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久野氏内紛

2018年12月19日 22:28

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/18(火) 19:17:20.93 ID:g1LvLh8E
(掛川城の戦いの時)

ここに今川氏真はこの20日に、密かに金丸山の久野三郎左衛門一門の老臣・久野八右衛門宗明の方へ
密使を遣わして、内々に申し送ったことには、

「久野一族が旧好を思って徳川方を叛き氏真方へ一味するならば、明夜に氏真が軍勢を出して天王山の
本陣に夜討しよう。その時に久野一族も敵の後陣より襲い攻めれば、徳川勢を破ること疑いなし。もし、
この事が謀の如くになれば、遠江一国を久野一族に授けてその功に報いよう」

久野一族は三郎左衛門宗能の弟・淡路守宗益、佐渡守宗憲、叔父・弾正忠宗政とその弟・采女宗常、
将監某、日向守守政、その他一族らがこれを聞いて皆利欲に引かれて義理を忘れ、氏真に一味すると
返答した。さて、その事を一家の大将・宗能に告げてその上で諫め申したことには、

「徳川殿は掛川城を攻め給うとも、この城は要害堅固でそのうえ今川方は忠義金鉄の勇士が数多籠って
いるため、容易く攻め落としなさることはできますまい。それよりは当家の一族が同意して氏真の命に
応じて夜討の働きをし、その功によって氏真から遠江一円を賜れば、家を興し先祖の孝、かつ子孫への
栄華を残すことでしょう。この事こそ、よく御思慮なさるべきです」

宗能はこれを聞くと、

「各々の諫言は一理無しというわけでもない。しかしながら、宗能は去年に一族を引き連れて徳川殿に
帰順し、その後はすこぶる厚い恩を蒙った。今故なくその恩を捨てて利のために義に叛き裏切ることは、
勇士の本意にあらず。そのうえ氏真の有様を見るに、讒を信じ佞を愛す昏愚の愚将で、行末は頼もしく
ない。面々も不義の謀計は思い止まるように」

と言って、その申すところを用いず。その翌21日には氏真が重ねて河井与四郎を使者とし「久野一族
がいよいよ同意するならば、明夜城から出る。きっと裏切るように」との旨を申し越したのであった。
よって淡路守・佐渡守・弾正・采女・将監らは皆氏真に同意し、「宗能を討って一族皆氏真に一味し、
明夜裏切ろう」と評議を決したのである。

八右衛門宗明は「いずれにして宗能は一門の惣領主将である。それなのに一門らは宗能を討たんとする
ことは嘆かわしい」と思い、この事を宗能に告げると宗能は大いに驚き、本間十右衛門長孝を使者とし
内々にこの子細を神君(徳川家康)の御陣に告げ奉った。

神君は大いに御感心され、菅沼新八郎定盈・松平与一郎忠正・植村出羽守家政(家存)・三宅総右衛門
康貞を加勢に遣わされて、また榊原小平太康政にも「宗能に力を添えて反逆者一族らを誅すべし!」と
命じられた。よって康政ならびに宗能は金丸山の本丸に籠り、その他加勢の四将は二丸に籠った。

この時に、淡路守・采女・将監は大手に向かい、佐渡守・弾正は搦手より攻め寄せた。城中では敵襲を
予想していたので多くの矢砲を隙間なく射出し撃ち出し、寄手が攻めあぐんだ折に、二丸に籠っている
加勢の輩は手分けして敵の後ろへと廻って、「徳川勢を後詰するぞ!」と喚き叫んで突いて掛かった。
本丸二丸に籠った輩も門を開いて切って出れば、寄手は散々に敗北した。

ついに淡路守は生け捕りとなり、腹を切らせなさった。(原注:『家忠日記』『三河物語』)その夜に
一族家人5十余人が討ち取られ、弾正・采女・将監らは追い払われて佐渡守は行方も知れず落ち失せた。

この日、榊原康政は様々に工夫して奮戦し、中根善次郎(長重)・遠藤八右衛門・篠島才蔵・竹内太郎
左衛門・竹尾平十郎などの従士は多く功をはげまして各々高名したという。(原注:『武徳編年集成』)

――『改正三河後風土記』


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週間ブログ拍手ランキング【12/13~/19】

2018年12月19日 22:26

12/13~/19のブログ拍手ランキングです!


こうしてこの者どもの手並みは知れた 12

汝は何ぞ主人の盟約に背き当国へ乱入するや 12

私は京の所司代になりたい。何故なら 10
富樫氏と金津 10
なんですって! 父御前を打ち殺しなさったというのですか! 10

guminori = ごめんなり 世界周遊記続き 9
相場の倍の代銀をあい渡すべし 9
予が最初より東方より西方に至るまでの君主 9

掛川城攻め 8
新なる事物は新なる言葉を必要とするのみならず 8
伊藤内蔵という者を討つ 6


今週の1位はこちら!こうしてこの者どもの手並みは知れたです!
天文23年の北条と武田との戦いのついてのお話ですが、いやあお互い、実に東国武者っぽくて良いですねw
非常にカラリとした野蛮さのぶつかり合いと言いましょうか。戦いを楽しんでいる、という雰囲気すら伝わります。
武士という人々はそもそも、こういう人たちだったのでしょうね。おそらくこのようなお話を、江戸期の武士たちは、
どこか憧れを感じつつ仰ぎ見たのではないか。そんな事もこのお話から感じました。

今週は同票でもう一つ!汝は何ぞ主人の盟約に背き当国へ乱入するやです!
かの有名な秋山虎繁の遠州侵入。この事で家康は信玄に対し決定的に不信感を懐き、徳川と武田の関係はこじれにこじれ、
両者と同盟関係に有った織田信長はどちらにも良い顔をして和解の役にはたたず、結果として三方ヶ原となり長篠となり
武田滅亡に至ったと考えると、武田にとって決定的なボタンの掛け違えの最初の一歩だった、なんて事を思ったりもします。
しかしこの露骨な油断のなさこそが信玄の真骨頂でもあり、最高の長所は最悪の短所でもある、なんて言葉も浮かんだり
しました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!なんですって! 父御前を打ち殺しなさったというのですか!です!
こちらにも同じお話が出ていましたね太田康資、鬼に金棒・悪い話
この話、どこか平家物語の萬蔵武者評『軍はまた親も討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば乗り越え乗り越え戦ふ候ふ。』を
思い出しちゃいます。この時代、やはり戦士としての意識は、源平合戦の頃とあまり代わって居なかったのではないかと
思っちゃいますね。たとえそれが軍記による脚色だとしても、やはりそこに「坂東武者はかくあるべし」という気持ちが
あったわけなのです。そんな事を考えながら、このお話も読んでいました。



今週もたくさんの拍手を各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

伊藤内蔵という者を討つ

2018年12月18日 18:28

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/18(火) 17:51:17.65 ID:ZMc4njbi
瀧川左近(一益)が未だ匹夫の頃、伊藤内蔵という者を討つ事を、諸人あぐんでいた。そのような中、
ある宮の拝殿で、内蔵がここに参詣する時必ず座する柱が有ったのだが、左近はここに密かに穴を開けておき、
内蔵が社参した時、この穴より鉄炮で撃ち殺した。

この事でその場の人々は大いに立ち騒いだが、左近はその中を何事もなかったかのように退いた。
しかしこの時刀の鞘を落としていたことに気が付き、これを無念に思い、再び立ち帰って鞘を取って
また退いた。
(武功雑記)

肝が座っているのやら座っていないのやら


guminori = ごめんなり 世界周遊記続き

2018年12月17日 20:56

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/17(月) 08:58:47.60 ID:pwQA57/q
1年ほど前に訳出したフランチェスコ・カルレッティ「世界周遊記(まとめの11064, 11071, 11075)続き

通りの出入り口は全て門がつけられていて、夜間は閉鎖され、通ろうとする者は警備の者によって誰何されます。
全ての通りにはリーダーがおり、我々は「長老」と呼んでいます。
長老たちには通りの居住者についての監督責任があり、居住者によって何らかの違法行為が行われた場合、犯人を司法機関に引き渡す義務があります。
監督する地域において違法行為が発生した場合も司法機関に通報する義務があります。

長崎の町においては全ての住居が木製であり、設計にあたっては細心の注意が払われています。
木材は、家を2日以内に建築できるよう適切に準備されており、木製の支柱を固定するために、支柱の底に大きな石が固定されます。
これらの石の半分は地面の下にあり、残りの半分は地上出ているため、支柱の木が腐敗することはありません。
次に、これらの柱の上に十字にクロスした木材が置かれ、その上に足場が立てられ、個々の部屋の壁が固定されます。
その後、松のような特定の種類の木材が使用されます。
個々の木材の切片は上下に釘打ちされ、レンガとして機能します。彼らは水も漏らさず敷き詰めます。

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/17(月) 09:01:18.47 ID:pwQA57/q
居間については、様々な種類の絵画により別々の部屋に仕切られています。
これらの絵画は扇のようになっており、ヘリを下にして地面に直立させて折ることができます。
非常に美しい光景であり、部屋に何人かの人がいた場合、これらの折り畳み式の覆いには、花鳥風月が色彩豊かに描かれており、高さが人間の背と同じくらいなので、お互いに相手を見えなくさせます。
ベッドの周りにも配置されていますが、他人から見られなくするだけでなく、自分の部屋を活気づける効果もあります。
そこで特に精密な絵を描くことになります。もちろん、部屋の壁を飾るために使用することができます。その場合は壁に寄せて非常に美しく飾ります。
このような絵は、日本語では”biobus”と呼ばれています。装飾用の、絹を使ったものは非常に美しく、1枚の作品は100もしくは200スクードかかりますが、日用品では5から10スクード程度で買えます。

家は非常に簡単に燃えるため、すべての通りに防火のために警備員が配置され「火の用心!」と一晩中連呼しています。
火が一つの家に着火すると町全体に延焼します。
長崎でもそうでした。タイコー・サマ王は、火元の家の持ち主を一家全員とともに十字架にかけるよう命じており、多くの場所で執行されていました。
ただ現在ではそのような法律は施行されていません。

室内は非常に美しく、厚みが2寸(指の太さ)ほど、広さが4尺(腕の長さ)かけ2尺ほどの、藁でできたマットですべての部屋の床を覆っています。これらのマットを製造するための草は、水の中の葦のように成長し、yo-yoと呼ばれています。
yo-yo草のマットを1尺ほど積み重ねることにより、ベッドのような寝具も作っています。彼らはそれ以外に寝具を知りません。
羽毛枕や枕の代わりに、頭の下に木材を置いているようなものです。
ベッドに使われるtatamiが最高品質であれば、100から150スクードかかります。一方で同じ材質の帽子は2Giulii程度しかしません。

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/17(月) 09:03:32.04 ID:pwQA57/q
彼らはトルコ人のような姿勢でマットの上に座り、室内では靴を履かずに歩くか、靴下のようなものを履いて歩いています。
この靴下は手袋のように着用されており、各足のつま先のところに2つ指を出すところを設けています。
また男女共ふくらはぎの半分にくらいまでこのような靴下を履いています。
家に入る時は、常に玄関に靴を置きます。特に他人の家である場合は必ず。その家の居住者であれば、靴を部屋、寝室の前、または廊下に置いておきます。
靴は、藁を織って作られた一枚の靴底と、その両側に縛り付けられた藁や皮でできた紐とで構成されています。紐は靴底に取り付けられていない端については、靴底の上部の少し内側に取り付けられています。
足の親指と人差し指の間を走り、靴や靴底が足にしっかりと収まるようにします。脱ぐ時は踵を少し持ち上げ、足を振って滑らせて脱ぎます。
彼らは家に帰る時だけでなく、親しい人や、人々から敬意が払われている他人と通りで会う場合にも靴を脱ぎます。
私もある時散歩をして橋のところに来ていると、近所の農民に出くわしました。彼は私を見るとすぐに足を振って靴を脱ぎ、少し頭を下げて「guminori」と言いました。これは「すいません」という意味です。

中には、この種の挨拶ではなく手のひらを太ももに置きながら頭や胴をわずかに傾けてるだけですます時もあります。
座っている場合は立ち上がることもなく、頭を傾けるだけで挨拶をすませています。家の主人は来客に対しても座ったままですませます。
我々とは全く異なり、彼らは挨拶の際には帽子を取りませんーたまたま帽子を着用する機会があったとしても。
彼らは我々とは全く違っているので、彼らの習慣は実に奇妙です。
私はその国の住居に関してすべてのことをメモに取りましたが、失われてしまいましたので思い出したらまた報告したいと思います。

とりあえずここまで

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/17(月) 15:32:51.33 ID:HtfDmHZX
guminori = ごめんなり


565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/17(月) 22:34:55.07 ID:5PPgDglw
>すべての通りに防火のために警備員が配置され「火の用心!」と一晩中連呼しています。

   ∧∧    ???「うるさくて眠れないナリ」  
  (*・ω・) 
  _| ⊃/(___    
/ └-(____/     
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/18(火) 17:45:22.12 ID:TlvPoFY3
>木材は、家を2日以内に建築できるよう適切に準備されており
そんなに早く家建てれるもんなの?

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/18(火) 20:14:19.07 ID:4Qi1OXZN
江戸時代では火事になると建物破壊して火の広がりを防いだあと、その日のうちに建て直してたらしいから似たようなことはしていたのでは。

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/18(火) 21:03:46.41 ID:nwah1Ep5
>>566
軸組みの建て方だけなら1日で余裕。ただ、屋根を葺き終わるまで2日はきついと思う
建て方が終わればとりあえず家の形にはなるから、それを指して言ってんじゃね?
ヨーロッパのレンガや石を積む工法に比べれば驚くべきスピードだろうし

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/19(水) 15:04:10.67 ID:QYLyBI17
建方とか朝出勤するときに通りかかって今日は人多いなと思って帰ってきた時には家たってるからびっくりよね

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/19(水) 18:06:37.01 ID:XTkkVIYS
タイコーサマ王
面白いw

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/19(水) 20:58:39.54 ID:EV7MYe6P
>>569
現代なら上棟まで1日で、次の日には野地板貼り終わる
そこまで行けば、躯体に雨がかからないからもう急ぐ必要はないんだけど、諸般の事情でそこからも駆け足なんだよなぁ

相場の倍の代銀をあい渡すべし

2018年12月17日 20:55

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/16(日) 22:32:51.67 ID:37WQa/33
羽柴秀吉が中国へ出陣の時、「兵粮が不足している」と、心もとない事を語った所、
竹中半兵衛はこれを承り、「お気遣いなされることはありません。」と、大坂から尼崎あたりの
辻々にこのような札を立てた

『今度羽柴筑前守、中国発向候。八木(米)早速運送するに於いては、定めて相場の倍の代銀をあい渡すべし。』

これによって兵粮沢山に集まったという。

(武功雑記)

倍の代銀を支払うのは秀吉なんだよなあ…

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/17(月) 05:35:30.72 ID:/vlSqT/b
それをできるだけの財力があった

掛川城攻め

2018年12月16日 18:59

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/16(日) 18:10:50.20 ID:Fdnir0x/
(掛川城の戦いの時)

永禄12年(1569)正月12日、神君(徳川家康)は今川氏真の籠る掛川城を攻めなさるため御先手
を桑田村に、後陣は曽我山に備えて、小笠原与八郎(信興)・久野三郎左衛門(宗能)は天王山に備え、
渡辺半蔵(守綱)・本多作左衛門(重次)は天王山に備えている諸軍を巡って、囲みを合わせた。

その時、城兵の日根野備中守弘就とその弟の弥次右衛門(盛就)・弥吉は、金丸山で久野三郎左衛門の軍
と合戦した。日根野兄弟が剛勇で奮戦すれば、久野勢は散々に破られた。これを見て岡崎勢が救い来たり、
林藤左衛門・加藤孫四郎などが槍を合わせて厳しく戦い、小林平太夫重直は踏み堪えて敵の首を取った。

城兵は日根野兄弟を始めとして戦い疲れて引き退く。城兵の梶原平三郎は剪綵梅花を兜の前立とし、花々
しく後殿して城に引き入ったのであった。

神君は久野の敗北を大いに御怒りになられ(原注:『武徳大成記』『武徳編年集成』)、17日に大軍を
進めて御本陣を天王山に移され、掛川城に鉄砲を撃ち掛け攻め給えば、城中からも多くの鉄砲を撃ち出す。
内藤三左衛門信成が先駆けして、鉄砲で左腿を撃たれ倒れるのを見て、城兵がその首取らんと馳せ出る時、
信成の兄・弥次右衛門家長は射芸の妙を得ており、馳せ出た敵3人を射倒した。

信成の家士・岡田甚右衛門はその間に主人を担いで陣営に帰ったのである。神君の御馬前での働きなので
御感心はもっとも並々ならぬもので、成瀬藤八郎を御使者に遣わして内藤兄弟を慰労なされた。(原注:
『武徳編年集成』)

――『改正三河後風土記』


私は京の所司代になりたい。何故なら

2018年12月16日 18:58

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/15(土) 21:13:19.16 ID:n4oH2Fyy
徳善院(前田玄以)は、元々は尾張国小松原の寺の住持であり、太閤秀吉が未だ匹夫の頃、彼とは
別して睦まじい友であった。当時、二人の徒然の話の中で、秀吉は言った
「私が若し天下を取ったら、貴僧は何かお望みは有るか?」

これに徳善院「私は京の所司代になりたい。何故なら京の者共は横柄なことばかりして、憎いからな。」
などと答えた。

その約束により、後年遂に彼は、秀吉より京都所司代を仰せつかった。この時所司代業務の巧者として
笠井小池が付けられたという。

(武功雑記)


予が最初より東方より西方に至るまでの君主

2018年12月15日 19:42

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/14(金) 19:59:26.41 ID:tmCwL9fs
文禄二年(1593)、豊臣秀吉よりフィリピン諸島長官に贈りし書翰

パードレ・ペドロが予に携えて来た書翰、並びにパードレ・ペドロが特に予に告げたる所に依り、その地の習慣を知ることを得た。
バードレ・コボもまたこれを予に説いた。

予が誕生の時、太陽が予の胸に入った。これは奇跡であり、予が最初より東方より西方に至るまでの君主であり、諸国は服従し
予の門に来たりて平伏すべき事をを示すものである。
而して若し之をなさる時は、予は戦を行いて一同を殺すべし。

予は日本全国、並びに高麗の国を獲得した。そして多数の部将が、遠征しマニラを占領する許可を与えんことを予に請うた。
しかし原田Faranda(原田喜右衛門)及び法眼Funguen(長谷川宗仁)はこれ聞き、予に告げて、商船が当地より彼地に行って、
又当地にも来るが故に、敵であるとは思はれずと言った。是故に予は兵を派遣することを見合せた。

高麗Coriaの人その約を守らなかったが故に、予は之と戦ひ、都Meacoに至るまで獲得した。之に次いで、我が兵士は救援に来し
無数の支那人並びに多数の重立ちたる者を殺した。
高麗の人はこれを見て屈伏し、大使を派遣し、日本の兵士を高麗に留めんことを請い、また支那人たちも日本国と永久に親交を
結ばんと欲する事を告げた。予は多数の兵士を高麗の多くの城に置きて、使節の同所に来るを待っている。
若しその約を破らば、予は自ら行きて之と戦うだろう。

而して支那に赴けば、呂宋は甚だ近く、予が拇指の下に在る。我等は永久に親しく交るべきだ。此事をカスチリャに書き送るべし。
カスチリャの王は遠方に有るからと言って、予が言葉を軽視すべきではない。予はその地を見たことが無いと雖も、使者の言葉によって
其地の事を知るを得ている。

貴下が速かに人を遣わしたのは賢明なることであり、予は大いに之を喜ぶ。その地より来た進物については、書附の通、これを受け取った。
予の方に於ては、永久に友交を欠くような事は無い。その地より来る者は、海陸共に安全に来ることを得て、これに何等の害を加えることなく、
その携へ来た物を盗む事もない。
バードレ等と共に来たこの者(副使ペデロ・ゴンザレス・カルバハル)は、我が国を見、又彼等に与えた歓待を見たるが故に、その言ふ所を信じ、
彼をカスチリャ王の許に派遣せよ。予は彼を待つ。而して我等の交流を一層確実ならしめんため、重立ちたる人一人を当地に来訪させることを望む。
その他のことは法眼が語るに譲る。
(異国叢書)

秀吉が生まれる時体に太陽が入ったっていう誕生譚、あれ海外にも宣伝してたのね



524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/14(金) 21:04:33.45 ID:tSN+5WQ1
まとめの10657
後悔すること無かれ。
てのには2年前に派遣した時のことが書かれてるな

富樫氏と金津

2018年12月15日 19:41

525 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/12/14(金) 22:49:32.29 ID:xH+MYM36
富樫氏と金津


金津高校がセンバツ21世紀枠候補の9枠にノミネートされたので金津関連で投下

富樫政親が加賀一向一揆により斃されて富樫氏の勢力は大いに減退した。
稙泰の時期になると一向一揆との力の差が大きく開き、1531年に大小一揆により敗北し、朝倉家臣・溝江景逸が領する越前金津へと逃れた。

1532年になると、一向一揆が暴れまわってて困っていた細川晴元が畿内で法華宗らと手を結び山科本願寺を灰にした。
そして、石山へと逃れた証如を助けるために加賀にいた幹部たちが証如の下へと走った。
その隙に旧領の奪還を果たし、野々市に稙泰の嫡男・泰俊を派遣するも、畿内の情勢が落ち着き、戻ってきた幹部たちによって再び追いやられてしまう。
その勢いあまって金津にいた稙泰を攻め込み、稙泰は自害に追い込まれしまった。
しかも1532年の時点で朝倉氏と加賀一向一揆は和睦を締結しており、朝倉軍が稙泰を助けた記述は見当たらない。

その後、稙泰の次男・晴貞が1570年に加賀一向一揆によって討たれると、泰俊が家督を継いだ。
しかし加賀一向一揆のために再び攻められて越前金津へと逃れた。
1574年、朝倉氏の滅亡後、杉浦玄任率いる一向一揆の大軍が金津へと攻めかかり、今度は溝江景逸・長逸父子を巻き添えにしながら、泰俊父子らは自害に追い込まれ、富樫氏は滅亡した。


この話は野々市町小史(現在の野々市市)や富樫記などを参考にして記述しました。


なんですって! 父御前を打ち殺しなさったというのですか!

2018年12月15日 19:39

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/15(土) 01:11:20.41 ID:wQqzwCcr
武蔵江戸の住人に太田源六資高(康資。父子の混同)という者がいた。大力武勇の誉れは関東8ヶ国に並ぶ者
なし。およそ30人でも動かし難き大石を、軽く持ってしまうほどの剛の者である。その弟に源三郎と源四郎
という者がいて、共に大力の兵どもであった。

ある時に3人が集まって言うには、「そもそも兵は剛強だけでは末代までの高名にはなり難し。それは何故か
といえば、今武蔵の中に我ら兄弟の上を越える力量の者はおるまい。如何なる鬼神であるとも3人で従えよう
として従わせられないということがあろうはずもない。

しかしながら(北条家からの)賞翫にも預からず、未だ一城の主にもなっていない。先祖の道灌(太田道灌)
は無力でも武功を顕し、末代までも名を揚げたものだ。我らは武勇を励んで氏綱父子二代に型の如く奉公した。
とりわけ過ぎ去りし大永3年(1523)、江戸城へ氏綱を引き入れて管領(上杉朝興)を追い落としたが、
城には遠山を置かれて、万事が我らの心に叶わない。

いざ同苗の美濃守入道三楽斎と相談し、安房の里見義弘と引き合わせ江戸城を攻め落とし、長く豊島郡を知行
して、言うまでもなく道灌の跡を継いで江戸城を取るべきと思うが、どうだ」

これに2人の弟どもは「もっともしかるべし!」と勇む。それから「これほどの大事を無造作には言うまい」
と、かの源六郎の菩提寺である法音寺という法華寺の番神堂に集まり、神水を飲んで、「この事を思い定めた
ならば二度と変じてはならない」と謹んで申し、その後に太田三楽の方へこの旨を言い遣わした。三楽は大い
に喜んで安房へ使者を立てて里見義弘を招けば、義弘は安房一国の勢と上総の軍兵を催し、下総国の国府台に
出張した。

そのようなところに法音寺の住持の僧は、かの太田兄弟の密談を聞き、日頃の誼を忘れて小田原へ注進して、
自身の檀那兄弟が謀反との旨を告げたのである。これによって遠山丹波守(綱景)に太田誅伐の討手を賜り、
すでにこれが押し寄せたので、太田兄弟は案に相違して夜に紛れて岩槻へと落ちて行った。これによって氏康
父子は日を置かずに打ち立ち、国府台へ発向された。

(中略。第二次国府台の戦い開戦)

ここに今回敵となった太田源六・同源三郎・同源四郎・黒川権右衛門・長南七郎などといった大力の若者ども
は一面に打って掛かった。志水太郎左衛門という大力無双の聞こえありし者は源六と渡り合ったが、志水の樫
の棒で源六は太刀を打ち折られ、力無く逃げたのである。源六はあまりに無念だったので「また太刀で打てば
折れるかもしれない」と、常に秘蔵していた長さ8尺の鉄の棒を取り寄せて軽々と引っ下げ、「なんとしても
志水めを打ち落とす!」と打ち振り打ち振り馳せ巡ったが、ついに見付からなかった。

源六はいよいよ腹を立てて、冑の鉢や胴中を構わず当たるを幸いに打って廻ると、多くの人馬が打ち殺された。
太田下野守という人は小田原勢の先手であったが、源六の有様を見て、「これは我が婿の源六なり!」と思い、
乗り寄せてくると源六に声を掛けて、

「おい源六、無益な謀反を致したものだな! 私は味方であるから、なんとしても先非を悔いて降参せよ!
命だけは助けよう! それにしても今日の振舞いは厳めしいものよ。しかしながら馬は何の咎によって打た
れたというのだ。人こそ打つだろうが、多くの馬を打ち倒すことは罪作りであろうぞ。どうなんだ源六!」

これを聞いた源六は「殊勝なことを宣うものですな。それならば人だけを打ちましょう。受けてみなされ!」
(いしくも宣ふものかな、人計り打つべし、受けて見給へ)と言うや否や、舅の下野守を開き打ちに丁と打つ。
下野守も太刀で打ち返さんとするが、大力で打たれてはどうして耐えられよう、前方の深田へ打ち落とされて
見るにしのびない有様であった。

(中略)

国府台の戦いが散じて後、太田源六は宿所に帰って妻女に向かって「私主の父の下野殿はこの度、戦場で某に
向かって言葉を掛けられたので、棒で頭を打ったのだ。必ずや痛んでおられよう」(某に向て言葉を掛け給ひ
し程に、棒にて頭を打ちぬ、定めて痛み給ふらん)と語った。

女房は大いに驚いて「なんですって! 父御前を打ち殺しなさったというのですか! 探し参らせよ!」と下人
どもを遣わすと、案の定下野守は深田の泥にまみれ、頭を打ち砕かれていたのを探し出した。女房は下野守の
葬礼を懇ろに営み、髪を剃り落として父の後世菩提を祈ったことは哀れである。武蔵神田の浄心寺はこの尼の
建立であるという。

――『小田原北条記』



527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/15(土) 17:01:55.03 ID:6Uin1sXO
>>526
リアル戦国無双でワロタw

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/15(土) 19:13:40.40 ID:S5q0Xu8o
>志水太郎左衛門
清水だよね
足の力で馬を絞め殺せる人

こうしてこの者どもの手並みは知れた

2018年12月14日 17:41

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/13(木) 19:20:15.18 ID:4rbL4FzT
天文23年(1554)2月中旬、北条氏康は小田原より駿河へ馬を出された。先陣は松田尾張守(憲秀)・
北条常陸介(綱高)・笠原能登守・志水・大道寺を始めとして下方庄へ打ち入り、吉原・蒲原に陣を取った。

駿河の今川義元はその頃、尾張の敵が蜂起して三河まで発向しており、その敵と対陣しているため小田原勢に
向かい難かった。甲斐の武田晴信は義元の小舅なので、義元から頼まれて軍勢を引率し、富士川の端、加島の
柳島に陣を取った。小山田弥三郎・馬場民部(信房)を先陣として、大宮厚原辺りへ足軽が出合い、日々矢戦
に及んだ。同3月3日、氏康父子の出陣あって、浮島ヶ原に旗を立て給う。

(中略)

越智弾正が物見に出ると、甲斐勢より小田兵衛尉が弾正を目掛けて乗り寄せて、互いに名乗って槍を合わせて、
ついに小田を討った。すると敵の大勢が取り巻いてすでに弾正が危うく見えたところに、原美濃守(虎胤)が
これを見て敵の中に割って入り、馬上の敵2騎を討って落とした。美濃守のその日の装束は、紺糸の鎧に半月
の2間ほど両方へ出ている指物で、冑の真甲に“原美濃守平虎胤”と書き、太く逞しい駁の馬に乗り敵を追い
散らし、弾正を連れて味方の陣へ引き退いた。

武蔵国の住人・太田源六(康資)は筋金を入れている例の樫の棒で、甲斐勢の先駆けの武者を馬上から7,8
騎打ち落とした。その他馬の平首や太腹など、人馬を選ばず当たるを幸いに薙ぎ払った。敵は冑の真甲や脇骨
を微塵に打ち砕かれ、この勢いに恐れてあえて近付く者はいなかった。源六自身も馬を射られ歩行立ちとなり、
美濃守と一緒に引き退いた。

さてさて、この美濃守は下総国千葉の侍である。父・原能登守友胤は小弓御所の合戦の頃に下総より浪人し、
甲斐へ行って武田信虎に仕えて、数度高名を顕してついに討死した。その子・美濃守は父に劣らぬ大剛の者で
あったので、信虎は憐愍を加えて烏帽子子にして、虎胤と名付けられて数度の高名類無し。その虎胤は近年に
小田原に来たり、氏康に仕えて忠戦を励ました。

甲斐の軍兵は敵ながらも昔の朋輩なので、美濃守を見知って「我が討ち取らん!」と進んだ。中でも小山田勢
から武者5騎が虎胤を目掛け、「近藤右馬丞!」と名乗って近々と追っ掛けて来た武者がいた。虎胤はキッと
これを見て「優れた心ばえだな!」と近藤の冑の錣の端を峰打ちして首の骨を2打3打すると、近藤は馬から
ドッと落ちてしまった。

かの近藤が立ち上がらんとするところを、太田源六が取って返して「どれ目に物見せよう!」と棒を振り上げ
打たんとし、虎胤は立ち返って、「この者は私めが甲斐にいた時に目を掛けた者に候ぞや! 命を助け給え!」
と制止し、源六は同心して静かに味方へ引き入った。

こうしてこの者どもの(原・太田の?)手並みは知れた。寄せ合わせようともせず日は既に暮れて、甲斐勢も
流石に叶わないと思ったのか、合戦は明後日有無の勝負と極め、その日は互いに相引きに引き退いたのである。
この日の合戦で小田原勢2百3十余人が討たれ、甲斐勢も2百余騎が討ち取られた。

――『小田原北条記』



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/13(木) 20:19:38.02 ID:/uZzskCv
>>558
>源六は同心して静かに味方へ引き入った
かっこいい…。

新なる事物は新なる言葉を必要とするのみならず

2018年12月13日 18:27

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/13(木) 15:50:05.40 ID:HL/Fr2gq
我等は日本人がその宗旨(仏教)において用ふる言葉をもって、真理(キリスト教)を説くこと長期間にわたりしが、虚偽の言葉をもって
真理を説く時は誤解を生ずることに気づき、直に有害なりと認めらるる言葉に代へて、我等の言葉を教ふることに変更したり。
新なる事物は新なる言葉を必要とするのみならず、日本の言葉の真意は、我等が言はんと欲するものと甚だ相違せり。

たとえば彼等にクルス(十字架)の意味を説明するに当り、彼等の国語にて十文字Jumongiと称するは、クルスの形の文字にして
十の意なるがゆえに、単純なる者はクルスと彼等の文字と同一なりと考ふべし。よって一歩ごとに、また一語ごとに彼等に説明をなすか、
或はその語を変更する必要あり。

かくのごとく五十以上の有害なる語ありしが、今彼等の語の意味とその害ある点、ならびに我等の語の意味を説けば、彼等もその相違を認め、
彼等の言葉をもってデウスのことを説く時は誤解を生ずることを覚り、右のごとくして明に了解するにいたれり。
予がこのことを述ぶるは、異教徒の間にありてデウスのことを説くに当り、説明に注意し、その用語を考慮せんがためなり。

彼等の文字は不完全にして我等の言葉に対する文字なく、文字をもって発音を示すこと能はざるものあり。
彼等は二様の文字(漢字、仮名)を有し、我等は彼等の言葉を悉く発音し、またこれを書くことを得れども、彼等はこれをなすことを得ず。
日本の文字(漢字)は二つの意味を有し、また二つ以上を有するものあり。たとえば上に掲げたる第一の文字(漢字:画像参照)は霊魂といふ意なるが、
また悪魔といふ意あり。重立ちたる人々が知らんと欲するはこの文字なり。
下に掲ぐる他の文字(仮名)は普通に用ひらるるものにして、第一の意味のほかなく、我等の書物はこれをもって書けり。
https://i.imgur.com/CpK7Wzy.jpg
日本通信121304-01

(一五五五年九月二十三日[弘治元年九月八日]付、パードレ・バルテザル・ガゴが平戸よりインドおよびポルトガルの耶蘇会のイルマン等に贈りし書翰)

宣教師たちが日本への布教にあたって、翻訳の問題にぶち当たった事がよく解るお話



522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/14(金) 13:35:01.25 ID:9PH3mguA
当て字は翻訳を諦めた結果なのだろうか…

汝は何ぞ主人の盟約に背き当国へ乱入するや

2018年12月12日 11:28

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/11(火) 20:59:48.23 ID:z57RbpQQ
遠江の国人どもは追々降参して御味方に属す輩多し。よって神君(徳川家康)はますます御馬を進められて、
掛川城を攻め給わんと、城下を放火せしめられた。しかしながら今年はすでに歳暮であり、合戦は明年の春
とすべしとして、見付へ陣を御取りになった。

そんなところに武田の部将・秋山伯耆守晴近(虎繁)は信玄の命を受けたのか、信濃より軍勢を引き連れて
遠江を切り靡かんと二俣辺りに向かった。秋山はまず久野城へ使者を遣わし、久野三郎左衛門宗能に「一族
を引き連れて信玄に降参すべし」と勧めた。宗能は先達て徳川家へ帰順していたので、秋山の使者に返事も
せず追い返した。

秋山は大いに憤り「それならば国人どもの見懲らしめに久野城を攻め落とせ!」と平尾村に陣取りして久野
の城に押し寄せんとした。宗能もこれを聞いて鼻闕淵という所へ出て防戦せんとする。神君もこれを聞こし
召して奥平監物貞勝入道道文・菅沼伊豆守満直・同新九郎正員などを援兵として遣わされ、秋山勢を防がせ
なさった。

ところが敵は思ったよりも大軍で、味方は散々に打ち悩まされた。秋山は勝ちに乗じて浜松まで追い寄せる
勢いである。しかも同国の犬居城主・天野宮内右衛門景貫はかねてより武田方の一味で、これも人数を押し
出し、秋山に力を合わせて働いたのである。

神君はこの時すでに浜松城へ御馬を入れられたが、秋山の方へ御使者を送り仰せ遣わされ「汝の主人である
信玄は先に約束を定めて、駿河を信玄が切り治め、遠江を私めに切り治めよと申し送った。私はその盟約を
守り大井川を隔てて互いに経略せんと当国へ働くところに、汝は何ぞ主人の盟約に背き当国へ乱入するや!
甚だもって無礼なり! 早くその地を去らずに事を先延ばすならば、私がただちに出馬して1人残さず首を
刎ねる!」と、仰せ遣わされた。

神君はその後に引き続いて御馬を出され、御勢も追々走り出てすでに秋山の陣へ打って掛からんとする形勢
であった。これを見て叶わないと思ったのか、秋山は早々に人数を引き纏めて信濃伊那口へと逃げ入った。
(原注:『三河物語』では駿河に入ったとする)岡崎勢は1人も逃すまいと追っ掛けたが、甲斐勢は地理に
熟練しているため、捨鞭を打って逃げ延びた。岡崎勢は牙を噛んで「今少し早ければ、秋山を討ち取ったと
いうのに!」と、名残惜しげに浜松城へ引き返した。

――『改正三河後風土記』


週間ブログ拍手ランキング【12/06~/12】

2018年12月12日 11:23

12/06~/12のブログ拍手ランキングです!


平八稲荷 20

徳川家康と井伊谷三人衆 19

氏康が何ぞ悪法師めの油口に誑かされんや 12
福島正則、岐阜城を落とした後の書状 9

此大帝國(日本)に属する歳入 8
竹束の仕寄 8
薩た峠の戦い 8
しからば親父に似ないように 8

日本人に対し無礼であり、気が利かぬ 7
朝倉家にも滅亡の時が訪れたと見え 3
武士のうそをば武略と云 2


今週の1位はこちら!平八稲荷です!
「平八稲荷」は浜松のものが有名なのですが、こちらはそれこそ本場なのに本多忠勝とは関係なく(普通に平八という名前の狐)、
大坂の平八稲荷が本多忠勝由来に成るというのも、なんとも面白いですね。それにしても秀吉は一度稲荷や狐を絶滅
させかけたこともあり
お稲荷さんと狐さん、危機一髪!・悪い話
こういう事もあって豊臣諸椽の名前にしなかった、なんて想像もできますね。しかしやっているイタズラが葬式詐欺なのは
戦乱で多くの人(おそらく狐も)が死んだことを人々が忘れないように、という心から来たものだというのも、このお話自体に
鎮魂の気持ちがあり、本多平八の名前を得たのも、その力で世を鎮めるのだ、という意味が内包されている気がします。
実は割と深い意味が入っているお話なのではないか、なんてことも思いました。

2位はこちら!徳川家康と井伊谷三人衆です!
大河ドラマ「おんな城主直虎」は個人的にも大好きでしたが、今考えても井伊谷三人衆が、特に近藤康用があんなに
ピックアップされた映像作品は空前絶後でしょう。まああの大河は近藤さんだけでなく、小野政次をはじめ、今川氏真、中野直之、
奥山朝忠などなど、普通の大河や歴史物ではモブとしてスルーされがちな人物を丹念に描いた、戦国ヲタとしても本当に
印象に残る作品でした。あの榊原康政は今でも宇宙一かっこいい榊原康政だと思っていますw
結果的に井伊家の名字の地である井伊谷は井伊谷三人衆のものとなり、井伊家は井伊谷の外に出て大きく羽ばたいた。
そう考えると不思議な感慨も持ちます。

今週管理人が気になった逸話はこちら!此大帝國(日本)に属する歳入です!
この時代の人名地名の発音、非常に興味深いですね。個人的にはFingo 肥後、Fangy 萩、Fitayts 常陸など、現代の日本人が
あまり使わないF音が目につくあたり、この頃の日本人がH音ハヒフヘホとF音ファフィフフェフォを区別して使っていた事を
反映しているように思います。あと鼻濁音がしっかり発音されている感じもしますね。
実は日本語の話し言葉自体は、江戸初期には概ね現代に近い形で「近代化」されていたらしいのですが、発音の変遷は
どのようなものがあったのか、そういう事も考えさせてくれる内容だなとも思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

此大帝國(日本)に属する歳入

2018年12月11日 17:12

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/10(月) 21:02:33.37 ID:ldA590QC
最後に、此大帝國(日本)に属する歳入に関しては、フランシス・カイロンの取りたる日本の王公の歳入の公記によりて明なり。
歳入は日本風によればコキーン(Cockiens 古金?)を以て算ず。一コキーンは佛貨一クラウンに富る。

フランシス・カイロンが此地に住せし時は、最大の歳入を有せしエムペロル(将軍家)に次ける者はカンガ(Canga 加賀)、ゼッチュー(Zetchiu 越中)、
及ナッタ(Natta 能登)の王にして、カンゴナチューナゴン(Cangono Tsiunagon 加賀中納言)と称し、ランガ(Langa)城に住せり。年々の収入は
黄金百二十噸(トン)を下ること無かりき。(黄金一噸は一萬磅(ポンド)なり。)

スルガ(Suruga 駿河)、トト(Toto 遠江),ミカワ(Micauwa 三河)の國の王、スルアンゴダイナゴン(Suruango Daynangon 駿河大納言)は、
ファィチュー(Faytsiu 府中)の城塞に住す。オワリ(Owary 尾張)及ミノ(Mino 美濃)の両國の王オワリノダイナゴン(Owarino Daynangon 尾張大納言)は
ナンガイ(Nangay 名古屋)の城塞に住す。各年々七万磅を有せり。

マサニネ(Massanine)及オーチオ(Ochio奥州)の王センダイノチューナゴン(Sendayno Thiunangon 仙臺中納言)は堅固なるセンダイ城に住し、
年々黄金六十四噸以上を有す。

サツマ(Satsuma 薩摩)、オシナ(Ossina 大隅)、ヒューゴ(Fiungo 日向)及ルチオ(Luchio 琉球)の王サッマノンチューナゴン(Satsumanon Thiunangon
薩摩中納言)はカガシマ(Cangasima 鹿児島)城に住し、年々六万磅を得。

キノ(Kino 紀伊)及びイセ(lche伊勢)の王にしてワカヤマ(WakaJamma 和歌山)の城を支配するキノクニダイナゴン(Kinocouny Daynangon 紀州大納言)は
年々五十五万磅を有す。クマモッテ(Knumamotte 熊本)城に在るヒゴ(Fingo 肥後)のカットー・ヒゴノカミ(Catto Fingonocamy 加藤肥後守)及
フカサ(Foucasa 福岡か)城に在るスンキセン(SunKicen 筑前)のマツェンデイロ・エムノスコ(Matsendeyro Iemnosco 松平右衛門佐:黒田忠之か)及
オエクデ(Oecde)の城塞を守るエチェセン(Ietchesen越前)のマツェンディロ・イノカミ(Matsendeyro Inocamy松平伊予守?:松平忠昌か)の諸王も
大抵同様の収入あり。

ハギ(Fangy 萩)城に住するソヴァ(Sova 周防)のマチェンデイロ・ナガト(Matsendeyro Nangato 松平長門)、及ミト(Mit 水戸)の城塞に在る
ヒタイツ(Fitayts 常陸)のミトンスチューナゴン(Mittons Thiunangon 水戸中納言)、ロギオイス(Logioys)城を支配するヒジェン(Fisien 肥前)の
ナビシマシナノ(Nabissima Sinano 鍋島信濃)、タカハム(Takaham 高濱)城塞に在るイナバホキ(lnabafoky 因幡、伯耆)のマチェンデイロ・シンダイロ
(Matsendeyro Sindairo 松平新太郎:池田光政か)は年々三十一磅を収む。
其他第二位の諸侯、即ち候に富るもの、第三位の諸侯即ち伯に當るもの等、以下差異あり。
(モンタヌス日本誌)

ここでも政宗だけマサムネ(マサニネ(Massanine))なのか。地名と勘違いされてる気もするが。



553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/10(月) 22:57:00.38 ID:Ir5UCqmt
このアルファベット表記によって読みが確定した地名人名が多くて記録としてありがたい

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/10(月) 22:57:00.38 ID:Ir5UCqmtこのアルファベット表記によって読みが確定した地名人名が多くて記録としてありがたい

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/11(火) 19:36:54.06 ID:wAqoyPCo
「紀州大納言」は「きのくにだいなごん」だったんだな。

伴天連関係の資料は興味深い。

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/11(火) 20:57:53.12 ID:VBgdkID0
>>554
国内のしがらみに左右されない、ある意味客観的な資料だしな
キリスト教の教義に基づく偏見はあるにしても

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/11(火) 23:07:06.81 ID:OUa8tKsd
>ロギオイス(Logioys)城
>オエクデ(Oecde)の城塞

ドラクエかな?

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/12(水) 10:22:47.72 ID:B4YntS6f
佐賀と福井の筈だがどうしてこうなった

竹束の仕寄

2018年12月10日 18:44

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/10(月) 17:48:12.50 ID:ldA590QC
関ヶ原戦役における伏見城の戦いに、金吾(小早川)秀秋の先手である松野主馬、平岡石見、彼らは
一万石づつ知行していた。

彼らは先手として城に向かって仕寄(城攻めのための構造物)を築いたが、松野主馬の仕寄の竹束は、
城内よりの火矢にて焼き立てられた。この様子に坂崎出雲は「城内より激しく防がれ、仕寄の構築は難しい。
暫く様子を見てから竹束を付けよう」と言った。

しかし村上三右衛門、その頃は宇右衛門と言ったが、彼は
「この竹束の焼け跡に、もう一度竹束を付けずに引くということ有るべきか!」と、直ぐにまた竹束を
付けさせ、松野と相談して、竹束の上に、防火のため壁の下地と成る土を塗るべきだという事になり、
「外に出るのを遠慮したいという衆は内にて土をこねられよ!外に出るという衆は、出て壁の下地を
塗るように!」と呼びかけた。

松野主馬の組より八人が出て壁の下地を塗った。その他歴々の侍も皆土をこねた。そこで主馬は
「組の足軽共のうち、この土を塗った者は、中間凡下の者であっても侍に致す!」と宣言したところ、
中間足軽の内8,9人出て壁を塗った。それ以後、竹束の仕寄は焼けなかった。
(士談)

ボク「もしや最初から土を塗った竹束を用意しておけばよかったのでは。」


日本人に対し無礼であり、気が利かぬ

2018年12月10日 18:43

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/10(月) 17:58:09.86 ID:Ea7f08oE
日本人に対し無礼であり、気が利かぬ


ドン・プロタジオ(有馬晴信)やドン・バルトロメウ(大村純忠)は私に多くのことを語り
教会側の態度の誤りを指摘し、バテレンたちは日本人に対し無礼であり、気が利かぬ
あまたのことがあると語り、神社仏閣の破壊はバテレンたちが教義に反するというので
不本意に行ったことに過ぎないという。

彼らは
「我が国に住んでいるバテレンたちが、日本人の美しい習慣や高尚な態度を学ぼうと
 あまり努力せぬことは全く無智なことと思われる」
と語り、とるべき手段を示した。
私(ヴァリニャーノ)は、日本人の大いなる天禀の才に驚嘆して、これを認めた。


――『日本巡察記』


福島正則、岐阜城を落とした後の書状

2018年12月09日 19:09

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 21:11:53.48 ID:ad9LGzCa
福島正則、岐阜城を落とした後の書状


遠路よりの書状ありがたく拝見いたしました。私は羽三左殿(池田輝政)、
左京殿(浅野幸長)と相談しているところです。

一昨日の廿二日に三左衛門尉殿、左京殿、遠州衆が川越えをしようとした際
岐阜衆が少々出てきたので、一戦に及ばれ敵を追い崩し手柄とされました。
昨日は羽越州殿(細川忠興)、加左馬殿(加藤嘉明)と私が稲葉山へと取り詰め
すぐに(岐阜城は)落去しました。
中納言殿(織田秀信)のことですが、色々と降参のことを申されてきたので
小姓ども二、三人と共に尾州へ送りました。

こちらのことで歯がゆいこともあるでしょうが、羽三左、左京殿と談合し
秀頼様の御為によいようにするつもりですので、御心を穏やかにして下さい。
恐惶謹言

                        羽左衛門大夫
  (慶長五年)八月廿四日                 正則 
浅弾正様(浅野長政)


――『浅野家文書』


薩た峠の戦い

2018年12月09日 19:09

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 22:37:48.91 ID:wtlDa408
(薩た峠の戦い第二次合戦の時)

頃は正月末つかた、余寒激しく山々の雪は未だ消えやらず、浜風はいたく吹き立てた。軍勢が堪え凌ぎかねて
いるその様を見て、武田信玄は駿府から多くの酒を取り寄せて諸軍に飲ませれば、諸軍勢はこれを飲んで寒気
を忘れ、大いに喜び勇んだ。

その酔心で気力を得て、「いざや一夜討して敵の眠りを覚まさん!」と2千余人が申し合わせ、各々その用意
をして山上に登ってみると、北条勢は寒気に耐えかねて、陣営ごとに焼火で寒気を凌いで座眠りしている者も
いれば、麓に集まりうずくまって縮み伏している者もおり、いずれも油断の有様なれば、武田勢は「これこそ
天の与えなれ!」と喜び、どっと喚き叫んで陣屋陣屋を蹴破り、弓鉄砲その他武具を分捕り、軽く纏めて引き
返した。

北条勢はその声に驚いて「ああっ夜討の入りたるぞ! 太刀よ、物具よ!」と、ひしめく間に寄手は軽く引き
取れば、北条方の将卒どもは、「余りの寒さに油断して大盗人にあった!」と後悔すれども、その甲斐なし。

この後は相互に夜討の用心をして、昼は両陣より50騎か百騎ずつが出て迫り合うのみとなったが、ある日、
武田方より跡部大炊介勝資が、地黄に紺筋の旗1流をさっと差し上げて、その勢3百余人が撞鐘の馬印を押し
立て乗り出した。北条方よりも松田尾張守憲秀が、白地に山道を黒く染め付けている旗を、これも1流を浜風
に翻して、その勢8百余人が打って出た。

互いに掛け合わせて始めの頃は弓鉄砲で射合い撃ち合ったが、後には双方騎兵を入り交ぜて突き合い切り合う
と見えたところで、武田方は小勢のために掛け立てられて2町余り敗走した。

北条方の松田尾張守が士卒に命じて敗走する敵勢を食い止めんと進んで来れば、跡部大炊介は取って返さんと
すれども、備が乱れ立って士卒の足並みはしどろもどろになり返せず、逃げようとすれば松田勢が近くに追っ
掛けて来て、跡部はどうしようもなく見えたところに、武田方より馬場美濃守氏勝(信房)が2百余騎で掛け
向かい、ひしひしと折敷の姿勢を取り、槍衾を作って一面に備えた。松田はこれを見て「今やこれまでぞ!」
と軍士を招いて引き返した。

この時、馬場の属兵・鴟大弐という者は紀州根来の生まれで大剛の兵のため、信玄は常にこれを寵した。この
大弐はこの日衆に抜きんで先頭に進み出て、松田勢を食い止めんと働いたのだが、鉄砲で腰を撃たれて倒れた
のを見た松田勢20騎ほどが、その首を取らんと馳せ集まった。それをこれも馬場の属兵である金丸弥右衛門
(弥左衛門)が、これを見るなり馳せ寄り大身の槍を取り伸べて、近寄る敵7,8人を突き倒し、大弐を引き
立てて味方の陣へ帰ったのである。

大弐は甲斐へ帰国の後に様々に治療し、腰は少し引いたけれども勝頼の時代まで生き長らえて、長篠の戦いで
勇戦した。その時に飯寄惣兵衛と名乗って討死したのは、この大弐であったのだという。

かくて北条と武田は90余日対陣し、4月28日に信玄はついに軍を帰し大地山を越えて甲斐に入った。北条
父子は駿河に入り、ここかしこに隠れていた今川の侍どもを招き集め、その他に小田原勢1万8千人を駿河の
蒲原・三枚橋(原注:今沼津と言う)・興国時・善徳寺・深沢・新庄、また伊豆の戸倉・泉頭・山中・鷹巣・
湯浅などの城々に籠め置いて、小田原へと帰陣した。

――『改正三河後風土記』


550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 22:45:15.64 ID:wtlDa408
甲斐勢の跡部・栗原(伊豆守か)は3百余騎で押し出すが、松田・富永(政家)の8百余騎に掛け立てられて
立つ足もなく敗北し、薩た山の下へ海際まで追い打ちにされた。剰え松田勢に食い止められ、取って返さんと
すれば備は乱れてしどろもどろとなり、引き退かんとすれば敵が押し掛けて追い詰めた。

跡部・栗原勢は一人も残らず討ち取られると見えたので、馬場美濃守は2百余騎で掛け向かうと、ひたひたと
折り敷いて一面に備えれば、松田勢が妨げられて挫けたところへ、内藤修理(昌豊)が横合に鉄砲を撃ち立て、
松田・富永も叶わず引き返した。

美濃守の同心・鴟大弐という者は大剛の兵で、深く働いて打ち合うも腿を鉄砲で撃ち抜かれて伏してしまった
ところを小田原勢が首を取らんと集まった。それをこれも美濃守の同心・金丸弥左衛門が走り寄って槍で突き
払い、大弐を引き立てて味方の陣に帰った。

しばらくあって敵味方は押し寄せ戦い、引き分かれてはまた寄せ合わせ、火が出るほど戦って両陣は相引きに
引き退いた。その後、信玄は如何に思われたのか、人数を出さず対陣して百騎2百騎の迫り合いのみで虚しく
春を過ごした。

甲斐は隣国ではあるが、大山を越えて通路は難儀なので数月の対陣で兵糧は尽き、4月28日に信玄は高野山
の麓、橘の小島を廻って終夜引き退いた。これによって、氏康父子も帰陣せられた。信玄がすでに今川を追い
落としたにも関わらず、氏康が(駿府を)手に入れたことは、犬の押さえし鶉を鷹に取られ、猟師の網にかか
りし兎を狼に食われたるが如し。

氏真の館を信玄はことごとく焼き払ったので(氏康父子は)久野弾正(宗政)・森川日向守・岡部次郎右衛門
(正綱)・河部大蔵らに御館の普請を言い付け、蒲原の城・大宮・善徳寺・高国寺・三枚橋・戸倉・志師浜・
泉頭に小田原勢を籠められた。

――『小田原北条記』



551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/09(日) 16:01:40.91 ID:mbIVt329
>>549-550
両方の記述が一致してると信憑性高くて面白い。専門家はこういう作業ずっとやってるんだろうな。

しからば親父に似ないように

2018年12月08日 19:34

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 18:46:48.59 ID:U/fiPbdI
土岐山城守(定義)の父(定政)の最初の名は、菅沼藤蔵といい、徳川家康の扈従として、武功有る
人物であった。井伊兵部(直政)の具足初めでは、御意にてこれを藤蔵が着せた。これは直政が
藤蔵の武義にあやかるように、との事であった。

ある時、徳川家康の御家人が豊臣秀吉に御目見えする事が有ったが、藤蔵は「私は主君を二人持たず」と、
終に目見えしなかった。

そんな藤蔵がある時、津田長門守(信成)と初めて参会した時このように言い出した
「貴所は津田犬斎とはどういう御関係か」

「私は犬斎の子である」

「しからば親父に似ないように。御親父は長久手の合戦での様子は悪しきものであった。またどこどこでも
悪しかった。」
などと思うままに語るのを、見かねた側に居た物が言葉をかけて言を止めた所、藤蔵は

「酒を給わり酔ってしまった故、色々なことを申してしまった。御免あれ。」
と語ったという。
(武功雑記)



511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 20:26:28.86 ID:Ynjz9SsZ
>>510
時事ネタかよw

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 22:27:04.14 ID:5CjIsI5B
やな奴だな

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/10(月) 08:49:10.44 ID:izyJ+4O5
犬斎は織田信包のことだぞ
信成の父は盛月
いろいろおかしい