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今川仮名目録より、喧嘩について

2020年12月03日 18:20

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/03(木) 12:44:44.22 ID:rvcPObyw
一、喧嘩に及ぶ輩は、その理非を論ぜず両方ともに死罪が行われる。また相手が喧嘩をけしかけてきても
  堪忍し、それによって疵を受けた場合、それ自体は武士にとって非儀ではあるが、当座の穏便の働きは、
  その人物にとって、罪を免じられる利運と成る。
  かつ又、与力の輩が喧嘩の場において疵を蒙り、又は死んだとしても、相手に対して訴訟することは
  出来ないと、先年既に定めている。
  喧嘩をした人物の成敗は、とりあえずはその当人一人の所罪であるのだから、妻子、家内等に罪をかける
  べきではない。但し当人がその場から逃走した場合は、妻子もその咎にかかるべきであるが、その場合も
  死罪まで申し付けるべきではない。

一、喧嘩の双方の相手の方人より様々に申し立て、その張本人が分明に成らないことが有る。その時は、
  その現場において喧嘩をとりもち走り回り、あまつさえ疵を被った者を、張本人として成敗に及ぶ
  べきである。
  また、その処分の後から実際の張本人が露呈した場合は、その主人の覚悟によって処分しなければならない。

一、被官人による喧嘩、並びに盗賊の咎がその主人に及ばないのは勿論であるが、それらの罪状の仔細が
  明らかではなく、その仔細を尋ねると称してそのまま置いている内に、その者が逃亡した場合は
  その主人の所領一ヶ所を没収し、またその所領を持たない場合は罪過に処す。

一、童が誤って友を殺害し、それについて意趣の無い場合は、成敗には及ばない。但し十五歳以上の者は
  罪を免れない。

今川仮名目録

今川仮名目録の、喧嘩両成敗を始めとした喧嘩についての記述



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今川義忠討死の後の内乱と和睦

2020年12月02日 19:36

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/02(水) 12:52:32.92 ID:X4bDmgcV
駿河国は、今川義忠討死の後大いに乱れ、合戦が数度に及んだこと関東に聞こえると。伊豆の御所より
上杉治部少輔政憲を大将として、三百余騎にて馳せ向かった。また上杉扇谷修理太夫殿(定正)より
代官として、太田左衛門大夫(道灌)、三百余騎にて馳せ登り、両陣は狐ヶ崎八幡山に陣取って、
対立している駿河衆の両陣へ使いを以て申した

『今度、豆州様(足利政知)、扇谷殿より我々が派遣された理由は、今川殿御討死の跡、御息幼少にて
上を軽んじ、各々わたくしの闘争を行うとは何事であろうか。どちらであっても、今川殿に逆心ある方に
向かって一矢仕り候との上命をふくみ、罷り向かったのである。定めて一方は御敵であろう。
御返答次第に、一合戦仕るべし。』

と、委細申し送ったが、今川の両陣ともその返答に及ばず、きまりも悪くなり陣を引いた。しかし
猶も和談はなかったため、大田、上杉は御館へ参り評定し、和談のはかりごとをめぐらせていた。

このような所に、今川義忠の嫡男である龍王殿の御母は、北川殿と申して、京公方の御執事である
伊勢守殿の御姪であり、先年、義忠御上洛の時、ふとしたことで御迎えになり、若君が誕生されたため、
北川殿として新殿を作りそこに居られた。

この北川殿の弟は、伊勢新九郎長氏と申す人で、その頃備中国より京に上り、今出川殿(足利義視)に
付けられていたが、今出川殿が伊勢御下向の時お供をして下り、それより姉君を尋ねて駿河国に下向されたが、
折節この乱に参り遭い、関東より加勢の両大将に相談をした

「かように家来の人々が二つに分かれて合戦をするのは、今川家滅亡の基となります。尤も主人に対して
意趣が無いのであれば、謀反人では有りませんが、主の家を滅ぼすのは、これに過ぎる悪事はありません。
各々の御扱いを用いず、和融の儀が無いのであれば、京都の御下知を承り、豆州様と申し合わせ、一方を
退治仕りましょう。
もし又、御扱いを承り、尤もと一同し、和談のことが定まれば、私は龍王殿の御在所を存じておりますので、
お迎えに参り御館へ返し奉ります。」

これに関東の両大将も、尤もであると一同し、この条々を駿河衆の両陣へ申し送った。駿河衆も、よしなき
私の戦を起こし、主の行方さえ知れず迷惑の砌に、このような扱いが有ることを大いに喜び、早々に両陣を
引いて、御館より共に、惣社浅間の神前にて神水を呑み、両方和談は相調った。

この時龍王殿は、山西の有徳人と聞こえる小川法栄の元に御座していた、法栄は「このような乱が
なければ、どうして譜代の主君が、このような山家に入られ、数日も御座あるべきでしょうか。」と、
龍王殿、御母公諸共に色々ともてなし慰められていた。そして和談が調うと伊勢新九郎が迎えにまいったため、
「これは目出度き次第である。」と喜び、新九郎を初めとして、御迎えの人々に、馬鞍以下、数々の引出物を
贈り、法栄父子も御供申し、駿府の御館は入り奉った。

駿府に戻られるとすぐに、龍王殿は御元服あり、今川新五郎氏親と申し奉った。
その頃、豆州様が御改名あり、始めは政知と申していたのを、『氏満』と御改めになっていた。これは
鎌倉殿(鎌倉公方)の御名乗り(通字)であり、御早世の御一門の御名乗りを、この方で取るのは、
かの幸いをこの方にて継ぐという事であり、必ず御名乗りを取るという習慣が有ったのである。
これによって氏満と御改名されたという。
龍王殿は、豆州様を御烏帽子親に頼まれた故に、氏満の氏の字を付けられ給いて、『氏親』と名乗られたと
聞こえる。

法栄の子は、今川殿近習となった、長谷川等是である。
伊勢新九郎は今度の忠功莫大であるとして、富士郡下方庄を給わり、高国寺(興国寺)の城に在城した。

今川記

今川記』より、今川義忠討死の後の内乱と和睦について



丁寧に借りパク宣言するむりうじ公

2020年12月02日 19:35

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/02(水) 14:05:18.04 ID:LrkvWOEY
蘆名盛氏、太鼓方の出向延長を伊達輝宗へ要請

~前略~
然らば加納弥兵衛去年より逗留し申し候
内々に御当方へお届けの為、近日罷り立つべくの由申し候
然しと雖も、盛隆太鼓の稽古一向に罷りならざりし候
当春中より秋まで徒に数日を送り候
当冬中に稽古致す為、来春二、三月の時分きっときっとと返す返すも申すべく候間、お暇給わり候わば祝着たるべく候
盛隆稽古し申し候間、斯くの如く申し候
謹言恐々

(天正四年か)九月十三日 蘆名止々斎 花押
米沢(伊達輝宗) 江
(東大史料編纂所 編 大日本古文書

超訳
去年からお借りしてた能の太鼓方の加納弥兵衛、そろそろ送り届けないといけないのですが息子がダラダラしてちっとも稽古できませんで
本来なら二、三月には絶対の絶対にお帰ししますと何度も何度もお約束しなくてはいけないのですけれど
来春まで猶予して頂けたら喜ばしいことでございます
息子も稽古し出しましたので、このようにお願いします

丁寧に借りパク宣言するむりうじ公であったとさ
輝宗の立場がちょっと悪い話



週刊ブログ拍手ランキング【11/26~12/02】

2020年12月02日 14:52

11/26~12/02のブログ拍手ランキングです!


秀吉との起請文 11

筒井順慶について 9
みなみな無になってしまったのに 9

明智令押領之由被聞食訖 8
なからへて 三好を忍世なりせは 7
謡を忘れないように 7

『是非死に候へ』と思し召されているのに 6
徳川秀忠の追善供養に対する違和感 5
高綱が つらまでよごす四郎かな 5


今週の1位はこちら!秀吉との起請文です!
これは色々と、面白い逸話ですねー。
おそらく江戸期に作られたもので、それも伊達政宗と井伊直孝の、百万石のお墨付きの話を下敷きにして(そもそもそれも
後世の逸話ですが)、如水と半兵衛に変えたものだと思われます。それが『勢州記事』という、基本的に竹中半兵衛にも
黒田如水にも、あまり関係のない地域の軍記に記載されているという事も含めて、なかなか想像力を膨らましてくれます。
その上で、半兵衛と如水、或いは秀吉と如水の関係性についての、人々の認識を伝えてくれるものだと思います。
如水は秀吉とそもそもは同格だったという考え方、また竹中半兵衛とも友人だったという認識など、いかにも軍記的な
表現ではありますが、ある意味、今に繋がる認識でも有ると思います。
いわゆる秀吉の「両兵衛」を考える上でも、興味深いお話だと思いました。

2位はこちら!筒井順慶についてです!
大河にも出てきた筒井順慶についてのお話です。ここに書かれている内容自体は、必ずしも正確ではない、というか
間違っている事も多いのですが、おそらくは彼が「器量の人」であり、「武威を振るった」事を強調する描き方でもあったの
でしょう。彼が優れた戦国大名であったことに、強い印象を持っていたのですね。
本記事のレスにも有りましたが、たしかに筒井順昭・順慶父子は、揃ってそれぞれ「元の木阿弥」、「洞ヶ峠をきめ込む」
という故事を残しているのですね。このあたりから、当時の畿内における筒井氏、或いは大和国の存在感を感じる
事もできそうです。こちらも色々と読み取れる内容だと思いました。

今週は同票でもう一つ!みなみな無になってしまったのにです!
関ヶ原で西軍に付いたとされ、処分された前田利政の赦免についての芳春院の、認識の認識が表わされていますが、
この件はどうも色々と複雑なようで、利政赦免を拒否していたのは、その実兄の利長であったともされ、そもそも関ヶ原で
彼を「西軍」としたのも利長の訴えであったとも言われ、どうも前田家内部の紛争がベースに有り、ただ家康が言を左右にして
前田家を振り回した、という話でも無い模様です。
、前田利長には男児が無かったことから、慶長5年に利家と側室の子であった利常を養子とし、その系統が前田家当主となります。
利家と芳春院の系統は、大名家としては存続出来ませんでした。あるいはその事による焦燥が、この書状に表れているのかも
知れません。(利政の息子である直之は前田家の重臣として召し抱えられ、その系統は、明治まで存続しますが、
彼の待遇をめぐり芳春院と利常の生母・寿福院の間で対立が起こっています)。
当時の前田家を廻る状況を調べていくと、また様々に受け取れる内容だと感じました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話を見つけられたときは、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

徳川秀忠の追善供養に対する違和感

2020年12月01日 19:49

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/29(日) 21:35:00.62 ID:w2E/PteA
徳川秀忠の追善供養に対する違和感


将軍・秀忠が亡くなった際、譜代衆を始め国持大名の中でも追善供養をする動きがあった。
ただ家康が亡くなった際は追善供養をしていなかったこともあり、細川忠利は父・忠興に
追善供養を申しつけられるまで指図を待つことを伝えている。【細川忠利文書 四九〇号】

以下はその後の続報を意訳して抜粋。【細川忠利文書 四九八号】

一、相國様(秀忠)の御弔に、右衛門佐(黒田忠之)・松阿波守(蜂須賀忠英)・浅但州(浅野長晟)
  なども千部経を修したことについて、森作州(森忠政)が申されたので、残らず左様に
  (申し付けられるのならば)どうするべきかと話しました。(忠政は)
  「このほかははっきりと存じませんが、私は不要と強く思っていたので申し付けられませんでした。
   三斎様(細川忠興)も(不要だと思っているので)仰せつけられないでしょう」
  とのことでした。
  
――『細川家史料

『是非死に候へ』と思し召されているのに

2020年12月01日 16:58

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/01(火) 12:01:01.12 ID:YV3sJxZy
武田方に於いては、信長・家康が両旗にて長篠に後詰することを勝頼が聞き家老中を呼び、明日の軍評議が
あった。勝頼はここで、このように仰せになった
「明日は我々より押し懸けて、一戦を仕るべし。」
これに馬場美濃、内藤、山縣らは目を見合わせ、申し上げた。

「明日の御合戦については、御尤とは申し上げられません。何故ならば、敵は両旗にて殊に大軍です。
その上、我々は他国に踏み越えており、一つとして味方勝利を見つけられません。
今度、ここでおくれを取れば、弓矢の御損多く有るでしょう。ですので今回は馬を返されるべきです。
そうすれば、信長・家康の両人も馬を返すでしょうし、その上で又少しの間を置いて勢を出されれば、
信長も手前の上方の用などが有るので、度々はこちらに出陣することは出来ないでしょう。
その時は、長篠は思し召しのままに御手に入ります。」

勝頼はこれに「武田の家に、合戦を回避して、敵に後ろを見せたことはない。その上信長・家康が
大軍で我らを追撃してくれば、家の疵でも有り、また敵に勢いを付けることにも成る。」と仰せになった。
これに対して馬場は申し上げた
「我らを追撃して押し入るのならば、猶以て願うところです。彼等を信州伊那に引き入れて防戦をすれば、
地元での戦いでも有り、勝利疑い有りません。」

しかし勝頼は、全くお聞き入れにならなかった。そこで馬場、山縣、内藤が申し上げた
「そういう事でしたら、明日、長篠城を力攻めにすれば、人数千ばかりは損ずるでしょうが、即時に攻め落とす
事ができるでしょう。そして門城の掃除をし、屋形様を入れ置き、我らはその前の山に出張って防戦を仕ります。
そのようにしては如何でしょうか?」

勝頼はこれに「武田の家にて籠城を仕ったことこれ無し。今私は籠城など思いも寄らない。」と仰せになった。

そこで内藤が申し上げた
「それでしたら、長篠には押さえに二千を置き、屋形様はこの上の山に御陣城をお構えになり、先手の者共は、
あの山に備え、敵を引き受け合戦仕るべし。」

しかし勝頼は「我々から押しかけ合戦有れば、勝利すると思っている。異なことを申す。」と仰せになられた。
この時、長坂長閑斎が申した。「憚りながら、私もそのように存じます。法性院様(信玄)の時分であれば、
何れもこのような反論を申さなかったでしょう。」

これを聞いて内藤は立腹し、長坂と口論に及んだ。これに勝頼は「いやいや、口論はいらない。
旗楯無も上覧、明日の合戦は回避しない!」と仰せに成った。
そこで家老衆も、この誓言の上は料簡を申し上げること出来ず、「下々へも、明日の合戦を申し触れます」と、
その場を立った。
この時、馬場は長坂長閑斎に申した
「御異見申すが、我々は明日の合戦で討ち死に仕る。各々は、我々の討ち死にを見てから甲州に帰り、その事を
物語されるように。」

そして罷り立ち、皆々との別れ際に
「さてさて、法性院様御在世の時は、あはれ討ち死にを仕って御奉公したいと心がけていたのだが、終に
討ち死には出来ず、今まで存命してしまった。
そして、当屋形様には『是非死に候へ』と思し召されているのに、命が惜しいとは。大将の心入とは
このように有るものか。」と、からからと笑って立ち別れた。

(長篠合戰物語)

長篠の戦い前日の、武田方での軍議について



秀吉との起請文

2020年11月30日 17:35

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/30(月) 15:26:11.84 ID:gfdmzC+B
黒田如水は、元来秀吉と無二の盟友であった上に、互いに片方の身代が良くなっても、片方を
必ず見捨てないという起請を取り交わしていた。

そして秀吉が天下を取られた時、如水には所領として□石を遣わしたが、彼はこれを不足に思い、
諸事やる気の無い体であった。

竹中半兵衛は又、如水と良き知音であった。ある夜、彼は如水のところへ行き、よもやまの話をしていたが、
この時如水が、かの起請の事を言い出した。半兵衛が「それを一度見たい」と言ったため、取り出して
一覧する体で眺めた。この時、火に当たっていたのだが、半兵衛はこの起請を引き裂き、火に入れて燃やした。

如水は驚いて、「これは何とするのか」と申すと、半兵衛は
「この起請があるから、秀吉に対しても不足が出来、諸事心に叶わぬことのみとなるのだ。
これがなければそのような事も無いだろう。」
と、申した。

その後は如水も仕合わせ良く、大名になったという。

勢州記事

黒田如水に、政宗の百万石のお墨付きみたいな話があったのですね。



筒井順慶について

2020年11月29日 17:46

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/29(日) 14:09:44.75 ID:ytRvdkqs
筒井順慶の先祖は近衛の家より出た人であるという。
順慶の親は順興といい(正確には順興は祖父。父は”元の木阿弥”の逸話で有名な順昭)、
順慶は一度は南都に出家として在ったが、彼は器量の人であり、還俗して武威を振るい、
国中の過半を討ち従え、添下郡筒井という所に平城を築いて居城とした。

その頃の領地は、現代の知行高で六万石ほどであったが、甥、或いは妹聟多く、一門広き故に
勢力が手広くなり、大和国の大半を手に入れられた。

大和軍記

大和軍記の、筒井順慶についての説明



734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/29(日) 20:01:30.24 ID:jy++18Cl
>>733
親子でことわざに残るようなことをやるってなかなか凄いな
大して大物でもないのに

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/29(日) 20:20:59.79 ID:ajwkpj2B
順慶は洞ヶ峠を決め込むの元ネタ(史実ではないけれど)にもなってるね
まあ戦国時代の名のある武将なら一つや二つはあるんじゃね

なからへて 三好を忍世なりせは

2020年11月28日 16:50

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/28(土) 13:33:04.26 ID:mBxLLQga
(細川政元暗殺(細川殿の変)後、その首謀者の一人であった香西元長は、細川高国らによって
討ち取られ、その居城である嵐山城は陥落した。)

さて、京都は先ず静謐のように成り、細川澄元は近江国甲賀より上洛された。そして京都の成敗は、
万事三好(之長)に任された。これによって、以前は澄元方であるとして方々に闕所(領地没収)、
検断(追補)され、逐電に及んだ者多かったが、今は(香西らが擁立した細川)澄之方であるとして、
地下、在家、寺庵に至るまで、辛い目に遭っている。科のある者も、罪のない者も、どうにも成らないのが
ただこの頃の反復である。

両度の取り合いによって、善畠院、上野治部少輔、故安富筑後守、故薬師寺備前守、同三郎左衛門尉、
香西又六(元長)、同孫六、秋庭、安富、香河たちの私宅等を始めとして、或いは焼失し、或いは
毀し取って広野のように見え、その荒れ果てた有様は、ただ枯蘇城のうてな(高殿)、咸陽宮の
滅びし昔の夢にも、かくやと思われるばかりであった。
そして諸道も廃れ果て、理非ということも弁えず、政道も無く、上下迷乱する有様は、いったいどのように
成りゆく世の中かと、嘆かぬ人も居なかった。

以前は、香西又六が嵐山城の堀を掘る人夫として、山城国中に人夫役をかけたが、今は細川澄元屋形の
堀を掘るとして、九重の内に夫役をかけ、三好之長も私宅の堀を掘る人夫として、辺土洛外に人夫役をかけ
堀を掘った。

城を都の内に拵えるというのは、静謐の世に却って乱世を招くに似ており、いかなる者がやったのか、
落書が書かれた

 きこしめせ 弥々乱を おこし米 又はほりほり 又はほりほり
 京中は 此程よりも あふりこふ 今日もほりほり 明日もほりほり
 さりとては 嵐の山をみよしとの ひらにほりをは ほらすともあれ

この返事と思しいもので

 なからへて 三好を忍世なりせは 命いきても何かはせん
 何とへか 是ほど米のやすき世に あはのみよしをひたささるらん
 花さかり 今は三好と思ふとも はては嵐の風やちらさん

この他色々の落書が多いと雖も、なかなか書き尽くすことは出来ない。

細川大心院記



高綱が つらまでよごす四郎かな

2020年11月27日 16:23

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/27(金) 00:59:50.04 ID:Z34yHn6S
佐々木六角四郎(高頼ヵ)が、(足利)義澄将軍に御味方することを申し上げて在京すると聞かれ、
将軍よりご褒美が有り、また細川九郎澄之も、万事を相談し、頼みに思っていた。

この四郎の被官に、甲賀山家の、強盗のようなことをしている者で、三雲という者があった。
彼は、細川澄之と対立する細川澄元を討って参らすと申し、いくばくかの鳥目まで早くも請取っており、
心安く思われている所に、六角四郎は都を出奔して、七月二五日の白昼に逃げ落ち下った。
それより京都は以ての外に騒動して、女童などは逃げ惑い、貨財雑具を持ち運び、身を隠す場所を
尋ねる有様は、中々表現する言葉も無かった。

その頃、六角四郎のこのような行動を憎しと思うものがやったのか

 高綱が つらまでよごす四郎かな たらすばかりか銭も盗みて

という落書が立った。実に保元の古の乱の時、安芸判官平基盛承りて、法性院大路を堅めた所に、
大和国の住人、宇野七郎親治が上がってくるのを、綸旨に依って上がるのかと問われた時、如何せんと
思ったが、仮にも武士が偽りを言うのは家の傷、後代の名折れと思い、院宣に従って上るのだと、
真っ直ぐに名乗って討ち死にしたというのに、それから変わってしまったものだと、京童達は笑った。

(細川大心院記)



みなみな無になってしまったのに

2020年11月26日 17:09

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/26(木) 16:47:46.99 ID:Jq8EZIPS
みなみな無になってしまったのに

前田利家の次男・利政は関ヶ原合戦の折に改易され、その後は京に隠棲した。
一時は本多佐渡から兄の利長に「(利政を)国の端にでも置くように」と家康の仰せがあったと伝えられ
母のまつ(芳春院)も利政の放免を喜んでいたが、実現することはなかった。
年次不詳だが、利政の処遇についてまつが嘆く書状が残されている。(前田土佐守家資料館蔵)


本当に度々人を遣わして下さるので嬉しく思っています。孫四郎(利政)のことは
初めはするするとしたお返事を(家康が)申されたのですが、今は色々なことがあり
勢いがありません。側で人がどれだけ力を入れても許されなかったので、好機は済んだのでしょう。
大御所さま(家康)は御口が上手いので、(自分の)死んだ後のことまで申されるそうですが
太閤さま(秀吉)が日本の衆に政治をさせ、どれほどの多くのことを仰せられていても
みなみな無になってしまったのに、おかしなことだと思います。
こんなことを申すのは、我が身の因果の程(報い)を感じるようになり、仏心にも見放されたと
思っているからです。九月より喉のあたりが腫れてきて、胸も痛く”けんかん”の薬を飲みました。
合間合間に飲んでいるからか、腫れてはいますが物はよく食べることが出来ているので、安心して下さい。
めでたくかしく

十月六日 より
おちよ御返事 参 ちま はう(芳)
申給へ



464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/26(木) 19:08:52.41 ID:ydaJNGMI
親子共にケチだから分家つくるの嫌がったのかね?

謡を忘れないように

2020年11月26日 16:49

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/25(水) 22:49:42.84 ID:yU8rReX6
謡を忘れないように


慶長14年(1609年)4月28日、駿府城の三の丸で、家康の息子の徳川頼宣(このとき8歳)と
池田輝政の息子で家康の孫にあたる忠継(11歳)、忠雄(8歳)、輝澄(6歳)で能が行われた。
このとき、忠継は母や兄弟と共に駿府に来た後、一度江戸に上りまた駿府に下って能をし
同年5月には四品に叙せられた礼として参内しているので江戸での叙任のお祝いとしての興行だったのだろう。
(寛政重修諸家譜によると叙任したのは慶長13年としているが間違いだと思われる。)

『伊達文庫 古之御能組』によると、能組は三輪・船弁慶・皇帝を頼宣、翁、鶴亀、江口、葵上を忠継、
車僧・経政を忠雄、猩々を輝澄が務めたという。(いずれもシテ)
この催しに関する池田輝政の書状が残っている。能が武将の嗜みとして重要だったことが窺える。

【鳥取県立博物館蔵池田輝政書状】
今春(金春)と話しましたが、近頃はいよいよその通り(能稽古を)専一にしているそうですね。
常陸殿(頼宣)も能をされるそうなので、事前に能組を尋ねた後でこちらの能組を決めて
内々に(家康の)御目にかけてもよいよう、万事落ち度のないようにするのがもっともです。
(こちらが)源氏供養をするのは無用かと存じます。また、能はまちがいなく一日中でしょう。
勝五郎(忠雄)は車僧がよいですが、常陸殿がされるのならば仕方ありません。
謡を忘れないように合間合間に油断なく稽古をするのがもっともです。

  卯月十九日    三左衛門(池田輝政
         おしん 参る
                  以上
尚々能の数なども事前にどれだけかその意を得て、おりへ、伊予に右の通り藤松(忠継)の
稽古のことを申して下さい。已上



明智令押領之由被聞食訖

2020年11月25日 17:02

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/25(水) 15:12:48.57 ID:OxAEvWpj
元亀二年十二月十一日

早朝、竹門より御使として宮内卿が来られた。禁裏より織田信長へ綸旨を出すこと、
同じく薫物(たきもの)十貝を渡すことへの異存について返答した。
綸旨の内容は、このようなものであった

今度就山門之儀、諸門跡領、明智令押領之由被聞食訖
諸門跡領之儀者、為朝恩天下安全之護持之事候條、
可混山門之儀更不可有之候、既及退転之間歎思召候、
諸門跡領悉以無別儀之様被申付者、可悦思召之由、
天気所候也、仍執達如件、

(今度の山門(比叡山)の事について、諸門跡の領地を、明智光秀が横領していると(天皇が)聞き
及ばれました。
諸門跡領については、天下安全を護持するための朝恩であり、山門領と一緒にすべきではありません。
既に退転に及んだというその嘆きを思し召され、諸門跡領悉く、別儀無いと申し付けられれば、
悦ばしく思われるでしょう。
天気(天皇の意思)所候なり。執達件の如し)


十二月十日  左中辨 晴豐
   織田彈正忠殿

言継卿記

比叡山焼き討ち後、明智光秀が諸門跡領まで横領したことに対して、朝廷よりその停止を求めた
信長への綸旨。



週刊ブログ拍手ランキング【11/19~/25】

2020年11月25日 16:02

11/19~/25のブログ拍手ランキングです!


腰抜の吹は鳴らぬ物ぞ 8
この人が亡くなったと告げられた時 8

『三好』と人に云い伝わっているのは 7

こうしなければ、信長は私を生かさない 6
佛の嘘をば方便と云い、武士の嘘をば武略と云う 5
里村紹巴とうるまの島 5

比叡山焼き討ちについて 4
里村紹巴法橋は、奈良の住人であった 4



今週の1位はこちら!腰抜の吹は鳴らぬ物ぞです!
本多正重の、蒲生氏郷に対する暴言(?)についてのお話ですね。
この正重は、徳川→滝川一益→前田利家→蒲生氏郷→徳川、という仕官歴を経る人であり、同時代の「勇者」らしい
経歴でもあります。この人の経歴で少し面白いのは、彼が仕えたのは全員、織豊系大名であるという所ですね。
甥で、諱が同音ので、また経歴も似ている事から混同されがちな本多政重も、仕官歴は上杉景勝以外、織豊直系大名であり
また流転で有名な水野勝成も、基本的に織豊系に士官していますね。
これは勿論、織豊系が当時の中心的勢力であり、多くの武士を雇い入れる事において「景気が良かった」、という事が
あるのでしょうが、また徳川家から出た武士にとって、織豊系が、様々な意味で馴染みやすい、という面もあったのかな、
と想像します。まあこの逸話の内容は、馴染みやすかったにしても曲乱に過ぎますがw
最後に徳川の家臣が出てきて、結果的に氏郷が、正重も逃がすと判断したあたりも、創作にせよ史実にせよ、
色々と想像させる内容だな、とも思いました。

今週は同票でもう一つ!この人が亡くなったと告げられた時です!
里村紹巴の死についての細川幽斎の嘆き、という内容ですが、これを書いた松永貞徳は、明らかに里村紹巴に対して
良い印象を持っておらず、(良い面を書いてはいても)、その感情を隠そうとはしていませんね。
おそらく、松永貞徳の世代の歌人は紹巴について、里村紹巴法橋は、奈良の住人であったと併せて、
彼の連歌は出世の道具であった、という印象が存在したのでしょう。
ではあっても、紹巴の事を「乞食の容」と評した三条西公条を、「師」として終生尊崇した彼の人間性については
高く評価しており、幽斎の嘆きも、その人間性に対するものであったと考えると、そこにはまた、歌の世界における
また別種のドラマを感じられる気がする、そんな内容だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!こうしなければ、信長は私を生かさないです!
この松永久秀を亡ぼした信貴山城の戦いは、例の、秀吉が北陸戦線から無断で撤収し、信長から叱責を受け
謹慎した後の、いわば名誉挽回の合戦でも有ったわけですね。
実際には、織田信忠が総大将であり、また、おそらく最も激しく戦ったのも、久秀の大和における直接の敵であった
筒井順慶で、秀吉がこのように主体的に活躍した、とは考えにくいと言えます。
おそらくは、後の豊太閤伝説の中で、北陸撤退からの一連のストーリーとして形成されたのだと思われますが、
この中の秀吉、或いは信長のキャラクターとしての表現に、色々と感じさせるものがありますね。
そういう意味でも、興味深い内容だと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

生於憂患而死於安楽

2020年11月24日 16:09

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/24(火) 13:43:05.82 ID:tVvbLjeX
藤原惺窩が浅野紀伊守(幸長)殿の所で、孟子一段を講談した。
生於憂患而死於安楽(憂患の時は生きて、安楽に成ると死す)
という段であった。

講談後、紀伊守殿は
「私は石田治部(三成)と関係が悪かった。そのため治部存生の間は、励んで人から非を入れられず、
また身も健固であった。

今、治部が死し、その上御所様とも懇ろ、佐竹、島津などとは殊の外の待遇である。
しかしこれによって気が緩み、病気が却って生じた。
賢人の語、少しも相違これなし。」

と、云われた

老人雑話



719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/24(火) 14:49:40.33 ID:N1fTShw8
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4598.html
浅野幸長「賢者の言葉に相違なし」


こっちは意訳のせいか微妙に違うような

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/24(火) 17:09:25.07 ID:teRrzDH8
孟子といえば1616年に明で刻本された「五雑俎」卷四 地部二によれば

倭奴亦重儒書,信佛法,凡中國經書,皆以重價購之,獨無《孟子》,云:「有攜其書往者,舟輒覆溺。」此亦一奇事也。

孟子を船に乗せると沈むから孟子は日本にないとか
もし惺窩がなんとか中国に行けて科挙受けようとしたら
孟子も知らないくせに受験するのか?とかからかわれたかな

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/24(火) 17:40:46.57 ID:ACrPSF1Y
しっかし、なんでこんなに儒教が広まるのは遅れたんだろ?
たしか戦国時代までは僧侶の間での教養レベルでしょ?

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/24(火) 22:25:57.67 ID:SHF4mFjm
戦国時代は下剋上だしそりゃ広まんわ

佛の嘘をば方便と云い、武士の嘘をば武略と云う

2020年11月23日 16:16

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/23(月) 13:00:14.80 ID:ZmTOtX/e
日向守明智(光秀)云わく、佛の嘘をば方便と云い、武士の嘘をば武略と云う。
土民百姓はかはゆきこと也、と。
名言也

老人雑話

有名な話ですが、出典は老人雑話だったのですね



『三好』と人に云い伝わっているのは

2020年11月22日 15:37

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/22(日) 14:01:02.62 ID:w52fk8aL
『三好』と人に云い伝わっているのは、三好修理太夫(長慶)の事である。
彼は細川を亡ぼして、一家繁盛した。

修理太夫は光源院殿(足利義輝)の乱(永禄の変)の以前に病死した。

彼の家中に、三人衆といって、主だった三人の家臣があった。三好日向守(長逸)という者も
その一人である。永禄八年に義輝を弑したのはこの三人衆である。

修理を、昔は人呼んで「作左」と云ったという。また三人衆とは不和であったという。

老人雑話

老人雑話成立の頃には、永禄の変の時に三好長慶は既に死んでいたというのが知られていたんですね。



里村紹巴とうるまの島

2020年11月22日 15:36

458 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/11/22(日) 13:39:25.81 ID:StDhz9Oi
wikipediaうるまの島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%82%8B%E3%81%BE%E3%81%AE%E5%B3%B6



里村紹巴といえば何気なく大きな影響を一つ

「うるま」は沖縄の雅称として知られ、沖縄本島南部にうるま市も存在し、その語源は沖縄方言の「珊瑚の島(うる(珊瑚)ま(島))」と言われています

ところが実際は韓国語にその起源があり、1004年に因幡に漂着した朝鮮半島の鬱陵島(ウルルン島)島民が話題になったことが語源のようです

・うるまの島の人のここに放たれて来てここの人の物言ふを聞きも知らでなんあるといふ頃返事せぬ女に遣はしける
(うるまの島の人が日本に漂流してきて、日本人の言葉を聞いてもわからないでいるという評判の頃に、返歌をしない女に送った歌)
・おぼつかなうるまの島の人なれやわが言の葉を知らず顔なる(心もとないことだ。うるまの島の人だからだろうか、わたしの贈った和歌に知らぬ顔をしているのは)

その当時に藤原公任が詠んだこの歌で「うるま」が有名になり、更に辺境の島の代名詞となって、後に本土を訪れた琉球国の人々を指す言葉と化してしまったらしい

これを前提にしたうえで『狭衣物語』の注釈書に、紹巴が「琉球をうるまの島と云と也」と書いてしまったことで定着したとされています


ただ、沖縄県民自身が「うるま」を自称しはじめたのは明治以降のことのようですね
本土の文人たちがうるまうるまと言うから自認するようになったらしい
うるま沖縄方言説も近い言葉を当てはめてなんとか作ったもののようで


個人の記述がついに地方自治体名にまでなった一例と言えるだろうか?



比叡山焼き討ちについて

2020年11月22日 15:35

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/22(日) 15:15:05.29 ID:AyJDst3j
9月朔日より3日に至り、信長は志村・小川・金ヶ森三城を攻落し、猛威に乗じて12日には大軍を勢揃いして
比叡山にぞ向かいける。これは延暦寺の衆徒が朝倉・浅井に一味して信長を討ち滅ぼさんと謀り、朝倉・浅井の
方へ軍糧まで運んだが故に、信長の憤りは大方ならず、急に攻め立てたられたのである。

山門の大衆は昔より猛威を張って、王命をも武威をも物の数とせざる習いであったため、法衣の上に甲冑を着し、
念珠を離すまじき手には太刀・長刀を引っさげて、坂下に下り立ち散々に切り立てれば、織田勢はこれに追い崩
され坂より下に追い落された。されども寄手は大勢なので新手を入れ替えて、踏み越え踏み越え攻め戦う。

その間に信長は忍の兵を山上に紛れ入らせ、堂社仏閣僧坊ことごとくに火を放たせた。折しも魔風吹き散り峰々
谷々院々坊々を黒煙が覆い火炎一円に蔓延れば、山法師どもは心は弥猛にはやれども、後ろからは猛火に責めら
れ、前からは敵に囲まれて逃げ出る道はなし。寄手の大軍は時を得て切り伏せ薙ぎ伏せ、たまたま逃れた者は縲
絏の恥を受け、法師児童おしなべて助かる者は稀だったのである。

今年今日はいかなる日であろうか。元亀2年(1571)9月12日、その昔、桓武天皇が伝教大師と御心を合
わせて草創し給いし王城鎮護の零場、根本中堂、文珠楼、日吉山王二十一社、およそ山上の三塔院々、経蔵、仏
宇、神社、一宇も残らず焦土となる。浅ましかりける事どもなり。

この時、金剛相模という悪僧は強弓の手練れであったが、如意ヶ嶽から2度まで信長を狙い射た。されども当た
らず。信長は山門を焼滅し、山麓に新城を構造して明智十兵衛光秀に守らせ、信長は岐阜へ帰陣せられける。

――『改正三河後風土記(武徳編年集成・織田真記)』


この時、信長公は東坂本の大鳥居をまっすぐに攻め上らせ給うと、山門の中衆、金剛相模という法師は無双の大
力強弓で、如意嵩から狙いすまして大きな矢をひょうと放つ。その矢は信長公の召されたる御馬の太腹に当たり、
馬はただ一矢に倒れてそのまま死に入った。

信長公はそれから大鳥居の石の上に腰掛けて居直り給い、諸方の焼けるのを御覧になっているところを、相模は
また二の矢を放った。その矢は信長公の腰掛けなさる石に当たり、たちまち砕けた。それより近習の軍兵どもは
鶴瓶打ちに鉄砲を揃え如意嵩へ撃ちかければ、相模はそれよりその場を落ち失せて行方知れずになったのである。

流石の精兵強弓なれども信長公の御運強く、2つの矢を射損じた。その矢の根は1尺2寸。後には京都大仏伝の
宝蔵に伝わり、籠め置かれた。信長公の腰掛石も坂本の大鳥居に近頃まで残った。

――『織田軍記(総見記)』



こうしなければ、信長は私を生かさない

2020年11月21日 15:30

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/21(土) 13:24:14.64 ID:h/eHLwQj
松永霜台(久秀)籠城の時、信長はその討ち手として太閤(秀吉)を遣わした。
秀吉は箇条書きを以て信長に注進した。その内容は

『某日、二之丸を破る、某日、本丸を破る、某日、霜台の首を取る。』

と、今後の予定が著されていた。
右筆が「これは如何なものでしょか」と云うと、秀吉は

「こうしなければ、信長は私を生かさない。もしこの通りに成らなければ死ぬ。」と云った。
そしてその期日通りに、無理に討ち破り、首を筺に入れて信長に報じた。
これを見て信長は云った

「これは偽である。霜台は首になっても、我が前に出てくる者に非ず。筑前は機知にて
この事を為したのだろう。」

筺を開くと果たしてその通りであった。
霜台は遂に降伏せず、鉄砲の薬に火をかけ、自ら焚死した。

老人雑話