三好実休、良かれと思って

2016年09月25日 17:30

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/25(日) 17:22:56.44 ID:WSppQdy/
徳雲院様(細川持隆)の北の方は、周防の大内殿の娘であった。
彼女は、岡本美濃守の娘の小少将殿と申す人を小女房として奉公させていた。
ところが北の方には御子がなく、持隆は小少将殿に目をかけられ、やがて若君一人(細川真之)を産んだ。

三好実休細川持隆を切腹させた後、「主君に御腹召させたのは天道恐ろしき事であり、
この若君を置いて前々のように主君として崇めよう。」とし、そうして小少将殿を自身の
妻に据えた。やがて実休とこの小少将の間に子ができた。この子は幼名を千代松といい、
烏帽子名は彦次郎。御名乗を長治という。

(三好記)

三好実休、良かれと思って細川真之を擁立し小少将を妻にした、というお話。なお




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【ニュース】裏表のない「正直ヒラメ」発見

2016年09月24日 09:09

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 00:59:13.74 ID:JPViE3/E
【山口】裏表のない「正直ヒラメ」発見 体の両面が茶褐色 萩博物館で25日まで展示
http://www.asahi.com/articles/ASJ9R5T46J9RTIPE01P.html

コレは山口だが、まーくんの「両側が表の魚」の逸話はこういう魚を使ったんだろうな。
よく見つかったもんだ。

関連
伊達政宗『両面が表の魚』・悪い話

一休さんと次休さん

2016年09月24日 09:06

103 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/24(土) 06:59:51.42 ID:O5X/52cq
一休さんと次休さん

大永四年(1524年)、大内義興が嫡男義隆らと共に2万の兵を持って尼子経久に属する安芸の諸勢力を攻めた時の事。
安芸の守護武田光和が篭る銀山城を陶道麒(興房)と包囲した義隆であったが、堅固な銀山城の前に城攻めが長引いていた。
そんなある日、義隆は諸軍に備えを解かぬ様固く申し付けると、道麒を誘い根の次休蔵主の旧跡を見に土地の古老を道案内として出掛けた。

山を越え、谷を深く下り、道も細く丸木の橋も朽ち掛けた道を行き、漸く次休蔵主庵の跡へ着くと、
百年余りの歳月を経た為今や庵室は跡も無く成り果て、境界さえ見分けがたく、深い苔に礎も埋もれ、池の水は枯れ果て(以下長いので略)… と言った有様であった。
義隆は眼に映るものごとに心を動かされ、蔵主の昔のことを聞きたく思い、道案内の老人に話を乞うた。

古老曰く、申し伝えによれば百年余り前三蔵主とは。山城紫野の純蔵主(一休)、伊勢の養源寺の虎蔵主、それに安芸の次休蔵主のこととか、いずれも世に聞こえた禅僧であった。
その一人の一休禅師はある日「安芸の次休は深山の中に入り、跡をくらまし、名を隠そうとしておる。かの所に赴き、その邪か正かを見分けよう」と、次休に会いに紫野を旅立った。
次休蔵主は現在過去未来三世通達の僧ゆえ、一休の訪問を予め感知し、侍者に向かい
一休宗純が私を試みようとたった今、龍宝山を、出発したよ」
とおっしゃり、そののち
「今日こそ到着の日、美味い魚を取ってもてなしてやろう」
と遥か遠い川辺に出て、釣り糸を垂れていた。一休はもとよりこれを知らぬが、川辺まで来て釣り糸を垂れる次休に
「これ、おじいさん。次休蔵主の庵室を知っておいでか?」
と問うと、次休は
「あなたは純蔵主でしょう」
と答え、一休は愕然として
「あなたは神通方便でも得ておるのか?なぜ拙僧の名を知っておられるのか?」
と尋ねた。次休はこれに
「貴方は私を試みる為にここまで来たのでしょう、私が次休です。」
と、名乗り手をたずさえ庵室に入り歓談が始まった。

104 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/24(土) 07:00:01.39 ID:O5X/52cq
次休は自ら釣ったすずきの膾やじゅん菜の吸い物を進め
「あなたの旅の疲れを慰める為、わたしの神通方便をお見せしましょう」
と、皿の中の銀糸に作った膾をとって、むしゃむしゃと噛み
「この魚を再び元の魚に返してみせましょう」
と皿の上に吐き出した。」
すると、すずきはたちまち生き返って跳ね上がり、龍門三級の波を起こす程の勢いであった。
一休はこれを見て
「あなたは魚を再び生きた魚とされた(中略)拙僧はまたこの魚を仏にしてお目にかけましょう。」
と言うと、裳裾を高々と掲げて、
あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!!!!!! )
と敷物の上に糞を垂れ
「万法は一に帰す。食は尽く糞に帰す。されば糞中の虫である三世の諸仏は、この中に隠れておりますぞ。
昔の少康師は、一度南無と唱えれば、一体の仏、口より湧き出でさせ、続けて十声唱えれば、十体の仏を出したとか。
彼は口中より仏を出だす。拙僧は肛門から仏を出だす。少康師よりなお勝っていることよ」
と、手を打って大笑いした。

次休、これを見て「風顛漢め、人々をたぶらかすまいぞ」とおっしゃって、また一杯の水を口に含んで吐き出されると、炎となって空中にほとばしった。
一休は「あなたは孫博が草木をしてみな火光に変じた術を会得しておられるのか。(中略)拙僧もまた活手段を行じましょう」
と、鉢の水を飲んで、仏殿の内に向かい小便をし、「あなたは水を転じて火をなされた。拙僧はまた、山は是れ山、水は是れ水じゃによって、元の水に返したのじゃ」
とおっしゃった。
次休は「あなたは私を試みるがため、こうしてわざわざやって来られ、私はまたあなたの知恵を計るため、このような方便をお見せしました。
あなたはいまだ神通力を得ておらぬものの、自由自在の手段を用いられた。おかげさまで今日初めて高僧と言うものにお会いできたわけです。
我が禅宗、この国に伝わって年久しいが、今あなたが現れて、さだめし大いに世に興隆することでしょう」
と褒め称え給うたと申します。一休もまた「わたしもまた、生身の文殊支利菩薩にお会いできました」と、三度拝礼して、やがて暇乞いし、帰京した。(長いので以下略)


(陰徳太平記)



105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 07:57:01.24 ID:XO9yYF3G
ダイナミックすぎる

107 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/24(土) 09:18:00.61 ID:IZtf/wAU
とりあえずこの後は京に帰った一休さんが、次休がナンバーワンだと周りに語ったり次休が超能力で遠くの寺の火事を消したりする話を古老がして大内義隆から褒美貰って
大内義隆が、安芸を征服した暁には此処にまた大きな伽藍を建ててやると語って、大内義隆の安芸征服は是からだ、義隆先生の次回作にご期待くださいエンド

>>105
奇人と名高い一休さんも後世に脱糞ニキにされるとは思うまい

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 15:49:26.64 ID:VxWqyVUz
>>103-104
一休さんの奇人エピソード多すぎぃ!
時代がちょっとずれそうだけど劇中劇?だからいいか。

蛇姫と血洗いの池

2016年09月23日 14:27

196 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/22(木) 21:59:52.19 ID:dJOGzWtm
蛇姫と血洗いの池

毛利元就の初陣にして、西国の桶狭間とも言われる有田中井手の戦い。数で勝る武田元繁の軍を5分の1の寡兵で打ち破り、元就の武名を一躍高めたのがこの戦である。
この戦で敗死した武将の1人に、安芸武田家重臣の熊谷元直が居たのであるが、彼の遺骸は戦場に置き去りにされたままであった。
元直の妻は父親、香川光景が大蛇退治をした(実際に退治したのは弟で家臣の香川勝雄)事などから蛇姫とあだ名される女性であったが
夫の骸を持ち帰らなかった家臣らに腹を立て、その夜馬に乗ると1人戦場跡に赴き首の無い数々の死体の中から元直の腕に有った腫れ物の痕を頼りに夫の遺骸を探した。
やっとの思いで夫の遺骸を見付けた蛇姫であったが、彼女の力では夫の遺骸を馬に乗せ持ち帰ることができず、
彼女は泣く泣く夫の右腕を切り取って持ち帰り、熊谷氏の菩提寺である観音寺に湧く井戸で持ち帰った右腕を洗い清めて亡き夫を弔った。
観音寺は今は史跡として残るのみであるが、その境内には蛇姫が夫の右腕を洗い清めた血洗いの井戸が今も「清泉」と呼ばれ残っている。

http://www.cf.city.hiroshima.jp/kabe-k/kabemap03.pdf
(広島県史他)



197 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/22(木) 22:04:52.04 ID:dJOGzWtm
>>196追記
なお、右腕は清められた後に埋葬したとされるが、続武将感状記によると元直の妻こと蛇姫はこの後死ぬまで夫の右腕を大事に持って居たとのことである…

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 22:11:03.64 ID:S011pzfY
名前と前半の紹介のせいでてっきり清姫のような半分妖怪か剛力な女性かと思いきや
心はともかく体は普通の女性並であったか

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 22:11:49.47 ID:ZPAfABT5
>>197
いい話が恐いい話になってるじゃねーかw

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 23:44:40.35 ID:aXC+X0IO
一物じゃなくて右腕?よっぽど小さかったんだな

201 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/23(金) 00:10:03.80 ID:T7h1F4dk
この女丈夫の娘は絶世の美女、孫娘は後に実家の香川家の一族が書いた陰徳太平記によるとゴニョゴニョ… のあの人

原文「唯今虫けらのやうなる子ども候」

2016年09月23日 14:25

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 21:29:35.60 ID:SBZd/A5r
今発売中の別冊宝島「戦国史を動かした武将の書簡」というものに、武将の手紙が
カラー写真で載っている。文章は知っていたが、手紙そのものをカラーで見るのは初めてのものも
多い。その中で、ちょっと悪いかもしれない話。

原 文「唯今虫けらのやうなる子ども候」
        ↓
口語訳「虫けらのような分別のない庶子がいる」

虫けら呼ばわりだが、原文の手紙を見ると、年少の子どもなので
「まだ小さくて、物事の分別がつかない虫のような子どもたち」という、気の毒に思っている
ニュアンスがある。



97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 23:41:33.75 ID:aXC+X0IO
元就「虫けらのくせに立場をわきまえないから家騒動や謀叛が起きるんだよ。

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/23(金) 12:29:28.42 ID:v51T/mcu
虫けらの子孫が毛利の嫡流になるとは
思っても居ない元就でした

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 05:46:27.15 ID:MebFjYs2
3人が結束すれば、3本の矢のようにと、先祖の遺書を読み上げて訓示するが、
虫けらのことは伏せとく情報操作。

102 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/24(土) 06:25:36.41 ID:O5X/52cq
>>101
広島城の二の丸にその虫けら云々ぬ手紙展示してあった気がする

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 09:13:36.90 ID:FJgE9Zqf
ノブも信忠と信雄以外の子供はガチで虫けら扱いだったけど
なぜか信孝だけは例外

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 10:26:50.80 ID:lCi6cimj
信長自身が庶長子差し置いて家督を継いでるから
庶子と嫡子の扱いが全然違うし
戦国では常識なんだよな

権現様が異常なだけ

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 14:06:08.96 ID:lApELJe1
烏帽子親が柴田勝家だもんな
津田信澄が養育されてたのも柴田勝家
佐久間盛政といい柴田勝政といい勝家が教育した子供は有能だ

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 18:33:59.69 ID:MebFjYs2
>>102 サンフレッチェは、3本(サン)の矢という意味だそうだが、
2軍選手に向かって、虫けらのよう
と言ったらやはり怒り出すだろうか。

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 19:18:08.76 ID:VxWqyVUz
言葉の意味や使い方なんて時代で変わるんだから、今の価値観で虫けら?酷い!ってのはいかがなものか。
子供の「供」は供物、って意味だから問題があるなんて言葉狩りが最近あって、メディアではひらがな表記になったとか。

300年後には昔の人は子「供」と書いてる、野蛮!と言われるようになるのかな。

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/24(土) 23:49:36.43 ID:0CbiVLMf
>>114
数年前、嫁が役員やってる子供会の名称が、「〇〇市子ども育成会」に変更になった。
こどもはおとなの「供」ではない!との観点から、名称を「子供育成会」から「子ども育成会」に変更しました、って説明受けたが・・・。

表裏して主君を果たした事は

2016年09月22日 21:29

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 14:26:37.91 ID:Dv6EZXBZ
天文22年、阿波守護である徳雲院様(細川持隆)は腹立ちの事があり、奉行人の四宮与吉兵衛という者と
談合し、

三好実休を相撲があると知らせ呼び寄せ、討ち果たそう』

そう仰せに成った。この時、相談相手の四宮与吉兵衛が実休に返り忠をしているとは、持隆は夢にも
知らなかった。
持隆は用心もなく勝端の町の北の河端に、龍音寺という寺が在ったが、そこに遊山に出かけた所、
実休は上郡の人数二千を呼び寄せこの付近に集結させた。

これを知った持隆は肝を潰し、そこから堅昌寺という寺に移ったが、お供の者達は藪へ隠れ方々に
逃散して、最後には星相殿と蓮池清助という者の2人のみがお供をしているという有様であった。

ここで実休は持隆の無道を悪み、「たった今、お腹を召されよ」と申し付け、これにより
星相殿が介錯をして切腹された。蓮池清助という者は不肖者ではあったが、常々持隆の悪しき点を
申し上げ諫言していたため、御意に違い御扶持も枯れ枯れの状態であったにもかかわらず、
「お供申す」と立ち腹を切って果てた。この清助の最後を褒めぬ者は居なかった。

実休はこの後、返り忠をした四宮与吉兵衛に知行を与えたが、1年間召し使った後に成敗した。
この時実休はこう言った
「どんな身の上であっても、表裏して主君を果たした事は、悪きことである。」
この処分を人々は褒め称え、また四宮与吉兵衛を悪まぬ者はいなかった。

(三好記)




94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 20:13:44.66 ID:5ZQAlpas
>「どんな身の上であっても、表裏して主君を果たした事は、悪きことである。」

爆弾正「果たしてそうでござろうか?」

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 21:11:25.97 ID:aXC+X0IO
持隆の側室を妻にした下剋上男が何を言うか

週間ブログ拍手ランキング【09/15~/21】

2016年09月22日 21:28

09/15~/21のブログ拍手ランキングです!



「これを食べて温まれ」 15

大砲の功 14

旗下の小出氏、家紋の事 13
十三匁の大鉄砲で 13
血がついた手の跡、足形、またはすべったかとみえる痕 11

出家とは家を出ると書くので 10
ところが、却って本知行の3倍 10
神祖御山駕銃丸之細聞 10

村松芳休の笛 6
東海沢庵の事蹟 4



今週の1位はこちら!「これを食べて温まれ」です!
徳川家康が供の者達に温かいかゆを与えたお話。
戦国武将はこの家康に限らず、兵卒の困難を極力助けようとする逸話が多くあります。
武田勝頼にも、戦地で寒さに震える兵たちが勝手に寺を破壊してそれを燃やして暖を取っていたのを宥し罪を問わなかった、
なんて話が残っていますね。
そのように苦楽を共にする事で、心情的にも家臣と一体化することは、戦国大名にとって生き残る上での
非情に大切な要素ではなかったかと思います。そんなことをふと思った逸話でした。

2位はこちら!大砲の功です!
菅沼定芳が大砲をむしろ水平に撃てといって成功したというお話。
大阪の陣にこんな逸話が在ったのですね。
大阪の陣の徳川方の大砲と言えば、空中を飛んでいったイメージばかりで、水平に、そしてバウンドさせることで
敵の被害を大きくする、という発想はありませんでした。
案外本当に、こういう戦術が取られたのかも、なんて思いました。なんだか大阪冬の陣のイメージが変わりそうですw

今週管理人が気になった逸話はこちら!血がついた手の跡、足形、またはすべったかとみえる痕です!
「血天井」って日本各地にかなりあって、それがどこまで事実か解りませんが、ある意味、戦国から近世初期の、武士の精神を
象徴する遺物、という感じを持ちます。
そして長い歴史の中で、多くの人々が、それを大切なものだと感じていたからこそ、現代に至るまで多くが保存されて
いるのでしょう。
もしかしたらこういう角度から、日本人論を展開できるのかもしれません。そんな事を考えた逸話でした。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に居いただきました。いつも有難うございます!
また気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!



ところで、このブログの、2010年3月1日からの累計閲覧者数が、ついに5千万人を突破しました!
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ごせんまん…なんだか気の遠くなりそうな数字ですw
これも本当に、いつも見に来ていただいている皆さん、本スレのみなさん。このブログに関わっていただいている、
すべての皆さんのおかげだと思っています。本当に有難うございます。

これからもどうぞ、戦国ちょっといい話悪い話まとめを、宜しくお願い致します。

しかし5千万行ったら記念に何かやろうと漠然と考えていたのですが、思ったより早く達成して大慌てです。
どうしよう(;´Д`)

「声で聞き取れ馬鹿者め!!」

2016年09月21日 14:12

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/20(火) 20:41:46.34 ID:b/22oOZi
元和元年、大阪夏の陣でのこと。

5月6日朝、菅沼定芳の属する本多忠政隊は、道明寺口にて大阪方の後藤又兵衛基次、薄田隼人正兼相、
井上小左衛門時利たちの部隊と戦った。

菅沼定芳の家臣である菅沼権右衛門定栄は、騎馬武者30人ばかり預り、大阪方の侍大将、
井上小左衛門時利と渡り合い、互いに組み合いとなった。
井上時利は剛強なる者であり、定栄を組み敷きまさに首を取らんとした。

この時菅沼定栄の若党が気が付き、急ぎ駆け付けたが、時利も定栄も同じ毛の物具を着けていたため
見分けがつかず、大声で聞いた

「菅沼権右衛門は上か、下か!?」

ところが両人同時に答えた

「上だ!」「下だ!」

これに若党は、何れが自分の主人なのかと狼狽えた。しかし下に居た菅沼定栄が叫んだ

「声で聞き取れ馬鹿者め!!」

この言葉で若党は気付き、すぐさま井上時利を斬りつけた。
流石剛勇の時利もこれに怯んだ所を、主従力を合わせて彼の首を取った。

(菅沼勲功記)



89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/21(水) 10:33:11.80 ID:8ubvevsu
後藤基次「そこはニヤニヤしながら眺めなされ」

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/21(水) 18:43:13.55 ID:yeydsKu6
「この口の悪さ、殿様に違いねえ!」

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/21(水) 19:10:03.72 ID:tHBPXEBD
うまいな

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/21(水) 22:42:00.20 ID:vph+TqPt
スタートレックのカーク船長であったな
こんなシーン

大砲の功

2016年09月20日 17:05

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/20(火) 14:17:48.59 ID:b/22oOZi
大阪冬の陣のとき、菅沼左近定芳は、本多美濃守忠政の組にあって、備前島に仕寄を附けた。
ここは大阪城の近辺であったため、徳川家康より大砲数十挺が下されていた。
しかしここでの大砲による攻撃は、思ったような戦果を上げなかった。

このような中。定芳は御鉄砲方の井上外記正純、稲富宮内重次、牧野清兵衛正成にこう言った
「この頃放つところの鉄砲は、城の上を越して効果がありません。今後は、
石垣の下、水際の上辺りを狙って放つべきでしょう。」

先の三人は定芳のこの指図を守って大砲を放つと、案のごとく命中し、城の塀、櫓を破壊した。
これに大阪城中にあった女子供は肝を消し、魂を失ったという。
この後、和議が入りついに和平となった。

その後、将軍徳川秀忠は伏見城において菅沼定芳を召し、大阪城攻めにおける大砲の功を大いに賞賛し、
御前において黄金二十枚を下賜されたという。

(菅沼勲功記)





東海沢庵の事蹟

2016年09月19日 18:46

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/19(月) 16:11:52.63 ID:1AA2sznt
東海沢庵の事蹟

この頃ある僧の話で聞いた。
猷廟(家光)がかわいがって待遇した東海寺の沢庵和尚は、
もとは遠流に処せられていたが、柳生但州(宗矩)の上言で召還されて帰参した。
このときの狂歌で、

上意ゆえ還りたくあん(沢庵)思えども おえど(江戸・穢土)と聞けばむさしきたなし


また沢庵が御茶の御相手に出たとき、御釜の沸湯が蓋の辺りから滴るのを将軍様が御覧になられて

てき(敵・滴)がおつるおつる

との上意があると、応じて

ひつくんで(引く組む・汲む)とれとれ(捕れ)

と言った。その敏捷さはこのようであったと。

林子(述斎)曰く、これは島原陣のときのことであろうかと。
なるほどそうでもあるだろう。

『延宝伝燈録』には

「慶長十四年の春に大徳寺の住持に出世したが、三日だけ山にいて、
退鼓(禅寺で住持が退く時の説法を知らせる鼓)を打って泉南に帰った。
豊臣秀頼公及び一時の侯伯は、招請を重ねてしたが、師は全てに赴かなかった。
寛永六年秋、大徳出世之事により羽州へ貶められた。
謫居(遠方へ流されること)すること四年、欽命(君主の命令)により赦されて還った。
大将軍家光源公東海寺を創って、師に命じて開山祖とした。」

(甲子夜話続編)



「これを食べて温まれ」

2016年09月18日 19:55

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/18(日) 03:12:19.37 ID:4NzmdNYH
どこの地のことか、ほど遠き所に徳川家康が鷹狩りをした時、折りしも雪が
降り出して、御供の輩は濡れてびしょびしょになった。

家康はその様子を見て御輿の戸を開け、「とても趣深い景色だな」と言って、
自らも濡れ添って仮の住宅に到着した。

けれども、家康は自身にかかった雪を払おうともせずに、「急いで粥を煮よ」
と言って、粥を煮始め、少し粥を食べると、残りはすべて御供の者に与えて、
「これを食べて温まれ」と、言った。

そのため、いずれの者も家康の親愛の情のもったいなさに恩情を感じて、
寒さを忘れる思いであったという。

――『徳川実紀(天野逸話)』



189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/18(日) 12:53:56.74 ID:ir+aQQzx
お粥よりも所領が欲しいでござる

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/18(日) 15:46:41.50 ID:RaAWbAxx
>>189
所領よりも茶器が…

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/18(日) 19:19:53.62 ID:l6cLM822
>>191
美濃・尾張でよろしいか?

出家とは家を出ると書くので

2016年09月18日 19:55

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/18(日) 15:45:37.41 ID:Z9kSc8Dz
板倉伊賀守(勝重)殿は、齢七十余りとなったので、功名がかない遂げたと身を退き、
嫡子周防守(重宗)殿がついで天下の所司代となった。

そのころ、上京のある家主が二十余りの子を残して亡くなった。
母は継母であった。
その母が
「子には家を渡してはならない。私が跡式を取れとの夫の遺言があった。」
と言う。
子は眼前の親子である私を除けて、他に誰が家を執れるだろうかと怒り、所司代へ双方が出頭した。
互いに自分の意向を口上していたが、その中で母が
「後家と書いて何と読みますか。」
と申した。周防守は
「後の家と読む」
と言うと
「そうならば、私が相続することが当然でしょう。」
と申す。そこで、
「まず帰って、重ねて詮索するとしよう。」
とのこととなった。
妻は宿に戻って、
「公事は勝った。ならば尼となろう。」
と親類と言い合せた。
再び裁許を下すとまた裁判の場に出て行くと、周防守は
「そちは髪を剃ったのか。」
母にたずねられた。
「そうでございます。二度夫を持ったり、憂世に望み持つことはありませんので
思いを決めて出家の姿になりました。」
そう言い終ったすぐに周防守殿は
「出家とは家を出ると書くので、この座敷からすぐに家を出よ」
と申し渡された。

(醒睡笑)



ところが、却って本知行の3倍

2016年09月17日 20:16

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/16(金) 21:05:01.80 ID:SRMLoQW2
天正18年、徳川家康の関東入国にあたり、家康は彦坂元正を派遣して菅沼定盈にその所領分限を尋ねた。

その頃定盈は東三河でも2,3を争う大身であったのだが、課役の重くなるのを恐れ、彦坂元正と相談の上
所領三千貫(三千貫とあるが三千石の誤りか)と言上した。
ところが、却って本知行の3倍、一万石を賜り、上野国阿保(一節に阿布)に移った。

菅沼定盈は阿保において隠居し、家督を嫡子新八郎定仍に譲った後、定仍に与えられた伊勢長島において
慶長九年七月十八日、六三歳にて逝去した。


(野田戦記)

軍役が嫌で所領少なめに申告したらその三倍もらっちゃったでござるの巻



86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/16(金) 22:41:53.10 ID:3G+Fzqpe
三千貫なら一万石でだいたい合ってる気もする

血がついた手の跡、足形、またはすべったかとみえる痕

2016年09月17日 20:14

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/17(土) 00:25:27.25 ID:iAZnnAm7
方広寺大仏殿開帳(天保三年,1832年)のとき、
京都を通行した者が来て、そこで聞いた話をしてくれた。

かの大仏の宮の殿内、宝物を置いた間が所々ある中で、
書院の縁側、幅二間長さ十間ばかりの所の板天井に
血がついた手の跡、足形、またはすべったかとみえる痕がある。
その色赤いのもある。黒づいているのもある。
板天井一面がこのようである。

人に伝わっているところでは、
昔関白秀次生害のとき、随従の人が腹切り刺違えなどして死んだときの
板敷の板を、後に天井板にしたものという。

(甲子夜話続編)




村松芳休の笛

2016年09月16日 14:55

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/16(金) 00:06:48.75 ID:SRMLoQW2
武田信玄に攻められていた三河野田城に籠城する者の中に、村松芳休(一節に法休)という者があった。
彼は伊勢国山田の出身で、笛の名人(異名を小笛芳休といった)であった。

この者、武田軍に包囲された野田城にあって、毎夜櫓に上って笛を吹いた。寄せ手の諸将も
これを聞いて、大いに感じ入ったと云う。
ある夜、芳休が例のごとく笛を吹き、その妙を極めた。この時武田信玄が陣廻りをしていて
この笛の音を聞き

「優しくも、明日を限りと覚悟して吹いているように感じる。しかし当世の笛の上手の中で、
これに過ぎる者があろうか。」

そう語ると、矢文を城中に射込ませた。その上書きには『笛の殿へ参る』と書かれていた。
その内容はどのようなものであったか、今に伝わっていない。きっと笛の妙技を賞美したのであろう。

菅沼家譜によると、この村松芳休が毎夜笛を吹き、敵もこれに聞き入る中、2月9日、竹を立て
紙を張り巡らせた中で堀端にて笛を聞く者が居た。これを鳥居三左衛門が訝り、この竹を目印にして
鉄砲を仕掛けおいた。

その夜、芳休がまた笛を吹くと、あの竹のあたりに人声が聞こえた。鳥居は敵が笛の音を聞きに
現れたことを知って、矢場より鉄砲を撃った。目当ての竹のあたりで、「大将が撃たれた!」と
叫ぶ声が上がり、敵陣は暫くの間驚動した。この時の鉄砲は、信玄に当たったのだと言い伝わる。

(野田戦記)



82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/16(金) 10:12:01.06 ID:NIv0BKyK
尼子政久「無粋なやつめ」

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/16(金) 11:09:41.21 ID:BKFh2dMD
三村家親「まったくだぜ」

神祖御山駕銃丸之細聞

2016年09月16日 14:54

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/16(金) 13:36:01.71 ID:B78Kd0Cs
神祖御山駕銃丸之細聞

前に、今の林祭酒(述斎)が日光御蔵にある神祖の御山駕籠を拝見されたときに、
この御駕籠の屋根から銃丸を見下ろしに打ち貫いてあることを知った。
何者がかかる非逆の所為をしたのかとの念が止まらなかったところに、
近頃宗耕にこの事いかんと問うと、以下の話をしてくれた。

「『武徳大成』には、
慶長十九寅年十月二十一日、彦根松原で神祖の御駕籠へ鉄砲を打ち入れた者がいた。
御目付山本新五右衛門が吟味したところ、
真田の家来の日下部五郎左衛門と申す者によることだとことであった。」
との記述があるらしい。

これによれば、大坂御陣のときと見える。
真田の奸計は、これに始まらないことであるが、彦根の松原は御味方随一の地であるのに、
ここにガマリをこのように出してきたのは、流石真田である。
されども御当家の御剛運は、神明諸仏も加護があるので、
いかに真田といえどもとても及ぶ所ではない。
そのうえおかしいことに、このように打ち損じたら人々は驚いてすぐ捜索するというのに、
日下部は木の上に居たので、逃げ遁れることも叶わずすぐに生け捕らえられたということだ。
筆記するだけでも笑えてくるのは、しかたのないことだ。
喜々粲々

(甲子夜話三篇)




旗下の小出氏、家紋の事

2016年09月15日 18:02

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/15(木) 02:26:23.43 ID:ae8hTDE4
旗下の小出氏、家紋の事

小出亀之助という〔二千石〕当時御使番であった人、
予も知り合いで武辺者であった。

この人の家紋は、額の中に二八と文字があった。
予はその理由を問うと

「我が先祖は、某の所〔地名は忘れた〕で首十六を獲って、
その辺にあった祠の額に積んで実検に及んだ。
神祖は功労を褒めなさって、その状況を家紋にせよと命じられたので
このようになった。」

と言った。

(甲子夜話)




186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/15(木) 09:57:21.49 ID:iJHDEto5
タマヒュン…

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/15(木) 11:33:14.84 ID:OdXk2K2O
蕎麦じゃねぇんだから

十三匁の大鉄砲で

2016年09月14日 11:20

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/13(火) 22:35:22.83 ID:hfbveeZ4
武田信玄による三河野田城攻めの最中、野田城の者達が会合していた時に、
戯れに「敵の陣屋を焼いて、あいつらが慌ててる所を見たいなあ。」という発言が有った。
ここに、城主菅沼定盈の下僕(草履取り)に喜徳という水練の達人が有った。
この話を聞いていた喜徳はある夜、闇に乗じて忍び出て、桑淵の堀をやすやすと泳ぎ越えると
城外に出て、密かに敵の陣小屋に火を投げ掛けた。

この時風激しく、見る見るうちに假屋百軒あまりを焼き払った。
敵は「それ、夜討ちだ!」と上に下に騒動した。

この時、野田城には鉄砲の名人、鳥居半四郎という者があった。彼は徳川家康
浜松より、籠城前に送られた十三匁の大鉄砲を装備していた。彼は武田の陣が火災にて
おおいに騒動しているのを見ると、城中よりこの鉄砲にて敵陣に向け、誰かは解らぬが
大将分と思しき者を目掛けて撃った。
この語、敵の陣は暫くの間大騒ぎと成った。
後で聞こえた所によると、この時の弾丸が、武田信玄の股に当たったのだという。

(野田戦記)




週間ブログ拍手ランキング【09/08~/14】

2016年09月14日 11:16

09/08~/14までのブログ拍手ランキングです!


薩隅の戦国お菓子 いこもち 35

遂に矢種が尽きて 29

佐竹(東)義久の事 23
須賀川の城落つる事 21
どうしてかつての仇敵に縁のある人々を率いて 19

【雑談】元忠系鳥居家について 15
「このような者を討ち取るのは士の本意にあらず」 13
長篠合戦の図〔鉄炮片眼打の事〕 13

毛利陸奥守大江朝臣元就という人物 12
菅沼”柄漏” 8
大坂御城中、深夜には殺気ある事 4
彦根侯邸に棲める雉 4


今週の1位はこちら!薩隅の戦国お菓子 いこもちです!
鹿児島に伝わるフランシスコ・ザビエル由来のお菓子、いこもちのお話。

ザビエルの由来の、こんなお菓子も有ったのですね。寡聞にして知りませんでした。現在は色々なバリエーションも
あるようで、実に美味しそうです。ザビエル由来のお菓子といえば、大分のその名も「ざびえる」なんて有名ですね。
一度、ザビエルの関わりのある地の、ザビエル由来のお菓子の一覧なんて見てみたく成りました。

2位はこちら!遂に矢種が尽きてです!
野田城籠城戦で活躍した小楠又右衛門とその妻のお話。いやあ、強いw
本多忠勝が晩年、「昔の女は今の若武者よりよほど強かった」なんて事を言っていましたが、こういう逸話を見ると、なるほどなあと
納得してしまいますね。実際に戦国時代は、いざと成れば戦闘員として戦う女性も多かったようです。
そういう世の中であったことを、しみじみ思い出させてもくれたお話でした。

今週管理人が気になった逸話はこちら!佐竹(東)義久の事です!
佐竹義久にこういう逸話が有ったとは。関ヶ原の頃の、佐竹家の家中の動向を想像させて、実に興味深いです。
表面的に考えれば、義久が佐竹家の中で親徳川の代表的な人物だったところからくる逸話なのでしょう。
それだけに彼の早すぎる死は、現在でも色々と言われていたりします。義宣が佐竹の分裂、あるいは佐竹の家督を
乗っ取られることを恐れて暗殺したのではないか、と。そういう事が囁かれるくらい、関ヶ原後の佐竹家中で、思い存在だったので
しょうね。そんな、いろんなことを想像させてくれる逸話だと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも有難うございます!
また気に入った逸話があったら、そこの拍手ボタンを押してみてくださいね!
( ´ ▽ ` )

大坂御城中、深夜には殺気ある事

2016年09月13日 21:24

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/13(火) 16:32:21.63 ID:u8uFI+D3
大坂御城中、深夜には殺気ある事

新庄駿河守直規というのは〔常州麻生領主、一万石〕予の縁家で活達直情な人である。
寛政中、抜擢されて大番頭となった。

彼の話に、大坂在番に行って、御城中に居ると深夜などは騒々しい音がある。
松風かと戸を開いて聞くと、そうではなく正しく人馬喧乱争の声を遠く聞くようである。
しばらくすると止むが、時々このような事がある。
大坂の合戦で戦没の人の魂気が残っているためだと伝わっている。

予は奇聞と思い、その後在番した人に問うと、その事は知らないと言う。

駿州はでたらめを言う人ではない。
心無い輩は何事も気づかないのであろうか。

(甲子夜話)


どうやら、静山さんは洒落の通じない人は気に食わないようです