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私ほどの者が磔にかかる時

2022年08月08日 18:40

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/07(日) 21:43:22.51 ID:SY5vKsav
豊臣秀吉公が小田原進発の時に、伊達陸奥守政宗(この時は左京大夫と称す)は参陣無かった事で、
秀吉公は甚だ怒り給われたのを、政宗聞いて小田原陣に至り、中村一氏に付いて

「それがしは関白殿の御門下に、必ず馬を繋ぐべき筋目はない。これによって日頃より、日和を見ていた所、
北条が滅びた後に、奥州へ御発向されるという風聞を承った。
然るに於いては、必定防戦は危ういと存じたため、日を継いで馳せ参った、
昔、源頼朝卿が千葉広常の遅参を咎められたような御気色が有るのは迷惑である!」

そのように言った所、秀吉公は御笑いあって
「政宗はありの儘なる者なり。」と、その罪を免ぜられた。

然るにその年の冬、奥州九戸に一揆が起こり、政宗もその味方をしているとの聞こえがあったため、
秀吉公は政宗を悪まれ、急ぎ上洛すべしとの仰せがあった。
政宗はこれを承ると、「私ほどの者が磔にかかる時、並々のものでは口惜しい。」
と、金銀にて装飾した磔柱を真っ先に持たせて上京した。

この頃秀吉公は伏見の城地を見て居られたのだが、政宗の上洛をお聞きになって、「ここへ来るように」
と仰せられた。このため伏見に参向すると、御側に招かれ、その日使われていた御杖(或いは扇子)にて、
政宗の首を押さえて

「その方が上洛しなかった場合は、かように申し付けようと思っていた所、速やかに馳上がった上は
これを免ずるなり。」と仰せになった。

政宗は畏まって、御前を退出したという。

新東鑑



328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/08(月) 02:29:08.03 ID:cS6asV3w
おぉ
金の磔柱の話は北条征伐の時の事と思ってたけど違う時の話だったのね
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北条氏政、氏照の切腹

2019年12月05日 18:31

638 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 18:09:28.65 ID:0N8R+1fU
小田原征伐は和睦と成り、小田原籠城の者達は、七月七日より九日にかけて、夜昼ともなく
引きも切らず東西南北に別れ去り、あたかも蜘蛛の子を散らす如きであった。

この時、豊臣秀吉公より北条氏政父子に使者を以て
『和平の証であれば、一旦下城あるべし。』と伝えてきた。

これを見た氏政父子は憤った
「殿下の言葉とも思えぬ!伊豆相模の両国相違無きと言われた以上、この城にそのまま在るべしという
和睦であったはずなのに、約を変じること心得かねる!」

そのように返答した所、秀吉公より
『そういう事であれば和談を破るという事であるから、元のように籠城せよ。いつでも戦って
攻め落とすであろう。』との返事があった。

これに氏政父子は進退窮まり、どうしたものかと考えたが、士卒たちは尽く退散した後であり、
今更籠城するような力も尽き果て、言語道断なる有様であった。
ここで徳川家康公より榊原康政を以て御異見が加えられ、同九日、北条氏政父子三人、および
氏照、氏邦ら伴って、城下の田村安栖(田村安清:北条家侍医)の居宅に移り、城は井伊兵部少輔(直政)、
榊原式部大輔(康政)がこれを請け取り、番兵を以て七口を警護した。そして殿下の命に任せられ、
翌十日には家康公が御入城された。

秀吉公は家康公にご相談された
「我々が遥々とここまで下向したのは偏に北条一族を根切りにするためである。であるのに
今尽く宥恕せばこれまでの発言への信用も無くなってしまう。である以上、氏政氏照は誅殺し、
氏直はそなたの聟であるのだから、今回のそなたの勲功に鑑みて死刑は宥し置く。氏房、氏邦、氏規も
またこれに準ずるべし。」

家康公はこれに御同心され、同十一日未の刻(午後二時頃)、検使として中村式部少輔一氏、
石川備前守貞清、蒔田権佐正時、佐々淡路守行政、堀田若狭守に、井伊直政、榊原康政を加えて、
千五百余騎にて田村安栖の屋敷を固めた。この時までに氏政父子に従う士卒は八、九百もあったのだが、
この軍勢を見ると等しく、我先にと続々と落ち去って残兵も僅かであった。

639 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 18:09:45.97 ID:0N8R+1fU
検使の面々は席に付くと、中村、石川が進み出て殿下の命を伝えようとしたが、余りに痛ましい事だと
思い、黙して言葉を発することが出来なかった。これを北条陸奥守氏照が察し、言葉をかけた

「各々のここまでの御来臨、定めて当家の一類に対する生害の催促なのでしょう。であれば
暫く沐浴の暇を頂き、その間待っていてほしい。」

中村、石川はこの言葉を得てようやく秀吉公の命を伝え、「心閑に用意有るべき。」と答えた。
その後、氏政、氏照は座に坐り、筆を取って傍の帖紙に辞世の和歌を書いた。

左京大夫氏政
 『雨雲の 覆へる月も胸の霧も はらひにけりな秋の夕風』
 『我身今 消とやいかに思ふへき 空より来り空に帰れは』

陸奥守氏照
 『吹と吹 風ないとひそ花の春 紅葉の残るあらはこそ』

氏照は属鏤匕首を取って腹を十文字に掻っ切った所を、家人が後ろに廻って首を前に落とした。
そして氏政、この時五十三歳も続けて切腹した。この時介錯する者が居なかったが、美濃守氏規が
近づいて介錯した。そして自身も腹を切ろうと太刀を取って肌を押し脱いだ所で、検使の面々が
急ぎ彼を掻き抱き「殿下の命は両将のみである!卒爾の義あらば我々の後日の落ち度とも
なりましょう!」と押し留めた。

この時、陸奥守氏照の侍童に山角平太郎という者があり、ここまで扈従していたのだが、検使の面々が
美濃守を押し留めている隙に氏照の首を抱き取って走り出したが、暫くこれを追いかけて奪い返した。
そして氏政の首と同様に、殿下の実検に備えられると、
「王命を恐れぬ不逞の臣である。朝敵にも等しい。」
として、石田治部少輔三成に下知して京に送り、一条戻橋にて梟首された。

衰勢興亡は世の常の習いであるが、早雲庵宗瑞より既に五代の運を得て、九十余年の暦を伝え、
類葉枝を連ね栄華は関八州に冠たる豪家が一時に滅亡したこと、時節の到来とは言いながら
なんと儚いことであろうか。

また、かの山角平太郎は氏照生害の後にあのような仕儀に及んだことで、井伊直政が召し連れて
陣屋に帰り徳川家康公にお聞かせした所、家康公は
「若年の身でありながら主人の首を奪い取ったその志、殊勝の振る舞いであり、奇特の者である。」
と称賛され、御家人に加えられ、後に武州多摩の関戸の郷に所領を与えられた。

(関八州古戦録)

北条氏政、氏照の切腹について。



640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 20:01:24.24 ID:GxYuEQnq
>>638
>これを見た氏政父子は憤った
この期に及んで何を言うとんねん(´・ω・`)

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 21:24:34.25 ID:1Oc8oAjB
嫌じゃ嫌じゃ死にとうない死にとうない

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 22:44:29.39 ID:qdHMo2wl
確かに山角はこんな修羅場ですげえ度胸だわ
多摩の関戸って小田原衆筆頭の松田家が代官するいい所貰ってんだな

式部が常に言ったことには

2019年03月19日 15:38

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/19(火) 12:16:11.37 ID:fiiPLwEn
駿河一国18万石は中村式部(一氏)に与えた。式部は6千石ずつを10人に与え、その他多く
人数を貯えた。式部が常に言ったことには、

「もしも関東で事がある時には、私は人数を率いて伊豆に出て戦う。城中には1人も残さない。
太閤の人を呼び寄せて、城を守らせる」

とのことであった。

――『老人雑話』



大指物の故であった

2019年02月22日 18:56

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/22(金) 13:51:48.28 ID:lJC8o5NJ
小田原の陣の際、山中城攻めの時、中村式部少輔一氏の従兵、藪内匠は度々の誉れある剛の者であったが、
この時も一氏の手の中で一番に城下に附いた。しかし本陣から遠かったため、総大将である秀吉はこれを見ず、
その後に藪の友である渡辺勘兵衛(了)が、鳥毛の半月の大指物を指し、黒い馬に乗り、ただ一人山の尾崎より
城に乗りかけた。これを秀吉は見て「何者か」と姓名を問われ、渡辺は感称に与った。
彼が武名を挙げたのは、大指物の故であった。

(武将感状記)

続き
藪内匠正照と渡辺勘兵衛



757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/22(金) 16:58:37.12 ID:CQQ3FpkM
証明できない一番乗りなんて意味ないよね

『蜻蛉不留(とんぼとまらず)』

2015年03月20日 18:41

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/19(木) 21:48:56.97 ID:Xlo9luNo
『蜻蛉不留(とんぼとまらず)』

中村一氏の家臣に、飯田新右衛門正国という剛勇の侍があった。
この人の父は越後守正義といい、父子共に一氏に仕えて度々の戦功を現した。

一氏は長男が誕生した時、この飯田正国を命名親として、幼名を一角とつけさせたほど、
正国を信任していた。

その頃、豊臣秀吉は正宗作の鑓を秘蔵し、これを「蜻蛉不留」と名づけた。
それは、ある時この槍の先に蜻蛉が止まると、たちまち二つに断たれ地に落ちたという事から、
天晴天下の名器なりと名付けられたものであった。
そして紀州根来退治の時、一氏の軍功に、秀吉より「わが秘蔵の鑓であるが汝に与える」と
下賜したのである。

一氏の嫡男一角が元服して一忠と名乗った時、この槍も一氏より譲られた。
しかし一忠は
「飯田新右衛門は、私が幼少の頃より武芸の指南をし。万事忠勤を尽くしています。
ですのでこの蜻蛉不留の鑓は、新右衛門に与えたいと思います。」と言った。

一氏も尤もだと思ったが、秀吉に一度伺いを立ててからでないと後日の咎もも測りがたいと思い、
その旨お伺いを立てると
「あの新右衛門か!彼は先年小田原討ち入りの時、二子山にて数ヶ所の敵の篝火を消した男だ。
その時の働き比類なかった。あの鑓は天下に二つ無きものだが、あの男が持つ事に
少しも仔細はない。

ただし、あれは鹿の腹籠の革で鞘を作っているのだが、他に同じものがあっては新右衛門の面目にも
係るであろう。であれば、今後天下に触れて、鹿の腹籠の革で鑓の鞘を作ることを禁止する!」

そう言って飯田新右衛門に与えることを許可した。この事は彼の評判を更に輝かせた。

時に、福島正則の家臣に可児才蔵という者があった、彼も名高き鑓の名人であったのだが、
飯田新右衛門が天下無双の鑓を賜ったと聞くと激しく怒り
「この才蔵を差し置いて新右衛門に天下の鑓を与えるというのは心得がたい!一度新右衛門と
鑓の試合をなし、何れが優れているか世の人に知らせ、かの鑓は私が奪い取る!」
そう人々に吹聴していた。

そしてある時、箱根の山中で偶然にもこの二人が鉢合わせと成った。
可児才蔵は言った「良い折りだ、私と試合をして腕前を試そう!よろしいか?私が勝てばその鑓申し受ける!」
これに飯田新右衛門「言うに及ばず!」と両人鑓を取って突き合う。
一時ばかりの間に、才蔵は三ヶ所、新右衛門は四ヶ所を負傷したが、勝負はついに決せず、
互いに再開を約し物別れと成った。
この事も、正国の名をさらに高くしたという。

(刀剣談)



756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/20(金) 02:26:54.07 ID:CQ3hmjb2
また蜻蛉が切られてしまったのか

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/20(金) 09:20:24.00 ID:tR6y122d
可児才蔵って何で自信過剰だったんだろう
主君から干されまくってるのに

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/20(金) 09:27:42.27 ID:3QC19a9C
試合形式だと宝蔵院の方が強そう

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/20(金) 09:56:35.68 ID:bS4Zoia5
日本号の時は何もしてないのにな

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/20(金) 15:12:52.01 ID:2aJzZiA7
正宗の時代に槍・・・あ(察し)

中村一忠、横田内膳成敗の事

2015年02月24日 18:28

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 06:48:04.59 ID:lsITlDED
中村一忠、横田内膳成敗の事

慶長8年(1603)11月14日、伯耆国米子において、中村一学(一忠)の内儀の額直しの儀(元服)の時の事。
この時一学は14歳、重臣である横田内膳(村詮)一人が奥へと通り、西の丸にて番の小姓を伴って戻り、
奥での祝の終わる頃には夜に入っていた。

横田内膳が退出しようとすると、一学は広間まで見送った。そこで内膳は「刀を預かって頂いていたので、
それをお返しいただきたい。」と言った所を、一学が突然斬りつけた。

一学は内膳に3度切りつけたが、3度とも内膳に当たらなかった。一学は若年であり、力弱かったために
刀もうまく使えなかったのである。内膳は身に当たらなかったためにその場から逃げ出した。
ここで一学の太鼓の師匠である安井誠一郎、当時700石を取っていたが、彼が内膳に立ち向かった。
安井も一学と談合し、横田内膳の襲撃に加わっていたのである。しかし内膳によって左の拳を斬られ
後ずさり行燈を踏み倒した。そこには奥の殿原が二人居たが、この太刀合わせに驚き逃げ出した。

しかし内膳が潜り戸を上げて外に出ようとした所を、近藤善右衛門が長刀にて突き殺した。

この近藤善右衛門に対し、横田内膳はかつて恩義を与えたことがあったのだが、近藤はそのことを
全く知らなかった。かつて中村一氏が、当時6千石を与えていた垣見豊後を扶持放しした時、
その6千石の内、3千石を家老たちに分配し、残りの3千石を物頭6人に使わすようにと命じた。
ここで横田内膳は、「近藤善右衛門にも500石を遣わされますように。」と申し上げたが、
一氏は同意せず座敷を起ってしまった。しかし内膳はこれに追いかけ、無理に願い上げ善右衛門に
500石加増するとの一筆を書かせた。しかしこの事は加増に関わる大事の事だったので、内膳も
善右衛門に一言も語らなかった。
近藤善右衛門は後に、もしこの事を知っていれば、長刀で内膳を突き殺すようなことはなかったのにと、
語ったそうである。

中村一学が内膳に斬りつけた時、内膳の茶道が一楽を後ろから斬りつけた。そこをとっさに、
一学の茶道である宗把という者が気づきこれを斬り殺した。後でその褒美として千石が与えられた。

横田内膳という人は、元は三好殿に仕えた牢人であったのを、中村一氏が咄物(御伽衆)として抱えた。
ある時重大事があり、中村一氏も焦燥し悩んでおり、この時「内膳の考えも聞かせてみよ」と言った所、
内膳の申し上げた意見は非常に優れており、その後数度試した後、一氏は彼に三千石を遣わし、さらに
妹婿に迎え、国の仕置を申し付けた。
内膳の仕置は、家中の者への対応も国郡の政治も非常に良きものであったので、門前市を成す状況となり、
人からの賞賛は大方成らぬものであった。

しかし、中村一氏の跡を継いだ一学が幼少であったこともあり、内膳も驕り、甥の横田勘解由・主馬などの
高い知行を遣わし、聟に六千石を取らせるなど驕りを極めたため、薮内匠、服部小膳などの他の重臣は
用心のため身を引き引退した。
そして内膳は歌舞伎踊り、物見遊山などの享楽も好んだ。これら故にこのように成敗されたのである。

(中村一氏記)

中村一忠による、重臣横田村詮成敗についての記事である。



438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 08:35:35.02 ID:Wnf+Ge+k
長刀の優秀さが証明されてしまったか

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 09:45:54.04 ID:2arNW6pY
格闘茶道の心得も必要なんだな

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 10:16:15.82 ID:mjEsQPk+
目潰しに茶を吹きかけるのだな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 16:19:39.76 ID:kZLRFJwv
横田内膳って家康にも目をかけられた人物で、ていうか家康の指図で中村家の家老に命じられているんで、その辺も影響してるんだろうな
「横田って将軍に気に入られてるからって態度でかくね?」
「ていうかスパイじゃね?」
みたいな

当然、家康が自分が命じた横田が殺されたことを看過するわけもなく、中村家はあっさり取り潰しになりましたとさ

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/24(火) 23:46:59.10 ID:NBwyUHkk
スパイというなら客将の柳生宗章だろ
こいつ家康の誘いに応じず小早川秀秋のとこで警護役してんじゃん
柳生一族をも殺したのは不味いよなあ

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 00:00:54.08 ID:ts3EH1ea
柳生宗章はくさい。
小早川に中村と、豊臣恩顧の大名のもとをぶらぶらしてるとこを見ると、ほんとうにスパイ臭い。
家康の誘いを断ったんじゃなく「スパイして来い。その功で取り立ててやる」とでも言われたんじゃないか。

同じような例に本田政重がいる。
こいつも豊臣恩顧の大名を渡り歩き、関ヶ原でも西軍として参加しているが、なぜか罪に問われず、どんどん出世していった。
最後は加賀藩の家老として7万石を領している。

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 00:06:18.12 ID:ts3EH1ea
>>442
まあそのスパイ臭い柳生を、家康に目をかけられていた横田が客将として受け入れていたんだから、ますますスパイ疑惑も深まるというもの。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 00:34:50.73 ID:FByVptBU
>>441
この件で中村家は取り潰されてないんだが…。
中村家はこの事件から5年後、一忠の急逝に伴う無嗣改易だぞ。

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 01:48:32.37 ID:ts3EH1ea
>>446
15歳の幼君だし、まだまだ諸大名の動向も不穏だったから、一時的に猶予されただけだと思うよ
一忠がくたばると、妾腹の男子があったが、正室が断固反対したため、無嗣扱いになって終了
ちなみに正室は徳川家康の養女w
家康―養女―横田―柳生のラインに逆らっちゃ生きていけないよ

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 01:54:09.98 ID:FByVptBU
>>447
そもそも5年前に20で急逝するなんて誰が解るんだよ。君みたいな考え方を「陰謀論」と呼ぶ。
根拠も一切無い、印象論だけで何でもかんでも決め付ける、学問として最もやってはいけない態度だ。

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 02:09:13.37 ID:ts3EH1ea
>>448
一忠が生きてても懲罰的減封ぐらいはされていただろうということ
猶予与えたけどダメで、そのまま死んじゃったから、正室と家康が組んで中村家潰した
家康目線だと、横田と柳生を殺した反徳川の家臣を排除にしたにもかかわらず駄目だったんで、
中村家自体が存続させる意味のないクズ家だと認識したんだろうさ

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 02:51:47.33 ID:FByVptBU
>>449
だから根拠が一切ないじゃないか。君の主張を裏付ける史料は何?
最低限それの傍証となる同時代史料を提示しないと。
それが出来ないのなら君の主張は全部、ただの思い込みに過ぎない。

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 02:55:44.98 ID:LTObXFfO
横田は家康に駿府を明け渡した人だからな~
家康のお気に入りであることは間違いなかろう
また先代の妹御を室にして外戚でもあり家老として申し分ない
戦国の世なら下剋上もあったろうが江戸じゃね
まあ子供がいなきゃ養子縁組が可能だろうが…
横田をスパイとするのは見当外れもいいとこ

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フロイス日本史より、岸和田城の戦い

2015年02月01日 17:36

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 21:18:35.19 ID:yxZSJj8x
羽柴がこのたびの戦いのために大坂を出発した後、根来および雑賀と称する仏僧らは、
かねがね自分たちが羽柴から好ましからず思われているのを承知していたので、
彼が戦争から凱旋してきた暁には来襲するであろうと見なし、彼の不在に乗じ、約一万五千名が一団となって出撃し、
羽柴が大坂に築いた新しい都市をすべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。
そして城を占拠したうえは、かつて信長が五年も六年も攻囲したかの僧(=顕如)を再びそこへおらしめることにした。
城と市には少なくとも戦えるほどの者とてはほとんど居なかったのみならず、当時はなお新たに建築中であったので、
城全体が開放されていた。
敵は徐々に前進し、途上幾つかの場所を破壊したり、焼いて行ったりで、四日ないし五日もかかった。
大坂にいた人々は、この有様では市は全滅してしまいまともな物は何一つ残るまいと思えたので、
あとう限り家財や衣服を搬出し、火の手が迫った家屋を放棄した。
市内外の街路には、すでに盗賊が充満しており、物を携えて歩行する者は、ただちに襲われて略奪される外はなかった。
こうした街路での略奪は、かつて安土山が焼き尽くされた時(=本能寺の変)とほとんど同じような様相を帯びるに至った。

当時大阪にはオルガンティーノ師が、いま一人の司祭および二人の修道士とともにいたが、急きょ家財をまとめて乗船することとし、
教会は火勢の赴くままに任せることにした。
もとよりオルガンティーノ師はそこから去るつもりは毛頭なかったが、キリシタンたちは、
「司祭らはたとえ同所に残留したとて不必要に死ぬだけであり、自分たちに多大の苦痛と悲嘆を及ぼすに過ぎぬ」
と言って退去することを強要したからであった。

この状況下に、羽柴は和泉国のキシワダという城に六、七千名の兵を率いる一司令官を配置した。
この司令官はすこぶる勇敢で著名であり、名をマゴイチ(=孫一、中村孫平次一氏)と称した。
そして同城は敵が必ず通過せねばならぬ道にあったのだが、敵は羽柴がそこに守備隊を置いていることを知らず、
実際に彼らが味わうことになったような強硬な抵抗のことを予想していなかったので、城は容易に奪取できるものと考えていた。
だが孫一は全軍を挙げて攻撃に出、敵に非常な損害を与え、短時間に四千余名ほどの敵兵を殺戮した。
五畿内においては、自らが討ち取った敵の首級を指揮官に差し出す習わしであったが、各兵士はすでに疲れていたので、
敵兵の耳だけを切り取って行った。
こうしたことは敵兵が大坂に到着する五、六里手前で起こったのであるが、
後方から進んできた連中のこの敗北はただちに大いなる反響を生むに至り、
前方を進んでいた連中は失望落胆して急ぎ引き返した。
彼らに対しては、足が悪い者や片腕の者、さらに老人や少年たちまでが立ち向かい、
彼らは勇気百倍して敵兵を片端から殴殺して行った。
もしも彼らに(夜間が迫るというような)都合の良いことが生じなければ、ほとんど誰も逃れることはできなかったであろう。


フロイス日本史より、>>609と同じ戦いの様子



616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/01(日) 09:02:54.29 ID:LLpilcH7
>>613
非常時に盗賊が跋扈するって見るたびに、やっぱりそれが普通でいまの日本人が世界的に見ても異質なんかなあと感じる

岸和田合戦

2015年01月31日 17:03

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 13:56:14.66 ID:u+cnralg
秀吉が小牧に陣を出す時、紀州の根来・雑賀の一揆を抑えるために、中村式部少輔一氏を
岸和田の城に置きなされた。

紀州の一揆は秀吉が大坂を打ち立つと聞いて、2万3千ほどの勢が二手に分かれ、一手は
東の山際から堺に向かい、一手は岸和田に押し寄せた。すると、血気にはやる若者たち
2,3騎が城を出て、攻め寄せる軍勢に向かって行った。

士大将の早川助右衛門、川毛惣左衛門は「引き返せ!」と、使いを送ったが、それを聞いた
一氏は、「このような時に、行き続く武者を引かせようとすれば、敗北するものだよ。
さあ、打ち出よう!」と、言って、“鉄蓋が峯”と名付けた兜の緒を締めて、城を乗り出した。

先に進んだ者たちは、菅笠の馬印を振り返って見て、「あっ、殿がお出になれた! この戦は
勝ったぞ!」と、言う間こそあったが、1万余りの紀州勢に対して面も振らず切りかかって
打ち破り、敵が七筋に分かれて逃げるのを追った。

一氏は3百ほどの勢で堂の池という所に控えて、先陣が帰るのを待った。そんな折に、堺海道に
馬煙が暗く見えた。これは堺に向かった敵が返して来たのだ。「新手の大軍に駆け合って戦う
なんて、思いも寄らないことだ。早く城に立て籠もろう!」と、人々が口々に言うと、一氏は、

「いやいや、退けば味方の気力が挫けて打ち負けることだろう。一寸でも退く時は、
先陣を捨て殺すことになり、城をも攻め落とされることになる。一揆は何百万といても、
先陣をさえ切り崩したならば、二陣はたちまち敗北することであろう。私に任せよ!」

と言い、敵が同時に攻め掛かり難い地の利を推量し、堂の池を前にして大敵をお待ちになった。

一氏は、「馬をことごとく城へ返すのだ。馬を引き付けておくと、引き退きたい心が生じるぞ」
と言って、床几に腰かけ、本陣3百ほどの勢は槍を膝の上に置いて片ひざをついた。

新藤勘左衛門は強弓、矢継早の手利きであった。彼はこの時、散々に射た。敵が射られて怯み、
手負いや死人が倒れ重なって躊躇った時、一氏は、「弓の者の羽壺(矢入れ具)を、勘左衛門に
渡せ!」と下知なされたので、勘左衛門はますますつがえては引いて、つがえては引いて、
矢に空矢は無かった。一氏は麾(ざい)を取り、「掛かれ!」と言って立ち上がった。

ところで、黒田如水は大坂にいたのだが、岸和田に敵が押し寄せると聞き、14歳になった
息子の長政が岸和田にいたので「いざ救うぞ!」と言って、7百ほどの勢で敵の後ろに駆けて来た。
これを見て一氏はますます進んで、喚き叫んで切って掛かり追い立てて、8百余りの首を取った。

如水が「長政はどうしているだろう」と思っていると、長政は黄羅紗の羽織を着て鹿毛の馬に乗り、
今朝討ち取った首を鞍の四方手に付けて馳せ巡った。それを見て如水はたいへんお喜びになった。

秀吉は一氏に感状を賜った。一氏は豊臣家諸将の中でも優れた勇将なので、加藤嘉明も羨み慕い、
息子の明成を式部少輔にしたということである。

――『常山紀談』



610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 14:32:25.26 ID:9HoDTP3/
信長を苦しめた雑賀衆が中村一氏ごときに追い散らされる様子が想像出来ない

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 21:11:47.00 ID:vlWoQ0Mm
孫一とかは秀吉側でしょ?
本能寺の時に逃げ出してから勢力を維持してるとも思えないけど

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 23:08:49.07 ID:23jTJFzj
>>610
根来雑賀は籠城戦では力を発揮するが野戦だとてんでダメなんだよなぁ

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 23:28:31.87 ID:TtK/bThA
つか雑賀は石山本合戦の講和のあと、内部分裂して争い始めてるしなあ。
それで雑賀の鷺森に退去してた本願寺顕如の身の回りも危険になって、信長がわざわざ警備兵派遣したりしてる

式部少輔は、太閤様に分別を申し上げた

2015年01月23日 18:52

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/23(金) 01:11:00.74 ID:TqpKgmMl
小田原の陣において、北条方の支城である山中城が激戦の上攻略されると、太閤様(豊臣秀吉)は
内府公(徳川家康)、信雄公を相手にしながら、中納言殿(豊臣秀次)、次に丹波の少将殿(豊臣秀勝)より
戦いの模様を聞いた。その中でも特に奮戦した中村式部少輔(一氏)に関しては
「式部少輔は中納言(秀次)に付けていたが、今度の手柄をよく吟味して、相応の取り計らいをするように。」
と申し付けた。その上で今度の戦いの褒美として、中納言殿に御腰物、御太刀、御馬、少将殿に御腰物、御馬を
遣わされた。

そうして太閤様は中村式部少輔を召し出し、自身が着ていた唐織の羽織を脱ぐと、式部少輔に手づから着させ、
「今度の手柄を奉行に申し付け、褒美として国を与える。」と直々に伝えた。
これに、その場に居並ぶ諸大名衆、残らず「尤もなことである」と、感じ入った体で、式部少輔の
冥加に叶いたる段、身に余ることであった。

所がそれに続いて、太閤様が仰ることには
「中納言に付いた人持ち(部隊長)には、私から羽織を与える。今回、山中に早く着いた順番に呼び出し、
式部少輔より渡すように。」
と仰せになり、小姓衆が羽織を一つ一つ運び、式部少輔の脇に置いていった。

これは内府公、信雄公を始めとした諸大名の面前で行われていたが、この事について誰も特に言い出す
様子はなかった。そこで式部少輔は、太閤様に分別を申し上げた

「今度の合戦の様子、軍勢についても如才無く運用されたと言いましても、早い遅いは、それぞれの心に任せて
出来るものではありません。何れの者達も、油断していたわけではないのです。そのことは御眼前にて
ご理解されていると思います。
従って、御羽織を拝領して頂く事については、一同に召し出して拝領させて頂きたいのです。」

これを聞いて、内府公は信雄公の方を向いて言った
「式部少輔の申し上げた事、尤もな発言であります。」

諸大名もこれに、どよめきたって同意した。そこで太閤様も「では、そのようにしよう」と仰せられた。

これは中村式部少輔が、私(渡辺勘兵衛了)を相手に語ったことである。

(渡邊水庵覚書)



592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/23(金) 13:51:16.13 ID:+CjCiSmu
これって中村一氏が一番乗りを果たした渡辺了への知行を値切る口実に使われた
「悪い話」じゃないの?

草履取りか下辺の者達が落ちてくる

2014年12月05日 18:31

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/04(木) 22:40:29.86 ID:xbFqXnl6
豊後富来の城主・垣見一直の兄垣見理右衛門の息子である飯尾甚太夫安延は、初名を太郎右衛門といった。
彼は16歳の時に奉公を志し、父の家を出て中村式部少輔(一氏)に仕えた。

この年、小田原の陣における箱根山中合戦があり飯尾もこれに参戦した。
彼の家人である岡村与次右衛門は老功の者であったが、飯尾に対しこう言った。

「敵の草履取りか下辺の者達が落ちてくるでしょうから、それを討つのが良いでしょう。」

飯尾は強く反発し
「それは士のすることではない!また討っても意味のない行為である!」

しかし与次右衛門は「是非これを討つべきです」と重ねて進めた。

こうして飯尾は何の手間もなく敵を突き殺して首を取り、それを式部少輔に見せたのである。

(黒田家臣伝)



949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/04(木) 23:15:02.20 ID:gDn526bq
で、どうなったの?
褒められたの励まされたの

中村一氏、三成の挙兵のタイミングについて

2013年04月26日 19:50

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 20:59:27.35 ID:56dO5KAK
慶長5年(1600)、関ヶ原の役
上杉征伐に向かっていた家康とその軍勢は、下野国小山で石田三成の挙兵を知る
この時、従軍していた中村式部少輔(一氏)はこのように言った

「石田の企ては、30日遅く、30日早かった。もし我々が上杉勢と交戦している最中に挙兵すれば、
彼の計画は図にあたっただろう。
また我々が江戸に到着する以前に挙兵し追い打ちをしかければ、大いに利があっただろう。」
(紀伊國物語)

中村一氏の、三成の挙兵のタイミングについての感想である。




392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 21:45:30.46 ID:/G2hYSqy
上杉と交戦しなかった家康がスゴイと思う

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 21:47:50.82 ID:y4biFIZl
小山まで従軍してたのか、亡くなる前後のはずだからてっきり駿府で臥せってるのかと

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 21:59:49.78 ID:uQnskR5u
>>392
交戦しようとした矢先に三成挙兵の報が入っただけ
それがなかったらそのまま上杉と交戦してる

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 22:05:04.88 ID:MI+/cINI
>>394
そういえば中田正光先生の『北の関ヶ原合戦 ~北関東・東北地方で戦われた「天下分け目」の前哨戦』で、
「上杉は家康と戦う気はなかった」と断言してた。上杉の面子を保つ範囲で家康との講和を目指していたとか。

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/25(木) 23:49:24.50 ID:o7TINGEP
>>393
史実では西軍が決起した頃に死んでる。

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 01:40:35.58 ID:FkzD9Ro4
>>397
そうか…
関ヶ原まで生きていてくれれば、タコを召喚して面白いことになっていたのに