織田信長より、公方足利義昭への申状

2014年04月29日 18:51

133 名前:1/2[sage] 投稿日:2014/04/28(月) 19:10:13.93 ID:dM3EMjqW
織田信長より、公方足利義昭への申状

『そもそも武田入道信玄は、讒訴して五ヶ条を掲げて将軍に訴えた輩であることを知られました。
このような事は、誠に狂言綺語(仏教十悪の一つ)と言うべきでしょう。

元はといえば、三好左京大夫(義継)の逆心があって、そのために光源院殿(足利義輝)が
自害なされ、誠実な者達の大半が討ち死にし、将軍家が最大の危機に達したところで、
当御所様(足利義昭)が南都から脱出なされ、伊賀・甲賀路を経て近江の矢嶋に御座を移されたのに、
佐々木承禎(六角義賢)が先祖の遺言に背き、主従の道を忘れ、無常にも追い出したので、越前に
下られた事に始まったのです。

朝倉は元来それほどの者ではないのに、父(朝倉孝景)が将軍の意向を眩ませて御相伴衆の地位に
付き、それに続いて自国において勝手気ままに我意を通しました。そのような者によって将軍の
御帰洛がなされるなど、前代未聞と言うべきでしょう。
そのため公方様はどうにも仕方がなく、岐阜に御座を移され、私に寄りかかって下されたので、この信長は
頼りにならぬ者ではありますが、公儀御用を承ったと言うことなのです。

そういう訳で、天下の新たな統一への忠功に尽力いたそうと心がけ、国家のために一命をとして御伴いたして
おりました所、近江においては佐々木(六角)が所々の城でこれを妨げましたが、忽ちにして攻め崩しました。
そこで畿内の逆党たちは数ヶ所に砦を構えて抗戦いたしましたが、一要害も残らず、14日の内に
攻め落としましたので、畿内のことは言うに及ばず、四国、中国、遠島遠路に至るまで皆味方に馳せ参じて、
将軍に仕え初め、そのため宮中に御参内なさる事が出来たというのは、偏に信長の成功の賜ではなかったかと
存じております。

134 名前:2/2[sage] 投稿日:2014/04/28(月) 19:11:16.22 ID:dM3EMjqW
一、信玄のことですが、彼の父信虎は既に八十歳に及ぶ老父となったのに、追放した後京の不便な土地で
  途方に暮れていて、巷にて飢えている風情だというのは、前代未聞の事です。
一、嫡子太郎(義信)を理由もなく牢に入れて、鴆毒で殺したことは、無法この上ありません。
  父を追放し子息を殺し、その他親類の多くを討ち死にさせました。
一、年来の眷属に一戦を勧めておいて、傷ついた侍たちを一所に押し込めて焼き殺す、という行為に至っては
  大悪行の最たるものです。誰がこのような彼に、心から信じて従うものでしょうか?
  特に信玄の与力であった浅井(長政)は、この信長の身分と比べれば相応しくありませんでしたが、
  妻女として我が妹を遣わし、その上近江一帯の支配に加勢してやったというのに、どうしたわけか
  信長が金ヶ崎に出陣した時、寝返って後陣をしたことは、前代未聞と言うより他ありません。
一、信玄は剃髪染衣して仏門に入った姿となったのに、他国を領有しようと貧欲になり、民を害し、内では
  破戒の業をなし、外では五常(仁・義・礼・智・信)に背く、をれは売僧の如くです。
  これについて特に、比叡山、伝教大師の、桓武天皇国家護持の霊場において、衆徒が近年つまらぬ
  行動を起こし、潔戎を破り牛馬の糞尿で伽藍仏前を汚し、魚鳥を食していました。
  なので天道からの神罰が下って、山上山下、尽く燃え尽きたのです、これは信長が断行したのでは
  ありません、自業自得の結果です。
一、信玄は時節を伺って、支那・震旦にもその例を見ないような、俗人であるのに大僧正を称しているのは
  例がありません。
一、駿河の今川氏真は、信玄にとっては甥になるのに、そこに家老を送って甥の国を乗っ取るのは、前代未聞の
  態度です。
一、関東の北条氏政は信玄にとって聟であります。ところが関東に乱入し、あまつさえ氏政の門前まで焼き払って、
  北条家の縁者郎党を尽く斬捨て、聟に対し天下の恥をかかせたことは、前代未聞の次第です。
  事に諏訪頼重の娘を、信玄が自分の妾にし、末子とはいえ四郎勝頼を産みながら、頼重を騙し、甲府へ
  招待しておいて、接待のため猿楽を催し舞楽を興行してなだめ、隙を突いて近習のものに命じ頼重を
  討たせたことも、前代未聞の次第です。

このように無軌道であることを仏神も憎悪されたのか、信玄には10も国を領有させません。
一方この信長は五常をしっかり弁えており、禁中を尊重し、公方を敬い、民を憐れむこころざしが天道にも通じ、
天下を統治するべき位置に立ち、国家を興隆し子孫を繁栄しようとすること、祈願しなくても仏神の道に
かなって、このように上手く行っているのです。信玄の言う偽り言を、もし信じてお認めになるのなら、
天下が混乱することは確実です。古い諺にも、君主が人に阿る奸智に長けた人物を取り立てれば災禍を招くと
言うではありませんか。讒臣の訴えは大乱の原因となるということ、宜しくご配慮いただきたい。
 信長 誠惶誠恐謹言

天正元年正月二十七日 
上野中務大輔殿

(甲陽軍鑑)

織田信長による、>>115の信玄の書状への反論である


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武田信玄より、将軍足利義昭方への書状


135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/28(月) 21:20:17.15 ID:BDRM4HUu
色々言い草はあるものだなと思わされる書状だねw

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/29(火) 07:45:04.19 ID:Xgkcyqel
大義名分を作るための方便とは言え信長も信玄も、どの口が言うか、って感じの内容だな

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武田信玄より、将軍足利義昭方への書状

2014年04月27日 18:45

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 11:26:23.56 ID:xDcLNJh0
武田信玄より、将軍足利義昭方への書状

『遠州・三州両国の如きは、信長・家康の輩が神社仏閣、諸寺を横領、侵入し、民を迫害して
自分たちの利益のみに走り、ほしいままに暴威を振るっていることは、前代未聞と言った次第です。
従ってこの信玄が、正義の兵を挙げて大軍をなびかせ出陣したのです。

敵勢はあちこちに集結してこれに応戦しましたが、掛川、二俣をはじめその他数ヶ所の要害の
大半を破却させて、残党も尽く降伏させましたので、この行動をご容認される御教書をお出し下さい。
主君の御意としては黙視できぬことと存じますが、彼らが幾重にも犯した諸悪は数え切れぬことですから、
このままにしては置けません。すなわち、信長・家康以下の逆徒を誅伐、降伏させて、天下を鎮めることを
お引き受け致す旨、ここに謹んで申し上げます。

そもそも信長・家康は、逆乱を企て諸寺を焼き払い、諸仏を破壊、略奪し、自分たちの事のみ考え
栄華を極めて、それに対して人々には口を閉ざし、眉をひそめさせることしか出来ないように
追い込みました。ここには偏に仏法王法の破滅の相が見えており、彼らは欲界の天魔の権化と言うべきでしょう。
とりわけ勅許も受けないのに自ら昇殿し、高官尊体を称する咎は逃れようがありません。この罪が一つ。

自分が匹夫の身分低い血統であることを弁えず、月卿雲客をしてみだりに口出しをさせ、権門を侮る
無礼の咎は浅くありません。この罪が二つ。

京の市中郊外を徘徊して、課税を多くし労役を課し、戦って降伏した者達の財産も略奪した咎。この罪が三つ。

長年の戦乱で、各地で敵となったり味方となったりしていますが、そうする中で一度ゆるした後に、
高槻、今中城、高宮の兵をたちまち処刑しました。これでは籠の中の鳥を殺すのと同じです。何を真実とし、
何を信頼すればいいのでしょうか?誰がこういうことを憎まずにいられるでしょう。この罪が四つ。

去る永禄12年、坂本において朝倉義景と信長が雌雄を決しようとした時は、忝なくも勅命を受けて
将軍のご命令を賜り、そこで数通の起請文を以って和睦がなり、共に各々の領国へ引き下がりました。
ところが信長は翌年7月上洛して、神社仏閣を灰燼に期すようなことをしました。これは勅命に背くだけでなく、
将軍のご命令にも背くもので、天罰を受けるだろうというだけでは足りません。悪逆無道の咎、これが罪の五つ。

右の五つの罪を犯した者など、千古にあったということを聞きません。いわんや最近においては全く例の
無いものです。もしこうした悪逆をこのまま黙認されるならば、悪臣がますます国を荒らすでしょう。
また窮鼠かえって怨敵となり国を横領しようと企てることになります。しかしこういうことは心に隠して
居るものですから、公方様のお耳には未だ達していないかと存じますが、諸国の者にあまねく知れ渡っている
所です。

もし御処置もされずにこのまま放置なされるのは、虎の尾を踏み、豺狼のような残酷、貪欲な人物を懐にして
いるのと同じことです。これでは諸国の御敵を蜂起させ、大混乱の元を作るというものです。

早く信長・家康以下の凶徒を誅殺すべきとの御命令を賜れば、彼らの舘を攻め、我が身がどうなろうとも
たちまち凶党を滅ぼし、その屍を軍門に晒し、首を獄門にかけて御覧に入れます。そうすれば万人は
安心し、安寧に戻るというものではありませんか。

いやしくもこの信玄は正義を尽くし政策を帷幄の内に巡らせ、四海の混乱を鎮めて、台嶺(比叡山)の諸伽藍、
七社の霊藍を復興し、再び顕教密教を同時に学べる霊地となして、現世の安寧のために政を正し、
正義、道徳で世を照らし、天下を静謐にする功績を残したい旨を、宜しく将軍にお伝えして頂きたい。
 信玄 誠惶誠恐謹言

正月七日   大僧正法性院 徳栄軒
     上野中務大輔殿(義昭側近・上野清信)』

(甲陽軍鑑)

武田信玄が、信長・家康討伐の許可を将軍義昭に求めた書状である。


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