豊臣秀次娘・お菊のこと

2015年04月02日 18:21

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/02(木) 14:03:01.18 ID:IehglBm9
 豊臣秀次が高野山で自害させられた後、秀次の妻子たちも処刑されることとなったが
秀次と小督局の間に赤ん坊は まだ生まれたばかりでしかも女の子だったため助命され、
その身柄は和泉の国、波有手村に住む親戚の後藤興義に預けられた。
 赤ん坊はお菊と名付けられ、後藤興義夫妻とその娘のお梅に囲まれて幸せに育った。
お菊は義理の姉にあたるお梅と仲が良く、大きくなってもいつも助け合っていた。
 お菊が20歳になった頃、彼女は紀州の山口村で代官をつとめる山口喜内の嫡男、山口兵内
ところへ嫁ぐこととなったが、山口村で結納を済ませたすぐ後に大坂夏の陣が起こり、大坂城
から戦いの参加を求める使者がやってきた。夫の山口兵内はすぐに戦の支度をして出発したが
途中で徳川に味方する紀州の浅野の軍と戦いとなり、討ち取られてしまった。その知らせを
聞いた舅の山口喜内は仇討ちのため戦支度を始めると、お菊は「浅野の殿様に従うふりをして
やりすごし、山口村と大坂城で挟み撃ちにした方が得策でございます」と進言し、そのために
大坂城へ手紙を届ける役目をかってでた。
 お菊は2人の共を連れて大坂城を目指したが、和泉の信達村まで来ると周囲は敵兵ばかりで
あった。そこで近くの堀河山に登って一本の松の木の下でひと休みして思案したお菊は自分の
髪を切って男の侍の格好に変装することにした。そして、松の木の根元に自分の髪の毛を埋めると
山を降りて敵の目を盗んでやっとの思いで大坂城に辿り着いて密書を届けることに成功した。
 大坂城からの作戦の返書を受け取ったお菊はその返書をまげの中に隠してすぐに山口村へ
引き返した。ところが樫井川のほとりまで来た時に敵の襲撃を受けて共の一人が殺され、
さらに逃走中にまげがほどけて返書を落としてしまい、敵に奪われる結果となった。
 お菊は山道を急いで山口村に着いてみると、時すでに遅し、村は紀州の浅野の軍勢に滅ぼされていた。
 夫の一族を失って絶望したお菊は自害を考えたが、死ぬ前に育ててくれた家族に会いたくなり、
夜道を歩いて波有手村の実家に戻った。
 変わり果てたお菊の姿を見て養父母は驚いたが、暖かく迎え入れてかくまった。養父の後藤興義は
お菊をなぐさめるために隣り村に嫁いでいるお梅を呼び寄せた。お梅は自分の子供を連れて帰ってきて
お菊の話し相手となった。
 しばらくして浅野の侍たちがお菊を捜しに波有手村にやってきた。お菊は家の奥に隠れていたが、
侍たちが家の中にまで入ろうとすると姉のお梅が「私がお菊です」と名乗り出て身代りになろうとした。
お梅が連れて行かれそうになった時、お梅の子供が飛び出してきて母親にすがりついた。
そこへお菊が出てきて「待ってください。私がお菊です」と叫んだ。姉が身代りに捕まるのを
見過ごせなかったのである。姉のお梅は「いいえ、お菊は私です」と主張してなおもお菊をかばおうと
したが、お菊は「お姉さん、お気持ちは嬉しいですが、もう覚悟は出来ています。どうか亡くなった
主人のところへ私を連れていってください」と涙を流しつつ言った。みな声をあげて泣いたが
どうすることもできない。侍たちに連れて行かれたお菊は紀の川の田井の瀬の川原で短い生涯を閉じた。
 その後、養母の手によって波有手村の法福寺にお菊の木像がまつられた。いつしか、このお寺は
「お菊寺」と呼ばれるようになり、お菊が登った堀河山は「お菊山」、髪を埋めた松の木は
「お菊髪結いの松」と名付けられた。




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