529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/05(木) 21:05:26.94 ID:aN5OpNqs
18世紀前半に書かれた「続武家閑談」から「遠州怱劇」と徳川家康の遠州侵攻
今川氏真の時、遠州浜松の引間城は飯尾豊前(飯尾連龍)が城主であった。
また同国二俣城は今川氏真の妹婿・松井江蔵(松井宗恒?)がうけもっていた。
松井の取り持ちで飯尾豊前の姪が氏真の妾となったため、いったんは飯尾・松井とも出頭人となった。
しかし讒者(新野親矩?)のため氏真は両者に対して怒り、飯尾豊前を駿府城に呼び寄せて殺害した。
飯尾家老である江間安芸(江馬泰顕)、江間加賀(江間時成)は権現様に味方し、豊前後室(お田鶴の方)を守護し引間城に籠城した。
しかし氏真が城を攻めると城内は恭順か抗戦かでもめ、安芸と加賀は同士討ちし相果ててしまった。
家臣の野田彦右衛門は亡主の志をついで権現様に援軍を頼んだ。
権現様は遠州安間から御出馬を決意され、案内を縣刑部左衛門に命じた。
刑部左衛門は「浜名にお越しになるには本坂・引佐という二つの難所を通らねばならぬうえ、本坂では今川譜代の浜名兵庫(浜名頼広)が一揆を率いており、困難かと存じます。
幸い金指の方面はゆるやかですのでそちらをお通りになるとよろしいでしょう」
と申したが権現様は「本坂でも苦しくはないだろう」と刑部左衛門の考えを退けられた。
そののち出陣する段になり、権現様は本坂に向かい、先手の面々は甲冑を菰で目立たなくして金指・気賀方面に出陣させた。
刑部左衛門は猟師のなりで本坂峠まで本隊を案内すると浜名に向かい、浜名の郷のまるや寺・大移寺という二つの寺に放火し、その騒ぎにまぎれて本隊は本坂峠を越え、金指を経由した先手と合流した。
この功により刑部左衛門は、権現様が浜松を手に入れたのち、城の二の曲輪にとめおかれ、本多作左衛門(本多重次)配下となった。
しかし本多作左衛門は小田原の陣で領地を召しあげられてしまい、縣刑部左衛門は流浪の身となり、病死したという。
一説には権現様は今切をお渡りになり、浜松から一里半の宇布見村にお着きになり、そこの普済寺の住僧の案内で引間城に入られたという。
城中の皆はよろこび、江間加賀の妻子は権現様に召しだされ御褒詞が下された。
ここにいたって二俣城の松井江蔵も権現様に城を引き渡して退いたため、権現様は中根正照と青木貞治に二俣城を守らせなさった。
一方で本坂の一揆勢をことごとく御退治なさり、首級・百八を気賀村で掛けられたという。
18世紀前半に書かれた「続武家閑談」から「遠州怱劇」と徳川家康の遠州侵攻
今川氏真の時、遠州浜松の引間城は飯尾豊前(飯尾連龍)が城主であった。
また同国二俣城は今川氏真の妹婿・松井江蔵(松井宗恒?)がうけもっていた。
松井の取り持ちで飯尾豊前の姪が氏真の妾となったため、いったんは飯尾・松井とも出頭人となった。
しかし讒者(新野親矩?)のため氏真は両者に対して怒り、飯尾豊前を駿府城に呼び寄せて殺害した。
飯尾家老である江間安芸(江馬泰顕)、江間加賀(江間時成)は権現様に味方し、豊前後室(お田鶴の方)を守護し引間城に籠城した。
しかし氏真が城を攻めると城内は恭順か抗戦かでもめ、安芸と加賀は同士討ちし相果ててしまった。
家臣の野田彦右衛門は亡主の志をついで権現様に援軍を頼んだ。
権現様は遠州安間から御出馬を決意され、案内を縣刑部左衛門に命じた。
刑部左衛門は「浜名にお越しになるには本坂・引佐という二つの難所を通らねばならぬうえ、本坂では今川譜代の浜名兵庫(浜名頼広)が一揆を率いており、困難かと存じます。
幸い金指の方面はゆるやかですのでそちらをお通りになるとよろしいでしょう」
と申したが権現様は「本坂でも苦しくはないだろう」と刑部左衛門の考えを退けられた。
そののち出陣する段になり、権現様は本坂に向かい、先手の面々は甲冑を菰で目立たなくして金指・気賀方面に出陣させた。
刑部左衛門は猟師のなりで本坂峠まで本隊を案内すると浜名に向かい、浜名の郷のまるや寺・大移寺という二つの寺に放火し、その騒ぎにまぎれて本隊は本坂峠を越え、金指を経由した先手と合流した。
この功により刑部左衛門は、権現様が浜松を手に入れたのち、城の二の曲輪にとめおかれ、本多作左衛門(本多重次)配下となった。
しかし本多作左衛門は小田原の陣で領地を召しあげられてしまい、縣刑部左衛門は流浪の身となり、病死したという。
一説には権現様は今切をお渡りになり、浜松から一里半の宇布見村にお着きになり、そこの普済寺の住僧の案内で引間城に入られたという。
城中の皆はよろこび、江間加賀の妻子は権現様に召しだされ御褒詞が下された。
ここにいたって二俣城の松井江蔵も権現様に城を引き渡して退いたため、権現様は中根正照と青木貞治に二俣城を守らせなさった。
一方で本坂の一揆勢をことごとく御退治なさり、首級・百八を気賀村で掛けられたという。
スポンサーサイト