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「武士道とは死ぬことなり」という武士道の鉄則は

2017年12月31日 19:16

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/30(土) 22:38:38.22 ID:aGIvmbNZ
今川義元が、桶狭間で討死した時のことでした。
義元の臣松井五郎八郎(宗信)は、あまりのことに茫然として落ちのびてゆく途中、井伊信濃守(直盛)に遭いました。
「いずこに行かれる。」
と、松井宗信は声をかけました。
「本陣にまいり申す。」
「御無用でござろう。大将は討死でござるぞ。本陣もすでに総崩れでござる。拙者たしかに見届けてまいり申した。」
松井宗信の悲痛な声を井伊直盛は、にっこりうけて、
「お言葉ではござるが、拙者は兄肥後守(直親?)の命をうけて、本陣に見廻りに参るものでござる。味方総崩れと聞いて、このまま立ち帰っては、
兄にもうしわけござりませぬ。敗軍を見物して逃げ戻ったなどと言わるるも本意でござらぬ。」
こういいながら進むのでした。
「お待ちくだされ。」
松井宗信井伊直盛に追いすがりました。
「お言葉御もっともでござる。思えば拙者ここまで落ちのび申したが、武士として潔からぬことと思いつき申した。
この上は、ご一緒に引き返して、武士らしく、最後の一戦いたしとうござる。」
「拙者と同道なされるか。」
二人は、馬をならべて、本陣の方へ駆け出しました。蹄の音が、野面にかつかつと響きわたりました。
しかし、二人の健気な振る舞いも、大勢を覆すなんの役にも立ちません。
渦巻く硝煙のなかに、別れ別れになった二人はやがて後に、叢を染めた二つの死骸となっていたのでありました。
死場所を得ることは、武士の最後を飾るものであり、これあってこそ武士道が確立されるのであります。
「武士道とは死ぬことなり」という武士道の鉄則は、こうしていついかなるときもまもられるのであります。

『明良洪範』(良将言行録)



551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/31(日) 02:30:08.57 ID:NdEwIQCr
葉隠の作者が言ってるのとはやや意味が違っている気がする>「武士道とは死ぬことなり」

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/31(日) 11:29:45.16 ID:R8OCKHGT
明良洪範は元禄の頃(1688ー1704年)に書かれたもので、
葉隠は1716年頃のもので当時は一般的には受け入れられなかったからね

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/31(日) 11:35:34.95 ID:mOqI3VfN
まとめの7007
「血気の勇であった」
だと、良将言行録では上の話の紹介の後

>井伊は弟であって家督ではないから義による本意の討死である。
>しかし松井が討死したのは軽率であった。この人には父がいたが子はいない。
>終いには跡目は断絶し、七十余の父は武田に生け捕られて老後の恥辱を受けた。
>これは五郎八郎の不孝である。
>
>初め大将討死の場にて松井が共に死ぬのは士の道であったが、墓場とすべきところ
>でもないのに井伊の言葉に従って父のことを思わず引き返したのは血気の勇であった。

って書いてるな

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/31(日) 11:37:29.20 ID:mOqI3VfN
てよく見たらまとめと同じ良将言行録だった
活字化されたのが明良洪範だったのか

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/01(月) 07:26:46.90 ID:e/F9/q5y
誰のエピソードだったか思い出せなくて、知ってる人居ないかな

単身で伝令役として敵の城に行った際、
逃げずに役目をちゃんと果たした事を証明出来るように、
鎧?を置いてったっていうエピソードなんだけど

556 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/01/01(月) 11:10:31.94 ID:d70Ojd9I
>>554
明良洪範と続編を再編集したのが良将言行録だったかな
要は異本だね

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/01(月) 22:31:44.45 ID:RsVfPdse
「良将言行録」は、真田増誉の著述にかかる。
慶長元和に始まり、徳川五代将軍綱吉の頃に至る、名将及び武士の言行事跡が挙げられている、
十巻にまとめてあるが、同じ著者の「明良洪範」四十巻中の抄出といわれる。
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永祿5年・井伊家粛清

2011年05月28日 00:01

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/26(木) 21:46:03.98 ID:jmqhAb78
永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦いで今川義元、討死。
この時遠州井伊家当主、井伊直盛も共に討死をする。
井伊家の家督は直盛の養子、井伊直親が継いた。

さて、同5年(1562)春、井伊直親の家臣である小野但馬という者、主人を恨むこと有り
今川氏真の元に参って密かに告げる。

「肥後守(井伊直親)は織田徳川と通じ、御屋形様に叛こうとしております!」

氏真はこれを信じ、大いに怒った。「井伊が叛いた!急ぎ井伊を退治すべし!」
しかし今川氏の一族であり、直親の友人でもある新野左馬之助は興奮する氏真を強く諌めた

「私は直親と長年親しくしており、彼の心の中も良く存じております。
直親は当家に二心を持つような人間ではありません!これはおそらく、讒人の申したことに
違い有りません。どうか、事の真偽を究明あるまで、御追討はお止めください!」

そして左馬之助は井伊の元に使いを出し、かくかくと状況を知らせる。
直親もこれに大いに驚き

「直親は先祖以来、今川殿の被官となってよりこのかた、累代において後ろめたき事は有りませんでした。
中でも養父である直盛は、故義元公のお供をして、桶狭間の合戦で討ち死にしました。
であれば、あの信長はご主君の仇というだけでなく、この直親にとっても父の仇であるのに、どうして御屋形様に
叛いて、君父重讐の相手に組するのでしょうか!?

この旨を持って、私に誤りの無いことをどうか、申開きしてください。」

そう、左馬之助の使いに託した。

ところが、これを聞いた氏真は

「いやいや、領地に居ながらにして陳じるというのでは疑いを解くことは出来ない!
駿府に参って申開きをせよ!」

と言う。直親もこれを受け入れる。このとき直親は「現在不信を被っている身が
郎党を多く引き連れていくのは宜しくない」と、主従わずか20人にて駿府へと向かった。

途中、掛川に差し掛かった所での事である。
完全武装した掛川城主・朝比奈備中守の軍勢2,300騎が突然、この井伊家の一行を襲った。
彼らは一行を大勢で取り巻き、一人も残さず討ち果たした。
この時井伊家は事実上、壊滅した。

直親にはこの時僅か2歳の男子・虎松があり、これも氏真により誅殺されるところを、井伊討伐に反対していた
新野左馬之助がその身だけはなんとか守り、命を助けた。

この時助けられた虎松こそ、言うまでもなく井伊家を再興する、後の井伊直政である。

今川氏真による、井伊家粛清についての話である。
(藩翰譜)





377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/26(木) 21:50:14.74 ID:MYzACahM
新野左馬之助のその後が気になるなぁ~
というか、直政さんってオレの中では急に登場する感じなんだよな~

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/26(木) 23:01:13.55 ID:WURHk3pI
>>377
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%B0%BE%E9%80%A3%E7%AB%9C

ここに新野親矩という名前でちょこっとだけ出てるよ

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/27(金) 01:17:17.61 ID:2Zd6Kyeu
新野家は幕末に井伊直弼の兄が再興してるみたいだね

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/27(金) 10:49:37.79 ID:AiiZNlop
>>379
Wikipediaの井伊直虎の項にも出てますな。