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老王は堅固な柱のように

2019年05月15日 17:44

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/15(水) 13:42:07.62 ID:vxZvkeB7
豊後の領内は(耳川の戦いにおける)国王(大友宗麟)の軍隊敗北の報を聞いて悲嘆している頃、
日本の領主達は常に領地を増加する機会を待っている者たちであるため、国王が兵力を失ったこの時を
最も良い機会であると考え、豊前、筑前、筑後および肥後四ヶ国に於いて多数の大身たちが叛起した。
彼らは皆、豊後の王並びにその配下の大身達の領地をできるだけ奪い、自ら領主にならんと欲し、
この目的を果たすため同盟を結んだ。

既に述べたように、龍造寺(隆信)は肥前全土の領主であったが豊後の周囲に有る先の四ヶ国に於いて
国王に対し激烈なる戦争を始めた。これによって豊後の事情は一層悲しむべきものとなり、我等
キリシタンに対する迫害者は力を得て迫害を行い、両王(大友宗麟・義統)を動かしてその意に従わせ
ようとした。

老王(宗麟)は堅固な柱のように少しも変わること無く、我等に対する愛と親しみは日々加わり、また信仰の
事については一層熱心を増したが、若王(義統)は漸次冷淡と成り、我等から遠ざかった。しかして国を
治めているのは彼であるので、彼が冷淡と成るに従って、我等に対する迫害は増加した。
先の四ヶ国の内、肥後と称する国の主だった大身の一人は国王の味方であったが、若王の元に人を遣わして
「今後デウスの教えを庇護することを止め、自らが希望する条件を守ることを神仏に誓わないのであれば、
自分も他の大身達も王に服従できない。」と伝えた。

このため若王は全く信仰を棄て、要求どおりに神仏に誓いを立てた。このようにして彼はデウスの御恵を
失い、再び昔の罪と暗黒に陥った。我が教の敵は若王が信仰を棄てたのを見て豊後に集まり、前よりも一層
悪しき条件を定め、偶像に収入を返し、慣例の祭儀を行い、世子がキリシタンと成り教化を援助することを
止めるよう要求した。世子はこの要求を悉く容れ、異教徒の慣例に従い神仏によって宣誓をなし、完全に
異教徒であることを公表した。

ただし我等に対しては、「これはみな強制させられた為やむを得ず成したことであり、その悪しき事、
また自分が臆病であることは承知しているが、領国を失わないためには他に方法はなく、このようにしなければ
大身達が我等に援助を与えないためである。」と弁解した。
この事は彼の大いなる誤りであり、もしその父のように信仰が堅固であれば、その望みに対して却って
好都合であっただろう。

このように若王が屈服したため、我等に対する迫害は増加し、迫害者は言葉によって侮辱するだけではなく、
各地において毎日のように死刑の宣告を下した。こうしてしきりに友人、並びに敵の使者が来て、間もなく、
或いは夜中に殺されるだろうと知らせたため、我等は毎日毎夜、絶えず恐怖を抱き死の準備をなした。
府内の住院においては夜になると上長(カブラル)が一同を激励し、死を迎える力をつけた後、互いに
抱擁決別し、終夜殺しにくる人を警戒した。

老王はしばしば我等を励ましまた慰め、もし事起こらば我等と共に死すべしとまで言ったが、騒ぎは大きく
敵は甚だ強力にして、さらに政治は既に老王の手に無かったため、我等の恐怖には正しい理由があった。

かくしてこの苦難は数日継続し、その間祈祷、ジシピリナおよび断食を成し、二ヶ月半の間は昼夜祈祷を
続け、イルマン達は各々時間を定め、常に何人か祈りをすることと成した。
若王が信仰を棄て、この迫害によりキリシタン達は嘲笑を被ったため、新たに洗礼を受けた者の多数は
信仰を棄てたが、老王および野津のレアンのように信仰堅き者も少なからず、その熱心は益々加わり、
また新たにキリシタンと成る者も絶えなかった。

(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)



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フランシスコ・カリヤン書簡より、耳川の戦い

2019年05月10日 16:42

17 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 09:28:01.42 ID:0VkCxDIG
両王(大友宗麟・義統父子)が日向及び豊後に於いて(キリスト教のために)為したる事は右の通りであるが、
それに対するパードレ等の満悦甚だしく、また大友統治下の諸国に於いて、帰依のために開かれた門戸は広く、
キリシタンたちが満足したことは、尊父も察せられるでしょう。
であるが他方に於いて我が教の敵は悲しみ、邪悪なるゼザベル(奈多夫人)と坊主達の不満甚だしく、
坊主たちは両王が寺院を破壊し彼らを侮辱したことに対し、神仏の罰が諸国に及ぶと脅したのであるが、
キリシタン並びに王達は、神仏がいかに激怒しても何もすること能わないのを笑った。

事情かくの如くであった時、我等の主デウス(御判断は我等には解らざれども、聖にして常に正しく、また
一般の幸福と成るものなり)は、日向の軍隊に油断の生じることを許し給い、これによりキリシタン及び
我等の喜びは嘆きに変じ、キリシタンに対する大迫害が起こり、豊後の王が多年領内に維持していた平和は
忽ち激烈なる戦争に変わり、国内の事情は一変した。
世の事は無常であり、日本の事情が変わりやすいこと、また我らが進まんと欲する道が、我等の主が定め
られたものと大いに相違していたことが、明らかに認められたのである。

日向に在った総司令官である田原親賢の油断と無能により、既に手中に在った勝利と、その指揮する全軍は
失われた(耳川の戦い)。軍隊は同国一帯の鍵であり、多数の兵の籠りたる一城(高城)を囲んだが、
それ以前に攻めた城においては少しも抵抗を受けなかったため、敵を軽蔑し警備を怠っていた。それに反し
敵である薩摩の王(島津義久)は少しも油断せず、高城の陥落が全領土の喪失と成るべきことを慮り、全力を
尽くしてこれを救援する決心をなし、噂によれば所領の三ヶ国より老人と少年を除き貴族及び平民の兵を
悉く召集して無数の兵を得、これを率いて城に向かって進軍した。そうして先ず伏兵を設け、全く警備を
怠っていた豊後の軍を平地に誘ってこれを攻撃した。城内の兵もまた打出て、豊後の軍を真ん中に挟んで
おおいに戦った。豊後の兵はよく防ぎ多数の敵を殺したが、大軍に対抗すること出来ず、大部分は戦死し、
残兵は戦場を敵に委ね、列を乱して敗走し、生命を全うするために全力を尽くした。

18 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 09:29:00.68 ID:0VkCxDIG
風評は事実より誇大に伝わり、また逃げる者には恐怖が伴うのが常であり、多数の敗残者は戦場より数レグワ
離れた老王(大友宗麟)の滞在地(無鹿)に着くと『全軍殺され、または敗走し、敵は急激に追撃し、数時間の
内にはここに到着し占領を始めるであろうから、少しも時を失わず豊後に遁るべし。』と言った。
多数の人が逃げ帰って同じことを繰り返したため、話は益々大きくなり、前よりも悪しき報伝わり、人々の
恐怖は甚だしかった。パードレ・フランシスコ・カブラルは王に対し、「同所は堅固であるから引き上げを
急がず、残りの軍隊を収拾すべきで、敵が急に来ることも無いし、味方の死者も話よりは少ないはず。」と
言い、王もその勧告に従う決心をしたが、部下の恐怖甚だしく頻りに騒いだため、遂にこれに負けて急遽豊後へ
撤退することと成った。夜中人をパードレに遣わして己の去る事を告げ、少しも躊躇すること無くイルマン達と
共に出発するよう命じた。この夜の混乱は甚だしく、王と共に逃げる者が途中の食料を携えることも忘れたため、
豊後までの3,4日路の間非常なる苦労と飢えを覚え、国王も妃も大いに困窮した。

パードレ・フランシスコ・カブラルおよびイルマンたちは、国王が同日午後、彼らの説得により一端、敗残兵を
収拾して同所に留まることを決断していたため、撤退の用意を少しもしておらず、王が撤退の使いを出した
直後には出発してしまったため独り後に残り、馬はわずかに一頭しか無く、しかもこの馬は、病気のため
付近の他の町で療養していたイルマン・ルイス・ダルメイダを迎えるために送る必要があり、どのようにしても
他の馬を得ることが出来ず、又これを捜す余裕もなく、しかももしすぐに出発せず豊後の王から離れた時は、
我等は敵、もしくは味方であるはずの豊後の逃亡兵から殺される危険があった。この兵士たちは異教徒であり、
パードレたちが国王をキリシタンとなしたが故に、神仏の罰が彼らに及んだのだと言い、そういった迷信を
抱いていたためである。
パードレ及びイルマン等は如何とも出来ず、会堂の最も大切な品を少しばかり従僕たちに運ばせ、冬の最中に
険しい山道を通り、食料も無く、肉体及び精神上非常なる疲労を覚えたが、王が恥じて引き返してくることを
懸念して前進した。彼らの困難は甚だしく、大いに飢餓に苦しみ、三日の道中を成した力があったのは不思議と
思うほどである。
日本の戦争の習慣に従い、全土は焼かれて居住する者もなく、食料も、夜休憩する家もなく、飢餓と寒気と
疲労のため、絶えず死に瀕していたが、我等の主の御助により。夜の宿泊所において従僕たちから少しの米を
与えられた。また山の険路において足を痛め、履物もなく、降雨のため水多く冷たい河を渡り、濡れた体を拭く
物もなく夜を過ごした。これにかかわらずダライニヤを唱えてデウスの一身を委ね、かくの如くしてデウスの
御恵により慰めを得た。
(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

耳川の戦いの敗北についての宣教師の記録。やはり神仏の罰だったのでは。



19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 13:28:47.46 ID:C+7oiKRh
これは前スレの空気読まない学級委員長みたいな大鹿剣助も激怒

若王はこれを聞くと急いで王妃のもとに

2019年05月08日 17:29

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/08(水) 00:12:00.40 ID:MDWkvrbn
(大友家による日向攻めの間に)悪妃ゼザベル(奈多夫人)は、多数の大身たちと共にキリスト教会を撹乱し、
若王(大友義統)の考えを改めさせる方法を協議し、また若き王妃(尊寿院)の(キリシタンと成るという)意思を
枉げるため、妃の母にして同じく頑固なる老女と共に全力を尽くし、「もしキリシタンと成るのであれば嫁と思わず
娘とも思わず」と言い、様々に努力したことによって、かの妃は徐々に我々に対し冷淡となり、決心を変ずるに至った。

また日向に向かって出陣しようとする大身たちは世子に対し、「日向において盛んに戦っている今日において、
デウスの教えの庇護に力を尽くすのは宜しからず。戦争及び国政に関する、デウスの教えよりさらに重要な
国務に従事すべし。」と諌めた。世子はこれに「私は戦争に加わるため、宮廷を離れて今荒野に在る。そして
戦争に必要な一切の準備を行った。そしてデウスの教に関わることは、少しもこの準備を妨げない。
お前たちはデウスの教えは重要ではないと考えているが、まずデウスの教えがどんな事を説いているか、
それを聴いた後でこれに関する意見を述べるべきである。」と言った。
大身たちはこの返答にあまり満足しないまま、日向に向けて出発した。

若き王は、老夫人らがその妻に対して計画していることを聴き、その妻とパードレ・ルイス・フロイスとに
書簡を贈り、パードレがしばしば妃を訪問してその決心を固く守らせることを請い、また今後発生すべき
事に関して一切の疑惑を除くため、パードレに対し「自分の洗礼は急がないが、妻には洗礼を授けさせ、
サンタ・カタリナの祝日(11月25日(和暦11月7日)にこの式を行うように」と請い、数回使者を往復させた
後、そのようにすることに決定した。

しかし邪悪なる二人の老夫人はこれを聞くと、「もしそのような事と成るなら、腹を切って自殺する。
強いてキリシタンと成りたいのであれば、王が自らキリシタンと成るまで待つべし。」と言った。

若王はこれを聞くと急いで王妃のもとに行き、その母に彼女がキリシタンと成ることを承認するよう
請い、大いに説得に尽くしたが、彼女は固くこれを拒んだため、若王は怒り、いかなる事があっても
これを実行する決心を成した。

しかしこのように意見対立したため、若き妃はどのように決心すればよいか解らなかった。
この為様々に議論した後、パードレ・ルイス・フロイスの意見に従い、洗礼は中止し代わりに城内に設けた
礼拝堂において、助祭および副助祭列席の上オルガンの演奏にてミサを歌い、これに若王と夫人、
ならびに列席者は非常に満足した。この決定は、洗礼後に転向することが無いようにとの、デウスのお導きに
よるものである。

(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

家臣から戦時にキリスト教への傾倒を批判されて「宮廷から出て戦争準備に集中している」と反論するも、
尊寿院(ジュスタ)の信仰に圧力がかかっていると知ると即座に戻ってくる義統であった。