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慈悲なる覚悟

2018年03月02日 18:05

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/01(木) 16:04:32.52 ID:WpYcxGcE
慈悲なる覚悟


以下は小牧・長久手の戦いで織田信雄が秀吉と単独講和した直後に
秀吉が池田家臣・伊木忠次を通じて池田輝政に送った書状。

 
わざわざ申し遣わします。

一こちら(伊勢国)では、長島・桑名へ押し詰め城を数か所に拵えたので
 そのまま秀吉が縄生城に越年して長島を攻略しようとすると
 信雄は考えついたのか和睦を懇望してきたのでそれに同心しました。

一人質は信雄の実子ならびに源五殿(織田長益)の実子と、滝川三郎兵衛尉(雄利)
 中川勘右衛門尉(定成)、土方彦三郎(雄久)、松庵(新庄直忠)以下はいずれも
 実子か母が人質に出ます。いかようでも秀吉次第と誓紙を出させました。

一北伊勢は向こうに渡し、今度拵えた城は敵味方ともに破却となりました。

一尾張では、犬山・甲田には秀吉の手勢を入れ、そのほかの新しく作った城は
 敵味方ともに破却となりました。

一家康も信雄同様に和睦を懇望しています。
 しかしながら信雄が若人を引き入れて、秀吉に対して重々不届きを働いたので
 すぐにでも三河へ押し詰めて思い通りに申し付ける覚悟でいましたところ
 家康は実子と石河伯耆(数正)以下を人質に出し、いかようでも秀吉次第で
 よいと言っているようです。
 それと同時に信雄も外聞があるので詫び言を入れ、色々懇望してきたのですが
 秀吉の家康に対する恨みは深いので、まだ思案が落着していません。
 許し置けない者について、日頃から無念を晴らすつもりでいたのですが
 とにかくこちらに任せる様子であると聞いたので、私は慈悲なる覚悟をもって
 過半は許すべきでしょうか、心中難しく思っています。

一右のようになっていますので、全てが決着すれば十五日には馬を納めることに
 なるでしょうか、またおいおい申します。

かくのごとく申し遣わしたところ、家康がしきりに懇望するので
人質を受け取って済ませることになりました。そのように心得て下さい。    

  十一月十三日      秀吉(朱印)
    伊木長兵衛尉(忠次)殿 



571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/03(土) 13:50:38.76 ID:eEeAEuPX
>>566
>家康は実子と石河伯耆(数正)以下を人質に出し、いかようでも秀吉次第で
>よいと言っているようです。

これって石川数正は出奔でなくて人質ってこと?

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/03(土) 15:39:44.19 ID:ilBYxqGL
人質となった翌年出奔した

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 04:07:31.30 ID:W/C92D4S
>>571
秀康を届ける役だから、送った後帰るまでは人質(証人)扱い

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 08:07:46.17 ID:F2HxrR4q
家に帰るまでが○○というやつですな
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池田家臣伊木豊後と若原右京の衝突(未遂)事件

2017年01月16日 10:23

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 17:52:22.35 ID:ryfezp7n
池田家臣伊木豊後と若原右京の衝突(未遂)事件


ある時、伊木豊後(忠次)と若原右京には確執があった。
豊後は第一の寵臣で播州三木の城主であり、若原右京は中村主殿と同じく
領国の仕置を掌っており、その威勢は肩を並べる者はいなかった。
豊後は右京と常に不和だったので、双方の家臣も不通であり
互いに己の主の権勢を恃みにし、何事も負けないと争い合っていた。

右京が姫路に登城しようとして、大手(正門)で馬から降り歩いていると
豊後の鑓持ちの男が両足を投げ出して、打ち仰いで髭を抜いていた。
右京が前に来ても両足を引こうともせず、人がいないような態度でいたので
右京は怒り刀を抜いて、そのままその男の両足を切り落とした。

(右京は)登城せず急ぎ馬に乗って引き返し、己の屋敷に馳せ帰ると
「豊後が程なくして寄せ来るだろうから、その用意をしろ」
と言い、与力の士五十騎、足軽二百人に自分の人数を加えて
屋敷の四方に隙間なく配置し、鉄砲兵はみな屋根に上げて
自らも六文目の鉄砲を持って書院の棟に打ち跨り
豊後が来たら討ち取ってやると待ち構えた。

豊後も右京の大手での振る舞いを聞き、同様に下城して人数を揃えて
右京の屋敷に押し寄せようと鬩いでいたところ、国清公(輝政)の耳にも入り
(輝政は)急ぎ使者を以って先に豊後を呼ばれ
「右京の所業で、そのほうが立腹するのは尤もなことだが
 今押し寄せて攻めるのは、我に免じて堪忍してくれ
 そのほうが遺恨のないように(右京に)申し付けろ」
と仰せられ無理に留め置いたところで、右京を呼ばれた。

右京も豊後が静まったのを聞いて登城したが、(輝政は)右京が普段から
豊後に対し過ぎた振る舞いをしていることを(豊後から)聞いたために
「今日の粗忽は言語道断である。当家にいることは叶わないだろう。
 どこへなりとも立ち退くように」
と仰せられたのですぐに退出しようとしたが
これを聞いた豊後が御前に出てきて
「只今の指図は忝ない仕合わせに存じますが、右京に暇を与えるのは
 私の本意ではありません。右京のような者と権威を争ったと
 他家の人が評論することになるのは恥ずかしく、当惑しています。
 是非とも右京を召し返して下さい」
と申し上げたので、公もお許しになり急ぎ召し返された。

右京は何事だろうと再出し、御前近くに呼ばれこのことを聞いたので
このときから右京は豊後に心服し、懇ろに会釈などをするようになった。
この豊後は東照神君(家康)も懇ろにお会いする者だったので
この頃の勢いは申すに及ばず、姫路では平時の供廻りが三百人いた。
時々摂州(摂津)にも踏み込み、鷹狩りなどをしたのに咎める者がいなかったとか。
その他の事跡については推して知るべし。


――『池田家履歴略記』

あわや大惨事……。



伊木忠次の諫言

2013年08月09日 19:52

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/09(金) 17:24:09.88 ID:Gn3m6Oux
伊木清兵衛(忠次)は池田三左衛門尉(輝政)の家老である。

清兵衛は病気で死に際の時に「今生の望みに、今一度公の御目にかかりたい」と言った。
三左衛門尉は急いでやって来て「どうしたのだ清兵衛。近頃そのような望みがあるとは
知らなかった。申しておきたい事があるならば申すがよい」と言った。

清兵衛は頭を上げて手を合わせ「これまでの入御有難く存じ奉ります。
ただ一言申したき事がございますので、これを申し上げます。君はいつも掘り出しを
御好みになられ、ひたすら士の掘り出しを第一とお思いになられています。

これはよからぬ御癖です。士はその身の程よりも一際相応に仰せ付けられてこそ、
永く御家を立ち去らずに忠勤を致すものです。この事を申すために御目にかかりたかった
のです」と言った。

これに三左衛門尉は「今の諫言はもっともだ。その志は山よりも高く、海よりも深い。
わしは決して忘れない」と、清兵衛の手を取り、涙を流して別れた。

それより池田家の家風はよくなったということである。

――『責而者草(古実話)』