「三好」と人の言い伝えているのは

2017年01月30日 18:29

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 18:15:21.23 ID:eGddXOW8
「三好」と人の言い伝えているのは、三好修理太夫(長慶)の事である。
元々は細川の家臣であったが、細川を滅ぼして一家繁栄した。
修理太夫は光源院殿乱(永禄の変:足利義輝暗殺)以前に病死した。

この修理太夫の元に三人衆と言って、主だった3人の家臣があった。三好日向守というのも
その一人である。永禄8年に義輝を殺したのはこの三人衆である。

(老人雑話)

永禄の変は信長公記なんかでも「三好長慶が義輝を殺した」なんて書いていますが、成立年代は近いわりに、
老人雑話のほうが事件について正確に把握していますね。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 19:43:47.50 ID:hh70UDtF
船頭が多すぎて誰が主犯かわからないから長慶の名前で広まったとか?

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 22:58:16.15 ID:Y7G4vO1T
???「計画通り(ニヤリ」
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1568年、キリシタンがらみの冒涜事件とその波紋

2014年03月10日 19:12

699 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/03/09(日) 20:07:13.61 ID:yTRAgnE7
1568年のこと

この頃、天下の主君である三人のトノス(殿)(三好三人衆)が、交戦している松永久秀に対して、
大和国奈良において陣営を構えていた。ところが奈良の町では、その国の主な神である春日大明神に
奉納されている夥しい人に馴れた鹿が街路を彷徨する古来の風習が有る。そして、それらの鹿を殺したり
何らかの危害を加える事は、死罪を以って禁止されていた。ところがこのようなことが起こった。

かなり多くの兵士を有する三木判太夫というキリシタン武士は、それらの鹿の一頭が道に迷っているのに出くわし、
それを射殺させ自分の兵士たちに馳走した。だかこのことは秘密にしておけず、早速天下の三人の執政の
耳に達した。彼らの内最悪人で、とりわけ最も残忍なキリシタンの敵であった一人(三好政康)は、それは
自分に加えられた侮辱であるとみなした。彼は三木判太夫が神に加えたこの侮辱に極端な憤激ぶりを示し、

「あのように大胆な行為は、判太夫が、自発的にやったのでは決して無い。堺に住んでいる伴天連たちが、
彼に鹿を殺して食べるように勧告したのに違いない。それゆえ私は堺意外の場所でなら、どこで伴天連に
出会おうとも即座に殺すことを誓っている!」

そして彼は激昂して、それを幾度と無く繰り返し語ったので、それ以後キリシタンたちは、司祭が内密にか、
または十分な護衛を付けて出ないと堺意外の地へ説教や告白のため出かけることに同意しなかった。何故なら
その暴君は自分の反対意見には全く耳を傾けようとしなかったためである。

700 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/03/09(日) 20:07:55.98 ID:yTRAgnE7
次に、数日前、司祭は革島ジョアンという若い貴人に洗礼を授けた。彼は前記三人の執政たちの内、司祭と
キリシタンたちに好意を示した唯一の人である三好日向守(長逸)の甥であった。彼は当時18歳位の青年で、
父親から多額の封禄を相続することを目論んでいた。

ところで彼は、どこに行っても異教徒と、彼らの宗教が誤っていることについて論争した。彼らが皆、
摂津国のカカジマというところで協議した際、このジョアンは他の若い異教徒たちと一緒に立ち去って、
西宮という非常に大きな神社に赴いた。そこは多くに人が参詣し、異教徒たちから大いに尊崇されている
霊場であった。他の若い異教徒たちは、キリシタンになったジョアンを愚弄して、
「貴殿はあのような邪悪な宗教を信じ、また日本の神々を愚弄する言葉を吐いたのだから、きっと近いうちに
神々の懲罰を受けるであろう。」

ジョアンはそれに答えて言った
「私が、死んだ人間や、石木にすぎないそれらの立像に、いかなる恐れを抱けというのか。
ところで私がそれらをどれだけ恐れていないか、また悪魔の像を表徴しているに過ぎない彫像を拝むことが
どんなに笑止の沙汰であるかをお前たち皆が解るように、これから私がそれらをどのように敬うかを
見られるがいい!」

こう語ると彼は、非常に高く、全て塗金されている偶像に登りその頭上に立ち、そこで一同の前で
偶像に小便をかけ始めた。

これをあきれ果てた暴挙、また前代未聞の神聖冒涜と見なした他の連中は、この事件を彼の叔父である
日向殿に報告した。日向殿は極度に激昂したものの、自分の甥が、そのような行為を伴天連の同意なり
是認なしに行ったとは信じられなかった、他の二人の執政は、その若者を呼び出し、伴天連がお前に
そうするように命じたのか、それともキリシタンの間ではあのような習わしがあるのかと尋ねた。
なんの恐れも知らなかったその若者は

「伴天連様はあの事に全く関知されていない。伴天連様が自分に進めたのでもない。仲間共がひどく自分を
怒らせたので、自発的にやったまでのことだ。それが懲罰に値するというのなら、それを受ける覚悟がある。」
と答えた。

三人のうちで最もキリシタン宗門に敵意を持っていた下野殿(三好政康)は、先にキリシタンに鹿を殺された
事件でひどく感情を損ねており、今度の事件について
「あの若者が自分及び他の執政たちの親類のものでなかったら、疑いなく即刻磔刑にするところだ。命だけは
助けてやるが、あの若者は今後、親族から除外され、申すまでもなく相続請求できる封禄も没収されるものと
心得るが良い」と言い渡した。そこで若者は下の地方(九州)に赴こうと早速堺に向かって乗船した。

こうしてひとまず事件は落着したが、以後、かの殿たちは皆司祭や教会のことには全く耳を貸さなくなり、
彼らのもとで司祭の帰京問題に解決の道を見出すことはもはや不可能となった。
けれども1年と立たぬ内に、この下野殿は奇禍に合い哀れな死を遂げたし、二人目の岩成友通殿は
織田信長が殺させ、彼の城も奪われた。そして老人であった日向殿も同じく財産を失い、追放されて死んだ。
かくしてそれら三人は、皆それぞれに相応しい最後を遂げたのである。

ルイス・フロイス『日本史』)

1568年の、キリシタンがらみの冒涜事件に関する記録である。




701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/09(日) 20:16:09.93 ID:q6Zwvdl7
三好清海入道「あれ、わしが大坂の陣で活躍したってのは」

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/09(日) 21:31:00.01 ID:vYwalrHz
所詮フロイスw

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/09(日) 22:15:58.27 ID:AWtOK8wl
>>701
あんたフィクションだし

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/10(月) 11:12:48.51 ID:c8Oqgbsm
キリシタン「踏絵?全然問題ないぜ!」

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/10(月) 14:38:32.61 ID:afL4KWIZ
イスラム教徒ならなw

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/10(月) 15:28:56.21 ID:WQkcJ18+
プロテスタントは躊躇なく踏んだとか聞いた
ガリバーは踏まなかったが

三好氏躍進の秘訣

2011年10月06日 22:06

5 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/06(木) 12:31:20.92 ID:c5QU8yA0
今井用水相論に絡めた畿内の政争と事情 三好氏躍進の秘訣  

1553年 三好長慶が畿内に覇を唱えてから4年後
足利義輝は近江朽木から京都霊山に城を構え京奪還作戦を画策、その頃~

~京都・西岡~
西岡は小規模国人の乱立密集地帯で互いに持ちつ持たれつの関係で色々な揉め事が多かった。
今里村と上植野村の水論争いは、隣村の国人と茨木長吉(細川氏綱家臣)が仲裁していた、のが再発。
省略して書けばこうである

今里村方『洪水で川の瀬が変わったら、ちゃんと井上村中島の井出三段目下『まで』
    堀り取る事が慣習だったよね?なんでそれ無視した川筋掘ってんの?うちん所の水少なくなっちゃうじゃん』
上植野村方『ち、うっせーな』
今里方『秋田氏と長井氏が上植野村を支配していた時は問題なかったよね~』(両氏は没落したらしい)

~京都東山、三好長慶陣陣営~
三好長逸『なんか西岡で用水栽論で揉めてるらしいけど』
三好長慶『えっと、何処で?』 
長逸『今里村と上植野村』 
長慶『え?あれって氏綱家臣の茨木が仲介して終わったんじゃないの?』
長逸『それがカクカクシカジカ』
長慶『ちょっと公方との合戦で手が離せないから(忙しいし無理!)
   細川氏綱さんの家臣の多羅尾綱知にお願いできる?って≪細川氏綱さんから≫言って貰えないかな』
長逸『あいよ、じゃ、ちょっくら使いを走らせるわ』

多羅尾(何で終わった事を俺が、めんどくせーな、まあ適当にやっとくか)『おい、何で今更終わった事を蒸し返すんだよ』
今里・上植野『うるせー!外野は引っ込んでろ!細川家臣はお呼びでねーよ!タラオの癖に!』
~中略~
多羅尾『とまあこんな感じで、どうも今里・上植野両氏に問題があるようで(俺は悪くねーし)』
長逸『了解、長慶に報告しとくわ(お前本当に仲介してきたのかよ)』 長逸『とまあ、こんな経緯だったようだ』
長慶『そうか、じゃあ次は≪三好長慶から≫直々の頼みって事で、もう一度だけ多羅尾綱知にお願いできる?』
長逸『まあ、これでも駄目なら…って事だな』
長慶『そういう事』

多羅尾(また俺かよ!別の奴に行かせろよ!)
多羅尾『今度は三好長慶の命で来たけど、本当、お前ら争い止めろ!な!』
今里・上植野『うるせー!外野は(省略)』
多羅尾『やっぱり彼等は聞く耳を持たないようで(俺は悪くねーよ、解ってるよな)
長逸『わかった!よっしゃ多羅尾、お疲れ!(細川の面子を潰してくれて御苦労!)ゆっくり休んでいいよ(多分次は無いよ!)』

長慶『さて、霊山城の方も少し落ち着いた、長逸、今里の能勢氏に三好長慶が直接赴くと言伝をお願いできるか
   それと、双方の村の申次と検使に実況見分させろ、両氏の絵図を確認して
   第三者である井の内村の百姓の証言をよーく聞いてくれ』

そして西岡に検使和久与助が実況見分をし、結果は当然ながら今里郷惣中の勝訴となった。
こうして、三好氏は下の者達から公平性・積極性を買われていき畿内の信頼を得ていく
武家の家督相続(例 和泉松浦氏)なども
『細川だと色々メンドクサイからもう三好長慶だけに相談して決めるわ』
長慶『次、君が相続ね』→松浦家『合点承知』 などなど

出典は『能勢家文書』『松前彰家文書』今里村の『手日記』
高槻の水栽論とはまた少し前 
長逸と長慶のやりとりは長逸の取次ポジを利用したフィクションです
まあ長逸から岩成とか更に下っぱに言ってるのが普通でしょう