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正月2日の夜、宗雲が夢を見なさったことには

2019年06月13日 15:49

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 19:42:57.37 ID:h/jQFdtC
(前略。>>11)翌年正月2日の夜、宗雲(北条早雲)が夢を見なさったことには、2本ある大杉を鼠
1つが出て食い折った。その後、かの鼠が猪になった夢を見て、その夢は覚めた。

その如く両上杉の仲が悪くなるのを聞き、宗雲は是非とも時刻を見合わせて関東へ発向の工夫をされ
ることは二六時中暇なし。ある時、扇谷の上杉家は末となったのであろう、邪臣の諫めを崇敬して家
老の太田道官(道灌)を誅しなさった。その後、上杉殿の家老は尽く身構えをして騒ぎ立った。

この時、宗雲公は出て小田原を乗っ取り、相模の過半を手に入れて子息・氏縄公(北条氏綱)の代に
相模を皆治めなされば、いよいよ氏康公の代に伊豆・相模二ヶ国となり1万の人数の内2千を所々の
境目に差し置き、8千の軍兵をもって両上杉家と取り合いなされた。(後略)

――『甲陽軍鑑』



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あまりに五郎はたしなまず

2017年11月11日 11:40

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/11(土) 09:38:31.22 ID:n5TRw1sH
扇谷上杉定正は、養子で後継者とした朝良が食分を忘れて武士の業を勤めぬことに、曽我豊後守の許へ
戒めの書を記し送った。その内容に曰く、

『年来これについて言っては来たが、あまりに五郎(朝良)はたしなまず、一つのことすら、
この定正が納得するものは無かった。

去年の正月以来、朝良の随従の者たちに申し付け、彼の朝夕の雑談の内容を知らせるよう命じた所、
4,5人が密かに注進してきたが、何れも同じ内容であった。

朝良の所へ山口、小宮、仙波、古尾谷といった面々が参った時、朝良が彼らに尋ねるのは
ウグイスの事、武蔵野にての鳥追、狩りの雑談、武州六社(武蔵国一宮から六宮までの六社の神社)の
物語、深谷の馬場の早馬の事、酒宴数盃の物語であり、また或いは、京の方からきた牢人の面々が
出頭した時、彼らに尋ねるのは招月の歌、手跡の物語、心敬・宗祇の連歌、洛中貴賎、清水男山の眺望、
諸五山の様子、観世今春の能仕舞の雑談、といった内容だったそうだ。

これを知って私が悲しみのあまり涙を流したのは言うまでもない。この愚老が明日にも討ち死にすれば、
当方屋形の者共は皆、命を失うか生き残っても乞食に身を落とすであろう。』

そのように書いたのだという。

(士談)



ただこの理屈を

2014年12月11日 18:36

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/11(木) 02:13:40.44 ID:oE57dufK
(両上杉が関東諸)国をよく治めていたところに、大事を引き起こす事が一つ起こった。詳細は次のようである。
扇谷(=上杉定正)に中次彦四郎・曽我伝吉という二人の殿方がいた。この二人は仲が良く、互いに相談し、分別もあるので、良く奉公し扇谷殿の心をとらえていた。
後に扇谷へ諫言できるほどまでになったが、彼等は家運を傾ける類の諫臣であった。
二人が言うことは続けて上手くいくので、定正は二人に官位を与え中次主馬助・曽我右衛門佐とし、すっかり扇谷殿は曽我・中次の言いなりとなってしまった。
ある時、二人は談合して、それぞれの所領を沢山取ろうと思い、扇谷殿へ

「財政の収入がなく、物事が不便であるのに、家老衆が江戸・河越の国中に徘徊して遊んでおります。
将来は彼らの子供が扇谷家の子孫に敵対し、ご子孫は今の公方のようになってしまうだろう。
そして家老衆は今の両上杉殿のようになることは少しも違わないだろう。ご分別を。」

と申し上げると、扇谷殿は武州江戸の太田道灌を召し寄せて殺しなさった。
これを聞いて残る上田・見田・荻谷を始めとした道灌の一族、城主共は言うに及ばず、少しでも所領をもつものは、おおかた身構えて、それぞれの屋敷に引き籠もった。
その年のうちに、この事で山内殿と扇谷殿の間に所領争いが起こり、羽入の峰・岩戸の峰・ふく田の郷・奈良梨などと申すところで大きな合戦あった。
味方も敵も見分けがつかず、日頃心懸けをしていない奉公人共は働く術を知らず、行ったり来たりとうろつき回る。
小旗を捨て、或いは槍を切り折り杖として逃げる者は後ろを見ず、
主を捨てて、自分の在所へ逃げてしまうものが扇谷にも、山内にも一合戦に二人三人と出る。
勿論関東・奥州北国にも、たびたび手柄を立てる大剛の者があまたいたが。家運が傾いた徴候だろうか、若武者にも負けてしまう。
しかも十人の中に八人九人は心懸けの無い弱者共に掻き回されて、長年合戦に慣れている者も、自分の身を守るだけで何の手柄にも立てられない。
これらは味方の中の裏切りによるものである。この時節に伊豆の早雲が出てきて、小田原を乗っ取ったのである。明応四年乙卯のことであったと聞いている。
前代のことである。しかも他国の事、人からの雑談によるものを書き記したので、相違なことは多いのは確かだろうが、ただこの理屈を勝頼公の代の参考にしてほしい。
(甲陽軍鑑)




岩松家純、嫡子明純を

2011年07月04日 23:40

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 10:33:33.11 ID:MukAFihl
鉢形城で蜂起した長尾景春は上杉方諸将の拠る五十子陣に突入した。
上杉方諸将はもはや支えきれずと判断し、各地へ落ちていった。
諸将の一人、新田の岩松家純は上杉顕定と上杉定正に使いを送り、
自分は老齢なので息子の明純を同道させると伝えた。上杉顕定は家純の口上に恐縮し、
明純の出陣に期待した。ところがである。

「!? 何故お前がここにおる!」
なんと金山に向う家純に明純がついて来たのである。
「お前は何をしておるか! 両上杉家になんと申し上げればよいのだ!」
「夜陰が心配でついて来てしまいました。ここからでも顕定様には追いつきましょう」
「心配なことなど何もないではないか!? ああ、申し訳がたたん、なんたることだ!」

家純の激怒は尋常ではなかった。仕方がないので側近の松陰の意見により
家純はとりあえず明純を武士城に待機させた。
そして使いを上杉三家に送り、事の次第を説明して明純は遅れると伝えた。
これに上杉顕定は「経緯はわかった。待っているので早く来てほしい」と答えた。
しかし、やはり明純は出馬せず、金山に戻ってしまった。

家純は松陰を呼んで言った。
「お前は長年使いを務めてきたから言うが、上杉家に対してこたびの失態は一世一代の
恥辱だ。長生きをして無念千万だよ。明純に期待してすべてを失った。
こうなれば私が出陣する。なんという不運だ。今、頼りになるのはお前だけだ」
しかし、高齢の家純には無理だと判断したのか、横瀬国繁がこれを止めたのであった。

これ以降、親子の溝は深まるばかりでついに明純は勘当されてしまった。
しかも家純は遺言で「明純の意見に任せれば滅亡だ」とさえ言い残したという。





866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 17:49:38.24 ID:HwhYwtHy
>>865
岩松さんのところは江戸期も含めて苦労が耐えないねえ。

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 18:23:00.39 ID:D6IJZJyU
>>865
岩松さんへ
横瀬には気をつけろ・・・

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 22:49:45.26 ID:E2DI015g
岩松さんがメチャ苦労した本家新田氏の祟りかもわからんね