230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/28(木) 23:38:04.73 ID:x6GpqbkU
天文二十年(1551)春、公方家(足利義輝)は洛外の宝泉寺に御座有って、萬松院殿(足利義晴)の
御追悼に、乱世を兼ねて御嘆息され、日々心腑を悩まれた。管領の細川右京兆晴元、彼の舅である
六角父子(定頼、義賢)は無二の味方を申し上げて、随分に守護し奉った。
御敵徒である三好筑前守長慶は去年より在京して、五畿内に甚だ威を振るい、この頃は江州をも退治
せんとて、この二月七日に、家人松長甚助(松永長頼)兄弟を軍将として人数を差向け、江州志賀郡の民屋を
放火した。当国の守護、六角義賢は家臣の堀伊豆守、鯰江相模守に三百余騎を付け、湖上を渡ってこれを防ぎ
戦うほどに、松長兄弟は打ち負け帰洛した。
さて、洛中には公方家の寵臣である伊勢守貞孝父子(貞孝、貞良)が在京していたのだが、三好長慶も
細川晴元にこそ遺恨は有っても、公方家に対して異心なしとの事で、貞孝父子に諸事相談し、互いに
心底を隠さず、是非を糺して政道を執り行ったため、京中は平和に治められ、諸人安堵の思いを成した。
このような中、同年三月十四日、貞孝は館に長慶を招き饗応した。その酒宴も半ばの時、公方家の小侍である
進士美作守晴舎の甥である、進士九郎賢光という者が、貞孝の元に寄宿していたのだが、その座に走り出て、
腰刀を抜き持って、三好長慶を二刀突いた。
長慶は元来早業の人であったので、床に有った沈香の枕を持って、刀をひしと受け留めた。そのため一刀は
身に当たらず、二刀目は当たったが浅手であった。
そこで進士九郎は迫り詰め、引き組まんとした所を、ここに長慶の同朋衆である何阿弥という者が相伴に侍って
いたのだが、そのまま進士九郎に抱き着いた。それより座中に有った人々、我も我もと走り寄って、進士九郎を
斬り伏せ、刺殺した。
進士九郎は大剛の者とは見えたが、運命が尽きたのだろう、本望を遂げずして亡失した。
その頃の巷の説に、「これは進士九郎が、窮迫している公方家の御内意を蒙り、長慶を殺そうとした」とも云い、
また「本領を没収され、遺恨が有った故である」とも沙汰され、その理由については一致しなかった。
しかし何れであっても、当時威強き三好長慶に、独夫にして突き殺そうと企んだ事は、大勇の者と言うべきであろう。
そして三好長慶は運が強かったのだろう。危うき命を助かり、しかも浅手であったので、その疵も程なく平癒した。
同年七月、細川晴元方の多勢が坂本より出張して相国寺も陣取ったが、同月十四日の早旦、長慶自身が
押し寄せ、火を放って攻めると、晴元勢は打ち負け江州へ引き返した。
その後洛中には戦乱無く、この年は無為に暮れた。
『續應仁後記』
進士九郎による三好長慶暗殺未遂について
231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/29(金) 00:14:58.43 ID:R/rUf/c4
浅野内匠頭は不意を打って一方的に抜刀までしといて標的仕留めそこなうとかダッサと当時言われてたみたいだけど
進士賢光は大勇なのね
232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/29(金) 00:31:53.41 ID:eUQEf23X
長慶さんが不得意なことはないのか
233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/29(金) 01:18:33.39 ID:CFsNOVjD
>>232
長生き
234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/29(金) 01:31:13.84 ID:IczLibkM
>>231
多分浅野内匠頭も、討ち損なった後その場で切腹するなり斬死するなりしたら
評価は全然違ったと思う。
天文二十年(1551)春、公方家(足利義輝)は洛外の宝泉寺に御座有って、萬松院殿(足利義晴)の
御追悼に、乱世を兼ねて御嘆息され、日々心腑を悩まれた。管領の細川右京兆晴元、彼の舅である
六角父子(定頼、義賢)は無二の味方を申し上げて、随分に守護し奉った。
御敵徒である三好筑前守長慶は去年より在京して、五畿内に甚だ威を振るい、この頃は江州をも退治
せんとて、この二月七日に、家人松長甚助(松永長頼)兄弟を軍将として人数を差向け、江州志賀郡の民屋を
放火した。当国の守護、六角義賢は家臣の堀伊豆守、鯰江相模守に三百余騎を付け、湖上を渡ってこれを防ぎ
戦うほどに、松長兄弟は打ち負け帰洛した。
さて、洛中には公方家の寵臣である伊勢守貞孝父子(貞孝、貞良)が在京していたのだが、三好長慶も
細川晴元にこそ遺恨は有っても、公方家に対して異心なしとの事で、貞孝父子に諸事相談し、互いに
心底を隠さず、是非を糺して政道を執り行ったため、京中は平和に治められ、諸人安堵の思いを成した。
このような中、同年三月十四日、貞孝は館に長慶を招き饗応した。その酒宴も半ばの時、公方家の小侍である
進士美作守晴舎の甥である、進士九郎賢光という者が、貞孝の元に寄宿していたのだが、その座に走り出て、
腰刀を抜き持って、三好長慶を二刀突いた。
長慶は元来早業の人であったので、床に有った沈香の枕を持って、刀をひしと受け留めた。そのため一刀は
身に当たらず、二刀目は当たったが浅手であった。
そこで進士九郎は迫り詰め、引き組まんとした所を、ここに長慶の同朋衆である何阿弥という者が相伴に侍って
いたのだが、そのまま進士九郎に抱き着いた。それより座中に有った人々、我も我もと走り寄って、進士九郎を
斬り伏せ、刺殺した。
進士九郎は大剛の者とは見えたが、運命が尽きたのだろう、本望を遂げずして亡失した。
その頃の巷の説に、「これは進士九郎が、窮迫している公方家の御内意を蒙り、長慶を殺そうとした」とも云い、
また「本領を没収され、遺恨が有った故である」とも沙汰され、その理由については一致しなかった。
しかし何れであっても、当時威強き三好長慶に、独夫にして突き殺そうと企んだ事は、大勇の者と言うべきであろう。
そして三好長慶は運が強かったのだろう。危うき命を助かり、しかも浅手であったので、その疵も程なく平癒した。
同年七月、細川晴元方の多勢が坂本より出張して相国寺も陣取ったが、同月十四日の早旦、長慶自身が
押し寄せ、火を放って攻めると、晴元勢は打ち負け江州へ引き返した。
その後洛中には戦乱無く、この年は無為に暮れた。
『續應仁後記』
進士九郎による三好長慶暗殺未遂について
231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/29(金) 00:14:58.43 ID:R/rUf/c4
浅野内匠頭は不意を打って一方的に抜刀までしといて標的仕留めそこなうとかダッサと当時言われてたみたいだけど
進士賢光は大勇なのね
232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/29(金) 00:31:53.41 ID:eUQEf23X
長慶さんが不得意なことはないのか
233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/29(金) 01:18:33.39 ID:CFsNOVjD
>>232
長生き
234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/29(金) 01:31:13.84 ID:IczLibkM
>>231
多分浅野内匠頭も、討ち損なった後その場で切腹するなり斬死するなりしたら
評価は全然違ったと思う。
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