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わいの先祖。

2020年08月13日 18:08

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 20:09:10.92 ID:z6EQmOdD
わいの先祖。
近江の土豪で蒲生氏郷に使え会津まで付いてくも、当主の早死にが続き減封でリストラ。
運良く近江の名家京極家にデューダするが関ヶ原で大津城籠城に参加し、落城落ち延びる。
またまた運良く親戚が有力大名に使えててその縁で再就職。その親戚が大阪の陣で大活躍して永代家老職になり、先祖安泰。
しかし有力大名が粗相して切腹。わいの先祖は討ち入りに参加。
おとんは長男には秘密にして次男は養子にだして御家存続を図るも、いざ集合場にいったら家族三人勢揃い。お家はなくなっちゃいました。



254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 21:04:07.35 ID:mb3/KsK0
デューダするって21世紀になって初めて見た気がするw

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 21:05:14.67 ID:v7GOyqug
奉行に届けてるだけ理知的だなって思ってしまった

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 21:17:50.26 ID:tsLUhoru
>>253
間喜兵衛か

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/24(月) 05:14:25.16 ID:VJwm7SWo
>>256
マイナーなのによく分かるな。すごい。

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/24(月) 17:21:29.52 ID:Wzvp7A45
>>292
47人のうち一家三人参加で考えると間家しか
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大津の死骸返し

2016年06月17日 17:56

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 04:02:05.70 ID:i6P555yl
大津城の戦いの時、立花宗茂は使者を城中に派遣し、

「今日、味方で討死した者の中に“十時伝右衛門”と申す者がいます。
取り分けて不憫に存じているのです。遺体をお返しください」

と言って、十時の物具の色を書いて言い送ると、やがて十時の遺体が
返された。また城中からも、

「“山田三右衛門”の首をお返しください」

と望んだので、冑を添えてその首を送った。これを“大津の死骸返し”
といって、勇士死後の誉れとした。

――『常山紀談』



861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 20:54:07.40 ID:PtZ7CRgp
誉れなのかぁ

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 01:26:54.93 ID:qsZH8YMt
>>860
「とりわきて不便に存るなり骸を返し給はり候へとて物具の色を書て…」(原文)

骸(首なしの死体)と首を交換したってことだね


大津城に関するお話

2013年02月11日 19:56

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 12:17:50.99 ID:djfJ/Tn7
関ヶ原の役の折、大津城には二の丸に松の丸殿(京極竜子・秀吉の元側室)が住居していた。
西軍による大津城攻めが行われると、火矢の用心のため屋根を尽くまくったが、鉄砲の音にその女房衆が驚き
泣き悲しむこと甚だしく、これが殊の外、城の弱りとなったため、戦闘中に松の丸殿を京に移す事になったという。

この大津城攻めでは、京の町人たちが城攻めを見るため重箱、水筒を持って三井寺観音堂において、恐ろしげもなく
日夜見物をしていたそうだ。

大津城は14日に西軍に開城し、京極宰相殿(高次)は16日に高野山に上ったのだが、寅~辰の刻(午前3~9時)にかけて
関ヶ原で撃ち負けた西軍の雑兵達が際限もなく大津の方に逃げ込んで来た。
人々、せめて今日まで持ちこたえていれば運も開けたのに、残念なこと多い京極宰相の戦ぶりであったと申しあったという。

実は京極殿は城にて切腹すると決心し、これを明け渡すなどありえないと言われていたのだが、家老の伊予守というものが
腰抜けであったので、あのような事になったと取り沙汰されている。
(慶長年中卜斎記)

以上、慶長年中卜斎記より、大津城に関するお話





508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 14:59:04.16 ID:Hb/1GD5J
>>506
むしろ結果的に高次が生き延びられたいい話じゃね?

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 16:16:52.96 ID:iJlbPKmi
戦見物って楽しそうだな

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 16:24:16.33 ID:8j7AoL9/
しかしヒャッハーされる可能性も

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 17:16:49.71 ID:HT8wnR5d
>>510
自分達の村の将来(ヒャッハーされるか否か)を見極めなきゃあいけないんだぞ

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 20:45:58.63 ID:MXaPvd23
>.511
中立の寺や神社に篭っていれば大抵は大丈夫
まさに駆け込み寺

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 20:53:18.28 ID:061Z9LVQ
>>513
門徒や寺領以外のやつを入れるわけ無いだろ

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 03:14:34.10 ID:SLzEI9g/
信玄に貰ったばかりのお墨付きをたてに頑張っても信玄にめちゃくちゃにされた寺があったよねえ

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 04:53:16.45 ID:ENohQV+Y
信長より信玄の方がよっぽど寺焼いてるイメージ

飛騨行った時も結構信玄にやられたって話が残ってたなぁ
今東博でやってる円空仏展でも信玄配下に焼き討ちされたって解説があった

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 09:20:42.09 ID:c+CUr8AV
詰まるところ「延暦寺が焼かれるはずが無い」みたいな認識が
当時の(主に京都の)人間にとって大きかったんじゃないかなあ。
これが「信長が園城寺を焼いた」だったら多分誰も反応してない。

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 09:51:05.10 ID:7rGOf7Yj
いやいや、延暦寺は信長の前に、足利義教と細川政元の手によって2度も焼かれてる。

ちなみに延暦寺を焼き討ちした義教、政元、信長は、全員家臣に殺されている。

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 10:03:40.47 ID:iF86PqRn
光秀「信長様に限って家臣に討たれるとかそのようなことあるわけがない。」

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 10:12:36.62 ID:4sI+iKuP
>>518
金剛峯寺「焼かれてから仕返しするのは二流の仕事」

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 13:57:38.34 ID:D93TIXfu
信長は確か戦見物するような奴は見つけ次第切れっていってたよね?
このころはだいぶゆるくなったのかな。
あっラスボスは見せびらかすのが好きだから奨励したのかも?

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/12(火) 14:47:32.07 ID:no7R50Lb
信長はゲリラ相手に戦ってたから


[ 続きを読む ]

徳川家康・大津城落城について

2013年02月10日 18:55

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/10(日) 15:49:15.85 ID:7762iH9T
慶長5年(1600)9月23日、関ヶ原の決戦に勝利した徳川家康は、東軍いついた京極高次が籠り、関ヶ原決戦の前日、
9月14日に降伏開城した大津城を視察した。

大津城は南面に50間(約90メートル)に及ぶ多聞作りの防御施設が有り、その下が水濠、
石垣を見ると、鉄砲の弾を受けた跡が一つあった。

家康はこれを見て、独り言のように

「この多聞作りだけでも、5日や7日は敵を防ぐことが出来る。
古の名城などというものはいずれも、今の城と比べればいかにも貧相であり、石垣などもなかった。
しかし城主が良ければ、そのような貧相な城でも名城になるものだ。
逆にどれだけ要害化した城でも、城主がしっかりとしていなければ…」
(此多聞作計にても五七日も城を可持事なり。古の名城をハ何れも当時に合せてハ如何にも貧相なり
石垣杯もなし。城主よけれハ能もなき城も名城に成、如何に要害能ても主しかとなけれハ)

と、つぶやいたそうである。
この時、傍には小姓衆5,6人が居ただけであったそうだ。

(慶長年中卜斎記)

ちなみに大津城は、開戦から7日で開城している。
家康の、京極高次の能力への評価が垣間見られる記録である。





491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/10(日) 16:33:41.26 ID:iHQ/8OB+
それだと質の悪い凶悪な城に凶悪な椰子が立て篭もったらどーにもならんわけですね。だから
関ヶ原に遅刻してきても仕方ないですなw

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/10(日) 16:45:26.21 ID:eLvd41FM
奴は敵の挑発にまんまと乗せられて城へ攻撃をかけちゃったのが運の尽きだな
冷静に考えれば力攻めで落とせる城じゃないのに

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/10(日) 17:26:09.63 ID:bviiB16B
古には無かった大砲も使用されたわけだし
名将ではないかもしれんが尻蛍さんはがんばったと思うぞ

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/10(日) 17:26:54.76 ID:YuFT599p
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1856.html
家康の大津城訪問といえばこんなのも

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/10(日) 17:33:02.47 ID:Q5PSFVr+
西軍は東軍と違って城落としたけど本戦に参加できなかったって話を良く聞く気がする
東軍は本戦で勝ったし城も落とせず参加も出来ずって人の影に全部隠れてるんだろうか

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/10(日) 20:36:40.80 ID:ljFf4mIf
>>492
奴って誰?
あと大津城って西軍連中が結局力攻めで降伏させてるよね。
まさか京極側が勝ったと思ってる?

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/10(日) 20:39:23.30 ID:7wbAMymm
秀忠の上田攻めだろ
>>491から考えて

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 00:02:25.65 ID:z+ioS8Nx
「来るなら来いやオラ」
と、田辺城で幽斎様が申しておられます

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 05:44:51.07 ID:oG07Eiqy
>>497
秀忠の上田攻めっていともアッサリ中断してるけどな。

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 08:40:03.42 ID:oG3b9jCM
大津城って、物資の保管のための城郭で攻防戦には不向きって説と
水堀に囲まれた要害だったっていう説があるんだよな
復元図なんかを見ると結構攻めにくそうな城に見えるけど、
13日の攻撃で三の丸と二の丸を一気に占拠されて14日に降伏してるから
最初の堀をどう越えるかの勝負だったのかな

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 09:00:12.94 ID:9xtgfeVC
>>500
なにより淀君の妹がいるから最初は脅しだけで降伏させるつもりだったんだと思う。
京都の民衆が昼飯持って見物しにくるくらいだし。

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 09:50:43.22 ID:oG3b9jCM
ねねも茶々も、竜子と初の救命のために講和の使者を送ってきてるしね
資料によって使者がちょっと変わってくるらしくって
孝亮宿禰記だと、眞常(織田常眞信雄?)と新庄東玉
筑紫古文書だと、孝蔵主、饗庭局、木食応其
時慶記だと、孝蔵主と木食応其
寛政重修諸家譜だと、孝蔵主、木食応其、海津尼(浅井鶴千代)
って感じなんだけど、豊臣家からこれだけ送られてきたら西軍としても
攻撃がやりづらかっただろうね

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 10:24:11.66 ID:ZanhqXPI
>>499
アッサリといっても開城要求も含めて5日以上無駄にしてないか

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 11:04:51.39 ID:oG07Eiqy
>>503
無駄も何も、家康の指令を受け取った時点で
即日、移動を開始してるじゃないか

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 11:19:28.96 ID:IsFMzBs/
問題はプラン変更と、その指令が遅れに遅れて結局
家康「あさってまでに美濃に来い!」
秀忠「んな無茶な!」
となってしまったこと

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 14:00:04.33 ID:a1f/eeAp
>>500-501
防衛機構以前に見物客が城内の様子を具に観察できるくらい周囲を高地に囲まれた構造の時点で
どう足掻いたって篭城戦闘を一週間とか無理だろ、と。

>>490が下手に褒めると論功が高くついてまずいから
取りあえず難癖つけて下げて上げる下準備をしてるようにしか思えんw

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/11(月) 16:04:47.20 ID:oG3b9jCM
>>507
周囲に高地っていうか、西側に長等山があるくらいかな
そこの三井寺観音堂に見物人が来てて、大筒もその辺りに
配置して撃ってたらしいね。
水城を直接攻めるには準備がいるし、高次が9月に突然裏切って城に
籠ったことや、自ら城下を焼き払って遮蔽物を無くして堀に近づく敵を
攻撃しやすくしてたこと、竜子や初を極力助けなければならなかった
こととかを鑑みると、攻略に時間がかかる要素も結構多いと思う


大津宰相こと京極高次は

2012年11月06日 20:00

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 20:40:25.33 ID:PiXUy448
大津宰相こと京極高次は城下の住民にさほど好かれていなかったらしく、
大津城攻防戦の際に大津城下の住民達は近くの山に弁当持って出かけて攻防戦の模様を
まるで祭見物であるかのように楽しんだと言われてる




303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 22:12:17.92 ID:/CwFW1/+
それ戦場のデフォ

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 22:24:23.23 ID:Yl2SYoHD
南北戦争の初戦の第一次ブルランの戦いもピクニック気分で観戦しに来た奴らがいたというし
あと、中国の春秋戦国時代あたりで見物に集まったやつに攻撃しかけたら敵軍のほうに逃げていって、
敵軍が混乱して勝利した話があった気がする

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 23:26:02.81 ID:OUwdw2fR
それ以前に籠城前に城下の建物を焼き払ってるだろ

310 名前: 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:8) [sage] 投稿日:2012/11/06(火) 06:31:52.97 ID:mFbaVcSB
>>302
攻め手が大砲をドカドカ撃ち込んだんだっけ?

石田三成の大津城訪問

2011年05月15日 00:03

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 00:09:25.49 ID:mBAtBIRG
関ヶ原の時のこと。

石田三成の挙兵後、毛利輝元を大阪城西の丸に入れるなど、西軍は一応の体制を整え方針も決まり、
三成は一旦、その領地である佐和山へと帰った。

と、その途中三成は京極高次に対面したいと、使いをその居城、大津に送った。
京極高次はかねてより徳川家康と親しい人であったが、三成の要請を受け入れると、本丸から三の丸へと移動した。

三成は大津城大手門の外で、乗り物より降りた。その日は小雨が降っており、三成は羅紗の合羽に塗笠をかぶり、
手回りだけの少人数で城内へと入った。
高次と対面すると、三成は手を付き頭を下げ「天下泰平の時が参りました」そう挨拶した。
高次はこれに

「治部殿に取って元より余儀なき企てであれば、必ず本意を遂げられることでしょう。
このような時期、一刻も早く帰城して様々な評定を成したい所でしょうから、わざと本丸よりも
出口に近いこの三の丸まで出向いて、お目にかかりました。」と返す。

さてその頃、京極高次の重臣、安養寺門斎は同僚の黒田伴與に向かってこう主張していた

「この一乱の張本人である三成がこの城に来たというのは、正に天の与えた好機である!
いざ三成を召し捕り、大手の門前にいる三成の勢を討ち取ろう!」

しかし黒田はこれに同心しようとしない。そこで同じく重臣である山田三左衛門赤尾伊豆も呼び
再びこの事を語ったが、3人共に同意せずこう反論した

「今三成を手篭めにすれば、敵の大軍が寄せきたりてこの城は攻め滅ぼされてしまうだろう。とにかく落ち着け!」

しかし安養寺は負けずになおも語る
「先日、殿(高次)は我らを召しだして何とおっしゃったか!?『三成常に奢りを極め、今また無益の乱を起こした。
であれば私は、天下の御為に神明を捨てて内府(家康)に属し、かの三成一党を誅殺する。お前たちも
忠義を成すべし!』そう、仰せられたではないか!

その上は今更滅亡など恐れるべきではない!それに、三成を召し捕えれば敵の大軍が囲むから
籠城しても危うい、というのは心得難い。殿が三成一派との対決を決意している以上必ず戦端は開かれるが、
仮に三成を何事も無く佐和山に帰したとしても、その時寄せての人数が少なくなるとでも言うのか!?

もし、そなた達の言うように敵の大軍に攻め囲まれ籠城が終に成し難くなれば、その時は三成を刺殺し、
宰相殿(高次)へ御自害を勧め、我らは一箇所に並んで腹を斬れば良いのだ!」

「お主の言うことは確かに理がある。が、内府のために京極の御家が断絶するのでは納得できようはずもない。
その上現在の状況は、三成一人を殺したからと言って世の中が治まるというものではない。
とにかくそういう考えはやめるべきだ。」

これに安養寺怒り
「そなた達の言うところは、宰相殿の一筋なるご心中と相違しているではないか!
先日私が少しばかり申し上げることがあって殿の御前に参った折、殿はこのように言われた

『去去年より伏見・大阪にあって内府に心を寄せたこと、これは私の粗忽の上ではない。
また、太閤の恩を忘れて、私的な好を求めたのでもない。心に一片の後ろめたさはない!』

このようにはっきりとした表明を承っているというのに、我々は別の思案を成そうとしている。
もし、敵味方の筋目について各々が未だに疑念を持っているのであれば、これからその事を議論しよう。
ただし!当家の存亡を重視するあまり、東西の勝負が決着するまでに議論が終わらない、などと言う事態になれば
必ず後悔しますぞ!」

しかしこのような議論をしている間に、三成は高次の前を退去し城を出てしまい、安養寺の企ては終に虚しくなった。
石田三成の大津城訪問に関する逸話である。(関原軍記大成)