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推参なり! 早くも天下取りの顔をするか!!

2019年08月15日 17:14

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 16:33:34.16 ID:Tdfto4zP
「尼崎で諸大名が髪を切って信長公のことを嘆きなさる時、秀吉公も嘆きなさり『この上はいずれも
一味同心で明智を討ち取り申す他はござらん! いずれも左様に思し召しなされよ!』と敬っていか
にも慇懃に、同輩の様子も見えたのである。

明智敗軍の時、諸大名への御あしらいは『骨折り骨折り』と仰せられ、皆家来のあしらいになされて
大いに威が付いたのである」と(佐柿常円は)語りなさった。

――『佐柿入道常円物語(高松城攻物語)』

佐柿常円は備中高松攻めの時に秀吉に御供したという人
  
  
一、山崎合戦の時、秀吉公は西国より御上り。先手は中川瀬兵衛(清秀)・堀久太郎(秀政)・
  高山右近・池田勝入様(恒興)などである。

  (中略。戦勝後)

  秀吉公は遥か後ろより、乗物で朱唐笠を差させて御出になった。中川を始め諸大将は床机に
  腰を掛けていた。きっと懇ろに礼儀があるだろうと思いなされているところで、秀吉公は駕
  の中から「瀬兵衛、骨折り」と申されたという。

  瀬兵衛は気短き人なので「推参なり! 早くも天下取りの顔をするか!!」と申されたという。
  秀吉公の御聞きなきことはあるまいが、聞かぬ顔で御通りであったという。

一、古田織部は中川瀬兵衛殿の婿である。利隆様(池田利隆)の伯母婿でもある。秀吉公が山崎
  へ御向かいの時、秀吉公は古田を召して、

  「中川と其の方は縁者だから、中川へ行け。まったく中川を疑うわけではないが、世上の聞
  こえにおいても、中川なども人質を出すとあれば味方一味のために良い。誰であっても人質
  を出しなさるように申して参れ」

  との仰せであった。古田が畏まって行くと、秀吉公は山上に陣取りであったのだが、古田が
  山下まで行くのをまた呼び返して何か遣わしたいと思し召された。乾いてござる木綿足袋を
  脱ぎ、「これをやるぞ。これを履いて津の国(摂津国)の晴れをせよ」との仰せだという。

  さて中川へ行って以上の通り申した。例の中川殿は気短く、早くも立腹して申されるには、
  「秀吉が我に人質を出せと言うか!」と、申されたという。古田は「左様ではありません。
  よくよく御思案なされ」とまずは帰った。

  夜に入って古田を呼んで中川が申されるには、「いかにも心得た。しかし人質に遣わすべき
  者がいないので、家老の子を遣わそう」と人質を遣わしなさったという。その頃、中川殿は
  津国茨木に居住されたという。

――『烈公間話』



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まことに良将が軍を統べる故なり

2019年03月09日 21:24

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 18:40:43.12 ID:6ECJ3CPn
(賤ヶ岳の戦いの時)

清秀(中川清秀)はこれ以前に度々に及んで武辺に落ち度を取らず、勇力を世間に知られた侍なり。

「度々の晴れ戦、万一鈍兵の名を得ては生涯の不覚!」と思い定めた清秀は「運は天にあり、進ん
で退くことなかれ! 」と諸卒に言葉を掛け、1千余騎が塁を離れて突き出た。玄蕃助(佐久間盛
政)の兵はこれを見て、余さず漏らさず押っ取り込めて、数刻攻め戦う。

清秀は我劣らじと、兵5,60騎が弓手馬手に並び、散々に切り合い割り入り追い立てた。清秀は
一旦は勝利を得たものの、敵は多勢をもって手負い死人を顧みず、風の発するが如く河の決するが
如く乱入して、ついに清秀は討死した。

その時、玄蕃助は勝ちに乗じて太刀場を取り、前は鯨波が地を響かし後ろは狼煙が天をかすませた。
風はふるい、旌旗は光を添えて日に輝く。甲冑は影を並べ、その威光は誰をもって争えようか。

この時、清秀が速やかに引き取っていれば、一化先は敵の勝手をなすとしても“勢に因りて之を破
る”との諺をもって、その尽くが居陣となったものであろう。

秀長(豊臣秀長)の陣所を始めとして、先手の陣取りは各々堅固の備であった。一陣が敗れて残党
も無事ではないといえど、士衆は一致して軍は心を結んだ。これまことに良将が軍を統べる故なり。

そうして江北の戦は相果てた。事が済んだ時、それより羽檄をもって件の注進あり。秀吉はこれを
聞いて清秀が討たれたために、甚だ深く哀憐した。

――『天正記(柴田退治記)』



撫で斬りを始めるぞ!

2019年02月14日 17:27

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/13(水) 21:40:26.13 ID:fNzNXtnx
河内国の武士で名を顕した、遊佐左衛門佐という者が居た。摂津と河内は隣接しており、
摂津の中川瀬兵衛清秀との間に防戦止むことなかった。

ある時、中川の従兵である木村七郎右衛門が守口の堤下を移動していると、遊佐がただ一騎物見に出てきたと
見えて、馬上やってきた。木村は堤下より声をかけ、不意に躍り出ると、遊佐は咄嗟に槍を取り直そうとする、
そこを刺して馬上からはね落とし、堤下に倒れると同時に押えて頸を斬った。
そして立ち上がろうとしたが、そこに遊佐を追ってきた配下7,8人が、鑓を引っさげて進んできた。
しかし木村は遊佐との戦いに疲れ、息も喘ぎ勝負がつかなかった。ではあったが、最後の力をつくし、
大声で「撫で斬りを始めるぞ!」と堤の上に飛び上がると、味方の兵これに気が付き後に続いた。
敵はこれを見て引き退いた。

木村は後に人にこう語った。「あのとき総勢が続かなければ、童子にも討たれていただろう。
遊佐の頸を取ったのは左程のことでもなかったが、最初に疲弊し息も上がり、その後危うくなってしまった。」

(武将感状記)

助けを呼ぶ時「撫で斬り(皆殺し)を始めるぞ!」って叫ぶの戦国らしくていいな。



676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/13(水) 22:09:20.45 ID:UttzCQRf
>>675
現代でも、泥棒と叫ぶより火事と叫んだほうが人が集まるらしいが、それの戦国時代版かなw

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/14(木) 12:12:40.18 ID:GlVcWKUV
木村「さあ、『皆殺し』を始めるぞ!」

漫画だったらすごいオーラ出してそうなシーンだw

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/14(木) 20:00:41.82 ID:RiNIEpAp
>>676
火事は自分も危ないからな

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 00:09:28.64 ID:ZfIZImEq
ヒャッハー!皆殺しだー!!
原哲夫の漫画っぽいな

斎藤内蔵助利三という光秀股肱の者で候

2018年09月21日 10:01

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/21(金) 05:57:48.32 ID:fX5WZda+
(山崎の戦いの時)

斎藤内蔵助利三は最初から今日は総敗軍と覚悟していたため、味方の敗走を見ても少しも屈せず、なんとしても
神戸三七殿(織田信孝)と一戦して今日の恥辱をそそぐべしと心掛けており、その子・伊豆守(利宗)と手勢を

整えてまったく動揺せず、静かに人数を進め山崎総構の東方の川を隔てて陣を立てた。その川は大河ではないが
近日降り続いた長雨によって水嵩は増え渦を巻いて流れた。ここに三七信孝の陣中より野掛彦之丞という者が

名乗りただ一騎馬を乗り入れ先に進んだ。内蔵助の子・伊豆守16歳、これも斎藤勢よりただ一騎川へ乗り込み、
川中で1,2度打ち合うと見えたが、双方押し並んでむずと組み合い水中へと落ちた。

これを見て斎藤の家士が一同に伊豆守を救おうと川へ乗り込むのを、内蔵助は大声を揚げて「武士の子16歳!
敵1人討てずして生きても甲斐なし! ただ捨て置け!」とこれを制した。その間に伊豆守は野掛の首を取って

下の瀬より岸に上った。これを切っ掛けとして敵味方は鉄砲矢戦となり討ちつ討たれつ喚き叫んで攻め戦った。
中でも内蔵助は大声を揚げて、「私は利仁将軍(藤原利仁)の後胤、斎藤内蔵助利三という光秀股肱の者で候!

恐れながら、三七殿にとって御親の仇随一の者である! 御自身で私を御討ち取り下さるべし!」と言いながら、
信孝の本陣へ父子手勢は必死になって切り入った。その時、中川瀬兵衛清秀の2千5百騎が横合より打って

掛かり、斎藤勢を引き包んで討ち取らんとした。これによって信孝は斎藤勢を散々に討ちなされ、過半が討死
したので内蔵助・伊豆守父子も叶わずして一方を切り抜け跡をくらまし落ち行った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


「筑前、早くも天下を併呑する気象あらわれたり」

2018年09月21日 09:58

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/21(金) 06:03:05.42 ID:fX5WZda+
山崎の戦いの時、神戸信孝(織田信孝)は斎藤利三勢に攻められるも中川清秀が横合より斎藤勢を
攻めたため、利三は敗れて落ちていった。合戦が済んで後、信孝は瀬兵衛清秀の手を取って戴き、

「今日、親の仇を討ち取ったのも、まったくそこもとの武功ゆえ!」と、感涙を流して感謝された。
その時、秀吉は駕籠に乗ってその様子を見て「瀬兵衛瀬兵衛、今日は骨折り骨折り」と言いながら

通り過ぎた。清秀はこれを聞き「筑前、早くも天下を併呑する気象あらわれたり」と申したという。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


かの大軍に気を呑まれてその指図に従われる

2018年08月29日 18:57

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 17:04:21.36 ID:K7i/dcnH
羽柴筑前守秀吉は摂津尼崎に着陣し、神戸三七信孝ならびに丹羽・池田ら諸将へ使者をもって申し遣わした。

「秀吉は亡君(織田信長)の仰せを受けて討手として中国に向かい、備中高松城まで攻め取った。しかし、
毛利は大国といい大軍といい容易には決戦しがたく、援兵を申し願った。毛利は亡君の武威に畏服し3ヶ国

を避け渡して降参和睦の盟約はすでになるに及び、まったく思いも寄らず賊臣・光秀は叛逆して主君御父子は
討たれなさったと長谷川宗仁の方より告げ来たった。秀吉はこれを聞き、切歯扼腕して怨恨限りなく、

腸を断たれる思いだった。よって1日も早く亡君の弔い合戦をせんと思い毛利と和睦し、毛利より弓5百挺・
鉄砲5百挺・旗30流の加勢を受けて、今日尼崎まで着陣したものである。

只今より早々に上洛して逆賊光秀を誅戮せんと存ずるなり。信孝公はじめ諸将の軍議はいかがに候か」

信孝はじめ諸将は早く光秀と一戦せんと思うものの、あまりに小勢なので容易には打ち立ちがたく、かれこれ
評議に10余日を送っていた。そこに秀吉が今度2,3万の大軍で上着したと聞いて大いに喜び、信孝・長秀

らは早々に舟で大坂から尼崎へ至ってついに秀吉と対面し、秀吉の大義・大忠を感嘆して喜ぶにもまず涙は
先立った。追々に諸将も会合して軍議を凝らしたところ、合戦の場所は山崎と定められた。

その時、池田勝三郎信輝(恒興)は「今度の光秀誅伐の先陣は某が仕らん」と言った。高山右近友祥入道南坊
は声を揚げて「今度の弔い合戦の先陣は某、二陣は中川瀬兵衛清秀、三陣は池田父子であるべきだ!

池田殿は順序を越えて先陣とは何事ぞ!」と、双方すこぶる争論に及ばんとした。

秀吉がこれを聞いて「池田殿は亡君の御乳母兄弟でおられるから、とりわけて御在世の御陣定めを変えなさる
べきではない」と言うと、池田も承服して静まった。よって先陣は高山南坊、二陣が中川清秀、三陣は池田

信輝と定まった。蜂屋頼隆は密かに傍の人に囁き、「三七殿は亡君の御子、丹羽は当家一二の老臣、池田も
亡君の御乳母兄弟だ。いずれも当家において歴々の輩である。尼崎へ秀吉が参着と聞きなさったならば、

秀吉をこちらへ招き寄せて軍議されるべきことである。それを三七殿も丹羽も軽々しく秀吉の方へ参謁し、
かの大軍に気を呑まれてその指図に従われるとあっては、秀吉は早くも天下の主と見える。

きっと光秀を誅せられて後には、天下は秀吉の手に落ちるだろう」と申した。この言葉は後に思い当たった。

――『改正三河後風土記』


荒木は思わず計らず、信長の敵と

2018年03月18日 19:10

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 20:24:38.14 ID:3TbVHzKY
天正6年の秋の頃より、摂津国有岡方面では雑説が流れ、しきりにこの方面の者達が
織田信長の敵に成るとの風聞が聞こえた。それはあってはならないことであると、
信長より織田政権の歴々が差し下され調査が行われるということで、荒木信濃守(村重)にも
雑説があったため、彼は茨木城まで移動し、そこから安土へと向かおうとしたところ、
茨木城の守備を担当していた中川瀬兵衛(清秀)がこのように諫言をした

「絶対に安土に行くべきではありません。安土に置いて切腹させられるよりも、摂津国表へ
軍勢を引き請けるべきです。合戦に及んだとしても、手に溜めず切り崩せるのに、安土に置いて
犬死するなど、沙汰の限りです。」

もう申し留めたため、荒木は有岡に立ち返り、思わず計らず、信長の敵となってしまった。

この時荒木は、国中の年寄共を集めて談合に及んだのだが、皆も中川瀬兵衛が申す所に
同心した。
その中で、高槻城守であり、高山飛騨守の息子である高山右近だけは
「言語道断である!荒木摂津守の普段の覚悟と相違した、曲事の仔細である!
信長の御芳志のかたじけなさを、たった今忘れ去り御敵申し上げるなど、
沙汰の限りである!」

そう、一人反対したが、彼以外は尽く中川の意見に同心し、高山の意見には同意しなかった。
ために是非に及ばず、高山も最後には摂津国衆の総意に同心した。

(立入左京亮入道隆佐記)

ちなみに荒木村重、「信濃守」は自称(受領名)で、「摂津守」は正式な任官ですね



611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 21:04:41.19 ID:jtiZDeeJ
このあと、清秀は右近に説得されて荒木を裏切るんだよね

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 00:21:49.38 ID:yFZe1MKP
そもそも荒木が翻身しようとしたきっかけも中川が原因なんだよな
早死にしても仕方ないわなこのオッサン

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 05:58:38.93 ID:jdyuLToD
でも賤ヶ岳だと…よく分からない人ですよね…

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 07:38:22.99 ID:4WKc0lBa
人望はあったらしい

「マジで!?」by中川清秀

2012年11月17日 19:57

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 20:43:30.29 ID:G4g5YLGa
「仏の嘘を方便と言い、武士の嘘を武略と言う」と言っていた明智光秀
そんな光秀が本能寺の変で天下を取った。

摂津衆の一人中川清秀は去就を決めかねていた。
光秀と戦うべきか味方すべきか。
というのも情報が錯綜し、本当に信長が討たれたのかよく分からなかったのだ。

そんなところへ秀吉が大返しで戻ってくる。
そして秀吉から受け取った書状には驚くべきことが書いてあった。


「信長公は生きておられる。」


「マジで!?」と思った清秀にさらに秀吉の書状は畳み掛ける。
「信長公配下の福富秀勝が比類なき活躍を見せて明智軍を撃退し、再興の機を窺っておられる。
某はただちに信長公にお味方し、光秀を討つつもりだ。そなたも我に協力致せ。」
もちろんこの情報は嘘で福富秀勝は討死しているのだが、
これに乗った清秀や池田恒興ら摂津衆は秀吉に付き、光秀は敗れ去ることになる。

自ら武略だと公言した武士の嘘によって滅びたというのは皮肉ではなかろうか。





天正10年6月5日、中川清秀宛秀吉書状

2012年05月06日 21:08

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 13:58:36.87 ID:cXPQZM+p
秀吉といえば有名な天正10年(1582)、本能寺の後の

『さてさて、我々が野殿(備前津高郡野殿)まで進軍したところで、あなたからの書状を見ました。
今日は沼(備前上道郡沼)まで進軍するつもりです。古左(古田佐助(織部))も一緒にいます。

…このような事を申している時に、喝采すべきことがありました。
只今、京より下ってきたものが申す所によると、上様(織田信長)、ならびに殿様(織田信忠)は、
何れも御別議なく明智光秀の襲撃を切り抜けられ、膳所ヶ崎まで退避成されたそうです。

その途中、福平左(福富平左衛門)は三度敵と戦い、比類なき働きをして、これにより何事も無く
退去できたそうです。
とにかく、先ず以て目出度きことです。我々も出来るだけ早く帰城します。

なお、今後も追々書状にて申し送りますが、あなたについては御才覚専一にて、ご油断無きようしてください。
恐々謹言

                羽筑(羽柴筑前守秀吉)

 六月五日
中瀬兵(中瀬瀬兵衛)
        御返報』

(梅林寺文書)

秀吉が中川清秀宛に、抜け抜けと信長親子が無事だと知らせた、有名な書状の内容である。






49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 18:01:06.64 ID:cTDmFpmn
信長親子どころか福富さんも死んでるんだよねw
長篠の時の鉄砲頭の一人で塙、野々村とならぶドマイナー三人衆の一人

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 19:15:33.20 ID:oBePxxQN
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1808.html
前に出ていたこの話では略されているゲヒ殿であった

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 20:06:58.11 ID:56scsTb7
「ふくとみ」さんだと思ってたけど「ふくずみ」さんって読むんだね。

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 20:32:56.06 ID:/2kd03X6
本当に現状認識が出来ていなかったんじゃなく、中川をだまして他の?

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 20:48:37.48 ID:mxoLBBcb
>>52
当然。日付見ればわかるように、毛利と和睦して大返ししている最中だぞ。

豊臣秀長の賤ヶ岳

2011年10月29日 22:00

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:04:43.54 ID:9Qm7ZXcp
太閤(豊臣秀吉)の別種同腹の弟を大和大納言殿(豊臣秀長)と云う。
大和、紀伊、和泉三ヶ国に封す。

彼は賤ヶ岳の合戦の時、中川清秀の敗死の時、それを見ながら救おうとせず、戦の首尾が非常に悪かった。
そのため秀吉は怒り、諸大名の居並ぶ座中で秀長を

「お前は俺とは種が違うわ!(身とは違種たり)」

と怒鳴りつけた。

この大和大納言には子がなく、秀次の弟を養子とした、これを大和中納言と云う。
(老人雑話)

賤ヶ岳の折の、豊臣秀長の戦ぶりについてのお話。




577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:11:08.59 ID:8gkfzpGY
>>576
豊臣絡みの養子はどこかクセがある

秀勝・・・若死
秀次・・・ラスボスのジェノサイド
秀秋・・・空気ブレイカー
秀家・・・世間知らず

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:12:24.93 ID:uD6DEZs5
人には向き不向きがあるだろうに…
時代が悪かったのか、兄貴が悪かったのか

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:13:11.33 ID:eGAHmx0f
秀長って娘いなかったっけ?

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:19:09.79 ID:8gkfzpGY
>>578
織田信長「アニキが悪い?」
伊達政宗「さてさて」
長宗我部信親「人によるでしょう」
武田信玄「そうなのか」
長尾晴景「アニキの苦労がわからないから言えるんだよ」
毛利隆元「ですよね」

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 20:32:57.08 ID:VS/j/0Kl
秀長は諸々を信じればかなりの年齢になるまで農民やってた計算になるが、その割に色々多芸だよな
武芸は知らんが書も和歌も領地経営もまぁこなしてるし
少なくとも負けるにしろ他の武将と比較されるレベルには達してるように思う
まぁ兄が色々酷かった(特に書とか)と言うのもあるが

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 21:15:55.95 ID:CkTUFiVV
>>584
三好吉房が結構教養あった人物なんじゃね
その縁で身についたとかとか>書

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 00:56:46.88 ID:7hXNx9WP
>>576
この逸話、戦死したのがあの中川清秀だから、
見殺されて可哀想とも思えないなw

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 01:01:32.09 ID:17zPE6cd
そういやへうげで、清秀さん討ち死にシーンなかったから残念だった…