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是式の事は中々不苦候

2022年11月23日 19:11

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/22(火) 20:54:01.75 ID:NkZpqg5g
天正十四年十二月二十日時分に、豊後国より早打ちの飛脚が到来した。その内容は、
豊後国船井という場所の近辺にある、高田川という場所があり、この川を隔てて
仙石越前守(秀久)、長宗我部父子(元親、信親)が陣を取っていたが、川向かいに
薩摩衆が相陣を張った。島津方の大将は、島津中書(家久)と言った。

十二月十七、八日の頃、仙石越前、長宗我部父子はこの川を超えて合戦を仕掛けた。
朝方、戦は味方の両大将の勝ちとなり、頸数五百余りを討ち取った。しかし昼時分より、
豊後国の地の者、尽く一揆を起こし、薩摩方と一つに成って上方勢を中に取り籠め、
裏切りを仕った故に、長宗我部の惣領(信親)も討ち死にした。
それより両大将は敗軍したと、豊前に在った黒田官兵衛の所に報告されたのである。

これを知った官兵衛の分別には
「豊後では敗北したが、これしきのことは問題ない(是式の事は中々不苦候)。
この事を秘密にすれば、帰って陣中は騒ぐだろう。ただ有りの儘に毛利殿陣中に報告するのだ。
仙石越前、長宗我部程度の者が五人三人相果てようと、上様(秀吉)は自身の弱みと成ったとは
思わない。(仙石越前、長宗我部程成者五人三人相果候と申共、上様御弱みと被思召間敷)
定めて上方勢にすぐに命じて、九州へとお下りになるだろう。」

川角太閤記

川角太閤記に見える戸次川の戦いとその敗戦についての黒田官兵衛の反応。



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「豊筑乱記」から戸次川の戦いについて

2022年11月23日 19:10

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/23(水) 17:45:02.57 ID:FQfy/CRW
豊筑乱記」から戸次川の戦いについて
太閤秀吉公は島津に再三上京を命じたにもかかわらず島津は聞き入れなかった。
そこで天正十四年(1586年)九月十二日、秀吉公は仙石権兵衛尉元親(ママ)と長曾我部土佐守信親を上使として豊後に下しなされた。
大友義統公を通じて島津に上意を通じられたが、島津は見向きもしなかったため、仙石・長曾我部とも島津を慮外者とののしった。
島津は大友家の武将を次々と調略し、豊後に攻め入り、戸次城も陥落間近となった。
大友義統公はこれを聞き、加勢の人数を送り出そうと思ったものの、もう代を重ねた家臣も信用できないため見過ごそうとされた。
いっぽう仙石・長曾我部は島津の逆意について知らせる遣いを秀吉公に送り出し下知を待つ間ではあったが、戸次城が危ないと聞き六千騎で向かった。
十二月十二日早朝に戸次川を渡り、一挙に島津陣所に攻め入ろうと評定した。
これを察知した島津家久は一万八千騎の軍勢に「上使両人とともに討ち死にする気構えで戦え」と下知した。
こうして十二月十二日の曙に両軍鬨の声を挙げ、矢合わせをしたのち合戦を開始したが、どうしたことか島津方の伊集院軍が上使の軍勢に攻めかかられ引いた。
上使の軍が我先にと逃げる伊集院軍を追い討ちしているところに、二番備えの新納大膳正が三千騎で高所から仙石・長曾我部本陣に攻め入り、
大将島津家久と三番備えの本庄主税軍も一軍となって上使軍に攻め込んだ。
こうしてたった一時の合戦で敵味方三千騎が討ち死にし、長曾我部信親は血気さかんな大将であったため、あまりに深入りしすぎて、数カ所に深手を負い討ち死にした。
上使軍は多勢に無勢、あまりに多く討たれてしまい、仙石元親も勇猛な大将であったがわずか五、六騎を連れ戸次川を渡って豊後の府内めざして引いた。

仙石秀久長曾我部元親が混同されちゃったようだ



山鹿素行「武家事紀」から仙石秀久・竹中半兵衛

2021年12月24日 16:20

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/22(水) 19:03:32.01 ID:5CM2dYsf
山鹿素行武家事紀」から仙石秀久竹中半兵衛

仙石権兵衛尉秀久、濃州人、土岐の一流なり。
初め信長へ仕え、後に秀吉に仕えてたびたび戦功あり。
秀吉四国征伐の前、ひそかに仙石に命じて讃岐国に手遣わせしむ。
秀久命にしたがい、諸浪人をあつめ讃岐にこゆ。秀久軍使仙石角右衛門をはせてこの旨を告ぐ。
そのうちに大納言秀長四国に出勢。ついに四国平均によって讃岐国を秀久に賜う。
(戸次川の合戦、長宗我部信親討死や領国没収の話)
天正十八年小田原役に軍勢の形粧を見物のため、秀吉日岡に桟敷をかまえ出でたまう。
この時諸勢に先立って糟尾冑に白練に日の丸を出せる陣羽織を着たる武士押し行き、秀吉これを尋ねさせたまえば仙石秀久なり。
秀吉感悦の上、北条滅亡ののち、信州小室(小諸)六万石を賜う。

竹中半兵衛尉重治
(斎藤家に仕えていたがなんだかんだで信長の命で秀吉に属し)
信長江北の征伐、秀吉先軍をつとむ。重治あい従いて軍事を議すに中(あた)らずということなし。
浅井長政、長比・長亭軒の二城をかまえて信長をさえぎる。
竹中重治が謀によりて、堀二郎(堀秀村)が老臣樋口(直房)・多羅両人に信長へ降参のことをすすむ。両人、義を守りて従わず。
重治いいけるは「義に大小あり。小義を立てて大義を失うことは、君子はなさず。
今堀二郎幼若なり。両臣降伏をいれず、小義を守りて滅亡不日なるべき浅井に与し、家を失い、身を殺すこと、これあに忠というべきや」と理を尽くして諷諫す。
これにより堀二郎(このとき十二才)長亭軒城をもって信長に降伏す。
(浅井攻め、長篠の戦いで活躍)
三木の別所長治、一族をあつめ秀吉に叛く。
秀吉これを攻撃す。その軍事みな重治が謀るところよりいず。
重治病におかされ、上京して養療すとらいえども、不快につき三木の陣営平山にかえり、陣中において卒す。
勇士、死するといえども戦場を忘れざるなり、年三十五。
(中略)
重治つねに数珠をつまくりける。
死期に臨みて家人ら数珠を与う。
重治、大いに怒りてこれを投げ棄て
「わが数珠は死後の競望あって所持のことにあらず」と言えりとぞ。

そのほか、美濃で若い頃は「鼻たらし」と馬鹿にされたとか、数珠をくりながら「美濃には誰もいない」とつぶやいていたとかいう逸話もあるけど
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10843.html
同じ山鹿素行の「士談」出典で前にも出ていたので省略。

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/22(水) 19:26:49.69 ID:5CM2dYsf

あと、竹中半兵衛が降伏を勧めた堀秀村配下の樋口直房はもともと半兵衛と旧知の仲で稲葉山城奪取の後の半兵衛の世話もしたらしい。
ただ一向一揆勢と秀吉の了解を得ずに和睦したため、秀吉に謀反とされ直房は斬首。主君の堀秀村も所領没収されてしまった。



仙石権平は18歳の若武者なれども

2021年09月26日 16:18

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 16:03:22.21 ID:LfzgQiPE
(引田の戦いの時)

天正11年春、土佐の元親は阿州大窪を越して寒川郡に入り、田面山に陣して三
好存保(十河存保)の居城虎丸を疲らせんがため与田、入野に入って麦薙をなし、
早苗を返した。

元親父子が虎丸の麓に陣をおいて昼食をなし給うところ、香川信景と大西上野介
(頼包)は手勢を分けて引田の浦に発行せんとした。

仙石権兵衛尉秀久は2千余人をもって引田の浦に到着、家臣の森九郎左衛門(村
吉)を与地山の城に籠らせ、山西のやうを聞き合わせるところに、土佐の兵1万
余人が与田入野に入り香川信景と大西上野介が引田に向かうとの知らせがあった。

仙石氏は1千余人を三手に分け、仙石勘解由、仙石覚右衛門、仙石権平(森権平)
を兵将として引田中山に入れて伏せ置き、西方の兵が来るのを待った。

土佐方は引田に強兵がいると知らずに押し寄せ、山中で強兵に行き当たり大慌て
して追い返され、足並みを乱し与田口まで敗北した。仙石衆は逃げる敵を追って
競い来る。香川方と大西方は敵が少兵と見切り、自兵を遣わして戦を始めた。

一方、元親は引田表の鉄砲の音を聞きなさり「今この辺りに戦うべき敵はいない。
仙石権兵衛という者が、羽柴秀吉から讃岐国を賜うべきとの朱印を受け下向した
と聞く。きっとその仙石権兵衛だろう。桑名太郎左衛門、中島与市兵衛、行って
見て来い」と仰せになった。

2人が馳せて行くと香川信景と国吉三郎兵衛、大西上野介が合戦を取り結んでい
たので2人の使いも手筈に合わせ、元親父子の旗本も程なく押し寄られ、敵味方
入り乱れ、黒煙を立てて攻め戦う。

仙石方は少兵なので西方の猛勢に押し立てられて敗軍した。桑名太郎左衛門、中
島与市兵衛は2度の槍場にて首2つずつを取る。前田平兵衛、その弟彦六は2人
で仙石勘解由を討ち、仙石方は追い立てられ引田中山道に引き入る。敵も逃げる
のを追って山中に入り来る。

仙石権平は18歳の若武者なれども、大剛にして奇才あれば、地利を計って自兵
を下知し、返し合わせて奮戦し、敵を破って勝ちを制し引こうとした。そこへ土
佐方の稲吉新蔵人が名乗りをあげ、互いに馬上で渡し合い、両敵ともに深手を負
い、権平は続く兵なく新蔵人は味方が続き、権平はここにて討たれた。

すなわちその所に石碑を立て今の世までも隠れなし。その権平の墓に霊妙なるこ
と多く、民間の説に残される。権平は仙石秀久の従弟である。一説には仙石氏家
臣の森九郎左衛門の息男ともいう。両説を存じて知る人を待つ。

――『南海通記』



72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 16:35:50.59 ID:tSG7PRda
八十八箇所の最後の大窪寺のためか大窪には讃岐イメージがあった
八十八箇所五番目の地蔵寺には同族の森甚太夫家の墓地もあったっけ

これにより杉原・荒・仙石が先をなし

2019年03月04日 18:27

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/04(月) 17:51:38.81 ID:5DaS4Rjq
さて、羽柴筑前守秀吉は舎弟の小一郎秀長を伴って、さる天正6年(1578年)に播磨へ下り、
別所と対峙して以来、西国征伐の軍主を奉り、備前美作の守護・宇喜多は手に属し、播磨・但馬・
因幡以上五か国の人数を引率し、天正10年(1582)3月15日、備中国へ向かって冠城に
押し寄せた。敵の備はもっとも剛強なり。

さてこの城は、たとえ人数を損おうとも無二に攻め破り西国の響きにする旨を、かねてより定めて
いた。これにより杉原七郎左衛門尉家次・荒木平太夫(木下重堅)・仙石権兵衛秀久が先をなし、
かの地で肝要の践をなして水手を攻め入りこれを取った。

秀吉は感悦して3人ともに馬・太刀を遣わしたのである。城からはとりどりに懇望を尽くしたが、
これを聞かずに万牛五丁の攻めをなして即時に乗り込み、ことごとく首を刎ね終えたのである。

――『天正記(惟任退治記)』

わざわざ名前が挙がるあたりこの3人当時は期待されてたのかなぁと思った。


仙石は四国を指して逃げにけり

2018年10月04日 21:33

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/04(木) 12:28:26.47 ID:AKjHBDtu
太閤秀吉公、長宗我部元親親子、仙石権兵衛尉を大将として、四国勢を大友加勢として差し越され
島津義久と豊州脇津留、迫の口等にて合戦あり。

はじめ脇津留の戦には、長宗我部、仙石利を得ると言えども、迫の口の戦に利を失い四国勢敗亡す。
長宗我部嫡子信重(親)戦死、仙石権兵衛尉は小舟に乗りて阿波の洲本に渡りけりと言いて
その頃の落書に

仙石は四国を指して逃げにけり
三国一の臆病の者

(大友公卿家覚書)

仙石権兵衛と言えば…のこの逸話。
本文にある脇津留は土佐勢が伊集院・新納らと死闘を繰り広げた地で
迫の口は仙石隊が島津家久・本庄主税助と対峙した場所です。
正面を家久、左斜めの小山を本庄に押さえられた仙石秀久は動けに動けず
頃合いは良しと山から駆け下りた本庄隊の突撃とそれに続く家久隊の攻撃によって敗走、勝敗が決しました。



266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/04(木) 16:41:47.49 ID:5I0E/ccX
仙石を擁護するとしたら、まさかあそこまで四国勢が弱いとは…となるけど、
そもそもめちゃくちゃやって、四国勢の力を発揮させられなかったバカ軍監が仙石なわけだしなぁ…

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/05(金) 18:21:05.13 ID:l4Rx9ZXQ
>>266
九州上陸当初は割とまとまってた四国勢だけど
仙石が補給名目の収奪や苦役等の軍政で在地勢力の反感を買ったあたりから
十河・長宗我部共に距離を置き始めた感じがありますね

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/05(金) 21:12:44.95 ID:lNaCgzgy
大友って土佐一条氏を支援してたよな。

だから大友と長曾我部の関係ってあまり良くなかったんじゃないかと思うんだが、どうだろう?

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 01:39:17.12 ID:mHUusYx1
大友宗麟の娘が一条兼定の継室だけど婚姻したのがまだ土佐に影響力があった時代のことで後に大友は一条の領土回復を支援してるけど改宗した婿のために義理を果たしただけとちゃうんかな
大友にしたら土佐なんかいらんし彫塑とコトを構えようなんて思ってないかと

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 09:45:56.70 ID:TCdNhDe3
宗麟が四万十川合戦で義理を果たしてからもう10年以上経ってるし
仙石はアカンけど長宗我部親子はまぁ見どころあるわってフロイス評や
戸次川前後の元親・宗麟のお手紙やり取り見ると悪くはない感じはするね

仙石秀久讃岐入部時の弾圧とそれによって生まれた神社

2018年08月18日 21:08

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/18(土) 10:01:03.09 ID:3+iYClTC
此の時に当りて元親各所にて敗北し、ついに豊臣氏に降を乞いた。
是に於て豊臣氏は秀久の功を賞して当国(讃岐)に封じた。
(この時十河存保を山田郡二万石に分封)

さて秀久は宇足津の古城を修理してここに移ったが
当時の民情穏やかならずして、互いに結党し、国主に貢納するものがなかったため
秀久は直ちにその首魁どもを捕らえてこれを煮殺した。
また香川郡安原村の民が香西伊賀守の妻女を匿っているのを知ると
ある者は磔(はりつけ)に、またある者は斬首したため、ここにおいて一国の人民皆恐怖し従った。
(香川県史)

八幡神社(安原村大字安原下字平賀)由緒
世俗では岳八幡、又は平賀八幡と称せり。
社記、香西雑記等によれば、天正年間に仙石権兵衛秀久当国に封を受け、引田より宇多津に移居した。
時に当村の百姓等乱を起こし、秀久の命に服さなかったので乱民百余名が刎せられた。
そのため里人恐怖して安住せず、離散する者がすこぶる多かった。
この時当社御神体を奉じて葛西郷に至った者達がおり、そこで小さな祠を営んだ。
これが現在の香西町平賀神社の地であると言う。

(香川県神社誌)

仙石秀久讃岐入部時の弾圧とそれによって生まれた神社のお話




42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/18(土) 15:18:23.99 ID:l4EdEMjJ
仙石の民政下手はホントひどい。小諸藩では一郡逃散される始末だし。

この辺のこと、例のマンガではなにも描かれないんだろうなぁ。

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/18(土) 20:47:06.20 ID:307WAghu
一揆ども撫で斬りは織田時代からの伝統でしょ
移民政策を取れば万事上手くいく

我が去年攻め残したる城なれば

2018年08月11日 18:31

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/11(土) 08:33:19.76 ID:pvd4tFcp
天正十三年四月、宇喜多秀家備前美作の兵一万五千
蜂須賀彦右衛門尉正勝、黒田官兵衛尉孝高を検使とし
仙石權兵衞尉秀久、尾藤甚右衛門尉知定
杉原七郎左衛門尉家次、小西弥九郎行長、共に七人の兵将二万三千人をもって讃州に発向した
四月二十六日に屋島の浦に到着し、北の峯に旗を押し上げると
国中の人民これを見て騒動すること言うばかりもなかった

ところが北の峯は分内狭迫にして兵を留めるのが難しく、そのため南の峯へと移ったが
この山も上代の名城なれど山高くして戦さをなすには用がなく
其の日下山して牟礼高松に上った

さてここに喜岡城という小城があり、高松氏世々の居城であった
香西伊賀守の旗下なれば、加番として唐人弾正、片山志摩守を兵将として百余人指し使し
高松左馬助配下の百余人と共に、二百余人をもって城を守っていた
この城は去年仙石秀久、小西弥九郎らが二千余人をもって攻めれども
堅城なれば落とすことができず、この度四国の手先に在って大軍の馬蹄にかかる事となった

秀吉公の御目代黒田孝高が宇喜多秀家に向かって曰く
「小塁(小城)あり、この度の手始めなれば、踏み落として然るべし
高松山の松を切り寄せ、これをもって堀を埋め上げ足場とし
一時攻めに陥とし国人の聴を驚かすべし」とて全軍に下知されたが
仙石氏これを聞き
「これは我が去年攻め残したる城なれば、他人の手にかけさせるべからず!」として勝手に攻め寄せた
このため攻め具を待たずに、総軍相争って蟻の如く城に取り付く有様となり、この時死ぬ者が多かった

城内にも鉄砲百挺ばかりあったが、敵兵二万余が天地を響かせ攻め寄せると
掘塀堅固とはいえ、猛勢に切所なければ、大軍がいやが上にも重なり
何の造作もなく落城し、二百余人の者ども一人も漏らさず攻め殺された

(南海治乱記)


新居の物件探しをしてたら

2018年08月09日 12:19

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 08:55:53.37 ID:+mM+IPr0
天正十一年、仙石権兵衛尉秀久は讃岐の国を賜りて小豆島に来ると
引田の浦を取ってかけ持ちにし時変を考えた
安富肥前守はもとより秀吉公へ人質を出していたので土佐方へは従わず
雨瀧城をあけて小豆島へと渡っていた

秀久はまず屋島を取って城としようとしたが、山高くして益がなかった
幸いに高松城(喜岡城のこと)という良き城があり、これを攻め取らんとして
二千余人をもって取り上がり押し寄せたが
城主高松左馬助がよく守ったため抜けず、また空掘であったが数尺に切り立ち
底深い掘であったので、攻め手は蟻の如く群がったが、ついに城を攻め取ることができず引き返した
この際城中の鉄砲に当たって死んだ者が数十人あった

次に八栗が嶽の城を検察したが、険要のみにして治をなすには益がなかったため
志度の浦に戻り、結局そのまま小豆島へと帰帆した
その後仙石氏は少兵だったため、(土佐方の)香川氏・香西氏などには手向かわず
島伝いにあちらこちらに上陸し、少々の成果があった
土佐方は、高松城は国家の治道をなすべき立地であるから
久秀はまた攻め来たるだろう、加兵を入れて守らすべしとして
香西家臣唐人弾正、片山志摩守らに加え寄子百余人を指し使わし
城兵と共に二百余人をもってこれを守らせたため、城中はますます強くなった

(南海治乱記)

新居の物件探しをしてたら上手くいかず、いつの間にかゲリラ活動をする羽目になったお話
この後に引田の戦いが起こり、仙石秀久は讃岐から撤退します


センゴク権兵衛の水野勝成動静より

2018年07月09日 21:08

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/08(日) 19:03:49.08 ID:pHebzZNl
センゴク権兵衛の水野勝成動静より

水野勝成が仙石権兵衛配下の際、長曾我部攻めで
水野勝成に兄を射殺された竹崎右衛門水野勝成に復讐を誓う
その水野勝成が土佐の国に放浪している事を知る。
土佐の村々で一宿一飯の旅をしているらしい。
そして水野勝成を村の相撲大会におびき寄せる事にした。
水野勝成が相撲大会に参加したところを引っ捕らえて兄の仇を討つ計画だったが
いざ水野勝成が相撲大会に参加した際にまさかの褌一丁の姿に驚き
水野勝成を捕らえる好機が無くなった。
相撲大会は無事水野勝成の優勝に終わり、竹崎右衛門の家来まで喝采するが
結局水野勝成は捕らえられた。
その時、竹崎右衛門は水野勝成の前に出て水野に賞品である米一斗を差し出した。
そして水野勝成も竹崎右衛門の前に自分の持って来た米を差し出して「供養にせよ」
と言った。
水野勝成は周辺の村で一宿一飯の恩義で米を集めて供養米を集めてたらしい。
竹崎右衛門は水野勝成に「これからも立派な武将になられませ」と返答した。



69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/09(月) 12:25:51.02 ID:Elqyu4L1
一宿一飯の恩義で米を集めて

ここがよく分からなかったが、泊めて貰ってお土産で米を貰っていたという事か

70 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/09(月) 21:48:22.34 ID:zdyxJwFY
ついに水野勝成さんが明後日のヒストリアに登場だ
どのように調理されるか楽しみだ

※ あらまあ(´・ω・`) 7月18日22時25分からに変更になった模様

SnapCrab_No-0492.jpg


71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/09(月) 22:37:20.20 ID:ms4qa/97
>>69
騙し取ったのかもしれん

故に仙石氏の敗卒、つつがなく国へ帰る

2018年03月11日 13:30

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/10(土) 18:46:55.17 ID:L191u84q
ここにおいて仙石氏戦い破れ、四国の兵大友勢に寄らんとしたが
新納武蔵守は脇佐古村より人数を出し、大友義統の陣に打ってかかった
義統多兵と云い、我が身にかかるいくさなれば
二つなく戦うべき所なれど、云う甲斐なく敗軍してしまったため
四国の将兵、頼む所なく船本へと没落して行った

弥が上にも船に取り乗り、漕ぎ出だす者もあれば
乱軍の習いにて乗り遅れたる者、海浜に転ぶ者や
溺れる者共を見捨てて舟を出す者ありと、哀れなことも多かった

しかしながら讃州海賊頭、乃生縫殿助生島太郎兵衛
塩飽の吉田彦左衛門とその弟孫左右衛門
宮本助左衛門と弟作右衛門に妹尾、渡辺等
日比の四宮隠岐守にその子主計守
直島の高原左衛門とその子佐助及び弟文左衛門に小豆島の住人ら
秀吉公の命をもって師船(いくさぶね)を奉行しており
その警固ゆゆしき故に仙石氏の敗卒、つつがなく国へ帰る事ができた

(南海治乱記)

戸次川合戦における讃岐勢豊後撤退時の逸話
讃岐水軍揃い踏みと言った感のあるラインナップですね


仙石橋 白滝橋

2018年03月09日 11:01

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/08(木) 18:53:20.58 ID:XBnrOpcr
仙石橋

大分県字船頭町より西大分町字勢家に通ずる間にあり
仙石の名称は天正十四年十一月、仙石秀久、秀吉の命を奉じ
兵を率い大友氏を援けるに際し、大友義統、道路を修繕しこの橋を架け
もって秀久一行を迎えた事に因り、名付けて「仙石橋」という

おそらく当時架けられたものは土橋で
現在の石橋に改まったのは承応二年、城主日根野吉明の時である
架橋の竣工なるや日根野吉明、同年五月七日をもって渡橋式を行い
堀川町幸松興右衛門をして一番に渡らせた
その際興右衛門、子孫従僕合わせて八十余人
皆々盛粧してこの橋を渡ったそうだ


白滝橋

長宗我部信親の愛馬は真っ白な鬣(たてがみ)を持ち
馬を走らせると滝の様に流れて見えたため
「白滝」と呼ばれていた
戸次川合戦にて信親は討ち死にを遂げるが
残された愛馬は川のほとりにいつまでも佇み
それがまるで主人の帰りを待つかの様に見えたため
地元の民が逸話として語り継ぎ
この地に橋を架ける際、その名を取って
「白滝橋」と名付けたそうだ

(大分案内記:名勝旧跡ほか)

戸次川合戦にまつわる二つの橋の逸話
仙石橋は大正初年に崩落してしまいましたが
白滝橋は国道10号線に架かる橋として現存しています



684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/09(金) 00:08:22.71 ID:/J7dFos7
>>683
丹生島城の戦いで名付けられた臼杵の甚吉坂(吉岡妙林の子の吉岡甚吉が活躍した小坂)が好きだな

敗走した後、残された兵卒はどうなったか?

2017年12月22日 17:41

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 21:58:50.88 ID:JNQX2C1W
天正十五年正月十九日、島津修理大夫義久は戸次川合戦についての弁明および
秀吉への恭順の意を示す書状を豊臣秀長および石田三成に寄せた

先年冬、互いに使者を指し登せ友誼を定めようとしたところに
かくの如くも首尾(戸次川合戦)となってしまい
急使を得て追って飛脚を申し付けいたします

そもそも大友家が他邦と連合し、こちらに攻めてきたのは歴然たるゆえ
分国および日向の境まで発足いたし、防ぎ矢として軍勢を差し向けたところ
仙石殿・長宗我部殿が義統と一致をなされたため、両将に対し

「この度の御下りは関白殿下の御下知であろうが
 当家は大坂に対して毛頭も逆心を構え存ぜざる上は、何卒御引き取りを願いたい」

と申し上げたところ聞く耳を持たれず、我らに攻めかかってこられました
異議に及ばず一戦して勝利を得たものの
敗北した豊後勢が、仙石および長宗我部勢に紛れ区別できなくなり
結果的に数千騎を討ち果たす事になってしまいましたが
これはもとより本意ではありません
しかしながら、我らの間に疎隔が存じていないのは
合戦後、府内において、京・四州の士卒が難儀のところを
我が弟、中務少補家久が大船三・四艘程も調達し
彼らを送り出したことを持っても明白であり
これを証しとして、何卒秀吉公へのお取り成しをお願い申し上げます

(合伝流闘徴禄日本戦史)

軍監が供回りのみを連れて敗走した後、残された兵卒はどうなったか?
という疑問に対する答えが書かれた書状である
当時仙石家にいた後藤又兵衛や庄林一心もこの船で帰ってきたのかも知れませんね



418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 22:59:32.94 ID:7a3MXH0t
ちょっとイラッとしたから数千人ぶち殺したけど冷静になったらやべーわってことで船を何艘か用意したんで許してくれやってことか
さすが鬼島津無茶苦茶やんけ

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 23:14:18.95 ID:Q69eCTkr
何を普通だと思ってるのか知らんがどういう解釈だ

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 07:50:28.68 ID:PM/fY5US
鬼は鬼畜の意

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 08:34:01.60 ID:q+zFI8EU
お手紙でなんとかしてしまう引きこもり長男最強やん

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 09:46:11.23 ID:qpbVehiP
形に残るものでは相手をなだめるのが基本かと

戸次川合戦後の讃岐について

2017年11月10日 21:30

290 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/10(金) 11:19:14.92 ID:2QZmOQNt
戸次川合戦後の讃岐について

ある時十河猪兵衛に会い、豊州利光川の戦(戸次川合戦)
存保戦死について問うたところ
猪兵衛曰く、我は幼主千松丸に属せられ参陣せず
父の猪右衛門、十河但馬、松田宗閑などの忠臣は皆死をもって従った
存保の命を伝えて来る者もあり、死亡を逃れて来る者もあるゆえ
我が見ていない事を語っても益はないだろう、と前置きし語り始めた

存保筑紫にて戦死の日は十二月十二日である
その日の八つ時分に、兵卒三百人ばかりが旗十流ばかりを靡かせ
十河の城に入るのを田畝に耕す農人が見た
次の日、近境の者どもが還陣を賀そうとやって来たが
城中の者はそのような有様を知らず、不思議な事だと言い合った
そんなことがあった数日後に、豊州戸次川にて
存保が戦死を遂げられた報告が届いたそうである
家人どもは十河家息男千松丸に付き従い、十河の城に留まり
仙石秀久は豊州の敗軍を恥じて讃州に入らず
直に高野山に入ったと聞いている

(続く)

291 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/10(金) 11:20:29.39 ID:2QZmOQNt
また天正十五年正月、讃岐の国を尾藤甚右衛門尉賜いて入部し
兵卒を催し、筑紫陣(秀吉の九州平定)の用意をすることになった
去年の年貢は残っておらず、今年の収穫も先のため、手だてなければ
寺社領、神社仏閣の敷地まで検地を入れ、軍中の資用を宛て課した
国中の商家遊民に課役をかけて催促したが
はかばかしく財産も集まらなかった
仙石氏出陣の時と比べ、三分の一の形相にも及ばずして
九州へと赴いた事を思えば、高城の夜戦の際(根白坂の戦い)
尾藤氏が痩せたる兵をもって島津方の逞兵にあたり
固く守りて出なかったのは、己を知る者であったからである

神子田中左衛門は信長卿の御家にて
竹中半兵衛と両半と言われし弓矢巧者であり
この度、秀長卿の介添として日向の国に発向したが
高城の夜戦の際、善ヨウ坊を救わずをもって
改易されると言う人あるが、我はその実否を知らない

292 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/10(金) 11:21:17.92 ID:2QZmOQNt
それ小軍夜に紛れていくさを起こし挑む事は、大軍にとって大事である
総軍皆出でて戦う時は、彼我を分かたずして、同士いくさするものだからだ
各陣固くして夜の明くるを待ち、敵の退き口について朝合戦をなすべきで
これぞ大軍の手だてである
秀吉公は勇戦を好まれるがゆえに、その時勢を糾さずして
尾藤が落ち度として讃州を没収されたのである

(南海治乱記)




信親忠死の跡なれば

2017年08月31日 16:58

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/30(水) 14:48:51.99 ID:D/ZmCpnd
去る程に豊後の軍、仙石権兵衛が無法ゆえに寄手大きに打ち負け
十河・田宮を始め、軍兵どもあえなく討たれ、仙石・大友は豊前国へ逃げゆき
弥三郎(信親)は討ち死にし、宮内少輔(元親)は生死知らざる事が
追々都へ聞こえて来たので、秀吉公大いに怒りて仰せつけられるには

「権兵衛は元来強気無法の者であれば
 敵を侮るな、一人駆けはするな
 衆議一同の上進退せよと再三かたく示したのにその議を用いず
 宮内少輔の諫言を聞かず、我意に任せる事は上を軽侮し
同僚を軽慢するのと同じであり、曲言の専一である。
 察するに彼は、先年宮内少輔に手痛く当たられた事を深く心意にはさみ
 この度公議を借りて讐を返し、元親に恥辱を与えんとして
 かえって己に及んだのであろう。これは武士の本意ではない
 一方弥三郎は同列の罪逃れざるを知って潔く討死した。不便というにも余りある
 我、彼が不快を知らず、相将に列した事は甚だもって落ち度であった
 今更悔やむに益はなし、しかしながら元親がもし討死となれば
 土佐国の一揆供がその弊に乗って狼藉する事もあるだろう」

そうして信親忠死の跡なればとして
土佐国政の事を仰せつけられ
増田長盛、藤堂高虎を上使として土佐国へ差し下し
長宗我部家に慰問をなし、例え元親親子相果てたとしても
領地は安堵して次男香川五郎二郎に遣わすべしとの御朱印を下された。

(土佐物語)



88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/31(木) 10:50:37.09 ID:tjcfsPmD
十河家.....。

戸次川合戦讃岐勢の最期

2017年08月26日 13:22

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 20:21:18.15 ID:7I3kQIYN
戸次川合戦讃岐勢の最期

ここにおいて仙石、いくさに敗れ、土佐讃岐の兵卒混一になって崩れた
桑名太郎左衛門、信親に使者を馳せて曰く
「今すぐお引き返しください、少しも遅れてはなりませぬぞ」

槍を入れる信親存保、撤退の下知をしたが及ばず、共に押し立てられ
存保が家人に言うには

「阿波の守護だった頃、信親と戦う事数度にして
 一度は長宗我部が首を見んと切望していたが
 その遺恨は今である。信親に呼びかけて討死させ
 我が思いを晴らすとしよう」

(続く)

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 20:22:48.65 ID:7I3kQIYN
信親に使者を馳せて曰く

「今日の戦いは仙石の謀(はかりごと)の拙さによるとは言え
 恥辱は先手の将帥にあり。
 引き返して勝負を決したまえ。存保も加勢申すべし」

存保馬に鞭を打ち馳せ行くと
信親も勇壮の将なればもっともであると承諾し
両将共に取って返し、敵の中へ馳せ入れ
火水の如く戦いて、晴れなる戦死を遂げられた。

香川民部少輔、安富肥前守、羽床弥三郎
阿波の矢野、河村などの軍将数十人
勇名ある者数百人、総兵千有余人
皆力のある限り戦い、そして死んでいった。

「南海通史」



81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 22:19:54.39 ID:kEYXRfFo
>>59
>「各々方さほどに同心なくば、我等一手をもって後詰せん」
一人で討ち取られちゃえばよかったのに

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 14:21:09.45 ID:l1s1q4Vz
信親と長宗我部家が不憫でならない…。

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 14:48:49.94 ID:2DOcTq0a
次男三男死なずにすんだかもな

豊後勢から見た戸次川合戦渡河

2017年08月23日 18:22

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 15:25:11.58 ID:anEy0bRv
豊後勢から見た戸次川合戦渡河

大友義統は鶴ヶ城の難儀を聞き、援兵を考えたが譜代の家人は
島津に心を寄せ内通(原文:ヨソ聞キシタル)の有様のため
如何ともし難い状況であった。
そこに仙石・長宗我部「殿下の御下向あるまでは
進んで合戦するべからずとの上意とは言え
鶴ヶ城の危機を見捨てるのもまた難しいのでないか」との進言をし
これ幸いと大友軍勢相加わり、都合六千余の勢が十二月十二日の未明に府内を出発し
鶴ヶ城の西北、川を隔てて鏡城と呼ばれるところに着陣した。
旗馬印をおびただしく並べ蟠踞すると、前は竹中村、後ろは深い谷のために
幾千万騎もあるように見え、城を攻めあぐねていた島津勢
この有様に気を奪われて慌てふためき、我先にと馬を返して
坂原山まで三十余丁の地点まで引き返した。
そこでしばらく人馬を休めると斥候の者を召し
「汝等これより立ち帰り、後詰の勢の分際を見極めて来るべし」
と言い含め、方々に遣わした。
(続く)

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 15:27:15.55 ID:anEy0bRv
さて仙石権兵衛、諸卒に下知して言うには
「機を先する時は人を制するに利あり
 おおよそ川を隔て陣を取るに
 渡して戦いに勝たない事はなしと言うがいかがが?」
士卒ども難所を越えて血気盛んの故か
この川を渡して敵を蹴散らすべしと申し上げた。
長宗我部元親これを深く制して曰く
「川を渡して勝ちたる例は多いと言えど、不案内なる敵地へ入って
そのような働きをするのは殿下(秀吉)の覚えもいかがであろうか。
またこの川の形勢を見るに、こちらの岸は高く
馬の乗り上げが難しい。ここは敵と対峙し
敵がもし川を渡って来たらその半途を打てばよい。
ここは平に待ちたまえ」と制したが
権兵衛もとより短才愚蒙の人だったので
聞かぬ顔にて馬をさっと打ち入れると
その手の兵千五百余我先にと川を渡り始めた。
元親も今はこれまで、やむを得なしと、身をかたくし怒りながら川を渡った。
「豊薩軍記」



74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 15:50:58.54 ID:9wzzu0EL
慌てふためいた「ように見せた」んだろうな

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 20:00:30.68 ID:mYgG+7Q6
お家芸の釣り野伏ですね

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 20:07:35.32 ID:1E7jkg3i
短才愚蒙ってすげえ言われようw

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 22:47:42.19 ID:Cz0GgWje
なんでこんなアホなことしたんだろう、経験豊富な武将だったのに。

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 23:31:57.49 ID:EQZ+wj9p
讃岐もらったし、いいとこ見せたかったんじゃないの

軍監の命なれば是非に及ばず

2017年08月22日 17:59

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:34:50.20 ID:W9FCLw1N
天正十四年十二月、豊後国戸次川合戦軍議での事である。
軍監仙石秀久、戸次川を目の前にして発議して曰く
「この川は九州一の大河にて頗る難所とは言え、大勢に切所はなし。何ぞ恐るるに足らん
 いざ、諸軍一同に渡して一戦に勝負を決すべし」
これに対し長宗我部元親曰く
「この川を渡るのは殊の外面倒なり。敵が川端に引いて備えるは堤の陰に伏兵あるべし。
 川の半途で鉄砲を打ちかけられれば先陣は全滅し、一陣敗れれば残りも全うする事は叶わず。
 ことさら島津は大敵といい、強敵といい、最も侮りがたし。殿下(秀吉)の戒めらるるは正に今日にあり
 しばらく川をへだてて対峙し、敵の虚実をはかって方便あるべし」
十河民部存保もまた諫めて曰く
「敵は目に余る大軍で、この小兵をもって大河を渡り、後詰(ごづめ)野戦するはもっての外なり。
 守りを固め、敵が大河を越えて来たらば一戦し、また越えて来ねばかねて御定めの如く、殿下の御出馬を待つべし」
秀久服せず曰く
「昔より川を渡った者が勝ち、渡された者が負ける事少なからず。早く川を渡れば人を制する利といい
 上方への聞こえといい、急ぎ渡し然るべし」

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:36:28.43 ID:W9FCLw1N
この時、はるか前方に元親麾下の細川源左衛門がおり、この勇士は四国のいくさにて高名を立て
秀久も見知っていたのでこれを呼び、渡河の可否について述べよと命ずると
「川向こうの小藪に伏兵あるべし。もし渡さば川中にて鉄砲うち掛けられ、先手破れ後手敗軍とならん
 対陣し敵の動きを見て方便あるべし」
これに対し秀久
「治承の昔、足利又太郎(足利忠綱)は宇治川にて、源頼政大勢にて防ぐと言えども遂に渡り済まし
 また後の元暦承久の合戦でも、川向こうの大勢を相手に渡すなり。我等も見聞する所、川を渡り利を失う事少なし」
源左衛門曰く
「昔は鉄砲なし今は鉄砲あり、いくさの様も変われり、ご思案あれ」
秀久曰く
「各々方さほどに同心なくば、我等一手をもって後詰せん」
ここに至りて諸将は無謀の策を喜ばざりしも、軍監の命なれば是非に及ばず、また味方を捨て一人身を全うするもならず
三軍和せざるは敗軍の兆しなりとてその議に従い、一同渡河の準備に取り掛かった。  

「土佐軍記」



60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 06:48:59.75 ID:inKWe/E+
今も昔も指示する立場の人間がええかっこしいなら苦労するわ

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 07:33:00.57 ID:+wZ6x60J
元親を憎んでる十河は負けると分かった上で仙石に同調したと思ってたけど違うのか

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 08:02:52.86 ID:HRLKmaln
四国勢はもちろん案内役の戸次隊のこのあとのことを考えるといたたまれない

戸次川合戦における讃岐勢の悲哀

2017年08月22日 17:58

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 09:21:39.91 ID:W9FCLw1N
戸次川合戦における讃岐勢の悲哀

戸次川合戦が開始されると仙石・十河両軍は島津の先陣とぶつかり
これを川へ追入れて一旦踏み止まった。
十河存保は弓矢功者だったので彼我の虚実を察し、急ぎ仙石の陣へと馳走して曰く
「今、敵の先陣敗れたりと言えど、これは実の敗軍ではなく味方を引っ掛けるはかりごとである
 後陣の大軍は村々に満ちて我らに備えており、川向こうに伏兵があるから渡るべきではない
 勝ちいくさの勢いをもって一旦引き揚げ、兵卒を立ち直らせ、陣を固めて次のいくさを待つべきである
 敵は決して川を渡って来ないから、その間にこちらの方便もしやすくなるだろう」
仙石はもとより勇猛で怒りやすく、人の言を容れない性分だったため、存保の献策を用いず、大いに怒りて
「この勢いを持って敵を追撃せねば敵はまた持ち直すだろう。急ぎ川を渡り追伐すべし」
そう言うなり自ら槍を取って進発した
存保は苦笑して(原文:悪ク笑イテ)「今思い知ったわ」と言い捨てると自陣に戻り、郎従数人を呼び寄せ
「汝らは国へ帰り、千松丸(存保嫡男)を連れて上京し、このいくさのあり様を申して秀吉公のお目にかけよ
 これが専一の忠節であるぞ」そうしかじか言い捨てると、手勢に下知し川を渡って行った。

「南海通記」



65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 10:45:11.73 ID:bjVqcGPk
ブラック戦国武将

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 18:12:50.38 ID:I/nuzxSG
豊臣秀吉文書集読んだら戸次川の後秀吉が大友の志賀親次や佐伯惟定に送った手紙だと
仙石が不届きにも勝手に戦い負けてしまい、すまないがもうしばらく頑張って持ちこたえてくれ
みたいな感じに書かれてたな

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 18:12:50.38 ID:I/nuzxSG
豊臣秀吉文書集読んだら戸次川の後秀吉が大友の志賀親次や佐伯惟定に送った手紙だと
仙石が不届きにも勝手に戦い負けてしまい、すまないがもうしばらく頑張って持ちこたえてくれ
みたいな感じに書かれてたな

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 19:32:15.47 ID:dLLmZWq5
そらそう書くしかないわなw

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 20:52:44.68 ID:Sxe+xW1C
この戸次川推しは
とうとうセンゴクで戸次川の戦いまで来たからかな

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 22:49:09.44 ID:dGIwlC76
仙石無能

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 23:27:17.91 ID:fvB7DkEz
>>66
文書集持ってるなら仙石たちを送り込んだときの書状も読んでみると良いよ。
なかなかブラックだからさ

「フロイス日本史」から、戸次川の戦い

2017年05月30日 18:11

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:31:52.86 ID:pxsQt+cT
(豊後国主の)嫡子は、薩摩軍が攻めてきた時に身を守り得るために、
他の二名の主将(仙石秀久長宗我部元親)とともにウエノハル(上原)と称するある場所に一城を築くことに決した。
だが彼らは心して真面目に築城の作業に従事しなかった。
彼らの不用意は甚だしいもので、饗宴や淫猥な遊びとか不正行為にうつつを抜かしていたので、その城は笑止の沙汰であった。
したがって(薩摩軍が来週した時に彼らが)助かることなど思いもよらないことであった。

ところで国主フランシスコの息子パンタリアン(田原)親盛は、司祭に対して、
もし府内で何事かが起こった場合には、司祭は家財を携えて城(妙見城)に身を寄せるようにと伝えていた。

薩摩の軍勢は惰眠をむさぼることなく、攻撃力を強めながら、漸次豊後に進入して領地を奪っていった。
豊後の指揮官たちは、常軌を逸した振る舞いによってますます油断の度合いを深めていた。

本年一五八七年の一月十六日(西洋暦)、薩摩の軍勢は、
府内から三里離れたところにあるトシミツ(利光宗魚)と称するキリシタンの貴人の城を襲った。
城主は府内からの援助を頼りに力の限り善戦した。
だが敵は攻撃の手を緩めず、ついに武力によって城内に進入し、その城主、ならびに多数の兵士を殺害した。

府内にいる味方の勢は、(利光の)城が占拠されているかどうか確かなことを知らないまま、
赴いて囲みを解くべきかどうか評定を続けていた。
結局、彼らは出動することに決め、栄えある殉教者聖フィビアンと聖セバスティアンの祝日に府内を出発した。

府内からは、仙石がその兵士を率い、土佐国主長宗我部とその長男がその兵士を伴い、
さらにパンタリアンも兵を率い、その他豊後の特定の殿たちが出発した。
清田と高田の人々に対しても出動するよう命令が出された。

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:32:45.50 ID:pxsQt+cT
薩摩勢は、それより先(豊後勢の動静を)知らされていたらしく、余裕をもって策を練り、
準備を整え、一部少数の兵士だけを表に出して残余の軍勢は巧妙に隠匿していた。

豊後勢は、大きく流れの速い高田の川に到着し、
対岸に現れた薩摩勢が少数であるのを見ると、躊躇することなく川を渡った。
そして豊後勢は戦端を開始した時には、当初自分たちが優勢で勝っているように思えた。
だがこれは薩摩勢が相手の全員をして渡河させるためにとった戦略であった。
渡し終えると、それまで巧みに隠れていた兵士たちは一挙に躍り出て、
驚くべき迅速さと威力をもって猛攻したので、
土佐の鉄砲隊は味方から全面的に期待をかけられていながら鉄砲を発射する時間も場所もないほどであった。
というのは、薩摩軍は太刀をふりかざし弓をもって、猛烈な勢いで来襲し、鉄砲など目にもくれなかったからである。
こうして味方の軍勢はいとも容易に撃退され敗走させられて、
携えていた鉄砲や武器はすべて放棄し、我先にと逃走して行った。

豊後国の人たちは、河川の流れについて心得があったから助かったが、
仙石と長宗我部の哀れな兵士たちは他国の者であったから、浅瀬を知らず溺死を余儀なくされた。
こうしてその合戦と破滅において、二千三百名以上の兵士が戦死したと証言されている。
彼らの中には、土佐国主の嗣子や、かつて阿波の領主であった十河殿、その他大勢の貴人や要人が含まれていた。

薩摩勢は、その日の午後には府内から四分の一里の地点にまで到達し、
その途中にあったものをことごとく焼滅し破壊した。




「フロイス日本史」から、戸次川の戦いについての記述である。