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流石増田の子だ

2018年08月15日 11:17

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 22:30:22.72 ID:q6HYpvs1
大阪五奉行の一人であった増田右衛門尉(長盛)は、関ヶ原の後、高力左近(清長)へ御預となり、
武蔵国岩槻に置かれた。

増田長盛の息子である兵太夫(盛次)は、大阪冬の陣の折は将軍秀忠の軍勢に加わり
大阪表へ参ったが、戦いにおいて寄せ手の宜しき噂を聞く度に苦い顔をし、少しでも城方の
宜しき情報を聞けば喜悦していたという。

冬の陣和睦の後、駿府城に置いてこの事を徳川家康の耳に入れた者があった。
家康はこの話を聞くと

「それは近頃、奇特なる心入れであるな。流石増田の子だ。」

これだけを言い、何の咎めも無かった。

夏の陣の折も、もし牢人でいるようなら召し出し、親の長盛への監視も緩やかにせよと命じた。
しかし大阪夏の陣で、増田盛次は大阪城に入り秀頼の家臣として、長宗我部盛親の部隊へ入り、
5月7日、藤堂高虎の部隊と戦い、討ち死にした。

親の増田長盛も後日、武州岩槻にて切腹したという。

(駿河土産)



170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/15(水) 02:16:29.78 ID:5wQcQ5X+
ましたは二重スパイだったという説があるけど、三成寄りというよりは豊臣寄りだったんかな
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てんかとりしつめ候

2018年08月15日 11:16

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/15(水) 00:35:14.43 ID:+pbE6rsn
てんかとりしつめ候


以下は関ヶ原の戦いの後、池田輝政の祖母・養徳院
戦勝を祝う書状と贈り物を送ったことに対する家康の返書の意訳。

お手紙および贈り物を二品お送りいただき、祝着に存じます。
お聞きの通り、天下を取り鎮めました(原文:てんかとりしつめ候)。
三左衛門殿(池田輝政)も一段とご心労があったことでしょう。
何にせよめでたいのは、重ね重ね申される通りでございます。
めでたくかしく

やうとく院(養徳院)     内ふ(家康)


――『林原美術館所蔵池田家文書19号』


週間ブログ拍手ランキング【08/09~/15】

2018年08月15日 11:15

08/09~/15のブログ拍手ランキングです!


私が道悪しき場所で馬より降りるのは 13

律儀なる佐竹義宣 10

今世武道に正しき将なし 9
ああ、将軍家が他界されれば三好が時を得て 8
東照大権現、明暦の大火を警告する 7

忍び難く、哀なること 6
香西元盛謀殺事件 6
我が去年攻め残したる城なれば 6

これより攻め滅ぼさせていただく 5
新居の物件探しをしてたら 5
まこと山鷹野のいうものには 4
今の武将(将軍)は有名無実なり。 4


今週の1位はこちら!私が道悪しき場所で馬より降りるのはです!
有名なお話ですが、家康という人は合理主義者なんだなと感じさせてくれますね。
大坪流一伝なんて割と大げさな感じに表現していますが、馬術の流儀も結局は、基礎的な技能をベースにして、
後はシンプルに状況・目的毎に「すべきこと」「すべきではないこと」を蓄積した物だといっていいでしょう。
家康の強さの一つは、自分の見栄えを気にせずそういう部分が忠実に出来た、という所かもしれません。
こういうの、言うは易しですがなかなか難しいのですよね。人間技術を持っていると、やっぱりそれを見せびらかしたいし
格好をつけたいものです。それをしないというのも人としては一種の異能なのではないかな、なんて思ったりします。

2位はこちら!律儀なる佐竹義宣です!
律儀すぎて(?)結果的に関ヶ原後転封となった佐竹義宣。「大名佐竹家」というレベルで考えると家中統制がここでほぼ
成ったわけで転封されたのは返ってよかったのでは、なんて考えることもありますがw(無論強制された転封により多くの
摩擦や悲劇が発生した事は理解した上で)、関ヶ原で佐竹が「中立」となったのも、佐竹の複雑な中世的体制が関わっており、
かつて大名権力確立のため滅ぼした「南方三十三館」など国衆の残存勢力が国内各地に残っていて、関ヶ原の時に
佐竹が仮に旗幟鮮明にすれば、滅亡国衆勢力が佐竹の敵方と結びつき蜂起する可能性があって動けなかった、などとも
言われます。
もしかすると佐竹義宣が動けなかったことを家康が「律儀ゆえ」と評価したのは、佐竹の当時の政治情勢を知っていた上での
有る種の優しさであったかもしれません。

今週管理人が気になった逸話はこちら!これより攻め滅ぼさせていただくです!
昨今、大阪の陣は徳川家康が対豊臣融和派で、徳川秀忠が強硬派であった、なんて言われたりします。
「娘婿」秀頼を(おそらくその関係で有るがゆえに断固として)滅ぼそうとする秀忠を、なんとか宥めて和平に持っていきたい
家康、という構図が語られたりします。
この逸話については、その大阪の陣の時の印象が関ヶ原に転嫁したのではないか、という印象を持ちます。
「駿河土産」の成立は1720年頃と言われますが、その頃にも、対豊臣で非常に強硬な秀忠の印象が残っており、
彼ならば関ヶ原でもこう行動しただろう、と考えられたのではないでしょうか。
そんな事を感じた逸話でした。


今週もたくさんの拍手を書く逸話にいただきました!いつもありがとうございます。
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

忍び難く、哀なること

2018年08月14日 17:49

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 14:56:17.06 ID:OUO9MWgw
天文14年(1545)、応仁より後、度々の兵乱によって禁中はもってのほか御不如意
となったことは、神武天皇以来なかったことである。諸卿はこれを難儀とした。

近衛殿・鷹司殿・綾小路殿・庭田殿・五辻殿・中原大外記など皆近江に下向されて佐々木
の屋形(六角氏)を頼り、観音寺城下の常楽寺・慈恩寺に寓居された。

この他の諸公家も皆国々に下ってその所縁をへつらい、末々の殿上人・地下人らは摂津・
河内・近江などの間に徘徊して民間に交わった。

また京都を御出にならない人々には、商家に身を寄せて朝夕をしのぐ人もいた。あるいは
一椀の食を求めんがために門戸に侘び立ちすれば、戦国の習いで案内・検見(斥候)の者

かと怪しみ捕らえられ、詰問の責に及ぶ人もいた。あるいは賊のために討ち殺された人の
妻子や眷属として所々に迷い行き、愁嘆のあまり淵瀬に身を投げたり、自ら湯水を断って
渇死する人もいた。その消息は中々見るに忍び難く、哀なること前代未聞なり。

――『浅井日記』


律儀なる佐竹義宣

2018年08月13日 18:45

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 17:37:35.92 ID:edUVcuNz
権現様(徳川家康)が駿府城にあった時、御伽衆の一人が「誰々は殊の外律儀な人だ」と語った所、
これを聞いた家康は

「律儀なると者というのは極めて稀なものだ。私はこの歳に成るまで、律儀なる人というものは、
佐竹義宣以外に見たことがない。」

そう仰せに成った。しかしこれを御伽衆の者達は皆合点できなかった所、御前に居た永井左近が
「義宣殿を左様に思われるのはいかなる理由でしょうか?」
と申し上げた所、

「その方なども知るように、先年大阪にて石田治部と7人の大名たちの出入りの時(七将襲撃事件)、
治部は大阪を立ち退き、我等を頼み伏見に参った。この時大阪からの道中を佐竹義宣が警護して
上がった。その後、石田治部が佐和山に蟄居と成った時も、その道中において大名たちが語らって
彼を討ち果たすとの風聞があった、そのため私は三河守(結城秀康)に道中の見送りを申し付けたが、
これを義宣は聞き及び、『治部を大名共に討ち果たさせては一身の一分が立ちません!』と、
道中に目付け物聞きを置き、何か事が起これば即座に馳せ出して三河守と一手になって治部を
救援すると、上下とも軍装のまま待機していたという。となれば、律儀の人の実仁に紛れもない。

その後関ヶ原の一戦の時も、大阪方にも我々にも付かず、心底がわからず訝しいと思い、しかし
そのままには置いておけなかった。もし我等に一味して関ヶ原表に出勢し、戦功などあれば、朝熊も
先祖代々の領地であったし、水戸の安堵は相違無かったはずなのに、残念な事であった。

人が律儀というのは、褒めるべき資質で随分良いことでは有るのだが、律儀すぎると、
事に臨んでは一思慮無ければならぬものなのだ。」

そう仰られた。
(駿河土産)

自分も律義者と言われていた家康の考える律儀No.1は佐竹義宣なのね



152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 18:51:56.64 ID:2MDI+lEV
佐竹が関ケ原で東軍について戦功挙げたら、関東と南東北に合わせて100万石クラスの
大大名が登場するわけで、徳川にとって危険極まりないわけだが…

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 19:12:25.13 ID:2pUDfcy6
その場合は中国か九州あたりで大封を与えるんでないの

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 19:17:19.99 ID:edUVcuNz
佐竹は秀吉に臣従した時は25万石だったのが、太閤検地で領地そのままなのに一気に54万石にされちゃってるんだよなあ。
単純に軍役倍って事だから、豊臣政権ってホントエグいと思う。

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 19:49:33.76 ID:k3r0B2xw
下手に東軍で活躍して大大名になってたら大阪の陣のあと血眼になって粗探しされて改易されてそう

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 20:16:21.87 ID:AaT6or0e
義宣ならやらかさんとは思うが
まあ突っつくなら配下の徳川氏とかか
あそこは将軍家に憚ることなく徳川を名乗り続けたよね

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 20:33:31.48 ID:Fqze60QX
>>155
関ケ原後に川井事件とか、お家騒動やらかしているしねい。
佐竹って小田原後、豊臣大名になってから中央集権化にやっと取りかかれて、
関ケ原後に転封されてからが改革の本番という感じだったから、
まだ家内統制取れていない段階で、しかも転封されずに大封になったら、
いったいどんなことになるやら…

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 20:38:52.18 ID:T7fOEd4M
人間万事塞翁が馬だな!

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 21:24:11.74 ID:wsGVjBat
>>154
無役16万石が設定されたから倍にゃなってない
島津の時もそうだけど検地の打出し分で大名の蔵入りを増やすのが主目的だしね

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 11:12:30.83 ID:BRAOGxPy
>>157
関ヶ原後に転封なし加増ありで大封というと前田氏、最上氏、伊達氏くらいかな
その後を見てると結局は運次第かねぇ

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 11:16:13.37 ID:i/S8w+GS
>>163
基本、どれも田舎の藩だなぁ。

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 11:26:50.19 ID:uVBU3cE+
>>163
加藤

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 13:34:42.18 ID:+D6JsEd6
>>151
朝熊って伊勢のだよね?ここが先祖代々の領地ってどういうことなの?

東照大権現、明暦の大火を警告する

2018年08月13日 18:43

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 18:23:06.99 ID:2royz9GR
酉年江戸大火(明暦の大火)前の除夜半過の時分、(久能山東照宮において)角材木を板啄に
打ち付けるような音がしたので、いずれの者も驚いた。御神前の番・相田喜左衛門と申す者は

御供所の方からと聞いて見に出ると、御供所にいた神田武兵衛と鈴木次郎三郎は神楽所の辺り
から音を聞いたとのことで、出合わせて見てみたが何ら変わった様子もなかった。

また常々御神前には鼠が多いため、御供えの餅を鼠が食べないように毎年寝ずの番をしていた
のだが、明くる正月3日の晩から突然鼠がいなくなったので火の用心をしていたところ、

18日・19日に江戸で大火事があった。以後また鼠が出るようになった。

――『東照宮御奇瑞記』

東照大権現、明暦の大火を警告するというお話。


香西元盛謀殺事件

2018年08月12日 17:38

29 名前:1/2[sage] 投稿日:2018/08/12(日) 12:26:16.87 ID:8OW2F72Q
大永6年(1526)の頃、それまで京都は暫く静謐であったが、不意の乱が起こった。
細川家の領国である丹波国の住人、香西四郎左衛門元盛は道永禅門(細川高国)の家臣であり、かの家の
沙汰を執り行い、威勢諸人の上に立ち驕りを極めていた。
この者の弟に柳本弾正忠(賢治)という者が居た(実際には兄)。彼は若年の頃は美童であり、高国は
彼との男色にひたられ、この者を寵愛し、成人の後、今に至りて俸禄身に余り、栄耀人に超えて、
香西・柳本兄弟の権勢は並ぶ者なかった。

この頃、細川右馬頭尹賢の所領である摂州尼崎に城を築く事を、高国は諸家に命じた。細川一門一党の
人々は日夜土石を運ばせ造営の役を勤めた。香西兄弟も尼崎に下ってこの役を勤めていた所、彼らの
下部の者達が、細川尹賢の人夫と、土一貫の事について争い口論に至り、やがて双方数百人に分かれて
瓦礫を投げ合う騒動と成った。しかし他家のの人々がこれをどうにか取り扱い和平をさせて、両方を
別け隔て、尹賢の者達は城中に入り、香西の人夫は丁場へと帰った。ところが、香西方のあぶれ者の一部が、
下知を聞かず尚も居残り、戯れに城中へと石礫を投げ入れた。

しかしこの行為に細川尹賢は怒った。
「和平の上に、さらに狼藉を働くなど以ての外の奇怪である!しかしこれは香西の慮外であるから
下部の者達を咎めるべきではない。」
そう、一旦は怒りを収めたが、香西は驕りの故であろうか、その後この事について細川尹賢への陳謝が
無く、そのような事は無かったかのように接した。

これに尹賢は鬱憤を重ね「あの兄弟、日頃の驕りに加え、さらにまた今回の事があった上は、彼らを
亡き者にしなければならない。」そう考え陰謀を巡らせた。
この香西元盛は文盲不学の者であり、常々料紙14,5枚ごとに判形を押しておき、手書きの部分は
彼が召し使っていた矢野宗好という者に、かの判紙を預け置いて、諸方書通のたび毎に宗好次第に
状を書かせ、書礼を進め返した。ところがこの頃どうしたことか、この宗好は香西の命に背き牢人
していた。

これについて、尹賢はハッと思いつき、密かに宗好を招き寄せ色々と語らい、彼の元に香西の判紙が
残っていることを確認すると、そこに秘計の状を書かせた。

その内容は、細川高国の仇敵である阿波の故細川澄元の残党である三好家の者共と、香西元盛が一味している、
というものであった。香西の判形紛れも無いよう拵えさえ、尹賢はこれを密かに高国の元へ持参し
「香西の謀反紛れもありません!」
と、その偽造した書状を証拠として誠らしく言い立て讒言をした。これに高国は、心浅くも真実と
判断し、「事を起こされる前に、早急に香西を誅さねばならない!」と、尹賢と示し合わせた。

しかし、突然高国は思った
香西元盛を誅殺すれば、弟の柳本は私に仕えることが出来なくなってしまうだろう。年来、この柳本は、
この道永(高国)が『命に変えても』と契約した仲であり、いかにも名残惜しい。」
高国は様々に思案し、漸く思いつき、柳本へ起請文を書いた

『香西を誅殺するが、彼は謀反の者であるから是非に及ばぬ次第である。しかし柳本弾正に対して、
道永は少しも異心を持っていない。」

そう心情を顕し、これを文箱へ治めた。

30 名前:2/2[sage] 投稿日:2018/08/12(日) 12:27:31.73 ID:8OW2F72Q
さて、香西を討つと雖も、まずは謀反の実否を直接問い糾した上で真実ならば誅すべきと、討ち手の
者達を定めておき、大永6年7月13日、高国の館へ香西は召された。香西元盛は自分がそのような
状況に置かれているなど夢にも知らず、何の警戒もなく急ぎ高国の館へ参り、遠侍に入ると、
若殿原二人が出迎え、「太刀と刀を渡されよ」と言う。香西は少しも騒がず太刀と刀を渡し
「何事があったのだろうか」と不思議に思う体にて座っていた。

その間、暫く時刻が過ぎた。細川高国は待ちかねて「香西は遅きぞ」と言った、
これを細川尹賢は聞き間違えたふりをして、かの討ち手の二人に云った
「香西は遅いと言われた!早く斬るのだ!」
二人は即座に走り寄って香西を斬り倒し、その頸を落とした。無残と言うも愚かである。

細川高国はこれを知ると「一体どう言うことなのか!?」と驚いたが、もはや力及ばず事は済んでいた。

その後、高国よリ、あの文箱を柳本賢治の元へ遣わした。書中に
『その方の兄である香西は謀反人であるから、国家のために誅するのだ。その方に今更恨みを含む
事ではない。年来の契約は忘れていない。今後いよいよ、忠義を尽くしてほしい。私は今までと
少しも変わらず、お前を懇ろに扱う』
これを誓詞に認め言い送った。

柳本は起請文を開かないまま高国の館へ持参し、「これは勿体なき仰せです。兄の香西元盛
逆心の罪科にて誅せられた事であり、私は少しも恨みを含んでおりません。
兄の罪科にお構いなく、前々のごとく私を召し使って頂けるとのこと、その御厚恩は生々世々に
報いがたいものです。この上は私に置いては、今後一層の奉公の忠を尽くして勤めます。」
そう感涙を流し宿所へ帰った。

その後、柳本は実際に努めて忠義を尽くしたため人々も感心し「流石道永禅門が年来目利きして
柳本を寵愛していたのは尤もの事だ。これほどの忠臣は世にも稀である。」
そう褒め称えたという。
(續應仁後記)

香西元盛謀殺事件のお話。だがしかし


我が去年攻め残したる城なれば

2018年08月11日 18:31

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/11(土) 08:33:19.76 ID:pvd4tFcp
天正十三年四月、宇喜多秀家備前美作の兵一万五千
蜂須賀彦右衛門尉正勝、黒田官兵衛尉孝高を検使とし
仙石權兵衞尉秀久、尾藤甚右衛門尉知定
杉原七郎左衛門尉家次、小西弥九郎行長、共に七人の兵将二万三千人をもって讃州に発向した
四月二十六日に屋島の浦に到着し、北の峯に旗を押し上げると
国中の人民これを見て騒動すること言うばかりもなかった

ところが北の峯は分内狭迫にして兵を留めるのが難しく、そのため南の峯へと移ったが
この山も上代の名城なれど山高くして戦さをなすには用がなく
其の日下山して牟礼高松に上った

さてここに喜岡城という小城があり、高松氏世々の居城であった
香西伊賀守の旗下なれば、加番として唐人弾正、片山志摩守を兵将として百余人指し使し
高松左馬助配下の百余人と共に、二百余人をもって城を守っていた
この城は去年仙石秀久、小西弥九郎らが二千余人をもって攻めれども
堅城なれば落とすことができず、この度四国の手先に在って大軍の馬蹄にかかる事となった

秀吉公の御目代黒田孝高が宇喜多秀家に向かって曰く
「小塁(小城)あり、この度の手始めなれば、踏み落として然るべし
高松山の松を切り寄せ、これをもって堀を埋め上げ足場とし
一時攻めに陥とし国人の聴を驚かすべし」とて全軍に下知されたが
仙石氏これを聞き
「これは我が去年攻め残したる城なれば、他人の手にかけさせるべからず!」として勝手に攻め寄せた
このため攻め具を待たずに、総軍相争って蟻の如く城に取り付く有様となり、この時死ぬ者が多かった

城内にも鉄砲百挺ばかりあったが、敵兵二万余が天地を響かせ攻め寄せると
掘塀堅固とはいえ、猛勢に切所なければ、大軍がいやが上にも重なり
何の造作もなく落城し、二百余人の者ども一人も漏らさず攻め殺された

(南海治乱記)


今世武道に正しき将なし

2018年08月11日 18:30

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/11(土) 15:23:21.09 ID:ZG86LWeA
天文21年(1552)2月26日、細川二郎氏綱とその弟・藤賢が摂津より上洛し、
三好長慶が供奉、翌日に将軍・義藤公(足利義輝)に謁見した。

3月11日、細川氏綱は右京大夫に任じられ管領に補任された。弟の藤賢は右馬頭に
任じられる。時に三好長慶、天下の権を執る。

この時、三好の家人・松永弾正忠久秀は、長慶の長男・義長(義興)の乳母と嫁して
諸事を沙汰した。その奢りは甚だし。長慶はこの松永を京都に留めて万事を下知した。

松永は西岡の凡下の者であったが方々に移り変わり、終いに三好に仕えるに至って
内縁に懸かることはこの如し。

6月10日、越前国主・朝倉左近将監延景が上洛し、将軍家(義輝)に謁見した。
延景は偏諱を賜って義景と号した。

義景は実は近江佐々木の管領・佐々木氏綱朝臣(六角氏綱)の二男で、朝倉弾正忠
孝景がこれを養子とした。

7月8日、朝倉義景は帰国、この時に左衛門督に任じられ従四下に叙された。義景は
近江に滞留し、浅井下野守久政の館・小谷の城において軍事を評論した。

(久政曰く)「今の世に武道に正しき将なし。運に乗じて一旦の功ありといえども、
後代、武の亀鑑に備わるべき者なし」

義景曰く「我が武は子孫の繁栄をもたらすとしても、私自身は非道(正道ではない)
なので身を立てることはないであろう」

(今世武道に正しき将なし。運に乗じて一旦功ありといふども、後代亀鑑に備ふべき者
なしと、義景曰、夫れ吾が武は子孫の繁栄を能くすと雖も、非道にして身を立てずと。)

――『浅井日記』


まこと山鷹野のいうものには

2018年08月10日 19:01

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 15:19:56.08 ID:xTnmvI7d
関ヶ原の合戦後、左京大夫(浅野)幸長は、それまでの甲斐より、加増を請け37万石の知行高にて
紀伊国を拝領仰せつかった。

その頃、後藤庄三郎熊野に参拝し、その後江戸表へ下った。
この後藤庄三郎徳川家康は聞いた「その方は先ごろ熊野山に行ったが、その帰りに紀伊国へ
見舞いに行ったか?」

「はい、上意の如く和歌山の城下に10日あまり逗留いたしました。」

「ふむ…。逗留中、紀伊守(浅野幸長)は、何かお主への馳走を申し付けたか?」

「紀伊の川と申して、吉野、高野の麓より流れ落ちる大河がありました。この川に船で出ると、
そのお供をいたしました。網を下ろし魚を取らせている所を見物しました。

その後山鷹野に行かれる時も私も同行いたしましたが、これは殊の外目覚ましき見ものでありました。
しかし、その山鷹野で私には合点の参らない事がありました。」

「それは何か?」

「はい、その時は雉や山鳥、その他鹿ムジナの類まで物数多く獲れまして、定めて幸長様のご機嫌は
良いだろうと考えていたのですが、実際には大いに腹を立てておられ、列卒の奉行を始め、その他役懸りの
者達は散々な目に遭っていました。

そしてまた一度山鷹野がありましたが、この時は何も獲れず、殊の外獲物となる動物も少なく、きっと
幸長様は不機嫌であろうと思ったのですが、実際には一段と機嫌よく、諸役人たちに「骨を折り大義である」
などと声をかけ、褒美まで与えていたのです。」

これを聞いて家康は笑いだした

「それはその方たちが合点できないはずだ。紀伊守はそうしていたか。まこと山鷹野のいうものには、
獲物の多少は関係ないのだ。」

そう仰せに成ったという。

(駿河土産)

では山鷹野は何を目的にやってるんですかね?



143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 15:25:31.54 ID:qxtBfCSp
畜生とはいえ張り合いがないので立腹していたんだろう

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 16:41:44.84 ID:NjMSuH7B
>>142
大漁だったのは家臣が自作自演で用意してたのかな?
少なかった時はガチだったので機嫌が良かったとか。

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 18:32:35.70 ID:SKO93wDX
武士の感覚で言うとさ

獲物が多い→うわーざっこwつまんねーおもんねー→不機嫌

獲物が少ない→タマ当たんねー逃げるのうめーやり甲斐あるわw→上機嫌

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 19:15:25.23 ID:RFs/7dHc
個人的には>>145の考え
役人たちが獲物を集めてきて放ったのかなと思った

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/11(土) 00:40:42.42 ID:GyktD+Pu
鷹狩りは軍事演習なので苦労しないと訓練にならないのでは

今の武将(将軍)は有名無実なり。

2018年08月10日 18:59

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 16:54:32.36 ID:Wo/D1KX8
天分22年(1553)正月3日、六角義秀朝臣が元三会を勤行された。精進代
雞足院導賀、浅井久政が代官として登山した。

7月28日、将軍家(足利義輝)の許容により、前右京大夫晴元父子が上洛した。
これは佐々木左京大夫義賢(六角義賢)があらかじめ申しなしたからである。

久政はこれを嘆いて「ああ、これは乱のもとか。今の武将(将軍)は有名無実なり。
足利家の滅亡はほとんど近きものとなった」と言った。

8月朔日、三好長慶は前の右京大夫晴元父子が許されて上洛したと聞き、摂津・
河内両国の兵2万余人を引き連れて上洛した。将軍家は防戦に

及ばず、京都を去って丹波国山国に下りなさった。同13日、義藤公(義輝)は
勅命により上洛された。

――『浅井日記』

浅井日記は久政を悪く描いてないのは面白いけど六角義秀がバンバン出てくるし、
久政隠居もスルーされててうーんとなる。



24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 17:58:55.02 ID:knCl25iW
存在してると都合が悪いから抹消されたんだろうな
秀吉に

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 18:59:07.54 ID:1tByHFeu
>>24
つまらん。ありえん。

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 19:22:17.15 ID:RFs/7dHc
もう六角家中の人間にしか見えん

これより攻め滅ぼさせていただく

2018年08月09日 12:20

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/08(水) 21:49:54.59 ID:xiowr2gD
関ヶ原の合戦の後、9月24日、大阪表に徳川秀忠が大名16名を引き連れ現れ、大阪に着陣するや、
すぐに大阪城へ使いを立てた

『今回の戦乱中、伏見城にて討ち死にを遂げた鳥居元忠、松平家忠、同五左衛門三名の首を
当地に取り寄せ実検を行ったとある上は、この一乱、秀頼公の企てであるのは紛れも無い事であり、
これより攻め滅ぼさせていただく。』

この口上に大阪城中は驚愕し、秀頼の母である淀殿はこれを請けて申した

『秀頼は未だ幼年であり、一乱を企てることは申すに及ばず、首実検の事も毛利輝元、その他奉行たちの
仕業であり、秀頼の存ずる義ではない』

そう一々に詫言したため、秀忠は京へ戻った。
そこで徳川家康がこの事を聞き、
「秀頼公については赦免し、今後は御蔵70万石ほど宛行うように。」
と仰せになった。

その発言までは諸家も旗を張り立て一戦の支度をしていたが、秀頼安堵の情報が伝わると、諸手ともに
旗を治め休息した。

(駿河土産)

これはおそらく史実ではないのでしょうけど、ここでも対豊臣強硬派が秀忠で、穏健派が家康なんですね。



19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 06:29:43.59 ID:3X1txoR3
若いのが積極で老人が慎重なのは今昔いつも同じ

新居の物件探しをしてたら

2018年08月09日 12:19

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 08:55:53.37 ID:+mM+IPr0
天正十一年、仙石権兵衛尉秀久は讃岐の国を賜りて小豆島に来ると
引田の浦を取ってかけ持ちにし時変を考えた
安富肥前守はもとより秀吉公へ人質を出していたので土佐方へは従わず
雨瀧城をあけて小豆島へと渡っていた

秀久はまず屋島を取って城としようとしたが、山高くして益がなかった
幸いに高松城(喜岡城のこと)という良き城があり、これを攻め取らんとして
二千余人をもって取り上がり押し寄せたが
城主高松左馬助がよく守ったため抜けず、また空掘であったが数尺に切り立ち
底深い掘であったので、攻め手は蟻の如く群がったが、ついに城を攻め取ることができず引き返した
この際城中の鉄砲に当たって死んだ者が数十人あった

次に八栗が嶽の城を検察したが、険要のみにして治をなすには益がなかったため
志度の浦に戻り、結局そのまま小豆島へと帰帆した
その後仙石氏は少兵だったため、(土佐方の)香川氏・香西氏などには手向かわず
島伝いにあちらこちらに上陸し、少々の成果があった
土佐方は、高松城は国家の治道をなすべき立地であるから
久秀はまた攻め来たるだろう、加兵を入れて守らすべしとして
香西家臣唐人弾正、片山志摩守らに加え寄子百余人を指し使わし
城兵と共に二百余人をもってこれを守らせたため、城中はますます強くなった

(南海治乱記)

新居の物件探しをしてたら上手くいかず、いつの間にかゲリラ活動をする羽目になったお話
この後に引田の戦いが起こり、仙石秀久は讃岐から撤退します


ああ、将軍家が他界されれば三好が時を得て

2018年08月09日 12:18

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 10:50:39.07 ID:8eEbnfec
(江口の戦い敗戦後)

天文18年(1549)11月26日より、将軍大御所(足利義晴)は御病気となる。
上池院法印紹弼が御薬を調進し奉る。

12月4日、御所御快気により伊勢国の住人・加多兵庫助教員が所持する竟花と号する
大鷹を、彦部雅楽頭晴直をもって召され長等山で御狩をされた。近衛准后父子、細川家
以下が供奉し、三井の衆徒ら多くが出迎え夜に入って御帰りとなった。

浅井久政は進藤山城守貞治に語って曰く、「将軍家の様子を見るに、武の御器量は甚だ
少なし。伊勢の加多が秘蔵する鷹を召して御慰みとなさるのは、今なさることではない。

ただ義士を集めて武林のもとに慰みなされば、何ともなく御運も開かれるであろう。
人はその作用に疎き時、必ず家を失うものぞ。

将軍家は和歌に達しなさるよりも武に達しなされば、まことに先祖の大功もおのずから
輝かせなさることだろう」とのことであった。

同21日よりまた将軍大御所は御病気となる。今度は片岡大和守晴親が御薬を奉った。

19年正月5日より、足に腫気があり、また上池院が御薬を奉った。同8日には山徒
正覚房法印の勧めによって御近習12人が登山して、中堂まで千度巡礼を行った。

久政はこれを聞いて曰く「人は必ず滅びんとする時に、まず空しく物事にかかって内に
留まらない。よって物を頼むのだ。これが前触れである。

鬼神には常に祈るもので事に臨み祈るべきものではない。ああ、将軍家が他界されれば
三好が時を得て、天下は三好のものとなるであろう。

これは武将の勤めてはならぬ過ちである。自己の神明を磨き出す人は希であるから、
皆々がこのようなものである」と言ったのだという。

――『浅井日記』


私が道悪しき場所で馬より降りるのは

2018年08月08日 19:50

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/08(水) 16:17:44.39 ID:xiowr2gD
権現様(徳川家康)ご若年の頃より、少しでも馬が歩きずらそうな場所では馬より降りて
歩いていった。或る時、近習衆へこの事について仰られた。

「私が道悪しき場所で馬より降りるのは、大坪流極意の一伝であるぞ。
まあ総じて、少し危ういと思うような場所では馬には乗らぬものだ。

もしその身が大身で、乗り換えの馬も引かせているのならともかく、今一頭の馬を乗り歩いている
小身侍などは、ずいぶん馬の脚をかばうべきだ。馬に乗れば乗ることばかりを心得、少しも
これを労る心が無く、その足を損じさせて、「ここは馬に乗らなければならない」という場所で
乗れぬようになってしまえば、それは散々のことだ。よく心得ておくべきだ。」

(駿河土産)



136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 10:36:35.06 ID:kMUPg0E8
卜伝が暴れ馬を避けて歩いた話と同じく
高度な技術に頼って無意味なリスクを冒すのは
メリットがないからやめろという教え

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 20:18:15.99 ID:rg+LDHpQ
まあ頼朝も落馬で死んじゃったし、危なそうなら降りろってのは正論よね

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 22:00:52.70 ID:+U0HYjuh
頼朝って悪路で落馬したの?

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 23:12:53.35 ID:vPCYguTQ
そうすると鬼武蔵の百段ってマジ名馬だな

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 23:24:43.18 ID:Nm+WJLR1
龐統「殿の名馬を借りるンゴw」

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 00:07:21.92 ID:uv7tQI/c
騎馬民族の最高峰と言えるチンギス・ハーンですら落馬の話あるし、本当に危ない

週間ブログ拍手ランキング【08/02~/08】

2018年08月08日 16:58

08/02~/08のブログ拍手ランキングです!


剣豪公方は義輝だけではないのだぞ 17

己は正しく主君の敵である 14

細川澄之の敗北と切腹 10
伊達ノ士濱田治部ノ忠勇 10

薬師寺騒動 9
森忠政、川中島四郡のかわやに牢屋番などを命じる 8
布橋由来 8

新九郎は大いに喜んだ。 7
政元養子の事 6


今週の1位はこちら!剣豪公方は義輝だけではないのだぞです!
「流れ公方」「唯一の復位した将軍」「3回も改名されてややこしいことこの上ない」等、ただでさえ複雑な室町時代を
一層複雑にした人としても有名(?)な足利義稙のお話ですが、これ、内容は諸説あるものの「史実」なんですね。
さすが、波乱万丈の人生を送る人の多い足利将軍の中でも特に波乱万丈な人らしく、そのスペックも高かったのですね。
この足利義稙に関しては、山田康弘先生が書籍を出されています。大変面白い内容で、興味を持った方は是非ご一読
してみてはいかがでしょうか

中世武士選書33 足利義稙ー戦国に生きた不屈の大将軍
https://www.ebisukosyo.co.jp/item/250/


2位はこちら!己は正しく主君の敵であるです!
その影響の大きさに比して、あまり語られることの少ない(せいぜい風呂場で殺された程度)の細川政元暗殺(細川殿の変)
ですが、このような敵討ち譚があったのですね。
しかし殺したのが右筆で敵を討ったのが小姓と、双方政元に身近な人間だというのも、この事件の陰惨な印象を増して
しまいますね。
ここから「永正の錯乱」→「両細川の乱」となり、畿内は本格的な戦国乱世へと移行するわけですが(そこで上記の
足利義稙も様々に活躍するわけですが)、本当にたいへんややこしく、このあたりを詳しく解説した本は出ないものかと、
常々期待していますw

今週管理人が気になった逸話はこちら!森忠政、川中島四郡のかわやに牢屋番などを命じるです!
森忠政治世下の川中島で、革の加工業者に牢屋番などが申し付けられたお話です。城の掃除も申し付けられおり、
対価がその地域の農家一戸につき糠や稲一束出るといっても、ちょっと過重なんじゃないかなと思ってしまいますが、
多分これ、生業である革加工をその地域で独占させることの見返りでもあるのでしょう。
前近代は一見大変な職業には、それに見合うだけの「役得」を付けることが一般的ですね。そうやってバランスをとって
いたのでしょう。たしか「殿様のお米を研ぐ役」には、お米を研いだ時こぼした米を持って帰っていい役得があったとかw
現在的な倫理観で見てしまうと、これらは「不正」なり「腐敗」と捉えられてしまいそうですが、当時なりの合理性の中で
考えられた慣習であると捉えるべきだと思います。
そんな事をふと思った逸話でした。


今週も各逸話にたくさんの拍手をいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

剣豪公方は義輝だけではないのだぞ

2018年08月07日 18:17

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/07(火) 17:31:45.81 ID:+jaNSi8i
永正6年10月26日の夜、将軍足利義稙は酒宴の後寝所へ入り、その夜は番衆たちも沈酔していた。
その隙きを伺って、その夜子の刻ばかり(0時頃)に、盗賊たちが殿中に忍び入り、御重宝を奪い取った。
酔臥していた当番の面々は油断しておりこれに気が付かず、盗賊共は安々と、将軍の寝所へと侵入した。

しかしこれに気がついた義稙は少しも騒がず、寝間着の小袖だけを召し、太刀を抜いて夜盗の輩を即時に4人
切り伏せた。しかしながらこの時、自身も9ヶ所の手傷を負ったという。別の説には手傷は7ヶ所であったという。

観阿弥という同朋が盗賊の手引きをしたと言うが、何れにしても非常に危険な事件であり、天運に叶われていた
故では有るが、天晴武勇の行動であると、人々はみな感じ入った。

この傷は治療され程なく平癒し、同12月19日、表御所へ出御あり、大名小名はこぞって太刀、馬などを
献上して各々参賀し、その祝儀は非常に盛り上がった。
また禁中よりもこの時、従二位に任じられた。

(應仁後記)

剣豪公方は義輝だけではないのだぞ



118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/07(火) 18:14:25.35 ID:wgRhe7ED
>>117
カッコイイ!

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/07(火) 19:25:04.00 ID:vI9T1A5l
流れ公方かっこいいな

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/07(火) 19:39:05.89 ID:DeVenh7R
都を戦火に包んだ二大陣営の申し子で魔法を操る細川政元
彼に裏切られて追放された元将軍の足利義材
10年以上の流浪の末、将軍に返り咲く

創作にはうってつけ

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/08(水) 00:50:17.40 ID:PGGz+tkY
>>117
観阿弥って茶坊主とかでよくある名前なんだろうか、いろんな人の逸話でよく見るような気がするが
勘気を受けて殺されたり、他の家士と揉めて殺されてやった方が出奔したり、そんな役回りで登場する名前

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/08(水) 09:57:45.24 ID:xDZttUE8
●阿弥は大名の御伽衆

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/08(水) 11:10:20.02 ID:IZol+537
全員眠りこけて盗賊の侵入を許す近習がクソすぎる

細川澄之の敗北と切腹

2018年08月06日 19:24

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/06(月) 18:40:54.70 ID:eGdBHg/i
細川政元暗殺の後、畿内は細川澄之の勢力によって押さえられた。
しかし細川澄元家臣の三好之長は、澄元を伴い近江国甲賀の谷へ落ち行き、山中新左衛門を頼んで
近江甲賀の軍士を集めた。
また細川一門の細川右馬助、同民部省輔、淡路守護らも味方に付き、さらに秘計をめぐらして、
畠山も味方に付け大和河内の軍勢を招き。程なくこの軍勢を率いて八月朔日、京に向かって
攻め上がった。

昔より主君を討った悪逆人に味方しようという者はいない。在京の者達も次々と香西、薬師寺を背き
捨てて、我も我もと澄元の軍勢に馳加わり、程なく大軍となった。そこで細川澄元を大将とし、
三好之長は軍の差し引きを行い、九郎澄之の居る嵯峨の嵐山、遊初軒に押し寄せ、一度に鬨の声を上げて
入れ代わり立ち代わり攻めかかった。そこに館の内より声高に「九郎殿御内一宮兵庫助!」と名乗り
一番に斬って出、甲賀勢の望月という者を初めとして、寄せ手の7,8騎を斬って落とし、終には
自身も討ち死にした。

これを合戦のはじめとして、敵味方入り乱れ散々に戦ったが、澄之方の者達は次第に落ち失せ、残る
香西薬師寺たちも、ここを先途と防いだが多勢に無勢では叶い難く、終に薬師寺長忠は討ち死に、
香西元長も流れ矢に当たって死んだ。

この劣勢の中、波々下部伯耆守は澄之に向かって申し上げた
「君が盾矛と思し召す一宮、香西、薬師寺らは討ち死にし、見方は残り少なく、敵はもはや四面を取り囲んで
今は逃れるすべもありません。敵の手にかけられるより、御自害なさるべきです。」

九郎澄之
「それは覚悟している」
そう言って硯を出し文を書いた
「これを、父殿下(九条政基)、母政所へ参らすように。」
そう同朋の童に渡した、その文には、澄之が両親の元を離れ丹波に下り物憂く暮らしていたこと、
また両親より先に、このように亡び果て、御嘆きを残すことが悲しいと綴られていた。
奥には一種の歌が詠まれた。

 梓弓 張りて心は強けれど 引手すく無き身とぞ成りける

髪をすこし切り書状に添え、泪とともに巻き閉じて、名残惜しげにこれを渡した。
童がその場を去ると、澄之はこの年19歳にて一期とし、雪のような肌を肌脱ぎして、
尋常に腹を切って死んだ。

波々下部伯耆守はこれを介錯すると、自身もその場で腹を切り、館に火を掛けた。
ここで焼け死んだ者達、また討ち死にの面々、自害した者達、都合170人であったと言われる。

寄せ手の大将澄元は養父の敵を打ち取り、三好之長は主君の恨みを報じた。
彼らは香西兄弟、薬師寺ら数多の頸を取り持たせ、喜び勇んで帰洛した。

澄之の同朋の童は、乳母の局を伴って九条殿へ落ち行き、かの文を奉り最期の有様を語り申し上げた。
父の政基公も母の北政所も、その嘆き限りなかった。

(應仁後記)

細川澄之の敗北と切腹についてのお話


伊達ノ士濱田治部ノ忠勇

2018年08月05日 18:06

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 21:46:26.95 ID:c/zRkiu+
伊達ノ士濱田治部ノ忠勇

伊達政宗は能士を持たれた人である。浜田治部は武功ある者であった。政宗が会津表へ出陣なさった時、
家康公より御使者をもって「早く会津表を引き払い、岩手沢へ帰陣されよ」と御指示があったので、

政宗は家老の片倉備中(景綱)を呼び、「白石城を攻め落としていながら捨て退くのもいかがなものか。
かといって城代を残し置くのも危うい。どうしたものか」と仰せになった。

これに片倉が「近ごろ、白石城に置かれている浜田治部を召して城代を仰せつけると良いでしょう」と
申したことにより、政宗が「浜田を呼び出して言い渡せ」と仰せになったので、片倉は畏まって治部に

言い渡され「白石城において貴辺の武功が優れていることにより、かの城に留め置かれることになった。
此度、内府公の御下知により岩手沢へ御引き取りなさるようにと議定された。これによって白石城を

捨て置くのも口惜しき御事なれば某に守らせるべきかといえども、諸事を御相談のうえで某は召し置かれ
がたいとの仰せである。そこで、御辺をかの城に留め置かれるとの御内談である。望み申す輩も多き中で
御辺がこの城に留まることは武士の本意であろう」

と片倉は浜田に申された。この時、政宗も「近頃の無理な所望ではあるが、他に残し置くべき者もいない
ので其の方が白石の城番を勤めてくれよ」と申された。治部はこれを承るも、「人多き中で若輩の某を

召しなさり、敵地に残し置かれるとは冥加に叶ったことではございますが、もとより不肖の某ですから
どうか功者を残しなさって、某はその指図を受けて城を守り申したく存じます」と言った。

しかし、政宗も片倉も同音に「ただ其の方一人しか留まるべき者はいない」とのことだったので、治部は

「このうえは仰せに任せます。敵がもし攻め掛かってきたなら突き出て討死するか腹を切るまでのこと。
何よりも易きことでございます。このどちらも苦しからぬことですから畏まり申した」と、申し上げた。

政宗は聞きも終わらぬうちに「突き出るのは謀のないようなものだ。堅固に城を持ち抱えて叶わなければ
腹を切ってくれよ。三日籠城してくれれば私が後詰する。愛宕八幡も照覧あれ、見殺しはしない」

と仰せになった。治部はまた返答申して、「某を救うために御出馬されれば内府と御誓約を違えましょう。
ただ御捨て殺しくださるとのことならば御受け申し上げます」と言った。

これに片倉備中が聞きも終わらぬうちに、「そちはそち、殿は殿の勤めをなさることだ」(そちはそち、
殿は殿の勤め有べし)と言うと、浜田は了承して退出したということである。

――『日本戦史 関原役補伝(校合雑記)』


新九郎は大いに喜んだ。

2018年08月05日 18:05

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/05(日) 09:00:37.54 ID:dcTjLiP3
新九郎(北条早雲)の住国をあるいは山城国の宇治といい、あるいは大和国の在原と申すのは異説である。

さてさて、この伊勢平氏の先祖を申せば桓武天皇第五の皇子・一品葛原の親王第二の御子・高見王の子息・
上総介高望王が初めて平の姓を賜り、子孫は平氏として武家に下る。清盛の一門がすなわちこれなり。

(中略)

尊氏公愁嘆の時節、尊氏公はある夜に、当家の先祖がことごとく平家を滅ぼしなさったゆえにその報いが
たちまち来たりて子孫長命ならず。されば、世に名のある平氏を召し寄せて国家の政事を執り行わせれば、
子息長命なるべし、との夢を見て目を覚ました。

尊氏公は喜びなさり天下の平氏を尋ねられ、伊勢守盛継に優る者なしとして盛継を近臣とされた。その後、
若君誕生の時に盛継は蟇目の役を勤められ、それより若君の繁昌があったとして御名付親とされた。以来、
公方代々はかの例に任せて、御子誕生の時は必ず伊勢守の家より御名を付けたということである。

(中略)

されば伊勢守の家は管領家にも劣らず出世し奉った。

さて、尊氏将軍より八代の孫を義政将軍といって慈照院東山殿と号した。初め御子のいらっしゃらぬ時に
御弟・浄土寺の義尋を還俗せしめて養子として左馬頭義視と名を改めて今出川殿と号し、天下を譲るとの

契約あって細川勝元を義視の執事となされた。その後、義政の御台所(日野富子)が男子を産みなさり、
公方相続の旨を山名宗全に仰せ付けられた。これにより細川と山名は大いに異論が起きて天下は乱れた。

世に“応仁の乱”というのはこれである。その頃、伊勢守貞親は政事を執行していた。貞親の弟・伊勢
備中守貞藤はかの乱の時に山名入道と深い知音であったゆえ、細川右京大夫勝元は貞藤を憎み公方へ

讒言したため、貞藤はひそかに花の御所を忍び出て伊勢国へ下った。義視公も御身の上を気がかりに思し
召して北畠の中納言教具を御頼みになって伊勢へ御下向された。この時に貞藤の子息・新九郎長氏も、

もとより今出川殿が御還俗の以前より御馴染みであったゆえにかの地へ参り、今出川殿へ見参したのだが、
あくまで御旅亭であるから、むやみにいつまでそこにいるべきかとなった。伊豆国には義政公の御弟・

政知公がいらっしゃった。そのうえ親族もいたから新九郎は関東へ下ろうと思い立ち伊勢大神宮へ参って
弓矢の冥加を祈念したところ不思議の霊夢を蒙った。そしてひとつの神符を求めたところ、

「諸願成就、子孫繁昌疑いなし」とあったので新九郎は大いに喜んだ。

――『北条五代記』

北条五代記もやっぱり早雲は伊勢氏出身としていますね。