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北野大茶会の事

2019年08月22日 17:05

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/22(木) 00:46:12.19 ID:rcvPK52I
私(久保長闇堂)が茶湯を初めたのは、北野大茶会の年にあたる。調べてみると、天正十三年十月一日の
事である。秀吉公は八月二日に高札を五畿七道に立てさせ、天下の茶湯を志す者は北野の松原に茶席を設けよ、
との上意であった。南都(奈良)よりは、東大寺、興福寺、春日の禰宜、町方合わせて三十六人が出かけた。
私は幼年であったが、この道が好きだったので見物のため同行した。以下、覚えていることを記す

北野の聖廟の前には葭垣があり、東と西に出切り口があった。上様(秀吉)の茶席四つは、礼堂四方の
隅にそれぞれ囲わせ、秀吉公、宗易(千利休)、(津田)宗及、(今井)宗久という四人のお点前であった。
その時の道具の記録も残っている。
大和大納言殿(豊臣秀長)は南門筋西側で、大和郡山の武家衆、それに続いて南都寺社、町方であった。

松原中の茶席は思い思いの工夫が有ったが、その中でも覚えているのは、奥の小松原に、美濃国のある人が
芝より草を葺き上げ、内を二畳敷とし、中の四方に砂をまき、残る一畳敷に瓦を縁とした炉を作って釜を
かけていた事である。通い口の内に主人が居て、垣に柄杓を掛け、瓶子の蓋を茶碗として、焦がしを入れた
丸瓢の茶器をその中に仕込んでいた。

さて前日にお触れがあり、その日の日の出より御社の東口で籤を取り。五人一組として、先の四つの茶席の
どこかで御茶を下された後、西口からすぐに出る形であった。そのため数百人の客が、朝五つ(午前八時ころ)
にはもう御茶を飲み終えた。

秀吉公は食事を終えると昼前より松原に御出でになり、一ヶ所も残らず御覧になった。
先の美濃国の人は名を「一化」と言ったが、茶席の脇で松葉を焚き、その煙が立ち上っていた。秀吉公は
彼のことを以前よりご存知であったそうで、「一服」との御意があり、直ぐにその焦がしが差し上げられた。
大変にご機嫌よく、手に持たれていた白扇を一化は拝領し、今日一番の幸運者と評された。

また経堂東方の京衆の末席に、「へち貫」という者が一間半(約2.7メートル)の大傘を朱塗りにし、柄を
七尺(約2,1メートル)ばかりに立て、二尺(約60センチ)ほど間を置いて葭垣で囲っていた。
照日に朱傘が輝き渡り、人の目を驚かせた。
これについても秀吉公は一入興を催され、彼を諸役御免とされた。

八つ(午後2時ころ)過ぎには皆々にお暇を下され、それより互いに桟敷を片付け、その日の内に、また
元の松原に戻した。内々には、『諸方の茶道具を召し上げられるつもりであろう』と噂されたが、そのような
事はなかった。また「十日間茶湯をせよ」とも言われていたのだが、その日だけで終わった。
このため見物した人もそう多くはなかった。

私はこれを見物し、心勇んだ。どうにか出来るものだと考え、親の家の裏にわずか4畳敷の小屋が有ったので、
これを改造して二畳半を茶室、一畳を勝手とし、残る一畳を寝所と定め、足の方には棚を釣り。昼はそこに
寝具を上げた。
そんな茶室に、今思えば身分の高い客も呼んだものだ。しかし志さえしっかり持ち続け、勇気を持てば、人に
恥じる事はない。今の世で誰がこのような仕方をしているだろうか。ただ志が強くないため、勇気もなく、
他人に対しても自分に対しても恥じてしまい、道に至る人が少ないように見える。

(長闇堂記)

北野大茶会についての記事



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飛石を置くように成った始まり

2019年08月20日 16:46

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/20(火) 11:49:16.51 ID:F3+wKcVZ
露地に飛石を置くように成った始まりについては、東山殿(足利義政)の御時、洛外の千本に
道貞という侘数寄の者があり、有名であった。そこで東山殿も関心を持たれて、鷹狩の帰りに
道貞の庵をお訪ねに成った。この時、狩りの帰りであり足元は草鞋であったので、汚れ無いよう
同朋衆に雑紙を敷かせた。東山殿が帰った後、道貞は東山殿のお通りになった跡を写して。その
場所に石を置いたという。

また、道貞の露地に植えてあった桂の木は、その後道貞桂と名付けられたと言われる。

(長闇堂記)



既に常の人とは違っていた

2019年08月16日 17:05

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/16(金) 14:36:03.98 ID:GCliiJDP
小堀遠州殿が若い頃、当地奈良で方々の茶会に出られた中で「興福寺最福院の茶会が飛び抜けていた。」と
言われた。私(久保長闇堂)が「一番の点前上手です。」と申した所

「その事ではありません。あそこでは唐物茶入の小さな尻膨を、袋(仕覆)に入れないで茶を点て、
その後薄茶にもその茶入を持ち出されました。その仕方に、茶入を秘蔵していないのだという心持ちが
出ていて非常に良かった。また薄茶にも良い茶を飲めました。この二つにおもしろさがあった。」

そう仰られた。若い頃であったが、茶湯の見方が既に常の人とは違っていたのである。

(長闇堂記)



遠州好み

2019年08月13日 14:53

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/13(火) 08:56:01.77 ID:rXP4AYo7
ある年に、野雁の羽箒が世間で流行したが、これは小堀遠州殿が領国の備中松山へ下国された時、
野雁を打たれ、その羽根を箒につかわれたのが初めであった。
柄杓の柄を太くしたのも、遠州殿が初められたことである。
また土風炉(土を焼いて作った風炉)の足二つを先に寄せられた事も、脇から見て良いようにという
遠州殿のお好みであった。

現在では水指卓に大小様々なものが有る。これも遠州殿が好み工夫された。昔志野宗信(室町後期の商人、
香道の創始者)が聞香に使った棚などを見られて、一段と優美になされたのである。

(長闇堂記)



それでは侘びの心がない

2019年08月05日 17:45

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/05(月) 15:42:31.42 ID:p5nsiM0X
ある所に侘びの茶湯者が有り、小堀遠州殿のお供で私もその人の茶会に参った事が有った。
茶会の後、私が遠州殿に「あるべき式法通りの茶湯でした。」と申した所、遠州殿は

「有るべき式法の茶湯でしたが、それでは侘びの心がない。侘びは侘びの心を持たなくては
茶湯は出来ないものです。今日の仕方では引菜(食事の途中で出す料理)の重箱を取り入れず、
席中にそのまま置いておくべきでした。侘びにふさわしく菜の数が少なかったので、全部食べて
しまった後に、また取れるようにするためです。また酒は燗鍋で出し、湯は湯桶で出しましたが、
これも考え直して、燗鍋をよく洗って、湯を継いで出せばよかったでしょう。」と言われた。

侘びには万事その心がなければ出来るものではない。世の常の茶湯をして誇る人には、
こうした心持ちは腑に落ちないものであろう。

(長闇堂記)



相手によって褒めどころが有るのだ

2019年08月03日 17:39

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/03(土) 01:07:32.75 ID:Huf6utXP
金森出雲殿(可重)が伏見から宇治へ行かれて方々の茶会に出席され。さらに当地奈良に来られ、
ここでも方々で彼を招いた茶会が有った。その時、拝殿右馬丞という春日若宮の禰宜が持つ茶入を
ご覧になりたいということで、私も相伴しての茶湯があった。

出雲殿はこの茶会を称賛され、「京より南には無い茶会であった。」と言われたので、私が
「当地においては、下手と言われます。」と答えると、「他はともかく、都にもまれな掃除の良さであった。」
と仰られた。

侘数寄は気遣いを専らとするが、侘びであっても出来るのは掃除である。
名人というものは相手によって褒めどころが有るのだと思ったものだ。

その右馬丞の茶入というのは、現在は尾張大納言様(徳川義直)の元にある小肩衝の事である。

(長闇堂記)



金森出雲殿が最も目利きの巧者と言われた

2019年08月01日 18:17

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/01(木) 17:36:48.65 ID:4/OV32Gj
古田織部殿の時代は、金森出雲殿(可重)が最も目利きの巧者と言われた。彼が堺で肩衝を
金子3枚で買われて領地の飛騨に下り、火口の釉薬がむさいと焼き直された。

この行為について上方で取り沙汰され議論となった座に、薮内紹智という古い目利きの巧者で、
かつ有名なひねくれ者が有り、彼が
「みなさんそう言われるが、出雲殿は焼き直される目があって買ったのだ。みなさんにはその目が
無いのだろう。」と言った。
そのような事を誰の前でも高言したため、人々から大変憎まれた。その後、夏切口(茶壺に封じた茶を
冬まで待たず初夏に口を開くこと)として、客60人ばかり、大名衆、京町方への振舞があったのだが、
これを主催する人々は紹智を嫌っていたため彼を除外し、「紹智講」と名付けた。

その人々が翌春、東山に各々茶箱を持ち寄って比べられた時、金森出雲殿も上京された。
かれは茶箱に例の焼き直された茶入を入れ、蓋と袋(仕覆)も作り直したものを取り出された。
これを見た人々は「あの茶入ならば、類なき侘びしさだ。」と評した。この後、茶箱に唐物茶入を
入れることが流行した。

金森出雲殿にどのように焼き直したかを尋ねたところ、灰を湿らせて釉薬を残したい部分を灰の中に
押し込み、廻りに火を置いて焼いたのだとの事であった。
その茶入は後に伊藤掃部殿(元豊臣秀長家臣)の所持となったが、海に取り落とされたのだという。

(長闇堂記)



128 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/08/02(金) 12:33:33.45 ID:Ps3Ppnlx
>>126
薮内の名誉回復は無い話なのか

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/02(金) 15:01:02.87 ID:Wd9Qn8xC
>>128
妙本だけど、書いてあるのはこれだけですね。

とかく物事は、心がけ次第である

2019年07月31日 18:54

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/31(水) 12:06:23.70 ID:gc127j7C
私(久保長闇堂)が25,6歳の頃、奈良に秀吉公の馬廻衆が10人ばかり居られ、その内の5,6人は、
仲間内で毎日茶会を行われていた。そのうちに私も呼び出されるようになり、日々様々な遊興が有ったが、
茶湯も好まれ、廻り炭や廻り花(主客が次々に炭手前をする事と、花を入れていくこと)などで楽しんだ。

その頃、その馬廻衆の人々はみな真壺(唐物茶碗)を所持していた。壺がなければ濃茶は出来ないため、
私はそれまでずっと薄茶で口切をしていた。未だ呂宋から大量の茶壺が渡来する以前のことだった。
私は茶壺の無いことを無念に思い、借金をして27歳の時に方脱ぎの壺(肩の部分の釉薬に剥脱のある
唐物茶壺)を苦労して求めた。
するとこの事を馬廻衆の人々が殊勝なことであると感心され、銀子20匁づつを援助して下された。
殊の外の御恩と思ったものである。

今思うとあの人々は五千石、三千石を知行していて、千石以下の者は居なかったのだが、あの当時は
この程度のことをしてくれるという事も、世に無かった時代であった。あの頃は米一石が銀10匁だった。

その頃、祐春という道を知る数寄者がいて、私は再々往来していた。また私と同年の吉蔵という者も、
同じく祐春の元に出入りしていた。
吉蔵は親が裕福で良い茶室を持ち、人形手茶碗を持って茶会をしていると、祐春が称賛していた。
私はそれが気に入らず、無念に思っていたが、10年も経つうちに私も座敷を作り、茶壺を求めたため、
嬉しく思って祐春を呼び、茶湯をしてこのように言った

「あなたがかつて吉蔵の事を称賛していたのを、内心無念に思っていましたが、吉蔵は今ではもう
茶会をしなくなり、茶碗も使わなくなっています、とかく物事は、心がけ次第であると思います。」
これに祐春は言葉に詰まり、気味の良いことであった。吉蔵というのは医師の梅久の俗名である。

(長闇堂記)



だからこそ胸の覚悟が第一なのだ

2019年07月30日 14:32

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/30(火) 03:54:51.62 ID:m2Cmpsib
藪内宗把という人は名高い侘数奇で、かつ人を何とも思わない人物であった。
彼は隠居後、子の世話になっていたが、ある時侘数寄の友人が来た折、話の興が深くなった。
その友人が「用がなければ晩まで語らないか」と言うと、宗把も「それが良い」と答えた。

そこで友人は下僕を呼んで、自宅から夕食をここに持ってくるようにと命じた。
すると宗把に母屋の方から「夕食が出来ました」と伝えて来た。彼は「ここに持ってくるように」と
言い、食事が届くとまだ夕食の届かない友人を尻目に一人で飲み食いした。

この仕方はこの時代の風俗であり、珍しくない事であったようだ。しかし世の常の者は、客の夕食が
届くのを待ってから食べるものであるが、その礼儀もないというのは、宗把の心強く大胆な仕方であった。

すなわち、侘数奇は心強く大胆でなければ、道具をはじめ全てが不如意であるのだから、世に名高い人と
交われば、心劣りして肩身が狭く、自然と茶湯が嫌になるものである。だからこそ胸の覚悟が第一なのだ。

(長闇堂記)



300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/30(火) 18:53:26.82 ID:yQhGIf45
利休といい山上宗二といいこの男といい

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/30(火) 19:01:49.07 ID:BdRJQ6Cs
傲岸不遜じゃないと茶人にはなれないのか?

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/30(火) 20:08:14.03 ID:lKAqgCGR
誰に批判されても我が道を行けとな
文化系の人っぽいよね

303 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/07/31(水) 18:03:12.30 ID:HDK0hrXm
道クソ

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/03(土) 00:38:46.97 ID:XZbNzS3v
現代茶道だと礼儀というか、もてなしというか、要は心配りが重視されるが、茶の湯の創成期
ではその辺のニュアンスが異なるのかな。
そもそも、どちらが茶に造詣が深いか競う「闘茶」が起源だし、茶室での亭主と客の立場も
いわゆるホストとゲストじゃなくライバル同士の勝負、数寄振りを競う場みたいな感じだっ
たのかと思う。

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/03(土) 09:47:37.53 ID:1GDfPUqH
>>304
あーそれなら納得できる

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/03(土) 09:48:37.36 ID:1GDfPUqH
そうでないと変人と言うか嫌なやつばかりになてしま

山上宗二は顔つきが悪く、口も悪く

2019年07月28日 15:22

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/28(日) 11:58:49.11 ID:81YcgESZ
山上宗二は薩摩屋ともいい、堺の上手であり、物知りとしても超えるものが居ない人であったが、
なんとも顔つきが悪く、口も悪く、人に憎まれていた。
小田原御陣の時、秀吉公にさえも御耳に触るような事を言い、その罪として耳と鼻が削がれた。

彼の子は道七といい、故太政大臣様(徳川家康)の茶堂として御奉公をしていたが、父譲りの
短気な口悪者で、上様が風炉の灰をされたのを見て、それを突き崩してやり直したため、改易と
された。彼は牢人して藤堂和泉守(高虎)殿が伊予に在国されていた折に伊予へ下り、その事についての
申し開きをした。私(久保長闇堂)も居合わせて一冬話したことがある。

(長闇堂記)



茶湯が改まった

2019年07月27日 19:29

千利休   
120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/27(土) 02:52:16.36 ID:heGmLc+j
千宗易は秀吉公の師であり、かつその才知が世に優れた人であったため、天下すべての人がその教えを
学び、後には利休居士と申された。
彼の影響に寄って昔の名物はみな蔵に仕舞わ使われなくなり、茶湯が改まった。

昔の炉は一尺八寸か六寸だったのを、一尺四寸(約42センチ)に直し、縁一寸一分、土壇一寸一分、
土壇の内九寸八分にして、九寸(約27センチ)の釜と定められた。この時、有馬の湯元に有った
阿弥陀堂の釜を求められた。その写しが「阿弥陀堂」の名で世に流行した、
釜を釣る鎖、自在も廃り、五徳据えとなった。

茶道具では今焼茶碗(利休が長次郎に焼かせた楽茶碗)、棗の大中小があり、清甫という塗師が作った。
当地奈良の林小路に住む与次という塗師は、中次の薄茶器で天下一であった。

墨蹟には古渓和尚、すなわち利休の参禅の師のものが好まれた。掛物は幅が広いものは立派すぎるので、
一尺二、三寸の幅となった。大文字も二行書きだと、一旦見下ろしてからまた見上げることに成って
良くないため、一行物が流行した。表具も光り輝くのは仏画のようであると、みな紙表具、あるいは
北絹(黄繭から取られた糸で織った中国製の絹)で表具するようになった。

利休は万事手軽く、寂びたものを基本とされた。世間の侘びに配慮し、また道具を持たなくても
誰であっても茶湯が出来ることを示して、人々を道に赴かせようとしたのだ、とも言われる。

その他、茶壺の口覆は昔は角切らずで、口の緒も長かったのだが、利休は角丸く、口の緒を短くした。
茶入袋の緒も、長緒で紅色の唐糸であったのを、現在のように緒の短い、打留一つの練繰糸にされた。

茶箱も利休が初めて作ったものである。桐の角丸面とし、錆(砥の粉を水練りして生漆に混ぜたもの)を
つけないで上塗りを黒くして、木目が見えるようにした。蓋の覆いは薄渋の紙にして、片仮名で
「旅の茶の具」
と書き付けてあった。

(長闇堂記)



121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/27(土) 21:15:23.74 ID:wLngnx7E
自在ってすごいネーミングセンスだよな

筒井筒 五つに割れし井戸茶碗

2019年07月26日 17:43

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 13:21:54.29 ID:JJznDzuF
世間で『筒井の井戸茶碗』と呼ばれたものは、元々は南都(奈良)の水門町に居た善玄という侘び者が
所持していた高麗茶碗であったが、筒井順慶がご所望され彼の持ち物となり、その後順慶より秀吉公へ
献上されたのである。

ところがどうしたわけか、この茶碗を秀吉公の御前で割ってしまい、御機嫌を非常に損ねられた。
この時、居合わせた細川幽斎がとっさに狂歌を詠まれた

『筒井筒 五つに割れし井戸茶碗 咎をば誰が負いにけらしな』
(謡曲「井筒」の「筒井筒 井筒にかけしまろが丈 生ひにけらしな妹見ざるまに」をふまえている)

そう申し上げた所、殊の外よく出来た歌であると、秀吉公はすぐに機嫌を直されたという。

(長闇堂記)

なおこれは「多聞院日記」天正十六年二月九日条にも記載されており、どうも実際にあった事らしい

参照
秀吉の筒井茶碗と細川幽斎・いい話


117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 14:30:22.88 ID:F4qiylrx
政宗「俺の正宗、振分髪も持ってこようか」

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 16:25:54.00 ID:AwYufllE
幽斎がとりつくろわなかったら誰か死んでいたのだろうか

悪くなるのは仕方のないこと

2019年07月03日 15:48

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/03(水) 02:38:55.24 ID:Xi9PJ/pM
古田織部殿に取り立てられた服部道巴が、遠州殿(小堀遠州・政一)を茶会に招いた時、
その供として私(久保長闇堂)も同道した。その帰り、私が「さても見事な数寄者でした」
と申した所、遠州殿は「一段と不出来な仕方でした。」と批評した。
「なにかお気に入らぬ事が有ったのでしょうか」とお尋ねすると

「そうです。炭手前をした時、彼は前の大炭へ火がよく廻ってしまっていたのを失敗と思い、
動かして隠し、火気を丁度良く見事な状態にして炭を置きましたが、これは道巴には似合わぬ
事でした。悪くなるのは仕方のないことです。それを良く見せようと思う心は、初心の仕方です。」
そう言われた。

(長闇堂記)



そうしたわけで、「長闇堂」と名付け

2019年06月30日 13:11

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 00:39:14.11 ID:raA9xB2O
私(久保長闇堂)の庭前にある七尺堂は、東大寺大仏再建の聖である俊乗上人の御影堂であった。
中井大和守(正清)がそれを建て替えられた時、その古い堂が古びて趣深かったので、ある人に頼んで
前栽の中に移し、繕って茶処に用いたのである。

堂の内はわずかに七尺(約2.1メートル)四方、その中に炉を入れ、床と押入と水屋がある。
水屋に茶道具を仕舞い、床に花や掛物を飾って、押入床を持仏堂に構えて、阿弥陀の木仏を安置した。
茶会をしても、狭いということはない。

鴨長明は維摩(居士)の方丈に倣って隠居し、人と交じわらない事を楽しみ、ただ一筋に阿弥陀を頼った。
私の堂は方丈より小さいとは言え、多くの人を招いて茶の湯をしているため、浄名居士の獅子の座には
叶っていると思う。そんな私がどうして鴨長明を理想とするだろうか。阿弥陀の木仏は俊乗上人の古堂に
ふさわしいと思って安置しただけであり、私には阿弥陀を頼もうという気持ちはない。俊乗上人は法然の
弟子であるから、上人に礼儀を尽くしただけなのである。

江月和尚が江戸に居られた時に私はこの堂を営んだため、用があって書状を差し上げたついでに、この事を
述べて、この阿弥陀の狂歌として

 狭けれど 相住みするぞ阿弥陀仏 後の世頼みおくと思うな

と書き付けて送った所、やさしくも詩歌をもって答えられた

 観音は 同坐とこそは伝えしに 相住まいする弥陀は珍し

 盡大三千七尺堂 堂中同坐仏無量
 自由一箇自然楽 今作西方古道場

そのようであったが、ある時(小堀)遠州殿が来られたので、この事を語って「額を一つ書いていただきたい」と
頼んだ所、微笑まれて「それでは」と、『長闇』の二文字を書き付けられた。私が「どのような意味ですか」と
尋ねると、遠州殿は

「昔の鴨長明は物知りで、智が明らかなので「明」の字が相応しい。一方あなたは物を知らず、智は暗く、しかも
方丈を好まれている。よって鴨長明から「長」の字をとり、また「闇」はその心である。」と笑われた。

そうしたわけで、この七尺堂を「長闇堂」と名付け、「長闇子」を私の表徳号とした。

(長闇堂記)



220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/30(日) 18:00:42.20 ID:jSCm0gOK
うーん、どう解釈して良いのか謎だ