50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 14:39:37.22 ID:csadipqG
本願寺一揆(三河一向一揆)の時、賀茂郡下江知村の四至屋平太郎という者が家康公に御味方
申した。針崎表一戦で公は打ち負けて六所の宮へ入られ、敵は岡崎の城へ押し入らんとした。
この時、平太郎は公の御装束を着て、城の大手で寄せている敵に向かうと、「家康こそ、ここ
にて立ち腹しているぞ。見よ!(家康社爰ニテ立腹ルニ見ヨ)」と大声で腹を十文字に掻き切り、
敵はこれを見て事実と覚え、引いていった。
その後、家康公は関ヶ原より御帰陣の時に矢作へ出向かい、(平太郎の)居り申す所を御尋ね
になった。(平太郎の後家は)殿様に御不足(不満)を存じ奉り、「私こそが四至屋平太郎の
後家です」と申し上げた。
公は「そうであったか」と仰せられて、手作と70石を下された。その末裔を中根喜蔵と申す。
本多九平衛の話の覚書。
――『三河東泉記』
本願寺一揆(三河一向一揆)の時、賀茂郡下江知村の四至屋平太郎という者が家康公に御味方
申した。針崎表一戦で公は打ち負けて六所の宮へ入られ、敵は岡崎の城へ押し入らんとした。
この時、平太郎は公の御装束を着て、城の大手で寄せている敵に向かうと、「家康こそ、ここ
にて立ち腹しているぞ。見よ!(家康社爰ニテ立腹ルニ見ヨ)」と大声で腹を十文字に掻き切り、
敵はこれを見て事実と覚え、引いていった。
その後、家康公は関ヶ原より御帰陣の時に矢作へ出向かい、(平太郎の)居り申す所を御尋ね
になった。(平太郎の後家は)殿様に御不足(不満)を存じ奉り、「私こそが四至屋平太郎の
後家です」と申し上げた。
公は「そうであったか」と仰せられて、手作と70石を下された。その末裔を中根喜蔵と申す。
本多九平衛の話の覚書。
――『三河東泉記』
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