fc2ブログ

徳川秀忠の正妻・崇源院について

2021年03月17日 18:05

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/17(水) 16:48:19.52 ID:aThDU7wJ
御所(徳川秀忠)の御台所は贈中納言藤原の長政卿(浅井備前守殿の御事なり)の御娘にて、御諱は
達子と申す。御母は織田右府(信長)の御妹である。(諸書に記す所、みな妹としているが、渓心院という
女房の消息を見ると、信長のいとこであるとしている。もしくは、いとこであるのを妹として披露して
長政卿に嫁がせたのであろうか。)(筆者注:『渓心院文』の事か)

御兄右府のはからいにて長政卿に嫁ぎ、姫君三人をもうけ給う。長政卿越前の朝倉を助けて
織田殿に背かれたが、ついに近江国小谷の城にて滅び給う。正妻であった小谷の方(お市の方)は
織田殿の元に帰り給い、家人の柴田修理亮勝家に賜り、姫君たちを伴って越前国北ノ庄に移られた。

天正十一年の夏、勝家は羽柴筑前守秀吉のために、近江国賤ヶ岳で戦い負けて、北ノ庄に逃げ帰り、
腹切って失せた、この時、小谷の方は息女と共に落ちたまえと、勝家はひたすらに諌めたのであるが、
さらに聞き入れずして共に空しくなられた。
子供たちのことは、「筑前守の元に渡されるべし。織田殿の厚恩を受けた人であるのだから、まさか
悪しくはしないでしょう。」と、自ら文を書いて、姫君三人を輿一つに召させて、女房たちも残らず
添えて、城より出されると、敵の兵たちは中を開けて確認した上で通した。
秀吉は息女たちを迎え取ってよく労り、大切に養い育てた。

その後、時移り世改まって、姉君は豊臣太閤(秀吉)の思者となられた。淀殿と申されている人が
これである。
次女は京極宰相高次の室となり、後に常高院殿と申す。
御末は御台所にておはします。太閤は彼女を大切に養い育て、文禄四年の九月、御所にあわせ参らせた。
後に大御台所と申し奉る。大猷院御所(家光)をはじめ奉りて、若君姫君、あまたもうけさ給えり。

一説に、大御台所ははじめ、尾張国大野の城主・佐治与九郎一成に嫁いだが、一成太閤の心に
違うことが有ったため、室を奪い取り丹波の中納言(羽柴)秀勝に娶せ。姫君が一人産まれられた。
その後朝鮮の戦起こって、秀勝も大将を承って押し渡ったが、文禄二年に彼の国にて失せにければ、
内室やもめとなりし給いしを、台徳院御所に参らせたのだという。この時、(秀勝との間にもうけた)
姫君も御所の養女とされて、九条関白殿(幸家)の政所となられた。摂政殿(九条道房)の御母である。

また佐治一成が太閤の不興を得たのは、天正十二年、小牧山の戦いが終わり、東照宮(家康)が浜松に
帰られる時に、佐屋の渡りにおいて、一成己が船を以て渡らせ参らせた事によって所領を失ったのだという。
然れども、この年大御台所はわずかに十二歳にておはしませば、一成の妻と成ったというのは覚束ない。

以貴小伝

徳川秀忠の正妻・崇源院について。なにげにお市の方の信長の実妹否定論の根拠も入ってますね。



スポンサーサイト



茶阿局は筋目定かならず

2021年03月16日 18:51

茶阿局   
630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/16(火) 16:35:55.93 ID:hXgy7t7u
徳川家康の側室である)茶阿局は筋目定かならず。
ある説に、遠江国金谷村という所の、賤しき者の妻であったという(八と呼ばれていたという)

この所の代官某が、茶阿局が見目よき女性であったので心に懸けて、我が者にせんと思い、
彼女の夫に非法をかぶせて殺し、茶阿を奪い取ろうとした。

しかし茶阿はこれに従わず、三つになる娘を抱いて密かに逃れ出て、浜松の城に走り入り、
御前に参って訴え嘆くと、やがて代官が召され糾明され、罪科が行われた。
そして茶阿は身内に召し置かれ、使わせ給わったという、

彼女は(家康の)第六の御子辰千代殿、第七の御子松千代殿をお産みになった。しかし松千代殿は
夭折された(一説には双子であったという)。

辰千代殿は成長され、上総介忠輝卿と申された。四位の少将にて越後国高田を賜った(七十五万石、
或いは五十五万石という)。

これより先、花井庄九郎という者が介殿の御心にかない、出頭して後には御家老の数に入れられ、
受領して遠江守となった。彼は茶阿局の娘を娶され、権勢肩を並べる者も無かった。
その子である主水正義雄も近くで仕えた。しかし元和元年、介殿が罪を被られた時、主水も
誅せられた。
その子で左京亮義虎と言う者は、介殿の御娘と結婚し、配所までも従って仕えたという。

茶阿局は東照宮(徳川家康)が隠れ給いし後、朝覚院殿と云った。
元和七年六月十二日に亡くなられた。小石川吉永の宗慶寺に葬られた。また伝通院にも印が立てられた。

以貴小伝

茶阿局について

※本スレで訂正があったので直しました


631 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/03/16(火) 16:48:12.32 ID:QbGWLllc
茶阿なのか阿茶なのか

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/16(火) 17:06:30.67 ID:IaycZrii
隆慶一郎で知った

於万の方について

2021年03月15日 18:58

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/15(月) 14:43:03.76 ID:dvp4Eblt
徳川家康の側室である)小督局、名は於万の方。永見志摩守貞英の娘にて、第二の御子、結城(秀康)殿の
御母上である。

一説に、永見志摩守は三河国池鯉鮒の人であり、於万の方は、幼い頃より徳川殿の北の方・築山殿に
宮仕えされていたのだが、君の御愛くしみを受け身重くなり、これを築山殿が知られ、ある夜於万殿を
赤裸にして縄で縛め、浜松の城の木深き所に捨てられた。
その折、本多作左衛門重次が宿直をしており、女の泣く声を訝って捜した所、この有様を見て、急ぎ
縛めを解き、事の故を聞いて密かに自分の家に伴い帰って介抱し、その後、君にこれこれと申し上げると、
いかに宣われたのだろうか、重次はそのまま自宅で於万の方を保護し、天正二年の二月、浜松の城外、
富見村という所で御子を産まれた。これ即ち於義丸殿(秀康)にておわす。
このような事であったので、御対面も無く、重次がよろず育みまいらせた。

また一説には、於万の方は身が重くなったため、北の方に漏れ聞こえて憂き目を見ることを恐れ、
密かに忍び出て、本多豊後守(広孝)の家の重臣である本多半右衛門の家に走り入り、云々の事なりと
云うと、半右衛門は本多作左衛門に告げ、作左衛門は密かに君に申して、己が元に迎え取り、
介抱したという。何れがまことであろうか。

結城(秀康)殿が越前を賜られると、局も越前におわしけるが、慶長十二年の四月八日、結城殿は
先に逝かれまいらし、悲観に耐えずたちまちにして落飾された事も悲しいことである。
法号を長勝院殿という。
元和五年の十二月六日、福井にて亡くなられた。七十三歳であったという。敦賀の孝顕寺に葬られた。

彼女の実家である永見の家も越前家に仕え、忠直朝臣の時に家は亡んだ。
その後、忠直は豊後の配所にて産まれた子を永見と名乗らせ、その家を立てられた。
しかしこれも、光長朝臣(松平光長・秀康の孫)が(越後騒動により)流罪となった時に罪をかぶって
終に家は絶えた。

以貴小伝



於大の方について

2021年03月12日 17:50

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/12(金) 14:40:37.96 ID:UigjWT+2
東照宮(徳川家康)の御母上で、大方殿と申された方は、水野右衛門太夫忠政の御娘であった。
岡崎贈大納言家(松平広忠)に嫁がれて、天分十一年の十二月二十六日に若君をもうけられた。
これを竹千代殿と申し、即ち東照宮の御事である。
その後、また姫君が一人産まれられ、これは始め松平与一郎忠政に嫁いだ後に、保科越前守正光の
妻となられた。

大方殿は御父水野忠政が亡くなった後、御兄である下野守信元が尾州の織田に志を通じられ、
その時岡崎殿は無二の今川方であられたため、筋を通して北の方を下野守の元に送り帰された。
これによって、尾張国知多郡阿古居の領主、久松佐渡守俊勝に再婚され、そこで男子三人、女子三人を
もうけられた。

永禄三年三月、東照宮は初めて阿古居の館に渡られ、御母上に見参され、継いで三人の子息を御弟に
なされて松平の御家号を許された。
兄は三郎太郎康元、後に因幡守。次は源三郎康俊、末は三郎四郎定勝、後に隠岐守という。
父の佐渡守俊勝も岡崎に祗候したため、三河国西郡の城を給わった。

下野守信元も御外舅であるので、隔てなくおられたのであるが、ある年、織田殿(信長)の不興を得て、
東照宮も力及ばず、岡崎に招いて失い給う。然れども所領の地は、事故無く弟であった水野藤十郎忠重に
織田殿より給わった。これは当家(徳川家)と御由縁がある故であったという。(これは織田家に、
佐久間信盛が讒言したためであり、その所領の地も佐久間が申し賜って横領したのであるが、その後
佐久間は罪を得て改易された後、下野守の旧領をその弟である水野忠重に織田殿より与えられた。)

佐渡守俊勝は天正十五年の三月十三日に失せた。尾張国知多郡のうち、坂部村洞雲院に葬られたという。

大方殿に対して、当家においては非常に尊重され、慶長七年の六月、都に上られた。
これは名所古跡などを御遊覧されるためであると言われている。そして八月九日、伏見城にて
おかくれになった。御年七十五歳であったという。(或いは七十七歳ともいう。七十五歳であれば
東照宮の産まれ給いし時大方殿わずかに十五歳にて、あまりに若くおわします。七十七歳と言うに
従うべきであろうか。また水野家譜にも七十七歳と見える。)

以貴小伝

家康の母、於大の方(大方殿)について