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政元養子の事

2018年08月02日 11:18

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/02(木) 10:47:04.16 ID:rEFEdP0l

その頃、公方足利義澄卿の御母堂は柳原大納言隆光卿の娘で、今の摂政九条太政大臣政基公の北政所とは
御連枝であった。故に公武の貴賤、おしなべて九条殿を崇敬した。

しかし細川政元は公方家の権を執り驕りを極める余りであろうか、あらぬ心出来て、九条政基公の
御未子の公達を己が養子に申し受け、自分の童名を付け聡明丸と号し、その後今年12月10日、
この聡明丸の元服の時は忝なくも公方御手づから加冠なされて細川源九郎澄之と名乗らせた。

こうして公家武家相共にこの澄之を崇敬しかしずき、九条殿も繁盛した。

古、鎌倉の征夷大将軍頼常卿と申すのは光明峰寺摂政殿(九条道家)の公達であったのを、
武家の上将となした。これも珍しい例であったが、それは右大将頼朝卿の親戚であったからであり、
右大臣実朝公の跡目であったから、軽々な話ではない。しかし、今の澄之はまさしく摂政相国の公達で
あるが、将軍家の執事である細川政元の子として、盛んな事とするのは、末世とは言いながら浅ましい
次第であると批判する人々も多かった。

その後、またどうしたわけか、細川政元は熟考した
「我家は代々公方の管領を相勤め親類も数多ある所に、他家の子を養いて家督を立てるのも
謂れなき所業であり、細川一族の面々も、他家の大名も、これに同心し挙用しないだろう。」
そのように突然考え、かの九郎澄之には丹波国の主語を譲り彼の国へ差し遣わし、永正元年の春頃、
家臣の薬師寺与一郎元一を使いとして阿波国へ差し遣わし、彼の国の一族である細川成之の孫で、
讃岐守義春の子である11歳に成る男子があり、これを養子にしたいと所望した。

成之も義春も細川一族であり、すぐに同意すべきであったが、政元の行跡見届けがたいと感じ、
何事か後難があるのではないかと、様々に辞退したが、薬師寺元一が古今の例を引いて様々に
理を尽くして説得し、漸く成之、義春も同意し、ならば養子に参らせると固く契約した。

政元は喜び直ぐにこの子を元服させた。彼にも公方家より御一字を申し受け、細川六郎冠者澄元と名乗らせ、
未だ若年であるとして、上洛もさせず阿波国の屋形に差し置いていた。

下の屋形とは阿波国の守護所である。昔、常久禅門(細川頼之)は大忠功の人であったため、摂津、丹波、
阿波、讃岐の四ヶ国の守護に任じられた時、自身は在京して管領職を勤め、守護する四ヶ国には一族を置いた。
中でも阿波国には舎弟讃岐守詮春を留め置いて分国の政事を執行させ、これを下の屋形と号した。
そして細川頼之嫡流の管領家を上の屋形と名付けた。現在の義春も詮春の子孫であり、上の屋形に
子無き時は必ず下の屋形より相続するのが筋目であった。

そのような由来がありながら、政元はどうしたことか、身の栄耀に飽き足らず、驕りを極めるあまり、
摂家の貴族を養子にして、ついに一家に二流を作り、後日の災いを招いた。その不遠慮の義、只事ではない。

政元は不忠不孝であったので、すなわち天罰を被って一家は滅亡するのだが、その先触れであったと
考えるべきだろう。

(應仁後記)


細川政元九条政基から澄之を養子にとった件、家格のことで当時から批判があったらしい、というお話


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九郎殿は御腹を召され

2018年02月28日 22:31

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/28(水) 02:13:22.65 ID:/FwJ4UQm
香西又六(元長)と薬師寺三郎左衛門(長忠)が天下を我等がままに振舞うところに、
やがて50日ほどあって、同(1507)8月1日に、

澄元(細川澄元)は三好筑前守之長の算段で、甲賀の谷の山中新左衛門を御頼みになり、
京へと切り上った。九郎殿(細川澄之)のいらっしゃる遊初軒へ攻め掛かると、

一宮兵庫助が門より外へ切り出て、手元へ進む兵を7,8騎切り伏せ大勢に手を負わせ、
東西へ追い散らし、そののち自身も討死したのであった。中昔の源判官殿の御内である
武蔵坊弁慶もこうであったのかと思い出される。

さて兵庫助討死の由は、波々伯部伯耆守が九郎殿の御前へ参り申し上げ、「早く早く、
御腹を召され候へ」と申すと、九郎殿は「もとより覚悟のことである。しかしながら、
九郎の父・関白殿(九条政基)と北の御方へ御文を参らせたい」と硯を御乞いなさり、

「このたび丹波にて物憂きことなどがあり、また御二人より先立ち、後生菩提逆さま
に弔われ申さんことの口惜しさよ」と言いなさって、奥に一首の歌を遊ばしなさる。

「あづさ弓 はりてこころはつよけれど 引手すくなき 身とぞ成ぬる」

このように書き留めなさると、鬢の髪を少しそえて涙とともに巻き込め、御自身の文
ながら、ひとしお名残惜しげに御覧になり、局の方へ御渡しになった。そののち伯耆
を御呼びになり、「我はいまだ腹の切りようを知らぬ」と仰ると、伯耆は答えて

「十方仏土とは申しますが、自害と申すものは、まず西へ向かって十念し、御腰の
物を抜いて左の脇に刺し立て、右手の脇へ引き回し、返す刀で御心元に刺し立てて、
袴の着際へ押し降ろします」

と申し、九郎殿は御了承されて御腹を召された。伯耆は涙とともに介錯申し上げて、
そののちに腹を切った。薬師寺三郎左衛門、香西兄弟は皆々討死して朝の露となった。
このたびの討死は170余人である。

さて、その時の有様を局は九条殿へ参って詳しく申され、父の関白殿と北の御方様は
「これは夢か現か。夢ならば覚めてくれ」と、しばし消沈なさった。

ややあって関白殿が仰せになり、「人間に限らず生を受けたものは皆その上々を望む。
鳥類・畜類さえこうであるのに、それに引き換え、我が子は細川の家に養われて家に
疵を作ったことよと朝暮これを思っていたが、このようなことが起こってしまった」

と、御文を胸に当て顔に当て嘆きなされば、その他の女房たちや仲居の人、侍たち、
上下に至るまで流涕し、焦がれなさった。

これがあの釈尊御入滅の折、十大御弟子・十六羅漢・五十二類に至るまで、御別れを
悲しんだのも、こうであったのかと思い知られつつ、他人の袂も涙に濡れた。

このように因果の回ることは、ただ車が庭の中を巡るようなものである。

――『細川両家記』


政基

2014年12月16日 18:51

17 名前:政基1[sage] 投稿日:2014/12/15(月) 19:25:55.65 ID:ZuhOEDVv
有名な話のわりにまだないので。

戦国時代の始まりといえば応仁の乱。ちょうど頃の当主を九条政基という。
鎌倉時代には兼実・道家を一世を風靡した九条家だが、応仁の乱後は収入を失いたいそう貧窮していた。
この頃の九条家の家司に、唐橋在数という人物がいる。彼は政基のいとこにあたり、九条家の家政機関運営を主導していた。
で、お金のない政基。ついに万策尽き果て、この在数からお金を借りることになった。
さて、この在数、九条家のためということで、従来から九条家領日根野荘の管理を任されていた。
ところが、こんなご時世、在数も日根野荘経営には苦しんでいた。そのため、運営経費を根来寺から借りていた。
ところが在数は結局、この根来寺への借金返済にも失敗する。結果、根来寺は九条家に対し、担保である日根野荘を取り立てに行く。

政基からすれば「在数の借金だから自分で返せよ」となるし、在数としては「九条家の荘園経営のための資金を借りたのだから、九条家の借金」と言い始める。
そもそも在数は「なら九条家への借金返してください」と訴えるし、政基としてはそもそも在数が、でかい顔で九条家を支配しているのが気に食わない。
というわけで、あっという間に関係は悪化。

結果、明応五年正月七日、ついに政基は息子尚経とともに、在数を自分で殺してしまった。
これぞ、本当の「殺生関白」である。

18 名前:政基2[sage] 投稿日:2014/12/15(月) 19:28:37.48 ID:ZuhOEDVv
と、ここで話は終わらない。何故ならば、唐橋在数はこの時大内記・菅家長者である。つまり、現役の廷臣だったわけである。
しかも、天皇たっての願いで禁裏での歌会での講師を務める、学者としての実力も認められていた。
ぶっちゃけ、そこら辺の人間一人二人殺した所でもみ消しは簡単だったろうが、こうあってはタダじゃすまない。

まず激怒したのは同じ菅原一族。すぐさま、菅原一族である高辻・東坊城・高辻は談義を行い、朝廷へ、九条尚経を解官するよう訴え出る。
すぐさま先例が調べられ、鹿ヶ谷事件の松殿基房の例に従って解官、という方向で決着しかかった。

しかかったが、此処にも待ったが入る。入れたのは、近衛政家
九条と近衛とは基本的に仲が悪いが、ここでは「摂関家と侍臣とを一緒に扱うな」と訴えて、九条尚経の解官を防ぐことに成功した。
いくら対立する九条家であるからといっても、摂関家の威信自体が壊れるのは拙いと思ったらしい。

結局、尚経は出仕停止処分に収まることになった。
しかしこれによって九条家は、公家たちの間から評判を失ってしまう。
たとえば、中御門宜胤は、この事件に激怒して九条家との付き合いをやめてしまっている。

こうして九条家は益々没落し、政基は日根野荘にて直接経営を志すのである。
かくて、『政基公旅引付』につづく!

19 名前:政基おまけ[sage] 投稿日:2014/12/15(月) 19:35:06.96 ID:ZuhOEDVv
ところで、在数が殺されたと知った菅原一族の東坊城和長。
先ほど言ったように激怒して、政基の解官を訴えるなど積極的に活動している。

のだが、そのどさくさにまぎれて、自分の大内記就任を訴えている。
東坊城家は、和長の父・長清が夭折して家運が傾いており、それを和長が再建の途中だったわけである。

そして、あっさり和長は大内記に就任。
在数にはたしかに子供もいるのだが、以降唐橋家は衰退し、和長が菅原一族のまとめ役となっていくのである。

そんな、ちゃっかりした和長さんの話。
ちなみに、「無才」な長老・高辻長直に代わって、高辻章長や五条為学を鍛え上げ、戦国期の漢学を支える人材に育てたり、やることはやってる。




21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/16(火) 10:11:54.28 ID:/hFWP8dA
九条家ってかつては鎌倉将軍を出してたんだよな

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/16(火) 11:20:04.43 ID:ofVFTbeM
戦国時代でも荘園経営って続いてるんだなあ

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/16(火) 21:48:11.73 ID:TX3Jq3Qv
一条さんは荘園への下向組み