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「続武家閑談」から「信玄対謙信伝之事」

2023年03月26日 18:52

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/25(土) 22:46:11.27 ID:hu1HyIr1
「続武家閑談」から「信玄対謙信伝之事」

謙信と信玄の取合の時分、謙信軍が境を越えてきた。
このとき信玄は一の手に若武者を、二の手に老功の武者をあて、川を前にして布陣した。
これを見た謙信は合戦にかかろうとはしなかった。
この理由だが、一の手の若武者は「老人の前で逃げ腰でいられようか」といよいよ励むだろうし
二の手の老功の武者は「若武者がこうも頑張っているのに劣っていられようか」と進むため、強兵となるからだという

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/25(土) 23:06:10.78 ID:hu1HyIr1
(続き)
また、信玄が北条と取合の時、北条常陸介の黄八幡の指物を拾ってきた。
(地黄八幡だから北条綱成だろう)
北条の勇猛で有名な常陸介が我が軍の勢いを恐れて指物を捨てて逃げた、と山県昌景をはじめ皆これを笑った。
信玄は「おそらく差し替えの指物を下人が落としたのだろう。
常陸介は隠れなき弓取である。これにあやかって誉を取れ」
とそのさしものを真田隠岐(真田信尹?)に賜った。
真田隠岐は其歳二十三歳であった。
この真意は、敵に怒りを含ませては無理な働きをさせてしまうからである。
常陸介も三千の大将であるので、より必死で戦うようなら難敵となるからだ。
北条家でも指物を落としたことで常陸介が嘲られていることだろうと落胆していたところに、信玄の批評を聞いたのでほっとした。
常陸介もこれを聞きおよび、よろこんで涙を流したという。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-497.html
武田信玄と、北条綱成の地黄八幡の旗・いい話


後の方は一応出ていたけど、真田昌幸に与えられたことになっていた



740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/26(日) 10:53:20.18 ID:AqAmt3K9
まだ真田宝物館に旗があるようだ
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「続武家閑談」から小田氏治と上杉謙信の合戦

2023年03月22日 19:31

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/21(火) 22:11:36.43 ID:U41itv3c
続武家閑談」から小田氏治上杉謙信の合戦

永禄二年(1559年)四月二十八日、常州信太郡小田城主、讃岐守氏治入道天庵と越後の上杉輝虎入道謙信が真壁部山王堂において合戦をした。
小田天庵は年来戦争に長けており、結城・佐竹・宇都宮をはじめ近辺の諸将どもが攻めあぐねたため
示し合わせて諸方から攻めたが、完全な勝利は得られなかった。
そこで謙信の使者が上州に来られたのを幸いとして諸将は謙信の出馬を乞い
「小田氏を退治してくだされば幕下に属する」と約束した。
謙信は早速同意されて「八幡出馬しむるべし」と自筆で短冊に書いて諸家の使者に授けた。
使者が昼夜行軍で返事を持参した時には、もう謙信の先手は宇都宮の氏家原にまで来ていた。
諸将は謙信の行軍が迅速なことに驚いた。
謙信は八千の軍で昼夜通し行軍し、四月二十八日の夜、山王堂に着陣し堂を本陣とした。
堂下の道と原との間は四町ほどの深泥であり、その向こうは三十町ほどの芦野であった。
小田天庵は二千ばかりの人数で居城よりうって出て筑輪川を渡り、背水の陣で深泥を前にして備えた。
辰の刻ごろに謙信の軍勢はしずしずと山王堂を降り、真一文字に深泥を越えて行った。
小田の先手は弓・鉄砲・槍・長刀で、打ち殺し、射殺し、突き倒ししたため謙信軍の手負、死人の人数は数知れなかった。
しかし越後勢は少しも怯まず、討たれた人馬を泥の中に埋めるように踏みつけ踏みつけし、ついに小田勢を原へ追い返した。
こうして申の刻までには小田は打ち負けて引き返した。
天庵は最前渡った筑輪川を乗馬にてわたり、居城に引き返そうとした。
しかしあまりに馬が疲れていたため、川上へ馬の頭を向ける、水を長い時間飲ませた。
越後勢は天庵を大将と見て、川端から矢や鉄砲玉を雨のように降らせたが天庵には当たらず、天庵は難なく川を渡り小田へ帰城した。
諸将は謙信の余りの迅速さと威厳を恐れ、城に引きこもっていたが、謙信が勝利ののちおいおいに参上して謝辞をのべた。
謙信は諸将たちを先手として小田城へ押し詰めた。
天庵は四、五日ほど籠城したが、大軍が名将の指揮によってとりまいて攻めてきているため、小田家老の信太鴨之介が
「防戦はもはや叶わないでしょう。
天庵様には藤沢の城へ退かれ、再起を図ってください。
それがしはこの城に残って切腹いたします」
と諫めたため天庵はひそかに退去し、鴨之助は自害した。
謙信は勝鬨を上げさせてそのまま上州に帰られた。
翌日、天庵は藤沢よりうち出て小田城を取り返し、元通りにした。
鴨之助はもともと宇都宮氏が持っていた坂戸城の城主であった。
近年小田方に攻め取られていたのを、鴨之助が切腹したのちは、小栗城にいた宇都宮家老の小宅三左衛門がすみやかに取り返し、宇都宮没落の時まで在住した。

続武家閑談」といっても
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4877.html
で紹介されている「常陽四戦記」の文章そのままだった

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/22(水) 12:58:52.19 ID:m4SjUIWQ
次の条に山王堂の戦いの追記があった

右の山王堂の一戦を、稲川石見という当時十八の真壁の侍が、戦場である芝野の上の明神山で見物していた。
両軍が攻めあっている間は戦場はしばしば煙霞のようになり、物の色がわからないほどであった。
戦いが終わると、霧がはれるように見えたという。

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/22(水) 12:58:52.19 ID:m4SjUIWQ
次の条に山王堂の戦いの追記があった

右の山王堂の一戦を、稲川石見という当時十八の真壁の侍が、戦場である芝野の上の明神山で見物していた。
両軍が攻めあっている間は戦場はしばしば煙霞のようになり、物の色がわからないほどであった。
戦いが終わると、霧がはれるように見えたという。


遠州御発向の御備定は

2023年01月24日 19:00

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/22(日) 16:37:30.54 ID:Uf3aPfmT
長尾輝虎は十年以前の辛酉に、信州川中島において大きく負け(永禄四年の第四次川中島合戦か)、
三千あまりも討たれた後は、此の方(武田方)より押し詰め、この頃では信玄自身が出馬するに及ばず、
高坂弾正が越後の内で働いても、さほど危ういことも無い。

北条氏康は当年(元亀二年)十月に他界した。去る巳の年(永禄十二年)の最中度々押し詰め、すでに
小田原に日帰にした。足柄、深澤まで信玄が攻め取り、関東は氏康に掠められていたが、その氏康を
信玄が掠め取ったのである。

また佐渡庄内、加賀、越中、能登、関東までもに、輝虎が押し出したが、その輝虎も先のように押し詰めた。

この上信長、家康の二人に信玄が勝てば、西国までも弓箭において心もとないことは無い。何故ならば、
四国、九州は安芸の毛利によって仕詰められていた所、信長が都に発向して、天下を持っていた三好を絶やし、
中国の毛利をも、父(正確には祖父)元就の死後とは言いながら、早くも少しずつ掠め取っているとの
沙汰が有るからだ。

東海一番の家康、五畿内、四国、中国、九州まで響き渡る信長、彼らを一つにして信玄一方を以て
勝利を得るならば、日本国中は沙汰にも及ばぬ義である。
当時は唐国までも、武田法性院信玄に並ぶ弓取りは有るまじく候と言われていた。

遠州御発向の御備定は、午年(元亀元年)の冬中に高坂弾正の所で七重に定まり、書き付けて信玄公の
御目にかけた。

仍って件の如し

甲陽軍鑑

武田信玄が西上を決断した際の、外部情勢についての認識について。



上杉謙信による席次争いの裁定

2023年01月15日 16:08

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/15(日) 00:04:03.76 ID:wbs1odIZ
武家閑談」より上杉謙信による席次争いの裁定

永禄三年三月(永禄四年閏三月?)、上杉謙信輝虎公が鶴岡八幡宮の神前で管領に任じられた。
関白近衛前久公が下向され、公方義輝よりは大和兵部少輔が上使であった。
その時、関東八州の大名・小名が列座した時に、千葉国胤(千葉邦胤は当時は幼児。父親の千葉胤富)と小山政種(小山政種は生まれる前。祖父の小山高朝)が席次争いした。
これを聞いた謙信公が
「千葉殿は関東八州諸士の上であるべきである。
また小山殿は関東八州諸士の下になるべきではない。」
と裁判したところ、事は静まった。
謙信は当意即妙の才知である、と天下の誉れとなった。



556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/15(日) 02:02:07.90 ID:9vgYVuhb
つまり…どう座ったの?

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/15(日) 08:10:46.60 ID:bAsuNukx
隣に並ばせたんじゃね

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/15(日) 08:38:50.88 ID:FKjG8Ito
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/小山高朝
永禄4年(1561年)、小田原城の戦いでは上杉謙信に味方し、上杉軍の一員として包囲戦に参じている。
しかし、謙信の関東管領就任式の際に千葉胤富に関東諸将の首位の座を奪われたことに不満を抱いたと言われており、直後に北条氏康と手を結んだために謙信の怒りを買い、
翌永禄5年(1562年)に再度関東入りした謙信に攻められて高朝は降伏した。

単に謙信が関東から出たら北条になびいただけかもしれないけど

そなたは固陋の頑夫であるな

2022年12月28日 19:21

518 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/12/27(火) 23:01:39.62 ID:xZUKIk8a
上杉謙信が関東攻めを行い、平井城を奪還した時のこと。
謙信は山内上杉家の家臣たちに使者を送り、こう伝えさせた。
「山内公(上杉憲政)は私を子とし、関東管領職を譲られた。それによって私も父のために平井城を取り返した。そなたたちも山内公に仕えていたのだから、そのまま私に仕えなさい」
長野業政は笑いながら言った。
「越後公(謙信)の功労は最も多い。後日そちらに赴いてお祝い申し上げよう。だが、家臣になることはできない」
使者がその内容を伝えると謙信は怒り、兵を以って攻めようとした。
すると、すでに謙信に降ってそばにいた太田資正がこう言った。
「業政は頑固な老翁で、常にこのような感じです。しかし、心は善良でわざわざ憎むべき者でもないです。明日必ずこちらに挨拶に来るでしょう。もし来なければ私が攻めて蹂躙します」

次の日、業政が平井城へ向かおうとしたところ、老臣たちはこれを諫めた。
業政は「死ぬのであれば謙信も道連れだ。憂うことはないぞ」と言い、そのまま平井城へ赴き、謙信に謁見した。
謙信は「そなたが昨日私の使者に向かって家臣になることはできないと言ったのは本当か」と聞いた。
すると業政はこう答えた。
「その通りです。父が子に家督を譲る際は、まず老臣に諮り、その後に天子あるいは将軍に告げてその許しを得るものです。ましてや管領職のようなものは室町将軍が任ずるものであり、父が私に譲るものでもなく、子も私から受け取ることはできません。しかし、山内家再興のためとあれば私はあなたの指揮に従い、先鋒を務めましょう」
それを聞いた謙信は笑いながら言った。
「資正の言うとおり、そなたは固陋の頑夫(わからずやでかたくなな男)であるな」
その後は宴会となり、宴会が終わった後に業政は箕輪へ帰り、謙信も軍を越後に還した。

長野記より



519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/28(水) 12:51:57.96 ID:6Yi16Vhc
>>518
なにいってんだこいつ

足軽大将の横田十郎兵衛が

2022年12月14日 19:02

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/13(火) 20:40:53.15 ID:d5lZzaHf
永禄九年(1566)七月、越国の上杉輝虎は上野国和田城へ取り詰め、既に落城と見える所に、
武田信玄公の旗本で、足軽大将の横田十郎兵衛(康景)がこの加勢に籠もっており、彼は
自分の同心、足軽については言うに及ばず、和田の者共も十郎兵衛が良く下知した。

輝虎は一万三千の人数を以て攻めたが、城は落ちなかった。これは先ず大筋目として、城の持ちこたえ方、
手配りが良かった事がある。そして十郎兵衛は櫓へ上がり、日頃習い得た鉄砲を以て、輝虎の旗本たちが
寄せてくる所を見定め、良き武者を多く撃ち落とした。
その中で輝虎の御座を成す侍を撃ち殺し、さらに十郎兵衛の撃つ鉄砲に寄って輝虎自身も危うく見えた。
それ故に輝虎は早々に包囲を解いて、越後勢は退散した。

和田城が堅固に持ち定めることが出来たのは、横田十郎兵衛が大剛強で、しかも弓矢に能く功者の故であった。
この横田十郎兵衛は四十二歳だが、十六歳より走り廻り、二十七年の間に数度の武辺を仕り、優れて手を砕いた
働きがあったために、和田城を任された。これについて人々は褒め称えたが、横田自信はさほど手柄とは
考えていなかった。

『甲陽軍鑑』



513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/14(水) 02:31:04.59 ID:N5ONe28H
1566年の時点で甲斐にそんな鉄砲の名手がいたのかー

減刑を命ず

2022年12月03日 16:18

490 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/12/02(金) 19:51:15.04 ID:JTYTDe7c
減刑を命ず(『上杉謙信言行録』より)

謙信公が家来を従えて漁に行った時のこと。
人が集まっていたので何事かと思い、公が傍らにいた梅津左京に問いただした。すると「あれは佐渡で酒を盗んだ4人の者が今死刑になろうとしているところです」と答えた。
公は静かに頷き、「たしかに役人は法に基づいて処刑しようとしている。しかし少し考えるところがあるので、もし執行を延ばせるなら延ばしてやれ」と梅津を使者として処刑を一旦止めさせた。

公は館へ帰ると老臣たちを集め、「生あるものの最も大きな災いは死である。それを今まで私は無視してきた。誠に無念である。
どうか今後は盗人に寛大にしてやりたい。殺さずにすむのならこの上ない。私は才無く政治に暗いため、判断はそなたたちの考えに任す」
とそれとなく赦免してやれとの意を仄めかした。

老臣たちは熟議し、結果的に4人のうち1人は死罪にし、残り3人は手首を2本ずつ切って国を追放したとのこと。



491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/02(金) 22:25:14.45 ID:cjHriNtb
法をねじ曲げて自己満足する馬鹿な主君に苦労した老臣の苦心が見えるな

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/03(土) 08:49:55.77 ID:giIWnroe
国を盗んだ者が言う事だからなあ

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/03(土) 12:34:10.43 ID:0ZMCCLVr
打ち首の方がましな気がする

494 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/12/03(土) 15:02:53.62 ID:f13TQAwz
手首2本づつってもしかして両手切り落とされてる?

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/05(月) 00:16:57.95 ID:c4fe6fH1
>>490
伊勢宗瑞が馬盗人を放免してやる噺と通底するものを感じる。
何かオリジナルがあって各国各将に設定を替えて広く流布されたんじゃないか。
巷談俗説の類にはよくあるパターン。
 
497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/05(月) 08:19:09.91 ID:RH68z/I1
>>495
そしてコピーされるうちにオリジナルの大事なところが欠落して、この話みたいに単なるアホ主君の話にされるのもよくあるな

海野平の対陣

2022年10月26日 19:10

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/25(火) 21:20:54.82 ID:M68BXVm8
天文十八年五月朔日に、武田晴信公と長尾景虎が、信州海野平にて五日間の対陣があり、
六日に景虎より使いを晴信公へ使わされた。その内容は

『私が信州に来たのは、自分の欲を以てではない。村上義清を本地へ返したい、との義である。
これについて御同心無いのであれば、私と有無の一戦をしよう。勝利は互いにその手柄次第である。』

そう申し越したが、晴信公はその御返事に

『その方が村上義清に頼まれ、本地へ村上を返したいがための信州へ出陣、ひとしお心馳せ優しいものだと
この晴信もそう思う、私も人も牢籠致す可能性はある。これは昔から今に至るまで有る習いである。
景虎の心ざしは尤もであるが、その村上の本意については、この晴信が生きている間は成るまじき事である。

であれば、有無の合戦とある事も最もに思えるが、晴信は村上を本地へ返さないことを、我らの働きとしている。
であるので、合戦と思われているのであれば、その方より一戦を始められよ。

もし又、日本国中において誰であっても、我が本国・甲州の内に手勢を入れられた場合は、そこにおいて
晴信は攻めかかって、有無の一戦をするであろう。』

この御返事を六日に景虎は聞き、七日、八日まで八千の人数にて出て、備を立てて一戦を待つ様子を仕り、
そして又、十日の朝に使いを出した。その内容は

『御一戦は成らないように見える。そのため、私は越中か能登の国を心がける。』

と、その日の午の刻に景虎は早々に退散した。

この様子を聞き、木曽衆、小笠原衆、或いは笛吹峠(小田井原の戦い)にて武田に負けたる人々は
「晴信は越後の景虎に会ってはへりまくれ(手出しできないということか)である」などと。面々の手では
叶わなかったことを、人を引きかけて、晴信公を罵った。
彼らは良き大将の奥意を知らず、己を以て人と比較し、餓鬼偏執は武辺不案内の故、この如くである。

甲陽軍鑑

天文十八年にあったとされる、海野平対陣についてのお話。



一に憂き事金ケ崎

2022年10月08日 19:16

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/08(土) 19:06:37.52 ID:10zWzOY3
尾州織田信長は日本において、上杉管領入道輝虎(謙信)に次ぐのは織田右大臣信長であると言われ、
武田信玄公が他界ましまして後は、この両大将を弓矢の花の本のように申した。中でも信長は、
六年以来都の異見であるので、武辺の強みである場数は、輝虎と言えども結局は信長に先を譲る、
と評価する者が多い。

しかしそんな信長に対しても、下郎たちはこのような歌を作り歌い申した

『一に憂き事金ケ崎、二には憂き事志賀の陣、三に野田福島の退き口』

甲陽軍鑑

甲陽軍鑑が書かれた段階で、金ケ崎、志賀の陣、野田福島の戦いが信長の三大苦戦と考えられていたらしい、
というお話。



八重垣姫の像・碑文

2022年09月30日 19:08

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/29(木) 16:32:47.56 ID:iX+uE6Pw
この前諏訪湖にいったら「八重垣姫の像」というのが建っていて、碑文の説明によれば

これは歌舞伎の「本朝廿四孝 狐火の段」の主人公・八重垣姫の像です。
上杉謙信の娘である八重垣姫武田勝頼と政略結婚の許嫁でしたが、勝頼が死んでしまったため毎日勝頼の絵図に手を合わせていました。
しかし謙信に新しく仕えた蓑作という下男が勝頼の絵図に瓜二つであったため問いただしたところ、実は勝頼本人であり、謙信に奪われた諏訪法性の兜を奪い返すために変名で仕えたということでした。
それを物陰から聞いていた謙信はわざと塩尻に勝頼を使いに出し、八重垣姫の勝頼助命嘆願も聞かず、討ち手を差し向けました。
八重垣姫は諏訪法性の兜を盗み出し、諏訪明神のお使い狐の狐火に導かれ、諏訪明神の霊力により氷の張られた諏訪湖を渡り、勝頼の元へとむかったのです。

歌舞伎だからいろいろ突っ込みどころはあるけど、この八重垣姫は一説には北条夫人をモデルにしたという話だとか。
ついでに長野県の塩尻には玄蕃之丞狐(玄蕃寮だから玄蕃允では?)という狐の伝承があるそうだけど、それも諏訪明神のお使いだろうか。



上杉謙信の愛刀

2022年06月12日 14:06

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/11(土) 20:33:27.11 ID:E6KPR8lH
朝野雑載」から上杉謙信の愛刀

上杉謙信の太刀は小豆粥(鎌倉行光三尺一寸。川中島にて信玄と立ち合った時の太刀である)、
谷切(来国俊作)、竹股兼光という、当代のすぐれもの三腰があった。
竹股兼光は、元来越後老津の百姓の刀であったが、不思議の霊剣ということで秘蔵して持っていたのを、竹股三河守(竹俣慶綱)が所望して家宝とした。
やがて謙信の耳に入り、謙信は乞い取って指料とした。
弘治二年(1556年)三月二十五日夜、二度目の川中島合戦のとき、信玄の家人・輪形目平太夫というものが一匁筒の鉄砲を構えていたところに、謙信が来て斬りかかり、かの竹股兼光で切り伏せた。
首は宇佐美駿河守定行の郎党・塚内が討ち取った。
夜が明けて甲州衆が輪形目の死骸を見たところ、持っていた一匁筒の二の目当の上を切断して真っ二つにしていた。
「いったい何を使って切ったのだろう?」と皆怪しんだ。
夜中のため、見た人もいなかったが、定めて謙信がお切りなさったのだろうと言い合った。
この刀、景勝の代に京都へのぼらせこしらえたところ、一年ほどへてようやくこしらえができ、越後に戻ってきた。
景勝の家老、直江・本庄をはじめ、そのほか宿老どもを呼び寄せ、その刀を見せなさった。
「さすが都の水で磨いただけあって、見事にできたものだ。まるで新刀のようだ」とおのおのは誉めそやした。

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/11(土) 20:35:15.85 ID:E6KPR8lH
しかし元の持ち主の竹股三河守はじっくりと見て、
「これは御当家の兼光ではございません。定めて取り替えたものでしょう」と言った。
景勝「その目利きはどういうことだ?」
三河守「かの御刀ははばき元より一寸五分上、しのぎに馬の毛一筋とおすほどの穴があり、
指表から指裏に通っていました。
それがしでなければ知る人もいないでしょう」
そこで三河守を早速京都にのぼらせて、三河守はしばらく京に滞在し、備前兼光の一尺八寸から三尺の売刀を求めたところ、はたして清水の南坂より持って来る者がいた。
そこでこれこそが竹股兼光の正真のものである、と三河守はこの趣を石田治部少輔に訴えたところ、偽物を出した罪人十三人をからめとり、日野岡峠に磔にかけた。
のちに正真の兼光を三河守は越後に持ち帰り、景勝の前でしのぎの穴に馬の毛を一筋引き通して見せ申した。
景勝をはじめ諸人は「奇妙の刀」だと感じた。
このことが秀吉公の上聞に達し、ほどなく景勝に御所望が下り、秀吉公に指し上らせた。
大坂落城のとき、城中に籠っていた浪人はこれを取って和泉・河内の間に落ちていったと噂が立ったため、
将軍家からもさまざまに御詮索があったが、とうとうそのありかはわからなかったという。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-546.html
上杉謙信と「竹俣兼光」・悪い話

以前に出たのとは微妙に違う話
「宇佐美定行」の名前が出ているので話半分でよろしくお願いします。



240 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/06/11(土) 21:17:11.88 ID:q+6P8a6t
こっちの沖縄の話にもありましたが、往時の京の刀剣業者ろくでもないw


戦国時代の空手マスターの話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4462.html

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/12(日) 10:58:32.97 ID:oljx+cCd
竹俣で元女流棋士でフジテレビアナウンサーの竹俣紅を思い出したら
この竹俣慶綱の子孫だった

山本勘助物見の松(またはジタジタ松)

2022年02月09日 18:19

323 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/08(火) 20:31:57.01 ID:Br8S5Cy5
山本勘助物見の松(またはジタジタ松)

天文22年(1553年)、村上義清ら北信濃国人衆の要請を受けた長尾景虎が川中島へ攻め入った。
信濃先方衆として下伊那の支配を任されていた秋山信友が高遠城を離れた隙に下伊那の知久頼元と座光氏は
知久氏の居城である神ノ峰に兵を集め武田方に反旗を翻した。

翌天文23年(1554年)、下伊那に戻った秋山の説得を断固拒否した反武田勢と武田軍で戦端が開かれ、敗れた反武田勢は
知久氏の居城である神ノ峰に籠城。この攻略を任された一人である山本勘助であったが、彼は城を一望できる松の木によじ登って
城の様子を伺ったが守るに易く攻めるに難い城の様子を見て彼は悔しがって松の上でジタジタを踏んだという。

このことからこの松は山本勘助物見の松とかジタジタ松と呼ばれることとなった。

この松は第二次大戦中の昭和19年に地震で倒壊し、根本は松根油として供出されたが敗戦で役に立たず、現在そこに立つ松は3代目の松であるという。
別にジタジタ峠(飯田市上久堅下平)という場所もあり、そこにも山本勘助が神ノ峰を攻略する際の似たような伝承が残っているが、
この松はまた違う場所(飯田市上久堅柏原)に生えている。

飯田市ホームページより
https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/kannomine.html



325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/08(火) 21:30:09.24 ID:EhFZQJMw
>>323
ここにも白米城伝説があるのか

329 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/09(水) 05:45:50.53 ID:Dw9mTBTQ
>>325
確かに白米城伝説はこの城にもあるんだけど、前にジタジタ峠の逸話を投稿した際に飯田市のホームページを見たら城内には御手洗池と天気池と言う湧水もあるし、
飲料水には苦労しそうにない感じもあるのよね。普通は山城の山頂付近に戦時以外は人が住むようなことは無いらしいけど、城主の知久氏が山頂付近に居住してた極めて珍しい山城とも書かれてるし。

杉原常陸介を此の方に給われ

2021年12月23日 16:38

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/23(木) 14:41:39.94 ID:dDjxcVds
別記に、上杉家家臣の杉原常陸介(水原親憲)は武功の者であった。

上杉景勝卿がある年、江戸より米沢へ帰城された時、常陸介を始めその他大身の輩が皆迎えに出た。
景勝卿はそれぞれに詞をかけ、常陸介の居た所を二、三十間過ぎた時、常陸介が忽ちに頓死した。
(意識不明になったということだろう)
人々は薬を与えて呼び返したがその甲斐もなく。景勝卿も早く帰って保養するよう下知したのだが、
遂に死んだ。

この知らせに景勝卿は涙を流し
「前夜の夢の中に、不識院殿(上杉謙信)が枕にお立ちに成り、『杉原常陸介を此の方に給われ。』と
宣われた。夢覚めて近習の者達に此の事を語り聞かせ、常陸が死すべき兆を夢に見たと言ったのだが、
その如く只今相果ててしまった。」
と、甚だ惜しまれたという。

新東鑑



氏真さんカワイソス(´・ω・`)

2021年10月10日 17:38

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/09(土) 21:45:42.09 ID:82Wlary0
767 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワントンキン MM0b-g+3k) sage 2021/10/09(土) 03:21:43.58 ID:KUrCYZSAM
氏真さんカワイソス(´・ω・`)

「駿河を失い没落した氏真は、かねて音信のあった越後上杉氏に書状を送ったものの返信が無い。そこで、上杉氏の取次(外交の担当者)に連絡を取ったところ「書札慮外」と一蹴されてしまったという。つまり、没落した氏真ごときがいつまで越後国主と対等の立場でいるつもりかとその無礼を咎められてしまったのだ。氏真の心中いかばかりか。」



85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/09(土) 22:38:28.68 ID:Yey6uiW7
今川サイドの対上杉窓口は朝比奈か三浦だっけ?
まあどっちもいないんじゃしゃあない

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/09(土) 22:48:16.74 ID:l66jBKe8
大名権威の保持のためにももう大名じゃない人間を大名扱いするのは厳しいわね
まあそもそも氏真がこうなったのは
弔い合戦したいタイミングで同盟国北条に攻めかかったやつがいたり
そんなやつと同盟したのに味方になったら殆ど動かないとか
その辺もあるんで確かに心中如何ばかりか

北条丹後の指物

2021年09月19日 18:59

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/19(日) 17:57:38.33 ID:+x+mbxvS
上杉輝虎(謙信)の時代の、家老・北条丹後守(景広)は大剛の侍であった。
ある時、一尺ばかりの白練の小四半(6センチ四方とも)に、黒蟻一疋を書いて、指物にした。
あまりに小さい指物であったため、謙信も見咎め、丹後を呼んでその指物の訳を尋ねた。
丹後答えて曰く

「皆人は三幅懸、四幅懸に下猪、登龍、その他大紋を付けて指すのは、敵方に良く見えるようにという
事です。その大指物より私の小四半は良く見えます。何故なら何時の軍にも、間近く乘りこみますから。」

そう申し上げると、輝虎も機嫌直ったという。
この丹後は謙信の死後に、三郎(景虎)と景勝の闘争の時、荻田與惣兵衛に鑓を付けられた。
この時は乘り抜けたが、その手疵にて相果てた、三郎方もそのまま敗軍したという。

(杉原彦左衛門覚書条々)



552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/19(日) 18:03:47.19 ID:KN/X7LVv
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5838.html
前に出典なしで出てたけど今日の話の方が詳しいな

柿崎景家誅殺

2021年08月30日 18:37

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/30(月) 16:48:24.64 ID:c3/hkbdL
天正五年十一月七日、柿崎和泉守景家父子四人が上杉謙信公によって誅殺された。
これは三年前に、良馬を京都へ売りに家臣を遣わした折、これを知った織田信長公は手を打って
大いに悦び、「上杉君臣を離間する手段これに有り」と、則ち馬代を十層倍で買い取り、
さらに信長公は自筆を以て

『今度差し上げた馬は近頃まれに見る俊足にて、大悦これに過ぎる事は無い。
ところで伝え聞くに、北国には鷹の逸物が有るという。そこで巣鷹を所望したいと思っており、
必ずこれを調えてほしい。』

との書翰が柿崎に届いた。彼はこれを真と思い、度々に鷹を買い調えて信長へ進上した。
しかしこの事が顕れると、信長と内通し逆心するのではないかという事で、謙信公は
平賀宗右衛門、吉江中牟、本庄越前守の勢七千にて柿崎の屋敷を取り巻いた。

これに柿崎和泉守、並びに男子三人、手の者七百ばかりが切って出て、二時あまり戦い
屋敷へ引き籠もった。打ち手は数十人が討たれ、手負いの者は数知れなかった。
その後、遂に寄せ手は屋敷に乱入し、柿崎父子四人は討たれた。

柿崎は越後の国侍で、久しき家であった。

太祖一代軍記)

史実としては柿崎景家は天正二年十一月二十二日に病死していて、その息子の柿崎晴家
が天正五年に、織田へ内通したとして謙信に誅殺されたという話があるので、これが混同
されたのでしょうね。



994 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/30(月) 17:01:08.97 ID:6Q5xQ9CT
ちなみに柿崎氏についてはこういうのが

旧上杉家臣は明治以後に屯田兵他で北海道移住した家があり、現在でも北海道に子孫が残り
自家に伝わる古文書を守っておられる例も多いとか

山本勘助の件で有名な市河家も同様ですね


上越市公式サイト2016年8月23日
https://www.city.joetsu.niigata.jp/soshiki/koubunsho/kakizakikemonzyo.html
柿崎家文書について

上杉謙信の重臣柿崎景家の家に伝えられた古文書80点あまりが、北海道在住のご子孫から上越市へ寄贈されました。

慶長3年(1598年)に柿崎家が上越を離れて以来、約400年ぶりの里帰りです。

柿崎家は、戦国時代に上越市柿崎区一帯を支配していた国衆柿崎氏の末裔です。上杉景勝の会津移封に従って上越を離れたのち、
子孫は江戸時代を通じて米沢藩士として過ごし幕末を迎えます。明治時代には北海道開拓のため厚岸へ移住し現在に至ります。

柿崎家に伝えられた古文書の総数は約200点。そのうち戦国時代から江戸時代までの80点あまりが上越市に寄贈されました。
戦国時代の文書10点は、実際に柿崎家が上越で受け取った上越ゆかりの貴重な古文書です。

今後は永く公文書センターで保存し、後世へ伝えていきます

洛中洛外の図の屏風一双

2021年08月27日 16:58

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/27(金) 15:55:22.08 ID:2w20CCI8
天正二年三月、上杉謙信公に対し、織田信長公より両使を以て、洛中洛外の図の屏風一双、
源氏物語の屏風一双、何れも狩野永徳の筆にて、極彩色であり、これを謙信に進上した。
殊の外の懇志であった。

然れども謙信は、信長が色々な手立てを以て上杉領内に手遣いがあることに対し、書礼を遣わし、
信長が表裏ある事を責めて、手切れの旨を申し遣わした。
これに信長は、何者かの讒言によってこのようなことになったのだと様々に陳謝したが、謙信は
用いなかった。

太祖一代軍記

洛中洛外図屏風(上杉本)についてのお話



信玄逝去

2021年08月26日 16:24

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/26(木) 15:00:57.75 ID:e31HGtJg
天正元年二月、徳川家康公より植村與三郎を使者として、上杉謙信公に仰せ寄越された内容は、
去る冬の極月(十二月)二十二日、遠州口三方ヶ原での合戦で勝利無きに付き、武田信玄
勝ちに乗って東三河に発向してきたため、謙信は信州へ働き、甲州までも攻め入って頂きたい、
との事であり、その書状、並びに備前守家の刀が進上された。その刀の異名は徳用と号した。
謙信よりも音物が贈答された。
信玄が三州岡崎の城に攻め詰めれば、謙信は信州より甲州へ取り掛かるという旨の約諾が有った。

その頃信玄は東三河へ攻め入り、菅沼新八郎定盈、松平與一郎忠正が籠もる野田城を攻め落とし、
両大将を生け捕った。しかしその砌、城方の鉄砲烈しく、信玄は大事の所に鉄砲によって負傷し
(信玄大事の所に鉄砲手を負ひ)、その疵が腫物となって気分次第に快からず、四月十二日に
三州・信州の境である浪合にて逝去した。武田はこれを秘して喪を発せず、病気であるとして
死骸を守護して、甲州勢は残らず退散した。

その夏五月七日に、小田原北条氏政より山中兵部を使者として、信玄が死去したと越府に注進があった。

伝に曰く、この氏政の口上を本庄清七郎取次にて披露した時、謙信は膳に向かって飲食していた。
信玄死去の情報を聞くと、箸を捨てて手を打ち、

「合戦の能き相手を失い、さてもさても力を落とした。その上信玄は世に稀なる英雄名将であった。
残り多く、情けなきことである。」

そう言って数行の落涙をしたという。

太祖一代軍記

武田信玄の死去について。ここでは野田城攻めの時銃創を受けたため、という説なのですね。



983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/26(木) 17:58:22.35 ID:j/dhOPJq
天正元年六月の長尾憲景宛書状では
信玄が死んだため、信長・家康は駿河に進むだろうし
関東平定も実現の見通しがつき、越中も思うがままになってきたと
喜んでいるそうだが

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/26(木) 21:47:04.64 ID:EKAhKpsG
長年の宿敵と踏んでたし人柄的にも信玄って謙信が嫌いそうなタイプだし
訃報を聞いた時は喜んだってのが事実じゃないかとも思う
でも信玄ほど歯ごたえがあって正面から闘ってくれる相手もいないから
後々になって信玄の死を惜しんだとかはありそう

公方義輝公を弑し奉った事について

2021年08月23日 16:27

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/23(月) 14:51:42.36 ID:X36Q9D4/
永禄八年五月十九日、京都に於いて三好左京大夫義継、松永右衛門佐久通らが逆心し、公方義輝公が
御生害された。これにより畿内は大いに乱れ、公方の御弟である一乗院覚慶は南都を落ちて江州矢島に
至り、公方家再興のために還俗、義昭と号した。

七月、上杉謙信は二万の軍勢で越府を立ち越中へ入り、そのまま直に進んで加賀国へ攻め入り、
若林長門守、蕪木右衛門尉、石黒、宮崎、南保、高楯、入善等を攻められた。
この後、長尾兵部尉景盛、島山因幡守両使を江州矢島へ遣わし、義昭公へ御兄公方光源院殿と
御弔いを申し上げられた。

この時三好義継が逆心にて、公方義輝公を弑し奉った事について、その七ヵ年以前、永禄二年の夏に
謙信が上洛して十月に至った頃、三好長慶を始めその一門、並びに松永、岩成、松山党などの
驕り甚だしく、公方を蔑ろに致している様子を謙信は見届け、いずれ三好逆心の相有りと察した。
そこで京を立ち越後へ帰る砌、御暇乞を申し上げ、密々に言上したことには、

「三好一家無礼にして終には反逆の相が御座候。もしそういった様子が見られたときは、早々に
私に仰せ下されますように。馳せ上がり退治いたします。」

という旨を申し置かれたが、これに公方義輝公は御喜悦斜め成らなず、御手づから藤林という名物の
國綱の御太刀を下され、必ず御頼りあるべき旨を、懇ろに御堅約された。

去る年、子七月四日、三好修理太夫長慶が病死した。三好一門、家人はこれを秘して喪礼を致さず、
病中と申す沙汰を致したのだが、これが密々に公方の上聴に達し、不審に思われている内に、反逆の
様子が徐々に顕れた故に、公方は大和兵部少輔を御使として越後に下され、早々に謙信が上洛するよう、
密々に御内書を下された。しかしこれを三好が聞きつけ、
「謙信が上洛すれば中々叶うべからず。その前に取り掛かるべし。」
と、俄に思い立ち逆心し、公方を弑し奉ったのだと云われた。

太祖一代軍記



輝虎は斯くの如くの

2021年08月21日 17:56

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/21(土) 16:43:19.91 ID:cQDwS0uU
永禄二年の四月上旬、上杉景虎は二度目の上洛をした。

(中略)

同月二十六日に、上使大館左衛門佐輝氏が御内書持参にて、景虎の文の裏書き、並びに
塗輿、朱柄傘を御免になり、屋形号、並びに「輝」の字を下され、斯波、細川、畠山の三管領に
準ずると云々。景虎はこれを拝受した。その御礼として宿舎より京に入った。これより景虎を改め、
輝虎と号した。

その御礼に向かう途中において、三好の家来の士と松永弾正少弼久秀の家人が馬上にて行き合い、
無礼であったために輝虎は怒り従士に下知して、たちまち討ち捨て頭を刎ねた。
近年三好、松永の威勢強く、これに並び立てるような者も無かったのだが、輝虎は斯くの如くの
対応をし、これに貴賤上下、輝虎を恐れること斜め成らずであった。
そして三好、松永はこれに一言も云うことが出来なかった。

(中略)

世に伝わる話に、堺に宿泊した折、旅宿の主人が草足袋を履いて見目に出たことに、輝虎は
「その体無礼なり」と怒り、その主人を手討ちにした。これに堺の者達千人ほどが怒って輝虎の
旅宿を囲んだ。そこで輝虎はその家に火を懸け切って出て彼らを追い散らした後、静かに京へと
帰った。輝虎の懸けた火は延焼し、堺において数千軒が焼失した。

太祖一代軍記

二度目の上洛でいろいろ大暴れしたらしい謙信公