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上杉朝興の遺言

2013年01月18日 20:04

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/18(金) 18:09:52.04 ID:yadoiax/
武州の国司、扇谷家の上杉朝興は度々の合戦には負け、江戸城も落とされて
おもしろくなかったが力は及ばず、何とかして北条氏綱を亡ぼしたいものだと、
骨髄に徹して思い暮らしていた。

しかし、重病に侵された朝興は瀕死の状態になってしまう。
朝興は子息朝定、三田・萩谷以下の老臣を呼び出して遺言を残した。

「わしの命は尽きようとしている。汝等はしかと遺言を聞いて背いてはならない。
わしは氏綱と合戦すること十四度に及ぶが、一度も勝つことはできなかった。

この事が未来永劫の恥辱に思うのだ。この恥辱は妄執ともなるであろう。
よいか、わしが死んだら仏事作善よりもまずは氏綱を退治して国家を平定せよ!」

天文六年四月下旬、朝興は朝の露と消えた。上杉朝定は十三歳で家督を継ぎ、
父の遺言に従って仏事作善をかえりみずに、まず武州深大寺の古要害を取り立てて
城とし、氏綱を退治せんと支度を始めた。

しかし、この動きを知った氏綱が出兵したために河越城の戦いが勃発し、
朝定は敗北して松山城へ走った。

――『異本小田原記』




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山内上杉憲房の死

2013年01月12日 19:54

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/11(金) 23:43:30.75 ID:KjivEowv
江戸合戦の折、北条氏綱は太田資高らの内応を得て扇谷上杉朝興を破り、
江戸城を手中に収めた。敗れた朝興は河越城に立て籠もった。

そこで、山内上杉憲房は鉢形城へ入って人数を遣わし、
河越衆と力を合わせて江戸城に夜討ちをかけ、氏綱より奪還せんとしたのだが、
運が尽きてしまったのだろう、高上庄平居の陣で重病に侵された。

色々な養生が尽くされ、宮々社々に限りなく願が立てられたのではあるが、
定められた業報が来たのであろう、平癒することなく大永五年四月十六日、
五十九歳で亡くなった。

誠にこの人は関東長者であり、諸軍もよく親しみ、政道に私は無かった。
憲房の死を敵に知られれば押し寄せられてかなわないとして、葬儀は密かに
執り行われ、人々は悲しみを隠して声を呑んだ。

その後、京都より御意を受け、古河公方高基に憲房の実子憲政はいまだ
幼年なので家督は務まらないからと頼み、養子をもらって憲広(憲寛)とし、

管領と定めて長尾・大石・小幡らの長者たちが名代として関東の成敗を司った。
これによって諸家の支配はもとのように、領国もまた平穏無事に治まった。

――『異本小田原記』