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徳川秀忠の正妻・崇源院について

2021年03月17日 18:05

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/17(水) 16:48:19.52 ID:aThDU7wJ
御所(徳川秀忠)の御台所は贈中納言藤原の長政卿(浅井備前守殿の御事なり)の御娘にて、御諱は
達子と申す。御母は織田右府(信長)の御妹である。(諸書に記す所、みな妹としているが、渓心院という
女房の消息を見ると、信長のいとこであるとしている。もしくは、いとこであるのを妹として披露して
長政卿に嫁がせたのであろうか。)(筆者注:『渓心院文』の事か)

御兄右府のはからいにて長政卿に嫁ぎ、姫君三人をもうけ給う。長政卿越前の朝倉を助けて
織田殿に背かれたが、ついに近江国小谷の城にて滅び給う。正妻であった小谷の方(お市の方)は
織田殿の元に帰り給い、家人の柴田修理亮勝家に賜り、姫君たちを伴って越前国北ノ庄に移られた。

天正十一年の夏、勝家は羽柴筑前守秀吉のために、近江国賤ヶ岳で戦い負けて、北ノ庄に逃げ帰り、
腹切って失せた、この時、小谷の方は息女と共に落ちたまえと、勝家はひたすらに諌めたのであるが、
さらに聞き入れずして共に空しくなられた。
子供たちのことは、「筑前守の元に渡されるべし。織田殿の厚恩を受けた人であるのだから、まさか
悪しくはしないでしょう。」と、自ら文を書いて、姫君三人を輿一つに召させて、女房たちも残らず
添えて、城より出されると、敵の兵たちは中を開けて確認した上で通した。
秀吉は息女たちを迎え取ってよく労り、大切に養い育てた。

その後、時移り世改まって、姉君は豊臣太閤(秀吉)の思者となられた。淀殿と申されている人が
これである。
次女は京極宰相高次の室となり、後に常高院殿と申す。
御末は御台所にておはします。太閤は彼女を大切に養い育て、文禄四年の九月、御所にあわせ参らせた。
後に大御台所と申し奉る。大猷院御所(家光)をはじめ奉りて、若君姫君、あまたもうけさ給えり。

一説に、大御台所ははじめ、尾張国大野の城主・佐治与九郎一成に嫁いだが、一成太閤の心に
違うことが有ったため、室を奪い取り丹波の中納言(羽柴)秀勝に娶せ。姫君が一人産まれられた。
その後朝鮮の戦起こって、秀勝も大将を承って押し渡ったが、文禄二年に彼の国にて失せにければ、
内室やもめとなりし給いしを、台徳院御所に参らせたのだという。この時、(秀勝との間にもうけた)
姫君も御所の養女とされて、九条関白殿(幸家)の政所となられた。摂政殿(九条道房)の御母である。

また佐治一成が太閤の不興を得たのは、天正十二年、小牧山の戦いが終わり、東照宮(家康)が浜松に
帰られる時に、佐屋の渡りにおいて、一成己が船を以て渡らせ参らせた事によって所領を失ったのだという。
然れども、この年大御台所はわずかに十二歳にておはしませば、一成の妻と成ったというのは覚束ない。

以貴小伝

徳川秀忠の正妻・崇源院について。なにげにお市の方の信長の実妹否定論の根拠も入ってますね。



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これによって柴田は敗北した。

2020年07月20日 18:31

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/20(月) 14:19:10.63 ID:ZrmSldMr
天正十一年四月二十一日、近江北部において柴田勝家、羽柴秀吉の両陣が相向かい睨み合っていた。
柴田は賤ヶ岳を攻め落とし、籠もっていた人数を討ち果たし、この時に合戦を企てた所、柴田方であった
丹羽五郎左衛門(長秀)、前田又左衛門(利家)が秀吉に属し、柴田の備に手勢を出し、これによって
柴田は敗北した。

秀吉はこれを追い、越前へ討ち入り、柴田居城へ押し掛けた。敗北の士卒が未だ城に戻っていない間に、
柴田の城に火を懸け、同二十四日に柴田が切腹したため、越前は平均となった。

柴田の妻女は城を出ず焼死された。これは織田信長の妹で、浅井備前守(長政)の後室であった。
この腹に浅井の息女が二人(原文ママ)あった。彼女らは乳母の才覚によって無事に城から出られた。
大阪の秀頼の御袋(淀殿)、並びに江戸将軍の御台所(お江の方)がこれである。

当代記

前田利家だけじゃなくて、丹羽長秀も本来柴田方だったという受け取り方も有ったのか…。



209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/20(月) 19:06:38.05 ID:AS+ANcNz
>>208
のちほど腹わたぶちまけた逸話があり、長重もひどい目に遭わされてるからなのかな
利家は優遇されてるけど

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 16:29:36.08 ID:vNuSlIAR
長重は酷い目にあったから大成したわけだしあれで良かったのさ。
じゃなかったら利常とのエピは発生してない。

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 21:21:32.00 ID:pwPPcnwp
>>210
にしても、賤ヶ岳や小牧長久手にも出陣し、
しかも小牧長久手は長秀の代理での出陣だからその時点で半ば家督継いでいたようなものなのに、
長秀が亡くなって正式に相続した途端に難癖つけられて、123万石→15万石→4万石の大減封はありえん…。
織田信雄が100万石→0になったのよりも減っているって、凄まじい。

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/23(木) 00:27:07.78 ID:AxVMh1z5
>>212
柴田も丹羽も、秀吉には邪魔だったんだね
佐久間が追放されてなかったらどうなっていたか
関連で、羽柴姓の由来ももうちょっと、真面目に考察した方がいいと思う

若はいとこにておはせしを妹と披露して

2019年07月14日 16:59

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/14(日) 00:52:23.62 ID:bpKXLKyV
御所の御台所(崇源院。お江)は、贈中納言藤原の長政卿(原注:浅井備前守殿の御事なり)の
御娘で、御諱は“達子”と申す。御母は織田右府(信長)の御妹(お市の方)なり。

(原注:諸書に記すところは皆“妹”という。ところが溪心院という女房の消息(『溪心院文』)
を見たところ、信長の“従姉妹”であるという。あるいは従姉妹でいらっしゃったのを、妹と公表
して長政卿に送られたのであろうか)

(諸書にしるす所みな妹といふ。しかるに溪心院といふ女房の消息を見しに信長のいとこなりと
いふ。若はいとこにておはせしを妹と披露して長政卿にをくられしにや)

――『以貴小伝』



浅井の御娘は秀忠に

2018年01月07日 18:01

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/07(日) 17:13:42.85 ID:I2+XP7nd
浅井の御娘は秀忠に


良正院殿智光慶安大禅定尼 ふう姫君様は権現様(家康)の姫君で
台徳院様(秀忠)の御姉、御母は西郡殿。初めは北条氏直に嫁がれたが
(氏直と死別した後)秀吉が権現様に
「池田三左衛門輝政が無妻になっているので、淀殿の妹(お江)と
 縁組するのがよいだろうか」
と御相談したところ、権現様が
「願わくば浅井の御娘は秀忠に御縁組されるように、三左衛門輝政には
 私の娘を嫁がせますから」
と仰せられたので秀吉はもっともに存じ、その段を輝政公に申し渡され
文禄三年八月十五日、姫君様が参州吉田に御入輿になられたという。


――『因州鳥取慶安寺略記』


この夫婦の仲の良き事は、人間の世界にこれほどは

2017年11月22日 16:45

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/22(水) 16:10:22.18 ID:l+yNUGUe
いい夫婦の日ということで
慶長十年~同十八年のものとされる、前田利家室・まつ(芳春院)が七女・千世に宛てた消息より


(第一紙欠)
はんふんはんふんにて候、をかしく候、おりへ事、よくそ御きも入候、りくつたて申候ハヽ、御しかり候て、よきやうに御きもいり候へく候、
天下さまハ七つましのミたいさまにて、なかのよき事、人けんにかやうの事ハ見きゝたる事もなく候、かしく、
(後略)

(――増補改訂 図録 芳春院まつの書状)


内容は、まつが従弟の養子で利家の実子とされる篠原長次(おりへ/織部)に嫁を世話するよう千世に頼んだところ、年上の女しか心当たりがないがどう思うか、という問い合わせが来たことへの返信と推測できるもの。
将軍・徳川秀忠(天下さま)は七つ年上のお江(ミたいさま/御台様)を娶っているが、この夫婦の仲の良き事は、人間の世界にこれほどは見たことも聞いたこともないくらいである、と例を挙げて、心配せずに縁談を進めるよう答えている。

よく恐妻家などと揶揄されているけど、人の目から見てこんな風に評されるいい夫婦の話



我儘な者が、

2016年07月20日 10:26

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/19(火) 22:35:07.44 ID:QFg/ztwm
我儘な者が、自分の願望が叶うことは決して有りません。

第一に、我儘では親を恐れません。
第二に、そのため親に疎まれます。
第三に、友人からも疎まれます。
第四に、召し使う者たちからすら疎まれます。
そして第五に、自身の願いは尽く叶いません。

以上の五段階の通りになってしまった後は、その者は天道を恨み、最終的には心煩わしく、
心乱れるより他有りません。

ですので、幼少の頃より、物事は自分の自由にはならぬのだということを、よくよく心得させるべきなのです。

大名にとって、惣領は別格の存在であり、次男以下は召し使われる者達と同然であると心得るよう、
くれぐれも申し付けて下さい。次男の威勢が強いのは、家の乱の基なのです。

(松のさかへ)

徳川家康が、徳川秀忠夫人(お江の方)に宛てた、子息の教育についての書状の一節。



950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 10:08:04.39 ID:TqI2A5B9
なんか家光ってすごい理屈っぽいお坊ちゃんだけど
理屈さえつければ簡単に許してくれるよね

黒田長政の次女、徳姫

2014年06月10日 18:50

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/09(月) 20:58:32.37 ID:gEJGF+gQ
黒田長政の次女、すなわち忠之の妹は名を『徳』と言い、容貌優れ、美人のほまれ高かった。
また、その心ばえもあでやかであったので、彼女のことは世間でもよく知られていた。

そこで徳川秀忠並びに御台所(お江の方)は、彼女を嫡男徳川家光の夫人とするように、土井利勝を
通して黒田長政、並びにその内室に仰せ下した。これは秀忠が黒田長政を、家光の後見と
しようとした為であった。

ところが、徳の生まれは丙午の歳であり、世俗ではこれを忌まれているため、長政もそれをおもんばかり
仰せを受け入れなかったため、この話は無き事になった。

その後、この徳姫は寛永元年(1624)に榊原式部大輔忠次に嫁ぎ、翌年正月、女児を産んだが、
産後体調を崩し、享年20歳にて亡くなった。
その息女の名は『萬』。彼女も8歳で早世された。

(黒田家譜)

黒田長政の娘、徳姫についての逸話である。




488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/09(月) 21:11:04.32 ID:zKHeCYLk
忠興さえ居なければ、黒田家譜を信じちゃう人も居たのかも知れんなぁ

秀忠がダッシュで帰ったのは

2014年05月20日 18:55

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/19(月) 22:15:27.79 ID:OLEVOr5b
後々のことを考えると後味が悪いような気もして、どちらに書くか迷ったがこっちで

元和8年(1622年)4月に起こった、宇都宮城釣天井事件。
宿泊予定の宇都宮城の普請に不備があると聞いた秀忠が、御台が病気なので帰ると理由つけて江戸へ急遽帰還。
あまりにも急な帰りやその後の経過を見て、色々尾ひれがついたこの話。
御台が病気だというのは、不信に思った秀忠がでっちあげ嘘とよく聞くが、
実はこの時お江さん、本当に病気で臥せっていたらしい

この頃は家光の嫁探しや、江戸城本丸の天守閣築造を含む大工事が実施されており、
江戸城内で過ごしている人達も引っ越しなどで慌ただしかった。
病にかかったのはいつ頃かは不明だが、5月頃に少し回復したのでそれを期に秀忠と共に西の丸に移動。
しかしまたも病が再発し、9月に予定していた本丸移徙も延期となる。

10月に朝廷の内侍所において臨時神楽を奏して江の病気平癒を祈らせている秀忠。
それが功を奏したのか11月頃にようやく回復し西の丸から本丸へ移ったそうな。

こう見ると宇都宮から江戸へどこも観光などせずダッシュで帰ったのは、
秀忠がお江さんを本当に心配にして帰ったのではと感じる。




徳川家康の子育て論

2014年01月13日 19:03

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/12(日) 12:36:02.77 ID:OYBE6wZn
>>82
シエ「叔父さんに言われて信康義兄殺したらのは引いたわ」




91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/13(月) 10:11:31.85 ID:cD6+1UW4
>>87
実は言及してるんだよなあ。というかこの慶長17年の教訓状はこっちがメインだけど

『幼少の者が利発だからといって、それを褒めたて、立木のままに育ててしまえば、成人した頃には
気ままで我儘となり、後々は親の言うことも聞かなくなるものです。
親の言うことさえ聞かないのですから、召し仕えている者の意見など、なおもって聞かなくなります。
そのようなので、後には国や郡を治めることはおろか、我が身さえ立てられなくなってしまいます。

一体、幼少の頃は何事も素直なものなのですから、どのような窮屈な育て方をしたとしても、要は最初からの仕付け次第で、
外から思うほどには、大儀なことではないものです。

これを植木に例えてみますと、始めに双葉に分かれた節は、人間の産立ちと同じことですので、随分と丁寧に養育し、
もはや2,3年も経って枝葉が多くなった頃、添え木をして真っ直ぐになるように]結い立て、そのうちに、悪しき枝は
芽を出した時に切り取り、年々、この通りに手入れいたしましたら、成木になった頃には、真っ直ぐな良い木に成ります。

人もその通りです、4,5歳からは添え木となる人を付けおいて、悪しき枝が、我儘に育たないように致せば、
後に素直によき人となるものです。幼少の頃に育ちさえすれば良いと考えてしまい、我儘にさせたままおいていながら、
年頃になって急に異見をしても、我儘の枝ばかりが繁り、本心・本木には癖がついていて、それは治らないものです。

この事については、私には今もって思い当たることがあります。三郎(信康)の事ですが、この子が産まれた時は、
私も齢が若かったので子供が珍しく、その上ひがいす(痩せて産まれた子)だったので、育ってくれさえすれば良いと
考えてしまい、気の詰まりそうなことはさせず、気ままに育ててしまいました。
そのため成人してから急に色々と言い聞かせたのですが、とにかく幼少の頃に行儀作法もゆるやかに、放任して
育ててしまいましたので、親を敬することもせず、気安く思って、「あれはこれだから」「これはあれだから」などと
言い訳ばかりいたし、後には親子の言い争いのようになりまして、何度言っても聞き入れること無く、かえって親を恨み、
また親どころか、そもそもの自分の生まれつきが悪いと思うようになっていきました。

わたしはこれに懲りましたので、他の子供は幼少から、私の前でも子供に行儀作法を良く良く仕付けてくれる者に
言いつけておき、もし少しでも不行儀、我儘なことが有れば、私に隠さず、いちいち知らせてくれるように言いつけておいて、
それを伝え聞き、私の前に出た時には、毎回解るように言い聞かせ、あるいは叱り、また「これはそのようにはしないものだ」
といちいち言い聞かせるようにしましたので、みな陰日向なく素直に育ってくれました。』

この時徳川家康69歳。自身の失敗も踏まえた子育て論である。




92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/14(火) 02:12:05.68 ID:rtHIyGi0
さすがに良いこと言うよなぁ
十で神童十五で才子二十過ぎればただの人、とはよくいったもので
小さいうちから道理ってもんを教えておかないとあとが大変よね
親もわきまえておかなきゃならんから難しいんだろうけど

徳川家康「堪忍というものは」

2014年01月12日 18:50

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/11(土) 23:28:01.16 ID:2r6hMVrj
『堪忍というものは、身を守る上で第一に必要なことです。どんな武芸であっても、堪忍を持たなくてはそれを覚えることも
ままなりません。殊に一国を治めようと思う身分であれば、いっそう心がけなければならないことです。

天道に叶うのは、身の我儘をいたさない堪忍です。
地の理に叶うのは、先祖からの一郡、一域を失わないための堪忍。
人の和を得るのは、自分の気ままを出さない堪忍です。
その他、身体の尽くで、堪忍を用いることが大切なのです。』

慶長17年(1612)2月25日付、徳川家康が、秀忠の正妻崇源院(江)に宛てた教訓上の一節である




83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/12(日) 00:50:31.87 ID:z0+u1h7t
権現さまは戦になると敵に突っ込みたいの我慢出来なくて手に血が溜まるほど手綱打つんだよなw

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/12(日) 01:48:31.75 ID:KX5T3hIg
家康「ワシの我慢値5歳の時には90あったよ」

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/12(日) 10:04:36.90 ID:uO5dnJqc
???「ですが、残り10足りなかったから焼き味噌をぶちまけたのですな」

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/12(日) 10:26:12.52 ID:PEYCJOzI
>83,????「うちの殿もそうです。だから大将が突っ込んでどーするのよ。討死したいの?そうなんですか!」

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/12(日) 12:36:02.77 ID:OYBE6wZn
>>82
シエ「叔父さんに言われて信康義兄殺したらのは引いたわ」

崇源院の荼毘

2011年09月12日 22:08

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 21:24:06.82 ID:Gqjw6M+x
寛永3年(1626)9月、徳川秀忠正室・江(崇源院)は、夫と息子・家光が上洛する中、病に倒れた。

「私はもうダメです。」
「御台様、何を仰せになります!」
「いいえ。自分の体の事は分かる。…頼みがあります。私が死んだら、すぐに荼毘に付して下さい。」
「そ、それでは死に顔も見る事かなわぬ、秀忠様がお嘆きになりましょう!?」

「確かに、私の死が京の秀忠様に伝われば、あの方は『必ず遺体を留め置け。帰着の上、対面する』
と、仰せになるでしょう。

ですが、病み衰え、死後の変化が加わった遺体など見せては、あの方にさらなるお嘆きを与えるだけ。
そしてそれは、私の恥じるところでもあります。」

9月15日、江は息を引き取った。左右の者はその遺命を良く守り、同月18日、遺体は荼毘に付された。
(甲子夜話より)


戦国大名の娘、二代将軍の妻、三代将軍の母が最後に見せた、女の意地の話。
今日久しぶりに大河を見た後、気がついたらコレを書いていた。反省はしている。




569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 21:30:54.03 ID:QNtIbW2n
>>568
ありがとう 反省なんかしなくていい
とあるブロクで初めてこれ読んで泣けたなあ
自分の遺骸の損傷を見られたくないという女心の前に
遺族の気持ちが先行してるってところがね
あと実際荼毘に付されたの10月18日なんで、死後一月経ってるんだよ

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 21:32:35.51 ID:DYCHgwfV
>>568
嫉妬深い話と後継者争いの話以外で
江が主人公として登場するほぼ唯一の逸話と言われるアレか

この逸話の冒頭部分に「(夫婦の)御なか殊に睦じくおわしましける」
と書いてあるんだよな

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 22:02:53.16 ID:RNe/HsJd
当時は冷蔵技術も何もないから、死体腐ってドロドロになっちゃう
そりゃ見られたくないよねw

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 22:28:16.33 ID:t05RecCE
遺命に従わず遺体を持って帰ってしまい
最後の最後で主君道雪の名に泥を塗った立花家臣団
気持ちは判らんでは無いんだが

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 22:35:43.05 ID:vlWfXuwD
>>572
新当主のご命令ですぞ・・・


574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 22:48:14.28 ID:t05RecCE
道雪は家臣たちが新当主宗茂の言うことを聞くか
自分の遺命を守るかどうか試したのかもしれないなあ
道雪亡き後の家臣団を纏め上げられるか
試練を与えられた宗茂って話だったのかもね、結果は見事だったわけだ。


575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 22:55:00.24 ID:QNtIbW2n
この時の荼毘、かなり盛大なんだよね
肝心の秀忠は二条城行幸中で、死に目に会えないってのがまた…
亡くなる三日前の9月12日に、佐竹義宣さんが西の丸に登城して見舞ってたりする
こんな時もしっかり義理堅い義宣さん

徳川家康、お江の方への手紙

2011年09月11日 22:27

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/10(土) 21:59:26.77 ID:wjGnBWla
確認したが見落としていて既出だったらゴメン。


大河真っ直中、今が旬な関ヶ原の戦いの少し前の話。
徳川家康は筆まめとして知られるが、秀忠の正室であるお江に送った手紙で
ねぎらいの言葉を綴った中で、返信に困る様な事も書いている。

井伊直政と云う男は、冷静沈着で洞察力に優れている。
日頃は口数が少ないので気が引けるように見えるが、実行力も抜群。
自分が考え違いや評議違いをして、それがマズイ結果になりそうだと判断すると、
他人のいない所を見計らって意見をしてくれるのだ。
故に、何事も先ず直政に内々に相談するようになった。本当に頼りになる男だ」

・・・・・・息子の奥さんへの手紙なのに(重要なので2度言った)・・・・・・重臣の惚気?
悪い話ではないし、信頼のおける良い重臣に恵まれたという意味でもいい話で。




538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/10(土) 22:59:08.22 ID:E185qRnC
惚気だ。間違いなく惚気だw

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/10(土) 23:26:55.10 ID:uUoO7g+J
>>537
江にまで直政自慢をせずにはいられない権現様がカワユス
しかし何故か言い訳っぽいところもあるな

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/10(土) 23:45:37.93 ID:KUy7QKX0
>>537
どこからそんな話になったんだろ?
前後の内容が気になる

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 00:15:19.49 ID:t05RecCE
家康にとっては三河の連中は面と向かってアレコレ言うが
直政は陰で夫を支えて立ててくれるくれる出来た嫁みたいなものなんだろうな(アッー!的な意味含む)
お江さんにも秀忠に自分と直政のようなそういう風に接して欲しいと物語っているんだと好意的にレス

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 00:16:45.26 ID:+DVZwpoV
秀忠と直政の仲を取り持とうとしてるのかね?

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 00:21:59.85 ID:sg1oUdc/
年齢的には直政さん次代を担う人だったしね
活躍の場はむしろ関が原よりもずっと後のはずだったんだろうなあ

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 00:30:27.41 ID:LVc1gLIL
>>543
直孝がしっかり跡を継いでくれたね

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 00:38:51.95 ID:mzrKLuRu
そういえば、直孝も寡黙で口数が少ない代わりに発言には重みがあって
声を掛けて貰っただけで、それを自慢する人がいたというエピがあったな

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 10:23:43.22 ID:Cj8dV0d0
>>545
直江「殿がわかるわかると言っておられます」

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 14:10:18.88 ID:QNtIbW2n
>>537
そんな手紙あったんだ 前後が気になるからそっちも紹介してほしい
お江さんの手紙も少ないけど、お江さん宛ての手紙ってのも結構希少だと思う

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 15:01:09.99 ID:mzrKLuRu
>>548
家康から江への手紙だと他にも
秀忠と江の結婚翌年の大地震の見舞いの手紙やら
1612年に、薬草について書かれた手紙などがあるね

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 15:09:55.87 ID:QNtIbW2n
>>549
薬草は初めて聞いたな 竹千代にこういうのが効くよ みたいな内容?

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 19:28:08.30 ID:7xBdOxLd
>>540
江は嫉妬深いから、秀忠のアッーを大目に見てくれということだよ

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 20:14:17.00 ID:DYCHgwfV
>>563
江が秀忠のアーッに文句を言う話なんて俗説でもないよ

現代人や一般人にも理解できる話と有名な話しか脚色されない、ということだろうねw

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 21:03:15.62 ID:QNtIbW2n
>>565
殿いつのお江さんは、正信と秀忠がデキてると勘違いしてたなあw
まあその正信は、家康にガチラブというおまけつきなんだけど…

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 21:09:35.16 ID:DYCHgwfV
小山長門守と秀忠の逸話?なんか妻妾たちとの話より情熱的でさ・・・・・
小山が他の男と会っていて秀忠が怒るとかいう

もちろんその話に江は絡まず