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足利義輝の陰謀

2019年06月04日 17:01

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 14:53:53.73 ID:cSFIfsi/
一、畠山右衛門督高政は前将軍の時から牢人して紀州広という所にいたが、将軍(足利義輝)より密かに免
  状を差し遣わし、「実休(三好実休)を討ち取るべし」との由を仰せ付けられた。高政と細川・三好家
  は年来の仇敵である故なり。

  高政は畏まって紀州の諸侍や熊野根来まで借り催し、その勢1万5千余騎。永禄3年(1560)2月
  下旬に紀州を出立し、まず和泉岸和田城を攻めた。これは阿波から実休を誘き出そうとの謀なり。

  岸和田城は実休上洛中の宿りの城で、舎弟の安宅摂津守(冬康)を籠め置いていた。案の定、この由を
  聞き付けて阿波から実休が人数を引き連れ、後巻を仕る。さて久米田という所で一戦に打ち負け、同年
  3月5日に実休自害す。これにより高政はたちまちに運を開いた。

一、その後、和泉の筒井喜三という者は人数2万ばかりで阿波木本という所に打って出て、三好家と度々戦
  うが、ついに三好宗三(政長)に討たれた。これも義輝から喜三方への内意と聞く。その子細はこれほ
  どの大乱で三好左京太夫義誥(義継)は、両度の合戦に虚病を構えて出合わなかった。

  義誥は義輝公の従弟婿であることにより、両陣ともに出立しないようにとの由で、義輝公からの内書が
  あった故である。さて喜三討死の後は、義誥の他の三好家は義輝と不和になったという。

――『阿州将裔記』

史実と合いませんが義輝の策謀を伝えるものでしょうか



112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 18:41:52.30 ID:yjPfJm9C
義輝さんて松永久秀から悪人呼ばわりされたこともあるとかなんかで見た
将軍家ってやっぱり少なからず陰謀しないと生きてけないんだろな
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定直を“乾内蔵允義直”となされ給う

2019年06月03日 18:15

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/03(月) 18:06:07.99 ID:LHCbPT9u
義昭(足利義昭)を都に据え置かれたが、信長と不和になって天正の初めに山城宇治にて合戦あり
(槇島城の戦い)。義昭公はたちまち敗軍して河内若江庄へ落ち行き、左京太夫義誥(三好義継
を頼みなさったけれども、どのように思ったのか城中へも入らなかった。

そのようなところで同じ若江の住人・乾太郎右衛門定直という者は、先年に義冬(足利義維)が都
から阿波へ下向した時に下った者であるが、義冬が周防へ下向した時に子細あって暇を乞い、故郷
若江に帰り義誥の旗下になっていた。定直は義昭公の有様をいたましく思い、自分の館へ招待した。

義昭公は定直の先祖を尋ねなさって、定直を“乾内蔵允義直”となされ給う。義昭公は乾の館で数日
過ごされなさったが、取り立てる人もいなかった。

――『阿州将裔記』



109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 08:55:14.01 ID:yjPfJm9C
義昭さんは信長さんの言うこと聞いとけば良かった

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/04(火) 14:03:19.65 ID:19lOBpdD
統治機構パクれた時点で用済みではあるからなぁ

三好義継三家老の別心

2019年05月31日 15:25

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 14:30:07.73 ID:lX7j0Ovy
霜月4日。信長御上洛、二条妙覚寺に御寄宿。

三好左京太夫殿(義継)が非儀を構えられたことにより、家老の衆である多羅尾右近(綱知)・池田丹
後守(教正)・野間佐吉(長前)の両三人が別心を企てる。

金山駿河は諸般を1人の覚悟に任せられたので、(両三人は)金山駿河を生害させて佐久間右衛門(信
盛)を引き入れて天守の下まで攻め込んだところ、(左京太夫殿は)叶い難しと思し召して御女房衆と
御子息達を皆刺し殺して切って出た。数多の者に手を負わせると、その後に左京太夫殿は腹を十文字に
切って比類なき御働きをされた。哀れなる有様なり。

御相伴の人数は那須久右衛門・岡飛騨守・江川。この3人が追腹仕って名誉の次第はこの節なり。若江
の城は両三人の御忠節に付き、(両三人に)預け置かれた。

――『信長公記』


義詰(義継)

長慶の息男である(実際は十河一存の子)。三好左京太夫と号す。天文の末より河内国若江に居住した。
将軍義昭公の妹婿なり。

天正の初めに義昭公を信長公が配流なされた時に「義詰は義昭公の妹婿で三好の惣頭なれば、とにかく
討ち果たせ」と、信長公が若江の城へ攻め寄せなさると、義詰の家老3人が信長公へ返忠した。

義詰は「この上は戦うべきにあらず」と大手の矢倉に上がって腹を十文字に掻き切り、臓を掴み出して
投げ捨てた。そして遊佐与伝という者を呼んで「介錯せよ」と申せば、与伝は畏まって太刀を振り上げ
るも、兜に妨げられて「介錯ならず!」と申した。

すると義詰は両手で兜を押し上げなされ、与伝は両手をかけて義詰の首を打ち落とし、差し上げて敵に
見せると、矢倉に火を掛けて同じく腹を掻き切って死んだ。

信長公は見なさって「天晴、大将かな。このような主君を持って逆心をなした家老どもの浅ましさよ」
と、惜しみなさったと聞く。

また一説に義詰は病死と言われている。誤りなり(三好義興との混同か)。

――『阿州将裔記』



961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 17:07:14.84 ID:iWjrhi5I
>金山駿河は諸般を1人の覚悟に任せられたので

ここはどういう事を指してるんだろう

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/01(土) 08:55:47.76 ID:tqmeloYc
オラ達は信長様に逆らっちゃなんねえってあれほど口酸っぱく言ったのに主君を唆してひどい奴だ!そうなんですコイツが悪いんですよ佐久間様!金山責任とれ切腹だ!

三好義興の死について

2018年04月12日 16:47

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 12:32:24.60 ID:rQneZYFw
永禄六年卯月(四月)朔日に、雷がおびただしく落ち京中振動し、東寺の塔へ雷火落ちかかり
たちまちに焼失した。これは、三好家があまりに驕りを極め天下に威勢をふるっているが故に、
天道は満つれば欠ける習いなれば、全ての物に有る、余りに過ぎて溢れる時節が到来したため、
このような天災のお告げもあるのだろう。この上に一体何事があるのか。
そう人々は危ぶみ思った。

そのような中、果たしてその年の八月二十五日、三好長慶の一子、筑前守義興が芥川城にて
死去した。黄疸という病に罹り、たちまち死に及んだという。
父長慶は申すに及ばず、公方義輝も御愁傷限りなかった。

この死について、義興が近くに召し使う者の中に、食事に毒を入れて奉りかく逝去したのである
という話が後に聞かれた。また松永(久秀)の仕業であるとの言われた。

長慶は家督相続の子を無くし、十河一存の子息・熊王という者を養子とし家督に定めた。
三好左京大夫義続がこれである。三好家の政道は専ら松永と三人衆の心のままであり、
勅命も恐れず武命(将軍の命令)も用いず我意に任せていた。

(足利季世記)

三好義興の死について



662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:33:57.72 ID:R36Ud/OQ
雷の失火まで政治のせいにされてしまうのか
まあ、場所が場所だからなんだろうけど

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:40:53.12 ID:BPEyr8p9
前に国会議事堂に雷が直撃した時、政治がどうのとネタにされてたような

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:53:00.31 ID:OpdJpaR+
>>662
ヨーロッパですらリスボン地震までは天災はキリスト教的に正しい行いをしていないための天罰という扱いだから、
近代になるまでは世界のどこでもそうだと思う。

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:56:56.51 ID:BPEyr8p9
リスボン地震の翌日にマリー・アントワネットが生まれた
つまり天罰と言うよりむしろ王朝崩壊の予兆だったのだ

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 23:08:39.91 ID:IIMqBX7W
>>661
>という話が後に聞かれた。また松永(久秀)の仕業であるとの言われた。
            , ;,勹
           ノノ   `'ミ
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         〃 彡  "二二つ
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三好家落人の島

2018年01月04日 17:28

450 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/01/03(水) 18:27:12.08 ID:DNcERBxF
 香川県善光寺市沖に伊吹島という島がある。
 さて、この島は落人の島でもある。それ自体は瀬戸内にはよくある話だったが、この島は少し毛色が違うところもあった。
 というのも、この伊吹島は西国に数多存在する平家伝承の島ではなく、戦国期三好家の落人の島だというのである。

 天正元年のこと、義兄である第十五代将軍足利義輝に従って反織田信長の兵を挙げた三好義継は摂津若江城で自決、
三好宗家はこれにて滅んだ。
 しかし義継の死に先んじて子の義兼、義茂の二人は家臣に擁せられて四国へ落ち延びていた。
 四国でも三好家の形勢よろしくない中、弟の義茂は何時の時にか讃岐の沖合にある伊吹島へと逃れた。
 ところがこの地には讃岐国衆大平氏に仕える合田氏が先に開拓に入っていた。
 大平氏は善通寺合戦等でも西讃側に属した反三好党だったことも災いしたか、後から入植した三好残党との関係は急速に悪化。
 このため後に三好義兼が八十騎を率いて島外より来援、合田氏と合戦に及んだのだという。
 しかし合戦は双方の痛み分けに終わり、三好残党の大将義兼は討ち死に。
 合田氏側もその後、主君大平氏共々戸次川で没落しており、三好党を追い落とすほどの力を保てなかったようで、
以後三好党は島の東部に、合田氏は島の西部の勢力分割が確定した。
 両家の集落間では婚姻禁止や交通の制限等の相互敵対の掟が近世まで残っている。

 また新たに義茂を当主に担いだ三好党も合田氏同様、四国本土の三好勢力が戸次川で壊滅した上、讃岐新国主の生駒氏は
当初在地勢力に極めて厳しく当たった為か義茂、正継は早世、自決と続き、孫の義浄の代にようやく島の有力者として認められ、
以後幕末まで政所と呼ばれる地位(庄屋相当?)にあって島政に携わった。

 ○○家の子孫を名乗るのは珍しくなくても、集落丸ごと落人の村というのは戦国時代では珍しく思ったので投稿。
 でもって近代まで伊吹島の三好系住民と合田系(先住系)住民は仲悪かったそうなので悪い話に。



451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/04(木) 13:37:30.11 ID:BiI5NWw0
>>450
そこまで一応共存できたのは仲が良いのか悪いのかw

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/04(木) 13:40:58.66 ID:Qlprx8oR
力が拮抗してたんでしょうな

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/04(木) 15:11:02.38 ID:DwCVvaBO
>>450
どの辺のどんな島かなと思って調べたら、
1950年 5000人
2010年 700人
2017年 400人

って人口推移データ出てきてそっちのが目を引いたわ
限界集落やべぇな

この根本を三好は推し量り

2017年01月25日 09:21

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/25(水) 04:00:28.67 ID:CHjahkZO
佐々木承禎(六角義賢)は、三好のことを憎んで、「四国から異な者が
上り居て、威を振るうことかな」と、終いには三好追討のことを

公方に勧め、時に東山へ勢を出した。この根本を三好は推し量り、
松永(久秀)を大将として、公方を弑逆した。

承禎は家来の後藤という者の娘が、公方に近侍しているのを縁として、
公方に親しかった。

松永は三好の乳母に密通し、これを縁として三好は松永に親しかった。

――『武功雑記』



549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/25(水) 11:53:48.33 ID:8SvKVSKd
さすがゴールドフィンガー霜台さんやで

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/25(水) 18:09:13.59 ID:ivLwVkKw
黄素妙論(震え声

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/26(木) 19:09:47.99 ID:6U7WMmld
黄素妙論は道三が松永に渡した本だが
松永が書いた、という意味でなければスマソ