這い出る病

2017年06月05日 21:11

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/05(月) 01:20:22.37 ID:wjxtjziB
丹羽五郎左衛門殿(長秀)には常々強い痞えがあった。にわかに胸先に
込み上げる折には、五郎左衛門殿は事の外難儀致された。

ある時、急に差し痞え、何ともしのぎ難いために五郎左衛門殿は脇差で
胸を突いて、すぐに卒去された。

その後、火葬に致したところ、病が火の中より真っ黒になって這い出た。
その病には首・足・耳などがあり、亀子(亀の甲)に似ていた。

家来の者どもは主人の仇であるので、近寄ってそれを打ち殺した。
稀有のことに付き、太閤秀吉公にそれを御覧に入れたところ、

「今後は、医者の考えにもなるであろう」との由にて、竹田法印の先祖に
与えられ、今もこれを所持しているとのことである。

いかにも常に痞える折には、胸の内を噛むように“めりめり”と歯の音が
聞こえたとの旨、己丑6月14日の夜に(松雲公前田綱紀より)拝聴仕る。

――『松雲公御夜話』


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「あざ丸」

2016年12月11日 16:30

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/11(日) 12:19:38.64 ID:wrFBh8rX
斎藤道三と織田信秀が合戦したとき、
千秋季光という武将が討ち死にした

季光は平景清が所持していたという「あざ丸」なる刀を差していたが、
後に陰山一景の手に渡った

その後、この刀を持って出陣した一景は、
牛屋山大日寺の寺内に陣を構え床机に腰を掛けていたところ、
敵方の城内から矢が飛んできて、
その矢が一景の左眼に深く突き刺さったという

一景はすぐさまこれを引き抜いたが、
また鋭い矢がまた飛んできて、今度は右眼を射潰されてしまった

この後、あざ丸は丹羽長秀の所持するところとなったが、
間もなく丹羽長秀は眼病を煩ってしまった

そのため、『あざ丸を所持すれば必ず目を煩う』という風聞が流布し、
丹羽長秀は周囲の勧めもあって、
この刀を熱田神宮に進納したところ間もなく眼病は回復へ向かったという

実はこの刀の最初の持ち主である平景清は、
源平合戦において『悪七兵衛』と呼ばれた男であったが、
源平合戦に敗北した後は怨みのあまりに
自ら両目を繰り抜いて盲になってしまったのだという

この痣丸は今も熱田神宮に奉納されているという




408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/11(日) 12:28:15.11 ID:HWGYWPFm
千秋家って熱田神宮の宮司だな
神主武将

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/11(日) 15:29:21.03 ID:L8TjvmB6
千秋さんの痣丸に因る死は以前出たと思ってたけどまだだったか
ついでに千秋家は桶狭間の前哨戦で佐々と一緒に突撃かまして全滅してるね

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/12(月) 18:46:41.12 ID:vfphFEwK
今年の漢字をやってた清水の観音様のところに百日参りすれば
悪七兵衛景清の奉納した両眼をもらって眼を治すことができたのに

秀吉の験の付いた大石を

2016年10月23日 15:52

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/23(日) 15:48:23.69 ID:Wm6PdRyD
天正4年、織田信長が近江国安土山に築城する時、この普請を丹羽長秀に仰せ付け、長秀は正月17日に
安土山に入った。諸国の織田家の大名も同じく安土に至り、四方より石垣のための石を採取し夜に日をついで
急ぎ輸送した。

この時、脇坂安治は羽柴秀吉の使いとして、下僕一人を従えただけで書状を持って安土に向かっていたが、
この途中、丹羽家の郎党たちが、秀吉の験の付いた大石を、人足数多に運ばせているのを発見した。
安治は怒鳴りつけた

「その石をどこから取ってきたか!?」

そう押し止めると刀にて石に結ばれた縄を切り石を落とした。怒った石運びの奉行の郎党たちは安治に
襲い掛かってきたが、逆に追い散らし、奉行も人質に捕らえた。

秀吉はこの安治の所業を聴くと激怒した
「かかる目出度い普請の砌に、このような騒動を起こすとは曲事である!安治を折檻せよ!」
ところが丹羽長秀が帰宅の途中、秀吉の屋敷に立ち寄り、安治の忠節を褒め、彼に様々に理があると言った。

これにより安治は許され、その年、知行百五十石を与えられた。

(脇坂記)



269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/23(日) 23:34:18.48 ID:0wNx8Ksp
安定の五郎左さんだが、そういや五郎左さんの織田家の序列って
どんなもんなんだっけ?

小説とかでは、佐久間追放後は織田家ナンバー2扱いだけど、
織田家四天王に入っている割には、石高が圧倒的に下で、軍団長にも
任命されずじまい。(好意的な視点では信孝の副将=実質的な総大将だけどさ)

信長末期時での立場とか考えると、光秀・勝家よりは下で、「信長の古参中の古参」
ということで、秀吉や一益よりは上(ただし絶対的な差はない)あたりかねえ。

織田信長が鷹狩を好んだのは、

2016年03月03日 18:18

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/03(木) 00:14:46.09 ID:23E5b8t+
織田信長が鷹狩を好んだのは、ただ逸楽の為ではない。万民百姓らが愁い申すことなどを
知ろうとする為であった。

されば、これは尾張国海東郡での事だという。ある時信長はただ一人、地味な格好で鷹を据えたまま
在郷を通っていると、老いた婦人が悲しんでいるのに出くわした。

「一体どうしたのだ?」信長が尋ねると婦人は
「これはお侍様、わが家が先祖より所持していた田畑を、里の長に横領されたため、今このように
飢えに至り、何とも涙がそぞろに流れるのです。」

聞いて信長は思った
『このように邪なことも、近年兵乱が打ち続き、制法と言うこともなく、ただ明けても暮れても
武勇のみを事とするように成ったためだ。これは、私の罪ではないか!
古人は言った。おおよそ民において、姦邪、窃盗、非法、妄行といった所業をする者は、不足があるから
生じるのだ。不測は度無きより生ずる。度の無き時は、小物は盗みをし大物は奪い尽くして、それぞれ
節義を知らない、などと言い伝わる。』

こうして信長は自らの政道が正しからざるを嘆きつつ帰城し、人も多い中、丹羽五郎左衛門尉(長秀)を
召して

「百町の里にてしかじかの事があった。急ぎ対応し、世の懲らしめ、又は式法にも成るように処置せよ。」

そう命じると、丹羽は即座にその里に参り老人(おとな)衆を呼び集め、事の様子を仔細に尋ね問うて、
先規の如く沙汰すると、かの老婦人、喜ぶこと限りなかった。
立ち帰って信長にこれを報告すると、「かの里の長は見せしめの為にも、永き先祖の所領を改易し、
かの老婦人に取らせよ。」と重ねて命じ、そのように計らせた。

これによって信長の領内では日を逐い月を経て、下の下に至るまで、自ずから淳直になっていくように見えた。
昔北条時頼が姿を変えて、六十余州をめぐり、摂津国難波の浦に至ったという話があるが、
これなどかくやと思われる。

(甫庵信長記)



410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/03(木) 02:13:36.07 ID:D9oiY5Ee
老婆に田畑を与えて耕作できるのか?
創作もたいがいにしろ

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/03(木) 06:48:04.64 ID:jcsXy8cn
>>410
老婆が一人暮らしという事を前提にしてるようだが

太閤は少しも物惜しみすることのない気質だった。されども

2015年12月01日 08:26

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/01(火) 02:36:06.63 ID:gLlmeV0S
太閤は心も言葉も行跡も、少しも物惜しみすることのない気質だった。

されども、加藤遠江(光泰)に甲州一国を賜るが、遠江が死ぬとすぐに取り上げて、
その子(貞泰)に2万石を与えた。

丹羽五郎左衛門(長秀)には70万石を賜るが死んですぐに65万石を取り上げて、
4万5千石をその子・五郎左衛門(長重)に与えた。

蒲生飛騨(氏郷)には会津100万石を賜り、四郎兵衛の裁判(蒲生騒動)以後、
80万石を取り上げた。

――『老人雑話』




津田信澄殺害

2014年04月09日 18:46

914 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/09(水) 02:32:41.57 ID:LF7xZMN8
(本能寺の変が起こった)当時、信長の三男の三七殿(織田信孝)はまだ堺にいて、彼の父が所領として
与えたかの四つの国(四国)を兵士たちとともに占領に赴く準備を整えていた。彼は父と兄への謀反及び
その訃報に接するや、引き返してその件に復讐するための準備を直ちに開始し、まず従兄弟の
七兵衛殿(津田信澄)を血祭りにあげて身辺を固めようと欲した。

七兵衛は信長の兄(原文ママ)の息子であり、信長が父の遺産の相続者に成ろうとしたため、七兵衛の父は
殺害されたのであった。この若者は信長の殺された者の息子であるとともに、明智の一女を娶っていたので、
彼が義父と組んでこの謀反を企てたのだと思わぬものは居なかった。

この若者は当時、信長の命令によって、丹羽五郎左衛門(長秀)と名乗る他の武将とともに、堺から
二里半ほどの所にある大阪城を警備していた。

信長の三男、三七殿の軍勢は、四国の諸国の征服に向かう彼に伴うべく、各々異なった地方から集合し
編成されていた。しかしそのため、謀反の報に接するや、兵士たちの多くは彼から離れ逃げ去っていった。
三七殿はそのため焦燥感をいだき、復讐という希望の実現が遅延することを非常に悲しんだが、自らの元に
とどまった軍勢を率い、信長の息子の親友である他の武将(丹羽長秀)と従兄弟(信澄)の居る大阪に
向かった。

この時、従兄弟は自分が殺されはしまいかと恐れ、三七殿が入ってこないように内部から盛んに懇請し
奔走していたが、様々な交渉の末、五郎左衛門の好意によって三七殿は大阪に入った。
そして二日間滞在したあと、三七殿は五郎左衛門と協議し、トルレ(塔)の最上段から出ようとせず
しきりに身辺を警戒していた従兄弟をいかにして殺害するかについて結論を下した。

彼らが考案した策略は、五郎左衛門が三七殿を船まで送るという、ごく普通の行為を装い、そこで三七殿と
五郎左衛門の家臣の間で騒動が起こるように仕組み、七兵衛の家臣らは城から出ようとせず、
七兵衛自身に至ってはなおさらで、疑いが現実になるのを恐れ外に出なかったので、この偽りの騒動で
五郎左衛門の家臣が敗北したように見せかけ城内に逃げ込んだところを、三七殿の家臣も追跡して入り、
一団となって塔の内部の七兵衛の居る場所を襲撃することであった。

その策略が実行されたあと、同所では、ある人々は七兵衛が自らの手で切腹したと言い、他の者達は
若い身分ある武士たちが彼を殺害したと述べている。

これにより三七殿が勇気と信用を獲得すると、ただちに河内国のあらゆる有力者たちは彼の元を訪れ、
主君として認めるに至った。
彼は従兄弟の首級を堺の街近くに晒すように命じた。事実、この七兵衛という若者は異常なほど残酷で、
誰もが彼を暴君とみなし、彼が死ぬことを望んでいたからである。

(ルイス・フロイス『日本史』)

織田信孝による、津田信澄殺害についての、フロイスによる記録である。





915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/09(水) 02:44:00.10 ID:JFOd6dae
信澄討ったのって上田宗箇だっけ?

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/09(水) 03:05:08.24 ID:cUyWbTYT
信澄には信包や森くっつけて九州任せようとしてたんじゃ無いかと密かに思ってる

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/09(水) 08:01:01.67 ID:Wq+OPh5f
信澄って暴君だったのか?

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/09(水) 08:53:08.44 ID:T6RTPCLC
キリシタンに興味を示せば・で仏教徒なら×
そんなもんだろ

丹羽長秀、危篤の時に

2013年08月19日 20:02

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/19(月) 18:30:01.36 ID:t/koTy7R
丹羽長秀は数年来の積聚に侵されて危篤の状態になった時、

「たとえどんな病気であっても、我が命を失わせるのならばまさしく敵である。
どうしてその敵を討たずして死ねようか」と腹をかき切り、腸を引き出した。

腸を見てみると奇妙な怪物が出て来た。形は石亀の如く、くちばしは鷹の如く
尖り曲がっていて、背中には刀の当たった跡があった。

長秀は自ら筆を執って事の次第を記し「我が家督の事を良いように処理してください」
と書きしたためて、腹を切った刀に積蟲を添えて御殿に献上した。秀吉はとても驚いて嘆き、
自ら筆を染めて「間違いなく子息に本領を与える」と固く誓った。

長秀はこの返事を披き見て「もう思い残すことはない」と言って亡くなった。

――『藩翰譜』




189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/19(月) 18:49:14.63 ID:8HWuks11
>>188
権現様「参考にさせて頂きます」

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/19(月) 19:00:37.73 ID:CUYyB3q+
有名な割に丹羽長秀の逸話って死ぬじきくらいのばかりなような

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/19(月) 19:07:24.98 ID:I74R3XdJ
>>188
そして子息にガッツリと減封につぐ減封を食らわせたと

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/20(火) 05:40:54.99 ID:+9AwLDop
織田の有力家臣はどうして嫡子がいなかったり若年だったりするんだろ
ふつう30歳辺りで子供が何人かいるよね

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/20(火) 13:15:07.24 ID:S8iFuCUq
>>193
なんかそれ、働きすぎのサラリーマンみたいじゃないか

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/20(火) 17:09:23.25 ID:L6kJ8zBX
>>193
年長の子が娘だらけだったりするケースもあるからね

若狭国の丹羽長秀より人魚が献上された

2013年06月25日 19:56

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/24(月) 23:52:29.75 ID:Abaz2w7h
天正七年の春、織田信長が在京の折、若狭国の丹羽長秀より
人魚が献上された。面も手足も人に違わず、長さは五尺ばかりであった。

その魚は岩の上へ登りかなり長いこと寝るので、その時を見つけて
取ったのだという。

――『当代記』




942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/25(火) 00:16:49.47 ID:0x6fxQUE
(アザラシ獲っちゃったのか・・・)

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/25(火) 05:26:45.58 ID:mgXUtgr/
人魚は家忠日記にもあったよね。怪しいスケッチまでついてたし

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/25(火) 11:11:19.73 ID:YoeW90r1
>942
トド(ボソッ!

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/25(火) 11:31:28.02 ID:lYIQgIMv
>>943
これかな?
http://blog-imgs-53.fc2.com/d/o/u/douzoukenkyu/20120721061053e72.jpg
20120721061053e72.jpg

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/25(火) 11:41:11.29 ID:SQzrYAdU
人面魚やんw

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/25(火) 12:26:13.34 ID:mgXUtgr/
>>945
それです。天正9年4月頃の日記に掛かれてるヤツ。
余白の部分にしかも横向きに書かれたオマケ的な内容。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772514/32

文面をそのまま引用すると

正月廿日二かん
てんちへあかり候
安土ニ而食人をくい候
声ハとのこほしと鳴候
せいハ六尺二分名ハ
人魚云

家忠日記は再発見されるまで保存状態が悪く余白には後世の落書きも
書き込まれてるそうだが、学者によればこいつの筆跡は家忠のものらしい。

丹羽長秀、任官を断る

2013年05月06日 19:52

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 07:31:06.78 ID:UwuGLQuO
丹羽長秀、任官を断る

天正三年信長、長秀に惟任の氏を賜り壱岐守に任じた。

長秀は「惟任については畏まり受け奉りますが、
壱岐守についてはご勘弁ください
某は若き時分より呼ばれている五郎左衛門のままでいたいのです。」

と達て申し上げたので、その望みに任された。

(名将言行録)


198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 08:43:05.61 ID:br2kSEcp
>>196
惟任じゃなくて惟住じゃね

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 09:43:17.03 ID:UwuGLQuO
>>198
判ってはいるけど、元本にそう書いてあったのでそのままにしといた。

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 10:10:09.55 ID:MqipYOaQ
丹羽丹羽丹羽丹羽長秀がいる

丹羽長秀の憤死

2013年05月05日 19:10

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 06:59:37.19 ID:L9T8304a
丹羽長秀の憤死

後年、秀吉天下を掴まんとするに、心平らかなるあたわず。
ひそかに信雄(のぶを)卿を助けて、織田家の再興を計りて果たさず、
一室に籠りて懊々たり。

疾病に罹り、晩年ほとんど堪えず、遂に刀を抜きてはらを割き、
塊物を抉り出して死す。

塊物亀形をなして、鷹觜の如きあり、背に刀痕を帯ぶ、
秀吉竹中法印に命じて、これを蔵さしめたりき。

(続 鳴呼古英雄)




543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 09:00:21.04 ID:GBiO5QUA
〉竹中法印に命じて、これを蔵さしめたりき

この部分の現代訳をご教授お願いします

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 09:11:55.39 ID:BkSiWucm
>>543
「蔵さしめる」は「蔵に納める」ってこと。
つまり丹羽長秀が腹から取り出した塊を、秀吉が竹中法印に命じて蔵に納めさせた、という事だね。

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 10:23:59.64 ID:OWxix9Q8
腹に納めて縫ったのかと思ったが
塊を秀吉に送りつけてた気がするから、やっぱり蔵に納めたのか

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 11:28:35.29 ID:GBiO5QUA
>>544
ありがとうございます。
そのニュアンスは、丹羽さんの覚悟を讃えて蔵入りか、
それともその覚悟を隠したくて蔵入りなのか、
どちらに読めばいいのか…いまいちわからない

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 12:13:35.78 ID:ulbPAqWe
丹羽長秀を検索したらフンドシ姿のお姉ちゃんが出てきて死にたい

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 13:44:02.91 ID:befZ1wQQ
激寒採点おばさんの悪口やめーや。

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 15:52:47.11 ID:+ZHacaZi
>>547
画像も笑えたけど、検索したついでにあったアンサイクロペディアがくそ笑えた
>「織田」と名前のつくチンピラどもが仲間割れを繰り返す厄介な国である尾張において、牧舎の鶏小屋で丹羽長秀は誕生した。ってなんだよw

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 17:17:42.91 ID:hl7L+R7x
丹羽には丹羽丹羽鳥がいる

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/07(火) 07:35:54.88 ID:WUvNQt0U
>>538
丹羽長秀の死に方の何が怖いって

「去ぬる十四日(天正十三年四月)に腹切り、終に十六日死去しおはんぬ」
(多聞院日記)

ってことなんだよな。
腸抉り出すほどの割腹して尚死亡までに二日のタイムラグがあると言う・・・

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/07(火) 14:19:54.01 ID:pCP2coqL
長秀が亡くなって以降の丹羽家はそれこそ波乱万丈の連続だったが息子は逞しく育ったな
決して世渡り上手の人ではなかったみたいだけれど

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 11:29:47.62 ID:97/v4Lob
>>567
多聞院日記はネタの宝庫だなー
噂を書きつけておくことが多いからビックリするような話が残ってて楽しい。

今度の野洲郡での合戦に

2013年05月04日 19:53

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 20:30:22.13 ID:5P/7dMEO
柴田修理亮勝家、丹羽五郎左衛門長秀らが、6,7千の軍勢で近江国野洲郡に侵入し、散々に町中を放火した所、
佐々木(六角)勢1万ばかりが馳せ向かい攻めかかったが、そのまま日を経て、川を挟んで
両軍対峙の形となった。

この時、六角方の杉坂いく兵衛という者は後方に残っていたのだが、戦況が心許なく思い
前線に見廻りに行きたいと考えていたのだが、それにはせめて、人数5百ばかりも連れていかねば
一方の固めにもならないと思うものの、その時は手勢2百ほどしか無く、このため比叡山へ行き
玄妙院の法印に会ってこのように言った

「今度の野洲郡での合戦に、多くの者達が馳せ向かいましたが、織田方を成敗したという知らせは
未だ承わらず、心許なく思っており、そのため私は陣中に見舞に参りたいと考えています。
しかしそのためには、せめて手勢5百も連れていかねば意味が有りません。

そこで、貴僧にお頼みしたいのは、この比叡山の百姓たちに古具足や錆鑓などを持たせて、3百人ほどを
合力していただきたいということなのです。
そのようにして頂ければ私はその謝礼として、あなたが頼もしき僧であると人々に披露し、
多くの寺領が付くよう宣伝しましょう!」

この頼みを法印は聞いて、『たしかに、こういう時に援助をすれば、侍の働きの役に立ったといって、
一層その栄誉が得られるだろう』と思い、それから若大衆や檀家と相談して、彼らの配下の百姓のうち、
誰の百姓を何十人などと組み合わせていき、そして古い腹巻を巻かせ、彼らの脇差からにわかにサビを
落とさせ、竹の柄を付けたり樫の棒を拵えてかづく者もあり、思い思いの軍装をした3百人の加勢を
提供した。

杉坂はこれに大いに喜び、5百の人数で野洲郡へと急ぎ、ようやく近くまで来て見てみると、
すでに合戦が始まっていた。

鬨の声、矢さけび、弓鉄砲の音、人馬の声、これらが天地を覆すかのように夥しい音量で
聞こえてくると、3百人の加勢は、もとより百姓であるのでこれを聞いて引き震え、胸騒ぎして
このように言い出した

「知行や所領を取っても、寺の得にはなるが、我々には一合の得にもならない。
このような弓鉄砲の飛び交う大事の場所に行っては、必ず一矢で死んでしまうだろう。
私はそんな目に合うのは嫌だ。お前たちはどう思う?」

こんな相談をしている内に、軍勢から一人抜け二人抜け、終にはガラガラと逃げ尽くして、
杉坂たちが「止まれ!止まれ!」と叫んでもまるで聞かなかった。
これには杉坂も法印も、ただ呆れ果てるより外無かったそうである。
(義殘後覺)




515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 20:47:32.34 ID:AlDhoViu
信盛「戦わずして逃げるとは…」
祐直「もってのほかにござる」
義統「左様左様」

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 20:49:42.64 ID:MYYccr3l
信長、三歳、秀吉「ちょっとそこに座れ」

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 20:51:33.36 ID:8SKGvBND
戦が始まって急に集めた兵はそりゃ逃げるだろうな~と思う

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 21:59:36.02 ID:LYD06Xrh
つか、このころの百姓で兵役に就いたことがないとか、まともな武具を持ってないとか、比叡山の荘園は平和なところだったんだね

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 22:04:39.72 ID:bzRKkpzn
>>518
真面目な話するとこの時代の惣村は、この手の軍役で人員を提供させられる場合正規の村の構成員は先ず出さない。
流れ者などを金で雇って提出する。なのですこぶる質が悪く、戦国大名からは何度もそういう事はするなという禁制が出されたが、
結局守られなかった模様。

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 23:57:25.99 ID:OvJz/j0O
坊主って自分の金と名誉のためなら、農民なんてゴミでしかないんだろうな

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 00:39:16.25 ID:hhH728Ol
マジレスすると戦国期の百姓は生産者として非常に立場が強く、荘園領主どころか戦国大名にとっても
その意向を無視して何かを推し進めるなんて不可能だった。
当時の慣用句に『百姓様ほどになりたし』というものまであった。身分的にも憧れられる立場だったわけ。

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 01:00:44.12 ID:3IO2wfWk
右から左と極端なやつばかりだな

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 01:26:43.92 ID:y4bTC+sM
一部の資料だけで日本全国そうだったと言うのは無理があるわな

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 02:52:09.17 ID:fivGPUoN
まぁマジで無茶振りなんかしたら逃散するか他の領主に帰属しちゃうからね

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 07:47:32.57 ID:BsjcJRCK
農業をしている人の中に百姓は含まれるが
農業労働者と百姓は違うぞ。
派遣と派遣会社の経営者くらいに。

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 16:42:45.80 ID:ufNsTbxQ
知ったか2ちゃんねる

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 17:42:01.67 ID:JTaylOhg
近江の惣村って織豊期から江戸初期にかけて何度も武器を取っての大規模な争い起こした記録残ってなかった?
領主や大名の制止振り切って惣村同士で大規模な同盟組んで争っていたような

まあ惣村間の戦いと戦国大名間の戦いのレベル差がどれくらいあったのかはわからないけど
瓶割り柴田が突っ込んできてる状況だしね

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/04(土) 17:57:42.73 ID:3IO2wfWk
だから百姓と一口で言っても
地侍や足軽に即転身できるような武装農民地主層もいれば
専業農民や武器なんて持てない小作人層も居るわけ

この話の農民は武器自弁も出来ない下層専業農民や小作人層で、
戦闘のど素人だからいざとなったらビビッテ逃げたと言うだけ

「お前たちは人間じゃない」

2013年01月28日 19:52

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 23:47:22.68 ID:HRn8JFsi
丹羽五郎左衛門の家臣に成田十左衛門(弥左衛門道徳)という勝れた武士がいた。

丹羽家の大きな領地が、子の長重の代には豊臣秀吉に取り上げられて四万五千石に
なってしまった時、成田は広間で「誰か我に一味する者はいないか」と言ったのだが、
座の者は誰一人として答えなかった。

「お前たちは人間じゃない」と、成田は言った。

後にこれが秀吉に知られ、成田は(出奔して隠れていた)伊勢で誅された。

――『老人雑話』




326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/28(月) 18:16:00.79 ID:C2ohUS3j
>>321
当時丹羽家で最大の重臣だった長束正家が、とっくに秀吉に取り込まれているんだよなあ…。

脇坂安治と安土城普請の石

2013年01月19日 19:57

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/18(金) 23:30:59.56 ID:FuIUEAbv
天正4年、信長は丹羽長秀に安土城の普請を命じ、
諸国の領主は夜に日を継ぎ、急いで築城に使う石を集めていた。
そんな中、脇坂安治は秀吉の使者として、書状を持たせた供の者と普請現場に差し掛かった。

ところが、そこでは丹羽長秀の郎党が秀吉が運んできた大石を
大勢の人足に運ばせ、持ち去ろうとしていたのである。

それを見た安治、「その石をどこに持っていく気だ!」

と押しとどめ、刀で石を曳く縄を切り、運べないようにしてしまった。
すると、邪魔された丹羽家の奉行の郎党人足がわらわらと打ちかかってきた!
しかし安治は逆に人足どもを追い散らし、奉行を捕まえて人質にしてしまった。

これを聞いた秀吉は、
「このようななめでたい普請のときに、騒動を起こすとはけしからん!安治を折檻してくれるわ!」と怒ったが、

そこに戻ってきた長秀(騒動の時は現場にいなかったらしい)が
秀吉の家を訪ねて安治の忠節を褒め讃え、色々と理もあることなので安治を許し、
忠節によりその年知行百五十石を領したのであった。

(脇坂記)




135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/19(土) 10:30:57.68 ID:N6QGvYvz
供出された石を現場を監督する丹羽が運んでるだけかと思ったw
かっぱらおうとしてたのか

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/19(土) 11:00:28.03 ID:BZ18TKHM
安土からかっぱらうとは大胆な奴らよの

丹羽長秀、上洛せず

2012年03月03日 21:51

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/03(土) 07:36:20.52 ID:T43T6MHy
天正11年(1583)

羽柴秀吉は7月に大阪に居城を築く。この頃参議に任官し、従四位の下に除し、その権威は添加に振動し、
各地の諸侯は我先にと大阪に馳せ上り彼の謁見を受け、皆その麾下に属した。

そんな中、丹羽長秀だけは越前に移って以来、秀吉に対し音信の使いも登らせず、この年の末になり
冬となっても上洛することも無かった。
これに秀吉は激怒し、使いを越前に派遣し長秀の態度を激しく責めた

『今私は天下の覇権を握った!禁裏を守護し、勅許を受け天下の兵権も掌握した。
そうであるのに長秀は、そんな私との約束に背き上洛してこない。一体どういう理由で私の側に来て
私を輔けないのか!?速やかに上洛せよ!』

この秀吉の言葉を聞き、丹羽長秀は更に激怒した

「秀吉は私のことを何だと思っているのか!?私はこれに返答すべき言葉がある!
汝(秀吉からの使者)は私の家臣を連れて、京に戻るが良い!!」

そして家臣の中から村上次郎右衛門義明を選び、自身の言い分を伝え、秀吉の使いに付けて京へと向かわせた。

義明が上京すると、秀吉はその周りを威儀厳重にしてこれを召し出した。
しかし村上義明はいささかも恐れること無く秀吉の前に出ると、こう声を上げた。

「長秀の言葉はこうです。当国(越前)に移って以来、国務は甚だ多忙であり、またこの北陸の地は雪深く、
冬になれば道を通ることすら容易ではない。その上、天下は既に足下が安定して掌握している。
それ故に私は、安心して在国して足を休めているのだ。

今、あなたが天下の覇権を握るのに、私もおおいに助力した。
それなのにどうしてこのように、私を甚だしく責めるのか!?そこをよく考えていただきたい!」

これを秀吉の前で言い放った義明の勇壮に、祗候の諸大名たちは皆驚き、秀吉の反応を恐れた。
が、この時秀吉は

「…私の言い過ぎであった。汝(秀吉の派遣した使者)も長秀に陳謝せよ」

と、義明に付けて再び越前へと送った。

この秀吉の態度に長秀の怒りも解け、秀吉、長秀は以前のように懇意の間柄になったという。

丹羽長秀が上洛しなかった事からきた騒動に関する記録である。
(丹羽歴代年譜)




245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/03(土) 12:03:58.61 ID:qXXkHXJx
最後の一文は・・・なぁ?

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/03(土) 14:09:23.04 ID:oZ3YvhSI
織田株式会社(新興ブラック企業)
丹羽長秀=部長
秀吉=平社員

20数年後、羽柴財閥(日本一の巨大財閥)
丹羽長秀=子会社社長
秀吉=羽柴財閥総裁

柴田、丹羽、池田と仲良く出来るわけないわ

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/03(土) 18:52:46.03 ID:xyzviczL
堺屋太一っぽいな
元記事の長秀を普通に格好いいと思ってしまったけど

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/03(土) 19:14:57.35 ID:U+Hrgor7
>>247
だって丹羽家藩祖の公式記録だもんw

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/04(日) 00:39:03.31 ID:u550q+Io
>>246
池田恒興は信長の乳兄弟で別格だし目障りだったろうな
小牧長久手の戦いの際に三河への直接攻撃を功にはやった恒興が秀吉に
許可を求めた事になってるけど、秀吉から命令された説もあるんだよな。
そうすると無謀な作戦で死を覚悟した鬼武蔵の遺言に合点がいく

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/04(日) 06:02:54.20 ID:6zNwtS2t
森家も目障りだったのかな?

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/04(日) 07:40:12.24 ID:eliJJb+0
秀吉個人としてみれば旧織田家中で目障りなのはいなくなったからな
長秀死亡時点で

長束正家の丹羽時代

2012年02月21日 21:51

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 15:24:43.89 ID:KPCabQ3p
今度は長束正家の丹羽時代

長束藤兵衛藤原正家は近江の産。彼は英才俊逸にて将帥の器量、勇謀は常の人のものではなく、
その上天下無双の算術の使い手であった。

かれは若年の頃から諸国を遊歴し、ある時、未だ小身であった丹羽長秀に、僅かの切米(サラリー)で
召し出された。この時正家は

「一人の食はこれで足ります」

と、長秀に仕えた。

以後、長秀の軍事を助けたが、その戦功、謀才は比類なく、まさに将帥の器量であり、
おいおい加増され、長秀が近江に転封になった頃には千石となった。
しかしそれとて、正家のそれまでの軍忠功労には全く足りない僅かなものであったが、正家は不満を
漏らすこともなく、むしろ諸臣を上回って戦功忠貞にいささかも怠ることがなかった。

天正に至ると、丹羽家世子鍋丸(長重)7歳にいたって、これに補佐の良臣を選ぶこととなった。
長秀は深慮により誰にも相談すること無く、突然正家に1万石を与え、棟梁の職の補佐として、
鍋丸に付くことを命じた。

この大抜擢に丹羽家の諸老臣はこの人事を喜ばないこと、甚だしいものだったという。
しかし正家は実直に長重を補佐した。

この、比較的軽輩であった正家を、俄に重職に付けたことは、後年太閤秀吉が、丹羽長秀の深慮の
素晴らしさであると、徳川家康に物語ったそうである。


(丹羽歴代年譜付録・家臣伝)





49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 15:34:09.28 ID:0g2MJ6pw
最後に負けちゃったから算盤得意な官僚みたいな認識になっちゃったんかね

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 16:56:36.20 ID:JsKOu3DC
>>49
実際には、軍功は無かったような。

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 23:09:31.57 ID:RQ7L1Xdl
>>48
正家の嫁さんが本多忠勝の妹らしいんだけど
忠勝は正家の助命嘆願しなかったのかね?

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 23:18:05.51 ID:dfb/uBpK
信之が東軍だった真田は擁護もできるがなぁ
思いっきり西軍に付いた上に伏見攻めの動きがある以上嘆願のしようが無いでしょ

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 23:27:47.03 ID:2aJOXZC0
>>54
謎が多いんだよな>長束正家の妻
本多忠勝の父は、忠勝が3歳の時に亡くなっているから、異父妹なんだろうがそれでも
長束正家と歳が離れていると思うし、真田家と違って積極的な交流をした痕跡は無いし

織田信澄討伐顛末

2011年10月22日 22:03

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 22:02:09.69 ID:nVKMcVLq
天正十年(1582)六月、丹羽長秀織田信孝の四国攻めの補佐として大阪にあった。
ここに、明智光秀が京の本能寺、および妙覚寺において、織田信長・信忠親子を弑殺したとの情報を得る。
長秀は切歯扼腕し、信孝と共に大逆の光秀を討つことを議した。
この時、織田信澄は、彼が明智光秀の婿であったのでこれを大阪の守備に残し、長秀・信孝は馬を走らせ
森口まで進んだ。

しかし、織田信澄はやはり明智光秀に与していた。

信澄は長秀たちが出陣すると密かに伊丹の一揆を大阪に呼び寄せ、長秀勢が明智との合戦に及べば
この一揆勢を持って挟撃する、という密謀を進めていたのだ。

時に、大阪に残っていた丹羽長秀の家臣である長束藤兵衛正家がこの情報を察知した。

長束はすぐさま急使を立て森口の長秀に伝える。長秀は知らせを聞いて驚愕し、すぐさま信孝の元へと行くと

「信澄は大賊の婿であります!更に長年それと親しんできました。先ずこれを誅するべきです!」

信孝も同意し、軍勢を大阪に返し、信澄の居る大阪城(本願寺の跡地に作られたものだろう)を、
信孝は搦手より、長秀は追手より攻め立て、ついに信澄を千貫櫓にて討ち取った。
ちなみに信澄の首を取ったのは、長秀の家臣、上田左太郎重安(宗箇)であったという。

時に六月六日。これこそ賊魁明智光秀に打撃を与えた、最初の一撃であった!
…と、丹羽家では記録している。

なにげに10年ほど後には有名になる人たちが活躍している、丹羽家においてはこう事になっていた、という、
織田信澄を討ち取った顛末である。
(丹羽家譜)




425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 22:36:17.23 ID:Mukm8SQ5
胸糞悪い話だ

秀吉、丹羽長秀に「天下の替り持ちを」と

2011年04月09日 00:00

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/07(木) 23:09:22.94 ID:uz9MhTJD
有名な話ではありますが

天正11年(1583)の賤ヶ岳の後、秀吉に協力した丹羽五郎左衛門尉長秀は、越前、加賀に123万石と言う大領を得た。
が、その頃から長秀は病と称し領地にひきこもり、大阪の羽柴秀吉のもとに現れることが無くなった。

秀吉はこれを大変に気にした。「本当に病なのだろうか?もしや領地が少ないと不満なのではないだろうか!?」
そこで密かに、重臣の蜂須賀彦右衛門正勝を長秀のもとに派遣した。

正勝は長秀に対面すると、秀吉の言葉を伝えた

『お具合はいかがでしょうか?あなたから受けた御厚恩は今も大変重く受け止めています。
そうではありますが、未だ紀州あたりの情勢も不穏であり、これらについて、相談のご相手になって頂けないでしょうか?
今後もあなたから、ご指南ご指図を承りたいのです。

聞くところによすとご病状も、少々良くなられたとのこと。早々に御上洛なされることを、お待ちしております。』

しかし長秀これに
「病状が未だ心もとなくてな。このまま国元で療養いたす。」
とだけ返事をした。

この報告に秀吉は大いに困惑した。秀吉のもとには中国や筑紫、あるいは佐々成政などの不穏な知らせが
次々と入ってきている。ここで丹羽長秀の支持を失えば、それに対応できないどころか、ようやく打ち立てた
彼の天下もたちまち崩壊するだろう。秀吉は起請文を書くと、それを蜂須賀正勝に持たせ再び長秀のもとに遣わした。

今度正勝の伝える秀吉の言葉は、こうであった

『今、私が天下を得たのは、ひとえに五郎左衛門尉(長秀)殿のおかげです。である以上、この上は天下を、
五郎左衛門尉殿と代る代るに持つ形にしたい、と考えています。

あなたが上洛されれば、その後のあなたの領地に秀吉が入りましょう。秀吉は大阪の城と天下を、あなたに
お渡しいたします。

互いにあれほど苦労して得ることが出来た天下です。それを他のものに渡すようなことに成れば、
惜しんで余りありません。
五郎左衛門尉殿に私が仕え奉れば、もはや日本国中に天下に望みを持つものは居なくなるでしょう。』

この書状に秀吉の起請を添えて、正勝は長秀に差し出した。

丹羽長秀はこれに涙を流して感激し、

「病気は嘘ではない。だが、早速上洛しよう。」

と、ついに病躯を押しての上洛を決意した。


秀吉、丹羽長秀に天下変わり持ちを提案する、というお話。





533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/07(木) 23:14:51.37 ID:mOu2UEhf
>>532
それにしても、こういう天下持ち回り的な話あちこちで聞く気がするけど他になんかなかったっけ

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/08(金) 09:29:07.81 ID:130sayDZ
ラスボスは、長重さんにひどいことしたよね^^

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/08(金) 11:06:58.77 ID:UquHEpbj
>>535
でもそんな経験があったからこそ維新まで大名家として存続できたんじゃないかな

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/08(金) 11:45:21.73 ID:ncElJvKB
>>533
> それにしても、こういう天下持ち回り的な話

ちょっと違うかもしれんが、明智光秀が本能寺の後、細川幽斎に「信長を殺したのは
貴殿の嫡子の忠興に天下を譲るため」云々と言ったりしてたな。

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/08(金) 12:14:03.46 ID:pYeLNEMs
自分が苦労して天下取ったのに
他人に差し上げる気前のいい人が
世界にどれだけいると言うんだろう

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/08(金) 13:55:45.47 ID:fZOsZYf6
>>539
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジュゼッペ・ガリバルディ

漫画みたいな人生だw

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/08(金) 17:12:30.20 ID:3c2S7Cau
明智さんの場合はほとんど衝動的な感があったからどうもね
未来に向けた投機的な謀反っつーより身を守るためにやむなく、な雰囲気がぷんぷんする
[ 続きを読む ]

丹羽長秀宛・柴田勝家書状より、濃美国境問題

2010年11月10日 00:02

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/08(月) 21:45:53 ID:A4Tw86r4
天正10年、本能寺の後秀吉によって明智光秀が討たれ、清洲会議によって
当面の体制が決まった。その頃出された、丹羽長秀宛、柴田勝家書状より


『尾張と美濃の国境のことですが、私の方にも御兄弟様(織田信孝・信雄兄弟)双方より
同時に言ってこられています。

この両国が御兄弟様に渡された以上、国境を決めて分けるのは当然のことではありますが、
三七郎殿(美濃を領有した信孝)は

「大河(大川)を国境にしないのなら、自分の家臣たちからは勿論、百姓たちからまでも
不満の声が出るのは間違いなく、領主としてそういうことは出来ない。」

とおっしゃっています。

三七郎様は前々から大河を国境とするよう主張されていますが、これを国境とすれば東部において
尾張の三郡が美濃に編入する事になり、これを目論んでそう言っておられるのでしょう。

三介殿(尾張を領有した信雄)は旧来の古木曽川(足近川)による国境線を主張し、
当然ですがご同心ありません。』


この、濃美国境線問題における対立は羽柴秀吉が漬け込む絶好の隙となり、
間もなく賤ヶ岳を引き起こし、織田体制を完全崩壊させることとなるのである。


織田家体制崩壊の端緒となった、信孝と信雄の国境問題についてのお話。




474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/08(月) 23:34:31 ID:7t9ra+0k
これは信孝が悪いのかな?

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/08(月) 23:41:20 ID:A4Tw86r4
>>474
おそらくこの頃川の流れが変わって、古木曽川が衰退しこの大河というのが現在の木曽川の
流れを形成し、尾張三郡が岐阜側から見て川の内側に入ってきたと考えられるわけです。

なので信孝の立場から言えば、行政の一体化から言っても川を国境とする慣習から言っても
国境の変更が正しく、信雄からすれば当然受け入れられない、という対立ですな。

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 00:09:39 ID:oqSRgyQZ
>>475

詳しくありがとう。
これは勝家も困っただろうね。

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 00:13:43 ID:y7kThAtc
江戸時代初期にも利根川の付け替え工事で
武蔵=下総の国境が大きく変わってるからなぁ

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/09(火) 00:14:29 ID:usvRIPA2
>>476
ついでに言うと信長・信忠が濃尾両国を支配していたときはどうも、その尾張の三郡は
美濃側の行政区域の中に入ってたっぽいのね。

なので信孝としても現地の領民としても、当然それが踏襲されるべきだと考えていて、
それに対して信雄が旧来の国境線を主張した、という感じみたい。