775 名前:1/2[sage] 投稿日:2012/12/14(金) 06:02:36.12 ID:djwypYrW
『…(江戸に)到着二日後、皇太子(徳川秀忠)が海の長官(向井正綱)に、私を2度訪ねさせた。
秘書であるコンセクドノ(上野介殿:本多正純)から私に、皇太子の手に接吻しに行く事ができると
知らせてきた。それで午後4時に赴いた。
あの日、私が見た城下住まいの武士や兵、並びに王城や建物などに関する偉大さを上手く言い表すのは
無理である。
最初の門から皇太子の部屋に至るまで、絶対に二万人以上はいた。それも外から来たのではなく、
俸給を貰って城中の様々な役についている家来である。
主として最初の石垣は極めて大きい石塊に加工を施した石で出来ていた。城壁に組み合わせて
積み上げられているだけで、石灰も他の漆喰も何も使われていない。
城壁は大変幅広く、大砲を撃てるように狭間がついている。僅かだが、狭間のいくつかには
砲を据えていた。この城壁の下には濠があり、川に洗われている。跳ね橋が付いていて、これは
かつて見たことがないほど巧みな技術でできた橋だった。
門扉は頑丈で、私を通す時に開かれたが、火縄銃隊とモスケット銃隊が二列で現れた。もし誤魔化されて
いなければ千人以上居たのではないかと思う。この隊長がそのように言ったのだ。
隊長は第二の門まで付き添ったが、そこでまた別種の堤のような作りの城壁を見た。最初の城壁から
次まで300歩の距離があった。こちらは長槍と短槍兵400人が居た。
第三の門へと導かれたが、それは小石でできた高さ4バーバラの城壁が付いていた。ここには火縄銃・
モスケット銃のための半月堡、またマングイナタス(薙刀)隊用のそれのようなものが間隔を置いて並んでいた。
薙刀とは矛槍のようなもので、それを携えた、数にして300人の兵士が居た。
この人々は三つの門扉の間に居住し、家には非常に美しい庭と市中を見渡せる窓が付いていた。
第三の門扉を通り抜けると間もなく居城に入り、その側に200頭以上の馬を擁した厩がある。
よく世話が行き届き肥えているので、まるでイスパニアと同様に調教師が居るかのようである。
馬は非常に満足できる状況で一頭ずつ二本の鎖の端綱で繋がれ、足蹴りを人に食らわせないように
臀部を壁に、顔は馬小屋に入る方に向いている。
厩に相対して皇太子の武器庫がある。彼が使う胸当てで、金色仕上げのものや長槍、槍、火縄銃、刀など
豊富に納められ、10万の人間を武装させるのに充分な武器を備えている。
その前方には城の最初の広間が続く。そこには床も天井も見えない。何故なら床には薄敷きのような
ものである「タタミ」と呼ぶものを敷いている。もっとも薄敷きよりもっと美しく、金色の布、凝った繻子、
金の花模様のビロードの縁で飾られている。形態は方形で、組み合わせてもきちんと収まり、とても精巧である。
壁は木と板で仕上げられていて、狩猟に関することが金や銀、その他の色彩で色調を見事に整える。
天井も同様で、生地がわからないようにしてある。
我々外国人の目にはこの最初に広間以上のものは望めないと思ったのだが、次のものはもっと素晴らしかった。
第三の広間にいたっては他に抜きん出ており、先に進めば進むほど一層豪華で珍重になっていった。
これらの広間はいずれの間でも武士と貴族らが私を出迎えてくれた。自分の持ち場を超えないように
それぞれ制限付きの権限を各人が得ているのではないかと私は思った。誰かが私から離れると、
別の者が迎えたからだ。
776 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/12/14(金) 06:03:22.59 ID:djwypYrW
皇太子(秀忠)は私を大広間で待っていた。その中央に段が3つあり、7歩ないしは8歩ばかり前方に、
床の上に先に述べた敷物を敷いて座っていた。金の縁取りのある深紅のビロードの絨毯のような
四角の布とともに、キモノと呼ばれる二着の衣服で、緑と黄色に装っていた。
そしてカタナという剣と短剣をその上にくくりつけていた。
頭は頭髪を色帯でまとめて乗せているだけだった。
35歳の、浅黒いが立派な顔立ちと体格の男性である。
私に付き従ってきたものには(前の広間に)居残るように秘書官が命じたので、私が席につくまで
入れたのは秘書官のみだった。座るのは皇太子のそれと同様床の上ではあったが、彼から
四歩くらいの近距離で、左側だった。すぐに帽子を被るようにと私に命じた。
皇太子は笑いながら通訳に向かって、私に会えてどれだけ嬉しいか、私を知ることは彼の心痛となる。
何故なら私が自分の難破で悲しんでいるに違いないと思うからだ。私のような高位の人間は、
自分の咎が原因ではない不幸な出来事で悲しむべきではない、と言って、私を励まし、この国で
私に為されることはことごとく恩恵である、とも言った。
私は謝意を表しそして出来る限りを尽くして答えた。航海やナオ(スペインの外洋船)に関する質問をして
半時ばかり私を引き止めた。最後に私は彼の父である皇帝(徳川家康)の所へいつか伺候する許可を求めた。
翌日は無理だったが、4日後に出発する許可を与えた。というのも、まず父親に知らせ、道中、宿泊と、
私という人間にふさわしい歓待を命じておきたかったからだといった。
以上を持って私は暇乞し、宿舎へと帰ったが、もう遅い時間であった。』
(1609年 ドン・ロドリゴ・デ・ビエロ旅行報告書)
1609年の江戸城と徳川秀忠に関する記録である。
777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/14(金) 08:08:43.87 ID:wDwyjJQi
>>775
>そこには床も天井も見えない。何故なら床には薄敷きのようなものである「タタミ」と呼ぶものを敷いている。
>もっとも薄敷きよりもっと美しく、金色の布、凝った繻子、 金の花模様のビロードの縁で飾られている。
>形態は方形で、組み合わせてもきちんと収まり、とても精巧である。
畳の説明が新鮮だw
780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/14(金) 17:04:12.73 ID:qw3BQS3p
>>776
こういう外国人の目線からの説明って独特で面白い
あとマスケット銃と火縄銃って違うものなんだな 同じだと思ってた
783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/14(金) 19:11:16.06 ID:YmFPR2w8
>>775
当時は薙刀なんて実戦用の武器としては廃れていたと思ってたんだけど、
まだまだ使われていたのかな?
『…(江戸に)到着二日後、皇太子(徳川秀忠)が海の長官(向井正綱)に、私を2度訪ねさせた。
秘書であるコンセクドノ(上野介殿:本多正純)から私に、皇太子の手に接吻しに行く事ができると
知らせてきた。それで午後4時に赴いた。
あの日、私が見た城下住まいの武士や兵、並びに王城や建物などに関する偉大さを上手く言い表すのは
無理である。
最初の門から皇太子の部屋に至るまで、絶対に二万人以上はいた。それも外から来たのではなく、
俸給を貰って城中の様々な役についている家来である。
主として最初の石垣は極めて大きい石塊に加工を施した石で出来ていた。城壁に組み合わせて
積み上げられているだけで、石灰も他の漆喰も何も使われていない。
城壁は大変幅広く、大砲を撃てるように狭間がついている。僅かだが、狭間のいくつかには
砲を据えていた。この城壁の下には濠があり、川に洗われている。跳ね橋が付いていて、これは
かつて見たことがないほど巧みな技術でできた橋だった。
門扉は頑丈で、私を通す時に開かれたが、火縄銃隊とモスケット銃隊が二列で現れた。もし誤魔化されて
いなければ千人以上居たのではないかと思う。この隊長がそのように言ったのだ。
隊長は第二の門まで付き添ったが、そこでまた別種の堤のような作りの城壁を見た。最初の城壁から
次まで300歩の距離があった。こちらは長槍と短槍兵400人が居た。
第三の門へと導かれたが、それは小石でできた高さ4バーバラの城壁が付いていた。ここには火縄銃・
モスケット銃のための半月堡、またマングイナタス(薙刀)隊用のそれのようなものが間隔を置いて並んでいた。
薙刀とは矛槍のようなもので、それを携えた、数にして300人の兵士が居た。
この人々は三つの門扉の間に居住し、家には非常に美しい庭と市中を見渡せる窓が付いていた。
第三の門扉を通り抜けると間もなく居城に入り、その側に200頭以上の馬を擁した厩がある。
よく世話が行き届き肥えているので、まるでイスパニアと同様に調教師が居るかのようである。
馬は非常に満足できる状況で一頭ずつ二本の鎖の端綱で繋がれ、足蹴りを人に食らわせないように
臀部を壁に、顔は馬小屋に入る方に向いている。
厩に相対して皇太子の武器庫がある。彼が使う胸当てで、金色仕上げのものや長槍、槍、火縄銃、刀など
豊富に納められ、10万の人間を武装させるのに充分な武器を備えている。
その前方には城の最初の広間が続く。そこには床も天井も見えない。何故なら床には薄敷きのような
ものである「タタミ」と呼ぶものを敷いている。もっとも薄敷きよりもっと美しく、金色の布、凝った繻子、
金の花模様のビロードの縁で飾られている。形態は方形で、組み合わせてもきちんと収まり、とても精巧である。
壁は木と板で仕上げられていて、狩猟に関することが金や銀、その他の色彩で色調を見事に整える。
天井も同様で、生地がわからないようにしてある。
我々外国人の目にはこの最初に広間以上のものは望めないと思ったのだが、次のものはもっと素晴らしかった。
第三の広間にいたっては他に抜きん出ており、先に進めば進むほど一層豪華で珍重になっていった。
これらの広間はいずれの間でも武士と貴族らが私を出迎えてくれた。自分の持ち場を超えないように
それぞれ制限付きの権限を各人が得ているのではないかと私は思った。誰かが私から離れると、
別の者が迎えたからだ。
776 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/12/14(金) 06:03:22.59 ID:djwypYrW
皇太子(秀忠)は私を大広間で待っていた。その中央に段が3つあり、7歩ないしは8歩ばかり前方に、
床の上に先に述べた敷物を敷いて座っていた。金の縁取りのある深紅のビロードの絨毯のような
四角の布とともに、キモノと呼ばれる二着の衣服で、緑と黄色に装っていた。
そしてカタナという剣と短剣をその上にくくりつけていた。
頭は頭髪を色帯でまとめて乗せているだけだった。
35歳の、浅黒いが立派な顔立ちと体格の男性である。
私に付き従ってきたものには(前の広間に)居残るように秘書官が命じたので、私が席につくまで
入れたのは秘書官のみだった。座るのは皇太子のそれと同様床の上ではあったが、彼から
四歩くらいの近距離で、左側だった。すぐに帽子を被るようにと私に命じた。
皇太子は笑いながら通訳に向かって、私に会えてどれだけ嬉しいか、私を知ることは彼の心痛となる。
何故なら私が自分の難破で悲しんでいるに違いないと思うからだ。私のような高位の人間は、
自分の咎が原因ではない不幸な出来事で悲しむべきではない、と言って、私を励まし、この国で
私に為されることはことごとく恩恵である、とも言った。
私は謝意を表しそして出来る限りを尽くして答えた。航海やナオ(スペインの外洋船)に関する質問をして
半時ばかり私を引き止めた。最後に私は彼の父である皇帝(徳川家康)の所へいつか伺候する許可を求めた。
翌日は無理だったが、4日後に出発する許可を与えた。というのも、まず父親に知らせ、道中、宿泊と、
私という人間にふさわしい歓待を命じておきたかったからだといった。
以上を持って私は暇乞し、宿舎へと帰ったが、もう遅い時間であった。』
(1609年 ドン・ロドリゴ・デ・ビエロ旅行報告書)
1609年の江戸城と徳川秀忠に関する記録である。
777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/14(金) 08:08:43.87 ID:wDwyjJQi
>>775
>そこには床も天井も見えない。何故なら床には薄敷きのようなものである「タタミ」と呼ぶものを敷いている。
>もっとも薄敷きよりもっと美しく、金色の布、凝った繻子、 金の花模様のビロードの縁で飾られている。
>形態は方形で、組み合わせてもきちんと収まり、とても精巧である。
畳の説明が新鮮だw
780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/14(金) 17:04:12.73 ID:qw3BQS3p
>>776
こういう外国人の目線からの説明って独特で面白い
あとマスケット銃と火縄銃って違うものなんだな 同じだと思ってた
783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/14(金) 19:11:16.06 ID:YmFPR2w8
>>775
当時は薙刀なんて実戦用の武器としては廃れていたと思ってたんだけど、
まだまだ使われていたのかな?
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