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同名淡路守・同弾正、並びに采女佐の知行宛行いの事

2019年01月01日 19:32

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 22:47:04.94 ID:WBFFkdFS
久野三郎左衛門宗能はこの正月の掛川城攻めに際して今川氏真に語らわれ、その一族家人どもは
皆裏切ろうと計った時、宗能一人は同意せず御加勢を待ち受け、反逆の一族家人を討ち滅ぼして
忠義を励み、戦功も多かった。

そのため神君(徳川家康)はその忠勲を賞され、一族らの没入の地を加恩として宗能に賜った。
その時に下された御書に言う。

  同名淡路守・同弾正、並びに采女佐の知行宛行いの事

 右はこの度、かの3人が逆意するも宗能は別儀なき旨、甚だもって忠節である。そこでその
 賞としてかの跡職知行など一円を与える。これは永久に相違することはない。もし同心の者
 どもの不承知があれば、存分に申し付けられるように。またかの同心者が訴訟するとしても、
 許容しないものである。よって件の如し。

   永禄12年己巳8月28日

               家康御判

         久野三郎左衛門殿

――『改正三河後風土記』


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久野氏内紛

2018年12月19日 22:28

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/18(火) 19:17:20.93 ID:g1LvLh8E
(掛川城の戦いの時)

ここに今川氏真はこの20日に、密かに金丸山の久野三郎左衛門一門の老臣・久野八右衛門宗明の方へ
密使を遣わして、内々に申し送ったことには、

「久野一族が旧好を思って徳川方を叛き氏真方へ一味するならば、明夜に氏真が軍勢を出して天王山の
本陣に夜討しよう。その時に久野一族も敵の後陣より襲い攻めれば、徳川勢を破ること疑いなし。もし、
この事が謀の如くになれば、遠江一国を久野一族に授けてその功に報いよう」

久野一族は三郎左衛門宗能の弟・淡路守宗益、佐渡守宗憲、叔父・弾正忠宗政とその弟・采女宗常、
将監某、日向守守政、その他一族らがこれを聞いて皆利欲に引かれて義理を忘れ、氏真に一味すると
返答した。さて、その事を一家の大将・宗能に告げてその上で諫め申したことには、

「徳川殿は掛川城を攻め給うとも、この城は要害堅固でそのうえ今川方は忠義金鉄の勇士が数多籠って
いるため、容易く攻め落としなさることはできますまい。それよりは当家の一族が同意して氏真の命に
応じて夜討の働きをし、その功によって氏真から遠江一円を賜れば、家を興し先祖の孝、かつ子孫への
栄華を残すことでしょう。この事こそ、よく御思慮なさるべきです」

宗能はこれを聞くと、

「各々の諫言は一理無しというわけでもない。しかしながら、宗能は去年に一族を引き連れて徳川殿に
帰順し、その後はすこぶる厚い恩を蒙った。今故なくその恩を捨てて利のために義に叛き裏切ることは、
勇士の本意にあらず。そのうえ氏真の有様を見るに、讒を信じ佞を愛す昏愚の愚将で、行末は頼もしく
ない。面々も不義の謀計は思い止まるように」

と言って、その申すところを用いず。その翌21日には氏真が重ねて河井与四郎を使者とし「久野一族
がいよいよ同意するならば、明夜城から出る。きっと裏切るように」との旨を申し越したのであった。
よって淡路守・佐渡守・弾正・采女・将監らは皆氏真に同意し、「宗能を討って一族皆氏真に一味し、
明夜裏切ろう」と評議を決したのである。

八右衛門宗明は「いずれにして宗能は一門の惣領主将である。それなのに一門らは宗能を討たんとする
ことは嘆かわしい」と思い、この事を宗能に告げると宗能は大いに驚き、本間十右衛門長孝を使者とし
内々にこの子細を神君(徳川家康)の御陣に告げ奉った。

神君は大いに御感心され、菅沼新八郎定盈・松平与一郎忠正・植村出羽守家政(家存)・三宅総右衛門
康貞を加勢に遣わされて、また榊原小平太康政にも「宗能に力を添えて反逆者一族らを誅すべし!」と
命じられた。よって康政ならびに宗能は金丸山の本丸に籠り、その他加勢の四将は二丸に籠った。

この時に、淡路守・采女・将監は大手に向かい、佐渡守・弾正は搦手より攻め寄せた。城中では敵襲を
予想していたので多くの矢砲を隙間なく射出し撃ち出し、寄手が攻めあぐんだ折に、二丸に籠っている
加勢の輩は手分けして敵の後ろへと廻って、「徳川勢を後詰するぞ!」と喚き叫んで突いて掛かった。
本丸二丸に籠った輩も門を開いて切って出れば、寄手は散々に敗北した。

ついに淡路守は生け捕りとなり、腹を切らせなさった。(原注:『家忠日記』『三河物語』)その夜に
一族家人5十余人が討ち取られ、弾正・采女・将監らは追い払われて佐渡守は行方も知れず落ち失せた。

この日、榊原康政は様々に工夫して奮戦し、中根善次郎(長重)・遠藤八右衛門・篠島才蔵・竹内太郎
左衛門・竹尾平十郎などの従士は多く功をはげまして各々高名したという。(原注:『武徳編年集成』)

――『改正三河後風土記』


遠州久野城の談合顛末

2012年02月03日 21:57

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/03(金) 03:52:14.94 ID:8HE5RLeU
永禄12年正月
徳川家康は今川氏真らの籠もる遠州掛川城を攻めるため出陣した。

この時遠州の久野一族は、先に今川から家康に寝返っていたのだが、その本拠地
久野城に一族のうち、久野佐渡守宗憲、同日向守宗成、同淡路守宗益、本間十郎衛門
といった面々が集まり集まり談合をしていた。

「家康が掛川城を攻めるというが、かの城は簡単に落ちるようなものではない。
そこでだ、我々は対徳川の一揆を起こさせ、城攻めをしている徳川軍の後ろを襲い、
家康を討取り氏真への忠節を尽くし、その褒美として遠州一国を拝領し、徳川の本拠である
三河岡崎までも攻め取ろうではないか!」

彼らはそう結論し、それを久野一門の大将である三郎左衛門(久野宗能)に伝えた。

三郎左衛門はこれを聞くとしばらく思案し、その上で彼らに語った

「なるほど尤もである。方々の意見は戦略として大変よろしいものだと、私も考える。
だが、そうではあっても、だ

我々は去年氏真に背き、家康に臣従し、誓紙を交わしたばかりではないか。
その舌の根も乾かぬうちから、この事を無かった事にし家康を裏切り、
それによって立身するという。これは侍の本意ではあり得まい。

左様な非道の立身は、どうやっても叶わぬものであると、私は聞いている。
例え一旦は目的を遂げることができたとしても、それ自体が既に家を滅ぼす端相であるとも云う。

そもそも私は、譜代の主である今川家を捨て家康に付いた事からして口惜しいと
感じていたのだ。その上さらに、新たに主とした人を殺すなど、更に思いもよらぬ
事である!」

三郎左衛門はこう言って彼らの考えに真正面から反対した。
これに先の談合に加わった面々は激怒し、再び集まり「この上は三郎左衛門を排除し
新たに淡路守(宗益)を大将に立てよう!」などと言い出した。

ところがこのような事態の加熱に佐渡守宗憲、本間十郎衛門はついていけず、
反徳川派を裏切りこの事を三郎左衛門に伝えた。

これを聞いた三郎左衛門は大いに驚き、家康に報告、家康は直ぐに軍勢を派遣し
三郎左衛門はその三河衆を久野城本丸に引き入れ、自身は二の丸に退いた。

これにより久野城の反家康派は尽く退治されたという。
(松平記)




941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/03(金) 17:56:58.65 ID:RpYMFeIB
どこも大変やのー

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/03(金) 18:22:25.51 ID:ZzgNgMiO
真田パパン「戦国で生き残るのは大変でござる」


943 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/03(金) 19:22:11.00 ID:KhHM/lBA
宗茂「なあに仁義忠を弁え智勇を発揮すれば乱世といえど生き死には思いのままでござるよ」

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/03(金) 19:23:03.76 ID:aJSMlLk3
嫁さんには通用しなかったなぁ