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情け無いことであると申さぬ者はいなかった。

2016年10月18日 18:34

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/17(月) 21:00:40.31 ID:zpQa4NRC
>>218の続き

永正7年、伊東尹祐が家臣・垂水又六より奪った、福永伊豆守祐炳の娘が懐妊した。
尹祐は重臣である長倉若狭守祐正と垂水但馬守の両名を召して言った
「今度産まれてくる子が万一男子であれば、嫡子に定める。」
これに両人は反対した

「先年、申し上げたことがあります。天に二つの日はなく、国に二人の主はありません。
既に桐壷様(中村氏娘)が産まれた若君様に嫡男としての御祝いを上げています。
であるのに今更福永腹の若君を立てられることは良いとは思えません。」

これに尹祐は腹を立てた。この頃、長倉若狭守は綾という地の地頭であったが、尹祐の
寵臣である稲津越前守重頼がかねてよりこの職を望んでおり、稲津は尹祐の感情が悪化している
のを幸いに、二人を様々に讒言した。尹祐もこれに煽られ怒り甚だしく、長倉と垂水は
身の危険を感じ、同年九月朔日、綾城に立て籠もった。これに対し尹祐は宮原まで自身出馬し、
綾城を攻め立て、十月十七日、二人は遂に切腹して果てた(綾の乱)

この乱の最中の九月十三日、福永娘は男児を産んだ。幼名を虎乗丸。後の伊東祐充である。
尹祐はこの子を寵愛し家督を譲るつもりであったので、常々桐壺の産んだ子を悪み、殺害する
心があった。

その後、永正十四年十一月十四日、桐壷の子が尹祐の御前に出た時、尹祐は怒り出し
彼を追いかけた。まだ子供である桐壺の子は声を上げて泣き出し、庭前に走って逃げた。
近習の士である上別府某と弓削摂津介がこの子に走り寄って抱きかかえた。
尹祐は縁側に出て命じた「それを殺せ!」
弓削摂津介はこの命を奉り、彼を殺害した。この時この桐壺の子は、十四歳であったという。
(日向記では十二歳という)

情け無いことであると申さぬ者はいなかった。

(日向纂記)



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以ての外なる行跡である。

2016年10月17日 11:55

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 20:47:21.16 ID:wZGJMEJ2
永正の頃、日向・伊東尹祐の家中に福永伊豆守祐炳という者があり、尹祐は彼を寵遇のあまり、
召し使っていた女を与えるほどであった。やがてこの女は一人の女児を産んだ。この女児は7,8歳の頃より
伊東家の奥で召し使われ、14,5歳に及んで垂水又六に嫁いだ。
ところが、尹祐は何を思ったか、この女を自分に遣わすよう又六に所望した。

又六は答えた
「我が妻が未だ福永の家に居るうちならば、上意に従い奉るべきでしょう。ですが今既に私の所に
嫁いで来ています。この上は御免下さるべきです。」

しかし尹祐は承知しなかったため、又六は急ぎ妻を引き連れて知行地の三宅に下った。尹祐もこれを聞くと
又六の後を追い三宅に向かおうとした。この時近習の者が急ぎ使いを立てて、重臣である落合駿河守に知らせ、
まず伊東尹祐を寺に待機してもらい、そこに暫くして落合駿河守が参った。尹祐は面目無く思ったのか、
落合の姿を見ると奥の一間に入ってしまった。その尹祐に落合は声を荒げて言った

「御祖父惣昌院殿(祐堯)が国を治められたあと、御父光照院殿(祐国)は気ままにわたらされ、
飫肥楠原の陣にて御家に困難を引き出されました。しかし飫肥の代地として庄内千町を御知行あってこそ、
御家の難も少しは緩むというのに、今また君の御気ままにては、怠慢であり然るべからざる物です!

我らは、西南には薩摩の大敵を受け、北は豊後梓峠一つを隔てて大友の強敵があります。決して
油断あるべき時節ではありません。今は先ず、国家を固められる御工夫こそ必要なのです!」

尹祐はこれを聞いて面目なく思ったのか。にわかに寺の後門より抜け出て、都於郡に帰城した。
落合駿河守もその後に従い、登城して御前に進み

「恐れながら先刻申し上げたことを、御承知下されありがたく存じ奉ります。」
そう涙を流して申し上げた。これを尹祐は黙然と聞いていたが、暫くして

「あの女を所望したのは私の本心ではないので。実は福永伊豆守が勧めたのだ。」

この言葉が垂水又六の一族に伝わると、彼らは評議の上、又六に勧めてその妻を離縁させた。
その後、尹祐が瀧の天神に参詣したおり、福永の邸宅に立ち寄り、この女を連れて帰った。

以ての外なる行跡である。

(日向纂記)

続き
情け無いことであると申さぬ者はいなかった。


219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/16(日) 23:41:44.30 ID:KB/bRNLL
落とし胤だったか

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/17(月) 10:03:00.92 ID:IziOomWy
輝元「その手があったか!」
宗麟「メモメモ」

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/17(月) 16:09:05.57 ID:hV4rsN2C
>>218
よくわからん、ただの横恋慕?

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/17(月) 16:19:59.53 ID:FNw7DcIn
母と娘両方とすることは畜生の所業のはず

「野村の乱」と祟りの顛末

2013年09月06日 19:50

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/05(木) 20:23:36.48 ID:U/JkuELF
文明18年(1486)、日向伊東氏の一族である伊東二郎佑邑は日知屋の城主であったが、
豊後の大友家に遣いを出して隣国のよしみを通じた。これは、現在伊東家が戦っている
島津家が大敵であるために、大友家と有効を深めれば国家(伊東家)の強みになるとの
趣旨からであった。

ところが佑邑のこの行為に対し、『国家のためではなく我が身のためにやっているのだ』との
流言が言われた。

これは伊東佑邑の舅が、伊東家重臣の野村右衛門佐であり、彼の一族は伊東領内11箇所の
城主に任じられ、野村の威勢は、当時並ぶものが無く、また自らも恣なる挙動が多かった。
其の上先代の光照公(伊東祐国)が楠原の戦いで戦死(文明17年(1485))した時、それは
指揮をとった野村右衛門佐の作戦が悪かったためだと、国中の者達が爪弾きにして彼を憎んだ。

そのように野村に悪評が集中していた時期だったため、この事も、伊東宗家には
光照公の正しき嫡男である伊東尹祐が居るにもかかわらず、それを差し置いて、婿である
佑邑を家督に据えようとしているのだ、と疑われたのである。

同年、4月9日の事である。
その日伊東佑邑は日知屋の屋敷で早く起き、発句を考えていた。そして

『露はおき 萩はまだぬる朝哉』

と、発句を吟じた、その時、
その声を合図にしたように刺客が現れ、たちまちに佑邑の首を獲った。
同時に野村右衛門佐父子を始めとした野村一族の11箇所の城に伊東家の軍勢が押し寄せ、
尽く腹を切らせた。
伊東宗家による野村一門への粛清であった。
この事は、後に「野村の乱」と呼ばれた。

ところでこの時殺された伊東佑邑は、この後、伊東家に祟りをなしたらしい。
そこで享禄4年(1531)12月13日、都於郡一乗院にて、この佑邑を祭り八幡大菩薩と崇めたが、
しかしその霊魂が祟りをなすことを止めることは出来なかった。
そのため、遂には天文5年(1536)重ねて佑邑の霊を国富荘本郷に移して神とし、
さらに、朝廷に奏聞を経て、加護八幡の勅号を賜ったのである。
(日向纂記)

戦国初期の日向伊東家における「野村の乱」と、その後の祟りについての逸話である。




282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/06(金) 22:12:05.30 ID:RdyeBw4w
鶴岡監督や浅香光代が激怒しそうな乱だな