fc2ブログ

筒井騒動について

2022年02月02日 18:06

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/02(水) 17:07:44.84 ID:KOLspvc1
筒井家家中では、その臣・中坊左近秀行(秀祐)と、桃谷與太郎右衛門国之、河村與六郎正之、
松浦左内祐次等が不和となったが、去る慶長三年六月、中坊はその息・忠右衛門秀政と共に筒井家を
立ち退き駿府へ向い、
『侍従(筒井)定次は酒色に溺れ、政道に癖事多く云々』とし、河村、松浦らの奸佞の至悪等を
家康公へ訴えると、筒井定次もこの事を伝え聞いて大いに驚き、近臣である桃谷次郎国仲、その息
與太右衛門、並びに松浦、河村を召し連れ駿府に赴き、

『左近(中坊秀祐)はその勇功を誇って主君を蔑ろにし、傍輩を猜み讒訴して、筒井家より独立することを
欲している。』

と訴え、双方の対決、数日に及んだ。
このような中、伊賀守(筒井定次)は養父である順慶以来、二代共に故太閤の厚恩を蒙っており、
密かに大阪に近侍していると聞こえてきた。さらに酒色の遊に溺れ、河村、松浦と言った奸人を用い、
政道正しからざるよしに沙汰極まり、遂に定次非い陥り、同二十日、伊賀国並びに勢州、城州等の
領地悉く没収され、侍従定次、嫡子宮内少輔順定、共に藤堂(高虎)に預けられ、桃谷與次郎は、
「酒色の遊には預からざるとも、老臣職として非道を諌めざる咎」により、お預けとなった。
桃谷與太右衛門、河村與六、松浦左内の三人は誅せられた。

中坊左近は従五位下飛騨守に任じられ、息・中右衛門は左近と改め将軍家に仕え、
和州吉野郡にて三千五百石を領した。

新東鑑

筒井騒動についてのお話



スポンサーサイト



「人殺しだ!」と叫んだ

2022年01月15日 17:08

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/15(土) 16:27:52.40 ID:CFXpItV1
南都(奈良)の奉行である中坊飛騨守(秀祐)・美作守(秀政)父子に仕えていた、
柴田角兵衛、田村源兵衛という兄弟の勇士があった。

ある日、兄弟は連れ立って木津川を渡ったのだが、この渡は武士からは船賃を取らない事になっていた
にもかかわらず、この時の両人の風体が春日社の禰宜に似ていたため見誤り、船賃を乞うた。
渡守は川の中程で舟を止めて、彼等に対し「船賃を出さねば渡さない!」と悪口に及んだため、
兄弟は水棹を取って一人の渡守を打ち倒すと、もう一人は水に飛び込んで遁れ、木津の町に入ると
「人殺しだ!」と叫んだ。

この町は浪人なども居住していた地であったので、鑓長刀を持って数多の者達が兄弟に向かって
出合った。兄弟は刀を抜いてこれと当たり、数箇所に傷を負い、兄弟の間も隔てること半町ばかりであった。
源兵衛は血で朱に染まり、また角兵衛は溝に踏み込んでしまい危うかったが、町の者共も彼等の勇気に
辟易し、近づく者も無かったため自ら起き上がった。そして取り囲んでいた者達も次第にまばらになったので、
彼等は木津の町へと向かった。

すると町は騒動して木戸をさし堅めて彼等の侵入を阻止しようとした。しかし潜り戸より婦人が
彼等を覗いているのを見つけるとこれを人質に取ってその家に入り込んだ。この婦人は所の長の
妻であったので、様々に扱いとなり、これは当分の難を遁れるためであったので、約を定めて
婦人を解放した。その内に彼等兄弟が奉行所の士であることが解り、木津の町の者達は却って
打ち詫び、怠状(謝罪状)を書いて出した。

死者六人、負傷者は数を知れず。兄弟は大難を遁れた。

(志士清談)

船賃を取る取らないで死者六名負傷者多数の騒ぎになったというお話。



伏見に於いて中坊飛騨が殺害された

2020年08月18日 18:34

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/18(火) 12:28:18.97 ID:bGaHe4v0
慶長十四年二月二十九日、伏見に於いて中坊飛騨(秀祐)が殺害された。

去年の夏、彼は伊賀国主の筒井(定次)を駿府に於いて讒言したのだが、この時彼はまさに筒井定次の家臣で
あったのにそのような行為に及んだため、彼は是非に及ばぬ逆臣であると皆指摘し、憎まぬ者は居なかったのだが、
その天罰を蒙ったのか、このような横死に逢った。

その様子は、伊賀守(筒井定次)の被官で山中という者があり、主人が牢人した後、伊勢国の九鬼長門守の元に
居たのだが、旧友であった中坊の所に着て、夜更けまで語り合い、その後中坊は奥に引き入り就寝した。
かの山中は中坊の息子と共に寝た。この時、何者の仕業か中坊は首を二刀切られた。

家中の者たちは全くこれを知らず、中坊は普段、夜半に必ず薬を用いていたのだが、この日はいつもの時間が
過ぎてもこれを求める言葉がなかったので、女房が障子を開けてみた所、そのように殺害されていた。

筒井伊賀守の身上はこの中坊の讒言によって相果てていたのだが、中坊が不慮に相果てた事は、伊賀守にとって
さぞ心地の良い事だっただろう。伊賀守は無足で、当時江戸に籠居していた。

(中略)

中坊を殺害した者が、伏見町に札を立てた。その書に曰く、
『我は伊賀守譜代の者なり。主君の鬱憤を散ずるため、中坊を伐った。この後、また中坊の息子を伐り、
その後まかり出て切腹する。』
と有った。

当代記



278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/18(火) 21:28:59.53 ID:LMf5WF5a
中坊ってホント身のほど知らずだよねー