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世の中にはよく似た人もいるかな

2021年09月11日 15:45

514 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/11(土) 11:02:29.87 ID:MyteGYwx
>>512の話

山内一豊、領地の掛川城を出発して駿河の国鞠子に着いたときのこと。
大坂城留守のことを心配した一豊は市川山城という老臣を使いに出し、大坂へやった。

山城が君命を帯びて引き返したところ、西軍一味の者どもは相通じており、通行は困難と見えた。

山城は一計を案じ、熱田の禰宜に身をやつして関の通行を試みた。近江の水口に差し掛かったところ、
関にて厳しく見咎められ拘留の身となって取り調べされた。

ここは西軍方長束大蔵大輔の領分であり、折しも番手の中には山城を見知った者がおり、
山城もこれに驚いたがあくまでも

私は熱田の禰宜であり、どこぞの誰かと一緒にされては迷惑千万であると、しらを切りとおそうとした。

そこへほかの者が出てきて、
「若狭の市川(市川山城は若狭の生れという)ならば何処そこの某がよく知っている。そのものを呼んで調べさせよう」
と言い出した。

呼び出された某は山城と目と目を合わせてじっくりその顔を見たが、
「世の中にはよく似た人もいるかな。若狭の市川ならば顔に向こう傷がある。皆様もよく見て見られよ。」
と、声を上げ皆で集まってその顔を吟味したがその様な傷は無いため、人違いで本当の禰宜であったかと
いうことになった。

最後に本物の禰宜か試すため、山城は祝詞の一つでも上げて見せよと申しつけられた。
山城は戸惑ったものの、常々銘剣の経文(原文には著者、いまだそれがどのようなものかは知らず。御奮記のままを出すとある)
を暗誦していたことを思い出し、それを一誦した。

戦国の文字を習わざる悲しさに、誰一人これを偽りと思わず真の禰宜と信じて関の者たちは山城を放免した。
かの弁慶が安宅関の頓智と同一なりと謂うべし。

のちに山内一豊はこのことを聞いて、市川山城を称賛し武夫は神道も心得たほうがためになると左右の者たちに言ったという。
ただし、御奮記には併せて(長いので略)戒めの言葉も載せられている。

また、最後に山城の詮議に呼ばれた某は己の懐に窮鳥入り来ると知って、本当は山城の知人であったが、
山城が捕らえられることが忍びないとの情けから見逃したこと。武夫たるもの殺伐としたことを専らとするが、
この某の様に武士の情けを知ることもまた奥ゆかしきことである。
某の名は伝わっていないのは残念であるが、土佐国畸人伝続編には大庭土佐守とあるので参考とすべし(最後原文ママ)。

こうして虎口を逃れて大坂表へ至った市川山城であった。

この後、大坂城にて見性院の元へ至った市川山城は人質として夫の足枷になるまいと死を選んだ
細川ガラシャのことを知った見性院から介錯を頼まれるも、強くそれを諫め矢文などで城中の情勢を調べ、
ほかの大名各家からも妻子が人質としてとられていることを報告し、のちに山内一豊が追加で送った
大塚藤右衛門や麻田忠左衛門ら屈強の武士と合流して、見性院を守り切ったという。

大塚藤右衛門は道中、中川留にあったが水練の達者であったため泳いで渡り切り、見性院の元に馳せ参じたという。

国立国会デジタル図書館 かゞみ草
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/903912/13?tocOpened=1



515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/11(土) 11:20:28.10 ID:o6LoPAZe
白紙なのにあえて通した冨樫のような器の持ち主

516 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/11(土) 11:56:25.76 ID:MyteGYwx
>>514
書き込んだ後、大庭土佐守を調べたら石田三成の配下にその名があって、

・関ヶ原で戦死した
・関ヶ原戦後に藤堂高虎に仕えた
・大坂夏の陣、天王寺・岡山の戦いで城内の指揮官に名前がある(wikipedia)

てなってるんだけど、どれがその人なのか…
複数人同姓同官が居たのか?

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/11(土) 15:29:03.49 ID:DZLNymr8
>>516
親子なんじゃねーの
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千代の笠の緒文

2021年09月10日 20:00

507 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/08(水) 22:04:20.53 ID:xIoK6K1r
千代の笠の緒文

恐らくまだ出ていないと思われるので投下。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦の前のこと。会津の上杉景勝討伐に向かった徳川家康であるが、
のちに関が原で家康と激突する石田三成は家康に付き従った諸大名の妻子を人質として家康らをけん制しようとしていた。

上方ではその様な状況の中、山内一豊の妻・千代こと見性院の元に増田長盛と長束正家の連署で一通の書状が届いていた。

千代の夫である山内一豊に石田三成の西軍へ与力するよう促す内容の書状であった。

使者の言葉通り、夫・一豊にこの書状を届けることにした千代であったが千代はそれとは別に2通の書状をしたため、
一通は未開封の増田と長束の書状と共に文箱に入れ、もう一通は観世よりにして夫への使者である田中孫作の笠の緒により込んだ。

孫作は下野に陣を張る一豊の陣へ向けて書状の入った文箱を持って旅立ったが道中で追い剥ぎに遭い文箱と笠は守ったものの、
自身の大小と衣服を追い剥ぎに奪われてしまった。

孫作は他者から衣服と刀(銘兼元という)を奪って旅を続け、美濃路では鮨屋の床下で二昼夜を過ごしてすし桶を盗んで飢えをしのいで
何とか下野諸川(現在の茨城県古河市)の一豊の陣までたどり着いた。慶長5年(1600年)7月24日のことであるという。

文を受け取った一豊はまず孫作の笠の緒に練りこまれた千代からの文を読んだ後、それを近侍の野々村迅政に焼かせたのちに文箱の封を解かずに
家康に届けさせた。

家康は大坂の状況を知り得たことと同封された千代からの書状に一豊が家康に忠を尽くすよう書かれていたことを読んで感動したという。

ここからは推測であるが、一豊が読んだのちに燃やした孫作の笠に織り込まれた千代からの文には文箱を未開封のまま家康に差し出すよう記してあったのではないかという。

西軍方と千代からの手紙を未開封で家康に差し出し、全ての判断を家康にゆだねたその行動こそが一豊の家康に対する二心の無さの裏付けともなり、翌日の小山評定での掛川城の供出など
戦後の山内家の加増へと繋がった一連の流れへとつながっているとも考えられているという。

この時、千代からの使者となった田中孫作がその旅路で奪った衣類についていた紋は田中家の定紋となり、この時のことを孫作は名誉とみなしていたという。
孫作の墓所は一豊夫妻と同じ妙心寺大通院にある。

参考①:国立国会デジタル図書館 かゞみ草
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/903912

参考②:Wikipedia 笠の緒文
https://ja.wikipedia.org/wiki/笠の緒文

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/09(木) 06:59:49.32 ID:foSPLbJU
どこで読んだか忘れたが山内さんが妻を心配し過ぎて3回くらい大阪に家臣派遣した話好き

しかし西軍の関所どうなってるんだ
上のと合わせて山内家だけで4回突破されるなんて




509 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/09(木) 07:26:12.43 ID:a/jaiCIJ
>>508
この話の場合は西軍側の書状を渡す使命だからその使者と言うことで問題なく通されそうだけど

510 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/09(木) 14:01:10.46 ID:Bdmlm/6/
>>507
田中孫作は紛れもない勇士だと思うけど追い剥ぎに遭った時、笠と文箱は守ったけど新たな服と刀を奪うまではこんなだったのかな?
https://i.imgur.com/yv65uRz.png

511 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/09(木) 18:37:08.81 ID:vUaP+85t
?「戦場でも編み笠一つあればいい」

512 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/10(金) 08:16:00.90 ID:8/hcsJ2h
>>508
>>507の下に貼ってあるかゞみ草の13ページかりそれっぽい逸話が有る。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/903912

市川山城と言う老臣を派遣したけど、西軍側の関所抜けるのに熱田の禰宜に化けて抜けようとしたら顔見知りがいてバレそうになったと言う。

実はバレてたけど、市川の必死の演技に顔見知りは人違いと偽って通してあげたみたいに書いてある。

513 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/10(金) 08:23:41.61 ID:8/hcsJ2h
>>512追記
義経と弁慶の安宅の関の話のオマージュみたい