「フロイス日本史」から、戸次川の戦い

2017年05月30日 18:11

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:31:52.86 ID:pxsQt+cT
(豊後国主の)嫡子は、薩摩軍が攻めてきた時に身を守り得るために、
他の二名の主将(仙石秀久長宗我部元親)とともにウエノハル(上原)と称するある場所に一城を築くことに決した。
だが彼らは心して真面目に築城の作業に従事しなかった。
彼らの不用意は甚だしいもので、饗宴や淫猥な遊びとか不正行為にうつつを抜かしていたので、その城は笑止の沙汰であった。
したがって(薩摩軍が来週した時に彼らが)助かることなど思いもよらないことであった。

ところで国主フランシスコの息子パンタリアン(田原)親盛は、司祭に対して、
もし府内で何事かが起こった場合には、司祭は家財を携えて城(妙見城)に身を寄せるようにと伝えていた。

薩摩の軍勢は惰眠をむさぼることなく、攻撃力を強めながら、漸次豊後に進入して領地を奪っていった。
豊後の指揮官たちは、常軌を逸した振る舞いによってますます油断の度合いを深めていた。

本年一五八七年の一月十六日(西洋暦)、薩摩の軍勢は、
府内から三里離れたところにあるトシミツ(利光宗魚)と称するキリシタンの貴人の城を襲った。
城主は府内からの援助を頼りに力の限り善戦した。
だが敵は攻撃の手を緩めず、ついに武力によって城内に進入し、その城主、ならびに多数の兵士を殺害した。

府内にいる味方の勢は、(利光の)城が占拠されているかどうか確かなことを知らないまま、
赴いて囲みを解くべきかどうか評定を続けていた。
結局、彼らは出動することに決め、栄えある殉教者聖フィビアンと聖セバスティアンの祝日に府内を出発した。

府内からは、仙石がその兵士を率い、土佐国主長宗我部とその長男がその兵士を伴い、
さらにパンタリアンも兵を率い、その他豊後の特定の殿たちが出発した。
清田と高田の人々に対しても出動するよう命令が出された。

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:32:45.50 ID:pxsQt+cT
薩摩勢は、それより先(豊後勢の動静を)知らされていたらしく、余裕をもって策を練り、
準備を整え、一部少数の兵士だけを表に出して残余の軍勢は巧妙に隠匿していた。

豊後勢は、大きく流れの速い高田の川に到着し、
対岸に現れた薩摩勢が少数であるのを見ると、躊躇することなく川を渡った。
そして豊後勢は戦端を開始した時には、当初自分たちが優勢で勝っているように思えた。
だがこれは薩摩勢が相手の全員をして渡河させるためにとった戦略であった。
渡し終えると、それまで巧みに隠れていた兵士たちは一挙に躍り出て、
驚くべき迅速さと威力をもって猛攻したので、
土佐の鉄砲隊は味方から全面的に期待をかけられていながら鉄砲を発射する時間も場所もないほどであった。
というのは、薩摩軍は太刀をふりかざし弓をもって、猛烈な勢いで来襲し、鉄砲など目にもくれなかったからである。
こうして味方の軍勢はいとも容易に撃退され敗走させられて、
携えていた鉄砲や武器はすべて放棄し、我先にと逃走して行った。

豊後国の人たちは、河川の流れについて心得があったから助かったが、
仙石と長宗我部の哀れな兵士たちは他国の者であったから、浅瀬を知らず溺死を余儀なくされた。
こうしてその合戦と破滅において、二千三百名以上の兵士が戦死したと証言されている。
彼らの中には、土佐国主の嗣子や、かつて阿波の領主であった十河殿、その他大勢の貴人や要人が含まれていた。

薩摩勢は、その日の午後には府内から四分の一里の地点にまで到達し、
その途中にあったものをことごとく焼滅し破壊した。




「フロイス日本史」から、戸次川の戦いについての記述である。


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あまり有名でなく高尚でもない男であった

2017年05月29日 18:39

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:44:53.16 ID:/C3l8YdE
筑前、筑後、および豊前の一部をほぼ支配下に置いた薩摩にとって、今やこの島全体の絶対君主になるために残るは
ただ豊後に進出するだけとなった。
そこで彼らは豊後の殿たちと交渉し、種々の約束と甘言をもって彼らを味方に引き入れようと奔走した。
豊後の嫡子(大友義統)は、この状況について連絡を受けると大いなる危機感に襲われた。
そしてこの恐怖から、彼は関白殿に強く救援を懇請した。
というのは、豊前で戦っている勢は豊後から遠く離れたところにおり、薩摩軍とはかけ離れた別の戦に従軍していて、
急速に有利な戦況は望むべくもなかった。

関白は天下の主となった後、信長時代の仲間であった仙石権兵衛と称する尾張の人物に讃岐国を与えた。
彼は、あまり有名でなく高尚でもない男であったが、決断力に富み独善的で、その他それに類した性格を備えていた。
ただし以前から優秀な武将として知られていた。

関白はこの人物に豊後を援けに行くにように命じた。
そしてさらに、二年前に征服した土佐国のセニョール・チョウスガミ(長宗我部元親)に対しても、
軍勢を率いて豊後の援助に赴くように命じた。
だが自らが出陣するまで、もしくは敵との合戦を伝達するまでは、敵と交戦するのを差し控えるようにと言いつけた。
それゆえ(彼らは)約二千名あまりの実戦の兵士しか伴って行かなかった。

(これらの軍勢)は府内の市で、嫡子および伯叔父なる(田原)親賢の軍勢と合流した。
(親賢)は、(去る日向の合戦で)何千という生命を失わせた最大の責任を負う身であったから、
豊後が破滅して後は、自分の城から外へは決して出ようとしなかった。

豊後の上長であるペドゥロ・ゴーメス師は、贈り物を携えさせて、(既述の)異教徒の新たな主将たちを府内に訪問せしめた。
彼らもまた後には学院に来て手厚くもてなされた。
とりわけ土佐の主将(長宗我部元親)は、要請があれば、司祭や教会を援助する用意があることを示した。
この主将の嗣子である息子(信親)は、一、二度我らの修道院で説教を聴聞し、説話をよく理解したらしく、
キリシタンになりたいとの希望を表明していたが、その数日後に戦死した。



上の話とは少し時間が前後するけど、同じくフロイス日本史から
仙石についてのフロイス評入りの話


仙石氏の家紋

2017年01月22日 17:15

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/21(土) 20:42:58.70 ID:WWUVYInV
仙石氏の家紋

 仙石氏の家紋に桜の落花を九曜の如くつけたものがある。

 仙石氏の祖先に猷廟(徳川家光)が御幼稚のときに勤めていた者がいた。
ある日、猷廟が花筏の紋の御襖障子を御戯れに引き破られなさり、
直接その紋をその祖先の者が賜ったことから、この家紋が始まったという。

(甲子夜話)

あれ、センゴクの家紋って「無」と「永楽通宝」しか知らないぞ…

参照『九曜桜紋』
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530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/21(土) 21:14:32.97 ID:h7vHhvVy
>>529
新訂寛政重修諸家譜によると「丸に無の字」「永楽銭」「五三桐」「九曜桜」があるそうな。

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/22(日) 17:28:57.25 ID:fOXl2f80
センゴク権兵衛よりあとだし問題ない

豊臣関白北條征伐出陣の事

2016年11月29日 09:07

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/28(月) 22:58:38.33 ID:GUK5L/Vi
豊臣関白北條征伐出陣の事

 秀吉が北条を討たれに行った時、諸将は浮島が原で並び居て秀吉を待っていた。
秀吉は糸緋威の物具を着て、唐冠の胄をかぶり黄金をちりばめた太刀を帯び、
大きな土俵空穂に征矢を一筋指し、仙石権兵衛が持ってきた朱の滋藤の弓を持って、
七寸ある馬に金の瓔珞の馬甲をかけ、静かに歩かせて打通られた。
東照宮が信雄と共に出迎えられたのを見て馬から降り、

「いかに、二心あると聞いたぞ。いざ一太刀で参らん」

と太刀の柄に手を懸けられた。東照宮は左右の人に目を向けられて、

「戦始めに太刀に手を懸けられとは、めでたいことですな。」

と高らかに仰せられると、秀吉は何も言わずにまた馬に打ち乗って通られた。
(常山紀談)



361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/28(月) 23:05:09.17 ID:HNq+lJTq
権兵衛、許された直後なのに出張ってるな

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/29(火) 00:01:06.99 ID:BqHMB20x
いや、時系列おかしいだろ。

【ニュース】「仙石秀久、圧政イメージ覆す 農村復興促す文書発

2015年09月01日 16:21

639 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/09/01(火) 00:01:39.87 ID:gPggWEVp
ニュース「仙石秀久、圧政イメージ覆す 農村復興促す文書発見 兵庫・豊岡の旧家で」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150831-00000002-kobenext-l28

ごんべえさん、年取って丸くなったということか



641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 00:32:39.29 ID:7780Uvzg
>>639
そもそも圧政するイメージが無かったたが地元じゃ嫌われてたのか

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 01:59:12.96 ID:VX0DtwpI
開拓に精を出しすぎて逃げられてるし

てか、なにげに水野勝成とか後藤又兵衛とか従えてたことあるんだよね

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 02:02:23.82 ID:aEKoGx/h
仙石秀久って粗暴で戦の事しか頭に無い野蛮人みたいに誰かに言われてたよな

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 05:05:44.57 ID:Mc62K6oN
仙石イエス

仙石殿豊後において敗北の事

2013年06月01日 20:01

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/01(土) 08:51:45.52 ID:rfyhuDr6
仙石殿豊後において敗北の事

島津家久が大将として二万余りの人数で豊後利満城(鶴賀城の別名
利光城)を攻めたとき、仙石権兵衛尉は豊後大友義統勢を加えて
六千余騎を率い、十二月十三日に河を渡って薩摩勢の後陣を取巻き
合戦に及んだ。

互いに武勇を磨き数刻太刀打ち槍合わせ勝負まちまちだった時に
長曾我部信親は、手の者二十二騎が左右につらなって槍を合わせ
ていたが一歩も下らずに討死なされた。

これにより豊後勢がこらえられず敗北し、十河新太郎矢野田宮を
始め多くの者が討死し、仙石も虎口を遁れて這う這うの体で退いた。

薩摩勢は勝ちに乗って遁れるもの達を追撃して府内は祇薗の河原
まで、高田は門口まで到達し討ち取られた人数はその数を知らず。

そのまま島津勢は府内へ乱入せんと掛かったので、すぐさま大友
は府内を引き払い高崎の城(高崎山城)へ逃げ籠られた。

島津家久は府内へと討ち入り、義統はまた高崎を捨て豊前国龍王
へ退かれた。

(日向記)

日向記に記された戸次川の戦いの記録である。

ちなみに伊東祐兵は黒田勘兵衛に属して筑前方面で戦っており、
この話の前半にあれこれと書いてあったが、少しダレるので
バッサリと省略しました。



748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/01(土) 09:52:01.78 ID:ALp6g2wx
省略された伊東祐兵とっても悪い話か。w

仙石秀久の息子について

2012年11月29日 19:50

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 20:33:19.68 ID:hxqGvG8V
仙石秀久長宗我部元親といえば、耳川の戦い戸次川の戦いでの大敗という大きな因縁がある。
その因縁は彼らの子弟にも、不思議に受け継がれていた。

長宗我部元親の後を継いだ盛親が、関ヶ原で西軍に付き、改易され京で寺小屋の師範をしていたこと、
これは有名である。

一方、仙石秀久は東軍に付き、彼の仙谷家は近世大名として生き延びた。
ところが、である

秀久の跡継ぎである仙石秀範は関ヶ原において、父とは違い西軍についた。
そのため戦後、秀久より廃嫡・追放処分を受けた。

こうして仙石秀範は京に牢人し、奇しくも彼も、寺小屋の師範となった。

そして大阪の陣が起こる。仙石秀範も、長宗我部盛親と同じように豊臣方として大阪城に入城した。
この時秀範は豊臣秀頼より、大名格として三万石ほどの所領を与えられたという。
しかし夏の陣で豊臣家が崩壊すると彼は行方不明となる。討ち死にしたとも、丹波に逃亡したのだとも伝わる。
そして、秀範の息子である長太郎、この時十歳は伯耆で捕らえられ、閏6月22日、乳母の子とともに
六条河原で斬首、晒し首とされた。


関が原後、不思議にも長宗我部盛親とほぼ同じような人生を送った、仙石秀久の息子についての話である。




526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 20:37:49.50 ID:mC8QOvN4
もし十河存英も浪人中、寺子屋で教えていたら面白いのに

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 21:00:15.73 ID:7gcmoWU5
シンクロニシティwとか好きな人は昔からいたんだなー

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 21:07:25.80 ID:i0SBGpEe
>>525
まてまて、耳川じゃねーだろ

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 21:12:46.68 ID:hxqGvG8V
>>528
うわ、なんで耳川なんて書いたんだろw;

>>525
1行目

× 耳川の戦い
◯ 戸次川の戦い

申し訳ない

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 21:13:25.17 ID:eYxSm6Lj
耳川は龍造寺が島津にフルボッコされた戦いだったような

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 21:44:32.63 ID:sbemlcRK
いやいや、一条兼定が長宗我部元親に敗れた戦であろう
それとも柴田勝家が上杉謙信に敗れた戦いだったかな?

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 23:23:40.95 ID:xvXPbHwF
>>530
それ田手畷の戦い
耳川は日向に進出してきた大友勢を島津がフルボッコにした戦い

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 23:41:47.33 ID:xvXPbHwF
あれ、田手畷じゃなくて沖田畷だった
詫びとしてちょっとすてがまり要員として井伊勢に吶喊してくる

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 23:46:25.07 ID:HGwaImoa
でも井伊直政撃った本人は薩摩に帰れたような

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 00:12:54.99 ID:GxJjnsEb
>>535
柏木源藤さんか
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6524.html
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6519.html
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-858.html

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 08:24:34.16 ID:ad3LN7d1
宗麟の子分のカニ怪人を釣ったのが耳川
クマーを釣ったのが田手畷
センゴクと信親と十河さん釣ったのが戸次川

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 09:28:05.83 ID:4awvqKpm
>>537
沖田畷だろw

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 09:44:27.85 ID:CG4P9gBD
もう何が何やら

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 09:59:31.59 ID:/mCku+bg
家兼じいさまが鍋島祖父と大内を蹴散らしたのが田手畷
島原の戦いは沖田畷

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 11:08:37.38 ID:zK9ZsB66
結局、全部島津の釣り自慢でおk?

これについて浅野長政が

2012年08月02日 20:56

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/01(水) 19:18:07.70 ID:t6XsuW3I
仙石秀久の戸次川の戦いでの失態に激怒した秀吉は讃岐の領地を没収した。
これについて浅野長政が、

「讃岐の領地を召し上げることは致し方ないことと存じます。

しかし、御旗本の中でも杉原七郎左衛門、荒木平大夫、仙石権兵衛らは
世人に三人衆と称され、武名高き者たちです。

不知案内の地でのことですから、利を失うということは不覚悟ではありますが、
それも勝負の常でありましょう。

いままでの軍功をお考えになって帰参を許されれば、あなた様はもちろん、
天下の武士たちも勢いを得ることでしょう」

と諫言したという。その甲斐あってか、やがて秀久は赦免され、
信州小諸五万石を賜ることとなった。




799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/01(水) 19:28:17.63 ID:GrmdYFno
羽柴四天王の神子田正治、尾藤知宣「・・・」

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/01(水) 21:03:36.56 ID:6k0p+BC8
杉原七郎左衛門家次って事務方の人であって武名はそんなに無いんじゃないか?
早くから家老になって京都所司代にもなった人だから重鎮中の重鎮だけど

この人はもう少し長生きしてたらどこか1国貰って大身になってたんじゃないかなあ

雑談・仙石秀久のことなど

2011年10月01日 22:06

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 19:05:21.11 ID:Yk1NRgcF
仙石「戦場で地味なかっこしてるヤツって何なの?」

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 21:38:24.89 ID:Moxt7eI8
あなたは派手というか五月蝿いでしょ

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 21:43:25.53 ID:xxQAilDg
地味な格好で殿つとめるのと
派手な格好で真っ先に逃げるのと

867 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/30(金) 22:10:19.73 ID:Dvjq8KxX
鈴まみれ仙石さんは当時でも周りから
「幾らなんでもあいつ必死過ぎじゃない?^^;」とか思われなかったのだろうか

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 22:45:22.94 ID:cYjFeDWS
思うに仙石さんは軍監という役割には向かない人だったんだと思う

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 22:54:42.71 ID:PMTpUpUj
>>864
その逸話読んだ時、こいつがんばってるアピールし過ぎうぜえと思ったのは俺だけじゃないはず

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 23:29:53.12 ID:IV74X+lV
まあ、頑張ってるアピールしなければ御終いな状況だしな

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 23:37:29.33 ID:EkLvusEg
アピールだけでなく本当に頑張ったしな

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 23:41:34.53 ID:G8M61ZWB
尾藤知宣が最後どうなったか知らない奴多すぎ


923 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/02(日) 19:16:21.83 ID:2NwQR/ht
>>874

あれねえ。けっきょく尾藤さんとセンゴクの違いは何だったんだろう。
秀吉自身の好き嫌い&虫の居所とかかね

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 19:48:53.44 ID:TxoZzs2z
戦場には立たなくても大体パターンで何が起きるか読めるんだろうな、各務さん。

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 19:53:34.46 ID:8qK17HA3
>>923
仙石→家康の斡旋+陣借りして武功をあげる
尾藤→戦終わってから謝りに来る

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 20:12:55.48 ID:PimrdnBO
例えば、又左も信長の勘気を蒙った時は陣借りして手柄を何度も立ててようやく許してもらってるわけだし。
なんの手柄もなく、ただ許せ、って端的に言って「お前が俺を追放したのは間違いだってわかっただろ」って
言うようなもんだと思う。

使えねーんで首にした奴が、半年位して何の前触れもなく出社してきて、元通りに雇えっていきなり言ってきた
ようなもんだろ。正直、常識はずれだと思うぜ。
一方センゴクは系列子会社の有力社長の元でプロジェクト成功させて、その功績をもって、
以前の失敗の埋め合わせにこういう功績を挙げました、復帰させて下さい、ってその子会社の社長に口利き
してもらって訪ねてきたようなもの。 復帰させる理由もたつし、理由があるのに無碍に断れば社長の顔を
潰すことにもなる。 きちんと外堀から埋めていけば、首にしたほうだってまー許してやろうか、って話になる。

小諸に謎の怪光線あらわる

2011年01月16日 00:00

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/15(土) 00:06:06 ID:SBXoeJhy
九州征伐の失態で改易され、その後小田原の役の活躍で、信濃小諸に5万石に復帰した仙石秀久
ところが小諸における秀久の統治は非常に評判が悪く、領内の一郡が逃散で滅びた、などとの噂もあった。

さてそんなある時のこと、夜半、突如として浅間山より、提灯を千ばかりも灯したような巨大な光が出現した。

小諸の城は浅間山のすぐ下であったため、上下の者たち驚いてこれを見つめていると、その光は
自分たちの方に向かってくるではないか!

小諸の者たち等しく肝を潰したが、その光は城の南の方へと通り過ぎた。
そのうちに激しい雷雨が起こり人々は家の中に避難、そして夜が開け外に出た人々が見たものは!

小諸城の中に、幅5,6間(約10メートル)、長さ50間(約90メートル)ほどの地面が、堀のように
くり抜かれていた!

小諸の人々はなんと不思議なことかと驚き、
世間の人々は、「越前守(秀久)の家臣たちの質が非常に悪く、百姓たちに酷くあたるという悪名が
非常に広まったため、浅間山に鬼の精でもあって、これがその様なことをしたのではないか?」
などと噂したという。

小諸に謎の怪光線あらわる、と言うお話。




411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/15(土) 00:25:39 ID:xzQdTSZ2
まさに超常現象…

千曲川も近いし、天然の谷を堀代わりにしていたりするから
雷雨で地盤が緩んでその辺りに崩落した?

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/15(土) 00:30:13 ID:/DqSqdN7
光の方は火球だとして、城に落下してたら並の被害じゃ済まないだろうし
実は全く関係無い2つの出来事が結びつけられた感じかねぇ

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/15(土) 00:56:54 ID:URMYVkaj
>>410
     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: :   | `ー-----' |__////


414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/15(土) 11:37:25 ID:k2ZPE7+2
     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ         , ;,勹
///// /::::   (y ○)`ヽ) ( ´(y ○)    ;;|       ノノ   `'ミ
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;|      彡,,,,,  ,,, y ヽ
/ // |:::     +  〉 〉|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|       l`゚   ゚'  ミ |
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|    ⊂二二"  ミ  ヾ
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;|      彡~~~~   ミ  |    もちつけ
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;|  ,-‐― 彡l川| ll || ll|  il|―-、  天狗なんていないから
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/⌒⌒⌒\  |ll        |   ヽ
// // ゝ:::::::: :   | `ー-----' |__// / / /⊂)  z W`丶ノW     ヽ

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/15(土) 16:03:13 ID:5Tzwvzhh
仙石「小諸は怖いので上田に引っ越したいでござる」

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/15(土) 20:11:03 ID:Yp31fSBF
長宗我部信親の怨霊だろ

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/15(土) 20:11:45 ID:e6wwEj6M
信親さん、小諸なんて行った事ねーだろうから迷うだろ

黒田官兵衛、戸次川の敗戦を

2010年09月21日 00:00

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/20(月) 18:12:20 ID:dlbYe5so
九州征伐でのこと

戸次川の戦いで仙石秀久長宗我部元親の軍が壊滅した、との情報を得た毛利軍は、
これを陣中に知らせるべきかどうかを早速議論した。
この時目付の黒田官兵衛はこのように発言した

「豊後国戸次川での敗戦は確かなようです。
ですが、九州征伐軍全体の規模から考えれば、ここの程度の敗戦は大したことはありません。
こんな事を秘密にすれば、却って陣中に疑念と混乱を呼ぶことに成るでしょう。
ただありのままに、陣中に知らせればよいのです。

大体考えても見てください。仙石や長宗我部程度の者達が3人5人と討死したところで、
それが上様(秀吉)の弱みになると思いますか?」

これにより毛利陣中に、戸次川の戦いの敗戦はそのままに伝えられたとのことである。
そしてこんな場所とはいえ、『仙石や長宗我部程度の者』と、言わずもがなの発言をしてしまうのは、
やはり官兵衛さんは頭はいいけど一言多いな、と思わざるをえないのである。

そんな黒田官兵衛、戸次川の敗戦をありのままに知らせる、と言うお話。




171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/20(月) 18:26:44 ID:CT+iKuZ/
如水って嫌われるタイプの人間だよな
常に上から目線

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/20(月) 18:30:43 ID:VvQB9qq6
これはそなたらの為にやっているのだぞw

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/20(月) 19:19:13 ID:mAEDSKF3
>>169
毒(毛利、長曾我部)をもって毒(島津)を制す

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/20(月) 21:18:27 ID:8AJVZYjN
官兵衛、こりゃ確かに嫌われて領地少なくしかもらえないわ

仙石秀久と長曽我部信親と十河存保・悪い話

2008年10月16日 10:47

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/12(火) 07:13:45 ID:0By7/lLV
四国で泥沼の争いをした長曽我部信親と十河存保
二人とも仙石秀久のせいで戸次川の戦いで戦死する
十河は九州仕置きの後改易
長曽我部は関ヶ原の後改易

でもそれから30年後に再び仙石と十河と長曽我部が共に味方として戦うときが来たんだな
十河存保の息子の十河存秀と仇敵長曽我部家の元大名長曽我部盛親
さらには憎き仙石秀久の次男仙石秀範

三人とも大阪の陣で大阪方について、そろって死んだ

人の縁の不思議な話