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どうして『天下を進ぜられましょう』と

2019年05月22日 13:19

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/21(火) 18:10:48.03 ID:D7yWtb0Y
三好筑前守(義興)。実名存ぜず。長慶嫡子。

摂津芥川に在城。20歳ばかりで病死致されたとの由を申す。

由座(遊佐か)・畠山(高政)が飯盛の城へ押し寄せて長慶は少ない人数で籠城したため、落城と極
まるところに筑前守は芥川の城でこれを聞き申され、松永(久秀)と相談して「後巻致されるべし」
と談合は極まった。

しかしながら、少ない人数のために成し難いため、安宅摂津守(冬康)に「味方に加わりなされ」と
三好下野(宗渭)を使者にして淡路へ差し遣された。安宅は同心申されて、松永・安宅が先手となり
筑前守は飯盛の後巻として出陣、大敵を一戦で追い払い申された(教興寺の戦い)。この時、筑前守
18歳という。

松永と安宅が先陣を争い申された時の筑前守の裁判は肝を潰したとの由を、三好因幡(為三。宗渭の
弟)の話で承った。

この時に下野守が淡路へ参って帰り、筑前守は「安宅は味方を致しなさると申されたか」と、尋ねな
された。これに下野守は申して「いかにも御同心です。しかしながら、安宅殿に似合い申さぬことを
仰せられました。『御合戦が御利運となったならば、どこの国を下されるのか』と御申しです」との
由を物語り致した。

これに筑前守が「返事はどのように申したのだ」と尋ねなさると、下野守は「『御国はいずこなりと
も御望み次第』と請け合い申しました」との由を申した。

すると松永はこれを聞いて「下野殿とも思えぬ返事を申される。どうして『天下を進ぜられましょう』
と申されなかったのか」と申したという。

この由を側で承ったように因幡は話申された。

――『三好別記』



60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 10:33:26.45 ID:hDnie7Gp
>>57
天下の望みが本当かどうかの確認ですね
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良き大将でござった由を

2019年05月20日 15:51

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 03:38:02.63 ID:lSOa7hwQ
安宅摂津守冬康。法名・一舟軒。長慶弟。

淡路国守護。度々手柄を致す。良き大将でござった由を申し伝える。隠れ無き歌人でござった。

天下の望みがある由につき、長慶は家老の松永弾正久秀や三好下野守(宗渭)などと相談して、
後には摂津芥川の城において、吉成勘助と申す者に申し付けて成敗致した。

供に参った家子は数百人。安宅の家老・里吉と申す者などは殊の外働き、いずれも討死。味方に
も手負い死人数多ござったとの由を申し伝える。長慶嫡子・筑前守(義興)在世の時と聞き申す。

――『三好別記』



47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 08:17:43.22 ID:BV914y30
安宅冬康「三好池田の安宅屋のあたぎや羊羹でござる」
http://www.atagiya.co.jp
松永「ありがたい、お茶を点てましょう」

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/20(月) 08:52:01.21 ID:pftXFin2
>>46
>供に参った家子は数百人
合戦だなもうw

大森伝七郎、切死の事

2019年05月09日 17:04

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/09(木) 12:40:57.59 ID:fz55kaSk
大森伝七郎、切死の事

西岡東村に、公方(足利将軍家)数代の家の子で、大森伝七郎という侍が有った。
御所(足利義輝)すでに御滅亡(永禄の変)の後、隠れる場所もなかったが、かつて抱え置き、
懇ろに待遇していた者が西岡に在ったため、彼のもとに暫く滞在したいと思い、密かにそこを尋ねた。

ところがこの者は、大森が来たことを三好長慶方に知らせた(この頃三好長慶は既に死去している。
三好家が長慶の死を秘匿していたためか)。そこで三好方より薄武左衛門磯上甚六郎の両名に、
上下十人の頑強な足軽を添えて、討ち手として向かわされた。

薄武左衛門磯上甚六郎は到着すると、かの者の家の中に入り、大森伝七郎に向かって声をかけた。
「ここに大森殿が居られると承り、迎えにこの両人が参り候。はやく御出なされよ!」

大森は感の鋭い人物であったので、これを聞くより早く覚悟を据えて、立ち向かって聞いた
「私をどこへ召されるというのか」
三好長慶が探しておられる。はやく出させられよ!」
「それがしは入道(長慶)の元へ参っても何の用もない。また言うべきこともない。よって
参る必要はない。」
「そなたはそう思っているかも知れないが、筑前守(長慶)には尋ねたいことが有るとの事である。
はやくはやく、出て参られよ!」

そう、両名が大森に近付こうとすると、「しからば、いざ参らん!」そう言うと同時に、2尺3寸の
打物(太刀)を引き抜くと、薄武左衛門の頸に押し当て、左側の肩先まで斬りぬいた。
磯上甚六郎はこれを見るや「やるまじ!」と抜き打ちに斬りかかったが、この時二階の竹垂木に箕笠が
下げ置かれており、これを斬りつけてしまい、「あっ」と思い太刀を引く間に、大森はすかさず磯上の
高股を両断し、磯上は戌亥(西北)を頭にして倒れた。

続く三好方の郎党たちは、これを見て「逃さじ!」と斬ってかかったが、そこは茅葺きの小さな家のため
働き自由に成らず、天井が低いため斬り損じ、大森に寄る者は斬られ入れ替わる中、六人が同じ枕に伏した。
そして大森伝七郎

「今はもはや、罪造りにお前たちを殺しても何の意味があるのか。」と、座敷へつと走り上がり、
腹を十文字に切って死んだ。見る人聴く者、「天晴、かかる剛強のつはものを殺してしまった。一騎当千とは
ああいう者の事を言うのに。」と、彼を惜しまぬものは居なかった。
三好長慶もこれを聴いて大いに驚き、思わず手を打って、暫く物も言わなかった。

(室町殿物語)



14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/09(木) 14:16:57.26 ID:xv5IJncU
>>11
六人「もう少し早く気づいて(´;ω;`)」
まあ武士の意地というもんかなぁ
全員殺しても次の追っ手がきていつかはやられるだろうし

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/09(木) 14:26:43.35 ID:sLXFenpt
いや義輝死んだし

細川持隆の滅亡

2019年05月05日 17:30

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 20:30:24.56 ID:ULCC/Ej6
さて、永義(三好長慶)はその時(三好元長死去の時)10歳ほどであったのを、三好宗三(政長)と
松永久秀が心を一つにして盛り立てた。17歳から弓矢を取り、武功は比類なくして畿内に打って上り、
摂津の木戸・近江の佐々木(六角氏)・越前の朝倉・紀伊の畠山と挑み戦い、度々名誉を顕したという。

また弟の三好実休は阿波に留まり、細川殿の家内を治めるところにその時の細川殿(細川持隆)、後に
徳雲院と申した人が、「実休を成敗するべきだ」と家老の四宮与吉兵衛に内談なされたのを、四宮はす
ぐに実休に告げ知らせた。

それ故、天文21年(1552)3月5日に細川殿が勝瑞龍音寺へ出られたのを聞きすまして、実休は
2千ほどで打ち出て取り掛けた。このため細川殿の衆は尽く落ち失せ、星合と蓮池清介の2人が残った。
細川殿は是非なくその辺りの賢昌寺(見性寺)へ取り入って切腹したのである。

蓮池は細川殿の政道が正しくないことについて度々諫言し、勘当を蒙って扶助にも及ばない折であった
けれども、心良く腹を切って死んだという。また四宮与吉兵衛には実休が過分に加増を遣わしたが、一
年あって成敗となったのである。

――『三好別記』


和田新五郎の処刑

2019年01月31日 17:25

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 13:45:06.32 ID:h4t6uh2G
天文十三年八月十一日、一条戻橋にて一人の男が処刑された。
男の名は和田新五郎三好長慶の配下である。
新五郎は将軍足利義晴の嫡男、菊童丸(義輝)の世話係の女房と密通した罪で捕縛されたのだ。

新五郎の処刑は後に長慶と対立することとなる義晴・晴元の裁定によって行われたという。
その方法は凄惨なものだった。
新五郎への刑罰は「鋸挽き」と決まったのだが、まずはじめに縛り上げられ身動きの取れない新五郎の右手が鋸で切り落とされた。
次に苦しみ悶える新五郎の左手が切り落とされる。最後に頸を落とされ、漸く新五郎は絶命した。
続いて新五郎と密通した女房も一糸纏わぬ姿で洛中を引き回された上で、六条河原で首を打たれた。
この処刑は当時としても残忍な仕打ちとして都の人々に受け止められ、山科言継は日記に「前代未聞」と記している。

後に長慶は主君・晴元に対して反旗を掲げることになるが、この頃には既に晴元(と義晴)との暗闘が始まっていたっぽい話。


今世武道に正しき将なし

2018年08月11日 18:30

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/11(土) 15:23:21.09 ID:ZG86LWeA
天文21年(1552)2月26日、細川二郎氏綱とその弟・藤賢が摂津より上洛し、
三好長慶が供奉、翌日に将軍・義藤公(足利義輝)に謁見した。

3月11日、細川氏綱は右京大夫に任じられ管領に補任された。弟の藤賢は右馬頭に
任じられる。時に三好長慶、天下の権を執る。

この時、三好の家人・松永弾正忠久秀は、長慶の長男・義長(義興)の乳母と嫁して
諸事を沙汰した。その奢りは甚だし。長慶はこの松永を京都に留めて万事を下知した。

松永は西岡の凡下の者であったが方々に移り変わり、終いに三好に仕えるに至って
内縁に懸かることはこの如し。

6月10日、越前国主・朝倉左近将監延景が上洛し、将軍家(義輝)に謁見した。
延景は偏諱を賜って義景と号した。

義景は実は近江佐々木の管領・佐々木氏綱朝臣(六角氏綱)の二男で、朝倉弾正忠
孝景がこれを養子とした。

7月8日、朝倉義景は帰国、この時に左衛門督に任じられ従四下に叙された。義景は
近江に滞留し、浅井下野守久政の館・小谷の城において軍事を評論した。

(久政曰く)「今の世に武道に正しき将なし。運に乗じて一旦の功ありといえども、
後代、武の亀鑑に備わるべき者なし」

義景曰く「我が武は子孫の繁栄をもたらすとしても、私自身は非道(正道ではない)
なので身を立てることはないであろう」

(今世武道に正しき将なし。運に乗じて一旦功ありといふども、後代亀鑑に備ふべき者
なしと、義景曰、夫れ吾が武は子孫の繁栄を能くすと雖も、非道にして身を立てずと。)

――『浅井日記』


三好義興の死について

2018年04月12日 16:47

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 12:32:24.60 ID:rQneZYFw
永禄六年卯月(四月)朔日に、雷がおびただしく落ち京中振動し、東寺の塔へ雷火落ちかかり
たちまちに焼失した。これは、三好家があまりに驕りを極め天下に威勢をふるっているが故に、
天道は満つれば欠ける習いなれば、全ての物に有る、余りに過ぎて溢れる時節が到来したため、
このような天災のお告げもあるのだろう。この上に一体何事があるのか。
そう人々は危ぶみ思った。

そのような中、果たしてその年の八月二十五日、三好長慶の一子、筑前守義興が芥川城にて
死去した。黄疸という病に罹り、たちまち死に及んだという。
父長慶は申すに及ばず、公方義輝も御愁傷限りなかった。

この死について、義興が近くに召し使う者の中に、食事に毒を入れて奉りかく逝去したのである
という話が後に聞かれた。また松永(久秀)の仕業であるとの言われた。

長慶は家督相続の子を無くし、十河一存の子息・熊王という者を養子とし家督に定めた。
三好左京大夫義続がこれである。三好家の政道は専ら松永と三人衆の心のままであり、
勅命も恐れず武命(将軍の命令)も用いず我意に任せていた。

(足利季世記)

三好義興の死について



662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:33:57.72 ID:R36Ud/OQ
雷の失火まで政治のせいにされてしまうのか
まあ、場所が場所だからなんだろうけど

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:40:53.12 ID:BPEyr8p9
前に国会議事堂に雷が直撃した時、政治がどうのとネタにされてたような

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:53:00.31 ID:OpdJpaR+
>>662
ヨーロッパですらリスボン地震までは天災はキリスト教的に正しい行いをしていないための天罰という扱いだから、
近代になるまでは世界のどこでもそうだと思う。

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:56:56.51 ID:BPEyr8p9
リスボン地震の翌日にマリー・アントワネットが生まれた
つまり天罰と言うよりむしろ王朝崩壊の予兆だったのだ

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 23:08:39.91 ID:IIMqBX7W
>>661
>という話が後に聞かれた。また松永(久秀)の仕業であるとの言われた。
            , ;,勹
           ノノ   `'ミ
          / y ,,,,,  ,,, ミ
         / 彡 `゚   ゚' l
         〃 彡  "二二つ
         |  彡   ~~~~ミ      はいはい、わしのせい わしのせい
     ,-‐― |ll  川| ll || ll|ミ―-、
   /     |ll        |   ヽ
  /       z W`丶ノW     ヽ
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/    爆      \`i / /  弾   |

幕府政所伊勢氏の滅亡

2018年04月11日 19:39

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/11(水) 18:33:41.45 ID:X7GcZDk4
三好長慶の勢いは天をも覆うほどであり、そのため松永久秀の威勢も、諸人を併呑するほどに
見えた。

この年(永禄5年(1562))六月二十三日に熊野山本営が炎上したとの知らせが有った。
先例前代未聞であり、天下の奇異、如何様ただ事ではないと、人々はこれを嘆いた。

同年九月十一日、京の伊勢伊勢守貞孝とその子息兵庫頭貞良が、三好に敵対する江州衆(六角)
および畠山衆と内通したとして、三好勢に攻められ丹波路長坂山にて父子ともに討ち死にした。
無残なことである。

(足利季世記)

幕府政所伊勢氏の、事実上の滅亡についての記事



誠に多年旧功の主従であり

2018年04月10日 09:49

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/10(火) 08:48:28.09 ID:TUp17M1l
永禄4年(1561)正月十五日、三好修理太夫長慶父子は上洛し、公方様(足利義輝)方へ
出仕あり、子息筑前守慶興は、「義」の一字を賜り義興となり、父長慶と共に
御相伴衆に任じられ、桐の御紋を下された。これは斯波氏の家臣で陪臣であった
朝倉弾正左衛門家(越前朝倉家)を、英林院殿(朝倉孝景)より御相伴衆にした
先例に寄ったのである。

同年三月二十九日、右の御祝いの御悦として、公方義輝が三好館へ御成があった。
御遊あり、御能もあり、その後義輝より三好に対して、細川晴元入道との和親を
促された。

同年五月六日、細川晴元入道一清を、三好より迎え入れ、摂津国富田庄普門寺へ入れ、
富田庄を御知行あるべしと贈呈した。

誠に多年旧功の主従であり、三好殿は旧懐の涙しきりであったという。

(足利季世記)

優しい世界


足利義輝のクーデターの顛末

2018年04月06日 10:36

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/06(金) 09:30:29.36 ID:ZsWuJQrI
天文二十二年七月三日、三好長慶が芥川城攻めを行うため京を留守にすると、同月二十八日、
長慶と和解し帰京していた将軍足利義輝は、その和解の際に切り捨てたはずの細川晴元(入道一清)
の旧功捨てがたく思し召し、彼を赦免し京へ帰還させた。

すると晴元方の牢人千人余りも各所より入洛し、三好衆の宿所へ放火した。

この知らせを聞いた長慶は、芥川城に抑えの兵を置くとすぐに京へ取って返し、八月一日には
長慶勢に加え、河内の畠山政安、同美作守勢も引き連れ、二万あまりにて攻め上がった。

この三好勢の勢いに、義輝も晴元も戦いにもならぬと恐れ、取るものも取りあえず都より
逃亡し近江国へと落ちていった。

(足利季世記)

足利義輝細川晴元勢と起こした反三好のクーデターの顛末


大内家滅亡

2018年04月05日 17:54

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/04(水) 20:58:14.12 ID:Y93a5UA7
天文二十年七月、細川右京太夫晴元の軍勢が近江坂本より打ち立て京の相国寺に陣を取った。
しかしこれに敵対する三好筑前守長慶は、七月十四日、相国寺へ押し寄せ火をかけ攻め込むと、
晴元勢は一戦にも及べず散々に落ちていった。(相国寺の戦い)

この時、京はこのように乱れきっているが、西国は猶静謐であるため、公方足利義輝、および
細川晴元は、猶も三好が京に迫ることあらば、慧林院殿(足利義稙)の時のように、中国の
大内の元へ御動座あるべき由、内々に評定がなされた。

ところが、その年の天文二十年九月二日、大内義隆の家老である陶晴賢が謀反を起こし、
大内殿を攻めたところ、不慮の一戦叶わずして、義隆は長門国に落ちていった。

その頃、京都の大乱の故に、公家衆も多く大内殿を頼んで周防へ下向され、
禁裏様(天皇)をも山口に行幸されるようにと、大内は多年に渡り支度をしていた。

しかしこのような災い起こり、前関白二条尹房、持明院中納言元規、前左大臣三条公頼といった
人々がここにて自害した。
大内殿は長門国深川にて自害。御年四十五歳であったという。藤三位親世、藤中将良豊も
自害された。

この人々は都の乱を避けてこの国に下られ、このように亡んだこと。一業所感(人はいずれも、
同一の善悪の業ならば同一の果を得るということ)とも言うべきであろう。

陶晴賢は主を亡ぼし、豊後の大友義鎮(宗麟)を頼み、次弟を申し受けて大内八郎義長と号し、
山口の館に移しこれを主とし、自分は執事となり、心のまま振る舞った。
そして子息の阿波守(長房)に家督を譲り、入道して法名全羨と号した。

(足利季世記)

足利義輝細川晴元の周防亡命の計画が有ったとか、大内は山口に天皇まで迎え入れようとしていた
らしいとか、大内が亡びなかったら戦国史はどうなっていたんでしょうかね。



進士九郎による三好長慶暗殺未遂事件

2018年04月04日 17:47

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 19:27:55.95 ID:HTQMyVaV
天文二十年二月七日、三好筑前守長慶の家老である松永甚助兄弟(久秀、長頼)、江州志賀表へ
侵出したが、六角義賢勢がこれを聞いてすぐに、琵琶湖を押し渡り攻撃したため、松永兄弟は
この一戦に駆け負け引き退いた。
近江勢は去年より数度打ち負け勢いを失っていただけに、今回の勝利に皆喜んだ。

この頃、公方様(足利義輝)は猶も比叡の法泉寺にあったが、伊勢守貞孝父子は在京し、
万事制法を糺しており、三好も細川晴元への恨み故に公儀に背いたのであるが、将軍に対し
別儀の事無く、伊勢守と公方の帰京について相談を行った。

この事に京中は大いに喜んだのであるが、天文二十年三月十四日、伊勢守貞孝の館にて、
三好長慶への饗応がなされた時、公方衆・進士美作守の甥である進士九郎賢光という者、
伊勢守邸へ来訪すると、即座に走り出て腰刀を抜くままに、二刀まで三好長慶を突いた。

この時、長慶の相伴に同朋の者があったが、彼らが進士九郎を抱き留め、その間に人々が
走り寄ると、進士九郎は自害した。

三好長慶は反応の素早い人であったので、とっさに床にあった枕を取り、これにて刃を受け止めた
ため、一刀は体に触れず、もう一刀も浅手であった。

この進士九郎賢光は大功の人であったのだが、運が尽きたのであろうか、心が逸って仕損じたの
であると、評判された、

この事件は、進士九郎足利義輝より仰せを蒙ったものであるとも、又は彼の本領を三好に
没収されたことを恨んでの犯行であるとも聞こえたが、ともあれ当時、三好長慶を一刀でも
恨まんとした心根は非常に甚だしいものであった。

(足利季世記)

進士九郎による三好長慶暗殺未遂事件について



655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 23:50:03.95 ID:W+UsiL5z
長慶は腕も立つ方だったのか

かほのしはすをのべて参らん

2017年05月27日 16:50

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/27(土) 00:42:17.28 ID:zH6PkXyL
三好修理大夫(長慶)殿に玄理という者が仕えていた。
さる事があって、ある年の春頃に勘気を蒙り、年の暮れまで許しがなかったことがあった。
玄理は三好修理大夫に

参るべき御礼なれども今年より かほのしはすをのべて参らん

と歌を作って捧げた。
この歌を御前の人々へ伝えたらすぐに召し返されて、二人は再び御懇ろとなった。

(戯言養気集)


流石長慶とも言える武将としての優美さ

2017年02月27日 18:30

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 21:04:36.36 ID:h109Njvy
三好長慶には不義無道の名のみ有りて、風流のことを人は言わない。
たしかに、公方光源院殿(足利義輝)を弑し天下を奪おうという逆罪は論に及ばぬものであるが、
その当時の風俗として、君父を害して国を奪う輩は、挙げて数えがたいほどあった。
戦国に人道を喪うこと、日本に限らず、中華五代の頃の風俗も皆そのようなもので、独り三好松永を
憎む事ではない。

三好長慶は敷島の道に心を寄せ、殊に連歌に高じていた事は、諸書に顕然である。
居城において連歌興行あった時、『薄にまじる 芦の一むら』という句に連座上の句を付けあぐねていた。
やや時移った頃、河内より飛脚が到着し、急を告げた。長慶は書状を見ると、くるくるともとに戻し、
なんでもない体にて

『古沼の 浅き方より 野と成りて』

と付け、その場の者達はこれに感賞した。すると長慶は

「河州に於いて舎弟実休討ち死にの知らせがあった。今日の連歌は是迄である。
弔軍に、今打ち立たん」

そう即座に命じて出陣したという。
変を知りて騒がず、連座が付けあぐねた上の句を果たした後に、変を披露し、しかも即座に
出馬したこと、流石長慶とも言える武将としての優美さではないか。これらは賞すべき事である。

最近、なにげに怪談の双紙を読んだ所、この連歌の付け合いを、宗祇に付け言わせていた。
宗祇が旅行の最中、何れの国の某村に妖しい屋敷が有り、妖しきものが出て
『薄にまじる 芦の一むら』と言う句を吟じ、泣き叫んで止まず、と所の人が語るのを宗祇が聞いて
「私がその屋敷に泊まり、これを止めよう」と、かの屋敷に泊まって様子をうかがっていると、
案の如く丑三つ頃に幽霊が出て件の句を吟じた。この時宗祇、『古沼の 浅き方より 野と成りて』
と一句をつけると、幽霊は感服して消え失せ、その後出ることは無くなった、と書かれていた。

これは浮説である。長慶の事こそ事実である。

その他、高師直なども、太平記には無骨な東夷のように描かれているがそうではない。師直は歌人である。
撰集にも彼の詠んだ歌が入れられている。

伝説というのはこのような御聞が多い。
箱根にある「曾我時致の文」というのも、実際には曾我時致の物ではない。あれは北条時宗の
書いたものである。

(翁草)



680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 21:53:31.13 ID:yHclo49x
諸人之を仰ぐこと北斗泰山
と長慶は敬われていたらしいが

「三好」と人の言い伝えているのは

2017年01月30日 18:29

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 18:15:21.23 ID:eGddXOW8
「三好」と人の言い伝えているのは、三好修理太夫(長慶)の事である。
元々は細川の家臣であったが、細川を滅ぼして一家繁栄した。
修理太夫は光源院殿乱(永禄の変:足利義輝暗殺)以前に病死した。

この修理太夫の元に三人衆と言って、主だった3人の家臣があった。三好日向守というのも
その一人である。永禄8年に義輝を殺したのはこの三人衆である。

(老人雑話)

永禄の変は信長公記なんかでも「三好長慶が義輝を殺した」なんて書いていますが、成立年代は近いわりに、
老人雑話のほうが事件について正確に把握していますね。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 19:43:47.50 ID:hh70UDtF
船頭が多すぎて誰が主犯かわからないから長慶の名前で広まったとか?

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 22:58:16.15 ID:Y7G4vO1T
???「計画通り(ニヤリ」

【雑談】なんでも鑑定団、4つ目の曜変天目について

2016年12月21日 17:30

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 14:10:15.83 ID:gT5l6bqO
なんでも鑑定団に、4つ目かもしれない曜変天目茶碗が出るそうだな

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 15:48:02.68 ID:xED4WQmr
マジでけ?と思ってググったらニュースでてた
三好家に伝わる曜変天目らしいね
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161220-00010002-bfj-ent

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 20:58:15.21 ID:q24Q6akh
実休さんあたりがもってたのかな?

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 21:49:20.52 ID:SFVyxE7w
冬康かもしれん

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 21:54:57.81 ID:iUZUD3/z
2500万円でした

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:01:21.74 ID:gT5l6bqO
4つ目で、しかも三好の子孫が持っていたという事だけでも十分以上の価値がある
国は、変な所に売り飛ばされる前に保護するべきだな

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:05:41.42 ID:iUZUD3/z
某国から返還請求が来ます

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:31:55.28 ID:q24Q6akh
前田家に伝わった曜変ぽいものを含めたら五点目だよね
三好に伝わってるなら宗二とか堺の連中が記録してそうなものだけどないのかな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:54:16.21 ID:ohshcxKd
>>437
やっす、曜変としては大したもんじゃなかったのか

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:56:19.89 ID:q24Q6akh
2500万円から競りスタートだよ

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 23:04:53.48 ID:eF7f4Sha
曜変天目の中でも最高峰の稲葉天目は春日局に家光があげたのが
伝わったので稲葉天目

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 23:21:16.02 ID:iUZUD3/z
番組中に三好氏がさらりとディスられました

天文20年・三好長慶暗殺未遂事件

2015年02月11日 17:23

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 23:28:24.88 ID:9EBoU/Mx
天文20年(1551)3月14日、京の勢州(伊勢伊勢守貞孝)の邸宅に三筑(三好筑前守)長慶を招いての
酒宴が行われた。
酒も半ばというところで、公方衆の進士九郎という人物が突然刀を抜き、長慶に向かって二刀まで突いたが
長慶はとっさにこれを避け無事であった。暗殺に失敗した進士九郎は、たちまちその場で自害して果てた。
この報が聞こえると、京も田舎も、仰天する他言葉も無い有り様であった。

この事件について、朽木に逃れていた御所様(将軍義輝)が仰せ付けたものであるとも、また所領を失った
恨みからであるとも、この両説が言われた。

勢州はせっかくの、入魂の接待の場でこのようなことが起こり、もうどうしようもないといった様子であった。

(細川兩家記)

三好長慶暗殺未遂事件についての記事である。
三好長慶は何度か暗殺の危機もうまく逃れて、武芸も達人であったと言われていますね。




388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 05:47:56.45 ID:2NZUPEZN
かわいい鴨の子を見せればよかったものを

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 08:45:28.41 ID:pVKppLYp
三好長慶の生涯って波乱万丈次から次に襲いかかる危機を
紙一重で切り抜けて大逆転の連続なんだけど
なぜか無茶苦茶地味な印象だよね。

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 09:44:06.48 ID:OyDfpt1N
長生きしてりゃなー
兄弟ともに短命だから没落が早い

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 10:09:29.24 ID:b1XVBnD/
長慶や長宗我部元親は終わりが微妙すぎて創作物の主役になりにくいし

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 17:49:14.54 ID:N8LSZkV5
終わりが微妙だとハッキリしてる人はやりづらいよね。
秀吉を扱う物語は多いが、晩年が超アレなだけにぼかしたり途中で強引に終わりにするケースも少なくない。

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 20:44:42.64 ID:0tKMqMqe
松永久秀「せやな」

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/12(木) 12:24:42.75 ID:sNMXKtjp
三好長慶を書くといつの間にか弾正が主役になってるの多いキガスw

395 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/02/12(木) 13:04:07.90 ID:RewOE8VV
国盗り物語みたいに前後半で主役交代すればいけるかも

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/12(木) 16:36:44.79 ID:3NgPh+lS
長慶の場合は一次資料を俯瞰して研究できない状況にあるから何ともしがたい
確か東寺が大量に持ってるけどほとんど未公開に近い状況なんじゃなかったかな
今東大の史料編纂所が頑張って活字化してるみたいだが

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:00:35.02 ID:Ae1GIFRU
>>396
すごく興味あるなあ
東寺って凄く格式高いとこだし、おいそれとホイホイ公表したがらないのかな
もったいねえ

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:13:01.02 ID:lIexy3PB
皇室関係も多いし東寺側も慎重になるだろ

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:21:17.75 ID:7SRVjEeI
東寺の持ってる文書は、ここでその内のかなりの数(百合文書)の写真が見られるよ。
差出・宛・年月日・キーワードは入力してあって、検索できる。
翻刻が終わってないから、自分で文字起こしするしか無いけど。

ttp://hyakugo.kyoto.jp/

百合文書は、所蔵が京都府で、東寺じゃない。売っちゃったから。
東寺文書自体は、他に京大に流出したのとか、東寺が手放さなかったのとか、いろいろあるけどね。

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:22:58.92 ID:7SRVjEeI
連投になるけど、三好は最近『戦国遺文三好編』の刊行が始まって、文書が通観できるようになりつつある。
ただ、日記史料とつきあわせて読まないといけないから、そもそも研究が難しいのよね。

江口の戦い

2015年02月10日 18:45

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 04:29:36.01 ID:9EBoU/Mx
細川晴元とその近臣三好宗三(政長)は、三好長慶と対立し、ついに戦端が開かれ摂津において対峙した。
天分18年(1549)5月28日、細川晴元は三好宗三の後援のため摂津三宅城に入る。
すると6月17日、三好宗三は味方の諸勢を催促して三宅から、中島の江口に陣取った。
三好長慶はこれを見て言った

「愚か者め。夏の虫が飛んで火にいると言う古人の言葉があるが、まさにこの事だ。
先手を打って三宅と江口の間の通路を封鎖せよ!」

そう、十河民部(一存)、安宅(冬康)、および淡路衆に命じ別府の川方に陣取らせたため、
たちまち宗三軍への兵糧を運搬する通路が塞がった。これに三好宗三は、川船を使い
近江の六角勢の救援を要請した。

6月23日、三好長慶は中島に諸士を集め評議をした。ここで十河民部が言った
「進撃するのに何の異論がありましょうや!義を見てせざるは勇なきなりと申します。
敵が攻撃を我等に躊躇させるほど勇猛であるとも聞きません。一方で、もし江州(六角)勢が
到着すれば、味方が利を失うことも考えられます。
急ぎ、京北の諸勢は三宅城を攻め立て、細川晴元に腹を切らせ、そこから江口に押し寄せ
平攻めに攻めて勝つ。何と心地よいことではありませんか!」

これに一同同意した。長慶は、主君晴元に腹を切らせるのは本意ではないと思案していたが、
十河民部はそこから終夜軍勢を進め、翌24日には河内衆、三好方衆は一気に江口に陣取った。

これに三好宗三勢は一戦にも及ばずたちまち崩壊し、日中に江口から逃げ出した。
長慶勢は彼らを追撃し、宗三勢は三好宗三入道、先の将軍ご一家天笠弥六、高畠甚九郎、平井新左衛門、
田井源助、波々伯部、豊田弾正といった名のある人々を始め、八百人が討ち死にしたという。
この敗戦は誠に天罰自滅であると、世間はそのように言った。

この三好宗三の敗戦により、榎並城に籠もる右衛門太夫、河原林衆対馬守をはじめとした軍勢も
方々へ落ち逃げた。この人々の親類際しの嘆いたこと、なかなか言葉にも出来ない有り様であった。

この時江州六角勢は京の山崎まで進出していたが、そこで江口合戦の結果を聞きみな帰国した。

問題の細川晴元は、三宅城にいたたまれず、味方の淡路衆に守られ丹波越して京に入ったが、
京も危険だと判断し、将軍義輝および大御所義晴を連れ近江坂本へと逃亡した。

(細川兩家記)

三好長慶が畿内の主導権を掌握した。江口の戦いについての逸話である。



いやしくも天下に大志を伸べんと欲すれば

2014年03月03日 19:03

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 19:46:25.19 ID:1bgRH/6I
織田信長は常に、尾張の地が京師に遠く、中原に志を得るのに便ならざるを憂い、
密かに遠望を抱いていた。

信長は桶狭間で今川氏を討った翌永禄四年(1561)四月、偽って熊野参詣と称し、
近侍のもの八人を具して京に入った。そこでは彼を信長だと知る者は無く、彼は京都で
つぶさに天下の形勢を観察した。

そして畿内では、足利将軍家の権威は地に落ち、独り三好長慶のみが権力をほしいままにしていることを
見出し、
『いやしくも天下に大志を伸べんと欲すれば、三好と結ぶに如かず』と考え、密かに
三好の所領である河内高屋の城に行き、奏者を通してこのように言った

「それがしは織田上総介信長です。尾張の本領を、尽く三好家に献上したい。
その上で幸いにも五畿内の内に一偏土を賜ることを得れば、この信長は正に、手兵5千を以って
三好公の先陣となるでしょう。」

三好長慶はこれを聞くと大いに喜び、
「信長は稀有の勇士であると聞く。もし彼が私に属するのであればもはや天下に恐れる所はない。」
と、直ちにその望みを入れようとした。
しかしその家臣である、松山松謙斎、松永弾正(久秀)等は信長の武勇を恐れ。百方これに
讒言を行い、信長は終にその意を達することなく帰国した。しかし信長は、これ以降もいよいよ中原への志を
募らせたのである。

(古雄逸談)

信長が三好長慶の家臣に成ろうとしたという、ちょっとめずらしい逸話である。




634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 21:39:58.57 ID:NlEk3RxH
戦国シミュレーションゲーム『長慶の野望』 

これは売れる!



635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/02(日) 22:16:49.73 ID:udouv48Q
武辺咄聞書にも同様の話が

織田信長御若年の時熟々御分別有るに、尾張は辺土にて京都への手つかひ悪し、何卒上方筋へ打て出手をひろけ度思召、
桶狭間合戦の翌年永禄四年正月に、佯て熊野参詣と名付け、信長近習只八人にて廻国順礼のことく潜に入洛有て、
京都の形勢を窺見給ふに、公方は尊氏卿より十三代目光源院義輝公の御代也。公方の権威衰へ畠山尾張守高政病死、其子次郎昭高未幼少也。
細川晴元は家臣三好修理大夫長慶か為に摂州芥川に被押込、其 従弟細川氏綱・同藤賢執権職に居ると言へ共、天下は皆三好か侭也。
信長思召には「兔角三好家に便らすしては大功成かたし」と分別有。其時三好は河内国高屋・若江両城に有。
信長密に堺の津へ下り、木津屋と言町人の家を借、三階の蔵座敷へ揚り、二三日逗留し、畿内西海を見下、様々天下を図り工夫有。
木津屋元より信長と言事を不知。信長 の小舅斎藤義龍、美濃の国守也。信長と取合数年を経る。上方へ被登と聞、屈強の兵十二人潜に遣し、
堺の津に付置、信長をねらふ。
信長聞付給ひ、則義龍か討手共の旅宿へ御越被成。討手の者共肝を消し周章騒く。信長主従八人座敷へ上り、太刀の柄に御手をかけ給ひ、
義龍か兵共をはつたと睨み「己等は我をねらはん為に此度付まとひありくと聞く。言語道断の奴原也。一々成敗せん」と鍔元を甘け怒り給。
義龍か兵共震懼、様々申訳仕る。
信長の御眼の光り電のことく、たゞ鬼神に出合たる心地して、悉く美濃へ北帰りける。
信長は夫より河内国高屋の城へ行、奏者を頼被申入は「某儀は織田上総介信長にて候。尾張の本領を以三好家へ進上可仕候。
其代地を五畿内にて可賜候。左候はゝ 譜代の士卒五千余にて三好殿の御先手を可仕」と望給ふ。
三好長慶聞て「是は兼て聞伝へたる勇士也。其所望に応せん」と宣ひしを、松山松謙斎・松永弾正等諌て曰
「信長去年五月桶狭間にて今川義元を打取たる手柄、惣て其行跡を聞に常人にあらず。必三好家の禍の根に可成」と支る故、
事不調して、信長空敷尾張へ御帰り也。
私云、名を争ふ者は朝に於てす、利を争ふ者は市に於てす。誠に信長公上方へ打出給わんとの御心入、難有事にこそ。



639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/03(月) 21:38:57.44 ID:OKG3da7C
>>635
>松永弾正等諌て曰「信長去年五月桶狭間にて今川義元を打取たる手柄、惣て其行跡を聞に常人にあらず。必三好家の禍の根に可成」と支る故

お前にだけは言われたくないというw

昔阿波衆鑓突きと申し伝わり候事

2013年03月26日 19:50

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 22:40:35.14 ID:WSOpR7a2
昔阿波衆鑓突きと申し伝わり候事

越前のくわうりん(朝倉家家臣・佐々布光林坊)と申す者、2万人の軍勢で都まで進出した。
(これは大永7年(1527)、細川晴元と対立し、京から逃亡していた将軍足利義晴が、
朝倉教景の軍勢を引き連れ上洛しようとし、京都泉乗寺口で三好勢との戦いとなった時のことである)

越前衆は手に持つ武器として、柄を堅木にて如何にも強靭にし、長さ1間(約1.8メートル)程に
拵えた鑓に、黒鉄製の菱を一つ持っていた。
彼らはこの菱を地面に撒きそれを敵に踏ませ、混乱した所を攻撃して勝つことに
巧みであった。

一方の阿波衆は、鑓の柄を四方竹にして如何にも軽くして、長さ3間(約5,5メートル)ほどもあった。

しかしこの時、阿波衆は3千に過ぎず、敵の越前衆は2万人であり、とても合戦において
勝てるとは思えなかった。

越前衆は阿波勢の人数の少ないのを見て取り、「細工など要らない!ただ懸かれ!」と言って、
菱も捨てて力攻めに攻め懸った。

この時阿波衆は
「我等は人数少なく、このまま攻め懸ってこられれば、まともに戦う事すら出来ず、
皆殺されるだろう。
であれば、思い切ってこちらから撃ち懸り、討ち死にしようではないか!」

そう決心し越前衆の先陣を手元に寄せ、長鑓にて散々に突いた。
するとそのうちに越前衆の後方が崩れ下がり始めた。ところがこの時越前衆は、自分たちが先に捨てた
菱に足を貫かれ大混乱となった。

ここぞと阿波衆は「首は取るな、切り捨てにせよ!」と一気に攻め、1万人を殺したという。

京衆や堺衆は天正の年号の頃までこの合戦のことを話題にし、阿波衆の事を「鑓突き」と
呼んでいたそうである。
この合戦より後、阿波衆の鑓は皆、四方竹の柄になったそうだ。
(三好記)




840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 22:57:21.76 ID:AwM0kfZf
>自分たちが先に捨てた菱に足を貫かれ大混乱となった
ってコントかよw

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 23:05:15.67 ID:52LjMvOs
宗滴は何してたんだよ

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/25(月) 23:38:14.19 ID:v5XHUDW2
忍たまでも撒き菱を間違って自分の手前に投げるシーンがあったなあ

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 03:58:50.55 ID:V/xdGEAT
初代佐々布光林坊である光林坊掟運ってこの戦で戦死してしまったんだよね
こんな間抜けなエピソードで討取られていたとは…

某歴史ゲームの影響で佐々布一族って越前府中の神官って認識されがちだけど
本当は近江の元国人領主で越前に落ち延びて入仏後に還俗したれっきとした武士なんだよな

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 10:49:22.25 ID:yj+zb7F9
我が国におけるファランクスであった。

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 10:59:13.57 ID:A5Kj6Pcu
寡兵を侮るエピソードは人間くさいなぁw

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 21:14:18.30 ID:1CJ4D3rR
>>839
長慶?当時何歳だよ?

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 02:23:14.85 ID:8yQGX7cC
泉乗寺合戦(東山の合戦?)なら三好は三好でも親父さんの元長の方だろうなぁ、長慶さん1522年生まれだし
※修正しました

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/27(水) 15:58:52.97 ID:oqbLfgEf
三好側の資料だと2万の軍勢を破ってその半分を討取った事になってるんだな
朝倉側の資料だと宗滴率いる朝倉軍先陣は約1万(細川や六角の軍を入れると3万5千)
それでこの泉乗寺での合戦の事は小競り合いがあったぐらいの記述しか無くて
その後、宗滴や景紀が大活躍した川勝寺や東寺での合戦の記述しかないんだよな