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三好が是程のうつけでは

2022年03月22日 16:52

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/22(火) 12:13:02.25 ID:uwizcW1I
三好左京大夫(義継)が将軍(足利)義輝公を討ち、その祝言の連歌をしようと連衆を集め、
里村紹巴、里村心前、灰屋紹由などが参った。座を定めて、三好殿が「発句をしたぞ」と申され、
そして句を出すと

『しやくとして しかもろとある木の上に くうくうとおなきやるハ八幡殿の御使か、
やら目出度やな』

とされた。満座興を覚ましていたが、三好殿が申すには
「”しゃく”はろの木、”くうくう”は鳩なり。」と申した。
その後色々有って百韻は終わった。

その後、織田信長公上洛の時、御咄のついでに、この発句の事を里村紹巴が御咄申した。
信長公はこれを笑われると思っていたのだが、御返事もなされず、無興にして座を立たれた。
紹巴も、どうして御意に入らなかったのだろうかと思いながら退出した。

信長公はすぐに森三左衛門(可成)を召して「先程の発句の物語を聞いたか」と仰せになった。
森が「承り候」と申すと、信長公は仰せになった

「三好が是程のうつけでは、天下を取るような事はできない。これを案ずるに、松永弾正(久秀)は
天下への望みが有って、先ず三好に将軍を討たせ、しかし三好はうつけであり、天下の支配は成らない、
その時天下を取るべしと考えている佞人なのだろう。
幸いに松永は出仕して在京しているのだから、これを早々に討つべし!」

森三左衛門は承ると
「仰せ、尤もであります。さりながら御上洛早々に、最初に出仕つかまつった松永を誅殺すれば、
今後味方に参る大名は無くなってしまうでしょう。ですので、重ねての事に遊ばされるべきです。
松永弾正は佞人なのですから、次第に悪逆を顕すでしょう。その節に成敗遊ばすべきです。」

と申したため、その時は松永安穏となった。

これは先の三好殿連歌の時の連衆の中に在った、灰屋紹由の咄だという。


川上久国雑話



411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/22(火) 14:02:32.05 ID:OkHuMmoM
里村紹巴、「時は今」の歌会にもいるし小説の主人公行けそうだよな
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古沼の浅き方より野となりて

2021年11月13日 16:35

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/13(土) 16:15:24.31 ID:FQlv6jhO
安宅冬康は善心の名君なれども人情の薄い乱れた末の世となり、猛悪が畿内に広がった。

故に三好長慶卒しなされて後、三好氏族は集議して左京大夫(三好義継)と阿波屋形(三好長治)に
讒して曰く、「冬康は天下の執事の望みがある故に、阿波淡路の兵将を懐けて諸国に睦をなし、
義継と長治を軽んじ申しているので、すぐにでも謀を巡らしなさらねば後難はまぬがれません」と相通じ、
このため義継と長治より大兵を催し、淡路由良の城を攻めた。

冬康はこれを聞いて「愚昧の者どもの悪業なれば諭しても分別はすまい。三好家の滅亡も近年中であろう。
先祖累代勲功をなして興起した当家を、愚昧の氏族どもが集まって破滅することこそ無念である。
それでは黄泉の道に出立しよう。今生の思い出に連歌を催さん」と、表八句の連歌をなされた。

その七句目「蘆に薄の交る一村(アシにススキの交わる一群)」に、
八句目「古沼の浅き方より野となりて(古沼は次第に乾いて野となりアシは少なくなった。世は移り変わるのだ)」
と冬康は句を付けなさり、大いに喜んで「さても快し。これまでなり、いざ打って出よ!」と、
城門を開けて突き出し、ついに戦死なさると聞く。

三好家滅亡の前兆であろうか、智能の子弟生まれずして愚昧の氏族が充満し、
自らの門葉の鏡とするべき冬康を失わせたことこそ浅ましきことである。

讃州の安富筑前守が淡州の役に死すと家の記にあるのもこの時であろう。国は遠く人伝に聞いたので、
その事実を洩らすことは本意ではないが、後時によく知る人を待って記すものである。

――『南海通記

冬康殺害を長慶死後とするのは著者香西成資の意図なのか、そう伝承されたものだろうか。
『三好別記』では最後の句を三好実休討死の報を聞いた直後に長慶が付けたものとしている。



179 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/13(土) 23:23:55.82 ID:xQThuIil
香西成資は讃岐香西氏の一族だが、小幡景憲に甲州流を学び軍学者として1682年黒田家に仕官、
福岡城下で四国の戦国史(南海通記)を執筆

こういう経歴見ると胡散臭いし思惑もすげえありそう

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/15(月) 01:51:14.03 ID:9pACqh2i
>>179
南海通記は南海治乱記を増補したもので内容はほぼ同じ
治乱記は黒田家仕官前に完成したので思惑があったとしても黒田家は関係なさそうだ

支配に弾正が威を振るったので

2021年06月13日 16:27

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/13(日) 12:58:26.15 ID:eUZaO4BL
天文19年、万松院(足利義晴)御逝去の時、光厳院公(足利義輝)御年5才ま
で守り立て、公方14代相続奉るように三好殿へ仰せあり。

三好細川修理大夫の家人で和泉境の牢人・松永弾正は平跡良くして、阿波の三好
家へ奉公に出て、後に和州南都東大寺の北の山城、多門造城を持つ。

三好修理殿は以後左京殿(三好義継か)の御乳母を松永の嫁とし、内縁故に都の
支配に弾正が威を振るったので、長臣衆と不和になる。

――『三河東泉記



806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/13(日) 13:06:16.29 ID:Sgq1CfgC
15歳じゃないのか
14代については義稙を2回数えるとして

言継卿記より、本圀寺の変について

2020年10月28日 17:49

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/27(火) 22:08:30.83 ID:AXIGWCDj
永禄十二年
一月四日
南方より敵(三好三人衆)が出張し、塩小路まで出てきたという。東岩倉の山本は敵になったという。
勝軍の城が焼かれ、その他田中、粟田口、角社一間、法性寺など、多く焼かれた。ぬかの小路は殆ど焼かれた。
京中は以ての外の騒動と成っている。

五日
三好日向守(長逸)、同下野入道釣竿(宗渭)、石成主税助(友道)以下、今日悉く本圀寺に取り詰め
これを攻め、午の刻(正午頃)に合戦、寺の外は焼かれ、中堂寺、不動堂、竹田などが放火された。
武家(足利義昭)の御足軽衆以下二十余名が討ち死にしたという。攻め手の衆も、死人手負いが数多あるという。

六日
内侍所の簀子より遠見をした。南方は所々放火され、四、五百ほどの人数が如意寺の嶽を越え、志賀は
少々放火されている。晩頭に帰る。南方(三好三人衆勢)の事について聞くと、方々で彼等は敗北したと言っている。

三好日向守以下は七條に向かったが、これに西より池田、伊丹衆、北より奉公衆、南より三好左京大夫(義継)が
彼等と戦い、三好義継が鑓を入れ、三方より斬りかかったため、三人衆以下は申の刻(午後四時頃)敗軍し、
多くが討ち死にしたという。その後黄昏に及んだため、殊更の事は無かった。

七日
七條において、昨日討ち死にした衆は千余人という。ただし彼等の名字や特徴は解らないという。
石成主税助は北野の松梅院に逃げ入ったという。そこに各々討ち入り、松梅院は破却されたという。
久我入道愚庵(晴通)によると、細川兵部大輔(藤孝)、池田筑後守(勝正)の姿が見えないという。
三好日向入道以下は、各々八幡へ落ちていったという。

九日
耆波宮内大輔が礼に来て、盃を勧めた。三好左京大夫、細川兵部大輔、池田筑後守等は西岡の
勝隆寺へ、昨夜入ったと言うことを雑談した。

十日
美濃より織田弾正忠(信長)上洛、松永弾正少弼(久秀)も同道したという

言継卿記

言継卿記より、本圀寺の変について



永禄の変についてのフロイスの報告

2020年10月14日 17:06

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/14(水) 15:27:20.15 ID:fVPTpVlb
翌日、即ち一昨日、聖三位一体の日曜日の朝、三好殿(フロイスは長慶としているが義継)は騎馬の士約七十を
率い、偽って(京都)市外約七十レグワの寺院(清水観世寺)に遊ぶとして、少しばかり市外に出た後忽ち
引き返して、公方(足利義輝)の宮城に向かった。朝のことであり公方様の邸に在った者は二百人に過ぎなかった。
しかも多くは都の主だった大身であったが、直ぐに三好勢一万二千人に囲まれ、三好殿は宮城の堀に架けた
一の橋に至る一門に向かい、他二人の領主(松永久通、三好長逸か)は他の門に向かった。

城内にては、このような意外の叛逆を予想せず、門は悉く開かれていたため、銃手の大集団が侵入し、
公方様に対し、書付を呈したいと欲した故に、こちらに来てこれを受け取るようにと述べた。

前に報告したように、我々の教会に招待したこともあり、また公方様の昵近者にて我々を公方様に紹介した
老人(進士晴舎)が出て書付を受け取り、直ぐに読んだ所、第一に、公方様がその妻(側室)、即ち同老人の
娘を殺し、又他の多数の大身達を殺す事で。それが行われれば平穏に退出する、と云うことであった。
老人はこれに欺瞞を見て、書付を地に投げ捨て、主君である国王に対し、この如き叛逆を起こす者の、畏れ無く
恥無きを大いに責め、既にこのような状況であれば、彼自ら腹を切るべしと云った。

諸侯が敵に抵抗すること能わざる時は、短剣を取っておのれの腹を切るのが日本一般の最も古い習慣にして、
君臣共にこれを行う。

老人は内に入り、公方様の前に於いて自殺した。そして我等の親友であるその子(進士主馬允)が邸より出て
三好勢と暫く戦ったが、間もなくこれは殺され、外より邸に向かって激しく銃が放たれた。
この時公方様の武士四人が門前に来て、門を敲いて開くように求めたが、内より今これを開く事は出来ないと
答えられると、彼らは短剣を抜いて腹を切って死んだ。

暴君らの悪心は益々増長し、この上彼らの希望を延期することは出来ないと、宮殿に火を放つよう命じた。
公方様は外に出ようと欲し、その母と抱き合った。彼女は我等が大いなる歓待を受けた老婦人である。
公方様は火災、及び必要に迫られ、部下とともに戦を始め、腹に一鑓、頭に一矢、背に刀傷二つを受けて死んだ。

公方様の兄弟である、二十歳の青年の坊主(周暠)はその母とももに家に在ったが、(三好勢は)直ぐに
これを殺し、母を捕らえた。彼女の命を助けるべしと云う者、またこれを殺すべきという者があったが、多くの
刀傷を与え、子の側においてこれを殺した。

大身達の娘である宮中の婦人たちは、焼失した宮殿より出てきた所を、兵士たちはこれを斬り始めた。
十五人、乃至二十人が武器を恐れて宮殿の一の家に入ったが、その後火を逃れることが出来ず悉く焼死した。
また数人、外に出た者があったが、兵士たちはその衣服を奪った。その中に王妃(近衛稙家娘)が在ったと
云われるも未だ発見できず、今、刑に処するためこれを捜索し、その居る家を告げる者には巨額の金銭を与え、
またその髪を取って(捕縛して)彼らの前に連れてきた者には一層巨額の金銭を約束した。

公方様の娘二人が、兵士の足下に捨てられていたが、一人のキリシタンがこれを見つけて、救って屋内に
収容することを請うた。
十三、四歳の少年武士は、公方様の面前にて戦を始めたが、叛逆者たちは生きながらこれを捕え、殺さない
ようにと努力した。少年は公方様が死んだのを見て、生存するのは大いなる不名誉と考え、手中の剣を捨て、
短剣を取って少しばかり喉を切り、次に腹に当ててその上に伏した。
最も愛する者よ、これによってこの国民の、生命を惜しまない事がいかに甚だしいかを見るべし。

『一五六五年六月十九日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

永禄の変についてのフロイスの報告。これを素直に読むと、進士晴舎の切腹に激昂した息子の主馬允が
取り囲んでいた三好勢に戦闘を仕掛け、それに三好勢も反撃して戦闘が拡大した感じですね。



408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/14(水) 15:39:12.60 ID:W9XfORRk
長慶の死亡の秘匿の保持されっぷりはなんなんだろうね
信玄とか秒でばれてるのに

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/14(水) 16:17:46.24 ID:blxpQOBl
想像だけど、長く臥せていたから死の前後であまり変化がなかったんじゃないかと
信玄なんかは勝ってたのがいきなり撤退してこれからは勝頼が~だもの

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/14(水) 17:31:21.23 ID:KvZqtLJB
長慶は晩年がアレなんで、政治的には死んでも大した影響が出ていなかったので隠せたのかもしれない。

猿澤の池変え

2020年08月23日 17:28

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/23(日) 16:05:28.97 ID:cj6DY8oA
慶長十四年、奈良の猿澤の池を十月十五日より水を変え、11月四、五日頃、魚を一方の
水のたまりに寄せ、主池を掃除し、二十二日に小川の水を入れた、この時、魚などが十荷ばかり死んだ。

これは一乗院の夢のお告げによるものであったが、この事は不吉の例であると云われた。
昔年、八十年以前にもこのように池変えをして天下凶であった。
また去る永禄十年に、この池の水を変えたという。
その翌年、天下大乱となり、これによって三好(天下主)家は滅亡した。

当代記



291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/23(日) 18:31:15.94 ID:TF5XdP9b
一方信長は池に大蛇が出るという噂が出ていたため
池の水を抜いて、いないことを実証した

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/24(月) 08:38:07.44 ID:KAicSMY6
>>290
一度に水を大量に替えたから
温度変化やpHショックで落ちたんだろ
もっとお魚さんに優しい換水しろ

足利義輝の陰謀

2019年06月04日 17:01

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 14:53:53.73 ID:cSFIfsi/
一、畠山右衛門督高政は前将軍の時から牢人して紀州広という所にいたが、将軍(足利義輝)より密かに免
  状を差し遣わし、「実休(三好実休)を討ち取るべし」との由を仰せ付けられた。高政と細川・三好家
  は年来の仇敵である故なり。

  高政は畏まって紀州の諸侍や熊野根来まで借り催し、その勢1万5千余騎。永禄3年(1560)2月
  下旬に紀州を出立し、まず和泉岸和田城を攻めた。これは阿波から実休を誘き出そうとの謀なり。

  岸和田城は実休上洛中の宿りの城で、舎弟の安宅摂津守(冬康)を籠め置いていた。案の定、この由を
  聞き付けて阿波から実休が人数を引き連れ、後巻を仕る。さて久米田という所で一戦に打ち負け、同年
  3月5日に実休自害す。これにより高政はたちまちに運を開いた。

一、その後、和泉の筒井喜三という者は人数2万ばかりで阿波木本という所に打って出て、三好家と度々戦
  うが、ついに三好宗三(政長)に討たれた。これも義輝から喜三方への内意と聞く。その子細はこれほ
  どの大乱で三好左京太夫義誥(義継)は、両度の合戦に虚病を構えて出合わなかった。

  義誥は義輝公の従弟婿であることにより、両陣ともに出立しないようにとの由で、義輝公からの内書が
  あった故である。さて喜三討死の後は、義誥の他の三好家は義輝と不和になったという。

――『阿州将裔記』

史実と合いませんが義輝の策謀を伝えるものでしょうか



112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 18:41:52.30 ID:yjPfJm9C
義輝さんて松永久秀から悪人呼ばわりされたこともあるとかなんかで見た
将軍家ってやっぱり少なからず陰謀しないと生きてけないんだろな

定直を“乾内蔵允義直”となされ給う

2019年06月03日 18:15

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 18:06:07.99 ID:LHCbPT9u
義昭(足利義昭)を都に据え置かれたが、信長と不和になって天正の初めに山城宇治にて合戦あり
(槇島城の戦い)。義昭公はたちまち敗軍して河内若江庄へ落ち行き、左京太夫義誥(三好義継
を頼みなさったけれども、どのように思ったのか城中へも入らなかった。

そのようなところで同じ若江の住人・乾太郎右衛門定直という者は、先年に義冬(足利義維)が都
から阿波へ下向した時に下った者であるが、義冬が周防へ下向した時に子細あって暇を乞い、故郷
若江に帰り義誥の旗下になっていた。定直は義昭公の有様をいたましく思い、自分の館へ招待した。

義昭公は定直の先祖を尋ねなさって、定直を“乾内蔵允義直”となされ給う。義昭公は乾の館で数日
過ごされなさったが、取り立てる人もいなかった。

――『阿州将裔記』



109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 08:55:14.01 ID:yjPfJm9C
義昭さんは信長さんの言うこと聞いとけば良かった

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 14:03:19.65 ID:19lOBpdD
統治機構パクれた時点で用済みではあるからなぁ

三好義継三家老の別心

2019年05月31日 15:25

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 14:30:07.73 ID:lX7j0Ovy
霜月4日。信長御上洛、二条妙覚寺に御寄宿。

三好左京太夫殿(義継)が非儀を構えられたことにより、家老の衆である多羅尾右近(綱知)・池田丹
後守(教正)・野間佐吉(長前)の両三人が別心を企てる。

金山駿河は諸般を1人の覚悟に任せられたので、(両三人は)金山駿河を生害させて佐久間右衛門(信
盛)を引き入れて天守の下まで攻め込んだところ、(左京太夫殿は)叶い難しと思し召して御女房衆と
御子息達を皆刺し殺して切って出た。数多の者に手を負わせると、その後に左京太夫殿は腹を十文字に
切って比類なき御働きをされた。哀れなる有様なり。

御相伴の人数は那須久右衛門・岡飛騨守・江川。この3人が追腹仕って名誉の次第はこの節なり。若江
の城は両三人の御忠節に付き、(両三人に)預け置かれた。

――『信長公記』


義詰(義継)

長慶の息男である(実際は十河一存の子)。三好左京太夫と号す。天文の末より河内国若江に居住した。
将軍義昭公の妹婿なり。

天正の初めに義昭公を信長公が配流なされた時に「義詰は義昭公の妹婿で三好の惣頭なれば、とにかく
討ち果たせ」と、信長公が若江の城へ攻め寄せなさると、義詰の家老3人が信長公へ返忠した。

義詰は「この上は戦うべきにあらず」と大手の矢倉に上がって腹を十文字に掻き切り、臓を掴み出して
投げ捨てた。そして遊佐与伝という者を呼んで「介錯せよ」と申せば、与伝は畏まって太刀を振り上げ
るも、兜に妨げられて「介錯ならず!」と申した。

すると義詰は両手で兜を押し上げなされ、与伝は両手をかけて義詰の首を打ち落とし、差し上げて敵に
見せると、矢倉に火を掛けて同じく腹を掻き切って死んだ。

信長公は見なさって「天晴、大将かな。このような主君を持って逆心をなした家老どもの浅ましさよ」
と、惜しみなさったと聞く。

また一説に義詰は病死と言われている。誤りなり(三好義興との混同か)。

――『阿州将裔記』



961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 17:07:14.84 ID:iWjrhi5I
>金山駿河は諸般を1人の覚悟に任せられたので

ここはどういう事を指してるんだろう

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/01(土) 08:55:47.76 ID:tqmeloYc
オラ達は信長様に逆らっちゃなんねえってあれほど口酸っぱく言ったのに主君を唆してひどい奴だ!そうなんですコイツが悪いんですよ佐久間様!金山責任とれ切腹だ!

三好義興の死について

2018年04月12日 16:47

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 12:32:24.60 ID:rQneZYFw
永禄六年卯月(四月)朔日に、雷がおびただしく落ち京中振動し、東寺の塔へ雷火落ちかかり
たちまちに焼失した。これは、三好家があまりに驕りを極め天下に威勢をふるっているが故に、
天道は満つれば欠ける習いなれば、全ての物に有る、余りに過ぎて溢れる時節が到来したため、
このような天災のお告げもあるのだろう。この上に一体何事があるのか。
そう人々は危ぶみ思った。

そのような中、果たしてその年の八月二十五日、三好長慶の一子、筑前守義興が芥川城にて
死去した。黄疸という病に罹り、たちまち死に及んだという。
父長慶は申すに及ばず、公方義輝も御愁傷限りなかった。

この死について、義興が近くに召し使う者の中に、食事に毒を入れて奉りかく逝去したのである
という話が後に聞かれた。また松永(久秀)の仕業であるとの言われた。

長慶は家督相続の子を無くし、十河一存の子息・熊王という者を養子とし家督に定めた。
三好左京大夫義続がこれである。三好家の政道は専ら松永と三人衆の心のままであり、
勅命も恐れず武命(将軍の命令)も用いず我意に任せていた。

(足利季世記)

三好義興の死について



662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:33:57.72 ID:R36Ud/OQ
雷の失火まで政治のせいにされてしまうのか
まあ、場所が場所だからなんだろうけど

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:40:53.12 ID:BPEyr8p9
前に国会議事堂に雷が直撃した時、政治がどうのとネタにされてたような

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:53:00.31 ID:OpdJpaR+
>>662
ヨーロッパですらリスボン地震までは天災はキリスト教的に正しい行いをしていないための天罰という扱いだから、
近代になるまでは世界のどこでもそうだと思う。

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:56:56.51 ID:BPEyr8p9
リスボン地震の翌日にマリー・アントワネットが生まれた
つまり天罰と言うよりむしろ王朝崩壊の予兆だったのだ

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 23:08:39.91 ID:IIMqBX7W
>>661
>という話が後に聞かれた。また松永(久秀)の仕業であるとの言われた。
            , ;,勹
           ノノ   `'ミ
          / y ,,,,,  ,,, ミ
         / 彡 `゚   ゚' l
         〃 彡  "二二つ
         |  彡   ~~~~ミ      はいはい、わしのせい わしのせい
     ,-‐― |ll  川| ll || ll|ミ―-、
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/    爆      \`i / /  弾   |

三好家落人の島

2018年01月04日 17:28

450 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/01/03(水) 18:27:12.08 ID:DNcERBxF
 香川県善光寺市沖に伊吹島という島がある。
 さて、この島は落人の島でもある。それ自体は瀬戸内にはよくある話だったが、この島は少し毛色が違うところもあった。
 というのも、この伊吹島は西国に数多存在する平家伝承の島ではなく、戦国期三好家の落人の島だというのである。

 天正元年のこと、義兄である第十五代将軍足利義輝に従って反織田信長の兵を挙げた三好義継は摂津若江城で自決、
三好宗家はこれにて滅んだ。
 しかし義継の死に先んじて子の義兼、義茂の二人は家臣に擁せられて四国へ落ち延びていた。
 四国でも三好家の形勢よろしくない中、弟の義茂は何時の時にか讃岐の沖合にある伊吹島へと逃れた。
 ところがこの地には讃岐国衆大平氏に仕える合田氏が先に開拓に入っていた。
 大平氏は善通寺合戦等でも西讃側に属した反三好党だったことも災いしたか、後から入植した三好残党との関係は急速に悪化。
 このため後に三好義兼が八十騎を率いて島外より来援、合田氏と合戦に及んだのだという。
 しかし合戦は双方の痛み分けに終わり、三好残党の大将義兼は討ち死に。
 合田氏側もその後、主君大平氏共々戸次川で没落しており、三好党を追い落とすほどの力を保てなかったようで、
以後三好党は島の東部に、合田氏は島の西部の勢力分割が確定した。
 両家の集落間では婚姻禁止や交通の制限等の相互敵対の掟が近世まで残っている。

 また新たに義茂を当主に担いだ三好党も合田氏同様、四国本土の三好勢力が戸次川で壊滅した上、讃岐新国主の生駒氏は
当初在地勢力に極めて厳しく当たった為か義茂、正継は早世、自決と続き、孫の義浄の代にようやく島の有力者として認められ、
以後幕末まで政所と呼ばれる地位(庄屋相当?)にあって島政に携わった。

 ○○家の子孫を名乗るのは珍しくなくても、集落丸ごと落人の村というのは戦国時代では珍しく思ったので投稿。
 でもって近代まで伊吹島の三好系住民と合田系(先住系)住民は仲悪かったそうなので悪い話に。



451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/04(木) 13:37:30.11 ID:BiI5NWw0
>>450
そこまで一応共存できたのは仲が良いのか悪いのかw

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/04(木) 13:40:58.66 ID:Qlprx8oR
力が拮抗してたんでしょうな

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/04(木) 15:11:02.38 ID:DwCVvaBO
>>450
どの辺のどんな島かなと思って調べたら、
1950年 5000人
2010年 700人
2017年 400人

って人口推移データ出てきてそっちのが目を引いたわ
限界集落やべぇな

この根本を三好は推し量り

2017年01月25日 09:21

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/25(水) 04:00:28.67 ID:CHjahkZO
佐々木承禎(六角義賢)は、三好のことを憎んで、「四国から異な者が
上り居て、威を振るうことかな」と、終いには三好追討のことを

公方に勧め、時に東山へ勢を出した。この根本を三好は推し量り、
松永(久秀)を大将として、公方を弑逆した。

承禎は家来の後藤という者の娘が、公方に近侍しているのを縁として、
公方に親しかった。

松永は三好の乳母に密通し、これを縁として三好は松永に親しかった。

――『武功雑記』



549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/25(水) 11:53:48.33 ID:8SvKVSKd
さすがゴールドフィンガー霜台さんやで

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/25(水) 18:09:13.59 ID:ivLwVkKw
黄素妙論(震え声

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/26(木) 19:09:47.99 ID:6U7WMmld
黄素妙論は道三が松永に渡した本だが
松永が書いた、という意味でなければスマソ