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釜山の喧嘩騒動と褒美の与え方

2013年06月12日 19:50

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/12(水) 12:01:29.20 ID:5k95V3pO
釜山浦城に御在番のとき、大将毛利壱岐守(勝信)と当家の間で喧嘩騒動
が起こり、毛利の者どもが大勢で当家船手の者を海へ追い込んだと注進
があった。

まず最初に落合九右衛門尉、宮田久左衛門尉、平賀喜左衛門尉とその他
足軽どもにて交戦し、その時三名が討死した。

さらに河崎大膳亮ら大勢で駆けつけて、敵多数を海へ追い込んだが、
当家の者も数十人が手負いとなった。

その時、落合九右衛門尉の嫡子小辨と言うものは年は十六歳で容顔美麗
であり佑兵様の小姓としてお傍に居たが喧嘩の注進を聞いて駆け向かい
一文字に切って掛かった。

毛利家の侍何某が弓を取って矢を放とうとしていたが、その幼年にして
勇猛な事を感心したのか、それとも美麗なるを惜しんだのか、その矢で
地面を射、小辨の姓名を尋ねこれを讃えて退いた。

喧嘩騒動は寺沢志摩守、島津又七郎、相良左兵衛の三大将が間に入って
和睦となった。

この小辨は元来勇士であり、ある時、佑兵様の目の前で敵を討ち取った。
比類なき働きでもあり、格別のご褒美を賜るであろうと誰もが思ったが
その沙汰は無かった。

この措置について佑兵様に尋ねたところ「褒美を遣わすべきなのは当然の
事である。しかし、かの者は若く余りある勇気を持っている。今褒美を
与えれば、今後も同じような行動に及び討死するのは必定だと思ったので
そうしないのだ。」と仰せられた。

小辨には後にその事とは別に御脇差が与えられた。元服してからは落合
浅之助と名乗り、日向宮崎合戦でも活躍した。

(日向記)

釜山の喧嘩騒動と褒美の与え方の話




462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/12(水) 16:14:48.87 ID:SewYdqbu
してその毛利家の何某とはどなたなのですかな?

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佑兵、戦功により河内国半田村を知行する事

2013年06月10日 19:51

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 09:03:01.26 ID:W6c3jPw9
佑兵、戦功により河内国半田村を知行する事

北越の柴田勝家を征伐された後、加州は前田利家、越前若狭は丹羽
長秀に与えられた。柳瀬七本槍の面々にもそれぞれ御加増があった。

その頃の佑兵はわずか三十人扶持の堪忍分であったが、たびたびの
軍労を思召して、河州丹南郡の内半田村五百石の知行を賜った。

秀吉公はかつて姫路から御帰陣の時、いかなるついでであったか
「伊東殿は幸先の能い人である。やがて本国へ復帰する事もできる
だろう」と仰せられたと伝えられる。誠に符合する御祝詞であった。

(日向記)





以後は入魂になられたとのことだ。

2013年06月10日 19:50

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 12:23:49.99 ID:W6c3jPw9
慶長二年十二月二十二日、佑兵は安哈良より豊前の黒田如水翁へと
宮川甚右衛門を使者として用事の旨を含めて遣わされた。

進物は如水翁へ鷹二羽、由地以益老へ鹿皮十枚である。
甚右衛門は豊前に到着し進物を差し出して用事の旨を申し上げた。

如水翁はこれに会い「よき時期に参られた。使者にだけ伝えたい事が
ある」と御前近くに呼び寄せられ「太閤様は殊の外に衰弱されている
その上天下には怪異が度々おこっており、もし乱世になったら佑兵は
小身であるから家を保つのも心許ない。一時も早く島津へ申し入れて
縁辺を組まれるか、または入魂の契約を結び神文を取り交わしておく
べきであろう。この事を早く朝鮮へ罷り戻って申し伝えよ」
と仰せられた。

甚右衛門は畏まって急ぎ船を出し、正月八日に安哈良に到着。
佑兵に御返答一通りを申し上げてから、隠密の御口上がございますと
言った。御前伺候の小姓どもまで引き下がらせてから、島津と入魂に
するべき趣の巨細を申し上げた。

その頃、島津はカトクへ在陣していたので佑兵は彼陣へ出向かれて、
島津に入魂にしたい旨を談ぜられ、互いに神文を取り交わし、以後は
入魂になられたとのことだ。

(日向記)

黒田如水、乱世を予見する




438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 12:28:50.22 ID:UnbnNjc+
如水って、関ヶ原の動乱に乗じて天下狙ってた、て言われるけど
本気で東軍として九州をまとめることで、天下安寧考えてた気もしないではない

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 12:29:37.05 ID:vG5RRJYo
仇敵の島津と仲良くしろって...

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 19:07:32.54 ID:/2Mvl9bz
それが戦国の世の習いだろ、相馬といっしょにするなよ
それに佑兵は国を追われてたことで秀吉の配下になれたし、天下取り事業に加われた
その過程で秀吉の懐刀である如水と昵懇になったので、如水を頼るのは自然な理
また領地を接する大大名の島津に潰されないように約定を交わすのも自然な理

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 20:06:22.24 ID:SAp53zWJ
>>438
むしろ後者だろ
前者は厨二が思いつきそうなネタだ

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 20:11:44.40 ID:GWHqvamu
しかし大河で後者やったら
「左手のエピ省きやがって、捏造するな!」
といちゃもんがくると予想

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 20:18:11.17 ID:gOq1FwJe
なお明治になってできた逸話の模様

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/11(火) 10:06:27.01 ID:nIBCP0EI
>>438
天下を狙ってたと言うのは大げさだろうが、広家宛の書状とか見てると
天下安寧からはほど遠い気がする

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/11(火) 12:59:47.06 ID:oa9WKeCD
島津攻めの準備万端ですよ行っていいですか?
つって家康に止められたんだっけ

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/11(火) 13:15:47.73 ID:nIBCP0EI
>>448
一応、家康が薩摩出陣を延期するように要請した書状が届く前に
島津が謝罪してきてたので如水の主導で延期してる。

ちなみに清正は八代攻めを島津に邪魔されたので戦いたかったらしい。

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/11(火) 17:43:19.96 ID:26GGUzHn
島津攻めの先鋒を受けて開城した立花宗茂が、
島津宛てに徳川と和睦するように勧める書状を10月28日の日付で送ってるし、
これは、状況的に如水か清正の許可を得て送っただろうから、
全体的に積極的には島津を攻める気はなかったんじゃないかな。


秀吉公山崎合戦で佑兵へ槍をたまわる事

2013年06月07日 19:50

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/07(金) 18:50:45.19 ID:9xWeM5LF
秀吉公山崎合戦で佑兵へ槍をたまわる事

伊東佑兵は秀吉の麾下にあり、備中御陣よりこのかた片時も離れずに
随行していた。

惟任日向守が敗れた時、立派な鎧をまとった武者が一騎で落ちて行った。
秀吉公はこれをご覧になって「能き敵であるぞ、若き者ども討ち取って
高名せよ」と仰せられ「我こそが討ち取らん」と逞しきものが四、五騎
ほど出撃していった。

佑兵はこの中を駆け抜け「返せきたなし」と呼ばわったところ、敵も
もはや遁れ難しと思い引き返してきた所、これをすかさず組み伏せて
討ち取った。

秀吉公はこれを望見して「只今、庵に木瓜の旗をつけて敵を討ち取った
のは日向の伊東ではあるまいか」と仰せられていた所へ、佑兵がかの首
を持参し実検に備えた。

秀吉公の御感浅からず、南都金坊左衛門尉政則が打った三尺長身にくり
から龍を彫り熊の皮の投げ鞘をつけた御槍を手ずから賜り面目を施した。

その槍は今も相伝して家宝としている。

六月十三日、惟任はついに討たれたので秀吉公は凱旋され、信長公の
葬事を営み、大徳寺の塔頭として一宇を建立し総見院と号された。

それから秀吉公は尾州へ向かわれ、織田の幼主を安土城へお入れして、
十一月には江州長浜へ御出陣、濃州一国を平均に討ち靡けてから宝寺城
(山崎城または天王山城とも呼ばれる)に御帰城された。

(日向記)

日向記に記された山崎の戦いの様子なのだが戦の内容は全てスルー。
まあ佑兵は秀吉の馬廻でしかないから仕方ないんだけど…





日向記による中国大返しの模様

2013年06月06日 19:51

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/06(木) 10:29:09.76 ID:Dr27dp+R
六月六日未の刻に高松を引き払い、沼の城まで帰陣された。その折、
豪雨と疾風に見舞われたので七日はそのまま滞留して、八日に姫路に
至って御帰城なされた。

その日は諸卒を休息させる為に出陣を延期して、九日未明に姫路を
出発して急がれたので、十一日午の刻前に尼崎へ到着した。

秀吉はすぐに落髪し、三七殿(織田信孝)、丹羽五郎左衛門尉(長秀)、
池田紀伊守(恒興)と長子勝九郎(池田元助)等へ使者を送り「中国とは
和睦して今日ここまで参陣しました。軍評定をして明日には惟任を
討ち果たしましょう」と申し入れたので何れも尼崎に集まられ、評議
では一番高山右近、二番中川瀬兵衛尉、三番池田殿と定められた。

十二日には先鋒は山崎天神の馬場芥川の辺りに充満していたが、後陣
はいまだに西宮小清水の辺りを急いでいた。その夜は別々に宿陣して
十三日には山崎表へ一同が揃うようにとの御命令であった。

惟任方へも明日十三日に合戦の上で勝敗を決しようとの旨を言い送り
「望むところである」との返事であった。

伊東佑兵は備中御陣よりお供して姫路に一日逗留、九日には供奉して
御上洛になられた。

(日向記)

日向記による中国大返しの模様