FC2ブログ

とりわけ『べい』『べら』と云うこそおかしけれ

2021年02月20日 18:09

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/20(土) 17:22:09.09 ID:0XyPLAi2
近年聞いたことである。
鈴木宗順という京の人が、江戸に下ってこのように云った

「関東は、聞いていたよりも、見ればいよいよ下国にて、よろず賤しい。
人は頑なに言葉が訛って、『なでう事なき』『よろこぼひて』などと片言ばかりを
云っているため、内容が聞きづらい。

拾遺和歌集に『東にて養われたる人の子は、舌だみてころ物は云いけれ』と詠ぜられている。
さてまた、宗碩が『片つ田舎は問はるるも憂し』と発句をしたところ、『何とかはだみたる聲の答へせん』と
宗長が付けた。宗長は生国関東の人(生国は駿河国島田とされる)なればなり。
『都人、問ふもはずかし舌だみて うきことわりを何と答へん』と詠んだのもげに理である。
とりわけ『べい』『べら』と云うこそおかしけれ。

これにつけても我が住み慣れし九重の都、さすが面白き境地である。人王五十代桓武天皇の御宇、
(延暦)十三年甲戌十月二十一日に、山城国愛宕郡に都を遷された、男女の育ち、尋常に、言葉
優しく有りけり。」

関東衆はこれを聞いて

「愚かなる都人の云うことである。国に入っては俗を問い、門に入っては諱を問う。これ皆定まった
礼である。知らぬ国に入り、その国の言葉を知らないのに、それを問わないのは道理に合わない。

孔子は生まれながら物を知る智者であった。その孔子も大廟に入って、祭りに與った時には、事々に
人に問うたとか。舜も大智の聖人にてましますけれども、よろすに物を人に聞かれた。
知っている上にも問うのが、智者の心である。

そして関東の諸侍は、昔から今に至るまで、仁義礼智信を専らとして、文武の二道を嗜まれた。
民百姓に至るまで、筆道を学び、文字に当たらない言葉は、あからさまにも唱えない。

この宗順は、文字般若(般若の道理と智慧とを、文字によって示したもの)に暗ければ、義般若にも
暗く、却って他を難じている。
文字は貫道の器である。器なくして善くこの道に達するという事が、どうして出来るだろうか。

されば伊勢物語に『よろこぼひて』と書かれているのは『喜びて』の事であり、『なでう事なき』とは
『させる事なき』という事である。
『べい』は『可(べし)』の字である。言葉のつながりによって『べし』とも『べら』とも云う。
古今集に『秋の夜の 月の光の清ければ 暗部の山も越えぬ「べら」なり』と詠まれている。

その上、『知って問うは礼なり』と、古人も申されている。ましてや知らずして他を難ずるのは
まさしく道理に合わない。」

と云った。

慶長見聞集

関東の訛りについてのやりとり



スポンサーサイト



鰹とシビ

2021年02月16日 16:57

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/16(火) 15:46:41.77 ID:2T8xyAzp
小田原北条家の時代、関東では弓矢有って毎日戦い止むことがなかった。
その頃、鰹は「勝負に勝つ魚」といって、古き文にも記され、先例ありとして、侍衆の門出の
酒肴には、鰹を専ら用いられた。

一方でシビ(魚編に黄、キハダマグロ)は、味よろしからずとして、地下の者も食わず、侍衆は見ようとも
しなかった。
その上「シビ」という言葉の響きが、「死日」と聞こえて不吉であるとして、祝儀などでは用いなかった。

そのようであったので、漁師はシビを釣ると、塩引きにして束ねて置いていたが、この魚は肉が深いため、
やがて虫が湧き出た。その虫は自らの肉を食い、肉を食い尽くして後は死に、かたまってまた元の肉となった。
異臭があたりを深く漂った。

このシビという魚を、信濃、上野、下野の山国に、商人は持っていって売買した。これらの国の人、
これを他にないほど賞翫する。

されば、シビ釣ると古歌に多く詠まれている。藤江の浦。藤井の浦。紀の海で詠ぜられる。
これらの国の浦里(漁村)の人たちも、シビ賞翫と知られている。

慶長見聞集



574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/16(火) 23:02:29.59 ID:pniDL8WI
キハダのほうがカツオより美味いと思うんだが昔の人は嫌ってたのか

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/16(火) 23:14:25.03 ID:rWIT8iyq
キハダの方が腐りやすいのかな

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/16(火) 23:42:55.16 ID:hXuW2umK
マグロとか脂の多い魚は足が速い
だから冷蔵技術が発達するまではマカジキとか脂で食わせる必要の無い魚やアンモニアが多くて腐りにくいサメなんかが貴重だったりしたそうな

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/17(水) 00:41:05.11 ID:JH33SJMl
>>576
あと、生きたまま運べる鱧

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/17(水) 01:29:24.38 ID:lypbqfLi
江戸で重宝された初ガツオも脂のノリが薄くてさっぱりしてるが、その分腐りにくいからこの時期が旬とされたわけかー

キハダもカツオも同じサバ科だけど、回遊する場所の違いで脂のノリが違うのかな

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/17(水) 09:29:46.28 ID:rSDJG5sJ
今でも山梨や群馬ってマグロ消費量が多いんだよな

590 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/02/20(土) 12:32:35.88 ID:w3vXrchw
>>575
原文にも肉が深いって書いてあるけど、分厚いから芯まで塩気が通らないんだろう
結果的に身が傷むよね

『地獄網』

2021年02月13日 17:43

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/13(土) 14:39:43.92 ID:AS76j+Ni
相模、安房、上総、下総、武蔵、この五ヶ国の内に巨大な入海が有る(江戸湾(東京湾))。
諸国の海を廻る大魚どもも、この入り江を良き棲家と知って集うのだが、関東の海士(漁師)は
取ることを知らず、磯辺の魚を、小網や、釣り糸を垂れて取るばかりであった。

そのような所に、江戸が繁盛すると、西国の海士が尽く関東に来て、この魚が豊かな状況を見て
願うに幸いかなと、『地獄網』という大網を作り、網の両端に、二人して持つほどの石を二つ
くくり付け、これを「千貫石」と名付け、二筋縄を付け、長さ三尺ほど、幅二、三寸の木を、
「ふり」と名付けて、大網の所々に千も二千も付ける。この「ふり」という木は、魚の目には
光るのだという。

早舟一艘に、水夫六人づつ、計七艘に取り乗り、大海に出て網をかけ、両方に三艘づつ引き別れて
大網を引く。残りの一艘は「ことり舟」と名付け、網本に在って左右の網の差し引きをする
この網の内にある大魚小魚、一つも外に漏れる事はない。海底の鱗屑までも、尽く引き上げる。

さてまた、海底に有る貝を捕ろうとして、網を海へ下ろし、大網を引きずって、舟の内に
巻き車を仕付け、碇を打って網を引くと、砂から三尺底にある諸々の貝どもを、熊手にて
引き落とす。
このような漁は天地開闢以来、関東では見たことも聞いたこともない。こうして海底の大魚、
砂底の貝を取り上げる。

去るほどに四時(約8時間)を待つと、波の上、砂の上に魚貝どもが現れる。
現代では時節に関係なく常に服すことが出来るので、江戸に於いて初魚・初貝という沙汰は
無くなっている。

しかし、早くも二十四、五年このかた、この地獄網によって魚が取り尽くされ、現在では
かつての十の内一つの水揚げも無い。
『数罟?池に入らずんば、魚鼈勝げて食ふべからず』(目の細かい網を持って沼や池に入らないようにすれば、
魚やすっぽんは食べきれないほど多く取れるようになる)とは孟子の言葉である。
また淮南子に『流れを絶って漁る時は、明年に魚なし』(川の流れをせき止めて漁をすれば。明年その川に
魚は居なく成るだろう)と云っているのも思い出され、情けなく思う。

慶長見聞集



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/13(土) 18:31:32.80 ID:HMWqVjZ5
大量に獲って干物にしたとしても当時の技術じゃ日持ちしないで腐らせると思うんだけどどうなんだろう

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/13(土) 21:17:18.61 ID:UEW2i6Ja
発酵なら弥生の頃からなれ寿司があるやん?
まあ、獣肉でも作っていたみたいだけど

冷蔵庫が世に出るまでは赤身の魚といえばマカジキをさしていたみたいだね
いまでは料亭以外にあんまり出回らないみたいだけどさ

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/13(土) 21:50:15.04 ID:EU1z4w3O
真水でも生きると言う理由で鯛も昔はチヌで代用してたもんな

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/14(日) 10:48:39.79 ID:WC4+3ZPC
慶長見聞集』の成立が1615年ころか
徳川氏入部以来の二十数年でってのもすごい
在地関東の小網や、釣り糸を垂れる海士の証言体感からだろうからね

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/14(日) 11:04:01.39 ID:iwqvlRpR
大阪の佃の漁師を家康が呼び寄せてるけど、その漁師たちか

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/14(日) 13:29:19.07 ID:NTR/whQU
江戸が繁盛するにつれて魚が徳川の徳を慕って江戸湾に集まってきた
と書いてる江戸時代の書物があるそうな

単に生活排水で富栄養化したからだけど

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/14(日) 14:16:05.61 ID:ujYigo7R
江戸の都市部は汲み取りやって農家に売っているぶん、水質汚濁はまだマシだったのかな?
同時代の欧州諸都市だと下手すりゃ窓から捨ててるだけだったし、
かなりよくて下水道があっても、そこから川にただ垂れ流していただけだったものなぁ…

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/14(日) 14:17:24.80 ID:ujYigo7R
ただ、現代でも雨が降ったら下水が垂れ流しになるのは、オリンピックのトライアスロン競技会場問題で広く知られるようになったね…

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/15(月) 15:03:33.25 ID:oQ5GrH8b
>>568
エーゲ海が美しいのはギリシャ文明が結局は大国になれなかった証明なんだってな

このような大船を作り海に浮かべる事

2021年02月05日 18:12

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/05(金) 15:56:54.37 ID:sorY1wLB
慶長年中、徳川家康公は唐船(唐船とあるが、家康がウィリアム・アダムスに作らせた西洋式帆船の事と
考えられる)を作らしめ給い、浅草川の入り江に繋がれた。
このような大船を作り海に浮かべる事、渚からでは人力も及び難いだろう。一体どのような手立てがあって
浮かべたのか、私の分別に及ばない。

先年、江戸の御城の石垣を築かれるため、伊豆国にて大石を舟に積むところを見た。
そこでは、海中に石にて島を築き。水底の深い岸に船を付け、陸と舟との間に柱をうち渡し、
舟を動かす平地のような道を作り、石を台に乗せて、舟の中に巻き車を仕付けて、台につなげた
綱を引き、また陸からは梃子棒を持って石を押し遣り船に乗せる。
船中の巻き車の工夫は大変奇特である。

古歌に「わが恋は、千引きの石の泣く計り」と詠まれているが、千人で引くほどの石を千引きの石と言った。
今の時代には、大名衆が西国の大石を船に積み、江戸へ持ち来て、千人引きはさておき、
三千人、五千人引きの石を、幾千とも数しれぬほど引かれる事、実に夥しいものである。

さてまた、唐船を海中に出すことについて、海に綱や引き車を立てることも難しい。
陸で梃子棒を使っても及び難い。

されば昔、源実朝の時代に、鎌倉の由比ヶ浜において唐船を作られた。これに仔細有り(以下源実朝の
唐船作りの経緯と進水の失敗が延々と書かれているが中略)

先年作られた浅草川の唐船は、伊豆国伊東という浜辺の在所に川があり、これこそ唐船を作るべき
地形であるとして、その浜の砂の上に、柱を敷き台として、その上に舟の敷を起き、半作りの頃より
砂を掘り上げて、敷台の柱を少しづつ下げ、堀の中に舟を置き、この船を海中に浮かべる、という時に
至ると、河尻を堰き止め、その河水を船のある堀に流し入れ、水の力を以て海中へと押し出したのである。

こういった工夫を、昔の鎌倉の人は知らなかったのだろう。

慶長見聞集



三浦浄心による、『男歌舞伎』体験レポ

2021年01月29日 15:23

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/29(金) 13:19:09.46 ID:RLTf+xS9
三浦浄心による、『男歌舞伎(遊女歌舞妓)』体験レポ

さて、中橋(日本橋と京橋との中間にあった堀割に架かっていた橋)にて幾島丹後守
歌舞妓有りと高札が立てられると、人集まって貴賤群集を成し、出るを遅しと待つ所に、
和尚(師匠)が先立って幕を打ち上げ、橋掛かりに出てきた。その姿を見ると、
いと花やかなる出で立ちにて、黄金作りの刀脇差を差し、火打ち袋、瓢箪などを腰に下げ、
猿若(下人)を伴に連れ、そぞろ立ち浮かれたるその姿は、女とも見えず、ただ端正な男であった。
古の、陰陽の神と云われた業平の面影があった。

芝居桟敷の人々は、首を延ばし、頭を叩いて、我を忘れて動揺した。
彼女が舞台へ出ると、さらに猶、近増さりする顔容は、誠に楊貴妃が一度笑めば、六宮に顔色無しと
云われている通りであった。芙蓉のまなじり、丹花の唇、花を飾ったような形で、これを見ては、
いかなる塔の澤に引き籠もり、念仏三昧の坊主頭の上人、天台山四明の洞に、一心三観を宗とされた
南光坊であっても、心迷わないという事が有るだろうか。

秘曲を尽くす舞の袖、容顔美麗に優しい事は、源義経の思い人、舞の上手と聞こえる、磯の前司の娘である
静御前や、唐土の皇帝が恋い焦がれられたという大織冠の乙姫も、これにはどうして優るであろうか。
このような美しき立ち姿に、見惚れ迷わないという人は、鬼神よりも猶恐ろしいと言うべきであろう。

その他、花を嫉み、月を妬むほどの女房たちを、同じ様に装束させて、齢二八(十六歳)ばかりであるが、
見目形、絵に描いたとしても及び難きほどであり、彼女らが花の袂を重ね、玉の裳裾を列ね、
五十人、六十人、みな美しい顔立ちで、花車なる花の色衣に、真那盤、古伽羅、紅梅伽羅といった
香を焚き染めて、歌舞妓を踊り、一同に袂を返して扇ぐ風に、その匂いが四方に香ばしく、
まるで春の園に蝶や鳥が、散り舞う花に浮かれつつ、勢いよく立っては入り乱れ、左右に分かれる
舞の袖、これには五節の舞姫も、かくやとこそは思われた。
史記に「長袖善く舞ふ 多銭善く商ふ」と云っている事も、思い知らされた。

さてまた、床几に腰を掛け、並び居る連れ三味線が、歌を上げてはかき返し、今様の一節であろうか
「夢の浮世にただ狂え とどろ、とどろと鳴る雷も きみと我との仲をば裂けじ」
との歌の中に、師匠の舞い遊ぶ、姿優しき花の曲、これこそ誠に、天人の遥迎ではないだろうか。

「天津風 雲の通路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばし止めん」と、名残を惜しむ舞歌の曲も、
早くも入相に成ると、鼓、太鼓や笛の音の拍子と合わした足踏みに、心は空に浮かれ。
「今生は夢の浮世である。命も惜しくない、財宝も惜しくない」と、貴賤老若、この道を好いて、
惚れ人となった。

古語に「一度顧みる時は城を傾け、二度顧みる時は国を傾ける」と云う。
そして仏は「一念五百生、けねん無量劫」と説く、
また宝積経に「一度女人を見れば、眼の功徳を失う。例え大蛇を見ても女人をば見るべからす」
と戒めている。
さてまた、外面は菩薩にて、内心は夜叉のごとし、とも説かれている。
誠に女の面は菩薩に似て、心は鬼なのだ。

伊勢物語に「つる草や雑草が生えて荒れた宿が、薄気味が悪いのは、一時のことにもせよ、
稲刈りをしようとすると鬼が集まることだ」と読んだのも、これは女を鬼と云っているのだそうだ。
彼女らは男を惑わす魔王であり、女に心を許すべきではない。

『慶長見聞集』



894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/29(金) 14:59:17.52 ID:eVNvVloZ
>>893
実際顔見たことないくせに業平がどうとか楊貴妃や静御前や乙姫がなんだとか
よくもまあ恥ずかしげもなく書けるもんだと思う

豊島の洲崎に町を建てん

2021年01月27日 17:31

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/27(水) 12:22:36.02 ID:K+heH9n3
かつて当君(徳川家康)が武州豊島郡江戸に御打ち入られてよりこの方、町は繁盛したが、
地形が広くなく、これによって、豊島の洲崎に町を建てんとの仰せがあり、慶長八卯の年、
日本六十余州の人夫を寄せ集め、神田山を引き崩し、南方の海を、四方三十余町埋めさせ、
陸地となし、その上に在家を立てられた。

昔、平相国清盛公は、津の国兵庫の浦に新京を建てんと、七ヶ国の人夫を集め、島を築かれたが、
崩れて島成就し難く、その後、石面に一切経を書写し、その石にて築いた所、誠に竜神が
納受されたのか、島は成就し、これによって経ヶ島と名付けた。そしてその島の上に
三町ほどの在家を建て、末代まで名を残した。
しかしこれを、今の豊島と比べれば、わずか十分の一に及ぶ程度である。

この新たな町はその外まで家が居続き、広大なること、南は品川、西は田安の原、
北は神田の原、東は浅草まで、町が続いている。
豊島の名の通り、民が豊かに栄えること、震旦(中国)の都は家居百万間というが、中々これと
比べるには足りない。

天地開闢より慶長までの世を考えるに、この(現代の)御代には及ばない。
上一人の御恵み深ければ、下万民、みな栄華に誇る。
「君が代は 千代に一度ゐる塵の 白雲懸る山となるまで」
(君の世が、千代に一度落ちる塵が積り、白雲のかかる山と成るまで)
久しかれぞと、人々は祝い侍った。

慶長見聞集



あはれ、髭生えるものなら

2021年01月23日 17:27

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/22(金) 21:31:17.79 ID:5jChY7Bo
天正の頃、小田原に於いて岩崎嘉左衛門、片井六郎兵衛という者、戯言を言っている内に感情的になり、
諍いとなった。この時、嘉左衛門には髭が無く、六郎兵衛が「あの髭無し!」と悪口した所、両人は即座に
刺し違えて死んだ。

これほどに、男たる者にとって、髭無しと言われるのは、臆病と言われるほどの恥辱であると
考えられていたのである。故に髭の無い男は、「あはれ、髭生えるものならこの身に変えても
毛髭を生やせさせばや」と願っていたものである。

ここ十四、五年このかた、頭に毛のないのを「年寄りのきんかつぶり(金柑頭)、蠅すべり」
などと仇名を言って若い人たちは笑う。
そして髭の生えた面は「鈍なる面、蝦夷ヶ島の人によく似ている」などと言い習わし、
上下の髭を残さず毛抜にて抜き捨てる。
そのようであるので、笠を着けて頭を包んだ人を見ると。法師とも男女とも見分け難い。

そういった世の中であるが、昔に帰ることも有るもので、異相なる人が有り、髪の毛を抜き、
髭をはやしており、これに人々はみな「髭生えて、昔男の業平」と云った。

『慶長見聞集』



539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/23(土) 23:03:52.40 ID:65ZMaUsf
>>536
              彡⌒ミ
           \ (´・ω・`)また髪の話してる
             (   )::::
              (γ /:::::::
               し \:::
                  \

關八州に鉄炮はしまる事

2019年05月14日 19:24

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 19:16:58.68 ID:Sf64um2C
關八州に鉄炮はしまる事

これを見たのは昔のことである。相模小田原に玉瀧坊(順愛。松原神社別当職)という年寄りの山伏がいた。
愚老(著者。三浦浄心)が若き頃にその山伏が物語りなされたことには、

「私は関東から毎年大峰へ登った。享禄が始まる年(1528)に和泉の堺へ下ったところ、荒々しい様子で
鳴る物の音がする。これは何事ぞやと問えば、『鉄砲という物が唐国から永正7年(1510)に初めて(日
本に)渡ったのだ』と言って、目当として撃って見せた。

私はこれを見て、さても不思議、奇特な物だと思い、この鉄砲を1挺買って関東へ持って下り、屋形の氏綱公
北条氏綱)へ進上した。氏綱公はこの鉄砲を放たせて御覧になり、『関東に類なき宝である』と秘蔵なされ
ると、近国他国の弓矢に携わる侍はこの由を聞いて、

『これは武家の宝なり。昔、鎮西八郎為朝(源為朝)は大矢束を引いた日本無双の精兵であった。

弓の勢いを試みるために鎧3領を重ねて木の枝に掛け、6重を射通した強弓である。保元の合戦で新院の味方
に八郎1人がいたが、八郎はたちまち多くの者を射殺した。数万騎で攻めたといえども、この矢を恐れて院の
御門を破ることは叶わなかったとかいう話だ。

今も弓はあっても、良き鎧を身に付ければ恐れるに足らず。ところがましてや、かの鉄砲は八郎の弓にも勝る
ことであろう。所帯(財産)に代えても1挺欲しいものだ』

と願われたが、氏康(北条氏康)の時代に堺から国康という鉄砲張りの名人を呼び下しなさった。さてまた、
根来法師の杉坊・二王坊・岸和田などという者が下って関東を駆け回り鉄砲を教えたのだが、今見れば人々は
それぞれ鉄砲を持っているものだ」

と申された。しからばある年に北条氏直公が小田原籠城の時節、敵は堀際まで取り寄り、海上は波間も無く舟
を掛け置き、秀吉公は西に当たる場所に山城を興し、小田原の城を目の下に見て仰せられたことには、

「秀吉は数度の合戦で城攻めをしたといえども、これ程の軍勢を揃えて鉄砲を用意したことは幸いなるかな。
時刻を定めて一同に鉄砲を放たせ、敵味方の鉄砲の程度を御覧ぜん!」

とのことで、敵方(豊臣方)より呼ばわったことには「来たる5月18日の夜、数万挺の鉄砲で総攻めにして
盾も矢倉も残りなく撃ち崩す!」と言った。氏直も関八州の鉄砲をかねてより用意し籠めておいたので、「敵
にも劣るまい。鉄砲比べせん!」と矢狭間1つに鉄砲を3挺ずつ、その間々に大鉄砲を掛け置き、浜手の衆は
舟に向かって海際へ出ると、日が暮れるのを遅しと待った。

そのようなところで18日の暮れ方より鉄砲を放ち始め、敵も味方も一夜の間鉄砲を放てば、天地震動し月の
光も煙に埋もれてただただ暗闇となる。しかしながら、その火の光はあらわれて限りなく見えること万天の星
の如し。氏直は高矢倉に上がりこれを遠見なされて、狂歌を口ずさみなさる。

「地にくだる星か堀辺のほたるかと 見るや我うつ鉄炮の火を」

御前に伺候する人々は申して曰く「御詠吟の如く、敵は堀辺の草むらに蛍火が見え隠れしているかのようです。
城中の鉄砲の光はさながら星月夜に異ならず」と申せば、氏直は格別に微笑みなさった(氏直ゑみをふくませ
給う事なヽめならず)。

まことにその夜の鉄砲に敵味方が耳目を驚かせたことは前代未聞なり。愚老は相模の住人で小田原に籠城した
ので、その節を今のことのように思い出されるのである。

しからば鉄砲が唐国から永正7年に渡ってそれから流行し、慶長19年(1614)までは105年である。
さてまた関八州で鉄砲を放ち始めたことは、享禄元年から今年までの87年以来と聞こえたり。

――『北条五代記』

>>894に関連して北条五代記より鉄砲の記事