忠利「わが細川藩門外不出の料理として、これからもこの辛子蓮根を大事に作り続けてくれ」
平五郎「ありがたき幸せにございます」
その後、忠利公は毎日辛子蓮根を食べて元気になり、辛子蓮根は藩の重要な料理として、明治維新まで庶民は食べられなかったという。
出典はテレ東日曜朝9時~放送のふるさとめぐり日本の昔ばなし「肥後のからしれんこん」より。
今朝、子供とテレビで見て、
「たしかに幽斎や三斎は個性的だなw」
「あの2人と比べたら誰でも地味だろw」
「坊主が上手いこと言ってるんだから、我慢して食えよw」
「いやいや庶民にも食わせてやれよw」
的になかなか楽しい話だったので思わず書いてみた。
庶民は食えなかったが、忠利公の体が良くなったので、いい話スレの方に。



933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 20:49:21.15 ID:z5SDL7DR
子供とそんな話できるのかw

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 21:20:47.97 ID:X+MXQU0X
「この人のじーちゃんは握撃の使い手」
「とーちゃんは手討ちが趣味のヤンデレ」
等は解説したよ。
小学校低学年の娘相手なので、ヤンデレの詳しい解説は控えたけど。

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 21:22:53.77 ID:7UjI6uS0
>>934
いやそもそもヤンデレって言葉を使うなよw

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 21:48:18.87 ID:X+MXQU0X
街中で手を繋いだカップル見かけたら、「爆発しろ」と呟く程度の基本教練は済んでるので、ヤンデレくらい教えてもいいんだけどね。

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 22:56:58.22 ID:k0AZsbIn
>今度は蓮根に衣をつけて揚げてみた。
>これは忠利公も多少箸をつけたが、3日で飽きてしまった。


一度食べたからって同じもの3日も出すなよ・・・

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 23:25:37.77 ID:XWHSy3hI
ケンミンショーで紹介されてた熊本名物のちくわサラダ。
ちくわにポテトサラダを詰めて天ぷらにしてあるんだが、熊本人はアレか?
穴の空いた食材を見ると、何かを詰め込みたくなる習性があるのか?

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 00:00:12.88 ID:rKmpoToj
ポテサラの天婦羅ってのもかなり珍しいな

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 00:58:08.32 ID:7W5Pp/hk
肥後ずいきも突っ込むためのものだしな

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 07:08:37.87 ID:EyVcBlKt
>>939
だがちょっと待ってほしい、それはほぼコロッケの中身ではないだろうか

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 07:26:11.00 ID:rKmpoToj
>>944
ほう君のところのコロッケはマヨネーズで会えたり胡瓜やら玉葱やら入ってるのか
とても変わってるね興味深い

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 07:35:09.11 ID:EyVcBlKt
>>945
いやいや、ポテサラを素であげてみてw
かなりコロッケの中身だからw

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 08:20:58.93 ID:mQhKxntK
穴に詰めたくなるのは男の性

948 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/22(月) 08:55:39.28 ID:Um6DWmHX
石子詰めですねわかります

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 19:21:25.43 ID:v1NKW731
秋田県にはポテトサラダの寒天があるそうだが率直に言うといたく不味そうである…

遺物は武具と書籍のみ

2017年05月22日 17:59

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 05:54:36.32 ID:Pj7Ed7SX
直江兼続の最愛の一子・平八景明が、本多正信の媒酌で近江国膳所城主・戸田氏鉄
<今の戸田伯爵家>の娘と江戸で婚儀を挙げる時、

戸田家より朱塗の膳椀に金蒔絵の道具が着いたので、直江家の役人たちが、「これに
相応する道具を準備するべきでしょうか?」と、兼続に尋ねたところ、

兼続は、「それはもってのほかである。もし、対等の膳椀でなければ婚礼させられぬと
あらば早速破約する。武士の魂である刀や槍に錆がなければ、何の恥ずべきところが
あろうか。朱塗の膳椀が何だというのか」と、言ったという。(『我郷の先哲』)

兼続はこの如く倹約であったが、社会に有益な事業には多額の私財を投じて惜しまな
かった。慶長11年には文選60巻を刊行して文化に貢献し、その他にも論語などをも
出版したとのことである。

また元和4年には禅林寺<後の法泉寺>を建立して、学僧・九山を招き開祖となしたが、
これは寺子屋式に子弟を教育し、また藩学の興隆を図ったのである。

この如くして、上杉家の大元老の遺物は武具と書籍のみであったといわれている。

――『直江兼続伝』



942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 06:00:16.06 ID:rKmpoToj
こういうの見ても直江兼続に対するバショクや趙括的なイメージが拭いきれないんだよね

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/22(月) 06:12:03.24 ID:qz+Ugzga
大河や漫画やらでそんなイメージはないなw

直江兼続の衣食住は

2017年05月21日 15:12

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 02:49:51.97 ID:ReHkwYuF
直江兼続の衣食住は非常に倹素であり、食事の如きも山椒3粒で済ませた。

中条越前守が蓼漬と蛮椒(唐辛子)を用いたのを兼続は見咎めて、「どれか
一品になさるのが良いであろう」と、忠告したとある(『愛日漫録』)が、実際、
余程粗末のものであったと見える。

また色部修理のところへであろうか、招かれた時に雁の吸い物を差し出した
として亭主に断り、「奢りである」と言って、その汁を食べなかった。かつその
用人を追放させたとのことである。(『鶴城叢書』)

衣服も頗る質素で、今上杉家に保存されている兼続が着用した浅黄綾子の
羽織を照らし合わせると、これは彼の衣服でも最上等のものであるが、裏は
黄金色の練らない絹で、細かい継ぎ切れを縫い合わせたものである。
(『我郷の先哲』)

――『直江兼続伝』



923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 05:50:16.60 ID:7S0zCOK5
山椒って高いよね

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 06:44:56.33 ID:BtCnM7UP
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1419.html?sp&sp
こっちでは「おかずに蓼は贅沢!塩だけで十分!」

蓼か唐辛子かどちらかにしていても文句言ったようだ

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 07:43:47.93 ID:epP0gEsi
倹約して貯めた金はどこに消えたんだ?

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 09:05:52.09 ID:C40FsJar
誰のせいでこうなった!

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 10:18:35.12 ID:9hLRGUoc
大酒呑みの基地外だろうね

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 10:55:42.70 ID:k0AZsbIn
戦国時代は香辛料をおかずにご飯を食べるのが普通だったのか?

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/21(日) 12:15:20.27 ID:3gTOYsOw
>>928
まあ遠回しに「そのくらい美食を遠ざけ倹約してたんだよ!」って言っているんだよ

林家の古き家紋に、杏葉牡丹を用ゆること

2017年05月20日 16:22

林羅山   
916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/19(金) 22:29:10.06 ID:gjHSfxW0
林家〔大学頭〕の古き家紋に、杏葉牡丹を用ゆること〔嘗て近衛公より賜る所〕

林子(述斎)に会った日に、彼が着ていた継肩衣の紋に見馴れない牡丹をつけていた。
その故を問うと話してくれた。

「我が家の祖先の道春は初めは浪人儒者で、京に住んでいました。
その頃に近衛公に召されて特別に目をかけられ、遂にかの家の牡丹紋を賜ったといいます。」

予は悪口に

「これまで長年に渡り交友してきた中でその紋を見かけたことがなかったので、
あなたの新作ではないかと思いましたよ。
そもそも今の御台所(広大院)に媚びてことではないのですか?」

などと言って戯れ笑った。

実にその賜紋は古き伝えがあり、
今も林家の古器には杏葉牡丹を蒔絵を施したものが往々あるとか。

(甲子夜話続編)


直江兼続は断じて反対し

2017年05月20日 16:21

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/20(土) 02:31:20.56 ID:WjJkd30J
上杉家が30万石に減封させられた時、老臣の中には、「この際、30万石の丈に
見合った家臣の数に減らすべき」とのことを提案した者もいたが、

直江兼続は断じて反対し、「この如き際には、人ほど大切なものはない。一同が
協力して復興を計るべきである」として、

新季奉公の牢人たちで去る者は追わなかったが、旧来の家臣は1人も去ることを
許さなかったということである。

――『直江兼続伝(天雷子続)』


物音の響に差別あり

2017年05月19日 08:32

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/18(木) 23:53:24.50 ID:96cWxcdH
日根野法印(弘就)が、弟の弥二右衛門と、同じ陣屋にて寝ていた所、外で騒がしい物音がした。

弥二右衛門はすぐに起き上がり甲冑に身を固めた。この時寝ていた法印が「外にて物音の高いのは何か?」と
尋ねた。
「夜討ちでありましょう」
「私もそのように聞こえる」

法印がそう言っている内に、弥二右衛門槍を取って出ていった。

そして法印は起き上がり槍を取って、「弥二右衛門は?」と近習に問うと、「すでに御出です。」と答えた。

「要らざることをやったものだ。おそらく負傷するだろう。」

そうつぶやいている所に弥二右衛門が帰ってきた。彼に法印が聞いた
「変わったことは無かったか?」
「この先で夜討ちがありましたが、早くも事すみました、」
「要らぬことをしたものだ。負傷しなかったか?」
「少し手傷を負いました。」
そう答えたという。

日根野法印は度々の功多く、物事に慣れており、自然とその言葉は戦の法則にかなっていたという。
後に法印はこの時のことを問われて

「物音の響に、天に答えると地に答えるの差別が有る。地に響くのは皆実事であり、
天に響くのは皆虚事である。あの夜の物音は空に響いていた。であるので事必ず実では無いと考えたのだ。」

そう言ったそうだ。

(士談)



913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/19(金) 00:06:27.35 ID:Of6eGCz3
就いた側の多くが滅んじゃった日根野さんだけど
斎藤→今川→浅井→長島一向一揆→織田信長→(豊臣秀吉)→秀次→関ヶ原で西軍に内通?
そもそも優秀じゃないと就職できないよね

阿波殿へは御感状を下された

2017年05月19日 08:31

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/19(金) 06:57:41.17 ID:33GwbRVH
阿波殿(蜂須賀至鎮)の家来・朝比奈右衛門と同右京という者は、
馬口労ヶ淵で下知して功があった(大坂冬の陣・博労淵の戦い)。

佐竹殿(義宣)は家来の働きは良かったが、義宣の支配(指揮か)
は(徳川家康の)御意に入らなかったのだろうか。

阿波殿へは御感状を下されたが、佐竹殿へは家来にだけ下された。

――『武功雑記』