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宗三に同意して長慶を敵になされたならば

2021年10月31日 16:59

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/31(日) 14:07:43.95 ID:HDlBXV01
天文の初めに細川晴元は王畿の兵制を定め将に命じた。まず三好筑前守長慶は河州にあって八幡表の先鋒とし、
三好入道宗三(政長)は摂州にあって山崎表の先鋒とした。これは京都に事あれば両口より攻め上り、
左右相救して功をなすためである。晴元はその権を執り中之島の城にあった。

ところで長慶の父海雲(三好元長)と同族宗三は権を争い常に不仲で、故に海雲が堺で一揆のために死亡したのも
宗三のなした事と思われていた。長慶は今また、宗三を退けて泉州河州摂州を共に自ら権を取らんとする。
しかし晴元はこれを許さず宗三と同意した。長慶は人を遣わし説いて曰く、

「我が祖が代々戦場に屍を晒したのも、わたくしの事ではありません。すべて公儀のために忠を尽くしたのです。
加えて管領澄元(細川澄元)が卒しなされて御家は滅亡なさるはずを、我が父元長入道海雲は甲斐甲斐しく
晴元を13歳になられた時に取り立て主君とし、高国(細川高国)と戦って勝ち、澄元没後の御憤を散じさせて
晴元に会稽の恥を雪がせました。

宗三は我が一族ではありますが、阿波の好みを捨て高国を輔佐して当家を滅ぼさんとしました。
その暴悪の逆徒なのですから、例え一命を御助けになることはあっても何故家臣となして国政を司らせるべきでしょうか。
これはただ、晴元が理に暗く海雲の忠を御忘れになっているのです。

私は不肖であるとも宗三の積悪を征して亡父海雲の憤りを晴らすことを望みます。
私は晴元に対して忠を忘れてはおりませんが、晴元がもし宗三に力を合わせて同意なさるならば容赦はしません。
これはまったく私の罪ではありません」

晴元はこれを聞かずに宗三と同意して長慶を敵とし、讃州に触れて軍勢を召した。讃州の諸将は議して曰く、
「晴元がもし長慶に同意されたならば事は行われるだろう。宗三に同意して長慶を敵になされたならば、
石を抱えて淵に入るようなものだ。宗三は武功があるとはいえ、大事をなすには不足である」

諸将は事を左右に寄せて遅参した。植田氏は十河一存と同意し、寒川氏も近年三好家に恩があり晴元の催促に従わない。
安富氏は去る12年11月に公儀のために淡州で死にその後は軍用に欠乏し郎従は不足して出ず、
香川氏は老衰により兵衆を出すと言いながら事寄せてこれを果たさず、各々時勢を考えて上洛する者はいなかった。

――『南海通記

こんな直球で言ったらそりゃ絶縁だよねっていう
三好政長細川高国を輔佐した事実はないのでそこは差し引かないといけない内容だが



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細川持隆の滅亡

2019年05月05日 17:30

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 20:30:24.56 ID:ULCC/Ej6
さて、永義(三好長慶)はその時(三好元長死去の時)10歳ほどであったのを、三好宗三(政長)と
松永久秀が心を一つにして盛り立てた。17歳から弓矢を取り、武功は比類なくして畿内に打って上り、
摂津の木戸・近江の佐々木(六角氏)・越前の朝倉・紀伊の畠山と挑み戦い、度々名誉を顕したという。

また弟の三好実休は阿波に留まり、細川殿の家内を治めるところにその時の細川殿(細川持隆)、後に
徳雲院と申した人が、「実休を成敗するべきだ」と家老の四宮与吉兵衛に内談なされたのを、四宮はす
ぐに実休に告げ知らせた。

それ故、天文21年(1552)3月5日に細川殿が勝瑞龍音寺へ出られたのを聞きすまして、実休は
2千ほどで打ち出て取り掛けた。このため細川殿の衆は尽く落ち失せ、星合と蓮池清介の2人が残った。
細川殿は是非なくその辺りの賢昌寺(見性寺)へ取り入って切腹したのである。

蓮池は細川殿の政道が正しくないことについて度々諫言し、勘当を蒙って扶助にも及ばない折であった
けれども、心良く腹を切って死んだという。また四宮与吉兵衛には実休が過分に加増を遣わしたが、一
年あって成敗となったのである。

――『三好別記』


江口の戦い

2015年02月10日 18:45

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 04:29:36.01 ID:9EBoU/Mx
細川晴元とその近臣三好宗三(政長)は、三好長慶と対立し、ついに戦端が開かれ摂津において対峙した。
天分18年(1549)5月28日、細川晴元は三好宗三の後援のため摂津三宅城に入る。
すると6月17日、三好宗三は味方の諸勢を催促して三宅から、中島の江口に陣取った。
三好長慶はこれを見て言った

「愚か者め。夏の虫が飛んで火にいると言う古人の言葉があるが、まさにこの事だ。
先手を打って三宅と江口の間の通路を封鎖せよ!」

そう、十河民部(一存)、安宅(冬康)、および淡路衆に命じ別府の川方に陣取らせたため、
たちまち宗三軍への兵糧を運搬する通路が塞がった。これに三好宗三は、川船を使い
近江の六角勢の救援を要請した。

6月23日、三好長慶は中島に諸士を集め評議をした。ここで十河民部が言った
「進撃するのに何の異論がありましょうや!義を見てせざるは勇なきなりと申します。
敵が攻撃を我等に躊躇させるほど勇猛であるとも聞きません。一方で、もし江州(六角)勢が
到着すれば、味方が利を失うことも考えられます。
急ぎ、京北の諸勢は三宅城を攻め立て、細川晴元に腹を切らせ、そこから江口に押し寄せ
平攻めに攻めて勝つ。何と心地よいことではありませんか!」

これに一同同意した。長慶は、主君晴元に腹を切らせるのは本意ではないと思案していたが、
十河民部はそこから終夜軍勢を進め、翌24日には河内衆、三好方衆は一気に江口に陣取った。

これに三好宗三勢は一戦にも及ばずたちまち崩壊し、日中に江口から逃げ出した。
長慶勢は彼らを追撃し、宗三勢は三好宗三入道、先の将軍ご一家天笠弥六、高畠甚九郎、平井新左衛門、
田井源助、波々伯部、豊田弾正といった名のある人々を始め、八百人が討ち死にしたという。
この敗戦は誠に天罰自滅であると、世間はそのように言った。

この三好宗三の敗戦により、榎並城に籠もる右衛門太夫、河原林衆対馬守をはじめとした軍勢も
方々へ落ち逃げた。この人々の親類際しの嘆いたこと、なかなか言葉にも出来ない有り様であった。

この時江州六角勢は京の山崎まで進出していたが、そこで江口合戦の結果を聞きみな帰国した。

問題の細川晴元は、三宅城にいたたまれず、味方の淡路衆に守られ丹波越して京に入ったが、
京も危険だと判断し、将軍義輝および大御所義晴を連れ近江坂本へと逃亡した。

(細川兩家記)

三好長慶が畿内の主導権を掌握した。江口の戦いについての逸話である。



『義元左文字』由来

2013年01月24日 19:53

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/23(水) 20:13:22.28 ID:HMDK0N41
京都の、織田信長を祀る建勲神社に、『義元左文字』という、二尺二寸一分の太刀が蔵されている。
その中子に、金象嵌で刻まれた文字には

『永禄三年五月十九日義元討捕、則彼所持刀、織田尾張守信長』
(永禄3年5月19日に今川義元を討取り、その折に彼が所持していた刀である。織田尾張守信長)

と、書かれている。義元が最後まで持っていた太刀なのだという。

ところが、この太刀は義元が持っていた時点では別の名で呼ばれていた。
それは『三好左文字』という。
この『三好』とは、管領細川晴元の側近であり、三好長慶と激しく争った彼の叔父、三好政長の事である。
この三好政長が江口の戦いで長慶に敗れて討ち死にした時、持っていたのがこの『三好左文字』であるというのだ。

その太刀を、武田信玄に追放された武田信虎が。畿内を周遊していた時に手に入れ、これを義元に贈ったものだという。


三好政長今川義元と、その所有する者を2代にわたり討ち死にさせた(信長まで入れれば3代である)、
数奇な太刀についての話である。




275 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/01/23(水) 22:08:44.34 ID:Xtm37D+S
『宗三左文字』だったような

ぶっちゃけ武将で数寄者と言えばこの人が元祖だよな
息子も数寄者でしかも手癖悪いし素晴らしい上に刀目利きでは幽斎の師
数寄者としての三好氏もかなりの可能性を秘めた存在

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/23(水) 22:32:26.22 ID:o7s9aYFW
この間建勲神社に行ってきた

大きな鳥居
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見取り図
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本殿
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大文字山が正面に見えた
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船岡山は京の真北
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