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「続武家閑談」より「伊賀の諸士軍功の事」

2023年02月10日 19:30

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/10(金) 18:32:27.56 ID:9CUTqSK9
>>634の続き
続武家閑談」より「伊賀の諸士軍功の事」

伊賀の歴々侍の中にも以前から伊賀を出て今川や権現様に仕えていた者がいた。
服部半蔵正成は度々の武功があり鬼半蔵と呼ばれ、同市郎右衛門(服部保英、正成の長兄の息子)は姉川にて奮戦し、同源兵衛(服部保正、正成の兄)は三方ヶ原で討ち死に、同中保正(服部中こと服部保正、源兵衛とは別人)は度々の勲功があり恩録が厚かった。
右の二百人の伊賀者は服部半蔵組となった。
服部半蔵は俗姓の家柄であるとはいえ今川義元の頃から夜討ち朝駆けの働きで高名を得、御家人の中でも武勇を知られていた。
そのため伊賀者の頭となってからは二百人の伊賀者は自然に家来のようになってしまった。
伊賀者は無念ながらも命に従い、その年(1582年)伊豆韮山の押さえとして天神殿という掻き揚げ城に籠った。
九月八日、敵が大勢籠っている伊豆の佐野小屋という砦の偵察を松平周防守康親に命じられ、伊賀士二人が忍び入り砦を監視するための「忍びかま」という越道をつくりことごとく内情を探った。
同十五日に命に従い伊賀の者どもは夜更けに砦を乗っ取った。
こうして信玄・勝頼親子二代が陥せなかった北条の砦を陥とし伊賀衆は高名を得た。
同年、甲斐のえくさ(江草、獅子吼城)という砦を伊賀衆は攻め取り、翌年未年(1583年)には服部中は岩城殿(岩殿城)、服部半蔵は谷村城を伊賀衆二百人を従えて八月から十二月まで守った。

伊賀者由緒書」を参考にしているようだ



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徳川家康の謙譲の美徳

2023年01月13日 19:32

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/12(木) 23:03:56.12 ID:CkZ1eLq0
武家閑談」より徳川家康の謙譲の美徳

権現様は天下一統ののちも、いにしえにかわることなく、奢侈のお振る舞いはなさらなかった。
信玄の娘の賢性院(信玄次女で穴山梅雪正室の見性院)と御目見のときは、いつも上段から降って会釈をなさった。
また御放鷹で、今川義元戦死の場である桶狭間の田楽が窪の近くを通る際には毎度下馬なさった。
誠に謙譲の御心が深いこと、言葉にできないほどである。



徳川家康の大高城兵糧入れ

2023年01月12日 19:03

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/11(水) 23:32:06.05 ID:91aVkVe0
「続武家閑談」と同じ著者による、木村高敦武家閑談」から「徳川家康の大高城兵糧入れ」

今川義元は妹婿の鵜殿長持を織田信長の抑えとして大高城に置いていた。
しかし信長は丸根城、鷲津城を築き、大高城を孤立させ、その上に寺部城、挙母城、広瀬城の三城にも兵を置いたため大高城への兵糧搬入ができなかった。
そのため今川から権現様に永禄二年?(1559年)四月十日に兵糧を入れるよう命がくだった。
権現様は岡崎をうちいでたが、酒井正親、酒井忠次、石川数正らは
「信長勢が籠る城々の前で兵糧を運ぶなど不可能です」と諫めた。
権現様は当時十八であったが、家臣の言葉を用いなさらず
「我に考えがあるから言う通りにいたせ」とおっしゃった。
さて権現様は九日の夜半に酒井正親・石川数正に四千騎を率いさせ、大高城を囲む鷲津・丸根の両城も無視して寺部城を攻めさせた。
一方で権現様は八百騎で小荷駄千二百疋を引き連れ自ら大高城に向かった。
寺部城の織田兵は「なぜ敵勢ははるか奥のこの寺部城に取り掛かるのだろう?」と不思議に思いながらもとりあえず防戦した。
九日の丑時のため、暗さも暗く、三河兵はある程度攻めてさっと引き返し、
近くの梅ヶ坪城を攻めて二の丸、三の丸まで押し入って火をつけた。

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/11(水) 23:35:24.70 ID:91aVkVe0
火は闇夜を煌々と輝かせた。
鷲津・丸根の兵どもはこの光景を見て
「寺部城、梅ヶ坪城の守りをしろ!」と駆け出した。
こうして権現様は何の障害もなく思いのままに兵糧を大高城に運び入れた。
大高城への兵糧搬入を見た鷲津・丸根両城の守備兵たちは手を打って驚き、頭を掻いて悔やんだ。
石川・酒井も無事に引き返し、権現様とともに岡崎城に帰還した。
帰城後、みなみな権現様の御前に出て
「さて今朝は見事に兵糧を大高城に運び入れられましたが、なぜ我々に寺部城・梅ヶ坪城を攻めさせたのです?」と尋ねた。
権現様の仰せには「鷲津城・丸根城は大高城への兵糧入れを阻止するための城であるが、寺部城・梅ヶ坪城からの後詰めを頼りとしておる。
もし寺部城・梅ヶ坪城が落城したなら鷲津城・丸根城も干上がるのだから、両城が攻められたと聞けばそちらに兵を向けるだろう。
その隙に我は攻められる心配をせずに兵糧を大高城に運び入れられた、というわけだ。
「兵法は神速を尊ぶ」と言うが、人の予想外を突くのが肝要である。」
これを聞いた家老衆は
「君は幼い時より臨済寺の太原雪斎に習い、兵書を読まれたと聞いておりましたが、十八にしてこれほどの知略とは。
まさに生来の名将で御座います。後々たのもしく思います。」
と口々に言ったという。
なおこの大高城への兵糧入れが権現様の御手物の初めだそうだ。



義元公と弾正忠子息の和睦が

2022年10月30日 17:36

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/30(日) 15:26:26.72 ID:dLte+MCx
尾州の織田弾正忠(信秀)が死して、その子息、今の信長であるが、彼は今川義元公の旗下とならず、
挙げ句義元公がお持ちの国であった三河の内、吉良の城へ取り掛け、附城を造ってこれを攻めた。

この事態に義元公は御馬を出されたが、跡を気遣い遠州引馬に逗留され、先衆を以て弾正忠子息(織田信広)の
拵えたる砦を包囲し、既に攻め殺さんとする所に、織田は降参して父の如く義元公へ逆義あるまじきと
起請を書き詫び言したため、義元公と弾正忠子息の和睦が成立したのであるが、これは尾州侍である
笠寺の新右衛門(戸部政直)がかねてより義元公を大切に存じており、この折に仲介した御蔭だという。

またこの時義元公は
「三州岡崎の城主・松平広忠の子、竹千代当年十三歳になるを、一両年以前より盗み取り、熱田に
隠し置くという。それも早々にこちらへ渡せ」
と仰せになり、義元公はこの松平竹千代を駿府に召し置かれた。今の遠州浜松まで平定して浜松に在る
徳川家康が、この竹千代である。

甲陽軍鑑

いわゆる第二次小豆坂の戦いについてのお話。この時点では織田信秀はまだ生きているのと、
どうも信長と織田信広を混同していたフシがありますね。



武田信虎追放について

2022年10月14日 19:10

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/12(水) 21:25:04.54 ID:pUCJxExe
同年(天文七年)の三月九日に、武田信虎は駿河を訪問された。
嫡子・晴信について、駿河より一報があり次第来るようにと、晴信公は甘利備前の所に預けられ、
次郎殿(信繁)は御館の御留に置かれた。

信虎公が駿河に行かれるということで、晴信の衆は内々に支度をした。そうした中、板垣信方、飯富兵部(虎昌)
両人を、晴信公は御頼りになった。

信虎公が甲府を出立されて九日目、三月十七日に逆心が行われた。
この事については既に駿河の今川義元と内通されていたために、少しも手間取ることはなかった。
信虎公の御供の侍衆も皆、その妻子を人質に取られていたので。彼らは信虎公を捨てて皆甲州に帰った。

甲陽軍鑑

武田信虎追放について。



広忠公御死去之事

2021年07月24日 16:34

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/24(土) 15:01:48.78 ID:dZYeMb47
広忠公御死去之事

天文己酉歳3月6日に広忠公(松平広忠)25歳で御死去なされた。そういうわけで
岡崎でも頼るべき方なく、そこで一門中家老の面々は差し集まって評談を行った。

石川伯耆守、本多肥後守(忠真)、天野甚右衛門(景隆)、この3人は申して「織田
備後守(信秀)方へ申し寄せ、尾張と一味して竹千代殿(徳川家康)を相違なく岡崎
へ帰城させ、守り立て申すべきだ」と言った。

石川安芸守(清兼)、酒井雅楽介(正親)が申すには「今川義元はすでに領内3ヶ国
で4万余騎の大将なので、この力をもって本意をさせ申すべきだ」と言った。

さて上村出羽守(植村氏明)、鳥居伊賀守(忠吉)、その他の残る面々が言うには、

「尾張と一味ならば早速本意となろう。さりながら、駿河と手切れとなれば3ヶ国の
軍勢をもって取り詰められることになって、たちまち難儀に及ぶであろう。

しかしながら、戦の勝ち負けは多少にはよらず。先年の小豆坂の合戦で駿河勢は3万
余騎の着到であったが織田備後守は3千余騎をもって馳せ向かい、五分の三つは味方
が利を失った。

尾張と一味ならば早速帰城たるべし。義元が3ヶ国の軍勢を催すならば御本意は違い
申すべし」と言って、ついに評議は落着致さず。

そんなところに、広忠公御死去の由を義元卿は聞こし召し、駿府より岡崎の城へ在番
を入れられたのである。朝比奈備中守(泰能)、岡部次郎兵衛、鵜殿長門守(長持)
を頭とし、義元卿の近習衆3百余騎が籠め置かれたことで、それより是非なく岡崎は
駿府を守って居り申した。

――『伊束法師物語



蔵人元康は岡崎へ御帰城、諸人喜ぶ

2021年06月12日 18:00

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/12(土) 16:45:03.01 ID:B6TEFUdv
後奈良院の頃、将軍は義晴、管領は細川高国入道常桓なり。今川義元は三州、遠州、駿州を御従え、
近国に威を振るった。織田弾正(信秀)も義元公に属す(織田弾正モ属義元公)。

天文23年2月、小田原の氏康と義元が取り合い、尾州の織田弾正忠、同三郎五郎(信広)父子が
三州に出張して安祥を乗っ取ったので、吉良が働き渡利・下渡利・和田の本陣が小豆坂へ押し出す
(小豆坂の戦い)。義元は戦い、ついに西勢は負けて安祥に引き、大勢追い討ちして東勢は藤川に
引いた。年号は天文22年と書いてある。

また東勢は安祥へ明くる夜中に取り掛かり、三郎五郎を生け捕った。戸部新左衛門(政直)が詫び
言、竹千代と人替えとある。相違なり。

永禄元年、竹千代17才の御年、駿河にて御年を重ね、蔵人元康は岡崎へ御帰城、諸人喜ぶ。

永禄8年5月、義元は駿・遠・三2万4千の勢にて尾州退治せんと発向(二万四千ノ勢尾州退治セ
んと発向)、元康公24才、尾州・三州の境の泉田に陣取、桶狭にて討死。相違なり。

元康公は大高の城より品野村へ掛かり猿投山の北後へ出て、梅ヶ坪へ掛かり筈利へ打ち越し、大川
を下り岡崎へ入られた。

今川氏真は23歳で父義元は討死し、弔い合戦の心掛けもなく二浦庄を立ち花月の遊興ばかりなり。

――『三河東泉記



今川家には真範という僧の霊がついており

2021年06月02日 18:05

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/01(火) 20:00:27.28 ID:fcUfUgk9
今川家には真範という僧の霊がついており、同家に凶事が起こるときには、必ずこの僧が現れた。
桶狭間戦の時も、今川勢が安倍川を渡るとき真範が現れ、義元の眼を遮った。
また、駿府城の城の庭のあたりで、女の声で、
「熟し柿なるみの果てぞ悲しけれ」
と泣く声がしていたそうだ。
「なるみ」は尾張鳴海のことで、義元はその近くで生涯を終えたのだった。
(嶽南史)

世界人物逸話大事典」の「今川義元」の逸話からの孫引きだけど、この「今川義元」の項の執筆者が、
今川義元に処刑された戸部新左衛門の子孫の戸部新十郎氏というのがちょっとおもしろい



793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/01(火) 21:25:49.10 ID:2sfPirx1
>>792
先祖の恨みが地味に残ってるのかなw
そういや、桶狭間前に玄広恵探の霊が現れたって話もなかったか。今川に坊主の霊多すぎ

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/05(土) 13:59:10.54 ID:zH0P2W0K
>>792
恨んでるのに凶事の警告しに来てくれる優しい坊さんで草

かるかやに 見にしむ色は なけれとも

2021年01月05日 17:37

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/05(火) 15:34:53.17 ID:hOMWL+6l
今川義元が戦場において、何某とやらを召し「先手の様子を見て急ぎ罷り帰るように。」と命じたが、
先手では早くも戦の半ばであるのに行き合い、逃れがたい状況であったので、鑓を入れて首一つを
取って帰り、義元の見参に入れてその成り行きを語った所、義元は大いに怒り

「様体を見計らって急ぎ帰れとこそ言ったのに、その身の働き、私に対して忠の所は少しも無い!
軍法に任せて、きっと計らうべし!」

そのように仰せに成られた。かの使いの者はしおれたような顔で、謹んで義元の前に侍ふ人に向かい、
小声で藤原家隆の歌をつぶやいた

「かるかやに 見にしむ色は なけれとも 見てすてかたき 露の下をれ」
(秋の苅萱は、心惹かれるような色ではありませんが、露の光るしなだれた様子を見れば、捨て難いものなのです)

この様子に義元はさらに怒り、「何を言っているのか!?」と怒鳴ると、近習の者がそれを申し上げた。
これを聞いて義元は暫く考え、気色和らぎ、

「とどかざる仕形であるが、急なるに臨み、奇特に家隆の歌を思い出した事は名誉である。」

として赦したという。
昔の人はこのようにやさしき事があった。ただし、「時によるべき事である。一様には定めがたい。」
という人も有る。

備前老人物語



本阿弥家と家康のつながり

2020年12月14日 17:32

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/14(月) 16:38:26.61 ID:oxFqGjix
本阿弥光二が次郎左衛門と名乗っていた頃、権現様(徳川家康)は駿府の今川義元の元に有り、
竹千代様と申されていた。その頃、光二は竹千代様の道具の御用を勤めており、朝夕に御膳を
召し上がる時には、いつも御相伴を仰せつかっていた。

ある時、竹千代様に義元より御脇差を下される事があり、その刀身について光二が仕った。
彼は駿州島田國房に二腰打たせ、出来の宜しい方を御差上げた。残った一腰は、義元より光二に
下された。これは現在も本阿弥家が所有している。

後に権現様が駿府を領有された頃、本阿弥のことを浅からず思し召され、光二の筋目をお尋ねになられ、
本阿弥光悦の倅である光瑳を、別して懇意にされた。
その頃、上様の所持する刀には、本阿弥の差料もあり、上意には光瑳の金剛兵衛の刀が、ひときわ
よく切れると申されていた。
そして家臣への御褒美の時、この刀は松平右衛門太夫殿(松平正綱)に下され、首尾よく御服も拝領
したという。

(本阿弥次郎左衛門家伝)

本阿弥家と家康のつながりについて。本阿弥光二は実際に駿河の今川家に出入りしていたようですね。



桶狭間、長篠(と本能寺)裏話

2020年08月21日 16:50

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/20(木) 21:59:40.40 ID:96SZy5U2
『湯浅甚助直宗伝記』
桶狭間、長篠(と本能寺)裏話

今川義元と信長の合戦の時、湯浅甚助は14歳で(小姓として)供奉していたところ、「少年の出陣は無用である」と仰せられたので、尾州笠寺の法印に預けられた。
桶狭間で合戦が始まったところ、鬨の声や鉄砲の音がおびただしく聞こえてきた。
そこで笠寺に残っていた小姓衆は信長公の替え馬に乗って戦場にはせ参じ、甚助は敵と槍を合わせ、練り倒して取った首を信長公の御前へ持参した。
すると、信長は「若輩者が戦場の騒がしいところに、なぜ軍法を破って現れたのか」とご立腹だったので、本陣へ帰った。
すると、敵の大将、義元を討ち取り、合戦に勝利したので信長はとてもご機嫌になり、笠寺へ帰陣した。
法印が合戦勝利に祝いの言葉を捧げ、飛び出した小姓衆のことの顛末を子細に話し、「武勇の励みがあったので少年まで手柄を立て、言葉がありません」と詫び言を申したので、みなが許された。
その後、三河長篠の合戦のときに、信長は甚助を呼び、「先手の滝川一益の備えへ参れ。敵は色めき立っている。早く敵の備えを崩し、どっと攻めかかれと伝えよ」と命じた。
これによって一益の陣所にはせ向かい、信長の命令を伝えたところ、信長の命令の通り、(同じ先手の)家康公が敵の先手に挑みかかり、敵の侍大将、馬場信春の備えを崩した。
このとき甚助は、甲州方の采配を手に持った武者と槍を合わせ、(馬から)突き落として首を取った。采配を添えて首実検に供した。
この委細は一益が見届けており、後日、信長公へ披露した。
これによって信長公から感状をいただき、「先手への軍使に向かって首尾よくこなし、さらには首を取って猛威を振るってから帰ってきたこと、神妙である」と声をかけられ、加増された。
これらは信長公記に記されていないが、甚助家来の倉知道珍という侍が詳細を知っており、語り伝えている。
(中略)
天正10年6月2日、明智光秀が謀反の時には、甚助は町屋に泊まっていたが、光秀の逆心によって京中が騒動になっていたので本能寺にはせ参じ、猛勢をかき分けて寺内に駆け込み、討ち死にした。
本能寺で死んだ面々の石塔が阿弥陀寺にある。



桶狭間後日譚

2020年06月11日 17:03

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/11(木) 02:07:06.11 ID:HTSH4nvb
上総介信長は御馬の先に今川義元の首を持たせられ御急ぎなさり、その日の内に清州へ御出あって
翌日に首実検をなされた。首数3千余あり。そこへ義元の差された鞭と弓懸を持った同朋衆を、下
方九郎左衛門と申す者が生け捕りにして進上した。「近頃の名誉を仕った」との由で御褒美があり、
御機嫌ななめならず。

同朋衆は義元前後の始末を申し上げ、首々に一々誰々と見知り申す名字を書き付かせなさった。か
の同朋衆には、のし付きの大刀脇差を下された。そのうえ10人の僧衆を御仕立てになり、義元の
首を同朋衆に添えて駿河へ送り遣わされたのである。清州から20町南、須賀口・熱田へ参る海道
に“義元塚”という塚を築かせなさり、弔いのためと千部経を読ませ大卒塔婆を立て置きなさった。

今回、分捕りになった義元が日頃差されて秘蔵した、名誉の左文字の刀を召し上げられて何度も切
らせられ、信長は日頃差しなさったのであった。御手柄は言葉で申し尽くせない次第である。

――『信長公記 首巻』


桶狭間の戦場で義元の同胞衆の権阿弥という者は、義元の差された弓掛けと鞭を持っていた。下方
九郎左衛門という者はこの権阿弥を生け捕って大将へ奉る。(中略)大卒塔婆を立てなさり「信長
は情けある大将かな」と、近国までも沙汰しけり。

熱田大明神へも今回の御願成就があった奉幣を捧げ、御修理を加えなされた。また今回、義元が陣
中へ差しなさった松倉郷義弘の刀をこちらへ分捕りに取って差し上げると、「これは天下の重宝で
ある」と信長公は御秘蔵なされ、この刀を御差料になさった。

――『織田軍記総見記)』



桶狭間の戦いと熱田町口の紛争

2020年06月08日 17:10

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/08(月) 03:16:57.31 ID:ZQsC5wnO
(桶狭間の戦いの時)

ここに尾州河内二の郷の一向宗、鯏浦の服部左京(友貞。織田家に属さない尾張国人)
は此度の合戦で義元に力を合わすべしと一向宗を数多引き連れ、武者舟数十艘に取り
乗って大高の下、黒末の河まで乗って来た。

まず大高城に兵糧を多く運び入れて松平元康に力添えし、自身は戦場へ赴いたところ、
19日の未の刻、はや義元討死なれば力を失い、舟に乗って帰りがけに熱田の港へ舟
どもを寄せ掛けて、遠浅の所から下り立ち町口を放火しようとした。

町人どもはこれを見て、味方の勝ち戦に力を得て、大勢が出て来て追い払ったところ、
服部の者どもは駆け散らされて数十人が討たれ、また舟に取り乗り、河内を目指して
引き入った。

――『織田軍記総見記)』



『松平記』より、桶狭間の戦い

2020年06月07日 17:21

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 22:40:28.14 ID:TUf8uXey
永禄3年(1560)5月19日、昼の時分に大雨しきりに降る。(今川義元は)今朝の御合戦
御勝利で目出度いと、鳴海桶狭間で昼弁当に参る。そこへその辺りの寺社方より酒肴を進上仕り、
御馬廻の面々に御盃を下されたが、その時、信長が急に攻め来たる。

笠寺の東の道を押し出で、善昭寺城より二手となって一手は御先衆へ押し来たり、一手は本陣の、
しかも油断しているところへ押し来たる。鉄砲を撃ち掛ければ、味方は思いも寄らぬことなので、
ことごとく敗軍して騒ぐところに、上の山からも百余人程が突いて下った。

服部小平太(一忠)という者が長身の槍で義元を突き申すと、義元は刀を抜いて青貝柄の槍を切
り折り、小平太の膝の口を割り付け給う。毛利新助(良勝)という者が義元の首を取ったが、新
助の左手の指を義元は口へ差し入れ、食い切られたと聞く。

義元の御馬廻衆も随分働いたため尾州の物頭の佐々隼人正(政次)、千秋新四郎(季忠)、岩室
長門守、織田左馬允、一色などと申す良き者が、数多その場で討死した。

御先衆で討死致した衆は、三浦左馬助、斎藤掃部助、庵原右近、同荘二郎、朝比奈主計、西郷内
蔵助、富塚修理、松平摂津守、富永伯耆守、牟礼主水、四宮右衛門八、井伊信濃守(直盛)、松
平兵部、温井蔵人、松平治右衛門、その他60余人、近習1人も残らずその場で討死なり。

――『松平記



115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/07(日) 04:41:47.74 ID:Jsn8uRP9
>>114
大雨だと鉄砲使えなくね?

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/07(日) 15:24:03.51 ID:FjC4Cc4v
俄か大雨に紛れて接近→晴れてから襲撃ってのが桶狭間の流れ
まあ、所詮は他家と他家の話の上
義元本陣にほとんど家康系がいなかったとかの事情で詳細には書く気がないのかも

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/07(日) 17:25:34.03 ID:E7+MQt/A
>>116
信長公記が底本と分かるな

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/07(日) 17:30:27.64 ID:60NDTf3c
信長公記とは内容違うよ

汝の運命尽きたることを告げんがために

2020年05月31日 17:25

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/30(土) 19:11:42.69 ID:GvcTHadk
(桶狭間の戦いの頃)

かように義元(今川義元)勝利の威勢日々強くなりけれども、不思議の事々も多かった。

まず、今川家には往古より“真範公”という出家の亡霊がいた。国主に凶事ある時は出現すると申し
伝えた。しかるに今回、義元が駿府を打ち立ち給うところで、かの真範の亡霊がまさしく阿辺川の
ほとりに現れたのを見た人が多かった。

また駿州の鎮守総社大明神は霊験無双の神なり。かの社の山の中に白狐の奇怪あり。いつもの白狐
を所の者どもは「神の遣わし者なり」と言ったが、その白狐の胸おのずから裂け破れて、自ら死し
て社壇にありけり。

また花倉といって義元の兄弟(玄広恵探)の死霊あり。かの花倉はうつつに出でて、義元にまみえ
来たる。義元はこの時、枕元に立て置いた松倉郷の刀を抜いて切り払い給えば花倉は飛び上がって
「汝の運命尽きたることを告げんがために来た」と言う。

義元もさすがに強き大将なれば少しも騒がず、はったと睨んで「汝は我が怨敵なり。何ぞ我に吉凶
を告げん。ただ我を悩まさんがために来たのであろう」と宣えば、花倉また言うには「汝はもっと
も怨みあれども、今川の家運尽きんこと甚だもって悲しければ、今まみえ来たる」と言い捨て、掻
き消すように失い果てた。

かように怪異ひとかたならず、未然に凶事を現したのは不思議なりし事々である。

――『織田軍記総見記)』



就中信虎御隠居分事

2019年07月02日 17:35

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 00:24:13.86 ID:bhPTTZ/Z
内々以使者可令申之処、惣印軒可参之由承候際、令啓候、信虎女中衆之事、入十月之節、
被勘易巫可有御越之由尤候、於此方も可申付候、旁以天道被相定候者、本望候、就中信虎御隠居分事、
去六月雪斎并岡部美濃守進候刻、御合点之儀候、漸向寒気候、毎事御不弁御心痛候、一日も早被仰付、
員数等具承候者、彼御方へ可有御心得之旨、可申届候、猶惣印軒口上申候、恐々謹言、


(内々に使者を出して申し述べるべき所ですが、安星惣印軒がこちらに参ったことを承りましたので、彼に
伝えました。(武田)信虎殿の世話をする女中についての事ですが、10月に入った頃に、占いなども鑑みて
遣わされるとの事、尤もだと思います。こちらに於いてもそのように申し付けておきます。
あまねく天道によって相定める事は、本望でしょう。

なかんずく信虎殿の駿府での生活費についての事ですが、去る6月にこちらから(太原)雪斎と岡部美濃守(久綱)
を遣わしたおりに合意した事であり、だんだん寒気も増してきて、何事にも御不便され、御心痛されています。
一日も早く仰せ付けられ、その生活費を承った者を信虎殿の元へ遣わされるべき旨を心得られるようにと
申し届けました。なおこの事については惣印軒より口上にて申し上げるでしょう。恐々謹言。)

     九月廿三日    義元(花押)
    甲府江参

(天文十年九月二十三日付、武田信玄宛て今川義元書状)

今川義元より武田信玄へ、「信虎さん困ってるから仕送り早く届けろ」という書状である。



223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 19:52:44.70 ID:ixlhX9sa
>>221
義元さんも困るわなそれは
ただでさえ厄介な人押し付けられてるのに

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/02(火) 20:17:55.08 ID:AsuUgu9e
>>221
生活費自分で稼がせれば…いや下手に定期収入得ると怖いなこのおっさんはw

山本勘介と申す大剛の武士と聞く

2019年06月06日 15:40

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/05(水) 19:43:17.74 ID:q6z+kKQZ
一、天文12年(1543)正月3日に武田の家老衆は打ち寄り、その年中の晴信公(武田信玄)御備へ談合
  致す。諏訪郡、あるいは佐久・小県の敵味方の境に味方の城などを取りなされ、城構えを良く致して1千
  の人数で持城を3百持つのは、城の取り様や縄張りに大事の奥義ある故なり。

  その城取りをよく存じている剛の者が駿河の義元公の御一家である庵原殿の亭衆になっていた。今川殿の
  御家を望めども、義元は召し抱えなさらず。この者は三河牛窪の侍であるが、四国・九国・中国・関東ま
  でも歩き回った侍で、山本勘介と申す大剛の武士と聞く。

  この勘介を「召し寄せて御抱えあれ」と板垣信形(信方)が晴信公へ申し上げられたことにつき、知行百
  貫の約束でその年3月に駿河から勘介を召し寄せられた。御礼を受けなさりその場で晴信公は仰せられ、

  「勘介は一眼で手傷を数ヶ所負っているので、手足もちと不自由と見える。色黒いこれほどの無男(醜男)
  でありながら名高く聞こえるのは、よくよく誉れ多き侍と思われる。これほどの武士に百貫は少分なり」

  とのことにより2百貫を下された。さてまた、その年の暮れ霜月中旬に信濃へ御出馬あり。下旬より12
  月15日の間に城は9つ落ちて晴信公の御手に入ったことは、ひとえにこの山本勘介の武略の故なり。晴
  信公22歳の御時なり。

一、(前略)ひととせ前代、駿河において今川義元公の時、山本勘介は三河国牛窪より今川殿へ奉公の望みに
  参るも、かの山本勘介は散々の夫男(醜男)で、そのうえ一眼にして指も叶わず、足もちんばなり。

  しかしながら大剛の者なので、義元公へ召し置かれるようにと庵原が勘介の宿になった故、大人の朝比奈
  兵衛尉(信置)をもって申し上げるには、「かの山本勘介は大剛の者なり。ことさら城取り陣取り一切の
  軍法を良く鍛錬致し、京流の兵法も上手なり。軍配をも存知仕る者であります」と申せども、義元公は抱
  えなさらなかった。

  駿河での諸人の取り沙汰には「かの山本勘介は第一片輪者。城取り陣取りの軍法とはいうが、自身の城を
  ついに持たず、人数も持たずしてどうして左様な事を存じているだろうか。今川殿へ奉公に出たいと虚言
  を言っておるのだ」と各々申すことにより、勘介は9年駿河にいたけれども、今川殿は抱え給わず。
  
  9年の内に兵法で手柄を2,3度仕るも、「新当流の兵法こそ基本の事である」との皆人の沙汰であった。
  とりわけ勘介は牢人で草履取りさえ1人も連れていないので、謗る人こそ多くとも良く申し立てる人はい
  なかった。

  これは今川殿御家において万事を執り失い、御家は末となり武士の道は無案内故、山本勘介の身上の批判
  は散々悪しき沙汰となったのであろう。(後略)

――『甲陽軍鑑』


  山本勘助噂五ヶ條の事

一、山本勘介入道道鬼斎。本国三河牛窪の者なり。

二、26歳で本国を出て武者修行、あるいは行流の兵法などを教えて日本国を歩くことまさに10年の間なり。
  明応9年庚申(1500)の生まれなり。

三、11年目より駿河へ参り、今川義元公の御家老・庵原殿と申す侍大将の介抱を受け、9年間駿河にいたが
  義元の御抱えなき故、甲斐の信玄公へ召し寄せられた。

四、勘介は甲斐へ44歳で参る。その時分の信玄公は23歳なり。

五、信玄公31歳で御法体の時、勘介52歳で法体仕り“道鬼”に罷りなり候。62歳の時、川中島合戦で討死
  仕るなり。甲斐において、城取りその他の軍法はすべて山本勘助の流なり。

――『甲陽軍鑑末書』



見てすみがたき露の下帯

2019年05月30日 15:27

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 14:44:28.01 ID:nwVL6DOv
戦場での物見の者は、途中敵に逢ったとしても討ち取らないのが軍法である。であるが今川義元の士(名忘)、
物見に行き敵に出会って戦い、頸を取った。然れども軍法に背いた故に、還って一首の歌を首に添えて出した

 刈かやの 身にしむ色はなけれども 見てすみがたき露の下帯

義元はこれを見て、違法の罪を赦したという。

(甲子夜話)



勝ちを千里の外に決す

2019年05月16日 16:44

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 01:47:31.40 ID:JyrqVqki
その後、信長公は24歳で是非義元(今川義元)を討たんと心掛け給えども、ここに妨げる男あり。
戸部新左衛門(政直)といって笠寺の辺りを知行する者なり。

能書才学が形式通りの侍で、主君を無二と思って義元に属し、尾張を義元の国にせんと二六時中謀る
ことによって、些細であっても尾張のことを駿河へ書き送った。

これにより信長は心安き寵愛の右筆に、かの新左衛門の消息(手紙)を多く集めて1年余り習わせな
さると、新左衛門の手跡と違わず。この時に右筆は義元に逆心の書状を思うままに書きしたためて、
「織田上総守殿へ。戸部新左衛門」と上書をし、頼もしき侍を商人として出立させ駿府へと遣された。

義元は運の末であったのか、これを事実であると御思いになり、かの新左衛門を御呼びになると「駿
府まで参るに及ばず」と、三河吉田で速やかに首を御刎ねになった。

その4年(永禄3年の誤り)にあたって庚申、しかも七庚申のある歳5月。信長27の御年で人数は
700ばかり。義元公は人数2万余りを引率して出給う(桶狭間の戦い)。

時に駿河勢が所々へ乱妨(乱取り)に散った隙をうかがい、味方の真似をして駿河勢に入り混じった。
義元は三河国の僧と路次の傍らの松原で酒盛をしていらっしゃるところへ、信長は切って掛かりつい
に義元の首を取り給う。この一戦の手柄によって日本においてその名を得給う。

これでさえも件の戸部新左衛門が存命であれば中々難儀であったろうが、信長公は智謀深く、陳平と
張良が項王の使者を謀ったのと異ならず。

信長公の消息の手立ては24歳の御時なり。評言すれば、『籌を帷幄の中に運らし、勝ちを千里の外
に決す(戦略の巧妙なこと。漢の高祖が張良の軍事的才能を評した言葉)』。

そのため、尾張の諸侍で義元を大敵と称し信長を軽んじた者どもは、翌日から清洲へ参候して信長を
主君と仰ぎ申したのである。

――『甲陽軍鑑』



925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 01:54:39.69 ID:i428Al7X
ゆらり

これ武略なり

2019年04月27日 15:54

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/27(土) 14:13:34.77 ID:2r7o4uZh
信長は5千騎で今川義元の4万の人数を鳴海で敗った。義元の首を取ったのは川尻与兵衛(河尻秀隆
という者なり。後に信濃で死す。

この時、信長は清洲にいて乱舞し、先手から送られる文箱をも開き見ず、皆が「負けた」と推し量った
のである。信長は馬を出し、熱田の神前でしばしまどろみ夢を見ている体で、応じる声が3度あった。
これ武略なり。

さて大雨の降る中で信長が馬を進めると、輿を控えて諫める者あり。その時、信長は鞍の前輪を叩いて
敦盛の『人間五十年』のところを舞われたという。

人々は皆それならばと押し掛かった。義元が台子で茶会をしているところに急に打って掛かって、勝利
を得たり。この時、義元の勢4万は七備に陣を立てていた。しかし間道から本陣へ掛かった故に、七備
も空しくなったという。

――『老人雑話』



936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/27(土) 14:18:07.66 ID:mExy/+Tj
>>935
毛利新介「!?」

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/27(土) 16:24:35.08 ID:YVf5kat/
伝言ゲームのように話が変わっていくんでしょう
それにしてもこの場合の乱舞ってなんだ