FC2ブログ

愛の聖物

2019年10月01日 16:27

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/01(火) 11:41:20.32 ID:LddIaKRI
この地(日本)の人々はその救いのため益のある手段は悉く尋ね知ろうとし、熱心にこれを求める。
故に我等が最も煩わされるのは、祝福せるコンタス(キリスト教徒が用いる数珠)、祈祷のロザリヨ、
御影およびその他聖物に対する要求である。

私はイルマンたちに分与するためゴアよりアビユス・デイ agnus dei(神の子羊、その祈祷書か)を
納めた小箱を携えてきたが、博多の住人にして身分あるキリシタンの老婦人の懇請に応じてその一片を
与えた所、他のキリシタンたちがこれを聞き知ると、彼等の間では一人に与えたものは一同に分け与える
べき習慣であったので、平戸並びに他の諸島より男女を満載した船が日々来て、彼等の言うところの
愛の聖物を彼等に与えることを請うた。

イルマンは一層尊重させるため、アニユス。デイについて長く談義し、然る後に彼等にこれを分け与えた。
アニユス。デイは1500あまりのキリシタンに与えるためにこれを小分けすることを要したが、彼等は
その力に応じ、銅、錫、黄銅または銀を以て聖物器を造り、その一面には茨の冠の中にゼズス jesus の
文字を出し、他面には十字架とその下に釘3本を表出した。

(1564年10月3日(永禄七年八月二十八日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

いわゆるラッキーアイテムを強く求める日本のキリシタンについて。武士の間でもロザリオなどは
鉄砲避けのお守りとして需要があったとか。



232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/01(火) 12:48:29.17 ID:iC9xRpad
ロザリオやメダイ(メダリオン)は原城から大量に出てくる
基本的に吊り下げてた首付近にあるけど頭蓋骨の口中からの出土とかあって戦闘前に口に含むパターンもある
最近は出土した鉄塊からザビエル最古の肖像とかX線検査で分かったりしてるな

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/01(火) 19:26:34.20 ID:1WQXkFRG
でも結末は幸運からほど遠いんだよなキリシタン

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/01(火) 20:56:45.24 ID:enydiUlU
大変な目に遭ったのは上総や

235 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/10/02(水) 04:32:08.92 ID:EwZO+Pdh
>>233
彼らは彼らの信じるパライソへ行けたのだ
きっと幸せだったろう
スポンサーサイト



平戸の王は我等に友情を示したのではない

2019年09月30日 16:13

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/30(月) 14:19:26.60 ID:8QeXwAHH
聖週中、平戸において我等を大いに喜ばせる一事件が起こり、人間には遠方にあると見えても、
デウスは常にその名誉に関することに注目し、裁断を下し給うことを明らかにした。

平戸にヤシマンダケ Iasimandaque と称し、坊主一同の首領たる者があった。これは我が司教、
または大司教に相当する者であった。同人は常にキリシタンおよび信仰の事に対しての主たる
敵であり、十字架が切り倒され、パードレ・ガスパル・ビレラその他パードレが平戸より追放
されたのも彼の力によってであった(永禄元年の、松浦隆信による宣教師の平戸追放)。

ドン・アントニオ(籠手田安経:平戸松浦家重臣)も右の坊主がこの地の身分ある異教徒たちと
親戚関係にあるため、その罪悪に相当する復讐を成すことが出来ないのを非常に遺憾としていたが、
ドン・アントニオが平戸の王(松浦隆信)とともに戦場に在った時、坊主は使者を以て、その寺院二ヶ所と
併合するためにドン・アントニオの所領の地所の一部を彼に与えるよう求めた。ドン・アントニオは
これを与えることを欲さずと答えたが、坊主は甚だ傲慢であり、右の返答を以てその名誉を毀損せし
ものとし、先ず領内に火を放ち、その後数日を経てドン・アントニオの臣下であるキリシタンの家
5,6軒を焼かせた。

ドン・アントニオは陣中に於いてこれを聞き、王に対し、「この上坊主の悪行を容認することは出来ない、
殿下がもし直ぐにこれを罰しないのであれば、戦を中止し自ら行ってこれを罰する。」と述べた。
ドン・アントニオは平戸の王に次ぐ有力者であり、陣中の総大将でもあったことから、これを欠くことは
出来ず、王自身はこの報復を欲せず心中悲しんでいたものの、「彼に対しいかなる罰を加えるべきか」
と尋ねた。ドン・アントニオは右の坊主のためにパードレたちが当国を追われたことを想起し、王に
対して「永久に平戸の各地より追放し、領地および所有品は他に分かち与え、彼をして再び帰還する
望みを断つべし。」と説き、直ぐにそれを実行した。

最も愛するイルマンたちよ、坊主たちがその首領が右のごとく急速に名誉を失墜したのを見て、恥じ、
悲しみ、かつ驚いたこと、キリシタンたちがこのように敵が除かれたことを喜んだことは、これを述べる
詞を知らない。

ただし平戸の王はこれにより我等に友情を示したのではない。ドン・アントニオの存在が必要であったために
動いたに過ぎない。彼は私利のため言辞と動作に於いてポルトガル人を許容しているが、心悪しき人で
ある故に、信仰のことについては敵であり、ポルトガル人に期待する利益が大きくなければ、領内に
パードレおよび会堂を置くことを許容しないであろう。

(1564年10月3日(永禄七年八月二十八日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

フロイスによる、平戸についての報告と松浦隆信についての印象。



471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/30(月) 14:46:28.69 ID:IXM4wh0p
元気ですかー!

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/30(月) 15:39:33.63 ID:lnE85m9J
ドン・アントニオの私服診断


473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/01(火) 19:29:19.18 ID:1WQXkFRG
>>470
当時の長崎はカオスだったんだろうね

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/01(火) 22:44:28.29 ID:XbzXgAoP
191561年に平戸の仏教徒とポルトガルが揉めて武士が介入して紛争起こしてる(宮の前事件)
これにキレたポルトガルが平戸での貿易を中止して
>>468
のように大村氏に取り入って別拠点で布教を進めてる

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/01(火) 23:04:03.05 ID:wbMAJO8B
>>474
ずいぶん最近だな

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 19:52:26.84 ID:eX+Eyt2p
わらた
平戸怖すぎだ

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 21:15:19.14 ID:aHv4gnVl
この13年後にポルトガルでカーネーション革命が起きて、海外の植民地を一方的に放棄するんだよな

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/03(木) 12:44:13.91 ID:jV/+ZZRx
平戸、南島原、大村、長崎と貿易港の変遷も地味に目まぐるしい
キリスト教と組んだ領主が大儲けしつつ既存宗教弾圧するパターン
江戸幕府になって弾圧は攻守逆転するが貿易の利益は独占により更にアップ

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/03(木) 22:47:44.43 ID:l2YNgwxJ
>>478
この辺りの歴史を勉強するのにおすすめの本ありますか?

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/04(金) 20:01:16.15 ID:ow+gqZJT
講談社メチエの「教会領長崎」とか?

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 11:46:50.21 ID:McdmRo5l
長崎もポルトガル人さえ来なければもっと平穏だったろうに

484 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/10/06(日) 06:46:55.39 ID:aRK4TBMs
>>479
各市域の郷土誌

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/06(日) 07:27:05.55 ID:qFzQwGVX
アホな予算削減のせいで郷土史が死にかけている現状は辛い…

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/06(日) 11:39:16.00 ID:/SwpiUyr
>>479
長崎文献社

摩利支天と称する大にして甚だ美麗なる偶像

2019年09月27日 16:25

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/27(金) 14:56:12.80 ID:B2xH82PH
彼(大村純忠)はその兄(有馬義貞)より出陣の通知を受け取ったことにより、翌朝出陣の準備を
整えた後、パードレのもとに人を遣わし、彼とその家臣のためデウスに祈り、またその妻が妊娠して
いる故に、我等の主が安産を与え給うよう祈ることを求めた。

ドン・ベルトラメウ(大村純忠)が出陣した時、途中にて一つの注目すべきことが起きた。
日本人は戦争の神にして、摩利支天と称する大にして甚だ美麗なる偶像を有し、大身の人も
賤しき者も、その前を通る時は地面まで頭を下げ、及ぶ限り自ら卑しくする習慣が有った。
偶像の背後、頭の上にこれを覆うガロGallo(鶏)があった。異教徒たちは疑問ある時に、そのもとに至りて
これに伺うのを常とした。

ドン・ベルトラメウは軍隊を率いてここに到着したとき、部下を停止させて、進んで偶像を取り出して焼き、
次いでその寺院にも火をかけた。またガロをその面前にもってこさせ、剣によってこれに一撃を与え、
「今まで幾度、私を欺いたのか!」と言った。

悉く焼き盡くした後、その場所に甚だ美麗なる十字架を建てさせ、部下一同とともに深甚の敬意を表して
戦地に赴いた。

彼が(前に述べたる如く)我等の主なるデウスのため約束したより多くの事を成した一例は、
その兄の救援のため戦争に臨んだ時、人を領内に遣わし悉く偶像を焼き、また港より1、2レグワの
所にある森より、ポルトガル船に必要な材木を、ポルトガル人の望むまま伐採させるべしと命じて、
これを実行した。また武士等と語り、デウスのことについて疑いが有れば彼に尋ねよ、彼はそれについて
説明する、と言った。

(1563年11月14日(永禄六年十月二十九日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)



或いは彼以前にはかつて見なかった事であった

2019年09月08日 17:13

羽柴筑前殿 Faxiba Chicugendono は日本全国の王 Vo (天皇)より最高の官位と名誉を授けられるため
都に赴いた。すなわち王の次の人である関白殿 Quambacudono となる事であった、信長の努力と勢力、
並びに王に対して尽くしたことも、彼が大いに望んだ右の称号を授けられるに足りなかった。

羽柴は更にその名を高くせんと欲し、老王(正親町天皇)が位を長子に譲るため(実際には孫の
和仁親王・後陽成天皇)、甚だ立派な宮殿を建築した(仙洞御所)。
羽柴は高貴なる大身の一女を養って子となし、実子として父の死後王室を継ぐべき王の孫に嫁しめた
(近衛前久娘・近衛前子)。

羽柴筑前守は甚だ微賤に身を起こし。富貴・名誉及び現世の光栄の頂点に達したが、多数の競争者は
彼が日本の習慣により、車が速やかに廻るように、没落に近づくことを期待している。日本の諸侯は
450年来、絶えざる変革に動かされていたのである。

羽柴筑前殿が右四ヵ国(四国)を占領するため軍を出した時、越中国 Yechu において名を虎之助 toranocuque
佐々成政のことであり、内蔵助の誤り)という他の領主が彼に背いた。彼の領地は70レグワ余り奥地にあり、
羽柴は遠方に居るため攻めて来る事はないだろうと考えた。然るに羽柴は軍隊が勝利を得て四ヵ国より
還った後、途中の労苦艱難を意とせず、自ら六万の兵を率いて彼を攻めた。敵はこれを聞いてその軍勢が
未だ到着する前に降伏し、大阪に到りて勤仕するため、所領の二国をその子に与えることを請い、
その子もまた臣従すると申し出、羽柴はこれを許した。
羽柴が軍隊を率いて北の地方へ行ったため、交盟を躊躇していた他の強力な王侯もまた降伏した。

彼はこのようにして、漸次日本全国の絶対の君とならんとしている。これは今日まで甚だ稀な、
或いは彼以前にはかつて見なかった事であった。

(1585年11月13日(天正十三年九月二十二日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

四国征伐前後の、秀吉についての記事



188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/08(日) 15:37:48.97 ID:g09xnFYg
ファクシバ チクジェン ドゥノ

あまり顕栄でない血統の一貴族

2019年08月28日 16:01

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/27(火) 22:09:29.53 ID:6GqkOQEB
山口の王大内氏(大内義隆)と、その後を継いだ王(大内義長)が死した後、あまり顕栄でない血統の
一貴族(毛利元就)が、智慮と勇気とによりかの十三ヵ国の領主と成るに至った。山脈と日本の銀の
鉱山とを有する石見国 Yuami がその中に在る。この王は生存中常にキリシタンの敵であって、かつて
パードレを国内に入れなかった。彼が死して後に残した三人の男子は皆武勇と才幹の有る者であったが、
国を継いだ長子(隆元)が間もなく死し、後に残った一子(輝元)は未だ年少であったた故、二人の叔父を
後見として領内の支配を委任した。

年長の方の叔父は名を吉川殿 Quicauadono (元春)と言い、年齢は六十歳に近く、金銀の鉱山を有する
沿岸の諸国を納めている、

もう一人の叔父は小早川殿(隆景)と言い、年齢五十歳で、豊後の対岸に在る伊予国を治め、また天下の君
との交渉に任じ、その兄よりも有名になった。ただし両人ともその甥輝元 Teromoto を主君と奉じている。

同人は山口より5日路の安芸国の吉田 Yoxinda という城に居る。かの王たち(約40年前山口に於いて殺された)
の死後、かつて山口には居住せず、副王及び諸役人のみをそこに置いている。織田信長はその死に至るまで
多年この小早川殿と戦い、その信長の総指揮官として実際に戦い、勝利を得て6,7ヶ国を占領した者が、
今天下の君である関白殿(豊臣秀吉)である。

この山口の市(現在1万の人口を有するという)は、破壊されるまで日本で最も優れて人口の多い市であったが、
今は全く、昔の繁栄と異なった状態である。

(1586年10月17日(天正14年9月5日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

フロイスによる毛利についての記述



重大にして過酷なこと

2019年08月26日 18:01

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/25(日) 19:00:51.02 ID:eXuKpPk/
彼(豊臣秀吉)は他の重大にして過酷なことを行った。すなわち、都の平野にある田畑を測量させ(同地の
周囲に寺院を有する坊主の所領であり、これによって多数の市民が生活した)、これを尽く己の有とした。
また彼に属する諸国に大いなる家屋(倉庫)を建築し、そこの糧食を納め、大部分は売って金銀と成し、
その宝庫に納めた。彼の書記官である安威殿(安威摂津守か)の言によれば、毎年売る米のみでも黄金百万を
越えているという。

(1586年10月17日(天正14年9月5日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

秀吉の検地についてのフロイスの書簡の記事



キリシタンはこのような卑しむべきものは見ない

2019年06月21日 16:30

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 00:17:36.40 ID:ktoSxB+q
国王(大友宗麟)にパンヤリヤン Pantaliao というキリシタンの一子(大友親盛)が有る。彼は年齢16歳で、
彼の父の兄弟である叔父(田原親賢 / 紹忍)の嗣子となった。

この田原親賢は先年報告した通り、養子のシマン Simao (田原親虎)がキリシタンと成ったため、これを
廃嫡した人である。

ドン・パタリヤンはキリシタンと成って既に4年であるが、思慮深く性質も良く、殊に良きキリシタンで
あるため、王は甚だ彼を愛している。この人については長く報告することも出来るが、簡略にするため
やだ2,3の事を述べる。彼は臼杵より4日路の城に居て、その叔父が承知しないためわずかに4,5人の
キリシタンの家臣が共に居る。叔父の妨害は甚だしいが、一層信仰を固くし、しばしばパードレ、イルマンたちに
書簡を贈って、常に彼のためデウスに祈ることを請い、その信仰については、これを捨てるならその前に死する
覚悟であることを、我々が疑わないようにと願っている。彼の求めに応じてパードレ一人が告白を聴きミサを
行うため同地に赴いたところ、彼の喜びは甚だしく、寸時もパードレの元を去らず、デウスが天使を降ろし
給うた思いがすると言った。復活祭の日は多数の異教徒に囲まれていて城を出ることが叶わなかったため、
キリシタンの家臣を集めて、立派な祭壇を設けて一同祈祷を成し、諸人の頭には薔薇の冠を置き、頸には
ロザリオを懸けた。終わって彼等を饗応し、貧民に食物を与えた。

付近の異教徒の貴族が彼の居城に来た時、彼に金の屏風を贈った。屏風は内部に木を用い、紙を合わせて
作った物で、日本人が部屋の壁掛けのような目的で使っている。
この屏風には異教徒たちが喜ぶ絵が描いてあったが、彼は難しい顔をしてこれを見、他の点では甚だ立派で
高価なものであったが、その面前でこれを焼かせ、使者には「キリシタンはこのような卑しむべきものは見ない」
と言った。

彼は臣民がキリシタンと成ることを非常に希望している故、デウスの御恵により彼等の君主に成った時には、
必ず皆洗礼を受けること疑いない。

(1584年1月2日(天正11年11月30日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

田原紹忍がキリシタン嫌ったのも、キリシタンが信仰を理由にこの金屏風の話みたいな事するからでは…。



184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/21(金) 16:27:20.84 ID:u/Ny+gN0
>>181
奈多八幡宮大宮司の子がキリシタン嫌いでどこがおかしいの?
仮に彼がキリシタンとなった場合にどのようなことが起こりうるか考えろよ
デメリットしかないと思うけどな

良き老王フランシスコは

2019年06月20日 17:09

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 00:37:47.96 ID:EX6KxfGe
王(大友宗麟)は今(既に通信した通り)臼杵より3レグアのアクミ(津久見)と称する町にいる。
この頃、同所に甚だ良き家数棟を建て、その中にミサを行うべき立派な祈祷書を設けた。
彼は老後の休憩所(隠居所)として世子(大友義統)から、その滞在している地方を貰い受けることを
希望していたが、世子が昨年これを与えたため、ここに移った翌日、イルマン二人を招いて、
同地方に有る寺院三ヶ所にある仏像を尽く破壊し、一つも残らず焼く事を命じたためこれを実行した。

王はまたビセプロビンシヤル(ガスパール・コエリョ)より、同所に駐在するためのパードレ一人、
イルマン一人を請い受け、同地方の二千人を超える異教徒に説教を行わせることとしたが、一部は既に
洗礼を受け、他の者は今教えを受けている。
この町に居た坊主たちには甚だ親切に話させ、彼(宗麟)が既にキリシタンに成っている故、彼等も
キリシタンと成ることを勧め、己(の生活)を支えるに足るものを与えることを約束した。諸人皆これを
良しと考え、今ドチリナを授けられている、

この町は甚だ静かであるため、パードレ一人とイルマン一人が駐在していた小僧院には、豊後の国の
坊主達が木の箱の中に、他の立派な箱を納めたものを宝物として密かに蔵してあった。
この箱には釈迦の教えが、金の文字によって九巻に認められた、甚だ珍しいものが納めてあった。
この書物は彼等の習慣に従って製本され、確実なる文書によれば、これが作られて270年経っているが、
今も新しいもののように見えた。その一巻はインドの管区長に送るが、同所より尊師の元に送り、
坊主達がその宗旨の書物を尊重している事を御覧に供するであろう。

この他に彼等が甚だ珍重する、釈迦の門弟19人の絵を描いた19枚の紙を納めた箱がある、世子が
父なる王にこの地方を譲った後、豊後の坊主達は世子の元へ行き、急いでかの書物と肖像を取り出し、
パードレ達の手に入らないようにすることを願った。この宝物を失うだけでなく、これを焼かれることの
危険があったためである、世子は直ぐに人を遣わして書物と画像を王に請わせたが、良き老王フランシスコは
世子の使者の来る前に使いをイルマン等の元に遣わし、彼等が寺院に於いて第一に取り棄て、又は焼却すべき
ものはかの書物及び画像であると伝えさせた、そのためこの事は既に実行されており、世子に対しては
その使者が遅かった旨を答えた、

右のほか、王はイルマン一人を外の二つの町に派遣し、その住民に説教をさせた、これにより400人余が
キリシタンと成った、

(1584年1月2日(天正11年11月30日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)


うーん…



180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 08:43:33.06 ID:3qib0QTB
庶民から金を巻き上げるアイテムなんだし焼却した方が後々良い事になる

彼は当地において信長のよう

2019年06月19日 15:10

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/19(水) 01:30:36.02 ID:dilkD3xh
柴田殿(勝家)は去る5月22日(天正9年4月20日)月曜日に我等を招待した。彼は越前国の半分以上、
及び征服した加賀全土の王の如き人で、領土及びその兵たちに対しては、当地において信長のようであった。
諸人は彼を上様 Vyesama 、その子(養子の勝豊、もしくは勝政か)を殿様 Tonsama と称していた。

饗宴は立派なもので、我等、すなわちダリヨとイルマン・コスメ、および私は各々食卓3つを与えられ、
私一人、食卓の頭(上座か)に置かれ、我等に対し多くの親愛が表せられたため、縁側に居る武士たちは
驚いた。また高槻から我等と共に来たキリシタンたちを別の食卓に招いた。

彼(勝家)はヨーロッパ並びにインドのこと、および尊師(イエズス会指導者)について色々尋ねたが、
ここに記すには長すぎる。また3,4回繰り返して、当所に聖堂が有ったならばキリシタンの数は増加するだろう、
もしパードレ又はイルマンが当地に居らねば、キリシタンと成った者たちは直ぐに失われるであろう、と言い、
ダリヨを招いて、私に市内を見せて良き敷地と認めた所を彼に通知したならばこれを与え、聖堂が出来たなら
恩恵を加えるであろう、と言った、彼の子もこれより先に同じ事を言い、この事について父に話す必要なく、
彼自ら我等の満足する地所を与えるであろうと言った。

(1581年5月29日(天正9年4月27日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

北ノ庄で柴田勝家に対面したフロイスの記録。勝家、領地で上様って呼ばれていたのですな。
そりゃ信長も国掟で勝家を縛ろうとするわ。



23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/19(水) 14:17:43.21 ID:M0+GVcV7
>>22
もう少し読み込んでみるといい

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 09:37:30.92 ID:3qib0QTB
>>22
国掟が出されても上様と呼ばれていたのかな?w
縛りになってないな

耳川の敗戦後の、豊後国内

2019年05月14日 17:27

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/13(月) 19:50:33.25 ID:mxOrsGk9
老王(大友宗麟)は(耳川の戦いの敗北による)混乱の際、前に述べたように急遽出発し、食料も携えず、
所有の品の大半を失ったが、パードレが会堂に備え置いた十字架上のキリスト像を請うため人を遣わし、
これを携帯することを望む旨を伝えた。
またこのように大敗したが少しも恥じる所無く、デウスに対する信頼を失わない旨も伝えた。その後パードレが
王の陣所に到着した時、王は諸人の面前に於いて跪いて手を天に挙げ、現在の艱難に対して我等が主に感謝し、
パードレと語って彼は「キリシタンとして、このような不運に会うも心を変えず、むしろその熱心と
デウスに仕える希望はさらに加わった」と言った。この事を公言したのは、パードレに対する豊後の人たちの
不平と怒りを抑えるためであり、王の信仰がこのように固いことを聞けば、何人もパードレに対して無礼、
または害を加えることが出来ないためである。その後パードレと数回談話した際、「我等が主デウスは
我が意志と、私が日向においてキリシタンの教えを広めようと図っているのを知り給い、隠れたる御裁断に
よりこのような不測のことが起こった。しかしこれに満足し、己の弱き判断を捨てデウスの賢慮に
服従する。」と言い、また他の機会にパードレを慰めて、「デウスが私の軍隊を敗北せしめ給いしは、
この戦争においてデウスの教の最大の敵にして、帰依に反対していた者たちが多く死して、以後の教化に
便ならしむためであろう。」と言った。
若王(大友義統)もこれに劣らぬ勇気を示し、その父がパードレ・フランシスコ・カブラル対して言ったのと
同じことをパードレ・ルイス・フロイスに伝えた。

しかしながら豊後に於いては今回のことは全く神仏の罰であるとされ、我らに対する不平が大いに訴えられた。
よって若王の義兄弟の一人が彼を訪問し、「かくの如き不幸起こり、その部下たちは甚だしく憤慨しているが
故に、今後デウスのことに関係すべきではない。」と勧めたが、若王はこれに答えて
「従来臣下の意向を尊重し、また母(奈多夫人)の機嫌を損じ無いよう努力してきたが、今後は誰にも
譲歩せず、その(キリスト教の)救いのために適する事をする。」と言い、パードレ・フランシスコ・カブラル
臼杵に到着すれば、他人の意向に頓着せず、直ぐに自らキリシタンと成り決してこれを見合わすことはないと
宣言し、また自らキリシタンと成ることを示すため、ロザリオを取り、公にその首に懸けた。その後同一の事を
パードレ・フランシスコ・カブラルに語り、またシナのビジタドールのパードレに通信し、従来よりも遥かに
その信仰心が強くなったことを示した。

国王父子の決心がこのように固いのを見て、我が教の敵は、我等並びにキリシタン等に反対する言を成し、また
行動をすること出来なかった。キリシタンと成って多くの日を経たわけではない国王と、受洗の希望者に過ぎない
世子とが、古きキリシタンにすら信仰への疑惑を懐かしめるこの大いなる不幸に遭遇して、このように堅信を
保持しているのは驚くべきことである。豊後の王は多年非常に幸福であったが、キリシタンと成った直後に
この不幸が起こり、殊にこう言った事態は、かねて坊主たちが威嚇していた事にも関わらず、少しも心を動かさ
なかったのは、我等が主の大いなる御恵である。

その後ほぼ一ヶ月を経て、日向の軍隊の総指揮官であり、死んだと思われ、ゼザベル(奈多夫人)一同も既に
その死を嘆いていた、彼女の兄弟である田原親賢が表れ出た。この残酷なる敵が豊後に戻ってきたと同時に、
キリスト教への迫害は新たに起こり、我等に対する不平の声挙がり、姉妹である悪王妃、およびこの戦において
父子、兄弟、親戚を失った多数の大身及び武士たちは合同して、『今回のことは宣教師たちが豊後に於いて
教化をなし、偶像を破壊したことに原因を発するものである』と成し、我等を殺し、または当国より追放
することに全力を尽くす決心をなした。
戦争において死んだ者は多く、諸人敗戦を嘆いていた故に、我等は町に出れば多くの罵倒の言葉を聞いた。
しかしながら老王は、動かざる柱のように我等を庇護し、若王もまた強く信仰を守ったため、敵はその望む
所を行うこと出来ず、ただ不平を述べるのみであった。

(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

耳川の敗戦後の、豊後国内の動揺の様子。



30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 12:40:43.36 ID:G3wFrSId
大友宗麟ってデビュー当時からピンチの時の判断が素早く的確
成功した戦国大名ってそういうものなんだろうけど

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 14:05:44.57 ID:9vYs8KUt
自分の首を取られたら終わりだからね
今川さんみたいになっちゃう

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 15:04:21.80 ID:x0PW2SgR
動かざる柱のようとか大敗しても恥じないみたいな姿勢はかっこいい

若王はこれを聞くと急いで王妃のもとに

2019年05月08日 17:29

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/08(水) 00:12:00.40 ID:MDWkvrbn
(大友家による日向攻めの間に)悪妃ゼザベル(奈多夫人)は、多数の大身たちと共にキリスト教会を撹乱し、
若王(大友義統)の考えを改めさせる方法を協議し、また若き王妃(尊寿院)の(キリシタンと成るという)意思を
枉げるため、妃の母にして同じく頑固なる老女と共に全力を尽くし、「もしキリシタンと成るのであれば嫁と思わず
娘とも思わず」と言い、様々に努力したことによって、かの妃は徐々に我々に対し冷淡となり、決心を変ずるに至った。

また日向に向かって出陣しようとする大身たちは世子に対し、「日向において盛んに戦っている今日において、
デウスの教えの庇護に力を尽くすのは宜しからず。戦争及び国政に関する、デウスの教えよりさらに重要な
国務に従事すべし。」と諌めた。世子はこれに「私は戦争に加わるため、宮廷を離れて今荒野に在る。そして
戦争に必要な一切の準備を行った。そしてデウスの教に関わることは、少しもこの準備を妨げない。
お前たちはデウスの教えは重要ではないと考えているが、まずデウスの教えがどんな事を説いているか、
それを聴いた後でこれに関する意見を述べるべきである。」と言った。
大身たちはこの返答にあまり満足しないまま、日向に向けて出発した。

若き王は、老夫人らがその妻に対して計画していることを聴き、その妻とパードレ・ルイス・フロイスとに
書簡を贈り、パードレがしばしば妃を訪問してその決心を固く守らせることを請い、また今後発生すべき
事に関して一切の疑惑を除くため、パードレに対し「自分の洗礼は急がないが、妻には洗礼を授けさせ、
サンタ・カタリナの祝日(11月25日(和暦11月7日)にこの式を行うように」と請い、数回使者を往復させた
後、そのようにすることに決定した。

しかし邪悪なる二人の老夫人はこれを聞くと、「もしそのような事と成るなら、腹を切って自殺する。
強いてキリシタンと成りたいのであれば、王が自らキリシタンと成るまで待つべし。」と言った。

若王はこれを聞くと急いで王妃のもとに行き、その母に彼女がキリシタンと成ることを承認するよう
請い、大いに説得に尽くしたが、彼女は固くこれを拒んだため、若王は怒り、いかなる事があっても
これを実行する決心を成した。

しかしこのように意見対立したため、若き妃はどのように決心すればよいか解らなかった。
この為様々に議論した後、パードレ・ルイス・フロイスの意見に従い、洗礼は中止し代わりに城内に設けた
礼拝堂において、助祭および副助祭列席の上オルガンの演奏にてミサを歌い、これに若王と夫人、
ならびに列席者は非常に満足した。この決定は、洗礼後に転向することが無いようにとの、デウスのお導きに
よるものである。

(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

家臣から戦時にキリスト教への傾倒を批判されて「宮廷から出て戦争準備に集中している」と反論するも、
尊寿院(ジュスタ)の信仰に圧力がかかっていると知ると即座に戻ってくる義統であった。



この世子は知識と思慮に富み

2019年05月07日 16:04

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/07(火) 09:13:21.50 ID:OfVUZcaD
その後8日、もしくは10日を経て、父王(大友宗麟)が土持に向けて出発する前、世子(大友義統)はイルマンを
招いてパードレに伝言を託した。
この世子は知識と思慮に富み、キリシタンとなりたる父の意に従わんと欲し、またすでにキリスト教の説教を
聞いており、これをよく悟って、デウスの教え以外に人間が救われる道はないと覚った故に、
妃(吉弘鑑理娘・尊寿院。洗礼名ジュスタ)とともにキリシタンとなる決心をしていたが、彼の領国は広大であり、
そこには神仏を崇拝しキリシタンの名を憎む有力なる大身が多いゆえに、彼は本年もそう成したように、
徐々に準備をし、少しづつ坊主の収入を奪い、寺社を破壊して国内の大身達に彼らの偶像崇拝が利益少ない事を
覚らしめるべしと言い、なお自筆にて認めた五、六ヶ条の重要なる点について、パードレ(カブラル)に質問した。

パードレがこれに対して返答をした後、世子は再び人を遣わして、『右の質問を成したのは領国を失うことを
怖れたためではない。デウス、霊魂、救い、楽土および未来の刑罰があることを悟って以来、国を失うこと、
また生命を失うことは少しも意に介していない。パードレがもし直ぐに、異教の者たちと一切の関係を絶ち、
寺社を破壊し、坊主たちを倒し、偶像を尽く焼き払い、領内の異教の儀式を廃し慣習を破ることを可とするのなら、
私はこれを成すだろう。
もし前に述べたように、徐々に国事を処理し、人々を誘導して騒擾または反乱を起こすこと無からしめる事を
可であるとするのなら、そのようにするだろう。』と言わせた。

パードレはこれに答えて「彼の希望は甚だ良き故に、我等の主デウスに、これを持続せしま給う事を祈りましょう。
またこのように重大なことはよく考慮し、十分に準備を成すことが必要であるから、徐々に準備を整えるのが
我らの主のために然るべきもので、祈祷を学びデウスのことを聴き、同時に領内のことを処理すれば、世子の
希望通りに来年のはじめには、洗礼を受けることができるでしょう。」と言った。

私(フロイス)が彼と同船して土持に赴く父王を訪問し、その船にて帰る時、夜中に長時間に渡り彼は私と語り、
ビジタドールのパードレはいつ来るのかと3,4回尋ね、その洗礼の際には私が列席することを希望し、また妃に
関しては、直ぐにキリシタンと成したいと言った。私はこれに答え、「ビジタドール及びパードレはデウスの御助け
によって来年来ることは疑いないと思われます。妃の洗礼に関しては、パードレ・フランシスコ・カブラルが
帰るのを待つのが良いでしょう。彼はしばらく日向にとどまる必要があるのですが、船を出して速やかに帰ることを
命じるのが良いでしょう。」と述べた。
(1578年10月16日(天正6年9月16日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

天正6年ころの、キリスト教に前のめりになっている大友義統の様子


佐久間信盛、信長を諫める

2019年05月01日 16:21

853 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 10:23:59.52 ID:Gr038wOZ
佐久間信盛、信長を諫める

1578年、河内の国人、三箇頼照・頼連父子が毛利氏に通じたとの噂が流れる。

噂を流したのは若江三人衆の一人・多羅尾綱知三箇頼照がキリシタンであり、多羅尾がキリシタン嫌いであったからと言う。噂を耳にして激怒した織田信長佐久間信盛に与力の三箇氏の処刑を命じた。

信長の命令にはいかなる異議も釈明も許されず、そのまま言葉通りに遂行する習わしであったにも関わらず、信盛はすぐに頼連を連れて上洛、信長に面会してまずは取り調べが必要だと説得した。
信長も了承して取り調べが行われることになり、三箇父子の無実が明らかになった。

三箇父子の危機は去ったように思えたが、多羅尾綱知は諦めず讒言し続けたため、信長は再び処刑の命令を下した。この時も信盛が信長と直談判、説得して翻意させたために三箇父子は救われたのであった。


(フロイス日本史)



855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 10:45:54.85 ID:UFjyl7fE
佐久間GJな逸話に思えるけど
こういうところで信長のヘイト獲得したのかも知れない

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 10:46:32.27 ID:ciO/1tRa
ないあるヨ

858 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 12:29:05.60 ID:1MsaJoST
佐久間には他にも比叡山焼き討ちを思い止まるように訴えたり、有名な利根坂の時に信長に反論したりした話がある

この時も処刑の命令を翻意させているし、信長もその意見を無視することができないほどの存在だったんだろう

ただその度重なる直言で内心疎まれてもいたんだろうね

859 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 16:51:22.06 ID:7sIQcVFh
個人的には信長信盛の仲ってそんな悪くない気がするけどなぁ
悪くないから、お互い言いたいこと言う
信長の追放って現代に置き換えれば謹慎だしね
信盛保養地で死ななければ、また復帰してたんじゃ?

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 18:28:41.75 ID:idjiVlFy
見た感じ日記っぽいし淡々としてるのはそのせいでは?

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 21:09:52.17 ID:OREag7aG
>>859
室町時代の追放の意味も知らんと適当なこと言ってはいかん

864 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 22:03:55.38 ID:EFC/PbAa
信長は折檻状のあと、「佐久間親子は本来なら処刑すべきだが、長年召し使った者なので一度だけ助命する。しかし二度目は許さないので、忍びでも上方へ来るなら討ち果たせ」ていう厳しいお触れも出しているからそんな楽観的な状況ではなかったでしょうね

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 22:20:28.55 ID:XM3gZ2DZ
でも息子は許されて家は残ってるんDA

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 22:26:57.59 ID:SW8dwP43
>>865
信盛が死んで怒りのボルテージが下がったんじゃね

867 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 22:39:36.34 ID:EFC/PbAa
気にするな!

ってのは冗談で、信盛の死の直後に息子は赦免されてるから、折檻状で両方厳しく非難されてるとはいえ、怒りの対象の主体はあくまで信盛だったってことでしょう

あと息子の復帰が許されたのは信忠の根回しもあったようですね

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/02(木) 01:08:49.52 ID:wp+473rn
尾張に佐久間自前の領地(様々な既得権益付き)があるのが邪魔だったって見方もあるしな
その理屈なら信栄が身一つで仕えるならなんの問題もない

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 01:54:08.01 ID:zpbEIlwA
佐久間追放は、裏で暗躍していた
明智の謀略だったってのを、次の
大河の麒麟がくるで放送されることを
密かに期待している

フロイス評の明智光秀がいいなぁ

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/03(金) 02:11:48.68 ID:H+rOAgLT
麒麟て信長の花押なのにそんなタイトルに決まったのか光秀大河

傲慢なるゼザベルを罰するに

2019年04月29日 16:45

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/28(日) 22:12:33.03 ID:4q/y0leB
また国王(大友宗麟)は、邪悪なる王妃ゼザベル(奈多夫人)に対して憤懣を感じていたが、彼女によって
多数の子女を有していた故に、やむを得ず多年の間これを看過していた。そうして彼女による、デウスの教え
及びキリシタンに対する憎悪は益々加わり、キリシタンになろうと欲する者を引き止め、既に洗礼を
受けた者には転向を勧め、頸にかけているロザリオまたは彫像を無理に取って火中に投じ、デウスの教え
並びに会堂に対し、罪と偽りを重ね、その子である世子(大友義統)および国王の心を、我らに反対せしめんと
努力するが、かつてその目的を達したことはなかった。

我らの主デウスは正義の友である故に、傲慢なるゼザベルを罰するに、現世において与えることを得るべき
最も大いなる罰を以てし、生命が長引いているだけの死となされ給わった。
老王は長い期間をかけてこの処置の準備をなした。まず居住する家を新たに城外に作り、国の政治を
その子(義統)に譲った後、その家に移り、王妃のもとで仕えていた貴族の一婦人(林ジュリア)、すなわち
その子ドン・セバスチャン(大友親家)の妻の母にして、既に40を越え少しばかり病弱な人を密かに招いて
妻と成し、王妃は城内に留め置いた。

ゼザベルがこの時まで、数多の国の主として城中に於いては大いなる尊敬を受けていたのだが、たちまち
現世の栄誉を失い、以前に彼女に仕えた者が新たに王妃と成ったのを見て、親戚並びに大友家の大身たちは
再び彼女と共に住むよう王に請うたが、その目的を達することは出来なかった。
王妃はこのような不幸に耐えることが出来ず、しかし老王が一度決心したことはそれに固守することを
知っているがゆえに、短刀をそばに置いて自殺せんと計り、このため王女及び親類たちが昼夜これを
警戒した。

(1578年10月18日(天正六年九月十六日)パードレ・ルイス・フロイス書簡)

大友宗麟による奈多夫人離縁についてのフロイスの記録



947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/30(火) 10:18:03.84 ID:o0dmuEcy
>>944
この奈多夫人って言う人は、大友の庶流家で国東半島の大豪族の田原氏の分家の娘。
同時に、奈多八幡宮の宮司の娘「要は名門の神社のお姫さま」なんですよ。

有力庶流家に対する政略結婚の意味合いが有ったんでしょうね。
田原氏からの人質の意味もあるし、もし反抗しても分家が大友に付くんじゃ勝てる訳が
無い訳ですよ。

更に、田原氏から見ても家格の問題では最高の相手だから悪い話でもないですし。

で、この離婚って大友氏の水軍が離反し兼ねない大問題なんだよな。
瀬戸内海はさんで、毛利方の村上水軍と睨み合ってる状態。

大峰入り、すなはち大なる山に入るといふ意

2019年03月25日 21:13

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/25(月) 09:03:55.88 ID:qi5DIp20
この山伏達は毎年二回大峰入り Vomineiri(すなはち大なる山に入るといふ意)と称する巡拝を行ふ。
このためには日本全六十六ヵ国より二千人以上が都より一日路の大和国に集るのであるが、ここに
先達 Xendachiと称する同派の頭二十四人が別々に門弟を率ゐて来る。この山伏達は皆大和国より
その巡礼を始め、甚だ高い山の峰を経て熊野権現Cumanono Gonguemと称する寺院に向ふのである。

この山には動物も鳥も虫もゐず、一年中雪がある。巡拝の始まる所より終点に到るまで七十五レグワある。
彼等は毎日一レグワ以上行くことを禁ぜられてゐる故、これを七十五日の間に歩行する。彼等の苦行は毎日
飯一握づつ二回、すなはち朝夕に食するのみであり、もし途中病に罹る者があれば、そこに止って死するか、
または回復するまで居る。また八日間水なき所を通り、この間に飲む水は携帯するが、大なる欠乏を感ずる。

この山中に居住する者は二種類に分れてゐる。すなはち(ゴキGuoquiと称し、後の鬼といふ意味である)
五人の頭と、多数の門弟ゼンキ Jenquis、すなはち前の鬼といふ者である。山伏等は皆一緒に大和国の
奈良と称する地を発し、各々荷物と途中の食物を背負うて吉野 Yoxinoと称する八レグワの町に着けば、
多数の前鬼が彼等を出迎へて案内し、彼等のために荷物を負ふ。この前鬼は頭髪を縛った恐しい人間であり、
彼等の歩く所には絶えず雷鳴大風が起り、もし巡拝者の一人がその家または国に物を忘れた時は、その距離が
二百レグワを超えることがあっても、前鬼が行って半時間の内にこれを携へて来るのである。

山中に進んで吉野より八レグワの小笹 Ozasaと称する他の町に着けば、後鬼と称する五人の頭が出迎へる。
彼等は人間の形の悪魔であり、性質も悪魔的である。彼等は陰気で甚だ恐しくまた傲慢で、一日に五語も話さぬ。
彼等の頭髪は縛り、頭に長さ一指半の角があって、これを隠すことに努め、甚だ長き頭巾を被りてその角を隠す。
彼等の山中の家また住む所は何人も知らぬ。彼等は約五十レグワの甚だ険咀にして難儀な道を案内するが、
道は悉く断崖で甚だ険しいため立って歩くことができず、一同は手足を用ひて進むが、後鬼は真直に進み、
平地を歩くやうである。彼等は山伏に対し、全七十五日の間、歩行中は清浄にして信心を深うし、少しも悪事を
行はず、釈迦の苦行と行状に倣ふことを勧める。釈迦は日本人の崇拝する二つの主なる神の一つである。
もし巡拝者中途中で彼等の喜ばざることをなすものがあれば、後鬼はこの罪人を速に空中に投上げ、
手をもって山より突出した木の小枝に縋らしめる。そこより下を眺むれば、眩暈を感ずる。
この罪人はそのまま下り、疲れて墜落粉砕するに至る。他の巡拝者は前進し、父子或は兄弟であっても
遺憾を表せず、彼等もまた同じ運命に陥らざるやう努める。巡拝者が夜寝た後には、五人の後鬼は姿を消し
少しも認めることができず、翌朝再び来って旅行を続ける。また千人以上ある前鬼の家を知る者なく、
彼等が同所に行った山伏のうち何人にもその家を観せたことを聞かぬ。また後鬼は七十五レグワの終まで
山伏と同行せず、熊野権現と称し紀の国に在る最後の寺院に達する数レグワ前で彼等と別れる。

巡拝者は二千人を超えるが、一年に二回巡拝し、各々三十匁すなはち千八百三十六レイスを後鬼に与へる。
彼等はまた旅行中絶えず後鬼の顔色を窺ひ、彼等に不快を与へ、空中に吊されて粉砕することを危惧してゐる。

(中略)

信長が近江国の安土山の城をほとんど建築し終った頃、後鬼の一人が同所を通過した。彼等は一生のうち
一回の他は、かの山を出づることなく、各々高野 Coyaの寺院に巡礼に行く。同所は約七百年前に最も悪魔的
ルシフェル的な人である弘法大師 Combodaixiを生きながら葬った場所である。

右の後鬼が右の城を通過した時、信長が造らせてゐた大きな壁の一片が落ちた。そこで後鬼が害をなさざるやう
宥むるため、途中にある二つの寺院、すなはち一つは吉野に、また一つは更に遠い所にあるものを、
金をもって十分に塗ることを命じた。当地の寺院は悉く木造で、壁も屋根裏も柱も皆木であるが、
これを立派に金で塗った。右のジョアンが寺院の中でこれを観たのである。
(一五八三年二月(天正十一年一月)パードレ・ルイス・フロイスが口ノ津より発せし書翰)


フロイスが伝える大峰入りのお話。安土城の壁を後鬼が通っただけで破壊したことが有ったらしい。



747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/25(月) 10:28:29.41 ID:1TEMDgUp
山伏の生態は興味深いな

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/25(月) 11:37:11.55 ID:HcURMdn0
弘法大師が衆道を始めた、って言ってたのはフロイスだっけ?

ガスパールの茶会事件

2019年02月28日 19:14

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/28(木) 12:41:33.39 ID:Eo1e9caG
 ルイス・フロイス著「日本史」には茶会の席で起きた事件についての記述がある。

 堺の町人 日比屋了慶(洗礼名ディオゴ)は豪商として有名で、また彼の一族は
キリシタンばかりであることも知られていた。彼はモニカという洗礼名を持つ娘を
宗札(洗礼名ルカス)という男に嫁がせたが、モニカは宗札との間に二人目の子を
産んだ後で体調を崩してそのまま亡くなってしまったので、今度は次女のサヴィナを
宗札に嫁がせて改めてまた娘婿とした。
 サヴィナと夫婦になって幸福な生活を送っていた宗札であったが、
天正14年のある日、日比屋了慶の弟のガスパールから茶会に招かれたことにより、
人生が一変する災難に見舞われることになった。

 ガスパールの茶会に招かれたのは宗札本人の他に宗札の弟のリョーカン、そして、
日比屋了慶ならびにガスパールの弟にあたるトーアン、隣人の小島屋道察である。
日比屋了慶本人も招かれていたが、客人をもてなす用事があったので
茶会には参加しなかった。
 茶会は穏やかな雰囲気のまま終わったが、帰り際になっていきなりリョーカンが
隠し持っていた短刀を抜いてトーアンに襲い掛かって刺殺してしまった。さらに
リョーカンは短刀を小島屋道察に突きつけつつ、ガスパールに対して「私は
トーアンの命を奪ったが、この件は私に責任がないということを関白秀吉様宛ての
手紙に書け」と脅してきた。
 やむなくガスパールは指示通りに手紙を書いて渡すと、受け取ったリョーカンは
満足げな笑みを浮かべてから今度はガスパールに襲いかかってその命を奪った。
そこへかけつけたガスパールの下僕たちが殺人犯を取り押さえようとしたところ、
リョーカンは観念したのかその場で自害してしまった。
 犯人のリョーカンはかねてよりトーアンとは不仲で、キリスト教の信仰について
口論していたそうだが、詳しい動機は不明である。

 当時、堺は豊臣秀吉の直轄領であったので、この事件の捜査を担当したのは
堺の代官を務めていた石田三成である。彼はただ単に現場に居合わせていた
宗札を犯人の兄だからという理由で捕らえ、それに連座して宗札の妻子も捕まえて
堺から大坂へ連行した。それだけでなく、小島屋道察、および彼の家族、そして、
被害者のトーアンの家族もまとめて逮捕し、あげくのはてに彼らの財産を没収した。
 
 突然2人の弟を失った日比屋了慶は娘婿の宗札が理不尽な理由で家族ごと逮捕された
だけでなく、宗札の一家がいずれまとめて死刑にさせられることを聞かされて、
いてもたってもいられなくなり、四方八方手を尽くして助命嘆願に奔走した。
徳川家康や北政所、千利休、高山右近など多くの有力者たちがとりなしてくれたが、
秀吉の反応は思わしくなかった。
 そして、天正14年11月22日、宗札は何の罪もないのに磔にされて処刑された。
当初は妻子も一緒に処刑される予定だったが、北政所や宇喜田秀家夫人らの嘆願が
功を奏して宗札の妻子は許されて日比屋了慶のところへ引き渡された。
 多くの人が捕らえられた事件であったが、結局、処刑されたのは宗札だけで済んだ。
けれども、小島屋道察は財産没収により茶の湯の名品2点を秀吉に取られたりしたので
散々であった。

 翌年の天正15年に宣教師の追放令が出ていることから、この強引な捜査は秀吉の
意向によるキリシタン弾圧の一環ではないかと疑われている。石田三成がおこなった
この事件への対処があまりにひどかったせいか、ルイス・フロイスは三成について
「キリシタンの敵であり、野心家で傲慢な悪徳に満ちた人物」と手厳しく評価している。


織田信長を模倣する

2018年10月29日 17:28

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 00:30:57.48 ID:IayTbgkZ
世子(大友義統)は政治に当たるように成ってから、ますます国内の坊主および偶像崇拝を嫌い、
生来鋭敏にして才知あるがゆえに、神仏の崇拝を嘲笑し、この事について織田信長を模倣することを希望した。
信長はこれらを破壊することによって、所領、名誉および評判はますます加わったのだ。世子はこれを
実行せんとし、本年は祖先の何者も成さざりしことに着手した。

第一には復活祭(1578年3月3日(天正6年2月22日))前に使いをパードレのもとに遣わし、彼に仕える
武士および殿中に常に侍する青年が悉くキリシタンとなることを希望し、勧告は彼自身が成すべきが故に、
当院より人を遣わして説教を成し彼等に悟らしめんことを請うた。彼等が説教を始めた後、世子は突然
戦争(土持親成征伐)に臨むことになったため、さらに良き機会までこれを延期する必要が生じた。

世子はまた、神殿および坊主の僧院の収入を没収して家臣に与えることを始めた。(中略)一昨日一人の
キリシタンが私に告げたことによれば、世子は彼を当所より40レグワ余りの肥後国に遣わし、僧院の偶像を
焼かせ、其の収入は彼の兄弟に与えた。国の大身たちはこの事の理由を世子に尋ねたが、彼はこれに
こう答えた

「坊主等は国の髄を食い贅沢なる生活を成し、労働また戦争において死する貧民および兵士を嘲笑する。
彼等がもし宗規を守り、また来世において賞罰を与え、或いは現世において幸福と富を与える神仏であるのなら
猶忍ぶであろうが、坊主の生活は偽善と悪行に満ちており、その祈祷と供物は何等の効能も無いことは
経験によって明らかである。故に彼らに対して躊躇するのは愚の極まりであると思う。

織田信長は都の地方において同一の事を行ったが、かつて神仏より罰を蒙ったこと無く、むしろ繁栄
している。この故に坊主達に勧告するは、結婚する(僧侶をやめる)か、或いは兵士となることである。」

(1578年10月16日(天正6年9月16日)付パードレ・ルイス・フロイス書簡)

すっかり信長かぶれの義統。多分これ、フロイス自身が信長のことをキリスト教的に盛りに盛って報告して
義統を煽ってたんでしょうね。


ルイス・フロイスによる不思議の国ニッポン

2017年11月26日 16:08

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/25(土) 17:05:50.22 ID:TxoaurS2
ルイス・フロイスによる不思議の国ニッポン的な作品「ヨーロッパ文化と日本文化」よりいくつか

・われわれの間では彩色した衣服を着ることは軽率で笑うべきこととされるであろう。
日本人の間では坊主と剃髪した老人以外は一般に、すべて彩色した衣服をつけている。
・われわれはいつでも唾を吐き出す。日本人は概して唾を呑み込む。
・われわれの間では、貴族が鏡を見ていれば柔弱な行為と考える。
日本人の貴族は衣服を着るために、誰でも鏡を前に置くのが普通である。
・ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と貴さは貞操であり、またその純潔が犯されない貞潔さである。
日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても、名誉も失わなければ、結婚もできる。
・ヨーロッパでは夫が前、妻が後になって歩く。
日本人では夫が後、妻が前を歩く。
・ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。
日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付ける。
・汚れた天性に従って、夫が妻を離別するのが普通である。
日本では、しばしば妻が夫を離別する。
・ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことはきわめて大事なことで、厳格におこなわれる。
日本では娘は両親にことわりもしないで、1日でも幾日でもひとりで好きなところへ出かける。
・ヨーロッパでは妻は夫の許可が無くては、家から外へ出ない?日本の女性は夫にしらせず、好きな所に行く自由をもっている。
・われわれの間では女性が文字を書くことはあまり普及していない。
日本の高貴な女性は、それを知らなければ価値が下がると考えている。
・ヨーロッパでは普通女性が食事を作る。
日本では男性がそれを作る。
・ヨーロッパの女性は人に見られずに道を歩くために頭巾をつける。
日本の女性は道を行く時、頭にタオルを被って結び、両端を顔の前に垂らす。
・ヨーロッパでは白粉一箱あれば一国の需要を充たす。
日本にはそれを積んだソマ船が多数渡来するがそれでもまだ足りない。
・われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。
日本ではそういうことは滅多におこなわれない。ただ(言葉?)によって譴責するだけである。
・ヨーロッパの子どもは青年になってもなお口上ひとつ伝えることができない。
日本の子どもは十歳でも、それを伝える判断と思慮において、五十歳にも見られる。
・われわれの子どもは大抵公開の演劇や演技の中ではにかむ。
日本の子どもは恥ずかしがらず、のびのびしていて愛嬌がある。
そして演ずるところは実に堂々としている。
・われわれの間では子どもは度重ねて親戚の家に行き、彼らと親しく交わる。
日本では親戚の家には滅多に行かない。親戚を他人のように扱う。
・われわれはすべてのものを手を使って食べる。
日本人は男も女も、子供の時から二本の棒を用いて食べる。
・われわれの間ではフライにした魚をよろこぶ。
彼らはそれを好まない。
・われわれの間では膿瘍を火で焼く。
日本人はわれわれの外科の過酷な治療を受けるよりも死を選ぶだろう。
・われわれの手紙はたくさん記載しなければ意見を表すことはできない。
日本の手紙はきわめて短く、すこぶる要を得ている。
・ヨーロッパでは水を流すために街路の中央部が低くなっている。
日本では中央が高く、家々の側が低い。それに沿って水を流すためである。
・われわれの間では悲劇でない劇が演ぜられる場合、場面を分けない。
彼らはいつも場面を第一、第二、第三などとわける。
・われわれの劇は談話によって演ぜられる。
彼らのはほとんど常に歌い、または踊る。
・われわれの間では種々のものを贈るのは親愛のしるしである。
日本では贈物が少なければそれだけ礼儀正しい。
・われわれの間では人が贈物として持ってきた物は、その同じ人にこれを勧めることはできない。
日本では親愛のしるしとして、贈った人とそれを受けた人が、すぐにその場で試食しなければならない。
・われわれの間では球戯は手でする。
日本人は足を使って遊ぶ。
・われわれの間では贈物は空の小箱に入れ、リボンを付けないで贈る。
日本では糸で束ねる紙を貼り付ける。
・われわれの間では従者がその主人夫妻を自分の家に招く慣習はない。
日本ではそれがしばしばおこなわれる。義務としておこなわれることもあり、そうでない場合もある。

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/25(土) 18:06:47.15 ID:TxoaurS2
「ヨーロッパ文化と日本文化」にはこんなのもあった
・われわれの間では男たちは髪を刈っており、禿頭にされると侮辱されたと考える。
日本人は毛抜きを用いて、自分で、毛の残らないように、全部抜いてしまう。そのことは苦痛と涙を伴う。
・われわれのロウソクは本が太くて先が細い。
日本人のは先が太くて本が細い。

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/25(土) 19:41:58.59 ID:TxoaurS2
なおお気づきかもしれないが、特に現在の日欧の文化と逆のようなものを優先的にピックアップした。
元の本では宗教についての章も立てられてたけど、カトリックと比べて肉食妻帯当たり前の無信心者、悪魔崇拝者というような記述しかなかった。



460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/25(土) 19:17:29.54 ID:Qeo9lrtY
>>456
日本が上回ってる所もあれば逆もあって面白い。
まあ文化と時代の違いもあるから一概にどちらが良い悪いとも言えないけど。

1563年頃の松永久秀

2017年06月22日 15:44

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 21:50:29.42 ID:iv59Ojsk
既述のように、当時テンカ(=天下)の最高統治権を掌握し、専制的に支配していたのは松永霜台であった。
すなわち、彼はその点、偉大にして稀有の天稟の才能の持ち主であった。
彼は完全に自らに服従せしめていた大和国の、奈良の市街に近いタモンヤマ(=多聞山)という立派な一城に住んでいた。
そして五畿内においては、彼が命じた事以外は何も為されぬ有様であったから、位階や門閥においては彼を凌駕する多くの高貴な人たちが彼に奉仕していた。



フロイス日本史から、1563年頃の松永久秀の話


「フロイス日本史」から、戸次川の戦い

2017年05月30日 18:11

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:31:52.86 ID:pxsQt+cT
(豊後国主の)嫡子は、薩摩軍が攻めてきた時に身を守り得るために、
他の二名の主将(仙石秀久長宗我部元親)とともにウエノハル(上原)と称するある場所に一城を築くことに決した。
だが彼らは心して真面目に築城の作業に従事しなかった。
彼らの不用意は甚だしいもので、饗宴や淫猥な遊びとか不正行為にうつつを抜かしていたので、その城は笑止の沙汰であった。
したがって(薩摩軍が来週した時に彼らが)助かることなど思いもよらないことであった。

ところで国主フランシスコの息子パンタリアン(田原)親盛は、司祭に対して、
もし府内で何事かが起こった場合には、司祭は家財を携えて城(妙見城)に身を寄せるようにと伝えていた。

薩摩の軍勢は惰眠をむさぼることなく、攻撃力を強めながら、漸次豊後に進入して領地を奪っていった。
豊後の指揮官たちは、常軌を逸した振る舞いによってますます油断の度合いを深めていた。

本年一五八七年の一月十六日(西洋暦)、薩摩の軍勢は、
府内から三里離れたところにあるトシミツ(利光宗魚)と称するキリシタンの貴人の城を襲った。
城主は府内からの援助を頼りに力の限り善戦した。
だが敵は攻撃の手を緩めず、ついに武力によって城内に進入し、その城主、ならびに多数の兵士を殺害した。

府内にいる味方の勢は、(利光の)城が占拠されているかどうか確かなことを知らないまま、
赴いて囲みを解くべきかどうか評定を続けていた。
結局、彼らは出動することに決め、栄えある殉教者聖フィビアンと聖セバスティアンの祝日に府内を出発した。

府内からは、仙石がその兵士を率い、土佐国主長宗我部とその長男がその兵士を伴い、
さらにパンタリアンも兵を率い、その他豊後の特定の殿たちが出発した。
清田と高田の人々に対しても出動するよう命令が出された。

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:32:45.50 ID:pxsQt+cT
薩摩勢は、それより先(豊後勢の動静を)知らされていたらしく、余裕をもって策を練り、
準備を整え、一部少数の兵士だけを表に出して残余の軍勢は巧妙に隠匿していた。

豊後勢は、大きく流れの速い高田の川に到着し、
対岸に現れた薩摩勢が少数であるのを見ると、躊躇することなく川を渡った。
そして豊後勢は戦端を開始した時には、当初自分たちが優勢で勝っているように思えた。
だがこれは薩摩勢が相手の全員をして渡河させるためにとった戦略であった。
渡し終えると、それまで巧みに隠れていた兵士たちは一挙に躍り出て、
驚くべき迅速さと威力をもって猛攻したので、
土佐の鉄砲隊は味方から全面的に期待をかけられていながら鉄砲を発射する時間も場所もないほどであった。
というのは、薩摩軍は太刀をふりかざし弓をもって、猛烈な勢いで来襲し、鉄砲など目にもくれなかったからである。
こうして味方の軍勢はいとも容易に撃退され敗走させられて、
携えていた鉄砲や武器はすべて放棄し、我先にと逃走して行った。

豊後国の人たちは、河川の流れについて心得があったから助かったが、
仙石と長宗我部の哀れな兵士たちは他国の者であったから、浅瀬を知らず溺死を余儀なくされた。
こうしてその合戦と破滅において、二千三百名以上の兵士が戦死したと証言されている。
彼らの中には、土佐国主の嗣子や、かつて阿波の領主であった十河殿、その他大勢の貴人や要人が含まれていた。

薩摩勢は、その日の午後には府内から四分の一里の地点にまで到達し、
その途中にあったものをことごとく焼滅し破壊した。




「フロイス日本史」から、戸次川の戦いについての記述である。