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三越同盟

2018年11月21日 16:45

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/20(火) 20:07:43.88 ID:nigKKgzI
(姉川の戦い勝利後)

神君(徳川家康)はこれより先に今川氏真の媒介で越後の上杉謙信と音信を通じられたが、この年7月下旬
に至り、遠江秋葉の別当・加納坊光幡とその婿・熊谷小次郎直包を使者として越後に遣わされ、これからは

ますます仰せ合わされたいとの旨で、浜松御城の図・太刀・馬代金10両を贈られた。謙信は大いに喜んで
「今の世に“海道第一の弓取”と伝えている徳川が、私めの武略を慕って使節を送られた事は謙信にとって
これ以上ない大慶である」として両使に引出物若干を与え、徳川家の老臣に書簡で返礼した。

その文によると、

 追って真鳥羽(矢羽に用いる鷲の羽)20尻を、これまで通りに任せて差し遣します。誠に些少の至り
 ではありますが、未だ申し通じてはおりませんので、一筆啓達します。さて、家康よりよくよく使僧を
 遣わされ、これ以上の大慶はありません。これからは無二に申し合わせたいとの心中ですのでよろしく
 取り成しを頼み入ります。なお子細は口上させます。恐々。

   8月2日  謙信在判

     松平左近丞殿

甲斐の信玄方へは翌年に至り越中の椎名肥前守からこれを告げ知らされたので信玄は大いに嘆き苦しんだ。

――『改正三河後風土記(甲陽軍鑑・武徳編年集成)』


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何の用にも立たざる氏真へ、くれられ候程用なくば、

2018年10月09日 17:25

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/09(火) 17:04:02.59 ID:3PE+0Tuk
(武田氏滅亡後)

やがて信忠卿は諏訪へ参向されて父子は対面された。信長公は今回の信忠卿の大功は比類なしと
たいへん御誉めになった。かくて父子は計りなさり、

「徳川殿は駿河の諸城を速やかに攻め抜きなさり、その軍功はまったく軽んじるものではない」

として神君に駿河一円を進上された。神君は厚く感謝されてその上で、

「私めと今川家の旧好は忘れるべきものではありません。駿河は今川の旧領なので半国を分けて
氏真に安堵仕られたく存じます」

と仰せになった。信長はまったく御承知にはならず、

「何の用にも立たぬ氏真へくれてやりなさる程に必要ないのならば、信長が所領する!」
(何の用にも立たざる氏真へ、くれられ候程用なくば、信長所領すべし)

と御怒りになったので、駿河は一円に神君の御領地となされた。

――『改正三河後風土記』



289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/09(火) 23:46:05.12 ID:9iQGbbh4
後の交流からして意外と家康は本気で今川に恩を感じていたのかもしれない
それにしても到底本気とは思えず対外的なアピールであろうが
それにしても氏真に駿河半国分けたいとか
生き馬の目を抜く戦国の時代に言うとは到底思いがたいな
後世にできた逸話に真偽を問うのは野暮だと判ってはいるが

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 10:17:50.10 ID:qxcritGB
秀忠と違ってカミギミは自費不快のです

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 10:25:59.57 ID:LoT/qsy1
>>289
信長急死後、甲斐信濃手に入れても返してない所から見てもな・・・・・

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 19:28:27.93 ID:35C0sJ8M
まあ駿河方面への調略に、上手く行かなかったとは言え氏真に協力してもらっていた以上、
心にもない事でも立場上言うだけは言っておく必要があったのかもしれん。

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 20:19:13.07 ID:dpeX0mQH
>氏真
同盟破った武田は恨んでたけど徳川は別に恨んでないってのは武将らしくて好きw

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 21:01:48.05 ID:y0IcR6Me
>>287
それは浪士組として上京して、京都に残るメンバーを選別した時だな
新選組として徴募したときには特に制限してない

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 00:09:20.94 ID:DnnVud2J
>>293
まあ徳川が占拠した遠江はあくまで植民地で、武田が攻めてきた駿河は本国そのものだしな

今度は遊びに飽きてまた浜松に帰ってきた

2018年08月25日 18:17

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/25(土) 13:27:40.22 ID:jvrexpct
今川上総介氏真が小田原を逃げ出て浜松に来たると、神君(徳川家康)は旧好を
思し召して懇意に御扶助なさったが、氏真は、

「近頃の都には歌や連歌、蹴鞠の朋友も多いし、退屈の慰みにもなるだろうか」

と京洛の方に徘徊し、今度は遊びに飽きてまた浜松に帰ってきた。

神君はなおも旧好を捨てなさらず、氏真は今は雲水に任せて浪々としているのを
このように懇意にもてなしなさり、天正7年(1579)10月9日、

浜松城へ氏真を御招きになり、善美を尽くして饗応なされた。御仁心ありがたき
ことなりと、氏真は申すまでもなく見聞きする者で感嘆しない者はいなかった。

――『改正三河後風土記(基業編年大成記)』



清見寺の膏薬

2018年07月07日 17:01

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/06(金) 21:44:23.21 ID:XoIoRDXe
清見寺の膏薬は、今川氏真の家臣が、駿河滅亡の後に剃髪して清見に庵を結んだのだが、
この者は膏薬を調合し、往来の人、在々の者に施して、その対価として銭、又は五穀を貰うことで
飢えをしのぎ身命を繋いでいた。

彼は里の童たちを誘い、薬草を集めると子供に頼って松脂を取り調合の手伝いをさせた。
このため、調合の方法まで子供たちは見習い、自分たちで調合し売り広めるように成った。
この由緒を以て、今でも清見の膏薬は子供の商売となっている。

この膏薬を作り始めた庵主は弟子に跡を譲り、この商売は次第に繁盛して、かつての庵は、今は
寺と成っている。

(渡邊幸庵對書)

こんな今川の遺臣のお話が



60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/06(金) 21:52:27.29 ID:1GYT3Z0c
今川旧臣による一大産業の創出。

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 00:53:45.30 ID:9OdgJgq+
清見寺かよく前を通るけどなそんなの知らんかった

朝夕樫の柄をこそ

2017年10月27日 17:04

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/27(金) 13:21:15.40 ID:QPdRFwSZ
織田信長の黒母衣衆に、伊藤武兵衛という者があった。
彼は坂井近盛という者を斬り尾張より退転し、駿河に亡命して今川氏真を頼った。
尾張からの牢人ということで、今川家の人々も彼を丁重に遇した。

ある時、乱舞の座において他の人々より「伊藤殿も何ぞ遊ばし候へ」と、座興を促されたが
彼は元より乱舞というものを知らぬため

「私は何も心得ませんので」

と断った。しかし「いやそう言われずに、何か一色」と更に促された。それでも
「今まで知らぬことであり、面目無いのですが、何も存じませんので。」

そういった所、座の若き者共、「この男、何も知らぬ」と嘲り、小鼓を彼に向かってころばして、
強いて所望した。
この様子を見て伊藤は、居直って言い放った

「私は若き頃より信長の脇に仕えて近国を従え、朝夕樫の柄(槍の柄)をこそ握っていたため、
穢多の皮を叩いた遊ぶ暇もなければ、知らぬなり!」

そして鼓を跳ね戻したが、かの若者達は

「いや、穢多の皮を叩く時は叩き、樫の柄を握るべき所で握る者こそ良いと言うべきだ」

そう言い、これに怒った伊藤が刀を抜こうとしたのを周りの人々が慌てて抑え止めさせた。

程なく、今川氏真は武田信玄のため駿河を退き、遠江掛川に籠った。ここを信玄と連携した
徳川家康が攻めた。
天王山の北に旗を立て、大須賀五郎左衛門、大久保七郎右衛門、松平周防守、土井豊後守らが
大手を攻め立てた時、城中には勇士多かったが、この時伊藤武兵衛が今川家の武士たちに言った

「穢多の皮の事承り及んでおりますが、畳の上では心安いでしょう。こういう時こそ少し叩いては如何か?
この武兵衛は信長の側にて習い置き樫の柄を握ってみせましょうぞ!」

そう申すと城より何度も打って出て、遂に討ち死にした。椋原次郎右衛門に討たれたという。
類少き勇者である。
しかし、もし彼に音曲の方の素養もあったなら、このように後まで心にかかることも無かっただろう。
であれば、知らぬというのは少し劣ることに似ているのではないだろうか。

(士談)



203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/27(金) 16:29:06.71 ID:xqOpkIKt
価値観が変わってしまっていることが窺えるな

人はただ、学ぶべきである

2017年09月15日 18:05

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/15(金) 17:36:03.52 ID:Uz3vy/o7
ある時、武田信玄はこのように言った

「人はただ、学ぶべきである。
学ぶと言っても読物ばかりではない。何事であっても習うことにより学ぶというのだ。
殊更弓矢の家に生まれた者は、心がけて一日一つ良き事を聞けば、十日には十聴き習い、
工夫分別して物の理に徹するならば、一文不通の人であっても、智者と呼ばれるであろう。

今川氏真は我が聟であり(原文ママ)、北条氏政はまさしく氏康の子である。
何れも物をよく書き、よく読み、短冊色紙に詩歌を記し、自作の文章もよくこなす。
しかし彼らは、当年既に二十五にして、弓矢のこと、武義の備えについて、何であっても
人の口に上る程度の話もないのは、最も文盲な者にも劣るといえる。

こういうことから考えるに、人々は学びというものに心得違いがあり、学ぶべきことを学ばず、
要らぬことを熱心に成し、結果家を失いなお下すに至るわけで、人々はそうならぬよう、慎むべきであろう。

(士談)

信玄が言うと色々複雑な気持ちになりますね。


今川家崩壊

2017年03月30日 18:03

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 03:58:40.21 ID:4eoO7xGb
12月(永禄11年)、武田信玄は駿河に出張し、当国の主・氏真の近親(瀬名信輝)や葛山(氏元)、
ならびに朝比奈右兵衛大夫(信置)が信玄に属した。氏真は一戦及ばず、遠江掛川へ退きなさった。

掛川城主・朝比奈備中守(泰朝)は氏真の臣下で遠江国の郡代であり、氏真を本城に引き入れて
籠城した。翌年春まで上下の人数に酒肴以下までも怠りなくもてなし、奇特であると言われたという。

その後、小田原に氏真が退きなさった時に連れ立った。氏康・氏政が言ったことには、「臣下として
主人の氏真を相抱えて籠城したこと、人臣の名誉である」との由で、懇志に致しなさったという。

遠江へも信玄より秋山伯耆守(虎繁)に伊那郡(信濃国)の人数を相添え遠江へ出軍させた。すると
山家三方衆(奥平・田峯菅沼・長篠菅沼氏)は信玄に属し、秋山に伴って遠江に出張したのであった。

引間の人数は三方ヶ原へ出て合戦し、三河の山家三方衆と合戦に及んで引間衆は敗北し、数多討ち
取られた。そうして引間衆は懇望して秋山に一味し、氏真は掛川へ籠城しなさった。その勢3千余。

家康はこの冬、遠江へ出張しなさった。同月、三浦右衛門大夫という人は氏真の取り分けての寵人
であったのだが、掛川へ籠ろうとしたところ、日頃から城主の朝比奈備中守と間柄が悪かったため、
城へ入らず馬伏塚を頼って行った。

ところが、かの地の主・小笠原美作守(氏興)は日頃の契盟を違えて右衛門大夫の首を切り家康公
へ献上した。翌年の春、小笠原は病死した。時の人口はもっぱらこれを憎んだ。

さてまた、駿府の氏真の居城には岡部次郎右衛門(正綱)が相籠ったので、残党はこれに従った。

――『当代記』



770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 12:44:17.38 ID:Q4RK4yIB
朝比奈泰朝は小田原で死んだのかな

高家今川氏先祖祝ひ之事付表高家品川氏之事

2017年01月15日 16:56

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 02:18:30.66 ID:NkP02+Hg
高家今川氏先祖祝ひ之事付表高家品川氏之事

 十月二十四日は高家今川氏の先祖祝いとして、今川の親戚が寄り合う祝儀がある。
予も招かれて会いに行った。
(注:当時の今川家の当主義用の嫡男・義順の正室は甲子夜話の作者の松浦静山の娘の機)

 その祝儀でとある話をした。
松浦静山「その先祖とは義元君ですか?」、
今川関係者「いやそうではありません。中頃の祖の某〔その名は忘れた〕です。」

 以下にその中興の祖の話として聞いたことを記す。
その祖は刑部大輔と称していたとか。
日光山の神号が初めは東照社と宣下あったので、
すぐに御使を奉じて上京し、朝廷と争議して遂に宮号を申し下したことがあった。
これに付き添いの林春斎〔林氏二代〕と一緒に遣わされていったという。
典故を引いた廷議は彼にとってはなはだ難しいことであったとか。
その勲賞として三河数ヶ所の地を賜り、春斎も禄が加えられたという。
これからこの人を今も中興の祖として祝うこととなった。
いずれにしても、今川衰微の時に労が有った祖先なので、
このように親族を招くのも理である。

 また今の表高家の中に品川氏がある。
〔この家は、元禄の頃は歴々たる高家であり、豊前守四位侍従であった。〕
かの日にも予は彼らと面会した。
この家は元々今川氏次男の家であった。
今川の祖は上の逸話のように寵遇があり、芝品川御殿山の地一円はかの屋敷であった。
その頃に品川氏の先祖がかの屋敷で出生したので上意で品川と称したのだとか。
ならば本氏は全くもって今川である。
よって家紋は、円の内に今川の家紋五七の花桐をつく。これも上意によるとか。
品川氏は先日も、この紋の小袖に肩衣は今川氏の紋である円に二引両をつけていた。


(甲子夜話続編)

これ、氏真の話ですよね。
中興の祖として子孫から敬われていたのですね。
しかし、ものすごく博学なのに氏真の名をしらない静山さん…

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 02:41:07.06 ID:NkP02+Hg
と、思ったら>>458でちゃんと名前を知っているね。ごめんなさい。



513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 03:23:47.53 ID:k/jsDdax
武将としては下の下だからな。偉大な義元の名を出すのが礼儀。

氏真の蹴鞠

2016年07月31日 19:30

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/31(日) 19:14:33.69 ID:dTisZ1jN
天正三年2月下旬、織田信長は岐阜を立ち、3月2日に上洛して、相国寺に滞在した。
同月16日、今川氏真が駿河より上洛して信長のもとに出仕し、千鳥の香炉、宗祇香炉などを進上した。

その後信長は、氏真が蹴鞠の上手であると聞き、蹴鞠の興行を行ってそれを見物した。
氏真に対し、三条大納言父子、烏丸殿、藤の宰相殿、飛鳥井殿父子、広橋殿、五辻殿、庭田殿といった
蹴鞠において名のある錚々たる人々が入れ替わり立ち変わり挑戦したが、氏真の足さばきは、
どこで区切りがあるのかすらわからないものであった。

(甫庵信長記)

今川氏真、信長の前で想像を絶する蹴鞠の実力を見せつけたらしい、というお話。



22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/31(日) 19:21:00.54 ID:Jt9IzM1X
この話読むたび、親の仇の前でよくやるなと思うが

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/31(日) 20:57:28.09 ID:yzm9L0zP
>>21 甫庵信長記ということは、信長公記にも原文の記載があるはず。ぐぐってみた。

3月16日、信長公のもとへ珍客が出仕した。
それは今川氏真殿であった。氏真殿は百端帆(香炉または何らかの宝物)
を持ってあらわれ、これを信長公へ進上した。なお氏真殿は以前にも
千鳥の香炉と宗祇の香炉を信長公へ進上しており、そのとき信長公は
千鳥の香炉のみ受け取って宗祇の香炉は返却してやっていた。
 会見の中で信長公は氏真殿が蹴鞠をよくすると聞き、見物を望んだ。
かくして3月20日相国寺内において蹴鞠が催され、信長公の見物するなか
氏真殿ほか三条殿父子・藤宰相殿父子・飛鳥井殿父子・広橋殿五辻殿・
庭田殿・烏丸殿が技芸を披露した。

甫庵やっぱり加筆してやがる。

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/01(月) 11:05:42.86 ID:as7OLeEf
>>23の中で、「会見の中で信長公は氏真殿が蹴鞠をよくすると聞き」とあるので、
氏真が自分から蹴鞠のことを宣伝したようだ。
だから、親の仇の前でやらされたのではなく、親の仇の前でパフォーマンスか
「戦では負けたが、信長よ、これがお前にできるか?。できまいて。本当は俺の勝ちだ」
ってか。

今川氏真の楽市令

2016年05月13日 18:03

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 14:31:29.91 ID:c/w+KYiQ
今川氏真の楽市令
「富士大宮で毎月6度開かれている六斎市において、
既得権益層(座)の押し買いや狼藉等の問題行動が横行し
市の運営に差し障りがあるとの申し出があったので、
今後は諸役を停止して楽市(誰でも商売しやすく)とすることを申し付ける。
また、近くの神田橋の通行料も停止させて、商人の通行もしやすくする。
もし違反する者がいたら訴え出なさい。」富士文書他

永禄九年に今川氏真が富士信忠(富士山本宮浅間大社の富士大宮司)宛に出した
この楽市令は、織田信長よりおよそ一年早く、信長も参考にしたと言われている。
さらに早く六角定頼が楽市を布いたという話もあるけれど、
ともかく今川氏真は義元ゆずりの名政治家だったのかもしれない。



619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 15:25:50.57 ID:kt7LzU2e
並以上の器量だったとしても、家康と信玄が同時に攻めて来たらな・・・
まあ、相手が悪かったよな氏真は

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 16:46:25.06 ID:oqTRUCOe
家を潰した、領地を失った=無能
という評価方法もそろそろ見直される頃合いかもしれんね

匂坂吉政の「思い切りのいい」お話

2016年03月25日 18:25

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/25(金) 16:34:22.16 ID:3HFhF8Id
桶狭間の敗戦により、今川氏は急速に衰えを見せ始め、いわゆる「三州錯乱」、
続いて「遠州惣劇」といった事態に陥る。当主氏真は必死に挽回をはかるが、
状況は悪化するばかりであった。

遠江匂坂城主匂坂長能は今川氏輝時代からの信任厚い武将であり、井伊・飯尾・
堀越・天野といった諸将が叛乱を起こす中、最後まで氏真のために働いていた。その
長能が永禄9年(1566年)に亡くなると、三男の六郎五郎吉政が後継者となる。

永禄11年(1568年)12月、遂に武田信玄による駿河侵攻が始まり、秋山虎繁の
率いる別働隊は伊奈を経て二俣に到達した。遠江の諸侍はこぞって参集し、帳面に
己の氏名を記入した。今川氏に忠義を立ててきた吉政も、ここが潮時と二俣に赴き
帳面に「匂坂ノ惣領ナリ」と書き記した。なお、二人の兄、政信・政通は混乱の中、
掛川城に篭城していたようである。

ところが、吉政が退出した後、兄政信の息子十左衛門政祐もまた秋山のもとにやって来た。
不審に思った吉政がこれを窺っていると…
政祐「匂坂の嫡流は某にございます。このことは遠江の者なら誰でも存じております!」
秋山「吉政が惣領ということで、本人もそう記しておったが…まあ信玄公にお執り成しする
    ことにしましょう」
これを知った吉政は城門のあたりで待ちうけ、色よい返事に上機嫌の政祐をたたき斬った!
その足で掛川城まで駆け行くとと、二人の兄を指差し「先に徳川につくからなあーッ!」と
叫びそのまま家康のもとへと遁走した。状況を包み隠さず家康に述べると、家康も喜んで
12月22日付で本領安堵の感状を出している。


匂坂吉政の「思い切りのいい」お話。

この後、姉川で三兄弟で真柄十郎左衛門と死闘を演ずるのですが、お兄ちゃんの政信、
心が広かったんだねえ…

なお、お兄ちゃんの度量はその孫には受け継がれず、政祐の遺児は吉政暗殺を企てる。
不穏を察知した家康は用心のため出仕を控えるよう吉政に命じたが、吉政は意に介さず
出仕を続けたため、結局鉄砲にて暗殺されたようです。



『今川の赤薬』

2015年05月12日 17:13

6 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/11(月) 19:23:16.44 ID:C/newK1P
こっちか

『今川家の赤薬』と言えば、世の中では急病に用いた場合効能の在る薬だと言われている。
この薬はそもそも、足利将軍光源院(足利義輝)の馬が患った時、乞食斎の僧が三条河原で
この馬を見て「たやすく治せる病なのに」と言っているのを、義輝が聞いて治療を望んだ所、
乞食が薬を用いると、たちまち患いは癒えた。

この時、義輝は一宮随巴という弓の師に言って、その薬法を学ばせ書き留めさせた。
そののち義輝が。永禄の変で斃れると、一宮随巴は駿河に下った。
駿河において、今川氏真は薬法などを面白がる人であったので、一宮は氏真にこれを教え、
そうして今川家の薬として世に広まったのである。

(明良洪範)



7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/12(火) 06:26:14.78 ID:VtUQjXB1
なぜ専門の医者ではなく、弓の師範の武士に学ばせたのか謎だ

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/12(火) 06:53:31.95 ID:5z1PL6WJ
すでに出家してるかもしれんじゃろ

武田信虎「信玄はよく分別して、この3ヶ国を取るように」

2015年05月09日 16:25

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 21:22:04.96 ID:HjLXgSyq
遠州掛川の円福寺にあった武田信虎は、信玄より遣わされた日向源藤斎にこのように言った。
「今川家は、ここ10年のうちにも滅亡するだろう。その仔細は、上方牢人の武藤という、武辺のことについては
仮初にも知らない、利得ばかりの役を今川義元から申し付けられた、半分町人、半分侍のような者が居るが、
その子が、生まれつき良き者であると、今川氏真の御座を直させる役につかせ、三浦右衛門(正俊)と名づけた。

そして今では氏真は、この三浦右衛門の言うがままと成り、霜月や極月にも、右衛門が所望ならば
踊りを七月のように踊らせ、また五月の菖蒲斬りを七月末まで叩き合わせ、能・猿楽、遊山、月見、花見、
歌、茶の湯、川漁、舟遊びにあけくれ、民百姓を虐待し、譜代の家老や今川一家の衆にも頭を上げさせない。
ことに、遠州の国人飯尾氏の跡目を望み、今川家において最も権威ある家老である朝比奈兵衛尉をも遮り、
地下も侍も氏真を恨むように成ったのは、みな三浦右衛門のせいである。

この三浦右衛門と言う人物は武士の義理を知らぬ者らしく、今川義元が手を付けた女子に、菊鶴という、
これは義元の近習・四宮右近の妹があったのだが、これを密かに妾にしたのが、義元が討ち死にした
年のうちであった。この事も右衛門を恐れて、氏真に知らせる者とてなかった。
しかしこういった事を、この信虎は氏真に申し聞かせたため、右衛門は私を憎み、彼のお気に入りである
名古屋の与七郎と言う者は、私を武田の強欲入道と名付けた。

これというのも、元は氏真の心得が悪いからである。氏真が23歳の時、父義元を織田信長に殺されて
はや4年になる。当年26歳に氏真は年令を重ねても、父の弔い合戦をするような心ばせは夢にも無い。
氏真も臆病というわけではない。しかし心掛けが無いため、西国において大内義隆、関東にては上杉憲政と
同類に数えられる。

特に、三河岡崎の城主で、今は家康と名乗っている者は当年22歳になるが、義元のお陰で岡崎に帰還したが、
氏真を見限り今川の敵である信長と入魂して、互いに起請文を交換し合い、信長に脅威があれば家康が助け、
家康に大事があれな信長ら助けるとし、既に家康の、当年5歳になる嫡男を聟に取ると約束した。
そして元康といったのを家康と改名し、4年前より三河国を切り取って廻った。

この事に対し今川家の重臣より抗議が寄せられたが、家康は
『今川の御恩にて岡崎に帰参致すこと、父広忠以来二代に渡り、少しでも今川家に対しぞんざいに思えば
御罰が当たります。このあたりでの取り合いは、所領の境問答があるからです。
信長と入魂したのは、彼の内実を見透かし、義元公の弔い合戦を氏真公がなされる時のためです。』
そう答えて家康は弟を人質に出した。
しかしその駿河の使いが山中あたりを行く自分に働き、氏真を主君として崇める者達を次々と切り従えたのを、
今川家の重臣達は重大事と考え氏真を諌めたが、家康のめのとである酒井雅楽助(正親か)という者の
工夫良き故か、成瀬藤五郎という口利きの上手い侍を一人、三浦右衛門の所に付け置いたことで、
氏真と家康の間も元のように回復した。

こんな状態なら、家康と信長の同盟により、三河、遠州、駿河3ヶ国は家康信長に取られ、結局
敵の方が今川家を滅ぼすであろうから、信玄はよく分別して、この3ヶ国を取るように。
ただ、舅であるから北条氏康今川氏真を助けるだろう、しかし氏康の子息氏政は、信玄の婿であるから、
そのあたりは信玄も定めて分別が有ると思う。こう、信玄に申せ。」

これに日向源藤斎は申し上げた
「信玄様は、万事において入念な方です。口上だけを以っては如何かと思います。信虎様の御一筆を
遣わされますように。」

しかし信虎
「文書で言うならその方を呼びはしない!大事の事は、絶対に書物にはせぬものだ。」

「であれば、信虎公の御判を一つ押して下さい。それをお目にかけ証拠とし、信虎公の奥意を申し上げます。
私は諸国へ御使に参りますが、どんな手立てにおける吉事であっても信玄公は、ふまえる所のない情報は
少しも信用なされません。」

そこで信虎は直判を日向源藤斎に渡した。次の日は日向は逗留し、翌19日、信虎は円福寺を立って上洛した。
それを見送ると、日向は二十日に掛川を立ったが、安倍川が増水していたため回り道をし、25日に甲府に付き
信玄に信虎の判を御目にかけ、件の事を申し上げた所、一切感心のないような表情で

「信虎公は老耄されたのだろう。皆いたずら事である。源藤斎はこの事、今後必ず取り沙汰してはならない。」
そう機嫌悪く言った。
(甲陽軍鑑)




767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/09(土) 10:01:41.22 ID:byQptwpE
本当今川氏真って最低なやつだなw

武田信虎と、駿河での子

2015年05月08日 18:55

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 19:40:16.96 ID:GDeBRSsV
永禄6年正月7日、遠州掛川の円福寺という、律宗の寺より一人の出家が甲府へと来た。
これに長坂長閑が付き添って、武田信玄公に申し上げた

「御父君である信虎公ですが、今川氏真公の御意に違いになり、この春のうちにも都に
御上りなされることに成りました。その事について、信玄公に仰せ渡したい事があります。
小身の侍のうち、信玄公が心やすく思われ、また何事にもしっかりと分別有る者を一人、
この僧と供に信虎公の元に寄越して頂きたいのです。」

そこで信玄公は、日向源藤斎を、正月13日に仰せ付け、その日に甲府を立たせて遠州掛川の
円福寺に向かわせた。
日向源藤斎は17日に掛川円福寺に到着。その夜に信虎公にお目にかかった。
信虎公は先ずこうに仰せに成った

日向源藤斎と名乗るお主は何者か?」

「私は日向大和の親類であります。信虎様が甲州から御牢人となられた26年前には、私は奉公もせず
日向大和に扶養されておりました。年齢も二十歳になっておりませんでした。
元来は、信濃が本国です。」

信虎公これを聞くと
「たとえ何者であっても、信玄が心安く思っているのならくるしからず。

私は信玄に出し抜かれこの体になり、45歳の時より当年まで26年の間、今川義元に扶持を受け、
今や70になってしまった。
義元が生きている間は。私も甲州に居た時と同じように待遇され、今川家の侍衆も、『御舅殿』と
崇めていたのだが、4年前の5月19日、義元が討ち死にすると、子息の氏真はこの信虎に祖父の待遇をしない。
よって去年の晴までは駿府にいたのだが、夏の間にこの円福寺に移ったのだ。

それから、私が牢人した次の年、駿府にて男子一人を持った。義元はこれも、小舅の待遇にしてくれ、
騎馬の者を20ばかり預け、武田上野守と名乗り、当年25になる。
この上野守が16の時に設けた子に、私が名を付けたが、信玄にあやかるようにと勝千代と付けた。
この子も、当年10歳となった。

この上野父子も駿府で過ごしていたが、私が円福寺に去年から移ると、三浦右衛門という今川氏真の出頭人が
遮って、上野父子は氏真から声もかけられない有り様で有る。

そこで信虎はこの3日の内に上洛し、都の辺りに居住するつもりである。
私は公家の菊亭晴季殿に、上野の妹で、当年19歳になるのを、義元が生きている時に祝言させたので、
菊亭殿は信虎の聟であり、これに頼って都に上る。
然れば、上野は信玄の弟であるから、この父子を懇ろに待遇するよう、信玄によくよく言うように。」

そう、日向源藤斎に仰せ付けになられた。

その夜半過ぎ、人々が皆寝静まった頃に、信虎公は日向源藤斎を召して言った
「私は信玄に対し恨みあるといえども、もはや過ぎて久しき事だ。また、信玄の方にも道理は萬々多かった。
あの当時は、良き上にも良くあるようにと思って、信玄に対し折檻したが、あれは皆、信虎の間違いであった。
なぜなら今や、信玄の誉れは名高く聞こえ、信濃を皆手に入れて、飛騨国、上野国までも一両年の間にに
治めるだろうという沙汰を聞く、信虎の喜びは、これに過ぎる事はないと、信玄に言ってほしい。」

源藤斎はこれに「かしこまりて候」と答えた。

(甲陽軍鑑)

武田信虎、駿河で作った子供を信玄に頼み込む、というお話。




757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 02:21:22.75 ID:Y5kEKSGr
武田の父子不和は遺伝的疾患かね?

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 06:25:36.51 ID:J2Y9jU6L
現代でも親たちの作った借金や制度に
子供たちが苦しんでるだろ

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 06:54:11.02 ID:Np3grdNi
親子不和なんて珍しくもないでしょ

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 09:05:54.45 ID:PWgJoWir
大塚家具とか

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 09:21:31.65 ID:ZLQ/3S+8
武田の父子不和は伝統芸やね

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:47:15.86 ID:aYn4wbvv
そもそも河内源氏自身が・・・・・・

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 10:58:02.50 ID:o4/pQzaX
あの世で新羅三郎も、子孫が身内で争ってることにこころを痛めただろうな

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 11:09:38.39 ID:Z/2crxAD
>>763
義綱「…」

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 11:47:54.68 ID:2EjhBKU2
家族でころころしあうのは源氏のお家芸みたいなもんやし

猿のような侍を氏真公は崇め敬ったので

2015年03月14日 16:13

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 05:19:06.27 ID:iuG8ON4R
 駿河の義元公は、過度に増長して信長に負け、討たれなさった後、
良き家臣衆は脇へ押しやられ、猿のような侍を氏真公は崇め敬ったので、諸侍は良い作法を失ってしまった。
厩別当の小身である三田村が、茶碗一つを三千貫で買ったのを、氏真公の側近衆がこれを観たがり、三田村茶碗と名づけた。
これを買うのは七度の槍働きより手柄であると褒めた。
これ皆作法の知らない猿のような侍が、身の程も知らず、大身衆や富裕者のような真似をして、堺の紹鴎が茶の湯を好んだためである。
(甲陽軍鑑)



今川氏真、不信爆発

2013年11月01日 19:00

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 20:02:56.32 ID:NiG3gLLp
永禄11年(1568)5月初め、武田信玄は駿河の今川氏真に使者を出し伝えた

『今川殿が所領されている、東三河を私に下されよ。
東三河は信州伊那より続いている地である。そこを私が持てば、氏真殿が以前から念願している
義元殿の弔い合戦をなされる場合でも、この信玄が加勢に出陣するのに活動しやすいからである。

ところで、昨今松平元康という興味深い人物が勢力を広げ、今川殿への恩を忘れ、
元康の元という字も投げ打って、そのかわり全く別な、徳川三河守家康となり、
三河国の大半を支配していると聞く。

その家康に取られるよりも、この信玄に進呈してはどうか?』

この書状の内容に、氏真は返答した

「信玄殿のお言葉、かたじけない。
しかしながら父義元の弔い合戦については、信玄殿をお頼み申すには及ばない。
良い時期を見てこの氏真自身で目的を達するつもりである。ことさら、氏真の敵である
織田信長と、信玄殿が縁者に成られた(永禄8年の武田勝頼と信長養女との婚姻)と聞いては、
信玄殿ももはや、半ば敵であると考えるものである。
そのため、東三河が例え家康に取られたとしても、信玄殿に進呈する気はない!

それに、家康など小身の者故、今年でも来年でも思うままに退治することが出来る。
しかし信玄殿に東三河を渡しては、その後遠州までも取られることに成るだろう。
その証拠に、あなたは我が今川家の所蔵である藤原定家の伊勢物語を、酒に酔ったふりをして
お取りになった。
我が父義元も、『信玄は謀略の才覚において恐るべき者だ』と仰っていた。

信玄殿は、この氏真との叔父甥の関係などもはや無視されよ。今後は書状の取り交わしも不要である!
あなたはこの頃も、家康の伯父である水野弥平大夫と親密であったそうではないか。
また、我が配下であった梶水彦介を甲府まで呼び、鉄砲10丁に甲府名物を添え、さらに木綿の布200反まで
与えて、『信玄が三河に進出すれば手を引くように』と言ったそうではないか!私はそれを
詳しく聞いている!」

実は去年の冬、氏真は水野弥平大夫を成敗した。その時、信玄が水野弥平大夫に出した多くの書状を
押収したのであった。

氏真はこの返書に、水野弥平大夫から押収した書状を添えて信玄に返した。
このため、今川と武田の関係は更に悪化した。

(甲陽軍鑑)

今川氏真、信玄への不信を爆発させる、というお話である。




626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 22:32:37.58 ID:DhARhHe+
甲府名物がちょっと気になる

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/01(金) 00:17:39.23 ID:JFcFpmTh
まあ領土割譲しろなんて要求に対しちゃ、本人の置かれてた状況はともかく当然の反応だわな
甲府名物は多分あれだよ、黒川とか湯之奥からの産地直送の材料を使った山吹色のお菓子なんじゃないかな

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/01(金) 13:25:19.27 ID:cSGgquSp
>あなたは我が今川家の所蔵である藤原定家の伊勢物語を、酒に酔ったふりをして
お取りになった。

信玄が自らパクったって読めるんですが…え?

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/01(金) 18:40:16.19 ID:5XK1ent5
いや、普通に信用しちゃあかんだろう。あの真田パパンの師匠だぞ。信用するほうがどうかしてるw

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 10:05:06.86 ID:XrwX/CnJ
ところで武田家って今川・北条・織田・徳川と同盟相手を裏切ってるけど
同盟相手から裏切られた事ってあるのかな?

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 10:17:47.28 ID:O1BToJTb
>>630
武田側から見ると今川も北条も織田も徳川も、先に相手が武田に対して裏切り行為をしていることに成ってる

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 10:25:24.32 ID:Av2fqQ3E
アホの氏真にも五分の魂があったかw お屋形さまに攻められて一瞬で今川が瓦解した時どんな顔してたんだろうな

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 20:14:04.80 ID:1B/uX1D2
>>630
対織田の時は、両属状態の遠山を取り込んだ信長が原因じゃないかなぁ
対北条は原因作ったのは信玄だけど、手切れにしたのは北条だし

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 20:54:22.97 ID:JzdkwTEZ
>>632
氏真の記録はそこそこ残ってるけど一般の人のイメージはバカ殿で気の毒だと思う
軍事はともかく内政関連は優秀なほうなのにね

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 21:01:23.78 ID:7g70p10d
信長の対信玄イメージもちょっと気の毒だな
同盟破棄して攻め込んできたので迎え撃つ準備して待ち構えてたら信玄病死で撤退
後の流れが「信玄が生きてるときは手も足も出なかったくせに…」になってしまった

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 22:19:45.60 ID:h0b2577Z
待ち構えるも何も、あの頃の信長って周りじゅう敵だらけの上、内応者も相当いただろう。
そんな状況の中、三方原直後に信長と信玄が野戦してたら、
まず間違いなく信玄が勝ったと思うがw

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 22:58:59.92 ID:1B/uX1D2
信長の所へたどり着くまで1年以上かかりそうだがなぁ

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/03(日) 01:40:00.94 ID:YVkFNXzE
徳川から人質とって東美濃で信長と信玄が戦に及ぶ
織田軍が敗北すれば反信長軍が勢いを増しさらに各地で蜂起するから早々に瓦解するね

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/03(日) 01:58:29.59 ID:J/fD+e5Z
信長が本気だしたら最低でも6万は兵力集められるし
万に一つも信玄に勝ち目ないだろ

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/03(日) 02:07:11.05 ID:qmOoGxEd
史実の信玄上洛でももちろん本気でしたが

今川氏真「だまされ仕まじ」

2013年04月22日 19:50

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:24:45.22 ID:cte9qme1
永禄12年(1569)、今川氏真は掛川城を逃れ、小田原の北条氏の元に亡命した。
武田信玄は小田原に氏真がいることは自らの行動にとって邪魔だと考え、彼を追い出す策略を立てた。

小田原の氏真の元に、とある町人が訪れ密かに申し上げた
「今度甲州から原隼人が信玄の使者として小田原を訪れ、氏真様に腹を斬らせることについて、
北条側と内談を行い、その後内藤修理が派遣され、氏真様に腹を斬らせる、という事が決まったそうです。」

この言葉を氏真は恐れた。するとその話を聞いてからまもなく、甲州より原隼人が使いとして小田原を訪れ、
これに心もとなく思っていたが、重ねて内藤修理が訪れるとの情報を聞いた。

これは町人の言うことに間違いはないと考え、氏真は小田原から船で逃亡した。
無論、町人も含めて信玄の謀略である。氏真はまんまと騙されたわけである。

さて、船で逃亡する途中、風が悪かったために遠江国浜松に吹き留まり、下十連時にて10日ばかり
逗留した。困り果て仕方なく、徳川家康に使いを出し

『私は伊勢まで所要によって参る所に、風向きが悪いため船で進むことが困難になりました。
そこで陸路を使いたいので、伝馬や人足を使わして頂きたい。』

と申し込んだ。家康は「昔のよしみである。仕方がない」と、望みどおりに人馬を遣わし、その上で
「暫くご逗留あるように」と、様々に饗した。
氏真は小田原出奔以来、たいへん心許なく思っていたのだが、この様子に安堵し、遠州にゆるゆると
逗留した。

そのうちに家康から信長へもこの事の報告があり、信長からも
「どうかいつまでも御逗留あるように。後々には駿河に帰参と言うこともあるでしょう。」
と、懇ろな言葉をかけられ、これは幸いなことであると考えて、さらに緩々と逗留を続けた。

ある時上方の方へ参ったが、ここでは相国寺に滞在し、公家衆などと歌会などを行い、また
蹴鞠などをして過ごしていた所、信長がこのことを聞いて、こちらに来て蹴鞠をして欲しいと
所望された。信長は氏真の蹴鞠の様子を緩々と見物され、その上で振る舞いの用意があり、
信長自身の出で馳走もされた。

長篠の合戦の時も信長に同道し、誰かの手に居たそうである。
その後、武田勝頼が滅亡したため、氏真は信長に対し

『初めに言われたように、駿河を氏真に遣わして頂きたい。』

と申し遣わした所、

「あの頃とは違い、今や何の役にも立たない氏真に、どうして駿河を与えなければならないのか!?
要らぬ人間を生かして置いておくなど無駄な事だ!あいつに腹を斬らせろ!」

と、激怒して命じた。氏真はこれを聞いて驚き、直ぐ様どこかに逃亡した。

そうしている内に、信長が切腹したという話が伝わってきた。本能寺の変である。
しかしこれを聞いた氏真は

「信長が私に腹を斬らせるために、このような虚報を流したのだ。騙されはしないぞ!
こんな真似をしなくても腹を斬れというのなら、私は尋常に斬る!」

と言ったそうである。
(内々信長より腹を切せらるべき気遣の所に是を聞て、だまされ仕まじ、腹をきれとの
事ならば尋常にきるべしと被申よし)
(紀伊國物語)




332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:29:40.27 ID:buMIUTJM
氏真のゆるキャラぶり

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:34:17.69 ID:8ZPr5FF9
甲相駿三国同盟による政略結婚で唯一最期まで夫婦連れ添った氏真と早川殿

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:38:27.81 ID:86cNlbDF
親の敵の前で蹴鞠とか
誰か止めてやれよ、といつも思う

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:39:59.82 ID:x/ofBZEZ
生き恥さらせば長生きだけはできるってことか

武士じゃねぇわw

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:46:23.49 ID:xVTYET0X
泥水啜ってでもきのこる!ってのもそれもまた武士だと思うがここまでくればあかんわなw・・・開き直って戦場で槍働きでもすれば一国は無理でも村一個はいけるんじゃないか?とりあえず1対1なら負けないとは思うし

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:51:01.94 ID:q0Uxl8Mt
TERU「これ以上こっち来るな。こっちだって逃げ出したいんだから。」

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:23:13.29 ID:7GMytiRI
ピンチはあったものの、楽しげに長生きできたんならいいじゃないか

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:27:58.02 ID:spFTitzx
>>334
まあ親父は自分から攻め込んで討ち取られたから仕方ない
これで恨んでたら、とんだ逆恨み野郎だ

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:54:26.77 ID:spFTitzx
あ、なんか的外れなこと言ってしまったな
敵に反応してしまったが、恨んでるとかそんな話じゃないなスマン

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:58:52.12 ID:PZe0+X17
慈善事業で戦国やってんじゃないってことだ
手柄もないやつに国をやるわきゃない まして国を滅ぼして生き恥さらすぼんくらを

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 22:03:49.29 ID:pzslSECG
言われてみると氏真は、武田は結構恨んでそうだけど織田や徳川はたいして恨んでないよな

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 22:11:01.22 ID:PZe0+X17
親父のこと一番恨んでそうw

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 22:19:21.97 ID:8ZPr5FF9
>>343
テル「親父が若死にするから叔父さんに折檻されたお」

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 22:46:48.69 ID:pOlXsqRu
相手が悪かっただけで氏真は頑張ってたほうだと思うんだよなあ

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 22:53:01.21 ID:PZe0+X17
裏切り者家康め!滅ぼしてやるぅ! 

数年後 
蹴鞠蹴るから雇ってください… 

なぜなのか?

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:07:37.57 ID:pzslSECG
氏真は周囲からカモだと思われたせいで寄ってたかって潰された印象

しかしいざ戦国時代が終わってみれば、武田は味方裏切りまくり一族死にまくりで滅亡、
一方信玄がカモってた氏真は家が潰れた後も人望あったうえに夫婦円満で
さらに高家になったあげく孫が出世しまくるのを見ながら畳の上で天寿全うしたとか
信玄に教えたらどういう顔をするだろうか

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:13:05.29 ID:pzslSECG
ああ、氏真は孫が出世しまくってる頃にはもうあの世か・・・
正しくは「順調に成長していくのを見ながら」だな

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:15:29.32 ID:0GbOcKHp
後世にバカとして語り継がれる今川を笑うだろう

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:18:39.13 ID:Q4fmg1Fn
捨扶持で生きながらえて羨ましがられるかねぇ

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:23:05.77 ID:0GbOcKHp
今川の子孫とかいてもバカにされるだろうし
詐称する価値もないか

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:45:43.97 ID:QzCm68ap
幕府滅んで早々に断絶してたような

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 02:21:02.65 ID:Q9n2j4T6
武田を追い出したら駿河に復帰ってのは、氏真が掛川城を開城したときの条件だっけか

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 12:24:32.14 ID:RtZQFnNI
子孫って年末に討ち取られてるアレだっけ?

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 17:32:05.35 ID:VGnTz/Tr
武田の子孫だって高家だろ

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 16:09:29.49 ID:WvFxLpzM
>>354
年末に打ち取られる吉良って今川の本家筋だっけ

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 16:17:18.23 ID:TtJMyvBm
本家筋で今川義元の子孫>吉良義央
しかしなぜか浅野内匠頭や義士たちは
今川義元の供養のために建てられた泉岳寺に埋葬されている

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 20:46:13.96 ID:mQIJTpyV
権現様も結構いい人なんだな、
桜田門の目と鼻の先に義元公の供養の寺を立てるなんて・・。
三河物語なんかではボロクソだが案外、竹千代&岡崎衆は優遇されていたのじゃまいか?

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:10:07.79 ID:iT1uOT/c
>>369
人間は幼少の頃に嫌な思い出があった地には近づきたがらないんだってさ
駿府は家康の自由意志で終の棲家に選んだくらいだから、
苦労はしてても辛い思いはしてなかったんじゃないかな

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:23:23.81 ID:7RO21V+k
>>369
時代的には彦左が物心つく前の話だし、三河物語のあの辺は一次史料とも
食い違ってる事が多いから、創作程度におもっといた方が良いのかも

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:49:21.77 ID:3mSfHB9G
そもそも面倒くさい人だから事実を知っていたとしてもそれを素直に解釈している保証は無い

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:56:38.87 ID:TC7QpK/b
まあ史実と言うよりも、当時未だ名誉回復がなされていなかった大久保家の正当性を訴えるのが目的の著作だからなあ>三河物語

武田信玄という人は、むごい事をするものだ

2013年04月20日 20:47

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 10:54:27.13 ID:MiYgLxA0
今川氏真は今川より離脱した徳川家康を退治しようと武田信玄を頼り、以下の様な作戦を提案した。

曰く『信玄は信州から美濃三河の国境を超えて信長を食い止めてほしい。その上で、伊那から進出先に兵糧を
送れるよう、兵糧五百俵を遣わし置くので、兵站に関しては安心して頂きたい。』

これを信玄は了解したが、それはあくまで表向きのことであり、有り体に言えば氏真を騙したのだ。
信玄はその計画を聞いて、そんなことが可能なわけがないと直ぐに察した。そして片腹痛く思い、徳川家康に、
下條弾正を使いとして、この氏真との内談を、ありのままに知らせたのである。その上で

『この件についてあなたは少しも気遣いすることはない。もし氏真が出馬するようなことがあれば、却って私が
氏真を滅亡させるだろう。』

と伝えた。

これを聞いた家康は
武田信玄という人は、むごい事をするものだ。」

と仰ったが、暫く後に
「いや、ああ言うふうにもしなければ、出来ないことも有るのだ。」
と言われたそうである。

(紀伊國物語)




326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 11:13:11.00 ID:eHTocj+V
信玄様ったら… 僕うれちい(*´艸`*) by家康心の俳句

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/20(土) 19:19:19.22 ID:a6Uithnu
氏真「家康退治をしようと信玄と密約を交わしたら信玄が攻めてきた・・・な・・・何を言ってるのかわからねーと思うが(ry」

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 11:50:50.94 ID:5VvJ7paZ
負けたナッパを吹っ飛ばすベジータと同じ心理

堀越は思慮のない人であったので

2013年01月09日 19:55

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 17:48:49.36 ID:y6KLxx1F
武田信虎の策謀は失敗に終わったが(>>73)この時、武田信玄は堀越六郎に、

堀越六郎は今川家の一門であり了俊の家筋なのだから、早く謀叛を起こして
駿河を攻め取りなさい。こちらも手を合わせて人数を出し両方より攻め寄せよう。
御舘を其の方に遣わし、今川の家督も継がせようぞ」と偽りを言って扇動した。

これを受けた堀越は思慮のない人であったので引間の飯尾豊前守を
味方に付けて永禄六年に逆心を起こし、近辺の地侍をも勧誘した。

今川氏真はこれを知るとすぐさま出陣し、飯尾方には新野左馬介と
朝比奈備中守を、堀越方には匂坂六右衛門や三浦左衛門尉らを差し向けた。

堀越も飯尾も防戦叶わず自害して果て、残党は尽く討ち取られて城は
火をかけられ焼失した。しかしその一方で、今川方も新野左馬介が討死した。

――『今川家譜、今川記』




80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 20:03:11.86 ID:VHv98zS/
義元死後の氏真の袋叩きっぷりは本当に哀れだと思う

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 20:18:36.30 ID:9+Ft+XXI
素人意見で申し訳ないけど、そう考えると
やっぱり義元(と太原雪斎)は優秀だったんだろうね

82 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/01/09(水) 21:31:30.27 ID:gwrWpT+j
一度弱みを見せると、周りが一斉に群がってくる
世の中って常にそういうものなのよね

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 21:50:55.34 ID:8vj25gK7
特に戦国なんて弱肉強食の野生の王国だからなあ

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 22:28:24.07 ID:GH3fM1xL
この謀反に対する氏真の速攻果断ぶりと、
桶狭間直後の対応との差がどうにも解せないんだよなぁ。
それだけ義元に頼ってたってことなのか?

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 22:36:44.49 ID:swr7NiEg
今川家の立地がすごいからな北に武田東に北条と大国ばかり
史実の義元のように西に向かうしかないだろうな

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 23:00:16.74 ID:VfpkpcN/
>>84
桶狭間で重臣もまとめて死んでるからね。
家内の秩序をまず建てなおさないと復讐戦どころじゃなかったのは当たり前。
ところが、一族を嫁にもらってる松平がいきなり寝返るし。

今川にとっての松平って、武田にとっての木曽だよね。

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 23:04:15.60 ID:8vj25gK7
>>86
つーか松平は対織田の最前線なんだから、義元の敵討ちまで行かなくても、最低でも援軍出してもらわないと
自分たちが持たないんだけど。実際に家康と織田との戦いは継続されている。
だから家康は何度も何度も氏実に軍の派遣を要請してるのに、なしのつぶてじゃ、そりゃ見限るしか無いわな。

氏実はこれにかぎらず、自分の都合でしか周りをみなさすぎる。

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/10(木) 01:01:05.50 ID:JG6tkxw5
その辺の対応の悪さで家中が混乱してる事が露呈して、
周辺にヒャッハーカモだーと思われたんだろうな

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/10(木) 06:05:07.33 ID:XacCXBzr
当主が頓死したときの権力継承は難しそう

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/10(木) 06:49:37.90 ID:lUVkXVMV
龍造寺鍋島の事情の如何に特異なことかよくわかるわ

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/10(木) 07:15:38.96 ID:R2+Mr6TH
>>84
謙信が大挙して関東を襲ったので、北条に援軍を出してて
身動きが取れない状況。

翌年には小田原も囲まれるような状況で、尾張へ侵攻する
ような余裕が無かった。

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/10(木) 13:37:44.75 ID:Wpyf2j0J
>90、九州のクマーのところは戦闘民族に四天王五人狩られてなかったっけ?どっちがキツイんだろうな?

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/10(木) 14:44:58.72 ID:lUVkXVMV
四天王つったって別にそんな大身てわけでもなくないかね

武田信虎、駿河追放

2013年01月08日 19:54

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/08(火) 18:10:26.54 ID:0hE/5ubr
今川義元の不慮の死によって諸人の心もまちまちになっていた頃、
義元の舅・武田信虎は謀叛を起こして駿河を取ろうと目論むも、
望み薄であった。

そこで今川の一門衆、国人をそそのかし、子息信玄へ引き付けて
信玄に駿河を取らせようと謀った。

ところが、この事がたちまちに露見して信虎は駿河より追放となり、
上方へ牢人することになった。

――『今川家譜』




76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 11:08:49.48 ID:sZfwjdbG
>>73
晴信「チッ、本当に使えねえ親父だ。」

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 12:39:43.58 ID:tR7TIoDh
信虎の願いは帰郷だからな
謀反の旗頭を膝元に置くわけにはいかねえ
老人とはいえ黒官みてえに油断ならぬ武人

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/09(水) 14:47:58.58 ID:3aNpmInH
>>76
四郎某「だな、親父がアレだと子が苦労するわ・・・」