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「越後野史」の畠山義春について

2023年06月02日 20:55

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/06/02(金) 16:52:39.65 ID:F9+RQESR
越後野史」の畠山義春について
畠山義春は能登守畠山義忠(畠山義続?)の末子で質として越後に来たが、人となりが武勇にして聡明なために謙信侯の寵愛を受け、幼少時からそばにおかれた。
常に謙信侯の軍略を見聞して十四歳の時から一軍の大将となり戦功を何度も立てた。
景勝と景虎の争いは二年続いたが景勝に味方し、鮫が尾城にて景虎を自殺せしめた。
また二本木駅において森武蔵守長可を破り、軍略をもって新発田重家を攻め、功績がすぐれていた。
景勝卿の妹婿ときて海津城主となり上条上杉氏を継いだが、直江兼続の讒言により上杉家を退転した。

>>772で宇佐美定満がでてきたり、畠山義春直江兼続に讒言されたり、と書かれているので「越後野史」は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12369.html
雑談『松隣夜話』について
でも語られている、自称宇佐美定行(宇佐美定満)の子孫の宇佐美定祐の捏造の影響を受けてそうだ。
鬼武蔵のwiki見るとたしかに鬼武蔵が二本木まで攻め込んで上条景春を破った、と書かれているけど、これも宇佐美定祐「北越軍記」が出典扱いされてるし、どこまで本当なのやら。



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政宗お得意のイタズラ兼話術、レジェンド一同もはしゃぐ

2022年10月06日 18:35

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/05(水) 21:09:37.08 ID:xyMAVVrP
伊達政宗の生前の言葉を書き残した『命期集』より
政宗お得意のイタズラ兼話術、レジェンド一同もはしゃぐ
まとめにある話ですが、ディテールが抜けているので投稿

(政宗の)あるときの仰せでは、太閤が伏見におられたとき、城のなかに御学問所と名付けた座敷を造り、四隅に数寄屋(茶室)四つを設け、東西の諸大名に茶を振る舞った
亭主は四人で、太閤と家康公、前田利家公と私(政宗)だった
太閤も残る三人も良い葛籠を持ち寄り、自分たちで寝床を敷き、四人は枕を並べて夜もすがら、昔物語をして楽しんだ

さて、四つの数寄屋はくじ引きで決めてそれぞれ四人が受け取り、水屋以下、お勝手料理の間もそれぞれの数寄屋に設けられていたので、四人とも料理なども隠し合い、工夫をこらしていた
(秀吉から)客が誰かはまったく知らされていなかったが、次の日になると(政宗の客は)佐竹義宣浅野長政加藤清正上杉景勝であるとにわかに告げられ、仲の悪い衆ばかり客に仰せ付けられた
なんとか変わった趣向を行おうと思ったものの、にわかのことでなかなかできなかった
季節が若菜の芽摘みの時期だったので若菜汁ばかりつくり、できうる限り沸かし返し沸かし返し、熱くして出した
そのため、しばらく置いても冷めずに(佐竹らが)迷惑していたところ、早々と替えの汁を出してなかなか一口も飲めなかった上に、また先のごとく汁を替えて出した
まもなく酒を出し、始めから終わりまで迷惑した

振る舞いも終わって御学問所に四人は寄り集まり、その日の亭主としての接待ぶりを順番に語り合った
私(政宗)が「今日の客は一段の日頃からの知音(親友)だったのでどのような馳走をしようかと思ったのですが、うまくいきませんでした。(寒い冬の時期が)旬だったので若菜の汁をできるだけ熱くしてお出ししたのですが、飲んで一口目で怪我をしたのでしょうか、しばらく箸を唇にくわえたまま舌打ち(現代でいう舌打ちと、舌鼓を打つのダブルミーニング)をしてございました」と話した
太閤は「さてもさてもしてやったり、してやったり。一日の亭主だがこれは古参(のようなもてなし)である」と二度も三度も躍り上がり、腹を抱えて笑ったので、伺候の人々は座敷にいかね、腹を抱えてともに大笑いした
その末に次の日の客選びの相談をした
このように太閤が遊びをされたこと、天下の諸大名を組み合わせたことは、仲違いした者同士の仲直りをさせようという奥意があったと後に知ったと(政宗は)仰せられた



次第に土俵を掛け来たれ!

2022年05月30日 19:04

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/30(月) 19:02:33.60 ID:tH4eb+3+
大阪冬の陣、鴨野口にて丹羽五郎左衛門長重卿は仕寄を付けられた時、上杉景勝卿も出られ、
「我等も仕寄を付け申すべし」とて、家来に先立ち、「これなる溝に橋を丈夫に掛けよ」と
申し付けて引き込んだ。

始めは皆(仕寄ではなく橋を掛ける事に)「手緩き人かな」と思う気色にて、まったく橋を掛けて
いなかったのだが、そこに景勝卿出て「何とて橋を掛けざるぞ」と申されたため、西条治部が
「只今にも橋は掛け申すべく候。」と即時に掛けた所、景勝卿はこれを見て、元の仕寄場を差し置き、
脇に土俵を置き、鉄砲を掛け法螺を立て、「次第に土俵を掛け来たれ!」と下知した。

大阪方は、上杉勢の動きに初めは用心していたものの、溝に橋を掛けようとする様子を見て、
「上杉は軍の術を知らぬか、はかばかしき事はなし。」と引き入ってしまっていた。
また上杉の家臣たちすら、下知を請けざる気色であった。
それ故に、景勝卿は敵の油断を計り、法螺を立てたため、即座に仕寄場に土俵をひたひたと持ち寄せて、
仕寄を付けたのだ。

先に土俵を置いた場所は仕寄道となり、翌日城兵は仕寄の防ぎに出て、これを見て肝を消したという。

新東鑑



222 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/31(火) 07:15:37.64 ID:W1yvV688
>>218
西条(西條)氏は信濃の国人領主出身で、武田上杉を渡り歩いたよくある経歴の家
米沢藩での屋敷に天神さまを祀り、跡地が現在は米沢市の西條天満公園として整備されています
ご子孫は東京在住です
https://www.city.yonezawa.yamagata.jp/1810.html

223 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/31(火) 09:40:20.63 ID:d3csJQJL
読みは「にしじょう」
上杉家中の場合、東西南北それぞれの条さんは、信越の地名の読み由来からか
きたじょう、ひがしじょう、みなみじょう、ですね

224 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/31(火) 09:57:18.29 ID:d3csJQJL
そして上下の条さんはどうかとなると、こっちはじょうじょう、げじょうなんですね

225 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/05/31(火) 10:04:25.96 ID:d3csJQJL
明治大正期の画壇の大物に下條桂谷(げじょうけいこく)というひとがいますが、米沢出身です

首数の多少にこだわりて武功を評するは

2022年02月03日 19:20

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/03(木) 18:32:58.06 ID:mKbF+iVF
朝野雑載より
八王子の城を、秀吉公よりせめさせたまうに、攻め手は前田利家、長尾景勝なり。
落城して前田によりうちとりし首数三千、長尾はわずかに八百五十到来せしゆえ、太閤の御前にありし人々不審に思い
「景勝は承り及びたる手柄者なれども、首数前田より甚だ劣れり。前田が武功優れたる」よし申しければ
太閤きこしめして「首数の多少にこだわりて武功を評するは、各々が武道不案内の故ならんか。
景勝は士の首ばかり差し越したると見えたり。前田が三千よりは結局勝れるほどにおぼゆるぞ」とのたまいしとなり。

貝原益軒はいい話で書いたつもりなんだろうけどこっちへ



その方の分際にて、景勝の武辺の事を申すは

2022年01月30日 16:33

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 18:24:12.00 ID:vPZ3C4pH
或る本に、大阪冬の陣・鴫野の戦いの時、幕府の御使番である小栗又市は合戦が終わって
本陣のある住吉に帰り、今日の合戦の次第を言上した後、御次の間に於いて各々に向い

「今日はよき討ち所があったので、上杉にその事を申したのだが、日暮れだからと言って
承引しなかった。さてさて残念であった。」

と申した。しかしこれを大御所(徳川家康)がお聞きになって

「その方の分際にて、景勝の武辺の事を申すは推参なり!」

と仰せに成り、お叱りになったという。

新東鑑

大阪冬の陣で小栗又市さんが叱られたお話



296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/29(土) 21:19:27.86 ID:oklvys1c
推参って「差し出がましい」と言う意味もあるんだな。
いまググって知った。

杉原常陸介を此の方に給われ

2021年12月23日 16:38

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/23(木) 14:41:39.94 ID:dDjxcVds
別記に、上杉家家臣の杉原常陸介(水原親憲)は武功の者であった。

上杉景勝卿がある年、江戸より米沢へ帰城された時、常陸介を始めその他大身の輩が皆迎えに出た。
景勝卿はそれぞれに詞をかけ、常陸介の居た所を二、三十間過ぎた時、常陸介が忽ちに頓死した。
(意識不明になったということだろう)
人々は薬を与えて呼び返したがその甲斐もなく。景勝卿も早く帰って保養するよう下知したのだが、
遂に死んだ。

この知らせに景勝卿は涙を流し
「前夜の夢の中に、不識院殿(上杉謙信)が枕にお立ちに成り、『杉原常陸介を此の方に給われ。』と
宣われた。夢覚めて近習の者達に此の事を語り聞かせ、常陸が死すべき兆を夢に見たと言ったのだが、
その如く只今相果ててしまった。」
と、甚だ惜しまれたという。

新東鑑



これは如来の祟りである

2021年11月05日 17:04

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/05(金) 01:01:07.87 ID:rd0Nuwmb
或る本に、文禄五年(1596)閏七月十三日の慶長伏見地震によって方広寺の大仏が破壊した時、
豊臣秀吉公は「仏の知見を以てしても、そも身の破壊を知らざるは信ずるに足らず!」
と宣われ、壊れた大仏像に向かって矢を射られ、そして信州善光寺の如来を大仏殿の本尊とされた。

そのようなある時、残暑甚だしい年があったが、俄に吹雪が天に満ち、甚だしい寒気が人々を襲った。
「これは如来の祟りである」とされ、慶長三年八月十七日(秀吉公薨去の前日である)善光寺へ、
その本尊を送り返したという。

(越後の人曰く、善光寺の正真の一寸八分の黄金仏は、現在羽州米沢に在り、毎月一日に開帳されているという。
これに限らず、上杉景勝卿は会津への国替えの時、彌彦明神の神宝、その他領国に在る旧物等を悉く
彼の国に引き取られらと言う。)

新東鑑

秀吉が方広寺の大仏の代わりに本尊として善光寺の如来を取り寄せた話の顛末



135 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/05(金) 10:33:36.82 ID:kidI51+i
http://www.houon.org/houonji/houmotsu.html
米沢法音寺公式サイト

天文二十(1551)年、川中島の戦いの折、信州中野城主高梨政頼は戦国の兵火を避けるため、
信濃善光寺のご本尊を上杉謙信公に奉じた。謙信公は春日山に如来堂を建ててご本尊を懇ろに
奉祀するとともに深く尊信し、厳重に守護した。
慶長六(1601)年、上杉家の国替えに伴い、善光寺如来尊も米沢に移され、景勝公は米沢城本丸の東南隅に
藩祖謙信公を祀る御堂を建て、御堂本殿の中央に謙信公のご尊骸を、右に善光寺如来尊、
左に泥足毘沙門天尊を安置し、さらに、二ノ丸に御堂に勤仕する真言宗二十一ヶ寺を建立して、
守護の掟頗る厳重にして、その供養勤行は丁寧を極め代々奉祀された。
明治に入り、法音寺が歴代藩主御廟所のある現在地に移転し、明治九年本丸の御堂が解体されて
謙信公のご遺骸が歴代御廟所中央の現在地に遷座された際、善光寺如来尊、泥足毘沙門天尊は
当寺に移され奉安された。

136 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/05(金) 10:46:28.92 ID:kidI51+i
謙信公は現在は上杉神社のご祭神として神式のお祀りですが、江戸時代は三尊形式で脇侍を従えた仏様だったと

中々鬼にて御座候

2021年09月28日 17:39

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/28(火) 16:45:06.45 ID:DF35CRNy
関ヶ原の役における、伊達政宗勢と上杉景勝勢の衝突した松川の戦いにおいて、
上杉方の青木新兵衛は殿をして隠れない働きをし、その上伊達政宗と鑓を合わせ、
兜の立物(有名な半月の前立)を突き折った。総じて、若い頃より十六度の働きが有った。

関ヶ原後、景勝が米沢に移された時に暇を出され浪人した。そして越前黄門(結城)秀康卿に
召し出された。この時、永井善左衛門も召し出された。

加賀肥前守(前田)利長の茶の会に、秀康卿が御越しになり、その御相伴に政宗、
堀丹後守直寄、半井驢庵が参られていた。この時、数寄屋において政宗がこのように申した

「今度、奥州において骨折った能き者共を、黄門様が召し出されたこと、御重宝だと存じます。
青木親兵衛は(松川の戦いにおいて)鳥毛の棒の黒幌、十文字の鑓、瓦毛の馬(川原毛:
灰白色・黄白色で、たてがみ・下肢・ひづめが黒いもの)に乘っていました。
中々の鬼でありました(中々鬼にて御座候)。」

青木は大阪両御陣でも手柄が有り、後には法体となり、方齋と申した。

これについて、落合(主膳)と安田(能元カ)によると、青木のことを永井善左衛門と
取り違えて政宗が申され、そのため秀康様にそのことを落合主膳が申した事があった。
故ありて記さず。

(杉原彦左衛門覚書条々)



614 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:00:54.17 ID:qbAFEM+l
>>613
松川の戦い自体が無いのでそれはホラ逸話ですな。

松川が今は信夫山の北側を流れているが
当時は南側を流れている。要するに政宗が信夫山を占領していたとなれば
梁川城と大枝城を既に落せている状態。
ところが実際は政宗は落せていない。
 
           〇梁川城
==×=←今の松川
信夫山
〇        〇大枝城
==×=→当時の松川
〇福島城

要するに今の松川の流れる基準で
×想定される松川の戦いが戦記物には書かれているが
当時の河川の様子を考えると、政宗は梁川・大枝城を攻め落とさないと福島城(今の県庁)を
包囲するのは難しいと言える。

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/28(火) 17:04:26.08 ID:kR2UOwai
松川の戦いで政宗と戦ったのは岡左内じゃなかったかと思ったら
岡左内とやり合った後に青木新兵衛に三日月折られて
ついでに斎道二に陣羽織を切り破られたのか
(松川の戦い自体、伊達と上杉の記録でいろいろ食い違ってるみたいいだけど)
青木新兵衛も岡左内も永井(長井?)善左衛門も蒲生→上杉でややこしい

616 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:05:32.19 ID:qbAFEM+l
よって明らかに構成の配置を元に書かれた話で
実際の松川の戦いは信夫山の北側での小競り合いじゃないかと言われている
また、家康が100万石のお墨付きで政宗の切り取り次第を推奨したのであれば
政宗の南進にSTOPをかけた書状に矛盾が出てくる。
政宗が南進せずに釘付けにしているだけで50余万石を与えるという条件を保護したという事になるわけだ
切り取り次第であれば、政宗も損害が出ても福島城を奪還して、梁川城と大枝城も領有したと思うが
そこで止まっている。

要するにそもそも松川の戦いなどというものは存在しておらず
家康は、政宗に南進するのはやめておけと書状を出しているので
政宗の切り取り次第という前提も無いと言える。

617 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:07:23.16 ID:qbAFEM+l
>>615
どちらにしても松川の位置が違うし
松川事件の松川という街も福島市内の南西部にある

松川の戦い自体がそもそも当時の地形を考えたら無いであろうし
福島城を攻めなくても信夫山に兵を置いて傍観しておけば政宗の仕事

618 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:11:41.10 ID:qbAFEM+l
(家康に上杉を釘付けにしておけばいい)という条件は達成するわけだから
焦って、松川に飛び込んで上杉と野戦する必要は無いと言える。

政宗が切り取り次第で領地を与えるとなるのであれば、家康の政宗の南進のSTOPの書状に対して
政宗が話が違うのではないか?と言って、上杉側に寝返る可能性だった有り得る。
そういうリスクを家康は考えていたわけだから、上杉を牽制すれば50余万石を与えるというとおり
政宗は松川ではなく、梁川と大枝のあたりで小競り合いをして釘付けにしただけだと思う。
そもそも当時の政宗に信夫山を占領する力があったか疑問だ。

実際行ってみればわかるが信夫山とれば福島城なんて鼻くそみたいな城(信夫山と比べると)だから
戦にならず撤収するはずなんだがな。

619 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:34:52.92 ID:wTypS4si
杉原彦左衛門親清は杉原親憲の一族で大老酒井忠勝の家臣であった
忠勝の命で上杉時代の記録を筆記したという

会津陣物語(杉原彦左衛門物語)、武辺話聞書、近世軍記、それぞれ延宝8年(1680)、景勝ファンを自称する近江大津の国枝清軒が諸文献をまとめたものである

620 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:38:58.25 ID:qbAFEM+l
地形図画像で説明

https://dotup.org/uploda/dotup.org2602707.png.html

家康が切り取り次第であれば、政宗に福島城を落せと命令するはずなんだけど
家康は上杉を釘付けにしろと言っている。
その場合、信夫山を占領しておけば上杉勢の本隊は西の板谷峠から攻めて来ても耐えうるし
無理な場合は西山城に政宗は撤退すればいい。

621 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:39:56.78 ID:qbAFEM+l
>>619
ふむふむ。福島市に土地勘がある私からすれば、米沢の人間が適当に書いた軍記物なんだろうなと思う。

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/28(火) 17:51:23.62 ID:wTypS4si
いや、米沢藩が関が原以後60年ほどは福島市を領有してたの忘れないでね?
福島市の置賜町ってなんで名前が付いたか知ってるでしょ
米沢市にも信夫町があるけどね

横田大学の事

2021年09月27日 17:54

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 12:55:44.38 ID:RPHVWC63
徳川家康による会津征伐への発向前、藤田能登守(信吉)取次にて、御所様(家康)より上杉家中において
御存知の輩には、御内通の御書を下され、今度は沼田を限り、奥へ御働きなされることにより、
『裏切りの手を合わせ候へ』との御意があったが、上杉家中の面々は御書を反し進じた者もあり、
また有無の御返事を申さなかった輩もあった。

横田大学は年来御所公と懇意であったので、殊更この時、御懇ろに書を下されたのであるが、
大学はつくづく考えた
「私は、古は大身であったが、秀吉公が関東に打ち入られ、その時本領を放れて浪人した。
今は僅かに二千石だが、上杉景勝に懇意にして頂いている。

只今景勝は小勢であり、御所は数万騎にてこれに取り懸かる。侍たる者が主を捨て、敵方に書を通ずる
ような事は、有るべき儀ではない。」
そう思い、御請の書状を差し上げなかった。

関ヶ原合戦の後、景勝は小身になられ米沢に移られたため、大学も浪人し、駿河へと参った。
そしてその事は城和泉守(昌茂)の取り持ちで、家康公の御耳に達したのだが、召し抱えられることは
無かった。
しかし大阪御陣の時、家康公は南光坊(天海)に対して「横田大学は現在何方に居るのか」とお尋ねに
なられた。その時分、彼は出羽に下り居た。

御所様も大学を勇者と思し召されていることを、この時紀伊大納言頼宣卿が聞き召された。
その時分は常陸介と申し奉り、未だ十三歳であったが、勇知厚き御器量にて、名のある武功の侍を
御所望の御心深く、「何卒、大学を召し抱えたい」と思し召し、板坂卜斎を以て柳生但馬守(宗矩)に
内意を仰せ入れられ、そして但馬守は伊達政宗に大学のことを尋ねた。
但馬守は、あたかも自分が聞きたいために尋ねているようにしたが、これを政宗聞いて

「この大学は人も知りたる者です。一万石ばかりにて堪忍致されるのであれば、私も望みに存じます。」
と返答した。
「奥州においては千五百、二千の大将になり、度々の合戦に勝負致し、敵城をも攻め落とし、我が城も
攻め落とされたこと数十度であり、慥かなる武士です。」と、政宗は物語した。

但馬守はこれを卜斎に語った。卜斎はこの事を常陸介頼宣も(以下欠)

(杉原彦左衛門覚書条々)

原典で最後の方が欠落しているらしく、このあとどうなったのか解らないお話。



75 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/27(月) 13:30:37.94 ID:AugSLeoP
>>74
https://aizufudoki.sakura.ne.jp/zakki10.htm

こちらによると、「新編会津風土記」には最上家に仕えて例の騒動の時にお家存続のために色々頑張ったけど甲斐なく最上家は改易。「横田系譜」では62歳で病死したとか

あと、山内一豊と同一人物説を説くものもあるとか。

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 15:46:21.69 ID:MAPLbMjJ
天海、蘆名氏つながりで蘆名家臣の横田大学(山内豊政)とも親しかった説

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 21:49:18.14 ID:8YXrZf7I
横田大学本人ではないが、
大学の孫が真田松代藩に仕官してる
重文・旧横田家住宅はその旧居

景勝譜代の主にて候間、御免下され

2021年09月22日 17:26

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/22(水) 16:32:06.60 ID:ENFxkodI
上杉景勝の家において、荻田主馬(長繁)が武者奉行であった。
荻田が上杉家を立ち退いて(豊臣秀吉が上杉景勝の屋敷に御成になった時、秀吉に白湯を献ずる
役目を仰せつかった荻田の嫡男がその碗を落としてしまい「豊臣の天下に水(湯)を差した」と批判され、
激怒した景勝により父子共追放された)以降、蓼沼日向守(友重)、三股九兵衛が武者奉行と
なった。何れも大剛の覚えの侍であった、

そんな彼らに対して、越前黄門(結城)秀康卿より様々に接触が有り、蓼沼日向守に対しても
三股九兵衛に対しても、一万五千石宛にて自分に仕えるよう御呼ばれたのであるが、

「景勝譜代の主にて候間、御免下され」

として参らなかった。この二人について秀康卿は、大御所様(家康)より能く聞き召されて
いたのだという。

杉原彦左衛門覚書条々



566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/22(水) 21:54:19.20 ID:L9m3N/kA
大胆と言えば大胆かも知れないが
主君の景勝の頭越しに直接大領やるからうちに来いよとか
些か無礼に過ぎる話なんじゃないか…?
蓼沼三股両名の忠義の良い話かも知れんが
秀康の悪い話でもあるような…

北条丹後の指物

2021年09月19日 18:59

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/19(日) 17:57:38.33 ID:+x+mbxvS
上杉輝虎(謙信)の時代の、家老・北条丹後守(景広)は大剛の侍であった。
ある時、一尺ばかりの白練の小四半(6センチ四方とも)に、黒蟻一疋を書いて、指物にした。
あまりに小さい指物であったため、謙信も見咎め、丹後を呼んでその指物の訳を尋ねた。
丹後答えて曰く

「皆人は三幅懸、四幅懸に下猪、登龍、その他大紋を付けて指すのは、敵方に良く見えるようにという
事です。その大指物より私の小四半は良く見えます。何故なら何時の軍にも、間近く乘りこみますから。」

そう申し上げると、輝虎も機嫌直ったという。
この丹後は謙信の死後に、三郎(景虎)と景勝の闘争の時、荻田與惣兵衛に鑓を付けられた。
この時は乘り抜けたが、その手疵にて相果てた、三郎方もそのまま敗軍したという。

(杉原彦左衛門覚書条々)



552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/19(日) 18:03:47.19 ID:KN/X7LVv
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5838.html
前に出典なしで出てたけど今日の話の方が詳しいな

私の主には景勝より他には無し

2021年09月17日 18:24

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 17:20:26.10 ID:A57wqFIW
前田慶次郎は、関ヶ原後の減知転封の折に、上杉景勝より暇を出されたが、
「そのまま召し仕り下され」
とて、五百石にて米沢に共をした。方々より七千石、八千石にて、抱えたいと招かれたのだが、
慶次郎は関ヶ原陣にて、諸大名を見限ったのだ。

「治部(石田三成)が負けると等しく降参し、追従軽薄、させさて男は一人も無し。
景勝ばかり、始めより終わりまで、弓矢を取り腕を張った事、まさしく武士なり。
私の主には景勝より他には無し。」

そう言って在郷へ蟄居し、弾正(上杉定勝)代に病死した。


杉原彦左衛門覚書条々



545 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 17:39:17.09 ID:MGyRhaXZ
        だ

        が
   そ

   れ

   が

   い

   い

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 08:20:40.17 ID:UccZ4pjD
前だけイジろう

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 09:35:17.25 ID:0SpbPWgs
はなのけ いじろう
とか
はなのけ いじろう とします
だったら漫画も人気でなかっただろうな

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 10:09:36.61 ID:3ZGurbSa
まえだけ いじろう とします

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/18(土) 21:54:47.63 ID:iwDTxuAA
おだの豚だ

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/19(日) 12:23:53.13 ID:Ky3syVjQ
得がワイ、え~安っ!

伊達の加勢

2021年09月14日 18:45

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/14(火) 15:06:35.11 ID:q8uyA47f
慶長出羽合戦、始め最上義光上杉景勝の大軍が押し寄せると聞いた時、子息修理太夫家親に申された

「この度、直江山城守(兼続)大将にて四万余りの軍兵を引率し攻め来たるという事であり、
敵勢は定めて、雲霞のごとくであろう。
私は山形の城を以て。出来る限り防ぎ戦い、叶わずば腹を切る。その方は早々に奥州岩手沢に赴き、
加勢を伊達政宗に乞うように。

但し、我が姉(義姫、実際には妹)は政宗の実母であり、その方と政宗は従兄弟であるのだが、
先の鮎貝藤太郎(宗信)の事で政宗との関係が悪化し多年となっている(鮎貝宗信謀反事件)。
既に弓矢も数度に及んでおり、伊達家も我々に加勢する事は中々合点しないとは思う。

しかし政宗も関東方無二の味方であるのだから、私からの要請を聞く時は、関東(家康)の後聞を憚り、
加勢すること必定である。
その内に山形が落城すれば、私は討ち死にする。その方は生き残って、家名を相続するのだ。
父子が一所にあって討たれるなど、言い甲斐もない事だ。」

そう言って今生の暇乞いの盃を取り交わし、家親は馬に打ち乗って奥州岩手沢を指して駆けた。

九月八日、岩手沢に到着して政宗に対面した。家親は言った
「この度、関東の御下知により義光も軍兵を催促し、米沢口より会津に取り掛かるべしと支度をしていた
所に、治部(石田三成)が大阪に討って出て、京都、畿内がこれに一味し、伏見の城を攻め落とし、
既に治部の先勢は美濃口に充満しているとの事で、関東の御勢は会津攻めを止められ、江戸に引き入り、
上洛されました。これによって直江山城はその利に乗じ、この隙を伺って、四万余りの軍兵にて近日、
最上を攻め潰すべき支度をしているとの情報が申し来ました、そのため味方にも数ヶ所の砦を構えさせ
待ち受けていますが、大敵であれば、此の方が打ち負けること必定です。

事新しき申絛ではありますが、貴殿の御母堂は我が叔母であり、従兄弟のよしみ浅からず。
然れども先年の鮎貝藤太郎の事により、伊達・最上は確執に及び敵味方となり、数年争いましたが、
これは頗る本意では有りません。

この度直江が最上を攻め平らげれば、則ち、さらに下湯の原にかかり、岩手沢に取り掛かること、
隴を得て蜀を望むの勢いはとどまることは無いでしょう。これはいわゆる、唇亡びて歯寒しという
警句です。

今度、多年の宿意を咎めること無く、加勢を出され、最上の急難を救われれば、外には関東への奉公、
家は一家を救う所、名実ともに全き所であります。
正に今、最上は大事に及んでいます。貴殿が加勢されず、直江が最上を攻め取れば、一体何の面目が
あって、御所(家康)に見えられるのでしょうか?」

このように理を尽くして申されると、政宗もこれを聞いて「尤も至極」と同心し、
「追っ付け、加勢を出すので、貴殿は父義光と一所に、山形を持ちこたえるように。」と家親を反し、
則ち最上へ加勢を差し越した。
(中略)
政宗総軍は旗の紋に、琵琶の図を書いた。『我は琵琶なり。敵ひけ。』という事である。

近世軍記

慶長出羽合戦に於ける、最上から伊達政宗への救援要請について



525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/14(火) 18:41:05.76 ID:Ovha0XjA
今となってはいろいろ突っ込みはあるが一番は家親じゃなくて義康の誤りか

諸人は秀康卿を褒め奉った

2021年09月13日 17:32

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/13(月) 14:35:51.44 ID:mazs0ERa
石田三成らの挙兵を聞き、徳川家康が小山より引き返した時、
結城少将秀康卿は宇都宮の御陣を召し、会津の上杉景勝に対する押さえとして置かれた。

この時景勝は長沼に在ったが、御所(家康)が小山を引き払ったとの情報を聞いて、
彼が長沼を打ち立ち、七万余騎にて江戸を指して切って上がるという内容の雑説がしきりに
流れた。那須七党の人々も、景勝が討って出てきては矢も盾もたまらない事で、とんでもない
事だと日々に騒いだ。

秀康卿は当時二十七歳であったが、勇猛さは御父家康公、御養父秀吉公に似られたのか、
使者二人を景勝に遣わされ、

『この度京都大乱に付き、家康公はこの表を引き払い上洛されました。留守居として私はここに罷り有ります。
安閑として日を送るのは待遠ですので、貴殿と一合戦仕りましょう。
御同心であるのなら、私がそちらに取り掛かるか、又はそちらから此の方に御出馬されるのか、
御返答次第にいたしましょう。』

このように仰せ遣わされた。景勝はこの返事に

『御使、忝なく存じ候。
我らは輝虎以来、人の留守に仕掛たことはありません。御所が御上洛に付き、御留守として貴殿が
御在陣との事ですが、何にしても似合の用事を承るものです。

一戦の儀は、重ねて御所がこちらに出張なされた時に、先手をなさって下さい。
その時、一戦仕りましょう。
只今、御所御留守の間に若き人が居る所に取りかけるような事は、中々思いもよりません。』

と返答した。すると此の頃の雑説はたちまちに止み、諸人は秀康卿を褒め奉った。

近世軍記



521 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/13(月) 17:26:54.04 ID:LSVUugA4
>>520
坊ちゃんはお呼びじゃねぇ
親父が戻ってくるまで大人しく留守番してろ


と、暗に言われてるようにしか見えん。
花の慶次でも秀康が景勝に挑もうとして袖にされるこの通りの話あって秀康が凄く悔しそうに戦するんじゃぁ!って出て行こうとして止められてたけど、景勝にしても面白くないよなぁ

522 名前:羊羹録 ◆cA7oIM8fok [] 投稿日:2021/09/14(火) 12:21:06.87 ID:ytdXkE9W
>>521
景勝・・・百姓一揆であわわ
兼続・・・最上のロートル兵にあわわ
慶次・・・最上のロートル兵にあわわ
秀康・・・余裕
政宗・・・(最上領にいる)ママ大丈夫かな?
小十郎・・・最上も上杉もどちらも潰し合わねーかなー

と言うのが実情

524 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/14(火) 16:38:24.04 ID:3LbuLjP1
>>522
>景勝・・・百姓一揆であわわ


慶長出羽合戦とその前後、上杉家は二手に分かれて最上領を侵略しながら一揆勢も相手にしてたの?

裏切りは御免候へ

2021年09月12日 16:14

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/12(日) 14:45:20.23 ID:ofsTfoaa
蒲生秀行と申すのは、童名は鶴千代、その後藤三郎と号した、蒲生氏郷の嫡子である。
家老・蒲生四郎兵衛(郷安)の所業により家中が二つに割れる、大きな騒乱が起こった(蒲生騒動)。
その咎により、百二十万石の会津を召し上げられ、ただ十八万石にて宇都宮に移されたため、
譜代の侍共の多くが会津に残り、新たに入部した上杉景勝に召し抱えられた。

そして徳川家康による会津征伐が行われると、秀行は密かに、自筆の書状を使者に持たせて
会津に残る元蒲生家の侍共に遣わし、このように伝えた

『お前たちは何れも、元々は蒲生家譜代の侍である。一旦上杉家に付いたといっても、
きっと旧恩を忘れてはいないと思う。

この度、お前たちには秀行に対して、宇都宮が関東方の一の手先である事を以て、関東の先手で
あるとして向かってくるのではなく、昔の契を思って、景勝を裏切ってほしい。
それ私にとって本望であるし、その上に大分の恩賞を出す。』

これに対し、栗生美濃守(初めは寺村平左衛門)、岡野(岡)左内、志賀与右衛門、布施次郎右衛門、
外池甚五右衛門、小田切所左衛門、高力圖書、安田勘介、北側圖書、等は何れも秀行の直書を
拝見し、返状を送った。その内容は

『思し召しの所、誠に以て浅からず、忝なく存じ奉ります。
さりながら古より申し伝わる事にも、人の禄を食む者は、その人のために死すとあります。
古主の御恩浅からずと申しながらも、差し当たって上杉の恩を受けながら裏切ることは
罷りなりません。殊更、景勝は現在天下を敵として受けられ、危ういことは目前に見えます。
こういった時に挑み、二心を差し挟むというのは、武士の恥辱です。

ではありますが今後御一戦に及んだ時に、秀行様が御難儀に及ばれた所を見かけた場合は、
我等は何れも馬を控え、進むこともしないでしょう。どうかこれを御恩報と思し召しになり、
裏切りは御免候へ。』

これを見た秀行は感涙を流し、聞く人も皆称嘆した。

近世軍記

左様のうつけたる同類に

2021年09月10日 18:08

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 16:24:19.47 ID:Y2Q3SaZT
堀久太郎(秀治)が越前から越後へ入部した折り、家老の堀監物(直政)より国中に触れ渡し、
当年の年貢を納め取ろうとした、
この時百姓たちは言った

「時分は既に冬になっています。年貢の半分は既に、転封された上杉殿に納めていますので、
その分を納めることは罷りなりません。」

そこで監物方より上杉家の直江山城守(兼続)へ申し遣わし
『納め取られた越後の当年貢半分を、こちらに返されますように。』
と伝えた。直江はこの返答に

「久太郎殿が越前を出られる砌に、越前の当年貢半分を納め取っておくべきでした。
会津領においても、前の地頭である蒲生秀行は当年貢半分を納め取った上で宇都宮へと移られた。
そのため(上杉)景勝も会津に移って、その残り半分を納めました。
越後に於いて納めた半分を、返納するいわれはない。」

そう言って堀監物の要求に肯かなかった。
しかし監物は重ねて使者を以て、

『越前の当年貢は残しておいて蔵に納め置き、公儀へと差し上げたのです。
ですので越後半分を戻されますように。』

と乞うたのだが、直江は笑って

「越前の年貢半分を納め取らなかったのは、監物の誤りである。
左様なうつけ者の同類に、我々が成る事はない!」
(左様のうつけたる同類に、此方には罷りならず)

そう嘲り愚弄した。そのため、堀監物はこれを根深く遺恨に思ったという。

近世軍記

そういえば堀家が移った後の越前北ノ庄城には、当初小早川秀秋が入る予定だったな。



30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 18:04:38.61 ID:21GKIKTf
そういう決まりがあったならともかく、公儀へ年貢渡す前に上杉と調整してなかった堀のミスだな

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 20:14:16.94 ID:0w+T8jRj
年貢については通例で国替えの時はそうするってなってた筈
ただ黒田と細川も同じ事で揉めてるし(黒田が持ち逃げ)
その時に細川から提訴受けた家康は裁定しなかったので
法で決まってた訳ではない模様

ちなみに黒田が移る先の小早川も持ち逃げしてたので
黒田が持ち逃げしてなければ黒田も困ってた
細川や堀の脇が甘いといえば甘いか

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/10(金) 23:02:29.70 ID:KX7wPrkn
黒田細川堀と、ガメツもといしっかりしてそうな家が被害者側なのがなんか面白いな

33 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/10(金) 23:45:05.05 ID:z9qVs5NZ
まぁ堀家は名人Q太郎じゃなくて若年の二代目Q太郎だし舐められてたのかも知らん

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 10:57:35.23 ID:jXOTE7+0
この話し一年分持ち去ってたのかと思ってた

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 13:18:11.10 ID:7XTJHesh
正直年貢持ってかれたどうこうよりも、秀吉に朱印状で全員会津へ連れてくよう言われた上杉家臣が残ってる事のがよほど堀からしたら問題よね
実際乱になった際に上杉が煽って一揆起こしてたし

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 16:50:23.87 ID:jWvq4BOh
農民は一切連れて行くなだから帰農されるとどうしようもないし

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 16:58:15.14 ID:9KDPLPok
いやー、家臣全員連れてくよう言われたんですけどーたまたま家臣たちが一斉に帰農しましたー
ってさすがに無理があるくない?

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 19:31:52.06 ID:YwIdib8P
上杉の遺民一気ってだいたい越後風土記が元の記述?
堀毛の家譜とかにも載っている?

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 19:34:40.46 ID:YwIdib8P
地元が蜂起に参加していたらしい記述見かけたんだけど
該当箇所が見当たらない

40 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 20:55:43.02 ID:hllB7l4p
( ●Д`)y━・~~ 旧臣使って一揆の煽動とか酷い奴も居たもんだな

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 21:03:35.30 ID:u236VH5d
輝元「どこのどいつだよ」

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/17(金) 21:31:43.99 ID:WBGVVljn
>>40
お前はネズミ汁でも喰ってろ

43 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 23:11:53.00 ID:MGyRhaXZ
上杉謙信・山内忠義・島津義弘・福島正則「イッキ!イッキ!イッキ!イッキ!イッキ!(エンドレス)」

44 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/17(金) 23:16:41.44 ID:hllB7l4p
>>43
母里太兵衛「ウェーイ!」

思いのままに謀を廻らせた

2021年09月05日 17:57

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/05(日) 15:51:47.61 ID:Icad6qo4
ある時、石田三成は直江山城守(兼続)と、ただ両人差し向かい、深夜まで酒宴して遊んだが、
密かに山城守に向かって申した

「侍と生まれ弓矢に携わる者で、天下に望みがないのは男子と称するに足りない。
差し当たって秀吉公は、匹夫であったと雖も天下をその掌握に帰された。
私も一度は四海を治めたいとの深い思いは止むことがない。
しかし秀吉公御在世の家は思い立たない。御他界ある上にて、旗を揚げんと思う。

御辺も景勝の逆心を勧め、旗を揚げさせ。天下を覆せば景勝を滅ぼし、御身が関東の管領と
なり給え、我等は将軍となり、京・鎌倉の如く、両人にて世を治めるべし。」

直江も大胆なる者であったので、この謀事を快く思い、

「左用思し召し立っているのならば、上杉家中のことは一向に私に任せ給え。
それについて、謀事を廻らして見るに、蒲生会津宰相氏郷は武道逞しき人であり、
御所公(徳川家康)に差し続く大将である。またこの人の子の藤三郎秀行は御所公の婿であり、
領分は奥州と下野に接している。これは御所公の後ろの強みであり、このため事なしである。

たとえ貴殿が思い立ったとしても、御所公、氏郷と指し続いていれば、中々退治するのは難しい。
先ず氏郷を殺し、そのあとに景勝を国替えさせ、東西より立ち挟んで討ち果たすことが然るべき」

と囁いた。これを三成は承引し、氏郷を毒害し、その後で藤三郎秀行の家老達をそそのかり、
蒲生家中に大いなる騒動を起こさせ、その咎にて秀行百二十万国を没収し、僅かに十八万石にて
野州宇都宮に所替させ、会津には上杉景勝を入れ替え、思いのままに謀を廻らせた。

近世軍記

石田三成の野望と陰謀について。まあ典型的な三成陰謀論みたいな話ですが、むしろこのくらいのほうが
魅力的な気もする。



仙桃院の演説

2021年09月04日 17:01

仙桃院   
504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/04(土) 16:22:11.04 ID:JMOsLn/Z
上杉謙信死去後、越後に於いて養子である上杉景勝上杉景虎の闘争は激しくなり、
双方手切れとなって既に合戦が始まろうとした時、景勝の母である仙桃院は、上田より早々に
春日山城に来ると、一族家臣、末々の侍共まで春日山の本城水門へ呼び、簾を高く巻かせ、
直に対面して申された

「景勝は越前守殿(長尾政景)の子であるが、謙信の猶子である。
先祖である長尾左衛門尉景忠より、謙信に至るまで八代、年数は二百十余年、越後の執権として
貴賤共に、そのよしみは浅からず。一体誰がその旧功を忘れるだろうか。

殊更、かつて紋竹庵主(長尾為景)が越中千檀野にて討ち死にされ、国中大乱に及んだのを、
謙信が十四歳より謀を巡らし、十五歳の春に宿敵である長尾平六を討ち滅ぼし、それより
八年間の間に、越後国中の凶賊を討ち平らげ、上下枕を泰山の安きに置けたのも、皆謙信の恩である。
何れも心を一つにして、味方(景勝方)の義戦をたすけ、中興の謀を巡らすべきである。
構えて卑怯の振る舞い、二心をはさみ、又は戦場において強いて戦わせることを敵に見せるなどは
口惜しきことである。

何れも頼み入ります。謙信の遺跡を、景勝に知らせ候へ」

そして家老から末々の軍兵まで残らず盃を与えられると、上下の者達は皆、この女ながらの勇気に
励まされ、感涙を流して畏まった。忠功を励む所、更に疎むべからずと、一同に頷いた。

太祖一代軍記

御館の乱において、景勝方が仙桃院の演説によって戦意を高めたというお話。
この演説のモデルは北条政子のやつかな?



上杉景勝覚書七箇条

2021年08月12日 17:22

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/11(水) 20:56:14.44 ID:8II8o6Wu
天正18年の秀吉による小田原征伐、ついで奥州平定、天正19年の陸奥征伐、九戸政実族誅の後には海内
初めて一統し、人心もやや安定した。

そのため天正19年10月、上杉景勝は覚書七箇条を発布して、地頭の正邪はただちに農民に反映するもの
なので、いささかも怠慢があってはならないと論示し、苛斂誅求、徴税吏の粗暴を戒め、常に忠孝貞節の道
を教訓させた。

また百姓は国の宝として務めて寛政を行うべきであるも、いやしくも土地に関して不法を申し募るようなら
斬に処するも差し支えなしとした。およそ訟事は決して片言をもって獄を断じ、または依怙の沙汰があって
はならないと上杉氏の治民方針を示した。(『竹俣文書』)

「覚

一、地頭の正邪により、百姓は善悪に移るものである。いささかたりとも油断あるまじき事。

一、年貢諸掛かり等は、なるべく勘弁いたして、悪作の年は前年より小分たるべき事。

一、何事も古法を守り、利欲のために新法を立てて、百姓を苦しませ申すまじき事。

一、忠孝の道理を常々教訓いたすべき事。女たちへは貞節の道理が自ずから分かるよう、肝要にする事。

一、年貢諸の等(ママ)を取り集めに行かせた役人たちが百姓へ対して粗暴の事がないように申し付ける事。

一、百姓は国の宝であるから、なるべく堪忍いたすように(百姓は國のたからに候間、なる程堪忍可致候)。
いよいよ不法を申し募って、ちめんに拘るならば討ち捨て申すべき事。

一、訴訟は双方共によくよく聞糺して沙汰するように。必ず依怙贔屓いたすまじき事。

右の条々を堅く守り申すように。以上。


天正19年辛卯10月 日 景勝花押

地頭大名中へ」

――『直江兼続伝竹俣文書)』



406 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/12(木) 03:31:08.58 ID:lTFxnUYn
直山「依怙贔屓なく審議を尽くした結果、3名様ほど閻魔大王への使いに出すことにしました。」



まぁ後世の創作くさいらしいけど

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/12(木) 04:07:33.59 ID:NFSu9+hw
直山って誰だよ
閻魔送りの件はまんま
一、百姓は国の宝であるから、なるべく堪忍いたすように(百姓は國のたからに候間、なる程堪忍可致候)。
いよいよ不法を申し募って、ちめんに拘るならば討ち捨て申すべき事。
に当たる判定なんだろう

408 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/12(木) 04:27:00.01 ID:lTFxnUYn
>>407
直江山城の略

親しい大名同士だとよく名前と冠位やら略してくだけて書くことがあるからそれ風にしてみたんだ。

まぁ、あの逸話は再三の譲歩にも関わらず、和解せず退かぬ媚びぬ省みぬして、人集めて騒いだ遺族側が悪いと思うわ。

直江の誤りと見るのが正道である。

2021年08月06日 18:08

下秀久   
903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/06(金) 15:18:04.32 ID:JIwzFV+j
長谷堂城の戦いから、直江兼続軍の撤退の時、最上領谷地の城に下次右衛門(秀久)が残し置かれており、
周辺の仕置を申し付けられていたが、彼は石田三成が滅亡した以上、行く末上杉家頼りなしと思い、
最上に従い、最上衆を庄内に引き入れ切り取らせた。
そうなれば、直江さえ会津に呼び返される程であったので、庄内に置かれた城持ち衆も留守居を
少々残して皆会津に召喚されており、そのためやすやすと、何の手間取ることもなく庄内三郡は
最上義光の手に入った。

この次右衛門は謙信公の下男であったのを、御眼力を以て御取り立てになり、騎馬の列になさて、
その御推察の如く数度武功を顕したことで次第に立身した。この者は隠れなき算術の上手であった。

景勝公の御代に、四人御領分として、勘定奉行の下次右衛門は庄内を、川村彦左衛門は佐渡国、
窪田源右衛門は信州川中島、山田喜右衛門は越後国旗本に有り、その様子、御仕置の作法は
武道の助けとされた。

今度、最上へ直江が出陣した折、谷地、寒川江の領城を乗っ取れたのは、この下次右衛門の分別
宜しき故であった。しかし武道は良しと雖も、元来下臈であるため義理を知らぬため逆心した。
然れば、その原因は直江が谷地城に次右衛門を残し置いた為であり、直江の誤りと見るのが
正道である。

(管窺武鑑)

実際には下秀久は直江から撤退を知らされておらず取り残される形になっていたとか。



905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/07(土) 03:36:42.47 ID:arSrnCGw
管窺武鑑が執拗に藤田age直江sageしてんなと思って
どういう書物かと調べてみたらああ…納得ってなったわ