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八王子城の戦い

2019年11月14日 18:03

571 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/11/14(木) 13:09:38.79 ID:LtK+6vTc
武蔵国多摩郡八王子城の城主である北条陸奥守氏照は、秀吉の小田原征伐に当たり小田原城に籠もり、
八王子城はその留守居として本丸には横地監物吉信、中の丸に中山勘解由家範、、狩野主膳一庵、
山中曲輪には近藤出羽守綱秀らが置かれこれを守っていた。

秀吉は北国の両大将(前田利家、上杉景勝)が八王子城へ向かったことを知ると、木村常陸介重茲を呼び、
過日のこと >>567 もあり、利家、景勝が無理な働きをしないよう、すぐに八王子表へ目付として行くことを
命じた。もしそのような事が有れば諌めるように、との事であった。
木村常陸介には太田小源吾一吉が差し添えられた。

四月二十四日、北国勢は朝駆けで八王子の町へ入るや一気に押し破り、道々あさぎりの中に見張っている
足軽たちを撫で斬りにし城壁へ詰め寄った。そしえ本丸を上杉景勝、中の丸を前田利家が攻めると決め、
また松山城で降伏した木呂子、難波田、金子らを先陣として山中曲輪を攻めさせた。この松山衆はその夜、
夜討ちをかけ、山中曲輪を守る近藤出羽守は奮戦するも討死した。寄せ手も若干討たれたが、敵の首級
三百五十余を得た。これを見た本丸、中の丸の雑兵たちは肝を冷やし、大半が逃げ出した。
城に残ったのは中山勘解由配下の七百余騎と、その手の者僅かに百余人、他に軽卒二百ばかりであった。

中山は城に残った者たちにこう言った
「もしこの中に臆病者が居るなら、それは足手まといに成るだけだ。今のうちに落ちるが良い。
我等は久しく陸奥守(氏照)殿の恩沢に浴する身であり、斬死してもここを去るわけには行かない。
今一度言う。生命惜しき輩は落ちよ。私は少しも恨みには思わない。」

しかし誰も逃げ出そうという者は居らず「生死を共に仕らん。」と、喜び勇んで矢弾を飛ばして
寄せ手に挑み戦った。この攻撃に寄せ手では見る間に死傷者が増えた。この時前田利家は配下の
者たちにこう言った

「先に上州の諸城を落とすといえども、関白殿下になんら功を認めて頂けなかった。されば、今度こそ
降伏を許さず粉骨して攻め殺さねば、何の面目が有って秀吉公に再びまみえようか。
もし首尾ならずんば、我等親子(利家・利長)はこの場において自刃する覚悟である。汝らもよくこの意を
体して忠墳すべし。」

この利家の言葉に、山崎長門守、前田又次郎、青山佐渡守らが先陣を承って金子丸を攻め破った。
ここを守る金子三郎右衛門は山崎長門守の郎党・堀角左衛門が討ち取った。
これと競うように、他の加州勢が中の丸を攻めた。城中からは中山勘解由、狩野主膳らが士卒を下知して
打って出て戦った。この時、前田利長の近習である大音藤蔵は、未だ十六歳であったが真っ先に鑓を入れ
組み討ちして敵の首を取った。続いて雨森彦太郎が高名をした。大音は先に前田利長の勘気を蒙り
蟄居の身であったため、首実検には漏れたが。その日の一番首との事で、勘当が許された。

城方の中山勘解由、狩野主膳らは自身で鑓を合わせ、太刀を抜いて戦ったが、もとより多勢に無勢であり、
衆寡敵せず城中へ引き上げた。加州勢が尚もそれを追って攻め立てたが、秀吉より目付として遣わされた
太田小源吾が誰よりも先に塀へよじ登り城中へ押し入った。小源吾もこの功により、後に秀吉より
豊後国国崎郡杵築城三万五千石を拝領した。

572 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/11/14(木) 13:09:57.95 ID:LtK+6vTc
中の丸に立て籠もっていた三百余人は多くが討ち取られ、今や十余人となり、そのうえ皆深手を負っていた。
そこで「今はこれまで」と詰の城へ引き籠もり、そこに避難していた足弱(女子供、老人)達を先に刺殺し、
自分たちも心静かに腹を切った。

前田利家は高地に馬を立てて城方の働きを見ていたが、松井田、松山で降った金子、小岩井達を呼んで
尋ねた「城方の者たちは、やがて斬死するか自害して果てるであろうが、あの中に見知った者は有るか。」
「はい、居ります。一人は中山勘解由と言って、武蔵七党の丹党の末裔で、古来より名のある者です。
もう一人は狩野一庵といって豆州の侍で、元は北条氏照の右筆でしたが、才覚あり数度の戦いで戦功を
成し、出世して一廉の武将となり、今は倅の主膳正に家督を譲り、自身は出家しています。」

利家はこれを聞くと「直ぐに馳せ向かい、その者たちが我等の陣に加わるよう説得するのだ。」と命じた。
金子紀伊守の小岩井雅楽介はすぐに八王子城に駆けつけ城門を叩いたが、何の答えもなかった。
彼らは脇門を押し破って中に入ったが、中山も狩野も、既に自害して果てた後であった。二人は致し方なく、
戻ってこれを利家に伝えた。「惜しむべき武士たちである。」利家はそう、彼らの最後を哀れんだ。

後に、徳川家康はこの八王子城での戦いの様子を聞くと、中山、狩野の忠節に深く感じ入り、関東入国後、
武州辺りを放浪していた中山勘解由の嫡子・助六郎照守、次男の佐介信吉を探し出し、召し出して
旗本として取り立てた。そして兄に勘解由、弟に備前守の名を与えた。今もその子孫は続いているという。
また狩野一庵の息子・主膳正も家康によって取り立てられ、慶長五年の庚子の役(関ヶ原の戦い)では
濃州岐阜表で二番鑓の誉れを立てたという。

(関八州古戦録)

八王子城の戦いについて



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八王子城攻めに至る経緯

2019年11月13日 17:55

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/13(水) 16:44:04.13 ID:zp2lld1A
天正十八年小田原の役に於いて、北国の両大将である前田利家上杉景勝、および信州の真田昌幸らは、
三月十八日には松井田城を降伏させると、そこでしばらく休息し、兵糧の調達を終えると、松井田城代
であった大道寺父子(政繁・直繁)を手引として、倉賀野、箕輪、厩橋といった城へ押し寄せ次々と
降伏させた、

四月十二日には武州比企郡松山城の攻略にかかる。松山城主である上田自芸斎(憲定)と息子上総介憲定は
小田原に立て籠もっており、留守居役は難波田因幡守、木呂子丹波守、金子紀伊守、山田伊賀守、
同一兵衛、比企藤九郎ら二百余人、雑兵二千三百余がこれを守っていた。

前田利家・利長父子は大手、上杉景勝は搦手と決め、これに毛利、真田、小笠原、そして案内の大道寺の
兵が加わり、先ず遠攻めにして近辺の里や村、山林を伐り攻めやすくして準備を整えた。
城中の者たちはこの様子を見て、その大軍に既に戦意を失うと、城下の寺僧を仲介として降伏を申し出た。
その条件は、本丸、二の丸を渡し、三の丸に諸士の妻子を入れ置くというものであった。

寄せ手の大将たちはこれを受け入れ和睦し、その降人を案内として、北条安房守氏邦の家人たち四百人
ばかりで籠もっていた本田郷西山城に取り掛かると、城兵は一戦にも及ばず鉢形城へ逃げ出し、戦うこと無く
落ちた。次いで河越城へ向かったが、これも降伏をして戦いにならず、かくして北国勢は刃に血を塗ること
無く数城を落とした。

この上は小田原城攻めに合流するとのことで、同二十一日箱根の笠懸山に至って秀吉に謁見し、一部始終を
報告すると、秀吉は事細かに尋ね感心はしたものの、これを褒める言葉はなく。前田利家上杉景勝
腑に落ちぬ顔で引き下がり、

「我等の今回の武功は、それほど空しかったというのか。」
「左様である、激しく戦うことこそ無かったが、数城を抜いたこと確かである。」
「無血であろうとも。将兵を多く傷つけ諸城を落とすより功大かるべし。」

そのように不満を述べた。

その夜、秀吉は近習にこう語った
「北国、信州の諸大将、諸士の働きは見事でありその功も大きい。しかし皆降参させてしまった。
戦というものは、一城は帰順させても、一城は攻め殺してこそ、一張一弛の法にかなうものである。
でなければ他の関東の諸士への見せしめとならない。だからこそ強いて褒めなかったのだ。」

両将は後でこれを聞くと尤もだと思い
「さては八王子の城を襲って皆殺しにしてくれん。」
と、利家、景勝は早速小田原の陣営を引き上げ、同月二十三日、急に兵を発して八王子へと向かったのである。

(関八州古戦録)

八王子城攻めに至る経緯

続き
八王子城の戦い


568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/13(水) 17:59:21.35 ID:MuGqZJnG
とばっちりもいいところだわ

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/13(水) 23:00:59.45 ID:ZnQE/54F
「もう逃げた方がいいよね」

「囲まれても降伏すれば助けてくれるみたいだから大丈夫だよ」

「場合によっては次の城攻めの豊臣軍の先鋒になるかもな」

「関白は元農民だって言うし俺も手柄をたてれば武将かもな(^^)」

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/14(木) 04:40:49.06 ID:biVTa3Lm
八王子城の運が悪かったのは、城兵3000人いたとはいえ、女子供含めてだったので、
15000人で力攻めできてしまう程度の戦力だったことだろうなぁ…。
城主の氏照は小田原行っちゃっているし。

大規模な山城なんだし、周囲には出城、付け城も多数健在だしで、
本来なら5倍程度の兵力差なら1日で落ちるなんてことはない。

直江も腰をかヽめ候迄の由

2019年07月19日 14:59

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 19:31:33.07 ID:wMVJRuAB
外桜田南通の石垣は上杉景勝に仰せ付けられ、権現様(徳川家康)も度々御見分ならせ
られて御指図遊ばされた。

上杉家の家老・直江山城(兼続)が罷り出て御挨拶申し上げれば、権現様は直に肩を御
押し遊ばされて、かれこれと仰せがあった。直江も腰を屈めるだけであったという。

(権現様直に肩を御押被遊彼是上意有之直江も腰をかヽめ候迄の由)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



上杉家ノ喫煙ニ関スル令

2019年06月07日 16:27

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 15:24:46.72 ID:RXHWoMb5
  上杉家ノ喫煙ニ関スル令

『上杉年譜』

  掟

 (上略)

一、煙草を吸うことは病人と老人は構わない。下々の寄り集まる所でみだりに吸うことは無用
  とせよ。たとえ老人や病人であっても、海道、あるいは主人の供を仕っての門庭において
  吸うことは一切止めること。
 (タバコ、病者老人ハ不苦、下々寄合猥呑候儀、用捨アルベシ、縦老人病者タリトモ、海道、
  或主人ノ供仕、門庭ニ於テ呑事、一切停止之事)
 (中略)


    慶長17年(1612)8月13日

(原注:全文は8月13日に景勝が法令を家臣に分配した条に収められている)


 『直江重光(兼続)書翰留』

  このところ乏しい時分に一段の煙草90枚を御意に懸けられましたことで、とりわけての
  祝着をされました。この類は気にかかることなので、もしもその辺り重ねての到来もあれ
  ば御意に懸けられますように。それではまたの機会に。恐々謹言。
 (爰元払底之時分、一段之たはこ九十枚、被懸御意、別而令祝著候、此類気合ニ相当候条、
  自然其辺重而も到来候者、可被懸御意候、猶期後音候、恐々謹言)

    7月26日

       須右様 まいる

 (原注:本文は略す)

  追って煙草その他御法度の様子を、懇ろに尋ねて申し付けるように。
 (追而、たはこ其外御法度之様子、懇ニ相尋可申付事)
  
    9月14日

       千坂伊豆守殿
  
――『大日本史料』

※7日前→一季居、耶蘇教、負傷者、煙草、屠牛ニ関スル禁令五ヶ條


秀吉はまことに前代未聞の大将なり

2019年02月16日 17:31

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 18:10:30.03 ID:eLOuuDtR
そうして滝川左近太夫(一益)は秀吉に懇望して身を任せ、長島城を渡すことで許容となった。

このような時(出典の成立年。1583年)に、東国においては徳川家康北条氏政、北国において
は長尾景勝(上杉景勝)、西国においては毛利輝元が、皆秀吉へ方々から寄り集まっている。天下は
秀吉の掌握に帰すといえよう。

漢の高祖が天下を取った時に三傑あり。戦に優れたのは韓信なり。糧を巡らすのは蕭何なり。謀を巡
らすのは張良なり。源頼朝が日本を治めた時に三賢あり。義経は戦功をことごとくし、梶原景時は世
勢をもっぱらにし、北条時政は政道を行った。これはすべて良臣の諫めによって成し遂げたのである。

今は秀吉が一心で謀を巡らし糧を蓄え、戦をもっぱらにする。まことに前代未聞の大将なり。

――『柴田退治記』



744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 20:26:06.18 ID:IC6boHOF
義経、景時、時政を頼朝の三賢とかいうと微妙な気分に

義経=韓信といえば白話文学「喩世明言」で楚漢戦争の英雄を三国演義の英雄に転生させる話を元にした
江戸時代の「英草紙」で源平盛衰記の英雄を太平記の英雄に転生させた話でもネタにしてるな

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 21:44:28.69 ID:L99+733I
>>744
フェイトの元ネタの魔界転生の元ネタの元ネタがあったとは

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 22:15:30.40 ID:02BhZVGW
転生は中国説話じゃよくあるネタだったからなあ
三国平話も転生から始まるし

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 22:51:55.60 ID:boxxZIZV
お腹を空かした虎に自分の身体を投げ出した人の転生体がお釈迦様という話もある

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/16(土) 13:13:36.59 ID:S0aIoIwN
半兵衛の今孔明も「転生したんじゃねw」って意味で使われた可能性も!

【雑談】それにしても上杉景勝って

2018年09月12日 22:04

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 10:52:54.88 ID:8Kk8cxb6
それにしても、上杉景勝って先代を意識しすぎてつまらない武将になったよな。
無口で笑わない、アレどっかの奥方も似た人いたな

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 11:21:01.69 ID:2tH6ChET
むしろ笑わない、喋らないが景勝の個性では

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 15:11:08.10 ID:76TCJBE1
武田に煽てられてちーと浮かれただけで直江が軒猿放ってきて謀殺だもんな
そらあんな仮面みたいな顔になるわ

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 20:39:37.54 ID:OVJRMD8l
景勝ってなにが凄いのか良くわからんよな。
上杉の家督取ったのはまあ、凄いけど、それ以降の活躍がさっぱり。関ヶ原の逸話も直江関係ばかりだし。
毛利輝元は凡庸とされてたのが、最近見直されたり、と動きはあるが、景勝については特に毀誉褒貶もなく、
実体がよくわからん。

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 20:49:10.45 ID:wTVa8PRY
謙信以来の武張った上杉家のイメージを貫き通した事じゃないかな
まず極めて無口ってだけじゃなく家臣の前で笑ったの1回って時点で
尋常じゃない精神力の持ち主
関ヶ原で負けて家康に降伏したとはいえ夏の陣で家康に評価されてたり
本人は先代コンプレックスで必死に虚勢張っただけなのかも知れないが
結果的には家のイメージを保って一目置かれた訳だし

備の形成途中で

2017年11月04日 13:34

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/04(土) 12:35:39.58 ID:KfZh2TsO
慶長5年、長尾(上杉)景勝が出羽国最上義光を攻めた時、上山城に里見越後(義近)の子、民部太夫が
籠っているのを、上杉方である山中城主・横田式部穂村造酒允と言う者が両人大将分にて、人数
300ばかり押し寄せ、山向に陣を取り、それぞれ馬より降りて備の形成を初めた。

この様子を詳しく見ていた里見は、馬武者を選りすぐってこれに突撃を行い、横田・穂村の兵は
尽く敗北した。

横田はこの突撃の時、未だ馬に乗っていたためそのまま馬を駆けて落ち延びた。
穂村は馬から降りており、再び乗ろうとした時馬が付きかね手間を掛けている間に、敵が重なり来て
討ち死にしたという。

(士談)

備の形成途中で攻められるとやはり弱いのだな



240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/04(土) 12:42:09.96 ID:Anj7CIbq
城攻めにきてるのに300っていうのも気になるが、こんなしょうもない負け方は初めて見た

上杉景勝の厳格

2017年10月14日 17:08

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/14(土) 17:04:08.52 ID:s8Qod1gV
上杉景勝という人は、豪邁肝大の大将にて、その軍陣に臨むや、先陣において既に交戦し、
矢弾雨のごとく降り喚声天地を振動するばかりであっても、身は幕中に有りて普段と変わらず睡眠
を取り、雷の如きいびきを上げるのを常としたという。

彼が豊臣秀吉に臣従し上洛した時、数百人の一行は完全に黙し咳の声すら聞こえず、只人馬の足音を
聞くのみであった。
その折、富士川を渡る際、船が小さく人多く、中流に至ってほとんど沈没せんとした。
この時景勝怒り、舷頭に立って鞭を挙げて一揮すれば、衆皆躍り上がるように水に飛び込み泳ぎ、
よって無難に渡ることを得たという。

景勝の厳格なることかくの如きなれば、彼の生涯において、只一度の外その喜悦の色を見たことが
無いという。
ある時、上杉家に一匹の猿があり、たまたま景勝が脱いでおいていた巾帽をかぶって逃げ、庭の木に
上り景勝に向かって3度頷いた。
彼はこれを見てにっこりと微笑んだ。
これ実に、左右の近臣達ですら、始めとも終わりとも、景勝の笑顔を見た一生の内ただ一度の事であったという。

(今古雅談)



こんな道の付け方が

2017年08月14日 16:44

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/13(日) 23:30:22.10 ID:xXH2oUX+
大阪の陣において、堀尾山城守(忠晴)の寄せ口の備えを、上杉景勝の家臣である杉原常陸介(水原親憲)が
見て

「堀尾の備えは後ろから崩れるだろう。裏崩れというやつだ。」

そう言ったが、果たしで後ろのほうが騒ぎ立てた。
これは、杉原が堀尾の備えにおいて、馬を近くに引き付けていたのを見て、もし馬に鉄砲が当たれば
馬は必ず跳ね合う事から、これで騒ぎが広がり裏崩れに成る、と見て摂ったのである。

その後、堀尾の持ち口を上杉景勝に渡して陣替えをするように、との将軍からの命があった。
この時、景勝方より軍使を以て、堀尾方に「道を作って陣地を渡すように」との申し入れがあった。
これによって堀尾方は道を作って陣地を明け渡したが、景勝の軍勢はこれを見て罵倒した

「上方衆は、弓矢の事に巧無き者達だ!こんな道の付け方があるものか!」

そう声高に言い放ったが、堀尾の衆にこれについて返答をするものは居なかった。
これは、堀尾の者たちは通常のように、往来しやすいよう道を作ったのであるが、
景勝方の人々にとってこの場合の道とは、敵の攻撃から身を守り、負傷者が出ないように
作られるもの、だったからである。

(士談)



42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/14(月) 01:04:03.19 ID:vlaYX3eR
家康も嘆いていたけど、たった15年戦がなかっただけで
その辺のノウハウはボロボロになるもんなんだなぁ…

44 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/08/14(月) 21:02:50.32 ID:TDVqvO2W
>>41
我ら上方の者に取って織田家に仕えし頃より道は攻め、武功を挙げるために造る物でござる。
謙信公の頃より武門の誉れ高き上杉家において道は敵やその矢弾より身を守り命を惜しむ為に造る物であったとは知りませなんだ。
此度は越後の軍法を学ぶ良い勉強になり申した。子々孫々までこの軍法の違いを伝え奉らん。


位言い返せる古参の兵は居らんかったのかね…

姜沆の上杉景勝評

2017年06月18日 16:08

884 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/06/18(日) 10:39:22.75 ID:tmlaj5Mn
 [上杉]景勝なる者がいる。今は、越後[中]納言と称している。代々、越前・[越]中・[越]後の三州の地に居[城]した。
賊魁(秀吉)が信長に代わるに及び、景勝は、戦いに敗れ、服従を請うた。
秀吉は、出羽、佐渡に景勝を移して[その地を]授け、越後の地を奪って掘里久太郎(堀久太郎)に与えた。
景勝の心は平らかではあり得ず、越後の民もやはり景勝が主であることを望んだ。
 家康が秀吉に代わるに及んで、肥前守(前田利長)と家康が不仲になった。
景勝は、勝手に自分の領地に帰り、肥前守と兵を連ね越後の地を攻奪しようとした。
久太郎は大いに懼れ、数(しばしば)家康に報告した。
家康も根本[の関東]を景勝が襲うかと気にし、数手紙を送って京にもどるように勧めたが、景勝は従わなかった。

<倭人は、みなこう言ったという。
「景勝が、本当に肥前守と兵を連ねて、直ちに家康の根本を擣くとしよう。
家康が戻って[根本である関東を]救援しようとすれば、多分、清正等がいっせいに立ち上がるであろうから、
西京(である大坂)は、自分の所有では無くなるであろう。帰って救わなければ根本がまず敗れ、腹背に敵を受けることになろう。
景勝らが動けば成功しないはずはないが、惜しいかな、景勝らは[愚]鈍・懦[劣]である。必ずや、自ら奮発しようとしないであろう」>
(看羊録)

姜沆(カンハン、きょうこう)の上杉景勝


勇者の思い

2017年06月17日 10:00

岡左内   
37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/16(金) 20:39:16.21 ID:5Rqe2+am
関ヶ原の役の時、奥州において上杉景勝伊達政宗取合の時分、景勝勢は福島より二里出て
政宗と戦った。

この時。北川図書という者、元は蒲生氏郷に仕えていたが、氏郷没後は景勝に属し、
景勝より桑折の地を与えられ、その頃郡図書と名乗っていた。

図書はこの合戦で討ち死にを覚悟し、朋輩である岡左内に頼んだ。
「私の陣羽織を息子の久兵衛に遺したいので、討ち死にの際にはこれを遣わしてほしい。」

左内は受け取り、後に図書の子・久兵衛にこれを渡した。図書は討ち死にしたのだ。

この事について、後の人は様々に評した。
ある人
「同じく戦場に臨んで、我も人も必死をこそ旨とすべきなのに、どうして自分が必ず生き残ると思い、
人の形見を請け取るなど有るべきだろうか?」

これに対して、傍らに居た人が言った
「そうではない。互いに言い交わし話し交わした心友の間で、その人を見込んでこう言っているのに、
請け取らないということが有るだろうか?
自分が必ず生き残るから、受け取って渡す、と言っているのではない。彼の形見を我が預かり、
我が形見を彼に預けるというのは、勇者の思いを込めた行為というべきではないだろうか。」

この岡左内という人物は、後に越後と称し、類まれなる勇士で、数度の戦功を成した。
この時の戦でも、川中で伊達政宗と太刀打ちして、自分の猩々皮の羽織に、政宗の太刀傷二ヶ所まで
受けたと言われている。
彼も蒲生氏郷に属して、後に景勝に仕え、その経歴もあって北川図書と親しんでいたとか。

北川図書の子孫は、今も加賀太守(前田家)の家中にあるという。

(士談)


直江兼続は断じて反対し

2017年05月20日 16:21

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/20(土) 02:31:20.56 ID:WjJkd30J
上杉家が30万石に減封させられた時、老臣の中には、「この際、30万石の丈に
見合った家臣の数に減らすべき」とのことを提案した者もいたが、

直江兼続は断じて反対し、「この如き際には、人ほど大切なものはない。一同が
協力して復興を計るべきである」として、

新季奉公の牢人たちで去る者は追わなかったが、旧来の家臣は1人も去ることを
許さなかったということである。

――『直江兼続伝(天雷子続)』


家康、結城秀康を上杉景勝の押さえに

2017年04月05日 21:36

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/05(水) 18:15:13.56 ID:pFrrz65W
家康、結城秀康上杉景勝の押さえに


いわゆる小山評定の後(家康は)本多佐渡守(正信)一人を側に置き
結城秀康公を召し寄せて
「会津への進発はしばらくやめることにする。
 近いうちに(自分は)上方へ進発することになるので
 上杉の押さえとして差し置かれるべきなのは
 そこもとよりほかにはいないからだ。左様に心得ておくように」
と仰せられた。

秀康公は佐渡守の方へ向かって
「これは思ってもみない仰せで困惑しています。
 今度の上方においての御一戦は大事なことなので、御味方諸大名衆と
 申し合わせ、御先手で軍忠に励む覚悟でおりましたのに。
 上杉家の押さえとして御留守に差し置かれるべしとの仰せには
 たとえお気持ちに背くことになっても何度でもお断り申し上げる覚悟です。
 どうか御免下さりますように」
と申し上げられると、内府公(家康)は
「総じて今度のような大事の合戦に思い立って
 他国へ向かうことがあるとき、留守居の将を選んで残し置くのは
 弓矢の古法である。その上今度我らへ味方する諸大名からは
 証人などを出させてその人質を請け取ることになるのだから
 江戸、小田原の両城の内に差し置くほかなかろう。されば
 皆の安堵のため、確かな留守居でなくてはいけないと思ったから
 その方に申し付けるのだぞ」
と仰せられた。

秀康公が重ねて
「皆の安堵のため確かな留守居を差し置かれたいと思われるのでしたら
 幸い松平下野守(忠吉、秀忠同母弟)がいるのですから
 あの者を差し置かれればいいではないですか。
 私の方を上方へお供仕りますように」
と申し上げられると、内府公はいささか機嫌を悪くして
「皆の安堵のためだけなら、その方が申すごとく下野守でも済むが
 我らが出陣の後に何かが起こらないとは言い切れず
 しかも上杉景勝は我らの留守を見合わせて
 大軍を率いてくることさえあるかもしれないのに
 若輩の下野守で事は済むと思うのか。
 昨夜佐渡守も聞いていたが、その方は
 『今度上方の退治で上る時は、会津の上杉は手強き相手なので
  確かな押さえを差し置くのがもっともです』
 と申したのに、その手強き景勝の押さえをするのを嫌がるのか」
と仰せられた。

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/05(水) 18:15:35.53 ID:pFrrz65W
秀康公はお困りになられ
「今度の上方の御一戦にまみえることができないのは残念に思いますが
 ただいまの仰せの上は何も申し上げようもなく、畏れながら斯様に
 お請け申し上げるからには、出陣の後も御安心めされますように。
 白河の関よりこちらへ景勝などに顔出しさせることはありません」
と申し上げられたので
佐渡守は承って秀康公のお側へ這い寄り、お膝を叩いて
「さてもさても殿はよくもお申し上げになられた」
と申し、涙を流し泣いていると内府公も涙ぐまれた。

(家康は)御納戸衆を召し寄せ、御具足一領を取り寄せて
御前に置き、秀康公に
「この具足は我の若き時より何度も陣場へ着ていったのだが
 一度も敵に押付(鎧の背の上部)を見せることもなく、秘蔵の具足であるが
 今度大事な留守を申し付けるのでその方へ譲り渡す」
と言って秀康公へ下賜されたという。
 

――『落穂集』


「松川合戦 政宗福島城を攻める事」および東国太平記について

2016年11月15日 21:29

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 22:40:54.84 ID:GNgMpSHW
東国太平記巻之十五
「松川合戦 政宗福島城を攻める事」
政宗は度々上杉に打ち負かされていたため無念この上なかった。
前年七月に江戸から中沢主税が(家康によって)遣わされ「この度は景勝と合戦することはならん」
と堅く制止されていたのだが、慶長六年四月十七日、片倉景綱、伊達成実、国分盛重、
伊達阿波守、屋代景頼、茂庭綱元、高野壱岐守、桑折宗長など二万五千を引率し、白石城に到着した。
ふたたび福島城を攻めようと、誰か物見に遣わそうとしたところ
伊達成実が名乗りいで、十騎ばかり鉄砲三十挺ばかり引き連れて、上杉の守る福島城についた。
成実は、城から十三町(1.4km)手前に味方を残し、自分だけ城の堀端に乗り付け大音声で
「私は政宗の物見の者である。政宗様から城中の将兵の名を尋ねて参れ、と命令を受けた。
名のある者は名乗りいでよ」と呼ばわった。

上杉方の士卒は「なんという剛の者だ」と感心し、矢鉄砲で狙うのをやめた。
すると櫓に上杉の将である本庄繁長、その息子の充長、甘糟景継、杉原親憲、
百川(芋川?)縫殿助、岩井信能、鉄上野が各々名乗りいでたため、伊達成実は静々と帰っていった。

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 22:42:37.80 ID:GNgMpSHW
政宗は二十一日、白石城を立ち、小山というところに出陣。
上杉方は杉原、甘粕、本庄、岩井、鉄上野、岡野左内ら六千騎で福島城を立ったが
途中で商人と高野聖が来て「伊達の軍勢は三万ばかり、これでは小勢すぎます」
と言ってきたため、はたして防戦すべきか、こちらから間の松川を渡るべきか
と論争になったが、伊達軍が川を途中まで渡った時に奇襲しようということになった。
しかし岡野は、杉原や宇佐美が制止したにもかかわらず、四百ばかりで川を渡り、
向こう側の河原にいた伊達軍に大音声で名乗りいでて突入していった。
岡野の奮戦に激怒した政宗はただ一騎で岡野と太刀を交えたが
岡野に太刀を折られ、二、三間(4,5m)後退。
岡野は具足から葉武者だろうと思い、追撃せず戻っていった。
その後上杉勢は伊達勢と交戦するも多勢に無勢で敗色が濃くなり福島城に逃亡。
政宗は後を追ったが、青木新兵衛の十文字槍により兜の三ヶ月を折られてしまい、
政宗はいそいで引き返した。
逃げる伊達軍を、福島城から出撃した本庄繁長が二千余で追い、隈川で散々に打ちすえ
伊達軍二百余を討ち取った。
その頃、会津にいた上杉景勝は、政宗が小山に出陣したという報告を受けたため、
八千騎の軍勢で援軍にかけつけた。
それを知った政宗はわずか十騎で、取るものもとりあえず白石城へ逃げていった。
この際、伊達軍は本庄親子・杉原をはじめとした上杉勢により首級七百余を討ち取られ、
辺り一面、伊達の人馬の死骸や着物や槍や刀で足の踏み場もなくなってしまった。
上杉軍のこのたび得た伊達方の首は千二百九十余で、上杉家の手柄は天下の美譚として語られた。

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 22:44:09.26 ID:GNgMpSHW
・・・と「東国太平記」には書かれているが、この「東国太平記」、
江戸後期の本屋松沢老泉によれば「仙台藩に版木が買い取られ絶版になったと聞いている」そうだ。
また、紀州藩の漢学者、榊原篁洲によれば
「北越太平記、東国太平記は紀州の宇佐美竹隠というのが名前を隠して書いたものであり、
宇佐美駿河守(定満)の末裔なので、東国太平記で宇佐美を褒めまくっている」
とのこと

要は宇佐美流軍学を流行させるために上杉家、宇佐美ageのデタラメを軍記に
書いたということらしい。
政宗にとっては子孫や考証家のおかげで恥ずかしい話が広がらずにすんだいい話ってことで。



368 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/01(木) 12:12:38.69 ID:J2ItkSTT
>>323
この当時の伊達成実は石川昭光の預かりだったはず
国分盛重は既に佐竹氏に出奔している

理由としては、成実が伊達氏の分家で一番の家柄で石高も一番高かったのだが
外様大名だった叔父の昭光が、奥州仕置で改易されて、伊達家中に入ることになって
成実の伊達分家が、二番目の家柄になった。また、伊達領が秀吉によって3分の1に
減らされたのに昭光の石川家を抱えることになって家臣団が困窮した。
会津討伐で一番手柄をかけた伊達分家と、
政宗からすれば、人取橋で、敵側にいたとはいえ調停役を引き受けて伊達家を救った
昭光の石川家が対立。
伊達分家が伊達宗家に謀反を起こして、成実の配下は撃ち取られるも
成実は政宗も昭光も一族なので、謀反を起こさず出奔した。
政宗とは歳も近く兄弟のように育った国分盛重は、伊達宗家から国分氏に養子に行くも
大崎合戦の後、家中がまとまらず、政宗が会津を秀吉から取り上げられると
国分領のすぐ近くの北目に軍事拠点を置いたことから、国分家の家臣団は
危機感を覚え反抗する。政宗は、苦肉の策として、盛重に忠節を誓う面々と
ライバルではあるが、盛重の妹正室の佐竹氏に行くことをすすめ
盛重に反抗する国分一族を討ち果たし、国分氏の城であった千代に城を移す。
もちろん、盛重の長男は手厚く保護して、古内氏の養子となり
後の仙台藩の名家老古内主膳になる。

徳川家康は、大御所と称した頃に成っても

2016年05月04日 18:49

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 10:18:36.50 ID:Qmu0dwwF
徳川家康は、大御所と称した頃に成っても、驕るような所のない人であった。

彼は、武田信玄の息女である賢性院と対面する時でも、いつも上段より下っていた。
また鷹狩の折、尾州桶狭間、今川義元討ち死にの場を通ると、必ず下馬した。

またこんな事があった。家康が鷹狩をしている時、そこで駿府法体寺の所化(修行僧)三人連れに
巡りあった。その時家康は

「青々とした一寸の若い松の中に、棟梁の姿あり。聖人も後世恐るべし。彼らもいかなる知識にかならん。」

そう言って下馬した。
また上杉中納言(景勝)に逢う時も、必ず輿より下りて、礼儀厚かったという。

(新東鑑)



690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 10:27:08.84 ID:Huu4TCor
そういえばハプスブルク家の神聖ローマ皇帝は
徒歩で道を急いでいる神父と行きあった時には下馬して馬を貸す慣習があったとか

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 11:01:00.55 ID:5MLnzDQF
>>689
実態はどうあれ、こういう話が美談として語り継がれる日本っていい国だと思う

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 13:27:26.73 ID:03ukgPKl
>>689
前半の信玄の娘や義元、未来の聖人かもってのは分かるんだけど
景勝に対して礼儀をとるってのはなんで?五大老仲間だからか?

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 13:42:07.74 ID:wIDEY8AF
>>692
関係あるかわからないけど、家康は武田信玄に圧迫されてアップアップしていた頃、
上杉謙信からの応援にかなり感謝していたらしい。

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 17:08:17.31 ID:Y02hg7ib
天下をくれた張本人の一人だからじゃないの?

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 17:52:41.09 ID:vPmXlx37
江戸時代後期の本だからなぁ、既にいろんな逸話がごっちゃに
なってるんじゃないかな

景勝を礼遇したという話なら秀康が定番だしね。

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 00:12:52.88 ID:iWWPHNT/
成田「輿から下りて挨拶?」

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 02:20:24.37 ID:sbF/5fzx
俺なら撫で切りにしてる

それに比べて、豊守は

2016年02月15日 13:50

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 12:00:49.33 ID:bOA+vfct
上杉謙信が越中に出陣していた頃、春日山城は留守役として甥の景勝(この頃はまだ喜平次顕景と名乗っていた)に守らせ
謙信の筆頭家老山吉豊守を年若い甥っ子に補佐役として付けていた。
しかし武田信玄が謙信の留守中に信濃から春日山に攻めいるつもりであると噂を聞いた謙信は酷く心配し
春日山城へ書状を何度もしたためた。

「喜平次へ
心のこもった再報が届いてとても嬉しかったです。
細かな気遣いが本当に心に染み入りました。
それに比べて、豊守は私がこんなに心配しているというのに、一度も手紙を寄越さないんですよ。
喜平次は何度も連絡をくれるので、本当にありがたく思います」

この書状を見た喜平次は慌てて豊守に書状を書かせたらしく
この後謙信から「喜平次のおかげで豊守から手紙が来たよ!ありがとう!」という書状が届いている。



153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 14:12:22.47 ID:CF6lY/QG
上杉謙信オカン説がはかどるな

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 14:55:44.45 ID:ff+fCwcY
>>152
かわいいw

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 15:20:22.31 ID:8kGl8Ch8
軍神謙信返信に安心

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 15:30:29.28 ID:ByMwmBOM
恋文かよ

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 16:01:54.84 ID:2IrJApji
言い難い事は子供を使って言わせる。まさにどっかのオカン

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 20:48:23.95 ID:jVA8ZplL
謙信のいい話やん。ほっこりした。

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 00:34:21.48 ID:lkeFR4n3
補佐役で喜平次と一緒に在城してるのに
謙信に喜平次宛で愚痴を書かれた山吉豊守の決まりの悪い話かな思って

狩野秀治の事

2016年02月07日 19:17

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/07(日) 11:37:11.36 ID:uIIEMHG4
逸話というか書状ネタ

上杉家の家臣、狩野新介秀治。
元々は尼子勝久の家臣だったといい、何がどう流れてきたのか越中神保氏の家臣狩野氏の養子となり、謙信に仕えたらしい。
御館の乱では謙信の馬廻り衆として景勝とともに春日山籠城組の一人だったらしいのだが
この時何をしたのか分からないが景勝に超気に入られる。
謙信時代の重臣達や景勝の直臣衆である上田衆すらも差し置いて万事取り次ぎを任される執政扱いになった。
秀治は景勝より20歳ばかり年上だったということだが清貧で控えめな人となりだったらしく、
なかなか重臣達が言うこと聞かなくて苦労していた青年当主景勝はそんなところが気に入っていたのかもしれない。
兼続が直江の跡取り娘お船の入り婿になると上杉家は秀治と兼続の二大執政状態になる。
秀治はしかし、根なし草である自分が景勝様に大層気に入られ重用されている事態を憂い、嫉妬を呼ぶだろうと考え
春日山に粗末な庵を結んで質素に暮らした。
景勝が秀治には内政も外交も重要な仕事をたくさん任せているので、秀治がそのような粗末な姿では上杉の面子に関わる、
屋敷を受け取れ、せめて兼続と同禄受け取れと再三命じても固辞し続け、ボロ小屋に住み続けた。
上杉家の筆頭家老なのにボロ屋住み(兼続は後輩なので秀治の方が順位上)
ある日、春日山に嵐が来た。
他のきちんと普請された屋敷はなんともなかったようだがお粗末な庵の狩野宅には被害が出たらしく
景勝から「一昨日風にて其元家損し候て、時分と云、造作笑止に候」と書状が届いた。
景勝は他にも秀治に「お前の家マジ狭い」とネタにしているのでもうちょっとマトモな家に住めよ!ということだろう。

なお生活環境悪かったのかはたまた過労かしばらく後に秀治は病死し、景勝は二度と秀治の代わりとなる者を作らなかった。



105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/07(日) 13:10:44.24 ID:K/Hk/8cI
景勝が「笑止に候」と出しても想像できない

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/07(日) 13:14:55.43 ID:WI66Vt05
三条の大面城を貰ってるみたいだね

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/07(日) 13:34:46.02 ID:Kd2+emmN
当時の「笑止」って気の毒に思うってことやで

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/07(日) 14:40:36.45 ID:K/Hk/8cI
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6891.html
そうだったのか、前にも自分と同じ勘違いしてた人がいたようだ
確かに「笑いが止まる」だから字面的には気の毒の意味になるな

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/07(日) 17:36:57.83 ID:a4eBAu+p
昨日風であなたの家が壊れたと聞いたんだけどほんと酷い家ですねぐらいの意味に読んだ

>>106
秀治はほぼ春日山城詰めだったと思われるので
城貰ってもそこでは殆ど暮らしてないかと

生活の状態が悪いのでこのようなのである。ああ。

2016年01月16日 17:57

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/15(金) 21:54:51.20 ID:CiWguw9k
 殿下秀吉公、上杉中納言景勝と御和談が調い、中納言は一万騎で上洛された。
もっとも御和談のうえであるので常の行列であるとはいえど、ことのほか厳重でありましたところ、殿下は密に粟田口まで御覧なされ、
ひどく上杉家の行列の備えを誉められました。分けても景勝の乗り物が多人数で取り巻きなさる勢いは誠に鉄城のようだと、
かえずがえす上杉家の軍法に大いに興味を持ちなされました。

 それにひきかえ、いかに治世であるといっても、大小名方は日雇いの人数を行列に遣わすのは余りのことである。
これというも大小名方は前と違って、生活の状態が悪いのでこのようなのである。ああ。
(本阿弥行状記)

大名行列って日雇いばっかだったんですけど、戦国以前では全員軍人だったのですかね



217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/21(木) 10:33:30.17 ID:1LtlXlv+
>>192
景勝の馬廻り衆が8000人だから(秀吉時代だからもうちょっと増えてるかも)
それに直江の馬廻りとか奉行衆の連れてる家臣とか足したら日雇い無しで普通に一万じゃね
米沢時代になったら大分減るかもしれんけど景勝の馬廻衆は譜代(謙信の分と実父の分含む)だからなあ

敵よりは景勝を恐れたのである

2016年01月06日 12:48

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/05(火) 23:38:20.91 ID:LZRsqKCk
大坂陣の時、信貴野口にて、先手の仕寄を見物しようと上杉景勝の近習で
非番の同輩らが忍んでやって来た。

その後で、景勝が巡見のために一騎でそこにやって来た。これを見た近習らは
咎められるかもしれないと恐れて、鉄砲の玉が降るほど飛んでくる竹盾の外へ
出て、景勝から身を隠した。

敵よりは景勝を恐れたのである。

――『北越太平記』



878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/05(火) 23:50:05.53 ID:nMWthXiW
当たらなければどうという事もない

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 01:22:18.84 ID:L/qhRbOX
上杉にとっては大坂の陣など子供の石合戦に等しいとかなんとか

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 18:35:19.60 ID:UJPgkuoq
当時の火縄銃の有効射程かなり短いよね50mだったかな。
多分あたっても小さな石が当たったくらいかなと。

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 18:46:16.52 ID:WlNmolV7
口径によってだが現代の9mmパラからショットガン並みの威力があったわけで球形弾だからといってそこまで威力減衰はしない

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 23:17:14.56 ID:XM3CD45w
>>883
狙って当てられる距離と殺傷力を保つ距離は違いますので
50メートルってのは狙って当たる距離でしょうね

士卒たちが景勝を恐れる勢いは

2015年12月31日 20:23

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/30(水) 19:42:28.73 ID:r+hYBIID
上杉景勝が富士川を船で渡った時、供の者たちが乗りすぎたせいで、
川の中央で船が沈みそうになった。

この時、景勝が怒って杖を振り上げると、それと同時に皆々が川に
飛び込んで、泳ぎ渡った。このため、船は沈まずに無事であった。

士卒たちが景勝を恐れる勢いは、この類だったのである。

――『北越太平記』



831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/30(水) 21:16:18.82 ID:cS0Z8B2g
ともに泳ごうという武将は誰がいるんだろ

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/30(水) 21:38:00.72 ID:ZnahLR22
長尾政景「よし、父であるわしが」

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/30(水) 22:05:41.41 ID:7X/69COl
この後、寂しくなった景勝もドボンして一緒に泳いだという。
上杉主従の固い絆の前には不粋な船など無用の物でしかなかったのである。

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/30(水) 22:10:33.13 ID:LSRfg72C
兼続「船は無粋だから不要と申したか」

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 00:07:08.08 ID:iHgA7DWx
鞭声シクシク兵河を渡る

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 01:22:14.48 ID:bTASrGu+
>>833
ワロタ
日本人には「みんな飛び込みましたよ」って伝えるジョーク思い出した