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中川秀政の討ち死に

2018年11月23日 21:18

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/23(金) 10:19:09.75 ID:OgYlCKSq
中川秀政の討ち死に


中川秀政は父・清秀が賤ヶ岳の戦いで討ち死にした際家督を継ぎ、その後も
秀吉配下として各地を転戦し、摂津国三木13万石を領する大名となっていた。
文禄の役でも弟・秀成と共に三千余りの軍勢を連れ肥前名護屋に参陣した。
秀政は渡海し守備についていたが、10月24日水原城の辺りで鷹狩をしようとした。

秀政は家臣からの
「今は敵兵が四方の山々に満ちているのに、軽々しく鷹狩をするのはいかがか」
との申しに従わず、甲冑の上に狩装束を着て連れ行く兵にも具足で武器を持たせた。
しかし鳥を驚かせないために、付いて行く者は皆徒歩で馬は五、六町後に引かせた。
鷹狩で鳬(ケリあるいはカモ)、雁の類を、数多く捕らえたという。

その時日本の雑兵二、三百人が薪取りか刈田にでも出てきていたのだろうか
朝鮮人に追い立てられ、散り散りに逃げていた。
秀政はそれを遥かに見て
「彼の者どもを目前に討たせては、後日の嘲りを遁れることが出来ようか」
と言って笠を脱ぎ捨て半月を打った冑を付けて、馬に乗りただ一騎にて馳せ入った。
付いていた兵は徒歩の鎧武者なので、心は逸ったが後に続くことが出来なかった。

秀政は伯耆安綱が打った二尺七寸の太刀を持ち、真っ先に出てきた七尺余りの敵を
左の肩先から乳の下まで斬りつけると、馬から倒れ落ちて死んだ。
続いて金子寛という敵が組み付いてきたので、(秀政は)太刀を捨て共にもつれながら
馬から落ちた。
(秀政は敵を)押し伏せて首を掻こうとしたが、脇差が弓手(左手)の方に回って
取れなかったので、下にいる敵の剣を抜いて二度刺し通し大将を討ち取った。
「続けや者ども」
と秀政は呼びかけたが、傍にいるのは雑人ばかりで物の用には立たなかった。
付いていた兵も未だ駆け付けられず、その間に近くにいた敵が半弓から毒矢を放ち
秀政の脇壺を射った。痛手を負ったものの、(秀政は)その敵と組み合った。

この時ようやく五、六人の兵が駆けつけ、草履取りの市蔵が毒矢を放った敵を引いて
柳原源蔵がこれを斬った。
横田九左衛門光成、田島傳助、村治五郎大夫などは群がる敵を斬り殺した。
その間にも、兵が駆けつけたため敵兵は悉く逃走したという。

それから秀政を引き起こすと矢柄が中の方へ折り曲がっており、矢を抜いたものの
箆(矢の棒の部分)だけ抜けて、鏃は中に残ってしまった。
(脇壺は)急所であり深手だったが、ようやく水原城に(秀政を)運んだ。
(秀政は)同日の暮に卒した。享年二十五歳。
遺骸は城の傍らに葬り、目印に桜を植えたという。


――『中川家譜』



480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/28(水) 01:55:28.03 ID:oszB9Hdo
>>465
秀政の死については天正20年12月6日付中川秀成宛秀吉朱印状で触れてるね
秀政が部下を連れず単独で敵の番所へ視察に出て待ち伏せに逢い
その時の傷がもとで死んだと報告を受けた秀吉が軽率過ぎると激怒してる
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清正の赤鬼面

2011年02月21日 00:01

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/19(土) 22:23:18.17 ID:1PA64pC+
加藤清正鬼シリーズ

天正20年(文禄元年)(1592)、文禄の役、朝鮮に出兵した播磨・三木城主の中川秀政は10月24日、
現地での鷹狩の最中気がついたら敵兵に囲まれていた、と言ううっかりプレイで討死。
享年25歳であった。

さて、主君のあんまりな死に嘆き悲しんでいる中川家の家臣のところに加藤清正がやって来た。
そしてこの家臣に品物を手渡した。その品物を見て驚く家臣に清正

「これを与える。これで元気を出せ!」

「あ、あの、これは…?」

赤鬼の面であった

「この地で手に入れたものだが、おぬしに渡す!何時までもくよくよするのではないぞ!」

「は、はあ…」

家臣はよく解らない。何故赤鬼の面なのか?どうして赤鬼の面が自分を慰めることになるのか?
ただ単に清正が赤鬼の面が好きだというだけではないか?
様々な疑問をかかえ、ともかくもその家臣は赤鬼の面を持って帰国した。
が、だからと言ってこれをどうしたものかよく解らず、そのまま放置し、そのうちこの家臣も死んだ。
後継ぎなどにもその面についての言及はなく、完全に忘れ去られた。

時は流れ延宝3年(1675)、この家臣の子孫がたまたまこの面を見つけた、しかも清正の
寄進状と共に。こんなモノにもちゃんと寄進状を書いていたのですね清正公。
だが、やはり子孫もこれをどうしていいのか解らず、地元の月輪寺へと奉納した。

そのうちに月輪寺が赤鬼面と対になる黒鬼面を購入し、これを用いて鬼追いの祭礼を
行うようになった。これは「三木・大宮の鬼追式」として、現在も大宮八幡宮と月輪寺にて
神仏習合の祭礼として行われている。

清正寄進の面、なんだか色々あって祭礼となる。と言うお話。