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井伊直孝の御貯え

2019年08月25日 16:46

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/25(日) 02:56:28.01 ID:OP61Z2p/
一、掃部頭直孝公(井伊直孝)御逝去の折、御形見として知行3万石や金7万両を御領地の庄屋
  までも拝領したという。

一、直孝公の御息女様(長女の亀姫)を大猷院様(徳川家光)に召し出されるようにとの御内意
  あり。すると掃部頭様は御受け奉り畏まったものの、「我が身は病身で御奉公勤め難く」と
  仰せ上げられ、それにつき御息女様は御一生御縁組はなかった。

  後には祟雲院様(掃雲院)と申して直孝公は取り分けて御労り、御生涯金銀は申すに及ばず、
  何事でも御望み次第、御心一杯御自由に遊ばされるよう仰せ進められた。これにより祟雲院
  様の御金は10万両あったという。

一、掃部頭様は御用金と申し御先手を3年御勤めになられる程の御手当を御貯えであったという。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



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”みつめの法”

2018年09月08日 17:14

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/07(金) 20:32:30.67 ID:Qri71EVU
井伊直孝の邸宅に人が集まり物語などしていたとき、彼らが「この頃世に、”みつめの法”(呪いの一種
らしい)という物があり、人々がこれを習っている」という事を語りだし、

「刀も要らずに人を捕え殺すとは、稀有の重宝である。人々がこれを習い行うのも余儀なき事だ。
私も習おう、人も習おう」

などと言った。しかし直孝はこれを聞いて

「歴々たるあなた方に似合わぬこ事を物語るものです」
と、叱責した。

彼らは
「これほど重宝なことなのに、どうしてそのように言うのか」
と反論した所

「まだ合点致しませんか?人の剛操勇猛と言うものは、互いに剣戟を抜き持って勝負を争い、
勝ちたるを以てその志を定めるのです。例えば同じ仕物放討であっても、縛めを抜き放った者を
仕留めるのと、抜きはなさぬ者を仕留めるのとでは、甲乙差別の有ることです。
であれば、広い場所で声をかけ、相手に武器を抜き放させて、その上で心よく仕留めることこそ、
教えもし習いもして、これを以て武勇と致すべきなのです。

あなた方のような歴々の評定は、その様であってこそ然るべきであり、”みつめの法”などと言うものは、
出家町人のような長袖で、そういった技を知らぬものが言うべき事なのです。」

(士談)



261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/07(金) 22:19:40.50 ID:G9iXUhvF
二階堂の心の一方だったりして

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/07(金) 22:20:29.07 ID:G9iXUhvF
二階堂の心の一方"みたいなモノ"だったりして

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/08(土) 05:56:12.97 ID:s+ctegTw
小賢しい童め

直孝12歳のときに、

2018年09月07日 17:43

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 23:38:14.70 ID:4nhJDA70
井伊直孝は兵部少輔直政の次男であり、母は松平周防守家来の者(馬屋預りの者也。大阪役に馬にふまれて死)
の娘であった。

直孝が6歳の時、直政の所へ母方より、息男の故にて送られた。直政はこれを、百姓の庄屋、内蔵助と
云う者の所へ預け置いた。

直孝12歳のときに、この百姓の家に盗人が入ったと騒ぎになった。直孝が裏に出て、闇夜を透かして
見ると、後ろにある山に盗人が這い上がっているのを見つけ、直孝はそれを追いかけて上がり、高股を
切りつけた。

切られて盗人が振り返ると、「盗人を仕留めたり!出会え者共!」と大声で呼んだ。
このため大勢が駆けつけ、ついに盗人を仕留めた。

この事は幼若の身として無類の剛才であると、父直政に報告された。直政はその年、直孝を自身のもとに
呼び寄せた。

(士談)

割とありがちな勇将の幼少譚だけど、それよりも母方の祖父の死因に驚いた。



258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/07(金) 00:59:04.86 ID:HvcW+ZTu
>>257
下男に撲殺された島津善久に較べたらマシかと

父子の間であっても、武士の道とは

2017年08月16日 11:27

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/15(火) 20:22:03.87 ID:gU50rwyN
大阪の陣において、井伊直孝家臣・庵原助右衛門の子・主税が、敵と組討をし、組み伏せた所に、
敵の家来たちが出てきて主税を斬りつけた。そこに主税の郎党たちら集まってこれを仕留め、
主税はついに敵の頸を取った。

この様子を、彼の父である助右衛門は見ていながら、助けに行こうとしなかった。
合戦後、人々は助右衛門に対し「あまりにひどい」と非難した。しかし助右衛門は

「私は、主税が非常に不憫に思った故に助けなかったのだ。
もしあの時、私が行って敵を除けば、人はみな、主税は私に助けられたのだと言われてしまうだろう。
運は天にあり、死は定まれり。
私に助けられたという名が残るのが不憫である故に、助けなかったのだ。」

父子の間であっても、武士の道とはかくあるべきである。

(士談)



144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/15(火) 22:32:45.21 ID:1v4Ror0J
又兵衛「俺が敵と組み合って川に落ちた長政を助けなかった理由と同じだな」

どうして昼寝などしていたのですか?

2017年08月15日 18:55

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/14(月) 22:01:40.61 ID:9LMNQKA6
大阪の陣の折、ある人が井伊直孝の陣所に見舞いに行くと、直孝はその直前まで昼寝をしていて、
乱れ髪の体にて出てきた。

その人は尋ねた
「直孝殿は昼夜の心がけの気がある方なのに、どうして昼寝などしていたのですか?」

直孝はこう答えた
「夜寝ないからです。」

(士談)

そりゃそうだ



46 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/08/15(火) 05:24:52.89 ID:An5zR+zm
いっ、いっ、井伊いの井伊~
昼~は寝床でぐーぐーぐー

“井伊家の一本槍”

2017年06月18日 16:11

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 04:52:56.99 ID:jFVDgUyD
台徳公(徳川秀忠)御上洛の時、彦根城を御旅館になさるとの由を御沙汰につき、
井伊直孝は将軍家を敬うあまり、家中の妻子家族を皆近郷へ立ち退かせた。

この事を台徳公は御聞きになり、彦根城へ御立ち寄りもなく、直に大津へと御出に
なったので直孝は大いに驚き、そのまま彦根に閉門して御沙汰を待った。

その後、台徳公は「旅館になる城は屋敷内へ小屋を建てて、そこへ家中の妻子を
入れるのが然るべきというのに、直孝はいかなる所存で家中の妻子を近郷へ立ち
退かせたのか。実に不審である」と、仰せになった。

それから御下向なさるという時、直孝は、「このまま京都に閉門して慎んだほうが
良いだろうか?」と、酒井忠勝へ内々に問うた。

忠勝は答えて「そのまま彦根にいても然るべきではない。供を少し連れて槍一本を
持たせ、密かに御後から下り申されるべきでしょう」と、言った。

直孝はその通りにして慎んで下った。台徳公は三島を御通行の折に仰せになって、
「直孝は下ったか?」と御尋ねになった。忠勝は答えて、

「供に3人を召し連れて慎んで御後に付き、供奉仕っております」と申し上げたので、
台徳公はやがて直孝を召し出され、御言葉を御掛けなさったということである。

“井伊家の一本槍”はこの時より家例となったのだとか。

――『明良洪範』


44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 17:17:19.00 ID:5kXMhSIL
>>42
今思ったけど井伊って織田家中での明智みたいな立場なのか?
外様だし京までの道筋にある場所を任されるって

彦根藩士は美服奢侈の排すべきを

2017年06月16日 17:55

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 19:40:10.63 ID:HMJ96zTR
井伊直孝は華美の風が上下を通じて一つの流行となった事を憂え、自藩にだけは昔ながらの士風を振作したいと考えていました。
江戸からの帰途、彦根に向かうために琵琶湖を横切って行くほうが近いので船により、彦根城の天守が見えた時に、藩士たちの出迎えを想像することもできました。
「皆の者。江戸出立の際、その方達に渡した荷物があろう、あれを開けい。」
「はっ。」
家臣たちは前々から気にかかっていたその荷物を開けると、中からは袴まで揃えた一揃えづつ綿の着物が出ました。
直孝は快活に笑い
「それに着換えいたせ。」
藩士たちは久しぶりでの国入りに綿服を着て同輩に会うのを気恥ずかしいと思いましたが、主命なので否応もなく渋々着換え終わった時、船は城下の岸に着きました。
出迎えの藩士の面々は直孝の後に続く士たちを見て、一人残らず綿服なのにどきりとしました。
出迎えの藩士は、己の姿を顧み、美服が粗服を迎えに出た形に妙な空気を醸し出しました。
「大義。」
直孝は、出迎えの士をいたわりましたが、衣服については帰城の後も言及しませんでした。
黙っていても、藩士たちには彼の心が分かったので、以後、彦根藩士は美服奢侈の排すべきを悟ったのです。
日に日に藩士の風俗は改まり、堅実な風が、以前とは逆な方向に吹いたのです。

(常山紀談)



34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 22:59:14.80 ID:0xUE2tCx
慶喜「贅沢でもいい。忠義を尽くしてほしい」

人の挨拶

2017年06月10日 21:19

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/10(土) 04:47:37.43 ID:OWDQQE2A
この掃部頭殿(井伊直孝)は大坂の御陣の時、家来の者が槍を合わせている
に付き、高い場所に上り、馬から下り立って槍を杖について見物しておられた。

そこへ本多安房守(政重)が足軽2百人ばかりを召し連れてやって来て挨拶を
致したところ、掃部頭殿は目の前に気を取られたのか挨拶を返さなかった。

すると安房守は、「掃部は腰が抜けたのか? 人の挨拶も聞き付けぬとは!」と
大声で憚りも無く申して、罷り帰った。

その後、対面の折に挨拶したとの旨、癸巳正月11日の夜に(松雲公前田綱紀
より)拝聴仕る。それ以後も度々この話を仰せでござった。

――『松雲公御夜話』


釣り髭であった

2017年06月09日 18:41

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/09(金) 17:07:05.10 ID:jMN9vXWl
台徳院殿秀忠公は御釣り髭であられたという。井伊掃部頭殿(直孝)も釣り髭であった。
(台徳院殿秀忠公には御つりひげ御座候由。井伊掃部頭殿にもつりひげ有之候。)

――『松雲公御夜話』


鳥居家改易顛末

2017年03月05日 18:33

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 22:25:04.51 ID:O+aWJb3p
鳥居家改易顛末

寛永12年、山形藩主・鳥居忠恒は嗣子を定めずに早世する
忠恒には同母弟で戸沢政盛の養嗣子になっていた定盛と部屋住みの異母弟・忠春がいた
本来なら忠春が後嗣になるのが筋だが忠恒はあえて不仲の継母・内藤氏の腹である忠春に継がせずわざわざ定盛に継がせようとした
これが末期養子の禁令に触れ幕府の嫌疑を招くことになる
この時、井伊直孝はこう発言したとされる
「世嗣の事をも望み請ひ申さざる条、憲法を背きて、上をなみし奉るに似たり」
「斯くの如き輩は懲らされずんば、向後、不義不忠の御家人等、何を以て戒めんや」(いずれも『寛政重修諸家譜』)
直孝発言は対立関係にあった鳥居家を追い込むためとの説もある
鳥居家と井伊家は元忠や直政の子世代の忠政や直勝(直孝兄)の頃から対立を深めていた
直孝の発言を受け幕府は「末期に及び不法のこと申請せし」(『寛政重修諸家譜』)とし山形24万石を没収し高遠3万石に転封させた
しかし忠春は忠恒以上の絵にかいたような暴君かつバカ殿でその子・忠則の不始末で鳥居家は二度目の改易に遭うのは先の話


御当家からの御恩賞

2017年03月04日 18:25

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/03(金) 19:14:23.15 ID:thma4rS3
出雲少将・京極若狭守忠高が死去した時、実子がなければ領国を改易するのがその当時の決まりで
あったため、忠高の領地は召し上げられるという事となったが、かの京極家は数代の名家であったため、
将軍家光も惜しく思われ、忠高の甥である刑部大輔高知にかの家を相続させ、京極家の本領である
大津六万石を所領させるように、との沙汰があった。

これについての評議の場で、幕府重臣たる井伊掃部頭直孝は反対した
「京極家と鳥居家は、双方慶長五年の関ヶ原にて籠城した人々です。その上で一人は城を守って
討ち死にし、一人は城を開いて立ち退きました。

そして、京極家は百年を重ねた名家であるからと、その子孫には出雲・隠岐二十四万石を与えられました。
鳥居家は当家御譜代であり、その節死もあり、それら忠義を思し召し、元和八年羽州最上にて、
二十四万石を与えられました。

ところが、鳥居伊賀守忠恒が早世して子無き故に、去る寛永十三年でしたか、その苗字ばかりを残され、
忠恒の弟である主膳正忠春に三万二千石を下されました。
それなのに、京極刑部に六万石は多すぎるのではありませんか!?」

人々、直孝の理に納得したが、これを聞いた酒井讃岐守忠勝は
「掃部頭の申される通り、大津・伏見の籠城の功、鳥居が討ち死にしたのも、京極が城を開き
渡したのも、その功に勝劣はない。何故ならば、京極が大津城に立て籠もったために、上方勢2万余りが
関ヶ原に向かうことが出来なかった。すなわち二万の敵を京極高次一人が支えていたのだ。

また、それぞれの家について吟味するなら、鳥居は三河侍譜代、京極は御当家同列の大名であった。
我々のような譜代は、子孫が如何様に召し使われ、領地残らず召し上げられ、御扶持米で
召し使われることと成っても、どうして不満を申し上げるであろうか?
そのような異議を申し上げない所が、御譜代の第一の慎みである。

また将軍家も、父祖の功を思し召されたが故に、鳥居彦右衛門(元忠)の本領(下総国矢作領)と
同程度の石高を与えられたのだ。

京極家も一旦御味方申して、終始志を翻さなかった。
これらから考えれば、大津の禄六万石はかの家の本領であり、御当家の御恩ではない。
しかし本領と同程度の石高を以って京極家を存立させるのは、御当家からの御恩賞となる。
御譜代と諸侯との違いを、誰が批判するであろうか。」

これに、人々はまた尤もであると評議一同して、上達の上にて讃岐守が言ったように
京極高知には六万石が与えられ、大津ではなく播州龍野の領主に仰せ付けられた。
その後彼は、萬治年中に讃州丸亀に転封した。

(武野燭談)



690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/03(金) 20:44:08.53 ID:Au4U/eJZ
>>689
名裁き!

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 22:00:26.04 ID:x2xTiC3w
>>689
そういえば関ヶ原は近江勢vs尾張勢の戦いとかいう話があるけど
近江守護だった京極氏の京極高次籠る大津城の戦いと、
尾張守護代だった織田氏の織田秀信籠る岐阜城の戦いが
大勢を決した、と言ってもいいかも
問題はそれぞれどっち側で戦ったか、だけど

「私も子を不憫に思っていた」

2016年12月30日 18:16

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/30(金) 01:35:34.08 ID:n4CSvgAi
 大坂で井伊掃部(直孝)の先駆けを務めた庵原介右衛門の嫡子主税之介は、
一番乗りに進んで雌雄を争っていると敵に組み伏せられてしまった。
そこへ介右衛門が来たが、あえて子を救わなかった。
主税之介はやっとのことで勝利を得て敵の首を獲った。

 後で傍らの人がどうして子の難を救わなかったのかと尋ねると、
介右衛門は「私も子を不憫に思っていた」とだけ答えたという。

『武士としては』



井伊直孝御夜話よりいくつか

2016年08月14日 17:28

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/13(土) 19:16:18.95 ID:yMJL0d14
一、人が隠していることを見聞きしようとしてはならない。人が秘蔵するものを、所望してはならない。

一、不慮の仕損じというのは、能力の有る人でも有る事だ。しかし自分の仕損じを人のせいにするのは
  大いなる恥辱である。逆に人の仕損じを我が身に引き受けるのは、見事というものである。

一、家を治めるとは、金銀米穀の事である。これを知らずに、人の家に意見すべきではない。

一、昔、数度の武功の誉れの有る老武士があった。若き人が彼にその武功を物語って欲しいと望んだ所、
  彼はこう言った
  「私は若い頃から、さしたる武功も無かったが、性格に愛嬌があってな、人からよく思われたのだ。
   だから少しの勤めも良く受け取られ、思いもよらぬ誉れを得たのだよ。人はただ、愛嬌があるのが
   良いのだ。」
  殊勝な物語ではないか。

井伊直孝御夜話)

井伊直孝御夜話よりいくつか



兄弟のことは、

2016年08月12日 18:58

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 19:26:40.35 ID:ItuPmMMu
兄は弟を子の如く憐れみ、弟は兄を親のごとく敬うべきである。
朋友の交わりは、心に叶わぬ事が有れば遠ざかるのが世の中の習いであるが、兄弟のことは、
心に叶わぬことが有るからといって、疎くなるべき道ではない。
不快の事があったとしても、互いに堪忍して誠の志を尽くすべき事である。

井伊直孝御夜話)

井伊直孝が言うといろいろ意味深ですね。



63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 19:52:08.06 ID:d07OqDCz
戦国ちょっと井伊話?

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 20:07:06.57 ID:/DmlP1AN
どうでも井伊

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 20:30:48.65 ID:ZBwrP2oU
直孝が言うから重みがある

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 20:58:40.56 ID:id7Qth0M
国替えの時は兄貴に親父の遺品渡してるし関係が悪かったわけじゃ無いのかもな
ただ木俣守安が外された時は兄貴に対して色々と思うことがあったようだが

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 21:01:03.31 ID:/Np3oJwp
ひこにゃんは親父ににて無口だが口を開けは重みのある良い事を言う

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 21:04:56.89 ID:/Np3oJwp
さすが幕閣初の大政参与だ

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 23:33:22.80 ID:bV21Tw8+
>>62
頼朝「兄弟は大切にしないといかんぞ」
信長「それな」
政宗「まったくもって」
義光「その通り」
秀忠「せやせや」
天武「えぇ…」

若年の時は一旦のことに迷い

2015年11月30日 07:21

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/30(月) 04:01:46.72 ID:dM7cB86d
井伊直孝曰く、

「若年の時は一旦のことに迷い、理非のわきまえもなく、是非とも自分の
心のままにしようと思うことがあるものだ。

その時、父母兄弟朋友の意見によって心を取り直し、正道に帰る者もいる。
一方で、強情で意見を用いず、悪名を得てその身を滅ぼす者もいる。

この時が一生の吉凶の浮き沈みである。一旦の怒りで主君父母の恩を忘れ、
一門の名を穢すことは非義の至りであるからよくよく覚悟すべきことである」

――『松のさかへ(井伊直孝公御夜話)』




「面白いと思うことは、度々重ならないように覚悟すべし。」

2015年11月10日 15:33

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 03:05:06.77 ID:pcLi2wWH
井伊直孝曰く、

「面白いと思うことは、度々重ならないように覚悟すべし。何事をするにしても、
まずその事の実質を知って、よく考えて取り掛かるべし。害を知って上手く防げば、
その事は成就して、後悔することもない」

――『松のさかへ(井伊直孝公御夜話)』



人間一生の勤めは忠孝の道である

2015年11月08日 06:46

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 00:57:01.81 ID:kHLr6tzO
井伊直孝曰く、

「人間一生の勤めは忠孝の道である。聖賢千万言の教えも、皆忠孝のためであろう。

忠孝を勤めようと思うなら、主君と先祖の恩を常に忘れるな。『恩を知らぬ者は、
思いもかけず災難にあうものだ』と、古人もおっしゃった。油断してはならない。

人間の苦には、飢寒よりもたいへんなものはない。百姓町人が昼夜となく骨を折るのは、
飢寒を防ぐためである。中には家職の勤めに油断して、飢寒に及ぶ者も多い。

一方で、武士には生まれながらの飢寒はない。皆々が父母妻子兄弟を養い、家来を使い、
安楽に暮らしているのは、主君ならびに先祖父母の恩徳ではないだろうか。

この恩を常に忘れなければ、忠孝の道を忘れようもない。古老の物語などによれば、
『毎日食に向かい衣服を着る時、主君と先祖父母の恩徳を思え』ということである」

――『松のさかへ(井伊直孝公御夜話)』




958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 01:35:54.39 ID:G3IlIf/x
藩祖が遠江出身で生粋の三河者じゃないのに、一番禄をもらって
譜代筆頭なのに戊辰戦争では新政府側の彦根藩

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 06:39:27.75 ID:KLh7wixy
藤堂高虎「さんざん幕府の恩顧を受けながら裏切るとは彦根藩ってひどいな」

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 07:05:22.76 ID:IHwgcjch
井伊家は南北朝時代から何度も滅亡の危機をむかえてるのに明治維新生き抜いたのは正直すごいと思うの

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 08:26:58.70 ID:hS/xgfqa
直弼はさっちょうのスパイだったのさ

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 10:38:44.79 ID:1be3Js0o
風邪で具合が悪いせいか、
直政は家康のおっぱいだったのさ
に見えた

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 11:34:48.66 ID:cGSOOvIR
寝てろ

荒井の船橋

2015年07月19日 15:39

410 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 23:30:41.18 ID:BFyGo3JW
将軍徳川秀忠が上洛の時、荒井の渡を通過して本陣に入ると、井伊掃部頭(直孝)を召し出して言った

「今度の上洛につき、荒井の渡に船橋が駆けられていたが、一体誰が命じたのか?老中共の指図であるか!?
昔より、頼朝公を始めとして権現様までも、箱根荒井というのは関東第一の関所である。それに船橋をかけ
平地にしてして渡った例はない。であるのに、今度私の沙汰無しにこのような事をするなど、不届き千万である!
一体どうしてこのような事に成ったのか、直ぐに詮議して報告するように。
それが済まないうちは行水も食事も不要である!」

殊の他の立腹に、老中たちもどう説明すべきか分からずあぐみきった中、ついにこの結論に達した

「そうだ!立花飛騨守(宗茂)を呼ぼう!」

即座に早馬を出し『急に御用これあり、御本陣へ早々御出あるべし』と呼び出した。
宗茂の宿舎と本陣の間は1里ばかりも離れていたが、宗茂も何事かと馬で駆けつけると、老中たちから
「実はかくかくしかじかこういう事で、どうにも出来ないのです。飛騨守殿、どうか上様が、機嫌を直し
行水なされ御夕食を取られるようしていただけないでしょうか?お頼み申す!」

宗茂「はあ…。私を呼んだのは誰の指図でしょうか?」

老中たち「我々が頼んだのです!もはやこの上は船橋のことは言わぬ。ただ上様がお湯に入り
御膳を召し上がって頂ければ、それでいい!だから御機嫌の事についてのみ、偏にお頼み申す。」

しかし宗茂
「ですが、私が申し上げて機嫌が治るかどうか解りませんが…。とにかく、私がこちらに罷り越したことを
上様にお伝えいただかないと…」

「大丈夫!上様は貴殿の咳払いをいつもよくご存知である!」
「咳払い…?これですか?ゴホンゴホン」宗茂、試しに咳払いをしてみたところ
秀忠「!、その咳払いは立花ではないか。我が前に出よ!」
即座に呼ばれた。

宗茂早々に御前に出ると、秀忠から問われた「其方、どうしてこちらに罷り出でたのか?」

411 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 23:31:25.68 ID:BFyGo3JW
「はっ。本日ここまで、ご機嫌よくご到着されたこと目出度いと存じ奉り、そのため宿舎からこちらに
参ったのです。」
「いや、今日は散々なことがあった。ここの渡に船橋をかけたのは不届き至極であるので、必ず糾明するよう
命じた。この詮議が解らぬうちはこのままここを動かぬつもりだ。」
そう言う秀忠の機嫌はまったくもって悪い。ここで宗茂

「さてさて、日本国を治められている将軍様と、私のような者の所存とは白黒の違いがありますな。
荒井の関所を、公方様のご威光に寄って船橋をかけられたために、平地のように感じられ上下誰もが安々と
これを渡れること、真に公方様のおかげと、私もありがたく思いながら宿舎に到着いたしました。」

この時、御次の間では老中たちが秀忠の機嫌を案じ、宗茂との会話の様子を耳を澄まして聞いていた。

秀忠「いや、そうではない!頼朝卿、神君までも、人馬の渡河する拠点であるから殊の外大切になされていた。
そんな場所に船橋を心の儘にかけて往来する事は、畢竟神君のお心入れを浅ましく扱っているようになり、
何とも是非無き次第ではないか。」

「恐れながら」宗茂は反論した。「私のような者の考えは、そうではありません。
そもそも頼朝卿や権現様の時代に、関東の要衝である荒井川に船橋をかけゆるゆると渡るような事をすれば、
何方より横矢を射掛けられるか解りません。ですから、そういったことを恐れて大切にされていたのです。

しかし、御当代の御代は、弓を袋に、太刀を箱に納める、千秋万歳の時代です。御上のご威勢ますます強く、
それ故全国津々浦々まで、今度のご上洛を陰ながら喜んでいます。
下々まで喜び、ご威光強く、また御仁徳も備わられている将軍様というのは今までに無かったことです。
この事は唐土まで聞こえ、東朝の誉れ、これに過ぎません。
そういう時代なのですから、荒井に船橋をかけても、お気遣いなされることは少しもありません。
そこを将軍様が渡られ、ここまで無事にお着きになった事は、平和な時代を象徴した、誠に目出度い
事であると存じます。

私も御次の間で老中の方々から、この船橋のことに関して色々とお聞きしました。
しかし私は、これほど目出度いことはないとご挨拶いたしました。」

「…」秀忠はこれを聞いて、何の意見も言わなかった。しかし「飛騨守は夕食はもう取ったのか?」
「私は宿舎に到着して直にこちらに参りましたから、未だ食事はとっておりません。」
「そうか、では相伴せよ。私は先に行水をする。」

そして入浴し食事が済むと、井伊直孝を呼び出し
「先程言った船橋のことだが、飛騨守の言うことを聞き、尤もに思った。
今度の上洛も目出度いことなのだから、船橋はあのまま差し置くように。」

こうしてこの一件は相済んだ。それより酒宴が始まった。宗茂は元より上戸であるので大いに飲み
「これほどの御喜びの時節ですから、私の仁王舞を上覧に入れ申す!」
と舞始めると、秀忠も殊の外喜び、希代なる飛騨守であると、秀忠自身も酒を過ごし、
夜九つ(深夜0時頃)まで続いた。やがて宗茂が退出する時、老中たちは彼を待ち受け
「今日は不意な事にてご苦労千万でした。貴殿の取り成しのお陰で早速ご機嫌も治り、
我々も大いに安堵いたしました」と、厚く礼を述べ、また宗茂の宿舎にも使者を出して
感謝を伝えたという。

(明良洪範)




412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/18(土) 23:49:17.15 ID:OLvomVf/
忠長「大井川に船橋をかけて兄上(家光)の上洛をしやすくしよう」
家光「大井川は関東第一の要地であり権現様でさえ浮橋を使わず渡ったのに何事か」
忠長「・・・」

このときまだ秀忠も宗茂も生きてたのに何が悪かったんだろう

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 00:15:53.68 ID:xyAb/G9H
権現様が絶対正義やもん
そこから外れたことは出来ん

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 02:11:03.53 ID:76uak5PJ
そう、権現さまが味噌と申されたからには味噌なのでございます

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 02:32:50.94 ID:2eE22z30
>>412
やくざと一緒

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 06:06:26.03 ID:6+kB7YtG
>>415
さくざと一緒?

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 06:19:06.45 ID:GpAykuLV
鬼393

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 10:13:40.80 ID:aFpPCIlN
>>411
宗茂の元主君と比べたら秀忠はかなり扱いやすそうだな

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 11:45:07.35 ID:hGSWm65G
舟橋なら有事にはすぐ撤去できるしそこまで問題視する必要無い気が

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 12:07:31.09 ID:uwCXzDg7
信長公記、天正十年四月十六日の条だと

家康が甲州征伐から戻る信長のために、奉行人三人に命じて
「甲州・信州の大河集まりて、流れ出でたる大河、漲下り、滝鳴りて、
川の面寒、渺貼として、誠に輙く舟橋懸かるべき所に非ず」
と説明されている、天竜川に舟橋を架けさせるなど、信長を歓待するために
大変な気を配って尽力したため人々に賞された、
と書かれているのに。

権現様もしたことを息子や孫が批判するとは

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 12:21:47.47 ID:+TMhyEgo
本拠地がどこにあるかで違う
安土なら瀬田か

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/19(日) 12:25:15.80 ID:zpVlv4rz
秀忠ってホント宗茂好きだよな

それほどまでの覚悟ならば

2015年06月22日 18:11

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 06:24:01.80 ID:SvJtWPb1
秀忠公の時代、大久保忠鄰が井伊直孝の預かりとなった。
井伊直孝は参勤に向かうにあたり、大久保忠鄰に、

「大久保殿、あなたは人の讒言により無実ながら罪の身となり、
私のところへ預かりになったと、世上でもっぱらの噂になっています。
このたびの参勤で江戸に上がり、このことを将軍さまのお耳に入れ、
すぐにでも帰参のお許しが出るようにしたいと思っています。
ですから、詳しい話を聞かせてください。」

大久保忠鄰は、

「ありがたいお心づかいです。
しかしながら、私は無実ではありません。おそらく、根も葉もない世間の噂話でしょう。
それをさも讒言があったとしてお許しをいただくとなると、はなはだよろしくない。
私のことなら心配無用です。」

と断った。

「見事な態度です。
ですが、このことは世間の噂として私一人が知っているのではなく、
大久保殿の無実については、証人も数人名乗り出ているのです。
天下の御政冶に今回のような理不尽があっては、幕府のためにもなりません。
いずれこの非を正し、御帰参となるようにするつもりです。」

井伊直孝も譲らない。(1/2)

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 06:51:46.83 ID:SvJtWPb1
すると大久保忠鄰は、

「井伊殿はなにもかも知っていると見える。
それならば、私も本心をお話しようと思う。
私がもし讒言にあったことを無念に思ったなら、すぐにでも弁解しています。
しかし今ようやく天下が治まり、日本国中が幕府を見習おうという時に、
役人の中に悪い者がいて、無実の者を讒言で陥れたと世間の噂話となったらば、
秀忠さまに悪名をお着せすることになり、諸大名たちも不穏の心をいだくかもしれません。
だからこそ無実の証明をせず朽ち果てることが、この時節の奉公であると覚悟したのです。
たとえ帰参出来ても、これほどの奉公を出来ることはないと思っているので、なんの苦もないのです。
出世の望みもないので、ここで何も言わず朽ち果てることがひとかどのお役に立つわけですから、
御とりなし御無用にお願いします。」

と本心を打ち明けた。
井伊直孝はとても感心して、

「貴方ほどの忠義の臣を埋もれさせるのは、天道にも反することでしょう。
私の出来るかぎりの力を使い、必ずや帰参出来るようにしたい。」

とさらに譲らない。
すると大久保忠鄰は怒りだし、

「私が、心底残らず本心を話しても、貴方は聞き入れてくれない。
どうしようもないので、このまま餓死いたす。」

と言い切り口を閉ざした。
井伊直孝は、

「それほどまでの覚悟ならば、もはやすべて大久保殿のお心にお任せします。
それにしても貴方の忠節、比べるものもございません」

と、感涙を流した(2/2)  【葉隠】




「天下の乱の元と存じました」

2015年04月22日 18:30

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/21(火) 20:45:49.19 ID:dtcF3OWH
将軍徳川秀忠が諸大名を召して、土井大炊頭利勝を以って、来年嗣君(家光)に世を譲る旨を
発表すると、何れも祝う所に、井伊直孝一人黙然としていたため、土井利勝は側に招いて
「どうかしたのか?」と問うた所、直孝は

「天下の乱の元と存じました。めでたい事とは全く思いません。」

「それはどういう理由か?」

「それについては、大阪の乱のあと。江戸城の石垣の造営、日光の御造営とうち続いたため、
天下の諸大名は以ての外に困窮しております。そんな状況でこの上御代をお譲りなされば、
諸大名はその祝の献上品のため費え多く、また将軍宣下の饗礼を執り行えば、更に困窮に及んで、
支配下の民を苦しめる以外に方法が無くなるでしょう。
これによる万民の嘆きは、乱の基であると存じます。」

土井利勝これを聞くと
「至極の事である。それをありのまま、秀忠公に言上すべきだ。」
そう言って直孝を御次の間に伴い、利勝は御前に進んでしかじかの旨を言上すると、直ぐさま直孝は
御前に呼ばれ、秀忠よりこのように言われた

「汝が申す所は尤もである。しかし、一旦言い出してしまった以上、止めることは出来ない。
なお、今後も憚ること無くどのような事でも私に申すように。」

ところが直孝は、これに全く納得しなかった。
「直孝の只今の旨、然るべからずと思召したのであればそれでよいでしょう。
しかし!臣の言葉を尤もと聞かれたのに、用いられないのは、仰せとも思えません!」

これに秀忠は、暫く言葉もなかったが、ここで利勝が申し上げた
「私は既に年老いました。しかし彼のような壮年の者がこのように直言申し上げるというのは、
誠に天下泰平の基であります。明日、大名を召され、掃部頭(直孝)が申す旨尤もなるにより、
昨日の事は止められると言うことを仰せになるのが、然るべきと考えます。」

これに、秀忠は彼らの諌めに従う事にした。
直孝は「私が申す旨を用いて頂き、忝く思います。」と謝して退去した。

この事について当時の人々は、秀忠が諌めを入れたこと、直孝の直言、誠に君臣とも美を為し
善を為したと語り合ったという。


(明良洪範)