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『三好』と人に云い伝わっているのは

2020年11月22日 15:37

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/22(日) 14:01:02.62 ID:w52fk8aL
『三好』と人に云い伝わっているのは、三好修理太夫(長慶)の事である。
彼は細川を亡ぼして、一家繁盛した。

修理太夫は光源院殿(足利義輝)の乱(永禄の変)の以前に病死した。

彼の家中に、三人衆といって、主だった三人の家臣があった。三好日向守(長逸)という者も
その一人である。永禄八年に義輝を弑したのはこの三人衆である。

修理を、昔は人呼んで「作左」と云ったという。また三人衆とは不和であったという。

老人雑話

老人雑話成立の頃には、永禄の変の時に三好長慶は既に死んでいたというのが知られていたんですね。



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言継卿記より、本圀寺の変について

2020年10月28日 17:49

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/27(火) 22:08:30.83 ID:AXIGWCDj
永禄十二年
一月四日
南方より敵(三好三人衆)が出張し、塩小路まで出てきたという。東岩倉の山本は敵になったという。
勝軍の城が焼かれ、その他田中、粟田口、角社一間、法性寺など、多く焼かれた。ぬかの小路は殆ど焼かれた。
京中は以ての外の騒動と成っている。

五日
三好日向守(長逸)、同下野入道釣竿(宗渭)、石成主税助(友道)以下、今日悉く本圀寺に取り詰め
これを攻め、午の刻(正午頃)に合戦、寺の外は焼かれ、中堂寺、不動堂、竹田などが放火された。
武家(足利義昭)の御足軽衆以下二十余名が討ち死にしたという。攻め手の衆も、死人手負いが数多あるという。

六日
内侍所の簀子より遠見をした。南方は所々放火され、四、五百ほどの人数が如意寺の嶽を越え、志賀は
少々放火されている。晩頭に帰る。南方(三好三人衆勢)の事について聞くと、方々で彼等は敗北したと言っている。

三好日向守以下は七條に向かったが、これに西より池田、伊丹衆、北より奉公衆、南より三好左京大夫(義継)が
彼等と戦い、三好義継が鑓を入れ、三方より斬りかかったため、三人衆以下は申の刻(午後四時頃)敗軍し、
多くが討ち死にしたという。その後黄昏に及んだため、殊更の事は無かった。

七日
七條において、昨日討ち死にした衆は千余人という。ただし彼等の名字や特徴は解らないという。
石成主税助は北野の松梅院に逃げ入ったという。そこに各々討ち入り、松梅院は破却されたという。
久我入道愚庵(晴通)によると、細川兵部大輔(藤孝)、池田筑後守(勝正)の姿が見えないという。
三好日向入道以下は、各々八幡へ落ちていったという。

九日
耆波宮内大輔が礼に来て、盃を勧めた。三好左京大夫、細川兵部大輔、池田筑後守等は西岡の
勝隆寺へ、昨夜入ったと言うことを雑談した。

十日
美濃より織田弾正忠(信長)上洛、松永弾正少弼(久秀)も同道したという

言継卿記

言継卿記より、本圀寺の変について



松永久秀のキリスト教への弾圧と、三好長逸による保護

2020年10月18日 16:26

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/18(日) 06:27:51.42 ID:n34p4+fZ
我等の主にして救主なるキリストの恩寵と永久の愛、我等の心中に常住せんことを。アーメン。

公方様(足利義輝)死後の事件の顛末と、悪魔がその僕により、我等の主にして救主なる耶蘇基督の教えを
都より全然駆逐せんと努めし事に付き、私はすでに多く通信した。弾正殿(松永久秀)およびその子(久通)の
悪心はこの目的を達せん為益々増長し、両人の残忍暴虐は停止する所無く、彼らの部下すら不思議とし驚嘆する
所であった。

これに加えるに、他の諸宗派よりも欲深く、罪悪甚だしい法華宗の坊主は、最も我等並びにデウスの教えを
憎み、弾正殿及びその子はその宗派に属し、同派は今繁昌しているのを以て、彼らは数日前、その僧院に於いて
規則を定め、同派の坊主、保の他何人も天竺人、即ち我等と語るべからず、又議論すべからず、もしこれを為す
時は破門すべきことを発表した。この原因は、多数の俗人が同派の坊主たちに随伴して、我が住院に来たり、
パードレと議論したのを見たが、坊主たちは四語を以て論破され、答弁することが出来なかった為に、
多くの俗人たちは我等の主デウスの教えを聴きキリシタンと成り、坊主を捨てた事にあった。

これによって我等に対する彼らの憎悪は極度に達したが、弾正殿は我等が、彼が殺した公方様、三好殿(長慶)、
及び自己の、当国居住の免許状を有するを以て我等を追放すべき理由を発見することが出来ず、また多数の
法華宗の武士が我等を滅ぼそうと請うていたが、これを公に行うことも出来ず、そこで、日本全国の君にして
偶像のごとく家に在り、外に出ること少なくして少しも兵力を有せず、弾正殿より扶持を受ける王(天皇)を
扇動して我等を追放せしめんとした。

我等はまた、法華宗の坊主たちが公方様の妻を殺した兵士に賄賂を与え、我等の住院に侵入させ、我等を
刺殺させようとしていると聞いた。我等の許には人無きが故に、いかなる兵士も、昼夜何時にてもこれを行う
事容易である。この事はキリシタンの在る多数の城に伝わったことで、各所よりパードレの許に使いを遣わし、
「キリシタンとしては世の中にこのような不公正が行われるとは信じられない。しかし、もしこのような事が
あるのなら、我等は生命を賭してデウスの名誉のため事に当たる覚悟を成す」と伝えた。

(中略)

月曜日の朝、都の主だった執政三人中の一人、名をフイウンガドノ(日向殿:三好日向守長逸)と云い、
異教徒であるが生来善良で、我等の親友なる人である。彼はキリシタンである家臣を遣わして私に告げ、
都より我等を追い出すことが無いように極力尽くしたが、弾正殿が張本人であるので何らの効果が無い故に、
私に堺、又はパードレ・ガスパル・ビレラの滞在する地に赴くように。彼はこの時に途中危害を加えられる
事が無いように、兵士を派遣して私と同行させる、と云い、私に二通の書付を送付した。
一つは、私が所持する品物は、いかなる家においてもこれを没収し、またはこれに触ってはならない、と命じ、
また一つは、途中において税を徴収することを禁じた物であった。これらの税は甚だ高いものなのである。

又、私を堺、或いはパードレの滞在する地に運ぶため、船二艘を無償で提供し、翌朝には弾正殿、三好殿及び
彼はその城に還る事になっているので、もしこのまま滞在しては危険があることを以て急ぐべし、と伝えた。
また三好殿の後見の如き職に在る人、途中無事に通過すべき書付を私に送った。また都のキリシタンたちに
書簡を送り、キリシタンたるが故に、何ら危害を加えるようなことは無い故に、恐るるべからずと伝えた。

右両人の伝言に従い、私は翌火曜日、即ち7月末日まで留まって出発することに決した。

『一五六五年八月三日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信)

松永久秀のキリスト教への弾圧と、三好長逸による保護の記事



尊公を一度御代に立てて、三好一族も安堵申したい

2019年07月04日 15:42

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 01:54:58.94 ID:lsPqjLpR
一、天文21年(1552)に阿波国の館・細川讃岐守持隆を、家臣の三好豊前守義賢が討ち取った後は、
  細川の領地はすべて義賢が知行した。三好家はますます威勢を増した。さて義賢は弘治の頃、法体して
  “実休”と号し、五畿内所々に一門を居置いて、おのずから天下の執権を司る。

  しかしながら三好家は細川の家来であることにより、三好の執権を諸国の守護は大いに嫉み、そのうえ
  奢りを極めて我意に任せた故、将軍義輝公も以ての外憎みなさった。

一、三好山城守(康長)・同下野守(宗渭)・同日向守(長逸)・松永(久秀)らが評議したことには、

  「今回の両度の合戦(>>111)はまさしく義輝の御計らいである。そうであるからには我々の行末はしか
  るべからず。深慮を巡らせて義輝を討ち奉り、中国の義冬(足利義維)を都に据え置いて、一族中を心
  安くするべきである」

  と、永禄6年(1563)の秋に三好日向守は周防へ下り、義冬へ申したことには、

  「徳雲院殿(細川持隆)が果てられなさったことにより、ここへ御下向されたことは我々にとって面目
  もなきことですが、しかしながらその折に、我らが実休に組しなかったことは御存じなさることでしょ
  う。実休は天命によって高政(畠山高政)に討ち果たされました。

  さて高政と喜三の両陣は、義輝公の御計らいでございます。実休のことはもっとも悪逆の者なので(義
  維が)御憎みなさるのも道理です。別儀なき我らを御憎みなさることは以ての外です。そうであるから
  には、行末でさえも心安からぬのです。かれこれ時節は到来仕りました。このうえは、三好一家として
  兵を起こし、尊公(義維)を一度御代に立てて三好一族も安堵申したいのです。

  しかしながら尊公が遠国におられては評議もなり難く、まずは阿州へ御帰りなされませ。実休の息男・
  長治は阿州におりますが、かつては幼少でございました。そのうえ父の実休も尊公を疎略には存じてお
  りませんでしたし、また彦次郎(三好長治)は義輝を親の仇と存じていますから、尊公へ少しも別心は
  ありません。早々に思し召し立ちなされよ。そのために一家中より某が御迎えに罷り下り申しました」

  と色々道理を尽くして申したので、義冬は満足なされて早々に思し召し立ちなさったが、「この事を一
  先ず大内介(大内義長)に知らせなければ」との内意があると、大内ももっともとは思いながらも、他
  家の取り仕切りで義冬を代に立て申しては、大内の外聞は良からずと思ったのか、「仰せはもっともで
  すが、私めに存ずる子細がありますので、まず今回は御無用になされませ」と、強いて止め申すことに
  より義冬も日向守もどうしようもなくして、日向守は「罷り上ります」と港まで出て行った。

  義冬は名残惜しく思いなされて、義親(足利義栄)と2人で船着きまで送りなさったところ、三好は船
  から申し越して「今一度申しておきたいことがございます。恐れながら少しの間、船へ御召しなされま
  せ」と申せば、何の思案もなく義冬親子は共に船に乗りなさった。

  すると日向守はかねて家来の者に言い含めており、そのまま船を押し出した。義冬はどうしようもなく
  おられ、折しも順風で難無く阿州に到着して、元の平島の庄に帰る。彦次郎を始めとして三好一家は残
  らず伺候致した。そして日向守は諸事を計らい、領地も相違なく渡した。

――『阿州将裔記』



227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 03:31:42.40 ID:ggM6iep6
>>226
永禄6年なら大内義長は死んでますね
年次の誤りか別の誰か?

本圀寺襲撃と入札

2018年08月31日 17:29

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 10:36:09.89 ID:Nd9a42yo
永禄11年、織田信長は将軍・足利義昭を帰洛せしめ、六条本圀寺を以て仮の御所とした。
翌年正月3日、三好山城守、日向守、下野守、岩城主税等、一族蜂起して京中に乱入し、
六条本圀寺を取り囲みに懸った。

これに足利義昭は、自らの諸勢に下知して本国寺を持ちこたえさせた。
この時、門役(警備役)は入札(投票)を行い、入札の内17枚までが『明智十兵衛尉(光秀)』と
書かれた。また武者奉行の入札の内7枚までが野村越中守とあり、双方過半を超えもはや他の入札を
開く必要なく、これによって入札で決定される指揮官役は両名に命じられた。

彼らの指揮は著しく、何れもその剛操を以て、この襲撃は不意に起こったにもかかわらず
六条を持ち固め、三好の一党はついに引き上げた。

(士談)

三好三人衆の本国寺襲撃の時、義昭の側で指揮者を投票で決めていたらしいというお話。
光秀人望有ったのね



244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 12:43:53.84 ID:ENxn/IaS
それを言うなら投票で指揮官を決めさせた義昭の企画力だろうな
流石は信長包囲網を編み出した知将だわ
場当たり的な謀反で横死したハゲとは違うんですよ

「三好」と人の言い伝えているのは

2017年01月30日 18:29

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 18:15:21.23 ID:eGddXOW8
「三好」と人の言い伝えているのは、三好修理太夫(長慶)の事である。
元々は細川の家臣であったが、細川を滅ぼして一家繁栄した。
修理太夫は光源院殿乱(永禄の変:足利義輝暗殺)以前に病死した。

この修理太夫の元に三人衆と言って、主だった3人の家臣があった。三好日向守というのも
その一人である。永禄8年に義輝を殺したのはこの三人衆である。

(老人雑話)

永禄の変は信長公記なんかでも「三好長慶が義輝を殺した」なんて書いていますが、成立年代は近いわりに、
老人雑話のほうが事件について正確に把握していますね。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 19:43:47.50 ID:hh70UDtF
船頭が多すぎて誰が主犯かわからないから長慶の名前で広まったとか?

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 22:58:16.15 ID:Y7G4vO1T
???「計画通り(ニヤリ」

1568年、キリシタンがらみの冒涜事件とその波紋

2014年03月10日 19:12

699 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/03/09(日) 20:07:13.61 ID:yTRAgnE7
1568年のこと

この頃、天下の主君である三人のトノス(殿)(三好三人衆)が、交戦している松永久秀に対して、
大和国奈良において陣営を構えていた。ところが奈良の町では、その国の主な神である春日大明神に
奉納されている夥しい人に馴れた鹿が街路を彷徨する古来の風習が有る。そして、それらの鹿を殺したり
何らかの危害を加える事は、死罪を以って禁止されていた。ところがこのようなことが起こった。

かなり多くの兵士を有する三木判太夫というキリシタン武士は、それらの鹿の一頭が道に迷っているのに出くわし、
それを射殺させ自分の兵士たちに馳走した。だかこのことは秘密にしておけず、早速天下の三人の執政の
耳に達した。彼らの内最悪人で、とりわけ最も残忍なキリシタンの敵であった一人(三好政康)は、それは
自分に加えられた侮辱であるとみなした。彼は三木判太夫が神に加えたこの侮辱に極端な憤激ぶりを示し、

「あのように大胆な行為は、判太夫が、自発的にやったのでは決して無い。堺に住んでいる伴天連たちが、
彼に鹿を殺して食べるように勧告したのに違いない。それゆえ私は堺意外の場所でなら、どこで伴天連に
出会おうとも即座に殺すことを誓っている!」

そして彼は激昂して、それを幾度と無く繰り返し語ったので、それ以後キリシタンたちは、司祭が内密にか、
または十分な護衛を付けて出ないと堺意外の地へ説教や告白のため出かけることに同意しなかった。何故なら
その暴君は自分の反対意見には全く耳を傾けようとしなかったためである。

700 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/03/09(日) 20:07:55.98 ID:yTRAgnE7
次に、数日前、司祭は革島ジョアンという若い貴人に洗礼を授けた。彼は前記三人の執政たちの内、司祭と
キリシタンたちに好意を示した唯一の人である三好日向守(長逸)の甥であった。彼は当時18歳位の青年で、
父親から多額の封禄を相続することを目論んでいた。

ところで彼は、どこに行っても異教徒と、彼らの宗教が誤っていることについて論争した。彼らが皆、
摂津国のカカジマというところで協議した際、このジョアンは他の若い異教徒たちと一緒に立ち去って、
西宮という非常に大きな神社に赴いた。そこは多くに人が参詣し、異教徒たちから大いに尊崇されている
霊場であった。他の若い異教徒たちは、キリシタンになったジョアンを愚弄して、
「貴殿はあのような邪悪な宗教を信じ、また日本の神々を愚弄する言葉を吐いたのだから、きっと近いうちに
神々の懲罰を受けるであろう。」

ジョアンはそれに答えて言った
「私が、死んだ人間や、石木にすぎないそれらの立像に、いかなる恐れを抱けというのか。
ところで私がそれらをどれだけ恐れていないか、また悪魔の像を表徴しているに過ぎない彫像を拝むことが
どんなに笑止の沙汰であるかをお前たち皆が解るように、これから私がそれらをどのように敬うかを
見られるがいい!」

こう語ると彼は、非常に高く、全て塗金されている偶像に登りその頭上に立ち、そこで一同の前で
偶像に小便をかけ始めた。

これをあきれ果てた暴挙、また前代未聞の神聖冒涜と見なした他の連中は、この事件を彼の叔父である
日向殿に報告した。日向殿は極度に激昂したものの、自分の甥が、そのような行為を伴天連の同意なり
是認なしに行ったとは信じられなかった、他の二人の執政は、その若者を呼び出し、伴天連がお前に
そうするように命じたのか、それともキリシタンの間ではあのような習わしがあるのかと尋ねた。
なんの恐れも知らなかったその若者は

「伴天連様はあの事に全く関知されていない。伴天連様が自分に進めたのでもない。仲間共がひどく自分を
怒らせたので、自発的にやったまでのことだ。それが懲罰に値するというのなら、それを受ける覚悟がある。」
と答えた。

三人のうちで最もキリシタン宗門に敵意を持っていた下野殿(三好政康)は、先にキリシタンに鹿を殺された
事件でひどく感情を損ねており、今度の事件について
「あの若者が自分及び他の執政たちの親類のものでなかったら、疑いなく即刻磔刑にするところだ。命だけは
助けてやるが、あの若者は今後、親族から除外され、申すまでもなく相続請求できる封禄も没収されるものと
心得るが良い」と言い渡した。そこで若者は下の地方(九州)に赴こうと早速堺に向かって乗船した。

こうしてひとまず事件は落着したが、以後、かの殿たちは皆司祭や教会のことには全く耳を貸さなくなり、
彼らのもとで司祭の帰京問題に解決の道を見出すことはもはや不可能となった。
けれども1年と立たぬ内に、この下野殿は奇禍に合い哀れな死を遂げたし、二人目の岩成友通殿は
織田信長が殺させ、彼の城も奪われた。そして老人であった日向殿も同じく財産を失い、追放されて死んだ。
かくしてそれら三人は、皆それぞれに相応しい最後を遂げたのである。

ルイス・フロイス『日本史』)

1568年の、キリシタンがらみの冒涜事件に関する記録である。




701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/09(日) 20:16:09.93 ID:q6Zwvdl7
三好清海入道「あれ、わしが大坂の陣で活躍したってのは」

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/09(日) 21:31:00.01 ID:vYwalrHz
所詮フロイスw

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/09(日) 22:15:58.27 ID:AWtOK8wl
>>701
あんたフィクションだし

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/10(月) 11:12:48.51 ID:c8Oqgbsm
キリシタン「踏絵?全然問題ないぜ!」

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/10(月) 14:38:32.61 ID:afL4KWIZ
イスラム教徒ならなw

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/10(月) 15:28:56.21 ID:WQkcJ18+
プロテスタントは躊躇なく踏んだとか聞いた
ガリバーは踏まなかったが

三好氏躍進の秘訣

2011年10月06日 22:06

5 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/06(木) 12:31:20.92 ID:c5QU8yA0
今井用水相論に絡めた畿内の政争と事情 三好氏躍進の秘訣  

1553年 三好長慶が畿内に覇を唱えてから4年後
足利義輝は近江朽木から京都霊山に城を構え京奪還作戦を画策、その頃~

~京都・西岡~
西岡は小規模国人の乱立密集地帯で互いに持ちつ持たれつの関係で色々な揉め事が多かった。
今里村と上植野村の水論争いは、隣村の国人と茨木長吉(細川氏綱家臣)が仲裁していた、のが再発。
省略して書けばこうである

今里村方『洪水で川の瀬が変わったら、ちゃんと井上村中島の井出三段目下『まで』
    堀り取る事が慣習だったよね?なんでそれ無視した川筋掘ってんの?うちん所の水少なくなっちゃうじゃん』
上植野村方『ち、うっせーな』
今里方『秋田氏と長井氏が上植野村を支配していた時は問題なかったよね~』(両氏は没落したらしい)

~京都東山、三好長慶陣陣営~
三好長逸『なんか西岡で用水栽論で揉めてるらしいけど』
三好長慶『えっと、何処で?』 
長逸『今里村と上植野村』 
長慶『え?あれって氏綱家臣の茨木が仲介して終わったんじゃないの?』
長逸『それがカクカクシカジカ』
長慶『ちょっと公方との合戦で手が離せないから(忙しいし無理!)
   細川氏綱さんの家臣の多羅尾綱知にお願いできる?って≪細川氏綱さんから≫言って貰えないかな』
長逸『あいよ、じゃ、ちょっくら使いを走らせるわ』

多羅尾(何で終わった事を俺が、めんどくせーな、まあ適当にやっとくか)『おい、何で今更終わった事を蒸し返すんだよ』
今里・上植野『うるせー!外野は引っ込んでろ!細川家臣はお呼びでねーよ!タラオの癖に!』
~中略~
多羅尾『とまあこんな感じで、どうも今里・上植野両氏に問題があるようで(俺は悪くねーし)』
長逸『了解、長慶に報告しとくわ(お前本当に仲介してきたのかよ)』 長逸『とまあ、こんな経緯だったようだ』
長慶『そうか、じゃあ次は≪三好長慶から≫直々の頼みって事で、もう一度だけ多羅尾綱知にお願いできる?』
長逸『まあ、これでも駄目なら…って事だな』
長慶『そういう事』

多羅尾(また俺かよ!別の奴に行かせろよ!)
多羅尾『今度は三好長慶の命で来たけど、本当、お前ら争い止めろ!な!』
今里・上植野『うるせー!外野は(省略)』
多羅尾『やっぱり彼等は聞く耳を持たないようで(俺は悪くねーよ、解ってるよな)
長逸『わかった!よっしゃ多羅尾、お疲れ!(細川の面子を潰してくれて御苦労!)ゆっくり休んでいいよ(多分次は無いよ!)』

長慶『さて、霊山城の方も少し落ち着いた、長逸、今里の能勢氏に三好長慶が直接赴くと言伝をお願いできるか
   それと、双方の村の申次と検使に実況見分させろ、両氏の絵図を確認して
   第三者である井の内村の百姓の証言をよーく聞いてくれ』

そして西岡に検使和久与助が実況見分をし、結果は当然ながら今里郷惣中の勝訴となった。
こうして、三好氏は下の者達から公平性・積極性を買われていき畿内の信頼を得ていく
武家の家督相続(例 和泉松浦氏)なども
『細川だと色々メンドクサイからもう三好長慶だけに相談して決めるわ』
長慶『次、君が相続ね』→松浦家『合点承知』 などなど

出典は『能勢家文書』『松前彰家文書』今里村の『手日記』
高槻の水栽論とはまた少し前 
長逸と長慶のやりとりは長逸の取次ポジを利用したフィクションです
まあ長逸から岩成とか更に下っぱに言ってるのが普通でしょう