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伊東家による宮崎城攻め

2017年02月23日 10:18

668 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/22(水) 23:37:40.04 ID:KEyHajol
当家(伊東家)が(西軍についた高橋家の飛び地の)宮崎城を攻めるという内容が島津家に届いた為、(島津領の)穆佐、倉岡、綾、木脇の諸将は会合して「もし本当であれば佐土原と申し合わせて宮崎城に援軍を出し、その勢いのまま(伊東家の)清武城を攻め取ろう」と佐土原に伝えた。

佐土原もまた同様に評議して軍を準備しているところに宮崎城が落城したという内容が届いたので途方に暮れる限りであった。

縣(延岡城)の高橋家でも家老の花田備後守が宮崎城での急を聞いて不安に思ったので加勢として士卒雑兵合わせて300人余りを向かわせた。

しかし穂北村に到着した夜、宮崎城が落城して城代の権藤父子を始め城兵が残らず討ち死にしたという報告を聞いたので肩をおとして空しく引き上げた。

669 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/22(水) 23:38:12.24 ID:KEyHajol
掃部助(稲津重政、伊東家の家臣)が考えたように、陣立てに時間がかかり宮崎城が一日持ちこたえるようなことがあれば、敵の援軍が次々と競い集まり容易に攻め落とすことは難しかったはずである。

掃部助の用兵は雷風の速さのようで、神速で攻め寄せた為に狙い通り僅か子の上刻から卯の上刻(23時から5時)までの間に城を攻め落とす大功を成した。

特に夜襲であれば必ず同士討ちがおこるものなのに雑兵に至るまでその誤りが無かったのは、朝鮮の陣以来伊東祐兵公が士卒と辛苦を共にし、家中の士もまた今一度主君を一国の主にしようと各々勇を奮い立たせ一致団結した為に巧みな駆引をしてこのようになったのだ。

黒田如水の検使、宮川伴左衛門も
「掃部助の軍略は言うに及ばず家中の諸士の勇敢なる振る舞いは筑紫の立花家の家風によく似ている」
「島津は大敵といえども恐れるに足らず。この旨を帰国して如水様に申し上げなくてはならない」
と褒め称えること限りないこととなった。

(日向纂記)

関ヶ原の裏で起きた伊東家による宮崎城攻めとそれを如水の検使が評して


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飫肥城引き渡し

2016年11月09日 13:35

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/08(火) 20:32:26.56 ID:ZmqVOuEJ
天正15年、伊東祐兵豊臣秀吉より飫肥を拝領したが、島津家の将である上原長門守(尚近)は飫肥城から
退去せず、引き渡そうとする気色もなかった。

伊東家はその年の8月初めより川崎又右衛門尉を大将、川崎宮内左衛門尉を副えて郷原水城に陣を取り、
上原を説得したが、彼はこれに従おうとせず、あまつさえ8月10日には軍勢を出して、郷原において
苅田を行った。

伊東勢もこれに打って出て、飫肥城勢を広木田まで追い詰め、大勢を討ち取って引き上げた。しかし味方にも、
桜木藤七兵衛尉、海老原清左衛門尉の両名が討ち死にした。

この事は豊臣秀吉に報告され、秀吉は早速、土井九右衛門尉を上使として飫肥に差し下した。
土井九右衛門尉は豊臣家の朱印を持って、同年12月13日、飫肥に到着した。
彼は上使であったので一の城戸を騎乗のまま乗り通り、二の城戸まで乗り通ろうとした所で、
上原の門卒たちが「乗打無礼なり!」と腹を立て、九右衛門尉を始めとしてその一行のうち13人を
惨殺した。その時は伊東家からも、平原河内守、松浦甚助が案内者として同行していたが、平原は
殺され、松浦は生け捕りにされ、のちに解放された。

上原長門守は門卒たちの濫妨を聞いて驚愕した
「上使を殺した罪は逃れがたい!お前たちは私の首を斬ったのと同じであるぞ!」
そう悔やんだが及ばず、程なくこの事件は秀吉に聞こえた。

秀吉は激怒し、即座に上原長門守を召喚した。
上原は、とても逃れられないと思ったか、嫡子城之介を名代として大阪に上らせたが、上使を殺した罪により、
この嫡子が斬罪となった。
飫肥城は天正16年閏5月3日、伊東家に引き渡された。

(日向纂記)

島津家の上原尚近、よりによって秀吉の上使を無礼討ちにしたというお話。



282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/08(火) 23:42:29.86 ID:RvUCPlAS
息子を斬らせて助かるなんて…

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/09(水) 04:27:01.27 ID:LHaGcvNP
???「子供なんていくらでも産めばいいのよ」

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/09(水) 04:55:48.51 ID:oIThLz4f
何そのカテリーナ・スフォルツァ

伊東家毛利家喧嘩の事。並びに落合浅之助について

2016年06月21日 21:17

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 00:11:17.89 ID:qBcS+riJ
朝鮮の役の折、伊東祐兵が釜山城に在番していた時に、伊東家の兵と毛利家の兵が喧嘩に及び、
毛利家からは騎馬の武者が多数出て伊東家の船手の者たちを海岸際まで置い詰めた。

ここで伊東家からは落合九右衛門尉を始めとして大勢が駆け付け互いに鑓合わせとなったが、
伊東勢は毛利家の小谷又右衛門(知行八千石)をはじめとした大勢を海岸際まで追い込め、
石田九郎右衛門(知行六百石)に重症を負わせ、毛利家では討ち死に6人に及んだ。
伊東家も討ち死に3人、手負い数十人が出た。

このようにほぼ合戦の有様で、鎮め難い状況になったが、ここに寺沢志摩守(広高)、
島津又七郎(豊久)、相良左兵衛(頼房)の三大将が間に入って調停し、事態はどうにか
鎮まった。

この時、落合九右衛門尉の嫡子で、16歳の落合浅之助、容儀人に優れ伊東祐兵の小姓であったが、
喧嘩の注進を聞くと馳せ付け一文字に斬り掛かった。これを見た毛利の武士の一人が、弓を引いて
浅之助に放とうとしたが、彼が年少でありながら、その勇ましいことに感じ入ったのか、わざと
足元の地面に射って、浅之助の姓名を尋ね、感謝して退いた。

この落合浅之助は元来勇気人に優れた男であり、或る日、伊東祐兵の眼前で敵を討ち取り
比類なき働きが有ったので、近習外様の者たちも、彼に一廉の褒美があると思っていたにも
かかわらず、その後全くその沙汰がなかった。皆不思議に思い、ある者が「どうして浅之助に
褒美を与えられないのですか?」と尋ねると、祐兵は答えた。

「なるほど、確かに恩賞を与えるべき功名であろう。だが浅之助は、年齢少なくして勇気が
あまりに強すぎる。彼に今褒美を与えては、さらに逸って近いうちに必ず討ち死にするだろう。
そう思ったので、その沙汰をしないのだ。」

しかしその後浅之助に、何と言う理由もなく、短刀が与えられたそうである。

(日向纂記)



874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 02:16:31.73 ID:kVu0ZNF3
自決の引導でしたか

遠からぬ内に、世の中は

2016年06月20日 17:57

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/19(日) 19:37:51.41 ID:SUyILvdO
慶長元年12月下旬、伊東祐兵は朝鮮の安骨浦陣中より、黒田如水に相談の事があって、家臣の
借家原甚右衛門尉満鎮を豊前に派遣した。如水は甚右衛門を近くに召して

「さてさて、良い所に参った。私の方からも使いを出して、伊東殿に申したいことがあったのだ。
実はな、太閤が近頃殊の外衰えられた、その上日本中で様々な怪異が多く起こっている。
遠からぬ内に、世の中はまた騒がしくなるであろう。

民部殿(祐兵)は小身であるから、国元について甚だ心もとなく思うだろう。
天下の事が未だ起きない内に、片時も早く島津家と談じて、縁故を取り結ぶか、又は麾下に入る事を
申し入れるべきだろう。その上で互いに神文を取り交わすべきだ。
この旨を早々に帰って伝えるように。」

甚右衛門は急ぎ豊前を立って明けて慶長2年正月中旬、安骨浦に帰り黒田如水の口上の趣を申し上げると、
伊東祐兵はこの助言を喜び、早速加徳島にあった島津の陣中に赴き、兵庫頭(義弘)と会談して、
以後、堅く唇歯の好みを結び、互いに違背有るべからずと、神文を取り交わした。

(日向纂記)



増高を願って

2016年06月18日 11:28

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 20:37:22.89 ID:quiHw0RT
伊東祐兵が豊臣秀吉によって飫肥に封ぜられた時、石高は2万8千石であった。
しかし文禄2年、朝鮮の役に参戦する中、軍費が足りないと、増高を願って検地を行った。
これによって伊東家の石高は3万6千石となった。

しかし、それでも猶、軍功成し難いとして、文禄4年、再び増高を思い立ち、飫肥、清武にて
検地を行った。だがこの時は目的通りの高にはならず、僅かに4万5百石の数字が出ただけであった。
当初の予測に及ばなかった事で、この時の増高は中止されたという。

(日向纂記)



736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 20:52:18.95 ID:qGvkDOSE
ワロタ。隣みたいに無理やり嵩上げ石高出さなかっただけマシだな

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 20:59:36.74 ID:L9K8Eq0L
島津のこと?

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 21:25:25.91 ID:5P/de7pp
>>735
信長の野望じゃないんだからそんなに簡単に石高増えないだろw

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 21:55:50.54 ID:qGvkDOSE
申告漏れを掘り起こしてる状態だから増えるんだなこれが

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 02:12:54.78 ID:gdW/4aF4
柳生の隠し田ですか?

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 06:50:55.40 ID:DPUQJOLE
実際には石高大幅増は検地した場合でも石盛や等級を操作してるケースばかり。
指し出しに一定の率を掛けるという雑なものも多いな。

関ヶ原後の毛利くらい逼迫すると、荒地扱いだった土地を無理やり組み込んだり
無茶することもあるけどさ

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 10:02:28.50 ID:fZr4YD9T
最後、どの位を期待してたんだろ?

朔寧の監司

2016年06月15日 13:13

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 20:20:08.45 ID:dzuNT2ui
文禄の役でのこと。

文禄元年10月18日、朝鮮に派遣されていた伊東祐兵は駐屯していた鐵原より出陣、19日早朝に
朔寧の城を攻め落とし、400名余を討ち取った。

するとその後、日本軍が占拠している王城(ソウル)において、朝鮮人が群集し、痛く泣き
哀しんでいた。不審に思った石田治部少輔(三成)が彼らに理由を尋ねると、このように答えた

「鐵原の上官(伊東祐兵)によって、朔寧の監司を討ち取られたとの事なのです。それ故に嘆いて
いるのです。」

石田はこの事を伊東祐兵に伝え、急ぎこの監司の首を送るように言った。
この使いに伊東祐兵は大いに驚いた

「夜懸けであったので切り捨てにしたため、大将を討ち取ったことも知らなかった!
急ぎその首を探すのだ!」
そして落合九右衛門尉、川崎又右衛門尉両人に、士卒70を付けて朔寧城に派遣した。

両人は朔寧に住む朝鮮人二人を捕え、監司の死骸について問うたが、彼らは有無の返答も
しなかった。この態度に落合、川崎は大いに怒り、即座に一人を惨殺した。
すると残った一人は大いに怖れ、死骸のある場所を知っていると白状した。
そこで彼を先に追い立て案内をさせた所、朔寧城から三里ほど奥にある松山に入った。
ここには墳墓が多くあったのだが、監司を埋めた所は墳も築かず、上に木の葉などを撒き散らして
何事もない体に偽装していた。

落合たちは士卒に命じてこれを掘り出し、死骸は長持に入れ、金襴の類にて包んだ。
冬のことであったので、色もほとんど損じていなかった。
そして首を斬って持ち帰ると、すぐに王城へと送った。

この首は中台門に曝されたが、朝鮮人はこの首の前を通る時、必ず再拝して泣いたという。

(日向纂記)



米良重矩の帰参

2016年06月13日 11:21

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/12(日) 18:57:26.47 ID:b8183FBv
米良美濃守重矩は日向伊東家の家臣であったが、過ぐる天正4年、一旦の憤りに、
累代の主君に背き、島津家へ寝返った。これが終には伊東家の日向没落へと繋がったのである。

しかし米良は薩摩において栄達したものの、心安い日は無く、鬱々と思った。

『私はこのまま、叛逆の罪を抱いて生き、不快の月日を送るよりも、一度旧主に見まえて、
身の罪過を謝し潔く誅殺を被ってこそ、この上の本意ではないだろうか。』

そう考えている中、天正16年、伊藤祐兵が再び飫肥を拝領したと聞いて、取るものもとりあえず
飫肥に帰り、祐兵に対面して先非を謝した。

伊東祐兵はこれを聞くと
「美濃守は叛逆の徒であり、国を覆した者であるから、必ず厳罰が行われること必定である。
であるのに、死を決して帰ってきたこと、奇特である。」

そう言ってその罪を宥し、さらに知行を与えた。
米良重矩は感激のあまり、叫んだ

「公百年の後、私は必ず殉死します!」

しかし、伊東祐兵が慶長5年、大阪で死去した時、嫡子祐慶は未だ幼少であり、また宮崎一乱の
最中でも在ったため、心ならずも本意を遂げることが出来ず、その後、清武の領主にもなったが、
程なく病死した。
この時、末期に及んで嫡子勘之助にこう言い残した

「汝、必ず我が志を継ぐべし。」

寛永13年(1636)、伊東祐慶が江戸にて死去すると、米良勘之助は清武にて殉死を遂げた。

(日向纂記)



稲津重房とその母、妻

2016年06月11日 21:00

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/10(金) 21:21:03.04 ID:hbwty/xh
稲津次兵衛尉重房は、永正の頃、綾の地頭であった稲津越前守重頼の孫であった。
伊東家の日向没落の時は僅かに14歳であり、伊東義祐への供奉に遅れ、心ならずも
薩摩島津家の幕下に属し、その後、島津家大阪邸に勤務し、母と妻は薩摩に留め置いていた。

そのような所に、伊東祐兵に日向国飫肥が拝領されたとの話を聞き、「累代の旧君を他所から見るのは
快からず。たとえ死すとも帰参せねば」と思い立ち、譜代の郎党たちを呼び

「私の心底はこの通りだ。お前たちは早急に薩州に下り、母と妻を連れて飫肥へ脱出せよ。
私はその頃合いを合わせて、この邸を立ち退き飫肥に到着するようにしよう。」

こうして郎党たちに早船を求め、薩摩に向かって下らせた。そして稲津は、郎党たちが薩摩の近くまで
行ったであろう頃合いに、にわかに邸を脱出した。

薩摩邸の番頭は稲津が逃亡したことに気がつくと、すぐに早船を仕立ててこの事を国元に報告した。
ところが、稲津の郎党たちが乗った船ははるか以前に大阪を出たのに、海上が風波悪しく、殊の外
到着が延び、却って番頭からの注進の船より1日遅れて薩摩に着いたのであった。

この時島津家では「この事について寛大な処置を取れば、家中の他の、旧伊東家の者達への差し障りとなる。」と、
稲津重房の母と妻は殺されるに至った。

稲津重房は飫肥に帰参し、これに伊東祐兵はニ百石を与えた。
その後慶長5年10月9日、木脇口にて戦死した。37歳であった。

(日向纂記)



情けある事である。

2016年06月10日 13:09

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/09(木) 21:51:54.21 ID:WhuxB23e
豊臣秀吉の九州征伐の結果、伊東祐兵が飫肥を拝領し日向に復帰すると、山田匡得は早速、
豊後から祐兵の元に帰参した。

この山田匡得の妻子は、伊東家が日向を没落した時、薩摩軍の捕虜となったのであるが、島津義久

『名のある武士の妻子である。疎略に扱ってはならない。』

と、自らの殿中において召し使っていたのであるが、匡得が豊後より日向に帰った聞くと、
義久はこの妻子に金銀衣服を与え、匡得の元に送り返した。
情けある事である。

(日向纂記)



822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/09(木) 23:22:12.47 ID:uF7Wiswo
>>820
疎略じゃなくても結局召し使うのか?

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/10(金) 10:12:36.79 ID:QvQElJKz
>>822
召使っていれば自分の目が届きやすいだろ。

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/10(金) 10:27:35.35 ID:5eiexPJT
粗略に扱うのなら牢屋にぶち込むか南蛮に売ってる

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/10(金) 12:34:17.77 ID:dsKdPzyC
>>822
わしの女扱いしておけば部下が手出しができないだろ
さすが島津公!

伊東家再興の事

2016年06月06日 21:24

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/05(日) 22:48:37.10 ID:uRfp4+2t
天正9年8月下旬、伊東義祐に仕える山伏である三部は、大峯山に登った帰り、羽柴秀吉が
姫路城を建築し、大層な普請であるとの風聞を聞いて、立ち寄って見物した。
するとここで、一人の武士が三部を見て話しかけてきた

「客僧は何国の人ですか?」

「九州日向の者です。」

「であれば、貴方に訪ねたいことが有ります。」

この武士はそう言って、三部を座に招き、聞いた
「日向では伊東殿が浪人されたと聞いていますが、本当でしょうか?」

「はい。島津家に国を奪われ、今は伊予国河野家の領内に蟄居しています。」

「日向伊東家のイトウの”トウ”は、藤の字を用いるのでしょうか?」

「いいえ、”東”の字を用います。」

「であれば!正しく私と同族ではないか!もし義祐殿が羽柴殿に仕える気があるのなら、私が宜しく
周旋しよう。私は伊東掃部助と言う者です。貴方は急ぎ帰国して、この事を告げてほしい。」

これを聞いて三部は彼に篤く謝礼を述べ、急ぎ伊予に下り有りの儘に申し述べた。
しかし伊東家の人々は、数年の間住み慣れた所を出ること名残惜しく、また自分たちを受け入れてくれた
大内氏の情けも捨てがたく、さらに女性たちは、三部のためにこの上さらに憂き目を見るのかと
嘆いたため、決断は先延ばしにされた。

その内に年も暮れ、天正10年正月、伊東義祐70歳、嫡男祐兵は24歳となった。
三部はその間もしきりに秀吉に見参することを進めていたが、終にその言葉に同意し、
伊東義祐父子、並びに奥方、川崎駿河守ら上下二十余名は、名残を惜しみながら道後の城下を離れ
小舟一艘に乗り込み播磨国姫路に渡った。

姫路では三部の案内にて伊東掃部助と対面し、掃部助は懇ろに義祐父子を饗し、秀吉に対して
しきりにこれを推挙したが、秀吉は

「今、蔵米も払底している有様である!こんな時に浪人など扶持できるか!」
そう拒絶された。
そこで掃部助も、ここは暫く様子を見ることにした。
そして伊東祐兵がよろず武芸に達し容貌も魁偉なのを見て、掃部助は工夫し、秀吉が城外に
出る時を見計らい、路の側に平伏させておいた。
案の定、秀吉は祐兵を一目見て、側の者達に聞いた「あいつは何者か?」
そこに掃部助が後ろから出て申し上げた

「彼は前に申し上げた、日向の伊東です。」

「なるほど、骨柄たくましい壮士である。私が西国征伐を行う初めに、西国の武士が頼ってくるのは
吉端であろう。」
そういって即座に三十石を与えた。伊東祐兵はこの頃、六郎五郎と名乗っていたが、この時から
民部太輔と称した。

掃部助は、伊東義祐にも、秀吉に見参するようにと勧めたが、義祐は
「私は不肖なりといえども。辱くも三位の位を頂き、年齢も既に70。今浪人の身とは言いながら、
何の面目あって木下藤吉ごときに追従しようと言うのだ。
しかし子孫再興のためであるから、祐兵は格別である。」

そう言って、ついにそれを受け入れようとはしなかった。

(日向纂記)



802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 08:08:23.62 ID:UHSHnu6x
ガラケーなので確認してないけど以前に見たような記憶がある

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 08:42:19.06 ID:i4Vt1r+V
>>802
前のは出典が日向記だな。
ベースは日向記なんだが、時代とともに逸話の変化を見るのも楽しいよ

伊東祐兵、秀吉公に仕える。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7567.html


伊東三位入道、秀吉との謁見を断る
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7566.html



805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 16:14:07.06 ID:fnaWRgWi
>>801
>伊東義祐70歳、嫡男祐兵は24歳
すげーw

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 19:39:05.73 ID:UHSHnu6x
現代でも原樹里の親父さんなんか80超えていたような

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 20:06:55.64 ID:vmhAmFX+
金森長近なんかは80越えてから子供生まれてるな

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 21:15:35.25 ID:BBMgsAJR
秀吉じゃないが本当にお前の子供かと、問うてみたい

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 23:11:47.67 ID:FeuIYPzX
鹿児島の現在の知事は伊藤祐一郎氏だが
先祖は島津日新斎に仕えたそうな
すると日向伊東と同族ではないということか

812 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/07(火) 08:41:11.26 ID:hyaoyfFP
>>805
46の時の子供なんて…。
大権現さまを見てごらんよ。

黒田如水、暗躍す

2013年08月16日 19:53

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/15(木) 21:38:28.18 ID:xI+1plVr
慶長元年(1596)12月下旬のことである。朝鮮の役で渡海していた伊東祐兵は、朝鮮の安骨浦より
黒田如水に相談の事があって、家臣の借屋原甚右衛門尉満鎮を豊後へと遣いさせた。

豊後に到着した借屋原を如水は近くに召し、
「さてさて、良いところに参った。実は私の方から遣いをやって、申したい事があったのだ。

それはな、太閤殿下が、近頃殊の他に衰えられ、かつ、今の日本国内には様々な怪異が起こっており、
遠からぬ内に世の中は、又々騒がしくなるであろう。

そうなった時には、だ。民部殿(伊東祐兵)は小身であるから、国元のこと、甚だ心もとなく
感じられるだろう。だから天下の事が、未だ起こらない内に片時も早く、島津家と協議をし、
縁辺を取り結ぶか、又は島津の麾下に入ることを約束するかして、互いに神文を取り交わすべきであろう。

この旨を、早々に帰って民部殿に伝えてほしい。」

こうして借屋原は急ぎ豊前を立って、明くる慶長2年正月中旬、安骨浦に帰還し、
伊東祐兵に如水の口上の内容を伝えた。

これを聞いた伊東祐兵は非常に悦び、早速加徳島の島津陣中に赴き、兵庫頭(島津義弘)と会談し、
『以後堅く唇歯の好みを結び、互いに違背あるべからず』
との神文を取り交わした。
(日向纂記)

こんな時期から黒田如水が、秀吉死後の情勢の変化を見据えて大名の間で色々暗躍していたらしい、
という逸話である




167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/15(木) 22:08:44.13 ID:pR/+yBr7
>>165
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7611.html
の別バージョンですね。


稲津重房の帰参

2013年08月12日 19:51

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/12(月) 02:42:17.05 ID:sRHr9IkJ
稲津二郎兵衛尉重房は日向伊東家の譜代の家臣であったが、伊東義祐の日向没落(伊東崩れ)の時は
未だ年齢は14で、三位公(義祐)に伴することが出来ず、心ならずも薩摩島津氏の幕下に属した。
その後、島津家の大坂屋敷に勤務し、母と妻は薩摩に留め置いてあった。

そんな所に、伊東祐兵が豊臣秀吉より、旧領である日向飫肥を拝領する、という話が聞こえてきた。

稲津は「累代の旧君を余所の君主として見ることは快からず。大名として旧領に復帰されるからには、
たとえ死すとも、帰参しなければならない!」と思い立ち、自分の譜代の郎党を呼び、
この決意を話し

「我が心底は以上の通りである。お前は急ぎ薩摩に下り、我が母と妻とを伴って飫肥に
連れてくるのだ。私はその頃合いを考えあわせて、この大坂屋敷を立ち退き飫肥に向かう。」

そう命じて早舟を求め、これに乗せて薩摩へと下した。そして郎党がもはや薩摩に着いたと思われる
時期に、稲津は密かに島津の大坂屋敷を脱出した。

稲津重房の逃亡を知った大坂屋敷の番頭は、早舟を仕立ててこの事を国元に知らせた。
ところが、である、

稲津の郎党の乗った早舟は、はるか以前に大坂を出たのであるが、海上の波風が悪く、
殊の外到着が遅れ、却って大坂屋敷の番頭の出した注進の早舟のほうが、1日早く
薩摩についてしまったのである。

この注進を受けて島津家では、『この処分を寛大にしてしまえば、これまで我が家に降参した者達に
非常な悪影響を与える。』と考え、稲津重房の母と妻を殺した。

稲津重房は飫肥に帰り着き、伊東祐兵は彼に200石を与えた。
のち、慶長5年10月9日、木脇口にて戦死した。享年37歳であった。
(日向纂記)

稲津重房帰参における、悲劇についての逸話である。





家伝の御旗系図を再度お手に入れられる事

2013年07月12日 19:50

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/12(金) 08:49:41.95 ID:Z6dCIJ8o
家伝の御旗系図を再度お手に入れられる事

祐兵様が入国に及び、日向没落時の奈須右近将監祐貞(日向星原城主)の
忠節の功を謝する為かつ三位入道殿が預け置かれた御旗御系図等を返して
もらう為にと、曽我雅楽助を使者として送られた。

右近将監は「曽我は我が親類であれば他人の疑いも遁れ難い。大切な御旗
系図であるから伊東の御一族か、さもなくば一軍の大将たる人を寄越して
頂きたい」と申され曽我をすげなく返された。

これによって山田土佐入道匡徳が豊後大友殿へ先年の謝礼の為に使者と
して送られていたが、続いて神門村へと赴き御旗御系図等を受け取って
帰るようにと仰せ付けられ、かの所へと到着した。

右近将監は畏まって預け置かれた御旗御系図ならびに文書目録を調えて
一紙に抑留仕らぬ旨の起請文を添えて渡し、匡徳にも馳走して藤島の脇差
を与えられたと言い伝えられている。

(日向記)

山田土佐入道は、以前の逸話にも登場した島津義久に妻子を送り返して
貰った人で匡徳(匡得または京得とも言う)は入道後の号です。




672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/12(金) 14:43:24.52 ID:TSNLLwvw
>>670
家久勢を破った堅田合戦で佐伯勢の指揮採った人か

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/12(金) 15:43:44.57 ID:Z6dCIJ8o
>>672
その人です。

三位入道たちが豊後を去った後、佐伯氏に仕えて島津と戦い続け
九州征伐後に伊東家へと帰参した訳です。

假屋原甚右衛門の活躍 その1 馬の飼料

2013年07月06日 20:00

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/06(土) 07:42:34.85 ID:VdEudswC
假屋原甚右衛門の活躍 その1

祐兵様は都から一里ほどの松山(セウセン)と言う城に文禄二年二月より
在陣していたが、このとき馬の飼料が尽きて難儀に及んだ。

これにより祐兵様は假屋原甚右衛門尉満次を呼んで「昨日、島津又次郎
家中の者が大豆を求めに出たが、唐人多人数が現れて半弓で射たて、是
を追ってきたので、手負い数人を出してむなしく陣屋へと戻ったと聞く。
汝は才覚をもって筏を組みモクソ川を渡って大豆を求めてくるように。
警護の為に鉄砲足軽十五人を差し添えよう」と仰せられた。

假屋原は難儀な事だとは思ったが断わりようもなく、陣屋を出てモクソ
川を渡って大豆二十五石を得て、その上テルマカクセイの郷民等十八人
を捕えて戻ってきた。

(日向記)

朝鮮陣のところでやたらと假屋原甚右衛門の記事があったので、三部作
として書き込みます。

ところで島津又次郎って誰なんでしょう。




623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/06(土) 18:05:14.53 ID:WbhhgLau
ググってみると小田原の北条氏家臣ってのしか出てこんね>島津又次郎

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/06(土) 18:36:58.55 ID:VdEudswC
>>623
そうなんですよ。他は幕末の人だったりしますしね。

次郎以外の又○郎だとすれば多数の候補が出てくるし
次郎が正しいとすれば藤次郎あたりもありそうですし・・・

假屋原甚右衛門の活躍 その2 兵糧才覚

2013年07月06日 20:00

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/06(土) 07:43:08.77 ID:VdEudswC
假屋原甚右衛門の活躍 その2

祐兵様が朝鮮国楚天(泗川)に在陣していたとき、兵糧が既に尽きよう
としていた。そこで假屋原甚右衛門を呼んで汝が才覚するようにと
仰せられた。

甚右衛門は警護の足軽十人を召し連れ田里へ出て人跡山林を見回って
みたころ、洞穴を隠したような怪しい所があるのを見つけて掘りかえ
してみたところ、穴蔵が三つ見つかった。

甚右衛門は大いに喜んで、大小豆大小麦を掘り出して馬を探しだし百駄
をつけて帰ってきたと言う。

(日向記)

「前回と同じパターンかよっ」と言いたくなる出だしですが、それだけ
朝鮮陣では兵糧馬糧の手配に困ってたんでしょうね。

隠し倉庫を見つけられた住人にとってはとんだ災難でしょうか。





假屋原甚右衛門の活躍 その3 蔚山遊猟

2013年07月06日 20:00

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/06(土) 07:43:58.22 ID:VdEudswC
假屋原甚右衛門の活躍 その3

祐兵様が清館に在陣していたとき、士卒を船に乗せ蔚山へと鴨狩に
遣わされたが、この時、伊東平右衛門と家僕一人、曽我弥三郎が同道
して三人で奥深く遊猟していた。

假屋原甚右衛門はこの三人と途中で行き会い、甚右衛門は平右衛門に
対して「少人数で奥深く入られると伏兵にあって難儀するでしょう。
早く引き返して下さい」と申しあげた。

平右衛門は血気盛んな若武者であったから「何ほどの事があろうか、
其の方も来られよ」とさらに奥へと向かった。

甚右衛門はこれを見捨てがたくともに遊猟していたところ、案の如く
韓人三十人余りが現れ半弓をもって射たててきた。

多人数に対抗するすべもなく引き上げようとしたが、弥三郎は皆とは
離れていたので早々に討たれてしまった。

平右衛門と家僕、假屋原の三人は離れずに引き退いたが、厳しく追い
迫ってきたので、道の端にあった少し切り立った場所を後ろ盾として
襲い来る韓人を切り払う事、三・四度に及んだ。

これで討ち取り難いと思ったのか怯む色が見えた所で、三人一緒に
切って出て追い払った。

この時、平右衛門は二ヶ所、家僕は三ヶ所、假屋原は六ヶ所を負傷
した。平右衛門主従は深手であり歩行も叶い難く見えたので、韓人が
うち捨てた半弓を手輿としてこれに乗せ、舟へと戻って帰陣した。

祐兵様はこれを聞き「假屋原の働きにより平右衛門の命が助かった」
と肥田木伝右衛門を使者として備前祐定の御刀を褒美に与えられた。

(日向記)

ようやく兵糧探し以外の話です。大名でも中川秀政が狩猟中に討たれ
たりしてるから、敵中の狩猟は危険だったのでしょうね。

なお伊東平右衛門は以前の逸話にも登場した虎ハンターです。





伊東家、豊後から退転

2013年06月17日 19:56

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 11:49:57.62 ID:VrAJmhBe
大友の諸勢が日向高城において敗北した為、大友を頼っていた入道殿(伊東
義祐)や祐兵は心苦しく思っていた頃、祐兵の室家(妻)が野津から御母堂の
旅館を訪ねて逗留していた。

彼女は容顔美麗であったので大友家は密かに祐兵を殺害しこれを奪おうと
謀っているとにわかに密告するものがあった。

そこで入道殿と祐兵に対し「急ぎ豊後から立ち退きましょうと」と家臣達が
諌めたが「武の家に生まれたものが、命を惜しんで妻女を奪わせる事が
できようか」と承引されなかった。

これによりも室家も救出して皆でともに脱出しようと河崎駿河守(祐長)ら
が密かに談じ、母堂の女中新大夫は頼りになるものであるから、これに
計らわせようと告知した。

城中の旅宿は警備も厳しくそのまま忍び出ることは困難であったが、新大夫
は寝殿の庭内に塵出しの隙間を見つけ「あそこから脱出させましょう。夜に
紛れてお迎えにきてください」と注進した。

これにより計画を定め、三位入道殿や祐兵は密かに旅館を逃げ出して室家の
脱出を待ち構えていた。

室家のお迎えには河崎駿河守に物馴れた侍を二名差し添えて、かの塵出しの
外で待ち構えていたところ、計画通り塵出しの隙間から脱出なされた。

駿河守は室家にお供して入道殿、祐兵が待っている場所へとたどり着いた。
両主は喜ばれ、皆で船に乗って伊予国へと赴いた。

(日向記)

伊東家が豊後から退転する模様である




878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:09:43.41 ID:G40qEFIS
そーりん自重しないなw

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:16:24.63 ID:VrAJmhBe
「大友家」とあるので宗麟かどうかは不明です。義統の可能性も十分です。
何より豊後退転をとりつくろうための創作の可能性も否定できないですし。

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:17:08.65 ID:aOSoVu2J
女が絡む時の宗麟は息子並にぼんくら

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:18:20.59 ID:aOSoVu2J
>>879
逆に考えると大友某に女を奪おうとされた!と言えば世間に納得してもらえるということでもあるw

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:39:51.07 ID:VrAJmhBe
>>881
は・・・反論の余地が無いw

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 15:19:00.41 ID:fisDmLvD
大友家危険度チェック

・妻女は見目麗しい
・評判の茶器を持っている
・仏に深く帰依している
・武士として八幡大菩薩は尊重している
・気分次第で沙汰が変わるのには我慢できない性質だ

1つでも該当した場合身の振り方の再考をお勧めします。
特に上2つ。

全部該当した場合大至急退転してください。
貴方とご家族の命と操が今まさに危険にさらされています。

三十六人逆徒追伐の事

2013年05月31日 19:50

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 17:40:33.82 ID:n1lUYz8+
三十六人逆徒追伐の事

去る天正十五年六月に祐兵様が日向に戻って以来その統治は四年に及ぶが
入国の翌年にようやく飫肥本城を請けとるという不安定な状況でもあり、
かつての家臣を手に加えようと御憐憫を加えられ、家風の形儀をも確とは
定めていなかった。

その為か遠近に分散せし譜代の士には、十年にも及ぶ島津の風俗に馴染み
なんでも我意を主張する者も多く、最近になって召し抱えた侍もあるので
すぐに帰参した者たちでも人によっては扶持が少ないと御暇を賜るものも
多かった。

そうしている間にも家臣間で談合するものがあり「よろず御奉公を致すと
言えども一味同心して忠を遂げよう。身の大事と成る事があれば、一同で
申し開きをしよう」などと内談し党を結び血判をしていた。
その数は三十人余りでなお増えつつあると言われていた。

ある日、河崎権介は曾井に在城していたが、そこに談合していた連中の
うち二人が「義賢様を守護とするべき旨を申し合わせて謀反を企んでいる」
と密告してきた。

これをうけ祐兵様は悪逆の頭人を討伐し残党は鎮めるようにと指示され、
七人の頭人が各地でそれぞれ討ち果たされた。

残党の輩はなだめられたが従わず、その旨を祐兵様に窺ったところ、
その者達にはさっそく腹を切らせよと仰せられ、これに御馬を向けられる
事となった。

残党は、曾井麓の源藤というところにある初瀬山長命寺の観音堂が立て
籠るに相応しいと考え、天正十八年八月二十八日に三十六人の者どもが
立て籠もった。

討伐側は、曾井は言うに及ばず清武・田野・紫波須崎の三ヶ所から馳せ
集まって一戦に及んだ。

田野衆は威徳山から観音堂を眼下に見て、鉄砲をつるべ打ちに打ち込んだ。
これで籠ったものどもは身動きが取れなくなったが、遁れる道もなかった
ので命を捨てて一時に切り出てきた。

寄手は大勢だったので八月三十日、一刻の間にこれをやすやすと鎮圧し、
二十四人を討ち取り残り十二人が遁れていった。寄せ手は八人が討死した。
これにより祐兵様はお仕置きを終えて御帰館なされた。

(日向記)

徒党を組んで我意を通そうとした家臣達を討伐した話。

これを見ると新生伊東家も家中の統制を重視する豊臣大名ですね。
我意の強い家臣を「島津の風俗に馴染んだ」とか言い切ってしまう
ところを見ると、義久や義弘が家臣達の統制がとれずに書状で嘆く
のも仕方ないかなぁとも思ってみたり





米良美濃守、薩州を退いて当家へ帰参の事

2013年05月30日 19:56

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 06:18:53.27 ID:NLkeaN4h
米良美濃守、薩州を退いて当家へ帰参の事

先年、米良美濃守(矩重)は当家の恩を忘れ、領する所の三ツ山、
須木の地を島津兵庫頭(義弘)に捧げて背いた。

これが伊東家没落の始まりとなり、ことに天正五年に島津義久が
日向へ出陣した時には先鋒を命じられ、一番に乗り入れた事で本領
を安堵され義久の幕下となっていた。

しかし美濃守は一時の恨みで数代の主君を裏切った事が心の重荷と
なり日夜苦しみつづけていたが、天正十五年の九州征伐後に祐兵が
飫肥の領主として復帰する事を知った。

美濃守は生きて日々を不快に過ごすよりも、帰参して先非を懺悔
してから殺された方が良いと考え、密かに薩摩を立ち退き祐兵の
前でその旨を述べた。

敵ともなり味方ともなるのは勇士の習いでもあるが、かの美濃守の
反逆は随一のもので、特に島津の先鋒となり国を乱したものである
から死罪にするのが当然であろうと誰もが考えていた。

しかし祐兵は先非を悔い死をもって詫びようと言うのは奇特である
として御感浅からず、その罪を許してすぐさま知行を与えた。

米良美濃守は、祐兵逝去の後も修理大夫祐慶に仕えて清武の地の
地頭に任じられたが程なく病を得て亡くなった。

末期の際に嫡子勘之助に「私が先非を悔い当家へ戻った時、その罪
を許しあまつさえ深く情けをかけていただいたので面目を保つこと
が出来た。祐兵様が逝去なされた時には報恩の為に殉死しようと
思っていたが、世は静かならずして祐慶様も幼年であられたので、
死をもって忠功を果たす機会も別にあるだろうと止めていたところ、
更に当地の地頭まで任され、その厚恩ははなはだしい。汝は祐慶様
に忠節を遂げ殉死の約束をして欲しい」と言い残した。

これにより祐慶逝去の際に勘之助は殉死を遂げた。

(日向記)

一度は謀反までした米良美濃守が前非を悔いて忠節を尽くす話

米良美濃守が伊東家に背いた話しは下記を参照
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7574.html





伊東祐兵、秀吉公に仕える。

2013年05月27日 19:52

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 09:21:18.23 ID:q4RGpC9u
河崎駿河守は祐兵の外祖父にあたり、彼の肝煎により日向流浪以来
天正九年までの四年間、大峰修行の護摩を焼いていた。

その時の山伏は三峰と言う人で、生国は越前だったが心ならずも日向に
下国し数年の間、入道殿(義祐)の扶持を受けて在国していた。
三峰は流浪にも同行し、彼は山伏としての働きで歳月を送っていた。

天正九年、三峰は上洛した際に播州姫路はさる天正五年に信長公より
羽柴筑前守秀吉が拝領し、五年にも及ぶ普請でとても賑わっていると
伝え聞き、これを見物しようと立ち寄った。

そこで偶然出会った人物に「御僧は何処の人ですか」と尋ねれたので
「九州日向の者です」と答えた所、「それならば仔細を尋ねたい事が
あるので、こちらにおいでください」と言われた。

三峰はいったいなんだろうと思ったが辞退する訳にもいかず伺候した。
彼は「日向の伊東殿は浪人されたと聞きました。また伊東の東は藤
と言う字でしょうか?」と問われたので、三峰は「伊東の東は字は
ひがしと言う字でございます。島津に国を奪われ四国河野殿の領内で
蟄居しております」申し上げた。

掃部助は「それならば私と祖を同じくする一家です、羽柴殿にお仕え
したいのであれば、若くあられるようだし随分と取成し致しましょう。
私は伊東掃部助と言うものです」と仰せられた。

三峰は「ありがたい話です。急ぎ下国して、この旨を申し上げ早速上洛
するようにして頂きます。その際にはお取り成しの程を頼み入ります」
と申し上げ、急いで伊予に下国した。

この旨をありのままに言上したが、伊予道後は人の心根も良い国で
あれば名残惜しく、大内殿の情も振り捨てがたいとぐずぐずしている間
に月日が経って行った。

三峰は歯噛みしてぜひとも播州へ急がれるべきですとしきりに言上した
ので翌天正十年正月になってようやく、全員が小舟に乗って伊予道後を
後にして播州へと渡海した。

掃部助は即座に秀吉公に祐兵を推挙したが、当時は蔵米が不足しており
新たに浪人を召し抱えるのは難しいとの御意であった。

掃部助は祐兵は器量の優れた若武者であるから、秀吉公にお目に掛かり
さえすれば召し抱えられるはずだと考え、御通路に祐兵を置かれた。

案の定秀吉公がご覧になられ、何者かと尋ねられたので「日向の伊東で
ございます」と言上したところ「器量たくましき勇士である、扶持を
与えよう」と仰せられ、30人扶持を下された。

祐兵はその時までは六郎五郎と称していたが、掃部助が「それは
よろしくないでしょう民部大輔と名乗られては如何」と勧めたので以後は
民部大輔と名乗ることにした。

(日向記)

祐兵、秀吉公に仕える

続き
伊東三位入道、秀吉との謁見を断る