伊勢新九郎の伊豆討ち入り

2018年02月07日 19:38

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/07(水) 19:03:12.81 ID:p0mpqMFF
その頃、関東は上野を本拠とする山内上杉と、相模を本拠とする扇谷上杉の間が不和となり合戦に及び、
このため山内上杉の勢力下にあった伊豆の侍たちは皆、上野へと馳せ参じた。

この状況を察知した伊勢新九郎は、「願うに幸いである。これ天の与える所時を得たり」と、
自領の百姓どもを招き、この内武の用に立つべき者共を近づけて言った

「相模、上野両国に弓矢起こって、伊豆の侍たちは皆上野に参っており、今や百姓ばかりである。
私は、伊豆の国を切って取る。我に同心合力せよ。
その時はお前たちの忠恩に、必ず報いるであろう。」

百姓たちはこれを聞くと
「累年の御憐れみを忘れることは出来ません。御扶持人(在村給人)も我らも同意します。
我々は地頭殿を、一国の主に成し申さんと願い、たとえ命を捨てるとも微塵も惜しくはありません。
どうぞ、決断し実行されませ。」
そう、衆口一同に返答した。
新九郎はおおいに喜悦し、その上近隣他郷の者までも、この事を聞いて、新九郎殿に与力せんと参集した。

伊豆国北條には、堀越の御所成就院(足利茶々丸)という名高き人があった。
新九郎は「軍のはじめに、先ずこれを討ち滅ぼす!」と、延徳年中の秋、百姓たちを引き連れ夜中に
北條に押し寄せ御所の館を取り巻き鬨の声を上げ家屋へ火をかけ焼きたてた。御所は肝を消し、
防ぎ戦うべき事を忘れ、火炎を逃れ落ち行く所を追撃され、郎従共に皆討亡した。

新九郎が北條に旗を立てると、伊豆国の百姓たちはこれを見て「駿河の大将軍として、伊勢新九郎が
攻めてきた!」と、避難のため山嶺に逃げたが、新九郎はこのような高札を立てた

『伊豆国中の侍・百姓は、皆以って味方すべし。本知行は相違なく保護する。
ただし、もし出てこない場合は、作物を尽く刈り散らし、在家を放火する。』

これを見て百姓たちは我先にと馳せ来て「私はどこそこの百姓」「どこどこの郷の長」などと
申し上げると、彼らの地所相違なしとの印判を取らせ、皆々安堵した。

また、佐藤四郎兵衛という侍が一人、降人と成って新九郎の前に出た。
新九郎は「伊豆国中田方郡大見郷は、佐藤四郎兵衛先祖相伝の地であり、最初に味方したこと
神妙である。今度改めて地頭職を申し付ける。子々孫々永代に渡り、地の妨げは無い。
百姓らもこれを承知すべきで、あえて違失あるべからず。」
と、印判を出した。

上州に参じていた伊豆の侍たちはこのことを聞くと、急ぎ馳せ帰って降人となって出た。新九郎は、
本地皆領納すべき旨の印判を出した。そのため、伊豆の侍は一人残らず新九郎の被官となり、
30日の内に伊豆一国が治まった。

(北條五代記)

伊勢新九郎の伊豆討ち入りについて



624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/08(木) 10:55:16.87 ID:ygpHBN7f
>>622
上野と伊豆が同心なら相模を挟めるのに上野に出向くとは阿呆の極み
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最後の後南朝

2017年09月18日 18:40

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 18:27:32.39 ID:ur7iNDF1
最後の後南朝

明徳三年(1392)に南北朝の合一が成った後も、南朝の残党(後に後南朝という呼称が作られた)は
禁闕の変などの武装蜂起を起こしたり、応仁の乱で西軍に祭り上げられたりと度々歴史の舞台に登場していた。、
しかし15世紀末のある記事を最後に、遂に後南朝は史書からその姿を消してしまう。

明応八年(1499)
此年の霜月、王が流されて三島にお着きになられた。早雲入道が諌めて、相州へお送りになった。
『妙法寺記』

たった一行の短い記事だが、「王」(後南朝の王とされる)が関東へ流され、途中で伊豆の北条早雲(伊勢宗瑞)が
それを迎えて、何かの罪(南朝復興の活動か)を犯したことについて諌め、その後相模へ送り出したというもの。
この記事が史書に見える後南朝の終見で、相模へ送られた王のその後の行方はまったく分かっていないが、
南朝の歴史の最後に、意外な人物とちょっとだけ接触があったよ、という話。



235 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/09/17(日) 18:54:07.83 ID:zv/ao8/x
森茂暁「闇の歴史、後南朝」だと確実な後南朝の最後は山名宗全関連のようだ、以下抜粋

東京大学史料編纂所編纂の 『大日本史料第八編 』の一一 、文明一一年 (一四七九 )七月一九日の条には 、
「小倉宮ノ王子 、越後ヨリ越前ニ到ラセラル 」という綱文のもとに 、
① 『晴富宿禰記 』文明一一年七月一九日の条 、
②同記 、同三〇日の条 、
③ 「妙法寺記 」文明一〇年霜月一四日の記事 、
④同記 、明応八年霜月の記事を掲載している 。
なお ③ ④は 『続群書類従第三〇輯上 』に収められる 「妙法寺記 」にも載せられている 。妙法寺とは甲斐国都留郡の妙法寺 。

①は山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた 「南方の宮 」が国人らに送られて 、越後より越前国北荘へ移ったということ 、
②は 「出羽王 」が高野へ向かう道中のこと 、
③は 「王 」が京都より東海に流され 、甲斐に赴き小石沢観音寺 (現山梨県笛吹市 )に滞在したこと 、
また ④は 「王 」が明応八年一四九九 )霜月に流されて三島 (現静岡県三島市 )に着き 、
「早雲入道 」 (北条早雲 )が諫めて相模国に送ったこと 。
『大日本史料 』当該巻の編者が 「王子 、越前ニ到ラセラルヽ日ヲ詳ニセズ 」
「王子ト出羽王 、並ニ妙法寺記ニ記セル王トノ関係明ナラ 」ずと注記しているとおりで 、詳細は不明のままである 。
比較的信頼のおける南朝皇胤の所見史料の最後は ①であろう 。

豊鑑より、北条への認識

2015年06月23日 17:39

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 20:35:01.10 ID:yUxMH566
その秋、北条美濃守(氏規)と言う者が上洛した。これは北条氏直の叔父である。
この北条氏直というのは、東の国々を7つばかり従え、相模の小田原に在った。

彼は北条時政の子孫ではない。早雲という人物の子孫であるが、彼も彼の国の者ではなく、
都あたりの出身であったが、従者一人二人ばかりで駿河国にさすらい行きて、今川のなにがしに
縁があったが、よろず優秀な人物だったので今川氏の心にかない、漸次出頭したが、伊豆の国に移り、
どうやったのか彼の国を従え、2年3年の内に相模の国を心のままにして、相模の小田原に移り住んで
なおも武蔵、上野の切り取りををこころざしたという。

その嫡男である氏康という男子、父にも劣らず賢く、武士の道にたけく謀ある人物だったので、
彼の時に武蔵、上野、上総、下総などまで従え、一族広く富み、権勢盛んとなったこと思い知るべきであろう。

氏康の嫡男である氏政は、老いたというには幾ばくも至らない内に嫡男氏直に世を譲ったそうだ。

(豊鑑)

当時の畿内における、北条への認識がかいま見られる豊鑑の記事である。
というか氏綱…。



972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 20:58:04.50 ID:wOzHKolz
まあ、ハブられてもしゃあないというか
無関係なところの人間にしてみたらそんなものじゃないの

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:03:39.10 ID:IpAvlnDm
もう出自不明になってたんだんだ

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:31:55.43 ID:g+i0E8PA
毛利の長男よりはまし

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 10:46:03.74 ID:LkICDGu3
斉藤道三の国盗りと一緒で一人と思い込んでたんじゃねーの?

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 23:34:23.03 ID:KeJRBl/z
>>973
興味薄いからろくに調べなかっただけでそ。
東国は別の国みたいなもんだし。

伊勢宗瑞の伊豆取り

2015年01月13日 18:54

553 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/13(火) 15:02:47.57 ID:QnBHyRdV
その頃、伊勢平氏葛原親王より続く子孫(桓武平氏)に、伊勢新九郎入道宗瑞という人があった。
伊勢国の住人であったが、壮年の頃より京都に上り、将軍家に奉公していたそうである。

少年の始めより生涯、山野江海において猟漁を好み、馬に乗って悪所を越え岩石を駆け上がる事は、
まるで神変を得ている如しであった。あの造父(周繆王に仕えていた優れた御者)は馬を御して
千里を走っても疲れること無かったと言うが、この新九郎以上ではなかったであろう。

水練もまた、馮夷(ヒョウイ:中国神話の水神)の道を得ており、驪竜頷下の珠(黒色の竜の顎の下にある珠)
をも奪うことが出来るほどであり、
弓は養由基(春秋時代の武将で弓の名手)の跡を追う程で、弦を鳴らしてはるかな樹上に居る猿を
落とすほどであった。
彼は謀に巧みで、人を良く観察し、気力健やかで心も不屈であったので、戦場に挑むごとに
敵を退け、堅きに当たり強きを破ること、樊カイ・周勃が得られなかった所を得ていた。

そういう人であったので、似た者たちを友とし、その頃伊勢国に荒木、多目、荒川、在竹、大道寺、
そして新九郎の7人、いずれも劣らぬ勇士たちであったが、彼らは常に近づき共に交遊していた。

ある時この七人、一同に関東へ弓矢修行に下る時、七人神水を飲んで誓ったことには、
『この七人、いかなる事があっても不和になってはならない。互いに助けあって軍功を励まし、
高名を極めるべし。もしまた、一人優れて大名となれば、残る人々はその家人となって、その一人を取り立て、
国々を数多治めよう。』
こうしてそれぞれに東国に下り思い思いに活動する中、伊勢新九郎宗瑞は駿河の国司である今川氏親に仕えた。
そして度々戦功があったので今川殿はその功を感じ、富士郡下方庄を与えられ、興国寺城に在城した。

その頃、伊豆国は山内上杉家の分国であった。伊豆は興国寺よリほど近く、どうにかして伊豆国を
討ち取ろうと、宗瑞は常に考えていた。

554 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/13(火) 15:04:40.75 ID:QnBHyRdV
伊豆国には、堀越御所と呼ばれた公方があった。この御所は、去る長禄二年(1458)、京都の
将軍である足利義政の舎弟、政友卿が関東に下向あって伊豆国に御旗を立てたものである。
その子孫が今の堀越御所であった。
かの御所の侍に、外山豊前守、秋山新蔵人という忠功の士があったが佞人・奸臣らが彼らの出頭を妬み、
讒言したのを、御所も御運の末であったのだろう、糾明することもなく二人の士を討ち取ってしまった。
これに家中の面々大いに騒ぎ、お互いに疑い合って国中混乱した。

この時、宗瑞は伊豆国に湯治をしてこの有り様を見聞し、「今である」と判断した。
山内、扇谷の両上杉は関東において絶え間なく争っており、伊豆国は山内家の分国であったために
国中の軍兵、並びに御所侍たちも跡を払って関東へと出陣していた。残る兵は僅かであり、これに
宗瑞は大いに喜び、かつて七人の約束をした荒木、山中、大道寺など六人を呼び、また今川殿にも
この旨を申して加勢を請い、伊豆に向かって出陣した。

堀越御所は俄なことでもあり、立て籠もるべき兵もなく、いかがすべきと驚き、山林に立て籠もった。
御所の家中の武士の内、関戸播磨守という者名乗り切って出てしばし戦ったが、終に討ち死にした。
その後、堀越殿もかなわずと自害したため、宗瑞は伊豆を侵攻し北条に旗を立て、韮山の城に在城した。

そして『末代に至った凡下の侍は義を忘れ、欲に命を忘れるのだ。』と、多年蓄えた金銀米銭を取り出し、
これを尽く施した。このように民を撫育し軍兵を哀れんだので、伊豆国は申すに及ばず、近国の
牢人達まで、我も我もと韮山殿へと参った。

その中でも伊豆の住人である、三津の松下、江梨の鈴木、火見の梅原、佐藤、上村、土肥の富永、
田子の山本、雲見の高橋、米良の村田などという侍たちも我劣らじと駆けつけた。
彼らは山内上杉の支配に抗い、堀越御所の政道に背いた者達であったが、宗瑞の器量は只人に非ずと
それぞれ同心して、皆彼の下知に従うことにしたのである。

こうして、神水の誓いをした六人は宗瑞の家老となって伊豆国を治めた。
その威は近隣に響き、軍勢は招かなくても集まり、攻めなくとも従った。
それはただ風に草木がなびくようであった。
(相州兵亂記)

伊勢宗瑞の、伊豆取りまでの逸話である。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/13(火) 19:02:05.84 ID:O+SAY8hh
これ深根城の戦いことかな?
この関戸播磨守って関戸吉信のことかと思ったら官職名見たら父・宗尚のことになってる。
と油断してたら吉信も播磨守の官職だったでござる。

関戸吉信の奥さんは上杉憲実の娘なのねえ。

関戸家って関東管領家からかなり信用されてた家だったのか。

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/14(水) 11:43:58.80 ID:8DfnmH1g
堀越と深根との両所に討ち死にしたって話があるみたいね
関係ないけど、早雲の小田原攻めは地震のあとのどさくさに紛れて行われたんだね

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/14(水) 15:18:15.80 ID:I5LgzJhZ
>>556
小田原じゃなくて伊豆攻めじゃない?まあ伊豆攻めも明応大地震と時期的に合わないみたいだけど。
あと軍記物にあるような小田原攻めは存在しなかったというのが、昨今は定説だね。

『高祖出陣の守り

2014年03月21日 18:37

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 16:02:55.91 ID:L3GgUvBf
伊勢新九郎は小田原の城守大森筑前守を攻め出して、
小田原を取った。

その時、新九郎は搗栗(勝栗)を持っていて、
その噛んだ歯の跡のある搗栗を北条家は代々受け伝えた。

それを『高祖出陣の守り』といって、出陣の時に歯にあてた。
新九郎は北条家の先祖なので高祖と呼ぶ。

(其時新九郎。搗栗を持て。かまれし歯あとあるを。
代々取伝て高祖出陣の守りとて出陣の時歯にあてらる。
新九郎は北条家の先祖ゆへ高祖と云)

――『武功雑記』




665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 18:10:02.99 ID:vn2csnUK
北条六代の全員に前歯があったことが確認されたな

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 20:33:01.98 ID:xXn8FclR
勝ち栗ってそんなに長持ちするのかよ

北条早雲『夢の御剣』

2013年07月18日 19:50

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/17(水) 20:11:52.75 ID:Er1CMP1q
伊勢新九郎長氏は子供の頃から武芸に励み、家を興し父母の名を後代に残さん事を工夫し、
備中国吉備津大明神に願をかけ、三七日(21日)参籠が満るその夜、夢のなかに

『東国に行き給え、御剣を遣わすであろう。』

と顕れたため有難く思い、東国に向かうとその途中、華表の傍にて旅人に行き会った。
彼が申すには

「私は路銀が無くなってしまい、大変難儀しています。この刀を差し上げますので、
代金を頂けないでしょうか?」

新九郎は『夢に出た御剣とはこの事である。』と悟り、刀を買い取り三度押し頂いた。
それから武者修行を思い立ち、近郷にて名家の子息、内藤、笠原、二階堂、大道寺、
松田、井上、平井といった勇士30人が新九郎に同道して、諸国に武者修行に出た。

そして数度の戦功があった後、駿河太守の妻は新九郎の叔母であったため、駿河に下り
扶持を請け、新九郎は大気者であるとの評価を得て、興国寺城番大将となった。

延徳年中に堀越城主足利茶々丸を攻め取り城主となる。
その後相模国小田原城を乗っ取り、姓名を改め北条早雲瑞公となり、関八州の太守と成られた。

(中國兵亂記)

伊勢新九郎盛時の故郷である備中のあたりに伝わったと思われる、北条早雲についての伝承である。





吉備津宮明神の太刀

2012年01月15日 22:00

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/15(日) 14:17:58.79 ID:PnXnnzPl
伊勢新九郎が若年の頃のことである。
彼はその頃、備中にあった。

ある夜、夢のなかに新九郎は、吉備津宮の明神から、太刀を賜った。
翌朝、見知らぬ人物が現れ、彼に『毘沙門』の文字が彫られた太刀を持ってきて、
これを新九郎に与えた。そして

「後日、この太刀によって僥倖を必ず受けるだろう」

と言い残し去っていった。
それより新九郎はこの太刀を、累代の重宝として大切に扱った。

その後、新九郎は伊勢に居住した。文明年間は意図せずに得た護符を、
太刀と共に家の中に丁重に納めた。これらは今(寛永期)に至るまで北条家に伝わるという。

長享年間、新九郎は駿河に趣き、姉の子である今川氏親に仕えた。
氏親は彼を、興国寺城に置いた。
(寛永諸家系図伝)

伊勢新九郎に僥倖を与えた、吉備津宮明神の太刀、という話である。




468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/15(日) 14:28:28.06 ID:6Zk0HwxU
>>467
まさか軍神様はそれを奪うために関東に執着

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/15(日) 14:42:38.92 ID:vdvFJhDw
今起きたことをありのまま話すぜ!以下ry

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/15(日) 18:34:14.48 ID:VuOO3RbO
その太刀、今でもあるんかなあ


471 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/16(月) 01:46:03.24 ID:YL6C6JHo
この前友人に好きな武将聞かれて鮭s…最上義光って答えたら何故か「玄ww米ww茶www」
って笑われたが未だに理由が分からないorz

それはそうと、こういう夢のなかで神様から太刀を受け取ったって逸話は多いけど
実際には夜、家臣がこっそり太刀を枕元に置いておいて
、次の日「きっとこれは神が(ry」とか言いつつ主君の士気を高める
…とかありそうな気がするのは自分だけでいい

まあ逸話と史実は違うし、無理に現実的に考える必要はないのだがw

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 02:23:37.97 ID:wWpLZu63
>>471
なにその、クリスマス方式。

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 02:30:28.53 ID:blEvnCZ+
>>471
一瞬戦国鍋TVかと思ったがそんな事もなく、戦国BASARAのようですぜ >玄米茶

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 10:49:52.19 ID:eymfK7ns
玄米茶ってそんな時代からあったのか?

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 10:56:22.77 ID:UMtwRRff
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4407.html
政宗から義光に送られてきた紅茶の茶葉をひじきだと思って食べちゃった、て逸話とは
多分関係ないんだろうな

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 11:17:25.92 ID:UMCm6O+O
いい茶葉はそれはそれでおいしいぞw

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 11:57:46.24 ID:Z7H2vYjl
なんだこのくせぇひじき、とか思っただろうなw

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/16(月) 13:09:33.96 ID:p91pD8I1
戦国大名最上義光 違いの分かる男のゴールドブレンド
義光「ムシャムシャしてやった」

もともと松平一族の本宗家は

2010年09月28日 00:00

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/27(月) 20:32:56 ID:+J+LgG29
十六松平で思い出したが、『三河松平一族』によるともともと松平一族の本宗家は
岩津松平だったが、伊勢新九郎(北条早雲)による今川家の西三河侵攻でヌっ滅ぼされて、
それで本来分家だった安城松平が、この戦いでの活躍から本家になったんだそうな。




290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/27(月) 21:40:12 ID:sIVLtUOV
伊勢さんはホント業が深いでぇ

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/27(月) 22:01:58 ID:7O5cEVJo
>>289
晩年はしょうもない抜け殻だったにしても、長親さんは頑張ったんですね