FC2ブログ

信長一味の家康が遠き輝虎を

2019年10月29日 16:52

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 00:31:24.89 ID:DgcMBnn4
元亀三年正月二十八日、越中の椎名肥前守(康胤)方より(武田信玄へ)注進があった。その内容は、

『去年三月、徳川家康が越後の上杉輝虎(謙信)に二人の使いを以て起請を頼み入れ、謙信もこれを喜び、
家康に対し無沙汰あるまじと誓言したと言うことを確かに承った。家康より謙信への進物は唐の頭一頭、
輝虎は御返礼に月毛馬一疋を進呈した。

この事について長尾家の衆はこのように言っている。今回のこと、定めて家康が味方が信長だけでは頼り少ないと
考えた故であり、輝虎にとって喜ばしいのは、家康を旗下にするという事で、北国は言うに及ばず、都までの
信長の威光が振るわれている国々に於いても、謙信の弓箭が強いからこそ信長一味の家康が遠き輝虎を
頼んだのだと評判に成るであろう、と。

そういう事であるので、今年は謙信が信州に出てくることは無いであろう。』

という注進であった。

(甲陽軍鑑)

武田家に報告された上杉徳川同盟についての情報



287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/29(火) 06:46:32.36 ID:MTRMYDbr
「唐の頭に本多平八」ってやつやな
スポンサーサイト



臼井城攻防戦

2019年10月09日 17:22

259 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/10/09(水) 12:53:26.60 ID:KpTeOAT+
臼井城攻防戦

永禄6年の事
総州河西郡臼井の城は千葉介親胤の家老。原上総介胤繁が守っていた。
彼の父治郎座衛門胤高は、豊後守光胤の子で、その前は生実の城に居たが、発性院足利義明に追い落とされ、
弟中無少輔賢胤と共に臼井城へ逃げ籠もり、そのまま現在の上野介に至った。既にかなり長く居城としていた。

そこへ越後勢が押し寄せてきた。上野介はすぐに、千葉、佐倉へ救援を頼んだ。しかし人並み外れて
攻め足の早い輝虎であるので、臼井城を素通りして一気に千葉城へ向かうかもしれず、その時は
こちらが後詰と成る事も考えられ、ともかく攻めと守り両用の構えで待機することとし、とりあえずは
椎津主水正、椎名孫九郎に五百の兵を差し添えて臼井の城に残し、自身は加勢として大和田の砦へ
向かおうとした所、大和田より派手な赤一色の具足を付けた、松田孫太郎秀郷が、手兵百五十余人を
連れて駆けつけた。

この孫太郎は松田筑前守(康定か)の次男で、左衛門佐村秀の叔父にあたり、坂東に隠れない
剛の者で、常に主具足を好んで着け、金の鹿の角を打った兜を用い、数度の合戦で遅れを取ったことがなく、
その働きは「北条家の赤鬼」の異名で恐れられている歴戦の勇士であった。

四月二十日、月のまだ残る早朝の薄明かりの中に法螺貝の音が聞こえ、やがて陣鉦を打ち鳴らし、
上杉勢の攻撃が始まった。この城門へ向かって上がる鬨の声に、城中の武者である
臼井(白井)四郎左衛門入道浄三がまず軍配を取った。

この臼井浄三は、千葉より加勢に来た勇士で、最近まで武者修行のため上方に赴き、三好日向守(長逸)
の元にあったが、たまたま下向して臼井城に在り、よく城中の兵を押さえて好機を待った。

寄せ手の二陣は本庄越前守繁長で、第一陣と合流して一挙に城門を抜こうと攻めかかった。
臼井浄三は、頃は良しと弓鉄砲でこれに応戦し、城門をさっと開くと鬨の声を上げて突き出した。
先頭を切ったのは城主上野介の長男・原式部少輔胤成と、高城下総守胤長で、寄せ手の
長尾新五郎、富永主税介らと、たちまち火花を散らす攻め合いとなった。

そこに輝虎の下知で沼田の藤田能登守信吉、三上兵庫介正秋、石毛平馬持之、森下三河守が加わり、
柵を壊し堀を越えて、外曲輪七、八間ばかりを引き崩して城中に攻め入ろうとした。
これを見た原上総介の家老・佐久間主水正と、赤具足の松田孫太郎が飛び出してこれを支えた。
松田は大長刀を打ち振り、またたく間に沼田衆六、七人をなぎ倒し。今度は樫の棒に持ち替えて
騎馬武者めがけて打ちかかり、散々に暴れまわった。
負けじと寄せ手の本庄越前が横合いから打って出て、松田の仲間の橋本伝左衛門、陰山新四郎といった
歴戦の勇士を討ち取り、残兵を城中へ追い戻した。

そうしている内に曇っていた空より雨が降り始め、夕暮れとともに酷くなったため、寄せ手は一旦引き上げて
陣を張った。その夜は夜通し風雨が強く夜戦はなかったが、夜明けとともに風雨が収まると、上杉勢は
再び鬨の声を発して攻めかけた。しかし臼井浄三は再び音無しの構えでそれに応えさせなかった。

260 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/10/09(水) 12:55:53.73 ID:KpTeOAT+
輝虎は不審に思い「恥を知る侍も多くいる。城内の人数もそう少ないわけではないのに、
何も反応がないのは昨夕の合戦に疲れたのか、もしくは風雨が気に入らず黙っているのだろうか。」
そう疑問を発した所、海野隼人正が進み出て言った
「城中に臼井入道浄三という軍師が居ると聞いております。何か策が有ってのことではないでしょうか。」
これに輝虎は
「頃を見て打って出るつもりであろうが、空堀に柵を巡らせただけのこのような平城、何するものぞ。
一もみに揉み潰せ!」と下知した。

これを受けて長尾新五郎顕長が馬を乗り回して配下を指揮し、城戸、逆茂木を打ち壊し、えいえいと
喚声を挙げて無理矢理に攻め込み、たちまち敵二百ほどを討ち取った。もう少しで大手が破られそうに
なった時、思いもかけず城壁が崩れ落ち、寄せ手の雑兵八、九十人がその下敷きと成って死んだ。
「さては、やはり策か」と考えた輝虎は、直ぐに引き上げの貝を吹かせて退こうとすると、城中より
松田孫太郎を先頭にどっと騎馬武者が打って出て、上杉勢の背後より討ちかかった。
中でも松田は黒馬に黒地の旗指物、筋金の違い打の馬印を掲げ、より一層真っ赤な具足が目立ち、
赤鬼が暴れこんできたようであった。続いて原式部少輔が、隅赤の指物に十曜紋の旗をなびかせ、
兵四、五百を引き連れ攻め込んできた。

上杉勢の中からは北条丹後守(高広)が引き換えして踏みとどまり、これを迎え撃った。続いて
新発田因幡守(重家)も、金の福禄寿の前立の兜に白綾の幌をかけ、手兵七百騎を円陣に作り、
追撃してくる臼井勢を斜めに横切って後続を断った上、大手の城戸口を破る構えを見せた。
これを知った赤鬼松田は、原式部少輔と分かれて後退し、新発田の七百騎に手勢とともに突っ込んだ。
しかし大勢に押されて百余人を討たれ、やむなく原の勢とともに城中へ入った。

ここで、今が引き上げ時と見た輝虎は、これ以上戦わず上州へ帰陣した。

この時、赤鬼松田孫太郎の敵ながら衆に優れた見事な働きを、輝虎は高台から見て感じ入った。
北条家に於いてもこれを知り、氏政より感状が与えられ、相州田島に二千貫の加増が有った。

(関八州古戦録)



261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/09(水) 14:06:03.70 ID:9t5CcVx+
軍師は白井じゃなくて臼井なのか

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/09(水) 15:11:55.95 ID:KpTeOAT+
>>261
手元にある関八州古戦録には「臼井」に成ってますね。臼井(白井)と書いておくべきだったか

かくして輝虎は行きがけの駄賃であると

2019年10月06日 15:58

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/06(日) 12:51:03.20 ID:XoVewkF3
群馬郡高崎の城主、和田兵衛太夫の弟である和田喜兵衛は、昔の名を小膳といって、若い頃より
上杉輝虎に仕えていたが、ある時彼より、兄・兵衛太夫が甲府の武田信玄に内応して、深谷、倉加野、
高山などと語らって不意に箕輪を乗っ取ろうと企てていると、密使を以て輝虎の近習で、朋輩でも
あった小野伝助に知らせた。そして
「このような状況であるので、人数を少々向けて頂きたい。あとは自分が手引して、謀反人は
追い出します。」と伝えた。

上杉輝虎は小勢で箕輪に向かっていたが、この事を知るとその足で高崎城へと向かった。
ところがその途中で、これを知らせ、高崎城に居るはずの和田喜兵衛に出会った。
彼は輝虎に謝罪した

「謀反のことは自分の聞き違いであり、それで使いを出してしまったが、そのことが露見して
城にも居られず逃亡してきました。」

そうしてこの鳥川で輝虎に出会ったのだという。この旨を伝えられると、輝虎は以ての外の
怒り様で

「このような未熟な内通で出馬を促すとな何事だ!」

と、同行した小野伝助もろとも、和田喜兵衛を切り捨てた。
しかし輝虎は

「この上は、聞き間違いであったと言って厩橋に戻るのも後日の笑い草と成る。まんざら
火のない所に煙が立つわけでもあるまい。小勢ではあるが、いっそこのまま高崎城を
一攻めに攻めてそれから考えることとしよう。」
と考え、まっしぐらに高崎城へ向かった。

到着すると輝虎は自身鑓を取って大手門へ突っ込み、続く直江実継、大関親益、永井尚光と
いった家来たちも負けじと駆け込んだ。
高崎城の人々は訳が解らずも迎え撃ったが、一つ二つと城門を破られた。
城主和田兵衛太夫も剛の者であったから、自ら鑓を取って暴れまわった。
そのうちに輝虎は、「今日のところは無勢でもあり、兵も将も疲れ果てているから」と
引き上げを命じた。

かくして輝虎は行きがけの駄賃であると、郭外に放火し、早々と厩橋へ帰っていった。

(関八州古戦録)

さすが軍神である。



488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/06(日) 14:33:53.95 ID:BXDj4gj9
こんなのに毎年のように荒らされまくったのに、確実に領土を広げていった北条はすごいな…

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/06(日) 16:59:34.48 ID:mFgpvsYZ
>>487
キチガイすぎるw

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/06(日) 17:31:41.42 ID:P8JqbZOT
>>488
むしろ上杉内で争いが絶えなかったから北条は領土を広げられたのでは?

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/06(日) 17:45:15.24 ID:sptkHPlz
>>487
今日はこのぐらいにしといたる

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/06(日) 20:21:42.73 ID:nRmofFnC
>>491
いやー実在するんですねw

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/07(月) 07:31:52.16 ID:3tpm9qeb
>>487
いや小野さんは斬る必要なくない?

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/07(月) 17:48:45.46 ID:R+Bv9ZF6
>>493
そこら辺の理不尽さも含めて北斗の拳ライクで良い

身の毛がよだつほど輝虎を恐ろしいと

2019年10月04日 17:34

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/04(金) 10:52:23.96 ID:YX5u5dct
永禄7年(1564)、北関東の佐竹、宇都宮に合わせて、多賀谷、益子、真壁、笠間、小宅、茂木、久下田の
諸将は連署を以て上杉輝虎(謙信)に、「この際小田氏治讃岐入道天庵を討つべし」との申し入れがあった。
小田天庵は、先に黒子表で大敗した後、小田原の北条氏康と合体し、府中の多気守国、水戸の江戸道房、
総州の千葉利胤、守谷の相馬治胤と組んで旗を上げようとしていた。
小田家の武力は衰えたとは言え、右大将頼朝以来の名家であり、兵法に長け家人に剛勇な者が多く、
まだ油断できない故、今のうちに叩くべきだというのである。

輝虎は先に言ったように闊達な武士であり、すぐにこれを引き受けて、長尾一党の新発田、柿崎、山本寺、
色部、中条などの面々と八千騎を率いて越山し、夜を日についで、4月27日には小田天庵の領分、
真壁郡山王堂に到着した。ここは山が高く、崖下に南北四町ほどの深田があり、その小川を隔てて
東に四方三十町ほどの広野がある、そこを最適と見て輝虎は陣を敷いた。そして土地の国侍を招いて
尋ねた

「この辺りに名うての侍があるか。」

「この先、北に十四町ばかり行った所に三浦党の末裔という一団がおります。」と答えた、
それが平塚山城入道自省で、小田天庵旗下の平塚、菅谷、飯塚、久松と言った四天王に並ぶ者であった。

「随分と頑固な侍で、もし夜討ちでもされたら危なく、御用心が必要です。」

そう忠告されると、輝虎はからからと笑い
「その男なら四年前、氏康と不和に成った所を、結城、佐竹の手合に攻められ、きたなくも黒子表の
大崩と言われた負け戦の張本人であるぞ。

むしろこちらから朝駆けして焼き討ちをし、首を取ってもいいし、今夜でも向こうが夜討ちをかけるなら、
それこそ天の助け、迎え撃って一人も残さずなで斬りにして死人の山を築いてやろう。」

そう豪語したので、国侍達は呆れて物が言えないどころか、身の毛がよだつほど輝虎を恐ろしいと思った。

(関八州古戦録)



249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 11:41:01.69 ID:McdmRo5l
謙信が力量を認める人ってあまり居なそう

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 11:50:12.14 ID:qu2SVqsq
>>249
臼井城で白井胤治にこっぴどく負けたときは、白井胤治を評価するのではなく、
戦いの記録自体を抹消するような人だからなぁ。

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 12:29:27.70 ID:G98VYBxx
そんな人おったんやな
なんていうか謙信て信玄といい勝負やな、昔とは違った意味で色々とw

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 15:31:54.55 ID:RQ1NmQev
>>250
蓑輪諒「最低の軍師」のモデルか
臼井と白井でややこしい

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/08(火) 03:42:28.50 ID:uGdeufcI
>>250
いや臼井城攻めは北条側の史料も戦死者数などが過大で捏造の疑いあるとされてるし、上杉側も上田衆を中心に感状を出しているため一定の戦果はあったと認識している。また直接被害を被ったのは先手の房州勢。
上杉軍は撤退したわけだから北条軍の勝利となるだろうけど、よく言われるような最強の軍師が謙信に圧勝!みたいなのは如何にも江戸時代の軍記ものっぽくて実像と少し違うと思う。
だから研究家もまだ臼井城の戦いに関してはまだ検討の余地があるとしている

籠沢采女の出奔と帰還

2019年10月03日 16:35

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/03(木) 13:33:39.89 ID:EPkCNTiA
弘治三年五月七日、長尾景虎は川中島での武田信玄との対峙より兵を納め(第三次川中島合戦)、
高井郡小菅山の元隆寺へ引き上げ、鳥居峠を超えて平井城へ入った。

そのころ北条氏康は武州岩槻の城を取り囲んでいたが、城主太田美濃入道資正が良く防いで
一歩も近づけず、氏康は諦めて兵を退き、帰途、東上野の沼田城、厩橋城を小当りすると、
そのまま小田原に帰った。

景虎はその機を待っていたように又しても金山、桐生筋を攻めんと利根川の東へ進出した。
この辺りは路が険しく駆け引きが自由にできず、その攻略に二度も三度も失敗していた。
景虎は先ず自身で数騎を引き連れ物見に出かけた。しかし坂道を六、七里行った所で桐生の
城兵に発見された、城兵は彼等を鉄砲で仕留めようと、選り抜きの射手を物陰に伏せさせ
待った。

景虎は何も知らず、例の半首(はんつぶり)の兜に連銭葦毛の馬に乗り、一騎当千の武者である
鬼小島弥太郎、鬼山吉孫次郎、宇野左馬之介、織部入道の主従五騎で静々と打たせてきたが、
くだんの伏兵が居るところから5、六町の所まで来た時に、突然一人の武者が横道より走って来て
景虎の前に平伏した。

はっと気がついて景虎が馬を引き止めて見ると、越後普代の家人、籠沢采女正景次であった。
彼は景虎に向かい

「この辺りは足場が悪く、不案内な者が動ける所ではありません。殿の敵を恐れぬ度胸は昔から
見上げたものだと思っていましたが、このような事は百害あって一利なしと思い、不詳籠沢采女正景次、
まかり出ました。」

そう断ってから、自身のこれまでの行状を語った。それによると、彼は三年前自ら降人となって
桐生の城中へ入った。しかし今日の城中の謀議を伺ったところ、鉄砲を以て殿を打ち取る相談が
まとまり、現にこの七、八町先にその伏兵が待ち構えていると話し、

「今日はじめて、降人として恥を忍んでいたかいが有りました。こんな嬉しいことはありません。」
そう、涙で袖を濡らしながら語った。これを聞いて景虎も感涙にむせびつつ、すぐに指揮して
三人の伏兵を討ち取った。

そもそもこの籠沢采女正は若年より景虎の膝下に仕え、律儀で機敏な若者であった。またその先祖は
治承の頃越後国鳥坂城で勇猛をうたわれた長尾太郎資永の家来・籠沢左衛門尉景俊の末で、二心を
抱くような武士ではなかったのだが、景虎が関東へ出陣した折に逐電した。何故そのような事をしたのか
理由がわからずに居たのだが、今日はじめてその謎が解けたのである。

ただし、これまで景虎は、采女正は生まれついての忠義者で、何か仔細があるのだろうと思っていた。
それが証明されたのであり、まことに景虎が情に厚く、人を見る目の確かなことが解った。

(関八州古戦録)



245 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/10/03(木) 22:01:33.57 ID:GTNKmASQ
この先行ってはならぬで打ち取っちゃうのは景虎らしいよな

一度引き返して軍を率いたとなれば、伏兵が引き上げてるだろうとも思えたし

まあ間違った推理かな

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/03(木) 22:59:43.91 ID:vRMi2KoX
天才だから、なのかな

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/04(金) 00:51:07.48 ID:ZQ9PeFTA
とんでもない
ヨーロッパの騎士とかでもこういう向こう見ずなのは居る

信玄の最期

2019年06月18日 16:53

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 16:18:05.19 ID:XHJKzrW+
元亀3年(1572)12月、信玄は遠州表へ働く。信長・家康はかねて一身となっていたので、尾州よ
り家康へ加勢があった。信玄は井の谷へ押したところを、家康衆が足軽を掛けて合戦を始めて攻め戦った
ところ、家康衆と尾州の加勢衆は敗軍した。これを遠州三方ヶ原の一戦という。

「掘田の郷へ敵をやり過ごして合戦すれば家康の勝ちであったろうに、家康衆を遣って合戦を仕掛けて負
けになった」との批判があった。

その明年正月11日、信玄は三河の野田の城を攻め落とそうとして不慮に鉄砲に当たり、この傷を色々と
養生したけれども叶わず、ついに逝去した。(後略。>>113

――『北条記』


天正元年(1573)正月7日に信玄公は遠州刑部を御立ちになった。(中略)その後、信玄公は御患い
が悪くいらっしゃり、2月16日に御馬を入れた。

家康家・信長家の誰人の沙汰か、信玄公が野田の城を攻めようとして、鉄砲に当たり死に給うと沙汰仕る。
皆虚言である。およそ武士の取り合いでは、弱き方より必ず嘘を申す。越後の輝虎との御取り合いでは、
敵味方ともに、嘘を申した沙汰はついになかった。

たとえ鉄砲に信玄公が御当たりであっても、それが弓箭の瑕(名折れ)になることはない。長尾謙信(上
杉謙信)は武州忍の城において堀の端に馬を立てておられたのを、城の内衆は輝虎と見て鉄砲を寄せて、
いかほど撃ってもついに当たらなかった。その鉄砲に謙信が当たれば、結果強き大将と誉めはすれども悪
くは申すまい。

すでに信玄公が信州川中島において謙信に勝ち給う時、謙信が名馬の放生月毛を乗り捨てられた。これを
長坂長閑(光堅)が取って乗り、「流石の謙信も馬を捨てられた」と長閑が申せば、信玄公は大いに怒り
なされ、「馬がくだびれたならば乗り換えても構わないことだ。そして乗り換えた時に合戦が負けとなれ
ば、中間どもは馬を捨てて逃げることだろうに、それを輝虎が弱いとは一段と無穿鑿な申しようだ!」と、
長坂長閑を悪しく仰せられたのは、3年目に聞こえたことである。

輝虎が川中島合戦の時、和田喜兵衛が一騎で供を仕って退いた。そうして越後へ到着して馬から降りると
同時に、喜兵衛を謙信が手討ちに致されたのを信玄公は聞こし召して、「さては謙信ほどの侍も後れてし
まっては、ちと取り慌てることもあるのだろう。武士は誉めるも謗るも、踏まえ所をもって沙汰するもの
である」と信玄公は仰せられたのである。

――『甲陽軍鑑』



177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/19(水) 12:22:42.43 ID:Er11dkC4
>>175
たんに長閑を悪く言いたいだけ

と、信玄公は仰せ渡されたのである

2019年05月17日 17:40

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 18:22:20.14 ID:ZU05vU4M
百年以来、本当の合戦はさほどない。ただし両度の本当の合戦があるというのは永禄4年酉(1561)の
信州川中島合戦と遠州三方ヶ原合戦、この両度合戦である。

(中略)

しかしながら、(三方ヶ原の戦いは)武田衆ばかりの手柄にあらず。家康衆も信玄公の衆に劣らぬ手柄なり。
その子細は良く働いて勝負を仕り、足並み揃えて逃げないからである。

武田信玄は)「どのように剛の武士が『手柄を仕りたい』と申しても、見崩れで逃げる敵が相手ではこの
ような手柄にはなるまい」とありて、これに付けても家康を「日本で若手の弓取り」と定められ、信玄公が
仰せになられたことには、

「長尾謙信(上杉謙信)と家康の両人は弓取りである。

信長が近江箕作の城を攻め落としたのも家康被官どもの働き故。北近江姉川合戦も信長は3万5千の人数で
浅井備前守(長政)3千の人数に切り立てられ尽く負けたというのに、家康は5千の人数、浅井備前に加勢
した越前の朝倉衆は1万5千だったが、それを家康衆は姉川を押し渡り、無二に掛かって切り崩し、信長の
利運にさせたのは家康が弓矢を強く取る故である。

金ヶ崎発向(金ヶ崎の退き口)の時も浅井が心変わりしたのを聞いた信長は味方を捨て、岐阜へ早々に引き
入った。そのようなところで家康が若狭の敵を切りひしいで、押付を打たれないように致した(信長が追撃
されないようにした)のは家康25,6歳の時分であるが、その時からこのように仕ったのである」

と、信玄公は御先の侍大将衆に仰せ渡されたのである。件の如し。

――『甲陽軍鑑』



927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 20:09:45.63 ID:F9IKVgUD
どういう理屈だw

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 17:43:16.02 ID:CnyBPqKP
野戦という、総大将が知恵を絞った陣形で勝負が決せられる戦さしか認めない!
という軍学脳かと思った

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/17(金) 19:41:33.27 ID:sfWLld3+
足並みがそろってないことをそろってることよりageてるの草

信玄公御時代諸大将之事

2019年05月12日 16:48

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/11(土) 19:21:19.83 ID:HFu6A9lg
信玄公御時代諸大将之事

御歳増す次第の前に、まずこれを書く。もし反故落散して他国の人がこれを見て、我等の仏尊し(自分
の信じるものだけが尊い)と思われるように書いては、武士の道ではないのである。弓矢の儀はただ敵
味方ともに飾りなく有り様に申してこそ武道である。飾りは女人、あるいは商人の法なり。一事を飾れ
ば、万事の事実がすべて偽りとなるのだ。天鑑私なし。

一、永正12年乙亥の歳に平氏康公誕生。これは小田原の北条氏康のことなり。

一、大永元年辛巳歳、源信玄晴信公誕生。これは甲州武田信玄のことなり。本卦豊。

一、享禄3年庚寅歳、上杉謙信輝虎公誕生。これは越後長尾景虎のことなり。公方光源院義輝公より
  “輝”の字を下されて輝虎と号す。本卦履。

一、天文3年甲午歳、平信長公誕生。これは尾州織田上総守のことなり。本卦蠱。

一、天文7年戊戌歳、北条氏康公の御子氏政公誕生。(原注:一本に「此三人(氏政・氏真・義信)
  本卦の所きれて見えず」とある)

一、同年、今川義元公の御子氏真公誕生。

一、同年、武田信玄公の御子義信公誕生。

一、天文11年壬寅歳、徳川家康公誕生。これは三州松平蔵人公のことなり。本卦大壮。

一、天文15年丙午歳、武田勝頼公誕生。これは信玄四番目の御子、信州伊奈四郎の御事なり。信州
  諏訪頼茂(頼重)の跡目である故、武田相伝の“信”の字を避け給う。信玄公の御跡も15年の間、
  子息太郎竹王信勝が21歳までの陣代と称して仮のことであった故、武田の御旗はついに持たせ
  なさらず、ましてや信玄公尊崇の(原注:孫子)御幡も譲らせ給わず、もともと伊奈にいらした
  時の大文字の旗であった。ただし片時でも屋形の御名代であるからと、諏訪法性の御甲だけは許
  して差し上げなされたのである。

――『甲陽軍鑑』

「きれて見えず」は小幡景憲の筆記だと言われてますね



故に良将はかならず軍を監督し

2019年03月10日 21:33

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/10(日) 09:15:15.13 ID:7JNEY6op
上杉謙信が自ら兵一万余りを率いて越中に入り、柿崎和泉(景家)に命じて、別将を副えて
辺塞を攻めさせた。ここから引き取る時、敵将が出てきたためこれと戦った。
この時柿崎の従兵である大川十郎は、左の腕を射抜かれたその矢も抜かず、取った頸を掲げて
柿崎の前に来た。ところがこの時、柿崎は大川を怒鳴りつけた

「お前は元より頸一つを取りかねるような者ではない!どうしてこの程度のことを誉れとするのか。
お前はまた、矢一筋くらいで弱るような者ではない。どうしてそんな事を勇だと思っているのか!?
一歩でも進むべきところを、知らないのか!」

そう辱めた。このためこの戦で士卒頸は斬捨てとなり、柿崎の軍は大いに苦戦した。

首級を置いて闘撃を先とする時は、功名の先後が転倒してしまう恐れがある。これは武士が怨みを
含む端緒となる。だからといって、ただこの恐れを無いようにした場合は、戦いに集中すべき場所を
引いて闘撃を止め、首級を貪ろうとする場合もある。こちらは兵勢が挫かれる基となる。

これ故に、良将はかならず軍を監督しこれを正すのである。

(武将感状記)



「敵に塩を送る」異説

2019年03月08日 16:01

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/08(金) 08:55:46.57 ID:fDyNMKVL
北条と今川は相計って、遠州、武州の塩商人を留め、甲斐信濃に塩を入れず、これを以て
武田信玄の兵を苦しめんとした。

上杉謙信はこれを聞いて、領国の駅路に命じて、塩を信玄の元に運ばせ、
「我は兵を以って戦いを決せん。塩を以って敵を窮せしむることをせじ。」
そう言い送り、信玄はこれを受け取った。

これは上杉謙信の義にして、かつ勇なる所であると雖も、必ず深慮遠謀があったと見るべきだろう。
信玄は謙信より先輩であり、北条、今川の地を掠め奪う者は先ず信玄であった。
これ故に、信玄を仇とすること、六国の秦に対する如きものであった。

信玄がもし危機に至れば、その次は必ず謙信である。信玄が諸牧と戦って兵が久しく解けなければ、
その間に北国を一円に撃ち従えて勢い盛大となれば、東海の国々がたとえ力を合わせ志を一つにしたとしても
恐るるに足りない。謙信はそう考えたのだと言えるだろう。

(武将感状記)



775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/08(金) 18:11:03.52 ID:YVaPWxdX
>>772
でも謙信は関東で遊び疲れてから
北陸でも勢力伸ばそうとしたよね
ちょっと遅かったよね

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 08:25:30.39 ID:SrppcBwW
柴田みてもわかるように北國勢は冬は領国に籠るから春夏に掠奪が出来なければジリ貧だよ

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 11:25:04.75 ID:Y8BGkzOR
>>776
冬に領国へ籠るとは限らないでしょ
謙信なんか通行できるうちに越山して夏に越後へ戻るし

謙信の武勇などいか計りの

2018年11月26日 17:45

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/26(月) 17:40:01.92 ID:KK3kfl/4
佐々陸奥守成政が越中の守護職であった時、彼は越中外山に在城していた。

何保という所に、菊池入道と号す者があり、彼は元は長尾(上杉)に属し、現在は佐々に随心して、我が子を
成政の傍に使わし、常に外山に出仕して、越中の昔のことなどを物語した。

ある時、酒宴たけなわで成政も興に乗じている時分、常にもてはやしていたナマズの盃を取り出し、これに
酒をつがせ飲むと、次に菊池入道へさした。入道三度これをかたむけ成政へ返し、腰に挿していた脇差、これは
波平であったが、それを捧げ

「慮外ながら献上仕る。これはかつて長尾(上杉)謙信より受納した物ですが、どうか謙信にあやかり給うように。」

そう言ったところ、成政は大いに怒った

「何事をあやかるというのだ!?謙信の武勇など、いか計りの事があるというのか!」

入道を怒鳴りつけ、脇差を投げ捨てた。入道はこれに

「武勇のことではありません。謙信は九ヶ国の管領でありました。ですので、果報いみじくましますように、との事です。
この入道も老耄して、酒興故にこのような事をしました。この脇差はどうぞ御小姓衆へ。」

と、酌に立った小姓に遣わした。これを見て成政も機嫌が直り、「小姓どもへのあやかり物としては丁度いい。」と
言って笑った。

(士談)



475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/26(月) 19:12:47.85 ID:Yfv/hYw6
佐々成政はほんと状況読めないし小物だし…
なぜ没落したのかがよくわかる。

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/26(月) 19:35:45.98 ID:bNDBxVrQ
>>474
切れた上司に対するフォローがすげえw即興でこんな返しができるようになりたい…。

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/27(火) 15:13:01.25 ID:T+B7ABYS
魚住城攻めで勝家と大喧嘩したんだっけ

三越同盟

2018年11月21日 16:45

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/20(火) 20:07:43.88 ID:nigKKgzI
(姉川の戦い勝利後)

神君(徳川家康)はこれより先に今川氏真の媒介で越後の上杉謙信と音信を通じられたが、この年7月下旬
に至り、遠江秋葉の別当・加納坊光幡とその婿・熊谷小次郎直包を使者として越後に遣わされ、これからは

ますます仰せ合わされたいとの旨で、浜松御城の図・太刀・馬代金10両を贈られた。謙信は大いに喜んで
「今の世に“海道第一の弓取”と伝えている徳川が、私めの武略を慕って使節を送られた事は謙信にとって
これ以上ない大慶である」として両使に引出物若干を与え、徳川家の老臣に書簡で返礼した。

その文によると、

 追って真鳥羽(矢羽に用いる鷲の羽)20尻を、これまで通りに任せて差し遣します。誠に些少の至り
 ではありますが、未だ申し通じてはおりませんので、一筆啓達します。さて、家康よりよくよく使僧を
 遣わされ、これ以上の大慶はありません。これからは無二に申し合わせたいとの心中ですのでよろしく
 取り成しを頼み入ります。なお子細は口上させます。恐々。

   8月2日  謙信在判

     松平左近丞殿

甲斐の信玄方へは翌年に至り越中の椎名肥前守からこれを告げ知らされたので信玄は大いに嘆き苦しんだ。

――『改正三河後風土記(甲陽軍鑑・武徳編年集成)』


日本国に大いなるうつけたる者三人あり

2018年10月04日 21:35

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/04(木) 09:12:34.05 ID:mCJF7Uvf
上杉家の侍が織田家の城下に来た。これは直江方(景綱か)より、織田方へ謀の使いとして
派遣された者であった。しかしこの使者は柴田勝家によって捕らえられ、拷問にかけられた。

しかし使者は拷問の中、高らかに笑った。目付けの者これを見て「何故笑うのか」と問うた。

「日本国に大いなるうつけたる者三人あり、よってこれを笑うのだ。」

「うつけたる者とは誰だ。」

「うつけた知音(友人)を知らずして、このような大事を申し通ずるうつけが一人、
またそんな事も辨えず、使いに頼まれたうつけ者が一人、
また味方になるものを敵にするうつけ者一人。
この三人の大馬鹿者が寄り合い、その中で私一人が目壺に入ったのは、おおいなる仕合せと存じ、
これを笑うのだ。」

勝家はこの報告を受けると信長に申し上げた上で、この使いの者を免し様々に馳走し、褒美を取らせ
彼を援助した。

(名将言行録)

上杉からの使者が怪しいので拷問にかけてみたが、「友好国の使者にこういうことするの?上杉を敵に
回す気!?」という内容を言われて待遇を変えた、という所でしょうか。


信繁も一騎で勝負

2018年08月23日 17:56

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 15:28:47.99 ID:9WnDNqbg
信玄の弟・武田左馬助信繁は70騎で後詰の陣より馳せ来たり、信玄が手負い申されたと聞いて
その仇を討ち止め申すべしと、仇を探された。

その時、謙信は川の向こう岸へ着かれ、左馬助は大音を揚げて「そこへ引き取り申されるのは
大将・政虎(謙信)と見受けた! 私は武田左馬助である! 兄の当の敵なので勝負なされよ!」

と申された。謙信は乗り戻すと「私は政虎の郎等・甘粕近江守(景持)と申す者である! 貴殿の
敵には不足であろう!」と申し捨てて、川岸に乗り上がった。

左馬助は主従11騎で打ち濡れて川を渡り申した。謙信は川岸に馬を立てて待ち受けた。

左馬助は左右を睨み「敵は一騎であるので信繁も一騎で勝負する! 皆々後ろへ下がるように!」
と命じて真っ先に渡ったところを、政虎は河へ馬を乗り入れて左馬助と切り結んだ。

左馬助は運尽きて左の高股を打ち落とされ、川へ逆様に落ち入った。

謙信は向こう岸に乗り上がり、宇佐美駿河守(定行)が7百余勢で備える中へ馳せ入り申された。

(原注:一説に武田左馬助信繁を討ち取ったのは村上義清であるという。上杉家では謙信が直に
左馬助を討ち取ったと申し伝えている)

――『川中島五箇度合戦之次第』



48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 16:45:33.30 ID:kogqW73A
>>47
>私は政虎の郎等・甘粕近江守(景持)と申す者である! 貴殿の
>敵には不足であろう!
ず、ずるい…wまあ兵法にずるいも何もないけど。

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/25(土) 20:59:44.46 ID:lVWyYuvh
>>47
あの上杉謙信が私は別人の下郎ですよとかしれっと虚言で誤魔化そうとするとか
話として面白すぎる
まぁ11対1を1対1に持ち込んだ上に勝って悠々退却したといえば武略ではあるのだが
…あるのだが草生える

真田幸隆、危機一髪

2018年08月21日 19:42

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/21(火) 15:28:31.73 ID:e2ACyTJw
甲斐・越後の軍兵たちは互いに名乗り合い、火花を散らして戦い申した。

その中で真田弾正幸隆は傷を負って引き退くところを、上杉方の高梨源五郎頼治が名乗りを
上げ、真田とむずと組んで押し伏せ、鎧の脇板の隙間を二刀刺し申した。

そのうちに保科弾正(正俊)が取って返し、「真田討たすな兵ども!」と言って戦い申した。

真田の家人・細屋彦助は下に合わせ高梨源五郎の草摺の外れ、膝の上より討ち落とし、主の
敵を取った。これより保科を“槍弾正”と申したという。

保科もその時に越後方の大将に取り籠められ、すでに危うく見えたところを後詰の侍の海野・
望月・矢代・須田・井上・根津・河田・仁科ら9人の侍がこれを見て「保科討たすな人々!」

と大勢で一度に鬨を揚げ追い散らし、越後の本陣近きところまで切り掛かり申した。そこを
越後の後詰の陣所より斎藤下野守朝信・柿崎和泉守景家・北条安芸守・毛利上総介・

大関安房守ら3千余勢が鬨の声を揚げて切り出て、追い返し押し戻し戦い申した。敵・味方
の手負い・死人、算を乱して数を知らず。

謙信も紺地に日の丸、白地に“毘”の字の旗2本を押し立てて原の町に備を立てられた。

――『川中島五箇度合戦之次第』

真田幸隆、危機一髪



46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 09:19:26.55 ID:OFF1GAII
高梨頼治って
真田信繁の傅役の高梨内記の兄説があるようだけど
この逸話を見ると無理があるような

謙信は唯鬼神にて候

2018年08月20日 11:09

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/19(日) 20:26:30.58 ID:/lrM7d7Z
その合戦(八幡原の戦い)は時を移し、そのうちに晴信(武田信玄)の命で犀川に大綱を幾筋も
張り渡し、武田本陣の大勢はその綱に取り付いて向かいの岸に上がり、大野の蘆萩の茂る中の

細道より旗・指物を伏せて忍び出て、謙信(上杉謙信)の本陣へと鬨の声を上げて切り入った。
このため越後勢の謙信本陣は一度にどっと敗軍したので、武田方は勝ちに乗って追い打ちした。

晴信が勇み喜んで旗を進められたところに、大塚村に備を立て申していた越後勢の宇佐美駿河守
定行2千ほどの勢が横槍に突き掛かり、晴信本陣を御幣川へ追い入れた。

そこへ越後の侍・渡部越中守翔5百余勢が馳せ付けて晴信本陣へ切って掛かり、宇佐美駿河守と
揉み合い信玄本陣を立ち挟んで討ち取り申した。武田の人馬は河水に流れる輩、または討たれる
者と数知れず。謙信本陣勢も取って返し、晴信本陣を討ち取り申した。

越後方の上条弥五郎義春・長尾七郎・元井日向守・沼掃部・小田切治部・北条丹後守・山本寺
宮千代・青川十郎・安田掃部以下も政虎(謙信)同様に御幣川へ乗り込み、槍を合わせて

太刀打ち・高名をなした。その他手柄の侍は多く、また討死の者も多かった。信玄も30騎ほど
で川を渡り引き退いたところを、謙信は川中へ乗り込んで信玄を二太刀切り付け申した。

信玄も太刀を合わせて戦い申されたところで、近習の武田の侍たちが謙信を中に取り込めたが、
謙信は切り払って中々近付くこともできない様子であった。

そのうちに信玄と謙信は間切れ致して押し隔てられた。その時、謙信へ掛かった武田近習の侍
19人が切り付けられた。

謙信は人間の挙動ではなく、まさに鬼神であったという。
(謙信は、人間の挙動にてなく、唯鬼神にて候と申候。)

その折はまさか謙信とは知らず、甲州方では越後侍の荒川伊豆守(長実)であると取り沙汰され
ていた。後に政虎と分かり「討ち止めるべきものを、なんとも残念だ」と皆々が申したという。

信玄は御幣川を渡って生萱山土口を目指し、先陣と後陣がひとつになって敗軍した。甲州勢は
塩崎の方へ逃げる者もあり、また海津の城へ逃げ入る者もいた。

中条越前(藤資)は小荷駄を警固していたところへ、塩崎の百姓数千人がくり出して小荷駄を
奪うため、中条はこれを切り払い散々に戦った。

この時、上杉・武田の両軍は入り乱れて散々に戦ったので、敵・味方の手負い・死人は数知れず。
信玄は敗軍して土口と申す山へ退き申され、上杉勢は追い詰めて土口で甲州方数百人が討たれた。

――『川中島五箇度合戦之次第』

「あいつ人間じゃねえ!」と言わしめた上杉謙信の武勇


「虎の尾を履む。人を咥らう。凶。武人大君と成る」

2018年08月16日 20:12

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 02:06:10.22 ID:6gnDplDs
謙信(上杉謙信)は後奈良院の享禄3年(1530)庚寅正月21日、府内で誕生した。

はじめ謙信の御母君は受胎の折に夢幻ともなく、この際に8尺ほどの男が金色の甲冑を
帯びて矛を付き、光明光り輝く珠を持って現れた。男は曰く、

「我は毘沙門天王なり。この珠は明星なり」と仰せになって、母君の懐に珠を投げ入れ
なさった。これを見てより母君は懐妊したのである。

それから10ヶ月の間に様々な奇異の瑞相が多く、筮者が占うと甚だ吉だった。本卦は
天沢履の六三に当たった。その文に曰く、

「虎の尾を履む。人を咥らう。凶。武人大君と成る」
(過信から虎の尾を踏み虎に食われる。よって凶なり。卑しき武人が高貴な大君になる
ようなものである)

これに因んで幼名を“虎千代”と号した。虎千代殿はやがて成長して大きな志を持った。
見識と度量は世に優れ、孝行慈愛は寛大にして自然と仁心を備えた。

特に父母に孝行であったので、世の人はこぞって「凡人ではない」と言った。

――『北越太平記』



174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 10:18:46.81 ID:wruV9DLp
甲斐の虎 v.s. 越後の虎

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 18:38:27.90 ID:E6cH8wWy
戦国は鬼とか虎とか人外多すぎ問題

謙信の家臣って、歳食ってる奴多くね?

2018年07月10日 21:05

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 03:42:58.66 ID:o+BV0MVC
上杉謙信の家臣団といえば上杉二十五将などとも言われ著名な武将が多い。
そんな上杉家臣団を見ていて気付くことがないだろうか。

…あれ、謙信の家臣って、歳食ってる奴多くね?

そこで有名どころの生年と第四次川中島の時の年齢を上げてみる。

柿崎景家 1513年(48歳)
宇佐美定満 1489年(71歳)
色部勝長 1493年(68歳)
北条高広 1517年(44歳)
本庄実乃 1511年(50歳)
中条藤資 不明だが1494年には家督を継いでいた(70歳以上)
安田長秀 1516年(45歳)
直江景綱 1509年(52歳)

参考までに主な武田家臣の生年と年齢も。
山県昌景 1529年(32歳)
高坂虎綱 1527年(34歳)
内藤昌秀 1522年(39歳)
馬場信春 1515年(46歳)
山本勘助 1493年(68歳)
真田幸綱 1513年(48歳)
原虎胤 1497年(64歳)
小山田信茂 1539年(22歳)

またその子供も随分歳が離れているのが多い。長子と思しき人物との生年と年齢差も書いてみる。

色部勝長 ー 色部顕長 1549年(56歳)
安田長秀 ー 安田堅親 1557年(41歳)
中条藤資 ー 中条景資 1532年(40歳以上)
直江景綱 ー お船 1557年(48歳)

また柿崎景家の子柿崎晴家は生年不明だが1570年に人質に出された記録があり、この頃はまだ未成年だったとすると景家40歳頃の子供となる。



914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 14:31:47.68 ID:dSxs4i6+
安田長秀の末裔が言うには有重という子がいたらしい
親子ともに治部少輔を自称、母は長尾政景の妹、妹に安田堅親の室
因みに堅親は河田からの養子で有重の跡を継ぐ、兄が長親
他の者も親子同じ官名を自称して実名が表記されてないから混同されてんじゃね?

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 14:54:53.90 ID:dSxs4i6+
柿崎晴家は次子
長子祐家は天正元年越中朝日城攻めに名が見える
のち親子ともども誅殺されたのか討死、病死かは不明

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 15:12:04.41 ID:dSxs4i6+
大昔って大した娯楽がないから毎晩セックス三昧っていう暮らしだと勝手に想像しているんだが
子が生まれても女子だったり寒さで流産したりと跡継ぎが出来にくい土地柄だったのかしら

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 15:50:00.59 ID:oaqH4q4O
織田家部将の子どもの少なさ考えたら少なくとも身分ある武士がセックス三昧とはとても

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 19:23:27.63 ID:wjkq+BjH
戦国武将って、あちこち出張しているから、ゆっくり致す暇もなさそう。
特に、信長以降の天下人の部下は東奔西走しているからなあ。

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 21:42:18.89 ID:+Sn4NBhJ
あの時代は危険日(冷静に考えると変な言葉)とかわかってなかったんだろうし、それこそ運任せだったんじゃね。
戦があれば何ヶ月も帰ってこれないし、そら側室たくさんいても子供簡単にできないわな。

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 22:06:22.67 ID:2jNQiVdt
>>913
謙信の場合、一応父親と兄の代の家臣団をそのまま引き継いでいるので年齢高めなのは仕方ないかも。
家督継ぐ前に自分の家臣団を形成したような感じもないし、若手を大量抜擢とかもしてないようだし。
長子との年齢差はよく分らんが、、、謙信が遠征に引っ張りまわしすぎて作る暇もなかった?

越中魚津の蜃気楼 乾達婆城の事

2018年02月19日 17:52

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 19:10:30.83 ID:Z9pD70Ir
越中魚津の蜃気楼 乾達婆城の事



永禄7年(1564年)5月下旬より6月半ばに至り、本庄繁長柿崎景家を魁首として、
上杉謙信公は越中国に在馬した。

この折節、魚津の海上において貝の城が出来たのを見るといって、
浜辺には市のように多くの老若男女が集まり垣根を巡らしたようであった。

暑熱の時に属して、蛤がたむろして靄気を立てていた。
中華の書物で言われている蜃気楼とはこれであろう。

故老の説に曰く、

「蜃(シャコ貝の一種)は蛤の大きいやつだ。よく気を吐いて楼台を作る。南北海に多い。
 支那登州の海濤は、春夏の間に水面を遠くから眺めると、これ気がある。
 人馬の往来が絶え間ない城郭や市を彷彿とさせる。地元では海市と呼んでいる。
 西域でもこれに似た事があると伝え聞く。

 朝日が出始める時、紅輝天に映して楼門宮闕を現して、ちかく官人の出入りを見る。
 日が高く昇ると消滅する。しかしながら、肉眼の及ぼす幻みたいなもので実在はしない。
 これを乾達婆城と名づく。全て乾坤の間象を含む者、
 陰陽の二気を感じて変化の成行を計り知ることは出来ないという」


罪一等を減刑し、

2017年10月09日 21:19

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/08(日) 23:15:16.48 ID:vtU+lYlX
上杉謙信が刑罰を設けた時、第一に奪刀、第二に死罪、第三に所領没収、第四に侍身分の剥奪、
第五(不明)、第六に禁錮の六種類とした。

ある時、謙信配下の長尾右衛門佐という者が、その所行悪しきとして処罰を加えられ、
所領没収の刑を申し渡された。またこれにより、終身帯刀を禁じられた。
右衛門佐の親族はこの処分に大いに驚き哀訴した。
これを請けて謙信も、彼の先代に忠功有るを以って、罪一等を減刑し、特に双刀を許して
切腹を命じた。

(今古雅談)



292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/08(日) 23:56:00.51 ID:hCwvv1Sg
なんとなくだが当時の人にとっては奪刀の方が死罪よりキツい気がする

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/09(月) 14:13:02.70 ID:5R3wNeTf
命より名誉…。

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/09(月) 15:02:34.20 ID:tHmmBpae
名誉が無くなったら大抵の場合暮らしてけなくなって命もなくなるからな
だったら命を無くしてでも名誉くらい残しておこうという簡単な話

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 15:47:17.05 ID:gmnkmarz
>>294
Mine honor is my life; both grow in one.
Take honor from me, and my life is done.

って奴だ