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先週、二本松城を訪れたところ

2023年03月08日 19:09

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/07(火) 22:57:50.86 ID:7zUYzkh2
先週、二本松城を訪れたところ、本丸に「丹羽和右衛門・安部井又之丞 自刃の碑」というものがあった。
横の立て札を見ると、戊辰戦争での落城に際して自刃した城代と勘定奉行の供養塔だそうだ。

そこには、前者の割腹の様子が「床几に腰を下ろし、膝の上に広げた軍扇に内臓をつかみ置いて、前屈みのまま絶命」
と説明があって、「これ、藩祖(という言い方でいいのかな?)に倣って、ってこと?」と思わずにはいられなかった次第。

いい話なのか悪い話なのか迷ったけど、この他にも壮絶な逸話を聞いた長州人の自分がちょっとバツが悪くなったのでこちらに



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織田七兵衛殿は日向守と

2022年10月25日 19:19

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/24(月) 20:06:31.59 ID:gtM3Sfj3
その頃(本能寺の変の頃)、織田三七(信孝)殿、同七兵衛(津田信澄)殿、丹羽五郎左衛門(長秀)殿、
この三人は大阪に在った。織田七兵衛殿は明智殿の聟であった。

信長公は中国の毛利の様子について羽柴筑前守(秀吉)所に遣わされた堀久太郎(秀政)殿が、備中高松より
敵陣の様子を見および罷り上がり次第、中国へ御馬を出すべしと思し召されていた。
右の三人は大阪より四国へ出船いたすべき者達であった。
ただし一旦出船を見合わせ、状況次第とすると仰せに成っていたのであるが、そのような中で日向守の謀反が
あったので、四国への渡海は中止と成った。

羽柴筑前守殿の所より、丹羽五郎左衛門殿へ密かに遣いが送られたという。その内容は

『織田七兵衛殿は日向守と、奥意は一味同心であると考えている。三七殿と話し合い、七兵衛殿を
討ち果たすべきである。』

との事であった。五郎左衛門殿も内々は筑前守の分別と同意であったため、七兵衛殿の御座所であった
大阪城本丸の外、千貫矢倉へ押し寄せ、鉄砲ずくめで攻撃し、即座に表裏無く討ち果たしたという。

このようであったからこそ、明智の叛乱は収まったのである。

川角太閤記

丹羽長秀たちが津田信澄を滅ぼしたのも、秀吉の示唆があったのか



624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/24(月) 20:29:02.69 ID:HhGvH5g8
6/2に本能寺の変
6/5に津田信澄が殺される
京都→備中高松城の秀吉→大阪の丹羽長秀
400kmくらいを3日で踏破?

殊ノ外ホメ奉ル

2020年08月21日 16:48

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/20(木) 20:48:00.62 ID:96SZy5U2
祖父物語』から
有名な話でほかの文献からのまとめ記事がありますが、一応。本能寺後の津田信澄の話。いろいろと記事では混乱が見られますが、そのまま記します

津田信澄明智光秀の指示で大坂に赴いたのは、織田信孝丹羽長秀に腹を切らせようとしてのことだった。
信澄は織田信勝の嫡男で、明智の婿だった。大坂天王寺の千貫櫓にいた。長秀は玉造、信孝は京橋口乾の角櫓にいた。
夜中に信孝の小姓が1人で長秀宅に向かい、「信澄の内々の用意では、信孝と長秀が明日、弔い合戦に出るところを討とうというはかりごとで、京橋に人数を出すと聞いている」
長秀はそのとき、「ずいぶん早いお出でですね。私も信孝様のところに参って御意を得ようと考えていたところです。明朝、弔い合戦に行く名目で軍勢をそろえてお待ちください。私が鉄砲を2発撃ちます。そのとき、采配を取って千貫櫓を攻撃してください。信澄の軍勢が京橋に出るのは幸いなことです。信澄の周りには侍200人ほどがいるでしょう」
打ち合わせの通り、翌朝長秀が鉄砲を2発撃つと、信孝が采配を取って千貫櫓に攻めかかり、即座に信澄の首を取り、堺にてさらし首にした。
「味方の者どもは信長公に(名誉の討死に?)遅れ、士気が落ちているので、まずはこの首をさらし、味方の勢いをつけるがためにやったのだ」と話していた。
信孝が弔い合戦に出陣したとき、信澄の首を板に打ち付け馬印のごとくにして持ち歩いていた。
池田恒興と羽柴秀吉はこれを見て、「お手柄、吉報です。必ずや明智は力を落とすでしょう。明智には子供がいないので天下はこの人に譲るものだと思っていました。お手柄です」と「殊ノ外ホメ奉ル」。



284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/21(金) 08:52:09.49 ID:CFIrcChl
秀吉も子がいないから秀勝を殺せばよかった

これによって柴田は敗北した。

2020年07月20日 18:31

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/20(月) 14:19:10.63 ID:ZrmSldMr
天正十一年四月二十一日、近江北部において柴田勝家、羽柴秀吉の両陣が相向かい睨み合っていた。
柴田は賤ヶ岳を攻め落とし、籠もっていた人数を討ち果たし、この時に合戦を企てた所、柴田方であった
丹羽五郎左衛門(長秀)、前田又左衛門(利家)が秀吉に属し、柴田の備に手勢を出し、これによって
柴田は敗北した。

秀吉はこれを追い、越前へ討ち入り、柴田居城へ押し掛けた。敗北の士卒が未だ城に戻っていない間に、
柴田の城に火を懸け、同二十四日に柴田が切腹したため、越前は平均となった。

柴田の妻女は城を出ず焼死された。これは織田信長の妹で、浅井備前守(長政)の後室であった。
この腹に浅井の息女が二人(原文ママ)あった。彼女らは乳母の才覚によって無事に城から出られた。
大阪の秀頼の御袋(淀殿)、並びに江戸将軍の御台所(お江の方)がこれである。

当代記

前田利家だけじゃなくて、丹羽長秀も本来柴田方だったという受け取り方も有ったのか…。



209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/20(月) 19:06:38.05 ID:AS+ANcNz
>>208
のちほど腹わたぶちまけた逸話があり、長重もひどい目に遭わされてるからなのかな
利家は優遇されてるけど

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 16:29:36.08 ID:vNuSlIAR
長重は酷い目にあったから大成したわけだしあれで良かったのさ。
じゃなかったら利常とのエピは発生してない。

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 21:21:32.00 ID:pwPPcnwp
>>210
にしても、賤ヶ岳や小牧長久手にも出陣し、
しかも小牧長久手は長秀の代理での出陣だからその時点で半ば家督継いでいたようなものなのに、
長秀が亡くなって正式に相続した途端に難癖つけられて、123万石→15万石→4万石の大減封はありえん…。
織田信雄が100万石→0になったのよりも減っているって、凄まじい。

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/23(木) 00:27:07.78 ID:AxVMh1z5
>>212
柴田も丹羽も、秀吉には邪魔だったんだね
佐久間が追放されてなかったらどうなっていたか
関連で、羽柴姓の由来ももうちょっと、真面目に考察した方がいいと思う

献上された人魚

2020年07月07日 17:38

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 13:33:40.85 ID:SGT8Vxh6
天正七年二月十八日、織田信長が上洛された。この春、信長公が在京の砌、若狭国の丹羽五郎左衛門(長秀)
が人魚を献上した。これの顔や手足は人と違わず、長さは五尺(約1.5メートル)ばかりであった。
この人魚は岩の上に登ってしばらく寝ており、その所を見つけ、これを取ったのだという。
この在京中に、三条の宗運という町人が、老父に至孝であるという事を信長公が聞かれ、諸役を免許し
米百石を下した。

当代記



381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 13:43:52.64 ID:1MncSJu9
足がある人魚?

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 13:49:11.85 ID:vnEUtyqx
半魚人?

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 14:13:15.68 ID:IvWV8E6Z
河童やね(適当)

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 14:59:52.28 ID:emopB1HD
>>380
福知山城に行ったら丹後浦にトドが迷い込んで捕まったという手紙が絵付きで展示されてた
多分トドじゃなくアザラシだと思った

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 15:10:02.84 ID:3vqzziLb
献上された人魚って食べるの?生け簀みたいなので泳がせるの?

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 15:34:01.50 ID:n4Ey8St4
海獣の類いでしょ
日本だと海獣以外にリュウグウノツカイを人魚と見間違えたという話もあるとか聞いたけど

やっぱ食べるのかな?海獣だったらしばらくは飼えそうだけど

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 20:50:16.68 ID:UOpvQdJP
>>380
八百比丘尼「食べなきゃ(使命感)」

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 21:48:27.41 ID:sY0DV/cH
家康も不老妖怪の逸話あったし権力者あるあるか

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 23:51:51.78 ID:OWOT8Gkc
>>380
家忠日記に人魚みたいな絵があったね、これのことかな?

と思って調べたら家忠日記のは天正九年に安土に揚がったヒト食い人魚のようだ

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/08(水) 00:01:29.70 ID:rjLtYiQe
戦国日本ヤバイ

清州会議後の情勢と丹羽長秀

2020年04月11日 14:48

969 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 01:21:52.15 ID:CIFVpg9h
秀吉卿は天正十年十月十五日、信長公の御葬儀を相勤め、以来城南の宝寺を城郭と成し(山城国山崎城)、
梁于を畿内に棟、万民を撫育し、城介信忠卿の御若君が信長公の嫡孫であったので、江州安土山へ据えられた。
北畠中将信雄卿を、若君が15歳に成らせ給う迄の御名代と成し、諸事御計らいあったが、これも安土山に
置き奉り尊崇した。頗る君臣親愛の様子が巍然としており、まさに忠臣と言うべき姿であった。

秀吉卿は真に小柄な人物であったが(秀吉卿ハ真小輩之人なるか)、数ヵ国を領するのみ成らず
若君を守り立てるというのも名のみであり、実際には天下の政務はこの人に有った。そのため
故将軍(信長)の如く、威は月を追って加わり、禄は年を追って増した。これ偏に離倫の才知、絶類の武勇に
よってのものである。

然るを、小智小見なる傍輩はこれを妬み、これを悪む事甚だ以て浅からず、とりわけ深く妬み思うは、
修理亮(柴田)勝家に極まっていた。京童のうち、秀吉卿に頼り幸いいみじき者を。柴田方の町人は
羨みつつ、越前に至って秀吉卿の威勢の程を語るため、妬心は日々に生じ怨みは月々に増した。
これ誠に、古今不易の同情である。

これによって、柴田勝家は瀧川左近将監一益と与し、縁者でも有ったので、相談して言いけるは
「秀吉は、今若君を安土に置き奉り、おのれは後見として天下の裁判自由に至り、是非に及ばずとは
この事どもである。彼は、贔屓のものにはその沙汰快しとし、頼る者には粗略がないという。
今、小さな葉の内に切り取らねば、後日斧を用いることに成るだろう(「両葉不去、将用斧柯」の故事)。」
こうして織田三七信孝にありましを申し上げ、秀吉を押し下さんと謀った。

かくて丹羽五郎左衛門尉長秀を「この赴きに与してほしいと御頼みされるべきだ。」と瀧川より指図があり、
信孝より三宅中記が派遣され、長秀へ委細に仰せに成ると、
「秀吉が後見であることを嫌い、他の誰かにその沙汰が及んだとしても、若君幼稚の間は悪口両説を
絶えて申すまじき事、よくよく思召しに成るべきです。」
とだけ申し、しっかりと「与する」という返事はなかった。

長秀はこのように考えていた
「天下の裁判は、中々勇猛に達しているだけでは、古今成らざる例、和漢甚だ以て多い。
武勇を以てすれば、柴田形には十に八、九目出度い事こそ多い。何故かと言えば、第一に柴田は信長公の
老臣において武勇の長であり、殊に北国には前田左衛門尉、佐々内蔵助、不破彦三、原彦次郎などという
歴々の勇者多く有し、その上勝家甥である佐久間玄蕃允、舎弟久右衛門尉、同三左衛門尉、同源六郎、
何れも確かなる者にて、まして武備あり。これ偏に柴田に対し肩を比べるべき人無き事瞭然である。

一方で、天下の器にあたる地位は、能き人を知りてそれを用いる実があり、度量大やうにのび、才知盡くし、
武勇に達しながらも武を以て事とせず、賞罰両輪の如く用いると雖も、賞を強く、罰を弱く施し、何事も
理の正に当たり、せわせわしくしない。法度の立てるべき本は、己を正しくして他を悪む事も大やうに、
広く衆を愛し、民を撫育し、財貨を愛さず、専ら威の柄をよく養う、という類にある。

970 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 01:22:14.21 ID:CIFVpg9h
私は久しく信孝、勝家、一益の行いを窺ってきたが、彼らは武勇を以て事とし、その他は勝れない。
これは鳥とすれば、羽翼が片方だけあるようなものだ。それでどうして自由を得られるだろうか。

秀吉卿は勝家より勇功は少ないが、江北浅井父子を敵として小谷の城に向かって対陣し、終に大利を得、
その後播州の強敵の中に在国し、これも程なく一国平均に治めた。これは一国から六国を滅ぼした秦の威に
似ている。殊に勇猛も且つ備わり、才知は古今に独歩している程に見える。であれば秀吉が天下を席巻
すること、掌握に覚える。
また、勝家が大利を得ても、若君をないがしろにしてしまうだろう。周公旦のような事は、昔でさえ
稀であったのに。今の日本でどうしてありえるだろうか。ならば何れであってもはかばかしき事は無い。
同じであればどうすべきか。」

そのように、家臣である由戸田半右衛門尉、高木佐吉、坂井与右衛門尉などに対し悲嘆した。

「大方は、秀吉こそ天下の器に当たるだろう。惜しいかな、華麗に身を飾り、自己の栄華こそ天下国家を
知っての本意であると思っている。また翫物喪志(無用なものを過度に愛玩して、本来の志を見失ってしまうの意)
の癖もある。しかしこういった癖病を除けば、賢君と言うべき人物だ。何にしても彼こそ天下の器に近い。
天下の器に当たる才は、天のなせる所である。天が作るものを、人の道としてどうして妨げられるだろうか。
思いもよらぬところだ。

信長公には御連枝歴々多く、大臣数多侍っていたが、明智を討つ時は、池田高山に在し、さりながら秀吉着陣を
待ち得てこそ合戦を始めた。であれば、則ち主君の怨敵を滅ぼしたのは実際には秀吉卿である。
その上故将軍(信長)御葬送を、莫大な費えも厭わず勤めたのもこの人である。あれといいこれと言い、忠義
甚だ多い。天が忠義を感じられること当然であり、秀吉は何れも天の心に合う所が多く見える。どうして天心に
背けようか。私は天理に従おうと、深く思う。」

そう密かに老臣たちに評した所、各々承り「御遠慮、御尤も宜しきと存じ奉ります。これ当家繁栄すべき
金言であります。」と限りなく喜んだ。

賤嶽合戰記

清州会議後の情勢と丹羽長秀について。



971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 09:24:41.45 ID:993hYZ3y
長秀さんが勝家に与したら情勢変わっただろうか
でも他の人も似たような考えだったのかもしれんし無理かな?

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 11:13:28.03 ID:V/uRSZPV
真冬に滝川を落とした秀吉が有利すぎた

ただいま私が天下に備わったのは、ひとえに長秀の御かげである

2019年02月09日 17:42

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 20:15:54.09 ID:GDNFNzGN
これは今における世間の沙汰で定かな事ではない。

丹羽五郎左衛門殿(長秀)へ加賀・越前両国の間に百万石を進ぜられたところ、五郎左衛門殿は病
気の由を仰せられ、まったく越前を出られず国に引き籠っておられた。

秀吉は聞こし召されて「患いでもあるのだろうか。それとも国が少ないとの不足か」と思し召され、
大坂より蜂須賀彦右衛門(正勝)を密かに御使者に立てられた。

「御患い如何でしょうか。貴様の御厚恩は今もって殊の外の恩と情思致しております。しかしなが
ら未だ紀伊国辺りも静まらず、かれこれ談合致す相手もございません。これからもますます御指南、
御指図をも受け申したいので、御患いも少々良くなりましたら、御上洛を待ち申し上げます」

と仰せ遣わされたところ、五郎左衛門殿の御返事には「患いも覚束ないので国で療治致します」と
の秀吉への御返事であったと聞いている。

秀吉が心許ないと思し召されて御才覚を廻され廻され、五郎左衛門殿に御聞き立てなされていると
ころに、中国や筑紫国、佐々内蔵助(成政)のところなどとで、廻文がまわっているように御耳に
届きなさった。

秀吉はまた重ねて彦右衛門に命じられて、霊社に起請を遊ばされ遣しなさった。その様子は、

「ただいま私が天下に備わったのは、ひとえに長秀の御かげである。この上は天下を長秀と替え持
つことに致しますので、長秀の御後に秀吉が参りましょう。大坂の城と天下を渡し申しましょう。
互いにそれ程までに仕立ててでも、余人に天下を渡すのは惜しいのです。このように入れ替わって
長秀を私めが仰ぎ奉りましたならば、およそ日本には天下に望みの人はおるまいのではと覚え申し
ます」

と仰せ遣わされれば、長秀は感涙を流して「患いも偽りではありませんが、それならば罷り上りま
しょう」と返事をされたので、秀吉は大坂より早打を御立てして御上洛され、「御人数を持ちなさ
れよ。私は紀伊国を討ち平らげる。大坂の留守居を頼み申す」と重ねて早打を御立てしたのである。

それから秀吉は五郎左衛門殿が人数1万ほどで上洛されると聞こし召され、道々に目付を付け置か
れて、早くも先手は大坂に到着した。五郎左衛門殿は京まで御着きになった。

今日には大坂へ御着きになられると申し来ると、秀吉は御道具(武具)一筋で御馬1騎、徒歩の者
20人程の体をなして平潟まで御迎えに御出になって長秀と御参会なさり、それから御同道で大坂
に御入りとなった。

ただちに長秀は屋形へ御入りになられ「ここで御振る舞いなされ」と秀吉が仰せなさると、長秀は
御挨拶に粗末な返答と振る舞いをなされた。秀吉は書院へ御立ちになられ、長袴に小さ刀で座敷に
御出になった。

「この上の大慶の目出度さ、身にあまるように存じ奉る」と互いに御入魂の様子が見え、御間柄残
すところの無いものであった。それから秀吉は御城に御帰りになられたところで、長秀は夜に入り
御登城された。ますますもってその御仲に隔ては無かった。これは申の年の事である。

――『川角太閤記』


百姓には似合わぬ事を致したものだな。

2019年01月31日 17:27

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/30(水) 19:25:29.45 ID:MBkW3Zlu
(柴田勝家の自害後)

秀吉は越前の国まで御上りになられ、越前一国と加賀半国を丹羽五郎左衛門殿(長秀)に進ぜられた。

そういうわけで、佐久間玄番(盛政)は賤ヶ岳の御合戦より越前敦賀の奥の在郷へと主従3人で百姓の
家へ立ち寄ったが、山路を伝った故に、ときを踏み杖にすがり、百姓にもぐさを貰ってときの口に灸を
致した。

家中の者は主人を装って「あの者は我々が召し連れている者で、ことのほか草臥れているから食べ物を
買い申したい。早く早く焼いてくだされ」と頼んだ。すると百姓めらは、「あのときを踏んでいるのは
主人だ。2人の者はとき踏みの家中の者か」と心中で見及び、「食べ物を焼かせて売りましょう。その
間に御休みなされ」と申して騙したのである。

そして百姓らに言い聞かせ、主従を棒で押さえ付けて召し捕らえたところ、推量したようにとき踏みは
佐久間玄番で2人は玄番の家中の者だった。

召し捕らえたことは同国北之庄に注進された。秀吉の御心には「無情にも縄を掛けたものよな」と思し
召されたが、是非に及ばぬ事の成り行きである。

秀吉は御心をもって玄番の縄を解きその身をゆるゆるとさせ、乗り物に乗せて道中を良いように労り、
それから「ただちに上らせよ。場所は宇治の槇島に置けよ」と仰せられて、道中を良く労わって玄番を
槇島に置いた。しかしながら、御番は堅く仰せ付けられた。

秀吉はその百姓めらを召し寄され、「百姓には似合わぬ事を致したものだな。見せしめのために、褒美
として機物にあげよ」と仰せになり、その時の12人を磔になさった。(>>700

――『川角太閤記』

“とき踏み”って何だろ…



706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 10:52:12.23 ID:a/3DMyKC
流れからして、鋭い物かな?
「鋭き」って「とき」とも読むらしいけど。

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 14:15:07.03 ID:hUh1KEi1
>>700>>705
百姓カワイソス…

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 14:44:27.80 ID:CgHfjAJq
>>705
文脈からだと刺じゃね

すなわち筑前こそ上様

2019年01月26日 20:03

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/25(金) 22:22:58.26 ID:r9OmiDI6
(清州会議後)

吉法師様への御礼次第の目録を作るにあたり、秀吉は信忠様に御目を掛けられたことを仰せになって、
吉法師様の御守りを望みなさった。これを柴田殿(勝家)ら各々は感心され、秀吉は大名衆の目録に御
入りにはならなかった。

吉日の日が来ると、御一家衆(織田一族)はもちろんのこと、大名小名も残らず太刀折紙を御持参と定
め、御一家衆などは早朝に並み居って伺候なされた。

吉法師様は御月代になされて長袴に小さ刀だけで、秀吉は上段に厚畳を2畳重ね、座布団の背後の上段
3分の1ほどに屏風を立て回し、その裏側に上臈衆や御乳の人を御置きになられた。

秀吉が若君様を御抱きになられて上段に上がりなさるのと等しく、御礼事は始まった。三七殿(織田信
孝)と成心(常真。織田信雄)、その他の御一門中は御目録の如く御礼され、次第次第に事は納まった。
これは直接の御参上である。

大名衆の目録は柴田修理殿が参上し、その他も目録の如く目出度く納めたと聞こえ申し候事。

屏風の陰に御乳人や上臈衆を御置きになられた御判断は、吉法師様が御存知のない供を御覧になられて、
御機嫌を損ねた場合は御乳の人を呼び出し、御乳などを差し上げなさるためである。その他に不断に御
側に付き添い周られている上臈衆を皆々屏風の陰に御入れ故、御機嫌を一度も損ねなかった。

考えのまわる衆中はこの様子を見出し、目配せや鼻で合図して陰で笑いなさった。その子細は、

「御一家衆の御礼を始めとして、直接の御参上である。謹んで頭を地へ付けられて御礼なされているが、
筑前守殿は若君様を御膝の上に置かれて、少し頷きなさっているだけで、まことまことに上様が御礼を
御受けなさるような作法と、ちっとも違わぬように礼を御受けになられている。

柴田修理亮や滝川左近(一益)、丹羽五郎左(長秀)などにとっては猶更上様の位のように拝見致す」

前述に申し上げたような考えのまわる衆は「あれを見なされ。筑前守を上様とあがめるのは、すなわち
筑前こそ上様。御一家衆も柴田を始めとした皆々も、筑前に欺かれたのだよ」と内密に笑いなさったの
だと聞いている。

しかしながらその御礼は目出度く納まり、大名高家に至るまで宿々へ帰られたと聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』


叛賊の光秀が予め計っていたことには、

2019年01月22日 17:57

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/22(火) 04:13:57.36 ID:lazxmLUg
叛賊の光秀が予め計っていたことには、

「柴田勝家は越前北庄に在城して越後の上杉景勝と対陣し、羽柴秀吉は毛利という大敵と合戦の最中、
佐々成政は越中にあって道は遠い。滝川一益は関東にあって北条を気遣い、容易に出軍は叶うまい。
三七信孝と丹羽長秀らは大坂にあって未だ四国へ発向していないから、この輩は弔合戦をしようと引
き返し、押し寄せるかもしれないと思う。

しかしながら、その中の織田七兵衛信澄(津田信澄)は光秀の婿である。その上、信澄の父・武蔵守
信行(信勝)は弘治3年(1557)に謀叛して信長公のために誅せられた遺恨もあるから、必ず我
に味方するはずの者ぞ」

と内々に頼み遣わすと、信澄は早速一味した。この時は四国発向のために順風を待ち合わせ、信孝を
始めとして丹羽長秀蜂屋頼隆も共に大坂城にいた。信孝・長秀は本丸に住し、信澄は二の丸にいた
ところを、光秀は謀を授け、「もし信孝を謀り殺したならば、その恩賞として摂津を半国授けよう」
と申し遣わしたのである。

信澄は願うところの幸いと大いに喜び、諸々謀を巡らせたが、その陰謀はたちまち露見した。信孝は
丹羽・蜂屋らと相談し、「それならばまずは光秀誅伐の手始めに、逆党である信澄を誅戮する!」と
軍勢を催し、二の丸を取り囲んで鉄砲を厳しく撃ち掛け攻め寄せた。

信澄も「覚悟したこと!」と手勢を指揮して手強く防戦しようとしたところ、その家人・匂坂民部丞
は「逆意であるからとても打ち勝つ戦にあらず」と思ったのか、丹羽に回忠して寄手を二の丸に引き
入れ、信澄はついに叶わずして上田左太郎重安(宗箇)のために首を取られた。

光秀がこれを聞いて肝を潰し、狼狽したことこそ浅ましいことである。

――『改正三河後風土記』


大坂には三七殿と惟住丹羽五郎左衛門殿、織田七兵衛殿の3人とその他小大名衆4,5人がおられた。
惟住五郎左衛門殿の所より秀吉が承ったことには、

「近日中に姫路へ御帰城の由を承りました。早々に御馬を急がされよ。拙者の次第も御弔合戦一つを
志してはおりますが、御存知のように七兵衛殿は日向守の婿であるため、きっと内心は一味同心であ
ると推量致して前の疑いは果てぬ故、大坂を出立しないのはそれが理由なのです。後から様子につい
ては追々注進させます」

と五郎左衛門殿より道中への早飛脚があったと、相聞こえ申し候事。

(中略)

これは羽柴筑前守殿の所から丹羽五郎左衛門殿への御内心と聞いている。

「織田七兵衛殿は日向守と本心は一味同心であろうと存ずる。三七殿と仰せ談じられて、七兵衛殿を
御討ち果たしなさるのが御もっともと存ずる」

この筑前守殿の御内心と、五郎左衛門殿も内々は判断を同じくしていたので、七兵衛殿の御座所の大
坂本丸の外、千貫矢倉へ押し寄せて鉄砲ずくめにして攻撃致され、道理も表裏もなく七兵衛殿を討ち
果たしたのだと聞いているが、まさしく明智合戦は収束した。

(あや表裏なく打果し申と聞え申候扨こそ明智軍はおさまりけり)

――『川角太閤記』



687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/22(火) 05:39:16.44 ID:mhxHrSOm
大坂城ってあったのか

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/22(火) 08:13:54.80 ID:PazeiqiM
>>687
名前は知らないけど、本願寺を応急措置で修復したものでしょ
ここを本格的な城にして安土の後の居城にするつもりだったって話もあるよね

滝川辰政の履歴

2018年10月21日 17:33

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 12:25:02.49 ID:D27mfuVN
滝川辰政の履歴


滝川一益の息子(五男とされる)辰政は、のちに池田家に仕え岡山藩士となった。
以下は本人が書いた寛永21年の身上書の抜粋&意訳。

一、祖父(一益の父)のことは存じません。近江国日野郡甲賀にいたということを
  人から聞きました。その縁で父(一益)は信長公から(甲賀を)与えられたのだと
  蜂須賀蓬庵(家政)様の家臣、益田宮内少輔が言っていたので、そのように
  承っています。

一、父は尾張国の賀伊道郷で生まれたそうです。北伊勢5郡と尾張2郡はその縁で
  信長公から与えられたのだと、当時のことを知っている人から聞いたので
  承った通りに書き付け申し上げます。

一、父左近に対して信長公が、関東を残らず与え、日の本(東国)の将軍に
  なるようにと御意があったことを、山上道及が直接伺ったと聞いています。

一、(父が)武蔵野での合戦に破れて帰郷した際、種々の事情で越前に私がいたので
  太閤様(秀吉)からそちらに行くようにと命じられ、(父は)越前まで五分の一
  というところで病気になり、62歳で亡くなってしまいました。

一、私は丹羽五郎左(長秀)殿の養子でした。しかし息子の丹羽長重殿が加賀へ
  転封になったときに、富田左近殿が太閤様にお取次ぎをしてくれました。
  織田上野介(信包)様のところにいた長兄の三九郎(一忠)が亡くなっていたので
  跡目として次兄の久助(一時)と一緒に預けられることになり、仕官しました。

一、(私は)少年のときに小田原征伐にお供し、児小姓の番衆として母衣を指して
  韮山城攻め、小田原城攻めにお供しました。そこで両城での奉公ぶりを
  上野介様に褒めていただきました。

一、朝鮮出兵のときも上野介様に仕えていましたが、備前国の伊部で同僚と喧嘩して
  出奔しました。岐阜少将(豊臣秀勝)様の家臣に津田筑後*の祖父と伊藤豊左衛門が
  おり、2人が以前父に仕えていましたので、その縁で一緒に朝鮮に渡り
  岐阜少将様に釜山海というところでお仕えすることになりました。

一、岐阜少将様が釜山海で亡くなられたので、浅野弾正(長政)殿の指揮下に入ることに
  なり"ちんちう"(晋州)という城を攻めました。落城させた際(私は)城内に乗り込む
  ことが出来たので、弾正殿と黒田如水殿にお褒めの言葉をもらいました。

一、帰国後、石田治部少輔(三成)殿に召し出されましたが、関ヶ原合戦の年の2月に
  暇乞いをしました。同年の4月に金吾中納言(小早川秀秋)様に召し出されました。
  合戦では奉公ぶりを評価されました。(そのことを知っている)存命の者が紀州に
  おり、他にも他国にいる小早川家の旧臣たちの知るところです。

一、小早川家をお暇し伏見におりましたところ、慶長6年8月に荒尾平左衛門(成房)が
  先の津田筑後から(私のことを)聞いて、(池田)輝政様の御意で播州に来るように
  とのことでしたので(池田家に)参り、知行二千石をいただき組頭になりました。


――『池田家文庫 家中諸士家譜五音寄』

* のちに鳥取藩の家老となる津田氏。出自ははっきりしないが織田信張の兄・寛維
 の子孫という。




379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 13:24:06.87 ID:s/79RoCk
見切りが上手いな。関ヶ原前に三成の元を去り、秀秋が死ぬ前に小早川家を去って池田家とは勝ち組じゃないか?

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 15:42:57.37 ID:POkXOWYA
>>379
確かに凄いw

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 15:50:35.07 ID:mVyr8C1X
>>379
そいえば、秀秋は関ヶ原後に半ば乱心していたらしく、生きているときにも多くの重臣が去っているらしい。

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 18:54:54.60 ID:TnZZlKuJ
信長は一益に関東一円の仕置を本気で任せる気でいたのか

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 19:05:03.92 ID:POkXOWYA
秀秋乱心はデマじゃないの?医者のこいつ酒飲み過ぎって診断記録が見つかってたような。

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 23:25:14.73 ID:W4mQ0TL+
乱心して酒ばっか飲んでたんじゃないの?

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 06:22:52.50 ID:0Ezlp1gF
アル中で素行が乱れてたから乱心扱いされたのかも

清州会議

2018年10月07日 16:05

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/07(日) 15:22:44.89 ID:KeNTnhbo
その日、秀吉は勢を分けて丹波亀山城をも攻め取り光秀の長子・十兵衛光慶をも誅殺し、信長公御父子を始め
本能寺・二条御所で忠死した人々を厚く改葬し、それより岐阜へ赴いて、

信長公の長子・三法師丸(信忠嫡子・秀信)に拝謁した。この時、柴田勝家も北国より馳せ上り信雄・信孝も
来会せられ、丹羽・池田などの輩も皆来会したところ、秀吉の計らいで三法師丸は今年わずか2歳ではあるが、

織田家の正統なので主君と定めて信雄・信孝両人を後見とし、信忠卿の御遺命であるからと前田徳善院玄以・
長谷川藤五郎(秀一)を保傅の役とし、三法師丸を安土に移した。また三法師丸が15歳になられるまでは、

信長公の所領の国々を諸将が配分して守護すると評定し、尾張は信雄、美濃は信孝、近江長浜に旧領を添えて
柴田、播磨と光秀が領した丹波を秀吉が預かり、丹波は以前養子と定めた信長公の末男・次丸秀勝(羽柴秀勝)
に授けるとのことだったという。これにつけても「秀吉の計らいは私無し」と言って人々は感服した。

若狭は丹羽、摂津尼崎は池田父子、伊勢長島は滝川に授けて5万石を渡し、3万石は蜂屋(頼隆)に授けた。
その他、近江30万石は三法師丸の賄料と定めた。何事も秀吉一人の沙汰としてなされ、信雄・信孝も一言も

加えること及ばなかった。丹羽長秀らはまったく秀吉の指示のままであえて異論を申す者もいない。柴田勝家
は大いに憤りを含んで秀吉の威権を嫉み、今日の評定の席上でも勝家は一人縁側へ出て投げ足をし、または

衣をかかげて尻を叩くなどして傲慢不礼の有様であった。このため丹羽は秀吉に囁き「ただいま四海は大いに
乱れている。貴殿に大望があるなら早く勝家を討ち果たしなされ」と言った。秀吉は大いに笑って、

「勝家は当家の元老宿将である。傲慢不礼も咎めるべきにあらず」と、少しも心頭にかけない様子に見えた。
さて諸将は三法師丸に拝謝して各々帰国に赴いた時、勝家は秀吉の帰路に伏勢を設けて秀吉を討たんとして

いるとの由が聞こえたので、秀吉は道を変えて早く美濃長松から近江長浜へと帰城した。勝家はこれを聞いて
自身は越前に帰るとして近江長浜を通行するという時に、「秀吉はどんな計略を設けているだろう」と大いに

気を遣い、美濃垂井の道で躊躇して大いに狼狽した。これを聞いて秀吉は大いに笑い、「私が何の遺恨あって
勝家を害するだろうか。心置きなく通行せられよ」と言って養子の次丸を人質に遣わすと、

勝家はようやく安心して木本辺りまで次丸を同道し国境より帰した。この時に人々は皆、秀吉と勝家の優劣を
察した。賤ヶ岳の戦いより前に、早くも勝敗雌雄は現れていた。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武家閑談・武徳編年集成)』



281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/07(日) 15:34:22.16 ID:Pi4MhT5K
>>280
>勝家は一人縁側へ出て投げ足をし、または衣をかかげて尻を叩くなどして
えぇ…w

妖刀”あざ丸”

2018年10月06日 19:06

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 18:49:49.54 ID:q4XVtgoD
天文13年(1544)、斎藤道三織田信秀方の大垣城を攻めた際のこと、
道三は近江国よりも加勢を請い、霜月(11月)の始めより大垣城へ押し寄せ、二重三重に
取り巻いて、持楯掻楯を突き寄せ突き寄せ攻めた。敵味方の鬨の声、鉄砲の音は山河を動かす
ばかりであった。

道三方の陰山掃部助という者、軍勢を分けて牛屋の寺院を焼き払おうとして向かったが、
床机に腰を掛けて諸卒を下知していた時、寺内より流矢が来て陰山の左目に二寸ばかり
射込んだ。彼はすぐにその矢を抜いたが、直後また流矢が来て今度は右目へ刺さった。
このため起きようとも起きられず、動くことも出来ず、ただ呆然としてそこに有った。

俄に両眼が射潰されるなど只事ではないが、その理由としてこのようなことが言われた。
かつて平家の侍大将であった悪七兵衛景清が差していた”あざ丸”という太刀を、去る
9月22日の大合戦(斎藤道三が稲葉山城に押し寄せた織田信秀を撃退した加納口の戦い)の
折、織田方で討ち死にした千秋紀伊守が最後に差しており、これを陰山が求めて差したのだが、
幾程もなく盲目と成ったことこそ不思議である。

その後この刀は、丹羽長秀の所有と成ったが、長秀もこれを所持して目を以ての外に患い、
さてはこの刀を所持した者は必ず目の祟に合うのではないかと沙汰され、熱田大神宮に進ぜようという
事となり、宝殿へ納めると、即座に眼病は平癒したという。

(甫庵信長記)

参考
「あざ丸」
怪刀痣丸・怖い話



273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 19:20:01.23 ID:FUVuOp6w
>>272
景清の刀が戦国時代まで残って使われてこんな騒ぎまで起こすとかロマンだ…。

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 19:22:53.02 ID:wcyDn2+q
景清「頼朝を討とうとしたら果たせなかった。
源氏の世を見るくらいなら我が両眼をくりぬいて清水寺に奉納してやる!」
をネタにした「景清」という落語を思い出した

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 19:52:21.68 ID:aW8FcG6c
>>273
残っているのはさておき、実戦で使うとは…。
当時でも価値は文化財的なもんじゃないの?

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 19:56:27.77 ID:bWFQtJT4
源平討魔伝か

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 21:39:33.79 ID:Ymc/oMUE
>>272
千秋も眼をやられて討ち死にしてなかったかな

昔、この逸話「あざ丸」がスレにあがったときは寺を攻めるんじゃなくて、敵城を攻めるときに寺に陣を敷いてたことになってるね

ガラケーなんで前の逸話を貼り辛いので貼らんけど

かの大軍に気を呑まれてその指図に従われる

2018年08月29日 18:57

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 17:04:21.36 ID:K7i/dcnH
羽柴筑前守秀吉は摂津尼崎に着陣し、神戸三七信孝ならびに丹羽・池田ら諸将へ使者をもって申し遣わした。

「秀吉は亡君(織田信長)の仰せを受けて討手として中国に向かい、備中高松城まで攻め取った。しかし、
毛利は大国といい大軍といい容易には決戦しがたく、援兵を申し願った。毛利は亡君の武威に畏服し3ヶ国

を避け渡して降参和睦の盟約はすでになるに及び、まったく思いも寄らず賊臣・光秀は叛逆して主君御父子は
討たれなさったと長谷川宗仁の方より告げ来たった。秀吉はこれを聞き、切歯扼腕して怨恨限りなく、

腸を断たれる思いだった。よって1日も早く亡君の弔い合戦をせんと思い毛利と和睦し、毛利より弓5百挺・
鉄砲5百挺・旗30流の加勢を受けて、今日尼崎まで着陣したものである。

只今より早々に上洛して逆賊光秀を誅戮せんと存ずるなり。信孝公はじめ諸将の軍議はいかがに候か」

信孝はじめ諸将は早く光秀と一戦せんと思うものの、あまりに小勢なので容易には打ち立ちがたく、かれこれ
評議に10余日を送っていた。そこに秀吉が今度2,3万の大軍で上着したと聞いて大いに喜び、信孝・長秀

らは早々に舟で大坂から尼崎へ至ってついに秀吉と対面し、秀吉の大義・大忠を感嘆して喜ぶにもまず涙は
先立った。追々に諸将も会合して軍議を凝らしたところ、合戦の場所は山崎と定められた。

その時、池田勝三郎信輝(恒興)は「今度の光秀誅伐の先陣は某が仕らん」と言った。高山右近友祥入道南坊
は声を揚げて「今度の弔い合戦の先陣は某、二陣は中川瀬兵衛清秀、三陣は池田父子であるべきだ!

池田殿は順序を越えて先陣とは何事ぞ!」と、双方すこぶる争論に及ばんとした。

秀吉がこれを聞いて「池田殿は亡君の御乳母兄弟でおられるから、とりわけて御在世の御陣定めを変えなさる
べきではない」と言うと、池田も承服して静まった。よって先陣は高山南坊、二陣が中川清秀、三陣は池田

信輝と定まった。蜂屋頼隆は密かに傍の人に囁き、「三七殿は亡君の御子、丹羽は当家一二の老臣、池田も
亡君の御乳母兄弟だ。いずれも当家において歴々の輩である。尼崎へ秀吉が参着と聞きなさったならば、

秀吉をこちらへ招き寄せて軍議されるべきことである。それを三七殿も丹羽も軽々しく秀吉の方へ参謁し、
かの大軍に気を呑まれてその指図に従われるとあっては、秀吉は早くも天下の主と見える。

きっと光秀を誅せられて後には、天下は秀吉の手に落ちるだろう」と申した。この言葉は後に思い当たった。

――『改正三河後風土記』


光秀利三最期

2018年05月07日 18:52

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/06(日) 22:15:38.38 ID:aEBf9EVt
山崎の合戦の後、明智光秀の残党は正林寺城に籠もった。
羽柴秀吉や織田信孝などの兵は、ここに明智光秀がいると見て、柵を付けてこれを攻めた。

その時、城より蟹江才蔵が向かい出て伝えた
明智光秀はここには罷り在らず!我らの命を助けられるのであらば、城より一人ずつ出て
何者か確認されて良い!」

攻め手は答えた
「ならば斉藤内蔵助(利三)を生け捕り我らに出せば、汝らの一命は助けよう!」

すると城方は内蔵助を生け捕って攻め手へと引き渡した。
この時より蟹江才蔵は三七殿(信孝)に付くことになった。

ここでも明智を発見することが出来なかったため、近辺を残らず捜索したが、ついに見つからなかった。
翌日、村井清蔵と申すものが、大江という在所より、金柑(ハゲ頭)なる首一つを持って
代官所に現れた。この清蔵によると

「この者、昨夜大江に参り『我を坂本へ連れて行け、金銀は思うままに取らせん』と言いました。
しかし百姓共は、『どうせ盗人の謀りである、ただ打ち殺せ!』と、これを撲殺したのです。」

丹羽五郎左(長秀)がこれを見て、すぐに光秀の首と解った。彼はこの首に噛みつき、歯を
きしませて
「汝を生かして、なぶり殺しにしようと思っていたのに!」
そう叫んだ。

その後、光秀の死骸を取り寄せ、首を継いで車に載せ、洛中を曳き廻し三条河原にて
逆さ磔にかけた。
斉藤内蔵助も車に乗せて洛中を曳き廻し、三条河原に生きながら逆さ磔にして3日晒し、
その後火炙りにした。

(祖父物語)



這い出る病

2017年06月05日 21:11

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/05(月) 01:20:22.37 ID:wjxtjziB
丹羽五郎左衛門殿(長秀)には常々強い痞えがあった。にわかに胸先に
込み上げる折には、五郎左衛門殿は事の外難儀致された。

ある時、急に差し痞え、何ともしのぎ難いために五郎左衛門殿は脇差で
胸を突いて、すぐに卒去された。

その後、火葬に致したところ、病が火の中より真っ黒になって這い出た。
その病には首・足・耳などがあり、亀子(亀の甲)に似ていた。

家来の者どもは主人の仇であるので、近寄ってそれを打ち殺した。
稀有のことに付き、太閤秀吉公にそれを御覧に入れたところ、

「今後は、医者の考えにもなるであろう」との由にて、竹田法印の先祖に
与えられ、今もこれを所持しているとのことである。

いかにも常に痞える折には、胸の内を噛むように“めりめり”と歯の音が
聞こえたとの旨、己丑6月14日の夜に(松雲公前田綱紀より)拝聴仕る。

――『松雲公御夜話』


「あざ丸」

2016年12月11日 16:30

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/11(日) 12:19:38.64 ID:wrFBh8rX
斎藤道三と織田信秀が合戦したとき、
千秋季光という武将が討ち死にした

季光は平景清が所持していたという「あざ丸」なる刀を差していたが、
後に陰山一景の手に渡った

その後、この刀を持って出陣した一景は、
牛屋山大日寺の寺内に陣を構え床机に腰を掛けていたところ、
敵方の城内から矢が飛んできて、
その矢が一景の左眼に深く突き刺さったという

一景はすぐさまこれを引き抜いたが、
また鋭い矢がまた飛んできて、今度は右眼を射潰されてしまった

この後、あざ丸は丹羽長秀の所持するところとなったが、
間もなく丹羽長秀は眼病を煩ってしまった

そのため、『あざ丸を所持すれば必ず目を煩う』という風聞が流布し、
丹羽長秀は周囲の勧めもあって、
この刀を熱田神宮に進納したところ間もなく眼病は回復へ向かったという

実はこの刀の最初の持ち主である平景清は、
源平合戦において『悪七兵衛』と呼ばれた男であったが、
源平合戦に敗北した後は怨みのあまりに
自ら両目を繰り抜いて盲になってしまったのだという

この痣丸は今も熱田神宮に奉納されているという




408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/11(日) 12:28:15.11 ID:HWGYWPFm
千秋家って熱田神宮の宮司だな
神主武将

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/11(日) 15:29:21.03 ID:L8TjvmB6
千秋さんの痣丸に因る死は以前出たと思ってたけどまだだったか
ついでに千秋家は桶狭間の前哨戦で佐々と一緒に突撃かまして全滅してるね

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/12(月) 18:46:41.12 ID:vfphFEwK
今年の漢字をやってた清水の観音様のところに百日参りすれば
悪七兵衛景清の奉納した両眼をもらって眼を治すことができたのに

秀吉の験の付いた大石を

2016年10月23日 15:52

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/23(日) 15:48:23.69 ID:Wm6PdRyD
天正4年、織田信長が近江国安土山に築城する時、この普請を丹羽長秀に仰せ付け、長秀は正月17日に
安土山に入った。諸国の織田家の大名も同じく安土に至り、四方より石垣のための石を採取し夜に日をついで
急ぎ輸送した。

この時、脇坂安治は羽柴秀吉の使いとして、下僕一人を従えただけで書状を持って安土に向かっていたが、
この途中、丹羽家の郎党たちが、秀吉の験の付いた大石を、人足数多に運ばせているのを発見した。
安治は怒鳴りつけた

「その石をどこから取ってきたか!?」

そう押し止めると刀にて石に結ばれた縄を切り石を落とした。怒った石運びの奉行の郎党たちは安治に
襲い掛かってきたが、逆に追い散らし、奉行も人質に捕らえた。

秀吉はこの安治の所業を聴くと激怒した
「かかる目出度い普請の砌に、このような騒動を起こすとは曲事である!安治を折檻せよ!」
ところが丹羽長秀が帰宅の途中、秀吉の屋敷に立ち寄り、安治の忠節を褒め、彼に様々に理があると言った。

これにより安治は許され、その年、知行百五十石を与えられた。

(脇坂記)



269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/23(日) 23:34:18.48 ID:0wNx8Ksp
安定の五郎左さんだが、そういや五郎左さんの織田家の序列って
どんなもんなんだっけ?

小説とかでは、佐久間追放後は織田家ナンバー2扱いだけど、
織田家四天王に入っている割には、石高が圧倒的に下で、軍団長にも
任命されずじまい。(好意的な視点では信孝の副将=実質的な総大将だけどさ)

信長末期時での立場とか考えると、光秀・勝家よりは下で、「信長の古参中の古参」
ということで、秀吉や一益よりは上(ただし絶対的な差はない)あたりかねえ。

織田信長が鷹狩を好んだのは、

2016年03月03日 18:18

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/03(木) 00:14:46.09 ID:23E5b8t+
織田信長が鷹狩を好んだのは、ただ逸楽の為ではない。万民百姓らが愁い申すことなどを
知ろうとする為であった。

されば、これは尾張国海東郡での事だという。ある時信長はただ一人、地味な格好で鷹を据えたまま
在郷を通っていると、老いた婦人が悲しんでいるのに出くわした。

「一体どうしたのだ?」信長が尋ねると婦人は
「これはお侍様、わが家が先祖より所持していた田畑を、里の長に横領されたため、今このように
飢えに至り、何とも涙がそぞろに流れるのです。」

聞いて信長は思った
『このように邪なことも、近年兵乱が打ち続き、制法と言うこともなく、ただ明けても暮れても
武勇のみを事とするように成ったためだ。これは、私の罪ではないか!
古人は言った。おおよそ民において、姦邪、窃盗、非法、妄行といった所業をする者は、不足があるから
生じるのだ。不測は度無きより生ずる。度の無き時は、小物は盗みをし大物は奪い尽くして、それぞれ
節義を知らない、などと言い伝わる。』

こうして信長は自らの政道が正しからざるを嘆きつつ帰城し、人も多い中、丹羽五郎左衛門尉(長秀)を
召して

「百町の里にてしかじかの事があった。急ぎ対応し、世の懲らしめ、又は式法にも成るように処置せよ。」

そう命じると、丹羽は即座にその里に参り老人(おとな)衆を呼び集め、事の様子を仔細に尋ね問うて、
先規の如く沙汰すると、かの老婦人、喜ぶこと限りなかった。
立ち帰って信長にこれを報告すると、「かの里の長は見せしめの為にも、永き先祖の所領を改易し、
かの老婦人に取らせよ。」と重ねて命じ、そのように計らせた。

これによって信長の領内では日を逐い月を経て、下の下に至るまで、自ずから淳直になっていくように見えた。
昔北条時頼が姿を変えて、六十余州をめぐり、摂津国難波の浦に至ったという話があるが、
これなどかくやと思われる。

(甫庵信長記)



410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/03(木) 02:13:36.07 ID:D9oiY5Ee
老婆に田畑を与えて耕作できるのか?
創作もたいがいにしろ

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/03(木) 06:48:04.64 ID:jcsXy8cn
>>410
老婆が一人暮らしという事を前提にしてるようだが

太閤は少しも物惜しみすることのない気質だった。されども

2015年12月01日 08:26

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/01(火) 02:36:06.63 ID:gLlmeV0S
太閤は心も言葉も行跡も、少しも物惜しみすることのない気質だった。

されども、加藤遠江(光泰)に甲州一国を賜るが、遠江が死ぬとすぐに取り上げて、
その子(貞泰)に2万石を与えた。

丹羽五郎左衛門(長秀)には70万石を賜るが死んですぐに65万石を取り上げて、
4万5千石をその子・五郎左衛門(長重)に与えた。

蒲生飛騨(氏郷)には会津100万石を賜り、四郎兵衛の裁判(蒲生騒動)以後、
80万石を取り上げた。

――『老人雑話』