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織田信長を模倣する

2018年10月29日 17:28

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 00:30:57.48 ID:IayTbgkZ
世子(大友義統)は政治に当たるように成ってから、ますます国内の坊主および偶像崇拝を嫌い、
生来鋭敏にして才知あるがゆえに、神仏の崇拝を嘲笑し、この事について織田信長を模倣することを希望した。
信長はこれらを破壊することによって、所領、名誉および評判はますます加わったのだ。世子はこれを
実行せんとし、本年は祖先の何者も成さざりしことに着手した。

第一には復活祭(1578年3月3日(天正6年2月22日))前に使いをパードレのもとに遣わし、彼に仕える
武士および殿中に常に侍する青年が悉くキリシタンとなることを希望し、勧告は彼自身が成すべきが故に、
当院より人を遣わして説教を成し彼等に悟らしめんことを請うた。彼等が説教を始めた後、世子は突然
戦争(土持親成征伐)に臨むことになったため、さらに良き機会までこれを延期する必要が生じた。

世子はまた、神殿および坊主の僧院の収入を没収して家臣に与えることを始めた。(中略)一昨日一人の
キリシタンが私に告げたことによれば、世子は彼を当所より40レグワ余りの肥後国に遣わし、僧院の偶像を
焼かせ、其の収入は彼の兄弟に与えた。国の大身たちはこの事の理由を世子に尋ねたが、彼はこれに
こう答えた

「坊主等は国の髄を食い贅沢なる生活を成し、労働また戦争において死する貧民および兵士を嘲笑する。
彼等がもし宗規を守り、また来世において賞罰を与え、或いは現世において幸福と富を与える神仏であるのなら
猶忍ぶであろうが、坊主の生活は偽善と悪行に満ちており、その祈祷と供物は何等の効能も無いことは
経験によって明らかである。故に彼らに対して躊躇するのは愚の極まりであると思う。

織田信長は都の地方において同一の事を行ったが、かつて神仏より罰を蒙ったこと無く、むしろ繁栄
している。この故に坊主達に勧告するは、結婚する(僧侶をやめる)か、或いは兵士となることである。」

(1578年10月16日(天正6年9月16日)付パードレ・ルイス・フロイス書簡)

すっかり信長かぶれの義統。多分これ、フロイス自身が信長のことをキリスト教的に盛りに盛って報告して
義統を煽ってたんでしょうね。


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ルイス・フロイスによる不思議の国ニッポン

2017年11月26日 16:08

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/25(土) 17:05:50.22 ID:TxoaurS2
ルイス・フロイスによる不思議の国ニッポン的な作品「ヨーロッパ文化と日本文化」よりいくつか

・われわれの間では彩色した衣服を着ることは軽率で笑うべきこととされるであろう。
日本人の間では坊主と剃髪した老人以外は一般に、すべて彩色した衣服をつけている。
・われわれはいつでも唾を吐き出す。日本人は概して唾を呑み込む。
・われわれの間では、貴族が鏡を見ていれば柔弱な行為と考える。
日本人の貴族は衣服を着るために、誰でも鏡を前に置くのが普通である。
・ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と貴さは貞操であり、またその純潔が犯されない貞潔さである。
日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても、名誉も失わなければ、結婚もできる。
・ヨーロッパでは夫が前、妻が後になって歩く。
日本人では夫が後、妻が前を歩く。
・ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。
日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付ける。
・汚れた天性に従って、夫が妻を離別するのが普通である。
日本では、しばしば妻が夫を離別する。
・ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことはきわめて大事なことで、厳格におこなわれる。
日本では娘は両親にことわりもしないで、1日でも幾日でもひとりで好きなところへ出かける。
・ヨーロッパでは妻は夫の許可が無くては、家から外へ出ない?日本の女性は夫にしらせず、好きな所に行く自由をもっている。
・われわれの間では女性が文字を書くことはあまり普及していない。
日本の高貴な女性は、それを知らなければ価値が下がると考えている。
・ヨーロッパでは普通女性が食事を作る。
日本では男性がそれを作る。
・ヨーロッパの女性は人に見られずに道を歩くために頭巾をつける。
日本の女性は道を行く時、頭にタオルを被って結び、両端を顔の前に垂らす。
・ヨーロッパでは白粉一箱あれば一国の需要を充たす。
日本にはそれを積んだソマ船が多数渡来するがそれでもまだ足りない。
・われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。
日本ではそういうことは滅多におこなわれない。ただ(言葉?)によって譴責するだけである。
・ヨーロッパの子どもは青年になってもなお口上ひとつ伝えることができない。
日本の子どもは十歳でも、それを伝える判断と思慮において、五十歳にも見られる。
・われわれの子どもは大抵公開の演劇や演技の中ではにかむ。
日本の子どもは恥ずかしがらず、のびのびしていて愛嬌がある。
そして演ずるところは実に堂々としている。
・われわれの間では子どもは度重ねて親戚の家に行き、彼らと親しく交わる。
日本では親戚の家には滅多に行かない。親戚を他人のように扱う。
・われわれはすべてのものを手を使って食べる。
日本人は男も女も、子供の時から二本の棒を用いて食べる。
・われわれの間ではフライにした魚をよろこぶ。
彼らはそれを好まない。
・われわれの間では膿瘍を火で焼く。
日本人はわれわれの外科の過酷な治療を受けるよりも死を選ぶだろう。
・われわれの手紙はたくさん記載しなければ意見を表すことはできない。
日本の手紙はきわめて短く、すこぶる要を得ている。
・ヨーロッパでは水を流すために街路の中央部が低くなっている。
日本では中央が高く、家々の側が低い。それに沿って水を流すためである。
・われわれの間では悲劇でない劇が演ぜられる場合、場面を分けない。
彼らはいつも場面を第一、第二、第三などとわける。
・われわれの劇は談話によって演ぜられる。
彼らのはほとんど常に歌い、または踊る。
・われわれの間では種々のものを贈るのは親愛のしるしである。
日本では贈物が少なければそれだけ礼儀正しい。
・われわれの間では人が贈物として持ってきた物は、その同じ人にこれを勧めることはできない。
日本では親愛のしるしとして、贈った人とそれを受けた人が、すぐにその場で試食しなければならない。
・われわれの間では球戯は手でする。
日本人は足を使って遊ぶ。
・われわれの間では贈物は空の小箱に入れ、リボンを付けないで贈る。
日本では糸で束ねる紙を貼り付ける。
・われわれの間では従者がその主人夫妻を自分の家に招く慣習はない。
日本ではそれがしばしばおこなわれる。義務としておこなわれることもあり、そうでない場合もある。

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/25(土) 18:06:47.15 ID:TxoaurS2
「ヨーロッパ文化と日本文化」にはこんなのもあった
・われわれの間では男たちは髪を刈っており、禿頭にされると侮辱されたと考える。
日本人は毛抜きを用いて、自分で、毛の残らないように、全部抜いてしまう。そのことは苦痛と涙を伴う。
・われわれのロウソクは本が太くて先が細い。
日本人のは先が太くて本が細い。

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/25(土) 19:41:58.59 ID:TxoaurS2
なおお気づきかもしれないが、特に現在の日欧の文化と逆のようなものを優先的にピックアップした。
元の本では宗教についての章も立てられてたけど、カトリックと比べて肉食妻帯当たり前の無信心者、悪魔崇拝者というような記述しかなかった。



460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/25(土) 19:17:29.54 ID:Qeo9lrtY
>>456
日本が上回ってる所もあれば逆もあって面白い。
まあ文化と時代の違いもあるから一概にどちらが良い悪いとも言えないけど。

1563年頃の松永久秀

2017年06月22日 15:44

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 21:50:29.42 ID:iv59Ojsk
既述のように、当時テンカ(=天下)の最高統治権を掌握し、専制的に支配していたのは松永霜台であった。
すなわち、彼はその点、偉大にして稀有の天稟の才能の持ち主であった。
彼は完全に自らに服従せしめていた大和国の、奈良の市街に近いタモンヤマ(=多聞山)という立派な一城に住んでいた。
そして五畿内においては、彼が命じた事以外は何も為されぬ有様であったから、位階や門閥においては彼を凌駕する多くの高貴な人たちが彼に奉仕していた。



フロイス日本史から、1563年頃の松永久秀の話


「フロイス日本史」から、戸次川の戦い

2017年05月30日 18:11

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:31:52.86 ID:pxsQt+cT
(豊後国主の)嫡子は、薩摩軍が攻めてきた時に身を守り得るために、
他の二名の主将(仙石秀久長宗我部元親)とともにウエノハル(上原)と称するある場所に一城を築くことに決した。
だが彼らは心して真面目に築城の作業に従事しなかった。
彼らの不用意は甚だしいもので、饗宴や淫猥な遊びとか不正行為にうつつを抜かしていたので、その城は笑止の沙汰であった。
したがって(薩摩軍が来週した時に彼らが)助かることなど思いもよらないことであった。

ところで国主フランシスコの息子パンタリアン(田原)親盛は、司祭に対して、
もし府内で何事かが起こった場合には、司祭は家財を携えて城(妙見城)に身を寄せるようにと伝えていた。

薩摩の軍勢は惰眠をむさぼることなく、攻撃力を強めながら、漸次豊後に進入して領地を奪っていった。
豊後の指揮官たちは、常軌を逸した振る舞いによってますます油断の度合いを深めていた。

本年一五八七年の一月十六日(西洋暦)、薩摩の軍勢は、
府内から三里離れたところにあるトシミツ(利光宗魚)と称するキリシタンの貴人の城を襲った。
城主は府内からの援助を頼りに力の限り善戦した。
だが敵は攻撃の手を緩めず、ついに武力によって城内に進入し、その城主、ならびに多数の兵士を殺害した。

府内にいる味方の勢は、(利光の)城が占拠されているかどうか確かなことを知らないまま、
赴いて囲みを解くべきかどうか評定を続けていた。
結局、彼らは出動することに決め、栄えある殉教者聖フィビアンと聖セバスティアンの祝日に府内を出発した。

府内からは、仙石がその兵士を率い、土佐国主長宗我部とその長男がその兵士を伴い、
さらにパンタリアンも兵を率い、その他豊後の特定の殿たちが出発した。
清田と高田の人々に対しても出動するよう命令が出された。

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:32:45.50 ID:pxsQt+cT
薩摩勢は、それより先(豊後勢の動静を)知らされていたらしく、余裕をもって策を練り、
準備を整え、一部少数の兵士だけを表に出して残余の軍勢は巧妙に隠匿していた。

豊後勢は、大きく流れの速い高田の川に到着し、
対岸に現れた薩摩勢が少数であるのを見ると、躊躇することなく川を渡った。
そして豊後勢は戦端を開始した時には、当初自分たちが優勢で勝っているように思えた。
だがこれは薩摩勢が相手の全員をして渡河させるためにとった戦略であった。
渡し終えると、それまで巧みに隠れていた兵士たちは一挙に躍り出て、
驚くべき迅速さと威力をもって猛攻したので、
土佐の鉄砲隊は味方から全面的に期待をかけられていながら鉄砲を発射する時間も場所もないほどであった。
というのは、薩摩軍は太刀をふりかざし弓をもって、猛烈な勢いで来襲し、鉄砲など目にもくれなかったからである。
こうして味方の軍勢はいとも容易に撃退され敗走させられて、
携えていた鉄砲や武器はすべて放棄し、我先にと逃走して行った。

豊後国の人たちは、河川の流れについて心得があったから助かったが、
仙石と長宗我部の哀れな兵士たちは他国の者であったから、浅瀬を知らず溺死を余儀なくされた。
こうしてその合戦と破滅において、二千三百名以上の兵士が戦死したと証言されている。
彼らの中には、土佐国主の嗣子や、かつて阿波の領主であった十河殿、その他大勢の貴人や要人が含まれていた。

薩摩勢は、その日の午後には府内から四分の一里の地点にまで到達し、
その途中にあったものをことごとく焼滅し破壊した。




「フロイス日本史」から、戸次川の戦いについての記述である。


彼らが通過した後には、何一つ

2017年05月29日 18:40

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:30:37.93 ID:/C3l8YdE
もうすぐセンゴクで仙石が失敗しそうなのでそのあたりの話を


中務(島津家久)は、日向から三千の兵と、薩摩から五百名、および叛乱軍を率いて、すでに豊後領の宇目に入り、
嫡子(大友義統)の数名の家臣に属する小さな三つの城を無抵抗裡に占領した。
それからさらに進撃し、幾人かの身分ある人たちと老臼杵殿(臼杵鎮尚)がいる別の城の所在地であるミエ(三重)に向かった。
これらの者はただちに降伏して豊後の敵にまわった。
中務はそこに留まることとし、(家臣に)ごくわずかの兵を伴わせ、叛乱者たちに道案内をさせて送りこんだ。
豊後勢の恐怖と怯懦は驚くばかりで、〔とりわけそれがデウスの鞭であってみれば〕
彼らは薩摩軍の名が口にのぼるのを聞くだけで、屈強かつ勇猛で戦闘に練磨された者までが、
立ちどころに震え出し歯をがたつかせ、まるで軟弱な戦の未経験者のように降伏して、敵の言いなりになるのであった。

薩摩軍は、万事が思惑通りに運ぶのを見て、通過するナングン(南郡)の地、その他のところを焼き払い、
打ち壊し蹂躙し始めた。
彼らが通過した後には、何一つ満足なものは残っておらず、少しでも逆らう者は殺害された。
またそれに劣らず嘆かわしく、いなむしろ最大に嘆かわしく思われたことは、(薩摩勢)がおびただしい数の人質、
とりわけ婦人、少年、少女たちを拉致するのが目撃されたことである。
これらの人質に対して、彼らは異常はばかりの残虐行為をした。
彼らのうちには大勢のキリシタンも混じっていた。

(フロイス日本史)



800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:44:17.08 ID:12qJD4CN
>>799
キリスト教が嫌いな佐伯さんが勝ってるのは無視される

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 21:42:25.07 ID:AP3CGx9c
豊後の連中から奴隷を買ってたのはどこのどいつなんすかねえ

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 21:49:22.72 ID:DLlKPT0m
まっことでごわす

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 21:59:22.09 ID:12qJD4CN
>>802
豊後国で海外に奴隷売買したって記録はみつかってないな
肥前国ならあるけど

あまり有名でなく高尚でもない男であった

2017年05月29日 18:39

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:44:53.16 ID:/C3l8YdE
筑前、筑後、および豊前の一部をほぼ支配下に置いた薩摩にとって、今やこの島全体の絶対君主になるために残るは
ただ豊後に進出するだけとなった。
そこで彼らは豊後の殿たちと交渉し、種々の約束と甘言をもって彼らを味方に引き入れようと奔走した。
豊後の嫡子(大友義統)は、この状況について連絡を受けると大いなる危機感に襲われた。
そしてこの恐怖から、彼は関白殿に強く救援を懇請した。
というのは、豊前で戦っている勢は豊後から遠く離れたところにおり、薩摩軍とはかけ離れた別の戦に従軍していて、
急速に有利な戦況は望むべくもなかった。

関白は天下の主となった後、信長時代の仲間であった仙石権兵衛と称する尾張の人物に讃岐国を与えた。
彼は、あまり有名でなく高尚でもない男であったが、決断力に富み独善的で、その他それに類した性格を備えていた。
ただし以前から優秀な武将として知られていた。

関白はこの人物に豊後を援けに行くにように命じた。
そしてさらに、二年前に征服した土佐国のセニョール・チョウスガミ(長宗我部元親)に対しても、
軍勢を率いて豊後の援助に赴くように命じた。
だが自らが出陣するまで、もしくは敵との合戦を伝達するまでは、敵と交戦するのを差し控えるようにと言いつけた。
それゆえ(彼らは)約二千名あまりの実戦の兵士しか伴って行かなかった。

(これらの軍勢)は府内の市で、嫡子および伯叔父なる(田原)親賢の軍勢と合流した。
(親賢)は、(去る日向の合戦で)何千という生命を失わせた最大の責任を負う身であったから、
豊後が破滅して後は、自分の城から外へは決して出ようとしなかった。

豊後の上長であるペドゥロ・ゴーメス師は、贈り物を携えさせて、(既述の)異教徒の新たな主将たちを府内に訪問せしめた。
彼らもまた後には学院に来て手厚くもてなされた。
とりわけ土佐の主将(長宗我部元親)は、要請があれば、司祭や教会を援助する用意があることを示した。
この主将の嗣子である息子(信親)は、一、二度我らの修道院で説教を聴聞し、説話をよく理解したらしく、
キリシタンになりたいとの希望を表明していたが、その数日後に戦死した。



上の話とは少し時間が前後するけど、同じくフロイス日本史から
仙石についてのフロイス評入りの話


ある戦陣での戸次道雪と朽網宗暦・宗策のやりとり

2016年10月10日 10:09

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 16:57:25.24 ID:t9v3aFpB
ある戦陣での戸次道雪と朽網宗暦・宗策のやりとり

豊後朽網山野城主・朽網宗暦(鑑康)は息子の宗策(鎮則)ともどもキリスト教贔屓で知られた人物である
1553年には朽網地方に宣教師や修道士が訪れキリスト教の布教が始まりやがてキリスト教日本八大布教地にまで発展していく
翌1554年には豊後で初の教会を建てルイス・フロイス「日本史」にその教会の美しさを絶賛する様子が書かれている

それはさておき、ある戦陣で朽網宗暦・宗策親子が総指揮官・戸次道雪の元へ訪問する際のこと

宗暦「そなたも知るように道雪殿はキリシタンを好まれぬので(胸にかけた)そのロザリオを御目に触れないように隠しておけ」
宗策「……」

最初は父の言に従ってた宗策だが道雪の前にくるや父の言を翻しこれみよがしにロザリオを取り出しはじめた
宗暦はこれを見て慌てて(ちなみに宗暦は以前耳川の件で志賀道輝(親守)共々戦いぶりを道雪に糾弾されたことがあった)

宗暦「この倅は馬鹿者でござる。ここに罷り出るに先立って貴殿はロザリオをお好み遊ばさぬ故に取り外すように注意しておきましたるに取り外すどころかこのようにわざと出してみせる始末」
道雪「ご懸念無用。何となれば優れた兵士は初志を貫徹すべきで後退してはなりますまい」

こう言って宗策の行為をやり過ごし宗暦を安堵させたという

ちなみにこのやりとりをフロイスは
「このことから言い得るのは日本人がいかに理性的で答弁にあたっていかに分別があるか、ということである」と評した

キリスト教嫌いな人物には基本ミソカス(例:ラスボス・爆弾正・信玄・宗麟正室奈多夫人)なフロイスから珍しく褒められた道雪の分別



230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 21:35:49.12 ID:f8T0paXC
フロイス「戸次鑑連はロザリオおkだから許す」
道雪「武士なら初志貫徹すべき」

価値観が交わってないけど利害は一致してるだけのような

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 21:54:13.67 ID:Oau9qfpR
豪胆な人が好きなだけでしょ
優男なら罵倒してた

教会だった場所だから

2015年09月18日 16:08

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 13:44:39.01 ID:PRgLiTG6
 豊後の国の国主がある男にキリシタンの教会があった土地を与えた。幾人かの人々は土地をもらった男に
「その土地は元々教会だった場所だから、そこに家を建てると ばちがあたるかもしれない」と忠告した。
しかし、キリシタンと関わりのないその男はそのような忠告など耳を貸さずに家を建てて移り住んだ。
 すると、彼が移住してきた後、短い期間で家中の人間が5人も立て続けに亡くなる不幸が起きた。
家主の彼はこの不幸を恐れて他の所へ引っ越した。しかし、後になって彼はこれではキリシタンたちが
自分の臆病さを嘲笑するのではないかと恐れて、以前は教会だったその家に戻って生活を再開した。
すると、その数日後に彼の長男が喧嘩で命を落としてしまった。さすがに懲りた家主はその家に住むのを
あきらめて家を手放してしまった。
 その後まもなくして、キリシタンではない別の男がその家に自分なら運よく住めるかもしれないと考えて、
色々と災難があったいわくつきの家に住むことを試してみたが、その者はしばらくして らい病にかかってしまった。
それ以後はその家は空き家となってしまい、誰も住まなくなった。
 この話を聞いたキリシタンたちは教会を大切にすべきことを学んだのであった。

       1591、1592年イエズス会日本年報 ルイス・フロイス書簡



332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 16:34:10.17 ID:wv+XnyRG
某日蓮カルト宗教並の胡散臭さ

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 16:54:23.84 ID:Fp8VF3UM
えらく偏狭な神様だなおい

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 17:01:54.22 ID:DNHRvApW
仏教伝来の時も物部守屋が仏像を破壊したら疫病が仏罰で余計ひどくなった、て話があるが
仏でもキリスト教の神でも荒ぶる神にされてしまう日本であった
フロイスも「神罰があたった」とか喜んでないで日本の他の神々と同一視されてることを嘆かないと

フロイス日本史より、岸和田城の戦い

2015年02月01日 17:36

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 21:18:35.19 ID:yxZSJj8x
羽柴がこのたびの戦いのために大坂を出発した後、根来および雑賀と称する仏僧らは、
かねがね自分たちが羽柴から好ましからず思われているのを承知していたので、
彼が戦争から凱旋してきた暁には来襲するであろうと見なし、彼の不在に乗じ、約一万五千名が一団となって出撃し、
羽柴が大坂に築いた新しい都市をすべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。
そして城を占拠したうえは、かつて信長が五年も六年も攻囲したかの僧(=顕如)を再びそこへおらしめることにした。
城と市には少なくとも戦えるほどの者とてはほとんど居なかったのみならず、当時はなお新たに建築中であったので、
城全体が開放されていた。
敵は徐々に前進し、途上幾つかの場所を破壊したり、焼いて行ったりで、四日ないし五日もかかった。
大坂にいた人々は、この有様では市は全滅してしまいまともな物は何一つ残るまいと思えたので、
あとう限り家財や衣服を搬出し、火の手が迫った家屋を放棄した。
市内外の街路には、すでに盗賊が充満しており、物を携えて歩行する者は、ただちに襲われて略奪される外はなかった。
こうした街路での略奪は、かつて安土山が焼き尽くされた時(=本能寺の変)とほとんど同じような様相を帯びるに至った。

当時大阪にはオルガンティーノ師が、いま一人の司祭および二人の修道士とともにいたが、急きょ家財をまとめて乗船することとし、
教会は火勢の赴くままに任せることにした。
もとよりオルガンティーノ師はそこから去るつもりは毛頭なかったが、キリシタンたちは、
「司祭らはたとえ同所に残留したとて不必要に死ぬだけであり、自分たちに多大の苦痛と悲嘆を及ぼすに過ぎぬ」
と言って退去することを強要したからであった。

この状況下に、羽柴は和泉国のキシワダという城に六、七千名の兵を率いる一司令官を配置した。
この司令官はすこぶる勇敢で著名であり、名をマゴイチ(=孫一、中村孫平次一氏)と称した。
そして同城は敵が必ず通過せねばならぬ道にあったのだが、敵は羽柴がそこに守備隊を置いていることを知らず、
実際に彼らが味わうことになったような強硬な抵抗のことを予想していなかったので、城は容易に奪取できるものと考えていた。
だが孫一は全軍を挙げて攻撃に出、敵に非常な損害を与え、短時間に四千余名ほどの敵兵を殺戮した。
五畿内においては、自らが討ち取った敵の首級を指揮官に差し出す習わしであったが、各兵士はすでに疲れていたので、
敵兵の耳だけを切り取って行った。
こうしたことは敵兵が大坂に到着する五、六里手前で起こったのであるが、
後方から進んできた連中のこの敗北はただちに大いなる反響を生むに至り、
前方を進んでいた連中は失望落胆して急ぎ引き返した。
彼らに対しては、足が悪い者や片腕の者、さらに老人や少年たちまでが立ち向かい、
彼らは勇気百倍して敵兵を片端から殴殺して行った。
もしも彼らに(夜間が迫るというような)都合の良いことが生じなければ、ほとんど誰も逃れることはできなかったであろう。


フロイス日本史より、>>609と同じ戦いの様子



616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/01(日) 09:02:54.29 ID:LLpilcH7
>>613
非常時に盗賊が跋扈するって見るたびに、やっぱりそれが普通でいまの日本人が世界的に見ても異質なんかなあと感じる

フロイス書簡から、柴田勝家の最期

2015年01月20日 18:43

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/20(火) 15:42:47.78 ID:0TlXsLFW
もうすぐセンゴクの勝家が死にそうなのでフロイス書簡から勝家の最期

六月三日、羽柴は勝利を保ちつつ全軍をもって越前国に侵入し、
柴田がわずかな手勢と共に逃げ込んだ北庄の城を包囲するに至った。

彼はすでに六十歳になるが、はなはだ勇猛な武将であり、また一生を軍事に費やした人である故、
広間に現れると彼に侍していた武士たちに向かって、
「予がここに入るまで逃れてきたのは武運によるものであって、予が臆病なためではないが、もし予の首が敵に斬られ、
 予と汝らの妻子や親戚が侮辱を受けるならば、我が柴田の名と家を永久に汚すことになる故、
 予はただちに切腹し、この身は敵に発見されぬよう焼かせるであろう。
 もし汝らに敵の赦しを得る術があるならば、その生命を永らえさせることを予は喜ぶであろう」
と簡明に語った。

一同、
「武士のみならず、その妻子までがことごとく必ずや彼に倣い、来世まで随従するであろう」
と答え、柴田はこれに対し、
「汝らが速やかに決心し、予と同じ意志であることを大いに喜ぶが、
 ただ心苦しく思うのは汝ら一同の予に対する愛情に報いる術がもはや今生においては得られぬことである」
と言った。

そして彼は数多くの馳走を運ばせて彼らに振る舞い、酒を飲んでは楽器を奏して歌い、
大いに笑い楽しむ様はあたかも戦勝祝いか、夜を徹しての宴のようであった。
城の各部屋と広間にはすでにたくさんの藁を積み、戸も窓もことごとく堅く閉じ、
城を包囲する敵に向けて城内から銃を一発も撃たなかった。
城外の兵士らは内からまったく武器の音がせず、陽気な歌声が盛んに聞こえてくることに驚いた。
事ここに至って柴田は藁に火薬を撒き、家屋が燃え始めると誰よりも早く、信長の姉妹で数ヵ月前にめとった妻と
その他一族の婦人たちを殺し、続いて短刀で己の腹を十字に切り、その場で息絶えた。
他の武士および彼と共に内にいた残る人々も皆、同様にまず己の愛する妻子を殺した。
すぐさま前述の歌に代わって、はなはだ大きな悲鳴と鳴き声が聞こえ、燃え広がる炎が生ずる音よりも高く恐ろしげであった。
彼らは幼い子供たちの年齢や涙を少しも顧みず、全員を殺した後、ある者は自らの手で、またある者は互いに差し違えた。
そして、この痕跡を消すべくただちに火の手が回り、同署にあった憐れむべき亡骸を焼き尽くした。
羽柴やその他の敵に城内で起こったことを完全に知らせるため、柴田は死ぬ前に諸人から意見を徴した上で、
話術に長けた身分ある老女を選び、右の出来事の一切を目撃させた後、城の裏門から出して敵に事の次第を詳しく語らせた。
こうして、信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人がこの地で滅び灰に帰した。




1605年、秀忠将軍就任の様子

2015年01月19日 18:40

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/18(日) 16:51:17.76 ID:+li5LsnP
日本に平和が存在することはすこぶる稀なことで、それは毎年奇跡と見なされるほどある。
それゆえ将軍、すなわち公方、内府様(徳川家康)がそれら諸国のすべての絶対的君主となって以降、
既に数年にわたってそれを享受していることは極めて大いなる奇跡である。
彼は、大将軍としての勇気、気力を欠くわけではないが、すこぶる思慮に富み、生来安寧を愛するので、日本帝国の統治を巧みに行い、
誰も彼に対して敢えて頭を上げぬよう、万人を制御して帝国を平和のうちに維持し保持するのみならず、
また領主や個々の殿たちの間に、かつてあったような軋轢や不和が生じないようにしている。

そして、その前任者、太閤の息子で若君豊臣秀頼様
(その父の死によって、内府は若君の最高後見人となり、成年に達した暁には帝国を譲渡することになっていた)に関しては、
こうなるのではあるまいかと思いながらも、彼がいかなる決断を下すか判らないために、これまですべての人を不安がらせていたが、
本年、決意を明らかにし、帝国を己のものとして占奪するだけでなく、自らの一族のうちに永遠に留めることに決めた。

これゆえ、己が世襲の領国である関東諸国から息子を上洛せしめた。
次男ではあるが、彼に将軍あるいは公方の称号を与え、自分の死後は帝国を相続するよう、彼を嗣子かつ相続人にしておいたのである。
この若君は、その国だけではなく近隣諸国のすべての領主を伴い、七万の戦士とともに来た。
この随行者たちをひきつれて、父が待っている都に近い伏見の政庁と城に到着した。
南方の諸国の他の多くの領主たちがその地から彼を迎えに出た。
こうして、このような盛儀をこらして都に入り、多数のいともすばらしい兵士たちを華々しく披露した。
彼らは様々な衣服や衣装を身に纏い、落ち着き払っていて、ヨーロッパにおいてさえ一見の価値のあるものであったろう。
数日後、内裏の手から将軍の称号を受けに行ったが、受けようとしている称号が要求するところから
(ここ、我らのヨーロッパで皇帝が教皇の手から帝冠を受けに行くのと同じように)
衣裳のみならずそのような儀式において習いとなっているその他の位階章にいたるまで、
都に入った時よりもさらにいっそう豪華絢爛であり、万事において整然と秩序立っていたので、これを見たすべての人をすっかり驚嘆させた。

しかし、さらに驚くべきことは、すべてがきわめて平穏かつ冷静に行われたことである。
息子とともに来た者、父のもとにいる者とで十万以上の兵士が集まり、
またこの盛儀の模様を見物のために至るところから集まったの他の人々は無数にのぼるにもかかわらず、
その盛儀の続行中と、さらに新将軍が政庁にとどまっている間、ずっと、騒擾、混乱、喧嘩、抜刀騒ぎも、
傷害沙汰も見られなかったことは、どのようなキリスト教団にあっても奇跡的なことと考えうるが、日本においてはなおのことである。
このことはすべて、老将軍がその逆のことを厳罰を持って禁じ、良政を施し秩序をもたらしたがゆえである。

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/18(日) 16:53:58.17 ID:+li5LsnP
老将軍(家康)が、息子(秀忠)をこれほどの権勢と盛儀をもって新たな称号を受けるために召喚させた理由は、
老将軍が言っていたように、往時の日本の君主源頼朝が、同じ将軍の称号を授かるために同様に関東の諸国から都へ独自の仕方で上ったのに倣うためであったが、
その真の理由は、誰もが信じているように、太閤秀吉の息子である若君(秀頼)から大坂の城と街を奪い取り、
これによって、かつて自分の父のものであったその帝国をいつの日か相続したいという、若君がまだ抱いている希望を断ち切るためであった。
(中略)
若君はこのたび、帝国を相続することにはならぬことを悟ったばかりではなく、以前有していた勢力が大いに減少した。
その証拠に、彼の同盟者であり熱心な支持者である数人の領主たちが、もはや彼、その人に期待も頼りもしないかのように、辞去の挨拶もせずに自領に戻ってしまった。

このことにはデウスの正しい裁きが欠けてはいない。
なぜなら、彼の父(豊臣秀吉)が、主君で前任者の偉大な織田信長の後継者嗣子(秀信)に同様のことをしたからである。
彼もまた、信長の子(孫)の後見人になり、帝国を奪い己のために横奪した。
そうしてまたデウスは、若君の父秀吉がキリストの御名の、きわめて邪悪でいとも激しい迫害者かつ敵であったところから、
悪事において父を模倣せぬよう、彼が帝国を相続することを許し給いはしなかったのである。

(イエズス会年報集)

宣教師から見た1605年の秀忠将軍就任の様子。




574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/18(日) 19:35:04.37 ID:4VBmSEFc
さすがにこの時点でのイエズス会は、後に徳川幕府の鎖国、禁教政策が
秀吉時代より苛烈になるとは予想だにできなかったんだろうな。

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/18(日) 20:20:28.08 ID:J+O67atp
島原の乱があったからなあ

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/18(日) 21:44:29.51 ID:01UDUlbA
どっちかというと、イギリス・オランダの進出が原因だろ

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/19(月) 13:37:36.58 ID:74L6HPrm
>このことにはデウスの正しい裁きが欠けてはいない。
>なぜなら、彼の父(豊臣秀吉)が、主君で前任者の偉大な織田信長の後継者嗣子(秀信)に同様のことをしたからである。
>彼もまた、信長の子(孫)の後見人になり、帝国を奪い己のために横奪した。

こういう見方は当時から存在したんだな。
もうみんな信長の頃のことなんてすっかり忘れてると思ってた。

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/19(月) 21:04:01.49 ID:O2bO8PMr
(既存の仏教勢力を牽制する都合上)信長が宣教師を優遇したこともあり、
イエズス会は信長を称えるとともにその織田政権を簒奪した(と彼らには見える)
秀吉に対し批判的だったんだろうな。

足利義輝の母について

2015年01月18日 17:13

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 19:10:21.80 ID:A1D2OVqA
足利義輝の母について
「仕えている侍女たちは、ヨーロッパと何ら変わるところはない。
ただ荘重さのために、髪を引きずって後から取らせ、一パルモか二パルモの長さだけ、地上に靡かせている点が
異なるだけである。
私には公方様の母君は修道院の女子修道院長のように、他の家の者達は修道女の教団のように見えた。
というのは、その屋敷の静寂、節度、それに秩序が大いなるものであったからであり、とくに公方様の母君が
阿弥陀像の、大変美しく、珍しい装飾を施した礼拝堂を背にしており、その阿弥陀像は幼子イエスのように
彩色され、金の冠と光背を頭にした大変美しいものだったからである」

ただしフロイスが「幼子イエスのように」としているのは宣教師として言語道断ということで「少年のように」
に変えられたらしい。
新井白石も「キリスト教ではロザリオだの洗礼だのやるそうだが、数珠と潅頂の影響だろう」
とかキリスト教と仏教の類似を指摘してたなそういえば




フロイスの仏教の印象

2015年01月18日 17:13

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 19:04:01.58 ID:A1D2OVqA
フロイスの仏教の印象
「釈迦は八千人の弟子を持ち、その人数の中から彼に従い、常に同行する十二人を選んだ。(中略)
彼の死後、宇宙の総ての生き物が集まって彼の死に涙を流した。
そして彼の十二人の弟子の中から四人が彼の障害、奇跡と苦行について記すべきテーマを取り上げた。
彼ら(四人)は阿難、迦葉、目連、舎利弗と呼ばれる」
「悪魔は彼らにいくつかの事柄においてキリスト教のそれに酷似している外面的な儀式を与えることに尽力した。
そのことでわれわれが彼らに説いていることと、彼らの有していることとは、総て同じ一つの事柄である、
しかしながら、深く聞くときはたちまち混乱してしまうのだというようになった。
彼らは三位一体にして一つである阿弥陀、そして釈迦は十二人の弟子と彼の生涯についての
四人の年代記作者を持つほどの無限の奇跡をもった人類の救い主であるというのである。」




将軍足利義輝側室、小侍従殿の最期

2015年01月17日 17:16

262 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/16(金) 21:56:54.43 ID:uH5L2ZRf
永禄8年5月19日(1565年6月17日)、三好三人衆や松永久秀による将軍・足利義輝の暗殺、
いわゆる「永禄の変」が起こる。三好勢は将軍義輝を殺すと、その刃は関係者に向かった

『三好殿はあらゆる物を焼きつくし、宮殿の一部たりとも残さないようにと命じた。
都における動乱と残虐行為は非情なもので、それを見たり聞いたりした人々に少なからず憐憫の情を催させた。
すなわち、公方様の家臣なり友人は、どこで見つかろうと直ちに殺され、その家財が没収されたからである。
さらに三好殿は、公方様に仕えていた人々が住んでいる郊外一里の所にあった二ヶ村を侵略し破壊するよう命じた。

(中略)

公方様の婦人は、実は正妻ではなかった(側室の進士晴舎娘・小侍従殿)。
だが彼女は懐胎していたし、すでに公方様は彼女から二人の娘をもうけていた。また彼女は上品であった
だけでなく、公方様から大いに愛されていたので、近日中には彼女にラィーニャ(奥方)の称号を与える
事は疑いないと思われていた。何故なら彼女は、既に呼び名以外のことでは公方様の正妻と同じように
人々から奉仕され敬われていたからである。
彼女はこの変による火災と混乱の中、変装して宮殿から逃れ得た。

謀反人たちは早速数多くの布告を掲げ、彼女を発見したものには多額の報酬を取らせ、彼女が身籠っており、
男児を出産すればいつしかその子は成長して自分たちの大敵となりえるので、是が非でも彼女を殺さねばならぬと
言っていた。

その報酬の約束が煽った貧欲の力、もしくは科された刑罰への極度の恐怖心は、いとも高貴で今は寄る辺ない
夫人に対して、当然抱かれるべき人間らしい感情や憐憫に勝ったらしく、彼女の居場所はたちまち暴君たちに
告げられた。彼らは彼女を、都の郊外の何処かで殺すように命じ、彼女を乗せる為のリテイラ(駕籠)を
彼女のところに遣わした。

この不当な命令を執行することになった人々は、彼女にこう言った
「御台様はもはや都にお留まりになる事、叶わなくなりました。よって別の所にお移り頂くため、この駕籠が
届けられた次第でございます。」

彼女は郊外の一寺院に籠っていた。そしてその知らせがもたらせるとただちに、三好殿と霜台(松永久秀)が
自分を殺すように命じたのだとはっきりと悟った。そこで彼女は紙と墨を求め、当時まだごく幼かった
自分の二人の娘に宛てて、非常に長文の書状をしたためた。それは後に、これを読んだ人々すべてを感動させ、
読み聞かされた者は誰しも皆涙を流した。ついで彼女はその書状を封じ、晴れ晴れとした顔つきで僧院を出、
仏僧たちに対して、自分がその僧院でいとも親切に迎えられたことや、三日間というもの、そこで客遇され
敬意を表せられたことに感謝した。

そこから、三好の使者たちは彼女を駕籠に乗せて、都から約半理隔たった東山、すなわち東の山にある
知恩院という阿弥陀の僧院の方向へ連れて行った。そして彼らが四条河原と呼ぶある川辺に来た時、
彼女は同行者たちに
「あなた方が私を殺すことに定めている場所はここなのですか?」
と尋ねた。彼らはそれを否定し、「安心されよ」と言った。そして彼女は知恩院に導かれると喜んだ、
というのは、彼女にとってそこで死出の準備をするのは非常に好都合だったからである。
内裏の親族で、甚だ高貴な僧侶であった同僧院の長老が彼女を出迎えると、彼女はその人に次のように語った、
それはそこに居合わせた人たちから、後で報じられた。

263 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/16(金) 21:57:31.97 ID:uH5L2ZRf
「尊師はおそらく、今私を、このような有り様でご覧遊ばすとは、よもやお考えにならなかったでしょう。
ところで、この度の事は私の名誉にとってひどい仕打ちでありますが、公方様も宮殿もあのような惨めな結末と
なりましたからには、私一人この世に留まることは相応しくありません。さらにまた、私が公方様に
こうして早々とお伴出来ますことは良き巡り合わせと存じます。そして何にも増して、私に喜びをもたらし
お頼り出来るのは、まもなく阿弥陀の栄光のもとに公方様と再会できるという思いでございます。
そして私は身重でありますから、生きながらえる間に私がある重い罪を犯したことは疑いを容れません。
そのために私がこのような死を遂げることは、多分相応しいことだったのでございましょう。」

次いで彼女は自分のために葬儀を行ってくれるようにと僧侶に懇願して、袖から86クルザードの価値がある
金の延棒2本を取り出し、纏っていたマント(上衣)を添えて、布施として差し出した。

その仏僧は次のように答えた
「拙僧は修行者でありながら、御台のご様子、並びにご事情に接しますと落涙を禁じえません。
さりながら公方様は、先に述べられたように身罷り給い、そのお世継ぎも運命を共に遊ばしました。
御台の公方様に対する愛情はいとも深いものがあったからには、御台が公方様のお伴をお望み遊ばされるのは
いかにもご尤もと存じ上げます。御台のご葬儀とご供養の儀は、拙僧しかと相果たします。

御下賜のご布施は、拙僧の末寺の間に分け施し、その諸寺においても大いに心をこめて供養を相務めるでしょう。
これについて、ご安心遊ばされたい。」

ついで彼女は阿弥陀の名を十度唱え、その仏僧から、十念と称されている罪の完全な赦免を受けた。
それから彼女はもう一度阿弥陀の祭壇の前で合唱して祈った。そして彼女がある知人の墓を詣でようとして
寺院を出た時に、彼女の首を刎ねることになっていたナカジ・カンジョウという兵士が抜刀して彼女に
近づいた。彼女は時至ったことを認め、跪いて阿弥陀の名を呼んだ。そしてその兵士が来ると、公方の宮廷の
習わし通り、束ねないでたらしていた頭髪を、兵士は片手で高く持ち上げた。

ところが、彼が彼女の首を刎ねるつもりで与えた強い一撃は、彼女の顔を斜めに切りつけた、
小侍従殿と称されたこのプリンセゼ(奥方)は言った

「御身はこの勤めを果たすためにまいられたのに、いかにも無様でござろうぞ!」

そして第二の一撃で、兵士は彼女の首を切り落とした。

かくてその後の日本人たちは、彼女は身重であったから、その再二人を殺したことになると言っていた、
彼女が懐妊していた子供は生まれる前に殺されたのである。そしてその場に居合わせた人々の内、
この悲惨な情景に多くの涙を流さぬものは一人としていなかった。
ルイス・フロイス「日本史」)

将軍足利義輝の側室、小侍従殿の最期の模様である。



265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 01:43:31.56 ID:cQ0PWvRE
しかしフロイスの記述は臨場感溢れるものが多いな

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 02:26:54.33 ID:PzY251zO
小説家になれる才があるよ

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/17(土) 14:18:26.67 ID:mjMt0GNe
フロイスはヨーロッパの「上流階級婦人の処刑シーン」の定型をそのまま当てはめたのでは。
将軍を皇帝に、僧侶を牧師に、阿弥陀をキリストに、名前も欧風にしたら、そのままヨーロッパでも通じるんじゃないか。

悪魔に対するその奉仕と報い

2015年01月03日 16:05

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/02(金) 18:08:40.62 ID:Gq+up1P0
彼(織田信長)の息子で城介殿と称する嗣子(信忠)は、その領地で司祭たちを援助し、教会を建てるために
地所を提供したり、彼の町である岐阜に、大いなる十字架を建てるために広場を提供するなど、従来
我らに対して深い関心と愛情を示してきたが、時勢に順応し、父を喜ばせるためか、あるいは同じく
悪魔に欺かれてしまったためか、父とともに甲斐国の(武田)信玄(原文ママ)を討伐して帰還した際、
彼の地で大いに尊崇されていた一つの偶像を持ち帰り、尾張国に安置して礼拝することを命じた。

そして都に着くと、同所から3里のところにある愛宕と称される山にある悪魔に二千五百クルザードを
献納した。さらにその悪魔への深い信心から、それに捧げる一種の犠牲の行として、自らの邸で裸と成って
全身に雪をかぶる苦行をした。

だが、(後述するように)その後3日以内に、悪魔に対するその奉仕の報いを受けるに至った。

ルイス・フロイス『日本史』)

ルイス・フロイスによると、織田信忠は愛宕信仰をしたせいで滅んだ、という一節である。



146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/03(土) 03:17:28.30 ID:mE4vCnu/
火伏せの神を信仰して焼かれるなんて・・・悪い話だ

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/03(土) 03:50:50.09 ID:mLMtRA7c
フロイスって世話になった人の死の評価がワンパターンすぎるわ

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/03(土) 04:17:47.76 ID:ICxvv49Y
本能寺の変の3日前に雪かぶるだと…!?
ちうか光秀も愛宕参りの後で謀反してんですけど

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/03(土) 05:48:53.65 ID:3fJmV1yx
>ちうか光秀も愛宕参りの後で謀反してんですけど

フロイス「それゆえに光秀殿も三日天下に終わったのである(キリッ)」

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/03(土) 09:17:29.95 ID:bhN1cEvu
織田が滅びたのは悪魔崇拝のせいじゃなく織田自体が悪魔だったからという視点が必要だったね

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/04(日) 13:44:54.34 ID:cZ8z38P+
フロイスって批判はあるけど
絶賛内戦中の外国に飛び込み
現地で言語習得して布教活動しつつ
各地の軍閥首領と渡をつけ、信者ネットワークを駆使して
歴史を記録したわけだよね。
逆の立場で日本の坊さんがフロイスの故国(ポルトガル)へ飛び込んで
王室貴族とコネを築きながら、ホトケの教えを広め
ついでにアヴィス王朝期の貴重な資料を残した
と考えると、凄さがわかるな。
恐ろしい程の行動力&人間力。

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/04(日) 19:46:57.00 ID:WfjTn4b5
唯一の神を信じない蛮族を改宗するのが使命だと思い込んでるもの

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/04(日) 20:28:26.25 ID:xhdNdy6x
今後しばらくは無駄に行動力があるクソの国の人たちに
搾取される歴史が待ってる模様

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/04(日) 20:54:21.83 ID:RFWcf3wF
侵略の尖兵だもんな そんなことも見抜けない間抜けが謀反で死んだ

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 01:03:30.16 ID:iHsdU/kN
鎖国下の日本に潜入したイタリア人宣教師シドッチは獄死したけど
バチカンは殉教者扱いしてなさそう

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 09:43:21.85 ID:P/HlvxUu
>>154
さすがラスボス

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 12:16:03.52 ID:kxfkaLKR
フロイス日本史から筆者のマメで真面目な仕事するけど、どこか偏った感じを受ける
その辺の頑固で努力家なところが武士の気質に似てて上手く馴染んだんじゃないかと思う

祇園祭と堺の住吉祭

2014年12月28日 17:01

447 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/12/28(日) 14:04:17.50 ID:AJh1pVvj
この都の市内では、古来、神や仏に対する畏敬から盛大な祭りが行われていた。それらの幾つかは、人々が語るように
華麗さ、外面的な費用においては甚だしく以前に比べ劣るとはいえ、今なお行われていた。
第6月の15日には、ギオン(祇園)と称せられる偶像を敬う祭りが催されるが、それは都の郊外に、多数の人が訪れる
霊場を有し、次のようにして行われる。

祭りの数日前に、各町内とその職人たちに、祭りの当日持ちださなければならない出し物が割り当てられる。次いで
当日になると、朝方、無数の群衆がこの祭りを見物するため都に殺到してくる。また別の人達は祭りに参加することを
誓約したためにやって来る。
そして一同は行列のようにして繰り出す。その行列では、先ず上部に甚だ高い舞台が設けられた15台、もしくは
それ以上の車が行く。
それらの車は、絹の布で覆われているが、既に古く長く使用されたものである。そして舞台の真ん中には非常に高い一本の柱がある。
その車は二階、または三階で、その各階には高価な絹衣を纏った、都の市民の子供達である大勢の少年がいる。
彼らは楽器を携えており、そうした装いで演技をしたり大声で歌ったりする。その一台一台の後から自分の職業の
しるしを持った職人たちが進み、皆、槍、弓、矢、薙刀(すなわち甚だよく作られた鎌の形の半槍のようなもの)を持ち、
本当に兵士がそれに続いて行く。

これらの大きな舞台付きの車が通過すると、他のより小さな車が続く。その上には、立像によって日本の古い
歴史上の、幾多の故事や人物が表徴されている。(日本人はそれらを非常に上手に製作する。すなわち彼らは
万事において非常に器用であり、甚だ完全で精巧な仕事をする。彼らは自然の偉大な模倣者であって、そのような
仕事に携わるのである。)
かくて彼らはこれらの車を曳いて朝方、この祭りを奉納する祇園という偶像の所に行き、そこで午前を過ごすのである。

午後、彼らは非常に立派に飾られた大きな輿を持って神社から出る。多数の者がその輿を肩に担ぐが、その中にかの
偶像があると言われる。民衆は皆頭を下げつつ双手を上げてこの輿を拝む。そしてその時には、例え酷暑であっても、
誰も帽子をかぶったり扇子を使ったりすることは許されない。何故なら輿に先行している大勢の下賤の者がそうした人を
見つけると、その頭を棒で殴りつけるからである。
その後方から別の一台の輿が来るが、人が語る所によれば、それは祇園の妾の輿だと言われ、それから銃の一射程
ほど離れて一定の位置に、祇園の正妻の輿と言われるものが来る。ここにおいて、正妻の妾に対する嫉妬と悲哀なる
ものを表徴して、幾つかの滑稽な儀式が行われる。彼らはこのような盲目的な愚行を演じて、その午後を過ごす。

そして日本人は自負心が強く、また群衆の数が夥しいので、この行列の際にはごく些細な下らぬことから喧嘩や騒動が
起こり、その際、通常は多数の負傷者が出て、幾人かの死者もでる。

448 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/12/28(日) 14:04:50.43 ID:AJh1pVvj
堺では7月29日に、住吉大明神という神を祀る別の祭りがある。人々の語る所によれば、住吉大明神は昔、
日本最高の国主である内裏の侍臣であったと言う。そして人々は彼をサント(聖人)とみなし敬慕していたので、
彼のために堺の郊外約半里の所で、現在堺市の人々の行楽地となっている広野に、大きく、かつ多数の社を建てた。
ただしこれら多くの社は、織田信長と大阪(本願寺)の僧侶たちとの間に戦争が行われていた時代に焼かれてしまった。

人々が住吉大明神を祀るのは次のようである。当日午後、人々は銃の位置射程半以上の長さがある堺の
一街路に赴く。
両側とも壁や門は全て小さい材木を互いに結んだ柵を一面に張り巡らせる。それはこのような祭りの際に、常に
起こりがちな騒動に備えるためである。その柵の内部で、人々は行列を眺めるのである。

そうした準備が済むと、半里離れたかの住吉の社から、両手にモンタンテ(刀)を携えた偶像が騎乗してくる。
その後から、弓と矢を入れた箙を携える小姓が続き、その後方を、手に鷹を持った別の者が続く。彼らの後から
徒歩や騎馬で偶像の伴をする大勢の人達がやってきて、この人達はみな武器や武具を携え「千歳楽、万歳楽」、
すなわち千年の喜び、幾千万の楽しみという意味の言葉を唱えながら歌い、かつ踊る。彼らがかくも喜悦して
これを唱えるのは驚くべきことである。
多数の馬が進むが、それらは相当離れており、それぞれの間隔は約三十人分の余地があるほどである。
驚くべき大群衆がそこに殺到したが、そのうち多くの人々は、この祭りに加わるのに誓いを立てていた。

馬が通過すると神主と称する白衣の多数の僧が、甚だ大きい広い袖の衣を纏い、紙か革で出来た非常に美しい黒の
僧帽を頭にかぶってやってくる。
この後に彼らの女妖術師(巫女)たちが馬で進むが、彼女たちは同様に白衣を纏い、非常に美しく飾り、おびただしい
数の婦人たちに付き添われ、歌いながら行く。
そのすぐ後に輿を担いだ大勢の武装した人達が来るが、彼らの証言によると、その輿の中にかの偶像が入っている
との事である。

この輿はそれを見るすべての人から礼拝され、人々は双手を挙げて大いに畏敬の念を示す。3,40人の者がこれを
肩に担いでいる。
そして人々の後から、いろいろな歌を歌い、「千歳楽、万歳楽」を繰り返す大勢の人がやって来る。彼らはそこから
住吉の社に帰り、かくてこの祭典と行列が終了する。

ルイス・フロイス『日本史』)

フロイスによる、祇園祭と堺の住吉祭に関する記録である。



452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/29(月) 02:59:13.40 ID:3X31JK6m
>>447
さいたま県民だが、秩父夜祭にも祇園とよく似た習わしがあるけど
祇園の牛頭さんにも正妻妾がいるのか

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/29(月) 10:11:00.19 ID:GcCeaQvN
日本の伝統が綿々と続いてることを感じた
現代の祇園祭と比べて違いとかあるのかな?

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/29(月) 20:22:46.20 ID:tDErROi2
>>454
河内将芳さんの本がめっさ詳しいで

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/29(月) 22:35:00.21 ID:GcCeaQvN
>>458

「祇園祭の中世」って本かな
面白そうだけど少し値段が高いね

いかにしてこのように大胆で無謀なことを

2014年12月23日 17:41

78 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/12/23(火) 09:46:23.83 ID:m3haziMA
稀有の熟慮と旺盛な才覚の持ち主でありながら、関白(豊臣秀吉)はいかにしてこのように大胆で無謀なことを
企て、かつ着手しようと考え得たのであろうか。

それ(シナの征服事業)は諸々の話題のなかで、日本中を未曾有の不思議な驚きで覆い、人々の判断を狂わせ、
考えを一転に集中させ、まるで何かに取り憑かれたかのように口にせずにおられないことであった。

事実、それに伴う困難はあまりにも明瞭であり、その危険はいとも切迫したものであった。
そしてそのような考えを人々に強めさせたのは、日本中が彼(秀吉)に対して叛旗する危険があることが
明らかに看取できることであった。何故なら(たとえ現下のように人々が絶対的な支配下に置かれることは、
かつて日本史上前例が無かったにせよ)、関白が日本すべての君侯や武将を専制的に支配している事に対して、
彼らを母国、領地、妻子、親族、家臣から離別せしめ、その悦楽を奪い、祖国から放逐し、生きて再び
帰郷することはほとんど不確実で、まるで眼前の死に向かって直進させるに等しく、明白な危険と災厄に
身を晒させる事とでは、比べ物にならないからである。

以上、第一に上げた多大の困難に加えて、当然のことながら、容易に考えられる、日本中の武将が彼に対して
蹶起した場合に生じる、他のより大いなる障害や非常事態を加える事が出来る。

第二に、日本人はもともと他国民と戦争することでは訓練されていない。
シナへの順路も、航海も、征服しようとする敵方の言語や地理も、彼らには全く知られていない。

第三に、この企ては、海路軍団を派遣することになるが、内陸の海から隔たった地方に住む君侯や武将たちは、
船舶も水夫も、航海に際して必要とする他の手段も持ちあわせては居なかった。

第四に、たとえ財力によって船舶その他、装備に必要な武器、食料、弾薬を購入することを望んだとしても、
彼らに対して定められた期日はあまりにも短く限られていたので、一同絶望的になっており、多くの者は
家人や親密な者との談話の際に、これほど果てしない苦難を冒して、外国の地に死を求めに行くくらいならば、
日本で自害する方がましであると漏らしていた。

しかしこのようでありながら、あらゆる君侯や武将たちは、関白に対する不思議なほどの遠慮と過度の畏怖の念が、
全く信じられぬほど別の方向に作用して、誰一人として、いかなる場合にも自分からは勿論、第三者を通じても
あるいは書面を以ってしても、彼(秀吉)の意見や決定に対して微塵だに反対する勇気や自由を示す者は
いなかった。それどころか、一同は彼の面前では多くの言葉を弄し、『かくも崇高で道理に叶い、時宜を得た
企画を決行することは、高尚な目的を伴う永久に記念されるべき偉業である。』と述べ、その決定を賞賛して
止まなかった。

関白は彼ら一同の内心を実によく看破していたため、多くの人に好意と寛大さを示す一方、時折、
迷える狼のように、不気味な唸りと恐るべき脅迫の言葉を放つことを忘れなかった。彼は、『自分の決定に
あえて背反するような無謀なことを行うものが有れば、その者は直ちに、無思慮故に死滅せしめられ、領土は
破壊されよう。』と語り、一同をこの上ない恐怖心で打ちのめした。

79 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/12/23(火) 09:47:25.81 ID:m3haziMA
日本の諸侯は互いにほとんど信頼しあっておらず、また謀反を企てようと二人で結託することがない。
何故なら相手から密告されることを恐れているからであり、自らの功績と忠誠を口実に、相手の俸禄と領地を
横領しようと考えている者が跡を絶たぬのである。
この為に彼らは胸中では大いに苦悩し悲嘆しながらも、自らの希望を満たし、上記のような諸々の困難を
克服する方法がないので。己の無力さを認めるほかなかったのである。

日本中にシナを征服することが告知されてからは、ある者は船舶を新造しあるものは遠隔の地でそれを造らせ、
他の者は武器弾薬を調達し、または遺産や田畑を処分して支度を整えるなど、その熱意、工夫、配慮は
未だかつて見られぬほどであった。
妻の涙、置き去りにされる子供と家族、こうしたかけがえのない、あまりに非情な離別が産んだ、
深く、そして心の奥底にしみるような悲しみを如実に語ろうとすれば、言語に絶するであろう。

関白は彼らをいっそう鼓舞してこう言った。
『予は日本国王、すなわち天下の君であり、充満する悦楽、財宝、繁栄に囲まれているにもかかわらず、
自らそれらを放棄して世界中で比類なく名誉ある驚嘆すべき企てを、予の力で成就せんと欲している。
一同はこの企てと渡海において予に従い、万一、一命を捧げることになろとも、それは予と共に永遠に
記念され賛美されることになるのだから、その苦に甘んじるべきである。

汝らはその崇高な勇気によって、世の中で最も渇望されている一事業を遂行するのであり、生命を全うし
事が順調に進捗した暁には、新たな征服によって獲得された諸国、俸禄、有利な所領を授与され、
汝らは多大な愉悦の中に、余生を過ごし得るであろう。』

そしてさらに

『例え予の病死した息子(鶴松)が蘇って、予の足元に平伏し、多くの涙を流し父の慈愛にすがって
この企てを断念するように嘆願しても、決して聞き入れることはない。』と述べた。

ルイス・フロイス「日本史」)

豊臣秀吉の大陸出兵に対する、諸侯に反応についてのフロイスの記録である。




方広寺大仏殿の建設

2014年12月14日 17:24

5 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/12/14(日) 01:34:58.69 ID:TQ7YWwsY
かつて日本のミヤコであった奈良の町には、大いなるホトケを意味するダイブツと呼ばれる一寺があった。

既に述べたように、ルイス・デ・アルメイダ修道士が見物に赴いた時に、そこには人々が言うとおり、ひとつの驚くべき
大きさの金塗りの偶像が、建物いっぱいに安置されていた。しかし信長の時代に勃発した戦乱のため、
この寺院は焼失した。
それは日本の栄誉であり装飾でもあったので、仏僧達は諸国から寄付を集めて再建しようと試みたが、集め得た
寄付金は全額にしても僅かであって、後代で壮麗なその事業に着手するにはあまりにも財力が不足し、僧侶たちは
その事業を促進させる勇気がなかった。

元来、関白(秀吉)は自らの名声を誇示し記念するのに役立つような大事業を起こす機会を見逃すような性格では
なかったので、同寺院を再建することを決意した。しかも基礎から新たに建てなおすことに決め、奈良ではなく、
ミヤコの町の傍(南六波羅)に寺院も偶像も僧院の建築物も、形態と規模において最初のものに匹敵するものを作れと
命令した。(方広寺)

寺院は四角い地所の一辺が550パルモもあり、とてつもなく大きく高い一本柱の中には、11パルモ以上の
直径を有するものもあった。
ところでこの偶像(大仏)は背丈が巨大で、寺院が完成しても後から内部に収めるわけにはいかなかったので、
まず中央に偶像を造り、その周囲に寺院を建築してゆくことになった。そして諸国から招集したおびただしい数の
人出を以ってこの広大な建築をいっそう順調に進捗せしめるために、同所に巨大な土山を築かせ、その頂上に
備え付けた巻上機を使って、柱その他寺院の建材を引き上げさせた。
関白殿は、こうした作業が熱心に、また入念に続行されるよう、しばしば自ら現場に出向いていた。

6 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/12/14(日) 01:35:32.86 ID:TQ7YWwsY
かつて都に近い大僧院トウジ(東寺)に、主要なホトケである釈迦に奉献された一つの木塔(五重塔)があったが、
ガスパル・ヴィレラ師が初めて都に到着した数日後に、落雷によって炎上し灰燼に帰した。
日本ではこの塔は極めて有名だったので、関白はそれが以前にあった同じ場所に再建することを命じた。
この円い(どういう意味か不明)建物は非常に高く、九層から成るが、まるでひとつの塔のように全体が上の方に延び、
各層には外に突き出した独自の屋根がついていた。その最期の層から上に延びる、吊り下がった多くの銅の環や
鎖や鈴をつけたひときわ高いマストロ(塔)が壮観を呈していた。

関白はこの寺院、またその他の寺院の再建を命じたとはいえ、それは神や仏に対する畏怖なり信心に
基づくものではなかった。
彼は、これら神仏は偽物であり、諸国を善く治め、人間相互の調和を保つために人が案出したものだと述べ、
神仏を罵倒し軽蔑していた。

禅宗は、現世には人々が言うような神の摂理などはなく、死後の善悪の報いや来世などを認めず、存在するものは、
ただ現世と一つの混沌だけで、万物は腐敗した後にはその混沌に還元し、そこからまた同じものに成り代わると説く
宗教であるが、関白はその宗派の信徒であったので、日本の他の宗派の教えに含まれているものはすべて
欺瞞であると考え、何ら神仏に対しては信仰も信心も有しては居なかった。

ルイス・フロイス「日本史」)

豊臣秀吉による、方広寺大仏殿の建設などに関するフロイスの記録である。




7 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2014/12/14(日) 09:40:47.81 ID:CZIfuca1
パルモ

8 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2014/12/14(日) 10:17:17.04 ID:a2d/vS7G
大仏が残っていたらねぇ....。

9 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2014/12/14(日) 11:19:38.65 ID:bDt38g4p
禅宗は、現世には人々が言うような神の摂理などはなく、死後の善悪の報いや来世などを認めず、存在するものは、
ただ現世と一つの混沌だけで、万物は腐敗した後にはその混沌に還元し、そこからまた同じものに成り代わると説く

禅宗最強過ぎるわ

10 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2014/12/14(日) 11:28:27.55 ID:DzKllLf7
>>8
秀吉時代のは木造のも、秀頼時代の銅製のも、さらに再建された木造のも
全部壊れるというあららな大仏だからなぁ…

11 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2014/12/14(日) 15:20:52.77 ID:8bfiRsXH
霊験あららな仏像か

12 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2014/12/14(日) 16:22:15.22 ID:goa6f51u
ラスボス「役立たんやないかボケェ(弓パスー」

13 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2014/12/14(日) 17:32:46.86 ID:a2d/vS7G
>>10
加えて方向寺というと鐘銘事件だもんなぁ

14 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう[sage] 投稿日:2014/12/14(日) 18:41:08.59 ID:anmDaWXz
>>9
どことなく科学っぽさがある

悪魔は早速自分の仕事をやり始めた

2014年12月09日 18:53

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/09(火) 06:59:52.34 ID:uKneZsTT
永禄十二年、将軍義輝を奉じて入洛した織田信長がフロイスと面会することになったときのこと

パーデレもキリシタン達も暢気にしていられないように、悪魔は早速自分の仕事をやり始めた。
それというのは、先ず第一に、まえに公方様を殺してパーデレを追放した松永霜台(久秀)は、信長やかの殿たちが皆パーデレに示した歓迎
を見たときに、
 
「パーデレが説くあの忌まわしい教えが伝わる所はどこであろうと、忽ち国も街も破壊されるということはこれまでにあれほ
明瞭に経験したことであるのに、どうして殿下が御命令になるのか、呆れるばかりである。」

と信長に言った。すると信長はそれに答えて、

「霜台、歳も長け、思慮もある其方が、かくも小心臆病であることを予は呆れておる。たった一人の異国の者が、この大きな国ではどんな
害悪をなすことができるというものか。それどころか、ここで自分の教えを説くために、かくも遠方から、またかくも遠い国から一人の男
がやって来ることは、かほどまでに多くの宗派が存するこの町にとって名誉なことだと思われるのだ。」

 信長に不機嫌な顔をされると、その者はもう一言も言えず、もう目も上げる勇気もなかった。それで、霜台は一言も答えず黙り込んでし
まった。
 こういう反対者達は仕返しをせずにはいられないものなので、信長は霜台から日本にある最良で最も価値の高い茶の湯の器を奪った後
で、彼と息子を彼らが強奪した大和国から追出して、河内国の山間、信貴山に移させた。そうして、そこでも彼らの悪意が止まらなかった
ので、信長は彼らを殺すことを命じた。しかし、襲撃を受ける前に、霜台は城に火を放ち、城中にあった全財産、婦女もろともに、生きな
がら焼け死んだ。しかし、息子は助かる途も見出すことを期待して窓から飛び降りたが、脚を折り、忽ち敵方がやって来て、彼を完全に殺
した。
(ルイス・フロイス『日本史』)


平蜘蛛は無事だったみたいですね




978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/09(火) 07:07:39.75 ID:2V9S/OTD
ここで取り上げたってのは九十九髪茄子だろ

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/09(火) 08:18:40.22 ID:lVwjUkjr
切支丹が一向宗と同一視(一揆という意味で)されるようになった後の世からすると霜台の危惧は当たっていたと考えるべきでしょうね
彼の家臣に切支丹に改宗した高山・結城などがいるのでその影響力は肌で感じていたと考えられます

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/09(火) 18:25:37.33 ID:MIVD3f6y
いや、坊主から金もらって言ってただけで全く関係ないよ
この時点でのキリシタンの数からしても

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/09(火) 22:50:24.09 ID:PpDqgtbf
将軍義輝を奉じて
まえに公方様を殺して

さすがフロイスさんやで

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/09(火) 23:55:38.58 ID:lVwjUkjr
>>980
買収されていた証拠はあるのかい?
それに有識者の改宗は意味があると思います
領主なら尚更

日本もそれと同様にあるべきである

2014年11月29日 18:47

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/28(金) 23:07:44.07 ID:yBa/RiIY
(関白豊臣秀吉は、インド副王への返書及び贈答品について諮問するため、ジョアン・ロドリゲース修道士らを
呼び召した)

彼らが入ったあと、関白は多くの質問をし始め、様々な事を語ったが、つねに修道士の答弁に
満足の意を表した。関白はこの件に関して今まで何も聞いていなかったのだ。
また関白は修道士に、先に出されたキリシタン追放令に対し

「伴天連たちにはもともと罪はなかったのだが、彼らの門弟である一部のキリシタン諸侯が、それぞれ
度を越えた信仰熱から、己の家臣を無理やりキリシタンにするという、甚だ慎重さを欠いた行為に走ったため、
伴天連追放という事態に立ち至ったのだ。」

と述べたほどであった。そのことで関白は、諸侯に勧めてその家臣を挙げてキリシタンとさせ、神と仏の社を
破壊したジェスト(高山)右近殿に何か咎を帰せしめようとしている様子であった。
だかそれは右近殿の罪どころか、むしろ彼の大いなる名誉と見なされるべき事であり、また事実
その通りなのである。

関白はまた、インドでは皆、誰もがキリシタンなのかと尋ねた。
修道士はそれに
「インドは大国であり、幾つもの宗教が在って、なりたいものだけが自由にキリシタンになる。
また自ら進んで帰依したいものだけがこの教えを奉ずるに至るので、司祭たちは至る所でこの教えを
説いているが、誰もその教えを悪く思いはいたしませぬ。」と言った。
関白はこれを聞くと非常に満足した様子で

「日本もそれと同様にあるべきである。
また予はポルトガル人と貿易を継続することや、余がインド副王に、また副王が予に使者を派遣することを
望んでいる。

だが宗教は、各人が従来信じていたものを信じるのが良いのだ。」

更に小声で
「日本では下賤の者がキリシタンになるのは、一向に差支えはない。」と語った。

ルイス・フロイス「日本史」)

キリシタン追放令について、キリスト教側の、宗派への攻撃や強制改宗が問題なのだ、という事を
秀吉が語っている記録である。