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後花園天皇の追号が決まるまで

2023年04月18日 20:15

746人間七七四年2023/04/17(月) 20:56:35.24ID:NRGRbG2x
甘露寺親長「親長卿記」から後花園天皇の追号が決まるまで

文明三年(1470年)二月別記

旧院(後花園天皇)の追号について「後文徳」「後花園」のうちどれがいいか協議したところ、「後文徳」を推す意見が多かったため一度は「後文徳」に決まった。
しかし一条太閤(一条兼良)が「文徳は田村帝の諡号であり、「後」の字を諡号につけた先例はないとおっしゃったため協議が続いた。

最初の申詞(発言記録)
二条太閤(二条持通)書状
旧院の御追号については、諸卿の協議で決めることではあるが、私は以前から申している通り「後文徳」が御意にかなうと思う。

日野前内大臣(日野勝光)
後文徳がよいと思う

右大将
後文徳、後花園、どちらもよいが、「文徳」は「史記」に由緒があるのに対し、「花園」は由緒がないので「後文徳」がよいと思う。

中院大納言(中院通秀)
どちらもよいが、旧院の御治世を思うと「後文徳」を用いるべきだと思う。

予(甘露寺親長)
どちらもよいが、御一流(直系の先祖)でないのに後をつけることは問題があるかもしれない。(文徳も花園も直系ではない)
とはいえ後花園でも問題はないだろう。

勧修寺前大納言(勧修寺教秀)
文徳天皇の継体の君は清和天皇であり吉例である。
花園天皇は響きはいいが、次代が後醍醐天皇であり吉例とはいえない。
前後も含めて当代の規範となるか判断すべきである。
また旧院は往昔、文にも優れていたため後文徳がよいだろう。

747人間七七四年2023/04/17(月) 20:58:04.70ID:NRGRbG2x
二度目の申詞

日野前内大臣
最初に申した通り、文徳で問題はあるまい

右大将
追号と諡号は趣旨が似ていて、「後」の字を諡号につけた例はないというが、同じ諡号を区別するために「後」を諡号につけるのは問題はないだろう。

中院大納言
そもそも諡号というものは周代に始まり、日本では神武から文武帝まで四十二代は淡海公(藤原不比等、実際は淡海三船)が作ったというが詳しいことはわかっていない。
そののち生前の徳行を諡号とし、院御所の地名を追号としたのだ。
子孫がどうのと言っているが、後朱雀、後冷泉、後三条帝などは直系の子孫ではない。
また柏原、深草、田村、水尾、小松帝などは桓武、仁明、文徳、清和、光孝帝といった諡号に後で追号したものだ。
また顕徳院をわざわざ後鳥羽と改めた例もある。よろしく聖断あれかし。


文徳は田村帝の諡号であり、後の字を諡号につける例は管見では見当たらない。
顕徳院を後鳥羽に改めた例があるなら、後文徳以外にするべきだろう。

勧修寺前中納言
元明天皇の勅令で国や郡名を諡号にしていることは明確である。
当然、山陵や御所名を諡号に準じることになるのだから、後文徳も問題なかろう。

748人間七七四年2023/04/17(月) 21:00:19.20ID:NRGRbG2x
三度目の申詞

二条太閤
そもそも一度決まった旧院の御追号を後に改めることは、讃岐院を崇徳、顕徳院を後鳥羽、と改めた例があるが、ともに配流にあわれた例でありよろしくない。

久我前右大臣(久我通尚)
御追号が文徳院に決まったのを後近衛、後土御門、後花園のどれかに改めるという話だが、多数決に従おう。

今出川前内大臣(今出川教季)
三つとも由緒がないが、後花園でいいと思う。

日野前内大臣
改めるとしたら後土御門にするべきだ。

右大将
改めるのが決まった以上は、後土御門がよさそうだ。

中院大納言
土御門の土地は今の皇居があるところであり、差し障りがあるので後近衛がよいだろう。


土御門は現在の皇居の名であるため、以前も申した通り後花園で問題ないだろう。

勧修寺前中納言
土御門は皇居の地であり、天下静謐(応仁の乱の最中)になったのちに還御するのであるから使いにくい。
後花園は以前申した通り、次代が吉例ではない。
かといって後近衛は直系の先祖でもなければ由緒もない。
どうとでもなされよ。

太閤(一条兼良)に重ねて尋ねたところ、後花園がよいということになった。



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八幡大菩薩に御祈念あるべき事

2021年03月11日 18:51

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/11(木) 16:01:20.86 ID:xcRRgiiX
八幡大菩薩に御祈念あるべき事

その御祈念あるべき事とは、賤しくも自身が征夷将軍の職を蒙り、公のお固めとして、日本国中
六十六ヶ国を治めるべき仰せを受け給わった事は、前世の宿縁とは言いながら、父母二親の御恩であります。

但し、天下を治め素直なる世に戻すという事は、その職にあっても非常に困難であり、願わくば
八幡大菩薩の御はからいとして威勢を加えさせ給え。

このように威勢のことを祈念するのは、全く我が身が思うままに振る舞うためではありません。
この十余年、公家、武家を始めとして、僧俗男女に至るまで、(応仁・文明の乱により)一所懸命の地を
人に奪われ、憂悲苦悩を見てきて、余りに不憫に思われる故に、威勢さえ有れば道を道の通りに
行えると思うによって、偏に御神の冥慮を仰ぐものものなのです。

諸国の守護たる人の心向きのありようも、いかにも穏便に成して慈悲の心を付け給え。本当に本当に
思い直ることが無いのであれば、忽ちに冥罰を与え給うように。

再び素直なる世に立ち返ったならば、今生の願い満足して、後世までも名将軍と呼ばれる事、
人間の思い出として、これに過ぎることがあるでしょうか。

并びに大菩薩の御はからいにあるべしと、毎日、朝にしっかりと御手を洗い、御口をゆすぎ、
南方に向かわれて、至誠の心で御祈念あるべきです。神明が世に在られる者ならば、どうして
受納されないでしょうか。

この御心中の趣きを、世に隠れなくしておけば、これを伝え承った者は、一度は神慮に恐れをなし、
一度は武威を辱むるを思い、諸守護の心向きも自ずから良く直して、文明一統の天下に成るべき事、
掌をさす如くになるでしょう。

文明一統記

一条兼良足利義尚日野富子の求めに応じて政治上の戒めを著した『文明一統記』より、
八幡大菩薩への祈念について



971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/11(木) 21:57:03.59 ID:FR0ccmK2
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11209.html
同じく一条兼良が義尚と日野富子のために書いた「樵談治要」「小夜のめさめ」についての女人礼賛についての箇所が前に出ていたけど
「神功皇后は八幡大菩薩の御母で…」
と書いてることを考えると、八幡信仰は武家の棟梁として当然とは言え
日野富子と義尚の母子を神功皇后と八幡大菩薩の母子に例えて間接的にヨイショしているような気も

このような名君が表れたのは天下の悦び

2018年08月18日 21:09

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 23:27:19.56 ID:MXVA3GZ4
文明11年の春、新将軍義煕(義尚)卿の御判始、評定始あり。これより天下の政道を執政された。
御年未だ15歳の御若冠であったが才徳が豊かで慈悲深く、その上理非分明にて御学業も怠らず、
このような名君が表れたのは天下の悦びであると、人々は皆、乱世の愁眉を開いた。

父である公方家義政公はこの年、諸国御治世についての政道を皆、新将軍家へ譲り渡し、大変喜んだ
様子であった。それより義政は隠居し、東山慈照寺の院内に東求堂を造らせ、ここに閑居されたため、
当時の人々は皆、彼を東山殿と呼んだ。
この東山殿は御若冠の頃より天性遊興、美麗の事を好まれ、芸能数寄の嗜みは世に超えており、
萬に結構を尽くさせたが、御隠居の後も累代の奇物、和漢の名器を収集し、茶の湯の会を催され、
世事雑用より逃れられ、ただ老楽の御楽しみにて月日を送られていた。
(中略)

同年秋7月、義尚より近代博覧の君子と聞こえる一条禅定殿下兼良公へ、天下を治める政道の事について
記すべきと御懇望あり、殿下は御辞退叶わず一巻の書を著し、新将軍家へ呈進された。
今の『樵談治要』がこれである。

(應仁後記)

足利義尚の将軍就任と足利義政の隠居のことなど


今も誠に賢い人がいるので

2018年03月17日 18:16

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 02:11:23.44 ID:f/6o7Uou
今も誠に賢い人がいるので


室町時代の公卿・一条兼良は応仁の乱後の混迷した状況の中で
将軍足利義尚に政道の指南と共に足軽の停止を唱えた『樵談治要』を
贈ったことで有名だが、その前にも義尚の母の日野富子に源氏物語を
講義した際、教養書の作成を依頼され富子宛に『小夜のねさめ』を書いている。

その中で女人政治に関する項がある。

「少し女房のことを言いますと、女というものは若いときは父に従い
 大人になれば夫に従い老いては子に従う者なので、自分の身を立てる必要が
 ないように言われていますが、大人しくなよなよとしているのがよい訳
 ではありません。大体この国は和国と言って女性が治めてもよい国でした。
 (中略。北条政子や女帝の例を挙げている)
 今も誠に賢い人がいるので、世のまつりごとをなさるべきでしょう」

"誠に賢い人"は当然日野富子のことである。
富子は兼良のパトロンと言っていい存在なので持ち上げられるのは当たり前だが
まだ生きているのに存在をスルーされている某八代将軍さんのちょっと悪い話。



609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 10:08:04.55 ID:MyuSZ3ut
>>607
「樵談治要」にも「小夜のねさめ」の女人政治への意見とほぼ同じことが書かれてるな
先祖九条家の慈円「愚管抄」の「日本国は女人入眼の国」とかも踏まえてるんだろうか

樵談治要
一簾中より政務ををこなはるゝ事。
此日本國をば?氏國といひ又倭王國と名付て。女のおさむべき國といへり。
されば天照太神は始祖の陰神也。神功皇后は中興の女主たり。此皇后と申は八幡大菩薩の御母にて有しが。
新羅百濟などをせめなびかして足原國をおこし給へり。目出かりし事ども也。又
推古三十四代天皇も女にて。朝のまつり事を行ひ給ひし時。聖德太子は攝政し給て。十七ケ條の憲法などさだめさせ給へり。
其後皇極三十六代持統四十一代元明四十三代元正四十四代孝謙四十六代の五代も皆女にて位に付。政をおさめ給へり。
もろこしには呂太后と申は漢の高祖の后惠帝の母にて政をつかさどり侍り。唐の世には則天皇后と申は高宗の后中宗の母にて年久敷世をたもち侍り。
宋朝に宣仁皇后と申侍りしは哲宗皇帝の母にて。簾中ながら天下の政道ををこなひ給へり。これを垂簾の政とは申侍る也。
ちかくは鎌倉の右大將の北の方尼二位政子と申しは北條の四郞平の時政がむすめにて二代將軍の母なり。大將のあやまりあることをも此二位の敎訓し侍し也。
大將の後は一向に鎌倉を管領せられていみじき成敗ども有しかば。承久のみだれの時も二位殿の仰とて義時も諸大名共に廻文をまはし下知し侍りけり。
貞觀政要と云書十卷をば菅家の爲長卿といひし人に和字にかゝせて天下の政のたすけとし侍りしも此二位尼のしわざ也。
かくて光明峯寺道家の關白の末子を鎌倉へよび下し猶子にし侍りて將軍の宣旨を申なし侍り。
七條の將軍賴經と申は是也。此將軍の代貞永元年に五十一ケ條の式目をさだめ侍て。今にいたるまで武家のかゞみとなれるにや。
されば男女によらず天下の道理にくらからずば。政道の事。輔佐の力を合をこなひ給はん事。さらにわづらひ有ベからずと 覺侍り。

小夜のねさめ
大かた此日本國は和國とて女のおさめ侍るべき國なり。天照太神も女躰にてわたらせ給ふうへ。神功皇后と申侍りしは八幡大菩薩の御母にてわたらせ給しぞかし。
新羅百濟をせめなびかして。此あしはらの國をおこし給ひき。
ちかくは鎌倉の右大將の北のかた尼二位政子殿は二代賴家實朝將軍の母にて。大將ののちはひとへに鎌倉を管領せられ。いみじく成敗ありしかば。
承久順德のみだれの時も。此二位殿の仰とてこそ義時ももろもろの大名には下知せられしか。
されば女とてあなづり申べきにあらず。むかしは女躰のみかどのかしこくわたらせ給ふのみぞおほく侍しか。
今もまことにかしこからん人のあらんは。世をもまつりごち給ふベき事也。



615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 10:14:02.14 ID:5nKM9M85
>>609
愚管抄同様、頼経の鎌倉下向を賞賛してる
玉葉もそうだけど著者の中では九条家の評価が高かったんだな

一条禅閤兼良公は博学多才の御方である

2016年01月05日 17:43

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/05(火) 04:57:05.46 ID:TholDEX4
 一条禅閤兼良公は博学多才の御方である。

彼を招いた歌の会等で、天満宮の尊影を崇め掛け置いていましたら甚だご立腹なされ、尊影を取り除かなかったらその席に着かれませんでした。
この事を知っている人は、彼がお加わりになる席には、決して天満宮の尊影かけなかったという。

この理由は彼が常々仰せられるには、
『菅家は唐朝までの書を知りなさっている。私は末代に生まれたので、明朝までの書を知っている。であるので菅家の次席には立たない。』とのことであった。

倭漢のことに博識であるが故に、慢心してしまいこのようになられたのだろう。

彼は乱世になると都に住むこともできず、美濃君の畑と申す所に御隠居なされたという。
(本阿弥行状記)

一応、落ち着いてからは京に戻れたのですがね



足がるといふ者長く停止せらるべき事

2015年02月18日 18:41

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/18(水) 00:43:58.70 ID:7BONnx8n
足がるといふ者長く停止せらるべき事

 昔から天下が乱れることはありましたが、足軽ということは旧記などにも記されていない名前であります。
平家のかぶろという事が珍しい例としてありましたが、このたび初めて出て来た足軽は度の越した悪党であります。
それは洛中洛外の諸社・諸寺・五山十刹・公家・門跡の滅亡は彼らの所行のせいであるからです。
敵が立て籠もっている所には役に立たないが、そうでない所々を打ち破ったり、火をかけて財宝を探す事は、昼強盗と言うにつきます。
このような例は先代未聞の事です。しかしながらこれは武芸が廃れたから出て来たのです。
名のある侍が戦うべきところを、武具を抜いて彼らに着せたから起きた事です。
そうであるので、随分の人が足軽の一矢で命を落として、当座の恥辱だけでなく、末代までの瑕疵を残したと聞いております。
いずれにせよ主のいない者はあってはなりません。
今後もこのようなことがあれば、主方それぞれとかけあって糾明してください。
また、土民商人であれば、在地に仰せ付けられて罪科のある禁制を置かれてたら、足軽の数が千に一となりいなくなるでしょう。
まさに下剋上の世である。外国への聞こえにも悪く恥ずかしいことである。

(樵談治要)

モヒカンに対処しきれないお公家さんの将軍に対する頼み事です



428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/18(水) 01:50:45.44 ID:EqMmNWpK
>>427
そういえばこの樵談治要って、一条兼良が9代将軍足利義尚のための教育用テキストとして書かれたのだけど、
後に豊臣秀頼の帝王教育のためのテキストとしても使われているんだよなあ。