乗阿と義光

2015年07月23日 15:40

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 02:43:24.57 ID:fjcy2PWW
乗阿と義光

最上義光は豊臣治世の折りに上方あり
山科言継、細川幽斎、里村紹巴、古田織部らの文人と交流し、文学や茶を学んだ
また京に滞在中に源氏物語の研究者である一花堂乗阿に直接指導を頂き、切り紙(免許)を許された

それからも義光は乗阿を師と仰ぎ交流を深め
慶長8(1603)年に乗阿を山形に招く事に成功した

乗阿は赤松氏の出で、甲斐源氏の武田信虎の養子とも言われ、なかなかの歳ではあったが義光の礼応じ山形を目指した

中途の旅で落馬をして腰を痛めて駕籠に乗り、ついに越後本庄を経て鶴岡から山形へ向かう

乗阿「山形も近くなれば、つくり並べたる家々数多く、柳桜植ゑぬ門もなく、見る目かがやくばかりなれば、おぼえずして又もとの都のうちに帰り入るかと、聞きしにはまさりはベりぬ」
「(山形は)見る目かがやくばかり」
「又もとの都のうちに帰り入るか」

田舎とばかり思われた出羽は義光の街普請で活気に満ちていた

そんな乗阿を迎えに義光自身が山形城の三ノ丸外まで赴いていた

乗阿「はるばるとさ迷い下ってきた心細さも、力がついた心地」

乗阿は山形城そばの光明寺の住職となり、大石(知行)の他にも事あるごとに米や布を持ち切れぬほど給せられ、連日義光やその家臣団に勉強会や連歌の集い、説法等に声を掛けられ持て囃されたという

「道記」

現在光明寺は山形城東大手門前(現山形美術館と最上義光歴史館敷地)から七日町の東側に移されたが、乗阿の墓所は最上家始祖斯波兼頼の墓の左側に佇んでいる



443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/23(木) 04:31:12.71 ID:ghkLyUV1
ヤクルト乗阿

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