そのときは拙者とて

2017年06月16日 17:55

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 23:50:57.07 ID:dWS33giL
天正十九年十二月二十八日、近江中納言秀次公は関白に任ぜられた。
その礼として家康公から井伊兵部大輔直政を遣わされた。
そのとき秀次公は囲碁をされていて、直政を呼んで物語をされた。

「昔、私が三好孫七郎といったときは直政も無官で万千代と申していたな。
会合して碁を打ったが、その時は直政は碁が強くて私は弱かったものよ。」

その碁の話に事寄せて、尾張長久手の合戦に直政に打ち負けた事を思い出して、
それとなく

「今、私と直政とでは昔とは手合わせは違ってくるだろう。
私も忝くも関白に任ぜられたのだ。勝負も大いに変わるはずだ。」

と笑いながら御申されると、直政は

「そのときは拙者とて無位無官の万千代。
只今は四位の侍従に叙任されています。
手合わせもそれほど昔と変わらないでしょう。」

と恐れることも無く答えた。
時に取って意地の有る申し分といえる。


『武士としては』


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東照宮物具の御物語 附小野木笠の事

2017年06月03日 14:21

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 01:38:20.51 ID:I0x5Dvyw
東照宮物具の御物語 附小野木笠の事

東照宮の仰せに、

「物具が美麗なのは無益な事である。また重くするのも無益である。
井伊兵部(直政)は力もあって重い物具を着ているが度々手負いしている。
本多中務(忠勝)はそうではないが、手負いになった事がない。
ただ戦いやすいようにと心がけるべきである。
下級には薄い鉄の笠を着せるのが良い。急な時は飯も炊ける。」

とのものがあったそうだ。
 鉄の笠は甲州でも下級が着ていたという。
畿内の方ではそうではなかったが、丹州亀山の小野木縫殿助(重勝)が
足軽以下の者に鉄の笠を被せたので、その頃は小野木笠と言ったそうだ。

(常山紀談)



977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 11:24:26.85 ID:4Ghf+TWg
家康の着てた鎧がどんなのかって江戸時代はあまり知られてなかったのかな

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 12:36:01.54 ID:dYQCQZul
本多忠勝

「わが本多の家人は志からではなく、見た目の形から武士の正道にはいるべし」

武具も実用より見た目重視だから

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 13:12:34.08 ID:Mg9NhrRV
>>978
それは「まず形から」って話かと

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 13:15:57.43 ID:Lh7C7hE7
そう言う忠勝が練習だとヘタだけど実戦ではめちゃくちゃ強いタイプだったりする

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 14:15:54.11 ID:Ljz3XT3y
平八は本気を出すと人を殺しちゃいそう

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 19:11:33.78 ID:R/r5VpoW
テラフォーマーかよ

汝はこの夜中にどこに

2017年03月06日 21:04

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 21:45:20.12 ID:opIRsI01
豊臣秀吉の死後、徳川家康伏見在住のとき、或る夜密かに、徳川屋敷にこのような情報が流れた
「今夜大阪より、我が君に御生害を進めに来るようだ。」

家康もこの情報に接し、井伊直政を呼んだが居らず、一時(約2時間)ばかり過ぎて、外より
馬を駆けて帰ってきた。すぐさま御前へとでたが

「汝はこの夜中にどこに行っていた」

と尋ねられると、直政

「されば、今日の暮方より、屋敷内にて、なんとも怪しい風聞を聞きました。それ故不審に思い、
外の状況を確認しに出かけたのです。

流石に殿ほどの御弓取りに対し、大阪より御生害を進められるというのは只事ではありません。
万一にもこれが事実であれば、京・伏見に参勤の大名・小名が、この御館廻り、その他の辻々、所々に
押し寄せるでありましょうから、御館の近辺は申すに及ばず、近郷まで偵察し、少しでも心もとない
場所を見廻りましたが、どこの道も静かで、怪しいことはありませんでした。」

こう申し上げると、徳川屋敷での騒動は忽ち静まったという。

この風聞は江戸でも取り沙汰され、「内府公は御生害された」と言うものまであり、
これを聞いて江戸より、我先にと京へと馳せ登った。
さればその人々は、その日の未の刻(午後2時)から申の刻(午後4時頃)までの間に追々出立したが、
伏見に到着するのは遅速あって、早い者では3日、遅い者は5日で到着した。
瀬田の橋では昼夜3日の間、内府の人数が途切れなかったそうである。

こうして到着した人々が家康に御目見得した所、「お前たちはどうしてこちらに上がってきたのか」と
尋ねられ、しかじかの理由を申し上げると、

「何者がそういう事を言いふらしたのか知らないが、心やすく思うように。ゆるゆると休息し、
上方が初めての者達は、京伏見も見物して帰るように。」

そう仰せ下した。

これだけではなく、秀吉薨去が発表に成ってから、巡礼に出かける関東の百姓や御領分の民たちまで
聞伝えに、我も我もと伏見の御館に馳せ参ったそうである。これは領民たちも、大神君の神恩に
起伏した故なのだろう。

(武野燭談)


井伊家の付人連署して直政を諫めし事

2017年01月29日 12:37

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 03:08:15.06 ID:aPNAmi8U
井伊家の付人連署して直政を諫めし事

井伊直正は壮年の時鋭気が甚だしかったので、東照宮から付け置かれていた。
そこで...(抜落)以下が連署して諫書を捧げた。
その中に
「人には必ず目標を設けるのがよろしいと思われます。
私達臣下らが前の主君の事を申すのもいかがなものかと思われますが、
申し上げさせていただきます。
信玄が若い時から一つとして心から善事を行わなかった人ではありましたが、
常に越後の謙信を目標として謙信に優るように努め励まされていました。
なので信玄の一生の間、手を下した大事の合戦が五回に及びますが、
大きな敗北はされませんでした。
殿にも本多中務大輔忠勝を目標として、努めて劣らないように励みなさってください。
古から『進まず退かざる良将』と申しますが、それは中書(中務大輔の唐名)のことだと思われます。」
と書いてあったそうだ。

(常山紀談)

信玄に対してひどい言い様www
何かあるでしょ、信玄堤とか



558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 11:14:12.92 ID:Tc8KsaEm
上田原の戦いや戸石崩れは謙信と対立する前だからノーカンなのだろうか

一備の将たる者は、

2017年01月28日 09:19

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 19:20:26.74 ID:KqZEt9y/
一、一備の将たる者は、並の武士の作法に準ずるべきではありません。能く柔と剛を兼ねなければ、
  将たる道には至りません。
  一鑓合いの武士は強勇を表として、主のために命を惜しまないことを名誉とします。
  しかし一備の将たる者は、命を全うし、諸卒を懐かせ、駆け引きの作法を示し、勝つべきを
  見て進み、勝てないのを見れば引き取って後の勝ちを得ることに専念する。これは将にとっての
  法です。この心を忘れず、老功の者達とも評議し、尤も妥当な判断に従うようすべきです。

一、其方は若輩ではありますが、甲信両国の武士を与力として預かる上は、どんな剛敵と言えども
  防戦を致し、越度を避けねばなりません。心に及ばぬ所は、石原、孕石、廣瀬といった老臣たちと
  相談し、進退に道理を以て、諸卒をそれぞれに差し遣わさねばなりません。

一、どんな諸芸も習わなくては知らぬものです。それが戦の道であればなおさらな事です。
  その作法、方便、謀、進退、そういった事を知らずに行う合戦は、危ういものです。
  私は国を争う戦を度々行いましたが、その一度一度の勝負についての経験から、知らねば
  持つことの出来ない道理を獲得しました。そういう思いもあって、其方には三人の武功の者、
  そして合戦の場数を踏んだ武士たちを与力として預けたのです。
  この者達に二六時中(当時は一日を十二支で分けている)戦の道を尋ね、極め、武の事を
  心から忘れないようにして下さい。

右の条々について、油断があっては成りません。如件。

 徳川家康在判

    井伊万千代(直政)殿

(松のさかへ)

「赤備え」を井伊直政に預ける事に関して、徳川家康が直政に送った書状。
ほとんど守ってないような気がするが。



「小姓ども」と、申された

2016年12月07日 17:29

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 02:18:24.54 ID:uvLUyMHH
井伊兵部(直政)、本多中書(忠勝)、榊原式部(康政)のことなどを、

(徳川家康の)御前などでも「小姓ども」と、酒井左衛門尉(忠次)は
申されたということである。

――『武功雑記』

酒井忠次は別格だったという話だろうか。



391 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/07(水) 07:18:15.41 ID:iixZWz5X
>>389
そりゃ年齢も一回り以上違うし家格もダンチでしょ

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 08:36:17.98 ID:4JYn8U5B
酒井は徳川と同族なんだっけか

393 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/07(水) 12:04:15.65 ID:iixZWz5X
>>392
それもそうだけど、忠次自体がダブルで義叔父らしいから。

家康が茂助を遣わしたのは

2016年11月22日 09:34

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/21(月) 21:26:40.39 ID:vJTZkj8O
慶長5年8月末、美濃まで進出した東軍の先手は、徳川家康の軍勢が江戸から出立しないことに苛立ち、
特に福島正則は殊の外立腹、池田輝政と口論となり、その場に在った本多忠勝井伊直政がどうにか
宥める有様であった。

その翌日、村越茂助が家康の使者として参着した。福島正則は茂助に対し「家康公はどうして出立
されないのか!?」と詰問すると、茂助は

「ご出立されないわけではありません。ですがあなた方が敵に対して手出しをなさらないため、
ご出馬が無いのです。手出しさえ有れば、即急に御出馬されるでしょう。」

これを聞いて正則は、扇を広げ茂助の顔を2,3度仰ぎ
「尤もな事だ。すぐに敵を攻撃し、それそ注進していただこう!」
そう答えた。

本多忠勝井伊直政は、正則と輝政が口論をした翌日であったので、このやり取りに手に汗握り、
茂助の言った事も非常にぶしつけではないかと諸人も思った。

茂助は事前に、忠勝、直政に使いの内容を一言も喋らなかった。家康がこの大事の使いに茂助を遣わしたのは、
茂助が自分の言った内容を有り体に伝えると、よく見知っての事であった。
日本国中の心ある武士たちは、この事について有り難き積りであると語り合った。

9月朔日、家康は出馬した。

(慶長年中卜斎記)



政宗の黒漆塗五枚胴は雪下胴と呼ばれ

2016年11月07日 09:44

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/06(日) 15:14:46.21 ID:WnhtVHEx
先日、横浜市の馬の博物館で伊達家甲冑研究の第一人者である竹村雅夫氏の講演がありました
そこから多少つらつらと

・政宗の有名な黒漆塗五枚胴は雪下胴と呼ばれ、北条氏治下の鎌倉雪下の職人が製作したと思われていたが、
蘆名氏が会津入部に伴った雪下出身の鍛冶の子孫が、雪下と名乗って製作したと明らかになった

・雪下胴を当時の記録などで解胴(ほときどう)と呼ぶが、これは蝶つがいを外すと5枚の鉄板になって畳んで
持ち運びできるから

・政宗が雪下胴を初めて入手したのは天正16年(1588年)の岩城氏からの贈り物で、人取橋の戦(1586年)には
まだ持っていない

・政宗は異常に甲冑好きで贈るのも貰うのも大好き、家臣の鎧を召し上げて代りの鎧を渡したり、甲冑商人を
二日間留め置いて見聞したり、敵味方問わず使者へも甲冑を贈った

・天正16-17年の間に贈った甲冑が26領、貰ったのが14領、買ったのが10領

・政宗の甲冑好きは南奥羽諸大名の常識だったので、政宗への贈答品には甲冑がよく用意された

・会津制圧後は政宗が雪下胴を全てかき集めたので、上杉・蒲生家臣でこれを持つものは数えるほど

・雪下家は大阪の陣頃までは会津で甲冑を製作していたが、その後は松平家の普通の下級武士になった

・いわゆる仙台胴は雪下胴をモデルに仙台でつくらせたもので、厳密には違いがある

・雪下胴はその重さと長い草摺もあって、やはり馬上用

・政宗は「上方の連中は騎乗しても槍を手に馬から降りて立ち働くが、奥州武者(奥士)は馬上で槍をとって戦え、
鎧を着たままでは素肌武者(軽装)にも後れをとる、馬から降りるな」「奥武者の我が家は末代までも上方の真似すんなよ」
と言い残している

井伊直政は雪下胴を小田原戦以降に手に入れ、関ヶ原で着用したのは実は政宗と同タイプのこれである(現存)



305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/08(火) 21:26:03.72 ID:Sn33jf/C
>>301
つまり関ヶ原では赤備えじゃなくて黒備えだった・・?

庵原朝昌の帰還

2016年10月15日 10:46

247 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/15(土) 00:26:30.80 ID:QmUi7l/K
庵原朝昌の帰還

水野勝成が奉公構えを受けて九州を放浪した後、佐々家に1000石で雇われてた頃
勝成が雇った門番が庵原朝昌である。
当初は身分を隠していたが、ある日勝成が彼の荷物から立派な具足を見つけたので
門番に問い詰めたところ、井伊家を出奔した庵原朝昌である事がわかった。
それ以来、勝成は自分の所領である1000石から200石を朝昌に与えた。
その後、佐々家お取り潰しの際に勝成は井伊直政に朝昌を再雇用出来るように手紙を送り
朝昌は無事に井伊家に帰参する事になった。


250 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/15(土) 07:42:14.63 ID:QmUi7l/K
この話の出典は「放浪武者水野勝成」からの抜粋です


248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/15(土) 00:41:51.39 ID:qDzPZbFf
井伊話だなー

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/15(土) 01:00:38.30 ID:9W5iOiCM
葵徳川三代で木村長門討ち取るシーンで出てきたのがきっかけで知ったな~庵原朝晶

井伊家侍大将、庵原助右衛門朝昌の武功
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2446.html?sp&sp



彦根侯邸に棲める雉

2016年09月12日 20:28

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/12(月) 15:00:54.38 ID:NuRJfjTK
〔初清正の邸〕彦根侯邸に棲める雉
同臣脇師、高安某長舎
同侯上邸玄関

前にも彦根侯麹町の邸は、始めは加藤清正の邸であったことを記したよ。
このように清正の後は、かの邸は取り上げられ彦根の祖の井伊直政がここに住んだ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10067.html

この邸の中に雄雉一羽がすんでいた。
この鳥は直政の時からいて、
直政が帰国のときは雉もまた随い、出府するとまた随ってかの邸に来た。
今もなおいて、時々見かける者がいるという。

侯の脇師高安彦右衛門は彦太郎の弟子であり、かつ彼の臣なので麹町の邸に住んでいる。
なのでこの雉の鳴き声を時々聞くことがあるが未だその顔を見ていないという。
彦右衛門の母は見たといい、その大きさは普通の雉を二羽合わせたようであったという。
邸中の人は皆、御雉子様(オキジサマ)というと。
〔以上彦太郎の話〕

また彦右衛門の住所は十五間ばかりの長屋であるが、それは清正の時に建てたままである。
よって古色があり、柱はどれも柘植の大角材であったが、手斧目のままである。
この長屋は邸内でも谷を隔てて溜池に臨む畔上にあり、
離れ家なので、先年千畳鋪が焼亡した火災でもその厄を逃れたという。
この長屋は邸の門を入って三丁ばかりを行き、谷を下りそれから溜池の端にあると。

彦根侯の上屋敷の玄関は大坂城で淀殿の能舞台であったが、落城の後この方に引き移したという。
そのためか、今も屋根裏の棟木に、道成寺の釣鐘の釣りかぎが存在するという。
面白いことではないだろうか。

(甲子夜話三篇)




「井伊家はキツイ」

2016年08月19日 08:59

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 19:30:48.20 ID:zWB+z/Fv
これはたいへん申し上げにくいことなのですか、世の中では殿(井伊直政)のことを、人を斬る人物だと
沙汰しています。私達においても、よその知人から、『未だ生害にあわず、存命でしょうか?』と、
生存を確認する書状が来る始末です。

殿におかれては、大方の科は御堪忍なされ、処刑に値する罪でも、五度に二度は命を助けられ追放に
とどめ、罪のある中でも忠功のある者には、前の科を捨てられることこそ、誠の大将というものなのです。

殺害の多い大名は良い家臣を持てません。先年、当家(井伊家)は、美濃輪、橋田、秋山、戸倉、勝野の
五人、彼らは上方で名のある武士であったので、それぞれに千石づつ宛てがい召し抱えたいと伝えました。
彼ら五人は、その前は織田源之丞に仕え、五百貫を知行していました。そんな彼らに千石づつという
非常に高い条件で召されたというのに、彼らは「上方にて望む所があるので」と、断ってきました。

しかし、断った彼らの本音は、「井伊家はキツイ」という判断なのです。
その後千五百石まで条件を上げても参りませんでした。近頃聞いた所によると、彼らは本多平八殿の所に、
わずか八百貫で五人全員が参ったそうです。実に惜しき事です。
家臣が当家長久、子孫・武勇繁盛と祈るのも、それは長命を前提としているのですよ。

殿は六年ほど前からお心がけが変わり、物荒くなられました。
家康公の仰せにも、「何であっても三度家臣と相談して決定するように。」と有るではないですか。
これはしっかりと自覚すべきです。

(松のさかへ)

井伊直政への重臣よりの諫言書より。
直政の重臣たちにはよその知り合いから「まだ生きてる?」という書状が届くような状況だったらしい。



19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 21:08:30.27 ID:sUGxG//l
>>18
>『未だ生害にあわず、存命でしょうか?』
どんだけ危ない大将なんだよw

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 21:23:15.57 ID:o2hjQZMp
q=井伊ね!

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 22:11:36.52 ID:MlTLB+Gb
鬼武蔵のところはどうだったんだろう?

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 22:12:31.09 ID:ZS1gmFa7
武士って本当楽じゃねえな…

信玄は殊の外に立腹し、笑った人々を

2016年08月17日 12:37

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 10:00:01.01 ID:DrAt9iHp
大将というものは、大きなことも小さなことも、小人の善悪をよく見知って置かなければ、
何の意味も有りません。
召し使う侍たちであっても、義心直道の者も、軽薄佞人のたぐいも同じように見られ、悪しき士に
家権を取らせてしまえば、軍合戦するまでもなく、平穏な世の中でもその家は破滅してしまうでしょう。
老若によらず、心のしれた親しい者を御取立すべきではありません。
第一、佞人は人を妬み、心中賤しく人をたばかり、諸事に付け悪口を申すものです。

武田信玄が甲州にあった頃、三河牢人の山本勘助と申す片端者が、軍の道をよく知っている者ということで、
信玄はこれを召し抱えました。この新参者に対し、家中では悪口に、彼の体を見て、山本を「半体」と呼び、
城中においても後ろ指を指して笑い草にしました。

この事は目付けが、信玄に報告しました。
信玄は殊の外に立腹し、笑った人々を、その一門まで追放したのです。

(松のさかへ)


井伊直政への重臣たちからの諫言書より、武田信玄が、山本勘助の障害を笑った者を追放したというエピソード。



997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 10:38:51.88 ID:IEKNGEwp
山縣についてはふれてないな
顔より体つきが重んじられてたのか

向後かたく御無用に御座候

2016年08月08日 16:24

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/08(月) 11:44:29.18 ID:NfEhADzu
今まで数度申し上げましたが、お忘れに成ったのか、強がっているのか、お聞き入れありません。
軍勢を押し上げる時も、そのお姿や馬印、御馬も常と同じようにされていますが、それは宜しく有りません。

我らの古主である武田信玄は、自分と同じ出で立ちの者を3人用意し、自分も含めて同じ格好の者が4人、
軍勢を押し出す時も同じような馬に乗り、いかにも目立たないようにされていました。これにより、数度
危うい所を逃れました。

上杉謙信は、1日に2度、武者振り(出で立ち)を変えたと聞いています。
その時分は越後勢から甲州勢へ忍びを入れ、もしくは甲州勢が越後勢を探って、大将の出で立ちを伺っても、
両将共に見定めることが出来ませんでした。
この両人に限りません。関東の北条、尾張の織田信長、何れも見定められた事はありません。

殿(井伊直政)は無類に強気ですから、こういった事は悪しきと思うかもしれません。ですがそれは若気と
言うものです。心得の無い者たちは、敵味方ともに殿を『雄々しき大将だ』と言うかもしれませんが、
武功の者達は笑っているのですよ。

尤も、大将というものは前線の様子を、自身の目で知りたいものです。その時は、ご自身の具足と違わぬよう
拵えたものを予め用意しておき、近習の者に着せて、旗本に置き、馬印もそのまま置いて、大将は目立たぬ
姿に着替えて前線にてご下知なさるべきです。

殿は、朝霧の深い時でも前線に馬で乗り入れます。あまつさえ馬印まで持って。
今後、絶対にそういうことはなさらないで下さい。(向後かたく御無用に御座候)
霧深い中、敵が伏兵を置いて居た場合、鉄砲などで狙われる例は多いのです。そうして過ちが起これば、
それは末代までの落ち度です。

それから、先年家臣一同をご覧になった時も、組頭、使番、物頭、そのほか頭の者たちばかりにお声を
かけられ、残る士にはお言葉をかけられませんでした。これは殿がご若年だからでしょうが、
諸人に恨みを残す行為です。皆に声をかける嗜みがあるべきです。
御用に命を捨てる武士というものは、たった一言の言葉にも感じ入り、一心を定めるものなのですから。

(松のさかへ)

井伊直政へ家老一同からの諫言書より。この内容だと銀の鯰尾兜であえて目立っていた蒲生氏郷なんかも
落第ですね。



958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/08(月) 13:51:16.10 ID:XNi8I1Od
>>957
総大将じゃないのに影武者作る習慣はあったんだろうか

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/08(月) 14:30:14.03 ID:/fNKafdB
諫言の甲斐なく狙撃されちゃったねー
バカだねー

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/08(月) 15:45:04.93 ID:9iHxHcZM
>上杉謙信は、1日に2度、武者振り(出で立ち)を変えたと聞いています。


謙信所用と伝えられる甲冑がわりと残ってるのは
そういうわけなのかな?

物見の衆をよくよくご吟味あって

2016年08月06日 09:20

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/05(金) 21:58:51.76 ID:pGK24o8N
上方衆の武辺と関東者のそれとは、同程度の人数で、両方の大将の能力も対等であった場合、
運次第とは言いながら、上方衆は5度に4度は敗軍するということ、信玄公の時代より今まで、
数度にわたって見聞きしております。

しかし、関東武士と言っても強勇の者ばかりというわけではなく、また上方侍とて、弱い者ばかりでは
ありません。ですが、上方の軍勢の特徴として、備え立てに吟味が薄く、物見を大切にしない、
という所があります。
専門の物見武者を選定せず、その経験を積ませること無く、誰であっても物見は出来るのだ、
などと心無い者は考えているそうです。

上方衆は物見に出て、遠きを計らず敵を賤しみ、荒事ばかり言って、人を預けても合戦の時は、
彼らは寄騎同心を捨て、一人先に行って抜け駆けをするのを手柄と考えますから、心がけのある者は
預かりの人を捨てて先に行き、一番槍を好みます。

ですから、敵将が名将ですと、1,2の備えを捨てて3,4にて勝つような戦略を立てます。
上方衆は先陣ばかりを切り崩せば敵は敗軍し勝利すると心得攻めてきますが、2,3の備えにて切り崩され、
結局彼らのほうが敗軍します。

信玄の歌にこのようなものがあります

・軍には 者見なければ大将の 石を抱いて淵に入るなり
・戦に 日取時取さしおきて 物見を掛けて兼ねてはからへ

この二首は信玄公より勝頼へ自筆で書かれ、伊那へ入城の折に遣わされました。
物見の衆をよくよくご吟味あって然る可きです。

(松のさかへ)

井伊直政に、三科形幸などの重臣が連署で出した諫言書の一節である。




45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/05(金) 23:32:30.89 ID:BuAwnvp8
関東武士に物見はいらへんで?
見つけた敵を片端から棍棒で殴り潰すから

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/06(土) 10:45:26.62 ID:3QaXja28
そもそも甲斐は関東じゃない件

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/06(土) 11:03:10.05 ID:BUXeDJN+
甲斐は鎌倉公方の支配地域だったし、三関より東をひとまとめに関東と呼ぶ場合もあるし、必ずしも関東が関八州、現代の行政区分での関東を指す訳では無い

宮崎城返還の事

2016年07月01日 13:52

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/30(木) 19:08:58.40 ID:/HemqasI
高橋元種の宮崎城は慶長5年10月朔日に、伊東祐慶の兵によって攻め取り、翌年8月まで確保していたが、
徳川家康の上意として、高橋元種に返却すべきと片桐市正(且元)より伊東家に使者が送られた。
またその頃、大阪に在った伊東家家臣の松浦久兵衛尉も、奉行所に召され、その趣を申し渡された。
この時久兵衛尉は一言の弁明もせずおめおめと退いてきたので、同じく伊東家重臣の稲津掃部助は
大いに怒り、

「いかに内府公の命だからといって、侍の槍先にて攻め取った場所をおめおめと敵に返すなど
ありえようか!」
そうして自ら上洛し、

「宮崎城の事は、井伊兵部少輔(直政)殿の内意があり、また黒田如水老よりも検使宮川伴左衛門を
差し下され、内府様への忠節のために、幼年ながら左京亮(伊東祐慶:関ヶ原当時11歳)は、
父(祐兵)が病中なのも顧みず、日向に下り一命を捨てて太刀下に切り取った所なのです!そこを
今更返せと言われるのは迷惑でござる!」

そうしきりと訴えたが、奉行所は許容せず
「宮崎落城は10月朔日。ですが高橋が寝返ったのは9月15日ですから、前後決断の理においては、
例え忠節として攻め取った太刀下勲功の地であっても、帰さねばならない。」
そう重ねて言明が下ったため、是非無く慶長6年8月、高橋家に返還された。

伊東家では宮崎城を落とした後、諸軍の手柄を逐一吟味し、それを三巻に記して、
飫肥に一巻、大阪に一巻、清武に一巻を置き、占拠した宮崎四万石の地を割って、それぞれに
賞与あるべき旨を沙汰しており、これに諸士は言うに及ばず、百姓らに至るまで勇み喜んでいた。
そのような所に、返還を命ぜられ、一旦の勤労もたちまち水の泡となった。

こうして国中の上下は皆力を落とし、内府様の沙汰も当てにならず、黒田如水の取り持ちも頼みに成らぬと
恨みを含まぬものは居なかった。

その後、黒田如水父子の取り持ちによって、伊東家は井伊直政に様々に内訴したが、これに直政は言った

「石田ら逆徒は、或いは滅亡し或いは降参して、天下一統内府公に従い奉った。
だが、天下の諸侯のうち十に三つは、治部少輔の佞悪を疑い、一旦は内府公に随身したようにしているが、
それは誠の心服ではない。

である以上、今度内府公に降参した諸大名の領地を割って忠功の者達に恩賜あれば、それは再びの
逆乱への端緒となるだろう。
天下は一人の天下ではない。天下の天下なのだから、内府公と雖もその思し召し通りには成り難い。
先ず暫く、天下の安否を見定められる間は、穏便の沙汰を行うのだ。

左京亮殿が幼年の身でありながら、父が重病なのも顧みず大敵の中に下向あって、一命をかけ
類のないほど、御味方として無二の忠功を立てられたことに対して、内府公はたいへん御感悦されている。
なので、終には御報謝あるだろう。
伊東家においてはどうか、その意をくんで、これ以降も遺恨無く、専ら勇義を励まされる事が肝要です。」
そう懇々と示し諭したため、伊東家もその旨を受け、恨みを捨て奉公丹誠を成されたのである。

(日向纂記)



789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/30(木) 19:13:21.97 ID:sv5Jc6ie
>>788
いい話じゃないかw

兵部少輔、覚悟せよ!

2016年05月05日 13:50

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 19:53:39.95 ID:wIDEY8AF
徳川秀忠は関ヶ原合戦の時、真田安房守(昌幸)に防がれ、合戦の終わって後に
美濃に到着したことに、徳川家康は不快に思い、「持病の寸白を発した」と言って、
対面を許さなかった。

秀忠は「さては着陣が遅くなった為、故意に会おうとされないのだ」そう推量し困惑し、
幕の外に出たあと少しく落涙した。
この時、秀忠に従っていた榊原康政、大久保忠隣、本多正信、酒井備後守忠利を
はじめとした御家人たちを一人も召さず、下陣すると言い出した。

井伊兵部少輔直政は秀忠に仰せ言を述べて後に、榊原らに対し荒々と言い放った
「中納言様(秀忠)が遅く上らせ給い、大軍が合戦に間に合わなかったのは、各々の
不覚である!」

しかしこの発言に対し彼らは、家康の機嫌を憚り返答するもの一人もなく、それぞれ
退出した所、酒井忠利は御前であっても所存を臆すること無く言う人であり、
兵部少輔の言葉を聞いてこう思った

『秀忠公の御舎弟、下野守殿(松平忠吉)は井伊の婿であるため、今度の合戦に後見して
鮮やかな戦功があったと聞く。このため、直政はむやみに秀忠公の遅参を言い立て、
忠吉様の御手柄を吹聴しているのではないか?』

そして一人その座に居残り、直政に言った
「兵部殿の先の言葉は心得がたい!何故ならば、中納言様が遅参したのは正当な理由ある
事であり、内府公(家康)が機嫌を悪くされるような話ではない!
それなのに、若き殿の憤りを憚らず、粗忽のことを申されるのはいかなる心中に候や!?」

井伊直政はこれに冷笑した
「言っても返らぬ事だが、天下の人の口にそう懸かってしまう、その口惜しさに申すのだ。」

忠利は屈せず
「例え、本当に誤りがあって内府公の御機嫌よろしからずという場合であっても、格別の時期であるから、
御父子の対面があるように、貴殿こそ申し直すべきなのに、その計らいが無いだけでなく、今更無益の
批判を言うとは何なのか!?
この上も我らと争い、中納言様の御事を悪しく申すのなら、兵部少輔、覚悟せよ!」

そう言いざまに直政に向かって進み寄る所を、側にあった諸士が慌ててこれを止めた。

井伊直政が申す所は、秀忠の身にとって、心良からぬ事であった。並の気質であれば、直政は
秀忠の不審を被ったであろう。しかし秀忠は露ばかりも彼を悪む様子がなく、却って、彼が死去した
時には、深く惜しんでいたという。

(新東鑑)



587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 19:57:53.36 ID:Huu4TCor
家康「真田を無視しとけよ
寸白(サナダムシ)を理由に会わんことにする」

何右衛門は少しも屈さずに

2016年04月08日 14:01

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 02:53:27.66 ID:DcYidf8p
井伊兵部(直政)家中の木俣土佐の家来・何右衛門は九戸陣で首をひとつ取ったのだが、
その首を朝比奈左大夫が頻りに奪い取ろうとした。何右衛門は為す術なく奪い取られる
時に、その首の右耳の外れから左へ一刀を突き通した。

後に首実検の時、朝比奈はその首を持って出た。そこへ何右衛門はつるつると走り寄り、
「重いものをここまで御持参してもらいかたじけない」と、言うと、羽織を首へ被せて、

「この首をそれがしが取ったことは疑いない、 あの男が奪ったのだ! 証拠がある!」
と、言った。朝比奈は、「下がれ! 推参をぬかしおる!」と言うも、何右衛門は少しも
屈さずに、首の耳下の証拠を告げた。

朝比奈は終いに男(武士)をやめて法体となり、道無と名を改めて駿河様のもとへ出て、
その後に三河守殿に仕えた。

大須賀五郎左衛門(康高か)の家来・福岡太郎八は前述の朝比奈の甥である。太郎八の
取った首を朝比奈が奪ったことがあったが、太郎八は敵陣へ駆け込んで、別の首をまた
ひとつ取った。末頼もしき武辺であるというのに、太郎八は前述のことを最後まで一言も
人に語らなかったという。太郎八は加藤喜八の別腹の兄である。

――『武功雑記』



さても今日忠勝が味方の多勢を指揮して戦う様は

2015年09月25日 17:59

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 03:27:22.72 ID:qIR/GHLM
慶長五年の秋、東西で一時に戦が起こった。本多忠勝は仰せを蒙って井伊直正と共に味方の大名を連れだって美濃の国に行軍し、
九月十五日の合戦に諸軍を指揮して戦わせ、自分自身も島津を打ち破る。(この日忠勝は首九十余りを得たという)

戦が終わった後、福島左衛門大夫正則が徳川殿の御陣へ参り、
「さても今日忠勝が味方の多勢を指揮して戦う様は、左右の手をつかうよりもなおたやすく見えました。
あっぱれよき大将軍でというものですな。」
と感じ入った。

忠勝は嘲笑って、
「敵が妨げにならないほど弱くて、戦いとはなりませんでした。」
とあいさつした。

(藩翰譜)

関ケ原の戦いも東軍の前線の方では、手ごたえがなくてあっけなさすぎだろとか思ってたんだろうなぁ




738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 08:12:32.46 ID:1ElstaQP
大将軍てのは全軍を指揮する者のことをいう。
忠勝にそんな将器はない。

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 09:09:19.93 ID:xHqsQhLX
突然の三河アンチ?

小川関書の狼藉

2015年09月23日 14:07

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/22(火) 22:31:50.96 ID:ReESZ9ER
豊臣秀吉の時代のこと。

徳川家康の旗本である筧助兵衛という禄五百石の者、2年の間京に御使として駐在していたが、
その勤めも終わり帰路でのこと、筧の旅宿に、秀吉の直参である小川関書という者が押しかけてきた

筧が「何事であるか、狼藉なり!」と抗議すると

「筧の槍持ちは先年、我が家において罪を犯し欠け落ちした者であるが、今この宿において見つけた故
捕えるのだ!速やかに彼を差し出すように!」
そう罵って今にも乱入する気配であった。しかし筧

「おおよそ天下には御定法があり、あえて違うべきではない。また武士は礼を以って立つものである。
一応の届もなく、みだりに追い込んでくるのは礼ではない!
私は今、京都に使いして帰る途中である。そこで鑓がなければ奪い取られたと言われるだろう。
願わくば静まれよ。命を伝えて後に、相違なく槍持ちを送り届ける。」

そう言って、さらにその旨を文書に書いて証拠として残すとまで言ったが、それでも小川は
全く承知せず、「遅く出すくらいなら討ち果たせ!」とまで言ってきた

「さてさて何と理不尽なことか。そういう事であるなら、私も絶対に出さない!」
筧も怒り、双方既に戦いに及ぼうという時、ここを井伊直政が通りかかり、この騒ぎを聞いて、
ともかく筧を説得しかの槍持ちを出させようとした。

しかし、筧から仔細を聞くと、直政も共に激怒
「無法千万の者共なり!この上は、もし手を出す者があれば一人も残らず斬り殺すべし!」
そういうと即座に、従者5,600人を武装させ集合させた。
その勢いに驚き、小川は引き退いたという。

(明良洪範)




九戸城落城

2015年09月02日 08:56

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/02(水) 00:01:40.69 ID:JNt17zIE
九戸政実の乱で九戸城を攻めていた諸将は、城が備え固く落ち難いことに加え、
疾病が流行して大いに苦しんだ。

そのような中、九戸の苦戦を聞いた奥州仕置の総大将である豊臣秀次の軍勢が進み三迫に陣し、
徳川家康も岩出山に陣したことが京都の豊臣秀吉に聞こえ、背後にいる伊達政宗を警戒した。

蒲生氏郷たち九戸攻めの軍は、城を攻めても抜くこと能わず、諸軍の兵糧も乏しくなり、
浅野長政の陣に集まって軍議した。ここで、井伊直政が発言した

「賊兵は嶮に寄り良く戦っており、未だ力攻めすべき時ではありません。
しかし賊は勇気はありますが智略を持っていません。謀を以ってこれを誘い、彼らの生命を保証すれば、
きっと従うでしょう。」

諸将は賛同し、書状を作り九戸城傍の長興寺の僧に持たせ、城に入り九戸政実を説かせた。
政実はこれに従おうと思い、籠城衆の多くも賛同した。畑尾山重勝は反対し死諫したが
政実は従わず、15日、久慈直春ら数人とともに浅野長政の陣に赴き降伏した。
長政はたちまち政実らを捕縛した。

九戸の重臣である七戸家国櫛引清長らは欺かれたことを知ると、政実らを奪還しようとしたが
及ばず、次に蒲生氏郷を討とうとその陣に突撃した。氏郷の将である長谷川、福原、寺西、前野、
明石といった者達がこれを遮り戦死した。

櫛引清長は蒲生軍によって銃撃され負傷し、七戸家国と共に退き、九戸城に入って自刃した。
七戸家国は搦手より出て甲冑を脱ぎ、南部信直の陣営に向かって叫んだ

九戸政実は西軍(豊臣軍)によって欺かれ遂に虜とされた!私は今まさに死のうとしている。
すなわちこの城は落ちる。
乞う!君兵を早く進めてこれを取れ!他をして先んぜられるべからず!」

そう言い終わると城に戻って、残っていた者たちを説得し搦手より逃がし、自身は城に残って
自刃して果てた。

こうして、南部信直は最初に九戸城に入り城兵を鎮撫した。

(九戸戦史)


九戸戦史より、九戸城落城の模様である。



248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/02(水) 03:30:02.35 ID:LQ+hPAWo
浅野じゃないのか