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故に大将に手を負わせたのだ

2018年10月30日 12:53

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 23:55:09.65 ID:IayTbgkZ
関ヶ原で東軍が大勝し、三成の陣悉く潰れたが、山の側を伝って人が多く通っていた。
井伊直政これを見て、松倉豊後守(重政)、その頃は右近と申していたが、彼に向かって
「あれは敵か味方か」
と尋ねた。松倉は「敵とも味方とも見分けがたい」と申している所に、甲州衆が合流した。

直政は彼らに重ねて「あれは敵か味方か」と尋ねた。甲州衆より「紛れも無く敵です」と
申した所、直政は二の句もなく即座に馬に乗りこれを追った。この時右の腕を撃ち抜かれ、
落馬したのである。

松倉はその後、この甲州者を激しく叱りつけた
「私も最初から敵だと判断していたが、味方がこれほど大勝しているのに、こぼれ物の退兵を
攻撃しても益はない。しかし敵と聞いて付かないのは甚だ本意に非ず。だからこそ私は何となくの
返答をしたのだ。それなのにお主は、巧者のふりをして要らぬ見切りをした、故に大将に
手を負わせたのだ!」

この甲州者は、早川弥左衛門であったという。

(士談)



386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 07:41:04.48 ID:xfS9uC0v
>>382
原文ママだろうけど早川弥惣左衛門のことみたいね

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 10:15:20.94 ID:lgbgK01D
>>382
でも味方だって言って、後でやっぱ敵だったって分かったら
やっぱりキレて来そう

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 10:42:22.36 ID:/KzaYwJ5
ググってみたところ早川弥◯左衛門、幸豊の生没年が(?-1600)になってるけど彦根城の築城に携わっているのでこれが誤りなのが分かるね
サイト主は記載してて誤りに気付かないのだろうか

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 18:31:47.25 ID:1NFKO9HO
状況わからんけど敗走する兵から首取って手柄になるのかな

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 19:46:01.30 ID:MhubSL59
なる
むしろ当時の首取りはほとんどが撤退時の追撃戦

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 20:01:32.07 ID:1NFKO9HO
>>390
ありがとうございます
たしか乱戦混戦の時に悠長に首切り落としてたら自分が死んじゃうし形勢逆転されかねないですね

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 02:29:35.20 ID:o/sbJwow
というか何であろうが首は首なので価値は変わんない
もちろん大将直々に打ち据えにしろとかの特殊な時は別だけど
後、そもそも敵に一番死傷者を与えられるのは古今東西問わず
敗走する相手への追撃時なので
必然的に手柄首も多くは追撃時に得られた物という事になる
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直孝12歳のときに、

2018年09月07日 17:43

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 23:38:14.70 ID:4nhJDA70
井伊直孝は兵部少輔直政の次男であり、母は松平周防守家来の者(馬屋預りの者也。大阪役に馬にふまれて死)
の娘であった。

直孝が6歳の時、直政の所へ母方より、息男の故にて送られた。直政はこれを、百姓の庄屋、内蔵助と
云う者の所へ預け置いた。

直孝12歳のときに、この百姓の家に盗人が入ったと騒ぎになった。直孝が裏に出て、闇夜を透かして
見ると、後ろにある山に盗人が這い上がっているのを見つけ、直孝はそれを追いかけて上がり、高股を
切りつけた。

切られて盗人が振り返ると、「盗人を仕留めたり!出会え者共!」と大声で呼んだ。
このため大勢が駆けつけ、ついに盗人を仕留めた。

この事は幼若の身として無類の剛才であると、父直政に報告された。直政はその年、直孝を自身のもとに
呼び寄せた。

(士談)

割とありがちな勇将の幼少譚だけど、それよりも母方の祖父の死因に驚いた。



258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/07(金) 00:59:04.86 ID:HvcW+ZTu
>>257
下男に撲殺された島津善久に較べたらマシかと

井伊直政本多忠勝西軍ノ挙動ヲ評ス

2018年07月13日 18:15

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/12(木) 15:31:24.37 ID:m3mAOga4
井伊直政本多忠勝西軍ノ挙動ヲ評ス

関ケ原にて、井伊兵部少輔(直政)へ永井右近(直勝)が見廻りに参られたところ、

兵部が申されたことには、「内々に思っていたのとは違い、上方衆はぬかっている。
あまり先を取ろうという気遣いがない」とのことであった。

(内々存候と相違上方衆は、ぬかり候中々先を致され可申との気遣なし)

また本多中務少輔(忠勝)の方へ見舞い申されたところ、中務が申されたことには、

「上方衆は先を取ろうとの気遣いがなかったが、この頃の様子を見申すに思いのほか
違って、まばたきの内にも先を取っているように相見える。

左様に御心得なされ」と申された。

(上方衆先を被致可申との気遣無之處此中の様子を見申候に思の外相違瞬目の内にも
先を取り候様に相見え候左様に御心得候へ)

――『日本戦史 関原役補伝(永井直清筆記、武功雑記)』



77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 08:35:18.29 ID:LVuhrboZ
時間経過なのか、忠勝の方が細かい観察力が優れているという話なのか。

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/14(土) 09:38:24.86 ID:0uqXaRXi
そんなんだから突出して銃撃されるんだよ

川手良列の戦死

2017年10月21日 10:51

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/20(金) 19:05:32.73 ID:IcLAlNWl
井伊直政の重臣の川手良則は、直政の姉の高瀬を娶ったが嫡男が無かったので、大草松平家の松平康安の三男を婿養子とした。

その川手良列(良行)は大阪の陣で井伊家の一隊を率いたが、夏の陣の若江の戦いで無謀とも言える突撃を繰り返して戦死した。
冬の陣の真田丸の戦いで井伊勢が先走って大損害を受けたが、良列は軍規を忠実に守って動かなかった。ところがかえって
臆病者の誹りを受けてしまい、そこで実父と実兄に相談の上で覚悟を決めていたのだという。

そこまで頑張ったのに、良列の遺児の良富も若死にしたのでお家断絶している。祖母の高瀬は孫より長生きしてますね。

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/20(金) 19:07:01.89 ID:IcLAlNWl
ただし、過去ログ「賞の基準」、こちらの逸話では川手主水(良列)の扱いは正反対になっているようである。

関連
賞の基準


取った頸に証拠

2017年09月03日 11:30

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/03(日) 10:19:34.20 ID:KQR2AFta
井伊直政の家臣に浅井奈(朝比奈?)左太夫という者があり、度々武功を顕した人物であった。
それ故に直政も、彼を高く評価していた。

奥州九戸の陣において、井伊家重臣である木俣土佐(守勝)の家来の何右衛門という者が、良き敵を討った。
ところが、そこに左太夫が来て頸を奪った。
何右衛門はあらかじめ、この頸の左の耳から右の耳の脇まで脇座して貫き、印をつけていた。
左太夫はこれを知らず頸を奪い去った。

その日の内に、頸は直政の実検に入り、直政は「いつもながらの武功である」と左太夫に声をかけていた所、
末座に控えていた何右衛門が、木綿の雨羽織を脱いで4つに折って出て、この頸にかぶせ、左太夫に向かって
言った

「私の高名の頸を、ここまで持参していただき、かたじけない。」

左太夫はこれを叱りつけ、退かせようとした
「せがれ(若僧)、推算なり!」

しかし何右衛門
「この頸は私が取ったものを、左太夫がここまで奪い来たのです。」

「せがれめが有りもしない事を言う!その場へも来ていないのに!」

「御辺が取ったというのなら、定めて証拠があることでしょう。」

「私の取った頸に証拠などあるものか!」

ここで何右衛門
「されば、それがしは取った頸に証拠がある故に頸に物を着せたのです。」
そして、頸の証拠として脇差で貫いたことを説明し、羽織を取ると、まさしくその通りであった。

これを聞いた何右衛門の主である木俣土佐はしかし、「汝のような者が、あの歴々の働きの場へ行くのも
慮外である!」と、何右衛門を叱責し退出させた。
そしてその夜、左太夫は井伊家の陣より駆け落ちをした。

しかしながら、この左太夫はこれで廃るような人物ではなく。その後結城秀康に召し出され千石の扶持を
与えられた。直政の元にいたときも、千石であったそうである。

(士談)


それ故弾が力なく

2017年08月12日 18:18

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/12(土) 18:15:34.81 ID:P5a+mbW7
関ヶ原の時、大道寺(直次か?)は黒田家の陣にいた。9月15日に先に出て様子を見ていた所、
西軍の陣より鉄砲がひたひたと打ちかけられ、これにより討ち死にも多く出た。
このような所に黒兜の武車が出て、敵方の様子をじっくりと観察していた。
彼は馬に手綱をゆらゆらと打ち掛け、いかにも心静かに周りを見ていた。
その様子が大変見事であったので、大道寺は彼のそばに寄って居た。

すると彼は、「只今戦は始まった」と独り言を言った。
大道寺はこれを聞いて「何ゆえに左様に見られるか?」と尋ねた。
武者は

「鉄砲の弾が足元に落ちたが、その落ちようが、力なくころころとしていた。
これは敵との間合いが近くなり、急ぐ事で筒の中に弾薬がろくに入らないまま発射し、
それ故弾が力なく落ちるのだ。」

そう説明した。

ある話によると、この武者は斥候に出た井伊直政であるとの事である。

(士談)


弓矢の礼儀

2017年08月07日 18:26

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/07(月) 18:06:10.56 ID:ptMNn+dR
北条陸奥守氏照の家臣の内に、中山勘解由、石原主膳という人に知られた武士があった。
この内中山は、小田原征伐のさい八王子城にて討ち死にし、石原は氏照の供をして小田原城にあり、
氏照自害の後は井伊直政に仕えた。彼は武功ある武士であったので、直政より旗を預けられた。

関ヶ原の岐阜城攻めの際、浅野幸長の軍勢は、岐阜城の出城であった瑞龍寺を乗っ取った。
浅野勢は瑞龍寺内部になだれ込んだが、その時何故か浅野の旗を立てるものが居なかった。
他の部隊も近くを通ったが、この事に気づくものが無かった中、いい直政の兵が搦手より押し入り、
石原の下知にて直政の赤旗を城の内に押し立てた。その上で浅野勢のうち大将分の者を招くと
石原は言った

「瑞龍寺は井伊直政の勢が乗っ取った!」

浅野の者たちは驚き反論した、「これは存じもよらぬことを承る。幸長の手にてここは乗っ取ったのだ!」

「ならば城を攻め取った印は何であるか?」

「我等は勢はいずれも城の中を走り回っているではないか!」

石原これを聞くと、傲然と言い放った
「それは御自分の功名というものだ。御旗印の一流も見えない以上、実正とはいい難い。
我々は旗を上げた。これこそ証拠である!」

これに幸長の家臣たちは言葉に詰まり、返答できないでいた。
と、ここで石原は大笑いし

「いやいや、この話はここまでにしよう。各々がどうも弓矢の礼儀をご存じないようなので、
あえてこのような事を申したのだ。勿論この城を落としたのは各々が粉骨された故であるのだから、
我々は旗を降ろし、城をそちらに参らす。」

そういって、旗を撒いて撤収したという。

(士談)



132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/07(月) 18:30:00.50 ID:99qRtOQS
>>131
いい話スレだけど、喧嘩になるかと思った

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/07(月) 18:49:24.48 ID:Oii5T9zM
後の「ショー ザ フラッグ」である

そのときは拙者とて

2017年06月16日 17:55

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 23:50:57.07 ID:dWS33giL
天正十九年十二月二十八日、近江中納言秀次公は関白に任ぜられた。
その礼として家康公から井伊兵部大輔直政を遣わされた。
そのとき秀次公は囲碁をされていて、直政を呼んで物語をされた。

「昔、私が三好孫七郎といったときは直政も無官で万千代と申していたな。
会合して碁を打ったが、その時は直政は碁が強くて私は弱かったものよ。」

その碁の話に事寄せて、尾張長久手の合戦に直政に打ち負けた事を思い出して、
それとなく

「今、私と直政とでは昔とは手合わせは違ってくるだろう。
私も忝くも関白に任ぜられたのだ。勝負も大いに変わるはずだ。」

と笑いながら御申されると、直政は

「そのときは拙者とて無位無官の万千代。
只今は四位の侍従に叙任されています。
手合わせもそれほど昔と変わらないでしょう。」

と恐れることも無く答えた。
時に取って意地の有る申し分といえる。


『武士としては』


東照宮物具の御物語 附小野木笠の事

2017年06月03日 14:21

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 01:38:20.51 ID:I0x5Dvyw
東照宮物具の御物語 附小野木笠の事

東照宮の仰せに、

「物具が美麗なのは無益な事である。また重くするのも無益である。
井伊兵部(直政)は力もあって重い物具を着ているが度々手負いしている。
本多中務(忠勝)はそうではないが、手負いになった事がない。
ただ戦いやすいようにと心がけるべきである。
下級には薄い鉄の笠を着せるのが良い。急な時は飯も炊ける。」

とのものがあったそうだ。
 鉄の笠は甲州でも下級が着ていたという。
畿内の方ではそうではなかったが、丹州亀山の小野木縫殿助(重勝)が
足軽以下の者に鉄の笠を被せたので、その頃は小野木笠と言ったそうだ。

(常山紀談)



977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 11:24:26.85 ID:4Ghf+TWg
家康の着てた鎧がどんなのかって江戸時代はあまり知られてなかったのかな

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 12:36:01.54 ID:dYQCQZul
本多忠勝

「わが本多の家人は志からではなく、見た目の形から武士の正道にはいるべし」

武具も実用より見た目重視だから

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 13:12:34.08 ID:Mg9NhrRV
>>978
それは「まず形から」って話かと

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 13:15:57.43 ID:Lh7C7hE7
そう言う忠勝が練習だとヘタだけど実戦ではめちゃくちゃ強いタイプだったりする

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 14:15:54.11 ID:Ljz3XT3y
平八は本気を出すと人を殺しちゃいそう

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/03(土) 19:11:33.78 ID:R/r5VpoW
テラフォーマーかよ

汝はこの夜中にどこに

2017年03月06日 21:04

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 21:45:20.12 ID:opIRsI01
豊臣秀吉の死後、徳川家康伏見在住のとき、或る夜密かに、徳川屋敷にこのような情報が流れた
「今夜大阪より、我が君に御生害を進めに来るようだ。」

家康もこの情報に接し、井伊直政を呼んだが居らず、一時(約2時間)ばかり過ぎて、外より
馬を駆けて帰ってきた。すぐさま御前へとでたが

「汝はこの夜中にどこに行っていた」

と尋ねられると、直政

「されば、今日の暮方より、屋敷内にて、なんとも怪しい風聞を聞きました。それ故不審に思い、
外の状況を確認しに出かけたのです。

流石に殿ほどの御弓取りに対し、大阪より御生害を進められるというのは只事ではありません。
万一にもこれが事実であれば、京・伏見に参勤の大名・小名が、この御館廻り、その他の辻々、所々に
押し寄せるでありましょうから、御館の近辺は申すに及ばず、近郷まで偵察し、少しでも心もとない
場所を見廻りましたが、どこの道も静かで、怪しいことはありませんでした。」

こう申し上げると、徳川屋敷での騒動は忽ち静まったという。

この風聞は江戸でも取り沙汰され、「内府公は御生害された」と言うものまであり、
これを聞いて江戸より、我先にと京へと馳せ登った。
さればその人々は、その日の未の刻(午後2時)から申の刻(午後4時頃)までの間に追々出立したが、
伏見に到着するのは遅速あって、早い者では3日、遅い者は5日で到着した。
瀬田の橋では昼夜3日の間、内府の人数が途切れなかったそうである。

こうして到着した人々が家康に御目見得した所、「お前たちはどうしてこちらに上がってきたのか」と
尋ねられ、しかじかの理由を申し上げると、

「何者がそういう事を言いふらしたのか知らないが、心やすく思うように。ゆるゆると休息し、
上方が初めての者達は、京伏見も見物して帰るように。」

そう仰せ下した。

これだけではなく、秀吉薨去が発表に成ってから、巡礼に出かける関東の百姓や御領分の民たちまで
聞伝えに、我も我もと伏見の御館に馳せ参ったそうである。これは領民たちも、大神君の神恩に
起伏した故なのだろう。

(武野燭談)


井伊家の付人連署して直政を諫めし事

2017年01月29日 12:37

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 03:08:15.06 ID:aPNAmi8U
井伊家の付人連署して直政を諫めし事

井伊直正は壮年の時鋭気が甚だしかったので、東照宮から付け置かれていた。
そこで...(抜落)以下が連署して諫書を捧げた。
その中に
「人には必ず目標を設けるのがよろしいと思われます。
私達臣下らが前の主君の事を申すのもいかがなものかと思われますが、
申し上げさせていただきます。
信玄が若い時から一つとして心から善事を行わなかった人ではありましたが、
常に越後の謙信を目標として謙信に優るように努め励まされていました。
なので信玄の一生の間、手を下した大事の合戦が五回に及びますが、
大きな敗北はされませんでした。
殿にも本多中務大輔忠勝を目標として、努めて劣らないように励みなさってください。
古から『進まず退かざる良将』と申しますが、それは中書(中務大輔の唐名)のことだと思われます。」
と書いてあったそうだ。

(常山紀談)

信玄に対してひどい言い様www
何かあるでしょ、信玄堤とか



558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 11:14:12.92 ID:Tc8KsaEm
上田原の戦いや戸石崩れは謙信と対立する前だからノーカンなのだろうか

一備の将たる者は、

2017年01月28日 09:19

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 19:20:26.74 ID:KqZEt9y/
一、一備の将たる者は、並の武士の作法に準ずるべきではありません。能く柔と剛を兼ねなければ、
  将たる道には至りません。
  一鑓合いの武士は強勇を表として、主のために命を惜しまないことを名誉とします。
  しかし一備の将たる者は、命を全うし、諸卒を懐かせ、駆け引きの作法を示し、勝つべきを
  見て進み、勝てないのを見れば引き取って後の勝ちを得ることに専念する。これは将にとっての
  法です。この心を忘れず、老功の者達とも評議し、尤も妥当な判断に従うようすべきです。

一、其方は若輩ではありますが、甲信両国の武士を与力として預かる上は、どんな剛敵と言えども
  防戦を致し、越度を避けねばなりません。心に及ばぬ所は、石原、孕石、廣瀬といった老臣たちと
  相談し、進退に道理を以て、諸卒をそれぞれに差し遣わさねばなりません。

一、どんな諸芸も習わなくては知らぬものです。それが戦の道であればなおさらな事です。
  その作法、方便、謀、進退、そういった事を知らずに行う合戦は、危ういものです。
  私は国を争う戦を度々行いましたが、その一度一度の勝負についての経験から、知らねば
  持つことの出来ない道理を獲得しました。そういう思いもあって、其方には三人の武功の者、
  そして合戦の場数を踏んだ武士たちを与力として預けたのです。
  この者達に二六時中(当時は一日を十二支で分けている)戦の道を尋ね、極め、武の事を
  心から忘れないようにして下さい。

右の条々について、油断があっては成りません。如件。

 徳川家康在判

    井伊万千代(直政)殿

(松のさかへ)

「赤備え」を井伊直政に預ける事に関して、徳川家康が直政に送った書状。
ほとんど守ってないような気がするが。



「小姓ども」と、申された

2016年12月07日 17:29

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 02:18:24.54 ID:uvLUyMHH
井伊兵部(直政)、本多中書(忠勝)、榊原式部(康政)のことなどを、

(徳川家康の)御前などでも「小姓ども」と、酒井左衛門尉(忠次)は
申されたということである。

――『武功雑記』

酒井忠次は別格だったという話だろうか。



391 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/07(水) 07:18:15.41 ID:iixZWz5X
>>389
そりゃ年齢も一回り以上違うし家格もダンチでしょ

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/07(水) 08:36:17.98 ID:4JYn8U5B
酒井は徳川と同族なんだっけか

393 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/07(水) 12:04:15.65 ID:iixZWz5X
>>392
それもそうだけど、忠次自体がダブルで義叔父らしいから。

家康が茂助を遣わしたのは

2016年11月22日 09:34

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/21(月) 21:26:40.39 ID:vJTZkj8O
慶長5年8月末、美濃まで進出した東軍の先手は、徳川家康の軍勢が江戸から出立しないことに苛立ち、
特に福島正則は殊の外立腹、池田輝政と口論となり、その場に在った本多忠勝井伊直政がどうにか
宥める有様であった。

その翌日、村越茂助が家康の使者として参着した。福島正則は茂助に対し「家康公はどうして出立
されないのか!?」と詰問すると、茂助は

「ご出立されないわけではありません。ですがあなた方が敵に対して手出しをなさらないため、
ご出馬が無いのです。手出しさえ有れば、即急に御出馬されるでしょう。」

これを聞いて正則は、扇を広げ茂助の顔を2,3度仰ぎ
「尤もな事だ。すぐに敵を攻撃し、それそ注進していただこう!」
そう答えた。

本多忠勝井伊直政は、正則と輝政が口論をした翌日であったので、このやり取りに手に汗握り、
茂助の言った事も非常にぶしつけではないかと諸人も思った。

茂助は事前に、忠勝、直政に使いの内容を一言も喋らなかった。家康がこの大事の使いに茂助を遣わしたのは、
茂助が自分の言った内容を有り体に伝えると、よく見知っての事であった。
日本国中の心ある武士たちは、この事について有り難き積りであると語り合った。

9月朔日、家康は出馬した。

(慶長年中卜斎記)



政宗の黒漆塗五枚胴は雪下胴と呼ばれ

2016年11月07日 09:44

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/06(日) 15:14:46.21 ID:WnhtVHEx
先日、横浜市の馬の博物館で伊達家甲冑研究の第一人者である竹村雅夫氏の講演がありました
そこから多少つらつらと

・政宗の有名な黒漆塗五枚胴は雪下胴と呼ばれ、北条氏治下の鎌倉雪下の職人が製作したと思われていたが、
蘆名氏が会津入部に伴った雪下出身の鍛冶の子孫が、雪下と名乗って製作したと明らかになった

・雪下胴を当時の記録などで解胴(ほときどう)と呼ぶが、これは蝶つがいを外すと5枚の鉄板になって畳んで
持ち運びできるから

・政宗が雪下胴を初めて入手したのは天正16年(1588年)の岩城氏からの贈り物で、人取橋の戦(1586年)には
まだ持っていない

・政宗は異常に甲冑好きで贈るのも貰うのも大好き、家臣の鎧を召し上げて代りの鎧を渡したり、甲冑商人を
二日間留め置いて見聞したり、敵味方問わず使者へも甲冑を贈った

・天正16-17年の間に贈った甲冑が26領、貰ったのが14領、買ったのが10領

・政宗の甲冑好きは南奥羽諸大名の常識だったので、政宗への贈答品には甲冑がよく用意された

・会津制圧後は政宗が雪下胴を全てかき集めたので、上杉・蒲生家臣でこれを持つものは数えるほど

・雪下家は大阪の陣頃までは会津で甲冑を製作していたが、その後は松平家の普通の下級武士になった

・いわゆる仙台胴は雪下胴をモデルに仙台でつくらせたもので、厳密には違いがある

・雪下胴はその重さと長い草摺もあって、やはり馬上用

・政宗は「上方の連中は騎乗しても槍を手に馬から降りて立ち働くが、奥州武者(奥士)は馬上で槍をとって戦え、
鎧を着たままでは素肌武者(軽装)にも後れをとる、馬から降りるな」「奥武者の我が家は末代までも上方の真似すんなよ」
と言い残している

井伊直政は雪下胴を小田原戦以降に手に入れ、関ヶ原で着用したのは実は政宗と同タイプのこれである(現存)



305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/08(火) 21:26:03.72 ID:Sn33jf/C
>>301
つまり関ヶ原では赤備えじゃなくて黒備えだった・・?

庵原朝昌の帰還

2016年10月15日 10:46

247 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/15(土) 00:26:30.80 ID:QmUi7l/K
庵原朝昌の帰還

水野勝成が奉公構えを受けて九州を放浪した後、佐々家に1000石で雇われてた頃
勝成が雇った門番が庵原朝昌である。
当初は身分を隠していたが、ある日勝成が彼の荷物から立派な具足を見つけたので
門番に問い詰めたところ、井伊家を出奔した庵原朝昌である事がわかった。
それ以来、勝成は自分の所領である1000石から200石を朝昌に与えた。
その後、佐々家お取り潰しの際に勝成は井伊直政に朝昌を再雇用出来るように手紙を送り
朝昌は無事に井伊家に帰参する事になった。


250 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/15(土) 07:42:14.63 ID:QmUi7l/K
この話の出典は「放浪武者水野勝成」からの抜粋です


248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/15(土) 00:41:51.39 ID:qDzPZbFf
井伊話だなー

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/15(土) 01:00:38.30 ID:9W5iOiCM
葵徳川三代で木村長門討ち取るシーンで出てきたのがきっかけで知ったな~庵原朝晶

井伊家侍大将、庵原助右衛門朝昌の武功
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2446.html?sp&sp



彦根侯邸に棲める雉

2016年09月12日 20:28

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/12(月) 15:00:54.38 ID:NuRJfjTK
〔初清正の邸〕彦根侯邸に棲める雉
同臣脇師、高安某長舎
同侯上邸玄関

前にも彦根侯麹町の邸は、始めは加藤清正の邸であったことを記したよ。
このように清正の後は、かの邸は取り上げられ彦根の祖の井伊直政がここに住んだ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10067.html

この邸の中に雄雉一羽がすんでいた。
この鳥は直政の時からいて、
直政が帰国のときは雉もまた随い、出府するとまた随ってかの邸に来た。
今もなおいて、時々見かける者がいるという。

侯の脇師高安彦右衛門は彦太郎の弟子であり、かつ彼の臣なので麹町の邸に住んでいる。
なのでこの雉の鳴き声を時々聞くことがあるが未だその顔を見ていないという。
彦右衛門の母は見たといい、その大きさは普通の雉を二羽合わせたようであったという。
邸中の人は皆、御雉子様(オキジサマ)というと。
〔以上彦太郎の話〕

また彦右衛門の住所は十五間ばかりの長屋であるが、それは清正の時に建てたままである。
よって古色があり、柱はどれも柘植の大角材であったが、手斧目のままである。
この長屋は邸内でも谷を隔てて溜池に臨む畔上にあり、
離れ家なので、先年千畳鋪が焼亡した火災でもその厄を逃れたという。
この長屋は邸の門を入って三丁ばかりを行き、谷を下りそれから溜池の端にあると。

彦根侯の上屋敷の玄関は大坂城で淀殿の能舞台であったが、落城の後この方に引き移したという。
そのためか、今も屋根裏の棟木に、道成寺の釣鐘の釣りかぎが存在するという。
面白いことではないだろうか。

(甲子夜話三篇)




「井伊家はキツイ」

2016年08月19日 08:59

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 19:30:48.20 ID:zWB+z/Fv
これはたいへん申し上げにくいことなのですか、世の中では殿(井伊直政)のことを、人を斬る人物だと
沙汰しています。私達においても、よその知人から、『未だ生害にあわず、存命でしょうか?』と、
生存を確認する書状が来る始末です。

殿におかれては、大方の科は御堪忍なされ、処刑に値する罪でも、五度に二度は命を助けられ追放に
とどめ、罪のある中でも忠功のある者には、前の科を捨てられることこそ、誠の大将というものなのです。

殺害の多い大名は良い家臣を持てません。先年、当家(井伊家)は、美濃輪、橋田、秋山、戸倉、勝野の
五人、彼らは上方で名のある武士であったので、それぞれに千石づつ宛てがい召し抱えたいと伝えました。
彼ら五人は、その前は織田源之丞に仕え、五百貫を知行していました。そんな彼らに千石づつという
非常に高い条件で召されたというのに、彼らは「上方にて望む所があるので」と、断ってきました。

しかし、断った彼らの本音は、「井伊家はキツイ」という判断なのです。
その後千五百石まで条件を上げても参りませんでした。近頃聞いた所によると、彼らは本多平八殿の所に、
わずか八百貫で五人全員が参ったそうです。実に惜しき事です。
家臣が当家長久、子孫・武勇繁盛と祈るのも、それは長命を前提としているのですよ。

殿は六年ほど前からお心がけが変わり、物荒くなられました。
家康公の仰せにも、「何であっても三度家臣と相談して決定するように。」と有るではないですか。
これはしっかりと自覚すべきです。

(松のさかへ)

井伊直政への重臣よりの諫言書より。
直政の重臣たちにはよその知り合いから「まだ生きてる?」という書状が届くような状況だったらしい。



19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 21:08:30.27 ID:sUGxG//l
>>18
>『未だ生害にあわず、存命でしょうか?』
どんだけ危ない大将なんだよw

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 21:23:15.57 ID:o2hjQZMp
q=井伊ね!

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 22:11:36.52 ID:MlTLB+Gb
鬼武蔵のところはどうだったんだろう?

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/18(木) 22:12:31.09 ID:ZS1gmFa7
武士って本当楽じゃねえな…

信玄は殊の外に立腹し、笑った人々を

2016年08月17日 12:37

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 10:00:01.01 ID:DrAt9iHp
大将というものは、大きなことも小さなことも、小人の善悪をよく見知って置かなければ、
何の意味も有りません。
召し使う侍たちであっても、義心直道の者も、軽薄佞人のたぐいも同じように見られ、悪しき士に
家権を取らせてしまえば、軍合戦するまでもなく、平穏な世の中でもその家は破滅してしまうでしょう。
老若によらず、心のしれた親しい者を御取立すべきではありません。
第一、佞人は人を妬み、心中賤しく人をたばかり、諸事に付け悪口を申すものです。

武田信玄が甲州にあった頃、三河牢人の山本勘助と申す片端者が、軍の道をよく知っている者ということで、
信玄はこれを召し抱えました。この新参者に対し、家中では悪口に、彼の体を見て、山本を「半体」と呼び、
城中においても後ろ指を指して笑い草にしました。

この事は目付けが、信玄に報告しました。
信玄は殊の外に立腹し、笑った人々を、その一門まで追放したのです。

(松のさかへ)


井伊直政への重臣たちからの諫言書より、武田信玄が、山本勘助の障害を笑った者を追放したというエピソード。



997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 10:38:51.88 ID:IEKNGEwp
山縣についてはふれてないな
顔より体つきが重んじられてたのか

向後かたく御無用に御座候

2016年08月08日 16:24

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/08(月) 11:44:29.18 ID:NfEhADzu
今まで数度申し上げましたが、お忘れに成ったのか、強がっているのか、お聞き入れありません。
軍勢を押し上げる時も、そのお姿や馬印、御馬も常と同じようにされていますが、それは宜しく有りません。

我らの古主である武田信玄は、自分と同じ出で立ちの者を3人用意し、自分も含めて同じ格好の者が4人、
軍勢を押し出す時も同じような馬に乗り、いかにも目立たないようにされていました。これにより、数度
危うい所を逃れました。

上杉謙信は、1日に2度、武者振り(出で立ち)を変えたと聞いています。
その時分は越後勢から甲州勢へ忍びを入れ、もしくは甲州勢が越後勢を探って、大将の出で立ちを伺っても、
両将共に見定めることが出来ませんでした。
この両人に限りません。関東の北条、尾張の織田信長、何れも見定められた事はありません。

殿(井伊直政)は無類に強気ですから、こういった事は悪しきと思うかもしれません。ですがそれは若気と
言うものです。心得の無い者たちは、敵味方ともに殿を『雄々しき大将だ』と言うかもしれませんが、
武功の者達は笑っているのですよ。

尤も、大将というものは前線の様子を、自身の目で知りたいものです。その時は、ご自身の具足と違わぬよう
拵えたものを予め用意しておき、近習の者に着せて、旗本に置き、馬印もそのまま置いて、大将は目立たぬ
姿に着替えて前線にてご下知なさるべきです。

殿は、朝霧の深い時でも前線に馬で乗り入れます。あまつさえ馬印まで持って。
今後、絶対にそういうことはなさらないで下さい。(向後かたく御無用に御座候)
霧深い中、敵が伏兵を置いて居た場合、鉄砲などで狙われる例は多いのです。そうして過ちが起これば、
それは末代までの落ち度です。

それから、先年家臣一同をご覧になった時も、組頭、使番、物頭、そのほか頭の者たちばかりにお声を
かけられ、残る士にはお言葉をかけられませんでした。これは殿がご若年だからでしょうが、
諸人に恨みを残す行為です。皆に声をかける嗜みがあるべきです。
御用に命を捨てる武士というものは、たった一言の言葉にも感じ入り、一心を定めるものなのですから。

(松のさかへ)

井伊直政へ家老一同からの諫言書より。この内容だと銀の鯰尾兜であえて目立っていた蒲生氏郷なんかも
落第ですね。



958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/08(月) 13:51:16.10 ID:XNi8I1Od
>>957
総大将じゃないのに影武者作る習慣はあったんだろうか

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/08(月) 14:30:14.03 ID:/fNKafdB
諫言の甲斐なく狙撃されちゃったねー
バカだねー

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/08(月) 15:45:04.93 ID:9iHxHcZM
>上杉謙信は、1日に2度、武者振り(出で立ち)を変えたと聞いています。


謙信所用と伝えられる甲冑がわりと残ってるのは
そういうわけなのかな?