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フランチェスコ・カルレッティ「世界周遊記」の日本に関する部分の続き

2020年03月28日 16:01

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 19:14:57.14 ID:SWwvcrwj
フランチェスコ・カルレッティ世界周遊記」の日本に関する部分の続き

日本人は7ヶ月から8ヶ月かけ、多大なリスクを背負ってフィリピン諸島まで航海し、
小麦粉や様々な種類の食品、商品を輸出していますが、 貿易により60から100パーセントの利益を生み出します。
また日本人たちはコーチシナの王国に行き、彼らがcasceと呼ぶ一種の銅の貨幣を持って行きます。
支払いを容易にするために、真ん中にひもを通しているため、何百・何千もの貨幣がひもでつながっています。
このお金で彼らは大量の香木を購入します。
これは日本人にはgiaco(麝香)と呼ばれており、ポルトガル人にはaghilaとして知られています。
香水や薬品、具体的に言いますと裕福で高貴な人々の死体の火葬で使用いたします。
この香木のうち、コーチシナ王国の川で見つかるものは、王国の遠く離れた場所から川の流れにのってくるため、
誰もそれがどんな木であるか、どこで生育するかを知りません。
彼らはまた、コーチシナとマラッカの間の沿岸にあるシャム王国とパタニ王国まで航行しますし、
同じ沿岸にあるカンボジアまで航海することもあります。
彼らはそこでverzinoとよばれるある種の木を購入しますが、彼らはそれをsuo(蘇芳)と名付けています。
ポルトガル人の間では、saponとして知られており、赤い染料を作るために使用されています。
チャンパの国から、彼らは最も貴重な木材であるcalambaを輸入しています。
これは東インドに住むすべての人種から、特に燃やした時の香りのために最高の評価を受けています。
この木は日本ではsciratagoと呼ばれています。
わたしたちの間では全く知られていませんが、ポルトガル人によっても最高の評価を受けています。
わたしはその木で作られた数珠をつなげた飾りcoronaをマラッカで10スクーディ出して購入しました。

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 19:15:45.62 ID:SWwvcrwj
パタニとシャムから、私たちがsagri、彼らがsameと呼ぶ魚の皮も大量に持ち帰ります。
彼らはその皮から剣のための鞘やその他の興味深い作品を製造します。またsicionocava、わたしたちの言葉で言えばそのまま「ヤギの革」となる、
ヤギの革も大量に使います。彼らはそれを非常に奇妙な方法で取り扱います。
動物や他の芸術的なものなど、好奇心を掻き立てられるようなあらゆる種類のデザインを描き、稲わらに火をつけて出した煙で燻します。
こうしてデザインで覆われていなかった部分以外はすべて着色され、デザインで覆われていたため燻されなかった部分は皮の白さがはっきりと浮き出てきます。
彼らはこれらの革を用いて、自身で使用するための衣服や、非常に魅力的な鞍を作ります。
スペイン人たちはそれらを使用して、非常に優雅なデザインの襞襟を作ります。

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 19:22:17.66 ID:SWwvcrwj
彼らの音節文字は特定の単語や概念を表す場合もあり、会話の中であれば「A」や「O」は「はい」を表します。
「I」は、家の床を覆うためのTatamiに使用するわらのもととなる、水中で伸びる葦のような植物を表します。
「Fa」は「歯」、「Te」は「手」、「Me」は「目」、「Mi」は「わたし」を意味します。
まるでイタリア語のIoの代わりにMiを一人称代名詞として使用するロンバルディア人のようです。
同様に、日本語の「Dono」は「Donno」に似ています。トスカーナでは「Donno」は主人を意味します。
ラテン語由来の言葉で、日本語でも同じ意味を持ちますが、発音はNが1つないのでわずかに異なります。
前述のアルファベットの他の音節文字について話しますと、「U」はある種の海鳥を表します。
黒く、ガチョウと同じくらいの大きさで、ガチョウ同様に長い首を持っている、非常に鋭いくちばし、大きな目、短い足の鳥です。
彼らはこの鳥を、釣りのために利用します。両翼の下、首の周りに紐を結んだまま水中にその鳥を送り込みます。
この紐にとりつけられた葦の切れ端によって、首をまっすぐにし、鳥が水から魚を口に入れて出たときに飲み込むことを防ぎます。
これらの鳥はこのように釣りに使用されるときには「unotori」とも呼ばれ、娯楽のためにも領主達によって飼育されています。

以前のまとめの
11064 フランチェスコ・カルレッティ「世界周遊記の一部」
11071 世界周遊記 続き
11075 世界周遊記の二十六聖人殉教について書かれている箇所
11678 guminori = ごめんなり 世界周遊記続き
11721 異教徒の特徴
の修正も含めたフランチェスコ・カルレッティ「世界周遊記」第二章(日本に関する部分)
https://dotup.org/uploda/dotup.org2097425.pdf



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当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき

2020年03月27日 17:44

799 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 11:21:43.27 ID:zmuEJTUZ
(豊臣秀吉の死後)
前田肥前殿(利長)が、細川忠興様の元を訪れ、このように仰られた

「石田治部少輔(三成)が、大納言殿(前田利家)にこのように申し上げました
『家康の事ですが、早くも我儘を申し、御寄合場へ切々と出てきません。今のままで召し置いておけば、今後
秀頼様の御為には悪しき事になるでしょう。ですので今すぐにでも、討ち果たすべきです。』
そう色々に申したことで、大納言殿も尤もに思し召され、討ち果たすという事になり、大阪より伏見へ御上がりに
なりました。これ程の事をあなたにお知らせしなければ、以後に御恨みが有ると思い、その要体を語り申します。

討ち果たす手立てとして、治部少輔申す所によると、
『家康の屋敷は落窪に有り、向かいの高い場所に有る宇喜多屋敷より火にて焼き立てれば下々騒ぎ出すでしょう、
そこで表に出てきた所を、宇喜多屋敷より出て討ち取る。もし裏から出たならば、我等(石田家)の者達で討ち取る。
兼ねてからそのように考えていたので、家康の屋敷の後ろは私の下屋敷にしてあり、只今佐和山より動員している
人数が四千有り、手間の要ることではありません。』

そのように申しているのです。」

そう肥前守殿が語った所、忠興様はこのように仰せになった
「家康公を討ち果たすとの事ですが、治部少輔の手立てではうまく行かないでしょう。」
「それはどういう御分別で、そのように思われるのでしょうか。」
忠興様のお答えに、肥前守殿はお顔の色が変わられた。忠興様は仰られた
「私を縁者であると思し召し、一大事をお知らせに成ったことが既に、御後悔しているように見えます。
この事は破れるのも、無事に成るのも御父子の御分別次第です。

この事が破と成った時は御身上が逃れたいと思っても、人は逃さないでしょう。
また私の身上も、逃れたくとも人は逃さないでしょう。
破と極まるのであれば、何時も一所と心得ましょう。

私の考えとしては、治部少輔にとって日本に恐ろしいと思っている人物が二人あります。一人は内府であり、
もうひとりの大納言殿は既に病であり、大納言殿が果てられた以後は、己が主人となろうと考え、色々様々に
申しているのです。あなたを批判するような事を言いますが、大納言殿が御死去なされたら、あなたの事は、
今の十分の一も人は用いないでしょう。御分別を専らにするべきです。
今後、内府を主人とするのか、治部少輔を主人とするのか。
私は治部少輔を主人とするなど罷りならぬことだと考えています。」

肥前守殿はこれを聞くと、
「一々至極と承った。然れば大納言殿に御異見を申したいのだが、蓮々御存じのように、私が申すことは
たとえ良いことであっても聞いてくれない。ましてやこの事については既に、治部少輔の言うことを尤もと
思われている。それを、私の無調法な口では中々説得する事は出来ないだろう。是非御同道してほしい。」
そう、たって仰せに成ったため、大納言殿の元へ御出に成った。

大納言殿が居られる又次の間まで進むと、そこからは先ず肥前守殿がお入りに成り、要体を語られた所、
病にて臥せって居られた大納言殿はむくと起き上がり、畳を叩き悪口を仰せになった。これに肥前殿は
「私は口不調法にて、物のあやを申せないため、御合点参らないのでしょう。そのため越中殿をここまで
御同道しました。」
そう仰せに成ると「然らば越中殿を出候へ」と仰せにつき、大納言殿の居られる間にお入りになられた。

800 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 11:22:02.91 ID:zmuEJTUZ
そうして忠興様が要体を語られると

「其の方の仰せになる所は解ったが、内府が何の御談合にも出てこないという事をしている以上、このままでは
以後秀頼様の御為に成らない。私の息のある内に、家康を討ち果たすべきだと考えている。」と仰せになった。
忠興様はこれに
「批判を申すようですが、御分別を更に重ねられるべきと存じ奉ります。例え家康に対して御談合の場に出ることを
堅く無用と申したとしても、家康が御座有った頃と同じようには出来ません。貴殿が合点していただければ、
家康が出てくるように仕りましょう。そのようにすれば如何でしょうか?」

「家康さえ出てくるのであれば、何も言うことはない。常々、意趣が有ったわけではない。」
大納言殿はそう仰せに成ったため、忠興様は直ぐに、家康公を大納言殿の元へ同道なされ、入魂の御盃を取り交し、
首尾よく家康公は御帰りになった。
忠興様は残り、大納言殿へ仰せになった

「家康の現在の屋敷は無用心であるので、向島へ移されるべきだと考えます。」
「この上は如何様にも。其の方に任せよう。」

そのように仰せに成ったため、即刻向島へお移りになった。

この一ヶ状は三斎様の御物語で承った事である。そして家康公と御老中御連判状に、
『当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき。』とある、六、七人の御連判状を私(細川忠興軍功記の作者)が
預かったことがあり、覚えている。

細川忠興軍功記



802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 12:19:08.70 ID:28ctvBqZ
徳川の治世と豊臣の治世だったら当然豊臣のほうがいいだろうなあ
徳川に味方して得たものはなんなのさw

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 13:25:20.20 ID:k+lBAxIa
少なくとも領地は広がったな。前田も細川も

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 13:33:31.03 ID:JVQBGdYo
豊臣だったら領地は増えてないな

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 15:31:27.93 ID:xqag71KY
○ 太閤蔵入地の解消
× 基本的に政権運営に参画できない

国持クラスの大名はともかく、中小の大名なら江戸幕府の方がやりやすいだろうね
まあ、財政的に余裕が無くて悠々と藩経営できてたケースは少ないけど

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 15:48:32.81 ID:SfIo6kA4
大大名も必ずしも政権運営に参画したかった訳でもないと思うぞ
というか極論三成だけが異常にやりたがってたようにも見える

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 16:18:25.61 ID:pQMysm+j
三成よか輝元のがあやしい

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 17:19:12.35 ID:00FCvUDV
伊達政宗が娘を松平忠輝と結婚させたのは、中央政界への発言力を求めてのことだったのだろうか?

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 17:19:12.35 ID:00FCvUDV
伊達政宗が娘を松平忠輝と結婚させたのは、中央政界への発言力を求めてのことだったのだろうか?

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 18:22:26.61 ID:SfIo6kA4
政宗が誰を嫁にしようと老中にはなれない
変に梟雄的に取り上げられることあるけど
普通に安定求めた婚姻だわな

輝元は三成に乗せられたお調子者だね
乗せられた分野心あったと言えるが

仔細が有り、丹波路を行く

2020年03月26日 17:57

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 10:09:52.35 ID:++oLtex7
慶長五年、奥州会津の城主・長尾景勝御討伐の時、細川越中守忠興は家康公の御味方にて宮津より出陣された。
父・幽斎は隠居の身であったので、田辺の城に居られ、忠興だけが出た。

こうして忠興は雑兵たち三千の人数にて六月十一日に宮津城を出馬された。この折に、御暇乞い申さんと、
田辺城に立ち寄り、その夜は田辺に宿陣した。幽斎は天守に上り、軍勢の行列を見物された。

忠興は若州を経て近江路へ打ち出ようと、丹後・若狭の境である吉坂まで進んだ。ここに、若州熊川には
近年関所が有るのだが、ここに敦賀の城主・大谷刑部少輔(吉継)が下知を加え、熊川の関所をいよいよ
堅固にして往来容易からざる様子が聞こえたため、忠興はこのように申した

「若州より近江路へ打ち出ようと思ったが、仔細が有り、丹波路を行こう。」

そうして吉坂より取って返し丹波路を山家へかかり、伏見へと出た。
幽斎はこの事を聞くと、こう申された

「刑部少輔になにか計りが有ったとしても、それで忠興の通行を妨害する仔細はない。
この頃世間物騒の時節であるのだから、むしろ関所に行き掛り、仔細を見届けて通るべきなのに、
吉坂まで進んでおきながらそこから取って返し、丹波路へ向かったのは不覚悟の至である。
忠興がもし存命して帰陣したとしても、対面は致すまじ!」
そう奥歯を噛み締めて怒鳴られた。

また一方、それから程なくして小野木重勝が田辺城を攻めた時、勅命とは言いながら、今少し永らえずして
幽斎が城を渡して京都に上ったことを忠興も悦ばなかった。

こうして互いに隔心が出来、段々と不和に成っていき、後にそれは次第に募り、父子の間の侍共が、一日に
二度に渡って鑓を合わせる事件も有った。

丹州三家物語



937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 12:43:09.56 ID:R6yK/SZl
サイコパス親子

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 12:52:06.74 ID:/s+X6SpC
命がけの親子喧嘩は戦国あるある

黄金百枚の儀

2020年03月25日 18:11

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:24:30.66 ID:K2dn1Ud1
細川忠興様は豊臣秀次公より別して御懇にされており、どうしたわけか、黄金百枚を拝領していた。
その上秀次の家老である前野但馬守(長康)殿の子息・出雲守(景定)は忠興様の聟であり、
秀次事件が起こると、御縁者故「秀次の一味である」と治部少(石田三成)の申立があり、これに
是非無く思し召され、聚楽の屋敷へは米田助右衛門(是政)殿が遣わされ、伏見での状況次第では、
御上様(正妻)、御子様たちを仕舞(生害)させ、御屋敷へ火を掛け、助右衛門殿は切腹するようにと、
忠興様は命ぜられた。

伏見に於いて、黄金百枚の儀は、「薬院法印(施薬院全宗)の肝煎りで秀吉公(秀次の間違いか)より借用した
ものであって、拝領ではない。」との弁明を、米田助右衛門、徳善院(前田玄以)より、太閤様へ申し上げた所、
太閤様はこのように仰せになった

「先年、明智謀反の時、信長公への御恩を存じ出、明智に一味しなかった。
たとえ今度、秀次と一味したとしても、その時の忠節により赦免しよう。」

この旨を徳善院が仰せ渡すと、忠興様は御安堵なされ、この時も助右衛門殿の一命をとした御奉公であったと、
忠興様より度々そのお話を承った。

細川忠興軍功記



788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:29:19.10 ID:5/kImDAj
>>787
しれっと治部と太閤を貶める悪い話。

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:36:18.45 ID:airvD0sC
金借りただけなんですもらってないんです、って言い訳になるんだろうか

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 20:39:25.29 ID:/mRIgf+N
佐吉があえなく負けた理由がよく分かるな

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 21:37:06.12 ID:NfHJ2VF6
この話へうげものにあったね

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/24(火) 22:54:05.24 ID:aUbdaYvf
>>789
猪瀬直樹、徳洲会の5000万円事件思い出した

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/25(水) 13:15:13.15 ID:jvpr6x/q
口先で借りただけだから許せやって話じゃなく
だから御公儀にお返しするので許してください
って話なので

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/25(水) 19:33:11.35 ID:5lQO7ZEJ
>>794
なるほどそういう文脈なのか
これは勉強になりました

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/26(木) 20:29:48.46 ID:MxcE7X8S
石田さんほんとにどういう人だったんだろな
全員にこんな感じでちょこちょこ当たってたんだろうか

週刊ブログ拍手ランキング【03/19~/25】

2020年03月25日 17:19

03/19~/25のブログ拍手ランキングです!


細川父子の入部と丹後 13

古今箱伝授のこと 12

稲富一夢が事 11

一色義定室・伊也姫の事 6
一色義定謀殺 6

これぞ一色滅亡の基であった 5
小野木縫殿頭切腹の事 4



今週の1位はこちら!細川父子の入部と丹後です!
このお話の面白さは、織田信長の時代の、入部してきた「大名」に対する在地国衆たちの様子が生き生きと描かれている
事でしょうね。どう対処するのか、議論をしてもまとまりがなく、そもそも友好関係に有るのは遠くの者達で、近隣の者とは
関係が悪い、という辺り、生々しさすら感じますw当時の「国衆」というものをイメージするのに、非常によい資料だとも感じました。
その上で、「戯言」からの喧嘩で簡単に当事者含めて数人の死者まで出てしまうなど、これもやはり、この時代の空気が
きちんと描かれていると感じました。ここから様々に考察するのも非常に面白い、そんな内容だと思いました。

2位はこちら!古今箱伝授のこと です!
古今伝授というものは中々ややこしく、もともと公家の二条家の秘伝であったものが、武士の東常縁に伝わり、その後連歌師の
宗祇に伝授されるなど、細川幽斎への伝授以前から、「公家」の枠内を超えたものだったようです。またそこから「御所伝授」、
「堺伝授」「奈良伝授」と分裂し、幽斎に伝授されたのは「御所伝授」の系統ですね。
古今伝授が何故朝廷を動かすほどの権威を持っていたかには、中世の教養における「古今和歌集」の地位の高さを理解しないと、
現代人には難しいかも知れません。和歌、あるいは連歌を読む、また文章を書くいおいても、古今和歌集の知識が無ければ
世間に認められるものには成りえませんでしたし、だからこそそれについての「正確な解釈」とされる古今伝授が重要だった
わけですね。
古今伝授など中世の文化史に関しては、講談社学術文庫から出ている『天皇の歴史10 天皇と芸能』などが手に取りやすく、
精しいと思いますので、良かったら読んでみて下さい。

今週管理人が気になった逸話はこちら!稲富一夢が事です!
稲富祐直は関ヶ原の時の、細川屋敷からの逃亡などで、戦国ファンからはあまり高く評価されているわけでは無いように思います。
ただ、そういった、「武勇」の観点で彼を評価するのもかわいそうだな、とも思ったりします。
稲富はやはり第一に鉄砲の技術者であり、それはただ単純に個人的技能というだけでなく、砲術家として一種の弾道学に
通じていました。また鉄砲製造の組織化にも着手しており、鉄砲の産業を近世に導いた一人としても、評価できるのでは
ないでしょうか。
彼がある意味武勇に欠けるところがあったとしても、技術と知識でそれを補って余りある評価を受けた、という所に、戦国後期、
あるいは近世の社会の変化を感じることも出来るかも知れません。そんな事もふと思った内容でした。
このお話も基本的に、稲富祐直を大変弁護していますね。この丹州三家物語が書かれた当時の、そういった気持も感じることが
出来る気がします。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話がありましたら、そこの拍手ボタンをしてやってください!
(/・ω・)/

小野木縫殿頭切腹の事

2020年03月24日 16:41

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/23(月) 22:27:15.18 ID:aD4lGeCD
小野木縫殿頭切腹の事

関ヶ原表は家康公の御利運と成ったため、諸大名には御暇が下され、彼らは国々へと帰った。
この時、細川越中守(忠興)が権現様に申し上げた

「小野木縫殿頭の居城は、幸いにもそれがしが在所に帰る道ですから、通りがけに踏み潰し、小野木の首を見て
まかり通るべきと考えます。」
(筆者注:小野木重勝は関ヶ原で西軍に属し、細川幽斎の籠もる田辺城を攻撃し、開城させた)

家康公も「そのように考えていたところだ。忠興の思った通りに成すべき。」と仰せが有り、慶長五年十月十七日、
福知山の城を取り巻いて、ただ一乗にと揉み立てる。
去る十月(原文ママ。正確には七月である)、縫殿頭は田辺城を攻めており、その意趣は甚だ深く、
「小野木の首を見るまでは、日夜を分けじ!」と下知された。

この福知山の城は、巽の方角より差出て、油崎に本城を取っていた。その下は蛇が鼻といって、東西に引き廻した
大河の内に堀を掘り、この堀は要用の堀であるので、その高さは幾尋という限りも無いほどであった。
然し乍らここには浮草が覆い浅く見えたために、細川衆先手の人数は我先にと飛び入った。これゆえ若干の人数が
溺死した。後方が非常に堅固な縄張りであると見えた。

忠興はこの様子を見て、蛇が鼻表は先ず置いて、南の丘より攻めた所に、忠興の旧友である山岡道阿弥(景友)が
馳せ来て両者の扱いに入ったため、小野木は城を開き、自身は剃髪染衣と成って上方へと退いた。
ところが忠興は憤りなお醒めず、また兵に追いかけさせ、亀山にて捕らえ、嘉仙庵という寺にて敢え無く腹を切らせた。

丹州三家物語

細川忠興の福知山城攻めと小野木重勝の最期についてのお話



古今箱伝授のこと

2020年03月23日 17:45

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/23(月) 12:25:52.59 ID:aD4lGeCD
古今箱伝授のこと

烏丸殿光広、中院殿通勝、三条西殿(実条)、この三人の人々は常々、細川幽斎に古今(古今和歌集の秘伝)の口伝を
深く望まれていたが、未だその相伝の無い内に不慮の大変(関ヶ原の戦い)が起こり、幽斎も田辺城に籠城と成った。

ここで幽斎は思った
「今度は討ち死にすること必定である。然らばかの三人の人々に、古今の相伝を空しくしてしまえば残り多い。」
そう考えて、籠城支度の最中の忙しさの折節に、古今の口伝を書きしたため、箱の中に封じ入れ、三人の人々に
使いを立ててこのように伝えた

『古今の我が家の口伝を年来望んでいましたが、惣劇に妨げられ延べ引き申し、俄に大軍を引き受けて、老後の
軍の至りとなりました。今回は討ち死にすること近くにあります。もし討ち死にしたと聞かれたら、この箱を開けて
この中の物を見て下さい。』
そう、一つの箱を送った。あのように忙しい境界に、神妙なる生得である。それ心狂眼盲耳聾の三悖を以て
人を牽くは難しと云々、誠に幽斎玄旨は文武の二つを兼備した良将の器と見えた。

さて、三人の人々は、箱を受け取って伝授を得ようとは思ったが、幽斎の身の上を痛ましく思い、またそのような中、
都の風聞には、幽斎が討ち死にしたと云うものも有り、未だ落城せざりしが一両日は持たまじとも有り、頻々に
言いければ、中院殿、三条西殿両人は、田辺城の結果を待ちかねて、かの箱の封を解いて、開いてこれを見た。
今の世に『古今伝授』と呼ばれるものが、これである。

烏丸殿光広はかの箱を開けず、幽斎玄旨の落着を聞いた上でと考えていた。そのような中、忝なくも幽斎の事を
御門も惜しみ思召して、両陣に勅使を下され、幽斎は囲みを出た。
烏丸光広は幽斎の無事を大いに喜び、かの口伝を入れた箱の蓋に

『明て見ぬ かひもありけり玉手箱 二たひかへすうら島の波』

と書いて幽斎方に戻されると、幽斎は斜め成らず感じ入り、その志に耐えかねて、光広卿の邸宅に行くと、
直ぐに相伝が有ったとか。このような故に、光広は筆外の口伝を得て、古今の秘伝に精しいのだと承る。

丹州三家物語



772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/23(月) 17:07:00.15 ID:jZuMQSyS
そもそも貴族の事なのにその貴族が悉く忘れてしまったことを細川藤孝1人が知ってるなんてことあるのかね

稲富一夢が事

2020年03月22日 15:34

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/22(日) 09:49:41.35 ID:+xP3v1b/
稲富一夢が事

稲富一夢(祐直)、初めの名は伊賀である、丹波国の住人にて、一色五郎満信(義定)の家臣であったが、
義定が滅んだ後、細川忠興の侍と成った。
この度、大阪屋敷の留守として忠興が置かれた所に、主人の用に立たず、剰えその行方も知られなかったため、
忠興は深くこれを憎み、何としてもこの者を捜し出し火あぶりにせんと捜索された。

しかし、「稲富が大阪城中に罷り在って、主君の役に立たなかったのは是非無き次第であった。」とも聞こえ、
その故いかにとなれば、稲富伊賀は鉄砲の名人ゆえ、大阪衆の歴々に、弟子である人多かった。故に稲富が
滅びることを惜しみ、鉄砲稽古に事寄せて、予め城中に呼び入れた。この時は未だ敵味方の分色も無い時であったので、
鉄砲の稽古もすぐに済むことだと心得て、稲富が城中へ参ったのも仕方のない事では無いだろうか。

この稲富という者は、奇妙稀代なる鉄砲の上手であった。その妙を語っても、未だ見ぬ人で、「信じられない」と
思わぬ人は居なかった。
稲富が常に用いる鉄砲は、玉目一両より八匁までを限りとし、その町間も八町(約870メートル)以上を好まなかった。
八町以内であれば、火蓋を切って中らずという事無かった。
或いは暗夜に孤狼の声を聞き据えて、闇中に撃ち留める事も、ただ箱の中のものを拾うようなものであった。

稲富は二十五歳の時、橋立大明神に一七日断食して、目くら打という工夫をしたと聞こえる。
十能十藝、古より手練の者は多いが、離切りたる飛び道具を、稲富ほど精緻に扱う者は未だ聞いたことがない。

関ヶ原の戦いが鎮まった後、畏くも権現様(徳川家康)が御直に越中守(忠興)に御詫言あそばされ、頭剃らせて
一夢と号し、世上の師となされた。

丹州三家物語

稲富祐直についてのお話



一色義定室・伊也姫の事

2020年03月21日 16:47

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/21(土) 02:23:17.00 ID:7Ug6HP5N
>>928の続き

細川忠興は予てより米田監物(求政)と密談して、
「一色五郎(義定)を打ち留めた時は、汝は早く義定の居城である弓木城に馳向かい、
(忠興の妹である)五郎の室受取るのだ。もし城内の侍たちで、少しでも擬議する輩があれば、
一々に頸を刎ね城を破却して帰るべし。出馬の合図は狼煙である。」
と伝え、騎馬十四、五騎に足軽を付けて置かれた。

宮津から西に向かって、のろしが嶽よいう高山があった。この山に予め煙の役人を付け置かれ、一色を討つと等しく、
城内に煙を上げると、山上にも狼煙を立てた。かの十余騎の兵ども、その方々の一味の者、この煙を見ると
監物に従って弓木に押し寄せ、城内に言い入った

「御内室の迎えとして、米田監物ここまで来たり候也。この上は仔細無く渡し給え!」

そう申し使わしたが、城内からは返答にも及ばず、夥しい鉄砲を打ち出した。
城内には天下無双の鉄砲の上手、稲富伊賀(祐直)という者が在り、極めて正確に射撃すると、寄せ手は
たちまち死人多く出た。
監物は先ず野田の橋詰まで引き取り、重ねて使者を以て城中に申し使わした

『内室のみを渡し給わば、面々には仔細無い。只今卒爾の働きをし給う故、味方に手負いが少々出来たが、
それは武士の作法であればどうして苦く思うだろうか。これは私が、藤孝の前で宜しく取りなし申す。』

そう懇ろに申し遣わしたが、城内の評議は喧々にして、とやかくという間に、傍の者共が内室を人質に取って
後ろの山より忍び出て、但馬を指して落ちていった。
監物はこれを聞くと即座に諸鐙にて追いかけ、但馬国藤の森にて追いつき、恙無く内室を取り返して、
米田は宮津へ帰った。

(中略)

一色(義定)殿の御内室は、宮津へ帰られた後に五郎殿の打たれ給わった終始をお聞きに成り、最後の時を思い
深く嘆かれ、このように仰られた

「過ぎし八日の卯の刻(午前六時ころ)、殿は私に向かって宣われた。

『今日は細川殿と対面する。我等が家と細川殿、互いの先祖は親しくしていて、代々公方様に仕えつつ、
ここかしこの戦いに、互いに頼み頼まれて力を合わせていたと見え、そういった古き文なども残っている。
その子孫の末と成っても、昔を思えば懐かしいものだ。
それが、このように親子の縁と成ったのも、宿縁の浅からぬ不思議さよ。』

このように宣われ、誠にいつもより睦まじく、馬鞍綺麗に装わせ。弓木を出給うたのだ。

去年の夏の五月の頃に私が一色殿の元に参ってから、このように賑々しい供人で、どこの地にも出かけられた
事はなかった。私も一入嬉しくて、城の窓より見送ると、須津の浜道を過ぎられ山路にかかられた所で、
また朝霧が吹き払われてとても幽玄に見えた。しかしそこから、生い茂る松陰に見失い参らせ、
供人も見えなくなると、心の内に味気なく、そぞろに涙がこぼれるのを、忍んで人に見せなかったが、
殿が城を出られたことに涙を流したのは忌まわしいことだと思い、盃を出させ女房たちをも慰めたのだ。

それなのに、思いの外のことが有って失せさせ給う哀しさよ。このような企てが有るなどとは、私は夢にも
知らなかったが、御最期のその時に、さぞ私を恨まれたであろう。」

そう、明け暮れに嘆かれた。

丹州三家物語



930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/21(土) 07:19:29.62 ID:9tXeVMOo
>>929
まさに悪い話…

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/21(土) 18:57:41.06 ID:cNtRGQG+
光秀「手段は選ばぬ。勝つためならば。」

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/23(月) 06:17:42.39 ID:An2HW4k+
米田監物って、針薬方に出てくるあいつか。光秀とは深い付き合いだったのかな、田中城籠城以来

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/23(月) 17:41:19.37 ID:CHPz+jBH
一色が光秀に味方し長岡が秀吉に味方した
長岡の内室は光秀の娘
生き残る選択肢は少なかったと思う

一色義定謀殺

2020年03月20日 15:42

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/20(金) 03:55:08.86 ID:xMBLyZ5b
天正九年の三月に、細川藤孝・忠興父子は丹後に入国され、明智光秀が予てより取り持たれた契約の事であったので、
その年の五月に細川藤孝の息女を一色(義定)殿に嫁がされた。

同十年九月八日、五郎(一色義定)殿が宮津の城に聟入りあって、細川父子に対面した。
この時、未だ宮津の城は完成していなかったため、はかばかしい座席も無く、そのため大手の内にあった、家臣・
有由士郎右衛門の宅に於いて五郎殿を饗応し、既に酒宴に及んだ。

細川藤孝が抔を一色殿に差し、五郎が抔を取り上げて、頂こうとしたその時、忠興が一色を討った。
しかし少しかわしたか、弓手の肩を討たれた。
五郎も流石壮士にて、勇猛をふるったものの、大勢が出合い、取り籠めて遂に討たれ給うた。
いたわしき有様であった。

五郎の扈従に蘆屋千八、金川与藤という者たちが有り、彼ら二人は常に一色の身近くに仕えていたため、
この時も召し具され次の間に在ったのだが、彼らについても予め討手を用意し、一色殿と同時にこの二人も
討たせた。蘆屋、金川は勇士であり、即座に抜き合い、討ち手も手負ったが、多勢に無勢であり、叶わずして
二人共討たれた。
その他の一色衆は、予め大手の門外に町家を建て、そこに置かれていたのだが、城内が何やら騒がしく、
一色討たれ給うと聞こえると、「すわ!我先に!」と抜き連れて追手の門へ入り込もうとしたが、細川衆
切って出て、大手の橋を轟かせ追い返して戦った。手負い、死人多く出て、一色方は十三人が枕を並べて討たれた。
生き残った一色衆は皆、弓木に引き取って堅固に城を固めた。

丹州三家物語

細川父子による一色義定謀殺についてのお話

続き
一色義定室・伊也姫の事


細川父子の入部と丹後

2020年03月19日 17:07

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/19(木) 02:20:30.21 ID:5aU48FEL
細川藤孝・忠興父子が丹後に入国してくることが聞こえると、国中の侍たちは、隣城縁家もよりよりに通談した。

現在、つらつらと世の盛衰を考えてみると、元亀天正の頃は天下未だに半治半乱とは申せども、織田信長が天下を
知ろしめす事、掌を指す如き状況であり、その信長のほど近くに在る細川がこの国に来ること、皆信長の指示であると
考えるべきであろう。

であれば、恣に細川に楯突いて後難を招くよりも、早く和睦を以て細川に対面すべきか、
又は国中の各々が合わさって軍を催し、難所を前に細川勢に当たり防戦すべきか、
或いは所々の険城に国衆たちの大将が立て籠もり、細川の人数を所々へ引き分けて討つべきかと、
評議まちまちであった。

また、そうは言っても、親しき者は遠路を隔てており、近所の者は年来仇を結び、或いは煩わしい関係の者共であり、
この事遂に熟談せず、それぞれの心々になった。

ここに、与謝郡大島の城主・千賀兵太夫、日置むこ山の城主・日置弾正という者、両人語らい細川入部の迎えとして
普申峠の麓まで、互いに連騎いたしたが、日置弾正は隠れなき美男にて、衣装・馬鞍に至るまで、華麗な出で立ちで
あった。
一方の千賀兵太夫は元より貧にして、にくさけ男の違風者であり、衣服、馬具まで見苦しかった。
そこで日置弾正は千賀に対して戯言を言った

「初めて細川殿と会うべき身であるのに、そのような見苦しい装束があるだろうか。戻って肩衣に着替えてくるべきだ。」

これに千賀は大いに腹を立て、口論募り、喧嘩に至って両人即座に打ち果てた。家来も互いに斬り合って、
忽ちに死人七、八人に及んだ。

丹州三家物語



927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/19(木) 20:45:52.59 ID:Zi+2cZjs
どうなるのかと読み進めたら、斜め上過ぎる結果になって驚愕です

これぞ一色滅亡の基であった

2020年03月18日 18:05

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/18(水) 00:51:26.24 ID:F8JL/9mO
丹波福知山の住人、細川兵部太夫藤孝の子息、與一郎忠興の丹後入国の由来を詳しく尋ねるに、
天正の頃、織田上総介平信長は弓箭盛んにましまして、東は美濃尾張、西は播州を限りに、五畿内南海、
悉く信長に属し奉った。しかし丹後国は未だ御手に入らざりしを、明智日向守光秀が謀して、
河北石見という者を大将に仕り、雑兵二、三〇〇ばかりにて丹後国を大物見にて差し越しける。

河北石見、先ず与謝郡石川谷に討ち入り、堡塁二、三ヶ所落とし、その勢いに国中を遵見しようとしたが、
国侍たちは強く、在々所々にて河北の人数は打ち留められ、河北石見はほうほうの体にて丹波を差して逃げ帰った。

猶も明智は当国に謀をめぐらし、終に一色五郎(義定)を欺き、細川の聟に仕ることを取り持った。
細川與一郎忠興は光秀の聟である故にだろうか、丹後半国を細川父子に参らせ、一色・細川両旗にて
堅固に治め給えば終始然るべしと、光秀が強いて取り持ったのである。

一色殿は代々丹後の国主として、一色五郎は近年は宮津八幡山に居城していたが、天正三年、父左京大夫(義道)
卒去の後、国中の諸士五郎殿を背き、それぞれ不敬を以て会うような時節であったため、本意ではなかったが、
流れに棹さす心地して、光秀の計らいに任せた。

中郡、竹野郡、熊野郡は一色殿、与謝郡、加佐郡は細川と定め、その上一色殿は奥郡手使いのためとて弓木の城に
移し、八幡山は細川に渡されすべしと定まって、細川父子入国のことを了承された。
これぞ一色滅亡の基であった。

かくて細川父子の人々、天正九年の三月に宮津に入り、八幡山に入城されたが、こうして河守あたりより奥宮津までの
地侍、百姓たちは細川に従った。城持ちでは、公庄但馬下村の城主。上原徳壽軒、奥宮津の小倉播磨、惣村の城主
北庄鬚九郎、これらの者達が先ず細川殿に従った。

翌年子の年よりまた、宮津の平地、海寄りの場所に城郭を築いたが、丹波国より明智の人足が多く来て、
城普請を致した。

丹州三家物語

丹後国と一色義定明智光秀、細川父子について



週刊ブログ拍手ランキング【03/12~/18】

2020年03月18日 13:37

03/12~/18のブログ拍手ランキングです!


出羽国上山と『たくあん漬け』由来 9

池田恒興の父母の婚儀 8
生後一月を越えると歩き、二月過ぎて食し、八歳にして敵を討った 8

今、その第十の計りを用いる 7
尼子再興軍挙兵 6
山中鹿介、品川狼介、勝負の事 6

尼子勝久・通久兄弟の切腹 5
一戸兵部大輔政連横死のこと 5
尼子再興軍による月山富田城攻略失敗 4


今週の1位はこちら!出羽国上山と『たくあん漬け』由来です!
たくあん漬けの名の由来は様々あるらしく、農林水産省のHPによると、この沢庵和尚が作ったから、という由来の他に、
「沢庵和尚の墓石の形に似ていた」、「「貯え漬け」がなまった」、「「百一漬」が転訛した」等々、これが定説、
というものは無いようですね。
農林水産省HP
https://www.maff.go.jp/j/heya/sodan/1205/01a.html

そういえば、沢庵宗彭は紫衣事件に連座して、出羽上山へ配流されるわけですが、そこで沢庵を厚く保護し、彼に春雨庵を
寄進した土岐頼行は、今、大河でも進行中の、美濃の土岐頼芸と斎藤道三の内紛に巻き込まれ、美濃を脱出し奥三河へと
亡命した、土岐定政の孫であり、いわゆる「明智土岐家」の人物なのですね。
土岐定政が大河に出てくるのかは解りませんが(一説には明智光秀の甥とも)、こう言ったと所からも、何かしら、歴史というものを
感じられる気がします。

2位はこちら!池田恒興の父母の婚儀です!
この滝三四郎が、池田恒興の父である池田恒利ですね。滝川氏の存在感も感じ、後の池田家の繁栄に関しても
色々と想像、考察をしたく成る内容でもあります。養徳院は滝川一益などの推挙に寄って信長の乳母となったと言われますが、
その頃から一益は織田弾正忠家において一定の発言力を持っていなのかなど、想像も膨らみます。
このあたりも、「信長以前」を考える上で大変貴重な拠り所になりますね。
様々に考察しがいのある内容だと思いました。

今週の2位はもう一つ!生後一月を越えると歩き、二月過ぎて食し、八歳にして敵を討ったです!
こちらは山中鹿介生誕譚!戦国大名の神格化は珍しくないのですが、一武将に過ぎない人物の神格化(これは神格化以外の
何者でもないと思う)は、かなり稀なケースではないでしょうか。生後一月で歩いた、というのも、釈迦が生後すぐに歩いたという
伝承を想起させるものですしね。山中鹿介という人物が、無論その評判のベースと成る、高い実力や人を引きつける人格が
あったにせよ、世間に対してどれほど大きな幻想を与えていたかが見えてくるお話だとも思います。
そういえばこの山中鹿介は、後の「真田幸村」の原型の大きな要素であるとも言われますね。尼子十勇士を元に真田十勇士が
創作されたりしていますし。そもそも真田「幸村」の名も、山中鹿介「幸盛」をもじったのではないか、なんて感じていたりします。
「山中鹿介」と、「真田幸村」、この二人の間に創作的なつながりや継承を見出していく、という考察も面白いかも知れません。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話を見つけた時は、どうぞそこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

尼子勝久・通久兄弟の切腹

2020年03月17日 18:03

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/17(火) 12:10:13.79 ID:DxVeY+n/
上月城の戦いの終盤

吉川治部少輔元長は山陰道の勢二万余騎を率い、卯月(四月)十一日の朝陽に、織田の援軍の在る高倉山へ
討ち向かい、有無の合戦と憤る。その来鋭奮発として、大地震え山裂けるが如し。北國武者の勇気は氷雪の
気色を表し、烈々として厳しければ、佐久間右衛門尉(信盛)、瀧川左近将監(一益)らは

「あの手の者達はどうやら鬼吉川の勢のようだ。彼と戦い、例え利を得たとしても、上月城を囲んでいる
十万余騎の敵は、それを見て我等に討ち掛かることをどうして堪えるだろうか。
若大将である織田信忠を、生死知らずの者共の鋒前に掛けてはならない。早くこの陣を引くのだ。」

として、高倉山の陣を引き払ったが、吉川元春はこれを追い、同国書写山に追い詰めた。

こうして上月城では、後詰めの味方が敗軍したと聞くと城兵の大半は落ち散り、防ぐべき戦術も盡きた。
尼子孫四郎勝久、助四郎通久兄弟は「今はもはや自害せねば」と思い極め、山中鹿介幸盛を呼んで

「如何に御辺は、今一度降人となり、芸州長田に御座す、前伊予守義久入道瑞閑を忍び出し、再び
素懐の旗を立て給え。
先年、秘蔵せし松虫の轡を捧げて、織田信長の憐憫を得た。今また、尼子家の什宝である荒身國行の太刀、
並びに大海の茶入を進ぜよう。これは我等の形見とも、又は武略の種ともし給え。」

そう遺言し早くも自害の用意急であれば、幸盛は涙を流し
「さても無念の次第です。これも尼子の家運が滅びるべき時が至ったのか。であれば、人手に掛かるよりも
疾く自害されますように。幸盛は今一度、思う仔細がありますから、御跡に留まって後世を弔い進ぜます。」
そう言って酒を進め、宴など催し。天正六年五月二十九日(筆者注・実際には七月三日とされる)、
勝久通久兄弟、自害して名を滅亡の跡に留めた。哀しいと云うも愚かである。

雲州軍話首

尼子勝久・通久兄弟の切腹についてのお話。



921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/17(火) 14:00:05.78 ID:uq7TRT/o
織田勢転戦しすぎててちょっと記憶が薄いんだけど
佐久間と滝川と信忠って山陰の方出張ったっけ

今、その第十の計りを用いる

2020年03月16日 18:45

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/16(月) 17:32:14.14 ID:vH5vpMMx
元亀二年の頃に成ると、尼子再興軍は毛利相手によく戦ったものの、兵糧は既に尽き、今は天下の扶助がなければ
どうやって大敵に打ち勝つことが出来るのかと、諸城を開け退き、或いは再び降人となって毛利方に出頭した。
このため、今や尼子勢は五千余騎に過ぎぬ有様であった。

山中鹿介の籠もる末石城内も飢饉に及び、士卒は軍務を尽くさず、夜々に落ち散る者多かった。
このような状況の中、鹿介幸盛は軍士を呼び集めると、このように申し渡した

「私は若年の初めより、勝利十法をよく学び得て、敵に当たるたびにこれを用い、勝たぬという事はなかった。
今、その第十の計りを用いる。

この幸盛、敵を偽り、降人となって衆命を助け、粮を求め、重ねて蘇兵を挙げる期を得ようと思う。
であるので面々は皆、故郷に忍び、時を待ち給え。」

そう命ずると、十月二十五日の朝、城門を推発すると、鹿の角の前立を指し挙げ「矢留である!」と呼びかけ、
ただ一人打ち出る。甲をうちかけ鑓を杖し、吉川元春の陣門にかき入り、仁王立ちし、大音にて言った

山中鹿介幸盛、弓折れ矢盡きて、今は衆命を助けるため、降人となって出て候!
願わくば、元春、元長の御慈悲を以て、鹿介の一命を助け、後扶助を預かれば、今後は大忠を尽くすと、大将へ申せ!」

そう高声に呼びかけると、陣門の警護、宿直の武士たちは大いに驚き、陣中の騒動は千車の轟に異ならず、幸盛を
討って大賞を得んと、我も我もと進み出て、彼をその真中に取り囲んだ。
しかし幸盛の勇気は項羽の武威を越えるもので、とうと青眼をむけ大きな怒りを含み

「我武運盡き、軍門に降る上は、汝等が心に任せよ!」
と、鑓を投げ捨て太刀を抜き、
「これぞ今、降人の現れである。早く大将に告げよ!」
と呼ばわると、その声は獅子の吼えるが如くであった。

しばらく有って「大将見参すべし、これは御入り候へ」と、勇士三十余人が、鹿介の左右の腕袂に取り付き、
陣屋の中に入れようとしたが、鹿はまた怒って、両手を振りほどくと左右の手に取り付いていた勇士たち
三十人は将棋倒しに倒れ、躓き伏せ、赤面して立った。

鹿介は吉川元春を前に跪き、頓首平伏した。この時駿河守(元春)は幸盛のその姿を見て
「昨日まで雨を施す龍王も、雲を得ずしては死した蛇にも劣る。御辺は日本第一の豪傑と雖も、兵粮が尽き、
兵が分散した故に降人として出てきたか。痛ましいことだ。

私は正兵を守り奇を用いない。降る敵を捨てず、一人を助け万人を喜ばせるための賞としよう。」

そう真心を以て語りかけ、鹿助に伯耆国尾高庄、周防国徳地ノ庄、併せて二千貫を宛行った。
こうして山陰道は再び元の如く、大江(毛利)の幕下となった。

鹿介は喜び無く、まもなく尾高庄に入部し、蟠龍が来復の気を呑んで、時を窺っていた。
そのような中、尼子孫四郎勝久が隠岐国に渡り、軍の用意を怠らなかったが、これが敵方へ聞こえ、
「早く討手を差し向け、芽のうちにこれを断つべし」と評定で決した。

鹿介はこの事を聞くと、急ぎ隠岐国へ飛脚を遣わし、勝久にかくかくと告げようとした。
所が彼の飛脚は割符を持っていなかったので、諸所の関所を通らず向かったが、伯州境にて彼の国の関守、
杉原播磨守盛重の廻国の警護の者たちに、怪しい奴とこれを通さず、搦め捕り拷問にかけた所、この飛脚は
白状し、笠の緒の中から、鹿助より勝久への密書が一つ出てきた。

「これは疑う所なし、あの鹿助を誅殺しなくては、またどのような世の変転が起こるかわからない」と、
急ぎ追手を向けたが、その時鹿介は既にこの事を伝え聞き、またかねてより妻子を、婿である亀井武蔵守(茲矩)の居る
京都へ上らせ置いており、直ぐに尾高を忍び出て、但馬国へ赴き、隠岐へ使いを立てて尼子勝久兄弟を招き寄せ、
濃州岐阜へと落ちていった。

雲州軍話首

第一次尼子再興運動の失敗と、山中鹿介の偽りの降伏についてのお話



919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/17(火) 11:52:39.52 ID:nKpdqadR
因幡では鹿介ら山賊となり村々を略奪しては女を凌辱又は奴隷市で売り軍資金を稼いでいたそうな
今でもこの地域には埋蔵金伝説がある

池田恒興の父母の婚儀

2020年03月15日 16:17

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/15(日) 15:40:05.79 ID:TgO80z9z
池田恒興の父母の婚儀


池田政秀(恒興の祖父)は男子がいないので、娘(恒興母、養徳院)に婿養子を望んでいた。
そのころ産婦に巧者の取揚婆々というそこかしこに雇われる者がいて、滝三四郎(滝川貞勝次男という)と
政秀の家にも出入りをしていた。

(取揚婆々は)よく両家のことを知っていたので、ある日政秀に
「滝三四郎殿は元来筋目よき御人です。幸い流浪していらっしゃるので
 御息女を差し上げられるのならば御肝入りしますよ」
と言ったので政秀は
「そうしよう。我等の家は乏しくて譲るような物はないが婿養子にしたいものだ」
と返答したので、この婆々が三四郎殿のところへ行ってあれやこれやの仲立ちをし婚儀が整ったという。


――『吉備史談会講演録



766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/15(日) 21:03:43.17 ID:aVZrvdsR
>>765
取揚婆々「ふん!滝川三四郎っていうのかい?贅沢な名前だねぇ…!今からお前の名は滝三四郎だ!いいかい、滝三四郎だよ!」

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/16(月) 10:36:50.17 ID:lJIU+1A0
>>766
こうでは?
取揚婆々「ふん!滝川三四郎っていうのかい?贅沢な名前だねぇ…!今からお前の名は池田三四郎だ!いいかい、池田三四郎だよ!」

恒興母は信長に乳首を噛みきられなかった人だね

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/16(月) 11:57:27.66 ID:VPD04LvA
鋼鉄の乳首を持つ女

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/16(月) 12:35:32.79 ID:VoYlb5wn
小宮三四郎のネタだね。つまんねーから消えろ!

尼子再興軍による月山富田城攻略失敗

2020年03月15日 16:14

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/15(日) 00:54:43.96 ID:BEc4Klcp
永禄十二年、尼子再興軍により山陰道は悉く翻り、山中鹿介は石州に働き入り、黒岩、戸屋ノ尾の二城を築くと、
その軍勢は四万余騎となって、既に雲州の月山富田城を囲んだ。
米原平内左衛門尉広綱は、今度、毛利の立花の戦線より馳せ帰って尼子方に帰伏し、その勢三千余騎にて高瀬の城に
立て籠もった。

しかし、毛利方で月山富田城の守将、天野中務大輔隆重は頑強に防衛し、またこの時、殊更に大雪が降り、
数丈の高さに降り積もって陣屋を埋めたため、空しく月を移り日を暮らした。

年が明けて永禄十三年、東風は潤い谷の氷を解かし、春雨は満峯の雪を潰した。
「今は時を得たり、急ぎ城を攻めよ!」
尼子の軍営ではそのような声が高くなった。

ところが、正月七日暮天、備後国より早馬が来て告げた

『大友左衛門入道宗麟、立花の軍で利を失い、継いで耳川にて島津義久に討ち負けた。(筆者注:ここでは永禄十二年(1569)
の多々良浜の戦いと、天正六年(1578)の耳川の戦いを混同している)
また防州においては、舎弟の太郎左衛門尉輝弘が討ち負け(大内輝弘の乱)、その死後は九州も悉く翻えって
大江羽林(毛利元就)に与力し、備後国の一揆も、軍に利無く終に討ち負け、一人も残らず滅し、見方は一騎も
無くなった。敵の軍勢は馳せ集まり、程なく八万余騎となり、近日、雲州に向けて発向すると聞こえる。
内々御用意有るべし。』

尼子勢はこれを聞くと、「なんと事々しい注進であろうか、敵が立花城を落としたその足で、防陽の軍勢が如何
蘇長したとしても、そのように俄に大軍を催せるものだろうか。」と疑義していた。

そんな中、同月十二日、毛利方の吉川、小早川は八万九千騎を率いて雲州津賀庄に侵攻し、多久和の城へ押し寄せ、
四方八方から騒動した。
多久和の守将は秋宅庵介、尤道理介であったが、僅かな小勢で城に立て籠もっても、大軍に囲まれては、ただ
追われた鼠が穴に入って蹲っているのと異ならず、そのような状況下で、どうして城を出て合戦をすることが
出来るだろうかと議して、同日の深夜、城に火を掛けて落ち去った。

この時、何者かが書いた落書が立った

 『秋やけて 落は尤道理介 如何に庵を春やけにする』

多久和城の者たちは、富田の陣営をへと落ちていった。この自体に尼子勢は
「当家三軍中より選び出した庵介、道理介の両介が一支えも出来ず敗北した上は、大敵が襲来し、その鋭鋒を防ぐのは
難しい」と群士は固唾をのみ、衆議喧々となった。

この状況に山中鹿介幸盛は「萬衆一和ならぬ合戦をして、古今勝利を得たる例無し。」と、富部の城に引き退き、
月山富田城の囲みを解いた。

雲州軍話首

尼子再興軍による月山富田城攻略失敗についてのお話。秋宅庵介、尤道理介は、いわゆる尼子十勇士の一員ともされる
人ですね。



915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/15(日) 09:59:35.09 ID:yh2KYrWm
まとめの5419
「雲陽軍実記」より、尼子十勇士っていったい

にはほかに2パターンの狂歌が
「城を明落ち葉の頃は道理なりいかに伊織を春焼にする」
「城を明け落葉尤(もっとも)道理なり いかに庵を春焼にする」

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/15(日) 10:18:10.96 ID:rOhCHn6o
キワモノ揃いの十勇士w

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/16(月) 15:14:16.06 ID:Wk0EwnES
秋宅庵ノ介、尤道理ノ介といえば
滝沢馬琴「燕石雑志」の「苗字」の項に

「正親町院の永禄のころより諸国の武士にて奇異なる名おほかり。
山中鹿ノ介幸盛、秋宅庵ノ介、寺本生死ノ介、尤道理ノ介、藪中荊ノ介、小倉鼠ノ介、山上狼右衛門(以上尼子の家臣)
この餘、朝倉家の十八村党、河野家の十八森党、大内家の十本杉党、吉見家の八谷党、尼子家の九牛士、里見家の八犬士
枚挙にいとまあらず。
こはみな軍陣に臨みて名告るとき敵にわが名をおぼえさせんため為るとぞ。
戦世には武備あまりありて文備なし、その名の野なる心ざまの猛きさへ推しはからる。」

名前だけでもおぼえてもらうためにそういう名前にした、と書かれていた。
しかし尼子九牛士というのも十勇士の他にいたということになるが、
馬琴先生、「雲州尼子九牛伝」ではかっこ悪いと思って「南総里見八犬伝」を書いたのだろうか

尼子再興軍挙兵

2020年03月14日 15:07

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/14(土) 02:56:33.70 ID:HrhviztH
尼子伊予守義久の伯父である、孫四郎久勝、同弟・助四郎通久は(正確には義久の祖父・政久の弟・国久の孫であり…、
親族としてはなんと呼ぶのだろうか)、さる永禄九年十一月、雲州富田城が没落した後は、ここかしこに身を潜め、
牢屈の悲しさに涙が尽きる日もなかった。洛陽(京都)東福寺に隠蟄し、出家遁世の姿に身をやつし、時が来れば
義兵の旗を挙げ素懐の恨みを晴らさんと、年月を風に吟し月に嘯き、怨みを山陰の雲に憤って明け暮れて座していた。

その頃、尼子一族譜代の郎従である山中鹿介幸盛。立原源太兵衛久綱、加藤彦四郎経盛も、京の嵯峨の辺りに居たが、
大江羽林(毛利元就)が九国(九州)を攻めて大乱に及ぶと聞くと、「今こそ、義兵を起こし鬱憤の旗を押し立て、
山陰道に討ち向かい、尼子累代の本領を取り返し、勝久兄弟の素懐に達するのは如何か」と議した所、
みな「尤も」と了承したため、急ぎ二条の御所に参り、委細を訴え出た。

織田信長はこれを聞くと、大いに喜んで言った
「関東では武田信玄が陰謀を呑み、西國では大江羽林が毒石を含んでいる。天下始終の魔障は、彼ら両勇である。
昔、漢の高祖は義帝を立てて秦の代を滅ぼし、周の武王は木主を作り殷の代を傾けた。幸いにいまここに、
勝久、通久の兄弟がいる。早く彼らを大将に立て、義兵の旗を挙げるべし!」

そう応じられ、御教書を調え、丹波、但馬の勢二千余騎を以て加勢に付けた。これに尼子孫四郎勝久、助四郎通久の
兄弟は、蟄望たちまち発し、虹龍が一陽の気に乗って天に上る如きであった。
尼子譜代の郎従に一言、芳恩の武士への催促を促した所、恨みを一刀の刀に掛けた兵たちが馳せ集まり、程なく
七千余騎となった。

雲州軍話首

しかし信玄と元就で「天下始終の魔障」とは、また偉い言われようですね。



762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/14(土) 07:31:17.81 ID:OFEQsci3
>>760
>天下始終の魔障
>虹龍が一陽の気に乗って天に上る如き
言い回しがいちいちかっこいいwこういうのが講談の元になったというか発展したのかな
現代にも講談→小説→漫画としてつながってる気がする

764 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/03/14(土) 10:43:25.29 ID:CEi3z3Cr
>>760
>正確には義久の祖父・政久の弟・国久の孫であり…、
親族としてはなんと呼ぶのだろうか

「はとこ」と言う

山中鹿介、品川狼介、勝負の事

2020年03月13日 16:37

746 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 20:22:59.54 ID:72oODjjo
ここに石見国住人、品川半平という者があった。彼は吉川元春の陣に進み出てこのように言った
「この頃、関東には勇士があると言いますが、西国には鹿(山中鹿介)を討つ人もいない。私が一勝負仕り、
軍の睡りを醒しましょう!」
そう声高に訴えた。

彼の形相を見ると、身長は七尺(約212センチ)を越え、両眼は鬢(耳ぎわ)まで裂上がり、
手足は熊、目、口は虎に異ならなず、鉄をくり抜き。鐘の如くなる鎧を着、六尺(約180センチ)あまりの太刀を帯び、
彼が大将である吉川の陣に望んだその姿は、そのまま仁王の荒作り、又は当八毘沙門が貴見城の門に立って修羅を
攻め給う姿もかくやと怪しまれ、軍使悉く身を跪いて恐れをなした。

この時、吉川駿河守元春の長男・治部少輔元長は、その頃世に隠れ無き形相の人物であり、人は皆「鬼吉川」と
呼ぶほどの血気にて、仁義も勇も逞しき勇将であったので、彼は半平を一目見て
「さても汝の形相は、いかなる天魔鬼神も挫き、孟賁(秦の武王に仕えた勇士)の骨を砕くべき血気なれば、鹿介を
討たん事容易いであろう。先ずは受領を進むべし。」と、即時に『狼介勝盛』(鹿を狩る狼、また山中鹿介幸盛に勝つ、
という意味であろう)と名を与え、「早速敵陣に赴き、勝負を決すべし」と下知された。

狼介は喜び勇み、勇者の面目、且つ鹿を取ると名が明らかなのは自明の理であり有り難しと打ち笑い、
鋒より長い鑓を取って、大場谷の坂に望み、囲いを抜いて三度「誰人にても一人これに出給え!」と、
大音にて呼んだ。その声は余りに高く、谷峰を震わし山彦が響いて聞こえぬ所無かった。

城中では驚き、「これは如何なり、獅子象王の呻声か、事々しき音声である。早く出て事の仔細を聞くべし。」
と下知をした。そこで今川鮎介が飛ぶように走って見てみると、そこには閻魔大王に些かも劣らない大男が、
三間ばかりの鉾を携えて立っていた。

今川は驚き、「汝何者ぞ、化生か鬼か、名乗れ!」と言うと、狼はこれを聞くとあざ笑い
「我は鬼神にも非ず、石州益田住人、品川狼介勝盛という者である。御辺は誰か、名乗れ。」
鮎介はそう言われるとカラカラと笑った

「世の中に名前というものは多いが、その中で狼と名乗るのは片腹痛い。御辺は定めて鹿介と勝負を決するために
名字を変えて来たのだろう。しかしその身が獅子介、虎介と名乗ろうとも、鹿は現在、日本国に於いて万人が
指し示す大勇であり、殊に勝負の十方を研磨し、当たる敵に勝たぬという事はない。
今日、そんな鹿介に勝負を望むということ、嗚呼、御辺の運の尽き、滅亡を招かれたその謀、無惨である。
暫くここで待ち給え、鹿にこの事を伝えてこよう。」

そういって鮎介は山中に駆け入り、山中鹿介幸盛に、かくかくと告げた。
鹿介は目を閉じ黙然とし、上帯に太刀をおさめ、十文字の鑓を取って提げ、已に出向こうとした。
これに鮎助は走り寄り、鎧の組紐に取り付いて
「不覚なり。御辺は大将の身として、一騎の勝負は避けられるべきだ。」と鑓を取って控えさせると、
鹿はあざ笑って

「敵も我も同じ人である。例え本当に鬼だったとしても、どうしてそれを見て逃げるだろうか。
況や同じ人間であれば、私の鑓に先に懸って、いわゆる夏の虫と成るだろう。凡そ勝負には、勝つも負けるも
ここにあり。」

そう言って胸をホトホトと叩いた。これに鮎助は打ち笑って「もはや勝ったな、鹿殿」と誉め称え馬に乗せた。

747 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 20:23:19.18 ID:72oODjjo
鹿介は急ぎ谷口に表れ出て
「いかに狼殿、鹿は大将の身であるから一騎の勝負は不覚で有るのだが、末世まで勇士の名を立てるために
ここまで出てきた!さあ、一鑓仕らん!」

そういうと狼聞いて

「さても、勝負を決するのであれば太刀打ちの勝負をしよう!」

と、鑓を投げ捨て太刀を真っ向にかざし躍り出た。その形相はただ、閻魔大王が呵責の鬼を怒るのもこの時かと
訝しむほどの形相であった。
上の山には寄手大将吉川小早川、左右の峰には伊予河野、備中の三村、大旗小旗を靡かせ「狼、鹿取れ!」と
声援し、その声はまた、大地を震わし大山が裂けると錯覚するほどであった、

鹿も馬より下りて太刀討ち合いを暫く戦った。その間狼は、右の小鬢に痛手を負い流血、その血が目に入った。
このため「今は叶わじ」と思ったのか、太刀をカラリと捨て、無手となって組み付き、鹿を取って引き敷いた。
幸盛は元来気早なる勇者であったので、下より二刀差し通し跳ね返すと、狼はまた下になって鹿の向こう脛を突き、
双方手負いとなって別々にわかれた。しかし狼は深手であり、終に空しくなった。

さても世は定めなき習いであるので、鹿を取るべき狼が鹿に取られること無惨なりと、敵の毛利勢は眉をひそめて
音も無かった。

その後、何者が書いたのか、大場谷に落書が立った

『狼が 鹿に取らるる世となれば 負色見ゆる勝久の陣』
(狼が鹿に命を取られるような、世の常の道理が逆に成った世であるのだから、道理に従えば本来は勝つはずの
尼子勝久の陣営に敗色が見える、という意味であろう。)

雲州軍話首

山中鹿介品川狼介の勝負について。プロレスか格闘技の試合みたいですね。

前話
生後一月を越えると歩き、二月過ぎて食し、八歳にして敵を討った



748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 22:11:21.08 ID:+eHnhGXZ
「世の中に名前というものは多いが、その中で狼と名乗るのは片腹痛い。御辺は定めて鹿介と勝負を決するために
名字を変えて来たのだろう。しかしその身が獅子介、虎介と名乗ろうとも、鹿は現在、日本国に於いて万人が
指し示す大勇であり、殊に勝負の十方を研磨し、当たる敵に勝たぬという事はない。
今日、そんな鹿介に勝負を望むということ、嗚呼、御辺の運の尽き、滅亡を招かれたその謀、無惨である。
暫くここで待ち給え、鹿にこの事を伝えてこよう。」

突然こんな芝居かかった長いセリフを思いついてスラスラ言えるのだろうか

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 22:12:23.93 ID:hC0ZPjal
このまま漫画化できそうw

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 23:01:06.96 ID:7eHWEYO2
身長デカ過ぎ、台詞男臭過ぎ、原哲夫の漫画かよ

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 23:38:07.91 ID:pCfeW8zQ
まとめの4357
尼子さんの家の記録による、鹿之助vs狼ノ介
と同じ話?

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/12(木) 23:53:04.58 ID:72oODjjo
>>751
すいません書き忘れました。こちらは
>>737
の続きです

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 00:17:54.35 ID:k7HRjE5w
鹿介と狼介に混ざって出てくる鮎介さん
なぜに鮎

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 01:26:39.69 ID:gX2mf2Gn
身長7尺の紹介の段階でかませキャラ感がある

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 12:23:29.38 ID:VmC0GDNg
この異様に敵の凄さを強調する登場シーンに既視感あると思ったら
モブの反応まで含めてワンピースとかキングダムの世界

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 12:46:53.84 ID:/E+YrFqV
講談の手法が漫画に取り入れられたのでは

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 16:55:40.94 ID:OASpozdO
>>755
?「鶏を裂くのに牛刀なんかいらんよw」

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 21:05:57.09 ID:jPTP3wxG
>>756
だね
何か普遍のものがあるんだろうね

一戸兵部大輔政連横死のこと

2020年03月13日 16:33

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 00:50:33.54 ID:Iz+5LKKk
一戸兵部大輔政連横死のこと

陸奥南部の一族一戸兵部大輔政連という人は、彦太郎行朝の嫡流にして代々一戸の城主として三千石を領地していた。
天正9年7月18日夜、政連の弟一戸信州(平館の家を継ぎ千石を領地していた)は不意に政連の寝所に乱れ入り、兄政連を斬り殺した。
女房どもは大いに騒ぎ、騒ぎを聞きつけた男たちが信州に斬りかかる。
その中に政連の子出羽もおり、彼も斬り殺されてしまった。これによって代々続く名家・一戸家は断絶してしまった。

事が収まった後、南部家当主の南部信直は凶行に及んだ理由を尋ねると、
一戸信州は「兄兵部は平生暴悪にして百姓たちが困窮のあまり一揆を起こそうかと考える有様で、兄に諫言をしても聞き入れてもらえなかった。
そのため兵部を捨て子の出羽を立てて領内安泰を図ったが、誤って出羽をも斬り殺してしまい、後悔している」と言った。

信直は「兄を殺すこと汝が逆罪は八つ裂きにするとも飽きたらない。だが思うところあり一命は助けよう」
と知行を取り上げ領内から追い払った。
年月を経て、信州は領内に忍び居たが乞食同然の体で病死したという。

伝曰く この話は皆が不審に思ったが、数年後、事の次第があらわになった。
九戸政実が逆心を催し領内の大身の領主たちを誘った際に、政連にもその誘いを密かに入れたが、
政連は忠義を重んじて同意しなかったため、一戸信州をたばかり兵部を討たせたのだという。

奥南旧指録



913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 21:16:35.42 ID:jPTP3wxG
これは本当に悪い話だ