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下田駿河守の滅亡

2013年01月18日 20:05

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 20:05:46.33 ID:Ljq41Z5p
天文16年(1547)、長宗我部国親下田駿河守が籠る、下田城(別名・蛸の森城)攻めを
決断し、久武肥後・福留隼人を大将として総勢800騎、本拠である岡豊を出立しようとする所に、
尼僧が一人、福留隼人の元を訪れ、畏まってこう、申し上げた

「私は、下田の百姓の妻でありました。
夫は死にましたが、常陸という一子があり、これを杖とも柱とも思い頼って生きていたのですが、
去年の秋、年貢の納入が遅滞した咎で、常陸は是非もなく殺されてしまったのです。

それから、このような、明日をも知れぬ老いの身の、頼る所もないままに、所縁の者になんとか
扶けられ、今日まで存命して参りました。

こちらではこの度、下田に御旗を向けられるということです。ならば!私が城中に手引きし、
お手を砕かれるまでもなく、城を焼き崩し、下田殿に思い知らせ、それを我が子への供養とし、
この老尼の、恨みを晴らしたいのです!」

そう言って、声を上げて泣いた。
福留隼人もこれを聞くと涙を流し、直ぐに国親に報告した。国親はこれを大いに喜び、
屈強な若侍3人を老尼につけて遣わした。
その上で、城中に火の手が上がれば攻め入るようにと、軍兵250騎を、福留隼人を大将に、
片山・衣笠の山陰に、10人、20人、5人7人と分散して忍ばせ、合図の煙を待った。

さて、老尼は3人の男を下人に仕立てて、一人には袋に衣装を入れて持たせ、残りの2人には
雑掌と思えるものを担がせた。これには火打石・火付け竹・その他兵具が入れてあった。
そして下女一人を召しつれ、下田の城のある蛸の森へと参った。

老尼は番の者に近づくと、「衣笠の何某の母ですが、御台所様へお目見えのため参りました。」
と言うと、番人は問題ないといって、懇ろにして彼女を通した。
元より内部の事は知っており、直ぐに木陰に隠れて支度をし、そのまま火をかけた。
その時丁度西風激しく、堀門矢倉に延焼し、黒煙が天を焼くように上がった。

城中はこれを敵の仕業とは思わず、何かの過失と考え、「火を防げ!財宝を避難させろ!」と
上へ下への大騒ぎとなっていた。

ここで国親が付けた3人の男たちが、そこかしこに走り鬨の声を上げると、隠れ伏せていた
長宗我部の軍勢は火の手を見て、貝を吹き太鼓を打ち、鬨を作って押し寄せた。

下田の城兵たちは大いに驚き、敵を防ごうとしたものの、城の猛火が襲い来て、
為す術もなく我先にと落ちていった。

これにより勇猛の名高き下田駿河守も、遂に討ち死にし、下田城は落城した。

この頃、誰が詠んだのか

『いでもせで 焼崩したる蛸魚の森 いかなべの料理なるらん』

という歌が人口に膾炙したそうである。
(土佐物語)

長宗我部国親の、下田城攻めに関する逸話である。





201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/18(金) 12:53:25.71 ID:CQbuSB+b
>>196
長宗我部国親にとっては城攻め成功、尼僧にとっては仇討成功で
普通に良い話に思えてしまった。
強いて言えば情け無用の徴税で恨みを買い破滅した下田駿河守の悪い話か?
(しかしこの尼僧、かつては「百姓の妻」だったという割に
巧妙果敢に城に放火するわ、若侍ら長宗我部陣営と見事に連携取ってるわと
本当は過去に忍者やってた前歴あるんじゃね?という位に工作レベル高いな)
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