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片目の頭は、我々が太刀の切っ先にかけて

2021年06月14日 18:59

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/14(月) 13:20:14.98 ID:gXgD925U
上杉弾正大弼定勝と、蒲生下総守忠郷は、無二の入魂にて、兄弟の契約をしていた。
忠郷は蒲生氏郷にとっては孫、秀行の嫡子にて。家康公の御外孫、会津六十万石の領主であった。
定勝は米沢三十二万石であり、互いにその領内の百姓まで、双方申し合わせ、境目も睦まじく往来した。
南部信濃守利直も、忠郷と殊の他に懇意であった。

仙台の伊達政宗とこの三人の衆は仲が悪かった。そのため何時でも政宗が出てくれば、
蒲生、上杉、南部の三家言い合わせ、「政宗を立ち挟んで討ち果たすべし」と、密々に堅く
言い合わせていた。

定勝、忠郷、利直の三人が同道して。上野の天海大僧正の元に夜咄に行った帰り、三人ながら
馬を乗り連ねられた。その途中にて南部殿の馬が荒々しく勇んだ。この時南部殿は大声で忠郷、定勝に
呼びかけた

「相公(忠郷宰相)、羽林(定勝左少将)、この馬の勇んでいるのをご覧候へ!
明日にも何事かあれば、この馬に乗り、ご両人と申し合わせ、彼奴(政宗)を立ち挟んで討ち果たすべし!」
と申された。これに忠郷、定勝もからからと笑われ

「仰せらるるにも及ばぬ事なり!片目の頭は、我々が太刀の切っ先にかけてご覧に入れ候はん!」
と宣われた。三家中の供の輩は皆、これを聞いたという。

蒲生忠郷は寛永三年(正確には寛永四年)正月に薨ぜられたが、定勝は大変に嘆き悲しみ、
三十五日精進され、上杉家中の士卒は申すに及ばず。米沢領内は十四日の間殺生禁断となり、
追善の法事が有った。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

なんで政宗こんなに嫌われているのか



808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/14(月) 18:07:06.66 ID:gTgcpvPU
むしろ南部、蒲生、上杉から見て政宗を好きになれる要素があるのかと

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/14(月) 19:11:51.94 ID:jObLku2y
政宗がいじめっ子で南部蒲生上杉はいじめられっ子って感じか。
しかもいじめたほうは全然覚えてなかったり身に覚えがない態を装う。

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/14(月) 19:30:58.80 ID:gTgcpvPU
虐めっこっていうか迷惑な隣人というか…
現代的にいうなら騒音が煩いとかゴミ出しの時間守らないとか
人の家の庭に出入りしてくるとかそういう感じの厄介さじゃないかと

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/14(月) 19:46:49.68 ID:JsZl/HXh
蒲生と南部は姻戚関係の親族だから、普通仲の悪い隣接した領地の上杉と仲いいってのが
よっぽど伊達に問題があったような
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輝虎越後より出陣と聞くと、敵も味方も恐れて

2021年06月12日 18:01

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/12(土) 01:54:01.55 ID:mFfvZ2t0
佐野天徳寺が、江戸御城において、上杉弾正大弼定勝に向かってこのように語った

「あなたの御祖父である謙信公の御武勇の威勢は、兎角の言葉で表現できるものではありませんでした。
私が若き時分には、佐野は謙信公の御旗本でありました。

輝虎公が越後より上州厩橋城に御着になると、二、三日人馬を休め、それから関東筋へ打って出て、
縦横に働かれました。その、或いは五十日、或いは七十日の間は、例えば大雷があって夕立が降った
時の如く、敵も城外に打って出ること叶いませんでした。

さて、謙信公が関東での働きを終えられると、厩橋に帰城され、方々の仕置に十日余りかけられ、
その後越後に帰陣されました。

謙信公が猿ヶ京を過ぎて越後路に入ったという情報を聞くと、関東中の北条方、武田方の敵城は申すに
及ばず、上杉殿旗下の城々も安堵の思いを成し、「最早心易し」と悦びました。
逆に輝虎越後より出陣と聞くと、敵も味方も恐れて、安心が有りませんでした。」

この座に在った酒井讃岐守忠勝、阿部対馬守重次を始め、列座の大名、小名はこれを聞き、
感じ入られたという。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

敵が恐れるのはともかく、味方も恐れるというのはどういう状況なのだろうか。
あと佐野天徳寺は慶長六年に死去しているので、この話が実際にあったとすれば、
天徳寺の養子の佐野信吉が、義父から伝え聞いた話を語った、とかですかね。
阿部重次に至っては慶長三年生まれだし。

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/12(土) 02:01:03.71 ID:mFfvZ2t0
いやそもそも上杉定勝が慶長九年生まれだわ



上杉家に於いては直江山城守兼続一人で

2021年06月09日 18:31

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/09(水) 15:06:41.23 ID:m8ajUsaT
上杉景勝、定勝の代まで、上杉家に於いては直江山城守兼続一人で、万事国の仕置(行政)、
公事(裁判)沙汰までした。訴訟があると、山城守一人にて、傍の人を払い、刀を傍に置いて、
百姓、町人は白沙へ呼び対決させ、侍は座上に呼んで様子を尋ね、何事であっても大方
その場で裁き賞罰を行った。家中の訴訟も、手形・証文の判形も、兼続一人で事を済ました故、
物事が停滞するということがなかった。

直江は学問多智の分別者故、正しく動理に適っている事が多かった。
彼は元より謙信の傍にて生い立ち、武功も重ねたため、世の覚え、人の信用も厚く、
秀吉公にも重用され、また大御所様(家康)、秀忠様からも重用された。

会津に於いては三十二万国を領していたが、米沢に景勝が移封されると、六万石を賜った。
この時、自身は一万石を領し、五万石は諸傍輩に分配し、さらに一万石の私領からも五千石を分けて
家中に与え、自身は五千石であったのだが、景勝より新田を開き与え、また一万石となり、
その頃死去した。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記



上杉景勝は小男であったが

2021年06月04日 18:34

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/04(金) 16:38:42.41 ID:KbVm5Tt3
上杉景勝は小男であったが、ともかくその面魂が、何百人の中にあっても無類なる大将であった。
彼は一代の間言葉少なく、笑った事がなかった。

その跡を継いだ弾正定勝は慈悲なる人であり、士卒を憐れむ故に、家中上下が懐き従うこと浅からなかった。
彼は謙信・景勝の二代の間に、上杉家を立ち退き、又は死に失せ、追放に遭った譜代の侍共の子孫を
大方呼び返した。それ故に諸人悦んだ。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

景勝が無口で笑わなかったという話の元ネタは、この辺りなんですかね。



上杉謙信の武勇

2011年06月12日 00:00

上杉謙信の武勇

上杉謙信 佐野天徳寺 上杉定勝


606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/11(土) 19:20:09.96 ID:FZoJDsvR
佐野天徳寺は、江戸城内で上杉定勝に向かい、
祖父謙信の武勇は、とても言葉では表せないと褒めた。

「我らの幼き頃、佐野は謙信公の旗下にあった。
謙信公は越後から上州の厩橋にお着きになると、
人馬を数日休められた。
それから関東へ打って出て縦横無尽の
働きをなされたが、五十日から七十日の間は、
大雷夕立が来たように敵も
城外へ出ることができなかった。
そして戦いが終わると謙信公は厩橋に帰城なされて、
十日ばかり方々の仕置きをなされたのち
越後へ帰陣なされた。
謙信公が猿原をすぎて越後に入ったとの報せを聞くと、
関東の北条方、武田方の敵城はいうまでもなく、
上杉方の城もホッと胸をなでおろした。
このように謙信公が越後から出陣したと聞くと、
敵も味方も恐れおののいたということである」

その場にあってこれを聞いた酒井忠勝、阿部重次はじめ
諸大名も謙信の凄まじさに感じぬ者はなかったという。




607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/11(土) 20:55:26.53 ID:ubCwah1w
災害か何かなのか謙信公は。

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/11(土) 21:41:50.22 ID:ZbsVbo7N
さすが毘沙門天の化身やでぇ・・・