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塩尻峠の戦い

2018年03月11日 13:23

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/11(日) 01:25:25.61 ID:lRqFuNmu
長時公(小笠原長時)が家中の者を召して仰せになったことには「下諏訪に晴信(武田信玄
より城代を置かれたことは無念至極である。諏訪の城代を追い払うべし!」との旨を仰せ付け

られた。すなわち、両郡の侍・仁科道外(盛能)、瀬馬、三村、山家、西牧、青柳、刈谷原、
赤沢、島立、犬甘、平瀬である。右の衆はいずれも大身の旗頭であった。その他に長時公の
御旗本衆・神田将監、泉石見、栗葉、惣社、下枝、草間、桐原、瀬馬村、

及び塩尻衆・征矢野、大池などである。二木豊後(重高)の舎弟・土佐の三男・六郎右衛門、
豊後の子・万太郎(著者・二木重吉)、土佐の子・万五郎と弟の源五郎兄弟もである。

この源五郎は草間肥前の養子と罷りなり草間源五郎と申した。長時公の近習を仕り、林に居住
して御旗本と罷りなった。二木豊後と同土佐、同六郎右衛門、同万太郎、草間源五郎の5人は
西牧の備と一緒に罷りあり、備を立て申した。全軍の兵は林を出立して下諏訪へ取り掛かり、

晴信より置かれた城代を手きつく攻め申した。頃は4月中旬である。城際まで取り詰めて急
に攻め申したゆえ「長時公へ城を渡し申すので、御馬を少し御退き下され」と城中より使者
2人が出てきたので城を受け取り申すというところで、仁科道外が望み申されたのは、

「下諏訪を私に下されば甲斐国までの先駆けを仕って、晴信と一戦仕りましょうぞ!」との
ことで、これに長時公は「私の稼ぎの花を望むとは推参であるぞ!」と仰せられた。道外は
「骨を折っても何になるだろう。信濃にいるよりは、晴信の朱印が良い」と軍前を外して

備を仁科へ引き取り申した。城内よりこの旗色を見届けて城は渡されなかった。そんな折に
晴信は後詰のために上諏訪まで御着きになり、皆々は「諏訪を道外に御遣わしにならないと
長時公が仰せられたのは、御一代の御不覚である」と申したのであった。

長時公はその日は諏訪の四つ屋と申すところへ御馬を上らせなさり、夜が明けて諏訪峠に
御陣を御取り遊ばされ、その日の巳の刻に合戦が始まったのである。初めの合戦で晴信の
先手を切り崩し、四つ屋まで敵を追い下して長時公方は首150を討ち取ったのであった。

その日の合戦は6度あり、その内5回は長時公の御勝利であった。晴信方では本陣がこらえて、
6度目の合戦では瀬馬、三村、山家が逆心仕り、長時公の御本陣にて追いつ返しつ入り乱れる
合戦となった。御本陣の良き者たちの過半は討死仕ったため、長時公もかろうじて林の手勢を

使いなさっていたところ、村上殿(村上義清)が小室へ働かれ申したとの由を聞こし召されて
早々に御引き取り申された。瀬馬の逆心により、西牧の二木一門は本道を退くことはできず、
桜沢に差し掛かって奈良井へ出て、奈良井源右衛門のところで飯米の合力を受け、御岳越しを
して、やっとのことで西牧へ出ていった。

――『二木寿斎記(二木家記)』



593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/11(日) 13:51:07.78 ID:n9GW6pZV
人望ねえな。お高くとまって下々を蔑ろにしてるイメージだわ。

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/12(月) 18:31:06.29 ID:WNA5qEX9
>>592
小笠原さん戦は強いのに勿体ないよね
この頃の勢力差ならまだどうなるか分からなかったのに

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/13(火) 16:06:57.16 ID:Que2OFwD
家臣団が強かっただけでしょ

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/13(火) 16:43:06.79 ID:OrM7ZJsf
御柱祭に乱入したら氏子に撃退されるおちゃめな長時公
お祭りVS戦国大名
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