fc2ブログ

家康社爰ニテ立腹ルニ見ヨ

2021年09月18日 18:39

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 14:39:37.22 ID:csadipqG
本願寺一揆(三河一向一揆)の時、賀茂郡下江知村の四至屋平太郎という者が家康公に御味方
申した。針崎表一戦で公は打ち負けて六所の宮へ入られ、敵は岡崎の城へ押し入らんとした。

この時、平太郎は公の御装束を着て、城の大手で寄せている敵に向かうと、「家康こそ、ここ
にて立ち腹しているぞ。見よ!(家康社爰ニテ立腹ルニ見ヨ)」と大声で腹を十文字に掻き切り、
敵はこれを見て事実と覚え、引いていった。

その後、家康公は関ヶ原より御帰陣の時に矢作へ出向かい、(平太郎の)居り申す所を御尋ね
になった。(平太郎の後家は)殿様に御不足(不満)を存じ奉り、「私こそが四至屋平太郎
後家です」と申し上げた。

公は「そうであったか」と仰せられて、手作と70石を下された。その末裔を中根喜蔵と申す。
本多九平衛の話の覚書。

――『三河東泉記



スポンサーサイト



鳳来寺岩本院に住む安養坊と申す者

2021年07月22日 17:05

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/22(木) 13:33:32.74 ID:FdRyrWep
鳳来寺岩本院に住む安養坊と申す者(植村泰忠)は、家康公が甲州勢と御戦の時に
鳳来寺一山を御頼みになったが他は合点無く、安養坊1人が50人程を催し、その
身は八角の朱塗りナル子ゴロをしき腹にあてて、具足のように成して出立ち、御加
勢申し候。

その後に家康公は安養坊を召し出され、とかく還俗致されよと御盃を下された時に
達て辞退申し上げられた。

すると御小姓衆が熨斗を無利に(「無理に」か)口に入れ、この時に「畏まり入り
申す」と還俗申し上げて“二位法印”と名乗り、戦功共これあり。

(御小性(ママ)衆熨斗ヲ無利(ニ)口(ニ)入候時)

前述に初めて出馬の時、法花経八巻を旗になして、仏具を甲の立物にして出られ候。
今の上村土佐守殿の御家これなり。今においても岩本院にその子細あるとの由を申
し候。『家忠日記』五巻目にこれあり。

――『三河東泉記』



859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/22(木) 13:42:27.62 ID:KgDFoPRH
熨斗あわびかと思ったけど
もしかしてアイロンの方?

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/22(木) 13:47:45.97 ID:KgDFoPRH
失礼、酒を飲ませて飲酒戒を破らせようとしたけどダメだったから
無理矢理あわびを食わせて食肉戒を破らせて
還俗させた、てことね

御家中親子方迚、家康公ハ信長方、信康公ハ勝頼方也

2021年07月18日 17:47

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/18(日) 15:58:49.02 ID:JzsDNW3T
若宮(岡崎投町)ならびに観音の由来。元禄6年に再興これあり。ならびに鳥居は北向に成立、
昔はこの所を根石原という。すなわち観音堂あり。

天正7年頃、岡崎三郎信康公、同御母築山殿の御生害につき、信長公家康公より御吟味あり。
御家中親子方として、家康公は信長方、信康公は勝頼方なり。

(御家中親子方迚、家康公ハ信長方、信康公ハ勝頼方也)

御家中は勝頼方へ逆心無き旨を身血にて起請文を書き申すとして、投村は当時は大塚村といい、
この観音の前で書きけり。今の東の方田の所、その頃は野であったこの所で書いた。

その後、三郎信康公、同御袋築山の亡魂による御城への色々のケザシあり。諸寺院にて御祈念
御弔があったが鎮まらなかった。この時、観音堂の森の内に若宮八幡の勧請を申し達し、御袋
様には40間北に神明を勧請申し奉ったところ、ついに収まった。

これ以後、若宮八幡とも、また起請宮ともいう。神明は岡崎城主水野監物殿の御代、正保時代
に欠山に移し奉る。

――『三河東泉記



三郎殿、築山様の事

2021年07月17日 18:18

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/17(土) 14:01:10.78 ID:g/7Ali2z
一、築山様は関口刑部殿(親永)の御息女、御娵子様は信長公の御息女(徳姫)でかねてより
  御仲も良くなかった。
  
  信康公がヨウシ(「楊枝」か)を落とさせ給いし時、御前様に御取り給われと御申しにな
  るが御返事もなくおられた。信康公は局を大いに御叱りになり、「諸事仕るに付け悪しき
  によりこの如し!」と仰せられた。

  (徳姫は)その事をふくれて、信康公の御事ナケ状を書いて信長公へ遣わした。信長公は
  驚かせ給いて、家康公の御家老へ申し来たり、御袋築山様と御一味の事が顕れて信康公は
  遠州二俣清立寺で、天山山城守が介錯して切腹なされた。

  大久保七郎右衛門(忠世)、二俣の城主平岩七之助(親吉)、この両人が検使、(その他
  に)成瀬吉蔵、服部中務などである。そのため、大久保七郎右衛門と平岩主斗両人ともこ
  の報いにて、相模守(大久保忠隣)と申して小田原にて落居、主斗は跡絶えけり。

  築山様は野中三五郎(今ハ水戸ニ有)、酒井図書(今水戸ニ有)に仰せ付けられ自殺なり。

一、小河城主の石川修理亮、子の豊前守一同に切腹を仰せ付けられ候。  

一、天正3年、参州岡崎にて大岡弥四郎(大賀弥四郎)逆心の事。

一、天正3年の秋、家康公御父子の御仲不和にならせられ、服部半蔵岡崎に仰せて岡崎を退か
  せ給う。年号相違なり。勝頼(武田勝頼)も期日を極めて足助まで来たが、この事を聞き
  付けて甲州に引く。

  三郎殿の御前は信長の御娘にて、京の本多下屋敷にて80に及び死去なり。

  ――『三河東泉記



848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/17(土) 14:20:30.15 ID:eZj1fNgG
信長がこんなことで切腹させるわけないよなぁ
部下の家庭環境にまで気を配るのに格下とはいえ同盟相手にそんな命令出すはずない
秀忠が春に産まれてその秋に腹切らせてるんだから、そもそも後継者として考えてなかった信康が血統的にも邪魔になったから家康が始末したんだろ

これ以後は境を酒井に改め

2021年07月04日 19:15

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/04(日) 16:19:13.21 ID:Fb48wao+
一、碧海郡東境村の田中に酒井与左衛門の屋敷が今もある。

  ただし酒井は改め申す事。境の屋敷に泉あり。その水は甘美にして酒の如し。
  この時、親氏公(松平親氏)は境を改め酒井姓を給うと伝え申し候なり。

一、文明の頃か、信光公(松平信光)は酒井を召され、鳴野へ御鷹野をなされて
  御帰りに藤上の清水にて御顔と御手を洗い、御両人足を御冷やし「清けつな
  る清水」と御褒めになった。

  「これ以後は境を酒井に改め、すなわち紋に井桁を付けられよ」との御意に
  て、この時に酒井に改めたと酒井彦助と申す者がたしかに申し伝えたという。

  ――『三河東泉記



松平家紋は代々立葵で

2021年07月03日 17:33

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/03(土) 15:55:34.95 ID:tU+WSq5A
一、松平家紋は代々立葵で、清康公御代の天文4年まで立葵にて、随念寺の清康公
  の御影(肖像画)の御紋は立葵である。

  家康公御代、岩堀に名物の葵があって毎年上げられた。また岩堀に珍しい葵が
  あって丸い鉢に葵の葉を3葉敷き、菱を据えて差し上げ申したのを御覧遊ばさ
  れ、「これ以後は立葵をやめて丸の内に三葉蔓葵にせん」との御意にて変えた。

  80歳で相果てた本多茂兵衛と申す者が、たしかに伝えたと申す話である。

一、葵の御紋は有原成平(在原業平)の紋にて、太郎左衛門家有原信重(松平信重)
  という。この家督を御継ぎ遊ばされた故、松平家御紋は葵なのだと大樹寺(松
  平氏代々の菩提寺)にて承り候。

  ――『三河東泉記



三河高橋氏のこと

2021年07月01日 17:00

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/30(水) 21:29:58.73 ID:0dIfNDlW
一、崇福寺(中島)の住持・東岸和尚は、家康公帰依の僧で吉良赤羽根の城主・高橋氏の
  子なので、家康公は常に「高橋坊主」と御意なされた。

  寺院の中にテリサンゴウの法門を御聞き遊ばされ、御機嫌に預かる。

一、吉良赤羽根の城主・高橋与助と申す侍は、家康公へ逆心あって、家康公がサクノ嶋へ
  御出のところを害し奉る企みを致した。

  しかし、家康公へ告げる者あって聞こし召され、赤羽根の高橋を召し寄され磔に仰せ
  付けられた。

  その弟は禅宗坊主にて、ヒマカ(日間賀か)にあって1才の男子を抱いて、禅宗坊主
  の方へ逃げて命を助かった。

  その男子にまた二男あってその末裔がいると、村の古老の話を覚え書きした。
  
  ――『三河東泉記



「一に吉良、二に荒川、三に今川、四に一色」と申し候

2021年06月30日 18:11

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/30(水) 02:26:44.47 ID:5rhC7FXr
一、清康公(松平清康)は享禄2年、吉良へ御働きになり、小嶋の城主・高部屋ホコノスケを
  御攻めになって、城主は淵に飛び入り水をくぐり、落合より没落した。この時、八面荒川
  東城の持広(吉良持広)が降参あって、持広を妹婿になさり、吉良庄御平属す。

  後に持広は広忠(松平広忠)の加冠となり“広”の字を賜る。持広は子無くして義照(吉良
  義安)に譲り、八面の荒川甲斐守義篤(義広。吉良持清の次男)は家康公の妹婿に遊ばさ
  れる。

一、荒川殿の御屋敷は、山田市郎左衛門の居り申す所なり。本城に三の丸の堀跡が見えている。

  荒川と申すは「一に吉良、二に荒川、三に今川、四に一色」と申し候。

  また荒川大夫殿と申し、1千3百石を取り申され、屋敷あり。荒川の家来は中神藤左衛門、
  鳥居、岡田、加藤、これら13人が今川の桶狭間の合戦で戦死した。

  今の尾州の荒川小次郎がこの子孫である。

  ――『三河東泉記』



「さては主殿御越し候えば心安し」

2021年06月29日 18:24

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/28(月) 21:05:24.39 ID:9aIEiqMC
伝馬町南俑山伏初門十次クワンザワ五徳院まで五代(元和ノ頃上方より来住)
元禄7年5月覚

この屋敷はむかし聖眼寺という浄土宗寺があったが、寺絶えて広忠公(松平広
忠)の御時分は深興津(深溝)村の城主・松平主殿(好景)の下屋敷になる。

その頃、広忠公御生害につき岡崎は騒ぎになった。主殿殿は鷹野の場で聞いて
早々に駆け付け、吹屋の瀬を渡ってこの屋敷へ乗り込んだため、岡崎中の者が
「さては主殿御越し候えば心安し」と息をつき喜んだ。

鷹野場にて聞く。

――『三河東泉記』



「城取りへ参る」

2021年06月27日 19:28

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/26(土) 18:27:39.21 ID:qSNahjgy
家康公が長篠へ御出陣の時、御油を御通りになった。

その時、鍬を担いだ百姓1人が通ったので、田中五郎右衛門に仰せ付けられて
「どこの者だ」と尋ねられると「某は国母の者」と答えた。「どこへ参る」と
御尋ねになれば、「城取りへ参る」と申し上げた。

家康公は御機嫌にて“平松”という御名字を下されて、屋敷まで拝領仕ったが、
後に御油畷で討たれたとカタケリ(「語りけり」か)。分明知らず。

――『三河東泉記



「土井庄蔵を討って参るべし」

2021年06月26日 16:08

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/26(土) 13:15:41.37 ID:FqIbii9z
青崎合戦にて、土井庄蔵と申す者は家康公を御馬の後ろから、尾房を切りすでに討ち討ち申さんと
したが、その時に自らの馬が倒れて空しく退いた。

後に渡辺半蔵(守綱。槍半蔵。一向一揆に参加した)を御許しになられて召し出し、「土井庄蔵
討って参るべし」と仰せ付けられた。その時、庄蔵が赤渋村にウタチ屋を構えていると聞いて御足
軽6人を付けて遣わされたところ、庄蔵は松葉を焚いて宿に居た。

渡辺を案内申すと、庄蔵に「誰だ」と問われ「半蔵なり」と答えた。時に「よくよく来たぞ。まず
は上がり給え」と申した時、6人の者は表口の前に忍び置かれた。

庄蔵申すは、「今日は家康を討ち申すところであったが、我が馬が倒れて成り難し」との由を申す。
これに半蔵が「それに付き、その方を討ちに来たので覚悟仕るべし」と申した。

庄蔵は「心得候。侍は相互いに候ので、まずは上がって暖くと仕るべし」と申す内に半蔵を取って
柱の間に投げ入れ、セド口より立ち退いた。外の6人は裏口を知らず、ついに庄蔵は逃げた。

半蔵は御前でその事を申し上げたところ、居所から血糊がたくさん落ちていたので家康公が御尋ね
になると、半蔵はいつ足の股を突かれたのか知らず、御前に出る強き者と取沙汰し申した。

この庄蔵は、後に西国で2千石を取った。

――『三河東泉記



捨て置けよ。新右衛門は退く者にあらず

2021年06月20日 19:07

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/20(日) 14:38:50.43 ID:HNP/ioXZ
>>815の続き)

山田八蔵はつくづく思案仕るに「代々の主筋に弓を引いては子々孫々まで悪名を残し、天罰もいかがなものか」
と思い、早速岡崎に来て御目付衆を1人申し受けて渡利村の宿所に入れて座敷を隔て隠し置いた。

小谷九郎左衛門を酒に呼び「いよいよ、かため申すべき次第。日限まで御話人数もあらまし。御話候え」と申
せば、九郎左衛門が右の次第を話し申すのを、右の目付が一々書き付けて岡崎に帰り、役人に言上申したとこ
ろ驚き、早速大岡弥四郎(大賀弥四郎)の所へ押し込んで、弥四郎を生け捕り検断仕れば奥に旗を10本拵え
置いていた。

その時に欠村では柴田右森一家ども、松平新右衛門(親新吉郎右衛門と申)等が集まって、鹿がけに的を射て
いた。「この鹿だけではいかがなものか。少し酒を飲めたら良いだろうに。いざや酒を買いに遣わすべし」と
下男の小者に申し付け、岡崎へ酒を買いに行かせた。

ところが殊の外遅く待ちかねて鹿を食べ始めたところに来たため、皆々何故遅く来たとトジメければ、「今日
大岡弥四郎逆心にて、あらわれて生け捕りに付き町中は騒ぎ、家ならびに戸棚は閉じ申したため、ようやく只
今買って参りました」と話したところ、松平新右衛門はこれを聞いて少しも騒がずに鹿汁を2,3盃食い、酒
をしたたかに飲んで、互いに宿に帰った。

新右衛門は同村の百姓・助右衛門という者の所に至ると、折しも10月の事だろうか俵を編んでいた。新右衛
門様の御出と見て、俵の新しいものを馳走に敷き置くと、古いあみ笠とこぎの1つを借りて差し、浦の垣より
落ちていった。そこへ平岩七之助(親吉)方が4,50人召し連れて懸時に御急ぎのところ、助右衛門を見て
不審に思い新右衛門の屋敷へ押し寄せると宿にいなかった。

それより柴田右森は婿なのでここに押し寄せ新右衛門を出せと申された。右森は「神も私(も?)ゆめゆめ存
じ給わざるぞ」と申して大小を抜き、平岩主斗殿へ相渡すと主斗は聞き届けて帰り、言上申した。

家康公は「捨て置けよ。新右衛門は退く者にあらず」と仰せられたが、翌日に大樹寺の正運にて(松平新右衛
門が)切腹仕ると言上申し、家康公は御聞きになって「いかにも左様の筈だ」と仰せ出された。

渡利村の小谷九郎左衛門方へ、庄屋の仁左衛門は少し内証を聞いて不便に思い、親子で九郎左衛門を呼び濁り
酒を出し、鮗の膾を肴に出して酒を振る舞った。件の内談を申せば子は聞いて色を変え酒も肴も飲まずにいた。

九郎左衛門は少しも騒がず「さても忝き義の内証」と申して膾2皿を食うと、暇乞いと申して濁り酒を汁椀で
すっばと飲み、浦垣に退いた。その内に岡崎より百人ばかりが来て九郎左衛門の屋敷を取り巻いたが、立ち退
いて居らず空しく帰った。家内には、さすがに旗3本が雪隠の灰の中に入れ置いてあったのを見つけ出した。

大岡弥四郎は連尺町大辻のこの所にて、7日に竹鋸で引かれ、根石原で父子5人ばかりが磔に上がった。江戸
右衛門八は切腹を仰せ付けられ、腹内の子は母が逃げて新堀村と申す所の本多又左衛門の所で生まれ、自らの
婿にしたとの由を申す。

山田八蔵は柿崎5百石を褒美に下され、後に大浜上地を下された。小谷九郎左衛門は鳥井久兵衛の家老の小谷
甚左衛門の養子の者なり。この甚左衛門も鳥井殿(欠字)を貰い薩摩様にて千石を取る。子無くして絶えけり。

――『三河東泉記



逆心の企みは

2021年06月19日 18:06

築山殿   
815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/19(土) 17:30:35.32 ID:J7jDc0MV
この節、家康公は浜松におられ、天正3年には岡崎は三郎信康公、御守は小河の城主・石川備前守(数正)、
平岩七之助(親吉)などなり。家康様の御前・築山様は菅生の築山に御屋敷あり。信康公の御屋敷は城外の
北東に当たってあり、今の久右衛門町である。この節、御前築山様が御留主にて、殊に御仲も不和なりし。

その頃、甲州より口寄せ巫女数多来たりて、家中町村を廻って口寄せした。この時、勝頼(武田勝頼)より
巫女を騙して築山殿の御内にて下女に色々取らせて取り入り、下女より中間に取り入り、後には奥上﨟たち
までにいろいろの進物を致して取り入り、ついには御前様に御目見え申し上げてよく取り入り、折を見合わ
せて申し上げるには、

「もし御前様が今度勝頼と御一味なされば、(欠字)御前は天下の御台と備え天下無双に仰せられ、若殿は
若君と天下を仕り相譲るべし」と申し上げた。

その頃、西慶と申す唐人医がいて御屋敷へ節々出入りし御前様の御意に入った。これを談合して巻き込み、
大将分は大岡弥四郎(大賀弥四郎)が欠村に居り申し、松平新右衛門、江戸右衛門八、渡利村の小谷九郎左
衛門が大将にて申し合わせ、勝頼から知行の御判を取りかため申したのである。

時にその頃、(此処三字不知)城主は鳥井久兵衛で小谷もこの家来だった。朋輩に山田八蔵という者がいて、
ある時にこの者と九郎左衛門が取り分け入魂なれば「その方なども某どもと万事一味すれば、終いには欠綏
もせ申すべし」と申した。この時、山田八蔵は喜び「左様のことならば、何様にも一味仕り申すべし。ぜひ
ぜひ頼み入る」との由を誓言して申した。この時に九郎左衛門は山田八蔵を一味した。

逆心の企みは岡崎の城より南の方の吉良庄に旗百本ほどを並べて人数を見せかけて、甲州勢を城より北の足
助大樹寺口より引き入れ、城中では南表へさばき出る所を見て、北口より押し入り、城を固めて城外を放火
し、いよいよ甲州勢を入れ、三河を甲州へ取る企みであった。

この事を九郎左衛門が山田に話して同心となり、勝頼より2万石の御判を取り申したのである。

――『三河東泉記』

続き
捨て置けよ。新右衛門は退く者にあらず


支配に弾正が威を振るったので

2021年06月13日 16:27

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/13(日) 12:58:26.15 ID:eUZaO4BL
天文19年、万松院(足利義晴)御逝去の時、光厳院公(足利義輝)御年5才ま
で守り立て、公方14代相続奉るように三好殿へ仰せあり。

三好細川修理大夫の家人で和泉境の牢人・松永弾正は平跡良くして、阿波の三好
家へ奉公に出て、後に和州南都東大寺の北の山城、多門造城を持つ。

三好修理殿は以後左京殿(三好義継か)の御乳母を松永の嫁とし、内縁故に都の
支配に弾正が威を振るったので、長臣衆と不和になる。

――『三河東泉記



806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/13(日) 13:06:16.29 ID:Sgq1CfgC
15歳じゃないのか
14代については義稙を2回数えるとして

蔵人元康は岡崎へ御帰城、諸人喜ぶ

2021年06月12日 18:00

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/12(土) 16:45:03.01 ID:B6TEFUdv
後奈良院の頃、将軍は義晴、管領は細川高国入道常桓なり。今川義元は三州、遠州、駿州を御従え、
近国に威を振るった。織田弾正(信秀)も義元公に属す(織田弾正モ属義元公)。

天文23年2月、小田原の氏康と義元が取り合い、尾州の織田弾正忠、同三郎五郎(信広)父子が
三州に出張して安祥を乗っ取ったので、吉良が働き渡利・下渡利・和田の本陣が小豆坂へ押し出す
(小豆坂の戦い)。義元は戦い、ついに西勢は負けて安祥に引き、大勢追い討ちして東勢は藤川に
引いた。年号は天文22年と書いてある。

また東勢は安祥へ明くる夜中に取り掛かり、三郎五郎を生け捕った。戸部新左衛門(政直)が詫び
言、竹千代と人替えとある。相違なり。

永禄元年、竹千代17才の御年、駿河にて御年を重ね、蔵人元康は岡崎へ御帰城、諸人喜ぶ。

永禄8年5月、義元は駿・遠・三2万4千の勢にて尾州退治せんと発向(二万四千ノ勢尾州退治セ
んと発向)、元康公24才、尾州・三州の境の泉田に陣取、桶狭にて討死。相違なり。

元康公は大高の城より品野村へ掛かり猿投山の北後へ出て、梅ヶ坪へ掛かり筈利へ打ち越し、大川
を下り岡崎へ入られた。

今川氏真は23歳で父義元は討死し、弔い合戦の心掛けもなく二浦庄を立ち花月の遊興ばかりなり。

――『三河東泉記



亀蔵宮

2021年05月30日 18:48

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/30(日) 18:11:39.34 ID:XYUliaXg
岡崎城主の本多豊後守(康紀)は、元和年中に亀蔵と申す草履取りが
奥に仕る腰元のふくと申す女と密通したのを吟味した。

岡崎六本松にて2人とも搦め置き、10日に手爪を離し、10日に指
を切り、20日に足の爪指を取り離し、2日に両眼をくり出して2人
ともに成敗した。この2人は自らの科とはいえ七代の祟りをなさんと
言った。

この後、城にあらゆるケザヽをなし、これより六供で護摩を焼くとそ
の煙の内に2人がきっと立っている姿を、ありありと諸人は見た。

その頃、豊後守家中には新参古参があった。古参は岡崎能見山に愛宕
山と勧請申し、新参は龍海院山にて愛宕山と北南に勧請申した。この
時に亡魂収まり、これより愛宕の宮を“亀蔵宮”ともいうようになった。

さてまた豊後守殿には亡目の子が1人、両手の指が無い子が1人、口
の歪んだ子が1人いた。これらは亀とふくの業と沙汰された。今も若
宮ならびに新明、その後に立った両愛宕あり。業の程こそ恐ろしけれ。

――『三河東泉記』



一に大岡弥四郎、松平新右衛門、江戸右衛門八と承る。

2021年05月24日 17:55

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/24(月) 15:33:06.98 ID:bGi8+lek
大岡弥四郎(大賀弥四郎)と申す者は家康公の御馬取であったが、(家康が)境目
よりある時に長瀬へ御出になり、ただちに川を越して大樹寺へ御入りの時、折しも
川は出て、鹿が渡しの瀬踏みすべき者なし。川は赤く濁り、あは高し。

この時、大岡弥四郎が一番に川に飛び込むと殊の外川は浅く、(家康は)難無く越
し給い、この褒美に初めて2百石を下され、後に5百石に増す。

岡崎能見という所に屋敷を拝領仕り、中根肥後守と聟になり、岡崎3人の町奉行と
なった。一に大岡弥四郎、松平新右衛門、江戸右衛門八と承る。

――『三河東泉記



231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/24(月) 16:01:04.42 ID:F8+HT1i+
自分の知っている大賀弥四郎なら、その後を考えるといい話とは思えないが

岡崎領内渡利村の一揆が生害なし奉る

2020年06月14日 17:24

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/14(日) 16:11:55.68 ID:vlrl08jF
広忠公(松平広忠)は天分18年(1549)3月の鷹狩の折、岡崎領内渡利村の一揆が
生害なし奉る。尾州の織田弾正忠(信秀)の武略により、渡利村の一揆どもに過分に褒美
を与えるとの由。御印(首級)を持って一揆どもは矢作川堤を上り急いだ。

その節、岡崎大将衆3人が岩津の信光明寺にいたが、件の由を告げ来たりその内2人が岡
崎目指して急いだ。1人上将(ママ)出羽守は渡利村を目指し、岩津大川を堤を下り急ぐ。

件の一揆どもに行き合い、御印を見て1人も逃すまいと3人を切り伏せて残りは逃れ、御
印を持って光明寺に納めた。2度覚えがあり、右の内を抜き書いたものである。

――『三河東泉記