これよりしてこそ、信長公の名誉は

2017年03月19日 15:44

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/19(日) 03:49:08.21 ID:WspcWOTG
今川義元の討死により、)残る敵どもはどうして少しでも溜まることであろうか、総軍一度に敗北して、
四角八方へ崩れ立ち、後から逃げる味方をも敵が追ってくるぞと見損じて逃げ散るところを、

ここに押し詰め、あそこに追い詰め、思うままに討ち取った。さてもこの合戦の場“桶狭間”というところ
は山の狭間、深田の辺りで高み低みも打ち茂り、足場はどこも難所なので、逃げ行く者どもはいっそうに
途方を失い、ことごとく討ち取られた。

味方の若者ども(織田勢)は追いつき追いつき、首を2つ3つずつ討ち取って、信長公の御前へ参った
ところ、首はみな清洲で御実検なさるとして義元の首だけを御一覧なさり、御馬の先にその首をもたせ、
勝鬨を作り、これより敵を追い捨てて、早々にその日の申の刻に清洲を目指して御凱陣なさった。

山田新右衛門という者は本国駿河の者で、義元懇志の侍であるが、はるばる後陣にいたところで義元の
討死と聞き、馬を速めて桶狭間に馳せ来たり、「まことに命は義によって軽し!」と言い捨てて、義元の
討死の跡で一足も引かずに討死した。

この他、遠江二俣の城主・松井五郎八郎宗信を始め一党2百余人、伊井肥後守、笠原等が一所で討死
した。三河勢は松平善兵衛が棒山で討死した。松平摂津守、同兵部、同次右衛門は所々での討死である。
松平上野介は大高の城から元康の使いに来て本陣にいたが、義元と一所で討死した。

駿河勢には、江馬左京助、由比美作、石河新左衛門、関口越中、斎藤掃部、庵原右近、同勝次郎、
朝比奈主計、西江、内藤、富塚修理進、温井蔵人、富永伯耆守、牟礼主水、四宮右衛門、伊井信濃を
始めとして、駿遠参州の兵どもは数を尽くして討死した。

清洲の城で首帳が記されたところ、その数は2千5百であったということである。また3千ともいう説もある。
これよりしてこそ、信長公の名誉は天下に聞こえたのである。

――『織田軍記(総見記)』
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桶狭間の戦いの時

2017年03月05日 18:35

697 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 02:56:50.58 ID:yOjylQgb
(桶狭間の戦いの時、)さて、信長公が「今日の合戦は首を取るべからず! 打ち捨て
にするべし! この戦場へ出た者は家の面目、末代の高名であるぞ!」と、諸勢を
勇めて攻め掛かりなさると、

先駆けの前田犬千代(利家)生年18歳、毛利河内(秀頼)、森十助、木下雅楽助、
中川金右衛門、佐久間弥太郎、森小介、安食弥太郎、魚住隼人などが高名をなし、
手に手に首を持って来た。

信長公は御感あって、「皆々旗を巻き、忍びやかに山際まで押し付け、敵勢の後ろの
山を押し廻り、義元の本陣に打って掛かれ」と下知しなさった。この時、簗田出羽守
が申し上げるには、

「敵は今朝鷲津・丸根の両城を攻めてから未だ備えを変えていないはず。この分にて
攻め掛かりなされば、敵の後陣は先陣となりましょう。只今、この口より突き掛かって、
差し向かいなされば、必ず大将・義元を討ち取ることでしょう!」

とのことで、これは甚だ御心に叶うと信長公は御満足なされた。さて、忍んで山際を
御廻りなさると、にわかに急雨が降り、石などを投げる如く敵の顔へ風が吹きかけた。

敵にとっては逆風、味方には後ろから吹く風である。余りに強い雨風で、沓掛の山の
上に生えている、二峡三峡の松の木や楠の木なども吹き倒すほどである。

「これは只事ではない。熱田大明神の神戦、神風か」などと、言うほどであったので、
味方の大勢が廻り来る物音は、少しも敵には聞こえなかった。

698 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 02:59:19.28 ID:yOjylQgb
かくて雨の晴れ間を御覧になり、晴天になると等しく、信長公は槍を押っ取り真っ先に
御進みになり、「掛かれ掛かれ!」と大声をあげて下知しなさるところを、森三左衛門
(可成)が申し上げて、

「味方が下り立ち攻め掛かれば、敵はきっと備えるでしょう。ただこのまま馬を入れて
乗り崩しなされ!」と言い、信長公はもっともであるとして、

毛利新助(良勝)、林佐渡守(秀貞)、織田造酒丞(信房)、簗田出羽守、中条小一郎
(家忠)、遠山甚太郎、同河内守等が、大将に打ち続いて一度に馬をどっと入れ、

その勢いは勇みに勇んで黒煙を立てて駆け破れば、敵陣は思いも寄らぬところへ、
にわかに攻め掛かられ、心ならずも後ろへさっと崩れてしまった。敵どもはあまりに
慌て騒ぎ、喧嘩かと言う人もあれば、謀反人や裏切りかと思う人もいた。

取り捨てられた弓や槍、鉄砲、旗指物は算を乱すに他ならない。なかでも、義元の乗り
なさっていた塗り輿を捨て置いた。信長公はこれを御覧になり、「敵の本陣に疑いなし!
ますます追い詰めよ!」と、同未の刻、東へ向けて追い掛けなさった。

初めは3百ばかりの敵が義元を囲んで退いたのだが、繰り返し繰り返し追い付かれて
2,3度、4,5度取って返しては討死し、次第に次第に薄くなった。後にはようやく50騎
だけが取って返して戦っていたところへ、

信長公を初めとして皆々が馬から下り立ち、若武者は互いに先を争い、しのぎを削って
鍔を破り、切っ先からは火炎を出して散々に戦う内に、手負いや死人は数知れず。

今川義元は無双の勇者であり、なおここまでも騒がずに諸勢を下知しておられたところ、
織田方の服部小平太(一忠)が槍で義元を突き通した。義元は太刀を抜いて小平太の
膝の口を一刀で切り割きなさった。

小平太は尻もちをついて切り付けられ、起き上がることが難しいところを、毛利新助が
やって来て隙間なく切って掛かり、義元の首を取ろうとした。義元は組み伏せられ、

すでに、刀で切ることも叶いなさらず、新助の人差し指に、がばと噛み付き、ついにその
指を食い切りなさった。新助はもとより強かな者なので指を食い切られながらも押し付け、
義元の首を取った。義元はこの年、42歳であった。

――『織田軍記(総見記)』



699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 09:10:55.55 ID:C2X6WTSC
今日の大河のネタバレされた…
まさか先週あんなに勝ち誇っていた今川義元
桶狭間で殺されるなんて…


703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 21:47:41.55 ID:/43BOv/l
    ___________
   /|:: ┌──────┐ ::|
  /.  |:: |  今川義元  | ::|   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  |…. |:: |2万5千で上洛| ::|   | よし、決まったな!風呂にでも入るか
  |…. |:: |          | ::|   \_ ______
  |…. |:: └──────┘ ::|      ∨
  \_|    ┌────┐   .|     ∧∧
      ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ∬  (  _)
             / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄旦 ̄(_,   )
           /             \
           | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|、_)
             ̄| ̄| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄

   ~30分後~
     ___________
   /|:: ┌──────┐ ::|
  /.  |:: |  桶狭間で  | ::|   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  |…. |:: |義元討ち死に| ::|   | ふう、いい湯だった…アレ?
  |…. |:: |          | ::|   \_ ______
  |…. |:: └──────┘ ::|      ∨
  \_|    ┌────┐   .|     ∧∧
      ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄     (  _)
             / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄旦 ̄(_,   )
           /             \
           | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|、_)
             ̄| ̄| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄ 


まず尾張を攻め平らげて攻め上らん

2017年03月05日 18:31

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 02:53:36.53 ID:yOjylQgb
永禄3年の夏の頃、今川治部大輔源義元は駿河・三河・遠江の大軍を引き連れ、
天下一統のために東海道を上洛するので、まず尾張を攻め平らげて攻め上らん
と企てなさった。

(中略)

さて信長公の御軍謀は、敵の先手の大軍を皆本道へやり過して、当方の御人数
はひそかに山の陰を隠れて廻り行き、義元の本陣へ一同にどっと突き掛かって、
切り崩さんとの御謀であった。

義元はこれを知らずに赤地の錦の鎧直垂、胸白の具足を身に着け、松倉郷の刀、
大左文字の太刀を帯びて、先手の者どもが鷲津・丸根の両城を攻め落としたのを
大いに喜び、桶狭間の山下の芝原に敷皮をしかせ、義元はそれに座し休んで、

勇み誇っていたところへ、近郷の寺社の僧社人などが喜びの樽を進上したので、
すぐにそれで酒宴を初め、謡をうたい、 興に入っておられた。

熱田表には織田方の先陣、佐々隼人(政次)、千秋四郎(季忠)などが人数2百
ばかりで信長公の御旗を待ち受けて、山際に控えていた駿河勢へ打って掛かり、
佐々、千秋は小勢なので取り囲まれて50余人が討ち取られ、

駿河勢は勝ち誇って隼人、四郎両将の首を取って槍の先に高く持ち上げ、一度に
どっと鬨を作った。そればかりでなく、信長公の寵臣・岩室長門守も抜け駆けして
討ち取られた。佐々、千秋、岩室3人の首を本陣へ遣わし、

義元に見せ奉ると、義元はますます勇み誇り、「それがしの矛先には、いかなる
天魔鬼神であろうとも、溜まるまい!」とのたまい、なおも勝ち戦に驕りを極めて、
酒宴にふけっておられた。

――『織田軍記(総見記)』



643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 05:13:29.81 ID:q0qI5IAz
長門が死んでるw

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 09:11:26.90 ID:xAM+rR9g
ザルすぎる防衛網

“公方絶ゆれば吉良継ぎ、吉良絶ゆれば今川継ぐ”

2017年03月02日 18:56

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/02(木) 02:45:07.35 ID:Erhdus88
心省よりこの方、(今川家は)代々公方家の族臣として、武功の将種であるが故に世々
公方の御懇志を受け、戦国の最中にも世を奪われず威勢は甚だ盛んなので、

武恩に誇るのみならず、弓馬の道は言うに及ばず、和歌、連歌、蹴鞠、茶湯の事までも
この家には名人が多く、その家風は他より優れて、代々器量の臣下は少なくない。古き
高家であればこそである。

それ故、世俗の諺にも、“公方絶ゆれば吉良継ぎ、吉良絶ゆれば今川継ぐ”と言われて
いるのである。もっとも、さもあらんことではなかろうか。

心省入道より七代の後胤・今川五郎氏親、後には上総介と号す。氏親は先祖に劣らぬ
名将であって、戦国の時代に巡り逢い、駿河・遠江2ヵ国を領知して、

三河国をも大半は切り従え、あまつさえ戦国の世の一統を志し、公方家を再興せんが
ために、上洛の望みを持っていた。尾張の守護代・織田一党は主君・武衛(斯波義達。
左兵衛佐)の命を受けて今川に敵対し、三河を争い、合戦に年月を送るところで、

氏親はいつしか病死した。増善寺というのがこれである。その子・氏輝は早世した。
臨済寺がこれである。氏輝は実子がいなかったので、その弟の禅僧で、善徳寺に
いたのを還俗させて家督を継がせ、これを今川治部大輔義元と号す。

義元はよく父の志を継ぎ、よく父のことを述べ、文武に達した名将なので、なんとしても
三河・尾張の両国を切り従え、上洛せんと心掛けていたところ、三河岡崎の城主・松平
三郎清康は、幸い今川の味方となって尾張へ向かって敵対し、たびたび合戦に及ぶ
ことがあった。

ついに天文4年乙未12月、清康は大軍を率いなさり、織田筑前守が籠る尾張森山の
城を攻めなさった時、清康はにわかに卒去なされたので、たちまち三河の諸勢は森山
を退陣して、分国へ引き返した。その折、尾張の将・織田備後守信秀は、

筑前守の急を救い、かつまた、先君・武衛を助けて三河を治めようと自身で8千の人数
を率い、三河伊田の郷まで相働き一戦を遂げ、青山、植村、林、高力父子を討ち取った。

――『織田軍記(総見記)』



688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/02(木) 02:59:26.81 ID:Q1IiyxCV
当時の織田家に8000も動員できたんか

今川義元。足みじかく。胴ながく

2017年02月27日 18:29

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 20:47:37.65 ID:izwNANYm
今川義元は足が短く、胴は長く、片端であるとして臨済寺の喝食に致し
置かれたけれども、大将の器量ありとして取り立てられたという。

今川義元。足みじかく。胴ながく片輪なりとて。臨濟寺の喝食にいたし
置かれたれども。大將の器量ありとて。取立られし由。)

――『武功雑記』



618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 20:53:26.09 ID:j+Q6XpeV
胴長短足のほうが馬上では見栄えが良かったんじゃなかったっけ

たぶん輿に乗っててもカッコついたんだろう

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 21:29:21.37 ID:lnr7vVWg
義元公が輿に乗っていたのは足が短いからじゃない
駿河遠江三河の太守としての格式から乗っていただけ
肥満で馬に乗れなかったのは肥前のクマもん

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 22:18:04.90 ID:qZOgaZXR
雷神さん「輿に乗って戦場往来とか名将ぽくね?」

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 22:29:28.79 ID:lnr7vVWg
輿に乗って采配をふるい戦場を縦横無尽に駆け巡るとか実際に見てみたいわ
男塾の民明書房に騎馬戦の起源であるとか書かれてそうw

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 03:06:00.05 ID:1AOZFTBW
「ワシは輿を大っぴらに使うことを許されてる身分なのだ。格下ども控えおろう」
というデモンストレーションなんだろうけど、小回りが利かなかったから緊急脱出できなかったんだろうな

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 04:41:45.64 ID:cCpF6CPC
>>620
瘡頭「ですよねー」

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 07:32:58.92 ID:JdNMgBd3
>>618
短足だと馬の腹が蹴れないのでは?

これが武道の眼つよみ第一

2017年02月20日 15:54

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/20(月) 07:32:55.54 ID:T9Gd58Ub
 尾州大高の城に権現様がございました時に、
水野下野守方から、
今川義元が殺されましたので、早々に大高の城を御引取りください。」
と報告しに来ました。

しかし家康公は
「きっと義元の御生害が誠であるのだろうが、
敵方の下野守からの知らせで城を空けて退くのは、不行届で慌てた様である。
この城でこのまま難に遭うことになっても、それは是非ないことだ。
ここで踏み止まり確かな報を聞き届けて、
証が正しいと分かった時に引き退くべし。」

と仰せられ落ち着かれていました。
そのところに、岡崎の山田新右衛門方から、
書状で申し上げられたので、じっくりとお調べまして大高をお引き退きました。

これが武道の眼つよみ第一である。


『武士としては』


高家今川氏先祖祝ひ之事付表高家品川氏之事

2017年01月15日 16:56

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 02:18:30.66 ID:NkP02+Hg
高家今川氏先祖祝ひ之事付表高家品川氏之事

 十月二十四日は高家今川氏の先祖祝いとして、今川の親戚が寄り合う祝儀がある。
予も招かれて会いに行った。
(注:当時の今川家の当主義用の嫡男・義順の正室は甲子夜話の作者の松浦静山の娘の機)

 その祝儀でとある話をした。
松浦静山「その先祖とは義元君ですか?」、
今川関係者「いやそうではありません。中頃の祖の某〔その名は忘れた〕です。」

 以下にその中興の祖の話として聞いたことを記す。
その祖は刑部大輔と称していたとか。
日光山の神号が初めは東照社と宣下あったので、
すぐに御使を奉じて上京し、朝廷と争議して遂に宮号を申し下したことがあった。
これに付き添いの林春斎〔林氏二代〕と一緒に遣わされていったという。
典故を引いた廷議は彼にとってはなはだ難しいことであったとか。
その勲賞として三河数ヶ所の地を賜り、春斎も禄が加えられたという。
これからこの人を今も中興の祖として祝うこととなった。
いずれにしても、今川衰微の時に労が有った祖先なので、
このように親族を招くのも理である。

 また今の表高家の中に品川氏がある。
〔この家は、元禄の頃は歴々たる高家であり、豊前守四位侍従であった。〕
かの日にも予は彼らと面会した。
この家は元々今川氏次男の家であった。
今川の祖は上の逸話のように寵遇があり、芝品川御殿山の地一円はかの屋敷であった。
その頃に品川氏の先祖がかの屋敷で出生したので上意で品川と称したのだとか。
ならば本氏は全くもって今川である。
よって家紋は、円の内に今川の家紋五七の花桐をつく。これも上意によるとか。
品川氏は先日も、この紋の小袖に肩衣は今川氏の紋である円に二引両をつけていた。


(甲子夜話続編)

これ、氏真の話ですよね。
中興の祖として子孫から敬われていたのですね。
しかし、ものすごく博学なのに氏真の名をしらない静山さん…

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 02:41:07.06 ID:NkP02+Hg
と、思ったら>>458でちゃんと名前を知っているね。ごめんなさい。



513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 03:23:47.53 ID:k/jsDdax
武将としては下の下だからな。偉大な義元の名を出すのが礼儀。

今川氏領地の事

2016年12月24日 09:54

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 05:42:05.24 ID:bDvjbosn
今川氏領地の事

 今川太郎〔刑部大輔の子、名を義順〕が来られたとき、彼の領地はどこかと尋ねてみた。
「王子村の近所です。」
「おお、それは近いですね。」
「この他にも近江に五百石の領地があります。」

『ではその地をなぜ所領しているのだろうか』と不審が晴れていなかったところ、
先年彼が古い書付を捜してくれて、その一通を見ることができた。

 その書付によると、義元が次男を若王寺という方へ遣わしていたが、
義元の家が衰微した後にかの若王寺の方から見かねてかの祖先の方に帰し与えた地が
近江の地の理由であるという。

 この事は彼の旧記で分かっていたので、
今では江州の采地から少しばかりの物をかの若王寺の末へ分け与え、
余りを今川氏に収めたという。
太郎の先祖は義元で、氏真の嫡流である。

(甲子夜話続編)



今川の物見、首取て歌よむ事

2016年07月03日 13:06

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 08:07:23.18 ID:mN7HvAUH
今川の物見、首取て歌よむ事

戦場見物の者は、途中に敵に逢っても打ち取らないのが軍法である。

だが今川義元の士〔名は忘れた〕が物見に行き、

敵に出会って戦い首を取った。

しかし軍令に背いたので、帰って一首の歌を首に添えて出した。

刈かやの 身にしむ色は なけれども 見てすみがたき 露の下帯

義元はこれを見て、違法の罪を許したという。

(甲子夜話)

しかし物見は首級を挙げてはならないという決まりなんてあったんですかね

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1184.html

この逸話では、普通に褒められていますけどね



902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 11:08:13.53 ID:uDm6PxsQ
>>901
物見は偵察役だろ。

偵察役が戦闘に加入して必要な敵の情報を持ち帰れないのは
本末転倒だからな。

威力偵察ならば戦闘も有りだが、その場合は部隊編成が変わるだろ。

徳川家康は、大御所と称した頃に成っても

2016年05月04日 18:49

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 10:18:36.50 ID:Qmu0dwwF
徳川家康は、大御所と称した頃に成っても、驕るような所のない人であった。

彼は、武田信玄の息女である賢性院と対面する時でも、いつも上段より下っていた。
また鷹狩の折、尾州桶狭間、今川義元討ち死にの場を通ると、必ず下馬した。

またこんな事があった。家康が鷹狩をしている時、そこで駿府法体寺の所化(修行僧)三人連れに
巡りあった。その時家康は

「青々とした一寸の若い松の中に、棟梁の姿あり。聖人も後世恐るべし。彼らもいかなる知識にかならん。」

そう言って下馬した。
また上杉中納言(景勝)に逢う時も、必ず輿より下りて、礼儀厚かったという。

(新東鑑)



690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 10:27:08.84 ID:Huu4TCor
そういえばハプスブルク家の神聖ローマ皇帝は
徒歩で道を急いでいる神父と行きあった時には下馬して馬を貸す慣習があったとか

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 11:01:00.55 ID:5MLnzDQF
>>689
実態はどうあれ、こういう話が美談として語り継がれる日本っていい国だと思う

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 13:27:26.73 ID:03ukgPKl
>>689
前半の信玄の娘や義元、未来の聖人かもってのは分かるんだけど
景勝に対して礼儀をとるってのはなんで?五大老仲間だからか?

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 13:42:07.74 ID:wIDEY8AF
>>692
関係あるかわからないけど、家康は武田信玄に圧迫されてアップアップしていた頃、
上杉謙信からの応援にかなり感謝していたらしい。

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 17:08:17.31 ID:Y02hg7ib
天下をくれた張本人の一人だからじゃないの?

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 17:52:41.09 ID:vPmXlx37
江戸時代後期の本だからなぁ、既にいろんな逸話がごっちゃに
なってるんじゃないかな

景勝を礼遇したという話なら秀康が定番だしね。

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 00:12:52.88 ID:iWWPHNT/
成田「輿から下りて挨拶?」

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 02:20:24.37 ID:sbF/5fzx
俺なら撫で切りにしてる

北条氏康、今川義元に依頼をする

2015年04月17日 18:04

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/17(金) 00:01:08.36 ID:DAofRnT6
天文19年9月9日に、駿河の今川義元より四ノ宮右近、庵原弥兵衛の両人が甲府に御使に参った。
四ノ宮右近は節句の御使、庵原弥兵衛は、小田原の北条氏康から、今川義元に頼まれた使いであった。

氏康から義元への依頼は、このようなものであった
「我が北条家が、(山内)上杉家と弓箭を取ること、私まで三代に渡ります。しかれば、今年中には
有無の一戦を仕る所存です。

もし上杉憲政の運が尽き、私に利運が有れば、関東諸国については北条家によって仕置きするつもりです。
ことさら上野国は上杉憲政居城の国であるが、この上野に武田晴信が手をかけるのを思いとどまるようにと、
そちらから甲府に言って頂きたいのです。

我々の方から晴信に申すべきなのですが、若き人の事でもあり、我らは彼の父信虎とは別して入魂仕り、
信虎も我らと一入懇ろに取り扱い頂きました。ですが、今の晴信にはしかじかと申し談ずることもなく、
殊に、晴信という人物は、少々喧狂のように承っています。
このため、こちらより申し入れて、事破れてしまってはいかがかと思い、義元公を頼りたいのです。
義元公は晴信の姉聟ですから、晴信が気に入らないことであっても義元公が申し入れれば合点するでしょう。」

このように北条氏康今川義元に頼み、武田晴信に仰せに成って、武田が上野に出陣することはなかった。
ただしそれから8年目に、仔細が在って上野に出陣した。

(甲陽軍鑑)

後日談
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9214.html

駿河今川家の噂

2014年10月24日 18:51

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 00:27:12.10 ID:Tai7vUmf
山本勘助が駿河から甲府に、初めて召し寄せられた時、武田信玄は勘助に、駿河今川家の噂を尋ねた。
勘助は申し上げた

「義元公の御家は昔から高家とされています。つまり京の公方家が絶えれば吉良がその後を継ぎ、
吉良も絶えれば今川が継ぐとの謂れがあり、家風何れも少しも欠けるものは有りません。
しかも駿河・遠江・三河三ヶ国の主であれば、様子気高く、物の名人が他国より集まり、
殊更良き家老集も沢山あり、その配下は中名、小名まで武道を心がけていること、言うまでも有りません。

その上臨済寺雪斎が義元公の補佐をし、公事沙汰万事の指引浅からざるゆえ、尾張国織田弾正なども
駿府に出仕いたすようになったので、末々は京都までも義元公が御仕置きなさるようになると、
各々風聞されています。

ですが、私は一段危ういと考えています。

どういう事かといえば、仮に雪斎が明日にでも亡くなれば、その後家老衆の政務のさばきが
たとえ良かったとしても、雪斎の政治の印象があまりに鮮やかであったため、彼が補佐していた時代より
政務の裁きは劣っていると、諸人は考えてしまいます。

だからといって雪斎のような物事をよく知る長老にまた頼るようであれば、今川家について、
尽く坊主がいなくては成り立たぬ家であると諸人の批判を浴びるでしょう。

これが私の考える今川家の危ういことです。」

信玄はこれを聞いて、
山本勘助は聞こ及んだ事に違わぬ分別・才覚の持ち主であり、工夫の智略も宜しく思案する
広才人である、たとえ一文字も書けなくても、学問がなくても、物識りと呼ぶべきはこの勘助である。
彼はただ、智者と申すべき人物だ。」

そう申して信虎の時代より二代にわたって仕えた4人の足軽大将にこの勘助を加え、その年から
五人衆として再編したのである。

(甲陽軍鑑)

山本勘助、信玄に最初の面接で感銘を与える、というお話。



110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 18:59:57.58 ID:Dl1Xuhoc
>尾張国織田弾正なども駿府に出仕いたすようになったので

この織田弾正って信秀の事ですか?
信秀が太原雪斎の存命中に今川家に仕えるようなことってあったんですかね
それとも尾張に別の織田弾正と呼ばれる人物がいたのか
ただ単に甲陽軍鑑が甲陽軍鑑しちゃっただけなのか

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 20:54:58.03 ID:rzrzqaQX
そのころの織田は一枚岩じゃなかったんだよ

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 23:39:44.54 ID:ZgMX+YPR
捕まった信広のことだったりして

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 00:17:10.28 ID:TkDS1XRG
甲陽軍鑑にいちいち突っ込み入れてどうすんのさ

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 02:21:32.03 ID:DjH7tebX
雪斎の没年が1555年か
信秀はもう死んでるし、信長は状況的に駿府に行くどころじゃないよね

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 02:53:57.40 ID:j6b+ZBu0
雪斎生きてる時の話、ということになってるが

今川義元の討死

2014年09月14日 18:54

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/13(土) 22:53:07.71 ID:Uftp3aAu
義元の討死の事を記した書物に『最期は机にかかり、少しも動かずにおられたところを
服部小平太と毛利新助が討ち取った』というのは、虚説である。元来、義元は勇将では
あるが、床机の周りを固める者もいないのに、一人で床机におられることだろうか。
もし、その通りならば無謀の死である。

信長は今川家の虚を察しなさり、本陣の後ろの山根を押し回って、後ろから攻め寄せ、
馬武者で義元の本陣を縦横に乗り破り、騒動に乗じて突き崩した。今川方はただ上下
とも驚いて慌てふためき、槍を取る間もなく、皆太刀打ちした。

織田方は槍を揃えて突き立てたので、真っ先に進んだ者たちは枕を並べて討死した。
その他にも、負傷や逃亡によってまばらになったことだろう。それまでも義元は
床机に腰をかけ、周りを命じておられた。そこに庵原左近と同庄次郎が馳せて来て、

「本陣の軍士は過半が討死し、備えもまばらになりましたので、何と思し召され
ましても叶いますまい。ここは一先ずお退きになってください」と、申し上げて
馬を引き寄せ、義元をかき乗せた。

この時、元康公がお付け置いた松平某も義元の前へ来て、「元康は大高の城に
おられますので、そこへお引き取りください」と申し上げ、庵原兄弟と松平某の三人が
供をして、大高を目指して退いて行った。

これを見て、島田左京、澤田長門守、岡崎十兵衛、上和田雲平、今井主馬、
平山十之丞、長瀬吉右衛門、平川左兵衛、福原主税らが馳せ来たり、同じく供をして
退いた。しかし、馬備えが散乱したため、馬に乗る手立てが無く、皆々歩行で従った。

義元は胸白の鎧に、金で八龍を打った五枚兜を被り、赤地の錦の陣羽織を着ていた。
また今川重代の2尺8寸の松倉卿(松倉郷)の太刀と、1尺8寸の左文字の脇差を
帯びて、5才の青毛の馬には金履輪の鞍を置き、紅の尻繋を掛けてお乗りになった
ので美しく、遠目にも「これこそ大将である」と思わぬ者はいなかった。

信長方は四方へ落ち行く者には目もかけず、「どこまでも逃がさぬ」と先を争って
追いかけた。そのため、島田左京や澤田長門守を始め12人の者たちはとって返して
戦うも、徒歩であるうえに戦いには疲れて皆々討死し、義元は一騎となられた。

そこへ服部小平太は一番に追い付き、言葉をかけて近寄った。義元も「心得た」と
馬を引き返しなさったところを、小平太は駆け寄って朱柄の長刀の槍で、義元の
弓手の脇腹をひどく突いた。

けれども、義元は聞こえた強将なので少しもひるまずに太刀を抜き、小平太の槍の柄を
切り折り、馬から下り立った。小平太が槍を捨てて組み合おうとすると、義元は抜き
放っていた太刀で払い切りになされ、太刀先が下って小平太の膝口を切り付けなさった。

小平太は少しも堪えられずに後ろに倒れたため、あわや討たれてしまうと見えた
ところに、毛利新助がすかさず横合から駆けて来て、むんずと義元と組み合った。
義元は初めに小平太が突いた槍で傷を負ったままで、最後には新助が組み勝って
義元を討ったということである。

――『明良洪範続編』




778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 02:38:03.48 ID:Ilnqnsko
「少しも」良く使うね

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 10:05:57.39 ID:VFSr4d1f
今川義元はちゃんと馬に乗ってるな
良く言われる、今川義元が馬に乗れないなんてどっから出て来たんだろな

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 10:13:51.36 ID:Wq8euVbd
室町幕府から有力大名として塗輿を許される
→輿に乗っているから馬に乗れない、と曲解される

信長は要らざる嘘を付くことで

2014年08月01日 18:54

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/01(金) 00:06:45.97 ID:Zvidlv1v
織田信長は長篠合戦のことを、勝頼ではなく『武田信玄に勝った』と言い、塚を作って「信玄の墓」と名付けた。
これは西国に対する宣伝のためである。
一方小身であっても、徳川家康は誠が多い事の強みを心懸ける弓取りであったので、三河において
信玄に勝ったなどとは言わなかった。

そもそも織田信長は、このような空言を多く用いる武将なのである。
例えば彼が今川義元に勝利した時も、『今川軍6万を打ち破った』と喧伝した。
よく考えてほしい。三河・遠江・駿河三ヶ国から、どうやって6万もの軍勢を動員出来るというのか?
そもそもそれらの国は人口も少なく、大積りに積もって、2万4千が精一杯である。

有り体に言えば、その2万4千ですら多すぎるが、信長は要らざる嘘を付くことで、義元との合戦などにおける、
類まれな、彼の本当の手柄まで、浅く見えてしまうのである。
(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑より、織田信長の過大すぎる戦果の宣伝についての批判である。




849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/01(金) 00:37:57.68 ID:14dTiqKs
織田を批判しないと生きていけない甲陽軍鑑だしなぁ

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/01(金) 01:07:48.13 ID:UF+g0W9T
気のせいだろうけど、信玄が愛用してた人国記の評判に沿ってる感じ

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/01(金) 02:08:12.58 ID:e4MnEVg2
>>848
う言いながら「長篠の織田・徳川は10万」なんて書いてくるから甲陽軍鑑は油断ならない

今川義元が山本勘助を召し抱えなかった事は

2013年10月01日 19:40

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/30(月) 20:12:18.09 ID:gcrJMB/f
駿河での今川義元公の時代に、山本勘介が三河国、牛窪(愛知県豊川市)より、今川殿への
奉公を望んで参上したのであるが、この山本勘介は散々な醜男で、その上に隻眼であり、
指も足も不自由であった。しかし彼は大剛の者であったので、義元公が召し抱えられるように、
勘介の知己であった朝比奈兵衛尉が彼のことを

「この山本勘介という者は、大剛であり、特に城取り、陣取りといった軍法は良く鍛錬されています。
剣術も京流の上手であり、軍配も良く知っています」

と申し上げたが、義元公がお抱えになることはなかった。
駿河の人々の噂では、あの山本勘介は第一片輪者であり、それに城取り陣取りの軍法を鍛錬したと
いうが、自分の城を持ったこともなく、兵を持ったこともない者が、どうしてそのような事を
知れるものだろうか。彼は今川殿に奉公したいがために虚言を言っているのだ、と言い合った。

それから勘介は9年も駿河にいたけれど、今川殿が召し抱えることはなかった。
この9年のうちに剣術のことで2,3度手柄があったが、この当時は新当流(塚原卜伝の流派)
の兵法こそ本物であり、勘介の京流はそれに劣るものだと、人々は噂した。

加えて、勘介は牢人の身であったため、草履取りすら一人もつれておらず、彼について
非難するものこそ多かったが、良く言うものなど一人もいなかった。

しかし、この事は実は、今川殿の御家が万事にわたって活力を失い、御家が末に傾き、
武士の道の見極めが浅く無案内であったために、山本勘介の身の上のことにまで、
悪い評判が及んだのであろう。
(甲陽軍鑑)




409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/30(月) 21:04:30.32 ID:bdUHqgFH
歴史小説そのままのノリだな

『義元左文字』由来

2013年01月24日 19:53

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/23(水) 20:13:22.28 ID:HMDK0N41
京都の、織田信長を祀る建勲神社に、『義元左文字』という、二尺二寸一分の太刀が蔵されている。
その中子に、金象嵌で刻まれた文字には

『永禄三年五月十九日義元討捕、則彼所持刀、織田尾張守信長』
(永禄3年5月19日に今川義元を討取り、その折に彼が所持していた刀である。織田尾張守信長)

と、書かれている。義元が最後まで持っていた太刀なのだという。

ところが、この太刀は義元が持っていた時点では別の名で呼ばれていた。
それは『三好左文字』という。
この『三好』とは、管領細川晴元の側近であり、三好長慶と激しく争った彼の叔父、三好政長の事である。
この三好政長が江口の戦いで長慶に敗れて討ち死にした時、持っていたのがこの『三好左文字』であるというのだ。

その太刀を、武田信玄に追放された武田信虎が。畿内を周遊していた時に手に入れ、これを義元に贈ったものだという。


三好政長今川義元と、その所有する者を2代にわたり討ち死にさせた(信長まで入れれば3代である)、
数奇な太刀についての話である。




275 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/01/23(水) 22:08:44.34 ID:Xtm37D+S
『宗三左文字』だったような

ぶっちゃけ武将で数寄者と言えばこの人が元祖だよな
息子も数寄者でしかも手癖悪いし素晴らしい上に刀目利きでは幽斎の師
数寄者としての三好氏もかなりの可能性を秘めた存在

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/23(水) 22:32:26.22 ID:o7s9aYFW
この間建勲神社に行ってきた

大きな鳥居
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見取り図
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本殿
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大文字山が正面に見えた
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船岡山は京の真北
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徳川家康の語る、今川家のこと

2012年12月18日 19:59

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/18(火) 06:45:34.06 ID:7grfk2Zi
徳川家康がある時語ったことである

「今川義元は、臨済寺の雪斎和尚(太原雪斎)と相談して領内の統治などを行なっていた。
この頃は本当に国もよく治まっていた。

しかし雪斎は累代の家老というわけではなかったので、彼が遷化されたあとは、その政治を受け継ぐものが無く、
それ以前の状況に戻ってしまった。

それでも義元が生きているうちは、今川家の武備が衰えることはなかったが、義元が討死にした後は
諸人に今川家に対する疑念が起こり、また氏真の代になってからは風流婆娑羅のみにて日を送り、
終に家国を失ってしまった。

諸人に疑念を持たせた、というのは、主将の依怙から起こったものだった。」

(武野燭談)

家康の語る、今川家のこと、である





807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/18(火) 08:15:20.17 ID:YZoRbVHX
>>806
攻め込んだ当人が語ってるから悪い話なのかな?

血気の勇であった

2012年11月11日 18:59

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 13:33:40.62 ID:bj8WhPIj
桶狭間の戦いの折、遠州二股の城主・松井五郎八郎
義元の討死によって呆然として落ちて行ったところで井伊信濃守と出くわした。

「信濃殿、大将は討死された。本陣は崩れてしまったから見届けずともよい」

松井が声をかけると井伊はにっこりと笑って…

「兄の肥後守の申し付けで本陣へ見廻りに参るところでした。
味方が崩れたからとこのまま立ち帰るのはそれがしの本意ではありません。
兄に敗軍を見物して帰りましたとは申し難いのです」

「そうか…そうだな、いざ共に参ろうか」

松井は井伊の言葉に励まされて取って返し、両人とも討死した。

井伊は弟であって家督ではないから義による本意の討死である。
しかし松井が討死したのは軽率であった。この人には父がいたが子はいない。
終いには跡目は断絶し、七十余の父は武田に生け捕られて老後の恥辱を受けた。
これは五郎八郎の不孝である。

初め大将討死の場にて松井が共に死ぬのは士の道であったが、墓場とすべきところ
でもないのに井伊の言葉に従って父のことを思わず引き返したのは血気の勇であった。

――『良将言行録』




302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 13:48:46.76 ID:/GWsp2jW
政宗「いろは郎とは変わった名だな」
井伊直盛「娘に男子名をつけるな」

ところで桶狭間で死んだのって、井伊家当主の信濃守直盛じゃなかったっけ

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 15:49:09.12 ID:Z+QhB4y6
井伊肥後守は井伊信濃守直盛の兄ではなく
娘である直虎の婚約者の井伊直親だよね?

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 16:23:37.77 ID:kV/M+FxC
>>301
葉隠マンが聞いたらよくやったと褒めてくれるよ

家康はいつも上洛のために桶狭間を過ぎるたび

2012年11月01日 19:51

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 18:04:05.68 ID:6oT7Wwu3

今川氏真は武田信玄に国を奪われ、掛川城に逃げ込んだが、徳川軍の威によって
城を開けて小田原へ退去した。この時、徳川家は松平家忠に海路を護送させたので
今川の士はもちろん北条の者もまた「徳川殿は情ある大将だ」と感銘を受けた。

その後、氏真は小田原を離れて京摂を徘徊し、後に徳川家を頼り寄食する。
この話を聞いた者たちは「氏真は義も恥も知らぬ鉄面皮だ」と爪弾きにして笑ったが、
家康は義元の旧好を思って氏真の不幸を哀れに感じ、始終扶助して後には五百石を
与えて老を養い、その孫・直房、二男・高久を家臣とした。高家に今川、品川というのは
この末裔である。

家康はいつも上洛のために桶狭間を過ぎるたび、義元の墳墓の前では輿を下りた。
御供の輩はいずれもその厚義を感じて落涙した。

また氏真が客寓していた頃、いつも家康の御座近くに参る時にも、
昔を忘れずに氏真を厚く礼遇したことは見る者を感じさせた。

――『徳川実紀(三河記、古老物語、前橋聞書)』




191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 18:17:51.99 ID:c293RWN0
人質とはいえ大切にはされたから恩義感じてたのか

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 18:49:08.24 ID:VoYP7FWq
孕石と氏真、どこで差が(ry
氏真は奥さんといい、周りの人に恵まれてる気がする
人を惹きつけるような人柄だったんだろうか

花倉の警告

2012年10月10日 20:12

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/09(火) 21:56:34.95 ID:sRAIjwt0
今川義元が三河表に発向するという時の事、不思議な夢を見たことがあった。
夢のなかに花倉(花倉の乱で義元と家督を争った玄広恵探)が現れ、義元に対し

『今度の出陣は止めるべきだ』

と云った。
義元はこれに

『貴様は私への敵愾心からそんな事を言うのだろう!そんな話を聞くことは出来ない!』

そう答えたが、花倉は更に云う

『今川の家が滅びるということを、どうして憂わざるか!』

そこで目が覚めた。

その後、駿河の藤枝を通った時、義元は突然刀に手をかけた

「町中に花倉が立っている!」

しかし周りの者達には何も見えなかった。
不思議な事である。

(当代記)