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亀井武蔵守商買廻船異國渡海之事

2015年01月31日 17:02

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 05:22:07.65 ID:cCcj3p3j
亀井武蔵守商買廻船異國渡海之事

慶長年中のこと京都・大坂・九州博多・長崎等の巨富の商人達は、金銀諸商物を船に積んで、異国へ渡りその国々の物を買い取って帰り、
日本で売買すれば、倍々の利潤があるので、我先にと船を調べ、大明の国中へは行けなかったので、シャム・カンボジア・安南・交趾・呂宋・マカオ・東京の
所々へ毎年渡航すること夥しかった。
亀井武州(亀井茲矩)、この利益を考え、我も船を派遣しようと思いたち、長崎において数十貫目の船を買い入れ、資を投じて京都・堺で、
その国々にむける商売のもの、あるいは刀・脇差,金・銀の細工物、京都の小袖、奈良の曝布染、蒔絵の諸道具、絵屏風などいろいろのものを調達し、
これを船に積み込み、領内の百姓どもを課役にかけて水夫としてシャムやカンボジアなど方々へ渡航させると、案のごとく売買ことのほか利があって、
金・銀のふえることかぎりない。かの国で買い入れた珍奇・重宝を山のように積み帰った。
紗・綾子・緞子・繻珍・繻子・天鵞絨の織物の類、羅紗・猩々緋などの毛織の品々、評や虎の皮、鹿皮、南京の焼き物、北京の織物、
玻璃・珊瑚樹・瑪瑙・伽羅・沈香・丁子・白檀・紫檀・黒檀、いろいろの唐木ども種々様々の異物など数々積みかえって、城内にならべておいて愛玩した。
その後、毎年船を派遣して珍奇のもの色々累積したので、江戸参勤のときには、献上品のなかにも、
このような物をさし加えたので、将軍様の御機嫌もことのほかよかった。次男鈴木八郎左衛門を総奉行として、侍を従えさせて長崎へ置きこれを司らせられた。


この船の往来に紫檀・黒檀・クワリン・棓榔子,沈香・白檀等珍しい唐木共を調べ寄せ、小座敷を建てなさった。珍奇な構成は言語を絶していた。
その値段を計ったらいかんとも検討しがたい。惜しいかな、この座敷はその後亀戸殿が国を去りなさり、(池田)光政公の時代になって、
家臣の日置豊前守(日置忠俊)がこのあたりを領せられたが、その頃のある時に風呂屋より失火して焼失した。
また亀井殿は鸚鵡・孔雀・驢馬・野牛、麝香の猫羊までも船に積んで取り寄せられた。驢馬と野牛は小山の池青嶋に放し置かれたが、
光政公の御代寛永の頃まで生きていたことだそうだ。そのほか草木の類も様々な物を取ってきて、植えられたが、その種で今に遺るものはない。
生姜の種を取り寄せられて、この種は今に残り、高草郡長柄というところに、今も大切に育てられてこれを栽培している。
その性質はただ肉のみで筋がなく、その他の種とは異なっていた。
また鹿野近辺に植えられし茶も、異国の種であるといわれ大切に育てられている。


それなのにその頃息子豊前守(亀井政矩)と、武蔵守殿は代わる代わるに江戸詰をさせられて、世間に羽振りをきかせていたが、
若き殿中に伺候していた人々は大勢寄り合い噂して豊前守を誹謗して、彼は商人の子であると言っていた事をかすかに聞いたら、
口惜しきことだと殊の外悔やみなさったということだ。
武蔵守殿は当然武勇に長けていて、度々の武名もあり、聡明利発の人であれども、あまりに財利の心深いので、ついにこのごとき譏り受けなさる。
武家にとっての佳名ではなく、一家の過失というべし。
(因幡民談記)

武士には商魂などいらぬわ!!! と言っていたら後々、手酷いしっぺがえしが来ると思うのですけどね



340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 10:04:23.85 ID:ea4e1PWC
猫羊って何だろ?ググッても羊の帽子かぶった猫しかでてこないけど。

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 10:14:31.72 ID:+2M9jm3q
麝香猫・羊までも、としたかったんだろ

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 17:40:08.44 ID:9WnBmIAt
しかも羊じゃなくて鹿だな

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 18:05:14.95 ID:xJbR7KDi
なんで東京なんだよ
まだ江戸時代だろ

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 18:09:40.59 ID:Zuw8QF9j
トンキン(ハノイ)
東京(河内)

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 18:41:28.61 ID:toVloykf
トーキョーわろた
流石にネタだろうが

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 23:52:18.30 ID:vlWoQ0Mm
明、朝鮮、渤海、ベトナムのどれかでしょ
さすがに内陸の明の開封府はないし、朝鮮の慶州かベトナム?
渤海もないよね

348 名前:339[sage] 投稿日:2015/02/01(日) 01:28:58.10 ID:TB2SCMP7
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1239423
いちおう、ここから引っ張ってきたんですけど、
ここでは「麝香猫羊」となっているので、ジャコウネコと羊だと思います
確か、まだこのころは羊も珍しい生きものでしたから

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/01(日) 11:51:38.27 ID:K9s4AoVl
ジャコウウシの別名が麝香羊だから、そのことだと思うよ

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長束正家、最後の模様

2013年07月09日 19:50

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/09(火) 18:13:17.65 ID:KgHgRreq
正家は後事についての遺言を書き残し、家人奥村左馬・西川兵庫・小西
治右衛門・長束与十郎らに形見を与え、白装束で切腹の座についた。

池田(備中守長吉)・亀井(武蔵守茲矩)に向かい「ここまで御出でいた
だきご苦労な事です。それでは今生の暇をたまわりましょう」と告げ、
切腹しようとしたところで、長束は再び両人に向かって「それがしの
家来奥村左馬は身近くで召し使ってきたものであるので冥途の供をする
覚悟と見えます。しかし無益の事でありますから殉死を留めて頂きたい」
と懇ろに言い残して切腹した。

奥村左馬は介錯したその刀を腹に突きたてようとしたが、(池田)備中守
家人武蔵掃部・瀧川織部らが間髪入れずに飛びついて刀を奪い、色々と
教訓したので奥村も力なく承引した。後に寺沢志摩守が召し出して領地
千石を与えられたと言う。

(關原軍記大成)

長束正家の最後の模様である





「赤松広英の怨霊」

2011年08月05日 23:01

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/04(木) 23:41:46.46 ID:4ilOAZBl
「赤松広英の怨霊」

西軍として田辺城攻めに加わった後、本拠・但馬竹田城で謹慎していた赤松広英(広秀・広通)。
日ごろ入魂の亀井茲矩の「家康に取り成すから、鳥取城攻めに加勢してくれ」という援軍要請に勇躍して出陣した
彼を待っていたものは、城下焼き討ちの罪を広英に被せる亀井の讒言と、家康からの切腹命令であった。
そして、広英は鳥取真教寺で自刃する。

広英は赤松政秀の子で、秀吉公播州下向の始めより篤く仕えたので、秀吉公の恩顧世の常ならず、
さらに軍功も華々しかったので、始めは僅かな身上だったが、恩録次第に加わり、龍野より竹田に移り、
3万8千石を領した。

その人となりは文武の道に志篤く、常に四書五経を講じ、文名高き者を多く抱えいた。
その頃の書物は古めかしい註によってばかりであったのを、藤原惺窩と共に新たな訓点を加える作業を進め、
宋学を世間に広めたのである。
また、朝鮮捕虜の姜とも交遊し、帰国の便宜を図ってやった。
このように諸道に通じ、その才、世に超えたる人であったが、思わざる兵乱に遭い、不遇にして
身を空しくしてしまったのだ。

広英と正室・宇喜多秀家の姉との間には娘しかいなかったが、側室が懐妊しており、広英没後に男子を出産。
しかしこの子も14歳で果て、家は絶えてしまった。

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/04(木) 23:43:36.49 ID:4ilOAZBl
赤松広英が死してその怨霊が残り、鳥取城下の人に取り憑いて「我こそ赤松が悪霊なり!」と名乗り祟るので
人々の恐れることは甚だしかった。

池田備中守の頃には、町の地下人・作右衛門というものが暗夜に一人歩いていたところ、
晴天だった空がたちまちかき曇るや、露のようなものを吹きかけられたので、眼も口も開けられないように思われた。
その背後から、白装束に鉢巻をした身長一丈(約3m)ばかりなる大男が馬に乗って現れ、作右衛門を抱え上げると
1町ばかり進んで彼を投げ捨てた。

投げ捨てられた作右衛門は気絶していたが、明け方になってようやく正気づき、ほうほうの体で逃げ帰ったものの
そのまま病気付き、3ヶ月ほどして死んでしまった。
この頃には同様のことが頻繁に起こっていた。

池田光政の頃には徳安という法体の者が、深夜、一人で城の道辺を歩いていると、凄まじい大男が
「我こそは赤松左兵衛尉よ!」と名乗って切りかかってきた。
徳安は脇差を抜き合わせ、受け止めたのだが、高股を切り落とされたと感じて、道端に倒れ伏してしまった。

たまたま通りかかった友人に介抱された徳安は、事の次第を話したのであるが、友人が股を見ても
傷すら見当たらないではないか。
こうして友人の肩に担がれて家に帰り着いた彼もまた、7~8日後には死んでしまったのである。

このような不思議な事が相次いだので、夜などは湯所の山の広英の墓の前を通る人もいなくなった。
人々は恐れおののき、神に祀り、祠を経て、歳時には神饌などを厳かに供えたので、憤恨は
次第に薄まっていったのか近年はこのような事は無くなった。
祠も次第に造り更へ、今はいかめしくなっているので、神霊もお喜びになっていると思われる。
(因幡民談記)




310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/05(金) 08:21:02.24 ID:r7jQsH/C
赤松広英、竹田城が好きで調べたらなかなか面白そうな人だけど資料がなかなか見つからないわ

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/05(金) 08:25:23.09 ID:5pMjYtta
斎村政広さんか

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/05(金) 21:37:44.58 ID:obmmQ6gn
>>311
この頃、斎村政広という呼称が一般的になっている感があるけど、
この「政広」という諱の出所ってどこなんだろう?
系図とか、赤松関係の書籍とか、それらに掲載の資料とかでも見たことがありません。
以前から気になってて。

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/05(金) 22:51:29.13 ID:CWDD+0Be
しかし江戸でも津和野でもなく鳥取城下で暴れるとは迷惑な怨霊だな