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賀来の騒動

2022年06月28日 18:21

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/27(月) 20:23:11.28 ID:g8wvbc94
両豊記」から豊後に鉄炮が来た享禄三年(1530年)に起きた「賀来の騒動」

大友家の譜代外様家臣の姓は三つに分けられる。
大友の先祖から血筋がつながっている一族を「御紋の衆」と言う。
いにしえより九州にあった丹部(田部)、漆島(辛島)、宇佐、大島の四姓や、そののち土着した藤原氏や清原氏を「国衆」と言う。
大友家先祖・大友能直に従って当国に来た諸士の系統を「下り衆」と言う。
こうして三つの衆に分かれ、それぞれ同じ衆の者と交際していた。
府内の大番役所では諸士が当番・非番で交互に勤めていた。
享禄三年の春、家臣たちの勤務状況を記した帳面に何者かが墨で線をひき「御紋の衆」の姓名がいちいち塗りつぶされていた。
さてはこれは国衆の何者かがなしたことだろうと御紋の衆の若輩の者どもは腹を据えかねた。
大友義鑑公も案じたものの、かえって騒動になってはいけないとそのままにしていた。
ここに国衆ではあるが、大友家に忠義を尽くしたために取り立てられていた本荘・中村というものがあった。
二人は御紋の衆の妬みを買っていた。
そのため清田越後守という若者に率いられた御紋の衆の若輩者、二百人が二人の屋敷を襲撃した。
本荘・中村両人とも奮戦したが、力及ばず切腹した。

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/27(月) 20:25:57.50 ID:g8wvbc94
翌朝、調子に乗った清田たちは千五百余人で賀来左衛門太輔という大身の国衆を討ち果たそうと押し寄せた。
賀来氏は大神氏であり、同じく大神氏の橋爪・大津留に加勢を頼んでいた。
清田勢が賀来の宿所に鬨をあげて突入するまさにその時、駆けつけた橋爪丹後守は三百余騎を率いて清田勢を追い散らした。
清田勢は多勢であったが驚きあわてたため、我も我もと逃げようと
増水していた川に飛び込んでしまい、溺れた者は数知れなかった。
橋爪は敵三十二人を討ち取り、川を渡った残党も討ち果たそうと追いかけたが、清田配下の加南田兵部という侍が三人張りの弓で矢数五百を次々と射立ててきたため深追いはしなかった。
賀来は橋爪のおかげで難を逃れたとはいえ痛手を負っていたため、翌日死んでしまった。
橋爪は家人たちに「このたびの働きは言語に尽くしがたいほど見事であった。
しかし君命に従ってこの手柄ならば厚恩にも預かるべきであるのに、理由もない遺恨のせいでこのような闘諍におよぶとは嘆かわしいことよ。」
と涙ぐんだところに大津留常陸介鑑康が二百五十騎を連れて到着し
「そこもとからの伝令が遅れてしまい、やっと到着した。首尾やいかん」と問うてきた。
橋爪が合戦の経過を語ると、大津留は肝をつぶし「比類なき大手柄かな」と讃嘆した。
とはいえ大友義鑑公のお怒りは大きく、大津留、橋爪とも勘気をこうむった。
ただ大津留は一戦もしていないということでほどなく帰参を許された。
この府内の騒動は国内に伝わり、ここかしこから府内にそれぞれの一族が集まってきた。
しかし古老たちが「君の御安全が一番の大事である。また国中が騒動するだけでなく、他国の嘲笑の的となろう。
姓氏について取り沙汰するのはやめよ」と申したため、
双方共にしばらく出仕を止められただけで騒動はおさまった。



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異国船着岸 附・鉄炮の事

2022年06月26日 14:40

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/25(土) 22:49:22.14 ID:POeF0AOd
両豊記」より「異国船着岸 附・鉄炮の事」

享禄三年(1530年)の夏、南蛮国から大船九艘が豊後府内に着岸した。
商売目的であり、絹布・薬種そのほか重宝の珍物が数えられぬほどあった。
このことが諸国に知れ渡ったため、国々の商人が金銀を持ちきたって、我も我もと買い争った。
言語も文字も通じなかったが、南蛮人の方はあらかじめ予測していたのか大明の儒者を雇っていた。
こちらが保首座という禅家の学匠をもって書を遣わしたところ、三官という儒者が読んで、筆談で意思疎通をした。
儒者が言うには「我は大明国の者であるが、通訳のために雇われて来た。
船頭水主以下の者どもはみな南蛮人である。
我も南蛮のことについてはよく知らないのだが、船中を見るに、上下の礼儀がなく、
朝夕の食事も大勢が一つの大きな器から手づかみで食っていて、言葉にできぬありさまだ。」と申した。
この南蛮人どもは屋形に種々の重宝を献上したが、その中に兵具が二つあった。
長さは三尺余で鉄炮と言ったそうだ。
これが豊後における鉄炮の始まりである。
南蛮人どもは商売がうまくいったため順風満帆で帰国した。
そののち天文二十年(1551年)に着船した時には、南蛮の商主から石火矢という大きな鉄炮が献上された。
のちに臼杵丹生島で大友と島津が合戦した時、この大筒で薩州勢を撃ち殺し、落城を防いだということだ。
(「大友興廃記」では南蛮から大砲・国崩しが到来したのは天正四年(1576年)としている)

種子島以前とはいえ鉄炮を量産したわけではないようだ