33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/15(水) 13:42:07.62 ID:vxZvkeB7
豊後の領内は(耳川の戦いにおける)国王(大友宗麟)の軍隊敗北の報を聞いて悲嘆している頃、
日本の領主達は常に領地を増加する機会を待っている者たちであるため、国王が兵力を失ったこの時を
最も良い機会であると考え、豊前、筑前、筑後および肥後四ヶ国に於いて多数の大身たちが叛起した。
彼らは皆、豊後の王並びにその配下の大身達の領地をできるだけ奪い、自ら領主にならんと欲し、
この目的を果たすため同盟を結んだ。
既に述べたように、龍造寺(隆信)は肥前全土の領主であったが豊後の周囲に有る先の四ヶ国に於いて
国王に対し激烈なる戦争を始めた。これによって豊後の事情は一層悲しむべきものとなり、我等
キリシタンに対する迫害者は力を得て迫害を行い、両王(大友宗麟・義統)を動かしてその意に従わせ
ようとした。
老王(宗麟)は堅固な柱のように少しも変わること無く、我等に対する愛と親しみは日々加わり、また信仰の
事については一層熱心を増したが、若王(義統)は漸次冷淡と成り、我等から遠ざかった。しかして国を
治めているのは彼であるので、彼が冷淡と成るに従って、我等に対する迫害は増加した。
先の四ヶ国の内、肥後と称する国の主だった大身の一人は国王の味方であったが、若王の元に人を遣わして
「今後デウスの教えを庇護することを止め、自らが希望する条件を守ることを神仏に誓わないのであれば、
自分も他の大身達も王に服従できない。」と伝えた。
このため若王は全く信仰を棄て、要求どおりに神仏に誓いを立てた。このようにして彼はデウスの御恵を
失い、再び昔の罪と暗黒に陥った。我が教の敵は若王が信仰を棄てたのを見て豊後に集まり、前よりも一層
悪しき条件を定め、偶像に収入を返し、慣例の祭儀を行い、世子がキリシタンと成り教化を援助することを
止めるよう要求した。世子はこの要求を悉く容れ、異教徒の慣例に従い神仏によって宣誓をなし、完全に
異教徒であることを公表した。
ただし我等に対しては、「これはみな強制させられた為やむを得ず成したことであり、その悪しき事、
また自分が臆病であることは承知しているが、領国を失わないためには他に方法はなく、このようにしなければ
大身達が我等に援助を与えないためである。」と弁解した。
この事は彼の大いなる誤りであり、もしその父のように信仰が堅固であれば、その望みに対して却って
好都合であっただろう。
このように若王が屈服したため、我等に対する迫害は増加し、迫害者は言葉によって侮辱するだけではなく、
各地において毎日のように死刑の宣告を下した。こうしてしきりに友人、並びに敵の使者が来て、間もなく、
或いは夜中に殺されるだろうと知らせたため、我等は毎日毎夜、絶えず恐怖を抱き死の準備をなした。
府内の住院においては夜になると上長(カブラル)が一同を激励し、死を迎える力をつけた後、互いに
抱擁決別し、終夜殺しにくる人を警戒した。
老王はしばしば我等を励ましまた慰め、もし事起こらば我等と共に死すべしとまで言ったが、騒ぎは大きく
敵は甚だ強力にして、さらに政治は既に老王の手に無かったため、我等の恐怖には正しい理由があった。
かくしてこの苦難は数日継続し、その間祈祷、ジシピリナおよび断食を成し、二ヶ月半の間は昼夜祈祷を
続け、イルマン達は各々時間を定め、常に何人か祈りをすることと成した。
若王が信仰を棄て、この迫害によりキリシタン達は嘲笑を被ったため、新たに洗礼を受けた者の多数は
信仰を棄てたが、老王および野津のレアンのように信仰堅き者も少なからず、その熱心は益々加わり、
また新たにキリシタンと成る者も絶えなかった。
(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)
豊後の領内は(耳川の戦いにおける)国王(大友宗麟)の軍隊敗北の報を聞いて悲嘆している頃、
日本の領主達は常に領地を増加する機会を待っている者たちであるため、国王が兵力を失ったこの時を
最も良い機会であると考え、豊前、筑前、筑後および肥後四ヶ国に於いて多数の大身たちが叛起した。
彼らは皆、豊後の王並びにその配下の大身達の領地をできるだけ奪い、自ら領主にならんと欲し、
この目的を果たすため同盟を結んだ。
既に述べたように、龍造寺(隆信)は肥前全土の領主であったが豊後の周囲に有る先の四ヶ国に於いて
国王に対し激烈なる戦争を始めた。これによって豊後の事情は一層悲しむべきものとなり、我等
キリシタンに対する迫害者は力を得て迫害を行い、両王(大友宗麟・義統)を動かしてその意に従わせ
ようとした。
老王(宗麟)は堅固な柱のように少しも変わること無く、我等に対する愛と親しみは日々加わり、また信仰の
事については一層熱心を増したが、若王(義統)は漸次冷淡と成り、我等から遠ざかった。しかして国を
治めているのは彼であるので、彼が冷淡と成るに従って、我等に対する迫害は増加した。
先の四ヶ国の内、肥後と称する国の主だった大身の一人は国王の味方であったが、若王の元に人を遣わして
「今後デウスの教えを庇護することを止め、自らが希望する条件を守ることを神仏に誓わないのであれば、
自分も他の大身達も王に服従できない。」と伝えた。
このため若王は全く信仰を棄て、要求どおりに神仏に誓いを立てた。このようにして彼はデウスの御恵を
失い、再び昔の罪と暗黒に陥った。我が教の敵は若王が信仰を棄てたのを見て豊後に集まり、前よりも一層
悪しき条件を定め、偶像に収入を返し、慣例の祭儀を行い、世子がキリシタンと成り教化を援助することを
止めるよう要求した。世子はこの要求を悉く容れ、異教徒の慣例に従い神仏によって宣誓をなし、完全に
異教徒であることを公表した。
ただし我等に対しては、「これはみな強制させられた為やむを得ず成したことであり、その悪しき事、
また自分が臆病であることは承知しているが、領国を失わないためには他に方法はなく、このようにしなければ
大身達が我等に援助を与えないためである。」と弁解した。
この事は彼の大いなる誤りであり、もしその父のように信仰が堅固であれば、その望みに対して却って
好都合であっただろう。
このように若王が屈服したため、我等に対する迫害は増加し、迫害者は言葉によって侮辱するだけではなく、
各地において毎日のように死刑の宣告を下した。こうしてしきりに友人、並びに敵の使者が来て、間もなく、
或いは夜中に殺されるだろうと知らせたため、我等は毎日毎夜、絶えず恐怖を抱き死の準備をなした。
府内の住院においては夜になると上長(カブラル)が一同を激励し、死を迎える力をつけた後、互いに
抱擁決別し、終夜殺しにくる人を警戒した。
老王はしばしば我等を励ましまた慰め、もし事起こらば我等と共に死すべしとまで言ったが、騒ぎは大きく
敵は甚だ強力にして、さらに政治は既に老王の手に無かったため、我等の恐怖には正しい理由があった。
かくしてこの苦難は数日継続し、その間祈祷、ジシピリナおよび断食を成し、二ヶ月半の間は昼夜祈祷を
続け、イルマン達は各々時間を定め、常に何人か祈りをすることと成した。
若王が信仰を棄て、この迫害によりキリシタン達は嘲笑を被ったため、新たに洗礼を受けた者の多数は
信仰を棄てたが、老王および野津のレアンのように信仰堅き者も少なからず、その熱心は益々加わり、
また新たにキリシタンと成る者も絶えなかった。
(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)
スポンサーサイト