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赤い夕顔

2021年08月14日 16:58

関盛国   
925 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/14(土) 13:01:03.00 ID:rWBMkbqp
赤い夕顔

>>922の話で落城した関盛国(永)の居城、権現城であったが盛国の奥方であるお万の方は5歳になる息子、長五郎を連れて城から落ち延び
郷里である浪合を目指して逃れようとした。
その途中、天龍村の向方のある家の傍にて長五郎が夕顔が欲しいと言ったため、お万の方は夕顔の花を摘み取り長五郎に与えたところ
その様子を見ていたこの家の家人は腹を立て親子を殴った。
殴られたお万の方は「この家の夕顔は来年赤くなる」と口にしその場を去ったが、次の年の夏から本当にそうなったためこの家では夕顔を育てなくなったという。

お万の方と長五郎はこののち、戸口(天龍村)の伊藤惣十郎を頼ったがそこで騙され殺害されたという。

同村の大河内地区にお万の方と長五郎の墓があり、その傍らには大きな柴藤が植えられておりお万様の富士と呼ばれている。
毎年10月12日には瑞光院の住職を招いて読経が行われ供養祭が開かれている。

『長野県史 民俗編 南信地方 ことばと伝承』『赤い夕顔の花(絵本 伊那谷ものがたり)』などより

参考サイト
お万様の墓と藤
https://www.82bunka.or.jp/bunkazai/detail.php?no=912&seq=0
国際日本文化研究センター
https://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/C2020377-000.html
らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
https://ranmaru99.blog.fc2.com/blog-entry-768.html
ほか天龍村村長のブログなど

926 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/14(土) 22:18:44.87 ID:rWBMkbqp
関氏を下した下条時氏と信氏親子はこの後、信濃守護・小笠原家の下で信濃へ侵攻してくる武田信玄に反抗するも、後に臣従して武田信玄の妹を信氏の正室に迎え、秋山信友配下の信濃先方衆として三河攻めや川中島の戦いに参加。

下条信氏は秋山信友の麾下で岩村城代を務めたものの、織田家の甲州征伐で一族の下条氏長や家臣らの謀反にあい三河にずらかり潜伏し、同地にて信氏と長子信正は死去。

天正壬午の乱で徳川家康の後援を受けた下条信氏の弟・下条頼安と信正の子・牛千代(康長)が毛利秀頼退去後の飯田城に入ったかつて甲州征伐で謀反した下条氏長を暗殺して下条の家督を継ぎ、そのまま家康に仕えたけど第二次上田合戦で下条康長は逐電し、信正の曽孫である下条氏定はのちに小倉藩の小笠原家に仕えて元鞘に戻ったと言う。



930 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/14(土) 23:22:17.28 ID:rWBMkbqp
>>926
この、下条親子が甲州征伐で領地の南信濃を追われてから下条頼安が当主として復帰するまでの経緯。
そして、頼安が徳川家康配下となってから活躍したのち同じく徳川配下の小笠原信嶺と争った後、小笠原の娘を妻に迎えて和解したのに騙し討ちで殺害されるまでの話、

下条康長が家康の一字をもらって跡を継いだけど、家中内紛で没落していく一連の流れは酷過ぎて笑えないなぁ… 仁義なき戦いもびっくりな地場ヤクザの抗争だぁ…


下条頼安、小笠原信嶺に騙し討ちにされる
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7731.html
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長持ちアサガオ

2016年01月13日 22:41

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/12(火) 20:11:24.02 ID:nH5mbrsG
お万の方。紀州家頼宣(家康10男)を生み、水戸家頼房(家康11男)を生む

頼宣。のちに南龍公と呼ばれる、紀州家の暴れん坊殿様も、
まだ子供のころは、無邪気な少年であった
ある日、遠乗りに出かけたら、アサガオが昼過ぎになっても咲いている
珍しいや、と取って、母親(お万の方)あての手紙に添えて送った

しばらくして、母から返事が来る
「長持ちアサガオなんて珍しいものをありがとう。
花の寿命も、人の寿命も、同じね
もとが短くったって、
適切な管理がハマれば、このように長生きするのよ
この現象は、しっかり肝に銘じておきなさい
家中や国家のマネジメントだって、同じことなんだから
適切にケアすれば長持ちで問題なく続くのよ」
……母親は(一応)喜んでくれたようである
個人の修身=国家運営。論語ですな
けっこう教育ママさん

頼宣「朝間の花、午を過ぎて猶ほ栄ゆ。一粲に供する所以なり」
お万「朝花の贈りもの、奇観喜ぶべし。抑も人寿も猶ほ此の花のごとし。
苟しくも其の養を得ば、短き者も亦た之をして長からしむべきなり。
之を勉めよ之を勉めよ。即ち家国を養ふも、亦た唯だ此の心にて之を視ば、
国祚何ぞ長久ならざるを患へんや」



186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 09:17:42.59 ID:x5ZvWWHA
>>184 既出があった
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1097.html
昨日の身延山話は、別人あつかいになってる
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1838.html

見延山は昔、

2016年01月11日 15:36

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/10(日) 21:06:32.44 ID:zMeJSstW
見延山は昔、女の登山は高野山と同様に禁制であった。

紀州様、水戸様の御母堂、御万の方(剃髪後養珠院殿と号す)が、

万部経を興行なされ、魔をお鎮めなされました。

その後女が登山致すことができたことで、万代の功徳を蒔きなされた。

ためし稀なる女性である。

(本阿弥行状記)



160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/10(日) 21:34:24.46 ID:A05CQKtF
後に徳川は将軍も御三家もお万の子孫になるから功徳があったんだろうな


164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/11(月) 16:58:56.39 ID:J2TE0C90
>>157 お万の方 水戸光圀のばーちゃん
小田原戦役のころ(11歳のロリ姫様である)、
勝浦城落城のさいに、
布をつないで断崖絶壁に垂らし、大脱出を敢行

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/11(月) 18:14:01.63 ID:ys1zp3di
>>164
断崖絶壁から下に敷いた布団めがけて投げ落とされないだけマシ、って思ってしまったオレはこのスレに毒されすぎなんだろうな・・・。

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/11(月) 18:45:41.15 ID:y3ojcd3p
>>161
草井お万か・・・

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/11(月) 19:18:14.09 ID:J2TE0C90
お万の方養珠院。日蓮宗の僧・日遠に帰依する
いっぽう家康は浄土宗大好き(あの馬印)

家康の宗教政策で、日蓮宗は迫害を受ける
いや、それまで、他宗教との抗争上等で論戦をふっかけては、
積極的に布教(物理)して、トラブル連発させていた日蓮宗も悪いのだけれど
家康は「浄土宗vs日蓮宗どっちが優れてる?」江戸城にて
仕込みアリのヤラセ公開討論会を開いた
(討論会前日に家康は日蓮宗側論客を家臣に襲わせ、半死半生にさせていた)
結果、「浄土宗最高! 日蓮宗2流カルト!」
日蓮宗を邪教認定し、一部教義内容の放棄を宗門に迫った(1608年:慶長宗門)

日遠は日蓮宗布教をやめず、幕府による教義内容変更要求もつっぱねたため、
日遠は捕らえられ、安倍川で磔刑にされかかる

「おや。わが妻よ、何をお裁縫してるのだ?」
「死に装束2着ですわ。我が師匠を処刑なさったら、わたしも一緒に死にます」

布教(物理)は咎められても当然だが、
政治がいちいち教義内容にまで手ぇつっこんだら、宗教は宗教でなくなるだろ常考
そこまでやりとりがあったかは知らないが、
ともかく、
お万の方の必死の助命嘆願により、日遠は殺されずに済んだ
翌1609年、日遠は身延町大野に本遠寺を創建する
(お万の方は死後、ここに葬られる)

という経緯があるので、>>157は、ただのウーマンリブ破戒じゃない

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/11(月) 19:22:50.07 ID:J2TE0C90
>>165 ttp://cmeg.jp/ci/107102
半島の先、灯台のあるところが、勝浦城跡(勝浦八幡公園)

団右衛門が化粧料

2012年12月03日 20:07

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 18:02:06.58 ID:tVKt69Nz
お万の方は紀州頼宣と水戸頼房の生母である。
駿河にて塙団右衛門は名高き大剛士と聞いたお万は、

「お子たちに太刀を参らすのは当たり前のことです。
大将の宝とはまさに士であって、それ以上の物はありません」

と、鏡台金として毎年賜る五百両のうち二百両を団右衛門が
流落していた時に与えていた。

「有事の時には剛の者を一人でも愛しき子に参らせたい」
と言っていたのだとか。

大槻磐渓曰く
「化粧に務めてその美を飾るのは婦人の常態である。
その化粧料を捨てて国家のために猛士を養うなど思いもよらぬことだ。
ああ、この母にしてこの子あり。南龍公が勇武絶倫であることは
怪しむに足りないことである」

――『近古史談(常山紀談)』

でも結局団右衛門は…。




619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 19:06:57.08 ID:iMgPW1C6
この化粧料で買った木札に名前を書いてばら撒いたわけか

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 21:10:34.29 ID:3KzWe+JK
塙団右衛門は欲のない人だったのかな?
そういう伝手があれば大坂の陣でちょっと活躍すれば取り立ててもらえたのに

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/04(火) 00:07:45.67 ID:P2+cHhb7
>>620
名誉欲だけが人一倍あったんじゃね?
大阪方で暴れまくって死んだおかげで名前が400年後まで残って大正解だな。