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一戸兵部大輔政連横死のこと

2020年03月13日 16:33

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 00:50:33.54 ID:Iz+5LKKk
一戸兵部大輔政連横死のこと

陸奥南部の一族一戸兵部大輔政連という人は、彦太郎行朝の嫡流にして代々一戸の城主として三千石を領地していた。
天正9年7月18日夜、政連の弟一戸信州(平館の家を継ぎ千石を領地していた)は不意に政連の寝所に乱れ入り、兄政連を斬り殺した。
女房どもは大いに騒ぎ、騒ぎを聞きつけた男たちが信州に斬りかかる。
その中に政連の子出羽もおり、彼も斬り殺されてしまった。これによって代々続く名家・一戸家は断絶してしまった。

事が収まった後、南部家当主の南部信直は凶行に及んだ理由を尋ねると、
一戸信州は「兄兵部は平生暴悪にして百姓たちが困窮のあまり一揆を起こそうかと考える有様で、兄に諫言をしても聞き入れてもらえなかった。
そのため兵部を捨て子の出羽を立てて領内安泰を図ったが、誤って出羽をも斬り殺してしまい、後悔している」と言った。

信直は「兄を殺すこと汝が逆罪は八つ裂きにするとも飽きたらない。だが思うところあり一命は助けよう」
と知行を取り上げ領内から追い払った。
年月を経て、信州は領内に忍び居たが乞食同然の体で病死したという。

伝曰く この話は皆が不審に思ったが、数年後、事の次第があらわになった。
九戸政実が逆心を催し領内の大身の領主たちを誘った際に、政連にもその誘いを密かに入れたが、
政連は忠義を重んじて同意しなかったため、一戸信州をたばかり兵部を討たせたのだという。

奥南旧指録



913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/13(金) 21:16:35.42 ID:jPTP3wxG
これは本当に悪い話だ
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九戸城落城

2015年09月02日 08:56

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/02(水) 00:01:40.69 ID:JNt17zIE
九戸政実の乱で九戸城を攻めていた諸将は、城が備え固く落ち難いことに加え、
疾病が流行して大いに苦しんだ。

そのような中、九戸の苦戦を聞いた奥州仕置の総大将である豊臣秀次の軍勢が進み三迫に陣し、
徳川家康も岩出山に陣したことが京都の豊臣秀吉に聞こえ、背後にいる伊達政宗を警戒した。

蒲生氏郷たち九戸攻めの軍は、城を攻めても抜くこと能わず、諸軍の兵糧も乏しくなり、
浅野長政の陣に集まって軍議した。ここで、井伊直政が発言した

「賊兵は嶮に寄り良く戦っており、未だ力攻めすべき時ではありません。
しかし賊は勇気はありますが智略を持っていません。謀を以ってこれを誘い、彼らの生命を保証すれば、
きっと従うでしょう。」

諸将は賛同し、書状を作り九戸城傍の長興寺の僧に持たせ、城に入り九戸政実を説かせた。
政実はこれに従おうと思い、籠城衆の多くも賛同した。畑尾山重勝は反対し死諫したが
政実は従わず、15日、久慈直春ら数人とともに浅野長政の陣に赴き降伏した。
長政はたちまち政実らを捕縛した。

九戸の重臣である七戸家国櫛引清長らは欺かれたことを知ると、政実らを奪還しようとしたが
及ばず、次に蒲生氏郷を討とうとその陣に突撃した。氏郷の将である長谷川、福原、寺西、前野、
明石といった者達がこれを遮り戦死した。

櫛引清長は蒲生軍によって銃撃され負傷し、七戸家国と共に退き、九戸城に入って自刃した。
七戸家国は搦手より出て甲冑を脱ぎ、南部信直の陣営に向かって叫んだ

九戸政実は西軍(豊臣軍)によって欺かれ遂に虜とされた!私は今まさに死のうとしている。
すなわちこの城は落ちる。
乞う!君兵を早く進めてこれを取れ!他をして先んぜられるべからず!」

そう言い終わると城に戻って、残っていた者たちを説得し搦手より逃がし、自身は城に残って
自刃して果てた。

こうして、南部信直は最初に九戸城に入り城兵を鎮撫した。

(九戸戦史)


九戸戦史より、九戸城落城の模様である。



248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/02(水) 03:30:02.35 ID:LQ+hPAWo
浅野じゃないのか

九戸政実の乱始末

2015年04月29日 17:09

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/28(火) 21:26:57.19 ID:/7nFTWj5
九戸政実の乱において、蒲生氏郷を始めとする豊臣軍の寄手は政実の籠もる九戸城を激しく攻め立てたが、
要害である九戸城に籠もる兵たちは戦意も高く、これを攻略することは難しかった。

寄手は一旦退却し、その日は人馬を休め、明朝攻めるのだと皆が油断していた所に、氏郷は竹束を用意させ、
夜中に仕寄に竹束を付けた。これにより寄手の軍勢は手負い無く、城を攻めることが出来た。
蒲生氏郷は九戸城が屈強の地であり容易に攻めることが出来ないことを考え、竹束を付けたのである。

寄手は数千丁の鉄砲を並べて城を撃ちすくめると、城中は難儀に及び、ついに堪えかね
『降参仕るによって身命を助け、釈明のため京都に上がりたい』と申し出たため、
寄手の軍はこれを了承し、籠城衆を三ノ丸に移動させ、本丸を接収した。

九戸政実に警護の武士を置き、九戸家中の者達は三ノ丸の長屋に押し込めたが、彼らはそこで
焼き殺された。そこから逃げようとした者達は、弓鉄砲で撃ち殺された。
それは目も当てられぬ有り様であった。

蒲生氏郷記)

豊臣軍による、九戸城攻めと、そのの降伏後行われた虐殺についての記事である。



713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/29(水) 00:47:32.81 ID:rz/ldAoa
浅野の介在が見受けられんね

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/29(水) 06:53:02.85 ID:cAcNPfvK
そりゃあ、力攻めじゃ無理だったので騙し討ちにしましたじゃ、物語的に蒲生ageできなくなるし

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/29(水) 17:50:47.03 ID:oAb/VsFW
よほど特殊な例でもない限り、記録って自家や自分に関係ある武士を持ち上げるために書かれるようなものだからな

浅野長政の約束

2013年09月07日 20:02

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/07(土) 18:06:04.11 ID:7bpdfZ+l
天正十九年、豊臣秀吉は南部信直の老臣、九戸政実が陸奥国において諸士を集めて
近郷を掠め、土民を悩ましていると知ると、関白秀次を大将として進発させた。

この時、仕置軍の攻撃に城を保ち難く感じた九戸政実は、九月七日の夜、密かに
浅野長政の陣所に行き「信直の本領を安堵してくださるなら速やかに城を退く」と告げた。

長政はこれを許諾し、政実と南部の家臣、櫛引出雲某を許し、その他数百人を焼殺した。
八日、政実と久慈備前某を連れて、秀次の陣営は会津に至るところであった。

その時、秀次は、「長政が我が命を受けずに政実を許したことは無礼である」と怒り、
長政に命じて中途で政実を誅殺した。凱旋の後に南部家の所領に差し障りがなかったのは、
長政が先の政実との約束を違えずに言上したからであった。

――『寛政重修諸家譜』





城主九戸の奥方も逃げ出そうとしたが

2012年12月17日 19:51

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/16(日) 19:44:34.29 ID:/EVut8fi
1591年に起きた九戸政実の乱は九戸側の敗北に終わった。
蒲生氏郷の軍によって九戸城が包囲され、いよいよ落城となると、城内は逃げまどう人々で
大混乱におちいった。
城主九戸の奥方も急いで逃げ出そうとしたが、履物が見当たらない。とにかく城主の妻であるから
裸足で歩くことには慣れていなかった。そこで、そばをうろついている者を捕えて履物を奪った。




796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/16(日) 20:46:33.26 ID:1lv3g2gu
>奪った。

え?

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/17(月) 00:14:37.93 ID:mTxjSZHZ
>>795  男物だったりしてw

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/17(月) 00:15:38.50 ID:nlXYvHQN
続くのかと思ったらこれでおしまい?

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/17(月) 01:38:16.58 ID:WviuVYra
>>798

>>795の九戸城の話は戦国の合戦事典の本で紹介されていたものだが、その続きは
書かれていなかった。他の史料の天正南部軍記によれば九戸政実の妻は息子の亀千代とともに
城の外へ出たが、蒲生勢に捕えられて母子ともども斬首されてしまったらしい。

九戸政実の乱、処分の顛末

2012年10月30日 19:58

88 名前:1/2[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 07:58:19.47 ID:Rgn5Goix
天正19年(1591)、豊臣秀吉の奥州仕置への大きな反発の一つとして勃発した九戸政実の乱。
要害である九戸城に籠る政実に、浅野長政、蒲生氏郷などを中心とする6万の豊臣軍はこれを攻めあぐね、
戦線は膠着した。
そこで南部信直の献策により、浅野長政は九戸氏の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者として
九戸城に送り、書状を以って九戸政実にこの様に申し入れた

『九戸がこのように籠城し、諸人をあい煩わせているのは意味のない行為です。何故なら、天下を敵に受けて
どれだけ防ぎ続けたとしても、どうして本望を達せられるでしょうか。終には城を攻め落とされて、皆々殺戮され、
一門郎党までも滅亡するでしょう。

ただし九戸は元来天下に対して逆意を持っているわけではありません。であれば速やかに降参し、前非を改め、
京に上がって右の趣を弁明すれば、秀吉公もきっとお赦しになるでしょう。その上私を始めとする諸大名があなたを
弁護するので、死罪、流刑ということには決してなりません。

よしなき謀反人となって一門が滅亡するよりも、戦をやめ降人となってどうか城より出てください。
しかし、もしこれに同心無いのであれば、致し方なく攻め果たすでしょう。』

これに九戸政実は動揺した
「その通り、私は元来天下に対して逆心があるわけではない。弾正殿(長政)さえ納得しているのなら、降伏したものを
死罪や流罪にまですることはないだろう。
それに、私自身の身の上はどうなっても構わない。だが心に懸かるのは11歳になるわが子亀千代のことである。
あの子が生き延び、どこの野の末、山の奥であっても健やかに生活していけるのなら、私はこの首を斬られても
少しも厭わない。」

これに対し政実の舎弟・彦九郎実親は
「殿の仰ることは尤もだと思います。ですが上方の習いとして、弓矢で以って敵を討つ事はせず、ただ謀略ばかりによって
骨折りすること無く人を倒すといいます。去年北条殿も、そのように謀られたために、小田原の城は落ちてしまったのです。
その上、仮に弾正殿が赦したとしても、私達が直接反旗を翻した南部信直が私達を許すでしょうか!?
侍というものは、死すべき場所で死なねば必ず後悔するものです。

今、この城を枕に潔く討ち死にすれば、名は後代に残り滅亡したあとも人々はその薫香を感じてくれるでしょう。
殿はこれをどうお考えか!?」

そう、はばからず発言し、これに九戸家中は、さもありなんと押し黙った。
しかし使者の薩天和尚はこれに

「彦九郎様の仰ることも一理あります。しかし弾正殿ほどの侍が、出家であるこの私に対し偽るとは思えません。
それに降参すれば命を助けると仰った以上、南部信直も自我を押し通して殺害するようなことはしないでしょう。
とにかく天下を敵に請けて、万が一にも遁れられません。一人の覚悟のためだけに万人を殺すというのは、仏神の
咎も深いものです。一旦敵に下り、身命を全うし子孫の後の繁栄を図るのは、これもまた孝行の道ではないでしょうか。
どうか恨みの心を止めて、これをお請けなさるべきです。」

この言葉に九戸政実は遂に、降伏を決めた。


当然、長政の嘘である


九戸城の本丸は蒲生氏郷が接収し、籠城衆はみな二の丸、三の丸に移された。九戸政実は重臣たちとともに
九戸城を出て浅野長政の陣に出頭した。
ところがここで彼らは「降人の作法である」と武器を剥ぎ取られ、囚人のように一ヶ所に監禁された。

「騙された!」

もう遅かった。

89 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 08:00:23.27 ID:Rgn5Goix
蒲生氏郷は「九戸の者で城から落ちようとするものがあれば、すべて殺せ!」と命じた。
政実の舎弟・彦九郎実親は降人に出ず、一人であってもこの城を守って自害しようと思い定めていたが、
浅野長政から様々に『命においては問題ありません。どうか下城してください』としきりに勧められたため、
疑いつつも本丸を降りて二の丸に至ったところで、蒲生氏郷の軍勢が本丸より銃撃し、撃ち殺された。
そして殺戮が始まる。

哀れを極めたのは九戸政実の北の方と子息・亀千代である。
城内に敵が乱入したため途方に暮れ、北の方は亀千代の手を取り落人に紛れ城の外に出た所を、蒲生軍に捕らえられた。
そして氏郷の陣に引き連れられると、氏郷は外池甚五左衛門に命じた。
「首を刎ねよ」

母子を後方の森に引き出し、甚五左衛門が太刀を取り後に回ると、北の方は

「少し待ってください。心静かに最期の十念をしてそれから討たれたいのです。」

そう言うと泣きながら亀千代の側まで近づき

「どうか、未練に見えないようにしなさい。西に向かって手を合わせ、南無阿弥陀仏と唱えていれば、必ず浄土に
迎え取られますよ。」と教えると、亀千代はおとなしく合掌し、念仏を唱えながら言った。
「早く討たれよ」

そう言われて外池甚五左衛門は彼の後ろに回ったが、誠に容顔美麗な子供が、細い手をあわせて畏まって居るのを見ると
さすがに哀れだと感じ、暫く討つことが出来なかった。
この姿を見た者達、涙を流さぬものはいなかったという。

北の方は言った
「私から斬られるのが順というものでしょう。ですが、幼い者が母を討たれるのを見れば、きっと驚いてしまうでしょう。
先ず、その子を早く斬ってください。」

この言葉に外池は太刀を振るうと、亀千代の頸は前に落ちた。それを見た北の方は守り刀を取り出し自害した。
外池は母子2つの首を取って氏郷のお目に懸け、氏郷から弔うようにと、菩提寺である長光寺に送られた。

九戸城の二の丸に押し込められた九戸一族郎党は、四方より火をかけられ、猛火の中逃げでてくる者達は
弓・鉄砲・槍・長刀にて討ち取られ、刃を恐れ逃げる者達は、焔に巻かれ焼け死んだ。
老若男女の泣き叫ぶ声は天に響き、目も当てられぬ有様であった。
数代にわたって繁栄した九戸も、忽ちに一時の灰塵となって失せたのである。
(天正南部軍記)

九戸政実の乱、処分の顛末である。




90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 10:09:18.07 ID:11RoK+SS
九戸政実の乱と肥後国人一揆については、ちょっと悪い話どころじゃないよな。

91 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/30(火) 10:31:23.51 ID:WmDBGrPA
時勢を読めなかったってことなんだろうなー

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 10:42:16.15 ID:UPwYGmX+
名門でも無い雑魚大名は皆殺しがデフォだな
秋月が赦されたのが例外中の例外
楢柴パワーのおかげ

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 11:22:11.60 ID:kiwqNgSz
秋月は平家方に味方して大宰府現地長官の地位を追われた人の末裔

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 13:54:35.38 ID:1CCIsB62
ああ、すごく悪い話だな

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/30(火) 13:58:45.76 ID:rA8w7bE1
汚いなさすが南部きたない