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越中征伐陣立書

2019年02月10日 17:39

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/10(日) 14:33:09.70 ID:qKn6gYUk
以下は秀吉が越中征伐の際、従軍する加藤光泰に送った陣立書。


越中江先勢遣覚

  一番
前田又左衛門殿(利家)     壱万

  二番
羽柴五郎左衛門殿(丹羽長重)  弐万

  三番
木村隼人佐殿         三千
堀尾毛介殿(吉晴)       千
山内伊右衛門殿(一豊)     七百
佐藤六左衛門殿(秀方)     弐百
遠藤大隈守殿(胤基)      弐百
遠藤左馬助殿(慶隆)      弐百

  四番
加藤作内殿(光泰)       千
池田三左衛門殿(輝政)     三千
稲葉彦六殿          千五百
森仙蔵殿(忠政)        千五百

  五番
民部少輔殿(戸田勝隆)     二千五百    
蒲生飛騨守殿(氏郷)      三千五百

  船手衆
因幡衆            二千
長岡越中守殿(細川忠興)    二千
  以上
信雄         馬廻  五千
  都合五万七千三百

  七月十七日秀吉(朱印)
      
      加藤作内とのへ

――『陸奥国棚倉藩主阿部家資料』

大軍を率いる丹羽長重は若干十五才であり、家中の統制が利かなかったのか
越中において家臣が寺院への乱入や殺害行為をし、軍律を犯したとされている。



737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/10(日) 15:00:19.34 ID:bCEsbCEB
毛介・・・
清廉潔白すぎて獄死しかけた御仁か
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この瓢箪こそ賜るべきもの

2017年10月10日 10:19

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/09(月) 23:19:55.75 ID:6zdH1xbb
丹羽長重の将、江口三郎衛門の従者に出口藤蔵という者があった。
彼は剛勇にして戦功も少なくなかったが、傲岸不遜な性格のためはかばかしい所領を得ず、
齢既に60を過ぎていたが、録僅かに200石であった。

慶長5年、前田利長が大聖寺城を攻め、これを下して凱旋する時、丹羽長重は兵を出してこれを追撃し、
浅井山下にて戦った。
出口藤蔵はこの時後軍にあったが、「吾が畢生の功名を立てるべきは今日にあり!」と、まっしぐらに
敵陣に駆け入って縦横自在になぎ倒し、遂に敵将を斃してその頸を取り去ろうとした所、そこに敵兵
15,6騎駆け集まってきた。藤蔵は彼らの攻撃をとっさに防いだが、彼の斃した敵将の頸は奪い去られた。

この時、この戦場に藤蔵の妻が、半白の髪を後ろに結い上げ、手織りの麻衣をかいがいしく引き掲げ、
腰には短刀を帯び手には瓢箪を持って、足早に歩み来るのに彼は気がついた。

「あわれ我が妻、我に酒を与えん為に敵兵の中を健気にも来たれるものか」

藤蔵は両手を上げて差し招き「出口藤蔵はここに在る!早く来たりて酒を飲ませよ。見まごう事なかれ!」と
声を限りに呼んだ。
ところが妻はこれに応えず、逆に本陣の方に向かって行こうとしたため。傍らに居た兵卒が彼女を呼び止めた
「出口氏があのように呼んでいるのに、何故応えないのか?」

妻は言った
「いいえ、頸わずかに一つばかり、しかもそれを取り返されて追うことも知らぬ男に、私の夫だからといって
どうして言葉を交えることが出来るでしょうか?この酒は、主君に奉らんとわざわざ持ってきた物です。
卑怯者に振る舞うために持ってきたわけではない!」

そう言い捨てて本陣へと向かった。
この言葉を聞いた藤蔵は大いに感奮し、逸足出してかの首級を奪い去った一隊に追いつき火花をちらして
戦闘し、四方八面に追い捲り再び首級を取り返して、山下の本陣へと戻った。
この時彼の主人である江口は、藤蔵の妻が酒を持ってきたのを喜び、副将の南部右衛門と共に
瓢箪の酒を傾けていたが、藤蔵が首級を携えて来たのを見て大いに喜び、
「お前もこの酒を呑むべし」
と言ったのを、藤蔵の妻は傍らで止め

「その酒は、この瓢箪こそ賜るべきものであり、藤蔵が飲むべき理由はありません。
何故ならその首級を取り戻したのはこの瓢箪であり、藤蔵ではありません。」

これには藤蔵も笑いだし
「このババア、またしても悪口を申し出したり。せっかくの勲功も汝のために無駄骨折となったわ」

このやり取りに、陣中で笑い転げぬものはいなかった。

(今古雅談)

関連
酒瓢箪の仕業
江口三郎右衛門の家来出口とその妻、酒と泪と男と女・いい話



298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/10(火) 19:56:05.70 ID:fEscj1Be
こんな女絶対結婚したくねえ

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/10(火) 20:33:34.23 ID:o40fN3zB
大人しい女性ならともかく何十年と連れ添っていればたいていはそうなる

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/10(火) 20:57:37.46 ID:k1cXf0Y7
俺の嫁だったら絶対家で餅食ってるぞ
なんだかんだ情があるよこの夫婦

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/10(火) 23:36:54.30 ID:LIJlKtSs
詰まらせて死ねばいいのに

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/11(水) 11:32:31.80 ID:LNFCsoX1
戦陣に来るのはまあ無いと言えないが、戦場の最前線に酒持ってくるのはこの時代でも凄い

が、江口石見という者は

2017年01月10日 17:47

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/10(火) 04:28:01.89 ID:XIXVpzdu
 人の禍福は決まっているという事は、珍しくない事である。
が、江口石見(正吉)という者は、さしたる場も聞き及んでもなく、徳が有る人でもない。
されども、幸運な生まれつきなので丹羽五郎左衛門(長重)について万石を領した。
朝倉能登は首供養を三回もした武功の者であるが、北条氏康のもとで五百石を領したとか。

 茶臼と石臼の替わりがあるように、世間で言う福耳というものがあるのだろうか。
これを見て必ず羨ましがってはならない。
自分は自分で生まれ持ったものがあり、ふさわしくない事を願い無理に利を得れば滅亡することも早くなるのである。


『武士としては』

江口さんにやたら厳しい



丹羽長重が赦免された理由

2015年11月27日 17:47

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/26(木) 21:19:33.99 ID:UmHPvjDh
関ヶ原の戦いのあと、丹羽長重が赦免された理由の一つとして、
大相国家(徳川秀忠)が未だ童形であった頃、この長重と親しく語り合い、
『如何なる事があってもこの好を決して忘れない!』と、
固く誓った事があった。

このことを密かに家康に伝えた人があり、それもあって赦免に至ったのだという。

これを家康に伝えたのは、土井利勝だとも、本多正信だとも伝わる。

(藩翰譜)

徳川家康、息子の友だちならしゃーないと丹羽長重を許すの巻



39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/26(木) 23:43:35.70 ID:Anv+yfLZ
前田利常が人質だったときの逸話があるし、仁徳者だったんだろうね

拝郷次大夫の討ち死に

2015年10月09日 12:28

798 名前:人間七七四年[aaaa] 投稿日:2015/10/08(木) 21:22:35.29 ID:2LGsNHl9
前田筑前守利長の近臣に拝郷次大夫という者があった。拝郷の祖父は五左衛門宗直(家嘉)といって、柴田勝家の臣であり、賤ケ岳で討ち死にした。父は丹羽長秀に仕え、小松の城にいた。
次大夫は十六歳の時、加賀に行き、利長の寵臣となった。慶長五年八月、利長と長重が仇敵の仲になると、次大夫は「長重は旧主であり、父親も丹羽家にいる。父母の主君に弓を引くのは、武士の定めと言っても不義である」と思い利長に暇乞いに行った。
利長も感じ入り、この戦が終わったら必ず帰参するように申渡した上で暇を出し、次大夫は同僚に挨拶をし、小松に帰っていった。浅井縄手では次大夫が一番手として討って出て、松平久兵衛と槍を合わせたが、日頃入魂の間柄であったので、笑い通していた。[
続いて水越縫殿助と槍を合わせたがこれも同様であった。その後、岩田伝左衛門と槍を合わせたが、決着をつけようと組打の最中、伝左衛門に討ち取られてしまった。
利長は首実検で、次大夫の首を見、無慚に思い涙した。松平・水越らも次大夫を思い、立派な忠孝者であったと称した。

『元禎筆記』



799 名前:人間七七四年[no] 投稿日:2015/10/09(金) 17:14:18.64 ID:SbIuOL0o
次大夫「俺、この戦が終わったら前田家へ帰参するんだ」

丹羽家の太郎坊

2015年03月28日 17:33

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/27(金) 23:28:06.20 ID:5De09kWQ
丹羽家の太郎坊

加藤嘉明が会津四十万石を拝領して入部した時、白河にあった丹羽五郎左衛門長重は、かねてから
懇意の間柄でもあったので、会津まで入部の見舞いに行った。
これに嘉明は大いに喜び、酒宴を催して饗応し、酒も追々進んで興に入った時、嘉明はこのように言い出した

「今度のあなたの来臨は、どう感謝していいかわからぬほどである。
せめての事として、私が秘蔵する道具を進上しよう。」

そして太郎坊という刀を取り出し

「これは関ヶ原の一戦が終わった後、家康公より下された名刀なのだ。」

そう言って手ずから長重に渡すと、長重は大いに喜び厚く礼を言うと、どう思ったのか、
その日のうちに急ぎ若松を起って白河へと戻っていった。

翌日になり、嘉明は近臣たちを招き尋ねた
「昨日、酒の興に乗じて太郎坊を丹羽に譲ったような気がするのだが、まさかその通りか?」

「御意の通り、進ぜられました。」

これに嘉明たちまち不機嫌となり
「それは私が大酔して前後を忘却した上でしてしまったことだ!例の太郎坊を出せと汝らに申し付けたとしても、
遠慮して他の刀を出すべきなのに!
ともかく秘蔵第一の道具を人手に渡したのは是非もない次第である。急いで取り返すのだ!」

そうしてにわかに早馬をたて白河に向かわし、「件の刀は我家の重宝第一の道具であれば、返し賜るべし」
と申し入れたが、長重は

「重宝の賜り物ですから、お返し申すこと思いもよらず」

と、一向に取り合わなかったという。

この刀はもともと織田信長秘蔵の品で。明智光秀がこれを賜り、光秀が後にこれを愛宕山に奉納したのを、
豊臣秀吉が他の刀を納めてこれを取り出し、太郎坊と名づけた。その後徳川家康の所有となった。
長さは二尺三寸であった。

(刀剣談)





615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/28(土) 08:50:44.37 ID:oFwOfqpk
>>613
返せって言われたら

     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: :   | `ー-----' |__////

ってやれば多分大丈夫だろその刀
そもそも太郎坊は愛宕山に住む天狗の名前
一説によると日本一の大天狗(後白河法皇とは別人)

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/28(土) 11:11:49.18 ID:xiYsLJmM
>>613
懇意の間柄だったのに重宝がもとで…
しかしこの時代って返さない奴おおいな
ごうつくばりばっかり

北陸の関ヶ原の戦いの原因

2015年03月28日 17:32

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/28(土) 00:22:36.97 ID:cx1J4gVH
 慶長五年七月二日、家康公は武州江戸にご到着になり、御仕置等を仰せ置かれ、同二十一日、家康公秀忠公御父子は十二万余の軍勢を
率いて奥州へ向かいなされた。
景勝もかねてから支度していて、城々を堅固に守り、自らも二万余騎を率いて白川口へ出張る。
 利長も本国へ馳せ下り、近隣の勢に会津攻めの軍勢を出すよう促し、小松の丹羽長重にもその旨を達した。

長重が思はれるに、
『心得ぬことだな。去る頃、内府が利長に謀反の企てありとお疑いになったあの時、内府から頼まれてやむなくその周囲を探った。
利長との長い厚誼を振り捨てたのだ。これは忠義のためである。たとえ利長の陳謝がどのくらいであろうとも
内府はわしに知らせてから、和睦なされるべきであった。
 こたびの上杉景勝討伐、相手は天下の逆賊であるから誰が断るはずだろうか。
すぐにも、内府から直々に、長重も兵を出せとのご催促があって然るべきであるのに、利長からこれを達してくる事に納得がいかない。
利長はなにか計っているかもしれない。この頃の、わしの行った計略を遺恨に思い、会津長征の道すがら討ち果たすつもりかもしれぬ。
しばらく世間の様子をよく聞いて検討しよう。』
とて、
「早々に打ち立つべきでありますが、病にて歩行も思うままにできませぬ。
その上、長征の準備もいまだ半分しか整っておりませんので、それがしは後陣を担当したい。
まず、あなか方の国の者をお先に行ってください。」
と返答した。

利長はお聞きになされて、
「長重のこの頃の態度は分からない。わざわざ後陣を望むのはおかしい。ともかく、彼の安否をよく調べた上で打ち立とう。」
と不破斎宮之助という者を使者とした。
「奥州退治のこと、諸方の寄口を知らせる必要があります。催促したのは私ではなく貴命であります。
どのようなお考えから、こんなふうに出兵を延引なされるのか。このままでは人から不審も招きましょう。急ぎ出陣されよ。」
催促は立て続けに四度に及んだが、なおぐずぐずしている。
 そこへ、大坂の三奉行から、『秀頼公の命によって謀反を起こす』との廻文が届き、ほぼ時を同じくして内府から、
北国のことでは、特に長重を勇猛の武将として頼もしく思っている旨の檄文が届いた。
『かように期待されるのは本望であるが、利長の謀略も計り難い。いかがしたものか。』
と思案していた。

 斎宮之助は金沢城へ馳せ戻って、『小松側の態度は心得がたい』と報告した。利長は、
『大坂での三成らの謀反の動きは既に伝え聞いている。その上、謀反に加担せよとの回文も到来した。
さては長重、かねてより三成に与していればこそ、会津への出兵を遅らせたものと思われる。
この上は早々に小松を踏み散らして手元を安全にして、然る後に、上方へ打ち抜けるか、奥州へ向かうか、時宜に応じて行動するとしよう。』
と決めて、七月二十六日申の下刻、四万余騎の軍勢を率いてにわかに小松表へ押し出した。
「松任より向こうは小松領であるので、焼き払って通れ」
と道筋の在家を放火し、手取川を渡り、水島寺井まで押し寄せた。すでに時が過ぎて暁になっていた。
 
 小松側では、思いも寄らぬ事なので、上を下へと騒乱ひとしおの中、長重は、
『かねては内府を敵にまわす覚悟ではなかったといえども、今、大軍に押しかけられ、利長に陳謝するわけにもいかず、
もはやいかんともしがたい。籠城しよう。』
と決めた。
(小松軍記)

北陸の関ヶ原の戦いの原因である




雑談・丹羽長重って

2013年04月28日 19:00

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/27(土) 12:28:53.41 ID:KmFhVaoa
北陸関ケ原はちょっと前まで敵だった、前田が味方で、
味方だった大谷と丹羽が敵になってて面白い。

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 01:00:28.79 ID:N2441eKb
>>427
丹羽長重って立花宗茂と同じくらい名将だと思うけど
全く評価されてないよね

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 04:20:52.81 ID:T2ysZs7J
>>435
全く評価されてない人をなぜ名将と思うのかが知りたい

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 06:13:48.24 ID:MkNtV6ec
築城に長けていたとはよく聞くけど

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 07:08:03.56 ID:nVqyR022
名将かは知らないけど、関ヶ原で改易されたのに
最終的に関ヶ原前以上の石を得てるのはすごいかもしれない
もっとも、親父から受け継いだのは100万石以上だけど
あれはほら、ラスボスに睨まれてたし

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 07:29:48.21 ID:p2cuovEF
同じように改易から復活したのにその点で仙石秀久を評価する人はめったにいない罠
まあそもそも仙石の改易は完全に自業自得だけど

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 07:37:48.44 ID:T2ysZs7J
力関係を見極めての根回しとか、自分の印象付けとか上手いよね。
御子柴とかに比べて圧倒的に。

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 07:38:27.23 ID:9iZ4bBa4
>>430
生前の家康公は、狸ではなく猛牛に喩えられていたとか何とか

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 08:00:31.96 ID:Pm2buK+h
>>441
なんか、現在の良くも悪くも我慢強くて怜悧なイメージと違って、秀吉が「おれに天下でかなう奴居ない」って言ったとき
「殿下は小牧のことを忘れたか!」って怒鳴った話みたいに、あいつ怒らせるとガチで危ない、みたいな印象があったらしいね。
多分三方ヶ原で武田軍相手に玉砕して以来の印象。

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 08:19:26.74 ID:KTXbAPOz
>>440
御子柴って、阪神の元ピッチャーの?

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 10:27:35.89 ID:I+I6BckX
>>438
秀忠のアッー!の兄貴だったからじゃないの

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/28(日) 11:08:13.16 ID:I+I6BckX
修行中の身でリンク禁止だから貼れないけど
まとめサイトの「丹羽長繁るへの、秀忠の懇志」にも書かれているけど
ほぼ確実に衆道の間柄だったとみていいと思う

『徳川実紀』には
「右大将殿もとより長重とは懇に御したしみありければ、しばしば長重が事なげかせ給ひしにより、
かく召し出されたり」

『名将言行録』には
小田原の役の時に長重がまだ若いのによく兵を用いているのを見た家康が深く親しで
秀忠と兄弟の契りを結ぶように引き合わせたと書かれている

丹羽長重の戦略

2012年10月07日 19:17

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 12:09:46.04 ID:SGttm6PW

世に言う浅井畷の戦いの折、江口正吉は引き退く前田軍に喰らい付き、
鳥銃を打ち掛けた。主君の丹羽長重は銃声を聞いて「遅れるな者共!」と、
馬に鐙を合わせて馳せ着け、終には寡兵をもって前田利長の大兵を追撃した。
この時、正吉は「この殿の早業は今に始まったことではないぞ!」と喜んだ。

この戦いは立花宗茂が寡兵で鍋島勝茂の大兵を打ち破ったのと並び称された。
この後、長重は封地を失うことになったが、後に白川十万石に封じられたのは、
この戦いの勇功を賞されてのことといわれた。当時、諸将は長重と会うたびに
その戦略を質問していたということである。

――『名将言行録』





772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 12:29:16.09 ID:QgFtWxCg
知りたいのは戦場の駆け引きじゃなくて老中たちの接待についてだろうけどな

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 14:49:06.91 ID:DxV9hUs0
老中よりむしろ秀忠さんとのお付き合いの仕方だと思うの

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 15:19:45.74 ID:nlO52Lj8
長重さんって賤ヶ岳当たりで初陣で戦役の度に減封なのによく腐らずに育ったよな

丹羽長重への、秀忠の懇志

2012年03月21日 21:51

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 13:07:34.69 ID:Mw6q4DU5
慶長6年(1601)正月のこと。

関ヶ原で没落した丹羽長重の元に、何事か、土井利勝よりの書状が届いた。
これを開いてみてみると、そこには徳川秀忠の内意が記してあった

『内府公(家康)のあなたに対するご機嫌も和らぎ、今こそ復権の機会です。
早々に江戸に出府してください。』

長重はこれを見て甚だ喜び、早速3人の共を連れて江戸へと登った所、芝の町家において不思議なものを見た。
そこには大きな木札に『丹羽五郎左衛門宿』と書かれていたのだ。

不審に思った長重がその家の亭主に尋ねると、亭主曰く「先日、土井大炊頭(利勝)様より、このようにせよと
仰せつかまつりました。」と言う。

そして長重一行はこの宿にて非常な歓待を受けた。そして数日ここに滞留している間に、
小松時代の家臣たちがこの事を聞きつけ毎日のように馳せ訪ね、あっという間に24,5人も集まった。

これも全て秀忠の心遣いであったが、それまでも、家康が長重を許さずにいた間も、秀忠は長重に対し
色々な懇志をずっと示していたのだという。

長重はここでしばらく幽居し、慶長8年3月、常陸古渡1万石を拝領し、ついに大名に復帰した。

(雄藩雑話略抄)





354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 16:10:39.79 ID:gQEkI2Ji
>>352
何で秀忠が丹羽にここまでやってくれるかが分からん。

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/21(水) 16:57:53.74 ID:kBRjxao5
>>354
親父さんと比較される次代の立場にシンパシーでも感じてんじゃね?w

丹羽家の不穏と秀吉

2012年02月24日 21:51

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 17:45:51.42 ID:/jZaIhlV
天正13年(1585)7月、羽柴秀吉は越中の佐々成政を征伐すると、近々北国に発向すると表明。
そして越前領主丹羽長重にその先陣を許した。長重は急ぎ帰国し、軍馬を揃え秀吉の下向を待つ。

8月、秀吉は北伐と称し越前路に来臨。長重は北ノ庄城を発して近江路まで出てこれを迎え、北ノ庄城への
渡御を乞う。秀吉はこれを許諾し、総軍は街道に残した上で、扈従ばかりの人数で北ノ庄城に入城し、長重からの
饗応を受けた。時に秀吉の、長重への懇意なことは、まるで父子のようであった。

この時、丹羽家中では一部に、秀吉に対し密かに反逆せんとする企てが進んでいた。
ところが秀吉はその事を以前から気き知っており、しかしそれをいささかも顔に出さず、この饗応に
大いに喜んだ風で、丹羽家の重臣一同(無論反秀吉派も含む)を御前に召し出し、特別に銘々に盃を与える。
そして一同にこう申し下した。

「よいか、国主長重は年若い。お前たちは故越前守(丹羽長秀)の遺訓に違わず、忠義をなして長重を補佐するべし!
万一、彼が幼主であるのを侮り、私意を以って悪事を進める賊臣があるようならば、直ちに首を刎ね、長重の領地は
全て没収する!そうなれば長重は不肖の子であり、お前たちは不義不忠の賊臣である!
固くこの旨を心せよ!」

そう厳命すると長重の方を向いて

「わしからの、そなたの家臣共への命令は今聞いたとおりだ。そなたは若年といっても、これをいささかも忘れてはならない。
そなたの父長秀は、信長公天下創業第一の功臣であり、その英名は天下を恐服させたものだ。
そなたもその父の資質を受け継いでいる風にみえる。謹んで臣下の善悪を究明し、国家の大事を怠るでないぞ!
年頃に至れば朝廷に奏し高官に登用し、これから攻めとる佐々成政の領地を加増し北国一円の主とさせるであろう。
そのつもりであるから、今回の佐々成政に対する先陣も許したのだ。この旨をよくよく理解せよ!」

そう厳命した上で北の庄を発した。

秀吉による、丹羽家中及び丹羽長重に対する牽制と懐柔である。

(丹羽歴代年譜)






151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 18:36:41.79 ID:AA7P8lgF
??「北伐と聞いて」

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 18:54:12.21 ID:52PWb2W7
>>151
丞相は三戦板に帰れ

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/24(金) 20:05:49.27 ID:a+L0bCZ7
いや、岳飛かもしれんぞwしんかいさんにとっちゃ鬼武蔵みたいなもんかもしれんがw

155 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/24(金) 21:00:44.10 ID:zjFqp70B
>>147
減封されたのってこれが原因?

長束正家の丹羽時代

2012年02月21日 21:51

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 15:24:43.89 ID:KPCabQ3p
今度は長束正家の丹羽時代

長束藤兵衛藤原正家は近江の産。彼は英才俊逸にて将帥の器量、勇謀は常の人のものではなく、
その上天下無双の算術の使い手であった。

かれは若年の頃から諸国を遊歴し、ある時、未だ小身であった丹羽長秀に、僅かの切米(サラリー)で
召し出された。この時正家は

「一人の食はこれで足ります」

と、長秀に仕えた。

以後、長秀の軍事を助けたが、その戦功、謀才は比類なく、まさに将帥の器量であり、
おいおい加増され、長秀が近江に転封になった頃には千石となった。
しかしそれとて、正家のそれまでの軍忠功労には全く足りない僅かなものであったが、正家は不満を
漏らすこともなく、むしろ諸臣を上回って戦功忠貞にいささかも怠ることがなかった。

天正に至ると、丹羽家世子鍋丸(長重)7歳にいたって、これに補佐の良臣を選ぶこととなった。
長秀は深慮により誰にも相談すること無く、突然正家に1万石を与え、棟梁の職の補佐として、
鍋丸に付くことを命じた。

この大抜擢に丹羽家の諸老臣はこの人事を喜ばないこと、甚だしいものだったという。
しかし正家は実直に長重を補佐した。

この、比較的軽輩であった正家を、俄に重職に付けたことは、後年太閤秀吉が、丹羽長秀の深慮の
素晴らしさであると、徳川家康に物語ったそうである。


(丹羽歴代年譜付録・家臣伝)





49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 15:34:09.28 ID:0g2MJ6pw
最後に負けちゃったから算盤得意な官僚みたいな認識になっちゃったんかね

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 16:56:36.20 ID:JsKOu3DC
>>49
実際には、軍功は無かったような。

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 23:09:31.57 ID:RQ7L1Xdl
>>48
正家の嫁さんが本多忠勝の妹らしいんだけど
忠勝は正家の助命嘆願しなかったのかね?

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 23:18:05.51 ID:dfb/uBpK
信之が東軍だった真田は擁護もできるがなぁ
思いっきり西軍に付いた上に伏見攻めの動きがある以上嘆願のしようが無いでしょ

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 23:27:47.03 ID:2aJOXZC0
>>54
謎が多いんだよな>長束正家の妻
本多忠勝の父は、忠勝が3歳の時に亡くなっているから、異父妹なんだろうがそれでも
長束正家と歳が離れていると思うし、真田家と違って積極的な交流をした痕跡は無いし

長束正家が秀吉家臣になった過程

2012年02月20日 21:56

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 17:19:56.53 ID:nLmDcz47
天正13年(1585)、越前の丹羽長重は家臣が佐々成政と内通したとの疑いにより、羽柴秀吉によって
改易された。丹羽家の家臣団は解体し皆流浪の身となったが、秀吉は、自分への謀反に関わっていない
忠孝の士は召し出すと伝え、中でも長束正家に対しては、別して自分に仕えるように要請した。

しかし長束正家はこれを固辞し、丹羽長重が転封された若狭に供奉し続けた。
この正家の態度に秀吉は激怒し、丹羽長重がこれをさせていると判断した。そして長重の元に

『お前は長束正家の事に関して、上意に背くつもりか!?』

と疑念を伝えた。これに驚いた丹羽長重は正家を説得し、秀吉のもとに上京させた。
秀吉は正家を召し出すと、以ての外の形相で叱りつける。しかし正家は少しも恐れず、こう、申し上げた

「仮に秀吉公に召しだされたのが、故越前守(丹羽長秀)の御在世の頃であったなら、わたしも有難き仰せであると、
すぐにこれをお受けいたしたでしょう。ですが今、我が主君長重は至って若輩であり、特にこの度、亡主長秀の
封国を召し上げられ、長秀の旧功ももはや効力を持ちません。

このような状況で年若の主を見捨てて、秀吉公の碌を拝領するなど出来る訳がありません!

この度長重が受けたお疑いに関しては、私が今説明したように、長重には全く身に覚えのないものであります。
もしこれで主人長重への疑いが解けないというのなら、私はたとえ、命を奪うとと言われても秀吉公の
御要請を受ける事はできません!」

これを聞くと秀吉はしばらく黙り込んだ。そして表情を和らげ

「お前の言ったこと、全て受け入れよう。長重に罪はない。ただし逃げ去った逆臣共を召し捕らえるまでは、
その旧領は預かり置く。
誓って長重に対して疎意は無い!」

そう懇切に語りかけた。この天下人の言葉に正家は平伏し、ここで秀吉に奉公することとなった。


長束正家が秀吉家臣になった過程である。

(丹羽歴代年譜付録・家臣伝)




31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 17:23:12.36 ID:vI3rFB5f
全盛期の秀吉だな

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 17:25:52.76 ID:blQA/Yqh
預かったまま返さない所がラスボスだな。


33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 18:28:35.55 ID:UWar5jKR
丹羽家の石高長秀亡くなったあたりの時代はたしか百万石超えてたよな
長重が相当な器量じゃないと秀吉じゃなくて家康だとしても召し上げだろうよ

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 20:41:14.76 ID:LpPsIjhQ
前田家も利家が秀吉より先に死んでいれば半分以下になってだろうね
かつ関ヶ原まで生きていれば取り潰されたかも
上手い時期に死んだよなあ

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 20:57:53.49 ID:Lb8o9tNP
家を考えると秀吉より先に死ぬわけにはいかん!と必死に養生してたんじゃないかと思ってしまうw

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 21:02:35.87 ID:bkyxPwdY
利家さんって、ラスボスの悪行に対してストッパーになったことあるのかしら?

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 21:32:03.20 ID:G8DkWrOh
長重が1571年生まれで長秀が死んだのは1585年
その時点での長重が相当な器量を見せてたらむしろ警戒されるよな

病床の親父の代わりに出陣したりしてるだけでも立派なもんなのに

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 22:14:00.81 ID:LX5lPerm
丹羽家が駄目だったのは、長秀に優秀な親戚が居なかったから。
堀家の堀直政や龍造寺の鍋島のように。
同じように蒲生ちゃん家もかわいそう。

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 22:45:14.72 ID:6vZ1ILT0
でも何とか大名に返り咲いてんだよな

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 23:02:25.26 ID:IQuINJMQ
>>39
長重は徳川秀忠と「深い仲」だったとかなんとか…

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 23:18:19.83 ID:G8DkWrOh
長重の母親は織田信広の娘、妻は信長の娘だからな
縁戚に頼るどころか逆に丹羽家が守らなきゃいけなくなってる

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 23:20:03.85 ID:v4XNkNyx
親も息子も人並みの器量ならば、
跡継ぎは20代後半に作って60歳過ぎで死ぬのが最もいい世代交代だな。


43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 09:24:37.09 ID:KWQMo+UP
>>38
森家の場合は末弟に跡継がすなと長可が言い残したのに
感激されながら継ぐことになったんだっけ

かがみん超優秀

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 10:05:00.20 ID:1OKi15MZ
>>34
利家は、秀頼の傳役を確保した時点で安全圏だろ。

それまでは、量産型中納言の中でも下位だったのが
大納言に任命されてランク急上昇だしな。

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 10:08:21.94 ID:3F2J2OTb
柴田から自分にひよったりしているのに、前田頼っちゃうのな

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 10:18:34.59 ID:Vi4JJYHc
若い頃からの友達だったからというのもあったかもな

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 12:32:21.49 ID:WDpK0d5P
>>44
秀吉より先に死んでいた場合、傅役だからとか関係なくなるだろ
利家の子じゃ当てにならんし

江戸城ランチタイム

2011年11月26日 22:00

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 02:25:33.43 ID:DPw1/h2X
一部既出ながら詳しい系行ってみます。

江戸城ランチタイム

昔、徳川家光公のお伽衆といって、毎晩登城して物語を申し上げ、夜話をされる10人ほどの人々があった。
毛利秀元候、丹羽長重候、蜂須賀至鎮侯、林道春といった人々であった。

この人々が登城の時は、皆、屋敷から弁当を持参してきて、蔀の間に集まって、みんなで弁当を食べた。
珍しいおかずなどがあるときは、互いに交換し合って賞味したそうである。

毛利秀元候の弁当のおかずに干し鮭があったときは、皆が「これは結構なおかずですね!珍しい!」と
殊の外に秀元から分けてもらい賞味したそうだ。
阿部重次は握り飯を包ませ、これを懐に入れて持参していた。そして昼食時にはこれを召し上がられ、
その包みの紙にくっついた飯粒も丁寧に拾って食べ、さらにその紙の端を伸ばして洟をかんだ事もあったのを、
それを見たものがいたと言うことである。

原文
(昔、大猷公御噺の衆とて、毎夜登城して居物語申し上げ、御夜話申し上げられし衆中十人あり。
毛利甲斐秀元侯、丹羽五郎左衛門長重侯、蜂須賀蓬菴至鎮侯、林道春の類也。
この衆中登城の時、皆々、屋敷より弁当参りけるに、蔀の間に寄り合いて、是を披き食い給う。
珍しき菜などある時は、互いに取り交わして賞味し玉いけるとなり。
毛利甲斐侯の弁当の菜に干し鮭のありければ、皆是は結構なる菜なり、珍しとて殊の外に賞味し玉いけるとなり。
阿部対馬守は握り飯に包みて袂へ入れ御持参ありて、御中食の時は是を召し上げられ、その包みたる
紙に付きたる飯粒を拾いて食い、紙のはしを伸ばして涕をかみ玉いし事などありしを見たるものもありとなん。)

『雨窓閑話』


関連
空弁当
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3167.html
毛利秀就の鮭の切り身・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-120.html


749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 02:46:59.03 ID:u1xqeTqB
権現様の教え

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 04:22:57.65 ID:Fijq0F/H
どこの学食の風景だw

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 08:00:59.91 ID:vS0mFjkw
昼休みの女子高生みたいだなw

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 08:03:17.03 ID:+Z4sEyBz
>>751
恋バナで盛り上がるんだな

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 08:30:34.13 ID:qiM0mC9+
一応
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3167.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-120.html

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 08:31:52.70 ID:qiM0mC9+
↑のはまとめスレの関連リンク用に

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 09:38:34.16 ID:tisvb3hY
>>751
えどじょう!

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 12:31:14.00 ID:BBCfUJaS
*全室禁煙です

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 12:32:58.20 ID:Wu6NonT7
鶏の唐揚げとかないのかな てんぷらとか

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 14:15:22.74 ID:sjFzGqQ6
>>748
登場人物が三頭身くらいのデフォルメさられたキャラで再生されるww

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 14:35:49.11 ID:Ek/fQSvQ
外国の歴史系小説とか読んでても、こんなふうに自分の食べ物を
みんなで交換しあって食べる描写って見たことがないんだよな
獲物をわけて食べてた狩猟民族のほうがやりそうに思えるのに

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 19:23:24.80 ID:RbJaqasY
殺伐とした時代だからこそ、こういう話は和むなー
秀元は分け与えてばかりだが、代わりにおかず分けてもらえんだろうか

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 20:31:45.00 ID:OWZV6+Rz
関ヶ原の時も鮭弁食ってたんすか?w
って聞いたら斬られるかな?絶縁かな

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 20:42:39.61 ID:UEkovXwU
毛利のボンが違う意味で切れそうだなw

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 21:08:40.58 ID:pxPB91XN
>>763
輝じゃなくて広家だろ?

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/26(土) 22:00:33.83 ID:GEqmI+s8
>>761
育ちがいいからみんなに分けてあげたら自分の分がなくなって泣き出しちゃうタイプだな

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 09:42:18.33 ID:UoFoRsew
この時代の最高級料理は鮭だったのか・・・
ハンバーグとかカレーライスとかウインナーとか食べれないなんて嫌だな

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 10:16:07.70 ID:1opcnV6K
>>760
西洋で弁当っていわれてもサンドイッチくらいしか思いつかん俺

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 10:34:56.89 ID:rcvoOtpH
日本の歴史小説でも弁当の分け合いっこは見たことが無いがw

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 11:03:11.07 ID:PCz8tsV7
>>767
カレーは確かに不可能っぽいし
ウィンナーも環境を選びそうだが
ハンバーグは、技術的にも素材的にも不可能じゃないだろ。

食に一手間かける豊かさが無いのに問題はあるが

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 11:17:42.91 ID:Vttalziv
牛さんは食料という前に貴重な労働力かつトラクター兼乗用車だったんだろうか

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 12:28:28.27 ID:70A4zj5d
>>770
ターメリックとクミンはあるからコリアンダーの代用品に白根草を使えば一応形にはなるお

漢方薬のスープだからかなり高くつくけど…

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 12:42:01.59 ID:PCz8tsV7
>>771
牛さんが死んでから頂戴しても良いんじゃね?
いわゆる逸話だが、
牛肉食わせて貰うのに宗教をバカにした非礼を一心に詫びるってのがあったから、牛を食うのは
それ程異常じゃないと思われる。
だって、馬を食う奴だっていたんだろ?
そっちが余程基地外沙汰。
軍用としても民生用としても、非常に高性能な馬なのに。


カレーの香辛料って全部、金と等重量で交換するような希少品じゃなかったか?

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 13:33:15.40 ID:uVe1tSVS
馬は消耗品だよ、骨折した馬殺すにしてもただ埋めるだけじゃもったいないじゃない。

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 14:20:24.80 ID:KUrIr5TG
>>772
大友宗麟がキリスト教じゃなくてイスラム教を保護してたら可能だったかもね
黄飯つくるくらいだからカレーの再現に挑戦するかもしれん

九州にイスラム教が浸透したら、インド→インドネシア→日本のムスリムネットワークが…できねーか

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 15:00:07.41 ID:PCz8tsV7
>>774
サラブレッドじゃあるまいし、そうそう骨折しないよw

778 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/11/27(日) 17:48:33.90 ID:4mvA5Lxz
>>760
東洋文化では割と普遍的な価値観かも

食べ物がどこからか送られて来た時には、
家臣たちに対して分配するようにしなければならぬ。
『三略』に、「古に良い将がいて兵士と苦楽をともにし、
陣中に酒や食べ物が送られて来た際には、
これらの品々を川に流し入れて、
将も兵士ともにその流れを飲んで楽しみをわかち合った」
という話が伝えられている。

武田信繁

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 21:08:48.14 ID:bkxepGwb
>>778
川に流すってどういう状態なんだろうな
つかみどり大会みたいなのを開いたってことかな?ポロリもあるよ!

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 22:33:19.65 ID:zFN6ZvLi
ボケたつもりか?>>785よ
旨い酒を皆で回し飲んだ「つもり」、旨い食い物を分け合って食べた「つもり」
上下心を一にしてって奴よと釣られたクマー

丹羽家改易顛末

2011年10月24日 22:04

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 22:58:11.96 ID:y5v3wUby
天正14年(1586)の早春の事だという

京にあった丹羽長重は、帰国するため豊臣秀吉に対し暇を賜ることを願った。このとき秀吉は
長重の膝下まで近づくと、彼に言葉を投げつけた

「お前は知っているのか!?お前が歳若きことをお前の家老たちが侮り、長秀の遺した掟、
そしてわしが直々に申し渡した掟にすら背き、私意を持って国を乱そうと企んでいることを!

既に去年秋の北成(佐々成政成敗)の時、お前を欺き悪事を働く家臣があって、越中表において
軍令に背いた!

この糾明のため、しばらくお前の分国を散り上げる!
ただし、特別に若狭だけは残してやる。
お前は帰国の上早々に、若狭国小濱の城に移るのだ!!」

しかし、この没収命令以前に、丹羽家において秀吉の命令に従わなかった重臣たちは、すでに
追放されるか又は逃亡し、処分は既に済んでいたのだ。
そして長重の若狭移封により、秀吉の命令に従ったものまで丹羽家を離れることになり、彼らは
あるいは秀吉の直参となり、あるいは新たに越前に入った堀秀政に与えられた。
丹羽家中の解体が、行われたのである。

ともかくも、ここに百万石を超えた丹羽家の領地はそのほとんどを没収され、丹羽長重
わずかに若狭小濱12万3千石の領主に転落した。
(丹羽歴代年譜)






483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 22:34:25.42 ID:rYEbY7FF
>>467
丹羽家は秀吉に散々な目に合わされたのに、
なぜ関ヶ原では西軍についたの?
長重と徳川家の関係は悪く無かったろうに。


484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/24(月) 22:40:17.02 ID:uAZicEAC
>>483
東軍派だったけど、大谷吉継に警戒して見せかけは西軍としておいたとか?
前田家とは割りとだらだらとしていたり、和睦したりしているし
完全に西軍派には見えないかな

485 名前: 忍法帖【Lv=15,xxxPT】 [sage] 投稿日:2011/10/25(火) 00:39:10.61 ID:IhhQzdeq
>>483
確か前田利長に騙されたんじゃなかったっけ?


487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 05:02:01.30 ID:jNkdrLhp
>>383
関ヶ原の戦いの構図は徳川vs豊臣ではないから。


地理的な事も大きかったんだろうけど、西軍についたのは丹羽家は前田家の事を嫌いだったからじゃないかな。

信長の家臣時代、長秀存命中は丹羽家の方が上だったのに現政権では立場が逆転。
利家と家康が一触即発の事態になった時は家康邸に参集
結果かわされたけど利長謀反も訴えでて、
大名に復帰した後、子孫は前田の分家とトラブル起こしてる。

徳川家の抑えとして東海道沿いに配置された子飼いがことごとく東軍についちゃったのとは逆で
前田家の抑えとして機能したって事かな。

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 09:17:50.42 ID:0QcW39aV
>>467>>487
秀吉と利家の死んだ順番が逆なら
前田家も石高を10万石程度にされてたんだろうか?

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 10:38:15.41 ID:C/dOVjvj
前田家百万石は秀吉と利家の個人的な仁義関係が基盤になってると思う
だから秀吉の存命中に利家が死んだら利家に秀頼を守らせるって構想が崩れるし、やっぱ改易すんじゃないかな
利家だからこそ豊臣家に尽くすって見積りがあってこその百万石だろうし
ラスボスは大和大納言家すら潰したわけだし

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 11:54:02.86 ID:QEb6e5VB
秀吉は、大名を家でなくて個人で見すぎたんだと思う
だから個人が能力を発揮したら大領土を任せるけど
死んで子供になって同程度の統治能力を期待できなくなったら
容赦なく減封しまくった
蒲生家とかいい例だわ

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 12:35:41.72 ID:0QcW39aV
親が死んだら8割以上の減封で功績次第で大増封
みたいな能力主義も間違いって訳じゃないだろうけど

ただ秀吉自身にやられるならまだしも
三成みたいな官僚たちに査定されるようになるとまた変わってくるのかな

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 12:50:48.00 ID:qF3xeU4r
問題なのは、大名を育成するのは難しいけど官僚育成は比較的容易な点
つまり奉行連中だけは自分の仕事を子供に継がせられる訳だ

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 13:27:45.60 ID:8nasM1kQ
官僚が常に有能で、情報を多く保有し、
情勢を判断出来るのだ!
って思い込みは日本特有だよな。

結局は、責任とる気概がないから、
失政すると責任回避でいつもグタグタになる。

三成しかり、戦中しかり、現在しかり。

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 13:46:54.25 ID:C/dOVjvj
三成は最終的には斬首という形で責任とったじゃん
有能無能はともかく、官僚としては体制の維持っつー最低限の義務は果たそうとしてたと思うよ
責任から回避しようとしたのは諸大名を監督する奉行の地位にありながら、遺法破りまくりの家康に媚び売ってた
増田・長束らだろ
官僚として責を果たすどころか自分の保身しか頭にないっていうね

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 17:02:18.43 ID:BouorWkK
>>487
>前田家の事を嫌いだったからじゃないかな
本気で嫌ってたらあんなgdgdの八百長合戦してないと思うがなぁ

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 17:13:17.84 ID:pQ79CznJ
三成は常に自分が表に出ていたし、矢面に立つ事を避けなかったよ
今の官僚は政治家の後ろに隠れて顔も名前も出さずに安全圏で貪っているだけだわ

丹羽家解体顛末

2011年05月04日 00:00

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 04:30:38.90 ID:UfUYSQxM

丹羽長秀が腹の中にできた腫瘍に怒り、自身で腹を斬りその腫瘍を取り出して死んだ、
という話は有名である。この死の前、羽柴秀吉は長秀に対し自筆の書状にて、「子息に
本領を安堵すること相違あるべからず」と固く誓っていた、という。

さて、長秀の跡を継いだのは若干15歳の丹羽長重であった。
秀吉は小牧長久手の際、徳川家康・織田信雄方に味方した越中の佐々成政に対処するため
丹羽家の軍勢を早速動員した。が、その所領安堵のことについては何の言葉もなかった。

この頃丹羽家でも最も力のある重臣は、成田弥八郎であった。

成田は家中の者たちを集め、語った

「それにしても我々の故主(長秀)は、織田殿の御恩が非常に深い方であられた。
それが秀吉という無道人にたぶらかされて、織田家の天下が奪われてしまったのは、
一生の不覚と言うべき事である。

その上大恩ある織田家の公達をすら殺そうという人間(秀吉)がどうして、かつて織田家の
同僚であったというよしみを気にかけ、まだ幼い我らが主君に大国を数多く任せよう、などと
考えるだろうか?

得難きは時、失い易きは勢という。

今にも滅びようとしている我が丹羽家だが、未だ勢が散り失せていない今のうちに、秀吉が
越中に入る頃を見計らって、織田殿の御為義兵を挙げ、佐々と挟み撃ちにしてこれを滅ぼし、
故主の恥を雪ぐ事こそ、いかなる仏事、供養にも勝ることであると考える。
方々はどう思われるか!?」

これに丹羽家中の人々は驚き、「以の外の大きな議題である」と様々な意見が出て、
なかなか意見がまとまらず時間ばかり過ぎた。
そうしているうちにこの事が秀吉の耳に達する。これは丹羽家家臣である長束正家、戸田重政が
秀吉に密かに知らせたのだ、とも言われる。

秀吉の行動は早く、たちまち成田弥八郎を捕らえ死刑に処した。そして佐々成政が降伏すると、
今度は丹羽家の主な家臣、長束大蔵大輔(正家)、村上周防守(義明)、溝口伯耆守(秀勝)、
青木修理亮(宗勝)、青木民部少輔(一重)、寺西下野守(清行)、上田佐太郎(重安)、
奥山雅楽助(正之)、といった人々を全て自分の直臣として召し上げ、その上で丹羽長秀の所領であった
越前、加賀を没収。

「本領であることには相違無い」

と、『織田時代』の所領であった近江国内の三郡を、長重に与えた。


秀吉による丹羽家解体の顛末である。




989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 06:06:06.26 ID:HYKZxb++
秀忠さんお気に入りなんだよなぁ~
でも、パーフェクト超人に比べると地味すぎるけどな~

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 07:34:09.46 ID:ZVDFfcse
>>988
秀吉は約束を反故にしたか
もしかしたら秀吉より家康の方が先に亡くなってたら関八州も取り上げられたかもしれんな

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 08:56:02.74 ID:fzqDC46e
>>988
成田もあながち間違っちゃないんかもしれんが
もっと信頼できる人と話しあってからにすればいいのに

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 09:12:43.24 ID:JhgpqIZ5
厳しいこというと、家臣の一部が反乱を企てたとしてそれを主人として抑えることができなかった以上
「大封に要地を任せておくことはできない」という判断も非難できないんだよなあ
丹羽家が主導でこの企てを潰していたらまた秀吉の対応も変わったかもしれないけど

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 10:26:05.97 ID:B3b/p1db
まあ、長重も鬼吉川みたいに、秀吉の命を受けたクロカンに毒鮭
食わされなかっただけ、ましだと思うがね。
命あってのものだねだよ。

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 10:53:43.30 ID:qWh7RT0N
まぁ、秀吉からすれば長秀に恩はあっても、息子の方には何にもないしね。

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 11:05:36.34 ID:yZiUMPKa
長秀が北条降伏後まで生きていたら関東入りしてたかなあ

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 11:54:42.02 ID:fFHCHO72
長束・戸田「計画通り」

997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 12:16:07.61 ID:v+ulFDbP
ラスボスは親や親、子は子って割り切るよね
丹羽さんの件も蒲生工場長の時も

998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 12:25:00.01 ID:YbX/+Jn7
>>988
浅井が朝倉攻め途中の織田を後方から攻撃した話とかぶるね

細川興元「丹羽五郎左衛門(長重)、立花飛騨守(宗茂)の勢の働きは」

2011年01月27日 00:01

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/26(水) 11:07:22 ID:qyIOF+62
珍しく立花宗茂関連の悪い(?)話

大坂の陣の時のこと
細川忠興は弟である細川玄蕃頭(興元)にこんな事を尋ねた

「丹羽五郎左衛門(長重)、立花飛騨守(宗茂)の勢の働きはどうか?」

玄蕃頭答えて

「丹羽、立花の勢は散々の不出来です。前に彼らに良い働きが出来たのは、
それぞれの重臣であった江口三郎右衛門、十時孫右衛門(連貞)が居たおかげでした。
ところが今回はその両人が居りません。そのため、丹羽立花勢は散々の体となっております。」

このように立花の事も散々に言っている細川興元だが、この人の妻は立花宗茂養女(高橋鎮種の娘)
だったりする。親戚なのだ。親戚故にきついのかも知れないが。

ともかく細川興元、丹羽、立花勢の働きを酷評する、と言うお話。




532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/26(水) 11:14:54 ID:eoJXUVWq
>>531
どちらを信用するかにもよるなw
十時さんが有能な人なのはわかるが
でも大坂の陣だと判断しづらいような

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/26(水) 11:15:24 ID:u/iuNDjH
>>531
おおっ、やっと悪い話らしいのが出たなw
丹羽と立花って両方とも改易された者同士だけど
一度組織が吹っ飛ぶと立て直すのは難しいんだろうか?

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/26(水) 13:47:26 ID:msrWOVwI
あれ?大坂の陣の時宗茂前線に出てたんだ

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/26(水) 21:50:03 ID:nEYal3qI
>>531
十時さんっていうと、どこまでも宗茂にもついて行った人ってイメージだったけど、
大阪の陣には居なかったのかね、意外。

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 01:28:11 ID:xTtBHvpr
もう由布も小野もいないから留守番じゃないのかな

>>534
関ヶ原の汚名返上を期した秀忠の護衛

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 01:50:24 ID:q/p6M57N
秀忠もかなり崩されたんじゃなかった?大坂の陣

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 05:26:17 ID:YHbHGYoa
>>540
いや、全く。
秀忠の指示で攻撃した部隊が失敗して家康に怒られるって事態はあったけど。